平成二十二年二月二十八日(土) 神川町

投稿:   佐藤 眞人 氏     2010.03.4

 昨夜からの雨は朝になってもまだ止まない。予報では昼過ぎ頃まで降り続き、更に午後からは次第に寒くなるという。こういう日はどういう格好をしたらよいか悩んでしまうのだが、上には合羽を着て、リュックの中に薄手のジャンバーを放り込んだ。午後は邪魔になる筈だから、傘は小さな折り畳みにした。
 二三日前に隊長から変更の指示が入り、集合時刻は十時十六分に延長された。お蔭で八時五十九分の東上線下りに乗れば良くなったのだが、仕事に出かける妻と一緒に家を出て珍しくバスに乗ったものだから、一本早い電車になった。いつもの十時集合ならば、七時五十二分に乗らなければならず、現地到着も九時二十三分と中途半端だったから、この時刻変更は有難い。なにしろ一時間にほぼ一本しか走らない八高線だから大変なのだ。
 小川町で降りて寄居行きに乗り換えるところで、隣の車両から出てきたダンディと一緒になった。隊長が指定した電車ならここで八高線に乗り換えるのだが、寄居まで東上線を使ったほうが料金的に得なのだ。
 今日のダンディはオーストラリア土産の帽子をかぶっている。「帽子はどういう風に数えるんでしょうかね」難しい質問で、考えたこともなかった。明治になってからのものだから、伝統的な助数詞があるわけはないと思うが、それで間違いないか。「調べてください」ネットで検索してもやはり単に「個」で良いのではないか。
 寄居で八高線のホームに回ると、ちょうど秩父線経由で到着したドクトルも一緒になった。どうやら雨も止んだ。九時五十六分の電車まで十分ほど待つ。(と書いたが実は電車ではない。高麗川から倉賀野まではまだ電化していないのである)
 列車が到着すると、「これは高崎行きじゃないか、駄目だよ」とドクトルが不思議なことを言う。「これで良いんですよ、群馬との県境に向かうんですから」「あっ、そうか。方向感覚が狂ってきたよ」乗りこむと、すぐ目の前でカズちゃん、宗匠、ロダンが「どうしたんですか」と笑いながら迎えてくれた。
 「あれは何だい」入口の近くに整理券を発行する機械が設置されていて、ドクトルが不思議がる。その途端に松久駅で若い娘が二人乗ってきて、その機械から整理券を取りだした。それは良いが、何も股を広げて床に座り込まなくても良いではないか。(スカートではなかった)無人駅があるため、乗ってから整理券を手に入れなければならないのだ。
 八高線は日本のシルクロードである。と偉そうに言っているが、私は高崎から八王子を経て横浜までのことだけをそうだと思い込んでいて、関東大循環線とも言うべき、栃木県を含むエリアを考えていなかった。今回調べて蒙を啓かれたので記録しておかなければならない。
 以下、「着物倶楽部・風流」というページ(http://www.huryuu.com/lecture/index3.html)から得た知識である。
 両毛線の沿線、小山から佐野、足利、桐生、伊勢崎、前橋、高崎まで、江戸時代後期から既に銘仙を主とする織物工業地帯が形成されていた。そして前橋は蚕の大集積地であった。高崎から八王子までの八高線には、八掛、小川町(胴裏)、村山(村山大島)、青梅、五日市がある。ちょっと離れて秩父も対象になる。
 八王子からは横浜線で横浜港に至る。幕末から戦前まで、絹は最大の輸出品であった。このルートが日本近代を支えたシルクロードである。勿論、鉄道が最初ではなく、シルクロード地帯に鉄道を走らせたのである。

 十時十六分に丹荘(たんしょう)駅に着くと、早い人は既に集まっている。隊長の連絡が間に合わなかった人、つまりメールでの連絡が行き届かない人は、当初の予定通りに来ていたのである。
 隊長、中将・小町夫妻、カズちゃん、イトはん、伯爵夫人、宗匠、ロダン、ダンディ、ドクトル、蜻蛉の十一人である。雨はすっかり上がって青空が見える。暖かい春の日差しだ。今朝方までの雨のせいで、カズちゃんと伯爵夫人は長靴を履いている。長い傘を持ってきてしまった隊長、ドクトル、カズちゃんは駅に預けた。
 神川町は神流川を挟んで群馬県藤岡市と接する埼玉県の端っこである。地名は神流川によると思われるが、関東地方整備局河川部によれば「神流」の標記は誤りである。古くは感納川、甘奈川とも書かれたと言い、もともと武蔵国の北の果て、「上」の国から流れる川の意だと言う。(http://www.ktr.mlit.go.jp/kyoku/river/river_info/kanna_01.htmより)
 そして駅名の丹荘は武蔵七党の一である丹党に由来する。

