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    平成二十二年六月二十六日(土) 鴻巣・北本

    投稿:   佐藤 眞人 氏     2010.07.18

     隊長、長老、ダンディ、画伯、講釈師、古道マニア、中将、小町、マルちゃん、野薔薇先生、伯爵夫人、ハコさん、宗匠、ヤマちゃん、椿姫、ドクトル、桃太郎、あんみつ姫、冒険ダン吉、蜻蛉。鴻巣駅には二十人が集まった。今日は生態系保護協会のネイチャーウォーク「高尾山散策」と重なったようで、常連の女性たちの姿が少ない。
     それでも「山は自信がないからこっちに来たわ」と野薔薇先生が久しぶりにやって来たのは心強い。なんと言っても山野の草花については大権威である。ヤマちゃんもずいぶん久しぶりだ。「なかなか仕事の日程が合わないんだ。」いつもは遠いからと、なかなか会えない中将・小町夫婦は「私たち一時間で来たよ」と笑う。私は一時間半かかった。
     里山には久しぶりのあんみつ姫は、数ヶ月前に足の爪を剥がしてしまって回復途上にあるが、念のために杖を持ってきた。しかし杖の扱い方に慣れていない。「初めて使う人は、しまう時きつく締めちゃう。伸ばせなくなりますよ」と古道マニアが教えてくれ、試しに桃太郎が伸ばそうとしても、本当にきつい。「最初に教えて下さいよ、トホホ」もう二度と長くならないかもしれない杖を手にして姫は嘆くが、桃太郎が渾身の力を込めると漸く緩んだ。将来に向けて私も覚えておかなければならない。
     隊長は最近階段から転げ落ちて足を捻挫した。ここ数年、この季節になると隊長はスズメバチに刺され、ゴキブリと格闘して足を骨折するなど不幸な事故に見舞われる。隊長の身体の中に異常を惹き起すなにか不可思議なものが生まれる季節なのかも知れない。
     それに桃太郎もギックリ腰をやったと言うし、このところ会員のなかに病気や怪我が続いている。「ロダンはまだ来られないのか、もうダメだな」腰が痛いうえに尾骶骨まで痛めたロダンは働きすぎであろう。みんなもう若くはないのだから気をつけて貰わなければならない。

     最初は住宅地の中を真っすぐに西に向かう。アカメガシワを教えられたものの写真を撮り損なったので、すぐに忘れてしまった。途中であんみつ姫に教えられたのは生垣になったネズミモチである。小さな白い花が塊りになって咲いている。「持ち?」「違う、トリモチのモチ。モクセイ科です。」漢字で書けば鼠黐という難しい文字だ。「モチノキ科じゃないんだけどね」と図鑑を見ながら姫が確認する。
     住宅地を抜けると異様なものに出くわした。畑の中に、間隔を置いて逆さになったカラスが吊るされているのである。実はこれは模型であった。「カラス除けだよ」と講釈師が断言する。仲間の死体だと思って近づかないのだそうだが、なんだか変だと私は思う。
     土手を降りて広大な河川敷に入ると、畑が広がりあちこちで農作業をしている。「この畑の所有権はどうなっているんだ」とヤマちゃんが疑問を感じていると、ちょうど上手い具合に「馬室荒川占用組合」の看板を見つけた。おそらく組合として国から借り上げているのだろう。
     つい最近テレビで見たばかりなのだが、この辺りは日本一川幅が長いことを誇りにしている。平成二十年二月、国土交通省荒川上流河川事務所の調査で、吉見町大和田と鴻巣市滝馬室の間を流れる荒川の川幅が全国最長と認定された。その川幅は二千五百三十七メートルと言う。「川幅」とは、国土交通省の定義によれば河川敷を含めて堤防と堤防の間の距離である。つまり河川敷が広ければ広いほど、川幅は広くなる。
     この「川幅」に因んで、地元では「川幅うどん」なんていうやたらに幅の広いうどんを作っているのである。たまにテレビを見ると、思いがけなくこういう知識を得ることがある。実際の川を見れば、その幅は二三十メートルほどだろうか。「意外に狭いですね」と桃太郎が言う。「もっと上流のほうが広いような気がする。」おそらく荒川が氾濫すれば、この河川敷は全て水没するに違いない。
     「世界で一番広いのはラプラタ川です。二百五十キロ以上ですから、もうまるで規模が違います。」アマゾン川でピラニアを食ったひとだ。世界を駆け巡るダンディはブラジル代表のユニフォーム姿で自慢する。私はサッカーに詳しくないので宗匠に教えてもらうと、カナリア軍団というものらしい。
     長い赤い橋は御成橋である。地図を見ればその先に御成河岸という地名もある。「誰かが来たんでしょうかね。」冒険ダン吉によれば家康が鷹狩りに来たことがあるそうだ。「私が見たわけではありませんが。」講釈師ならあるいは見ていただろうか。

