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    平成二十年十一月二十七日(土) 波久礼~野上

    投稿:   佐藤 眞人 氏     2010.12.06

     旧暦十月二十二日。東上線の車内を見回しても知っている顔が見えない。秩父鉄道への乗り換えにはこの電車が最適だと思うのだが、私が何か勘違いしているのだろうか。やや不安を感じながら寄居駅には九時三十七分に着いた。
     秩父鉄道はスイカやパスモに対応していないから、いったん改札を出て百三十円の切符を買ってもう一度入らなければならない。ホームに降りたところに、一本前の東上線で来たらしいロダンと桃太郎がいたのでホッとした。
     腰の具合が悪くて会社にも杖を突いて通ったと言う桃太郎が、いつものように大きなリュックを背負って力強く歩いているので安心する。「六時半に出てきましたよ。」海老名からここまで三時間か、それはご苦労なことである。四十二分発の電車に乗り込むと隣の車両に古道マニア夫妻の顔が見えた。手を振ると向こうも気がついてくれる。
     九時四十七分、波久礼駅到着。隊長が改札口から身を乗り出してこちらを眺めている。外に出ればもう早い人が集まっていた。チイさんは羽生方面からやって来たのだろうが、東上線経由の筈の画伯や他のひともずいぶん早い。
     駅前で隊長が手製の地図を手に説明を始めた時、カズちゃんが息を切らせて駅から出てきた。「間に合わないかと思っちゃった。」風邪でもひいたのかマスクをつけている。彼女は西武線で秩父を経由してやって来た。なるほど、いろんな経路がある。イトハンは「熊谷で四十分も待っちゃったのよ」と言うが、それは経路を間違えた可能性が高い。
     隊長、ロダン、画伯、チイさん、桃太郎、古道マニア夫妻、イトハン、伯爵夫人、カズちゃん、蜻蛉。それに飛び入りのクロスさんが入って十二人だ。
     画伯と話しているので知り合いかと思ったがそうではなかった。クロスさんは、一人でこの駅に降りたものの道が分からない。どうしようかと悩んでいるところで我らの仲間に出会ったのである。いつも予定も決めずに適当な駅に降りて歩くと言う彼は、画伯と同じ年恰好だ。出身は福島県の中通り、現在は朝霞に住んでいる。
     イトハンも半年振りだ。「だってね、このところ肩が痛かったものだから。」歩けるならば安心だ。チイさんもやっと農閑期に入ったか。「収穫はもう終わったの。」「全部終わったよ。」

    波久礼から日暮れて梅の花白し
    波久礼から河や桜などぶらりぶらり  西望

     駅前の句碑は、「梅」の字の判読にみんなが手間取った。西望とは、長崎平和祈念像を作った北村西望のことだ。太平洋戦争中、長瀞町矢那瀬の高徳寺に疎開していた。この辺りには縁が深く、熊谷駅に熊谷次郎直実像、羊山公園に秩父鉄道の創業者柿原萬蔵の像も作っているようだ。
     寄居橋からの眺めが素晴らしい。遠くの山が色づき、近くの木々はもっと赤く、あるいは黄色になっている。荒川の水の緑色が深い。これはエメラルドグリーンと言うのではないか。深い緑の川面に近くの紅葉や遠くの山並みが写る。「いいじゃない。」「いいね。」
     ここから南に向い、最初に見つけたのは蓑虫のような形をしたロウバイの実だ。紫色の小粒がたくさんついているのは紫式部のように見える。私は「コムラサキじゃないかな」と口走ったが、桃太郎が「その違いはなんですか」と訊いてくるので恐縮してしまう。粒が小さいからコムラサキかと言っただけで、根拠と言うものは何もない。
     右手の山道の方に子の神社の古めかしい鳥居が見えたが、そこには寄らない。案内板を読んだロダンと桃太郎が「足腰に良いらしいよ」と頷き合っている。案内によれば子の神は、「山林の岩窟の中に祀られて」いて、吾野の「子の権現」との類縁を言っているから、それならば大黒の使者であるネズミではなく、山岳修験の系統になるだろう。山岳修験にとって足腰の健康は必須だからに違いない。
     この辺りから風布川に沿った道「風の道ハイキングコース」に入っていく。風布はフウップ、またはフップと読む。「波久礼もそうだけど、珍しい地名が多いよね、アイヌ語源じゃないかい。」画伯とは随分前にも同じような会話をしたことがあった。アイヌ語かどうか証明するのはかなり難しいが、私もそう思う。
     この川の水源は釜伏山、日本(ヤマト)水と言う。