丹党は秩父地方を本拠地とし、中村氏を中心に活動した武士団である。
丹基房が秩父五郎を称し、その長男である直時が勅使河原に居住し、勅使河原氏の祖となり、直時の弟である恒房が新里・安保を領有し、新里氏と安保氏の祖となった。さらに恒房の弟である成房は榛沢郡を所有し、榛沢氏を称し、成房の弟の重光は小島に居住し、小島氏の祖となった。重光の三子のうち、長男光成は小島氏を継ぎ、次男光俊は志水氏を称し、三男朝俊は村田氏を名乗ったとある。
児玉党とは、一時期、合戦が生じる寸前まで緊迫した状態になったが、畠山重忠の仲裁により、和解している。領土問題、あるいは水利問題で対立したものと考えられている。一例として、真下基行の子息の一人である真下弘親が勅使河原村へ移住したと系図にはあり、賀美郡(現児玉郡西部)と児玉郡が郡境と言う事もあって、両武士団の領地が入り混じっている状況下にあった。
丹党・児玉党・猪俣党などの武蔵武士団は、南北朝時代に南朝廷側=新田義貞についた為、新田氏の滅亡と共に弱体化、あるいは没落していった。さらに上杉禅秀の乱では禅秀に味方した為、鎌倉公方の足利氏に所領を没収されている。しかし、丹党の氏族のうち、阿保氏は足利氏に属した為、その所領を永く維持した。それは同時に一党一族と言う概念の下、結束していた時代が終わった事を示している。(ウィキペディア「丹党」)

 馬の生産を背景に東国武士団が発生し、主に婚姻による血族関係によって「党」を形成した。しかし血族を越えた大規模な集団的力が必要になる時代には、時代遅れの結合ともなって、大集団に滅ぼされ、あるいは吸収されていく。その丹党の生産基盤の中心であったから、丹荘だと思われる。
 駅の北口から歩き始め八高線の踏切を渡ろうとすると、古めかしい石の標柱を発見した。何かの由緒があるのかどうか、文字が摩耗して良く読めないのをロダンが解読した。「丹荘村道路元標」である。
 道路元標とは何か。こういうことはロダンの専門であるが、調べた結果、大正八年の旧道路法によって、各市町村に一個づつの道路元標を設置することが決められたのである。但し現行の道路法では特に規定がないので、道路の拡張や工事によって取り壊されてなくなってしまったものも多い。

神川町関口県道二二号上里鬼石線がJR八高線を横断する地点、鬼石街道踏切にある。当初の設置地点は植竹七三九と記録されているので、駅の東口付近である。二十五センチ角、地上高七十センチ、下部には五十五センチ角、地上高二十三センチ角のコンクリート。(「道路元標・児玉郡」
http://www.geocities.jp/fukadasoft/bangai5/douro/index10.htmlより)

 この辺りにはかなり古い元標が残っているようで、上記「道路元標・児玉郡」のページには本庄市で二基、児玉町で五基、神里町で三基、神川町で三基の写真を掲載している。
 住宅地はすぐに尽きて、私たちは田圃の中の舗装された道に入っていく。人は全く歩いていない。遠くの山並みの中に、綺麗な三角形の山が見える。山に詳しいひとたち(隊長、ドクトル、中将)は、あれが榛名、あれが赤城だとしきりに山の名前を数えているが、この三角山のことを訊いても、なぜか話を逸らしてしまう。「あれが知りたいんだよね」と宗匠と顔を見合わせる。「知らないんじゃないの」山に詳しい人にも知られない、無名の寂しい山なのである。
 歩いていると暑くなってきて合羽を脱いだ。小町の格好は随分厚着だ。「だって寒くなるっていうから」午後は寒くなるかも知れないが午前中は暖かいのである。もうちょっと脱いでも良いのではないか。その小町のリュックには真っ赤な天狗の顔をした鈴がぶら下げられている。「カショウザンよ」迦葉山である。私は先週土曜日に高尾山に登ったばかりだから、天狗と言えば高尾かと思ってしまった。

 春うららリュックの鈴のひびき合ひ  快歩

 小町と中将は同じ鈴を着けているのである。いつも仲の良い夫婦だ。カズちゃんはオレンジのジャンバーのフードをちゃんと頭に被っている。「だって帽子を忘れちゃったんだもの」「赤頭巾ちゃんみたいだ」これで新しいニックネームが決まった。
 田圃の脇に巨大な穴を掘って、下の方で大型のダンプカーが数台動きまわっているのが不思議だ。「砂利採取標識」の看板があるが、砂利らしいものはどこにも見えない。掘り切ってしまったのだろうか。
 畦にはオオイヌノフグリが薄い空色の小さな花を咲かせている。珍しくもない、どこにでも見かけるものだが、私はこの花が好きだ。ホトケノザ、ヒメオドリコソウの赤紫の色も混じって、野原はもうすっかり春のようだ。
 田圃の脇に石碑が三基建っていて、その真ん中の大きな石には、よく判読できない文字が彫ってある。文字列は三行、それぞれ「命」で終わるから、神の名であろうとは思うのだが、分からない。「ミコトでしょう、新興宗教じゃないの」とロダンが言う。念のために写真を撮ったので、後で拡大して見るとほぼ判読できて、これでネットを検索する。その結果、真ん中に大きく彫られているのは「八意天思金命」(オモイカネ)、その両脇の文字は少し小さくて、右が「手置帆負命」左が「比古狭知命」と判明した。
 オモイカネは高天原の知恵袋で、岩戸に隠れたアマテラスを外に出すための知恵を出した神であるという。「八意」は「ヤツゴコロ」で四方八方に思慮を廻らす意を表し、ヤツゴコロ・アマノオモイカネノミコトと読むようだ。天の岩戸の項を『古事記』で確認してみよう。

