平成二十二年一月二十三日(土) 日向山(秩父郡横瀬町)

投稿:   佐藤 眞人 氏     2010.01.27

 西武秩父線芦ヶ久保駅集合である。初めて聞く駅名で地図を調べて漸く分かった。あと二駅で西武秩父駅になるから、我が家からは(そして仲間の家からも)かなり遠い。的場駅を八時十五分に出て、東飯能に着いたのが八時四十七分。五十二分発の西武線には楽々座れるかと思っていたのに、同じような格好をした連中が結構多くて、立っている者もいる。誰か仲間がいるだろうかと見回してみたが、八両編成の真ん中あたりでは発見できない。
 初めて通る正丸トンネルはずいぶん長い。首都圏の電車でこんなに長いトンネルがあるなんて、なんだか不思議な気がするが、ここは既に秩父であった。トンネルを過ぎると急に窓の外の風景が変わり、山に入ってきたようだ。
 芦ヶ久保には九時三十一分に到着した。なんだ、みんな乗っているではないか。別の車両から数人づつ固まって降りてきたのは、ほとんどが仲間だった。本数が少ないから十時前に着くためにはこの電車しかないのだ。
 次の十時二分到着の電車まで待つ間、十人ほどのグループが準備体操をして出発していった。私たちより大きめなリュックを背負って、格好も本格的だから(つまり普通にイメージする登山の格好をしている)、もっと高い山に登るのだろうか。「丸山だろう」隊長の言葉だ。
 日が当らない駅前は寒い。家を出るときはそんなに寒いとは思わず、薄着で来たのは判断が甘かった。ここは既に標高三百メートルほどだから、平地より三四度は低いのを想定しなければならない。リュックの中に放り込んできたのは息子がもう着なくなった紺の長袖シャツで、それを取り出しジャンバーの下に着込んだが、あまり効果があるようではない。ちゃんとした厚手のものを持って来るべきだった。
 望遠鏡氏と古道マニアは空を見ながら、ノスリを発見した。駅員も事務所から出てきて一緒に見ている。西武鉄道全線の中で、一日の乗降客数が下から数えて三番目の駅である。暇なのだ。彼の話によれば、ときどきヤマセミも見えるという。それはカワセミのようなものであろうか。「それって何」とロダンも聞きたがる。「もうちょっと大きいんだ。色も白と黒で」と隊長が教えてくれる。「私はまだ実物にお目にかかったことがない」と古道マニアが溜息を吐く。
 煙草を吸っても暖かくなる筈はないが、二本ほど吸っているとやっと待ちわびた電車が到着し、ドクトルが改札を出てきた。ホームからチイさんが手を振っているのも見える。
 「隊長に電話したんだけど、留守番モードになってたよ」ドクトルもチイさんも同じことを言う。どうやら隊長の電話は電源が切られていたらしい。「講釈師がいたら除名されちゃうと覚悟してきましたよ」チイさんが笑うが、彼は今日は来ていない。ダンディも来ていないから少し淋しい。「モリオンは来ないんでしょうか」ロダンが心配そうに言うが、なに、いつものことだが昨日呑みすぎたに決まっている。
 結局、参加者は隊長、宗匠、望遠鏡氏、ロダン、チイさん、桃太郎、ドクトル、古道マニア夫妻、イトはん、カズちゃん、伯爵夫人、ロザリア、蜻蛉の十四人になった。寒いのでとりあえず出発する。イトはんはずいぶん久しぶりだ。「十一月には参加しようと思ってたのよ。でもね、前の日に新型インフルエンザのワクチンを注射したの」だから来られなかったと言うのである。「嬉しいわ、みんなと歩けるなんて」