    釜伏山北面、百畳敷き岩から湧出するわき水で、風布川(ふっぷがわ)の源流。 水源には「日本水大神」が祀られています。 日本水のいわれはその昔、日本武尊(やまとたける)が東征の折、この山に戦勝を祈願、その際日本武尊が喉の渇きを覚え、御剣を岩壁に刺したところ、たちまち湧水、それがこの日本水だったと言われています。 またその時わき出た水のあまりの冷たさに一杯しか口にできなかったことから、「一杯水」の別称もあります。 日本水は古くより干ばつ時の雨乞いのもらい水として、子授け、安産、不老長寿、縁結びの御利益がある霊水として広くあがめられています。 日本水を源泉とする風布川はやがて7つの支流と合流し、下流の「玉淀湖」に注ぎます。 日量5千トンもの風布川の水は、流域に多様な動植物が共生する豊かな自然を育んでいます。(荒川をめぐる旅100選・日本水)
    http://www.ktr.mlit.go.jp/arajo/map/02/yorii_c/097nihon.htm

     日本名水保存会によって定期的な清掃が行なわれているので、透明な水が維持できる。静かな道を落ち葉を踏んで歩いていると、せせらぎの音が聞こえてくる。「アー、気持いいな。心が洗われますね。」ロダンの感動はいつも同じ表現になってしまっておかしい。だから私も同じことを言わねばならない。「ドロドロの心が洗われるんだろう。」それを聞いてイトハンが「みなさんの心は、よっぽど汚れてるのね」とコロコロと笑う。「深呼吸をして頂戴。」言っておくが、私の心は綺麗だ。

    せせらぎに命を洗ふ小春かな  蜻蛉

     「これがサイカチ(皁莢)。」隊長が立ち止まって教えてくれるのは、幹の途中に棘がやたらに出ている木だ。「大きな豆が出来るんですよね。」二三十センチにもなるんじゃなかったか。「その辺に莢が落ちてないかな」と隊長が探してみるが、それは見当たらなかった。「駒込のどこかで見たじゃないか。」そう言ってもロダンは思い出さない。過去の記録を引っ張り出してみると、やはり四年前の江戸歩きの時、駒込天栄寺(駒込土物店跡)の境内でサイカチを見ていた。しかしロダンは参加していないから記憶がないのは当たり前だ。
     次第に山道に入っていくと、地面には真っ赤な落ち葉が敷かれ、歩くたびにカサカサと音を立てるのも嬉しい。街中だとただ邪魔なだけの落ち葉だが、こういう山道だと土に敷き詰められた葉が足に優しい。

    落葉踏む足音響く山木立ち  千意

     車道からそんなに離れていないのに、山の中を歩いている気分になってくる。「キャラメルどうですか、産地限定なんですよ」と古道マニアがくれたのは葡萄の味のするものだった。どこの産地限定だか聞き漏らしてしまったが、こういう所だと普段口にしないものでも旨いと思う。
     やがて右前方に高さ十メートルほどの岩が現れた。立て札には天狗岩とある。「堆積岩ですね。」今日はドクトルがいないから、地質学になればロダンの独壇場だ。無数の線が水平に重なっているのが堆積した地層の跡だとすぐ納得できる。
     しかし恐る恐る言うのだが、この岩は結晶片岩というものとは違うのだろうか。板碑からの連想で、秩父長瀞の石は緑泥片岩だと私は一つ覚えしていた。緑泥片岩は結晶片岩の一種であろう。この岩の水平線を見ると、平行に割れやすい結晶構造になっているように見えるのだ。勿論、大昔に堆積したものが変成したのであれば、もともとは堆積岩と言うのかも知れない。

    日本水は蛇紋岩の影響を強く受けて湧出しており、陽イオンの中ではMgを大量に含み、その量は60%近くを占め19.5mg/l に達していた。日本水はMg・HCO3型の水質であり、流下して結晶片岩地帯を流れる風布川に合流し水質が変化して、Ca・HCO3 型の水質となることが明らかになった。http://www.geo.ris.ac.jp/~orc/happyou/pdf/P3-05.pdf

