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    平成二十三年一月二十九日(土)  宝登山・長瀞アルプス

    投稿:   佐藤 眞人 氏     2011.2.06

     旧暦十二月二十六日。今年最初の里山ワンダリングは珍しく第五土曜日になった。ここ数日のうちで最も寒さが厳しいようで、手袋をしていても指先が冷たい。
     長瀞に十時前に着くためには九時二十二分寄居発(長瀞着九時三十九分)の秩父鉄道に乗らなければならない。だからみんないるだろうと思っていたのに、寄居駅にはロダン、若旦那、ロザリアしか見えない。
     若旦那が一人というのは初めてじゃないだろうか。実は東上線の中から少し気になってはいたのだが、いつも隣にいる奥さんがいない。帽子も被らず新聞を広げる姿がいつものようでなく、良く似た別人だろうと私は思いこんでしまった。それにしても良く似たひとがいる。そう決めて挨拶もしなかったのは、実に申し訳ない所業であった。私には人を判別する能力が欠けているようだ。気が小さいものだから、間違っていたらと思うと恥ずかしくて声をかけられない。
     ホームに出てきたときには帽子を被っていたので漸く本人だと気がつく始末だ。耳当てのある帽子にはタラス・ブーリバと(英語で)書かれている。「ロシアで買ったんですか。」「いや、日本のデパートで。」暖かそうな帽子だ。夫人は急な用事が出来てしまったそうだ。「楽しみにしてたんですけどね。」
     秩父線は同じような恰好をした連中で混み合っていて、若旦那だけが何とか座れた。ロダンは帽子を忘れてきた。私の頭の状態では、この寒さで帽子なしなんかとても考えられない。乗客の大半は野上駅で降りて行った。
     長瀞に着くと別の車両からドクトル(羽生から)、マリー(熊谷から)も降りてきた。「誰もいないからさ、間違えちゃったかと不安になってしまったよ」とドクトルが安心したように笑う。久しぶりのロザリアは八高線経由でしょうね。「横浜線から八高線ですよ。」私は横浜線というものに乗ったことがない。
     駅舎の入り口に張ってある注連縄は何か。「どういう意味でしょうかね」と若旦那も悩んでしまう。まだ正月のうちということだろうか。ロープーウェイ乗り場まで行くバスが待機しているが、乗り込むひとは余り見えない。係員が地図をくれたのは親切だ。
     「関東の駅百選」というのがあり、その第一回(平成九年)に二十六駅が選ばれたとき、長瀞駅も仲間に入った。「開業当時のまま残されており、歴史を物語る木造駅」というのが選定理由だ。明治四十四年(一九一一)に開業したときは宝登山駅の名称で、神社参詣客のための駅だったに違いない。大正十二年(一九二三)に長瀞駅と改名した。その頃から観光地としての名が広まっていったということだろうか。
     古道マニアからは次の十時一分着の電車になると隊長に連絡があったらしい。待っている間に売店を覗いて、生姜を細かく刻んで甘辛く煮たものを買った。五百円也。(翌日早速食べてみると、甘さはそれほど気にならず飯にかけても良いし、それだけで酒のつまみにしても旨い。)
     待っていた電車が到着し、古道マニア夫妻を先頭に仲間が四五人降りてきた。これで隊長、ドラエモン、ロダン、蜻蛉、古道マニア夫妻、ドクトル、若旦那、イッチャン、ロザリア、イトハン、伯爵夫人、マリーの十三人になる。イッチャンがシノッチと離れてひとりなのは珍しい。
     「桃太郎は来ないのかしら」とロザリアは不満そうだ。「ヤツは私より近いと思うけど。」桃太郎はロザリアの弟子である。師匠に内緒で単独登山を試みているか。ロザリアは去年ヒマラヤ登山に行っていたのではなかったかしら。「どのくらい行ってたんですか。」「三週間です。」それなら荷物の量も半端ではないだろうと思うが、二十キロに制限されているそうだ。「そうじゃないとポーターが持てないんですよ。」なるほど。
     宗匠は軽いギックリ腰に加えて風邪気味というので大事をとって休んだ。チイさんは年末に痛めた脚の肉離れがまだ完治していないだろうか。このところアラカン世代(還暦前後)に故障者が多いのは気をつけなければならない。ダンディは法事。カズちゃんは仙台に行っているだろう。今日の反省会は少し淋しくなってしまうかとロダンと顔を見合わせた。

     駅を出てすぐ、国道との交差点には白い大きな一の鳥居が立っている。そのまま真っ直ぐに参道を歩いていくと、店頭に氷を積み上げ、松の木に「天然カキ氷始めました」の張り紙が目についた。氷は今月の十三日から十五日に採集したと書かれている。阿左美冷蔵(明治二十四年創業)と言う有名な店だ。夏になれば、このカキ氷を食うためだけに長瀞に来る客もいると言うのだが、この季節に客は入るのだろうか。
     長瀞サル劇場なんていうものもあって、なんだかおかしい。
     二の鳥居はやはり白くて、島木と貫の両端に金の飾りをつけた立派なものだ。それを潜り、隊長は作法正しく手水で手を洗う。手が冷たいから(と言い訳をして)私はやらない。夏でもやったことがないから、これは不信心のためだ。宝登山神社は秩父神社、三峯神社とともに秩父三社のひとつで、神日本磐余彦尊(カムヤマトイワレビコ神武)、大山祗神(オオヤマヅミ)、火産霊神(ホムスビ)を祀る。左の狛犬は子を抱き、右は左前足で玉を押さえている。耳のあたりには黄緑の苔が付着している。

