平成二十二年三月二十七日(土)  小川町仙元山

投稿:   佐藤 眞人 氏     2010.03.30

 八時五十九分に鶴ヶ島で電車に乗り込むと、目の前にドクトルが座って資料を一所懸命点検している。坂戸で古道マニアも乗ってきた。途中、つきのわ駅で大集団が降りて行った。古道マニアの話では、東武健康ハイキングという催し物があるのだ。私たちのコースと一部微妙に接近していて、十五キロほど歩くらしい。

 春うららリュック賑わう電車かな  千意

 小川町駅には九時半に着いた。降りるときに、同じ車両にスナフキンが乗っていることに気がつく。次の電車だと九時五十六分とギリギリになってしまうから、やはり小川町はちょっと不便だ。その五十六分で到着した組も含めて集まったのは、隊長、宗匠、望遠鏡、恩田、多言居士、コバケンさん、チイさん、桃太郎、古道マニア、スナフキン、三四郎、ダンディ、講釈師、ドクトル、若旦那夫妻、あんみつ姫、ロザリア、椿姫、伯爵夫人、蜻蛉の二十一人である。
 女性が少ないのは、明日のネイチャー・ウォークへの参加を予定しているためだろう。確か小町夫妻もそちらの方へ参加すると言っていたようだった。「ここは遠いよ」とスナフキンは愚痴を言うが、コバケンさんとロザリアはもっと遠いところから来ているのである。
 あんみつ姫は足の爪が割れているのに参加した。これも義のためであろう。椿姫は去年の六月に竹寺で精進料理を食べて以来だ。それからずっと放り込んでいた貝塚爽平『東京の自然史』をやっと渡すことができて、私のリュックは何百グラムか軽くなった。二三度ページをめくってみたものの歯が立たなかった本だ。地学に造詣ある椿姫ならば充分に読みこなすだろう。
 その貝塚爽平の本をバイブルのように大切にしているロダンは、ギックリ腰が発症して無念の欠席である。私も二十七歳で初めて経験して以来、数年に一度は動けなくなる。これは辛い。桃太郎は久しぶりに山を諦めてこちらに参加した。「だって、忘れられちゃ嫌ですからね」
 駅から延びる道の舗道には、万葉の歌と所縁の植物や史跡を記した歌碑が、等間隔で設置されている。「こんなところに何故だろう」ダンディと同じように私も以前から気になっていたのだが、漸く分かった。

当地小川町は、和紙の里として知られるが、鎌倉時代の学問僧「仙覚律師」ゆかりの地でもある。仙覚は、中世の万葉研究家として高く評価される人物で、特に当地(増尾地区)にて国文学史上第一級の業績『萬葉集註釈』を完成させている。あらためて言及するまでもなく万葉集は、古事記、日本書紀とともに、我が国の黎明期における国や人々の生活の有様を現在に伝える貴重な文化遺産であるが、仙覚は若くしてその万葉集の研究を志し、鎌倉以前に散存していた万葉諸写本を校合して底本を作成、注釈を加えるなどしている。この地道な作業は、結果として万葉の全体像を今日に伝えることになり、仙覚は万葉集伝来の最大の功労者として讃えられているのである。
(仙覚万葉の会)http://manyo.web.infoseek.co.jp/sengakumanyonokai.htm

 仙覚は常陸国の生まれとも、比企氏の出身であるとも言われる。私は万葉集には疎くて、万葉の研究は江戸時代の契沖等の国学に始まると思っていたが、もっと以前から始まっていたのである。しかし冷静に考えてみれば、実朝にも、新古今風というよりむしろ万葉振りと言う方が相応しい歌があるからには、鎌倉時代に万葉が読まれていたことに気づかなければならなかった。それに実朝が定家から新古今集と万葉集を貰ったことだって知っていた筈で、この辺りが私の知識の片寄と想像力の欠如である。
 ついでに、私が乏しい知識で実朝の万葉振りというのは、「大海の磯もとどろに寄する波われてくだけてさけて散るかも」とか「山は避け海はあせなむ世なりとも君に二心我あらめやも」とかである。この二つ目の歌は後鳥羽院への忠誠を歌った歌で、後に承久の乱を迎えることになる鎌倉幕府にとっては、片腹痛いものであった。余りにも政治音痴の三代将軍は結局北条氏によって殺されなければならない。余計なことだが、この「山は裂け海は褪せなむ」を読むと、私は『愛の讃歌』を連想してしまう。

