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    平成二十三年二月二十六日(土)  草加

    投稿:   佐藤 眞人 氏     2011.3.05

     昨日は二十度を超え春一番の風が吹き荒れる日だったが、今日は一転して寒さが戻る予報だ。こういう急激な温度変化が身体に堪える。旧暦では一月二十四日だ。
     武蔵野線の北朝霞駅で画伯と一緒になり、東武伊勢崎線の新越谷駅では若旦那夫妻とも一緒になったから、たぶん同じ東上線に乗って来たのだろう。草加駅の改札を出れば主な常連は既に集まっていて、私の顔を見ると「昨日呑みすぎたんじゃないか」と声をかけてくる。特に遅れたわけではないのだから、そんな穿鑿はしなくても良い。相変わらずの呑みすぎはスナフキンで、「三日連荘で午前様だから」と赤い顔をして頻りに眠いと連発している。
     駅前には似たような恰好の集団が集まっていて、「団体が三つ位いるようだ」とロダンが数えている。散策コースとして人気があるのだろう。私たちだって(今日の参加者中の五六人か)、三年前の四月にも講釈師の案内で歩いたこともあるから二度目だ。あの時、隊長は桃太郎たちと山登りに行っていたから草加は初めてになるそうだ。
     隊長、あんみつ姫、イッチャン、小町・中将夫妻、若旦那夫妻、伯爵夫人、マリー、画伯、宗匠、ハコさん、ロダン、スナフキン、ダンディ、講釈師、ヤマチャン、蜻蛉。ここなら随分近い筈のドクトルの姿が見えないのはどうしてだろう。念のために宗匠が改札を偵察していると、ちょっと時間を過ぎた頃に漸く顔を出した。これで十九人だ。
     今日のダンディはスナフキンの帽子のような、ずいぶん高いとんがり帽子を被っている。重そうな袋を肩に掛けているが、この正体は後で分かる。中将も膨らんだリュックを背負った他に、大きな袋を提げている。「何が入ってるんですか。」「手袋とか双眼鏡とかさ、リュックだとすぐに取り出せないからね。」

     草加駅東口から伊勢崎線に沿って四五百メートルほど行けば、歴史民俗資料館に着く。草加市住吉一丁目十一番二十九号。ちょうど他の団体が退去する所だった。塀から覗く山茱萸の黄色い蕾が春めいた気分を感じさせる。
     ここは旧草加小学校西校舎で、県内最初の鉄筋コンクリート造りの建物である。モルタルの色が茶色っぽいグレーで落ち着いた雰囲気だ。大正十五年の竣工というから八十五年経ったということになる。私が入学した秋田市立築山小学校は、昭和三十三年の時点でまだ木造だった。それに較べて草加はなんと先進的な町だったことか。
     「長野の開智学校も有名だよね」とヤマちゃんが言い出したが、私は知らなかった。こういうときはウィキペディアのお世話になるしかない。

    旧開智学校は明治時代の代表的な擬洋風建築で、日本瓦葺きの木造二階建て、外壁は漆喰塗である。校舎は白を基調としており、中央に塔があり、その下に彫刻がある。地元出身で東京で西洋建築を学んだ大工棟梁の立石清重により作られた。東京の開成学校と東京医学校を参考に作られたと言われる。(ウィキペディア「旧開智学校」)

     そちらは木造、漆喰塗りの建物だった。これだけの人が集まると、思いがけないことも教えてもらう。
     隊長が予め頼んであるガイド(館長)は中島清治氏。話し振りからすると、元は小学校の校長先生だったのではないだろうか。
     太古この辺は海の底であり、貝の化石が発掘される。その貝化石。綾瀬川から出土した縄文時代の丸木舟。江戸明治を通じて使われた川舟、田下駄。「この辺は湿地帯でした。沼地に草を加え、土を盛って田を作りました。だから草加と言うのです。」「ヘーッ。」「と言う風に子供たちには説明します。」「なーんだ。」
     まるで冗談かと思ったら、実はそういう伝説自体はあって草加市の広報に載っている。草加宿を開いたのは大川図書である。小田原北条の家臣で小田原落城後に岩槻の辺りに住みついたが、やがてこの辺りに移住して来た。

    その頃、秀忠が隅田川から舎人領の御殿に鷹狩りに来たが、草ぼうぼう、沼びょうびょうとして馬を進め難く、あらたに道をつくることを命じた。
    図書は近郷の民力を集め、カヤを刈り、細枝をうち敷き、沼を埋め、丘をならして道を平らにつくり上げた。秀忠は大いに喜び、「草を以て沼をうづめ、往還の心安すきこと、これひとえに草の大功なり。このところ草加といふべし」との上意があった。それ以来、草加村と言うようになった」
    http://www.city.soka.saitama.jp/hp/page000006000/hpg000005969.htm

     かつて草加のあたりは低湿地帯が広がっていて、人馬の往来はできなかった。そのため奥州道は千住から花俣(足立区花畑)を経由し、八条(八潮市)から古利根川沿いに迂回して越谷に至った。それが大川図書によって、越谷まで最短距離の道が出来たのである。湿地帯を埋め立てて道を開いたのが慶長十一年(一六〇六)、人の往還が増えたため願い出て草加宿を開いたのが寛永七年(一六三〇)のことだった。
     「参勤交代の大名だって草加には泊まらなかったよ」と講釈師が言うのは尤もな話で、本陣、脇本陣が設置されたのは天保期になる。そして大川家が草加宿本陣となった。「天皇様が二度いらっしゃいました。」明治維新後は天皇行幸の際の休憩所となったのである。「宮内省から補助金が出て、天皇様がお立ち寄りになる玄関とトイレを改修したのです。」このひとは頻りに「天皇様が」と言う。
     かつては草加市内の九割が農家だったが現在ではまるで変わってしまった。それでは草加煎餅の原料となる米はどこからやってくるのかと姫が館長に尋ねると、「関東一円の物を使っています」という回答だった。
     この博物館では、「体験してみよう」の標語で展示物に触ることができ、写真も自由に撮ることができる。「子供たちに歴史を体験させたい」というのが館長の言葉であった。体験したいのは子供ばかりではない。館長が説明している間に、講釈師はさっそく「体験のために」川舟に乗りこんでしまう。そのまま私を見てポーズをとっているから写真を撮らなければ仕方がない。
     草加宿の様子、日光道中分間延絵図など館長はいろいろ説明をしてくれる。「どうぞ、二階もご覧になって下さい。」
     階段の踊り場の壁には、書初め用紙に筆で書かれた作品が貼られていて、近藤勇の句であると説明が付されている。

