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    平成二十三年三月二十六日(土) 入間市

    投稿:   佐藤 眞人 氏     2011.4.02

     三月十一日以来、私たちは経験したことのない世界に入ってしまった。マグニチュード九・〇という巨大地震、それによって惹き起された「想定を遥かに超えた」「想像を絶する」「未曾有の」被害について、どんなに言葉を費やそうとしても、あの何度も流された画像の衝撃を正確に伝えることは難しい。更に追いうちを掛けた福島第一原発の事故は、事態が改善の方向に向かっているのか悪化しているのか、素人には全く判断できない。野菜、牛乳に放射能が検出され、出荷停止措置が取られたことに合わせて、「風評被害」と称する買い控えが発生した。土壌汚染も含めて東北の農業は壊滅状態になるだろう。これらによって、震災被災地や原発近接地域からの「集団疎開!」が実施された。
     首都圏では「計画停電」の名のもとに、殆ど行き辺りばったりではないかと思えるような停電が実施され、それに伴う電車運行の全般的な縮小が続いている。直接の震災被害復興費も巨額に上るが、停電による産業への打撃も無視できる規模ではない。現在の「計画停電」方式は絶対におかしい。
     ガソリン給油待ちで渋滞する光景なんか予想もしなかった。腹立たしいのは買占め買いだめが横行したことだ。腐るほど有り余っているこの国で、米を買いだめするという神経はどうなっているのか。

     しかし悲観的なことばかり言っていても仕方がない。里山の仲間では、たまたま仙台に行っていたカズちゃんが、いったんは郡山に避難し今では所沢に帰って来た。詳細は分からずかなり疲労がたまっているようだが、取り敢えず無事なようだから安心している。その他には特段の被害もないようだった。
     日本中が沈みこんでいるわけにはいかず、精神は奮い起さなければならない。交通状況が不安定な中でも、里山ワンダリングは予定通り開催された。こういうときこそ楽しむ必要がある。
     旧暦二月二十二日。春は名のみの風の寒さや。来週はもう四月と言うのに、冬のような寒さが続いている。特に風が冷たい。西武線は一時間に三本程度だと隊長から注意が入ったので、少し早めに家を出た。今日明日は停電は実施されないことになっている。
     東上線は土日ダイヤながら全線運行しているし、西武新宿線本川越から所沢までも難なく着いた。ちょっと早過ぎたかも知れない、もっとゆっくりで良かったと思いながら飯能方面のホームに降りれば、しかし小手指行きばかりが三四分間隔で来るのに、それより先の電車がない。ちょうど古道マニアに出会うと、駅員に訊いたら二十分後にあると教えて貰ったと言う。「これなら狭山市駅からバスに乗るか、歩いた方が早かったですよね」と話しているうち、結局入間市駅に到着したのは九時四十五分頃で、もう早い人は集まっていた。仲間の元気な顔を見るとホッとする。
     隊長、ヤマチャン、宗匠、桃太郎、望遠鏡氏、古道マニア、ドクトル、画伯、バンブー、ハコさん、チイさん、若旦那夫妻、蜻蛉。十四人になった。女性は一人、「もう中性よ」と笑う若女将人だけで、こんな交通状況では女性はなかなか参加し難いかも知れない。それに今日のような風の強い日は花粉症の人にとっては辛いだろう。マスクを掛けたひとが多い。
     チイさんは蓮田駅の自転車置き場係員に「ボランティア、ご苦労様。どこまでですか」と声を掛けられ、つい「福島まで」と応じてしまった。「だって、遊びに行くなんて言えなかったからね。」彼は以前、確か山古志村の米作りのボランティアも経験している筈で、仕事さえなければ本当に行っていただろう。私とは性根のありかたが違うひとなのだ。

     リュック見てボランティアかとたずねられ  千意

     十九年三月にもほぼ今日と同じコースを歩いているのだが、ほとんど忘れてしまった。駅南口はロータリーになって新しい店も多いが、北口は崖下のような地形で、まるで閑散としている。思い出すともう二十年以上前(今の住まいを決める前)、この駅近くの団地の新規募集に応募したこともあった。
     黒須団地と駅北側の間の人気のない道には焦げ茶色の煉瓦造り西洋館が建つ。入間市河原町十三番十三号。「なかなか立派な建物ですね」と若旦那が感心する。前に教えて貰ったのに、これが何だったのか私も宗匠もすっかり忘れてしまっていた。「何かの工場だったんじゃないかな。」「そうだね、煙突があるもの。」実は違った。大正十一年(一九二二)、石川組製糸の迎賓館として建てられたものだ。設計は室岡惣七、施工は関根平蔵。