 万葉を訪ねて比企は春うらら  蜻蛉

 割烹旅館「二葉」の前には御飯神社という小さな祠を祀り、「忠七めし」の立札を立てている。御飯神社という名称にも驚くが、日本五大飯の一であると言うのが不思議である。「とろろ飯じゃないか」「釜めしは」いろんなことを言うが、全部外れだ。まず「忠七めし」を調べなければいけない。

 「忠七めし」は気骨ある料理人だった当家八代目館主・八木忠七と明治の偉傑・山岡鉄舟居士との出会いから生まれました。鉄舟居士は父の知行地・小川町竹沢を訪れる折々、必ず当館に立ち寄られ忠七の調理する料理を食べながら酒を飲まれるのが常だったという事です。ある日、忠七に向って居士は「調理に禅味を盛れ」と示唆され、それを受けた忠七が苦心に苦心を重ねた上創始致しましたものが「忠七めし」でございます。
 鉄舟居士が極意を極めた「剣・禅・書」三道の意を取り入れ、日本料理の神髄である「風味と清淡」とを合致させたものでこれを居士に差し上げました。ところが、「我が意を得たり」と喜ばれて、「忠七めし」と名付けられました。
 http://ogawa-futaba.jp/chiyushichi-1.htm

 山岡鉄舟や「剣・禅・書」を持ち出してくる辺り、随分大層な代物のように思える。しかし「お茶漬けですよ」と古道マニアがあっさりと言い切る。宗匠も食べたことがあるらしい。熱い御飯に何種類かの薬味を載せ、出汁を掛けて食うものである。山葵に剣の鋭さを、海苔に禅味を、柚子に書の精神を見ると言われれば、フーン、そんなものかと思うしかない。「俺は鰻の方が好きだよ」と酒を飲まない講釈師は当然のように言う。
 そして「日本五大飯」とは、昭和十四年、宮内省の郷土料理調査において日本の代表的な郷土料理として選ばれたものである。サヨリ飯(岐阜)、深川飯、うずめ飯(津和野)、かやく飯(難波)、そしてこの忠七飯だ。
 (http://d.hatena.ne.jp/keyword/%C6%FC%CB%DC%B8%DE%C2%E7%CC%BE%C8%D3より)
 宮内省が何故こんな調査をしたのかは不明だ。うずめ飯というのは知らなかったので、調べて見た。

まず、シイタケ、ニンジン、かまぼこ、豆腐をさいの目に切り、昆布だしで煮て、塩や薄口しょうゆで吸い物よりやや濃いめに味つけをする。この具を、茶わんの底に三分の一ほど入れ、おろしワサビ、セリの小口切り、もみノリをのせ、さらに炊きたてのご飯をよそい、ふたをしてしばらくおく。そして、よくかき混ぜて食べる。
http://www2.pref.shimane.jp/kouhou/esque/26/menu07a.html

 ついでに岐阜のサヨリ飯というのは、サヨリではなく焼いた秋刀魚を混ぜた炊き込みご飯なのだ。お菜の皿を並べるのではなく、茶碗のなかに何でも詰め込んで、一気に食べようとする。深川飯も含めて汁かけ飯が三種類、炊き込み飯が二種類、要するにこれら全ては掻っ込み飯である。結局は貧しい食である。「日本五大飯」に選ばれてしまったことは決して名誉ではない。

