平成二十一年十二月二十六日(土)  彩湖

投稿:   佐藤 眞人 氏     2009.12.30

 午前中は雨の予報だったが、カーテンを開けると降っていない。やや曇り勝ちだが大丈夫かもしれない。念のために折り畳み傘をリュックに放り込んだ。近所の家の庭先に鈍い光沢のある花が咲いている。この冬初めて見るソシンロウバイだ。
 今日は彩湖の周りを歩くコースである。「さいこ」と入力してIME変換システムでは「彩湖」は出てこない。マイクロソフトに登録されていないということは、全国的には無名の湖であるか。実は私も二年前まで知らなかった。

彩湖は、荒川第一調節池内にある貯水池として平成九年に完成した。全長八・一キロメートル、面積は一・一八平方キロメートル、総貯水量は千六十万立方メートルに及び、中央付近を東西に幸魂大橋が架かる。噴水でプランクトンの細胞を破壊し、湖のさん箇所に設置したパイプから気泡を発生させた曝気循環などで水を対流させ水質保全対策をし、首都圏への水道水を安全供給している。さらに、湖底から水を汲み上げ、幸魂大橋より上流の四箇所で設置された階段状の滝から流すことで水中に酸素を送ることが出来る。(ウィキペディア「彩湖」より)

 つまり治水と浄水安定供給のために作られた調節池である。人造湖だから命名は勝手だと言われればそれまでだが、しかしこの「彩湖」という名前は私には違和感がある。「彩の国」というキャッチフレーズも同じだ。「サキタマ」の音便として「サイタマ」はあり得るが、「彩」はまるで違う文字である。地名はできるだけ歴史的な由緒を大事にして欲しいと思う。とは言え、私に特に名案がある訳では勿論ない。
 西浦和駅に集まったのは、隊長、画伯、宗匠、ツカさん、ハコさん、ロダン、コバさん、チイ豪農、長老、桃太郎、古道マニア夫妻、バンブー、三四郎、ダンディ、ドクトル、講釈師、若井夫妻、あんみつ姫、イッチャン、チロリン、シノッチ、カズちゃん、野薔薇先生(山野草や樹木については大先達である)、伯爵夫人、山の娘ロザリア(山の大姉御と言うのはコバさん経由で却下された)、私の二十八人である。
 「どう数えても二十七人しかいない」隊長が名簿をチェックしながら首を捻っている。私は宗匠と二人でちゃんと確認をとっている。隊長の名簿を覗きこめば、自分の名前がないではないか。「あっ、そうか」二十八人で確定である。久しぶりの大部隊になった。それにしてもちょっと見ただけだが、隊長の名簿の記載順はどうなっているのだろう。五十音順でもない、なんだか不思議な並べ方で、これだと点検が面倒だと思う。
 「ここは私の普段の散歩コースですよ」というダンディの帽子に付けられているマークはクローバーだ。「アイルランドの国花です」アイルランドの好きな人である。このクローバーはシャムロックと言い、三位一体にかけた伝説によるようだ。私には新しい知識なので、一応抑えておきたい。

シャムロック(Shamrock)とは、マメ科のクローバー(シロツメクサ、コメツブツメクサなど)、ウマゴヤシ、カタバミ科のミヤマカタバミなど、葉が三枚に分かれている草の総称である。
アイルランド語でクローバーの意味のseamairまたは、若い牧草を意味するseamrógを、似た発音で読めるように英語で綴った語である。アイルランドで四三二年ごろに聖パトリックは『シャムロックの葉が三つに分かれているのは「三位一体」を表しているのだ』と説明し、キリスト教の布教に利用した。
アメリカや日本では、しばしばシャムロックと四葉のクローバーが混同されることがある。(ウィキペディア「シャムロック」より)