     綾なる流れに 藤の花にほう 吾が生涯に悔ひはなし  勇

     これはなんだろう。「句」とあるが俳句ではないねとマリーと顔を見合わせてしまった。慶応四年四月、近藤は流山で拘束され、越谷の新政府本営に連行されたところで正体を見破られた。そこから板橋に向う途中、「一ノ橋」の袂の弁天の藤を見て詠んだものと言う。気分としては辞世だろうが、和歌としても字数が合わない。
     二階では特別展示として、「ひな人形、さげもん吊りひな、源氏物語貝合せ展」が開かれている最中だった。たくさんの吊るし雛と、時代物の段飾りが飾られている。
     随分前に、吊るし雛は伊豆稲取が有名だと講釈師に教わっていたが、草加にもこんな風習があるか。「私は見たことがない」とドクトルは憮然としているが、しかし落ち着いて説明を読めば、草加の伝統ではない。
     吊し雛の代表的なものは山形県酒田市の「傘福」、東伊豆町稲取の「吊し飾り」、福岡県柳川の「さげもん」である。ここに展示されているのは、草加在住のひとが柳川の「さげもん」を参考にして作ったものだった。たぶんサークル活動の発表会のようではないだろうか。
     この三つがどういうものか、いつものようにウィキペディアのお世話になってみる。
     酒田地区の「傘福」または「笠福」は、江戸時代北前航路で伝えられたとされ、子どもが健やかに育つことを願い傘に手作りの縁起小物をつるしたもの。傘の内側に天幕を張り、親骨に紐をかけ先端に布製の人形を吊るす。もともと、観音堂に安産や子供の成長を願って地元の神社に納めたもの。傘の中には魂が宿るといわれ子どもが健やかに育つことを思い、また様々な願いを形にして六十一種類の細工が吊り下げられているといわれる。
     伊豆稲取地区の「つるし飾り」は、ひな人形の代わりに手作りの人形を飾ったのがはじまりとされている。竹ひごに縮緬を巻いて作った輪に糸を五本掛け、各々に十一個布製の人形を吊るしたものを二組一セットとして雛壇の両側に飾る。
     柳川の「さげもん」は、旧暦三月一日から四月三日にかけて各戸に飾られる。竹ひごに
     縮緬を巻いて作った輪に糸を七本掛け、各々に七個(計四十九)の布製の人形を吊るし、中央に柳川鞠を二個配したものを二組一セットとして雛壇の両側に飾る。小型の物は、糸五本、人形二十五体)、鞠一個が標準となっている。奥女中が姫君の祝いとして始めたとする説がある。

     とりどりに色競ひあふ吊るし雛  蜻蛉

     色鮮やかな部屋を出ると、奥の廊下の隅には肥桶が置かれている。これは絶対やるよね。案の定、講釈師は颯爽と天秤棒を担ごうとした。しかしその瞬間に足がよろけて桶は転がり、おまけにタガが外れてしまった。元気なようでも体力を考えなければならず、体験は慎重に行なわなければならない。

     肥担ぎ春に浮かれて腰砕け  蜻蛉

     しかし肥桶担ぎは苦手でも火打石の扱いは上手い。「なんだってできるんだよ。」私は火打石というのは石同士を打ち合うものかと思っていたが、鉄に打ち付けるのであった。「私もやってみたい。旦那様が外出するとき、カチカチッて。」こういう時、姫はサザエさんのようになる。
     一階の廊下には草加出身の作家、豊田三郎と娘の森村桂のコーナーがある。私は豊田の小説を読んだことがない。「森村桂は可哀想だったわね」と若旦那夫人が詠嘆しているので、その死が自殺だったと初めて知る。『天国にいちばん近い島』は私の高校時代のベストセラーである。あんなに明るいエッセイを書いた彼女が自殺することになるとは思いもよらない。
     「私は知らないな」と言うダンディに「男の人は読まないでしょうね」と若旦那夫人が答えているけれど、実は私は読んでいた。北杜夫『どくとるマンボウ航海記』なんかも同じ頃で、少し前の小田実『何でも見てやろう』以来、海外体験物というべきものが流行った時代だ。森村桂のニューカレドニアでの体験は、戦争中の水木しげるのニューギニア現地人との交流にも共通する楽しさがあった。
     館長にお礼を言って外に出ると、前庭に「白蛇弁財天供養寄進者連盟碑」が建っているのに気付いた。その筆頭には大川八郎左衛門の名が彫られている。もともと大川家の屋敷内に祀っていたのである。蛇と弁天がつきものなのは宇賀神を持ち出すまでもなく常識的なことだが、「白蛇弁財天」という言葉自体には初めてお目に掛った。関東では筑波山に白蛇弁天があるようだ。

     次はすぐ北側にある東福寺だ。草加市神明一丁目三番四十三号。正式には松寿山不動院東福寺と言う。慶長十一年(一六〇六)、大川図書の開基になる。山門は切妻造り四脚門。彫刻は三鈷の松と弘法大師が三鈷を投げたところを彫っているようだ。三鈷投擲にはこういう伝説がある。

    恵果和尚について、真言密教の教法を余すところなく受けついだお大師さまは、大同元年(八〇六)八月、明州から日本に帰ることになりました。
    お大師さまは明州の浜辺に立たれ、「私が受けついだ教法を広めるのによい土地があったら、先に帰って示したまえ」と祈り、手にもった「三鈷」を、空中に投げあげました。
    三鈷は五色の雲にのって、日本に向って飛んで行きました。この三鈷が、高野山の御影堂前の松の枝に留っていたので、これを「三鈷の松」とあがめ、この時の三鈷を「飛行の三鈷」と称しています。
    http://www.koyasan.or.jp/shingonshu/about/kobodaishi_koya/09.html

     文久二年(一八六二)再建の鐘楼も龍の彫刻がなかなか見もので、「立派ですね」と若旦那も感心している。天井に種子が書かれているのが珍しい。本堂の内陣と外陣を区切る欄間の彫刻が素晴らしいと言うので、講釈師やイッチャンと一緒に格子越しに覗いて見た。「よく見えないわ。」念のために写真を撮って見たがやはりはっきりしなかった。
     「こっちだよ。」講釈師に従って墓域に入り、大川図書の墓を見る。一角は全て大川家累代のもので、そのうち一番大きなものがそうなのだろう。「なんとか社中の碑があるよ。」宗匠と二人で点検して、その「なんとか」は、碑文の末尾に其角庵社中とあるので分かったが、大きな石の表面にいくつも記された句はまるで読めない。あとで宗匠が調べてくれた結果、中央に書かれた句はこんなものだった。