 古い建物が目立つ道だが、古道マニアによれば、この辺を歩いていればそこら中にこういうものを見ることができる。古い町なのだ。武蔵の小京都を自称し、小川町の公式サイトを見てみると、全国小京都会議というものに五十一番目として入会した。埼玉県では同じ比企郡の嵐山町も会員になっている。
 この加盟基準には条件が三つあり、そのどれか一つに合致していればよい。京都に似た自然と景観、京都との歴史的なつながり、伝統的な産業と芸能があること、の三つである。小川町の場合、山に囲まれた盆地に近い地形であり、先に書いた仙覚と万葉のつながり、酒と和紙と祇園祭、つまり、三つの条件を網羅していると主張する。
 真っ白なシデコブシ(幣辛夷)と黄金色の山茱萸が一本づつ咲いている角を曲がる。
 本町通りに入って川を渡るとすぐに円城寺に着く。曹洞宗、北青山圓城寺。「三井寺はオンジョウジと読みますが」と上方のダンディが首を捻るが、案内板にはエンジョウジとルビを振っている。
 境内に入って隊長はすぐに墓地の入り口まで進んでいく。二連の青石塔婆を見るためだ。蓮台に載った阿弥陀一尊種子の板碑を二枚貼り合わせたような形で(ただし石は一枚だと思う)、私はこの形は初めて見る。それが二つ並んでいる。小川町にはこうした二連板碑が七基残っていると言うことだ。
 「キリークです」と私が一つ覚えの種子を口走ると、宗匠も種子の史料を取り出して「これだよね」と見比べる。「その下はなんだい」光明真言が彫られているのだが、右側の蓮台から下にかけて、磨いたように白くなっているので、それでなくても読める筈のない梵語がなおさら判読できない。
 右は正中二年(一三二五)の銘と沙弥円阿の名、左は貞和二年(一三四六)の銘と比丘尼道阿の名が刻まれ、夫婦の追善供養のため建立されたものと伝えられる。この夫婦が円城寺の開基になる。一向宗を例外として、当時の僧侶は建前としては不犯である。夫婦で寺を開基したのであれば僧侶ではなく、名前から判断しても俗人だと考えられる。この地方の名主クラスの夫婦だろう。
 「山形になってませんね」古道マニアはよく見ている。板石塔婆は上部が三角形になっているのが普通だと思うが、これは平らだ。理由は不明である。
 その左手の方には無縫塔の墓石が三基並び「和尚」の名が読めるので、この寺の住職のものだろう。享保元年と十九年の記銘が読めた。
 八高線を横切ると、単線で架線がないから確かに電化していないことが分かる。小川には小さなオタマジャクシがうようよ泳いでいる。

 尾をふりて春の小川に蛙の子  千意

 「俳句じゃ難しい言い方するんじゃないですか」姫の質問を受けた宗匠が、なぜか黙って私を指差す。「蝌蚪です」ただ、私はおたまじゃくしの卵のことを言うものだと思い込んでいて、そう言ったのが実は間違いだった。蝌蚪はおたまじゃくし自体のことを言う。十七文字という制限があるからできるだけ短い言葉を発明したのだろうが、一般に知られない言葉を使っても、俳句に縁のない人の共感を呼ぶのは難しい。可愛らしい感じを出すにはチイさんのような言葉の方が良いのではないか。
 山道に入る辺りには小さな朱塗りの鳥居が立ち、その傍らには庚申大神と彫られた石が置かれている。草むらにはヒメオドリコソウが群れ咲いている。当然、ホトケノザもオオイヌノフグリも一緒に群れている。野原は春に包まれている。
 この辺から登りに入る。「私の高度計では、現在地は百十メートルです」とダンディが宣言する。これから登る仙元山の標高は二百九十八・九メートルだから、百九十メートルほど登ることになる。「気圧によっても違うはずだけど、ちゃんと合わせてくるんですか」「家で合わせてきます」
 「咲くやこの花。知りませんか」ダンディが訊いてくるが答えられない。「誰でも知ってるんですが」そのうち、ダンディ自身が思い出す。難波津に咲くやこの花冬籠り今は春べと咲くやこの花。「咲くやこの花が二回出てくるんですよ」今の季節に相応しい。「だけど作者は王仁、帰化人ですよ。それで和歌を詠むんですね」ダンディは古典に詳しい。競技カルタの序歌だというから、なるほど有名なのだろう。知らない私が無知である。宗匠も知っていたから少し悔しい。

 珍しく望遠鏡を持っていない望遠鏡氏が「あれはなんでしょう」と指差すのは、ネコノメソウだろう。「トウダイグサとは違いますか」と彼は言うのだが、実は私はこのふたつの区別がつかない。それでも恩田さんと多言居士がネコノメソウだと断言するから良いのだろう。白い小さな花がびっしりと咲いているのはセントウソウだ。「先頭切って咲くんです」と恩田さんが教えてくれる。セリ科セントウソウ属である。
 白いスミレはなんだろう。二三年前に講釈師がくれた図鑑のコピーを取り出しても該当するものがない。なにしろスミレの種類は多すぎて判別は容易ではない。しかし多言居士は「アケボノスミレだと思う」と言う。紫のものは普通のタチツボスミレで良いと思う。「だと思いますよ」と恩田さんも承認してくれた。

