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    平成二十二年九月二十三日(土)  羽生

    投稿:   佐藤 眞人 氏     2010.09.29

     秋はいきなりやって来た。水曜日までは真夏日の記録を更新するほどの暑さだったのに、木曜日の雨から急激に寒くなった。今日は台風の影響で雨が心配され、明け方にはやんだものの曇り空で風が冷たい。こういう季節は何を着たらよいか悩んでしまう。
     七時五十八分に鶴ヶ島を出て川越を経由し、大宮発八時四十二分の宇都宮線で九時二分に久喜に着いた。東武線のホームで不安そうなシノッチと出会うと、やがてダンディ、ロダン、カズちゃんが現れた。
     「今日はシャーロック・ホームズですね。」ダンディのチェック柄の帽子はイギリス土産で、前と後ろのつばの形が全く一緒だから、どちらを前に被っても良さそうだ。耳当ては上に折りこんでいて、天辺でリボンで結んである。これはディアストーカー(鹿うち帽)というものらしい。
     しかしこの寒い日に長袖シャツ一枚では無理し過ぎではないか。「大丈夫ですよ、午前中少し我慢すれば、午後は必ず暖かくなります。晴れ男ですからね。」私はダンディのような鉄人ではないから、ジャンバーを取り出して着込んだ。
     久喜を九時九分に出て、羽生に着いたのは九時二十八分だった。羽生は遠い。私はこの駅に初めて降りた。隊長、ダンディ、ロダン、多言居士、ドクトル、中将小町夫妻、桃太郎、スナフキン、ハコさん、ドラエモン、カズちゃん、イッちゃん、シノッチ、伯爵夫人、サッチャン、蜻蛉。十七人が集まった。なんでも明日、植物の会があるようで、「東上線グループはそっちに行くんだろう」と隊長が言う。
     「五回も乗り換えてしまった」と言うのは国立の住人スナフキンである。中央線、武蔵野線、埼京線、宇都宮線、東武線と乗り継ぐのも大変だ。しかしもっと遠くから来たのは海老名に引っ越したばかりの桃太郎だ。「開けてない段ボールがまだ二十箱もあるんですよ。」
     「ずいぶん久しぶりですね。」サッチャンに声をかけると、「この会は初めてなんですよ」と笑う。隊長が里山ワンダリングの会を立ち上げたのは平成十八年四月だから、そうすると彼女には四年以上会っていなかったということになる。
     会った早々、中将が茶封筒をくれた。群書類従から『聖徳太子十七条憲法』と『竹取物語』を和紙に刷り立てたものと、温故学会の資料が入っている。嬉しい。「こんな貴重なもの戴いて良いんですか。」「あげるよ。」有難いことである。

     路地に入ると、通見社跡という碑が立っていた。御影石の碑には桜内義雄の名前があるので、自民党に関係する何かの結社だろうか。すぐにピンとこないのは無学のせいだ。調べてみると羽生は自由民権運動が盛んな地であり、通見社は自由党埼玉支部に相当する結社であった。社員の堀越寛介、斎藤珪次、根岸貞三郎等が加波山事件に関与した疑いで逮捕される。後、無実と分かって釈放されたが、後難を恐れた堀越寛介が関連資料を全て焼却してしまったため、この通見社の資料は現在ほとんど残されていないと言う。
     (http://blog.goo.ne.jp/kuni-furutone118/e/bc7dfbfb5e30c42dc3ca22a670aabdd4より)
     建福寺の山門は割に新しい鐘楼門で、一階部分にはこれも新しそうな金剛力士像が立つから仁王門でもある。濃い焦げ茶色の柱に青々とした甍が美しい。門脇には「不許葷酒入山門」の結界石が置かれ、ご丁寧にそれを説明する看板も立っている。その脇には文字庚申塔、それからなんだか分からなかったが「瘞蛇碑」が立っている。「なんて読むんでしょう。」そもそも「蛇」の上の文字が分からないので調べてみた。下記のページからごく簡単に要約すると、こんなことである。
     『瘞蛇記』という記録がある。それによると、その昔建福寺には老杉があり、そこから蛇が落ちてきて、すぐに死んでしまった。僧たちが見ると、その蛇には足があることが分かってたちまち騒ぎとなる。そしてこの蛇を供養してこの碑を建てたのが慶応二年(一八六六)であった。

    蛇長五尺八寸餘 腹周圍三寸、距尾一尺二寸而宥両足長一寸
    如爪形者左右各二十八
    勿乃神龍遺種 両足奇形挺然
    今瘞形骸此地 嗟霊永護決莚
    http://blog.goo.ne.jp/kuni-furutone118/e/fc3f21294cd929aa527ddd0c6b360ab0