     花に春あけるや雨後の登り鯉  一僊居士

     そして其角庵社中とはこういうものである。

    近世草加宿唯一の俳句結社である。しかも幕末の慶応元年(一八六五)乙丑秋の事で時代は相当下る。
    一僊居士(いっせんこじ・性不詳)は蕉門(松尾芭蕉一門)の系列に連なる者だ。松尾芭蕉―榎本其角―早野巴人―与謝蕪村―松村月渓―一僊居士(居士位は普通は死後法名の下に付ける称号であるが、この場合は生前の為、僧ではない男子で仏教を信ずる者の称号)この「其月庵社中」の碑は、七名の俳句を刻んでありその外に八名の俳名が見られるが、二名を除き一僊は、弟子達に自らの一の文字を与えている。
    吟じられている俳句の殆どは、花鳥風詠が多く、僅かに弟子の「一声」の句に草加の市(いち)の句「市戻り心あてある独活買いて」がみられるだけである。
    師匠である一僊居士の句「雨後の登り鯉」が草加を流れる川の鯉を詠んだものと思われる程度である。
    当時は土地の風俗や地名を詠んだ俳句は少ない。
    ともあれ、江戸時代の草加に蕉風(芭蕉の系列)の俳句結社があった事は草加の俳句史にとっては貴重な記録である。http://www.city.soka.saitama.jp/hp/page000008900/hpg000008881.htm

     「これは何かな。」標題が判読できない顕彰碑は、碑文冒頭の「先生姓木村諱保竹云々」と「天神真揚流」の文字だけは分かったが、それだけでは良く分からない。後で写真を拡大してみて「先生」の名前は木村門平保竹と判読できた。どうやら安政の頃の人で、天神真揚流柔術の達人である。天神真揚流は幕末に磯又右衛門正足が開いた柔術であり、神田お玉が池に道場があった。すぐ近くには千葉周作の北辰一刀流の道場(玄武館)がある。嘉納治五郎、西郷四郎などが学んだこともあって、起倒流とともに講道館柔道の基盤とされている。
     更に「東都落語元祖 石井宗淑墓」と言うのも見つけた。江戸落語は元禄の頃の鹿野武左衛門に始まり、中興の祖は文政期の烏亭焉馬(立川談洲楼)だと私は覚えていたが、これはどう言う人だろう。

     江戸中期に櫛屋の職人である三笑亭可楽が寛政十年(一七九八)に、浅草の柳稲荷前で初めて寄席興業を開いたのが職業落語の始まりである。この寄席が成功すると、即席噺や三題噺などが好評を博し、可楽に入門希望者が急増した。門下に多くの逸材が集まり、落語隆盛の基礎を築いたという。可楽を江戸の落語家の元祖とした「落語系図」には、可楽十哲の名が見え、その十哲のひとりに石井宗叔が数えられている。
     宗叔は江戸の医師を職とするかたわら、水魚亭魯石(すいぎょていろせき)の筆名で詩歌に親しみ、また落語を好み、ついに可楽門下に加わった。宗叔の芸名で自ら演じ、これまでの小噺から物語性のある長噺に新境地を開いたことで「長噺の元祖」と称され、多くの弟子を育てたようだ。
     http://www.city.soka.saitama.jp/hp/page000006600/hpg000006557.htm

     「可楽十哲」については、林家正蔵、船遊亭扇橋(八代目から入船亭)、朝寝房夢羅久、三遊亭圓生なんかの今に続く大名跡の初代が確認できるから、可楽に始る江戸落語の系譜は確かにある。だから東都落語の租は三笑亭可楽だと言われたほうが納得できる。
     ところが「東西落語系図」(http://www.cd-v.net/rakugo/keizu/karaku.html)によって初代可楽の系図を辿っても石井宗淑の名前は出てこないので、これ以上の情報は今のところ得られない。これで「東都落語元祖」と称するのは如何なものだろうか。草加市の広報を見ても、石井宗淑と草加との関係が掴めていないようだ。
     「十三仏板碑は見たかい」とドクトルが言いだしたのだがこれは探せない。ちょうど法事の最中のようで、住職に尋ねようにもそれができない。帰宅して調べて見た結果、写真(http://www.city.soka.saitama.jp/hp/page000014600/hpg000014517.htm)を見るとどうやら屋内に安置しているらしい。大栄八年(一五二八)の銘があるという。

     俳句、柔術、落語となかなか守備範囲の広い寺であった。参道を抜けて外に出れば、旧道に面しておせん茶屋公園がある児童公園を観光用に模様替えしたもので、旧日光街道草加宿に面した休憩所である。茶店風の建物、高札などを設置して雰囲気を醸し出しているが、特に言うべきものはない。投句箱もあるが用紙が切れていた。「おせん」は草加煎餅の創始者と伝えられる老婆の名前だ。

    草加が日光街道の宿場町として栄えた頃、おせんさんという女性が街道で旅人相手の茶屋で団子を売っていましたが、この団子はたまに売れ残ってしまうこともありました。団子は日持ちがしません。おせんさんはこの団子を捨ててしまうのはもったいないと悩んでいました。ある日茶屋の前を通りかかったお侍さんに「団子を平につぶして天日で乾かし、焼き餅として売る」というアイデアをもらいました。おせんさんが早速焼き餅を作って売り出したところ、たちまち評判となりその焼き餅は街道の名物になったという話が語り継がれています。
    草加の観光マップなどで紹介されるこのお話は、実は昭和時代に作られた物語です。では本当の歴史はどんなものだったのでしょうか。
    http://www.city.soka.saitama.jp/hp/page000011200/hpg000011168.htm

     日本の煎餅は材料から見ると大きく三つに分れるらしい。関西圏を中心に、小麦、卵、砂糖を使ったもの(瓦煎餅等)、関東を中心に米粉を使用して醤油や塩で味付けしたもの(勿論、草加煎餅を代表とする)、そのほかに地方によっては馬鈴薯の澱粉に魚や海老の粉を入れるもの(海老煎餅等)がある。そして、醤油味の煎餅の代表が草加煎餅なのだ。
     東北では南部煎餅が有名だが、あの原料は小麦粉であろう。簡単に地図で色分けする訳にはいかない。
     一休みしていると、斜向かいの店からご婦人が出てきて、「あるだけ持って来ました」と「草加市文化財マップ」(草加市教育委員会総務部生涯教育課)を十枚ほど配ってくれた。「私たちも町興しやってるものですから。」ドクトルが十三仏について知らないか訊ねると、本人は知らないようで、自転車で通りかかったオジサンにわざわざ訊いてくれる。(但し結局ここでは分からなかった。)店には民主党のポスターが貼られていたから、統一地方選に向けた広報活動の一環でもあろうかと勘ぐるのは私の精神が貧しい。これは親切、人の情けと言うものである。