     私の疑問を補強するのがこの記事だ。「結晶片岩地帯を流れる風布川」と言っている。(地学に無知な私の疑問です。教えを請う。)
     「何千年かな」とクロスが呟き、「そんなものじゃないですよ、何十万年というものです」とロダンが応じる。「地球の年齢は。」「四十六億年。」こういう数字を即座に口にするから、隊長はやはり科学者である。「後どのくらいもつのかしら。」「我々が生きている間は大丈夫でしょう。」よく分からないが五六十億年、ただし地球が存在しても太陽温度が上がりすぎ、生命体が存在できなくなるのが二十数億年後のことのようだ。
     「その頃まで蜻蛉さんだけ生きてたりして」と画伯が笑う。私はよほど図太い生き物だと思われているのではないか。「『火の鳥』の猿田彦みたいにね。」猿田彦は淋しい。「『火の鳥』は名作ですよね。」ロダンとマンガの話になるとつい長くなる。彼は全十巻読んだと言う。各種の版があって十巻本とはどれのことか分からないが、私は朝日ソノラマ版で四冊だけ持っている。
     石伝いに川を渡る。ほんとうに水が澄んでいる。「下見のときは水嵩が増していて、渡れないかと心配してたんだよ。」今日の程度であれば、石の表面も乾いて滑りもせずに充分に渡れる。格好のハイキングコースだと思うのに、私たちの他には誰も歩いていない。静かで実に良い気分だ。
     時折古道マニアが鳥の声に耳を澄ましている。それを見て「折角、家中を探して見つけたんだから」とロダンがリュックから双眼鏡を取り出した。「あれじゃないの、向こうの岩のところ。」「いたわ。」私にはまるで見えない。

    石踏むで鳥の声聞く紅葉川  蜻蛉

     石を伝ったり橋を使って何度か川を渡る。隊長やカズちゃんが渡った不安定な橋は揺れるようで、ロダンは両手を広げてバランスを取っている。「だって私、揺らしたんだもの」と喜ぶのはカズちゃんだ。最初のうちは最後尾を歩いていたのに、山道になると途端に元気になる。「こっちの方がいいんじゃないの」とイトハンに声を掛けて、私は石伝いに川を渡る。
     やがて小さな神社の裏手に出た。ここは姥宮神社だ。狛犬の代わりにマンガのような蛙が鎮座していてみんなが喜ぶ。古道マニアが「浦和の調神社はウサギですね」と言う。以前から聞いてはいるが、私はまだその実物を見ていない。そのほかにも、鳩(八幡神社系)、猿(日吉神社系)、狼または山犬(三峰、御嶽系)など、結構いろんなものが狛犬の代わりになっている。勿論お稲荷さんの狐も同様だ。
     両方とも口を結んでいるから、「どっちも吽ですね」とロダンが頷く。左の蛙の背には小さな蛙が三匹乗っている。親亀の背中に小亀を乗せてとは歌うが、親蛙の背に子蛙というのはどうだろう。そもそも蛙の子はオタマジャクシではないか。
     疑いもせずにウバミヤと読み、カズちゃんも「姥捨てのウバですね」と頷いていたが、どうやらその読み方は本当ではない。正式には「トメミヤ」だった。

    「姥宮神社」の「姥」は「とめ」と読んで「とめみやじんじゃ」といいます。「姥」を「うば」とも読むので、「うばみや」とも呼ばれていますが。祭神は石凝姥命(いしこりどめのみこと)です。石の鋳型を使って鏡を鋳造する女神です。
     http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1316262103

     またこういう記事もある。

    姥宮は「とめみや」と読みます。馬とは関係ありません。姥宮神社の使徒は蛙です。大きな蛙を「おおとめひき」ということから、「とめ」繋がりで蛙像が奉納されています。http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1016344555