    武蔵国郡村誌(明治9年(1876)の調査を基に編纂)の足立郡滝馬室村(3巻、p.137)には、御成川岸の渡(御成の渡し)について、以下のように記述されている。
    “村の西方 荒川の中流にあり 渡船二艘 官渡”
    荒川にしては珍しく、私設の渡ではなく官設の渡であった。ちなみに御成橋の名前は、徳川家康がこの地へ鷹狩に訪れたさいに、荒川を渡るために設けられた船橋に由来するという。http://www.geocities.jp/fukadasoft/bridges/kansui/hara/index.html

     遠くの樹の上で鳥がじっとしている。「頬白だよ。」あんな遠くの鳥を区別するのは、ちゃんと双眼鏡を持参しているひとたちだ。と言っても、仮に双眼鏡を持ったとしても私には全く分からない。
     それにしても暑い。薄曇りで日ざしは強くないが、湿度が異常に高い。今朝の予報が正しければ、湿度五十パーセントにもなっている筈だ。帽子の中で脳髄が蒸発しそうになってきたので、帽子を取ってタオルを被った。画伯も日本手拭を頭に巻きつけている。「短いと涼しいんでしょう、良いわね」と椿姫が羨ましそうに見ているが、毛がなければ涼しいわけではない。充分に暑い。それに私は連荘の酒で腹に力が入らないから、暑さに加えて余計に疲労を感じる。
     桃太郎は黙々と後方を歩いている。腰が痛いのだろうか。「そうでもないですよ。明日は雨ですかね。」晴れたら官の倉山に登ろうと考えながら歩いていたのである。「今日と同じようなもんじゃないかな」と宗匠が答えている。
     農道の右の水田と左側とでは育ち方がずいぶん違う。「田植えした時期が違うのかな。」「種類も違うんじゃないかい。」農業を始めたチイさんがいれば、もう少し詳しいことが聞けたかもしれない。そう言えばチイさんはどうしたのだろう。「忙しいって言ってたよ。」田植えか雑草除去で忙しいか。
     講釈師は小麦の穂を手にして椿姫をからかっている。「これ、なんて言うんだっけ。」「メリケン粉でしょう。」「メリケン粉なんて、いまどき誰も言わないぞ。」「私だってメリケン粉って言いますよ、うどん粉とか」とあんみつ姫は椿姫を庇う。そうかな、私はそんな風には言わないが。「田舎の風景を思い出すよ。」佐賀県人のヤマちゃんは、「この年になると昔が懐かしい」と同郷の宗匠に話しかける。
     御成橋の下を潜って南に曲がる。シジミチョウやムラサキシジミが草の上に止っているのを撮る。蜻蛉も飛んでいる。ビヨウヤナギが艶やかな黄色で咲いている。「蜻蛉さんの花ですね」そう、美央柳は私が最も愛する花である。「だけど結構種類が多いんですよ」と古道マニアが教えてくれる。なんでも外来種でとても似ているものがあるらしい。そう言われると、今まで見たものでも、少しづつ違うような気がしてきた。記憶を辿ると四年ほど前に見たビヨウヤナギが一番素敵だったように思える。蕊の長さと細さ、花弁の切れ込みなどの具合で、繊細さ加減の印象が違う。
     「それはヒペリカムでしょう」と言うのが冒険ダン吉だ。「オトギリソウの仲間ですから。」この人の知識のポケットはずいぶん大きそうだ。

