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    平成二十三年六月二十五日(土)  行田

    投稿:   佐藤 眞人 氏     2011.7.1

     行田は暑い町である。そう思うのは蓮を見るために暑い時期に来るからで、一年中暑いわけでは勿論ない。とは言え昨日は熊谷、寄居で三十九度を超え、六月の観測史上最高気温を記録した。行田も似たようなものだ。まだ梅雨も明けていないのに、こんなに早く暑くなったらこの先どうなることだろう。節電が盛んに喧伝されているから、お上の言う通りに冷房を我慢して熱中症で斃れた老人も多い。夏が息切れして早く涼しくなってくれれば良いのだけれど。あの暑さが今日でなくてよかった。
     ただ今朝は曇り、午後から雨になる予報で、気温もそれほど心配しなくて良さそうだ。私は昨夜突然風邪の症状が出て、鼻が詰まって眠れなかった。初めてクーラーをつけたせいだろうか。今日は朝から鼻水が止まらない。こういう時は休んだ方が良いに決まっているが、ティッシュペーパーを多めにリュックに放り込んで家を出た。
     集合場所は秩父鉄道の行田市駅だ。この駅は、大正十年に北武鉄道の駅として開業したときは、ただの行田駅であった。昭和四十一年、JR高崎線の駅が造られたとき、名前をそちらに譲って行田市駅と改名した。通常は先に名乗ったものが勝ち、後発の駅は何か他の名を付け加えなければならない。「なかなか奥床しい駅だな。」そういう感じ方もあるか。しかしこんなことでは競争に勝てない。
     熊谷から東に二駅目だから、当然大宮・熊谷経由が便利かと思えば、「乗換案内」で見て寄居経由のほうが三百円ほど安いと分かった。遠回りのような気もするが、寄居まで約五十分、寄居から秩父鉄道に乗り換えて行田市駅まで約三十分。時間的には大宮経由とほぼ似たようなもので、乗り換え時間はあっても案外近い。
     鶴ケ島で小川町行き九時四十七分に乗り、寄居には八時三十九分に着いた。パスモカードの操作がややこしいのは毎度お馴染みのことで、私はもうすっかりマスターしてしまった。東武線から上った通路で読み取り機にタッチし、さらに改札口でもう一度タッチしていったん外に出る。券売機で六百五十円の切符を買ってホームに降りた。
     立ち食い蕎麦屋の女将が「昨日は酷かったわよね」と、常連らしい客を相手に大きな声で喋っているのが、ホームの端のほうまで聞こえてくる。「体温より高いなんて、信じられないよ。」
     煙草を一本吸って、八時五十一分の各駅停車に乗り込んだ。相変わらず客は少ない。秩父鉄道は本当に経営が成り立っているのだろうか。数少ない乗客も熊谷駅で大半が降りて行ったと思ったら、代わりに集団が乗り込んできて目の前に座った。顔を上げると、隊長、スナフキン、宗匠、ヤマちゃんだ。「アレッ、どこから来たの。」浦和川口方面の人には気付き難いだろう。「寄居からの方が安いんだよ。」
     行田市駅に着いたのは九時二十八分だ。やがて羽生方面からドクトルとあんみつ姫が到着した。「姫がこんなに早いのは珍しい。」「だって、この後だと十時過ぎちゃうんだもの。」熊谷方面から十時ちょっと前のギリギリについた人を合わせて十四人になった。
     隊長、宗匠、ドラエモン、ロダン、スナフキン、ダンディ、ドクトル、ヤマちゃん、あんみつ姫、マリー、カズちゃん、いとはん、伯爵夫人、蜻蛉だ。南口に降りて挨拶が始まろうとしたとき、隊長の携帯電話がなった。画伯だった。仲間が誰もいないJRの行田駅で不安な時間を過ごし、耐え切れなくなって電話をしてきたのである。「私も今朝まで、秩父鉄道って何だろうって思ってたわよ。」マリーの言葉で、三十年以上埼玉県に住んでいる人間にも行田の事は余り知られていないことが分かる。
     画伯とは忍城で落ち合うことに決めて出発する。「大丈夫でしょう。画伯はつい最近、私と一緒に忍城に行っているから。」しかしダンディが言う「つい最近」とは、二年ほど前のことらしい。