     「オオトメヒキ」のヒキは秋田弁で「ビッキ」(蛙)と言うのと同じだろう。それにしても姥を「トメ」と読むとは知らなかった。ウィキペディア「トベ」によれば、石凝姥を石凝戸辺とも書き、古くは「トベ」とも言ったようだ。ヤマト王権以前の女性首長を呼ぶ。
     「老」という字は、中世惣村で村の指導者(オトナ、トシヨリ)になり、江戸時代にも老中とか若年寄という職務になることを思えば、女の首長ならば姥の字を当てたのは納得できる。
     祭神のイシコリドメは、アマテラスが岩戸隠れをした際に八咫鏡(後に天孫降臨の際にニニギに与えられて、三種の神器の一になる)を作った。鏡作部の祖神であるが、鏡は銅製に決まっているから、金属加工に関係した集団が奉戴した神だと思われる。この地方は和同開珎で有名な銅の産地だ。
     ここでチイさんが重そうなリュックから、小さなサツマイモを茹でたものを取り出して配ってくれた。全員に二本づつ配ってもまだ余る。イモなんか女子供の食うものだとバカにしている私でも、チイさんの芋なら食わねばならぬ。そして悔しいが旨い。「金時芋です。」私は芋の種類について全く無知である。
     小さな神社なのに、彫刻が見ごたえある。獅子の木鼻はどこでもあるが、「こんな所にも」とロダンが気付いたのは、縁の下で土台からすぐ上の堂を支える部分だ。「ここもそうよ」とイトハンが指した。脇障子に彫られているのは、何かの物語に由来するのだろうか。足駄を履いて剣を抜き左手に扇を開いた少年剣士、それを下から追うのは何か、そして右下に老人。これは何だろう。一寸法師か。教養がないから分からない。
     「これも珍しい」とロダンが言うので、石段を下りて鳥居を見上げれば、貫には幾何学模様が彫られ、笠木には屋根があり、更に額束を守るようにそこだけ取り付けられた唐破風がある。この形は初めて見る。
     「宗匠がいれば鳥居の資料を持ってたんじゃないの。」後で調べてみたが、私の手持ちの材料ではこの形は出てこない。ネットでも探して見たが、こんな形の鳥居は見つからない。宗匠の持っている資料も私と似たり寄ったりだった筈だから分からないのではないか。
     橋を渡った所が日本(ヤマト)の里だ。駐車場の隅の草むらに隊長が不思議な茸を発見した。白い茎に黒く細長い帽子を被ったような形で、旨そうには見えない。「食べられるのか。」「食べない方がいいよ。」素人にキノコは危険だ。隊長は「アミガサダケに似てるけど」と言っている。
     ここでトイレ休憩を取って出発する。川沿いに遊歩道が整備されていて気持ちが良い。バーベキューができる施設もあるが、誰も利用していない。「風布館」という建物の中で麺を打っているオバサンの姿が見える。
     「ここは風布のどまん中です」という看板が立っていて、私はこれが気に入らない。関西方言が日本標準語ではないという前提でモノ言えば、日本語に「ど」という下品な接頭辞はない(と思う)。敢えて言いたいなら「まん真ん中」である。こういうことを言っていると山口瞳か古老になった気分だ。
     廃校になった旧寄居小学校風布分校を過ぎ、みかん山に登る入口の道端に石仏が三つほど並んでいた。ロダンが早速「今日は講釈師がいませんね」と笑う。青面金剛がいなければ講釈師も踏みつぶされる出番がない。「だけど、ロダンがいるじゃない」とチイさんが言う。傾げた首を右手で支えている姿が考える人のように見える。おそらく如意輪観音だろう。横に二十一夜待(二十三夜かも知れない)供養と彫られている。十九夜待には如意輪観音と知ったばかりだが、二十一夜待も同じく如意輪観音を本尊とする。寛延元年(一七四八)の年号が判読できる。いずれも女人講だ。
     その左の自然石は享保の年号を持つ巳待供養塔だ。これは月待ちではなく、己巳(つちのとみ)の日または前夜に集まり、弁天を祀って福富を願う。養蚕にも関係あるようだ。右のものは磨滅が酷くて何だか分からない。
     ここからは急な上り坂で観光みかん園がいくつも続いている。この地区のみかん栽培は、天正年間(一五七三~九二)鉢形城主だった北条氏が小田原から移植したのが始まりだと言う。ちょうどミカン狩りのシーズンで、これを目当てにした車が何台も登って来る。入園料五百円で食べ放題、所定の袋に入れられるだけ持ち帰りができるようだ。「あんまり甘くなかった」と古道マニアが証言する。「でも大分以前のことですからね。」甘さはその年の気温にも因るだろう。
     九十九折の山道の所々で眺望が開けてくる。「ここがミカン栽培の北限なんですよね。」そうだったか。しかし温暖化がこれ以上続けば、その限度はどんどん北上していくのではないか。念のためにネットを検索すると、やはり露地栽培のミカン北限は移動していた。

    福島県広野町の「みかんの丘」で24日、小学生らによるミカン狩りが始まった。
    同町は、温暖さをアピールしようと1985年、町のシンボルとしてミカンの苗木を全戸配布した。一般家庭の庭で見られるほか、町有地で栽培しており、温州ミカンの露地栽培北限の地とされる。(「読売オンライン」11月25日)