     石川組製糸は、石川幾太郎が明治26年(1893)に創始した製糸会社である。当初はわずか20釜の座繰製糸(手工業)でスタートしたが、明治27年にはいち早く蒸気力を利用した機械製糸に切り替え、日清・日露戦争の戦時景気に乗って瞬く間に経営規模を拡大した。
     最盛期には、現在の入間市に3工場、狭山市に2工場、川越市・福島県・愛知県・三重県などに各1工場を持ち、昭和6年(1931)には生糸の出荷高で全国6位を記録するなど全国有数の製糸会社に成長した。なお、海外との取引が多かったことから、ニューヨーク五番街にも事務所を設置している。
     しかし、関東大震災や昭和恐慌、それに生糸に代わる化学繊維(レーヨンなど)の出現などの影響により経営不振に陥り、昭和12年(1937)に倒産した。
     http://www.city.iruma.saitama.jp/bunkazai/seiyokan_sekai.html

     「あそこに見えるのが私の家です。」隊長が向うを指差す。ここは隊長のお膝元である。脇の斜面はアズマイチゲ(東一華、キンポウゲ科イチリンソウ属)の群落だ。「午後に開花する。」確かに花はまだ完全に開かずに筒のようになって下を向いているものばかりだ。若葉がやや赤みを帯びて、その中から開く花は白くて可憐だ。
     民家の庭に立つ白い花は辛夷だろう。なんだか眠そうな色をした馬酔木や沈丁花が咲いている。白いユキヤナギも咲いている。ここから南に戻り、霞川の土手を上流に向かって歩いていく。綺麗に舗装された遊歩道で、岸の両側は桜並木が続いている。花はまだだが、蕾がかなり膨らんできている。木はかなり太い。染井吉野の寿命はほぼ六十年というのが定説だが、この幹の太さを見ると、もっと経っているような気がする。
     「カワウの食害から稚魚を守るために、笹伏を実施しています」という案内が幹に貼り出されているのを見つけた。「ササブセってなんだい。」「笹や竹を川に沈めるんですよ。」農林漁業についてはチイさんに訊けば良い。

    伝統的な漁法である「笹伏せ」の集魚効果を利用して、魚の隠れ場を設置しカワウから身を守るための簡便な方法を開発しました。
    「笹伏せ」とは、小枝の間などに魚が隠れる習性を利用して捕獲するため、葉のついた竹を河川等に沈めるものです。ここでは、魚の隠れ場として利用しました。
    カワウは泳いでいる魚を捕まえて食べるほか、魚が隠れている場所に首を突っ込み、驚いて逃げ出した魚も捕まえて食べてしまいます。
    しかし、カワウの捕食に対する魚の行動を観察したところ、カワウの侵入方向に笹伏せの幅が2m以上あれば、魚は笹伏せ内から外へ逃げ出すことがなく、隠れ場として有効であることが明らかになりました。
    http://www.pref.saitama.lg.jp/page/2301kawau.html

     カワウが増え、河川に生息する魚の数が減少しているのだ。確認しようとしても、この辺りでは笹伏なるものは見えないようだ。鯉の姿が見える。「アレッ、蛙じゃないの。」死んだ蛙が腹を上にして流れて行く。

     春近く光る水面に魚影濃し 午角
     牛蛙腹を浮かせて春の川  閑舟

     途中で右岸に渡り、道にもなっていないような土手の狭い所を通る。寒いと言ってもやはり春だ。土手の叢にはオオイヌノフグリ、ヒメオドリコソウ、ホトケノザが群がって咲いている。珍しくもなんともないし、誰も話題にしない可哀想な花たちだ。私はオオイヌノフグリの小さくて清楚な青い色が好きだ。ほかに名付けようがないのだろうか。オオイヌノフグリはゴマノハグサ科クワガタソウ属。