 駅を出てすぐに白鬚神社の脇を通るがここには寄らない。茂林寺という民家のような小さな寺も横目で見て過ぎればもう上りに入る。かなり急な登り道だ。「あっちの道は上りたくないわ」とカズちゃんが言っている、その右に折れる道が、私たちが進まなければいけない道だった。真っすぐ行く向こうの方の山には、白い大きな観音像が立っているのが見える。坂道はきついが、お蔭で体が温まってきた。風もない穏やかな冬日和だ。
 ビニール栽培のイチゴ農場の向かい側に東屋があり、ここで隊長の訓示があった。「脱いでください、とにかく脱いでください」隊長の言葉は特に女性に向かう。どうも違うことを考えているのではあるまいか。「これからはさらに上り道が続くんですよ、汗かかないように」と古道マニアが言う方が説得力がある。私もジャンバーを脱いで、リュックに括りつけた。ビニールの中に見える苺の数は少ないが、その粒はずいぶん大きい。武甲山の山肌が白く削られているのが良く見える。
 舗装された道から山道に入れば足元が優しい。同じ登りでも疲れ方が違う。「コーラス広場」という案内板を見て、「凍らすんですよ」と望遠鏡氏が笑う。駄洒落が得意な人である。それにしても、この山道を三脚付きの望遠鏡を肩に担いで歩くのは、なかなか大変ではないだろうか。木で造られた階段の所々には、霜柱がまだ溶けずに残っている。「珍しいよね」「普段歩くところじゃまず見ないからね」
 黄色い花はソシンロウバイだ。「それって、聞いたことがあるんだけど、忘れてしまった」ロダンに、中心部に色がないから「素心」だと教える。季節が良ければ、この先には花が咲き乱れる筈だ(と言う)。

 里山の命たくわふ春隣 《快歩》

 なるほど、春隣という季語に相応しく、日差しが暖かい。しかし私はまた、ちあきなおみの『冬隣』を思い出してしまう。やがて左前方の斜面に沿って、赤く塗った長い滑り台が見えてきた。ここは横瀬町農村公園という場所なのだが、滑り台のほかには目ぼしい施設はない。滑り台の終点近くに池があるのが公園の象徴だろうか。隊長の案内には「ここは我慢して通り過ぎます」と書かれていたが、古道夫人が是非滑ってみたいと挑戦した。
 滑り台はローラー方式で、ザブトンのような板(ビート板)をお尻に敷いて滑るのである。「また、この滑り台を登ってくるんですか」伯爵夫人は面白いことを言う。当然、下を歩いてくるのである。
 勇んで出発した古道夫人は少し滑ったところで止まってしまい、態勢を立て直してゆっくりと降りて行く。勾配が小さいのでスピードは上がらない。子供向けのものだろうが、はて、こんなところに遊びに来る子供がいるものかどうか。

 ゆるゆると滑り行くひと冬日差し  蜻蛉

 伯爵夫人も一度はスタート台に座ってはみるが、やはり不安を感じたらしい。結局断念したのは残念なことであった。
 スタート付近の片隅に武甲猟友会の「鳥獣慰霊碑」が建っているのがおかしい。己が殺した鳥獣を慰霊するのである。南天の赤い実が美しい。
 また林の中の山道を辿って舗装された道に出るところに古びた笠鉾が置いてある。木の板が打ち付けられ、説明が書かれているので読んでみる。

この笠鉾は天保年間の作といわれ、当地の俗称天王様の八坂神社の祭礼に当たる七月二十日に奉曳されたものである。明治三十年頃、鈊柱を立て、三層の笠をつけたのが現在の笠鉾である。

