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    平成二十三年五月二十八日(土)  さいたま緑の森の博物館

    投稿:   佐藤 眞人 氏     2011.6.03

     昨日、気象庁は関東地方の梅雨入りを宣言した。平年に比べて十二日、昨年よりは十七日も早いと言う。今年は春らしい季節もほんの僅かで過ぎてしまい、やっと初夏になったと思ったのにもう梅雨と言われては、がっかりしてしまう。
     「こんな雨の日でも行くの?」と妻は笑っていたが、雨天決行は隊長の基本方針である。台風が直撃でもしない限り中止はあり得ない。(一度だけ、そんなことがあったけれど。)私は単純に考えていたが、実は隊長は周到に検討していたのだ。

    ご承知の如く台風2号が沖縄の南西付近にあり、また太平洋沿岸に梅雨前線が停滞し、台風からの湿った南風が流入して大雨も予想されていましたが、28日8時15分のレーダーナウキャストの予想図では西南西から東北東へ雨域が移動しており、埼玉にはかからないと判断して雨天決行しました。これが台風が日本列島に接近していれば風雨が強くなり関東地方全体が悪天となり危険と判断して里山は緊急に中止したでしょう。

     私を含めて素人は甘く考えている。「雨なのに行くのかって、女房に笑われてしまった」とロダンも言うし、「家もそうだよ、弁当作ってくれって言ったら呆れてた」とスナフキンも口を揃える。みんな同じことを言われながらやって来たのである。
     昨日受信した隊長のメールによれば、隊長と桃太郎もその会員になっている「みちのり山の会」との合同イベントだ。山岳会と聞けばちょっと緊張してしまいそうだが、コバケン、ロザリアは前から知っているから特別気を使うこともないだろう。
     「あれっ、来てたんですか?」ダンディは明後日からのイタリア旅行準備のため、欠席すると連絡が入っていたのだ。「この程度の雨ですからね。」旅行慣れしているひとだから、イタリアと言っても特別な準備も必要ないのだろう。
     そして会う早々、「蜻蛉さん、海外旅行をしない人に日本の文化は理解できませんよ。椿姫も同意見です」と私はお説教を食らってしまった。「米のご飯がないとか我儘言っちゃいけない。今はお湯で温めるやつだってあるんだから。」反論するだけの理屈があるのではないが、私が海外旅行をしない理由はそれだけではない。
     しかし雨のせいで参加者は少ない。女性は誰も来ないかと心配したが、なんとか三人来てくれた。西武池袋線小手指駅に集合したのは十三人であった。隊長、ダンディ、ドクトル、久しぶりのツカさん、望遠鏡氏、スナフキン、ロダン、桃太郎、マリー、カズちゃん、蜻蛉。それに「みちのり山の会」からは会長のスワさん、ロザリアが参加した。
     「みちのり山の会」はコバケンさんが会長をしていて、最近になってスワさんにバトンタッチをしたそうだ。今日のためにわざわざ佐倉から来てくれたのである。カズちゃんは仙台で震災に遭い、その後福島を経由して所沢に戻って来た。かなり苦労したようで、一時は孫ともども体調を崩していたらしい。元気な顔を見て本当に安心した。「いつまでも参加しないと忘れられちゃうから。」忘れることはないので、気弱なことを言わずに体調を完全に治して欲しい。

     十時三十四分発宮寺西行きのバスに乗り込む。途中で足の弱そうな老婦人が乗って来ると、ツカさんがすぐに席を譲った。しかし優先席には桃太郎が腰を据えている。最年少の彼が譲らなければならなかったのである。早稲田大学人間科学部の前を通り過ぎ、二十五分ほどで荻原バス停に着いた。
     バスを待っている間は雨はまだ無視できる程度だったのに、バスを降りると傘が必要になってきた。それに上着なければ肌寒いようで、リュックから薄手のジャンバーを取り出して上に重ねた。
     ダンディはずいぶん前に買って一度も袖を通したことのないという合羽の上下を着こんで、「雨がどんどん降れば良い」なんて喜んでいる。傘も差さない。「ヨーロッパでは、この程度の雨で傘を差す人はいませんよ。」なんだか「雨々降れ々れ母さんが蛇の目でお迎え嬉しいな」みたいな気分ではないだろうか。望遠鏡氏は「合羽は持ってるけど、この雨で濡れるのが勿体ない」と笑う。さすがに今日は三脚も持っていない。「この雨ですからね。丈夫な二脚で歩きます。」
     ロザリア、隊長、桃太郎は足首にちゃんとスパッツを装着していて、さすがに専門家のように見える。それを見てスナフキンもリュックから取り出したが、付け方が難しそうで、桃太郎に教えて貰ったのがちょっと残念だった。「初めて使ったの?」「いや最近ずっと使っていなかったから。」
     スパッツを装着するひとは、ちゃんとリュックカバーも付けている。私はそんなものを持っていないから、ビニール風呂敷をリュックに縛り付けた。「そうか、そういうのを持っているといいんですね」とダンディも頷く。スワさんも同じようにしているので、専門家だってビニール風呂敷を使うと分かれば、安くて便利なビニール風呂敷を世界中にもっと普及させたい気分になってくる。百円ショップで二枚百円で売っていたのだ。確か宗匠も私と同じ青い水玉模様のビニール風呂敷を持っていた筈だが、私とお揃いになるのは嫌だと言っていた。
     バス通りから脇道に入って行くと道端に薄青色の小さな花が咲いているのが目に付いた。これは私が好きな花の一つである。ただ間違えると恥ずかしい。念のためにツカさんに確認して記憶が正しいと分かったので安心して吹聴できる。セリバヒエンソウ(芹葉飛燕草)、野川公園で遠野のハナちゃんと一緒に見た花だ。そう言えばハナちゃんは元気だろうか。
     「ツバメが飛んでいるみたいな格好だろう。」偉そうにロダンやマリーに講釈を垂れていると、「スゴイじゃないか、図鑑に載っていない花だよ」と隊長が珍しく誉めてくれる。薄い青色が清潔で可憐な花である。キンポウゲ科デルフィニウム属。デルフィニウムはイルカを語源としていると言うから、飛燕を連想する日本人とは感じ方が違う。
     濡れた地面にはエゴノキの白い花弁が無数に落ちている。森の博物館の案内所(山小屋のような建物)前で隊長が今日の挨拶をしてから、建物の中を見学する。蝶の標本、タヌキの剥製、ムロジなどの木の実などが展示されている。国木田独歩『武蔵野』の紹介の前でロダンが立ち止まって感心している。
     「武蔵野って、ここも範囲に入るんですか?」武蔵国は江戸の西方多摩川まで、北は利根川までを指すに違いないから、明らかにこの辺りも含んでいるのは間違いない。地理学的に正確に言えば「武蔵野台地」の範囲を決める必要があるかも知れないが、私たちにはこの程度の区分で大丈夫だろう。

