平成二十二年五月二十二日(土) 野川・国立天文台・深大寺

投稿:   佐藤 眞人 氏     2010.06.06

 武蔵境駅で中央線から降りたところでハコさんと一緒になった。案内が分かりにくい駅構内を歩いて西武線のホームに上がると、ペコちゃんが不安そうに辺りを見回している。「良かった、ここで良いのよね。初めての所だから心配で」イッチャンもやはり同じような表情で現れた。ちょうど前の電車が出発したばかりで、四十二分発の車両に乗り込んで待っていると、だんだん仲間が乗ってきた。東小金井から歩いても遠くはないとダンディから教えられてはいたが、地理不案内だから私もやはり西武線にしたのである。
 新小金井駅に集合したのは、隊長、ハコさん、コバケンさん、チイさん、桃太郎、古道マニア夫妻、講釈師、イッチャン、ペコちゃん、チロリン、クルリン、ロザリア、シノッチ、マルちゃん、花ちゃん、蜻蛉の十七人であった。
 ダンディは足の調子がおもわしくない。ロダンも腰痛からの復活が長引いている。ドクトルとカズちゃんは所用、宗匠は東洋大学で勉強、あんみつ姫は重要な役職に復帰して忙しくて欠席だ。反省会常連メンバーがいないと今日は淋しくなるかもしれない。
 「私、ハナちゃんなんですか」去年十一月の高麗以来久しぶりに参加した彼女が驚く。桃太郎が「そのココロは何」と聞いてくる。ハコさんは「昔、インドから来た象が花子だった」と変なことを思い出す。「象を飼ってるんですか」「実家には牛がいますが」そういうことではない。チョウよハナよと育てた娘であります。「カッパより良かった」遠野の姫はそれほど不満はなさそうだ。
 今日は、昨年四月に一度歩いたコースとほとんど同じだ。あのときは雨が酷くて寒い日で、とても耐え切れずに途中の天文台で終わった。コース自体は素敵な所で、きちんと花を確認したかったから、私はその翌週にもう一度一人で天文台まで歩いた。だから今日が三度目ということになる。

 駅を出て線路を渡って南に真っすぐ進み、すぐに右に曲がるとまた線路に出た。「変だわね」「さっき踏み切り渡ったのにね」線路沿いの住宅地を少し行けば、下り坂になる。左側は国際基督教大学のキャンパスで、右に「国際基督教大学構内十五番遺跡」の案内板が立っている。後期旧石器時代の遺跡である。
 土手沿いの遊歩道は気持ちが良い。昨日は真夏のような暑さだったが、今日はそれよりは日差しも少し穏やかだ。青い草に囲まれた川の水は綺麗だ。ただ、ジョギングをしている人たちが頻繁に通るから、のんびり道幅一杯に広がって歩いていると邪魔になってしまう。

 野川は洪積世の時代の古多摩川の川道であるとされる。古多摩川が通らなくなったあと国分寺崖線の湧水を集め、崖線に平行して流下するようになったと考えられている。
 戦後から高度成長期を経て一九八〇年代前半までは、周辺地域の宅地化が進行し、下水道も未整備であったため生活雑排水が垂れ流されるようになる。流水の大半がそれらからなり、水底はヘドロで覆い尽くされ悪臭を放つドブ川となってしまうが、平成に入り周辺地域の下水道整備がようやく完了し、清流への回復が徐々に進み始めた。これにより各種魚類や水生昆虫、かわせみ、カメなどの生息、回帰も確認されるようになった。しかし、皮肉なことに汚水の減少にともなって水量そのものも減少してしまい、冬季にはしばしば川の水が枯れるようになった。また、水量減少は流路に湿原的な環境を所々作り出し、アシの繁茂が新たな生物相を生じさせてもいる。(ウィキペディア「野川」より)