    ヒペリカムの仲間には有名なキンシバイ(H patulum)やビョウヤナギ(H chinense)もあり、種類が多岐にわたりますが、園芸店で通常ピペリカムの名で販売されるものは、常緑で花や斑入り葉を楽しむヒペリカム・カリシナム(H calycinum)とその交雑種のヒペリカム・モゼリアヌム(H×moserianum)、半落葉で主に実を楽しむヒペリカム・アンドロサエマム(H androsaemum)です。
    (「花の図鑑」http://garden-vision.net/flower/hagyo/h_androsaemum.html)

     タチアオイ、アケビの花。沼では釣り人がパイプ椅子に座って糸を垂らしている。「コシアキトンボですよ」と姫が指差してくれたが、すぐに飛んで行ってしまったから、特徴が見定められない。「お腹の途中が白いんです、だから。」

      蜻蛉飛び太公望は気にもせず  蜻蛉
     「カワセミだよ。」「アーッ、あっちに飛んでいった。」「見えたわ、嬉しい。」確かにカワセミは綺麗な鳥ではあるが、そんなに感動しなければならないものだろうか。
     「ちょっと変わったトンボを見たけど、あれは何だったんだろう。腹がシマシマだった」と古道マニアが私に聞く。私が蜻蛉の生態や種類に格別な関心があると誤解したかも知れない。たまたま蜻蛉なんて号をでっちあげたが、私は決してトンボ類に特別な知識を持つものではない。「赤とんぼじゃないかな、まだこの季節だと赤くなっていないから。」冒険ダン吉の言葉で、「そうか、なるほど」と古道マニアが感心する。赤とんぼは最初から赤ではないのか。「熟すんですよ」と古道マニアが笑う。
     葦原にはオオヨシキリの声がする。「ギョーギョーシって鳴くんですよね。」私はまだ姿を見たことがないから、宗匠のような句は詠めない。

      葦の先に背筋伸ばして行々子  閑舟

     「オオタカだよ。」「スゴーイ。」一羽のカラスがその後を追う。オオタカがそんなにスゴイものとは知らなかった。
     「ちょっとリュックを開いてちょうだい。」小町の指示するままにその背中から「これですか」と袋を取り出せば、乾燥梅干しである。「食べてよ。」旨い。「もうひとつ貰ってもいいかな。」「私も。」姫も手を出す。「自分で作ったの。」「売ってるのよ。」買い物なんかほとんどしない私だから、こんなものが売っているとは知らなかった。
     元の道に戻ってから、当初の隊長の予定のコースを少し変えて、冒険ダン吉の案内で農道を歩いて行く。道端に庚申塔のような石仏が立っているが、青面金剛ではなさそうだ。碑面がすり減っているからはっきりとは分からないが、鬟を結ったような髪型でもあり、三猿も邪鬼もいない。これは何だろう。姫も不思議がっているが判断がつかない。もしかしたら観音の一種かも知れない。

      夏蝶や想ひ凝らして野の仏  蜻蛉

     踏みつけそうになった小さな花を椿姫が不思議そうに見ている。「ユウゲショウじゃないかしら。」確かに形はユウゲショウそのままだが、真っ白い花だ。ピンクのものは最近そこいら中で見るが、白いユウゲショウというのは初めて見る。
     道が冠水して歩けない場所に出ると、その角の水たまりでアヒルを泳がせている夫婦がいる。畦の上には砂袋が置かれているので、その上を歩く。その砂袋が途切れている所はちょっと跳ばなければならないので、隊長は女性陣を待って、無理に詰まらなそうな顔を作りながら手を差し伸べている。こういう時には椿姫のキャーキャー言う声が一番大きい。女性が全て渡り終われば、「後はいいや」と隊長は前に行ってしまう。
     画伯がベニシジミにカメラを向けているので私も撮ってみる。ちょうど羽根を拡げたところだった。用水の側の草むらに咲いている薄紫の花はクサフジだ。枯れた葦の中にはところどころに赤いポピーが咲いている。隊長によれば、この辺りは日本一のポピー畑なのである。もう盛りを過ぎているから、「日本一」と言われるほどの景観ではないが、なんでも栽培面積が日本一なのだそうだ。
     狭い農道を車が私たちを追い抜いていく。「車の中はクーラーが効いているんでしょうね。」珍しく姫が愚痴を言う。それほど今日の暑さは堪えるのだ。
     竹で作った素朴な鹿脅しが、畦からパイプで排出している水を受けて動くのが可愛らしい。