     「武蔵野の俤は今わずかに入間郡に残れり」と自分は文政年間にできた地図で見たことがある。そしてその地図に入間郡「小手指原久米川は古戦場なり太平記元弘三年五月十一日源平小手指原にて戦うこと一日がうちに三十余たび日暮れは平家三里退きて久米川に陣を取る明れば源氏久米川の陣へ押寄せると載せたるはこのあたりなるべし」と書きこんであるのを読んだことがある。自分は武蔵野の跡のわずかに残っている処とは定めてこの古戦場あたりではあるまいかと思って、一度行ってみるつもりでいてまだ行かないが実際は今もやはりそのとおりであろうかと危ぶんでいる。ともかく、画や歌でばかり想像している武蔵野をその俤ばかりでも見たいものとは自分ばかりの願いではあるまい。それほどの武蔵野が今ははたしていかがであるか、自分は詳わしくこの問に答えて自分を満足させたいとの望みを起こしたことはじつに一年前の事であって、今はますますこの望みが大きくなってきた。

     独歩『武蔵野』冒頭部分である。因みに、江戸時代までは武蔵野といえば荒漠たる草むらのイメージばかりだった。武蔵野の雑木林の美しさを発見したのが独歩であり、それには二葉亭四迷訳ツルゲーネフ『あひびき』が影響したと独歩自身も言っている。武蔵境に近い玉川の辺りで独歩の碑を見たことがある。独歩が佐々木信子と一緒に歩いたコースであった。
     入口の欄間にぶら下がっているものを指して、係の男性がヒオドシチョウの蛹について説明してくれるのだが、私は虫は余り好きではないのでよく見なかった。HPに載せられている日記によれば、五月十九日に毛虫が移動しているのを発見し、その翌日には蛹になっていたそうだ。(http://saitama-midorinomori.jp/?p=364より)
     「ヒオドシ?どういう字を書くんですか。」ロダンの質問に「緋縅です」と返事が返ってきた。甲冑の小札(コザネ)板を革や糸で繋ぐことを縅という。その糸の色が緋であれば緋縅、黒であれば黒糸縅と呼ぶ。翅の模様が緋縅のように見えるものらしい。
     さて私たちが来ている「さいたま緑の森博物館」とは何であろうか。

     「さいたま緑の森博物館」は狭山丘陵の一角に位置しています。雑木林に包まれた二つの貯水池(狭山湖、多摩湖)をたたえる狭山丘陵には、今もかつての武蔵野の面影が色濃く残されています。
     かつて狭山丘陵は、1960~80年代にレジャー施設や宅地化による急激な開発の波にさらされました。こうした中で県民から、丘陵を保全し、緑や生き物とのふれあいの場を取り残そうという声が高まり、雑木林博物館構想が具体化します。
     この博物館は、そうした声を受け、雑木林や湿地を含む里山の景観そのものを野外展示とし、貴重な生き物を守るとともに、だれもが身近な自然のすばらしさを実感できることを目的に、平成7年7月1日にオープンしました。
     http://saitama-midorinomori.jp/?page_id=4

     入間市と所沢市を跨いだ雑木林に、休耕田に起因する湿地が広がる八十五ヘクタールにもなる自然景観を、そのまま博物館としているのである。観測された植物は百二十三科六百九十六種に及ぶ。哺乳類はアズマモグラ、アブラコウモリ、ヤマコウモリ、ノウサギなど八科十一種、鳥類は三十二科百二十三種、両生類はヤマアカガエルやニホンアカガエルなど六科八種、爬虫類はニホントカゲやカナヘビ、ジムグリなど五科八種、魚類は五科十二種、水生昆虫は二十二科三十一種が観測されているという。
     案内所から中に入る所には赤い実をつけた木が立っている。「あれはウグイスカグラ」と言うのが今日の隊長の説明の始まりだった。私はカズラ(葛)と聞き間違えてしまったが、後でツカサンがカグラ(神楽)だと訂正してくれた。スイカズラ科である。スイカズラ科でも蔦はないから所謂カズラとは違うようだ。一説に、ウグイスがこの実を啄ばむ姿が神楽を踊っているように見えると言う。
     「スイカズラってどう書くんですか?」ロダンの疑問に、「ニンドウですよね」とツカさんに確認して「忍ぶ冬」と返事をする。ダンディは早速広辞苑を取り出して検索する。「忍冬。確かにそうですね。」「しかしこれでよくスイカズラなんて読めますね。」勿論「忍冬」でスイカズラと読むのは当て字だ。本来は「吸葛」だろう。甘味料として蜜を吸ったのである。「冬を耐え忍ぶんですね。」そうなのだろう。東京天文台で見たことがあるが、かなり甘い香りを漂わせる花で、あんまり耐え忍ぶような風情ではなかった。
     頭上には高くエゴノキの白い花がびっしりと咲き、地面にはその花が散乱している。こちらは漢字ではどう書くのだろうか。