     更にこの外にも栃木県那須烏山市、茨城県桜川市(筑波山の麓・酒寄地区)、佐渡市大杉地区、岩手県大船渡市の民家一軒などが北限を主張している。この調子ならすぐにミカンは北海道まで渡ってしまう。「そう言えば新潟や秋田じゃなくて、北海道が米どころだって言いますからね」と古道マニアが笑う。
     枇杷の花というものを私は初めて見た。うすボンヤリした白っぽいもので、一房に丸い塊がいくつも生っている。カズちゃんも初めてと言っているのに、ロダンは「ああ、ビワですね」と素っ気無い。「だって、葉っぱの形がそうですから」とは憎い言い方だ。まだ開花していないようで丸い塊(蕾か)ばかりだ。黄色の花はアキノキリンソウ(秋の麒麟草)だと教えて貰う。
     いつの間にか先頭を行っている筈の隊長が見えなくなった。離れてしまった伯爵夫人は二股に別れた所でミカン園の中に入ってしまい、すぐに気づいて戻ってきたが、それではお金を取られてしまう。イトハンが「ヤッホー、タイチョウ」と呼んでも返事はない。「どうしたのかしら」。
     左に曲がったところで、立ち止っている隊長に追いついた。隊長がいるのとは逆の右手の方はピラカンサスが真っ赤な実をつけている。ここでは道端にテーブルを並べて、ミカン一袋二百円、柚子百円、自家製ラッキョウ二百円などを売っていた。「何買ったんですか。」「うん、柚子をね、ジャムを作るから」という画伯の返事に、「後で分けようと思って持ってきてるのに」とチイさんが嘆く。「早く言ってよ。」チイさんはサツマイモや柚子を大量に運んできたのだ。重かっただろう。
     見下ろすと随分登って来たことが分かる。遠くの山は赤や黄に染まり、手前は青い葉の間にミカンの黄色が鮮やかに光っている。