      ぽつこんと植田へひびく鹿威し  閑舟

     「あそこのお寺で昼にしましょう。」隊長が指差すのは常勝寺である。真言宗智山派、鴻巣市大字滝馬室五八六。「この辺は智山派ばっかりですよ」と冒険ダン吉が言う。
     近づくと立派な甍が見えてきた。境内の手前には紫陽花が咲いている。三門は仁王門で二層の形式だ。「あんまり怖くないな。」仁王像を覗きこんでいたドクトルの感想だ。
     境内は広い。支駐歩一会の永代供養碑があり、玉垣には通信中隊、第一中隊、第二中隊などの文字が赤く彫られ、更に軍馬の慰霊碑もある。「あゆみ観音」の前の石碑を見れば事情が分かって来る。

    この観音像は支那駐屯歩兵第一聯隊(極第二九〇二部隊)の戦没者二千七百余柱の英霊を慰めその冥福を祈るため建立されたものである。部隊は昭和十一年五月(一九三六年)に北京に於て編成され、その後支那事変及び大東亜戦争の間中国を転戦し、その歩んだ道は延べ一万キロメートルにも及んだ。そして昭和二十年八月(一九四五年)中支に於て終戦を迎えた。国家のために勇敢に闘い任務を尽くして散華した戦友達は北は万里の長城から南は広東省の果てまでの広い中国大陸に点々と眠っている。我々の意の侭に黙々と働いてくれた軍馬達もまた同じである。終戦後三十余年未だその墓参も叶はぬ侭ここに碑を建て慰霊のよすがとする。
    昭和五十三年三月
    支駐歩一会建之

     「あゆみ」は歩兵を意味するのだろう。この支那駐屯歩兵第一聯隊の初代連隊長が悪名高い牟田口廉也(当時大佐)であり、盧溝橋事件に際して日中戦争(支那事変)の端緒を作った人物である。後に第十五軍司令官として、インパール作戦では補給というものを全く無視した無謀な作戦を強行した。多くの日本兵の無残な死に責任がある。
     蓮池には青い網がかぶせてあり、白い蓮と赤いスイレンが咲いている。「スイレンは今、ほとんど外来種ですよ」とダンディが言う。在来のものは未草であろう。
     「お寺さんの境内で広げちゃっていいのかい。」本堂では法事をしているが、構わずに私たちはビニールシートを広げる。画伯のブルーシートを見て、「今晩も使わなくちゃいけないんだから、丁寧に広げなよ」と講釈師が言う。よく色んなことを考え付く。この反応の早さは確かに才能である。
     全員が注目したのは、ダンディがぶら下げてきた弁当だ。大宮駅構内で買ってきたという千二百円の高級弁当「大宮弁当」の中身はどうであろうか。四つに区切られた一画には、鰻をまぶした御飯が詰められている。ほかの区画には、天麩羅類、野菜の煮物類、魚とエビの焼き物が綺麗に分けて入っている。私はうまく説明ができないので、下記を参照してほしい。

    大宮駅限定の幕の内弁当
    今は無き西武大宮線も描かれた大宮駅周辺の絵地図を掛け紙に採用。四つに区分けした松花堂弁当風容器には、刻みウナギをまぶした埼玉県産コシヒカリ米の茶飯をはじめ、アユ甘露煮、サケ味噌漬焼き、鶏肉梅肉挟み焼、野菜の煮物や揚げ物など、埼玉をイメージしたおかずが盛り込まれている。おかずの種類も多く、見た目以上にボリュームがある。デザートのおはぎも魅力的。(「全国駅弁ガイド」http://travel.biglobe.ne.jp/ekiben/bentou/BIGBT0021.html)

