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    平成二十二年十二月二十五日(土)  岩槻

    投稿:   佐藤 眞人 氏     2010.12.06

     旧暦十一月二十日。日射しは強いが空気が冷たい。
     岩槻駅前には「博物館友の会」の旗を掲げた団体が集まっていて、そちらに向かうべき人が間違えて私たちの方に寄って来ては苦笑いしながら戻って行く。我々も旗を作るべきか。その中から一人が出てきて古道マニアと親しげに会話をしたかと思うと、資料を渡している。「あの人は鎌倉古道のリーダーですよ。」古道マニアの話では、向こうの団体は学芸員の説明がつくそうで、我々素人集団とは違うのである。
     本日の参加者は、隊長、画伯、宗匠、ハコさん、ロダン、多言居士、桃太郎、古道マニア、バンブー、スナフキン、講釈師、若旦那夫妻、あんみつ姫、カズちゃん、イトはん、伯爵夫人、マリー、蜻蛉の十九人だ。欠席のチイさんから句が届いた。

     年の瀬を一歩二歩三歩うさぎ飛び  千意

     「これあげるよ。」久しぶりに会った多言居士が、思いがけず本をくれた。前から欲しかった加藤蕙『武蔵野の石仏』(絶版である)を始めとして仏像関係のものが四冊。わざわざ私のために持ってきてくれたのだ。有難いことである。あんみつ姫からも、事前の募集に希望した木下杢太郎『百花譜百選』、『明六雑誌(上)(中)(下)』の他に『歩いて廻る比企の中世・再発見』を戴いた。一気にリュックが重くなる。それを「この間整理したばっかりじゃないの」とマリーが呆れたように見ている。
     十時の時報とともに駅前のカラクリ時計が音を鳴らして動き出した。最上段では子供がひとり、真ん中には女性が踊り、下段で三人が(三人官女か)楽器を弾いているようだが、折角カメラを構えた丁度そのとき、目の前にバスが止まってそれを塞いでしまった。
     岩槻は誰でも知っているように(と言うより私はそれしか知らなかった)人形の街である。歩き始めれば、やはり人形店が目立つ。岩槻人形優良店会の正会員は二十二もいるのだ。「出しっぱなしなんだね」と、こんな時期に雛を飾っていることに宗匠が感心している。

     年の瀬や雛踏ん張る店の先  閑舟
     

     岩槻コミュニティセンターには裏口から入った。入ればそこはトイレの前で、「珍しいだろう、これが岩槻なんだ」と講釈が始まる。なるほど、男女の別を示すサインが内裏雛の格好をしているのである。しかし他に誰もいないから良いが、女子トイレの前に仁王立ちしているのはいかがなものであろう。
     岩槻と人形の関係はどうして生まれたか。手頃な記事を見つけたので引用する。

     約370年前の寛永年間(1634年~1647年)三代将軍徳川家光公が、日光東照宮の造営にあたって全国から優れた工匠を集めました。当時岩槻は、日光御成街道の江戸から最初の宿場町であったため、東照宮の造営や修築に携わった工匠たちの中にこの土地に住み着いた者も多く、その人々が付近に数多く植えられている桐を使って箪笥などの製品を作るようになったと言われています。その中には人形づくりをする者もいて、その技術を広めたといわれます。
     新版風土記によると、元禄10年(1697年)京都堀川の仏師恵信が岩槻で病に倒れ、時の岩槻藩主小笠原長重氏の藩医の治療を受けて回復後も岩槻にとどまり、付近で産出される桐粉に着目し、しょうふ糊で練り固めて人形の頭を作り始めたと言われています。岩槻周辺は桐の産地だったので原料の桐粉が豊富で、しかも人形頭の塗装に使用する胡粉の溶解、発色をよくするために重要な水に恵まれていました。こうして恵信の残した桐塑頭の技法は、藩の武士や農家の人々の内職・趣味・兼業等によってその後も受継がれ、幕末には岩槻藩の専売品に指定されるほど重要な産業となり今日に受け継がれております。
     (岩槻人形協同組合http://www.doll.or.jp/iwatsuki_doll/index.html)

     ホールの壁には人形を作る工程を示す写真が貼られ、その下には、首だけがいくつか展示されている。「可愛いわ」とイトはんは喜んでいるが、黒髪を伸ばした白い首だけと言うのは獄門首を連想させる。ロダンは「ブキミ悪い」と顔を顰める。「髪の毛だけがいつまでも伸びていくのよ。」姫はたぶん怪談が好きなのだ。写真の中では、茶色の坊主の顔半分が白く塗られ、茶色に残った側の片目だけが開いているのもブキミワルイ。(ブキミワルイというのは、松本零士『男おいどん』の用語である。)

      極月や人形の首蒼白く  蜻蛉

     次は芳林寺(曹洞宗・太平山)に行く。さいたま市岩槻区本町一丁目七番十号。山門前の狛犬は唐獅子と呼ぶ方が良いだろう。「そうですね、唐獅子ですよ」とあんみつ姫も頷いた。マーライオンみたいだという声も掛る。両方とも「阿」形だ。それは良いのだが、岩槻城に関する案内板の説明が私には腑に落ちない。「おかしいですよね」と古道マニアも笑っている。これを見て欲しい。