     初めて降りた駅前には何もない。目立つのはダンディの帽子ばかりで、「この頃、帽子のことを誰も話題にしてくれない」なんてぼやいているのがおかしい。今日はマチュピチュの帽子だ。ついでに私の帽子を見て、ダンディは絶対に女物だと主張する。妻は紳士用品売り場で買ったと言っていたから男物だろうと私は信じるばかりだ。「ブランド物じゃないの」とマリーが口を出す。そんなことは思ってもみなかったが、確認すると中国製であった。
     すぐに目に入ったのがバニーガールクラブ「ダンディ」で、「こんなところにダンディがいた」と笑ってしまう。駅前で最初に目立つのがバニーガールクラブというのは、行田市の町づくりとして如何なものだろうか。すぐ向かいにはインターナショナル・クラブがある。たぶん東南アジア系の美女がいるんだろう。他にも似たような風俗店の看板が三軒ほど目に入った。
     とにかく普通の商店というものがほとんど見当たらないのだ。一軒だけ、昔ながらの格子窓を持つ二階家が見つかったが、それが町づくりの基本になっているようでもない。住所は行田市中央だから町の中心街だった筈で、ヤマちゃんは「レトロな町だな」なんて上品に言うけれど、はっきり言って、これは寂れた町である。「そんなこと言っていいの、悪いじゃない。」しかしこれが日本の地方都市の現実である。秋田だってそうだし、最近帰省してきた宗匠も、佐賀も似たようなものだと言っている。人だって誰も歩いていないではないか。
     ただ、国道に出ると面白いものに出くわして、「これですよ、これ」とロダンが声を上げる。「電線を地下に埋めるための施設なんですよ。」なるほど電信柱も電線もない。電柱の上にあった変圧器を地上に降ろして格子で枠を組んで外見を隠し、その上に銅製の子供の人形を載せてンモニュメントとしているのだ。人形は装置毎にひとつひとつ姿が違っていて、下駄履きで膝丈の着物姿の子供が子守、輪回し、羽根突き、竹馬、とんぼつり等の格好をしている。赤い銅で作られた像は懐かしく、しかしちょっと寂しさも感じさせる。

    コンセプトは行田の史実に基づき、忍城十万石の新城下町の潤いと趣のある街並み・修景整備を進めることとした。幸い埼玉県行田土木事務所と行田市の計画していた電線地中化事業に積極的に関わることができた。そして、ただ上にある物を下に埋めるということだけでなく、この町にあった景観整備をお願いした。その結果、電柱の上にあった変圧器が歩道の上に現れないように57基をモニュメント化する事に成功した。また、変圧器の上に銅人形39体とステンドグラス案内版を設置させていただいた。銅人形はすべて違う姿とし、その表情は、昔城下町で遊んだ子供の姿をリアルに表現した。ステンドグラスは水の都のイメージ、案内版は行田の歴史をテーマにした。 また、変圧器の周りは街並みのムードにあわせるべく、すべて木製の囲いとし、なお一層「浮き城のまち行田」を表現した。(浮き城のまちづくり協議会より)
    (http://www.pref.saitama.lg.jp/page/ukishiro.html)

     題して「童の記憶」と言う。パンフレットによれば、人形の製作者は赤川政由氏で、国道一二五号に沿って合計五十三基据えられている。リストを見ればつなひき、あまやどり、はなたれっこ、まつり「ふえふき童子」などもあり、機会があれば全部見てみたい。これが平成十一年度彩の国さいたま景観賞奨励賞を受賞した。しかしノスタルジックな気分だけでは町は再生しない。見るべき産業がなく観光しか生きる道はないとすれば(と私は勝手に判断してしまった)、もっと宣伝しなくてはならない。

      寂しきは銅人形に額の花  蜻蛉

     歩道脇に「行田兵衛尉館跡」の石碑を見つけた。ドウダンツツジの植え込みで裏が隠れていて説明が確認し難い。せっかく作った碑ならば、裏面もちゃんと読める位置に立ててほしい。