     踏まれても命溢るるいぬふぐり  蜻蛉

     姫踊子草も仏の座も、シソ科オドリコソウ属。そして私はずっと勘違いしていたが、春の七草として知られるホトケノザは、これとは違ってキク科のタビラコ(田平子)と言うものである。
     団地のそばを通って行くと十六号線の脇の高倉氷川神社に出た。入間市高倉四丁目四番七号。
     ここではヒサカキ(非榊、姫榊)を観察しなければならない。ちょうど雄花と雌花が別々の木に咲いていた。小さな雌花のほうは余り小さすぎて良く見えない。「ちゃんと観察しなくちゃいけない」とドクトルが虫めがねを貸してくれた。「メシベが見えるだろう。」たぶん見えたと思う。
     「サカキはどうして神の木になったんでしょうかね。」桃太郎は難しい質問をしてくれる。「常緑だということじゃないかな。」私の答えは随分好い加減だ。神が降りてくるモノをヨリシロと言う。石でも何でもよいが、樹木の枝先は特に神が降りてきやすい。それに一年中瑞々しい色を変えないという条件に適っているのだと思う。しかしそれなら、別にサカキでなくても、この条件に当てはまりそうな樹木は他にもありそうだ。そこで便利な記事を見つけたので要約して見る。
     まず、サカキは「栄える木」或いは人域と神域との「境の木」であった。神の依代、あるいは神へ捧げる木だから、「榊」の文字が作られた。我々が「サカキ」として認識しているものだけでなく、「榊」として選ばれたのは他にもある。
     例えばオガタマノキ(モクレン科)は「招霊オギタマ」、タブノキ(クスノキ科)は「霊タマの木」を語源とする説があり、これらもまた神の宿る「サカキ」の一つであった。また『夫木和歌抄』(十四世紀成立)には、「ちはやぶるかもの社の神あそびさか木の風もことにかぐはし」と「香し」が読み込まれている。サカキには芳香がないのでこれはシキミ(シキミ科)であるとの説が有力だ。中部地方でソヨゴ(モチノキ科)を「サカキ」とする処がある。関東以北にはサカキが少なく、ヒサカキを「サカキ」と呼んでいる。
     (「神の依代の木・サカキ」http://www2u.biglobe.ne.jp/%257egln/13/1343.htmより)

     「サカキとヒサカキの見分け方はなんですか。」桃太郎は今度はもっと実際的な質問を、古道マニアに向けている。「大きさかな。」葉が小さく鋸歯があればヒサカキ、葉の表面がツルツルして鋸歯がなければサカキだそうだ。
     ここは牛頭天王を合祀していて、祇園太鼓、祇園囃子を伝承している。「合祀」と言うが、氷川神社自体がスサノオを祭神としていて、牛頭天王もまたスサノオと習合しているから、本来同じ神体である。拝殿は明和五年(一七六八)建造というからかなり古い。
     明和五年という年代をついでに調べてみると面白い。満年齢の計算で、平賀源内四十歳、杉田玄白三十五歳、長谷川平蔵二十三歳、伊能忠敬二十三歳、塙保己一二十二歳、太田南畝十九歳、蔦谷重三郎十八歳。そして宗匠が好きな笠森お仙は十七歳で、アイドルとしての最盛期に向っていただろう。もう少し若くなると喜田川歌麿十五歳、鶴屋南北十三歳、葛飾北斎八歳、山東京伝七歳、曲亭馬琴一歳、雷電為右衛門一歳。こういう人たちが生きていた時代であった。

    建物の形式は、母屋に向拝(ごはい)、浜床のついた一間社流造(いっけんしゃながれづくり)です。部材は総桧造で、向拝柱の木鼻彫刻に獅子や獏、蟇股(かえるまた)に馬や鹿、脇障子には雲波竜の彫刻を施しています。屋根は杮葺で羽口を厚く積んでいます。また、鬼板には寺院特有の卍巴が用いられるなど神仏習合の様子が見受けられます。
    http://www.city.iruma.saitama.jp/bunkazai/bunkazai/008811.html