 「国分寺崖線」なんていう用語を聞けば、ドクトルとロダンから必ず講釈があったに違いないし、隊長の案内文にも「ハケ」という言葉が書かれているが、今日はそんなことに関心を持つ人がいない。
 「二人で自転車漕いで行くだろう」講釈師はおそらく一日中テレビを見ているのだろう。「ゲゲゲの鬼太郎だよ」『ゲゲゲの女房』だったか。「この辺なの」「舞台はもっと調布のほうだけどさ、野川だよ。撮影したのは別の場所らしい」
 「会社に行ってたら見られないわよね」とペコちゃんが言う。土曜日に何度か見たことがあり、私もまるで知らない訳でもない。それに私は『水木しげるのラバウル戦記』や『娘に語るお父さんの戦記』の読者である。『墓場鬼太郎』初版を復刻したやつ(但し文庫本)だって持っているから、関心はある。
 「あれは、ミズキかしら」ペコちゃんが対岸を指差す。これは人間の水木ではなく勿論樹木のことである。もう花は終わっているが、段々になったような葉のつきかたはミズキの特徴だ。「水木橋っていうのがあります」三度目の私がベテランのように言っていると、すぐにその橋があった。「ツメクサですよね」桃太郎が叢に広がる赤紫の花を指差す。私は淡いピンクのユウゲショウを教える。
 野川公園は元国際基督教大学のゴルフ場だった。昭和四十九年から東京都が買収を始め、五十五年に開園した。小金井市、三鷹市、調布に跨り、およそ四十万平米の面積を持つ。最初は、川を渡って自然観察センターに寄る。ここで貰った資料は、「5月観察順路図(裏に5月自然観察園の花だより)」、「樹木観察クイズ・この木なんの木」「みどころマップ」の三種類だ。
 センターの中には鳥や昆虫なども展示されているが、私はあまり興味がない。「もう行こうぜ、鳥とか昆虫なんか見たってしようがない」と講釈師もすぐに出てくる。「アレッ、鳥は好きな癖に」「昆虫に興味がないの」
 もう一度橋を渡って柵で囲まれた自然観察園に入る。
 入口から入ってすぐ目に付くのはガマズミだ。白い小さな花をつけている。スイカズラ科ガマズミ属。

ガマズミは日本全国に分布する落葉低木。萌芽再生力が高いので、コバノガマズミと同様に二次林によく出てくる種であるが、岡山県ではコバノガマズミに比べて降水量の多い、やや内陸部に多く出現する。果実は稔ると甘酸っぱく、果実酒などにも使われる。
 和名のガマズミの由来に関しては、よくわからないらしい。「神つ実」であるという説や、ズミは染めに使用するとの意味であるので、何らかの染色に利用したとの意味ではないかとの見方もある。(岡山理科大学植物生態研究室より)
http://had0.big.ous.ac.jp/plantsdic/angiospermae/dicotyledoneae/sympetalae/caprifoliaceae/gamazumi/gamazumi.htm

 ベニウツギの花は濃い紅紫が鮮やかだ。スイカズラ科タニウツギ属。卯の花と同じように茎が中空なので、ウツギ(空木)の名を転用しているらしい。
 ニシキギ(錦木)は、それぞれの枝先に小さな薄黄色の花を三つほどつけている。求愛する男が、女の家に通うごとに門前に錦木を一束立てる。女が受け入れてくれるまで、男はこれを続けなければならない。そういう伝説があるという。しかしその錦木は、今見ている樹木の種類としてのそれではなさそうだ。

昔、鹿角が狭布(きょう)の里と呼ばれていた頃、大海(おおみ)という人に政子姫というたいへん美しい娘がいた。東に二里ほど離れた大湯草木集落(三湖伝説の八郎太郎もこの地が出身だと言われている)の里長の子に錦木を売り買いしている黒沢万寿(まんじゅ)という若者がいて、娘の姿に心を動かされた。若者は、錦木を一束娘の家の門に立てた。錦木は五種の木の枝を一尺あまりに切って一束にしたもので、五色の彩りの美しいものであった。この土地では、求婚の為に女性の住む家の門に錦木を立て、女性がそれを受け取ると、男の思いがかなった印になるという風習があった。若者は来る日も来る日も錦木を立てて、三年三ヶ月ほどたったところ、錦木は千束にもなった。
政子姫は若者を愛するようになった。政子姫は五の宮岳に住む子どもをさらうという大鷲よけに、鳥の羽を混ぜた布を織っていた。これができあがって、喜びにふるえながら錦木を取ろうとすると、父はゆるさぬの一言で取ることを禁じた。若者は落胆のあまり死亡し、まもなく、政子姫も若者の後を追った。父の大海は嘆き悲しみ、二人を千本の錦木と共に手厚く葬ったという。(ウィキペディア「錦木塚」より)

 鹿角という地名、八郎太郎という名前を見れば秋田の伝説ではないか。私は郷土に対して余りにも無知であった。世阿弥の謡曲にあるようだから、ダンディなら知っているだろう。ついでに見つけた歌を三首あげておく。

錦木はたてながらこそ朽にけれ けふの細布胸あはじとや  能因法師
思ひかね今日たてそむる錦木の 千束も待たで逢ふよしもがな  大江匡房
立ち初めてかへる心はにしきぎの ちづかまつべきここちこそせね  西行

 「観察順路図」を手にしながら、要所々々に記された樹木や花を確認しながら木道を歩いていく。右手奥の方に見える黄色い花はキショウブだ。「アヤメじゃないんですか」「アヤメは綾目模様があるんですよ」桃太郎の説明に「エーッ、ほんとですか」と花ちゃんが大袈裟に驚く。「本日一番の驚きです」菖蒲と書いてアヤメともショウブとも読むから区別は難しい。それでは、ショウブ、アヤメ、カキツバタの区別を確認しなければならない。
 まずアヤメの花色は主に紫でまれに白もある。花に網目模様があって外側の花弁に黄色の模様がある。適地は乾燥した土地である。
 ショウブは網目がなく花の色はさまざまだ。湿地帯を好み、主脈が太い。カキツバタは網目もなく花の色もさまざまで湿地帯を好むのはショウブと似ているが、主脈が細いのが特徴である。こう書きながら、私はショウブとカキツバタの区別はできないなと思った。
 「エゴノキだよ」隊長や講釈師が説明してくれる。何度も教えてもらっていて、その都度忘れてしまうのだが、白い花が下を向いていくつも咲いている。