     これが「埼玉をイメージしたおかず」なのか。「間違えちゃってさ、でも大丈夫だと思うんだよ」とドクトルが、コンビニで買ってきた冷凍の餃子を取り出す。しかしこれも午前中の暑さで自然解凍されたから充分食べられるようになっている。「大丈夫だよ、食べてよ」とドクトルが何度も勧めるから、私と宗匠が手を出した。餃子と言うものは基本的に焼き立ての熱いものを食うのが作法だろうが、冷めてしまったようなものでも、それほど不味いものではない。
     「なんだか草むしりの作業員が昼飯食ってるみたいだ。ご苦労様なんか言われるんじゃないか。」「向こうの方もやってくれなんてね。」
     野薔薇先生からはサクランボが回されてくる。ダンディが持ってきたのは煎餅だが、私には「これは甘いからダメでしょうね」と笑う。確かに砂糖醤油につけた甘いものだから私は戴かない。甘くない普通の煎餅も回ってきたから嬉しい。

      駅弁を広げて寺は額の花  蜻蛉

     いつものように一番早く食べ終わって、少し境内を歩いて石塔を見ていると、寛政、天保、嘉永の年号を記したものが確認できた。墓地には五輪塔墓が多い。由緒ありそうだが、ネットを検索しても詳細が分からない。庫裏の方の庭には紫陽花や百合が綺麗に咲いていて、手入れが行き届いている寺だ。
     隊長は十二時四十五分出発と宣言したが、「急ぐことないだろう、時間はたっぷりあるんだから」と言う中将の声で、一時に出発となった。そもそも隊長の計画では今日の解散予定時刻は二時である。二時に解散したら私たちはどうやって反省をしたらよいだろう。大宮のさくら水産の開店は四時なのだ。もう少し引き延ばしてもらわなければいけない。
     蝉の声が聞こえる。まだ早いのではないか。宗匠はちゃんと蝉の姿を確認したらしくて、春蝉だろうと判断している。

      境内へふりそそぎたる蝉の声  閑舟

     「徐州徐州と人馬は進む」寺を出て歩き始めると、後方から『麦と兵隊』を歌う声が聞こえてきた。勿論講釈師に決まっているが、今日はもう一人声がかぶさっていて、振り向けば一緒に歌っているのは画伯だ。さっき軍馬の慰霊碑を見たからなのだが、やがてそれが『加藤隼戦闘隊』に変わるのが不思議だ。「それって特攻隊なの」マルちゃんの疑問に戦後生まれの私が回答するのも変な話だが、加藤隼戦闘隊は日中戦争初期に中国大陸で活躍したのである。
     「伯父は中国戦線を経験したけど、こう言う歌は絶対に歌わなかったわよ。」私の隣でマルちゃんが力説する。今歌っているのは勿論戦争を経験しなかった人である。戦争経験者の中でも、軍歌あるいは軍国歌謡(正確な区別が私にはついていない)を歌う人と歌わない人と二分されるだろう。予科練だった長老は黙々と歩いている。
     私も軍歌には抵抗があるが、『麦と兵隊』(藤田まさと作詞、大村能章作曲、東海林太郎)は軍国歌謡の名作だと思う。特に第五連の歌詞は、茫漠たる大陸に投入された兵士の心情を歌って惻々として心に迫る。