    岩槻城は、室町時代に古河公方足利成氏の執事扇谷(上杉家)持朝の命を受け、長禄元年(一四五七)太田道真・道灌父子が築城したと伝えられる。

     おかしいのは「古河公方」と「執事扇谷」の関係なのだ。
     扇谷持朝は関東管領上杉憲実に従って、「鎌倉公方」足利持氏を滅ぼし、その後の結城合戦でも幕府軍の副将を勤めた人物である。そして「執事」という職名は室町時代初期のもので、この時代では「関東管領」と言わなければならないのだが、扇谷持朝は実質的に幕府権力を握った後も正式に管領職には就いていない。
     一方の足利成氏は上杉に滅ぼされた持氏の子だ。いったんは鎌倉公方の座に就いて上杉憲実を暗殺して(享徳の乱の始まり)権力を握ったかに思ったものの、持朝と対立して古河に逃げ延びた。「古河公方」と称すことになるのはそれからだ。
     つまり扇谷上杉持朝が「古河公方」の「執事」というのはあり得ない。敵同士である。そして扇谷上杉の家宰として、道灌の生涯の大半は古河公方方との戦いに終始したのだ。それ以来後北条氏が登場するまで、関東の覇権は古河公方と上杉氏との間で争われ、やがて扇谷上杉、山内上杉の内部抗争を伴って三つ巴の戦いになった。これが戦国前期の関東の情勢である。
     それに加えて、現在では太田道灌築城説も崩れた。文明十年(一四七八)、忍城主成田顕泰の父成田自耕斎正等が築城したという史料が見つかったのである(ウィキペディアより)。この成田氏は古河公方の側である。
     岩槻が戦略上きわめて重要な地点になったのは、鎌倉と古河との対立が生じてからのことだ。最初に城を築いたのが古河方ではあっても、後に道灌が占拠したことによって、岩槻城は河越城とともに上杉方の防衛拠点及び前線基地となった。
     境内には平成十九年四月に造られた太田道灌騎馬像が立つ。「道灌の像はあちこちで見るよね。」戦国前期の関東は道灌を抜きにしては語れない。やはり一代の英雄であった。
     「木曽馬だから足が短いんだ。」「馬を背負った人もいたね。」深谷市畠山の史跡公園に馬を背負った畠山重忠像がある。講釈師は何でも知っているから、太刀の形について説明が始る。「反っているだろう、時代が移ると反りが少なくなる。」
     鉄の扉を閉ざしている門の左の柱には「太田道灌公御霊廟」、右には「曹洞宗 太平山芳林寺」と掲げていて、ここからが本当の境内のようだ。そちらにも床几に腰を下ろした武将の像がある。「この中には入れないんだ」と隊長が言っているのに、そんなことに構う講釈師ではない。横の戸を開けてどんどん中に入って行く。「なんだ、入れるのか。」これも道灌かと思えば違って「当寺開基太田氏資(うじすけ)公」であった。氏資は道灌の玄孫になる。
     道灌が暗殺されて以後の太田氏の動きはどうだったか。以下、「武家家伝 太田氏」を参照した。(http://www2.harimaya.com/sengoku/html/ota_k.htmlより)

     岩槻城に拠ったのは道灌の養子資家の系統で、江戸城に拠ったのが道灌の実子資康の系統である。岩槻系に話を絞れば、資家の跡を継いだ資頼のとき、後北条氏二代氏綱が江戸城を落とし更に北進して岩付城(こういう表記もあった)に迫った。資頼の家臣渋江三郎が北條に内応したため落城したものの、資頼は態勢を立て直して享禄四年(一五三一)、岩付城を攻撃して回復した。
     資頼の嫡子資時の時代になって、従来通り関東管領上杉氏について反後北条氏の立場を護る父資頼・弟資正と、後北条氏と結んで家の存続を図ろうとする資時との間に対立が生じてきた。既に江戸城も河越城も北條のものになっている。中世権力としての管領側から振興勢力の北條へと明らかに時代は移っている。どちらに加担するかで将来が決まる。
     一方、天文十四年、山内憲政は今川義元に支援を頼み、扇谷朝定とともに六万五千騎の兵を率いて北条綱成の守る河越城を包囲した。憲政は古河公方足利晴氏にも使者を送り、河越包囲軍に加えた。
     河越城の兵力は三千騎という少なさだったが、連合軍の攻撃をしのいで合戦は年を越えた。河越城救援のため小田原の北条氏康が八千の兵を率いて出陣し、上杉方を油断させ夜襲をかけた。この結果、数では圧倒的に勝る上杉軍はたちまち大混乱に陥り、朝定は戦死して扇谷上杉氏は滅亡、憲政は平井城へ古河公方晴氏は古河へ逃れるという大敗北を喫した。これが「河越の夜戦」で、関東の中世的秩序が一気に崩壊したのである。因みにこの河越夜戦も講釈師得意の演題だ。
     敗れた上杉(山内)憲政は越後の長尾景虎を頼り、関東管領職、上杉の名字を長尾景虎に譲って上杉家は消滅した。古河公方足利家も事実上没落した。
     岩槻太田氏は資正が家督を継いでこの後も反北条の立場を貫いていたが、嫡子氏資と二男政景との対立から、北条と結んだ氏資の内通で岩槻城は北条の手に落ちる。太田氏資の「氏」は北條氏康の文字を貰ったものであろう。その後、北条氏政の二男氏房が氏資の娘の婿に入って太田氏の名跡を継ぎ、岩槻城は名実ともに北条氏のものになったのである。