    秋の日や赤黄青と写りけり  千意

     いつの間にか、手を伸ばせばすぐにミカンを取れる細い道、つまりミカン園の中に入ってしまった。大丈夫かな。李下に冠、瓜田の沓。ミカン泥棒と思われないだろうか。やっとそこを抜けて舗装した道に出た。つい最近まで腰が痛くて歩けなかった桃太郎は大丈夫だろうか。「全然、平気ですよ。」それなら良かった。
     「この辺に秩父事件顕彰碑があるんだけど」と隊長が言うのに、見ることができなかったのは残念だ。秩父困民党の事件は明治十七年(一八八四)十月三十一日、風布村の蜂起に始まったのである。風布村全村民が決起に参加し、困民党軍の中で最精鋭の部隊を組織したと言う。
     「ここで昼にしましょう。」使わなくなった倉庫の周りは砂利が敷いてあって座りにくい。シャッターの前がコンクリートで固めてあって、そこにシートを広げた。しかしビニールシートを敷いても剥きだしのコンクリートでは尻が冷たい筈だ。こういうとき、百円ショップで買った折りたたみ座布団が威力を発揮する。「アッ、そんなものがあるの」とカズちゃんが感心する。たまに覗いてみると百円ショップで結構便利なグッズを発見することがある。
     登ってくる途中は汗をかきそうな陽気だったが、座り込むと風がやや冷たくなってきてもう一度ジャンバーを着る。煎餅やお菓子が回され、チイさんが大きな柚子を配ってくれる。「やっと軽くなった。」「どうやって食べるんだい」と隊長が真剣に訊く。私は焼き魚や焼酎に絞ったり、風呂に放り込んだりする。
     「柚子を風呂に入れるのは冬至だよね」と言う画伯に「今年の冬至は二十二日、その頃に月食があるんだよ」と隊長が反応する。さすがに気象予報士である。ネットで調べてみると二十一日に皆既月食が見られるらしい。「夕方から見えるんですよね」と古道マニアも言っている。月出帯食と言うものらしい。これは月食の途中の欠け月が昇ってくることとある。
     休憩も終わり舗装された林道を登っていくと、赤紫のアザミが咲いているのを見つけた。「ノハラアザミ。」「ノアザミじゃないんですか。」「ノアザミは春、秋はノハラアザミ。」フーン。「アリバイ、アリバイ」と呟きながらロダンがメモをとる。「今日の成果を女房に報告しないといけないから。」夫人には誰も会ったことがないが、ロダンの愛妻家ぶりはもう知らない人がいない。
     杉の木は綺麗に枝打ちされ、下草の手入れも行き届いているから林の中は明るい。「俺のうちも山持ってるけど、全然やらないな」とクロスさんが言う。実家が福島の山持ちなんだそうだ。跡継ぎがいない、人手がない、手間をかけても経営が成り立たない。壊滅状況にある日本林業は、国家が補助してでも育成しなければならないのではないか。水田、里山、山林こそが日本の風景の(そしてエコロジーの)原点なのだから。
     杉の間から漏れてくる光が美しい。「木漏れ日って言うのよね、素敵。」前方の草むらには大量の新聞紙が散らばっているように見える。近づくと薄鼠色に枯れた朴の葉だ。美しくない。朴の葉は何故いつも裏返しになっているか。ロダンが解説しようとするが、これは以前ドクトルが言っていた。単純に物理の法則によるのである。湾曲した内側が下になるのに決まっている。だからメンコの法則と言っても良い。「それって聞いたわよね、横瀬を歩いたときだわ」とイトハンは場所まで思い出したが、ロダンは初めて聞くような顔をしている。
     「アッ、綺麗。」前方に見えるカエデは赤、黄色に染まった中に、僅かに薄緑の葉が残されて、その微妙な色の変化が美しい。そこにちょうど昼過ぎの太陽が光を浴びせている。「素晴らしいね。」「ホント、ホント。」感動しやすいイトハンに感染したせいもあるが、私たちは実に安上がりに感動できる。但し私たちがお手軽に感動できるのは、隊長の計画と入念な下見のお蔭である。
     山に入る細い獣道の際には、山林には猪罠が設置してあると警告する看板が立っている。「俺は、猪が罠に掛っているのを見たことがある」とクロスさんが言いだした。この辺ではないらしいが、歩いていてそんなものに出くわしたら怖い。「飛び掛ってこようとするんだ。」
     やがて葉原峠に着いた。標高四百七十メートル。波久礼駅の標高は正確には分からないがほぼ百二十メートとすれば、三百五十メートルは登ったことになるだろう。
     ここからは山道を下る一方だ。やがて岩根神社の(つつじ園)駐車場に着いて休憩する。みんなが東屋にリュックを下ろしている間、私はひとりで神社まで歩いてみた。参道は黄色の公孫樹の葉で埋まり、中年の夫婦が袋に葉っぱを詰めている。「葉っぱを何にするんですか。」「葉っぱじゃなくて、ギンナンよ。」なるほど私がトンチンカンであった。
     記憶どおり狛犬が狼であることを確認し、岩に彫られた窪みに鎮座する観音様も見る。祭神は大山祇命(オオヤマヅミ)、大口真神(オオグチノマガミ)、大己貴命(オオナムチ)、武沼河別命(タケヌマカワワケ)、御嶽大神、木花開耶姫命(コノハナサクヤ・大山祇の娘)、天手力男命(タヂカラオ)、日本武尊命(ヤマトタケル)である。御嶽大神は木曾の御嶽ではなく武蔵御嶽だろう。とすれば蔵王権現か。
     そして大口真神が狼なのだ。右の狛犬の耳は欠け、歯をむき出しにしている。「三峰神社も同じですよね」とロダンも納得する。秩父三峰こそは日本の狼信仰の中心である。

    さて、日本で狼信仰を取り込んだ寺社は、数多ある。秩父地方にある武州三峰山などはその中核を担う存在として庶民の崇敬を集めてきた。また、三峰山の周辺を見渡すに、秩父地方や武州御嶽山、甲州金峰神社など、旧武蔵国には狼信仰の寺社が数多く存在し、一大狼信仰地域を形成している。これらの寺社は、そのほとんどが狼信仰発生の由緒を『日本書紀』の日本武尊の東征伝説を自己の由緒に取り込み、それをもって説き明かしている。(西村敏也『狼信仰に関する一試論』)http://e-lib.lib.musashi.ac.jp/2006/archive/data/j4102-08/for_print.pdf

     戻って狛犬が狼であることをイトハンに報告する。狛犬に趣味があると言っていたからだ。それを聞いて隊長も見に行った。暫くして戻ってきたイトハンが「痩せてて可愛いわね」と面白いことを言う。太った狼と言うのは余りいないだろうね。
     ヨーロッパでは狼は邪悪の象徴であり、日本では神になる。牧畜が重要産業だった世界では家畜を襲う狼は忌み嫌われた。それと違って牧畜を採用しなかった日本では、畑を荒らす鹿、猪を駆除する益獣と考えられた。それに、狼はむやみにひとを襲わないと言う。

     もともと狼という語は大神に由来するといわれ、『日本書紀』には狼のことを「かしこき神にしてあらきわざを好む」と表現し、万葉時代には「大口の真神」と尊称をたてまつっている。(谷川健一『神・人間・動物』)