 ここに置くに当たって復元を試みたが、部品が足りずに完全にはできなかったと言い訳をしている。山車の前半分だけで、後ろは藪に埋もれたように置いてある。野晒しになっているから、折角の龍の彫り物も色褪せてしまって、ちょっと見には古ぼけて穴のあいた掘立小屋のようだ。無残である。
 屋根の上の笠は三段に重ねられ、その上に「果実豊作・天下泰平・家内安全」と書かれた纏が立つ。脇には「資料館」と看板に書かれた古ぼけた売店が建っているが、これももう数年開いたことがないようだ。さっきの説明板の文章は、「館主・浅見清太郎」とあるので、この人が資料館を造った人だろう。芦ヶ久保観光果樹組合に属してブドウを栽培し、平成十九年のぶどう品評会では、第一位の埼玉県知事賞は貰えなかったが、第三位(秩父郡町村会町賞)に輝いた人がいる。その名前が浅見清太郎氏であった。地域振興のため、この笠鉾を復元しようとしたが、誰も協力してくれず独力で事に当たったが、残念ながら部品が足りずに断念したのであった(と思う)。世間は冷たいというよりも、観光果樹園と笠鉾は余り関係がないのであろう。

 破れ山車冬枯れの野に埋もれて  蜻蛉

 今度はソシンロウバイではない、普通のロウバイが咲いている(私は何の疑問も持たずにロウバイだと判断していた)のだが、花の形がおかしいと古道マニアが言いだした。「そう言えばちょっと違うみたいだよね」花弁が開き過ぎているような気もする。しかし隊長はロウバイであると断言するから従わなければならない。ここでもノスリの姿が見えた。かなり低空を飛んできたから今度は私にも見える。「羽を広げれば一メートルにもなるんですよ」望遠鏡氏の話である。私は鷲も鷹もトンビもまるで区別ができない。

 空低く羽裏を見せる鵟かな  蜻蛉

 ノスリというのは難しい字だ。狂った鳥なのである。
 再び登り始め、しばらく行って車道に出ると大きな駐車場に着いた。ここで少し休憩する。木の子茶屋と言う。このコースはあちこちにトイレが設置されていて便利だ。「前にカタクリの花を見に来たところだ」宗匠は結構あちこち出没しているようだ。山の好きな人は遠くに見える山を指して、隊長持参の地形図を見ながら何やら難しい顔で確認しあっている。空には大きな筋雲が長く伸びている。
 さらに山へ入っていく。木の階段は地盤が沈んで段差が大きくなっていて疲れる。口数も少なくなってひたすら登る。ところが折角登っているのに途中で階段を下りて行くのは何故か。私たちは山に登ろうとする者である。こうして下に行くのは目的に反するのではないか。案内板の前に隊長が立ち止って説明をする。ここら辺りは初夏の頃にはカタクリ、アズマイチゲ、ミヤマエンレイソウ、エゾエンゴサクなどが観察できるところらしい。宗匠が以前に来たと言うのはこの辺りのことだろう。しかし今の季節では花は当然見られないから、また階段を戻って山道を行く。
 ここから頂上まで、息を切らせながら一気に上る。一番乗りはロダンとチイさんだった。私のすぐ後ろにはカズちゃんがついている。「もうすぐだよ」山は得意な彼女も返事をするのがきつさそうだ。
 心配していたイトはんも最後尾ながら、ちゃんと登ってきた。「嬉しいわ、頂上を征服したのね」標高六二七メートル、三百メートルほど登った勘定になる。頂上を示す標識板はかなり歪んでしまって補強してあるが、その柱に、平成十九年に熊野修験が建てた塔婆が立てかけられている。「修行武蔵国日向山入峯云々」の文字が書かれているものだ。今でも熊野修験なんていうものが存在するである。
 「いいですね、心が洗われる」ロダンは普段の汚れた心を一所懸命洗っているのである。「それ、どういう意味ですか」