     本堂を守る唐獅子は山門前と同じく阿型の対になっている。墓地の方に行ってみると、宝篋印塔が鎮座する祠があり、これが太田道灌の墓である。道灌の墓は伊勢原の大慈寺ほかいくつかある。道灌の養子である太田資家がその伊勢原から道灌の遺骨や遺髪を貰い受け、この芳林寺と越生の龍穏寺とで均等に分けたものと言う。
     もう少し奥にも同じ形の霊廟があるのは高力正長だ。徳川初期の岩槻藩主高力清長の長男だが、父に先だって死んだため藩主にはならず、家督はその長男忠房が継いだ。後に、忠房は遠州浜松に転封され、岩槻藩は青山五万五千石、阿部五万五千石、板倉六万石、戸田五万一千石、松平四万八千石、小笠原五万石、永井三万三千石と譜代大名が短期間で交代し、漸く宝暦六年(一七五六)になって大岡二万石(後に二万三千石)に落ち着き、廃藩置県まで続く。
     その他にも「芳林寺出土の応永・享徳の墓石」として三つの石が並べられているものもある。「この年号はいつ頃ですか」と桃太郎に聞かれても正確には答えられない。室町時代であることは間違いない。それを聞いて画伯が年代対照表を取り出した。応永は一三九四年から一四二七年まで、享徳は一四五二年から一四五四年まで。道灌が一四三二年に生まれて一四八六年に謀殺されているから、ほぼその頃の年代だ。
     墓地を出て、入り口に閼伽桶の並ぶのを見て「アカオケだよ」と多言居士が若旦那夫人に教えている。「門構えの難しい字だよね」と相槌を求められて、私も書けないことに気付いてしまった。「カは確か人偏でしたが。」私はこの頃では、ワープロというものがあるのだから文字は読めれば良いと観念している。

    閼伽(あか)は、仏教において仏前などに供養される水のことで六種供養のひとつ。サンスクリット語のargha(アルガ)の音写で、功徳水(くどくすい)と訳される。閼伽井から汲まれた水に香を入れることがあり、閼伽香水とも呼ばれることもある。(ウィキペディア「閼伽」)

     そこから少し行ったところで、「あれ、何」と声が掛る。遊園地にでも似合いそうな龍が、屋根だけを建てた空き地に据えられているのだ。「山車だよ、岩槻祭の。」なるほど、龍は台車の上にあり、その尾の辺りに内裏雛が載っている。「ダシと言う通り出しっぱなしですね。」姫の言葉に「本日の座布団一枚」とロダンが声を上げ、「駄洒落だな」とバンブーが笑う。
     「ほら木蓮だよ」と講釈師が銀色の蕾を指差す。「辛夷とはちょっと違う。」これを見ると日の当たる方角が分かるというのがいつもの講釈だ。
     郷土資料館の脇には「市宿町」の標石が立っていて、この通りが岩槻城下の大通りだったようだ。さいたま市岩槻区本町二丁目二番三十四号。「昔の警察だよ。」昔の警察署に入ったことはないが、昔の役所や銀行のようでもある。昭和五年の建築で、内部にはアールデコ調が取り入れられているのだそうだ。
     展示品の中で、陽刻の地蔵板碑は珍しいと宗匠と意見が一致した。板碑本体は黴の影響か変色していてよく判別できないが、それを拓本にしたのが並んでいて、それを見ると良く分かる。「綺麗に拓本がとれましたね」と若旦那が感心している。その他では百万遍の大数珠を見て、こういうものだったのかと私は納得した。
     しかし講釈師が最も熱心になるのは、「くらしの道具」を展示しているコーナーだ。昭和初期の道具を語らせれば講釈は尽きない。なかでも陶製の湯たんぽがお気に入りで、「金属が供出されちゃってさ、その代用品だよ」と声が大きくなる。やはり陶でできた羽釜を見れば、「これで炊くのが一番旨い」と断言する。「私は金属のものしか知りません。」ロダンは私と同世代だから当たり前だ。いきなりオルガンの音が鳴って驚くと、画伯が弾いていた。
     武州鉄道の路線図も珍しい。大正十三年から昭和十三年まで走っていた鉄道である。

    南埼玉郡綾瀬村蓮田(現・蓮田市)の蓮田駅(JR東北本線(宇都宮線))から同郡岩槻町(さいたま市岩槻区)を経て同県北足立郡神根村石神(現・川口市)の神根駅までの間で運行されていた鉄道。(ウィキペディア「武州鉄道」)

     営業区間は十六・九キロ。当初の計画では北千住を起点にして、川口、岩槻、幸手、栗橋、古河を経て日光へ至るというものだったが、土地買収が進まず、総武鉄道(現東武)に客を奪われたこともあって、僅か十四年で消滅した。「浦和大門だから私の家のそばを通っていた」と宗匠が言う。
     この辺を歩くと、城下町というより宿場町の風情を感じる。当り前のことで、大岡氏二万石の城下町であると同時に、岩槻は日光御成道の宿場でもあった。酒屋で酒粕を買う人のために少し足踏みをする。「食べ方知らないけど買ってしまった」と言う古道マニアに講釈師が懇切に解説する。焼いてどうするとか粕汁はどうとか、こんなことまで知っているのである。「お料理番組になっちゃったね」とマリーがこっそり笑う。最近、酒粕が身体に良いというテレビ番組を見た覚えがある。古道マニアもそれを見たのではないだろうか。
     正面に様々なタイルを貼った不思議な家には「かべ将」と書かれているから壁屋だろうか。古い店構えがあちこちに点在している。菓子屋、酒屋の店構えが懐かしい。「鰻せんべいだって」と言う古道マニアの声に振り返れば、確かに屋号が「せんべい家」、しかし鰻料理割烹とある。屋号の由来は不明だが明治から続く鰻屋だ。
     路地に入りこむと庄屋風の屋敷も見える。「あれ、なーに。」イトはんが気付いたのは、大きな店の屋根瓦に載る老人の像だ。「なにかしら。」「腹が出ているから布袋じゃないか。」「鬚があるから寿老人。」色々の説が飛び交っているが、そんな風には見えない。髷の形や鬚、官人風の着物を見れば鍾馗か関羽のようではないか。鍾馗ならば魔除けのためだろう。関羽なら蓄財か。講釈師が店番の人に訊いてみたが、主人がいなくて分からないと言う返事だったようだ。珍しく画伯が句を詠んだ。