     春めくや人の優しき草加宿  蜻蛉

     この辺は古い宿場町の面影を残している。いかにも宿場を髣髴させる古びた店構えの間に、誰も住んでいないだろうと思う壊れかけた家も見える。
     草加開宿当初の規模は、戸数八十四軒、南北の六百八十五間、伝馬役人夫二十五人、駅馬二十五頭。旅籠屋は五、六軒しかなく、豆腐屋、塩・油屋、湯屋、髪結床、団子屋、餅屋が一軒ずつある程度の小さな宿場だった。
     元禄期になると戸数は百二十軒に増え、正徳三年(一七一三)に草加宿総鎮守として神明神社が建てられ六斎市が開かれるようになると、急速に発展した。天保期には本陣と脇本陣が設けられ、旅籠屋も六十七軒に増え、日光道中では千住、越谷、幸手に告ぐ規模の宿場になったと言う。
     少し行けば道が大きく曲がりこむところに小さな神社がある。これが草加宿総鎮守の神明神社だ。草加市神明町一丁目六番。ここが宿場の入り口だったのだろう。

    「草加見聞史 全」によれば、元和(一六一五~二四)の初め、一人の村人が宅地内に自然石を神体とする小社を建てたのが始まりで、正徳三年(一七一三)草加宿組九ヶ村の希望により宿の総鎮守として現在地に移されたという。
    http://www.bashouan.com/peKyuudou.htm

     神社自体は小さくて見るべきものはない。ただ、鳥居の脇に「神明宮鳥居沓石(礎石)の工程測量几号」を説明する御影石の碑とその石があり、これは珍しいものなのだ。ロダンの専門である。ロダンは一所懸命説明してくれるのだが、いまひとつ良く分からない。碑の説明を見てみよう。

    石造物に刻まれた「不」の記号は明治九(一八七六)年、内務省地理寮がイギリスの測量技師の指導のもと、同年八月から一年間かけて東京・塩釜間の水準測量を実施したとき彫られたものです。
    記号は「高低測量几(き)号」といい、現在の水準点にあたります。
    この石造物は神明宮のかつての鳥居の沓石(礎石)で、当時、記号を表示する標石には主に既存の石造物を利用していました。この水準点の標高は、四・五一七一メートルでした。
    その後、明治十七年に測量部門は、ドイツ方式の陸軍省参謀本部測量局に吸収され、内務省の測量結果は使われませんでした。しかし、このような標石の存在は測量史上の貴重な歴史資料といえます。

     正方形の角を丸く落とした、厚さ十五センチ程の平べったい石を二段重ねてあるが、これは元の鳥居の台座だったものだ。その上段の石に「不」(というより、「木」の縦棒が突き出ない形)の記号が彫られている。その横棒が標高を示すのである。これを説明するために、ロダンは憲政記念会館の日本水準原点から始めるから大変だ。「明治二十四年に水準原点が作られた時は二十四・五メートルでした。それが関東大震災によって地盤沈下したんです。」「正確には二十二メートルと」とハコさんが口を開いたが、「違います。地盤沈下のために現在では二十四・四一四メートルになりました」と実に細かな数値を口にする。
     「石はどこにあるんだい」とドクトルが首を捻っているのがおかしい。「見たいんだよ。」ドクトルも石と聞けば目の色が変わってくる。しかし神体だから本殿に安置してある筈で簡単に見られる訳がない。福沢諭吉が神社を抉じ開けて中の石ころを蹴飛ばしたというような話があったんじゃないか。
     しかし民俗とか民間信仰なんかに関心を持ち出すと、なかなか諭吉のように単純明快に事を済ませる訳にはいかない。今の私たちにとっては不思議なことだが、「石には、アニミズムの対象として神霊が籠るという観念がある」(五来重『石の宗教』)。そうした観念を生んだ生活や心のありかたが知りたいのだ。
     旧宿場町の面影はここで終わって、神明一丁目の小さな公園には、河合曽良の像が立つ。三年前に来た時は立っていなかった。既に松原の札場公園には芭蕉像があり、一人では可哀想だと草加市民は考えたのであった。市制五十年記念として、一口一万円、七百口を募集して平成十八年十月に建てられた。右手を伸ばして先を行く芭蕉に声をかけているような像だ。「なんだか講釈師に似ているようじゃないの」と若旦那夫人が笑う。

     講釈をする人顔像の顔   午角

     これが講釈師の仮の姿なら、「連れて逃げてよ」(『矢切の渡し』)と手を差し伸べているようにも見える。

      春の道連れて行つてと曽良が追ひ  蜻蛉

     「もう一人いたよね、誰だっけ。」小町が悩んでいるので私も悩んでしまう。奥の細道の同行者は曽良ひとりである。姫も「曽良だけでよね」と首を捻っている。単に芭蕉の弟子ということなら其角、嵐雪、去来とか、そういうことを考えたのだろうか。元禄二年三月二十七日、千住を出発した芭蕉は四十六歳、曽良は四十一歳で、芭蕉は既に「翁」と呼ばれていた。
     「草加せんべい発祥の地」碑は、高さ三・三メートルのやや縦長の円形の石だ。煎餅の形を模したと言う。「あれは箸だよ。」その右後ろの石柱は高さ五・七メートルの箸の形を表しているというのだが、箸に見せるためにはもうちょっと長さが欲しいところだ。
     信号を渡ると、「草加屋本店」の店先の窓から、煎餅を焼いている様子が良く見える。二人が向かい合って、膨らんだ部分を押瓦(バレンのような形)で押し潰し、ひっくり返しては同じこと繰り返す。熟練の技だ。

     せんべいの香りただよう早春(はる)の街   午角
     春光や煎餅を焼く手の早さ  蜻蛉

     草加には草加地区手焼煎餅協同組合、草加煎餅協同組合があって、七十軒以上が加盟している。草加煎餅の本場本物として認定されるためには、次の要件を満たさなければならない。

     ①製造地:草加・八潮・川口・越谷・鳩ケ谷で製造
     ②材料:関東近県で収穫された良質のうるち米
     ③製造:最低十年の経験を持つ職人が製造を管理
     ④焼き方:押し瓦での型焼き又は押し瓦方式を取り入れた堅焼き

     「私たち信号で待たされちゃったのに、誰も振り向きもしないんだから」と、イッチャンと二人で遅れてしまった小町はオカンムリだ。伝右川に架かる草加六丁目橋の親柱は、ブロンズ製で石燈籠を模してある。橋は恰好が良いけれど、綾瀬川支流の中で最も水質が悪いとされている川は、緑に濁った水が流れている。橋を渡れば札場河岸公園だ。
     石垣の上に高さ十一メートルの望楼が立ち、芭蕉像が立つ。休憩所の前のベンチに座って昼飯だ。ベンチに座れなかったひとは、休憩所の中の椅子に座り込む。
     午前中は風が少し冷たかったが、昼飯を食い終える頃にはその風もほとんどなくなり、案外暖かくなってきた。イッチャンから漬物が、姫からはミルク飴が配られた。そして小町は「草加煎餅じゃないけどね」と栃の実の煎餅を配ってくれる。