     「瘞」は「エイ」と読み、埋めるという意味のようだ。両足の長さ一寸、それにはそれぞれ二十八個の爪が生えていたと言うのである。蛇の伝説がある所は、河川氾濫に悩まされる土地であろう。利根川流域のこの辺りでは、頻繁に水害にあったろうと推定される。
     唐破風の本堂は新しいがなかなか風格があり、脇には道元像が立つ。「道元の顔を見たことのある人がいたのか。」ドクトルの疑問は面白い。「先日テレビで見たんだけどさ、三蔵法師の絵が何枚も出てくるんだよ。本当に顔を知ってる人がいたのかなんて思ってさ。」
     太田玉茗の詩碑「宇之の舟」があるが、これは誰だろうか。「有名な人なんでしょうか。」知らない。墓地には田舎教師の墓があって、本日の見どころはこれなのである。
     奥に入り込むと右手正面にずいぶん立派な「故小林秀三之墓」、その左脇に小杉放庵筆になる「田舎教師」の大きな碑がある。みんなは左の田舎教師ばかり見ているが、本当は正面のものを見なければならない。小林秀三は『田舎教師』の主人公林清三のモデルになった人である。文学に趣味があったが父母を抱えた貧しさの中で志を得なかった。若くして死んだ貧しい教師の墓が最初からこんなに立派だったはずはない。『田舎教師』が評判になったあと、建て替えられたものだろう。

     田山花袋の名作『田舎教師』の主人公林清三こと小林秀三の墓である。君は明治三十四年三月、熊谷中学校を卒業し、翌月、弥勒高等小学校に奉職した。
     間もなくここ建福寺に下宿し、六粁の田舎道を通った。後に両親と羽生に移り漸く生活の安定を得たが間もなく病にかかり、明治三十七年(一九〇四)九月、二十一才の若さでさびしくこの世を去った。(羽生市教育委員会)

     準教員としての給料は十一円である。ちょっと後になるが、明治三十九年、渋民村の代用教員になった啄木の給料は八円だった。中学をちゃんと卒業した小林と、盛岡中学中退の啄木との違いであろう。
     太田玉茗は田山花袋の義兄(妻の兄)であり、建福寺の住職であった。そして本堂に下宿していたのが青年教師の小林秀三である。私はこの寺に一年ほど下宿したのを花袋自身だと間違って覚えていた。たまたま義兄を訪ねて羽生に来ていた花袋が小林の日記を見つけて、主人公として小説を書いた。それならば、さっきロダンに「知らない」と言ってしまった太田玉茗についても調べなければならない。

    (太田玉茗は)埼玉県忍町に生まれる。本名三村玄綱。田山花袋の義兄。東京専門学校(早稲田大学)英文科卒業後、身を僧籍に置き、武州羽生町建福寺の住職であった。一八九四年頃から「少年文庫」に作品を発表し、一八九七年には国木田独歩、田山花袋等と共に合著『抒情詩』を出版している。そのうち「花ふぶき」と題する二十八篇が玉茗作。五言、七言を根本とし、平仄脚韻の必要を主張し、俚歌俗謡の調を重んずることを主張した。/「日本現代詩辞典」より(http://www.urban.ne.jp/home/festa/g_oota.htm)

    彼が文学をやめ、田舎に帰ったのは当時の風潮の田園生活への憧れもあずかっていた。そのルーツは国木田独歩の『武蔵野』にあった。あるいは農村に移住し厳格な宗教活動を始めたロシアのトルストイの影があった。島崎藤村などもトルストイ主義実践のために小諸で『千曲川のスケッチ』をものしていたし、『抒情詩』の仲間の宮崎湖処子も『帰省』を書いて郷土主義に傾いていた。だいたい民友社が反都会の田園礼讚主義であった。世田谷千歳村の徳富蘆花の田園生活もその一つであろう。独歩は『田家文学とは何ぞ』を書き、後藤宙外も『田園文学論』を発表し大いに反響を呼んでいた。玉茗ばかりでなく、友人の柳田国男の民俗学への開眼もこうした世相の反映であった。明治四十一年花袋の小説『妻』に玉茗の帰郷希望が描かれている。田舎が良いか都会が良いか、花袋、独歩、玉茗、柳田のモデルたちががケンケンガクガクの議論をする。花袋モデルは言う「けれど君、田舎という処は恐ろしい所だよ。田舎は底の知れない泥深い沢のようなもんだからねえ。まごまごすると埋まって出られなくなる!」。(松本鶴雄「田山花袋と『田舎教師』周辺」http://www.gpwu.ac.jp/forum/sakka/katai1.html)