    和名は、果実を口に入れると喉や舌を刺激してえぐい(えごい)ことに由来する。チシャノキ、チサノキなどとも呼ばれ歌舞伎の演題『伽羅先代萩』に登場するちさの木(萵苣の木)はこれである。(ウィキペデイァ「エゴノキ」)

     えぐい(えごい)は大和言葉だろうから、それならば漢字でエゴノキとは書けないようだ。左手の笹藪を見ながらぬかるむ道を行くと、次第に登り道になってきた。土は粘土質で濡れているからなお滑りやすい。
     隊長とツカさんが懸命に探してみたが、ヒメザゼンソウはまだ咲いていないようだ。私はまだ見たことがないが、確か仏炎苞を持つ花ではなかったろうか。「ザゼンソウはもう二月か三月に終ってるんだけど、ヒメザゼンソウはこれからなんだ。」
     雑木林のあちこちに切り株が目立ち、「萌芽更新中」の立て札が立っている。「こうしてやらないと、木も自力では育たなくなってしまっているんです。」ツカさんの声がなんだか詠嘆的になってきた。関係者も同じ嘆きを感じているようだが、それでも雑木林を取り戻すべく頑張っているようだ。

    緑豊かな丘陵ではあるが、林内の木々は勢いをなくし、決して良好な状態とは言いがたい。本来、里山は人々の生活と密接な関係の上に良好な状態が保たれてきた。雑木は2、30年で定期的に伐採され薪や炭、シイタケのほだ木などに利用されてきた。私が小学生の頃は、クヌギやコナラも背丈が低く、ゼフィルスの採集も3本繋ぎの竹ざおで十分採集できた記憶がある。また、あちこちに「禿げ山」と呼んでいた赤土の露出した草木の生えていない明るい空地があり、このような場所の周りにはクロシジミが見られた。
    それからすでに30年余り。現在はあちこちで萌芽更新に取り組んでいるが、伐採した切り株は新しい芽を成長させる勢いもなく、新たに苗木を補植しなければ林は蘇らないようだ。このような取り組みを継続していくことで、良好な雑木林が復活することだろう。いずれ、どこかで細々と世代を繰り返していたクロシジミなどが帰ってくればいいと願うのだが。(http://www.ictv.ne.jp/~zephyrus/aramasi.htm)

     ところどころに「この木何の木」のプレートが取り付けられた標識が立っている。解答を見てその場では納得しても、歩き出せばすぐに忘れてしまう。登りきって辿り着いた平地には小さな四阿があるが、狭すぎてここで昼飯にはできない。しかし腹が減ってきた。その傍に杭を打ってロープで囲ってある場所がある。そこにロダンが入ってしまって大丈夫なのか。「これを見てください。」彼の意図は三角点を私たちに教えるためだったのである。「ここにある筈なんですよ。」手で四角の石柱の側面を触っていて「あっ、書いてますね」と言う。側面に「三角点」と書かれている側が南である。私は三角点と言うものについて真面目に考えたことがないので、初めて聞く話ばかりだ。山登りをしている人にはお馴染のものらしい。
     これは緯度経度を示すものである。高度については地盤沈下の影響もあって正確ではない、一等とか三等とか等級がある等と、いろいろ言っていたが忘れてしまったので、ウィキペディアのお世話になって確認しておこう。長いので適当に要約する。

     三角点とは三角測量に用いる際に経度・緯度・標高の基準になる点のことである。正し標高については別途、基準となる水準点が存在する。これはロダンの大好きな憲政会館のところにある標準原点だろう。
     明治四年、東京府下測量のための測量標旗の規格が定められ、これが測量基準点の日本における最初である。内務省による測量を経て、明治十七年から太平洋戦争の敗戦までは参謀本部の管轄におかれた。戦後は国土地理院の管轄である。
     明治時代当時の参謀本部の目標としては、五万分一地形図を全国整備することであった。そこでまず大まかな三角網を形成し、これを基にしてさらに小さな三角網を形成するといった方法を採り必要な数の基準点に達するまでこれを繰り返すことで誤差の累積を回避した。
     三角点の等級というものは設置される山自体の等級を表しているものではなく、あくまで三角網の形状(できるだけ正三角形に近い形が望ましい)、測角のための相互視通等の条件により大きな三角網に設定されたかどうかによるものである。一等三角点は設置間隔四十キロメートルで全国に千点、二等が間隔八キロで五千点、三等が四キロで四万二千点ある。一等が偉くて三等が劣るというのではない。