和名は、果実を口に入れると喉や舌を刺激してえぐい(えごい)ことに由来する。チシャノキ、チサノキなどとも呼ばれ歌舞伎の演題『伽羅先代萩』に登場するちさの木(萵苣の木)はこれである。(ウィキペディア「エゴノキ」)

 さっき見たベニウツギがまた見えた。「でもタニウツギって書いてますよ」順路図を手にしたロザリアが注意する。「そうですね、そばにハクウンボクもあるし」と古道マニアも地図を見て納得する。そう言われるとさっきのベニウツギより色が淡いようだ。
 ベニウツギはタニウツギの園芸種であるという説がある。それとは別に、タニウツギは北方種で、ベニウツギは暖地系であるとの説もある。
 上ばかりではなく、叢のほうにも注意をしなければならない。フタリシズカは、二人どころか何人も並んでいるようだ。花ちゃんが一所懸命写真を撮ろうとしているのは薄紫のちょっと面白い形の花だ。「なんだろう」「なんでしょうね」無学な二人が悩んでいると、ちゃんと教えてくれる人がいる。セリバヒエンソウ(芹葉飛燕草)である。飛燕の形をしていると言われればなるほどそうだ。キンポウゲ科ヒエンソウ属。
 オドリコソウはちょっと育ち過ぎたようだ。去年の四月に見たときと比べて可憐な風情が欠けている。「面白い形ですね」「ヒメじゃないのよね」ヒメオドリコソウとはまるで違うものである。古道マニア夫人はもっと白いものだと思っていたらしい。「ピンクだからちょっと残念」イッチャンは初めて見たと喜んでいる。
 木道から外れた草むらにはボランティアのスタッフが入りこんで、余分なものを刈り取って綺麗にしている。そのスタッフからサイハイラン(采配蘭)があるとロザリアガが聞きこんだ。「どこかしら、七本ほどと言ってたけど」イッチャンも一緒に探している。「あんまり綺麗じゃないって言ってたわよね」綺麗じゃない花というのは何だろう。「アッ、これじゃない」
 ちょっと見ると茶色に枯れた葉がいくつも、ボロをまとったように茎にぶらさがっているようだ。この枯れ葉のように見えるのが、下を向いた細長い花なのだ。確かにあまり綺麗だとは言いにくい。「ちゃんと開いてるのよね」ラン科サイハイラン属。様子が武将の持つ采配のようだと言われれば、そうですかと言わなくてはならない。
 空色の細い花弁が手裏剣のように五枚開いているのはチョウジソウ。リンドウ目キョウチクトウ科チョウジソウ。私は長寿草と聞き間違えていた。漢字で書けば丁字草である。薄い空色が可憐清楚だ。

 本種はフジバカマなどと同様に、かつては全国的に分布する普通種であった。近年になり減少が著しく、二〇〇〇年版環境省レッドデータブックでは、百年後の絶滅確率が約九十七パーセント と推計され、絶滅危惧Ⅱ類(VU)に指定されていた。二〇〇七年八月の新しい環境省レッドリストでは、準絶滅危惧(NT)に評価替された。現象の原因は、一つには自生適地である湿地の人為的開発・造成や護岸工事などに伴う生育地の喪失である。もう一つは、そのような地域の一部は農業のために定期的に攪乱を受けて草地を保っていたものが、農業の変化に伴い手入れが行われなくなったことによって植生の遷移が進んで草地でなくなったことが挙げられている。ほとんどの都道府県では、野生絶滅あるいは絶滅危惧種に指定されている。(ウィキペディア「チョウジソウ」より)

 絶滅危惧か。可憐なものは生き難い時代なのである。その証拠に、昔はどこにでもいた「可憐な女学生」が今では既に絶滅してしまったではないか。カズちゃんがいれば安達明の『女学生』を歌ったかもしれない。
 サギゴケ、ムラサキサギゴケ。ゴマノハグサ科。紫のものは、青い尾に、両翼が丸く背に斑点模様がついているように見える。
 花ちゃんが「あれってサクラソウじゃないですよね」と自信なさそうに赤い花を指差した。「サクラソウじゃないよ」と私は自信を持って断言したが、これはクリンソウ、しかしサクラソウ科である。茎の先端から花が車輪状に咲き、それが数段になるから九輪(五重塔の先端部分)にたとえられたのだそうだ。
 「コサギがいる」講釈師の声で池の向うを眺めれば、白い鳥が羽根を休めている。そこにカルガモが寄っていく。
 赤紫の花はよく見かけるのに名前が思い出せない。「シラン(紫蘭)でしょう」とイッチャンがすぐに教えてくれる。蠟梅の実はいつ見ても不思議な形をしている。古道マニア夫人は初めて見るようで、「不思議ね」と感心している。
 「もう行こうぜ、いつまで見てるんだよ」講釈師が急に癇癪玉を破裂させる。こういう時は腹が減ってきたのだ。もう十一時半に近い。