 宗匠の帽子のマークはEatonic。「特に由緒はありません」と宗匠は笑うが、辞書を調べていたダンディが、イートン校に関係あるだろうと推定する。しかし念のために調べてみると、イートン校はEtonである。帽子のほうは「a」が余計ではあるまいか。
 「これは書いちゃダメだぜ」姫と何か話していた講釈師が寄って来た。つまり書いて欲しいということである。表現と意思にこれだけ差のある人は珍しいが、実は非常に分かりやすい。「クリスマス・プレゼント貰っちゃったよ」喜んだ講釈師は私に招き猫の描かれた携帯用灰皿をくれた。「カラオケ大会の商品なんだ。袋に一杯貰ったよ」どうやらカラオケの達人であるらしい。一緒に歌ったことはないが、一般に声の大きい人は上手い筈だ。
 カラオケの話になれば、ちょうどうまい具合に画伯が先日の発表会のときの写真をくれた。ステージの上で、ライトが私の頭で反射しているのは仕方が無いが、結構サマになっているではないか。これからは歌手と呼んで欲しい。「こんなに自慢する人とは思わなかった」ダンディが顔を顰めれば、「謙遜という日本人の美徳を知らない珍しいひとです」と姫も言う。慢心、自惚れは抜きがたい私の性質である。(里山ワンダリングにはまるで関係のない話題であった)
 桃太郎はつい最近金時山に登ったので、「桃太郎が金時に」と宗匠が笑う。桃太郎は金太郎が大好きなのだ。と言うより、桃太郎の名前自体が千束の「おにぎり金太郎」に由来するのである。「今日は何を持ってきたんだい」講釈師がチイさんに聞いている。いくら豪農でも、いつも講釈師にお土産を持ってくるわけではない。
 「あの時は物凄い風でさ」本当にそうだった。昨年の二月、東京に春一番が吹き荒れた日に、私たちはちょうどここを歩いていた。前方に突然黒い雲が湧き上がったと思った瞬間、土煙が舞い上がり突風が襲った。「一天俄かにかき曇りって、本当にあるんだって知りましたよ」講釈師の誇大表現ではなかったと姫も言う。春一番は立春過ぎにはじめて吹く強い南風のことである。私たちを襲った強風は北風だったから、「これは春一番なんかじゃない」と隊長は強く否定した。
 今日は風の心配はないと思われ、午後からは晴れて暖かくなる予報だから、少し薄手のシャツにしてきたのだが、しかし寒い。股引を穿いてくればよかったろうか。「私もオーバーパンツにしてくればよかった」と姫もやや悔んでいる。「股引は長春以来です」鉄人も手術後で「木人」なんて気弱なことを言っている。

 本日は野鳥観察がテーマである。隊長から事前にもらった案内には、山野の鳥二十七種、水鳥十七種の名前が書かれている。普段鳥のことなんかまるで関心のなさそうなドクトルも、リュックの中から野鳥図鑑を取り出した。講釈師や野薔薇先生、古道マニアが鳥に詳しいのは以前から知っている。宗匠も時々知らない名前を口にするから油断がならない。今日の無学者は、おそらく私とロダン(ゴメンネ)に極まりである。「今日は神社仏閣はないからね」と隊長が私に念を押す。
 土手を上がると、サッカー少年たちが寒そうな格好で屯している。そこを降りて、トイレの前で全員が集合するのを待つ。これだけの人数だと、わずかな距離でもすぐに前後の間隔がかなり長く開いてしまう。「誰かシンガリについてよ」「それじゃ俺が回ります」
 一応携帯電話を確認しておこうと隊長がボタンを押すが、いつまで経っても私の電話は鳴らない。「あっ、別のところに架けちゃった」もう一度やると今度はちゃんとつながった。時折ヘルメットをつけたレース用の自転車が走りすぎて行く。
 野鳥観察隊は忙しい。いきなり空を指差しては、私の知らない名前を連呼する人がいれば、それぞれ双眼鏡を取り出して確認しあう。「あれだよ、あそこの枝の先」そう言われても発見するのが容易ではない。画伯は一本足の望遠鏡を持参している。「三脚は重いし、これなら、いざとなれば杖の代わりにもなる」宗匠もいつの間にか双眼鏡を持っている。「見てみる?」肉眼であれば、遠くにその陰らしきものは見えるのに、双眼鏡を目にあてると目的の鳥は捕捉できない。視線はそのままで双眼鏡をその眼の位置に宛がうのだと、知識では知っていてもとても難しい。「腹が少し黄色いだろう」講釈師は驚異の視力を誇っている。
 カズちゃんと伯爵夫人は、双眼鏡の選び方について教えてもらっている。そばで聞いていると、倍率の高いものは視野が狭い。だからむやみに高倍率のものを買っても仕方がないそうなのである。これで彼女たちは次回から双眼鏡を持参してくるに違いない。
 それでは湖の遠くに浮かぶ水鳥を撮ってやろうとカメラを構えるが、液晶画面が暗くてよく確認できない。「ちゃんと撮れましたか」「分からない」「ずいぶん、あっさりしてるのね」そもそも望遠レンズではないから、あれだけ遠いと無駄なのである。
 姫が一人でクスクス笑っている。「どうしたの」「私ってバカですよね」野鳥の図鑑を持ってくるべきところ、間違えて野草図鑑をリュックに放り込んできたのだそうだ。「この冬枯れの季節なのに。しかも夏秋の野草なんですよ」私は最初から鳥の図鑑なんか持っていないから、そういう間違いを犯す恐れはない。
 私がちゃんとシンガリの任務を果たしているかどうかを確認するため、先頭を行く隊長から時々電話が入る。「状況を報告してください」「最後尾を死守しています」「それではよろしくお願いします」
 いつもならば「もう早く行こうぜ」と催促する講釈師が、今日はほとんど後方に位置してなかなか動かない。「そろそろ行きましょう」「行きたい奴は行けばいいよ」もうまるで違うのである。
 前方で隊長が待っていたのは、ナンキンハゼという木を私たちに教えるためであった。黒い殻が割れて白い実が見える。ハゼというからには蠟をとったのだ。