故(かれ)ここに天照大御神見畏みて、天の岩屋戸を開きてさし籠りましき。ここに高天の原皆暗く、葦原中國悉に闇し。これによりて常夜往きき。(中略)高御産巣日神(たかみむすび)の子、思金神に思はしめて、常夜の長鳴鳥を集めて鳴かしめて(後略)

 ここでオモイカネは、タカミムスビ(または高木神)の子として登場する。秩父国造の祖となったとも言うので、この辺で信仰されたものか。

思金神は建前と関係のある手斧初の儀式の主神でもある。この儀式は大工が建前にかかる初日に、正面を南向きにして頭柱を立て、柱の正面に天思兼命と書き、右側に手置帆之神、左側に彦狭命と記し、さらに裏面に年月日、建主名を墨書きするというものである。思兼の「カネ」はカネジャクの「カネ」に通じ、これは曲尺、短尺のことである。この曲尺は直角に曲がった物差しで大工金とも呼ばれる大工道具の中では一番大切な物である。このようなことから思兼命が手斧初の主神となったのであろう。(「神々の宴・思金神」 http://www.loops.jp/~asukaclub/kami/kami_138.htmlより)

 ここにあるのは柱ではなく石碑だが、同じ趣旨だと思われる。ただ、この田圃の角のところと、建前とがどう関係しているのかは分からない。なにしろこの神の碑を私は初めて見た。歩いていると様々なものを見るのである。

 神の石春日の中に埋もれて  蜻蛉

 白壁に切妻屋根を載せた長屋門が見えてきた。高橋記念館という。トイレ休憩を兼ね、ここで女性陣は薄着になった。女性が脱ぐためにはいろいろ面倒な手続きが必要なのであろう。
 「寿碑」に書かれた文章は長過ぎて、読み進めるのが面倒だが(私の作文みたいだ)、神流川の流路変更による境争論に功を発揮して、苗字帯刀を許されたというようなことが書かれている。藩政時代、川を挟んだ国境の争いは、藩にとっては大問題である。藩同士で決着がつかないときは幕府の裁決を仰がなければならない。
 羽後亀田藩に東林左右兵衛という人物がいた。本庄藩と亀田藩の間での子吉川争論で功をあげた。今日のコースには関係ないが、川を巡る争論が藩にとってどれだけ重要であったかという例になると思われるので、ちょっと記録しておきたい。
 秋田県は全体が佐竹藩の領域だと思われがちだが、県南部は、日本海に面して北側の岩城氏亀田藩(二万石)、子吉川を挟んで南側に六郷氏本庄藩(二万石)、子吉川を遡った内陸部には生駒氏矢島藩(一万石)が領していた。いずれの藩にとっても、子吉川舟運と北前船による日本海航路とが、物資の調達と輸送に欠かせない大動脈である。東林左右兵衛の場合は、子吉川河口での年貢米の上げ下げの場所が重要問題で、そこが本庄藩の領域ならば、取り扱い権限と手数料は全て隣藩の手に握られることになる。

左右兵衛利般は天明五年に御本方役となり、寛政元年に子吉川争論が起きると事件の処理を命じられ、有利な裁決に持ち込んだ功績によって五十石の加増を受けた。その後(中略)寛政十一年には家老二百五十石、享和元年に一代御一門格三百石、同三年に五百石、文化二年には御一門席に列し、藩主隆恕の恕の字を賜って恕利と名乗った。さらに同五年には隆の字を許されて隆利となり、同七年にはついに岩城の称号と家紋の使用を許されるに至った。(『岩城町史』)

 僅か二万石の小大名、岩城氏亀田藩での五百石である。この解決が、藩にとってどれだけ重要なことだったかが想像される。しかしここは高橋家である。その由緒が記されている。

高橋家は徳川四代将軍家綱公(年代延宝)の時代に、長左衛門義重が開祖、第十一代周兵衛に至る連綿三百年以上続く家系である。この間江戸時代初期より、代々名主をつとめたほか第八代周兵衛は現藤岡市本郷と肥土村の境界紛争解決に貢献し、第十代守平は衆議院議員六期をつとめた。
高橋家は第二次大戦後の農地解放により、所有せる田畑一〇八町歩と山林五十町歩、合計一五八町歩(一五六ヘクタール)を放出した。時は移り、この度、高橋家屋敷を造成し公園となし、神川町に寄贈した次第である。平成十七年五月