 観察園を出て東八道路の下を潜って自由広場に入り、芝生の上で昼食となった。広い芝生のなかで、かなり幹の太い桜が一直線に並んで立っている。「これは計画的に植えたんだな」「作った公園だ」
 相変わらず女性陣からは煎餅その他が提供される。「その他」というのは甘いものの総称であり、私は当然お煎餅だけを戴く。花ちゃんは菓子類を食べない。「ダイエットじゃないんですけどね」
 チイさんは花粉症の薬を飲んでいる。朝から「どうも調子が悪い、気力が湧かない」と言っていたのは、花粉症自体のせいなのか、薬の副作用のせいなのか分からない。「俳句も全然浮かばない」
 昼食を終え出発しようとしたとき、「ちょっと待って」と隊長がリュックの中をごそごそ探し始めた。「何さがしてるんですかね」「日光写真かな」中身をぶちまけて暫く探しているうちに「あった、あったよ」と紙袋を取り出した。袋の中には二つ折りの紙が入っていて、それを開いて読み始めた。思いがけない表彰状であった。
 前年度の里山ワンダリングで私は皆勤したのだ。「すごいわね」「何回出たの」八月は会自体が休みだから十一回である。表彰されるなんて人生で何度もあるわけではないので、記念のためにちゃんと記録しておかなければならない。

貴方は平成二十一年度里山ワンダリングの会行事にすべて参加され、自然散策の研修に寄与されました。よってここにその栄誉を称え、表彰いたします。
平成二十二年五月二十二日

 私は「研修に寄与」したのである。偉いのである。これからは皆にもう少し尊敬してもらっても良い。ただ今年度はもう先月休んでしまったから、皆勤は無理だと決まっている。
 公園を出て、竹藪の脇を通って裏口から寺の境内に入った。曹洞宗大沢山龍源寺。近藤勇の生家宮川家の菩提寺であり、勇の墓がある。本堂裏の小さな竹藪の脇にその一画があり、右端が近藤家、二番目が近藤勇、真ん中が近藤勇五郎、次に近藤新吉、近藤久太郎・近藤彦助と並んでいる。
 「勇五郎って誰でしたか」「息子、養子じゃなかったですか」正しくは、勇の長兄音次郎の二男で、勇の娘婿となった。「ここには胴体しかないんだよ」新撰組は講釈師のライフワークである。

板橋の刑場で斬首された勇の遺骸を勇五郎や門人達が夜韻に紛れて運び出し、この墓所の地下に埋葬したとされている。そして、胴を離れた首級は京都の三条河原に晒された後、誰かに持ち去られたとなっている。しかし、昭和三十三年になって、愛知県岡崎市の法蔵寺に埋葬されていたという説が浮上した。三条大橋に程近い誓願寺の和尚が生前の勇から敬慕を受けていて、哀れに思った和尚が転任地である法蔵寺に運ばせた、と法蔵寺の碑文には記されている。法蔵寺は徳川家康が幼少時代手習いをした寺として知られ、旧東海道に面した緑深い山寺である。維新の混乱期に、この街道を赤、白、黒のシャグマ笠を被った官軍兵士が多数行き来したはずだか、まさか近藤の首級が密かに葬られているとは気づかなかったに違いない。確たる証拠はないとは言え、そう想像すると京で恐れられ憎まれたと伝えられる近藤勇も救われるであろう。近藤勇昌宜。慶応四年四月二十五日没。享年三十五才。法名は貫天殿純誠義大居士。この最高級の戒名は会津藩主松平容保の命と言われている。
http://www.tamahito.com/ryugen.htm

 板橋駅前にある墓は斬首の地であり、長倉新八が建立したものだ。ほかに土方歳三が転戦先の会津若松の愛宕山天寧寺に建てたもの、京都壬生寺にも、近藤勇の墓がある。
 ここで隊長の電話が鳴った。いつもは電源を切っていることが多いのだが、今日は珍しい。誰かと思えばロザリアが迷子になっているのだった。やがて少し遅れて走ってきた彼女は手に筍を三本持っている。うしろからチロリン村のふたりもついてきた。三人がはぐれていたのであった。「ちょっとの間だったのに」「山なら遭難ですよ」