     桃太郎とチイさんはいつものように丁寧に拝礼している。本殿からかなり離れて、十六号線から境内に入る所にある鳥居はソッポを向いているようで、なんだか位置取りがおかしい。両部鳥居のすぐ外側に二脚の門を付けた恰好は珍しいのではないだろうか。
     十六号線を横断するのに隊長初め真面目なひとたちは五百メートルほども南下して信号に向かった。しかし、いつもより車が少ないのではないだろうか。ちょうど車の途切れたのを見計らって私たち数人は勝手に横断してしまった。五分ほどして漸くやってきた本隊からは、「除名だよ」の声がかかってしまう。
     「十六号って春日部も通ってるやつかい。」ヤマちゃんが不思議そうに訊く。そう、ここを北に行けば川越から大きく回りこむように、大宮、春日部、野田、千葉を通って木更津に行く。「そうか、いざとなれば、真っ直ぐ歩けば川越に帰れるんだね」と画伯も笑う。「こっちに行けば。」八王子から横浜まで。
     隊長から貰った地図を見ればここからもう少し北に向う筈だが、隊長はちょっと横に逸れていく。「あの木何の木。」目的はお茶屋(田代園製茶工場)脇の庭のような場所に立つ大きな木であった。「センダンだよ。」私は樹木になると全く赤ん坊同様で、まるで歯が立たない。「それって、センダンはフタバよりも芳しですか。」「そのセンダンとは違う。」「じゃあ、芳しくないのね。」そう聞くと、前にも誰かに教えて貰ったことがある。「ビャクダンでしたか。」

     センダン(栴檀)Melia azedarach は、ムクロジ目・センダン科の植物の一種。西日本を含むアジア各地の熱帯・亜熱帯域に自生する落葉高木である。日本での別名としてアミノキ、オウチ(楝)などがある。
     「栴檀は双葉より芳し」の諺でよく知られるが、これはセンダンではなくビャクダン(白檀)を指す。(ウィキペディア「センダン」)

     ややピンクが濃い桜はカンヒザクラの一種だろう。「河津桜だったら花が下を向いているからね」とバンブーも言っていた。栴檀を見終わって隊長が歩き始めたのは行き止まりの道で、それでは行けないもう一度十六号に沿って少し北に行ってから左に入る。
     道端には白いハナニラが群れ咲いている。誰かがヒメニラと言っていたようだが、これはハナニラ(ユリ科)で間違いない筈だ。通り過ぎてから「花びらは何弁だったかな」と宗匠が確認を求めてくる。六弁の花だ。
     「いまどき珍しいじゃないか。」火の見櫓が建っている。五階建て程の高さのかなり立派なもので、上部にはちゃんと鐘まで吊るされている。半鐘と言うには少し大きいような気もする。悪戯で登らないように、梯子の下の部分二メートルほどは板でふさいである。しかし、これではいざという時も間に合わないのではないかしら。こういうものを調べて撮影する人がいて、それによれば入間市には十七基、狭山市には八基、川越市には五十五基も残っているのだ。(http://www.geocities.jp/fukadasoft/towers/index.htmlより)
     「あっ、ここ、前にも見たよね。」家の外壁一面に、粘土で盛り上げて色を塗りたくったような(良く言えば鏝絵のような)絵を貼り出している。入り口の上の部分には七福神、道路側の外壁にはフーテンの寅、暴れん坊将軍、銭形平次。更に唐獅子、牡丹、観音など、題材の範囲が広い。「隊長、この家はこういうのが趣味なんでしょうか」と画伯が声を掛ける。「知りませんよ。」以前に通ったとき、宗匠が伊豆の長八に擬えて「短八」なんて言っていたことを思い出した。