 再び田圃の中の道を歩いて行くと、かなり風化してボロボロになった卵塔(無縫塔)、五輪塔、庚申塔、地蔵などが集められた場所に出た。「なにしろ上州の空っ風ですからね」あちこちから集めてきたものだろう。「春日局のお墓も無縫塔でしたよね、穴が開いているけど」ロダンが言うのは、本郷春日通りにある麟祥院のことである。来月、江戸歩きであの辺りを歩く筈だから、企画者として下見をしていたのか。
 土手を通って、途中から下に降りていく。左には工事中の土手が続き、右手には藪が広がって、川は見えない。「河川敷の公園かゴルフ場にするんだよ、その工事」と小町が断言する。「そんなに一律にやらなくてもね、イヤーネ」と嘆くのはイトはんである。
 隊長がシンジュ(ニワウルシ)の葉痕を教えてくれる。その痕跡はハートのような形で、すっかり裸になった木だ。「シンジュって神の樹なんだよね」宗匠が言う。「偉い木なんだ」「神樹」はTree of heavenの訳だと言う。ニワウルシと言ってもウルシ科ではないので、かぶれることはない。ぬかるんだ道を歩きながら林の中に入っていく。
 左の方には小さなゴルフコースが作られていて、傘を逆さにしたようなものが置いてある。三人ほどが羽根のついたボールを叩いているが、余り飛ばない。「ターゲット・バードゴルフって言うんですよ」ロダンは詳しい。これは実は埼玉県で生まれたものなのであった。それなのに、東京都ターゲットバードゴルフ協会はあっても、埼玉県にその協会はない考案者の埼玉県人はどんなに悔しいだろうか。(あるいは単にホームページを持っていないだけか)全国組織としては日本TBG協会というものがあって、公式ルールを定めている。しかしこれはスポーツと言うものではないね。ほんの暇潰しの遊びにしか見えない。いくらゴルフ場よりは狭くて済むと言っても、こんな遊びを考え付くのは思想が軟弱なような気がする。

 ゴルフホールをやんはり囲みいぬふぐり  快歩

 林を抜けて開けた場所に出ると、頭上に白い花が一面に咲いているような風景になった。シンジュの種を包む外皮、翼果である。青空を背景に、銀色の幹が何本も立ち並び、枝には一面に、少し茶色がかった白い翼果が咲き乱れるように広がっている。「きれいね」とイトはんが感激する。感動しやすい性質なのだ。

  春の空翼果かぶさる里の道  蜻蛉

 オニグルミの枝の先端はビロードのような感触で、そのすぐ下の部分が逆三角形に目鼻を付けたようで、羊の顔に似ている。(と隊長は言うし、宗匠も納得しているが、私には羊というよりも孫悟空に見えてしまう)
 また林の中に入ると、木の枝には「人家あり発砲注意」の札が付けられている。「何を撃つのかしら」イノシシだろうか。しかし、人家があろうがなかろうが、こんな人間が歩く場所で鉄砲を撃つなんていうことが許されるのであろうか。注意書きを作成しているのは社団法人埼玉県猟友会である。業界団体の「自主的な」注意で済む問題なのか。
 ほとんど地元の住人と言ってよい中将の案内で、昼食場所を決定する。ここは「神川ゆーゆーランド」という総合レジャー公園である。向かい合わせのベンチが少しづつ離れて並び、屋根も付いているので具合が良い。
 「おとうさんが作ったんだけどね」と、イトはんが干し柿を配ってくれる。「作るの大変なんですよね」実際に作ったことのあるカズちゃんが感激する。私は作ったことは勿論ないが、想像するだけでも大変な手間隙がかかるものだろうということは分かる。「皆さんに食べさせてくれって、持たせてくれたの」イトはんのご主人は優しい。今度は是非一緒に参加して欲しい。
 ダンディは「私は、チェリーと苺とカキが好きなんですよ」と言う。「あたしも大好き」と小町も言い、隊長は黙々と頬張る。甘い菓子は苦手な私でも、この控えめな自然の甘さは美味しく食べられた。日差しが心地良い。先週の高尾山にはまだ雪が残っていたというのに、今日はもう本当に春である。