     旧蹟巡り師走の路地に影長し  美佐久

     「あれがアムロの病院だよ」と言われても、私には何のことだか分からない。「知らないのか、サムだよ。」知らない。「安室を知らないのか。」それは知っているがサムなんて顔も見たことがない。丸山病院と言う。芸能ネタも講釈師の得意分野であった。
     道路脇には「裏小路」の標柱が立ち、侍屋敷の路名であると説明されている。そして遷喬館に着いた。さいたま市岩槻区本町四丁目八番九号。ここでは女性の係員が説明してくれる。隊長が前もって頼んでおいたのだ。
     寛政十一年(一七九九)、児玉 南柯が私塾を開き、後に岩槻藩の藩校になった所だ。茅葺平屋建ての屋敷で、柱などもできるだけ江戸時代のものをそのまま利用して復元したと言う。名前は詩経の「出自幽谷遷干喬木」に由来する。
     式台を上がったところが四畳、その隣が床の間付きの六畳、その横に十五畳、九畳とつながり、一番奥が六畳の納戸だ。「俺なんか、その納戸の所に立たされちゃうんだ。」自分が劣等生だったというのは講釈師得意の冗談だ。「そうじゃなくて、納戸に閉じ込められたんでしょう。」
     「江島生島事件の江島が、伯母さんでした」と説明されたようだったが、ちょっと違って、江島の弟が南柯の祖父豊島常慶である。祖父と父の豊島俊暠が事件に連座して甲斐に流され、南柯は十一歳で岩月藩士児玉親繁の養子になった。「岩槻に過ぎたるものが二つあり、児玉南柯と時の鐘」と謳われたそうだが、おそらく全国的には知る人は少ないだろう。
     「梅は江戸時代からですか。」「さあ、どうでしょうか。天神様を祀っていたので梅を植えていたということです。」梅の木の脇に立つ石碑の文字が分からないので教えて貰うと、即座に暗唱してくれた。「呉竹のなをき姿を人ごとに見ては学べと思ふひとふし」感心するほどの歌ではない。しかしこの女性の説明は実に明快である。そして美人であった(と思う)。

     冬うらら明眸かたる南柯かな  閑舟

     明眸皓歯。宗匠の趣味はこういうものであったか。「皆さんはどちらから。」「あっちこっちです。」「クリスマスに家に居られない淋しい連中ばっかりなんだ」と講釈師が笑わせる。イトはんがさっきの屋根の上の像について訊くと、あっさりと「鍾馗様です」と答えが返って来る。やはりそうだった。「この辺りでは屋根鍾馗と言ってます。」
     屋根鍾馗という言葉は初めて聞く。その起源は分からないが、京都の町家を中心に関西圏、中部圏には割に多く見られるという。関東では少ないながら、それでも岩槻、上尾、大宮、春日部、桶川、川口、川越辺りに散在しているようだ。瓦鍾馗とも呼ぶらしい。魔除け、火伏せが目的だろう。「大宮の氷川神社の近くでも見たわよね」とイトハンに言われて、そう言えばそうだと思いだした。

     寒風や鍾馗の睨む城下町  蜻蛉

     「もう行こうぜ。」そろそろ講釈師が飽きてきた。江戸小路、天神小路を通ると、ブッロク塀に「洋画家田中保生家跡」のプレートが取り付けられている。「誰でしょう。」知らない。
     蔵造りの酒蔵資料館は鈴木酒造、銘柄は万両だ。さいたま市岩槻区本町四丁目八番二十四号。「おとうさんのために」酒を買いたいイトはんに、「何がいいのかしら」と訊かれても私は分からない。古道マニアがヒントを出し、店の人間にも尋ねて、二種類の四合瓶を買った。スナフキンに「どうする」と訊かれたが、桃太郎が買わないのなら、是非とも買うべき酒というものではないだろう。「そうだな。知らない銘柄だし。」宗匠も同じ判断をした。
     私は大吟醸とか純米本醸造とかいう高い酒は実は苦手だ。「俺もそうだよ」と酒豪スナフキンも頷く。それに私のリュックは朝貰った本でかなり重い。それにしても、イトはん、四合瓶二本は重いでしょう。
     「以前にネットで調べたときは試飲ができるって」とあんみつ姫が言うが、どうやらそういうことはできないらしい。「訊いてみましょうか。」姫には未練が残る。しかしイトはんとの応対を見ていてもあんまり愛想が良くないから、そういうことを訊く雰囲気にならない。
     資料館は二階で、低い天井に太い梁が何本も渡してあるから、頭をぶつけないように屈んで歩かなければならない。