     「紹介するの忘れちゃったから、ちょっと集まってください。」隊長の言葉で、四阿の前に集まって全員が自己紹介をする。「蜻蛉の名前で下手な句のようなものを作っています。」「勝手に蜻蛉を名乗っているんですよ」とダンディから声がかかる。ダンディはいつものように「若者」と「年長者」の区別を立てる。桃太郎は「私は最年少で」と言った途端に「最年少は私よ」とマリーから訂正が入る。なに、一歳しか違わないのだ。
     「コバケンさんはどうしたんですか。」「腰痛か仕事かな」とロザリアが応える。「みちのりの会」からはもっと参加する筈だったようだ。「でも何しろ雨ですからね。」確かにこんな日にハイキングをするのは余程の物好きである。
     少し歩いて行くと、白い細かな花が綿のように固まって、いくつも咲いている木に出会う。これは記憶がある。軽井沢で隊長に教えてもらったんじゃなかったろうか。アジサイ、あるいはウツギの類だった筈だが、悔しいことに名前を思い出せない。「コアジサイだよ。」そうだった。スワさんも「確かに葉が紫陽花だね」と頷いている。清楚な花だ。ユキノシタ科アジサイ属。
     「ここから下りが滑るので注意してください。」自身が注意していたにもかかわらず、隊長が真っ先に尻もちをついてしまった。「痛くなかったですか。」「大丈夫。」しかし隊長のお尻のあたりはべったりと泥で汚れてしまった。「アッ」隊長につられてしまったのか、今度はマリーも足を滑らしたが幸い尻もちまでには至らず、手に泥が付いただけだった。

    里山に尻餅を突く梅雨の入り  蜻蛉

     昼食場所は西久保湿地の四阿なのだが、若い男女が二人立ったまま飯を食べていた。男は裸足、女は泥に塗れた長靴だ。学生ボランティアだろうか、田植えをしているらしい。脇を眺めれば、なるほど水を張った沼(池)がある。稲作体験学習のための「学習田んぼ」と言うものらしい。休耕田になって以来荒れ果てていたものを、この博物館で田んぼとして復活させたものだ。

    長靴で立つて飯食ふ田植かな  蜻蛉

     四阿のベンチを私たちが占領してしまったが、「大丈夫ですよ」と女性が言ってくれる。「座りこんじゃうと寒くなるので。」立ったままパンを食べていた理由はそれだった。それにしても今時田植をするのに裸足はまずいんじゃないだろうか。
     「アオサギですよ。」ツカさんの言葉に、「アオサギと五位鷺と、後ろから見て区別がつくかしら」とドクトルが訊く。「だいたい分かりますよ、足の長さが違いますからね。」蛙の声が賑やかになってきた。隊長の案内では「キリリ、コロコロ」と鳴くシュレーゲンアマガエルがいるそうだが、私の耳にはそれらしい声は聞こえてこない。
     ツバメが低く飛び交っている。電線の上に子ツバメがいて、それに餌を運んでいるらしい。「落っこちたらどうするんだろう。」

    電線に子燕の待つ昼餉時  蜻蛉

     弁当を食べ終われば、誰からともなく飴やチョコレートが配られ、一時頃までゆっくり休んで出発する。「これなら二時で解散なんてことはありませんね」とダンディが隊長に確認する。「二時に終ったらどうしようもない。」ダンディは心配しているが、所沢の「百味」は昼からやっているから、きょうは多少早めに終わっても大丈夫だ。
     モミジイチゴのオレンジ色の実を見つけた隊長が「食べてください」と頻りに勧める。「これ美味しいんだよね」とスワさんが手を出す。私も初めて口にしてみた。ちょっと酸味があって、「とても」美味しいと言うほどではない。「キイチゴじゃないんですか?」その疑問に「木イチゴは木になるイチゴの総称ですが」とツカさんが応えている。「黄イチゴと言えばモミジイチゴのことです。」同じキイチゴの発音では、どちらの意味でいったのか判別ができない。
     やがて茶畑が広がる場所に出た。「新茶が飲みたい」と桃太郎が言う。「一番茶は危ないんじゃないの。」福島原発事故の影響で神奈川県の茶に放射能が検出されるのである。狭山茶だってどうなることか分からない。「でも飲みたいよね。」桃太郎はお茶が大好きなひとであった。
     大きな木に薄紫のラッパ形の花が咲いている。実は先日から、通勤途上の畑の端にこの木が一本立ち、地面に花が散乱しているのを見ながら、何だろうと疑問に思っていたのである。「キリだよ。」これが桐の花であったか。私は五三の桐等の家紋で知るだけで花の形をまるで知らなかった。「私は花札を思い浮かべました」とダンディが言う。しかし花札のあの絵からこの花の姿を想像するのは難しい。
     今思い出したが北原白秋に『桐の花』という歌集がある。例の姦通事件の後で発表された第一歌集で、私はそれを読んでいたのに実際の花を知ろうともしなかったのだから怠慢である。
     「キリの歌、知ってますか?」望遠鏡氏の言葉に、ロダンが真剣に考え始めた。しかしこれは前にも聞いたことがある。駄洒落の得意な望遠鏡氏のことだ。ロダンよ、あんまり考えすぎてはいけない。「分かんないですよ。」「知らないの?コレッキリ、コレッキリ、モウ、コレッキリデスカ。」望遠鏡氏の回答に、「座布団一枚」とロダンが声を上げ、みんなが笑う。但し、花札の十二月に桐を入れているのは、実はこの言葉遊びに由来する。季節とはまるで関係がなく、「ピンからキリまで」のキリ、つまり「これっきり」「一番後ろ」の意味である。
     それにしても、花梨の実を見て「カリンの歌は、カリンカカリンカカリンカマヤ」と歌った人(講釈師)がいたし、「カリンのお菓子はカリントウ」なんて言った人(画伯)もいる。私たちはみんな同じだ。