    宝登山神社伝によれば、第十二代景行天皇の四十一年(一一一年)皇子日本武尊が勅命によって東国平定の時、遥拝しようと山頂に向っている折、巨犬が出てきて道案内をしてくれた。その途中、東北方より猛火の燃えて来るのに出遇い、尊の進退はどうすることもできない状態になってしまった。その折巨犬は猛然と火中に跳入り火を消し止め、尊は無事頂上へ登り遥拝することができた。尊は巨犬に大いに感謝したところ、忽然と姿を消した。このことから「火止山」の名が起きたという。また巨犬は大山祇神の神犬であった事を知り、また防火守護のため火産霊神を拝し、その後山麓に社殿を建て三神を鎮祭し、これが宝登山神社の起源であると伝えられる。(ウィkピペディア「宝登山神社」より)

     景行天皇の四十一年が西暦一一一年だなんて信じる必要は全くない。邪馬台国だって三世紀だし、歴史の常識では、ヤマトタケル伝説は四世紀頃の史実を反映しているとしたものだ。
     ヤマトタケルを「巨犬」が救うというのは三峰神社の縁起にもなっていて、その犬は狼(大口真神)である。眷属が狼でなく普通の唐獅子の形をしていることがちょっと残念だった。岩根神社も狼だったから、秩父の神社なら全て狼だと私は思い込んでいたのだ。
     ところで、ヤマトタケルは本当に秩父にやってきたのかどうか。まず古事記をみる。
     伊勢尾張・駿河・相模走水(オトタチバナの死)上総・常陸新冶・筑波・相模足柄(「あずまはや」と慨嘆する)・甲斐・科野(信濃)・尾張・近江伊吹山・伊勢能煩野(死)。武蔵や上野、下野が記されていないことに注目したい。常陸新治、筑波から、下野や武蔵を経由せずに相模足柄に行くとすれば、海路を選んだとしか考えられない。鹿島、香取などは古くからヤマト族の前線基地だったから、航路は開けていたと考える。それに常陸南部から武蔵にかけては氾濫する利根川に由来する湖沼や湿地帯が多くて、陸路は困難だったのではないだろうか。いずれにしろ筑波・足柄・甲斐のコースでは秩父に寄るべき暇がない。
     日本書紀ではどうかといえば、上総までは古事記と同じだ。そこから更に陸奥・日高見(北上)へ転戦してから常陸新冶・筑波・甲斐・武蔵・上野・碓日坂(「あづまはや」)信濃・美濃・尾張・近江伊吹山・伊勢能煩野となる。
     古事記との大きな違いは、更に北に向かったこと、「あづまはや」と言ったのが相模足柄坂ではなく碓氷峠であったこと、武蔵、上野に足を伸ばしたことだ。これならば、甲斐から秩父往還を経て武蔵へ向かうことも不自然ではない。秩父に来た可能性もあるということだけは、これでなんとか確認できただろうか。

     昨年は景行天皇四十一年から千九百年にあたり、弘化四年(一八四七)に始まって明治七年(一八七四)に完成した建物を百三十六年ぶりに大改修したということだ。拝殿の彫刻に施された彩色が、新しく彫られたように鮮やかで美しい。イトハンは神社彫刻を見るのが好きなので一所懸命見詰めている。
     向拝正面から柱に巻きついたものまで龍が五匹確認できた。側面の欄間の彫刻は中国風の物語になっているようだ。教養がないと本当に困ってしまうのだが、調べるとこれは二十四孝を現わしている。
     二十四孝の物語は良く知らなかったが、どうかと思うものが少なくない。真冬に筍が食べたいと言う我儘な親のために、雪中で筍を探す孟宗。魚が食いたいと言う母親のために、極寒の氷の張った河で、氷の上に身体を伏せて溶かして魚を獲った王祥。家が貧しいので年老いた母を養うために口減らしとして子供を殺そうとする郭巨。こんなものが「孝行」として推奨されたのである。
     脇障子には騎馬の武者が彫られている。甲冑の形ははっきりしないが、太刀の反りが平安後期のようだからヤマトタケルではないと思う。しかし自信はない。
     その後ろに回ってみると、拝殿と本殿が繋がっていて、その中間が少し低くなっている。権現造りという様式だ。「権現って、あの東照権現ですか。」そうです。日光東照宮が初めて採用した建築様式なのだ。
     千木の端は垂直に切られている。「これで男女の区別が分かるんですよね」とロダンが言っている。祭神が男の場合は千木が外削ぎ(垂直)、女神の場合には内削ぎ(水平)と、これは講釈師に聞いた話だ。その例が多いことは確かなようだが、全てがそうと決まっているものでもないらしい。ウィキペディア「千木」によれば、伊勢神宮の外宮(豊受大御神=女神)の千木は外削ぎだと言うことだ。