     「ケンケンガクガク」には困ってしまう。ケンケンはゴウゴウであり(喧喧囂囂)、カンカンがガクガク(侃侃諤諤)であるというのは、もう一般常識ではなくなってしまったのだろうか。文学について何事かを論ずる人の文章に、こういうものを見ると悲しくなってしまう。それはともかく田園への憧れが時代風潮としてあったというのは、ちょっと押さえておきたいところだ。
     「読んでみようかしら」とカズちゃんが言うが、今の時代に読んで面白いものかどうか。花袋は自然主義の旗頭であったが、大正になってからはほとんど過去の人になっていたと思う。いま読むなら私は『東京の三十年』を勧めたい。幼い頃の花袋の回想に始まり、明治の若い文学者との交流、とりわけ独歩との関わり、明治の東京の風景とが渾然となって、今読んでも面白いと思う。勿論私の趣味で言うから、誰もが面白がるかどうかは自信がない。岩波文庫になっているから手に入りやすい。
     花袋は上州館林の人だ。「知ってるよ。上毛カルタにも載ってるし」と小町が言う。それは何だろう。「鶴舞う形の群馬県、県都前橋生糸の市、心の灯台内村鑑三、平和の使い新島襄、ねぎとこんにゃく下仁田名産。花袋のは忘れちゃったけど。」それでは小町に代わって調べてみました。「誇る文豪田山花袋」である。群馬出身の文学者で誇るべきは花袋一人であろうか。朔太郎はどうする。ほかに群馬県出身文学者を挙げれば、山村暮鳥、大手拓次、土屋文明、金井美恵子など詩人は多いのに、小説家として見るべきひとは確かに花袋しかいない。
     上毛かるたは昭和二十二年に作られた。「県民SHOWに出てきそうですね。」そう言われれば、そんな番組を見たことがある。

    子供たちに群馬の歴史、文化を伝えたい、という趣旨から群馬県の人物、地理、風物などが幅広く読まれている。 人物としては、新島襄、内村鑑三、関孝和、新田義貞、田山花袋などがとりあげられている。特に船津伝次平、呑龍上人、塩原太助といった人物はかるたで取り上げられることで現在まで語り継がれたともいえる。一方、勤皇の志士・高山彦九郎、義侠・国定忠治、悲劇の幕臣・小栗忠順などはGHQによりその思想や犯罪が問題とされ不採用となった。(ウィキペディア「上毛かるた」)

     ここにGHQが登場するか。戦後とはいっても昭和二十六年までは占領下日本であったことを改めて思い出させる。それにしても小栗上野介が忌避されたのはどうしてだろうか。主戦論者であるとでも言うしか理由は思いつかないが、幕府と薩長との戦いである。米軍とは何の関係もないではないか。
     「通信販売でも売ってるよ」と中将が付け加える。面白いからネットで探して少し読んでみた。イロハ順になっていて、伊香保温泉日本の名湯」から始まる。「老農船津伝次平」「花山公園つつじの名所」なんていうのは群馬県民しか知らないのではないか。「日本で最初の富岡製糸」ホの田山花袋、ヘの新島襄はさっき書いた。「利根は坂東一の川」「力あわせる二百万」(これは人口のことだろう)、「理想の電化に電源群馬」「沼田城下の塩原太助」「ループで名高い清水トンネル」「和算の大家関孝和」「関東と信越つなぐ高崎市」だんだん面倒になってきたのでこの辺でやめる。しかしこれは、なかなか教育的である。群馬の小学生は、このカルタで、群馬県こそ日本で最高の県だと愛郷心を養うのである。

     細い路地からは甘い香りが漂ってくる。「どこかしら。」「これよ。」銀木犀が咲いていた。薄黄色の花だから私は金木犀かと思ったが、「金木犀はもっとオレンジ色に近いんだよ」と小町に教えられる。ゴルフボールよりちょっと小さめで、全体にゴツゴツした突起のある丸くて赤い実はヤマボウシである。初めて見た。花は似ているのに、ハナミズキの実とはまるで違うものだ。
     そして葛西用水路の遊歩道に出る。

    葛西用水路は、埼玉県東部および東京都東部を流れる灌漑用水路である。 とくに墨田区内の区域(現在は暗渠化されている)に関しては、かつては亀有上水とも呼ばれ、また曳舟川と通称された。見沼代用水、愛知県の明治用水とならび、日本三大農業用水と称されている。
    万治三年(一六六〇)に江戸幕府が天領開発の一環として、関東郡代の伊奈忠克に開発させた灌漑用水路である。
    利根川から引いた水で埼玉県東部を潤す農業用水として、その後も新田開発が行われるたびに延長や取水口の遷移を行い、最終的に一貫した用水路として完成するのは一七六〇年代であった。
    当初は利根川右岸から直接取水していたが、一九六八年の利根大堰の完成に伴い埼玉用水路から分水する形態となった。(ウィキペディア「葛西用水路」より)

     水量が多いのは昨日の雨によるものだろうか。用水の東側は新興住宅地になっている。「私はああいう家は嫌いだ。」ダンディが呟くと、「それだって家を建てられるだけでも良いんですよ」とサッチャンが応じている。ダンディはヨーロッパの歴史的建造物を基準にするからいけない。それなら戦後の日本の住宅は殆どすべて落第になってしまう。
     羽生北小学校の校庭のフェンス際にユーカリが立っている。もともとそういう性質なのか、木肌が綺麗に剥がれてしまっていて、香りがきつい。
     マテバシイの実が生っているのは初めて見る。「ほんとのシイじゃないんですよ。待っていればいつか椎になれるって。」「アスナロみたいなものですか。」ダンディが辞書を引いて見せてくれる。しかし私は広辞苑を信用していないから、ウィキペディアを引いてみよう。
     そうするとマテバシイのマテバは「待てば」ではなく「馬刀葉椎」または「全手葉椎」と書く。シイノキとは同じブナ科だが、シイ属ではなくマタバシイ属である。