種皮は黒色であるがその表面は脂肪に富んだ白色の蝋状物質で覆われる。蒴果が裂開しても種子は果皮から自然に離脱することはなく、紅葉期から落葉後まで長く樹上に留まり白い星を散らしたようで非常に目立つ。ムクドリなどの鳥類がこの種子を摂食し、蝋状物質を消化吸収して種子を排泄することで種子分散が起こる。(ウィキペディア「ナンキンハゼ」)

 隊長の案内に書かれているように、トウダイグサ科の落葉高木である。トウダイグサと言えば、私はネコノメソウに良く似た花を連想するのだが、これはまるで違う。この木を見てトウダイグサを連想できる人は、どちらかと言えば狂気に近いのではないか。実はトウダイグサ科というのは、膨大な属を抱える大きな分類なのである。草本も木本もいっしょくたに含まれているようで、植物分類というのは素人にとっては実に謎が多い。
 要所々々に、彩湖の概要を示した案内板が設置してあるが、長年の間に色褪せてしまっている。その図はたぶん水量の変化を示しているのだが、すべて同色になっているから判別できない。「不要不急だから事業仕訳でカットされるんですよ」とロダンが判断した。

 予定通り、「管理橋」という味も素っ気もない名前の橋の手前で、ちょうど昼食休憩の時間となった。
 「誰も座らせてやんない」珍しく講釈師がビニールシートを取り出した。「一人用だからさ」彼に似ず可愛らしい模様のシートだ。孫のものを奪取してきたのではあるまいか。長老もシートを取り出そうとするが、「出さなくて良いよ。みんな持ってきてるんだから」と、他人のシートまで自分のものであるようだ。五六人分のシートを広げれば、大勢が座り込める。ダンディと講釈師は魔法瓶持参だ。「熱くて良いですよ」私も魔法瓶にすればよかった。
 食べ終わった頃には、どこからともなくお菓子が回されてくる。しかしチョコレートや甘いお菓子は私の前を素通りしていくだけだ。別に要求しているわけではないが、今日は煎餅がない。
 休憩も終わって、隊長が久しぶりに集合写真の用意をしている。例の「日光写真」ではなく、もっと高価なカメラのようだ。この「日光写真」という洒落も知らない人が増えたのではないか。セルフタイマーの調子が悪くて、シャッターが下りるまで異常に時間がかかったことから名付けられた。名付けたのは講釈師である。今度の新しいカメラは、桃太郎と宗匠が覗きこんで十メガバイトであることを確認する。言われて確認してみると、私のデジカメは五メガだ。
 ツカさんが一人で鳥を観察に行ったらしくて戻ってこない。「じゃ、練習ということで」ピロピロと不思議なシャッター音を出すカメラであった。「なんだかタイミングがずれちゃいますね」やはりツカさんは戻ってこないので、二十七人の集合写真になった。
 管理橋を渡る。右手には幸魂大橋が見える。去年は強風の中、あの長い橋を歩いたのである。途中で今度はツカさんも含んで集合写真を撮り直す。橋を渡れば、「彩湖・道満グリーンパーク」と名付けられた公園地帯である。古く、道満河岸という川港のあったことによる。
 オニグルミは、なんというか骨格標本のような按配で、無駄なものを一切剥ぎ取って、すっきりと立っている。木肌はきれいだ。鬼胡桃、クルミ科クルミ属。ウィキペディアによれば、殻が非常に硬く、破片が鋭利であるため、東京ゴム工業がスタッドレスタイヤの素材として用いているということだ。ふーん。この木は葉痕を見るのである。
 桑の木の枝にはクワゴの繭が蓑虫のようにたくさんぶら下がっている。クワゴとは要するにカイコの幼虫である。蓑虫のようにとは言っても、葉に繭がくっついているので、蓑虫のように一所懸命外套を作っているのではない。だからカズちゃんが簡単に枝からむしり取る。「折角寝てたのに」