     これから頂上を目指して山登りに入る。イッチャン、イトハンは不安そうにしているが、隊長は大丈夫だと簡単に答える。宝登山は標高四百九十七メートルと言っても長瀞自体が既に二百メートルだから、標高差は三百メートルほどだ。「大丈夫、最後の石段だけですよ。」
     「登れなくなったらオンブしてくれるかしら」とイトハンに問いかけられたロダンは「体重にもよりますが」と苦笑いする。イトハンがこっそりロダンに教えると(しかし私にはちゃんと聞こえた)、「それじゃ家内より重い」と応えられてしまった。「悔しいわ。」
     「表参道ハイキングコース」と言うように、割合に広くてゆるやかな登り道になっている。登山者は多い。かなり本格的な重そうなリュックを背負った連中、逆に通勤の恰好のように革靴にコート姿の人、手を繋いで歩くアベックなど、いろんな連中がいる。
     犬を連れている連中が多いのは不思議だ。中には二匹の犬の綱を持ち、一匹を赤ん坊のように胸に抱いている女性がいる。「室内犬なのよ」とマリーは簡単に片付けるが、こういう感覚が私には分からない。犬は外を駆け回るものである。こんな風にしていたら肥満、糖尿病その他、どうしようもない犬が出来上がってしまうのではないか。勿論、瀕死で動けない犬にせめて山の空気を吸わせたいという特別な理由があれば別だ。
     「ルリビタキですよ。」古道マニアとドラエモンが同時に声を上げた。雀ほどの大きさの鳥が、山側の枯れた叢と道の間を行ったり来たりして、すぐには飛び立たない。遠目では全体が青っぽく見える。「あれはメスですね。」「ルリは瑠璃色だろう、ビタキってなんだい。」ドクトルは何でも知りたがる。「ヒタキです」とドラエモンは答える。「人間を怖がらないんですよ。」
     「漢字でどう書くの。」「鳥も植物もみんなカタカナだから想像ができないわ」とロザリアも言う。ダンディも同じことを言いそうだね。ジョウビタキの仲間だろう。ヒタキは「鶲」と書く。鳥の翁とは何だろう。文字を知ったからといって、それがこの鳥のどういう特徴に関係するのかまるで連想できない。
     植物動物をカタカナで書くのは理由がある。漢字で書けばそれは中国のものであり、日本のものとは違う可能性がある。例えば中国の「柏」「松」と日本の「カシワ」「マツ」とは同じものではないからだ。
     ルリビタキ(瑠璃鶲)はスズメ目ツグミ科(あるいはヒタキ科)。オスの背羽根は全体に青いが、メスの方はもう少し黄色がかっているようだ。

    全長14cm。体側面はオレンジ色の羽毛で覆われ、英名(flanked=脇腹、側面)の由来になっている。腹面の羽毛は白い。尾羽の羽毛は青い。種小名cyanurusは「青い尾の」の意。オスの成鳥は頭部から上面にかけての青い羽毛で覆われる。幼鳥やメスの成鳥は上面の羽毛は緑褐色。オスの幼鳥はメスの成鳥に比べて翼が青みがかり、体側面や尾羽の色味が強い。(ウィキペディア「ルリビタキ」)

     「この木は何かしら。いっつも不思議だと思ってたのよ。」太い木が二本並んでいて、枝が広がっている。そんなに「いっつも」来ているのか。「カヤかな」「カヤは違うと思うわ」「モミじゃないよね」「いや、やっぱりモミか。」隊長と古道マニアの間で議論されたがなかなか決定できないようだ。たぶん葉を触ったりすればすぐに判定できるのだろうが、枝は随分高い所だから触れないのだ。私は勿論何も分からない。
     千五百八十万円の売り家があった。土地三百八十八坪、建坪三十六・六坪。「安いじゃないですか。」広くて確かに安いが、こんなところに家を持ってどうしよう。「セカンドハウスですよ」と古道マニアは断言するが、セカンドハウスとしても、なにもこんな所に住みたくはない。土地の大半は雑木林になっているようだ。
     九十九折りの少し開けた所からは、枯れた山の向うに雪を被った青い山並みがくっきり見える。ロザリアが暑い暑いと言い出した。ヒマラヤに登るひとなら、日本のこんな寒さは何ほどのこともないのだろう。私も少し暑くなってきたので中の一枚を脱いだ。イッチャンや伯爵夫人も立ち止まってリュックを下している。
     やがて斜面一面に木を伐採して切り株だらけになった場所に出た。最近になって切り倒したらしく、切り株の辺りには大鋸屑も残っている。何をしようというのだろうか。登山道を歩いていくと、そこには「JATA(日本旅行業協会)の森」の看板が立っていた。