 泥濘に一輪白きすみれ草  蜻蛉

 早くも遅れ加減になって、最後尾を歩きながら「暑くなっちゃった」と椿姫が上着を脱ぎ、汗を拭う。それを上の方から双眼鏡で覗きこんでいた人がいるらしい。上着は私が持ち、リュックは桃太郎が胸に抱えるように肩にかけた。歌の通りに「気はやさしくて力持ち」なのである。
 喧嘩相手のロダンがいないから、今日の講釈師の矛先は椿姫に向かう。「なんだい、強力を従えて来たのか。山に来るならもっと体型絞らなくちゃ」「ひどいわね」足を引き摺るようになったあんみつ姫にも、「足が痛かったら来るんじゃないよ、バッカじゃないの」と言いながらストックを貸してくれる。口と行動に差がありすぎるが、彼の心理状態は実に分かりやすい。
 幹にびっしりとキクラゲが生っている木を見れば、「取って行ってラーメンに入れれば良いよ」と多言居士が言う。「キクラゲなんて乾燥しているのしか見たことがないですよね」桃太郎の言葉に、「ホント、これって乾燥してないわね」と椿姫が反応する。「干しシイタケだって、干したまま生ってはいませんからね」桃太郎の言葉に椿姫が笑い転げる。
 頂上までもう少しのところで、遅れている二人の姫を待つ。汗を拭きながら追いついてきた椿姫が、「もう駄目、ここで待ってる」と言いだしたが、「もうすぐだから、そんなこと言っちゃだめだ」と講釈師が叱りつけるように言う。
 「ガビチョウだよ」多言居士の声で、ピョーピョーと良く響く鳴き声に気づく。それに混じって他の鳥の声も聞こえる。宗匠の判定では鶯であるらしい。

 頂きはもう少し鶯の声  快歩

 ほんとに頂上はすぐそこだった。山の好きな人は遠くの山を指差しながら、山の名前を確認しているかと思えば、「あれはホンダの工場だよ」という声もして、なんだか変だ。ドクトルが上越国境の写真に山の名前を入れてくれたので、転記させてもらう。東から巻機山、朝日岳、白毛門、谷川岳、茂倉山、子持山、万太郎山、仙ノ倉山。ほとんど聞いたこともない名前ばかりだ。
 「これ何だっけ」白い穂を付けたイネ科のような草だ。「名もない、ごく一般的な、そこら中にあるものじゃないの」と私は無責任なことを言う。「この間、教えて貰ったんだけど」と宗匠が悩んでいると、隊長が思い出した。「ヒメカンスゲだよ」
 あんみつ姫がヒノキの実を拾ってくれたので、掌に載せたままで写真を撮ると「指紋まで分かってしまう」と笑う。茶色で表面がいくつかの部分に大きく割れていて、マツボックリのようでもあるが、もっと丸くて小さい。むしろ濃い醤油味の固いオカキにこんな形のものがありそうだ。
 少し下って日の当たる斜面で、谷底を見るように座って昼飯だ。谷から吹き上げる風が少し冷たい。広げようと思うビニールシートが風で翻る。「俺も出そうかな、だけど専用だから、誰も座らせてやんない」と講釈師がリュックから出したのは、本当に可愛らしいビニールシートだった。確かにこれでは一人しか座れない。「孫のものを盗んできたんでしょう」
 弁当を終えれば、チイさんは夏ミカン(八朔かな)を、恩田さんがオレンジを配給してくれる。あんみつ姫は煎餅を、望遠鏡氏は塩味のポテトチップスを回してくれる。いつもいつも有難いことである。

 佐保姫の裳裾広がる昼餉時  蜻蛉

 「下里のオオモミジ」というものがある。「モミジって楓のことですか」「モミジは総称だろう」樹齢推定六百年という幹の本体は枯れて中が空洞になっているのに、ちゃんと翼果がついているからまだ生きているのである。「根が生きてるんですよ」
 説明板には昭和三十八年当時、この木の横に立つセーラー服姿の娘二人の写真が掲載されている。あの頃の、ちょっと田舎風のがっしりした女学生である。「これは椿姫じゃないのかい」「まだ痩せてるじゃないか」「私たち、まだ生まれてませんよね」女性二人はとんでもない大ウソをつく。「トウネン取ってじゃないの」多言居士が笑うが、「トウネンどころではありません」と私も更に追及する。「でも、スカートで登ってるんですね、私たちはこんなにゼイゼイいって登ってきたのに」昔の女学生は元気だったのだ。
 キブシ(木五倍子)の花は不思議な形をしている。枝からいくつも穂が垂れ下がっていて、その穂が、小さな提灯をいくつも積み重ねたようで、それが並んでいる形が面白い。「初めて見た」というのがチイさんだ。私はどこかで教えられたような気がするが、忘れていた。豪農が知らないのだから、やはり珍しいものであろう。