     隊長を先頭にする一団は真っすぐに歩いて行くが、民家の屋根の向うに寺か神社のような屋根が見えたので、サッチャンと一緒に横から入ってみると、なんだ、皆も廻り込んでちゃんと正しい入口からやってきた。大天白神社である。
     祭神は大山祗命、大己貴命(オオクニヌシ)、少彦名命。大己貴命、少彦名命は明治の合祀によるもので、かつては宇賀魂尊だったらしいから、稲荷神社だった可能性がある。しかし、この「大天白」または「天白」は謎の神であった。

    天白信仰は、本州のほぼ東半分にみられる民間信仰である。その分布は長野県・静岡県を中心とし、三重県の南勢・志摩地方を南限、岩手県を北限として広がっている。
    信仰の対象・内容が星神・水神・安産祈願など多岐にわたることから様々な研究・解釈が行なわれたが、一九八〇年ころから伊勢土着の麻積氏の祖神天白羽神(あめのしらはのかみ、長白羽神の別名)に起源を求める説が紹介されることが多くなった。(ウィキペディア「天白信仰」より)

     上記記事から研究史の概要を抄出してみる。
     谷川士清『和訓の栞』には「伊勢国の諸社に天白大明神というもの多し。何神なるかを知るべからず。恐らくは修験宗に天獏あり。是なるべし」とある。
     『張州府志』では「天白を太白星と考えていたようである。」
     中村高平『駿河志料』は、「天一神(天一星)、太白神(太白星)此神二神を祭れるならん」と記し、御巫清直『伊勢式内神社検録』は天一と太白の合祭による略称であるとしたという。
     柳田国男は『山民の生活』『石神問答』で天白に言及し、そこでは古い神であることは疑いがないが過去の天一太白の合成などの説は「憶測の説多し」として退け「風の神」である可能性を指摘した。
     『岡崎市史』は、修験道から出た風水除の神と推察した。
     堀田吉雄は決め手は何もないとしながら中国由来の天一太白の合成と考えるのが自然とした。
     今井野菊は『大天白神』に各地の天白社の分布をまとめ、天白信仰は水稲農耕以前、縄文時代まで遡るとした。
     鈴木和雄は風水害を受けている場所に限られるとした『岡崎市史』に反論、埼玉県の茂木六郎はラマ教の性神としての「大天白」の信仰を指摘、岐阜県の田中静夫は「天白波神(天白羽神)を祀った」とした。
     これらを見ても決定的な結論はでていないようだ。関東では「大天獏・大電八公」、東海道では「天白・天縛」、相模国では「天獏魔王」、遠江国では「天白天王」尾張国では「手白」、志摩国では「天魄」、奥羽地方では「大天博・大天馬・大天場」と書くという記事もある。(http://blog.goo.ne.jp/kuni-furutone118/e/5052996715f19dbd7135137dbc6f5622より)
     ここにある神社は弘治三年(一五五七)、羽生城主木戸忠朝の夫人が安産祈願のために勧請したと伝えられる。「羽生城って中世の城ですよね」とロダンが聞いてくるが、私は詳細を知らない。羽生市東五丁目にある天神社がその跡のようだ。

     羽生城の築城時期は明らかではないが、天文年間には古河公方足利氏の勢力下にあったものと思われるが、天文二十三年(一五五四)、北条氏康が古河城を攻略した際に羽生城も落城し、中条出羽守が城代として置かれた。
     永禄三年(一五六〇)上杉謙信が関東に侵攻し、羽生城を落として広田直繁、木戸忠朝兄弟に安堵した。その後、謙信の十数回に及ぶ関東侵攻の際には、羽生城主広田氏と皿尾城主木戸氏は軍役五十騎を課せられ、つねに参陣している。元亀元年(一五七〇)二月、広田直繁は上野館林城に移り、木戸忠朝が羽生城に移った。
     天正二年(一五七四)、「第三次関宿合戦」において、謙信は羽生城が越後から遠く、救援が間に合わないのを恐れて破却し、木戸忠朝以下一千の城兵を上野膳城に移した。謙信撤退後は天正三年(一五七五)、忍城主の成田下総守氏長の支配下に入り、城代として成田大蔵少輔長親、善照寺向用斎、野沢民部らが置かれた。
     その後、徳川家康が江戸城に入城すると大久保忠隣が小田原城と羽生城主を兼務したが、慶長十九年(一六一四)、大久保忠隣は改易に処され、羽生城は破却され、天領となった。
     (http://www.asahi-net.or.jp/~ju8t-hnm/Shiro/Kantou/Saitama/Hanyuu/index.htmより抄出)