    JATAでは、豊かな森を取り戻すために旅行会社の手で森をつくる「JATAの森」プロジェクトを立ち上げました。
    この度JATAでは、会員の旅行会社の社員が参加して、植林・間伐する環境保護活動を始めます。
    これは、JATAとして地球温暖化防止に寄与し、また、杉や檜で覆われた森を色彩豊かな森に変えていくことで、皆様に喜ばれる景観をも創っていく活動です。最初の地として、埼玉県の長瀞町・宝登山と秩父市三峰で活動を始め、その後日本各地に、やがては世界に広げていきます。

     杉やヒノキのような針葉樹は邪魔なのだろう。紅葉する木、花の咲く木に変えて「豊な森を取り戻す」のである。これは観光客を呼び込むのが目的ではないのか。「花粉対策でしょうか、花粉の少ない種類に植えかえるとか」とロダンは好意的な解釈をしてみる。「いや、国産の杉はまったく売れないんですよ、外国産が安すぎて」と古道マニアが答える。こうして日本林業は滅亡し国土は荒れ果てる。
     更に行けば切り株だらけの斜面はここだけでなく、「三菱UFJ信託銀行ピーターラビット未来へつなぐ森」「ロータリークラブ」「埼玉りそな銀行」などの看板があちこちに立っている。私の邪推とは違って、旅行業者の観光地化目的だけではなさそうだ。
     調べていくと九都県市首脳会議「緑化政策専門部会」というのがあって、その方針に基づいた「埼玉県森林づくり協定」によるということが分かった。

    県が、企業・団体と森林所有者の間を仲介し、森林づくり活動の候補地の調整や森林づくりプランの提案を行う。協議合意後は、企業・団体は、森林所有者、県の三者による「埼玉県森林づくり協定」締結などにより、森林づくりに取り組んでいただくものである。また、このような活動を支援するため、「埼玉県森林づくりサポートセンター」を設立し、企業等の相談や技術指導など行っている。http://www.kyutokenshi-green.org/csr2.html

     埼玉県のほかにも、東京都では「手入れの遅れている人工林を対象に、企業・所有者等と協定を締結する。企業は十年間の森林整備費を負担する」、千葉県では「手入れ不足の里山の森林所有者と企業等が締結した里山活動協定を県が認定し、企業等は、対象地について里山の整備を実施する」などの活動が行なわれているのであった。
     近道が出来そうな場所に立入禁止のテープを張っているのは、苗木を植えているからなのだろう。但し細いテープがなくなっている場所もあるから、そんなこととは知らない連中は構わずショートカットして登っていく。
     動物公園の手前から大きく曲がりこんで行くと、やがて奥宮の石段に辿りついた。ここまで急な登り坂というのは殆どなく割合楽に登って来た。石段の下には「寶登山は千古の霊場」と書かれた看板が立つ。一気に登れるかと思った石段が思いのほかきつい。一緒に歩いているロザリアも「そこまで行ったら」と言うので途中の踊り場で息を整える。一息入れればあとはすぐに頂上だ。

     石の鳥居を潜って境内に入る。「膝がガクガク」と言っている若旦那やマリーに、「高尾山よりきつくなかったでしょう」と隊長が声をかける。比較的楽なハイキングコースであった。あんみつ姫だって充分登ってくることができる。
     神使は肋骨の浮き出た狼の姿だから安心した。奥宮を守る素木の鳥居は柱のコロビがなく、額束がなく貫は突き抜けていない。島木も貫も丸太だから、靖国鳥居に近いだろうか。奥宮はその鳥居と瑞垣で囲まれた小さなものだ。
     バラック建てのような社務所兼売店の前では、数人が焚火を囲んで何かを食べている。下駄履きのオバアサンが干し芋を焼いているようだ。私も子供の頃におやつとして食った記憶がある。もともとは保存食で、日露戦争時には野戦食として用いられたそうだ。驚いたことに、産業としては乾燥芋の八割を茨城県が製造している。最近、茨城県民は大学芋をおかずとして食べると「ケンミンショー」でやっていたから、よほどサツマイモが好きな民族であろう。「兄貴に確認したけど、我が家じゃ大学芋をおかずにはしなかった」とロダンが強調する。
     甘酒の匂いも漂ってくる。さっきドクトルは、「頂上じゃ甘酒売ってるかな」と期待しているような口振りだったのに、特に買う様子もない。
     「おや、どうしたんですか。」隊長に話しかけているひとを見れば望遠鏡氏がいる。今日はいつもの望遠鏡を持っていない。「里山があるのは知ってましたけどね。今日は娘と一緒だから。」父親と二人で来るなんて、なかなか良いお嬢さんではないか。お嬢さんは隊長に丁寧に挨拶をしているが、折角の親娘水入らずの邪魔をしてはいけない。「それじゃ」とすぐに別れた。