キブシ(木五倍子、学名:Stachyurus praecox)は、キブシ科キブシ属で雌雄異株の落葉低木。別名キフジとも。三~五月の葉が伸びる前に淡黄色の花を穂状につける。花茎は枝の各節から出て垂れ下がり、それに一面に花がつくので、まだ花の少ない時期だけによく目立つ。この花芽は、夏の終わり頃にはすでに出てくる。和名は、果実を染料の原料である五倍子(ふし)の代用として使ったことによる。(ウィキペディア「キブシ」より)

 やがて薄い赤紫色のカタクリの花が、間隔をあけて少しづつ咲いているのに出会う。「花を取ってはいけない」という看板があるが、写真は良いだろう。そばまで近づいてカメラを構えていると姫に叱られる。「土を固めるからダメなんです」

 履を納れマクロ撮りかたかごの花  快歩

 ここは見晴しの丘公園であった。二百メートルほどのローラー滑り台が設置してあり、古道マニア夫人がいれば早速滑ったかも知れないが、私たちは展望台に登る。この時間になると、遠くの山は少し霞んでいるようだ。もっともはっきり見えても私には区別がつかないのだから同じことだ。下に見る斜面の桜はまだ蕾が固そうで、開花までは少し時間がかかるだろう。「満開になったら綺麗でしょうね」「ホントに」
 暫く休憩したあと、また下り始める。

    春光やロザリアはゴミ拾ひつつ  快歩

 シイイタケのついたホダ木が並んでいるので、そばによって写真を撮っていると、「瓜田に靴を入れず」とダンディと宗匠から声が掛る。今日は「李下瓜田」が難しい。
 昨日の雨でぬかるんだ下りの道は歩きにくい。足の爪が痛いあんみつ姫は辛いことだろう。「おしゃべりしないで歩かないと、転んじゃうぞ」そう言いながら、講釈師は椿姫とのお喋りに忙しい。椿姫の笑い声は遠くまで聞こえる。
 墓地には全て梅澤と名のつく墓石が並んでいる。一族の墓地であろう。そこが八宮神社の裏手だった。「天忍日命(オシホミミノミコト)」など八柱を祭神としていることからこの名前があるという。隊長の説明には「ヤミヤ神社」と書かれているのだが、普通の読み方ではない。
 嵐山石仏調査会によれば「越畑八宮神社合祀改築記念碑」というものがあるらしい。越畑は嵐山町である。読みやすいように句読点と改行を施してみる。
 (http://satoyamanokai.blog.ocn.ne.jp/sekizoubututyousakai/2009/02/1925_234c.html)

八宮神社ト称シ比企郡中ニ鎮座スルモノ、八ヲ以テ数フ。
而シテ本社ハ則チ其一ナリ。謹ミテ舊記ヲ按スルニ、
聖武天皇御宇ノ創立ニ係リ、其後承平中、武蔵介源経基東征ノ途次、親ク戦勝ヲ祈リシト云。
明治四十年四月、無格社浅間神社、雷電社、明神社、宮司社、山神社、大天貘社、八大社、八幡社ヲ合祀スルニ及ヒ(後略)

 つまり明治以降、八つの神社を合祀したことに始まる新しい神社名であった。明治期の神社合祀は内務官僚主導による、地方改良運動の一環である。これに南方熊楠が反対したのは、いつかちょっと触れたことがある。普通は「ハチノミヤ」とか読ませれば良いと思うが、「ヤミヤ」と呼ぶらしい。
 「これって侘助ですよね」桃太郎は詳しい。椿とはちょっと違う、白侘助だった。ツバキとの違いは何か。

A.ウラクツバキ(タロウカジャ=ウラク)から生まれたものであること(ウラクツバキの子、あるいは子孫)
B.葯(やく・雄しべの先端の花粉を作る器官)が退化して花粉を作らないこと
上記のAB満たすものがワビスケと呼ばれる。
http://aquiya.skr.jp/zukan/Camellia_wabisuke.html