     春うらら煎餅配りゆく小町  閑舟

     芭蕉像は、平成元年「奥の細道」旅立ち三百年を記念して造られたものだ。江戸を振り返っているような姿で、「未練がましいじゃないの」と宗匠は批判する。芭蕉にしてみれば地の果てに赴く程の思いだっただろう。ここから綾瀬川に沿った旧日光街道は松並木が続いている。取り敢えず綾瀬川について基礎を押さえておこう。

    江戸時代初めまで、綾瀬川中下流は低湿地で通行が困難であった。大雨が降るたびに川筋が変わり、一定しないことから「あやし川」と呼ばれ、後に「綾瀬川」と変わっていったと伝えられる。まず伊奈忠次らによって堤が整備され、伊奈忠治らによって流量を調整するために武蔵国足立郡内匠新田(現・足立区南花畑の内匠橋付近)-葛飾郡小菅間に平行して新綾瀬川が開削された(現在の綾瀬川はこの新しい流路を指す)。
    当時の日光街道(奥州街道)は、江戸付近の千住宿から、いったん東に回って松戸宿を経由し、西に戻って越ヶ谷宿に出てから北に向かっていた。寛永7年(1630年)に草加宿の設置が決まり、おそらくこれにあわせて天和3年(1683年)に綾瀬川の直線化の工事が行なわれた。これ以後、日光街道は一部綾瀬川沿いを通るようになった。(ウィキペディア「綾瀬川」)

     子規句碑が建つ。

     梅を見て野を見て行きぬ草加まで  子規

     明治二十七年の早春、子規と虚子は草加にやって来た。日清戦争従軍から帰国途中の船内で子規が喀血するのは翌年のことで、二十六年には東北旅行、この句を詠んだ二十七年は千葉方面へ遊ぶなど、まだ元気で旅をしていた頃だ。
     千住から草加まで歩いたようだ。子規は煎餅が好物だったと言うから、この時も草加煎餅を食っただろう。子規には他にも草加煎餅を詠んだ句がある。冬の句だが、

     煎餅干す日影短し冬の町  子規

     子規は理論家で教育者ではあったが、(そして「俳句」という言葉を作ったのが子規ではあるけれど)実作者としてはどうだったろう。この遊歩道には芭蕉に因んで、句碑が多い。しかし「おくの細道」には草加で詠んだ句は一つも書かれていないのだ。ちょっと上流の方に虚子の句碑もある。

     順礼や草加あたりを帰る雁  虚子

     望楼脇に投句の箱があり(観光俳句のコンテストのため)、どうやら講釈師は句を作ったようで、そこに用紙を投げ込んでいる。「教えてくださいよ。」「ヤダ。絶対見せない。」こういうところが頑なな人だ。出発の前に、「望楼に登っていない人はどうぞ」と隊長が促すが、見るべき人は既に登ってしまっている。
     札場(フダバ)河岸の船着き場跡は格子で塞いである。「札場は屋号なんだよ。」野口甚左衛門の屋号が札場である。高札を掲げる場所だったので「札場」と言った。

    綾瀬川での舟運の開始は、草加宿が開設され、綾瀬川が現在の河道に改修された寛永年間(1624~1644)後期のこと。1680(延宝8)年に幕府が田畑のかんがい用の堰を禁止したことで川の水量が増え、舟運はさらに盛んになった。沿岸各所に船荷を積み下ろす河岸が設けられ、年貢米などが運ばれた。草加宿周辺では江戸に近いこともあり、米以外に野菜も作られ運搬された。
    草加宿周辺の河岸は、谷古宇の甚左衛門河岸、吉笹原の魚屋河岸、蒲生村の藤助河岸があった。魚屋河岸と藤助河岸は公認の河岸として整備された。魚屋河岸から江戸までは舟路4里であった。
    明治に入ると、運搬品の種類や量の増大により船数・船種とも大幅に増加した。また、新たに主要な河岸もできた。甚左衛門河岸に沿ってできた私営の高瀬河岸である。この河岸は大正年間に隆盛を迎え、1916(大正5)年ごろが最盛期だった。
    しかし、陸上交通機関の急速な発達により、大正末期には閉鎖。それ以後、綾瀬川の舟運は農業肥料である下肥を運ぶだけになったが、化学肥料の発達により、これも昭和30年代には姿を消した。中川の舟運もこれと機を一にして衰退した。
    http://www.city.soka.saitama.jp/hp/page000014300/hpg000014289.htm

     これから上流を遡っていくのだが、その前にちょっと下流の甚左衛門堰は見なければならない。アーチが二つ並ぶ煉瓦造りの堰だ。今は使われていないから水は澱んでいて汚い。明治二十七年に造られ、昭和五十八年まで実際に利用されていた。綾瀬川と伝右河との間で水量を調節したものだ。煉瓦の寸法は二十一センチ、十センチ、六センチ。長面と小口を交互に組み合わせる形をオランダ積、あるいはイギリス積と言う。講釈師が先導して、伝右川が平行に流れているのをみんなに確認させている。
     もう一度戻って千本松原を歩いていく。朝、資料館の館長が「芭蕉は松原を見ていない」と教えてくれたように、年表を見れば、草加宿北の日光道中に松の苗木千二百三十六本が植えられたのは寛政四年(一七九二)のことである。
     かつては日本で最も汚い川とされていた綾瀬川も、近年は大分綺麗になったということだ。「だけど、昔は綺麗な川だったんだ。」講釈師の話では、標高が低く川筋の高低差も余りないので、今では満潮の時にはボラが遡ってくることがあると言う。「鯉とか鯰もいるよ。」

    綾瀬川は、昭和30年代の初めのころまでは、水遊びもできるきれいな川でした。ところが、地域の発展とともに徐々に汚くなり、昭和55年からは、15年連続全国ワースト1という、最も汚い川となってしまいました。このため、かつての清流を取り戻そうと、綾瀬川沿いの市区町長、東京都、埼玉県及び国土交通省では、綾瀬川とその支川である、古綾瀬川、伝右川、毛長川などの環境を良くしていくために、平成7年度から「綾瀬川清流ルネッサンス21」計画を実施してきました。
     下水道や浄化施設等の整備の他、「綾瀬川クリーン作戦」や「みんなで水質調査」など、地域の方々の参加による活動に取り組んできた結果、綾瀬川の水質が徐々に改善され、平成12年には全国最下位を脱却することもできました。
     また、引き続き水環境改善活動を、各市区町及び都県と一体となって行うべく、平成13年度より「綾瀬川清流ルネッサンスⅡ」計画を実施しています。
    「綾瀬川清流ルネッサンスⅡ」計画では、従来の取り組みを引き続き継続実施する他、以下のような活動を新たに行い、地域住民の方々等と協働した水環境改善活動の推進に努めています。(「綾瀬川清流ルネッサンスⅡ」)
    http://www.ktr.mlit.go.jp/edogawa/project/tiiki/aya_r/renaissance_1.htm