    成田氏六代助広の三男・助忠は源義経に従い一の谷合戦(一一八四)の功により行田の地を賜り、ここに館を造り、行田氏を名乗った。承久三年(一二二一)宇治川合戦に行田兵衛尉が功を立てたと吾妻鏡に出ている。

     「兵衛尉」の読み方が分からない人に、ちょっと注記しておこう。ヒョウエノジョウと読む。言うまでもなく本来は律令制の官職で、兵衛府の「尉」(三等官)を意味する。カミ(長官)、スケ(次官)、ジョウ(三等官)なんて、高校の日本史で習わなかっただろうか。しかしおそらく正式に任ぜられたのではなく自称だと思われる。
     それはともあれ、平安末期この辺りは既に行田と呼ばれていたことが分かった。行田の地名は、湿地から田になった「業田(ナリタ)」に由来するという説がある。それなら成田氏もこの業田に由来するだろうかとも考えるが、これはあてづっぽうだから信用しない方が良い。成田氏の家伝では、幡羅郡(熊谷市の一部から深谷市の一部)に生じたとしている。
     しかしここに館を構えた行田氏はその後どうなってしまったのか。成田氏に亡ぼされるまでこの辺り一円を支配したのは忍氏なのだ。

    市域の南部には、辛亥銘鉄剣などの出土で知られる稲荷山古墳を含む埼玉古墳群があり、五世紀から六世紀にかけては武蔵の中心地であった。古墳群の北西に忍城跡があり、この辺りから西に隣接する熊谷市、南の北足立郡吹上町、鴻巣市、北埼玉郡川里村にかけては、平安時代末期以降国衙領忍保に含まれていた。在地領主は武蔵国衙の在庁官人の系譜を引くと思われる忍氏であった。(歴史地名ジャーナル)
    http://www.japanknowledge.com/contents/journal/howtoread/howto_39.html

     忍の地名が国衙領忍保からきているならば古い。「保」(ホ、又はホウ)は行政単位あるいは所領単位だから、地名としては忍である。『角川日本地名大辞典』には、関東古方言で、『万葉集』に見られる磯(オシ)、磯辺(オシヘ)が語源だという説を挙げている。つまり行田も忍も、利根川流域の湿地帯に因む地名だった。
     忍氏は、この記事では在庁官人の系譜とされているが、よく分からない。児玉党の流れだという説があり、成田氏に滅ぼされた忍城主は児玉重行という。しかし一方、成田氏は忍氏を滅ぼした後に児玉重行を滅ぼしたという記事もあり、それならば忍の領主と児玉重行は別のものになる。目に付いた限りではどれも典拠を明らかにしていないので、断定できない。十一世紀から十五世紀まで、行田の辺りを支配したことだけは確実のようだ。あるいは行田氏を含む成田氏と、忍氏とは互いに入り組んだ領地をもって争っていたのかも知れない。
     「最初は行田市じゃなくて忍市になるはずだった。」「オシシ!」「それじゃ、ちょっとね。」明治二十二年(一八八九)、北埼玉郡成田町、行田町、佐間町が合併して忍町になった。町の中心である忍城に因んだのだし、それに由緒正しき地名でもあった。昭和十二年、北埼玉郡長野村、星河村、持田村を編入合併して忍町の範囲が拡大した。昭和二十四年、市制施行に当たって、いったんは忍市として発足し、即日行田市に名称変更する。町の領域がそのまま市に移行して、なお改名したというのは珍しいのではあるまいか。「オシシ」が呼び難いということしか理由は考えられない。
     多門櫓跡、忍の時鐘楼跡と城に因む「跡碑」はいろいろある。そして忍城に着いた。冠木門を抜けると、黒字に黄色で忍城と書いた幟が数本立っている。地図を見るとここは「東小路」で、城内に入った筈なのに右側は白壁のすぐ隣に普通の民家が建っていて、なんだかおかしな気分だ。
     忍城通りを渡ると三層の櫓が正面に現れた。天守閣と間違いそうになるが、そうではないのだね。本来は城郭のもっと外れに在ったものを、この位置に復元したのである。藩主は二の丸に住んでいたらしい。川越城、前橋城、金山城(群馬県大田市)、唐沢山城(栃木県佐野市)、宇都宮城、太田城(茨城県常陸太田市)と並んで、関東七名城の一というのが謳い文句だ。
     濠を渡ると城門だ。「これってオッパイの形ですよね。」ダンディが私に問いかける。「こういうことは講釈師か蜻蛉に聞けば分かる筈でしょう。」講釈師がいないから私が代わりに講釈しなければならない。扉に打ちつけられている、半球の中心に突起のある金具は一般に乳鋲と言う。チチビョウ、チビョウ、ニュウビョウなど呼び方は様々で、子孫繁栄を願ってのもの、あるいは安産祈願のためという説がある。しかし城門や武家屋敷の門ならばそれも分かるが、お寺の門扉に子孫繁栄は余り似合わないのではないか。
     実は本来は釘を隠すための装飾で、乳金物(チチカナモノ)と呼ばれたようだ。位置から見れば、閂を支える部分を釘で打ち付け、その釘を隠す目的だったように思われる。
     その大扉は閉ざされているから脇から潜って入ると、鐘楼の前を塞ぐように、バンドを従えた女性がキーボードを叩きながら高音で歌っている。何度も繰り返すので練習だと分かったが、はっきり言って邪魔だ。鐘楼の写真が撮りにくい。バンドの連中が、古着を吊るした露店を行き来しているから、これも彼らが出している店だろう。その店にはゼリーフライのチラシが貼られている。ゼリーフライの歌だろうか。