    往けど進めど麦また麦の 波の深さよ夜の寒さ
    声を殺して黙々と 影を落として粛々と
    兵は徐州へ前線へ

     平敦盛の話題は何から始まったのだろう。それに応じるように、二人は「青葉茂れる桜井の」(『大楠公』)と歌い出す。それは太平記ではないですか。「そうか、一の谷の軍敗れだった。」(『青葉の笛』)
     「ところで佐野ってどの辺ですか」と上方人のダンディが私に聞いてくる。『大楠公』を歌っていた講釈師が「里のわたりの夕まぐれ」を「佐野のわたり」と歌ったことから連想したのだろうか。私は関西の地理に詳しくないので困ってしまう。
     「駒とめて、ですよね。」残念ながら誰も相槌を打ってくれない。佐野のわたりの秋の夕暮れ。「秋の夕暮れですか」と椿姫が首を捻る。ちょっとおかしいね。定家の「秋の夕暮れ」は「見渡せば花も紅葉もなかりけり」か。冬だったろうか。
     正しくは藤原定家「駒とめて袖打ち払ふ影もなし佐野のわたりの雪の夕暮れ」である。本歌は万葉にある長忌寸奥麻呂「苦しくも降りくる雨か三輪が崎佐野のわたりに家あらなくに」だから、佐野は三輪が崎にある。和歌山県新宮市三輪崎というのが正解のようだ。この蒸し暑い梅雨の晴れ間に定家の雪の歌を思い出すのも不思議なものだ。
     オオマツヨイグサを見た椿姫が、自宅の庭にこの花が咲き乱れるとダンディに報告している。「歌は何だったかしら。」「待てど暮らせど来ぬ人をですか。」「そうそう、竹久夢二。もうひとつあったのよ、月見草の歌なの。」それはなんだろう。「はるかに海の見える丘とかいうんです。」それならあんみつ姫の領分だろうか。「私知りません。」それでは講釈師か。「何だろう。」その場では判明しなかったが、おそらく『月見草の花』(山川清作詞、山本雅之作曲、昭和二十四年)ではないだろうか。ただし私はこの歌を知らない。

    はるかに海の見える丘
    月のしずくをすって咲く
    夢のお花の月見草
    花咲く丘よ なつかしの

    ほんのり月が出た宵は
    こがねの波がゆれる海
    ボーと汽笛をならしてく
    お船はどこへ行くのでしょ

    思い出の丘 花の丘
    きょうも一人で月の海
    じっとながめる足もとに
    ほのかに匂う月見草

     椿姫は「抒情歌」と言っていたが、童謡に分類してもよいもののようだ。歌詞だけ見ていると、「みかんの花が咲いている、思い出の道丘の道」(『みかんの花咲く丘』)に似ているような気がする。川田正子なんかが歌っていたのではないだろうか。
     こんな風にしていると、いつの間にか私は最後尾を歩いている。先頭集団に追いつけば、馬室埴輪窯跡だ。穴は埋められているが、斜面がそのまま保存されているのである。「ここで焼いた埴輪がさきたま古墳に運ばれたようです」と冒険ダン吉が説明する。

    埴輪には、円筒形、人物形、動物形、家形などたくさんの種類がありますが、その焼き方には大きく二つの方法があります。一つは、地面に浅い穴を掘って焚き火のように焼く野焼きで、日本では縄文土器が出現して以来の伝統的な技法です。もう一つは、馬室窯跡のように台地の斜面などを利用し、本格的なのぼり窯で焼く方法です。後者は五世紀の中頃に、朝鮮半島からわが国に伝わった新しい技法で、それが埴輪生産に導入されたものです。この窯を使って焼く方法は、一度に多量の良質な埴輪を焼くにはとても有効で、六世紀台に入ると関東地方でも広く普及しました。(埼玉県教育委員会・鴻巣市教育委員会)

     「下から空気を入れるんだ。」のぼり窯の形を図示した説明を見て、ヤマちゃんが「これなら良く分かるよ」と感心している。
     愛宕神社(鴻巣市原馬室二八二五)の鳥居は白木だが、典型的な両部鳥居の形式をしている。「ヘーッ、厳島神社と同じ形なの。今日はこれだけ覚えておかなくちゃ」とマルちゃんが驚く。この辺りで、隊長の予定していたコースからは逸れて、地元の冒険ダン吉が案内してくれることになった。
     「鴻巣の地名はコウノトリに由来するんでしょうか。」さっきから姫も疑問を口にしていたのだが、ダンディが冒険ダン吉に尋ねる。「どうも違うみたいですよ。色々説はあるけど、江の洲っていうのもあります。」荒川の広大な河川敷を歩いてきた私たちとしては、実に説得力のある説だと思う。念のためにウィキペディアを参照してみると、この説は出てこなかったが、他にいくつかの説がある。
     ひとつは「高の洲」で、高台の砂地を意味する。古来の鴻巣郡が大宮台地上に位置していることから考えられる。また、笠原直使主武蔵国造を任命され、一時この地に武蔵国の国府が置かれたところ「国府の州」と呼ばれたという説、コウノトリ伝説にちなむと言う説などである。いずれも「洲」であれば、今日の経験からして納得できる。それにしても古くから開けた地域であることに間違いない。