    明治4年創業からの伝統の酒づくりを今に伝えるさまざまな歴史的資料・道具の数々を常時展示しております。近年ではあまり見ることのできない古くから伝わる酒造りの道具の数々は後世へ伝えるべき貴重な資料として、大切に保管、展示をしておりますので是非ご覧ください。また、現代の酒造りがわかるビデオコーナーや試飲コーナーをはじめ、岩槻の地酒全商品を扱う直売店も併設しています。http://www.suzukishuzou.com/03_sakagura/index.html

     樽や様々な酒造のための道具を展示している中で、豊原国周の奉納額「酒醸一式の図」十六枚(但し一枚欠けている)がやや珍しい。酒造工程を絵にしているのである。但し展示しているのは奉納額そのものではなく、写真にしたパネルだ。説明ビデオに電源を入れて椅子に座り込んだが、途中で講釈師から出発の命令が下った。腹が減って苛々しているのが分かる。それに全部見ようと思えばかなり長くなりそうだった。
     隊長の計画では城址公園まで行くはずだったが、ここからまだ二三十分かかるらしい。とっくに十二時を過ぎているから、昼飯は時の鐘の空き地ですることになった。さいたま市岩槻区本町六丁目二二九番一号。狭い路地の住宅地の中で、そこだけちょっとした空き地になっていて、その隅に、隣の民家と接するように鐘楼が立っているのだ。大きな公孫樹を見て「これは巨樹でしょうね」と桃太郎が幹回りを目測し、「三人だとちょっと無理かな、四人位か」と呟いている。
     時の鐘は、川越のものとは違って背も高くなく、ずんぐりした感じに見える。「今でも鳴らすのかな。」「オートマだよ。」朝夕六時、自動で二十四秒間隔で六回撞くそうだ。

    岩槻城下の時の鐘は、寛文十一年(一六七一)時の城主阿部正春が冶工渡辺近江掾正次に命じて新鋳し、城内、城下の人々に時を知らせたものである。それから約五十年後、鐘にひびが入り音響不調となったため、時の城主永井直信が享保五年(一七二〇)小幡内匠勝行に改鋳を命じ、出来上がったものが現在の鐘である。昔はこの鐘の音が九里四方に鳴り響き江戸にとどくほどだったと言う。昭和三十三年二月二十一日市指定有形文化財(工芸品)になっている。
    また、現在の建物は、天保年間に焼失したものを嘉永六年(一八五三)に再建したものである。(埼玉県岩槻市)

     「早くシートを出せよ。」久しぶりにお馴染みの声が掛かる。シートを広げ終わると、「俺も出そう」と小さくて可愛らしいシートを取り出した。ビニールシートの上で正座を崩さない画伯を見れば、「無理するんじゃないよ」と声を掛ける。そんな私たちから若旦那夫妻はちょっと離れて、鐘楼の石段に仲良く並んで食べている。「仲が良いよな。」講釈師の声はなんだか悔しそうだ。

     冬晴れの弁当楽し夫婦仲  蜻蛉

     朝よりは少し暖かくなったが、座り込んでいると足元が冷えてくる。イトはんからは「おとうさんが作った」干し柿が配られる。全員に行き渡ったから、ずいぶん重かったろう。マリーは枝豆の漬け物を出す。どうせ買って来たものではあるが、これは結構旨い。古道マニアから北海道のミルク飴が出されると、「今度は北海道ですか」と声がかかる。姫はチョコレートを出す。桃太郎は乾燥野菜を取りだした。今日は煎餅がない。

     県立岩槻商業高校の脇の道は諏訪小路だ。この町は小さな路地にそれぞれ名前が付いていて、城下町の昔を偲ばせる。「だけど城下町にしては道が真っすぐで十字路が多い」とハコさんが首を捻る。城下町だと普通は丁字路や鍵形になった道を思い起こすが、確かにこの町は細いが真っすぐな道が多い。「コンビニっていうのがないな。」スナフキンに言われれば確かにそうだ。
     そんなことを話しながら歩いていると諏訪神社に着いた。埼玉県さいたま市岩槻区太田一丁目十番四十四号。コンクリートの一の鳥居の向こうには朱塗りの両部鳥居が立つ。「喪中の人は鳥居を潜っちゃいけないんだぜ。知らないのか。」いきなり講釈師が私と画伯に向って大声をあげる。私はそういうことにまるで関心がないが、画伯は真面目に悩んでしまう。「身内に悪いことが起きちゃいけないから。」
     この際調べてみると、服喪期間については神社本庁の決め事があった。それによれば、死者の穢れが身についていて神社にお参りしてはいけない期間は、最長五十日、親疎によって若干異なり、祖父母や孫の場合は三十日などと細かく規定されている。(南湖神社
     http://www5.ocn.ne.jp/~nanko/hukumokikan.htmより)
     この五十日というのがいつ頃決められたのかは分からないが、たぶん明治以後、あるいは戦後になってからかも知れない。仏教の四十九日と関係があるのではないか。
     但し延喜式には「忌むべきは人の死は卅日を限り」とあるようで、それなら平安時代には服喪期間三十日であっただろうか。ついでに調べると、皇室服喪令(明治四十二年)によれば、父母夫の場合は一年、祖父母、父の父母、妻ならば百五十日。夫と妻の場合で異なっているのは何故だろうか。儒教では三年ということになるが、これは神社とは関係がなかった。
     しかし隊長は神社に特に挨拶もせず、どんどん歩いていく。本殿の裏からそのまま続くグランド脇の狭い道を行き、それが開けた所でちょっと石段を登ると市民会館の裏の小さな公園になっていた。ここでトイレ休憩を取る。伯爵夫人がブランコに乗って、そばにいた女の子に押してもらっているのは珍しい景色だ。