 ここで昼食となる。各人がシートを広げれば結構な広さになって、珍しく参加者全員が一つにかたまって弁当をとる。ただし、望遠鏡氏は座るのが苦手だから、ちょっと離れたところに腰かけた。ここで百円ショップで買った折り畳みザブトンが活躍する。お尻の具合がちょうどよい。「私もそれ探してたのよ」イトはんは、これを探したが売っていなかったそうだ。「これ、台所用のマットなの」ちょうどよいサイズに切ってある。そういう無駄遣いをしない宗匠は、エアキャップを座布団サイズに折ったものを見せてくれる。「このプチプチが楽しいのよね」「潰し始めると終わらなくなって」
 食後にはチイさんが巨大な夏ミカンに包丁を入れてくれる。この巨大なミカンを二つも持ってきたのである。さぞ重かったことだろう。皮の厚さは二センチほどもあるのではないだろうか。夏ミカンほど酸っぱくなく、あっさりした味で悪くない。バンペイユというものだそうだ。「どういう字を書くのかな」「ユは油じゃないのか」「違う、ユは木扁だよ。柚子のユ」ドクトルが自信ありげに断言する。宗匠の広辞苑では出てこない。
 調べてみると晩白柚と書く。ウィキペディアによればザボンの一種で、晩生で果肉の白い柚である。柚は丸い柑橘の意味だそうだ。それでは丸くない柑橘というものがあるのか。それにしても厚い皮は無駄ではないかと思うが、「砂糖漬けにするんだよ」と宗匠が教えてくれる。熊本県八代の特産だから、佐賀県人の宗匠は詳しいのである。
 女性陣が配ってくれるチョコレート類は私の前を素通りする。チョコレートを口にする宗匠に、「メタボに悪いんじゃないの」と言ってみたが、「食事と一緒だから良い。間食が駄目なんだよ」と言い訳している。今日はお煎餅がない。「ゴメンネ、今日は山歩きだから甘いものがいいかと思って」とカズちゃんに謝られると恐縮してしまう。煎餅が欲しければ自分で買ってくればよいのである。人にたかろうと言う私は了見が太い。
 かなりのんびりと休憩してしまった。十二時半出発。

 下りの階段は急で長く、見下ろせば眼が眩むほどだ。私は高所恐怖症かもしれない。できるだけ前方を見ないよう、足元だけに注意を集中させて降りる。落ち葉が積み重なったところは滑りやすい。それに、霜が溶けて少しぬかるんだ部分もあるので気を抜けない。
 それでもイトはんは、朴の葉がほとんど裏返しに積み重なっているのを不思議がる。「どうしてかしら」それは物理学の問題であるとドクトルが答える。葉と地面の間に隙間があれば風で裏返る。だから葉の形態からいって自然に同じ側が下になる。「メンコと同じだよ」ここから話はズレて行く。
 「メンコってどう書くんですか」宗匠が辞書を引き、面子であると確認する。秋田市ではパッチと言った。ミツグの方(河辺町)ではパッチンと言ったと以前聞いたこともある。「確か江戸時代には土で作ったやつを使ったんじゃないかな、紙のやつは明治以降のもの」と私はウロ覚えの知識を披露する。「へえ」ロダンはすぐに信用するからいけない。念のためにウィキペディアを調べて、間違っていないので私は安心した。ただし、明治になって一気に紙製になったのではなかった。泥の素焼き製と紙製との間に鉛メンコというものが存在した。

鉛めんこを「起こし遊び」により何度も使用すると変形が起こり、図柄も歪む。不細工な顔を意味するおかちめんこはこの歪んだめんこの図柄に由来する言葉である。(ウィキペディア「メンコ」)