    花桐や「もうこれきり」と谷戸の雨  蜻蛉

     エゴノキの花が白く散乱した道で、ツカさんが「これ何枚ありますか」と花弁を拾って手に載せてくれる。花弁は五枚だ。「これは?」四枚。「それなら、これはどうですか?」六枚ある。「不思議ですよね。」この分かれた一枚一枚が花弁ではなく、合弁花に切れ込みがあるのである。ウィキペディアで見ると、五つに裂けているのが普通らしい。
     ウグイスは分かるが他の鳥の声はまるで判別できない。「耳を澄ませて」とツカさんに言われても鳥は苦手だ。ホトトギスもサンコウチョウ(三光鳥、「ツキヒホシホイホイ」と鳴くらしい)も分からない。桃の実、梅の実などを見ながらやがて寺の裏手から境内に入った。ここは西久保観音、真言宗豊山派である。入間市宮寺一五二九。寺の境内と言うよりもやや広い空き地で、片隅にはブランコも設置されているから、小さな公園である。
     従って寺院にまつわるいろいろなものは、広場の周囲に点在している。増上寺の石灯篭が二基置かれているのは、この辺の寺院の特徴だ。前にも何度か書いたことがあるが、芝増上寺の土地を買収して東京プリンスホテルを建設するとき、邪魔になって放置された石灯篭である。西武・堤康次郎の悪口を言う時に必ず思い出すひとつで、かなりの数の石灯篭が山積みのまま破棄された。運がよければ、こうして所沢、入間、飯能近辺の寺院に持って来られて生き延びている。
     カヤの大木は幹回り四・五メートル、高さ二十三メートル。樹齢千年を越すと言われるものだ。「力石がありますよ、あんなの持てたのかな、ホントに。」ロダンの声で脇を見れば、サイズのやや違う力石が四個置かれている。
     神亀五年(七二八)行基が全国行脚の途上、出雲の杵築湾に流れる神木をもって聖観音像を彫り上げ、観音堂を開いた伝説がある。その本堂(鰐口の後ろの額には聖観音菩薩と記されている)の縁に、「地下壙」の説明板が取り付けられている。説明によれば、古墳時代末期の地下式古墳の跡だと推定されている。
     菩提樹は、隊長によれば中国原産のシナノキ科である。どこかで実を見た記憶がある。隊長の説明には、釈迦が悟りを開いたインドの菩提樹はクワ科であると書かれている。「リンデンは?」「あれは西洋菩提樹。」西洋菩提樹も日本のシナノキも同じシナノキ科シナノキ属だから、インドのものだけが違うのだ。
     「信州信濃は、シナノキに由来する地名です。」「そうなの?」「本当かな。」どうも誰もまともに信用してくれない。蜻蛉がまたいい加減なことを言っているという雰囲気だ。仕方がないからウィキペディアから、そのまま引用しておこう。

     シナノキ(科の木、級の木、榀の木、Tilia japonica)、はシナノキ科シナノキ属の落葉高木。日本特産種である。
     長野県の古名である信濃は、古くは「科野」と記したが、シナノキを多く産出したからだともいわれている。(ウィキペディア「シナノキ」)

     ちょっと整理すると(と言う程でもないが)、シナノキ科の中に中国原産のもの(これが菩提樹と書かれた)もあり、日本原産のもの(これが科の木と呼ばれた)も、西洋原産のもの(リンデン)もあったのである。そして寺院には多く中国原産のものが植えられたのだろう。中国のものが菩提樹と呼ばれるのは漢訳仏典による筈だから、名付けたのは鳩摩羅什か三蔵法師かも知れない。
     観音堂のすぐ裏手には縁結びの木がある。アオハダというもので、二本の木が枝でつながっている「連理」なのである。桃太郎が呼ばれて「お願いしなくちゃね」と盛んに囃されている。「五円玉を供えなくちゃね。」「ご縁があるように。」しかしダンディからは「金太郎の女将に言われてるでしょう。そんなことを考えてはいけません」と釘をさされる。

    五月雨や連理比翼も神頼み  蜻蛉

     チチ銀杏には皆の歓声が高くなる。銀杏のチチ自体はそれほど珍しくはないが、こんなにたくさん、しかも横に伸びた枝から下に、本当に乳房のようにたくさん垂れ下がっているのが珍しい。
     「榎もありませんでしたか?どこかで見た」とロダンが言うのは怪談『乳房榎』に因むもので、赤塚で見た榎のことだ。
     望遠鏡氏が銀杏の精子発見者は日本人だと口を切ると、「ヘーッ、そうだんな。」ロザリアが感動する。私たちは小石川植物園で見ている。「名前は何でしたかね。確かふたりいたんですよ。」そこまでは隊長も、そして勿論私も覚えていない。調べてみると、明治二十九年十月の「植物学雑誌」百十六号に、平瀬作五郎が銀杏の精子が泳ぐのを確認したという記事が発表された。そして翌月「植物学雑誌」百十九号に、池野成一郎のソテツ精子発見の記事が載ったのである。やはり二人いた。

     これが、なぜ大発見なのだろうか。まず第一に、イチョウは裸子植物であるが、裸子植物・被子植物では通例精子を作ることはないので、それより下等な植物の形質を持っているという点である。すなわち、海で始まった生物が精子を作るのは、下等生物では普通であるが、陸上での繁栄を始めた高等植物ではそのような性質を失っているので、イチョウではあたかも生命が始まった海の記憶を留めているということができる。第二点は、当時裸子植物の受精の研究は研究の最先端であり、当時の世界的権威であるE.シュトラスブルガー(ボン大学、ドイツ)は、受精の詳細を多くの裸子植物で明らかにした。その彼は、イチョウの花粉が雌の木で成長する様子も観察していたが、精子の発見には至らなかったのである。それと、第三点として、当時の研究の現状が挙げられよう。東京大学が創立されたのは明治十年四月で、研究・教育体制の確立は急ピッチで行なわれていた。当初は、招聘された外人教授らによりその体制の基礎が作られ、やがて外国へ送っていた留学生が戻り、日本人の教授が就任し始めていた。なお、そのレベルは相当に高かったものの、その内容は西欧に追いつけという姿勢であったからである。ちなみに植物学の初代教授は矢田部良吉である。そういった意味で日本人による世界的な大発見の第一号であると云えるからである。このような点から、その内容が植物学雑誌に掲載されたことは、大変重要であると言わざるを得ない。(日本植物学会「イチョウの精子発見」http://bsj.or.jp/JPR/icho.html)