     境内の脇に、四角に窪んだところに「堀田相模宮」と彫られたお宮を守る小さな祠が立っている。堀田相模守生祠だというのだが、「生祠」というのを初めて見る。「生祠」、または「生祀」の表記があって、マツル行為を「生祀」と書き、祀られたそのホコラを「生祠」と書く。「死んだ人が祀られるのは知ってましたけどね」とロダンも首を捻る。「人間が神様になったのは菅原道真が初めです」とダンディも言う。
     堀田相模守は佐倉藩二代藩主堀田正順である。この辺りは下総佐倉藩の飛び地であったらしい。
     本来、怨みをのんで死んだもの(政治的な敗者)は祟りをなすので、その怨霊を鎮めるために神に祀ったのである。怨霊の最大のものは崇徳院で、『太平記』や『雨月物語』に「日本国の大魔王」として、そのおどろおどろしい姿を現す。その他にも、崇道天皇(早良親王。光仁天皇の皇子)、井上皇后(井上内親王。光仁天皇の皇后)、他戸親王(光仁天皇の皇子)、藤原大夫人(伊予親王の母)、橘大夫(橘逸勢)、文大夫(文屋宮田麻呂)、吉備真備などが有名だ。この御霊信仰は近世の佐倉宗吾まで続いている。
     しかし生祠はそれとはまったく発想が違う。説明には「領主崇拝のあらわれ」と書かれているが本当だろうか。

     自己の霊魂を祀る生祀は、長命を得るため、あるいは死後に神となるために行われた。大国主命が自らの奇魂・幸魂を三諸山(三輪山)に祀った故事に由来するとされる。自己の霊魂を祀った生祀の文献上で最も古い事例は、平安時代の九二三年、伊勢神宮の外宮の神官であった松木春彦が、伊勢度会郡尾部で、石に自己の霊魂を鎮め、祀ったことである。
     江戸時代、松平定信が一七九七年、奥州白河城に自分の生祀を成立した例がある。 生祀は江戸時代に増えたが、それは中国思想の影響であろうという。 江戸時代に、山崎闇斎が儒教の礼式を参考に祭式を考案し、自らの霊魂を祀った。これ以後も、神道家や平田派の国学者によって、それぞれ独自の祭式で自己の霊魂を祀った。(ウィキペディア「生祀」より)

     領民が領主の長命を願ったり、神として崇めてこんなものを祀るというのは信じ難い。領主自身の安心のために作った(あるいは領民の名を借りて)というのが、実際の所ではないだろうか。
     鳥居の外は広い公園になっていて、藤棚がいくつも広がっている。ここで少し休憩をとる。多言居士がアゲハを手に載せて、「万華鏡で見るかい」と依ってきた。トイレットペーパーの芯のような紙筒の内部にガラスを三枚仕込んでいる、手作りの万華鏡だ。なるほど、これで見ると、アゲハ蝶の羽も普通に見るより面白い。「ね、違うだろう」と笑う。こういう細かな細工が得意な人なのだ。
     朝はどんよりと曇っていた空も、ようやく晴れ間が覗いてきた。少し暑くなってきたのでジャンバーを脱いでリュックにしまい込む。
     用水路に戻ると、田圃はすっかり黄色になっている。「チイさんは農業が忙しいんでしょう。今が最盛期ですからね」とダンディが言う。
     道端にはオニユズの大きな実が生っている。鼻をくっつけるように近づけて嗅ぐと微かに柚子の香りがする。「チロリンだったら素早く取ってますよね」とダンディが笑う。そばにはまだ緑色の大きな栗の実がたくさんなっている。
     用水の柵に藁の束のようなものが二十束ほど立てかけている。「なんだろう」とドクトルが悩んでいるし、私も見たことがない。「知らないんですか、ゴマじゃないですか」とダンディにからかわれる。少し遅れてきたサッチャンも「ゴマですよね」と笑う。私とドクトルは町の子供だったから、こういうものは知らない。歳時記を見てみると胡麻は確かに秋の季語である。
     用水と反対側の草むらに小さくオレンジ色の花を咲かせているのは、マルバルコウソウであるという。「瑠璃のル、光だよ」とドクトルが言い、念のために広辞苑を引いたダンディに訂正される。それによれば縷紅草または留紅草と書く。ヒルガオ科。言われてみれば小さなアサガオのようでもある。白い花はマメアサガオ。これもヒルガオ科だ。これでようやく里山ワンダリングの雰囲気になってきた。