      ふと出遭ひまた離れ行く焚火かな  蜻蛉

     「それじゃ昼にしましょうか。」隊長の号令で、少し歩いて頂上に立つ。十一時四十八分。宝登山神社から一時間十五分ほどで登ってきた勘定になる。斜面全体が蝋梅林になっていて、まだ五六分咲きというところだろうか。「良い匂い。」
     「ここの蝋梅には三種類あるんですよ。」ドラエモンがまた難しいことを言ってくれる。私はソシンロウバイ(素心蝋梅)、普通のロウバイ(和蝋梅と知った)くらいしか知らない。その他にマンゲツロウバイ(満月蝋梅)が植えられているらしい。マンゲツというのは私はまだ見たことが無いと思う。見た限りでは、今咲いているのはソシンだけのようだ。
     「人がいっぱいね。」本当にひとが多い。座れそうな場所はもう一杯だ。大きな鍋を囲んでビールを飲んでいる連中もいる。「あれは重かったろうね。」「野菜が重いんだよ。」「水分を含んでるからね。」
     蠟梅林の近くの平らなところに拡げようかとしたが、そこは通路になっているから邪魔になる。仕方がないので、少し斜めにはなっているが全員が座れそうな場所を見つけてシートを敷いた。尻に当てた小さな座布団が滑りそうになる。見回すと私たちのグループが一番人数が多いようだ。
     「ほら、おかしいでしょう。子供の名前なの。もう三十にもなるのに。」イトハンの言葉に、「うちのも」「私のだって」とマリー、ロダンも子供の名前が書いてあるシートを見せる。皆さん実に物持ちが良い。「これは子供のじゃないですよ」とドラエモンは弁解しているが、そのシートも小さくて可愛らしい。
     「意外に暖かいですね。」「この時期にこの温度だったら恩の字。」予報では、今日は寒くなる筈ではなかったか。とにかく気持ちの好い穏やかな日で良かった。
     隊長はオニギリを五個も買ってきて、カップヌードルに湯を注いで食べている。おまけにバナナまで持っている。そんなに食えるのか。桃太郎だってそんなに食べないだろう。これは登山家の心構えかも知れない。万一に備えているのである。そういうとき私にも分けてくれるだろうか。イッチャンからは胡瓜の漬物が回されてきた。
     ドラエモンから杏が回されてくると同時に、杏と梅は似たようなものであるという意見が出された。そう言えば、津軽や南部では杏を漬けたものを梅漬けと称している(というテレビ番組を見たことがある。)たぶん秋田にもあったんじゃないだろうか。そして秋田ではなかったけれど杏を漬けたのも食べたことがある。味はほとんど梅漬けと変わらないが、肉厚で梅よりもやや優しくて旨いと思った。因みに南部地方で「八助梅」と言うのは、梅にとても良く似た杏である。「どっちもバラ科だよ。」隊長の答にイトハンが驚く。「だってバラと梅じゃ花の形だって全然違うじゃない。」
     ウィキペディアを見るとバラ科には、バラ亜科、シモツケ亜科、ナシ亜科、サクラ亜科の四つの亜科がある。そしてこのサクラ亜科にアンズ、ウメ、サクラ、スモモなどが含まれている。因みにワレモコウはバラ亜科、ピラカンサはナシ亜科になる。植物の分類法と言うヤツは素人には絶対に理解できないようになっている。だってワレモコウがバラ科って信じられるだろうか。

     賑やかに山の弁当春隣  蜻蛉

     伯爵夫人からもバター飴、マリーからはトウモロコシを霰煎餅のようにしたものが配られた。
     のんびり休憩を取っているとだんだん寒くなって来た。「空も曇って来たものね。」トイレのそばに福寿草とマンサクが咲いていると隊長が言うので、ロダン、イトハン、マリーはトイレに向かったが、別のトイレに行ってしまったようで、何も見なかったと帰って来た。ドラエモンとイッチャンはちゃんと見て来ている。
     自転車の五六人組が山を下りて行く。「写真を撮りましょう。」久しぶりの隊長の言葉だ。山頂の看板の所には先客がいたがまだ全員揃っていなかったらしい。「お先にどうぞ」の言葉で看板を背にして並ぶと、「撮ってあげます」と言ってくれた。「それじゃ今度は私が」と隊長がそのカメラを受け取ると「このファインダーを覗いて」と説明されている。「大丈夫かな。難しそうなカメラだけど。」「あなたのお兄さん、ホントに口が悪いわね」とイトハンがマリーに言っている。しかしロダンはもっと悪い。「大丈夫ですよ、日光写真で慣れてるから」なんて言うのである。今になっては懐かしい冗談だ。