 こう言う風に厳密に定義されてしまうと、さて、私たちの見ているものは本当に侘助であるかどうか。本殿には、日露戦争従軍者を記念する額が掲げられている。
 宗匠の事前の調べでは、石原常八の彫刻が見もののようなのだが、それらしい彫刻はよく分からない。ところがネットで検索して、常八の彫刻を持つ八宮神社の写真を発見すると、私たちが見ている本殿とは屋根の形が違う。ネットで検索できる八宮神社は、実は別の場所にあった。私たちは国道二五四の南、槻川のちょっと西南辺りにいるのだが、たぶん、小川町の総鎮守であった八宮神社は、二五四の北側で、東上線の南側(住所は比企郡小川町小川九九〇)にある。私たちがいるのは、小川町下里だと思われるから、ここは分社に当たるのだろう。
 ここまで調べたところで、石原常八とは誰だろうと疑問に思わなければならない。「野田の愛宕神社でも見たじゃない」と宗匠に言われて反省する。私はまるで忘れていた。
 上州花輪村を本拠地として石原流(花輪流)を名乗った彫工の棟梁である。左甚五郎十代目の弟子とも言われるが、常八は初代から三代まで三人いるので、どれが十代目か分からない。ネット検索で知ったのだが、高尾山飯縄権現堂の彫刻は、初代常八を筆頭とする花輪村の職人集団の制作によるものだ。高尾山には二月に行ったばかりなのに、調べを怠っていると、意外なところでぶつかることになる。
 階段を下りて鳥居をくぐれば、幟棹の石柱に、割に新しい木の簪が取り付けられている。桃太郎に指摘されて気がついたが、実はこれを簪と呼ぶのも初めて知った。象鼻とも言う。その石柱に彫られた文字が読めないのも情けない。
 脇の空き地の奥の方に白い花が群れているのをロザリアが見つけて私を呼ぶ。どうも彼女は私が植物にくわしいと誤解しているようだ。二人でそばまで行ってみれば、ハナニラである。「きれいな花ね」私は何となく五弁花であるように思いこんでいたが花弁は六枚ある。どうも知識がいい加減だ。しかしロザリアが感嘆するように、白い花は清楚だ。
 そこからの舗道では、同じような格好をした集団と一緒になってしまう。たぶん、東武健康ハイキングの連中だろう。みんなカタクリの花を見に来ているのだ。また山道に入ると、そこはカタクリの里である。柵で仕切られた狭い道に人が並ぶからなかなか前に進まない。

 かれんなるああカタクリやカタクリや  千意

 カタクリもこれだけ一遍に見ると、なんだか有難味が薄れてしまうとスナフキンが嘆く。チイさんもヤケクソ気味になっている。

 かたかごの花ある限り人は群れ  蜻蛉

 カタクリの他にもニリンソウの白い花が可憐だ。「一輪なのにニリンソウなんだね」周りの知らない連中が言い合っているが、私も不思議だ。「付け根にもう一つ芽があるだろう」と隊長が注意を促す。「この葉っぱはお浸しにして食べるんですよ」恩田さんはこんなものを食べるのである。ニリンソウはキンポウゲ科イチリンソウ属。葉を食べるのは良いが、ウィキペディアによればトリカブトの若葉に似ていて、間違えると危ないと言う。
 「ムラサキケマンかしら」と椿姫が悩んでいるのは、ケマン(華鬘)ではなくエンゴサク(延胡索)である。「オーッ、良く知ってるじゃない」珍しく隊長に誉められる。ただ、ヤマエンゴサクであるという隊長と多言居士の判定に、恩田さんは図鑑を開いて疑問を感じる。「山だと葉の形が違うんですよね」薄い水色の細い花で、どうやら次郎坊エンゴサクではないかというのが、恩田さんの判定だ。「よく分からないけど」
 私が初めてジロボウエンゴサクを見たのは、平成十九年四月の加治丘陵だった。あの時の私もムラサキケマンかと思ったのを、桃太郎が訂正してくれたのだった。アズマイチゲも咲いている。
 なかなか前に進まずに、いつまでも花を見ている私たちに講釈師が業を煮やす。「早く進めよ、時間がルーズになっちゃう」講釈師本日初めての怒りに、「だってもっと見たいわよね」と椿姫が呟く。カタクリ祭の真っ最中で、揃いのジャンバーを着た連中が日本酒を飲みながら待機している。
 そして西光寺の脇に出る。曹洞宗。鐘楼門の前には、枝垂れ桜とハタンキョウがほぼ満開に咲いている。幹に括り付けられた札のお蔭でハタンキョウと知る。桃のような、八重桜のようにもみえる花だが、私は初めて見た。モディリアーニの人物の目がハタンキョウのようだというのは、誰かの批評で読んだ記憶があるのだが、さて、それでは何であるかという疑問ももったことがなかったのだ。巴旦杏と書く。