     だんだん山道のような所に入っていく。狭い道の所々がぬかるんでいて、滑りそうになった椿姫が大袈裟な声を上げる。しばらくすると半夏生が群生している場所に出た。こんなにたくさんの半夏生には初めてお目にかかる。しかし季節的には早すぎないか。「今頃は何でも早いよ」宗匠は断言する。一枚の葉の上に余り見たことのない赤茶色の蜘蛛が載っていて、蜘蛛愛づる姫によれば「珍しいものだと思います」ということである。姫は「可愛い」と言うが、私は蜘蛛に愛情を感じたことはない。
     道が突き当たったところに「赤道(里山)を大切に・北本里山の会 地主」の看板が立っている。北本市に入っていたのだ。道沿いには紫陽花が並ぶように咲いていて、その中でも特に白い紫陽花が素敵だ。少し薄暗い山道に白い花が上品に浮かぶ。「良いところね。」「連れてきてもらってよかったよ。」地元の冒険ダン吉のお蔭である。
     ここを抜けると今出て来たところには「とんぼ公園」の看板が立ち、その脇に石仏が三体並んでいる。左端は三猿の上に横たわった邪鬼を踏む青面金剛だ。「講釈師がいたよ。」右端の錫杖をついた地蔵には「元禄十三庚申」の文字が見えるから庚申地蔵である。ただ真ん中の地蔵は「正徳元年壬卯」だから庚申地蔵とは違うだろう。
     道を回り込めば北袋神社の鳥居が見えた。今歩いてきた「とんぼ公園」は神社の裏山だったのかもしれない。ここも朱塗りの柱に黒い稚児柱をつけた両部鳥居である。北袋は地名だから由緒正しいとは思われない。どうやら大正の神社合祀で熊野社や神明社を合祀して作られた神社らしい。
     畑の木には赤い実が生っている。「スモモだわね。」「プラムだよ、プラームだろう。」講釈師によれば北本市はスモモの産地である。「この木の下で眠ると気持ちいいんだ。プラームスの子守唄。」私たちは唖然としてしまう。
     赤い花がタチアオイのように真っすぐに立っている。「なんですか。」「タチアオイです。」花は八重咲きであり、私の貧弱な知識ではタチアオイなんて全く思えない。タチアオイならロダンの専門だった筈だが、たぶんロダンだって、こんな八重の花は知らないに違いない。「そうなんですよね、私も初めてですけど、茎と葉が明らかにタチアオイなんですよ」と姫も言う。
     「これはなんだい。」畑の一番端に一列に並んだ花が珍しい。畑を手入れしていたオジサンに聞くと、これはアザミであるという。人間の背丈ほど茎が伸びている。その上に、パイナップルの皮のような大きな萼の上に、青紫の細い糸のような花が剣山のように咲いているのである。花の直径は十センチにもなり、私の知識にあるアザミとはまるで違う。どうも常識を覆されることの多い日だ。
     調べてみるとこれは朝鮮薊というもののようである。そしてアーティチョークである。私は無学だから、料理に出てくるアーティチョークが薊だなんて考えたこともなかった。そもそも私はアーティチョークというものを食べたことがない。

    元は野生のアザミであったが、古代ギリシャ・ローマ時代以降、品種改良が進んで今日の姿となった(近縁種のカルドン(Cardoon、Cynara cardunculus)はとげが鋭いが、同様に食用になる)。
    食用とするには、まずつぼみをレモンなどと共に茹でるか、蒸す。そして、花及び果実の冠毛になる繊毛を取り除き、蕚状の苞片を外から剥き、苞片基部の肉質部分を歯でしごくように食べ、最後に花托部分を切り分けて食用とする。食用部分はでんぷんに富んでおり、食感はいもに似ている。水溶性食物繊維に富む。(ウィキペディア「アーティチョーク」より)