     この発見によって、平瀬作五郎と池野成一郎は、最初の学士院恩賜賞を受けたのである。この説明を読んでも、私にはそれがどんなに大変なことなのか、まだよく理解できていない。科学というのは本当に難しい。イチョウのチチについて、私のような素人のためにドクトルが一所懸命考えてくれた。

     さて、イチョウの垂乳根ですが、気になりましたので調べました。
     植物学的には気根(呼吸根)というものだそうです。空気中の養分あるいは水分を吸収する機能を果たすそうです。根から地表に出てくるものと、枝から下方に下がるものがありそうです。イチョウの場合、具体的な働き機能については解明されてないようです。一般的にイチョウのような出方、形態を持つものを乳根(ちち根)というらしいです。
     イチョウは雌雄異株ですが、古木(巨木)で出ることが多く、乳根を出すのは雌株とは限らないそうです。また、イチョウの雌雄の見分け方についても話題になりましたが、葉形や樹形では区別できず、銀杏が生るか否か、花の雌雄でしか区別できないようです。花季は4月頃で、雄花は穂状の雄蕊だけが、雌花は、胚珠が二つ裸で花茎についているだけで花弁はありません。胚珠が子房の中にある被子植物とは区別され、裸子植物と呼ばれる所以です。

     観音堂の裏手に回れば出雲祝神社に出る。入間市宮寺一。隊長の説明では約二千年前に創建されたというのだが、どこから持ってきた記事だろうか。「観光案内かなんかじゃないですか」とロダンが言う通り、調べてみると入間市のHPに見つけた。

     もと寄木明神。第十二代景行天皇の頃(約二千年前)、日本武尊が東夷征伐に当たられた時、当地に立ち寄り、天穂日命・天夷鳥命を祭祀して、出雲伊波比神社と崇敬したことに始まる神社。
     天穂日命の子孫が、出雲国より当地にやってきた際に樹種を携えて播種したのが、出雲祝神社の社叢で「寄木の森」といわれているという。

     ヤマトタケル東征伝説によるのであったが、「紀元は二千六百年(昭和十五年)」という例の皇国史観に基づく年代で、二千年は信じなくてもよい。邪馬台国だってまだ史上に表れていない時代である。ただ、さっきの観音堂に古墳が発見されたことも併せてみれば、弥生時代からの集落の中心地(何らかの原始的な祭祀が営まれた場所)が、後になっても神聖な場所と考えられた。そういう場所に神社を建てたというのは極く一般的なことだった。
     祭神は天穗日命、天夷鳥命、兄多毛比命。そして合祀されているのが、天照皇大神、大国主命、伊弉諾命、伊弉冉命、倉稻魂命、菅原道真、大山祇命、市杵嶋姫命、速玉男命、事解之男命、大屋毘古命である。
     もし名前から連想するように出雲大社を勧請したのであれば、第一の祭神は大国主神でなければならないだろう。だから直接出雲大社を勧請したものではない。
     天穂日命(及びその息子の天夷鳥命)は出雲国造、武蔵国造、土師などの祖とされる神だから出雲の国津神と考えて良いだろう。天皇の皇子であるヤマトタケルが、この武蔵野に来てわざわざ出雲の国津神を祭祀する理由がない。それに祭神の三番目にいる兄多毛比命というのが出雲族で、第十三代成務天皇のとき武蔵国造に任命されて移住してきたとされる人物である。出雲族出身の武蔵国造の後裔が先祖を祀った社だったと考えるのが自然だ。
     また、武蔵国造が勧請して関東一円に広めた氷川神社の方は、祭神は須佐之男命・奇稲田姫命・大己貴命(大国主)になる。その氷川神社とは別に、国造家子孫がその氏神として祀ったものだろう。
     ところで、延喜式の式内社に出雲伊波井神社があって、この出雲祝神社と毛呂山町の出雲伊波井神社が、本家争いをしているらしい。「延喜式の論社」と言う。つまり延喜式には記載されているのだが、あるとき廃れたり、分社、合祀等によって場所がはっきり分からなくなってしまったのだ。そこに我こそは延喜式内社の後裔であると名乗りを上げると、「論社」というわけだ。

     元寄木明神と稱し、村人は今も「ヨリヰ」様と呼べり。然るに例令焼失數回なりしと雖、社の體裁の古色深き、祭神の素盞鳥尊なる等は延喜式神名帳に出でたる出雲伊彼比神社ならんとの説出で、近年毛呂村飛來明神と共に出雲伊波比神社と稱するに至れり。
     社地は高臺にして、老樹あり。境内幽雅也。社殿も文化、文政の頃までは、本社、幣殿、拝殿、頗る整然たるものなりしが如し。社に弘治三年小田原北條よりの棟別朱印達の文書ありと云ふ。
     又石剱及御シヤク神三本ありと云ふ。村の鎮守也。社後に有名なる茶場の碑あり。(「昔日の宮寺村」)http://www.ictv.ne.jp/~tajima/1_04miyadera.html