 ここで「おかちめんこ」が出てくるとは想像していなかった。ところが明治三十三年、鉛は中毒を惹き起すと禁止され、折からボール紙の生産量が上がったこともあって、紙製に変わっていったのである。
 「ベーゴマは地方で言い方が違うんでしょうか」ロダンの知識欲はますます拡大する。ベーゴマは本来、貝(バイ)独楽である。だから、「バイ」と呼ぶ地方もあったのではないだろうか。私の知る限り、秋田ではベーゴマは存在しなかったように思う。北限があるのだ。「この頃は、だれでも回せるような道具があるのよ」イトはんは孫が遊んでいるから知っているのだろうか。ベイブレードというものらしい。
 「ジャンケンの時の掛け声はどう言いましたか」桃太郎によれば、常陸地方では「アンショーエス」と掛け声をかける。「そうそう」と水戸出身のロダンも同調する。これは何だろう。「エスはエシあるいは石の訛ではないか」とドクトルが言う。「東北訛だろう」そうかな。しかしネットを検索すれば、関西で「ジャイケンエス」と言ったという証言を見つける。つまり東北訛ではないことが確認できる。まるで違う言い方では、千葉では「チッケッタ」と言うそうだ。それにしても「アンショー」と言うのが分からない。謎である。秋田ではなんと言ったか、まるで思い出せない。

 日当たれる落葉の道をカサカサと 《快歩》
 霜踏むやメンコベーゴマ遠き日々  蜻蛉

 わいわい騒ぎながら一気にかなりの道を降りると、少しなだらかになった尾根道の左側に網が張ってあり、ところどころに電流が通されているのが分かる。イノシシ避けなのだ。「どのくらいの電圧ですかね、千ボルトぐらい」ロダン、それは大きすぎはしないか。それでは人間にとっても危険だ。イノシシを脅すのが目的ならもう少し小さいのではないだろうか。勿論私は、どの程度の電流が人間の身体に危険なのか知らない。
 降りたところにある琴平神社は小さな社だが、桃太郎は丁寧に手を合わせる。脇に展望台のように桟敷を張り出した木造の構造物が建っていて、上がってみたロザリアが何も見えないと報告してくれる。「木が邪魔なんだもの。何のためのものかしら」「ただの休憩所じゃないか」真相は不明である。
 少し車道を歩いてまた山道に入ると、岩が露出した場所に出た。隊長が緑色片岩の説明をする。「ほら、こうして割れるだろう、結晶がこういうふうになってるの」ロダンが小さな石を拾って大きな石に打ち付けると、大きい方にヒビが入ったようだ。片岩は、変成作用によって結晶が一定方向に配列されているから、剥離しやすいのである。こういう話題は、隊長、ドクトル、ロダンの専門領域である。「サンバガワでしょう」ロダンが言う。それはなんであろう。

中央構造線の南側に沿って西南日本外帯に細長く追跡される三波川変成帯にあり、産地名を付し、紀州青石・阿波石、伊予青石と呼ばれている。関東地方では秩父青石(三波石)が有名である。(『建築・土木用語辞典』より)

 三波川はサンバ川と読む。群馬県藤岡を流れる川であるが、これが地質学上の学術用語に採用された。結晶片岩を主とする変成岩地帯であり、中生代白亜紀の造山運動で形成されたのである。(『大辞林』より)
 ところで関東一円に見られる板碑は、ほとんどが秩父地方の緑泥片岩を使ったものである。これは緑色片岩とは違うのだろうか。「緑色片岩の中に、もとは砂だったり泥だったりするものがある。泥の方が固いんだ」なるほど、こう説明してくれればわかりやすい。
 やがて、金網で囲まれた広いグランドに出た。奥の方に小屋があって、その前にイノブタが数頭固まっている。中の一頭が動き出すと、全員がそれに従う。小屋に駆け込めばみんなが小屋に駆け込み、外に出てこちらにきょとんとした眼を向ければ、やはり同じ格好をする。実に統制がとれている。「私たちとはまるで違うのね。こっちは隊長が指示しても、てんでんバラバラだものね」イトはんが笑っている。
 イノブタの特徴は何であろうか。「キバがないんですよ」そうなのか。遠くに固まっているのでよく見えないが、なんとなくそのようでもある。最初は奥の方で固まっているだけだったイノブタも、ようやく慣れてきたのだろうか。こちらの方に走ってきてはまた戻り、またやって来る。「向こうじゃ、網の中に人間がいるなんて思ってるのよね」
 「この実はなんだったけ」と宗匠が注目したのは黒い実である。四つづつ生っている。「シロヤマブキだよ」シロヤマブキなのに実は黒いのか。