  筍や置いてけぼりの昼下がり  蜻蛉

 直径三センチほどの筍は綺麗に折れている。「足で蹴飛ばせばいいって教えてくれたの」タケノコを蹴飛ばして手に入れる方法をロザリアに教えたのはチロリンだ。しかし道端に生えている筍を蹴飛ばして持ってくるのは罪にならないか。これは結構難しい問題である。
 地面から生えてくるものは、それが地下茎や根でつながっていても、生えてきた地面の所有者のものである。従って、隣家の竹藪から、我が家の庭に筍が生えてきた場合、その筍の所有権は我が家に在る。ただし隣家の木から果物が我が家に落ちてきたときは隣家のものだから注意しなければならない。
 それでは道路に生えてきたときはどうか。当然、道路の所有者または管理者の所有に属する。従って厳密には、この道路の管理者、国や市町村(私道であればその所有者)の了解を得なければ勝手に持ち出すことはできない。
 ということで、この行為は充分に窃盗罪を構成する要件に該当する。そして、素人が山に入って筍を掘り出してくるのも、おそらくその大半が無許可、つまり窃盗ではないだろうかと思われる。もちろん私は法律に詳しい者ではないから、筍に関して特別な例外規定があるのかどうか良く分からない。
 駐車場に「富士山」ナンバーの車が止まっているのが珍しい。「湘南ナンバーと同じ頃できたんですよ」とコバケンさんが教えてくれる。平成二十年十一月四日から交付されているものらしい。
 御狩野橋を渡り、湿地帯に入っていく。ホタルの里。木道を歩いて行くと、崖の下にはカイウの白い花が群れ咲いている畑がある。先頭を行く隊長が「これ、カラーだよね」と私に聞いてくる。「そうです、オランダカイウとも言います」と私は断言する。

 オランダカイウ属とはサトイモ科の属の一つ。サンテデスキア属ともいう。学名Zantedeschia。南アフリカが分布の中心。この属の植物は、仏炎苞や葉が美しいものがあり観葉植物として栽培されるものがある。
 こうしたものは、カラー(Calla)またはカラーリリー(calla lily)と呼ばれる。
 なお、紛らわしいことに、サトイモ科にヒメカイウ属(学名Calla)というものがあるが、日本語で植物の「カラー」という場合は、本属の植物(特にオランダカイウ)を指すのが普通である。(ウィキペディア「オランダカイウ属」)

 オランダカイウを漢字で書けば阿蘭陀海芋である。一昨年四月に国分寺の「お鷹の道」の細い流れで初めて見て、昨年はこの場所で見たから、私は結構詳しいのだ。
 ここに木戸があり、そこから崖をちょっと登ると横穴墓がある。内部に白骨が並んでいる。「本物ですか」本物で有る筈がない。しかしみんな、こういうものには余り興味がなさそうだ。「鶴川でも見ましたよ」とロザリアはちゃんと覚えている。古墳時代末期のもので、多摩丘陵にはこの種の横穴墓群が多い。「吉見も一緒だよね」とチロリンも思い出す。

 関東地方には多くの横穴墓群が見られ、東京都や埼玉県など旧武蔵国の地域でも吉見百穴を始め多くの横穴墓群がある。武蔵国南部では多摩川と鶴見川流域に多くの横穴墓群があり、多摩川中流域では野川沿いに多くの横穴墓が見られる。
 野川に沿って上流部の国立市から下流の世田谷区まで横穴墓群は分布しているが、特に三鷹市から調布市にかけてと世田谷区内に多く分布している。三鷹市から調布市にかけての野川中流域には六十基あまりの横穴墓があり、未発見のものや開発などで既に破壊されてしまったものを併せると、百基以上の横穴墓があったものと推定されている。
 野川沿いの横穴墓群は河岸段丘である国分寺崖線の関東ローム層に造られている。またその多くが東京パミス層を目印とした位置に造られ、ほぼ横一線の配列になっているのも特徴である。これは東京パミス層が年間の最高地下水位付近にあることから、横穴墓内部の排水を考えて地下水の影響を受けにくい場所に造ったためとの説がある。出山横穴墓群も三鷹市内の野川北岸の武蔵野崖線にあり、標高約五十~五十二メートルの東京パミス層に沿って位置している。(ウィキペディア「出山横穴墓群」より)

 そこから更にちょっと登ると遊歩道に出る。左手には育ち過ぎた竹藪が広がる。桑の実が生っているのを見て「食べられますよ」とペコちゃんが黒い実を捥ぐ。こういう時、講釈師は子供のような顔になる。