     「アザミの歌もありましたよね。」今日はなんだか歌の話題が多くなってしまった。『あざみの歌』(横井弘作詞・八洲秀章作曲)を私は伊藤久男で覚えたが倍賞千恵子も歌っている。「山には山の憂いあり」であり、「高嶺の百合のそれよりも秘めたる夢を一筋に」である。しかしこんなに大きなアーティチョークでは「憂い」も「秘めたる夢」も感じられない。食うためには花は毟られるのだ。

      夏薊秘めたる夢も空に消え  蜻蛉

     のんびり歩いていると、前方から隊長が戻ってきて「後ろの人、大丈夫ですか」と声をかけてくる。特に疲れているわけではないが、振り返ると私の後ろには椿姫しかいない。「後ろの人」とは彼女のことだと私は決めて、「早く歩いてください」と言ってみる。
     高尾さくら公園で休憩したあと、「景観地に行ってみますか」と冒険ダン吉が口を開いた。勿論行きたい。しかしその前に、私は頭に水を被らなければならない。「うらやましい」と姫たちが私の頭を注目している。
     冒険ダン吉が連れて行ってくれたのは「緑のトラスト保全第八号地・高尾宮岡の景観地」だ。

     緑のトラスト保全第八号地(高尾宮岡の景観地)は平成十七年度に実地された県民投票において、多くの皆様のご協力をいただき保全されることになりました。また、地権者の皆様のご理解とご協力をいただき用地を取得させていただきました。
     さらに、平成十九年度には、埼玉県とともにトラスト地内の散策路や湧水の保全対策整備等を行ってまいりましたが、このたび、整備が完了し、平成二十年四月五日(土曜日)から一般公開を行ったところです。(北本市HPより)

     生態系の北本桶川支部長だった姐さんに勧められて、私も投票したのを思い出した。「私だってちゃんと投票した」とダンディが主張し、「私もです」と姫も負けずに言う。「トラストってなんですか。」マルちゃんの質問に「信託するって言う意味です」と、あんみつ姫が答える。実は私も知識があやふやだったので、整理しておきたい。いつものようにウィキペディアのお世話になれば、もともとは歴史的建築物の保護を目的として英国で創立されたボランティア団体が「ナショナル・トラスト」である。その運動がやがて自然保護にも広がった。

    (日本では)一九六四年に、神奈川県鎌倉市の御谷地区を乱開発から守るべく、住民らが募金活動を行い、開発対象となっていた土地を購入した。これがナショナル・トラストの概念を取り入れた最初の例とされている。この時の運動に関わった、作家の大佛次郎による随筆「破壊される自然」が朝日新聞に掲載されたことで、ナショナル・トラストという名前・発想・活動が広く知られるようになり、一九六八年十二月に英国のナショナル・トラストを範として、運輸省(現国交省)の主管のもと観光資源保護財団(現財団法人日本ナショナルトラスト)が設立された。
    翌一九六九年四月には、大佛次郎らで構成された選考会により、同財団の愛称名として「日本ナショナルトラスト」の名称が用いられることとなった。(「ナショナルトラスト運動」より)

     「それじゃ湧水地まで行きましょうか。」湧き水の辺りにはミゾソバが群生していて、その葉の形が面白い。「牛のヒタイっていうんです」と姫が教えてくれる。なるほど、やや細長いが確かに牛の顔に似ている。「ホント、特徴あるよね。」宗匠も頷く。秋の花だから今は咲いていない。タデ科タデ属。
     「あれッ、さっきと違う。」ヤマちゃんは別の出口から出たことがなかなか納得できないのだ。右の下の谷のほうに厳島神社の幟が見え、道なりに氷川神社と須賀神社が並んでいる。いずれも水に関係するだろう。
     途中の無人売店でスモモ一袋百円也を買った。最初はみんなが買うのを笑いながら見ていた宗匠も、私が買うのをみて「それなら」と手を出した。歩きながらひとつを齧ってみると甘い。あんみつ姫と椿姫にも「甘いよ」と教えると、彼女たちも袋から取り出して食べ始めた。北本駅に着いたのは三時半を過ぎた頃だ。これでちょうど良い。宗匠の万歩計で二万二千歩である。酒を飲まない人びとは駅前の喫茶店に行き、反省すべき人は大宮「さくら水産」を目指す。反省会参加者十人。一人二千六百円也。

    眞人