 冬眠の夢破られし桑蚕かな 眞人

 周囲には葦原が広がり、「こういうところには鳥がいるはずなんですがね」とツカさんと画伯が話し合っている。
 前方から隊長が私を呼ぶ。もうすっかり私の花に決まったビヨウヤナギの花があるのだ。しかしこの時期に無理して花を咲かせようなんて思わないで欲しい。萎れて無残な姿になっているではないか。なんとなく「卒塔婆小町」なんていうのを思いだす。これでは「胸騒ぎをば覚え初めにき」(北原白秋)という言葉もむなしくなってしまう。
 水仙が咲いているのを見れば、「八重だから西洋水仙かしら」「ラッパじゃないから和水仙だと思いますよ」という会話が聞こえてくる。立札によればヒガンバナ科である。宗匠が驚くから私も一緒に驚く。

 坂の道登り至れば水仙花 《快歩》

   今日の私たちは野外学習に参加した生徒だから、彩湖自然学習センターに行かなければならない。「こんな形でした」玄関先で、カズちゃんがさっき毟り取った繭を開いてみせる。私は虫が苦手なので、あまり見たいものではない。館内に入るとむっとする暑さだ。
 まずエレベーターで屋上展望台に上る。望遠鏡は無料である。「あっ、女が男の口に」講釈師は何を見ているのか。「アベックがいるんだよ、おにぎりを男の口に。ほら」交代してみれば確かに男女が草叢に座って弁当を食べているところだ。見るものが違えば犯罪にもなり兼ねない行為である。これは若さに対する嫉妬であると判断する。

 冬晴れに遠く若さを妬みたる  眞人

 空は晴れ渡り、大分暑くなってきた。「一皮剥けましたね」ダンディがチロリンに笑いかける。私も彼女の真似をしてジャンバーを脱いで腰に巻くと、宗匠も同じ格好をする。美女も脱皮する。
 温室のようになっている屋内を、展示室を見ながら下りていく。五階は「荒川の環境と人」、四階「林のふしぎ」、三階「草原・湿原のふしぎ」、二階「水辺のふしぎ」、一階「水中のふしぎ」という構成である。自然環境に深い関心を持つ人は、時間をたっぷり使って観察をしている。私はすぐに外に出てタバコを吸う。
 隊長が点呼をとって確認してから出発する。午前中と同じように、鳥を見ては立ち止る。「ヒョコヒョコ泳いでいるんですよ」という姫の言葉で、私はオオバンというものを覚えた。ツル目クイナ科。バンより大きいからオオバンである。(私はバンを知らないから比較のしようがない)黒い鳥だ。「平泳ぎしてるみたい」そう言われれば、頭が上下する様子は確かに平泳ぎのようにも見えてくる。
 みんながさかんに「冠があるかどうか」と確認しているのはカンムリカイツブリというものである。頭の毛が後ろのほうに三角に突き出たように伸びているのだ。宗匠はよく見えなかったらしく、次の出会いに期待している。