     出発は十二時三十七分だ。隊長は、「しばらく急な階段が続きます。注意して下りましょう。車道に出ると後は平らな道です」と実にあっさり言うし、地図を見ればその急な階段は二百段、それほど長くはなさそうだ。私はタカをくくっていたが、なかなかどうして結構なものであった。
     木止めの階段は段差が大きく、段から外れた山側を行けば歩きやすいかと思ったが、岩石が砕けた地面は滑ってしまって却って危ない。仕方が無いから、高い段で身体を横向きにして足を下す。ほとんど垂直ではないかと思えるほどの段が続く。階段が途切れたところでも、大きな石がごろごろする部分もあってかなり疲れる。「石が割れてるから気を付けてね。」イッチャンも真剣に足場を確認しながら下っている。私たちとは逆に登って来る連中もいる。これはきついだろうね。
     イトハンは大丈夫だろうかと振り返れば彼女が恐る恐る下りてくる。シンガリにはロダンが控えているから、いざという時には身を挺してイトハンを助けるだろう。但し腰が砕けないように注意しなければならない。本当ならこれは桃太郎の役目だ。今朝はやや不安そうな口ぶりだった若旦那もストックを突きながらちゃんと下りてくる。最後尾でやっと階段を降り切ったイトハンに隊長がハグしようとすると、「ダメよ、私、おとうさんと離婚したくないから」とあっさり拒否されてしまった。
     これで二百段、直線距離で六百メートル、標高差で百五十メートルほどあったらしい。「毒キノコに注意」の看板があり、色の綺麗なものと地味なものと二つの絵が描かれている。私の常識に反して、地味な方が毒であり真っ赤な綺麗な方が食えるのである。
     車道に出ると、さっきの自転車組が寝転がって休憩していた。あの階段をどうやって降りてきたのだろう。
     車道を少し歩いて落葉の積る尾根道に入ると安心する。この辺りから野上までが「長瀞アルプス」と呼ばれているようだ。ダンディがいれば、「こんな所にアルプスなんて」と憤慨しただろうね。ドクトルは拾ったらしい石を出して、小さな虫めがねで観察する。科学者には似合わない子供用の虫めがねだ。「ちゃんとルーペがある筈なんだけど、見つからなかったんだよ。」「板碑にする石でしょう」とドラエモンと古道夫人が声をかける。確かに緑泥片岩のように見える。何か特殊な石だろうか。「ここが光ってるだろう。これが石英。」専門家は見る部分が違うらしい。
     夫婦らしい男女がやってきた。女性の方は少し疲れたか、やや遅れ気味になっている。「宝登山までは、まだありますか。」「まだまだ。」「かなりきついですよ」と余計なことを口にしたものだから、がっかりしたようだった。駅でもらった地図やネットで検索した結果をみれば、私たちとは逆のコース(野上から宝登山に向かう)が一般的な歩き方らしい。しかし、あの階段は登りたくない。
     「ちょっと休憩していいかしら。」イトハンの頼みで暫く休憩していると、後方の斜面を勢いつけて自転車が降りてきた。私たちを見てスピードを落とすと、次の登りが登りきれずに自転車から降りてしまう。「ギヤチェンジが遅いよ、登りに入ってからチェンジしてもダメ」とドクトルは専門家のように批評する。「昔ああいうのに憧れたことがある。」ひとりだけは止まりもせずに登りきった。女の子はひとり、最初から自転車を押しながら走ってきたから初心者に違いない。「女の子のお尻にハートのマークがついてた。」隊長はよく観察している。
     「ルリビタキ。今度はオスです。」ちょうど曲がり角で私のところからだとまるで見えない。朝も見たときもそうだったように、この鳥はなかなか飛び去らない。鳥が去らないから私たちも動けない。先頭と交代して古道マニアから双眼鏡を貸してもらうと、今度ははっきり見えた。背が青い。私たちをからかうように、ちょこちょこと行ったり来たりする。遊んでいるのか。「青い鳥は珍しいんですよ。」だから幸福の鳥は青いか。「ようこそここへクッククック。」おかしな歌を思い出してしまった。阿久悠作詞、中村泰士作曲、桜田淳子歌『私の青い鳥』だ。ロダンが歌うんじゃないかと顔を窺ったが、思い浮かばなかったらしい。講釈師とはやはり違う。

     落葉路行きつ戻りつ鳥一羽  蜻蛉

     「聞こえますか。」「あのギーッ、ギーッて鳴いてるのですか。」ロダンがドラエモンに教えて貰って一所懸命メモをとる。「コゲラですよ。Japanese Pigmy Woodpeckerって言うんです。」日本固有種ということか。「極東の限られた地域にしかいないようですよ。」ウィキペディアを参照してみると、生息地はサハリン、中国東北部、朝鮮半島北部、日本列島などで、確かにドラエモンの言う通りの英語名が記されている。日本に生息するキツツキでは最も小さいもの、漢字では小啄木鳥と書く。
     私は漠然と、キツツキと言う名の鳥が存在するように思っていたが、そうではないのですね。キツツキとはアカゲラ、クマゲラ、コゲラなどケラ類の総称なのであった。私は水原秋櫻子の句を思い出した。