     もう一度下りて道路を渡れば岩槻城址公園だ。曲輪の一部を公園として残しており、内堀跡が遊歩道になっている。「トーテムポールを見ようぜ。」隊長の進む方とは関係なく、講釈師が芝生を横切る。「本物だろうか。」「本物でしょう。」カナダ・ブリティッシュコロンビア州ナナイモ市との友好都市提携一周年を記念して建てられたものだ。これを「本物」というのかどうか知らない。
     「小学生の頃作らされましたよね」とロダンが言いだした。「子供心になんで、こんなものを作らなくちゃいけないかって。」私も思い出した。小学校三年生の図工の授業で、友人のアイデアを剽窃して作った私のトーテムポールは教師に誉められた。
     十月桜が花をつけている。駅前のものよりは小さなカラクリ時計台がある。「あれが人形塚」と指差されたのは抽象的なオブジェだ。のんびり歩いていると沼に渡された赤い橋に着く。「コンクリなのね」と若旦那夫人はがっかりしている。ギザギザになった橋で八つ橋と言う。
     「ここで写真撮ったろう。」講釈師が自信たっぷりに何度も言うから何となくそんな気がしてきた。「ロダンもいたよね。」「いなかった。蜻蛉と画伯はいた。」おかしい。本当に私はここに来たことがあるのだろうか。
     帰宅して調べてみたが、記録の一番古いものが十五年十月で、その時は二年振りに「ふるさとの道自然散策会」に参加したと書いてある。それ以降やはり来ていない。それ以前ならば平成十三年以前ということになるが、まるで覚えていない。
     黒門という長屋門形式の城門がある。「こんなもんじゃすぐに破られてしまうよ。」確かにそうで、外敵を防ぐ門ではなさそうだ。本来ここにあったのではなく、三の丸藩主居宅の長屋門の可能性が高いと推定されている。「ちょっとした農家だって、この程度の門はいくらでもあるよ」とハコさんが断定した。私もそういうものを見たことがある。
     蠟梅が咲いている。「ソシンかい。」「そう、素心蠟梅です。」多言居士に答えると、「そうだろう、ソシンの方が少し早いからね」と返って来る。

     蠟梅の花ひかりたり長屋門  蜻蛉

     次は久伊豆神社だ。さいたま市岩槻区宮町二2丁目六番五十五。地図を見ると参道は公民館のところから始まっているのだが、参道と言っても道の両脇には新興住宅地や普通の店が広がっていて、さっきまでの城下町の道とは随分違う。おそらく昔は田圃の中を通る細い参道だったのではないだろうか。新興住宅地として道路を拡張したのに違いない。ところが私のその感覚は間違っていた。久伊豆神社まで岩槻城内の一部であった。その外側を元荒川が外堀のよう流れていたのである。
     三百メートル程も歩いて鳥居を潜るとようやく参道らしくなってきた。貫が突き出ていない神明型に近い鳥居だ。参道の両側には樹木が生い茂り、薄暗い雰囲気になって来た。この神社は榊が有名らしい。「これが榊ですか。」「違うわよ、これはモッコクよ。」日陰になると寒い。
     唐獅子の上に載った石燈籠というのは初めて見る。「宗匠は見たことある。」「ない。」唐獅子の台座には「市宿街」と朱で彫ってあり、灯籠の竿には「伊勢太々講」とある。伊勢神社参宮の際に太々神楽を奉納した記念だろう。太太神楽、大大神楽とも書く。裏に回ると安政の年号が僅かに読める。

    さて、♪”伊勢へ行きたい 伊勢路が見たい せめて一生に一度でも”♪と伊勢音頭にもあるように、江戸時代には日本人の六人に一人が神宮にお参りしたという。
     伊勢音頭は享保の頃に山田の奥山憲政(桃雲、狸道と号す)が作ったと言われ、伊勢地方で歌い継がれ伊勢参宮によって全国に広がった。
     この伊勢参宮で人々の一番のあこがれは、伊勢で大々神楽をあげることであった。 御師の館に設けられた神楽殿では、毎日このような神事が行われたのである。御師は「御祈師」を略したもので「御師」という語は弘安元年の『公卿勅使記』に見られる。
     御師は、全国を巡って家々で祈祷をし、伊勢信仰の信者をふやし、伊勢参宮を勧めてあるいた。村落ぐるみ信者にすることもあって、信者は講をつくってお金を貯め交代で伊勢参りに来るのである。
     御師の神楽殿で行われた「湯立て神事」で、大々神楽・太神楽・小神楽とあり、大々神楽は二時間もかかる大がかりなもので料金も大変な額であったという。(「伊勢神楽」http://www4.airnet.ne.jp/sakura/kagura_fr.html)