     そこを曲がると高倉寺(コウソウジ)に着く。入間市高倉三丁目三番四号。山号は光昌山、曹洞宗である。
     墓参に来たらしい女性三人が宗匠と何か話をしている。我々の異様な風体を見て、何事かと思ったのだろう。中ではもっとも安全そうに見える宗匠に声をかけたのだ。それを見て隊長が「知り合いですか」と声を掛ける。「いいえ、地元の人間です。」
     花を持っているから墓参だとすぐに分かる。しかし、彼岸の墓参ならばもう少し前の方が良かったのではないか。この地震で、墓石が倒れた墓がいくつもあるらしい。「うちのは大丈夫かしら」と若女将が心配そうに若旦那と話している。「帰りに寄ってみようか。」私は日曜日に行って無事の確認が済んでいる。
     広い駐車場にはベンチがあり、「あそこで昼飯食べたよね」と私も思い出す。山門は立派だ。門脇の結界石には天明第五乙巳歳の銘がある。中に入ればもっと立派なのは観音堂である。室町時代初期の建造で、国指定の重要文化財になっている。もともとは飯能市白子の長念寺にあったものを延享元年(一七七四)に移築したのである。取り敢えず説明の通りに書き写すとこんな具合だ。

    平面形態は方三間で周囲に縁を持つ。正面の三間と側面の一間を桟唐戸とし、内法貫上には弓形の欄間を設け、側面の中央一間に花頭窓を配している。柱は粽柱で、軒は一間扇垂木としている。屋根は長刀反を持つ入母屋造で建築当時は茅葺であったが、現在は茅葺様銅板葺に改められている。関東地方における禅宗様式の代表的な建造物のひとつである。

     下から見ると反りの大きい寄棟造りのようだが、その上に切妻屋根を載せているので入母屋造りと呼ぶ。たまたまそこにいた白髪の男性がいろいろ説明してくれる。なんと、実際にこの観音堂の解体修理を行なったひとだった。専門的な話は難しいが、耳にした所だけ記録しておこう。
     欄間には波型の板を張ってある、これは弓連子欄間と呼ぶ。欄間は堂内に光を入れるためのものだ。「光の当たり具合で、仏様の表情が随分変わりますよ。」観音開きの扉は蝶番でなく、軸で支えてある。その軸を確保する部分を稿座と呼ぶ。解体した時に、屋根裏から垂木がたくさん出てきた。この辺はよく理解できなかったのだが、なんでもそれが建築学史上結構珍しいことだったらしい。
     埼玉県内の中世寺院建築では、最も古いのが福徳寺の阿弥陀堂(飯能市虎秀、鎌倉時代)、ここ高倉寺観音堂が二番目、三番目は廣徳寺大御堂(比企郡川島町、室町時代)だそうだ。
     今は仏像を造っているという。「よかったら、そこを覗いてみてください。全部私が作ったから。」観音堂の脇に小さなお堂があって、格子から中を覗くと、ふくよかで可愛らしい弁天等が見えた。
     「あの中に仏像があるんだ」とドクトルと宗匠に教えると、それを見に行った宗匠が頭を抱えて戻って来た。「木鼻に頭ぶつけちゃって。」普通のひとは仏像を見ても頭をぶつけはしない。弁天様に惑ったのではないか。

     弁天に頭ぶつけて春浅し  蜻蛉

     宮大工で仏師でもある人の話を直接聞くのは滅多にないことで、こちらにもっと知識があれば良いのだが、如何せん無学だから聞いた事の半分も理解できないのが悔しい。建築士のハコさんだけは、専門用語を使いながら何度も頷いている。
     一方、腹が空きすぎたチイさんや桃太郎は、こんな話は関係ないとでも言うように、さっさとベンチに座って食事を始めていた。「あの話を聞いてなかったの。」「除名されちゃうかな。」食べ終わって画伯がみんなに飴を配り始めたのに、なぜか私にはくれない。「俺も欲しい。」「エッ、要らないんじゃないの。」飴は要るのである。
     境内には増上寺の石燈籠が建つ。私は二基、どちらも文昭院殿の銘があるのを見つけた。この辺り西武鉄道沿線にかけて、増上寺の石燈籠が多いのは前にも書いたことがある。戦後、増上寺の徳川家霊廟の大部分は西武の堤康次郎が買収して、プリンホテルを建てた。全国諸大名が寄進した千基にも及ぶ石燈籠は所沢に運ばれ、今の西武球場の辺りに無雑作に山積みにされた。近辺の寺院がそれを引き取ったから、所沢、狭山、入間の辺りの寺院で多く見られることになる。引き取られなかったものは、廃棄されただろう。