  講釈師桑の実食べてご満悦  千意
  桑の実に少年の顔少女の目  蜻蛉

 そこを抜ければ生産緑地に出る。畑に並ぶ木を見て「マンサクですよ」と古道マニアが声を出す。確かに紐を捩ったような花はマンサクだが、色が濃い赤紫だ。こういう赤い花は初めて見る。「これって何か食べるんですか」ロザリアは畑にあるものは野菜に違いないと思い込んでいたのかもしれない。園芸農家、植木の畑だろう。
 ここからは広大な天文台の塀を左に見ながら歩く。塀は延々と続く。やっと途切れて住宅地にはいると、民家の玄関先にトケイソウが咲いているのを見る。前から知っている花だが、こんなに形が整っているのは珍しい。
 やっとバス通りに出て、北に少し戻ると東京天文台の正門だ。隊長が受付でワッペンを人数分貰い、それを衣服に貼り付ける。ただこのワッペンは剥がれやすいのが難である。「ひとまわりしたのかしら」ペコちゃんが息を弾ませている。「大体半周位でしょうか」

 日本で継続的に星の観測をするようになったのは、江戸時代後期、幕府天文方の浅草天文台からでした。
 明治時代になり、本郷の東京大学構内に学生の実測用に天文台が作られ、明治二十一年(一八八八)に港区麻布に東京天文台が作られました。その後、大正十三年(一九二四)に、天文台は三鷹へ移転しました。
 初期の天文台の主な仕事は、星を観測して経緯度の決定、暦の計算、時間の決定を行うことでした。これは明治時代の国策として始まりましたが、現在も天文台の仕事の一部として続けられています。
 昭和六十三年(一九八八)、東京天文台は水沢の緯度観測所などと一緒になり、国立天文台となりました。さらに国立天文台は文部省、文部科学省の管轄を経て平成十六年(二〇〇四)四月一日より法人化し、大学共同利用機関法人自然科学研究機構国立天文台となりました。(国立天文台HPより)

 トイレの前で少し休憩してから第一赤道儀室を見学する。去年は説明員がいなかったが、今日は若い人(院生かな)が説明してくれる。ただし一度に全員は無理なので半分づつに分かれて入る。私は後半ということにして外で待機していると、甘い香りのする花を見つけてスイカズラ(吸い葛)と隊長に教えて貰う。「スイカズラだよ」聞いたことはすぐに言い触らしたいから、私は得意になって花ちゃんを呼ぶ。外側が黄色で内側が白い、細い花弁がたくさん伸びていて、花と蕊の区別も定かでない。描写が下手だからうまく説明できない。しかたがないので、ウィキペディアのお世話になってみる。

花弁は筒状で、先の方は上下二枚の唇状に分かれ上唇はさらに四裂、はじめ白いが徐々に黄色くなる。そのため、一つの枝に白い花と黄色い花が同居することが珍しくない。後述の異名である金銀花はこれによる。(ウィキペディア「スイカズラ」)

 そして別名はニンドウ(忍冬)である。これも初めての知識だ。呼び方で印象がずいぶん違う。
 順番が来て中に入る。中では太陽黒点の観察をしているのだ。二〇〇八年に黒点は最小期にあり、十一年周期で増え続ける筈が、まだ少ないのだという説明だ。望遠鏡は常に太陽に向かうよう、微妙に動いている。レバーを操作して動きを止めると、太陽の丸い影が、次第に紙の上からずれていくのが分かる。「つまり、これが地球の動く速度ですか」「そうです」地球は意外に早く動いているのである。

 万緑やただ粛々と地は動き  蜻蛉

 太陽系ウォーキングと名付けられた通路を通る。「スイキンチカモクドッテンカイメイ」「メイはなくなったのよね」冥王星が仲間はずれにされたのはどういう訳だったか。二〇〇六年八月二十四日、プラハで開かれた国際天文学連合総会で、惑星の新しい定義が採択された。一、太陽を周回する。二、自分の重力で固まって球状をしている。三、その天体が公転軌道上の近傍領域において圧倒的に大きい。この三つのうち、冥王星は第三番目の条件に欠けていると判断された。公転軌道上に、冥王星より大きい海王星があるためだ。可哀そうな冥王星。
 チイさんは昼にお茶を飲みほしてしまって水分不足気味だったから、自動販売機を見つけて水分補給する。「やっと生き返りました」
 今度は天文台歴史館に入る。ここも定員二十名なので、半数は一階の展示室を先に見る。荷重が耐えられないのである。冲方丁『天地明察』が今年の本屋大賞に選ばれ、そのせいもあるだろう。「渋川春海と『天地明察』」という展示をしている。こういう研究機関で小説の題名を展示のテーマにするのは珍しいのではないだろうか。
 ショーケースの中には春海の『貞享暦議』や、『寛政暦書』の象限儀全図のページが開かれている。「いつの時代のものですか」花ちゃんは歴史に詳しくなさそうだ。「江戸時代」「ヘーッ、そうなんだ」
 渋川春海は安井算哲の子である。パンフレットから引用する。