 これからもいろいろあるさカイツブリ 《快歩》

 「今鳴いているのはなんだい」ドクトルの言葉に「ヒヨドリ」と答えるのは宗匠である。「ピーヨピーヨって鳴いている」「そうかな、ビーッて言ってるみたいだけどね」姿は見えない。
 林のほうを覗きこんでは、モズだと喜ぶ人が多い。モズという鳥はそんなに珍しいものなのか。「モズは枯れ木で鳴くのよね」私が連想したのと同じことを、ロザリアが口にして笑う。サトウハチローによれば、モズは枯れ木で鳴かなければならず、オイラは藁をたたかなければならない。緑の中で鳴いてはいけないのではあるまいか。「モズはいいよ」宗匠も少し飽きてきたようだ。
 野薔薇先生が飴をくれた。ロダンのその飴を、ダンディが誰にもらったか尋ねている。「誰って。個人情報ですから言えません」
 ロダンは鳥の名前をいくつかメモしていて、「これで今日の言い訳ができる」とニヤニヤしている。帰宅後、令夫人に本日の成果を報告しなければならない。他の場所ではない、彩湖で鳥を見てきたのだというアリバイ作りである。これはロダン夫婦が常に互いの行動に強い関心を抱いているということである。愛の持続には絶え間ない確認作業が必要なのであった。私の妻なんか私がどこに行こうが、まるで関心を示さないものね。
 今朝、講釈師が「冬の雑木林でバード・ウォッチング」というコピーをくれた。コゲラ、ツグミ、アオジ、メジロ、オナガの特徴を書いてくれているのだが、私のポケットに収まったままで、まるで活躍の機会もない。実際に鳥の姿を見つけなければ、どんな特徴を聞いても無駄である。私はまず鳥を発見できない。
 「ヒワってどんな鳥なの」誰かの問いに「弱い鳥だよ」と画伯が答えている。それは何か。「そういう風に書くの」なるほど、鶸である。
 もう鳥は充分に見たのだろう。余裕の出てきた講釈師は「この間なんか、女湯に傘忘れちゃってさ」と言い出した。イッチャンが、「そんな所に、いいんですか」と驚くのを幸いに、「折角湯船に漬かったのに、帰る時に忘れちゃって」とますます調子にのってくる。自分自身を笑いものに出来るのは実は大した才能であるが、しかしこの人の精神年齢はいくつに計算されるのだろう。「あの時は川柳が飛び交いましたね」とダンディが笑う。
 これは何のことを言っているのか、江戸歩きをしていない人には分からない。小金井公園の中に江戸東京たてもの館がある。そこに子宝湯という古い銭湯が復元されていて、そこでの出来事だった。脇目もふらずに女湯のほうに上がり込み、脱衣籠を取り出して服を脱ぐ格好をした講釈師である。「そこで風呂屋が営業しているの」とまじめな若井さんが真剣に尋ねている。営業している銭湯で女湯に入れるわけがない。つられて若井さんまでが番台に上がった経験を口走る。
 「今度白い靴履いてきたら、絶対に踏んづけちゃう」やっと調子がでてきた講釈師がロダンに擦り寄って、盛んに言葉を連発する。「嫌なら来なくっていいんだよ。誰も頼んでないんだから」「やっと平常に戻った」ダンディの言葉に、「これが平常ですか、イヤになっちゃうな」とロダンが膨れる。しかしこれがないと、お笑いコンビ「ロダンと講釈師」は精彩を欠くのである。

 嫌だよと言うてすりすり講釈師 《快歩》

   「あれだよ」駐車場の脇で、一本の木にたくさんのヤドリギが取りついているのである。「こんなにあるのは珍しいよ」「初めてだわ」全員が感動する。木はエノキである。ツカさんがヤドリギの葉を拾ってくれた。細長くて小さいが、割に肉厚で、栄養がいきわたっているように見える。
 ここでダンディと隊長の間で議論になったのは、ヤドリギは寄生であるか共生であるかという問題であった。「寄生木って書くからね」と辞書を引いていた宗匠が言うが、古人は寄生していると思ったからその字を充てたのである。実態はどうであろう。ヤドリギによって、エノキにも応分の利益があれば、それは共生であろう。ウィキペディア「ヤドリギ類」のお世話になってみる。

様々な種類の樹木に寄生し、特に繁茂が激しい場合には宿主を枯らしてしまうこともあるが、通常は生長を阻害する程度に留まる。大部分のヤドリギは半寄生である。すなわち、常緑の葉を持ち自身で光合成を行うが、地面からのミネラルの供給は宿主に依存する。Arceuthobium 属(dwarf mistletoe, ビャクダン科)はそれすらも行わず、光合成と栄養素を宿主に依存する全寄生である。

 「宿主を枯らしてしまうこともあるが、通常は生長を阻害する程度」と言う。これだけならば宿主には何の利益もない。取りつかれて迷惑するだけである。しかし一方、こういうことも書かれている。