 向陽山卜雲寺(秩父郡横瀬町大字横瀬一四三〇)の前に「日本百番霊場補陀所第六番荻野堂」の石柱が建つ。補陀落から「フダ」を宛てて、「フダショ」と読むか。秩父札所六番である。曹洞宗、開山は行基ということになっている。本尊は聖観音。「秩父の札所で残るのはあと六ヶ所かな」チイさんには意外にこういう趣味がある。そして、必ず一句詠まなければいけないと決意したチイさんである。

 南天の朱の輝きや卜雲寺  千意

 「この鳥居は神社だよね」境内の隅の赤い鳥居がドクトルには不思議なのだ。仏法護持のため地主神を祀る。護法神であり、本地垂迹の名残だ。「それじゃ、神様のほうが偉いんだな。力が強い」そういうものではないと思う。仏を守護するのである。
 次は青苔山法長寺(秩父郡横瀬町苅米一五〇八)。ここも曹洞宗の禅寺で、秩父札所七番になる。本尊は十一面観音。山門の左に「不許葷酒入山門」の結界石、右には「法長禅寺」と彫られた石が立っている。
 山門を潜ったところで、「あれっ、この木は何かしら」とイトはんに袖を引かれた。言われなければ気付かなかった。百日紅の枝の途中から松が生えているのである。寄生であろうか、わざわざ植えたものだろうか。不思議なものであった。白梅もひっそりと咲いている。

 境内の端に白梅法長寺 《快歩》

 唐破風の屋根は立派なものだ。この本堂は平賀源内の設計になると言い、間口十間、奥行き八間は秩父札所の中で最大である。
 本堂の左の方には、小さな堂があり、豊川稲荷(荼枳尼天)を祀ってある。本堂の前に置かれている小さな牛の石造(牛伏)の由来はこうである。

 縁起によると、行基菩薩が自刻の観音像を有縁の地に安置しようと、背負って巡錫していた。当地まで来ると、石のように重くなったため、安置して旅立って行った。
 年月を経て、数人の牧童がこの山で草を刈っていると、一頭の牛が突然現れて、伏して動かなくなった。その夜のこと、観音が現れて「これより坤の方の林のなかに庵を結び我を安ぜば、必ず罪悪の衆生を済度すべし」と告げた。翌朝、牧童たちが草のなかを探すと、十一面観音が立っていたので、草堂を造り祀ったという。
 また一説には、承平二年(九三二)花園左衛門の家来某が、平将門の乱で戦い、敗れて当地で没した。しかし、悪心をもって将門と戦ったため、牛に生まれ変わってしまった。それを知った妻が観音に祈願したところ、夫は苦しみから逃れることができたという。(『観音霊験記秩父三十四所』)
 http://www.nichibun.ac.jp/graphicversion/dbase/reikenki/chichibu/reijo07.html

 本堂の締め切ったガラス戸の前には、本尊である十一面観音の写真が立てかけられている。静かな落ち着いた寺だ。
 次の札所は明星山明智寺(秩父郡横瀬町中郷二一六〇)臨済宗南禅寺派、札所九番である。本尊は如意輪観音、子育て、安産にご利益があるのである。山門の外には「巳待塔」や庚申塔が数基並んでいる。
 六角堂形式の観音堂の前には、ずいぶん大きなそして重い錫杖が立てられていて、これを回すと幸運が舞い込むと言う。「これ、何って言うのかな」隊長が首を捻るが、ちゃんと「錫杖」と説明が書いてある。日本アルプス(?)とこれが関係しているような話をロダンがしているが、私には謎である。(ウィィペデアィで調べて分かった。参謀本部陸地測量部員が、それまで人跡未踏と信じられていた剣岳山頂で錫杖頭を発見したのである。山岳宗教がどれほど広がっていたかという証拠である。)
 観音堂内部には吊るし雛が垂れ下がっている。と皆が思ったが、桃太郎だけが「猿ボボとか言うんですよ」と言う。身体を折り曲げたような、布製の小さな人形が、ひもに取りすがるようにいくつもつながって吊るされているのである。「ボボってまずいんじゃないの」と言いながら九州人の宗匠が辞書を引くと、猿這う子(さるぼうこ)の転である。
 調べてみると飛騨の特産にサルボボというものがある。飛騨弁で赤ん坊を「ぼぼ」と言うのだ。ところが、飛騨のものは両手両足を大の字に広げた形で、今見ているものとはちょっと違う。それでも、今見ているものは全て同じ赤ん坊の形をしているから、やはり吊るし雛とは明らかに違うものだろう。