     寺を出て、右手に障害者支援施設、左に小学校、入間テレビ(と言うものがあるとは私は知らなかった)の建物を見て、竹林を過ぎて行く。朝よりはもう少し開いたアズマイチゲが見えた。もう山の雰囲気になって来た。
     渓流を石伝いに渡ると、隊長は藪をかき分けながら獣道のような所に入って行く。こんな所を通れるのだろうか。「丘陵って言うより山だね、これは。」ヤマちゃんが感心したような、驚いたような声を出す。「ジロウボウエンゴサクもある筈なんだよ」と隊長が探している。細長い特徴のある花なら知っているが、そんなものは見つからない。「これだよ、これ」と隊長が指差したのは、花のない葉っぱだけだから私には分からない。
     やがて湿地帯で隊長の足が止まった。去年、この水たまりでトウキョウサンショウウオの卵嚢を見たと言う。珍しいものだろうが、私はサンショウウオの卵なんか、特に見たいとは思わない。幸か不幸か今日はそんなものはない。
     更に山道を登って行けば、今までの光景とはまるで変わって、台地には一面茶畑が広がっている。「三大茶処ってどこだろう。」「宇治、静岡。」「それに狭山かい。」狭山は入らないじゃないか。国道沿いの茶畑を見るたびに、こんなに排気ガスの多いところのお茶ってどうなんだと思っていたものだ。しかし調べてみると狭山茶もちゃんと「三大」の中に入っていた。
     埼玉県茶業協会によれば、「色は静岡、香りは宇治茶、味は狭山でとどめさす」と言うことである。業界としては何が何でも時分が一番と言わなければならないのだろう。

     「狭山茶」の起源は中世の文献に登場する「河越茶」や「慈光茶」など、当時の武蔵国内の有力寺院で生産されたとされる茶から始まり、室町時代には、京都や奈良の茶園に次ぐ地方茶産地として大和・伊賀・伊勢・駿河などと並ぶ銘園の一つに数えられていたのであります。
     その後戦国時代の余波をうけて一時は停滞しましたが、江戸時代に「蒸し製煎茶」の製法を関東で初めて導入して復興し、江戸で取り引きされるや狭山茶は他産地にも増して繁栄し、横浜開港と同時にいち早く輸出されたのであります。
     http://www.cnet-sc.ne.jp/sym-cha/

     川越の中院に「狭山茶発祥之地」碑があり、それによると慈覚大師円仁が齎したことになっている。茶摘み機と言うのかしら(検索すると、確かにこの名称である)、茶畑一列の巾のキャタピラを持つ機械だ。男の子たちは珍しい機械を見ると喜んでしまう。そもそもこの会には理科系、工学系の人が多いのだ。文化系の私は機械を見ても余り感動しない。「どこで摘み取るのだろう。」「あそこに刃がある。バリカンみたいに刈るんじゃないか。」

     茶畑や散髪をして初夏を待つ   午角

     機械の台の部分にOCHIAIの文字が入っている。私は茶摘み機業界のことを知らないので調べてみると、確かに落合刃物工業というのが茶摘み機のリーディングカンパニーで、シェア五割を超えると言う。

     創業者である先々代社長の落合信平氏は1951年に茶摘み機の研究に着手した。当時は都市部に人口が集中し始め、農村の人口が減っていた。信平氏は茶園を営む農家の「人手が足りない」という訴えを聞き、機械的に茶葉を摘む装置の開発に取り組む。試行錯誤で開発を進める中で、エンジンを背負ってカッターで刈る方式を考案。約5年をかけて試作機の完成にこぎ着けた。
     http://business.nikkeibp.co.jp/article/pba/20081127/178539/

     また山道を降りて行く。「これがアオイスミレ。葉が巻いているから分かる。」「でも、これは巻いてないですよ。」「たまにはへそ曲がりだっているの。」どこにだって、リーダーに素直に従わないへそ曲がりはいる。(別に特定の人物のことを言っているわけではない。)スミレの仲間では最も早く開花する。「アッ、そこにもあるよ。」「踏んづけるところだったよ。」

     枯草にとんがり緑出番です   千意

     急な坂を下りると西武線の線路が見えた。
     ここから左に曲がったところが「牛沢のカタクリ自生地」だ。まだ寒いからなのか、花はそれほど多くない。去年、小川町のカタクリの里で見たときは、実に綺麗に咲き誇っていたものだったが。あのとき感動したチイさんは「カタクリやああカタクリやカタクリや」なんて詠んだので、あれは三月二十七日であった。それでも下を向いて風に揺れている花を見つけてはカメラを向ける。