  風光る夫婦干柿神流川  蜻蛉

 小町からも自家製のブロッコリの配給があり、伯爵夫人からは食後にノド飴が配られる。いつものことながら、有難いことである。
 昼食が終われば、ロダンの夫人へのアリバイ作りのために、お土産を買わなければいけない。そのため地場の野菜や土産物を売っている店に入った。ただ、この店に置いてあるものが全て地場のものだとは限らないから注意が必要だ。瓶詰めのものには、新潟県柏崎市のものや秩父のものも混ざっている。
 ロダンは饅頭を買った。ドクトルは秩父の「おなめ」を買った。「これ何だと思う」と小町に指差されたものは、タケノコのような模様の皮をつけたイモである。タケノコ芋と言う。「おいしいよ、ホクホクするの」と小町が保証するので私はこれにした。百四十円なり。つられて隊長も同じものを買ったが、「どうやって食うんだい」と訊いている。後で調べてみるとこれは里芋の仲間であった。普通の里芋は親芋から分かれた小芋を食べるのだが、これは親芋だけを成長させるのである。「ロダンのお蔭で全員が買いましたね」宗匠は何も買わないことをダンディは見落としている。
 店先の鉢植えにマンサクが咲いている。今年初めて見る花だ。鉢植えかと思ったほど形の整った紅梅は、ちゃんと地面から生えていた。

 まだコースの四分の一しか歩いていない。これで予定通り三時に終了できるのだろうか。午後はかなり急がなければならないかも知れない。
 また土手の上を歩く。左前方に同友企業という看板(但し「業」がなくなっている)を見て、「あの名前の由来はね」と小町が教えてくれる。いろんなことをやろうとして、何をやっているか分からなくなったから、どういう企業?と言ったのが始まりだと言うのである。本当だろうか。
 話のつながりは分からないが、ダンディが「カンカンって知ってますか」と訊いてくる。それは何であるか。「大阪のごく一部の方言じゃないですか」私は空き缶のことしか思いつかない。「というより、ごく一部の業界用語でしょうかね」とロダンが考える。
 「しようがないですね、教養のないひとたちは」とダンディが広辞苑を調べると、「看貫秤」とある。「台秤のことですよ」メーカーとか流通業界の人なら常識かも知れないが、私には常識ではなかった。(実は私の仕事も流通業と言ってもよいのではあるが)
 やがて神流川頭首工という場所に出た。「治水」の碑が建ち、川には三波石で石垣を組んである。水は緑の色が深い。関東農政局のHPには、こう書いてある。

水争いを解消するために埼玉県営用水改良事業(昭和十九~二十九年)により六カ所あった堰を統合し、神流川筋合口頭首工(現在の神流川頭首工)が出来ました。また、国営埼玉北部農業水利事業(昭和四十二~五十五年)等により頭首工の改修、畑地かんがい施設の整備が図られてきましたが、築造後約五十年が経過し、老朽化や損傷している部分もみられるため、改修が必要となっています。

 案内板によれば、山が平地に変化するこの辺から下流にかけて、扇状地のために水が地下にもぐってしまう。そのため、渇水期には農業用水の確保が難しく、群馬県側三か所、埼玉県側三か所の堰での水争いを続けてきたのであった。

群馬県、埼玉県および長野県が境を接する三国山の北麓に源を発し北へ流れ、後に東に流れを転ずる。途中下久保ダムによって堰き止められた神流湖から群馬県・埼玉県の県境となる。下久保ダム直下の流域は三波石峡と呼ばれ、合流する三波川とともに三波石の産地として知られる。藤岡市のあたりから流れは緩やかになり、埼玉県児玉郡上里町の群馬県佐波郡玉村町との境界付近で烏川に合流する。(ウィキペディア「神流川(利根川水系)」

 ここにも書いてあるように、三波石がごろごろしている。石垣や、民家の塀の基礎部分に良く使われているようだ。水が緑色なのもこの石のせいかも知れない。先月の日向山でもこの石の事は教えて貰ったが、青緑色の結晶片岩である。ところどころに白い筋が入る。

三波石には、青緑色の緑泥片岩・黄緑系の緑簾石片岩・白系の石英片岩・赤系の紅廉石片岩・黒系の石墨片岩などがあります。鬼石町神流川の三波石峡・荒川の長瀞は結晶片岩の名勝地で国の天然記念物になっています。これらの結晶片岩は三波川結晶片岩と名付けられ、中央構造線の南側に沿い、関東から九州まで細長く分布しています。関東地方では埼玉県長瀞~群馬県鬼石町三波川~下仁田町青岩まで連続し、その延長は長野県諏訪~赤石山脈西縁を経て、紀伊半島、四国、九州へと続きます。
この三波川結晶片岩は、古生代後期~ジュラ紀に堆積した秩父帯秩父中古生層の岩石(泥岩・砂岩・玄武岩質凝灰岩・チャート)が、プレートの沈み込みにより地下二十~三十キロメートルの深さに潜り込まされ、温度二百~三百度、圧力六百~七百気圧のもとで変成され、形成されたことがわかっています。この圧力は郵便切手の面積に十トンの重さがかかったものと言われます。すなわち、三波川帯は高圧低温で形成されたもので、薄く剥がれる片理がよく発達しています。この変成作用はジュラ紀後期~白亜紀前期(約一億年前)に行われたと考えられています。三波石の結晶片岩の色調の相違は原岩の相違により変成鉱物が異なるためです。
(「石材図鑑」http://www.hirahaku.jp/web_yomimono/geomado/sekiz26.html)