     「どうして汚れたのかしら、生活排水なの?」若旦那夫人の疑問には、「いや、工場廃水が原因でしょう。皮革工場や染色工場からの排水で」とハコさんが答えている。そう言えばハコさんもほとんど地元に近いひとだった。
     白砂青松をイメージして造ったのだろう。白い石畳のような道が松の緑を際立たせ、川の青さとの対照が良い。コンクリートで完璧に護岸した川についてはエコロジストは別の批判を持つだろうが、観光客にとってはなかなか良い道である。「日本の道百選」になっているのだ。「良い所だな」とヤマチャンが頻りに感動している。「草加なんて草加煎餅しか知らなかったのに。」「私もそうです。」川口のマリーも同じことを言う。
     草加市は観光政策に随分力を入れている。「越谷だって川は一杯あるのに。隣の市と較べるとなんだか悔しい。」姫は途端に郷土愛に燃えてくる。
     「あれって登れるんですか」と、遠くに見える矢立橋をロダンが指差す。勿論だ。この橋は草加松原のシンボルにもなっている。草加流山線が日光道中を分断しているのだが、信号待ちなどせずに、松原をそのまま進むための歩道橋だ。もうちょっと先の百代橋と対になっていて、「うちの方じゃモモヨ橋っていうのがある」と宗匠が笑う。もちろん、「月日は百代の過客にして」から採られたもので、それなら「ハクタイバシ」かと思えば「ヒャクタイバシ」である。橋は太鼓橋で頂上にたつとかなり見晴らしが良い。
     「これなら望楼に登るまでもなかったわね。」望楼に登るのは景色を見るためだけではない。「遠き別れに耐えかねてこの髙楼に登るかな。」(島崎藤村『惜別の歌』)望楼に登るためには別れを経験しなければならない。宗匠は登ったが、私は登らない。

     綾瀬川松は緑に道白く  蜻蛉

     「暑くなってきちゃった。」昼前にオーバーパンツを穿き込んでしまった姫は汗をかいている。「だって、午後から寒くなるって言ってたんだもの。」ダンディは少し疲れたようにベンチに座り込んだ。「もう駄目だな、引退だ。」講釈師が嬉しそうに「引退の引導を渡す」と何度も繰り返す。疲れるわけだ。ダンディの肩には、姫にプレゼントするためのカセットテープのセット「昭和の歌謡六十年」と言うやつがぶら下がっているのだ。試しに私も持って見たがかなり重い。宗匠は、「もてることは辛いこともあるのだ」と達観する。

     世之介はまめと忍耐共に見せ  閑舟

     とうとうダンディは西鶴の色男に較べられてしまった。私は人の一生は重荷を背負って行くが如しと、ダンディの嫌いな家康を思い出してしまう。スナフキンも頻りに肩を揉んでいるのは、姫に貰った本が重いのだ。芭蕉も荷物が重いと愚痴をこぼしていたくらいで、草加と重荷とは付物なのかもしれない。
     ハープ橋というのは何の意味だろう。確かに欄干にはハープの形のブロンズ製装飾がいくつも取り付けられているのだが、「それは分かったけど、だから何なのよ」とロダンはしきりに悩んでしまう。「この近くでハープの定期演奏会があるんだよ。それに因んで造ったんだよ。」講釈師は何でも知っている。国際ハープフェスティバルというものが催されるのだそうだ。これに限らず、この辺りの橋はそれぞれに意匠を凝らしていて楽しい。これも草加市観光政策の賜物であろう。
     その橋を渡って綾瀬川左岸広場に入ると、まだ植えて数年しか経っていないような細い樹木が並んでいる。「木が細いだろう、植えたばっかりなんだよ。」そこに八重の白梅が咲いていた。「良い匂い。」

     白梅も八分咲きなり綾瀬川   午角

     「これは何かしら、桜みたいよ。」紅色がやや濃いのはカンザクラで、カワヅザクラはまだ蕾のままだ。「河津桜って、伊豆のほうじゃもう真っ盛りでしょう。」ヤマチャンがびっくりしたような声を出す。気候が違うのだ。
     草加市文化会館の一階は伝統産業展示室になっている。コーナーでは若い娘が二人で向かい合って、慣れない手つきで煎餅を焼いている。「それで押して空気を潰すんですか」とロダンが声を掛ける。「そうみたいです。私たちも初めてで。」「あっ、このお店の方じゃなかったんですか。」これは体験コーナーなのである。アッ、こんなに膨らんだらダメじゃないか。私は最初から素人だと思っていたが、ロダンは誤解したお蔭で若い娘と会話が出来た。事前予約制で参加費用五百円也。自分で焼いた煎餅が五枚貰える。

     煎餅を焼く拙さや梅の花  蜻蛉

     たまには私も土産を買っておきたい。(どうせ自分で食うのだけれど)しかし草加煎餅十枚八百六十円というのは随分高いのではあるまいか。私は吝嗇だから、ほとんど同じ大きさの青海苔煎餅三百六十八円を買った。スナフキンはちゃんと高いものを選んで、その他にもザラメなど二種類、合わせて二千円以上の買い物をした。「草加に来て煎餅を買わなくちゃ、何しに来たか分からないじゃないか。」しかし、結構地元のスーパーなんかに草加煎餅の名称で売っていたりするのである。
     草加を煎餅の産地とだけ思ってはいけない。浴衣と皮革製品も特産品である。実は綾瀬川の水質汚染は、実は染色と、皮革製造過程の廃液も原因したのだ。

     草加の産業はせんべいばかりではありません。東京という一大消費地に近く、かつ良質な水が豊富に得られた草加では、製造に際して水を多く用いる産業が発達しました。
     その代表的なものが、皮革産業と染色業。後者は特にゆかたの染め付けが有名で、草加で生み出される製品は“東京本染ゆかた”と呼ばれて親しまれています。
     これらの産業は、いずれも業者が東京(江戸)から移転してきたことに端を発します。皮革産業は、ある皮革加工会社が昭和10年に移転してきたのを契機に、三河島周辺の皮革業者が次々に草加に進出しました。染色産業では、江戸時代中期の大火で焼け出された神田の紺屋が、日光街道の宿場町だった草加周辺に住み着いたのが始まりといわれています。
     http://www.city.soka.saitama.jp/hp/page000011200/hpg000011169.htm