室町時代には幼児の穢れや禍を負わせるために「あまがつ」と言う人形があって産後の設えに必要なもの存在した。三十センチくらいの竹筒をT字形に組み合わせ、上に丸い首を乗せただけの簡素な形をしていて、台板上に立てられる。後には嫁入りにも持参し、鉄そめや雛祭りにも使われるようになったが、元は祓いの人形が原型になっているものと思われる。公家や上級武家間の風習として新生児の枕元におかれ、無事息災を祈る役割をはたした。
この「あまがつ」(天児)と同じ意味をもったものに「這子」(はうこ)がある。
天児は中世以来伝統的に伝承されてきたが、同時に庶民層へもこうした風習が伝わり、這い這いの形をした「這う子・這子」が一般的に普及した。「天児ははうこのことなり」ともいわれ、嬰児保護の目的をもっている。這う子は天児と同様簡単なかたちである。(「さるぼぼ様の歴史」より)http://www5e.biglobe.ne.jp/~niyarido/roots001.htm

 「撮影禁止」に気づかず、内部を撮ってしまったから、金色の如意輪観音もちゃんと写っている。桃太郎が鰐口から垂れた紐を引っ張ると、やたらに大きな音が鳴った。文塚という祠にも、このサルボボが吊るされている。その隣には子育て観音。

 駅に向かうと、武甲山を背にして工場が立っている。「何ですか」カズチャンの疑問には、秩父セメントと答えるが、セメント会社は合併吸収を繰り返しているから、今の名前は分からない。「太平洋セメントって言ったかな」「三菱マテリアルじゃないか」誰かが言う。ぐるっと回りこむと、三菱セメントの文字が光っている。実はここは三菱セメント横瀬工場であった。太平洋セメントは三井住友系だから、系列がまるで違う。三菱マテリアルの名を出した人は、なかなか詳しい人たちであった。
 「眼のせいかな、なんだかキラキラして」とロダンが言うので注意してみると、確かに、細かなものがキラキラと飛んでいるようだ。「ダイヤモンド・ダストみたい」セメントの材料が飛散しているのだろうか。
 横瀬駅に着いたのは三時ちょっと前、登り電車は三時十分発だからちょうどよかった。宗匠の万歩計で一万六千歩。今日は山に登ったから、平地の一万六千歩とはかなり違う。高麗で古道マニア夫妻、東飯能でロザリア、伯爵夫人、飯能で望遠鏡氏が降りて、残る九人は所沢で降りる。「さくら水産はないんですよ」とロダンが言うが、所沢ならいつもの「百味」があるではないか。
 既になりの客が入っている店内(昼からやっている店である)で、なんとか席に着いた。小皿を配るとチイさんが、さっきの南天の実と紅葉した葉を取り出して、皿に載せた。これが風流というものだ。しかしお蔭でロダンの小皿が足りなくなった。「私の皿がない」風流には必ず何かの犠牲が伴うことを私たちは知るのである。
 今日も楽しく呑んで、一人二千七百円也。

眞人