     大きな石の神明鳥居をくぐると長良神社だ。長良神社というのは知らなかったが、藤原長良を祀る神社である。西は太田市の古戸長良神社、北は邑楽町の中野長良神社、東は板倉町の下五箇長良神社、南は埼玉県羽生市の本川俣長良神社など、主に利根川流域に計三十社を数えると言う。
     大沼に住む大蛇が娘を攫うのに民が苦しんでいたとき、たまたま都からやってきた弓の名人長良がその大蛇を退治した。攫われた娘十八人に因み、大蛇の死体を十八個に切り刻んで近隣の村々に分けて、祀ったのが始まりだと、館林の民話に残されているそうだ。
     (http://5.pro.tok2.com/~tetsuyosie/gunma/ooragun/nagara_ebise/nagara_ebise.htmlより。)
     長良は藤原冬嗣の長子である。延暦二十一年(八〇二)~斉衡三年(八五六)。藤原北家の公達がこんなところに来るとは信じられない。国司だとしても、当時の中央名流貴族が自ら赴任する筈がないし、念のためにウィキペディアで武蔵守の一覧を当たったが、出てこない。あるいは長良の荘園があったのかも知れない。ちなみに長良の娘に清和天皇の女御になった高子がいる。在原業平との恋で有名な女だ。
     大蛇退治伝説はスサノオとヤマタノオロチを持ち出すまでもなく、河川の氾濫と治水工事の反映だと思われる。「瘞蛇碑」のところでも書いたが、利根川は太古以来、氾濫を繰り返してきたことを何度でも強調しなければならないかも知れない。
     この神社にもまた生祠がある。松平大和守(川越藩二代藩主直恒)。ここに設置された説明によれば、羽生市内には、さっきの堀田氏のほか、戸田、本田、小尾、土岐などの領主、旗本の生祠が残されているそうだ。天領と藩領とが入り組んだ地域の特性と何か関係があるのか、疑問のまま残しておく。

     やがて用水が二つに分かれる地点にやってきた。サッチャンがカメラを向けていると、「何かありましたか」とダンディが聞いてくる。「直角に交差した用水がどうなっているかと思ってね。」確かに二股に分かれた用水に交差するように、その上を細い用水路が流れているのである。
     少し行くと土手の手前が親水公園になっていて、いろいろな蝶が飛んでいる。正面には赤煉瓦の取水口が見える。後で調べると、明治二十七年の樋管を復元したものだ。ここで昼食になる。
     ベンチもあるが、「靴を脱ぎたいですよ」というロダンの意見に従って、シートを広げる。「今日はシート出せよって、せかす人がいないし、静かな一日ですね」とロダンが笑う。「大宮弁当は売っていなかった」とダンディが見せてくれたのは、やはり大宮駅で買ってきたという、「秋野菜弁当」である。野菜だけではなくサンマも入っているらしい。ハコさんがそれをカメラに収めている。
     煎餅や飴が配られ、サッチャンからは自家製のラッキョウが提供された。飴色になったラッキョウは旨い。私は慎重に唐辛子をよけながら、三つも戴いてしまった。「辛い」小町が叫ぶ。だから貰うときは慎重にしなければいけない。

     昼食休憩を終えて土手のほうに行きかけると、「葛西用水元圦跡之碑」が立っている。「圦」はなんと読むのだろう。「クイじゃないかい」という人もいるが、杭ではない。土扁に「入」という文字である。ダンディの広辞苑では「イル、イリ」と読む。音がなく訓読みだけだから国字であろう。「圦樋(いりひ)」の略であり、土手の下に樋を埋め、水の出入りを調節する場所のことだ。
     隊長が赤線を引いてくれた地図を見れば、まだ全コースの五分の一にも到達していない。これで完歩できるのだろうか。
     土手の上に出るともうすっかり秋晴れの空だ。「台風一過だね。」高い建物がないからほとんど三百六十度見渡せる。「あれが、男体山と筑波山。」「あっちは赤城山。浅間も見えますよ。」はるか向こうの空にくっきりと見える北関東の山々を指差して、詳しい人たちは声を上げる。私は何度聞いても覚えられない。

      利根川や男体筑波秋の空  蜻蛉

     「ああ、良い気分だ。心が洗われる。」ロダンは感動する。「もうこれで充分。来た甲斐がありましたよ、ホント。」よほど普段の仕事でストレスが溜まっているのではないだろうか。
     土手の下にはヒガンバナが少し固まって咲いている。「根に毒があるんだったかな」とスナフキンが聞いてくる。確かネズミとかモグラを防ぐために植えるんじゃなかっただろうか。一応確認しておくか。

    全草有毒で、特に鱗茎にアルカロイド(リコリン)を多く含む有毒植物。誤食した場合は吐き気や下痢、ひどい場合には中枢神経の麻痺を起こして死にいたる。水田の畦や墓地に多く見られるが、これは前者の場合ネズミ、モグラ、虫など田を荒らす動物がその鱗茎の毒を嫌って避ける(忌避)ように、後者の場合は虫除け及び土葬後、死体が動物によって掘り荒されるのを防ぐため、人手によって植えられたためである。(ウィキペディア「ヒガンバナ」)