     綾瀬川がまだ綺麗な頃に発達して、その産業のお蔭で水は汚れた。この展示室兼売店は「パリッセ」である。ダンディがその由来を訊いてみると、「お煎餅のパリッとする感触、それに職人さんがセッセと働く姿を表しています」と答えが返って来た。ただこれは私の聞き間違いだったかも知れない。正しくは次の通りである。

    パリッセ = 草加せんべいマスコットパリポリくん と 革のSESSE(セッセ)を合わせて名付けられました。http://www.soka-kawa.com/parisse.html

     さて、「革のSESSE」と言うのが分からない。フランス語かイタリア語かなんて調べるのに苦労したが、やっと分かった。草加革職人会の店名がSESSEなのだった。
     建物の上の方は文化会館になっている。「俺はあそこのステージで歌うんだ。スポットライトを浴びてさ。」カラオケ大会でもあるのだろう。講釈師はカラオケ屋に一日中入り浸っているひとだ。
     橋を渡ってもう一度遊歩道に戻る。「なんだか色っぽい松だね。」幹の途中から太い枝が二股に別れている様子がおかしいと画伯も笑う。「いたずらな奴がパンツを穿かせた。」本当かね。「また信用しないんだな。ヤになっちゃうよ。」
     「松尾芭蕉文学碑。」筆文字の碑は誰も読めないので、脇にある活字体の碑で確認しなければならない。草加が「早加」になっているのにみんな驚いているが、たぶんこれは当て字、略字ではなかろうか。江戸人は文字遣いに関しては結構好い加減なところがある。

    今年元禄二とせにや、奥羽長途の行脚たゞかりそめに思ひ立ちて、呉天に白髪の恨を重ぬといへども、耳に触れていまだ目に見ぬ境、もし生きてかへらばと定めなき頼みの末をかけ、其の日漸く早加といふ宿にたどり着きにけり。痩骨の肩にかゝれる物まづ苦しむ。たゞ身すがらにと出立ち侍るを、紙子一衣は夜の防ぎ、ゆかた雨具墨筆のたぐひ、あるはさりがたき餞などしたるは、さすがに打捨て難くて、路次のわづらひとなれるこそわりなけれ。

     「草加には泊まらなかったんだよな。」いくら荷物が重くても千住から十キロもない草加で泊まる筈はなく、ここは休憩地点に過ぎない。当時の旅行者一日平均の歩行距離は十里という説もあるが、これはちょっと信じ難い。ゆっくり一時間に一里として、夜明けから日暮れまで休憩を充分に取りながら八時間歩いたとすれば八里になる。これが現実的ではないだろうか。だから三十キロ程度が目安と考える。
     『おくの細道』は省略が多く、実際にいつ、どこに泊まったかは曽良日記によって見るしかないのだが、それによれば最初の宿泊地は粕壁であって、粕壁なら千住から二十八キロ程になるか。ちょうど良い距離だ。
     「呉天に白髪って何のこと?」小町に訊かれたって無学な私に分かる筈がない。中国の故事によるのではないか。宗匠とダンディはすぐさま電子辞書を引く。宗匠の調べでは、遠い異郷の地で苦労するというようなことらしい。「あっ、左遷されたっていうことか。」それもあるかも知れない。中国の宮廷人にとって呉は遥か南方の国である。苦労の挙句に髪は真っ白になるのだ。
     ただ蓑笠庵梨一『奥細道菅菰抄』(岩波文庫『おくの細道』の巻末に収載されている)では、「按ズルニ、此呉ハ、或ハ五ノ字ノ誤カ。五天は五天竺ヲ云。三体詩ニ、五天到ラン日頭マサニ白カルベシ」とある。安永の頃、既に「呉天に白髪」の典拠が分からなくなっていた。五天竺というのは、古代インドを東西南北中央の五つの部分に分けたことから、インド全体のことを言うのである。
     すぐ近くには水原秋櫻子句碑もある。

     草紅葉草加煎餅を干しにけり  秋櫻子

     草紅葉は草加と掛けたものかと隊長は疑問を持つが、これは季語である。「秋の千草が色づいてくること。田の畔や土手の上など、靴で踏みにじるのが惜しいほど美しくなる。」というのが、『合本俳句歳時記』(角川書店)の説明だ。「真っ赤に色づいた草と、白い煎餅の色の対照が美しいんですよ」と姫も解説してくれる。
     広辞苑を検索して「秋櫻子は東大医学部ですよ」とダンディは驚く。水原秋櫻子は産婦人科の医者である。昭和初期、東京から月に二回春日部の安孫子医院に通っている頃、草加が通り道だった。そして俳句史では、旧制粕壁中学の国語教師をしていた加藤楸邨が春日部で秋櫻子と出会ったことがひとつの事件として記されている。楸邨は教師を辞めて秋櫻子の「馬酔木」編集に携わりながら東京文理大学に通い、やがて人間探求派としての俳句を確立することになるのだ。
     中将が松ぼっくりを拾い集めているのは何のためだろう。「私が頼んだんだよ。」仲の良い夫婦だ。小町は松ぼっくりを集めているのか。「瓶詰めにするんだよ。水を入れてね。」そんなことをすると、もしかしたら松ぼっくりが食料に変化するのだろうか。そんな筈はないね。「装飾よ」と小町はあっさり答える。
     中曽根橋と言うのが変わっている。橋自体はコンクリート製だが、欄干や外観が木で造られて昔風の景観を醸しだす。横から見ると、欄干の下の方には裾よけのような板が張りつけられている。
     やがて草加松原北端を示す場所に来た。大きな石のリングのオブジェが立っている。ここは札場河岸公園から一・五キロ地点だ。この先左手の自動車道に「あれ見てみな」と講釈師が指差すのが、「みつばし」という石柱だ。つまりかつての日光道中はやや斜めに通っていたことが分かる。
     前方に東京外環自動車道が見えてきた。道路脇に壊れた小さな祠が放置されている。「どうしたんでしょうね。」ロダンと一緒に首を捻っていると、すぐその先に、もう少し大き目の祠が立ち、中に青面金剛、馬頭観音などが並べられている。壊れた祠からここに移動させたのだろうか。「講釈師がおとなしく踏みつぶされてますね」と姫が講釈師の顔を見る。この金剛像はなんだかマンガのようで可愛い。
     外環自動車道を挟んで、川の北側と南側には水門の建物が立っている。「ここで綾瀬川の水量を調節したんだよ。」
     芭蕉と曽良の壁画は目鼻口が描かれていないマンガのようだ。「絶対、馬には見えないよね。」「牛じゃないか。」芭蕉が載っているのはやはり馬だとは思うのだが、確かに馬の顔には見えにくい。
     外環道を潜り抜けると、さっきまでより水量が多いような気がする。