近年では、考えられていた以上に生育している環境に影響を与える生物であり、生態系の要を担っているということが認識されるようになってきた。多種の動物がヤドリギの葉や新芽を食餌とすると同時に受粉や粘着質の果実の拡散を助ける。また、密集した常緑の葉は休憩や巣作りの場を提供する。(中略)ヤドリギの量が多い地域はより多様な動物を揺籃することから、このような相互作用は生物の多様性に劇的な影響をもたらしているとされる。すなわちヤドリギは、疫病であるというよりも、むしろ生物多様性に良い効果をもたらし、森林に住まう多くの動物に品質の良い食料と環境を提供している。

 宿主の受粉や果実の拡散を助ける。鳥にも好影響を与えるというのである。「生物多様性」というのがキーワードであった。ヤドリギに取りつかれた樹木の個体は枯れ果て、滅びるかもしれない。しかし受粉や果実拡散によって樹木が再生されるのであれば、「共生」であるという考え方も成り立つか。なかなか難しい問題です。
 「こんな歌知ってますか」と姫が英語の歌を歌うと、なぜかロダンが口を合わせる。ロダンが好きなのは歌謡曲ばかりかと思っていると、英語の歌も知っているのである。『ママがサンタにキスをした』という歌らしいのだが、私はもちろん知らない。ロダンに負けてしまった。なんでもクリスマスの風習で、ヤドリギの下で出会った男女はキスをしなければならないのである。それならばロダンは偶然ヤドリギの下にいただけで、夫人に言い訳を考える必要に迫られる。しかしクリスマスは昨日だったから大丈夫か。

 宿木に命繋ぐや年の暮  眞人

 公園の中で一画、工事中の場所があった。「何を作っているんでしょう」サクラソウの自生地を再生するというような大きな看板が立っている。地面を掘り返して「自生」というのは、なにか変である。
 トベラ。枝先に肉厚の葉が集まっていて、その中に、実がはじけて、糸を引くように赤いネバネバした種子がいくつも入っている。トベラ科トベラ属。初めて聞く名前である。「シャリンバイに似てるんですよ」と姫が教えてくれる。

枝葉は切ると悪臭を発するため、節分にイワシの頭などとともに魔よけとして戸口に掲げられた。そのため扉の木と呼ばれ、これが訛ってトベラとなった。(ウィキペディア「トベラ」)

 大槻文彦『言海』にも、「とべらのき。古ニイヘルとひらのきノ転ナラム」とある。『倭名類聚鈔』に「止比良乃木」という表記で載っているらしいので、古くから自生しいていたもののようだ。『言海』では「海桐花」という美しい別名も表記されている。
 ただ、このネバネバしたのはなぜだろう。あまり触りたくなるような代物ではない。食虫花のようなものだろうかと宗匠が姫に尋ねているが、そういう訳でもないようだ。鳥の嘴や体にくっついて、遠方まで運ばれることを期待しているのである。
 トベラというものを初めて知ったのだから、それが魔除けになるというのも新しい知識である。ヒイラギならばその棘のような葉が鬼を追い払うのだが、トベラには特に棘はない。魔が近づけないほどの悪臭なのだろうか。確認する勇気はないので特に鼻を近づけることはしない。しかし、具体的にどの地方で節分にトベラを使用するのかは、ちょっと調べただけでは分からない。ただ、悪臭は焼いたときに発生するものだということが分かった。花はむしろ芳香を出すという。
 因みに鰯の頭は何故魔除けになるかと言えば、小骨が多く臭みがあるのを鬼が嫌うというのである。これも焼くのであって、「焼きかがし」などという名前がついている。