     ついでに調べてしまったのだが、実は私はこの年になるまで「送り狼」の正しい意味を知らなかった。実に無学で恥ずかしい。送り狼は夜の山道で人の後をついて来る。命乞いをするか、声を掛けたり落ち着いてタバコを吸ったりすれば襲ってくることなく、家まで無事に送り届けてくれる。それが送り狼の伝説であった。勿論、送って貰ったときにはお礼をしなければいけない。地方によっては狼を山犬と見做して「送り犬」というところもある。
     道を挟んだ谷際には鉄条網がめぐらされている。その山は季節になれば一面、赤や紫のミツバツツジで覆われる。鉄条網には紅白の幔幕を張って無料では見られないようにするのが嫌らしいが、所々その切れ目から覗くことはできる。「立派なもんですよ」と古道マニアも保証する。なかなか大したもので、未見のひとは一度は来てみることを勧めたい。入園料を取られるが(一昨年は五百円だった)、その価値は充分あると思う。

     巨木となったつつじのトンネル、神社境内からの眺望など景観は関東でも屈指のものです。このつつじの巨株は古くは戦国武将武田信玄公に付き、群馬県礒部町を支配してきた礒部家が礒部城落城の際に持ち込んだもので、それ以外の株は明治三十五年頃より当時の神職礒部染吉翁が多年の歳月と費用を投じ、植栽し、増やしたものであります。
     (「岩根山ツツジ園の由来」http://www.chichibu.ne.jp/~hide-y/tutuzien.html)

     今は幕はないから、全山一望することができる。「あのお寺みたいなのは何。」「お寺ですよ、この山を管理している。」山の上に見えるのは実はお寺ではなく大山祇神社である。社務所を中心に岩根神社は表鬼門(北東)にあたり、それなら裏鬼門(南西)には大山祇を祀ろうと平成十二年に建立された。そして、この山を管理しているのが上の記事にある礒部家(今でも宮司として続く家のようだ)である。
     ここからツツジ園の中を通って下って行く。勿論入園料はいらない。そもそも私たちの他に人の気配がいない。水災者の供養塔が立っているのを古道マニアが見つけて読んでいる。こんな山の上まで水が出た筈はないが、もしかしたら寛保二年(一七四二)の大洪水で被災した家族を供養したものだろうか。利根川、荒川水系で江戸時代最大規模の洪水と言われる。長瀞でそのときの水位を表したものを見たことがある。
     青い、瑠璃色と言ってもよい丸い実は何だろう。古道マニア夫人は山ブドウではないかと言い、隊長は野ブドウだと判定する。なるほど葉の形がヤマブドウとはちょっと違うようだ。「絵を描くのよ」とイトハンはそれをちょっと折取って袋に入れた。

    野葡萄の瑠璃色深し白き手に  蜻蛉

     暫く歩いた後「あっ、落としちゃったのかしら」と、リュックの中を捜しながら残念そうに言う。落としたのはマムシグサだ。「またありますよ」と古道マニアが慰めていると、すぐにその真っ赤なマムシグサも見つかった。「ありましたよ。」古道マニアが手を貸して引き抜いたものを大事そうにビニール袋に収納する。トウモロコシを真っ赤に塗って、半分に切った奴を茎に差し込めば、それがマムシグサだと言っても良いんじゃないか。
     門があるが開いているからそのまま通る。「講釈師だったら必ず閉めちゃいますよ。」「やりそうだよね。」山道の落葉を踏みしめて歩いていると、ホダギが積み重ねられている場所に出た。ひとつふたつ取り残したシイタケが残っている。
     登山口に降り着いたとき、伯爵夫人が「どこかに寄るって仰ってましたか」と隊長に訊ねている。仰るなんて敬語はなかなか使えない。「お寺があるんですよ」と隊長は駅に向かう交差点を曲がらずに通りすぎる。春日神社の鳥居が立つが、神社そのものは三十分ほど登った金嶽山の頂上にあるから今日は行けない。和銅採掘遺跡だそうだ。
     隊長の目的はすぐ隣の法善寺だ。臨済宗妙心寺派金嶽山法善禅寺と言う。寺宝は金嶽山から落ちてきた十六キロの自然銅だ。今日は最初の姥宮神社で、金属加工の集団が住んでいたことを推定した。最後になってまた同じことを思わなければならない。
     門前には如意輪尊と刻んだ石が立つ。不思議な書体でみんなが判読に苦労したが、「女」の下に「口」を書いているのが「如」だと分かれば簡単だ。地蔵座像の台座には「抜苦與楽」の文字が彫られている。出典は「大慈与一切衆生楽、大悲抜一切衆生苦」(大智度論)にあるらしい。
     本堂の前で「およびって、初めて知った」とチイさんが驚くのは、万葉の歌を記した立札だ。