     「さいかちど橋」は槐戸橋と書く。「槐」を「さいかち」と読むか。私はエンジュと読むとしか知らない。親柱に三十センチほどの大きなカブトムシをしがみつかせているのは、この辺りが雑木林だったことの記念だそうだ。設計者望月積氏の思い出話を見つけた。

    「昔この辺りに繁っていた槐(エンジュ)の樹に、カブトムシがいっぱいいた、という地元の話から橋のデザインに採り入れたのですが、単なる昆虫見本のようにはしたくないと思っていました。時代の息吹が感じられ、新鮮で健康的な美しさを備え、その時代を表現する工芸美術作品にしたかったので、当時、新進気鋭の鍛金工芸家で、現在も造形家として活躍する知人の柿崎隆之さんに制作を依頼しました。私のイメージ以上のものを作ってもらい、とても満足だったのを覚えています」http://www.city.soka.saitama.jp/hp/page000011800/hpg000011782.htm

     やはり槐はエンジュである。サイカチは皁莢と書く。エンジュをサイカチとしたのは何故だろう。すっかり忘れていたのだが、三年前の日記をひっくり返すと、サイカチはカブトムシの古名であると、宗匠が調べてくれていた。

    本草学者である小野蘭山の『本草綱目啓蒙』(1806年)によると、江戸時代の関東地方ではカブトムシのことを「さいかち」と呼んでいたことが記されている。この由来についてはサイカチの樹液に集まると考えられていたという説、カブトムシの角がサイカチの枝に生えた小枝の変形した枝分かれした刺に似ているからだとする説がある。(ウィキペディア「カブトムシ」)

     橋を渡ると自然石の慰霊碑がある。ただ「慰霊碑」とあるだけでは何かが分からないが、橋脚工事の犠牲者を祀ったものだと中将が教えてくれる。ダム工事などの大規模なものなら分かるが、たかが橋造りのために、そんなに犠牲者が出るものだろうか。
     更に歩いていくと、小屋のようなものを立てて、そこから河に降りられるようになっている。

    越谷市蒲生の綾瀬川通りにある藤助河岸は、高橋藤助の経営により明治時代には汽船までが就航するほどに繁栄しました。このころ古利根川や元荒川の舟運は陸上交通の発達により衰退していきましたが、陸羽道中(旧日光街道)に面しているという地の利を生かし、大正2年(1913年)には資本金5万円の武陽水陸運輸株式会社となり、越谷・粕壁・岩槻から荷車で運ばれてきた特産物を、舟に積み替えて東京に向けて出荷していました。(越谷市商工会http://www.koshigaya-sci.or.jp/kanko/c10-5.html)

     その向かいに藤助酒店がある。石造りの蔵には大きく「藤助商店」と記され、隣の二階建ての古い建物が店になっている。ここを藤助河岸と言うからには、この藤助商店も昔から続く店なのだろう。店で女性たちは買い物をしている。店内を覗くと、越谷の銘酒もあるが誰も買わない。
     蒲生の一里塚(越谷市蒲生愛宕町八七六)は真ん中に鳥居と小さな祠を建てている。日光道中二番目の一里塚で、埼玉県に現存する唯一の一里塚だが、きちんとした手入れをしていないから、日光御成道の西ヶ原、中山道の志村と較べると、なんだかうら寂しい様子だ。
     うら寂しいのは榎のせいだろうか。本体は殆ど枯れているのに、地面とすれすれの所から新しい枝が出て、本体とくっついている。それに、一里塚なら、道の両側にあるのが基本だけれど、ここは一ヶ所しかない。

    文化年間(一八〇四~一八一八)幕府が編さんした「五街道分間延絵図」には、綾瀬川と出羽堀が合流する地点に、日光街道をはさんで二つの小山が描かれ、愛宕社と石地蔵の文字が記されていて、「蒲生の一里塚」が街道の東西に一基づつ設けられていたことが分かる。現在は、高さ二メートル、東西幅五・七メートル、南北幅七・八メートルの東側の一基だけが、絵図に描かれた位置に残っている。
     また、塚の上にはムクエノキの古木・太さ二・五メートルのケヤキのほか、マツ・イチョウが生い茂っている。(案内板より)

     塚の手前の石段の所で、宗匠が「八地蔵だよ」なんて言うから驚いて数えてしまう。「ウソ、六地蔵です。」地蔵が六体、その両脇に何かの石仏、供養塔が混じっているのだ。

     春の空地蔵出迎ふ一里塚  閑舟

     脇の路地の木に鳥がたくさん群れているのにスナフキンが気付いて、「あれは何だい」と訊いてくるが、私に答えを求められても困ってしまう。椋鳥かも知れない。
     これで今日見るべきものは全て見終わった。私にとっては二度目の草加だったが、結構忘れていることが多かったのは悔しいことである。後は蒲生大橋を渡って新田駅を目指す。橋の壁には虚子の句が掲げられていた。

     舟遊び綾瀬の月を領しけり  虚子

     小さな商店街を抜けて駅に着いた。宗匠とロダンが一致した歩数は一万一千歩。今日はやや短めのコースであった。「新田なんか何もないよ」と講釈師は言っていたが、ちゃんと喫茶店がある。ここで三時まで休憩する。
     まだ時間は早いが、新越谷の「一源」は昼からやっているとハコさんが断言するので、今日の反省会の場所が決まった。着いてみると「昼から」どころではなく、二十四時間営業のコンビニのような居酒屋で、まだ三時というのに既に客が入っている。越谷は朝から酒を呑む町である。参加者は隊長、ダンディ、ドクトル、ハコさん、スナフキン、宗匠、ロダン、ヤマチャン、あんみつ姫、マリー、蜻蛉の十一人になった。
     「水戸黄門」という名の焼酎をロダンがメニューに発見してしまった。「ナポレオンとかカミュみたいな壜じゃないの。」製造元はニッカヰスキーで、これは五百ミリリットルだからすぐに空いてしまって「島思い」という泡盛(アサヒビール)、鍛高譚(紫蘇焼酎はこの会では初めてではないだろうか)を追加して一人三千円也。

     黄門てふ焼酎嬉し春の宵  蜻蛉

     終わってもまだ五時半。「カラオケに行きましょう」と姫の誘いで、「アド街ック天国」(今夜は水戸の特集だそうだ)を見なければならないと渋るロダンも無理やり拉致して、隊長、ドクトル、ハコさん、ヤマチャン、そしてマリーまでもカラオケに行くのである。二時間充分に歌って一人千五百円。まだ七時四十五分、ロダンは充分に「アド街ック天国」に間に合う時間だ。

    眞人