 西アジア原産といわれるバラ科の果樹。モモに近縁だが果実は小さく四~五センチ、扁平なのでヘントウ(扁桃)の名もある。果実の仁の甘い品種(甘扁桃)と苦い品種(苦扁桃)があり、前者はアーモンド、アメンドウともいって、食用。(マイペディア「ハタンキョウ」)

 アーモンドであったか。なるほど、ジャンヌ・エビュテルヌの眼はアーモンドの形である。私は特にジャンヌをモデルにした「大きな帽子を被った女」が好きだった、なんていうことを思い出してしまうが、スモモやプラムやアンズも似たようなものらしい。みんな、バラ科サクラ属である。

 鐘楼の門をふさぎて花杏  蜻蛉

 「こっちが角度が良いよ」と講釈師が呼んでくれる場所から、鐘楼門と桜、ハタンキョウがよく撮れる。本堂の内部の左の壁際の長押の棚には、閻魔が十王を従えている像が置かれている。
 今度は鐘楼門から出て少し行くと、坂道の前で、採れたての野菜を売っている。「俺はここでしか買わないの」多言居士は一袋百円の梅干しを七つも買っている。「だって、百円だよ、他じゃ買えないよ」ダンディはクレソンを買った。そこから山の方に少し登れば、「カタクリ・オオムラサキの林展示館」である。靴を脱ぐのは面倒だが、折角来たのだから狭い展示室に入れば、世界中の蝶の標本を展示している。面倒くさい人たちは、外のベンチで休んでいる。
 南アメリカの蝶は、なぜこんなにも色鮮やかなのだろう。「昔はシジミ蝶はよく見たよ」宗匠もスナフキンも言っている。私も子供の頃には見たような気がするが、今ではほとんど見る機会がない。
 「疲れがとれるわよ」と椿姫から、さっき買った梅干しが配給される。外に出れば、網で囲っているのはオオムラサキを育てている場所だろうか。「もういなくなっちゃったよ」確かに中には何もなさそうだ。
 小川に沿って歩くと、水の中にはクレソン(?)らしい植物がいっぱい生えている。「さっき売ってたのは、ここで採ったんじゃないの」私はクレソンというものを自覚して食べたことはないから、形状も良く分からない。
 道路から戻るような形で坂道が続いているのは、高西寺へ続く道だが、寺の境内には入れないと下見をしていた隊長が言う。しかし、この坂道に広がる野はカタクリの群生地なのだった。ちょうど坂の下から見上げる場所に花が咲いているから、角度が良い。開いている花の形が綺麗に見える。
 「Wがあるだろう」とドクトルが指差す。六枚の花弁の根元についている濃い模様が、言われてみれば、それぞれWのように見える。「これが学界でも大問題なんだよ」詳しい説明は忘れたが、上からは見えない筈が、赤外線か何かの影響で虫の目にだけは見えるらしいというような話ではなかっただろうか。
 ちょっと離れた龍谷薬師堂は閉ざされていて、十二世紀後半の昨だという薬師如来を見ることはできない。西光寺四世石春が堂を建て、薬師如来を安置したのである。「以前は開いてた」と講釈師が力説する。「龍谷」の文字を、道路わきの案内板(埼玉県)では「タツヤ」と読み、薬師堂前の説明(小川町教育委員会・西光寺)では「タテヤ」と読む。埼玉県と小川町とで判断が違う場合、普通ならば地元の読み方を尊重するのではないか。薬師堂の脇には小さな祠が作られ、見返り地蔵が立っている。少し頭を振りむき加減にしているのが珍しいのだ。やや身体をくねらせて斜め後ろを振り向いている地蔵は、少し色っぽい。
 三椏の花が多いのは、やはり和紙の里だからだろう。赤いものは園芸種で、黄色のほうが在来種であるという説がある。ただし、これも含めて矛盾する記事を見つけた。中国原産のジンチョウゲ科で、室町時代に渡来したとする説がある。もうひとつ、ウィキペディアによれば万葉の頃から存在するのである。