     先週の巾着田にはまるで咲いていなかったらしいが、今日あたりは満開ではないだろうか。「季節がずれてるんだよ。」今年だけのズレなのか、恒常的なものなのかは分からない。
     まっすぐな土手は私たちのほかに歩く者がいない、一段下になったサイクリングロードも、自転車が一台走っていただけだ。これまでも道を歩いているのを見かけたことがない。羽生の人は外を歩かないのだろうか。
     すっかり晴れ上がれば暑くなってきた。風も全くない。隊長の下見の時は暑かっただろう。「ホント、すごく暑くて。でもきょうはそれに比べれば楽だよ。」毎度のことながらいつも御苦労様である。
     女性陣も少しづつ脱皮を始める。カズちゃんは真っ赤な半袖のシャツになってしまった。前方はるかに見える東北自動車道の先まで行く筈だが、その橋がなかなか近づいてくれない。こういう道は結構疲れるものだ。
     「誰かがいれば、すぐにぼやいて文句を垂れてましたよね。」ロダンの言葉に、小町が「そうか、そうか」と応じている。「今日の座布団一枚でしょう。」草加の住人はどうしたのだろう。河原ではラジコンの飛行機を飛ばして遊んでいる人がいる。

      ラジコンの飛行機高し秋の空  蜻蛉

     だんだん列が長く伸びてきて、後ろの方が小さくなってきた。「土手下に見えるのが諏訪神社です」と後ろからやって来るひとりひとりに、隊長が声をかける。しかし土手を下りて神社に参るのではない。地図で確認するともう少しだ。そして、土手の中腹に、その目的の碑があった。土手の上から見る面は田舎教師詩碑で、下から見れば発戸松原跡碑である。

     松原遠く日は暮れて
     利根のながれのゆるやかに
     ながめ淋しき村里の
     ここに一年かりの庵
     はかなき恋も世も捨てて
     願ひもなくてただ一人
     さびしく歌ふわがうたを
     あはれと聞かんすべもがな

     「エーッ、こんな所ですか」と小町が呆れたように溜息を吐く。私も実は、もっと何かの建物があるような場所かと思っていた。碑に書かれているのは、『田舎教師』中で、主人公が作ったことになっている詩だ。ついでだから、『田舎教師』も読み直してみる。今では松原なんか何もないが、防風林を兼ねた松林だったのではないだろうか。主人公が生徒を連れてよくやってきた場所なのだ。

     学校から村を抜けて、発戸に出る。青縞を織る機の音がそこにもここにも聞こえる。色の白い若い先生をわざわざ窓から首を出して見る機織女もある。清三は袴を着けて麦稈帽子をかぶって先に立つと、関さんは例の詰襟の汚れた白い夏服を着て生徒に交って歩いた。女教師もその後ろからハンケチで汗を拭き拭きついてきた。秋はなかば過ぎてもまだ暑かった。発戸の村はずれの八幡宮に来ると、生徒はばらばらとかけ出してその裏の土手にはせのぼった。先に登ったものは、手をあげて高く叫んだ。ぞろぞろとついて登って行って手をあげているさまが、秋の晴れた日の空気をとおしてまばらな松の間から見えた。その松原からは利根川の広い流れが絵をひろげたように美しく見渡された。
     弥勒の先生たちはよく生徒を運動にここへつれて来た。生徒が砂地の上で相撲をとったり、叢の中で阜斯を追ったり、汀へ行って浅瀬でぼちゃぼちゃしたりしている間を、先生たちは涼しい松原の陰で、気のおけない話をしたり、新刊の雑誌を読んだり、仰向けに草原の中に寝ころんだりした。平凡なる利根川の長い土手、その中でここ十町ばかりの間は、松原があって景色が眼覚めるばかり美しかった。ひょろ松もあれば小松もある。松の下は海辺にでも見るようなきれいな砂で、ところどころ小高い丘と丘との間には、青い草を下草にした絵のような松の影があった。夏はそこに色のこいなでしこが咲いた。白い帆がそのすぐ前を通って行った。

     カズちゃんがいきなり跳躍して草むらを叩いた。一瞬転んだのかと思ったが、そうではない。バッタを取ったのである。スゴイ。「恥ずかしい。」そんなことはない。バッタを取る人を私は尊敬する。しかし、これがバッタなのかイナゴなのか、私には区別がつかない。「イナゴは信州でよく食べますよね」とロダンは言うが、秋田だって食べた。随分前に亡くなった伯父が、よく取ってきては甘辛く煮たものを貰って食った記憶がある。全国どこでも食べたんじゃないか。しかし「信州では」と特定した所を見れば、水戸の人は食べないのかも知れない。

      はたはたを掴んで利根の川静か  蜻蛉

     隊長の計画ではまだ先に行く筈なのだが、予想通りここから引き返すことになる。但し同じ道を戻るのでは勿論ない。もう少し先で土手を下りて右に曲がる。
     道端に十九夜尊と書かれた小さな祠が建っている。初めて見るが、十九夜講に関係するか。月待ち行事の一種だと思うのだが、下の記事を見れば、月待ちには余り関係がなさそうにもみえる。