     もともとは寄木明神、毛呂山の方は飛来明神である。「明神」名は「権現」「八幡大菩薩」等とともに神仏分離で許されなくなった。この記事は大正元年に刊行された『入間郡誌』を転載しているのだから、出雲祝神社と呼ぶようになったのはやはり明治のことである。祭神がスサノオだから、延喜式の式内社である出雲イワイ神社だろうと考えたのである。但し由緒に書かれた祭神とは違うのは何故なのか分からない。武蔵国造がスサノオを祀ったのなら、それは氷川神社と同じである。
     「石剱及御シヤク神三本」というのは、つまりシャクジ、シャグジ(石神)のことだろうから、原始的な信仰の中心地だったことが分かる。
     本殿の裏には大きな「重闢茶場碑」が立つ。「闢」の字が読めないと皆が悩んでいるが、これは開闢のビャクである。開くという意味だ。「それなら重ねて開くということですかね?」ダンディが首を捻る。碑の脇の説明を見ればそういう意味になるだろう。かつて川越に齎された茶も戦国から江戸時代に廃れてしまい、それを文化文政の頃に再興して狭山茶として売り出した記念碑である。狭山市のHPを見ると、「かさねてひらくちゃじょうのひ」と読みを記している。「復興」したことを「重ねて闢く」と言ったのだ。
     雨に濡れた碑面をスワさんが手で拭って、天保三年の銘を確認した。私は冒頭の「州北河越」と「狭山」位しか読めなかったので説明板を引用する。

     この碑は天保三年(一八三二)の撰文銘をもつ碑で、狭山茶の由来が記されている。題額は鳥取県若櫻藩主前縫殿頭松平定常、碑文は後の大学頭林韑があたり、当時の一流書家であった巻大任(菱湖)が筆をとったものである。鎌倉時代栄西によってもたらされた茶は、各地に広まり、この地方にも川越え茶がつくられた。その後戦国の乱をへて衰微したが、江戸時代の後期に狭山茶復興の機運が起こり、地元の吉川温恭・村野盛政の努力で再興され、文化・文政時代に至って茶の復興全くなり、茶戸五十有余におよび江戸との取引も盛んに行われた。そこで天保元年に建碑の議がまとまり同七年に建立された。
                  入間市教育委員会
                  入間市文化財保護審議委員会

     こんな所で知った名前に出会うと嬉しくなってしまう。「題額は鳥取県若櫻藩主前縫殿頭松平定常」と書かれているのは、普通には池田冠山として知られた文人大名だ。江戸歩きの会で小名木川周辺を歩いた時(第十六回)に、冠山屋敷跡を訪れたことがある。六歳で没した娘の露姫が残した哀切な遺書の話は、あんみつ姫なら覚えているだろう。
     この看板にひとつ文句をつけたいのは、「鳥取県若櫻藩」という書き方だ。因幡国若櫻藩、あるいは鳥取若櫻藩と書くべきで、冠山の頃に鳥取県が存在する筈もなく「県」は余計だ。なんて偉そうなことを言っていても、若櫻を「わかさ」と読むのはダンディに教えられて知ったのだった。
     ここで桃太郎から、本殿と神楽殿が向かい合わせになっているのは珍しい様式だと指摘があった。神社建築の配置についてはまるで知識がないが、確かに一般的には神楽殿は拝殿の脇に位置しているようだ。この配置だと、神楽を見物するためには本殿に尻を向けなければならない。
     「裏口から入って来たんだね。」講釈師がいればまた何かを言ったに違いない。だから二の鳥居の脇に居座って階段下を見下ろしている狛犬も、後ろ姿を見ることになる。その体型がなんだかおかしいとロダンが言い出した。「太ってるんじゃないの。」「ブルドッグみたいだ。」前に回れば表情は普通の狛犬である。阿吽の左右、雌雄などについてロダンが口を切り、「必ずそうだって決まってるわけではないんですよね」と確認を求めてくる。確かに正面に向かって右に「阿」形がいるのが多いが、逆の場合もある。それにもともとは獅子と犬を対にして置いたので、雌雄の別があるはずはなかった。こういう話は江戸の石屋が適当なことを言って広めた可能性が高い。
     石段を下りて一の鳥居から出ると、道角に小さな稲荷が祀られている。「ハタヤの稲荷」と称して、個人が建てた稲荷だという。つまり個人の敷地なのだろうが、屋敷神ではなく、単独で道角にあるのは珍しい。それともこの道路も、広大な屋敷の敷地をぶち抜いて通した道なのだろうか。
     標柱は最近になって加治丘陵山林管理グループによって「市の新しい観光スポットになることも予想」して建てられた。細い木の枝で組み合わせた文字を木の柱に打ち付け、標柱の脇には「元気アップ」の文字とセーラー服の女の子を描いた幟が立ててある。
     私は最近のこうしたものへの関心が薄くて、まるで知らなかった。平成二十一年に公開された『ホッタラケの島』というアニメがあって、ハタヤ稲荷に伝わる伝説を基にしたものだそうだ。それにしても入間市が目論んだような「観光スポット」になっているとは到底思えない。
     調べてみると主人公の声は綾瀬はるかである。テレビドラマ『仁』で、その健気ないじらしい姿を見て私はファンになったのだが、バラエティ番組に登場してくると、どこにでもいる女の子だからがっかりしてしまった。今時の女の子は余り口を利かない方がよい。