 川を右手に見て歩くと小さなカモが泳いでいるのが見える。サギも飛んでいる。すぐそばの畑には菜の花が咲いている。

  菜の花や三波の石に日の光  蜻蛉

 用水管理事務所の塀には、「埼玉県北部用水管理事務所」と、もうひとつ「九郷用水管理事務所」のプレートと、二つが並んで嵌めこまれている。おそらく、もとは九郷だったのだろうと思われる。
 緑道の終点のような場所は、廃線の跡である。そこからすぐに、新宿の交差点に出た。「シンシュクです。濁りません」と小町が宣言する。「川越にはアラジュクがありますよね」新宿はどこにでもあるが、読み方は色々だ。
 交差点を渡って国道四六二を南に進む。ここは登りの坂道になる。さすがに国道だから、大型トラックが頻繁に通る。寺院のような立派な屋根を持つ家があって、全員が驚く。民家の庭には紅梅が咲き、馬酔木、沈丁花が咲いている。
 三十分ほど歩いて、ようやく金讃(かなさな)神社の入り口に到着した。延喜式神名帳に記された式内社で、武蔵国の二之宮と言う。「三の宮はどこでしょうか」ダンディの疑問には答えられない。
 武蔵国一之宮は大宮氷川神社だという前提での疑問だが、ところがネットで調べると意外なことに突き当たる。多摩市の小野神社も武蔵国一之宮を称しているというのである。面妖なことだ。小野神社が主張する根拠には府中の大国魂神社が関係しているのだ。
 大国魂神社は武蔵国六社を祀る。そこでは小野大神(一)、小河大神(二)、氷川大神(三)、秩父大神(四)、金佐奈大神(五)、杉山大神(六)となっているのだそうだ。これに従えば大宮氷川神社は三の宮で、ここ金讃神社は五の宮になる。常識を覆されて困惑してしまうのだが、分からないときはウィキペディアのお世話になるしかない。

一般に武蔵国の一宮は当社とされているが、大國魂神社(六所宮)の祭神や南北朝時代の『神道集』の記述では、多摩市の小野神社を一宮、あきる野市の二宮神社(旧称小河大明神)を二宮、氷川神社を三宮としており、今のところ中世まで氷川神社を一宮とする資料は見つかっていないとされる。室町時代に成立した『大日本国一宮記』では氷川神社が一宮とされており、室町時代以降、当社が小野神社に替わって一宮の地位を確立したのではないかと考えられている。(ウィキペディア「氷川神社」より)

 氷川神社が三番目だったというので、なんだか残念な気持ちが少し起きるのは、埼玉県人としてのパトリオティズムによるのだろうか。一之宮が時代によって変わったのは、アテヅッポウで考えれば、国衙の盛衰と関係するのではないだろうか。武蔵国の国衙は府中にあったから、そこに近いものが一之宮とされたのは納得のいく話だ。しかし荘園制の発達、東国における武士の台頭、そして南北朝から戦国に移る時代の流れのなかで、国衙の力はほぼ完全に息の根を止められる。そのとき、国衙に近いということには何の利益もない。そして理由は分からないが、一之宮という尊称自体も氷川神社に移ったのではであるまいか。
 石造りの大鳥居の柱は直径一メートルほどもある。典型的な明神鳥居の形だ。裏に回って柱に打ちつけられている板を見ると、「昭和五十八年建之。宮司金讃和夫」と書かれている。宮司が金讃さん、つまり相当古い家柄だと想像される。
 真っすぐの参道を行くと、二の鳥居は、同じ石造りでも素朴な神明鳥居の形だ。笠木は真っすぐの円柱で、貫は角柱で柱を貫かず、柱はほぼ垂直に建っている。
 左手の彩香橋から下を眺めると、石垣の間を小川が流れている。そこからヒョロヒョロと澄んだ鳴き声が聞こえ、口から吐き出すように水面から水が噴き出ている。「なんだろう」「カエルかな」宗匠と二人で悩んでいたが、これはカジカだったようだ。カジカには魚(カサゴ目カジカ科)と蛙と両方存在するが、この鳴き声はカジカ蛙のほうである。

 アオガエル科のカエル。渓流の岩の間にすむ。体長は雄が四センチ、雌が七センチくらい。背面は灰褐色で暗褐色の模様があり、腹面は淡灰色または白色。指先に吸盤がある。五月ごろから繁殖期になると、雄は美声で鳴くので、昔から飼育される。本州・四国・九州に分布。かわず。(デジタル大辞泉「河鹿蛙」より)

 姿は見えないが、本当に笛を吹くように綺麗な声を出すのである。私は初めて聞いた。五月頃の繁殖期によく鳴くので夏の季語になっていると言うのだが、今の季節にこんなにきれいな声で鳴くのは、地球温暖化と関係があるか。