春海は将軍に仕える囲碁の家元四家の一つ、安井家に生まれた棋士だが、日本の暦が約八百年ぶりに改まる契機となった貞享暦を作った人物である。貞享暦成立には、それまで中国や日本で使用されていた暦の存在だけでなく、日本における数学や天文学の発展、春海の周囲の人々の学問的・政治的協力などが深く関わっている。

 こう言うのを見ると、ロダンだったら大感激するだろう。十七世紀後半の日本では、貞観四年(八六二)に唐からもたらされた宣明暦を使っていたのである。八百年前の暦がまだ使われていたこと自体、驚くべきことだ。

 そこで二十一歳の時に中国の授時暦に基づいて各地の緯度を計測し、その結果を元にして授時暦改暦を願い出た。ところが延宝三年(一六七五)に春海が授時暦に基づいて算出した日食予報が失敗したことから、申請は却下された。春海は失敗の原因を研究していくうちに中国と日本には里差(今日でいう経度差)があり、「地方時」(今日でいう時差)や近日点の異動が発生してしまうことに気づいた。
 そこで授時暦に通じていた朱子学者の中村惕斎の協力を得ながら、自己の観測データを元にして授時暦を日本向けに改良を加えて大和暦を作成した。春海は朝廷に大和暦の採用を求めたが、京都所司代稲葉正往家臣であった谷宜貞(一齋・三介とも。谷時中の子)が春海の暦法を根拠のないものと非難して授時暦を一部修正しただけの大統暦採用の詔勅を取り付けてしまう。これに対して春海は「地方時」の存在を主張して、中国の暦をそのまま採用しても決して日本には適合しないと主張した。その後、春海は暦道の最高責任者でもあった土御門泰福を説得して大和暦の採用に同意させ三度目の上表によって大和暦は朝廷により採用されて貞享暦となった。これが日本初の国産暦となる。
 春海の授時暦に対する理解は同時代の関孝和よりも劣っていたという説もあるが中村惕斎のような協力者を得られたことや碁や神道を通じた徳川光圀や土御門泰福ら有力者とのつながり、そして春海の丹念な観測の積み重ねに裏打ちされた暦学理論によって改暦の実現を可能にしたとされている。
 この功により貞享元年十二月一日(一六八五年一月五日)に初代幕府天文方に任ぜられ、碁方は辞した。以降、天文方は世襲となる。(ウィキペディア「渋川春海」)

 蘭学の興る前、ここに日本天文学が始まったのである。日本の学問もバカにしたものではない。
 第一陣が降りてきたので、二階に上がって少し見学してから外に出る。自動販売機の前で少し休憩をとり、天文台を後にすることになる。その前に隊長がニックネームで点呼を取った。呼ばれた本人たちは意味が分からないながらもクスクス笑いあっている。「マルちゃんって私のことですか」「そうです」「私は何なの」「まだついてません」「ありますよ、ペコちゃんです」「誰がつけたの」「ここにはいない人です」
 「疲れてる人はいませんか、バスで帰っても良いですよ」と隊長が言うが、この程度ではまだ全員大丈夫だろう。「それじゃ深大寺に向かいます」
 住宅地は坂道が多い。マルちゃんはリュックをお腹のほうに回している。「これが疲れないのよ、姿勢もよくなるし」チイさんも同じ格好をしている。
 赤い実をつけた木を見つけて、隊長が「ナギイカダだよ」と教えてくれる。「ハナイカダとは違うよね」と誰かが言っているが、まるで違う。ユリ科ナギイカダ属。これがなぜユリ科なのか。毎度思うことだが、植物分類と言うのは実に難しい。

ナギイカダ(梛筏、学名:Ruscus aculeatus)はユリ科の常緑小低木。地中海沿岸原産で観賞用に栽培される。葉は退化しており、末端の茎が葉のように扁平になり、先は鋭いとげになっている。この葉状茎の上に花が一個つく。雌雄異株で、花は春から夏に咲き、冬に赤い果実をつける。
和名は葉が似ている針葉樹のナギと葉の上に花の咲くハナイカダを合わせたもの。(ウィキペディア「ナギイカダ」)

 葉のようにみえるのが葉ではなく茎だと言うのである。ネットで検索してみると、花の時期には、確かに葉の付け根から(葉の真ん中ではない)花が出ているように見えるが、ハナイカダとは明らかに違う。それに、この記事では冬に赤い実をつけるとしているが、この夏のような日差しのなかで実をつけているのは、なにか季節を勘違いしているのだろうか。
 道端の所々にはポピーが咲いている。これも先日の昭和記念公園で初めて得た知識だが、ポピーはヒナゲシであり、虞美人草である。「オーッ、本日二回目の驚きです」と花ちゃんが声を出す。「だって虞美人草って、全く別な植物だと思っていました」
 やがて深大寺の門前町に出た。実は私は初めて来るのである。噂にたがわず、蕎麦屋が立ち並ぶ。人出が多いのはいつものことのようだが、沿道には「ゲゲゲの女房」の幟がはためいているので、テレビの影響もあるのだろう。一軒の店だけに異常に人が並んでいる。(店名を確認しなかったが、あれが鬼太郎茶屋だったかも知れない)
 この蕎麦のことは『江戸名所図会』にも記されているから、古いのである。