     啄木鳥や落葉を急ぐ牧の木々  秋櫻子

     啄木鳥は秋、落葉は冬の季語で、無学な私が同じことをしたら「季重なり」として即座に捨てられてしまう。秋櫻子だから敢えて季を重ねて名句にするので、素人は真似してはいけない。小鳥峠、野上峠、氷池分岐を通る。氷池というのは阿左美冷蔵が氷を切り出す池のことだろう。獣道のようなところを下から上って来る人がいる。よく道が分かるものだ。
     私たちはまだかなり高いところを歩いている。ゆるやかな道が長く続き、草叢の土にはまだ霜柱が溶けずに残っているところもある。漸く下に見る街が少しづつ近付いてきた。最後の急な坂をなんとか下りきって、「修験道だわね」とイトハンが大きく息を吐き、その表現に笑い声が起きる。ここが登山口のようだ。休憩所の看板とともに手作りの工作品を展示する無人販売所になっていた。ただし休憩所というのに、ベンチには鉢やその他が並べられているので座る場所がない。
     十センチほどに切ったクロモジの枝が数本、サンドペーパーが添えられていて「実験用」と添え書きしてある。試しに擦って枝を嗅ぐと確かに良い香りだ。勧められてやってみたイッチャンが、枝ではなくサンドペーパーの匂いを嗅いでいるのがおかしい。そのクロモジの楊枝(二十二本入り二百円)、フォーク、鹿の角を利用した何ものか、その他が展示してある。しかし誰も何も買わない。
     片隅には蠟梅の実生苗の鉢が並べられていた。実生とは何であるかとロダンが質問し、「実から生る。種から生えてきたんだよ」とドクトルが答える。「ほら、その黒いヤツ、それが種だよ。」そう言えばさっき望遠鏡氏が、種を庭に播いたら成長してきたと言っていた。

     寺の門から枝を出している梅の木は、まだ丸い蕾が大部分赤いままで、少しだけ白い花を開いている。今年初めて見る梅だ。「やっぱり梅はチラホラ咲いているのが良い」とロダンが自信を持って言う。梅一厘一厘ほどの暖かさ。花は盛りに月は隈無きをのみ見るものかは。蕾と枝の紅と花の白との対照が良いと私も思う。
     真言宗智山派、南向山萬福密寺だ。池に張った薄氷がまだ溶けていない。「これが珍しいわ。」イトハンは、なにか由来のあるものだと思ったのではないだろうか。六地蔵の頭には、ちょうど合うように輪切りにした塩ビの管を嵌めこみ、そこに笠を載せて紐で結えている。頭に固定するためだろうが、なんだかおかしな形だ。

     早咲きの白梅香る寺の門  蜻蛉

       「クチナシですよ」とイトハンが垣根に注意を向ける。濃い橙に黄色が入る実の色は実に艶やかだ。しかしロダンは「白くないな」と不満そうに言う。「くちなしの白い花 おまえのような花だった」(水木かおる作詞『くちなしの花』))を連想したのである。「そうか、これは実ですか。」私はクチナシの花は見たことが無いと思う。ジャスミンのような芳香のある六弁花で、六月中旬頃の開花当初は白く、やがて黄色に変わるそうだ。花は夏、実は秋の季語だが、どうしたわけか私がこの実を見るのは一月に限られている。季語と実際の季節にずれが生じているのは今更言うまでもないことだけれど。
     クチナシ(梔子)の語源については、果実が熟しても割れないから「口なし」、又はクチナワ(蛇)しか食べないナシ(果実)をつけるからというような説がある。
     「碁盤とか将棋盤の足がこの実の形だろう。傍から口出し無用の意味でクチナシの形をしてるんだ。」私も講釈師のように言って見た。「エーッ、初めて聞いた。」ロダンは信用せず若旦那に確認を求めている。仕方が無い。信用してもらうためには典拠を示しておかなければならないだろう。ところが調べてみると、私の言ったのとはちょっと違う説が出てきて困ってしまった。

    クチナシ足は、むしろ囲碁の別称「手談」に由来すると思われます。「手談」は、古い古い別称です。いまから二千年以上も前に、中国の晋の時代の支道林という博学の坊さんが考え出したとされています。意味は、もちろん「盤をはさんで碁を囲めば、まったく無言-”口なし”-で対局者の情意は通い合う」です。いかにも高僧の創作にふさわしく、ゲームとしての囲碁の真髄の一半を洞察した別称です。クチナシ足は、この秀逸な別称を飾るために、彫られたものに相違ありません。
    (『囲碁雑学面白講座』http://www2.interbroad.or.jp/nob/igo/zatugaku.html#b)

     しかし「手談」に由来するとすれば、将棋盤の足も同じ形をしていることの説明がつかない。まさか将棋を「手談」とは言わない。折角探した記事だが典拠が不明で信頼性に欠ける。
     それに対局者同士が無言(口なし)であると言うのも、一般的な説は違う。因みにウィキペディア「将棋盤」には、「第三者の口出しを戒める」と書いてある。但しクチナシの実は六角、碁盤の足は八角だからクチナシではない。擬宝珠を面取りしたのではないかと考えるひともいる。いずれにしても、「クチナシ足」と呼ばれていることは間違いない。私はこの実の色を見ると「艶やか」と言うしかない。
     落合眼科というのがやけに立派で目立ってしまう。眼科だけでこんなに大きい病院というのは珍しいのではあるまいか。「この地方じゃ、特に眼科的な風土病があるのかい。」そんなことがあるのかどうか全く不明だが、仮にあるとしたら、石灰石やセメントの粉塵によるだろうか。ここは有名な眼科であり、創立者は「埼玉ゆかりの偉人」であった。