 河鹿鳴いて石ころ多き小川かな  子規

 子規の句の「河鹿」には「かわず」とルビを振ってある。小川の向こうの丘には梅が咲いている。森閑とした広い境内に、私たちのほかには誰もいない。本当はここでゆっくりと見学しながら散策をしてみたいのだが、今日は時間が足りない。
 右手の石段の上には、杮葺二層の多宝塔が建っている。説明板に書かれた文を引用する。

 金鑚神社の境内にあるこの多宝塔は、三間四面のこけら葺き、宝塔(円筒形の塔身)に腰屋根がつけられた二重の塔婆である。
 天文三年(一五三四)に阿保郷丹荘の豪族である阿保弾正全隆が寄進したもので、真柱に「天文三甲午八月晦日、大檀那安保弾正全隆」の墨書銘がある。
 この塔は、建立時代の明確な本県有数の古建築であるとともに、阿保氏に係わる遺構であることも注目される。塔婆建築の少ない埼玉県としては貴重な建造物であり、国指定の重要文化財となっている。

 安保氏(阿保とも書く)は丹党の流れをくむ一族だ。それよりも、神社の中に多宝塔が建っていることに注目すれば、明らかに神仏混淆の跡と見ることができる。多宝塔は多宝如来と釈迦如来を祀るものだからだ。国の重要文化財に指定されている。
 義家橋という朱の欄干の小さな橋を渡る。八幡太郎が戦勝祈願をしてこの橋を架けたという伝説がある。十段程の石段を登り、鳥居をくぐる。正面に見えるのは神楽殿だが、左の水舎で手を洗い、句碑を見る。

 美しく老ひたし峡の鰯雲 白陽

 碑の裏面に回れば、柴田白陽氏の説明が書かれている。埼玉県の人であったが、俳人としてどういう位置にいるのかは分からない。
 八段の石段を登れば拝殿である。隊長と宗匠は丁寧に拝み、私はその後ろから覗き込む。拝殿の後ろにあるのは中門で、背面がすぐに山の斜面にくっつくように建っている。つまり本殿がない。山そのものが神体なのであって、神社発生の最も原初的な形を残している。
 理由は分からないが、芭蕉の「行春や鳥啼魚の目は涙」の句碑があって、こういうものを見るとがっかりしてしまう。「奥の細道」とこことはまるで関係ないだろう。次は鏡岩を見るために、ヤマトタケルの小さな石造の所から長い石段を登らなければならない。(特に強制されたのでは勿論ない)
 石段にとりかかる所にヤマトタケルの像があるのは理由がある。そもそもこの神社の由緒を尋ねれば、ヤマトタケルが東征の帰り、火打金(伯母のヤマトヒメから貰ったもの)を納めたことに始まるのである。(勿論、信じる必要はない)
 石段の右手には句碑が等間隔に並んでいる。階段を登りながらだからゆっくり鑑賞している暇はないが、ほとんど名前の知らない、それに余り大したものではないような(私の観賞眼は信じなくても良いが)句碑が並んでいるのだ。碑を立てる権利金(寄進)によって、自分を記念しようとするものではないか。これが「句碑の丘」である。左側には、思い出したように、所々に道祖神や布袋の像が立っている。赤ん坊のような牛若丸なんていうのもあるのは、何故なのか理由が分からない。
 それにしても石段は延々と続き、やや後悔し始めた。帰ろうか。しかしイトはんが登っているのである。赤頭巾ちゃんも追いかけてくる。頑張らなければならない。汗が出てくる。相当な段数を登った頃、やっと先頭の中将やダンディが立ち止った。あれが頂上か。下の案内板には約四百メートル登れば鏡岩だと書いてあった。まさか標高で四百メートル登ったわけではなく、石段の距離が四百メートルということだ。
 ここが鏡岩というものであった。横から見ると確かに斜面が磨いたようになっている。一億年前に起きた断層活動の滑り面だという。もう少し上から見下ろすと、ただの赤茶けた岩肌にしか見えない。横から見るのが一番のようだ。「こんなものなの」イトはんは少しがっかりして、少し後れてきたカズちゃんに「横からがいいわよ」と言っている。御嶽の鏡岩は国の天然記念物に指定されているので、ちゃんと知識がある人にとっては貴重なものかもしれないが、私たちにはあまり縁がなさそうだ。もう少し先に行けば展望台があるらしいが、そちらには行かず、中将の指示に従ってまた石段を降りる。
 下では小町と伯爵夫人が待っていた。「疲れたでしょ」と小町がチョコレートを配ってくれるが、勿論私は戴かない。「どうして、ウィスキーも入っているのに」「でも要らない」そのやり取りを聞いて、ダンディが「この人は異常なんですよ」と断定する。
 境内を出て道を回り込めば、金讃大師の山門があるが、外から見るだけだ。正式には金讃山一乗院大光普照寺、天台宗、金讃神社の別当寺であった。別格本山だというから格式の高い寺だと思われる。十一面観音と元三大師(慈恵大師)を本尊とするらしい。ここもじっくり見学したい場所である。
 予定の三時に丹荘駅にたどり着くためには、バスに乗るしかなさそうだというのでバス停を探しながら歩く。元気村という場所を横目で見ながら坂道を降りても停留所はない。途中、家が立ち退いた後のような場所に、白い枝垂れ梅が見事に咲いていた。やや黄色がかった蕾が残る中、真っ白い花が咲いている。垂れた細い枝が薄緑なので、全体的に淡い色の配色が何ともいえず素敵だ。こんな梅は初めて見る(と私は思う)
 左前方に浅間山の白い山肌がくっきり見える。