 「シメだよ」ヒメと言っているのかもしれない。私には謎である。今度は右手の金網の向こうで歩いている小さな鳥は、タヒバリかビンズイかが問題になっている。「スズメじゃないの」小さな茶色っぽい鳥は私には全てスズメに見える。「スズメ目だけどね」両方とも、スズメ目セキレイ科に属する鳥だという。古道マニアが図鑑を調べているが、どちらも体長十五六センチで姿も似ているようだ。「あれはタヒバリです」と結論を出したのはツカさんだ。「お尻の振り方が違うようです」専門家はそこまで観察するのである。
 「なんでそんなに詳しいんだ」コバさんも驚いている。私一人でこの鳥を見れば、疑問も持たずにスズメだと判断するだろう。植物分類のところでも感じたが、動物の分類だって不思議だ。カラスもスズメ目なのである。どこがスズメに似ているのだろう。
 「あの鳥たちは、自分がタヒバリだって自覚してるのかしら」イッチャン、シノッチは不思議な発想をする。人語を解する鳥がいるとは思えないが、タヒバリ自身はビンズイと違うと自覚しているかという問題になれば、動物学の一般論として考えるべきだろう。よく分からないが、混血、雑種の可能性があるかどうか、ということではないか。交尾しないならば、明らかに異なる種族と認識しているのではないだろうか。
 この辺の水には、これなら私も知っているユリカモメが群れている。餌をやる者がいるからだろう。人間が近寄るととたんに集まってくる。「あれなん都鳥」と言われて在五中将が泣くような鳥とは思えない。
 広い公園に野良猫が住み着いているのは、餌をやる者がいるからだ。犬を散歩させている人も多い。その都度、女性たちは「可愛い」と声をかける。私はけだものが苦手である。
 公園を出て、武蔵野線を左に見ながら西浦和駅を目指す。私はもう後方守備の任務を忘れてしまって、真ん中辺りを歩いていた。気がつくと、後ろの方の半分位が信号待ちで離れてしまっている。正面を見ていたロザリアが「あれは何」と尋ねるので「あれは埼京線」と私はバカなことを口走る。こんなところを埼京線が走っている訳がない。すかさずコバさんから「高速でしょう」と訂正が入る。
 駅に着けば宗匠の万歩計では約一万八千歩であった。三時半を過ぎたところで、ここで用事のある人は別れ、暇を持て余している人たちは喫茶店にはいりこむ。小さな店で、先客が一人だけいたが、ほとんど私たちの貸し切り状態になった。店にとっては時ならぬ特需である。コーヒーもジュースも同じ値段だから、私はトマトジュースにした。五百円である。ドクトルはお汁粉なんか頼んでいる。不思議なひとだ。

 四時を回り、「頃は良し」と宗匠が声を出したとたん、女性陣も席を立ち始めた。店を出て解散する。今日は武蔵浦和の「さくら水産」である。ダンディは手術後の禁酒令のため、「次回は必ず飲みますから」と武蔵浦和駅で寂しく別れて行った。さくら水産に十二人も集まるのは久しぶりである。
 カズちゃんは店員の目を盗んで、昼の残りの海苔巻きを口に放り込む。さっきお汁粉を食べたらしい姫も、いつもと違ってお握りは注文しない。チイさんは忘年会のために、面白いフリップをいくつも作ってきた。世が世であれば、彼は寄席芸人の道に進んでいたかも知れない人だった。ロダンは三月に自分が担当する筈の江戸歩きの企画で頭が一杯だ。今日の桃太郎は注文の仕方がいつもより大人しい。二時間飲んで、一人千九百円也。
 「今日は最後まで付き合います」と画伯は満を持している。姫も丘灯至夫の追悼をしなければならないと張り切っている。これだから私は早く帰宅できないのだ。武蔵浦和にはカラオケ屋は存在しないとロダンが断言するので、何故か嫌がるフリをするチイさんを拉致して、南浦和まで足を延ばした。さて、カラオケ屋はどこにあるだろう。姫が携帯電話でインターネットを検索しようとするがうまく検索できない。「だれか出来ないんですか」そんな高級な技は知らない。このメンバーには、新技術を使いこなせる者はいない。つい最近久しぶりに忘年会で会ったばかりの、南浦和住いのY氏に電話するとすぐに教えてくれた。大通りに入ればすぐに店はあったのだ。
 クリスマスの翌日のせいだろうか、店は繁盛している。「延長はできません」という店員の言葉で、狭い部屋に七人がようやく入り込んで、今年最後のカラオケ宴会は盛り上がる。今日も私は歌いすぎて顰蹙を買ってしまう。お蔭で隊長の愛唱歌『朧月夜』は時間切れで間に合わなかった。
 後日の証のため書いておかなければならない。会計は一万二千九百六十円であったが、計算が面倒なので一人二千円を集めた。余った千四十円は私が次回まで保管する。この件に関して権利を主張できるのは、隊長、画伯、ドクトル、チイさん、姫、ロダン、私である。

眞人