     かたかごの花震はせて風寒し  蜻蛉

     風が止めば日当たりがやや暖かく感じるのだが、風の止むのはちょっとした間だけだから、いつまでも寒い。「今じゃ片栗粉はジャガイモから作るんだって。」フーン、そうなのか。「たとえば、これを持って行って自宅に埋めても花が咲くものですか。」ヤマちゃんが訊くと、「難しいよ。花が咲くまで七年も八年もかかる」と隊長が言う。確かにそういうものらしい。しかし、これを勝手に持って行ってはいけない。

    カタクリの種に蟻の好む匂いのする物資(エライオソーム)が付いています。蟻は、5月頃にせっせと種を運んだ後、エライオソームを切り取り、種子本体は巣の外に捨てます。この捨てた種子が発芽し、7から8年の歳月を経て、ようやく花を咲かせます。
    http://www.city.iruma.saitama.jp/midori_sizen/katakuri.html

     カタクリだけでなく、ヒロハノアマナ(広葉の甘菜、ユリ科アマナ属)、アズマイチゲ、ワニグチソウ(鰐口草、ユリ科アマドコロ属)が咲くらしい。但しワニグチソウと言うのは見えない。斜面の遠いところに咲いている花は肉眼ではよく見えない。そこに望遠鏡氏が望遠鏡をセットしてくれたのが有難い。
     暫く観察してからそこを離れると、小さな溜め池で子供が三人遊んでいるのに出会った。腹這いになって水を覗き込んでいるのもいる。「カエルがいるよ。」「金魚も。」フーン。私はカエルを是非とも見たいとは思わない。しかしそれを聞いて隊長はすぐさま覗きこむ。「これはヒキガエルだよ。」メダカが群れをなして泳いでいる。「色が赤いわよ、金魚の稚魚じゃないのかしら。」私には判断できない。
     「動かないんだよ」と言いながら隊長は蛙を棒で突いているが、「交尾してるのに、可哀想だよ」というドクトルの声が聞こえる。

     ため池やマンダラの蟇つい突く  閑舟
     子供らの手の冷たさや初蛙    蜻蛉

     池から少し上の方に行けば、ちょっとした水溜りにミズバショウが咲いている。「ザゼンソウもあるらしいんだけど」と隊長が探している。ミズバショウのそばには、花がないものがある。葉が似ているようで似ていないから、「菜っ葉じゃないの」と若女将が笑う。「これに出てるかも知れない」と望遠鏡氏が図鑑を取り出し、隊長が調べて正体が分かった。これが探していたザゼンソウそのものらしいのだ。水芭蕉も座禅草も、同じページに並んで記されているから、同じような仲間らしい。なるほど、どちらもサトイモ科だった。ミズバショウに似たような白い花(仏炎苞)を持つものに、カラー(オランダカイウ)もあって、それもやはりサトイモ科だ。
     枝先にブロッコリのような花を付けているのは何だろう。「ニワトコですよ。」「これは花ですか。」「蕾です。ここから小さな花が咲く」と古道マニアが教えてくれる。全くブロッコリにそっくりだ。「食べられるのかな。」「テンプラにする奴に似てるじゃない。」「タラノ芽かい。」タラノメとは違うが、確かに食べても旨そうに見える。しかし、こういう記事を見つけた。

    少しブロッコリーに似た雰囲気で美味しそうですね。少し前までは、山菜の一つとして紹介していた本もあったようですが、最近の本では青酸系配糖体(毒物)を含んでいるので、山菜としては利用しないほうがいいと書かれているようです。
    http://blog.goo.ne.jp/shodo_february/e/3720ebfb543e9535011e83f527808b59