    落合芳三郎。眼科医・有名な「野上の眼医者」の創始者。
    秩父郡本野上村(現長瀞町)に塩谷兼四郎の次男として生まれるが、上吉田村(現秩父市)の落合家を継いで落合姓となる。明治三十二年東京帝大付属病院外科医教室に入り、外科及び眼科を学ぶ。三十四年、野上村に医院を開業する。「医は仁術也」をモットーに患者のためにたゆまぬ努力を続けた。瞽女(ごぜ)には無料で施療したところから、これに感謝した彼女たちが報恩のため、行く先々で「野上の眼医者は仁医」と語り歩いたと言う。長瀞町慶養寺に落合芳三郎先生報恩会が建立した顕彰碑がある。
    http://www.pref.saitama.lg.jp/site/ijindatabase/syosai-74.html

     野上駅に着いたのは二時五十分。ロダンの万歩計で一万八千歩だ。西武の「ハイキングマップ」では八・九キロ。山歩きだから一歩あたり五十センチ平均になる。上り電車は三時十三分で少し待たなければならない。既に筋肉痛になっているらしく、待合室で呆然としているマリーに宮沢賢治の歌碑を見せておく。大正五年(一九一六)九月、盛岡高等農林二年生の賢治が地質調査見学のためにやってきて、帰郷するときの歌だ。賢治二十歳。当時既に長瀞は地質研究の宝庫として全国に知られていた。

     盆地にも今日は別れの本野上駅にひかれるたうきびの穂よ  宮沢賢治

     羽生方面から来て停まっている貨物列車には白い石のようなものが積んである。「セメントには石灰石の他に何が要るか」とドクトルが私を試すように訊いて来る。「砂かな。」「砂ねエ」とニヤリと笑う。貨車に積んであるのが石灰石ならば秩父方面から来なければならない。羽生方面から来たのだから、石灰石でない何か別の材料が積んであるのではないか。それがドクトルの疑問だったのだ。セメント製造に砂は使わないようだが、それではあの白っぽいものは何か。
     秩父鉄道三ヶ尻線というものがある。秩父鉄道本線の武川から分岐し、三ヶ尻の太平洋セメント工場を結ぶ貨物専用線である。石灰岩は武州原谷(貨物専用駅)で積み込まれる。従って下り貨車に白いものが積み込まれているはずが無い。結論。停まっている貨物列車は下りではなく上りだった。下りと思い込んだのは勘違いである。
     上り列車は定刻通り到着した。もしかしたら満員で座れないかも知れないと思ったが、最後尾の車両に全員が楽々座れた。まだ普通のひとが帰るには少し早いのか。川越のさくら水産を考えれば、私たちにとってはちょうど良い時間だ。相模原の住人で、今日初めて秩父鉄道に乗ったロザリアは不思議そうに沿線の駅名を見ている。
     寄居で乗り換える私たちにとは別に、ドラエモンとイッチャンはそのまま秩父線で帰って行く。本当はドクトルもその方が近いのだが、無理にでも川越につれて行かねばならない。寄居駅の乗り換えはやはり面倒だ。切符を渡して、改札口の入り口側でカードをタッチし、東上線への通路でもう一度タッチしなければならない。そこには駅員が待機していて、ひとりひとりに声をかけている。
     「これをしないと、八高線経由だと判断して二千円ほど取られてしまいますよ。」ちょっとカード読み取り機械の設置場所を変更すれば解決することではなかろうか。つまり、改札口にある読み取り機を八高線に降りる階段の上のところに移すだけで解決する筈だ。ひとりひとりに声をかけ、その都度、「面倒くさい駅だ」と文句を言われるより、よほど簡単に思えるのだが。それよりも人間のコストの方が安いと判断するのであれば仕方がない。
     寄居、玉淀、鉢形、男衾、東武竹沢、小川町の各駅にはこれまで一回は乗り降りしたことがある。荒川の流れに映える紅葉、丘陵と里山、ハイキングには絶好な地域だ。小川町で池袋行きの急行に乗り換える。イトハンも何度か来ている筈なのに、不思議そうな顔をする。
     「つきのわですって、面白いわね。どんな字なの。」どうせ新興住宅地に好い加減な名前を付けたに違いないと私は東武を誤解していた。実はちゃんとした字名だと古道マニアに教えられた。なるほど地図を見ると確かに月輪古墳群、月輪遺跡、月輪神社があり、古い地名なのだ。九条兼実(京都月輪寺に隠棲したので月輪殿と呼ばれた)の荘園があったことに因むと言う。それにしても何も平仮名にすることはないではないか。私は自分の無学を棚に上げて思ってしまう。
     川越で降りたのはロザリア、イトハン、マリー、隊長、ドクトル、ロダン、蜻蛉の七人だ。ドクトルとロザリアは明らかに遠回りをしたことになる。「物好きだと思うでしょう。」そんなことはない。大歓迎だ。相変わらずひとの多いクレアモールを通ってさくら水産に入る。
     寒ブリの照り焼き、刺身が旨い。今年はブリが豊漁なのだそうだ。「川越は大都会だ。せんげん台じゃブリの刺身を売ってない。」それは不思議だ。
     一度眠り込んだ隊長が目を覚まして幼児の英語教育批判を始め、そこから国語教育、源氏物語にまで話題は及ぶ。ロザリアとイトハンのお蔭で賑やかな反省会になった。ひとり二千五百円。今日も楽しい一日であった。

    眞人