     二の鳥居を潜り、本殿の裏に回ると有名な大サカキが立っていた。樹齢三百年と言う割に幹回りは太くない。直径三十センチもないだろう。但し高さは十三メートルあって埼玉県内では最大級である。サカキに詳しい人たちの話を聞いていると葉の形が独特らしい。「ヒサカキとは違うよね」「そうだわ」と言う声が聞こえてくる。そう言われれば私が知っているもの(たぶんヒサカキ)よりは葉が大きいようだ。
     ウィキペディアによれば、葉が小さく鋸歯があるのがヒサカキ(姫榊、非榊)で、表面がツルツルしていて、鋸歯がなければサカキである。
     社務所の前には「カマ〆頒布所」の案内がある。我々は全員無学で、カマ〆というものが分からない。念のために宗匠が広辞苑を引いても出てこない。社務所に入れば注連縄や御幣、神棚他いろいろ売っている(頒布している。)「カマ〆ってなんでしょう。」「ここにあるもの全てです」と若い巫女が小さな声で答える。しかしその答えだけでは意味が分からない。〆は注連縄であろうか。
     民俗行事に疎いからいちいち調べなくてはならない。本来は竈〆と書き、一年使った竈に注連縄を張って感謝し、新年を待つ行事だ。この神社のものではないが、別のところで、「竈〆一式セット」なるものを見つけた。神宮大麻・歳神様・荒神様(火産靈大神)・荒神様(水波蕒神)・祓い串・紙垂(神棚と玄関)・細荒縄(適当な長さに切り神棚や玄関に紙垂を均等につけて張る)をセットで七千円也。
     「あのミコサン綺麗だったよな。」社務所を出た途端に講釈師が口走る。「それなら買ったの。」「買わないよ。」「じゃ駄目だ。」何が駄目なのか意味は不明だ。
     神楽殿に木剣が奉納されているのを見て、「百姓はさ、刀が持てないから木刀を使ったんだよ」と講釈が始まる。しかし奉納額には無比流杖槍術と記されている。奉納額に木剣を添えるのは武術の象徴としての意味合いだと思う。この「無比流」は下記と同種のものではないだろうか。

    無比無敵流杖術とは
    開祖 佐々木哲斎徳久は槍の名手であり、関が原の戦いにおいて九尺の槍を使い激戦中槍先が折れ、柄をもって奮戦、その後、日本六十余州の大小の神々と摩利支尊に祈願し、その霊験により無始無終の悟りを得、無比流兵杖術を開眼、その後、日本開山無住所として各地を遍歴、水戸地方に伝承。明和、天明の頃より大正末期まで民衆の自衛武術として、水戸を中心に近郷近在において発達、無比無敵流杖術として隆盛を極めた。秘技を磨き続けてきた変化に富んだ武術として栄え、現在宗家十五代根本憲一唯之に継承され流派の保存と伝承に尽力、子弟育成に鋭意努力し、古武道の保存と振興に努めている。(日本伝統技術保存会)http://www.geocittui/muteki.html

     本来は槍術であり、穂先が折れても武器として使えるように、打つ、突くなどを組み合わせた技術であろう。
     それに江戸期の民衆が完全に武装解除されて刀を持てなかったわけではない。秀吉の刀狩令以来、何度も同種の法令は出されたが、百姓身分が武器を持つ事自体は禁止されていない。槍や鉄砲は田畑を荒らす猪などを防ぐために必要だったし、自衛用として脇差は許されていた。禁止されたのは両刀を帯びることだった。武士身分の特権的な象徴として他に許さなかったというのが、刀狩りの本来の趣旨である。
     山茶花の木が密集している中で、なぜか部分的に縦一列だけに花が咲いている。それ以外は蕾のままで不思議な咲き方だ。

     山茶花の咲きこぼるるや神楽殿  閑舟

     久伊豆神社についても少し調べておかなければならない。この神社は埼玉県特有のもので、元荒川流域だけに存在する。その範囲は、古利根川流域の香取神社圏と、西の氷川神社圏とのちょうど中間にあたる帯状の地域である。便利な記事を見つけたので抄録してしまおう。http://www.ne.jp/asahi/ohsagami/salon-koshoga/home/r-hisaizu.html

     久伊豆神社は武蔵国の元荒川と綾瀬川にはさまれた地帯にのみ数多く分布し、野与党の分布とほぼ一致することが、西角井正慶『古代祭祀と文学』によって指摘され、「新編 埼玉県史 通史編2」には『鷺宮町史』による鷲宮神社を加えた、氷川神社・久伊豆神社・香取神社・鷲(鷲宮)神社の分布図が所載されている。
     元荒川流域に数多く所在する久伊豆神社の総本社は『騎西(きさい)町の玉敷神社』と推定されている。埼玉郡の西部の意埼西(きさい)を同発音の私市や騎西の文字が当てられたため、玉敷神社(=久伊豆大明神)が、私市党の氏神であるとの説が、事実が検証されないまま諸文献に記載されることが見受けられるが誤まりと思われる。
     私市氏の系図では『鷲(または鷲宮)神社』を氏神としており、私市党を代表する(久下、河原、熊谷)各氏の居住地は分布図②により、玉敷き神社より北西寄りの鷲神社の分布図に近いこと、および現在の騎西町には私市党一族ゆかりの地名は見当たらず、野与党の一族(道智、多賀谷、高柳)の地名が現存すること、および、玉敷神社の近傍に開拓・移住した野与党が、両親の奉った氷川神社(祭神 出雲三神)から玉敷神社(祭神 大己貴命)のに氏神変更に全く抵抗がなかったと思われる。
     理由:野与党祖とされる野与荘司「野与基永」の母は、氷川神社の社務司職家も兼ねた武蔵国安立郡司「武蔵武芝」の孫娘であり、野与荘が現在の「与野(さいたま市)」に在って、氷川神社を奉っていたと推定できるためである(氷川神社文書による系図および西角井氏系図に記載されている)。
     氷川神社の祭神は大己貴命および両親神である(須佐之男命・稲田姫命)の3柱の出雲系であり、(埼西郡騎西)の玉敷神社は単独祭神「久伊豆大明神(=大己貴命)」である。
     野与党の子孫が移住先に玉敷神社の祭神「久伊豆大明神(=大己貴命)」を勧請する際に、玉敷神社の名を用いずに「久伊豆大明神」社または「久伊豆神社(=大己貴命)」の名を用いることが定例となり、結果として先の分布図①になったと推定されるためである。(晴耕雨読軒「大相模久伊豆神社」)より)