     つまり、いくら食えそうに見えてもニワトコの蕾を食ってはいけない。ところでニワトコを接骨木と書くのは何故だろう。調べてみると、骨折した部位に、ニワトコの枝を黒焼きにして、うどん粉などを練り混ぜたものを塗ったらしい。発汗、解熱にも効果があると言う。
     それとは別に、ニワトコは小正月の削り花(御幣)にも使われる。やわらかくて削りやすいという特徴もあるが、何か魔除けを期待される要素があったのだと思われる。ユダが首を吊ったのがニワトコだとされている。
     圏央道の高架の下を潜り、西武線を渡る。入間川に出ると石の上で佇んでいるカワウが見える。たぶん水を覗き込んでいるのだろう。

     里山やこんもり蕾む白木蓮  閑舟

     この辺で左腰の辺りが痛くなってきた。なんだか今日は疲れている。広場に入ってトイレ休憩を取ってベンチにしゃがみこんだ。ここは入間市文化創造アトリエ・アミーゴと言う施設である。
     大正五年(一九一六)、所沢織物協同組合の模範工場が建てられた場所だ。昭和十二年(一九三七)には埼玉県仏子染色指導所を誘致し、その後埼玉県に寄贈され埼玉県繊維工業試験場入間支場として使われてきたが、平成十年に閉鎖された。その後、入間市の共同施設となって、音楽、演劇、表現活動などの練習場・稽古場として開放されている。
     草むらでオオイヌノフグリを拾って来た望遠鏡氏が、「フグリ」について普通は公言しない言葉を口にして笑っている。「女性がいるんだから、そんなに大声をださなくても」と隊長が苦笑いをする。
     仏子駅前の交差点信号は、ちょっと変わっている。前方、両脇の信号が全て赤になると、やっと歩行者信号が青になる。その間はどちらに横断しても良い。
     駅舎の右脇の歩道橋を渡って、線路の反対側のTeherim133という喫茶店が隊長の目的地だ。店名は「テヒリーム」と読む。以前にも入ったことがある。席を用意してもらっている間に駅で電車の時刻を確認すると、二十五分、四十五分、五分となっている。現在時刻は三時を回ったところだ。「それじゃ四十五分に乗りましょう。」店の前の小さな花壇には、さっき見たアオイスミレも咲いている。若旦那夫妻はお墓を確認したいと言うし、バンブー、望遠鏡氏もここでお別れだ。
     十分ほど待って漸く店内に案内された。「音大の女子学生がいますよ。」「ホント。」オジサンたちは、その言葉に大きな期待をかけて店に入った。駅前には他に店らしいものは全くない。山の中の武蔵野音大から降りてくれば、ここしか休むところはないのだ。確かに女子大生らしいグループが反対側の隅に座っている。しかし席が離れすぎているから言葉を交わす機会はない。期待したひとたちはさぞ残念だったろう。宗匠の万歩計を確認すると一万四千歩だった。
     九人がホットコーヒー、隊長だけがアイスコーヒーを頼んだ。随分待たされた挙句、漸く出てきた頃にはもう三時半を過ぎていた。「じゃ、四時五分発に乗りましょう。」ホットは四百円、アイスが四百五十円也。喫茶店というより、ハンバーグやパスタを出すカフェであった。
     この辺なら反省会は所沢の「百味」に決まっている。参加者八人、久しぶりに男だけの会になった。所沢は初めてだなんて言っていたヤマちゃんも、「この店なら俺、来たことあるよ」とやっと思い出した。話題はどうしても地震、原発、停電のことになってしまう。「やっぱり原発が第一だよ。そのほかのことは何とでもなる」とヤマちゃんは力説する。
     被災者の苦労を偲んで隊長は一週間酒を断ったと言うし、ハコさんも二週間ぶりだと言う。「経済は活性化しなくちゃいけない」と宗匠が言う理由とは違うが、私は一日も欠かさずに呑んでいた。焼酎三本で一人三千百円也。

     七時、ちょうどよい時間だ。私は相棒と会うために池袋に行かなければならない。桃太郎は入谷の「金太郎」に向かう。ホテルも予約していると言うのは随分準備が良いことだ。
     このあと私は秋田から飛行機でやって来た相棒と会って、日本酒を三合呑んだ。海老名の住人桃太郎は浅草に泊って更に翌日、亀戸で口に合わないホルモンを食って「全て油の塊で一口食べただけでギブアップ」と言う状態に陥った。普通のひとは、こういうことをしてはいけない。

    眞人