深大寺蕎麦 当寺の名産とす。これを産する地、裏門の前、少しく高き畑にて、わづかに八反一畝ほどのよし。都下に称して佳品とす。

 そして調布市観光協会は、水木しげるを観光の目玉にしているのである。本来そういう派手な作家ではないと思うのだが仕方がない。『墓場鬼太郎』の冒頭で、目玉のおやじが誕生する(?)瞬間というのは、実に無気味であった。

一九五九年(昭和三十四)水木しげる氏が調布市に建売り住宅を購入し、調布市民として人生が始まりました。その後,調布市に五十年間在住しています。その間、調布市に対してさまざまな協力をしており、市内を走るバスには鬼太郎の絵が描かれ、防犯ポスターにも鬼太郎が登場しています。
 二〇〇八年(平成二十)三月,漫画を通してのそれまでの調布市への貢献や文化の興隆、さらには多くの市民から愛され、親しみをもって受けとめられていることから、調布市から「名誉市民」の称号が贈られました。

 「日活の撮影所があってさ」こういうことは講釈師の本分である。「時代劇のロケもしてたし、裕次郎なんかも、その辺で蕎麦食ってたよ」実際に見てきたようだ。
 参道に入れば「恵比須と大黒だよ」と講釈師が指を差す。唐破風の下にいるのは、割に新しい石像だ。深沙堂は小さな堂だが深沙大王を祀る。そもそも深大寺の名前がこの深沙大王に由来する。沙の中から現れ、玄奘三蔵を守護したと伝えられる。コンガラとセイタカを従えた不動明王。童子の足元からは水が流れ落ちている。
 やがて境内にたどりつく。天台宗別格本山、浮岳山深大寺。石段を登ったところにある山門は茅葺である。幕末の火災を生き延びた唯一の建造物で、元禄年間のものらしい。

山門に雲をふきこむ若葉かな   子規
萬緑の中や吾子の歯生え初むる  草田男
遠山に日のあたりたる枯野かな  虚子

 子規の句は、調布市観光協会の記事から見つけた。草田男と虚子は句碑を見つけた。なんじゃもんじゃの木(ヒトツバタゴ)は、今は花は咲いていない。今日は江戸歩きではないから、余りお寺に関心のある人はいない。「それじゃ解散しよう」と隊長が宣言する。ハコさんの万歩計で一万八千歩。十キロほどか。
 まだ二時半である。早過ぎはしないか。講釈師と飲まない女性陣は植物園の方に行ったようだ。反省をしなければならない八人は、バスで三鷹に向かう。少し待ってバスで約二十五分で三鷹についたが、まだ三時、これでは反省しようがない。時間調整のため玉川上水に沿って少し歩くことにした。スナフキンが企画した江戸歩きの際、日が暮れてしまって立ち寄るのをやめてしまった場所に、折角だから寄ってみようと思うのだ。
 上水には若葉がかぶさり、道を隔てた歩道にはヤマボウシの並木が続いている。これは珍しいのではないだろうか。「私、ハナミズキだとばっかり思ってました」毎日通勤のためにこの道を通う花ちゃんが驚く。「なかなか良い道だね」「三鷹の駅前にこんなところがあるなんて知らなかった」
 「あそこです、レストランの隣」金木町から持ってきた「玉鹿石」という石が置かれているのだ。その向かいのあたりが太宰治の入水地点だと推定されている。当時は水量が豊富だったのだ。チイさんが禅林寺で鷗外と太宰の墓を見たことをロザリアに説明している。
 そこを過ぎ、山本有三旧宅跡にも行ってみる。時間調整のためだから建物の中に入る必要はない。お金もかかるしね。門前にある大岩が「路傍の石」と名付けられているのがおかしい。もっと小さな、せいぜい拳ほどの、その辺に転がっている石こそが路傍の石だと思うのだが、これは実に巨大な岩である。「これだけ広い庭があるんだから、大きい岩でも良いんだよ」山本有三は富豪であるというのが、今日のメンバーの一致した感想だった。
 庭を一巡りすれば三時五十分。ゆっくり駅に戻ればちょうど良いだろう。「とりあえず北口に行きましょうか」地下道を抜けて北口に回り「凧凧」に行ってみたものの、五時からだと言われた。「それじゃこっちに」と花ちゃんに引率されて向かったのは「だんまや水産」だった。この店は四時開店である。
 反省するのはロザリアと花ちゃん、それに隊長、ハコさん、チイさん、桃太郎、蜻蛉の八人である。常連のダンディたちがいないので淋しい反省会になるかと心配していたが、充分賑やかになった。

眞人