春の訪れを、待ちかねたように咲く花の一つがミツマタである。春を告げるように一足先に、淡い黄色の花を一斉に開くので、サキサクと万葉歌人はよんだ(またはサキクサ:三枝という姓の語源とされる)。(ウィキペディア「ミツマタ」より)

 どちらが正しいだろうか。更に調べればこういう記事を見つける。

産地はネパール、ブータンで中国を経由して日本に入ってきた。渡来の時期と万葉集の「さきくさ」が本当にみつまたかどうかは、いまだにミステリーである。「さきくさ」がみつまたであれば、渡来はかなり古い、しかし美しい花の割りに、万葉集に読まれている歌は極端に少ない。それで以前は室町以降に日本に伝わったという説が多かった。万葉集に「さきくさ」として山上憶良、柿本人麿歌集の二種の歌があるが、現在はこれをミツマタとする説が有力になり、万葉の時代にすでに渡来していたという結論になってきた。http://www.wood-deck.com/ga/ga0697.htm

 なんとなく、これが正解のような気がする。また、赤いのは園芸種ではなく、四国で発見された突然変異であるという説もあった。ともあれ万葉に二つしかないのであれば、調べようがある。

 春さればまづさきくさの幸くあらば後にも逢はむな恋ひそ吾妹  柿本人麿

 これは、駅前通りにある歌碑の四十五番に掲載されているのを見つけた。憶良の方は長い。どこに出てくるか分かりにくいので下線を引いてみた。「さきくさ」の単語はあっても三椏のことを直接言っているのではなさそうだ。

世間の 貴び願ふ 七種の 宝も我れは 何せむに 我が中の 生れ出でたる 白玉の 我が子古日は 明星の 明くる朝は 敷栲の 床の辺去らず 立てれども 居れども ともに戯れ 夕星の 夕になれば いざ寝よと 手を携はり 父母も うへはなさがり さきくさの 中にを寝むと 愛しく しが語らへば いつしかも 人と成り出でて 悪しけくも 吉けくも見むと 大船の 思ひ頼むに 思はぬに 邪しま風の にふふかに 覆ひ来れば 為むすべの たどきを知らに 白栲の たすきを掛け まそ鏡 手に取り持ちて 天つ神 仰ぎ祈ひ祷み 国つ神 伏して額つき かからずも かかりも 神のまにまにと 立ちあざり 我れ祈ひ祷めど しましくも 吉けくはなしに やくやくに かたちつくほり 朝な朝な   言ふことやみ たまきはる 命絶えぬれ 立ち躍り 足すり叫び 伏し仰ぎ 胸打ち嘆き 手に持てる 我が子飛ばしつ 世間の道

 あとは駅に向かうだけである。姫ふたりは随分遅れがちになってきた。「冷たいよな、みんな。山の中じゃ心配してる振りしてたのに、今じゃ見向きもしないでさっさと行ってしまう」と講釈師がしきりに椿姫に話しかける。自分はちゃんと最後まで面倒をみていると言いたいのだ。
 今日の隊長のコースに晴雲酒造は入っていなかったので、スナフキンは残念そうだ。トサミズキを見ながら小川町駅に到着したのは三時半を少し過ぎた頃だった。宗匠の万歩計で一万七千歩は意外に少ない感じだが、山道があったから結構疲れた。
 東上線は人身事故の影響で二時間以上も止まっていたらしい。ちょうど運転を再開したばかりの時だったから間が良かった。八高線を利用する人とはここで別れ、反省組は川越を目指す。反省が必要でない人は森林公園、東松山、鶴ヶ島と、一人づつ降りて行く。
 誰よりも反省すること多い筈の椿姫は「私は何も反省することはありません」とウソをつく。それを強引に拉致して、十一人が「さくら水産」に乗りこむのである。隊長、ダンディ、ドクトル、コバケン、チイさん、スナフキン、宗匠、桃太郎、あんみつ姫、椿姫、蜻蛉。「今日はみんなに苛められちゃった」苛めたのはみんなではなく、講釈師と隊長である。二時間飲んで二千四百円。
 珍しく隊長が声をかけ、ドクトル、スナフキン、チイさん、あんみつ姫、蜻蛉の六人がカラオケ館に入っていく。一人千五百円、それに暫く預かっていた千円を足してちょうど良かった。これで私の借金は完済した。

眞人