  残雪の浅間光るや道遠し  快歩

 そろそろ疲れてきた。「バス停はすぐだよ」と、さっき誰かが言っていなかったか。歩いても歩いても、商店らしきものの影が見えない。この辺のひとはどうやって生きているのであろうか。珍しく自動販売機を見ると少しほっとする。やっと信号が現れ、それを曲がると先頭集団が停留所に立っている。青柳小学校の向かいであった。
 ここからなら駅まで十分程度だと中将が言うものだから、それならバスにのらなくても間に合うと隊長が判断した。「緑道を歩きましょう」これは上武鉄道日丹線の跡である。ダンディは廃線跡が好きだから、朝から楽しみにしていたようだ。「健康緑道」と名付けられてはいるが、道も舗装されており余り「緑」の感じはしない。普通の遊歩道である。
 案内板によれば、昭和十六年九月、渡瀬地区の「日本ニッケル」(現朝日工業)から八高線の丹荘駅までの間で製品・資材輸送のため開業した。昭和二十二年には小型木造客車を連結して旅客輸送開始したが、昭和四十七年十二月、利用客激減のため旅客輸送廃止、六十一年十二月には全線廃止となった。途中駅は神川中学校前、青柳、寄島であった。
 梅の花弁を潰してママゴトをやっていた、幼稚園か小学生くらいの女の子三人に声をかけると、怪しい集団に怯えながらも「こんにちは」と返事が返って来る。自転車で通る中学生が、次々に「こんにちは」と挨拶をしてすれ違う。
 ダンディの足は速い。それに赤頭巾ちゃんが追いついて二人で飛ぶように前を行く。後ろ姿はあっという間に豆粒のようになってきた。「みんな早いのね、どうして」イトはんが息を切らせている。「ビールが呼んでいるんだ」

 春風に吹き飛ばされて赤頭巾  蜻蛉

 赤頭巾ちゃんの足が速いのは、「ゆっくり歩いていると、テレンとしちゃって」駄目なのだそうだ。山を駆け下りる姿や、こうして飛ぶように行く姿を見ると、私は石森章太郎『猿飛エッチャン』を連想してしまう。
 民家の塀際には、ネコヤナギのビロードのような花穂が銀ねずみ色に光っている。「神川中学校前」という短いホームは元の姿だろうか。ほんの七八メートルしかない。次の駅が丹荘である。イトはんは疲れてきた。ドクトルも疲れ、私も疲れた。漸く風が冷たく感じられるようになってきた。

 急ぎ行く廃線跡に猫柳  蜻蛉

 遊歩道が終わっても、まだ真っすぐな道は続く。漸くそこを抜け左に曲がると八高線の踏切に出た。今朝、道路元標を見たあの懐かしい踏切である。あと百メートル。やっと駅に着いた。
 宗匠の万歩計で二万三千歩、後半の歩幅の伸びを考えれば、十四キロか十五キロ程になっただろう。(後で地図に糸を張って線を描いて確認すると、やはり十五キロ程だった)「足の裏に肉刺ができちゃった」と宗匠が嘆く。「もうだめ」とドクトルが弱音を吐く。イトはんも草臥れ果てた顔で到着した。三時三十五分である。
 十分ほど待って下り高崎行きに乗り込む。中将・小町夫妻は車を置いてあるからここでお別れである。伯爵夫人は高崎方面に向かう理由がないから、八王子行きを三十分ほど待たなければならない。残り八人が大宮を目指す。大宮までは、倉賀野から湘南新宿ラインに乗り換えて千四百五十円。朝は、東上線と八高線を使って八百八十円だった。飲んだ後は、大宮から川越が三百二十円かかる予定だから、本日の交通費は二千六百五十円である。埼玉県の西北部をぐるっと一周したことになる。
 大宮に向かう電車の中でロダンは居眠りを始め、可愛いと言われている。桃太郎が谷川岳に行ってしまって欠席だから、ロダンが本日の最年少者である。これでも会社では偉そうな顔をしている(と思う)年齢なのだが。
 大宮駅についたのは六時少し前だ。いつもより出足が遅いが「さくら水産」の二階に八人が入ることができた。「楽しいわね」とイトはんが喜ぶ。今日も酒が旨い。二千円也。


 タケノコイモは日曜日に妻が煮てくれた。味は里芋に似ているが、ぬめりがなく、ホクホクした食感はサツマイモのようでもあり、なかなか旨いものであった。妻も旨いと言った。

眞人