     つまり久伊豆神社は、武蔵七党の一である野与党(本貫の地は与野と推定)の一族が住みついた地域にのみ見られるようなのだ。
     隊長は通り過ぎようとしたが、大龍寺という立派な寺を見つけたので入ってみる。さいたま市岩槻区本町五丁目三番十八。「何かが有名らしいよ。」「木があるんだ。」
     新しいが随分立派な山門で、龍の爪の数について講釈が始まる。「爪が五本あるのは中国の皇帝だけなんだ。だからこれだって三本しかない。」そうなのか。みんな素直には信じない。「ホントかな」と宗匠は広辞苑を引くがこんな話は出てこない。「また信用しないんだから、イヤになっちゃうよ。」それでもウィキペディアを引けば、こんなことが分かる仕組みになっている。

    竜を描く場合、最高位である五本指の竜(五爪の竜)は、中国の皇帝しか使うことが出来なかったという説がある。この説によると、これは中華思想が元にあり、皇帝の威厳を保つ役割もあったとされる。もっとも、この説には反証として例外も多く確認されている。例えば、京都の天龍寺にある天井画の龍は五本爪である。勿論現在はそのような取り決めはなく、誰でも自由に描くことができる。(ウィキペディア「龍」)

     本堂の柱にも龍が巻きつく彫刻を施している。建物は新しいが大名の菩提寺のような雰囲気が感じられる寺だ。曹洞宗、雲居山。元和六年(一六二〇)岩槻城主青山伯耆守忠俊の開基になる。
     裏手に回ると、閉められた木戸の内側に巨大な木が見つかった。戸を引っ掛けてある縄を外して中に入ると、庫裏の窓に面した小さな庭に巨木が立っているのだ。「スダジイですね。」巨樹である。「その奥のもスゴイ。」境内に戻れば多言居士がワタを見つけた。花ではなく、小さい実が弾けて白い綿がフワフワとしている。
     大工町の標柱を見て、住宅地の中を迷路のように進んでいくと愛宕神社に到着した。さいたま市岩槻区本町三3丁目二十一番二十五。石段を登ると小さな拝殿が開け放たれ、なにかの改修工事中なのか、男性が三人休憩している。「どこから来たのかい。」「埼玉のあっちこっちから。」「私は所沢ですけど」とカズちゃんが丁寧に説明すると、「所沢、そんなに遠い所から」とオジサンは驚く。今日は国立からも海老名からも来ているのである。
     脇障子の彫り物は何だろうかとイトはんが悩んでいる。上の方にあるのは花だろう。「そうよ、牡丹でしょうね。」反対側の脇障子には獅子が彫ってあるから、それなら唐獅子牡丹だ。「そうか、そうねタテガミが獅子だわね。」
     唐獅子牡丹と言えば、高倉健主演『昭和残侠伝』シリーズを全て見ているのに何とも思わず、その由来も知らずに過ごして来たのは無学で怠慢であった。

    獅子は、百獣に君臨する王といわれます。その無敵の獅子でさえ、ただ一つだけ恐れるものがある。それは、獅子身中の虫です。我身の体毛の中に発生し、増殖し、やがて皮を破り肉に食らいつく害虫です。しかし、この害虫は、牡丹の花から滴り落ちる夜露にあたると死んでしまいます。そこで獅子は夜に牡丹の下で休みます。(法話「牡丹に唐獅子」http://www.rinnou.net/cont_04/rengo/2003-10.html)

     唐獅子牡丹は百獣の王と百花の王を絡ませる、実に豪勢な絵柄なのだ。本殿の裏を見降ろすと、その崖に接するように野田線が走っている。そして神社の建つ高台は実は土塁の跡であった。岩槻城大構と言われる土塁は長さ八キロに及び、この愛宕神社のある土塁は僅かに残された貴重な歴史史料なのだった。
     「結構見どころ多かったね」と宗匠も驚くように、私もこんなに見るべきものの多い町とは知らなかった。それにしても随分寒くなって来た。底冷えがしてくる。
     ロダンはくたびれ果てたように石段の下で腰を下している。マリーも腰が痛くなってきたと言う。宗匠の万歩計で一万六千歩。十キロほど歩いただろうか。
     まだちょっと早いので、駅前のファミリーレストランで休憩する。ドリンクバーだからと言って桃太郎のように三杯も飲むひとは珍しいだろう。そんなに飲んでは後でビールが入らなくなるのではないか。四時、「そろそろ良いでしょう」と言う宗匠の言葉で店を出た。  反省会はいつものように大宮のさくら水産だ。「時間が早いから町田にしませんか」と海老名の住人桃太郎が呟くが、一言の下に却下する。「それじゃせめて新宿とか。」それも却下だ。参加者十二人は多い。カズちゃんは刺身が苦手だと判明した。イトはんは酒も飲まずに真っ赤になる。新参のマリーは画伯に貴重な絵を貰った。二時間ほどでひとり二千八百円也。
     姫と画伯は最初からカラオケに行く予定をしている。珍しくスナフキンが「今日はもう駄目だ」と帰って行った。連日の忘年会で疲れているようだ。イトはんは生涯に二度目のカラオケ体験をした。

    眞人