     ある日、高校生の遥は、武蔵野にある神社で、失くしてしまったお母さんの形見の「手鏡」を返してくださいと、お祈りをしていました。すると、目の前に不思議な「きつね」を目撃します。きつねの後をつけていくうちに、不思議な水たまりを見つけ、その水に手を入れると…… 一瞬にして吸い込まれ、おとぎの国のような「ホッタラケの島」に入ってしまいます。そこは、人間たちに「ほったらかしにされた=ホッタラケにされた」ものでできた島でした。
     http://www.irumadankai.net/html/takaramono/02hottarake.html

     実際のアニメは見ていないからはっきりしたことは言えないが、これでは『不思議の国のアリス』の焼き直しのように思える。
     ハタヤ稲荷は生卵を供えると失せ物を見つけてくれることになっている。卵が好きな稲荷神も珍しい。「iPADが見つからなくなっちゃったんですよ。」桃太郎は信心深いから、キチンと祈れば見つかるかも知れないが、残念なことに今日は生卵は持っていない。生卵を持参できるようなご近所のひとしか、この稲荷は願いを叶えてくれないのではないかとも思える。
     ここで隊長が集合写真を撮ってくれる。「証拠写真だからね。」ロダンなら愛妻に証拠を示さなければならない理由はあるが、隊長にとっては何の必要になるのだろう。
     稲荷から道路を隔てて斜向かいに、大きな外灯を立てた家がある。「なんだろう、政治家の宣伝かな?」遠目だから正確ではないが、一辺三十センチほどの立方体で、ひとつはオレンジ、ひとつは緑の装飾が付けられた外灯だ。その柱に大きく「西村」の看板が付けられていて、何かの宣伝効果を狙っているのは間違いない。
     ところがいろいろ調べていると、出雲祝神社の宮司は西村氏であることが分かる。位置的にみて、あるいはその家なのかもしれない。

     これで本日のコースは終了した。しかし一時間に二本しかないバスに合わせて、隊長は更に歩き続ける。何度も曲がったりするものだから、まるで方向が分からなくなってしまった。気温はそうでもないが、ジャンバーの下で蒸れて汗が出てきた。
     「この花はなんでしたか?良く見かけるけど。」民家の塀際に咲くピンクの花を見て質問するロダンに、これはカタバミだと私はやさしく教える。ただ、ムラサキカタバミとかイモカタバミとか種類があるらしいが、私には区別がつかない。花期の長い花だ。
     バス停について十分ほどバスを待つ間、停留所前の広い敷地の家が話題のタネになる。鉄柵の内部は庭ともいえない空き地で、その奥に家が建っている。なんだかずいぶん勿体ない作りだと、貧乏人は余計なことを考えてしまう。
     カズちゃんはバス停に来る前に野菜の店を見つけて大きなカブを買って来た。袋もなくどうしようかと悩んでいるところに、ロダンがリュックからビニール袋を取り出した。用意周到であった。ここまで、ロダンの万歩計で確認すると一万三千歩、およそ八キロコースであったろうか。
     乗り込んだときは貸し切り状態だったが、次の停留所から乗客が増え始めて、結構満員のようになってきた。カズちゃんは小手指駅の少し手前の大六天で降りて行き(ここから歩いて帰れる距離らしい)、駅前でツカさんが別れ(ツカさんは小手指の住人だった)、改札を入ってからは飯能方面に向かう望遠鏡氏が別れて行った。「私は帰るよ」とマリーは途中下車せずに池袋を目指したので、反省会参加者は九人である。目指すはいつもの「百味」で先月、割引券をもらって隊長が持っている筈だ。所沢駅舎は工事中で、出口が変わっただろうかとロダンが気にしている。
     四時ちょっと前なのに、相変わらず客が入っている。座敷に通されると、ちょうど私たちと入れ違いで帰る団体から声をかけられた。「いつも会いますね。」そうかな。「都電のかたでしょう?」何のことか分からないが、「同じ格好をしてるから」と言う。この近辺ではハイキング帰りに一杯やるグループは多いだろう。「われわれは二時から飲んでいた」と聞きもしないことまで教えてくれる。
     席についてビールを注文したところで割引券を隊長に確認した。「ゴメン、忘れてた。」残念。但し後で隊長が確認した結果、期限は切れていたそうだ。いつもの通り、注文は全て桃太郎に任せてしまえば安心だ。
     初参加の人がいるとロダンの気配り精神が発揮されて、普段より一層口数が多くなる。里山ワンダリング発足の歴史に始まり、ロダン命名の由来まで明らかになって、ロザリアが「そうだったの、初めて知った」と感激してしまう。「愛宕山は千葉にもあるんですよ」と佐倉の人が言えば、上方の人は「本家は京都です」と断言する。ロザリアは芝で生まれた人だから、これまで私たちが疑問のまま残していた愛宕山(愛宕神社)の池について調べてくれることになった。
     こうした会話の中で、スワさんは実に趣味の範囲の広い人だということも分かってくる。『芭蕉七部集』を読んでいるそうで、「連句は面白いですね」なんて簡単に言う。私はとても手が出ない。それでなくても本格の俳句は難しいのである。
     それに「観世流をやっています」と言うのにも驚いた。ロダンもあんまり驚いたので「勘亭流ですか。書道の?」と頓珍漢な質問をしてしまう。「違う、能ですよ。」ダンディが能の話題を持ち出したことから出てきたのである。
     焼酎のお湯割りで体が温まったせいなのか、私はなんだか眠くなってしまって、「そうですよね」とロダンに声を掛けられても反応が遅い。意味も分からずに「仰る通り」なんて応えてしまって笑われるのである。スナフキンも昨日の深酒のせいらしく口数が多くない。ドクトルもなんだか疲れた顔をしている。
     反省会は六時過ぎに終り、一人二千三百円也。

    眞人