    秋の野に咲きたつ花を指(および)折りかき数ふれば七草の花  山上憶良

     「あの有名な憶良ですよ。」それがこの寺とどう言う関係か。ここは長瀞七草巡りの一つになっていてフジバカマを担当しているのだ。だから紀貫之の歌も並んでいる。

    やどりせし人のかたみか藤袴わすられがたき香ににほいつつ  紀貫之

     残念ながらフジバカマは咲いていない。もう散ってしまったんだろう。枝垂桜が見事な寺でもある。四月上旬、野上駅から先ずこの寺に来て、それから岩根山に登るのがお勧めである。但し秩父鉄道は無茶苦茶混む筈だ。(一昨年、隊長、桃太郎、ドクトルと一緒に一度来ただけなのに偉そうなことを言っている。)
     「ちょっとお茶でも飲みましょうか。」駅の方に曲がる道の角に「山茶花」と言う喫茶店があった。「十二人ですが。」隊長の言葉に女主人は驚いたようで、食事は出来ないと言う「コーヒーとか。」「それなら大丈夫です。」
     二時半を過ぎた頃だが、山小屋風の店に他の客はいない。カウンターにはブローチか何か、手作りの品物が値段を付けられて並んでいて、カズちゃんがしげしげと見詰めている。「買うのかい。」「ウウン、買わない。」「買えばいいじゃないか。」隊長とのそんなやり取りに、女主人が「無理して買わなくてもいいですよ」と笑う。
     「次の電車は三時四十一分です」と古道マニアに注意されなければ時間を忘れてしまう所だった。「それじゃもう出なくちゃ。駅まで十分じゃ行かないからね。」コーヒーは三百五十円だった。歩き始めると同じような山小屋風の喫茶店が三軒ほど見つかった。こんなところで商売が成り立つのだろうか。
     荒川にかかる高砂橋を渡ると、下にはカヌーを操っている連中が見える。寒くはないのだろうか。「コニャックって言ったっけ。」カズちゃんの言葉でロダンが「カヤックでしょう」と笑う。「そっか、何とかヤックって覚えてたんだけど。」
     住宅地の中ですれ違う子供たちが「こんにちは」と声をかけて来るのが珍しい。この辺りには都会と違って、怪しいオジサンは出没しないのである。母親に連れられた小さな子どもが「こんにちは」と元気に言ってくれると、とても可愛い。「親の教育ですよね。」親だけではこうはいかない。学校も含めて地域ぐるみの教育の成果でもあるだろう。

    冬晴れや挨拶高く秩父の子  蜻蛉

     野上駅には五分ほど前に到着した。寄居まで僅か三駅で四百三十円というのはずいぶん高いから、運賃体系を調べて見た。初乗り(四キロまで)百六十円、六キロまで二百三十円、八キロまで三百円、十キロまで三百七十円、十二キロまで四百三十円。これが東武鉄道なら十五キロまで二百四十円、四百円では三十キロまで行ける。かなり違うと言うのが実証できた。
     電車は混んでいるが分散するとなんとか座れた。それにしても寄居駅の乗り換えは実に分かりにくい。切符を窓口に渡して、東武線乗り換え口でカードをタッチすればエラーになる。駅員に訊くと、「階段の下でタッチしなかったんですか」という返事だ。そんなところ誰も気付くものか。「それじゃ改札でタッチして。」更に東武の連絡口でタッチしなければならない。いくら赤字路線でも(確認した訳ではないが、そうだろうと思う)サービス業である。もう少しなんとかならないものか。
     やっと電車に乗り込むと、切符を買っていた筈のカズちゃんの姿が見えない。もう間に合わないか。出発ギリギリになって、階段から降りてくる姿が見えた。「急いで」と声を出さずに手を振ると、なんとか飛び乗った。寄居はかなり危険な駅である。
     川越に着いたのは五時を過ぎた頃だった。案の定、寄居駅でうまくカード操作が出来なかったひとがいて、窓口で記録を修正してもらわなければならない。目指すはいつもの「さくら水産」、今日は久しぶりにイトハンも加わって七人になった。紅葉に堪能した後の酒は旨い。二時間ほど飲んで二千六百円。珍しく二本目の焼酎を少し余してしまった。

    眞人