    十九夜待は、いわゆる広義的な月待行事の一形態として、主に関東、中部、東北南部、西日本の一部などで信仰されました。関東地方では、利根川下流域から北側に広く分布し、現在も各地で行事が存続されています。(略)
    全体として女性を主体とした組織による安産祈願の行事という性格が強く表れています。また、この行事の一環として行われる「犬供養」も、茨城県や栃木県の一部地域で特徴的な要素を構成しています。(略)
    ところで、この地域での十九夜塔は相当数あり、古いものでは近世初期の一六五〇年代に造立がはじまり、一六九〇年代にかけて一気に初期のピークを迎えています。これらの石塔に共通しているのは、その銘文に「十九夜念佛供養」の文字が高い確率で認められることです。つまり、近世初期の十九夜待信仰は、念仏講的な性格を有した信仰ではなかったかと思われます。
    以上の点から考察しますと、十九夜信仰がはたして本来の月待行事なのかという素朴な疑問が湧いてきます。少なくとも、現地での聞きとり調査では、月の出を待ってこれを拝したという行為は全く認められません。また、そのような形跡があったという確かな伝承も聞かれないのです。一方、この流域では二十三夜待の信仰もさかんで、一七九〇年代以降は二十三夜塔の造立がピークを迎えています。地域によっては、二十三夜が男の行事で、十九夜は女の行事としているところもあります。
    http://www.aa.alpha-net.ne.jp/starlore/bunka/kgyouji.html

     「新しいじゃないか、昭和五十二年って書いてある。」スナフキンは説明を良く読まないからいけない。これは中の石仏を守るための堂を建てた年代であって、堂の中を見れば、石仏自体は文久の年号を持っている。宝冠をつけ、首を傾げた顎に手をあてたた半跏の姿、六臂の腕に宝輪や蓮華を持っていることから判断すれば、これは如意輪観音であろう。(後で調べてみると、十九夜講では如意輪観音を祀るということだ。私の観察もまんざら間違っているわけではなかった。)
     新築一千二百八十万円の建て売り住宅を案内する看板が立っているのが、私とスナフキンの関心をひく。「安いじゃないか。」「安すぎる、ウワモノだけの値段かな。」「土地がタダみたいなものか。」地元の人が聞けば怒るかも知れない。
     地図には「ふるさと歩道」と記されていて、なんだか懐かしいような記憶が甦る。私たちの集まりも、最初は「ふるさと歩道自然散策会」の常連メンバーとして知り合った仲間たちだ。
     ややピンクがかった五弁の白い花はクサギである。生垣にヘチマの大きな実を着けている家もある。
     「羽生に因んで、埴生の宿を歌って下さいよ」とサッチャンに頼まれたのだが、残念ながら詞を全く思い出せないのだ。あんみつ姫がいたらすぐさま歌ってくれただろう。確かカラオケで歌ったことがあったんじゃなかったか。「彼女はこういう歌が得意なんですか。」「何でも得意です、年代不詳」とロダンが答えている。「こんど是非歌って下さいね。」困ってしまう。こういう歌は得意ではないのだ。とりあえず、『埴生の宿』の詞を探してみた。

     埴生の宿も わが宿
     玉のよそおい うらやまじ
     のどかなりや 春のそら
     花はあるじ 鳥は友
     おお わが宿よ たのしとも たのもしや

     ふみよむ窓も わが窓
     瑠璃の床も うらやまじ
     きよらなりや 秋の夜半
     月はあるじ むしは友
     おお わが窓よ
     たのしとも たのもしや
     (ヘンリー・ビショップ作曲、里見義作詞)

     「私は『ビルマの竪琴』を思い出す」とダンディが言えば、「安井昌二のやつかい」と中将も話に加わる。「石坂浩二もありましたね。」「絶対、安井昌二のほうが良かった。」私はどちらも見ていないので何も言えない。
     途中、集会所の辺りで休憩を取る。ここでドクトルの万歩計で計算すると十キロをちょっと超えたようだ。
     ようやく駅に戻ると、もう三時半になっている。当初の計画をそのまま遂行していれば、五時近くになったのではないだろうか。途中で計画変更したのは良かった。これなら大宮の「さくら水産」にちょうど良い時間に入ることができる。いつも公認記録を計測してくれる宗匠がいないので大雑把に考えれば、十二三キロになったろうか。
     中将小町夫妻と伯爵夫人は秩父線で帰る。残りは東武線だが二十分以上待たなければならない。加須でドラエモンが降り、久喜で乗り換える私たちとは違い、多言居士とハコさんはそのまま乗って行った。JRのホームに降りると丁度いま出て行ったばかりで、また十五分ほど待たされた。「JRと東武と仲が悪いんだね。」
     反省会は八人、宗匠とチイさんと姫がいないのが残念だ。さんま祭の最中で、塩焼は一尾二百八十円だ。つい最近も別の居酒屋でやはり二百八十円のサンマを食ったから、この時期、居酒屋ではこれが相場になっているのだろうか。二時間ほど飲んでひとり二千四百円。

    眞人