     梅雨晴や歌が邪魔する大手門  蜻蛉

     博物館の入り口に回り込むと、「忍城おもてなし甲冑隊」が迎えてくれる。鎧はそれほど重くなさそうだが、籠手、脛当てを着け、陣羽織を纏った姿では暑いだろう。「どうぞ」とパンフレットを配ってくれるので、暑くないかと訊いてみた。「やっぱり暑いですよ。」映画『のぼうの城』出演者の役に扮しているらしい。観光客の子供たちと一緒に写真に入ったり、パンフレットを配ったりしている。
     そのパンフレットを見て分かったのだが、私に返事をしてくれたのは、どうやら主人公で「でくのぼう」と呼ばれた成田長親だったようだ。月代を剃って(もちろん鬘だが)鉢巻をしている。正木丹波守と酒巻靱負は今時のジャニーズ系の顔で、ヘアスタイルも現代のままだから、いくら甲冑を身につけても戦国武者には到底見えない。柴崎和泉守は自前の毛を後ろで結んでいるようだ。強面のロック系の若者である。
     ピンクの着物に裁着袴の娘は甲斐姫だ。チラシによれば甲斐姫は「東国一の美女」なのだが、それ程でもないのが惜しい。それでもちょっと鼻が上向き加減の可愛い娘だ。もうひとり、甲冑を身に付けた女性がいるのだが、パンフレットにも公式ブログにも登場しないから名前は分からない。彼らはアルバイトだろうか。宗匠が「市の職員ですか」と甲斐姫に訊ねるとボランティアだと答えてくれた。

     紫陽花や忍の甲斐姫笑みくばり  閑舟
     鉢巻きに甲冑武者の汗光り    蜻蛉

     ここで画伯が汗を拭きながら到着した。「参っちゃったよ、誰もいないんだもの。」そう言う時は不安ですね。
     和田竜の小説は「無茶苦茶面白い」と誰かに(隊長だったかな)教えられたことがあったが、私は読んでいない。今年九月公開予定だった映画は、来年秋まで一年延期された。

    映画『のぼうの城』は、戦国時代の史実を基にした作品であり、震災に直結する映画ではありません。しかし、映画の内容において、史実として石田三成による戦略の一つである「水攻め」が大規模な映像として描かれるなど、一部の描写がこの時節柄上映するには相応しくないと判断致しました。(後略)
    (http://nobou-movie.jp/index.html)

     水攻めのシーンは「時節柄」相応しくないものであろうか。
     忍城は、文明十年(一四七八)頃、成田正等・顕泰父子が忍一族を滅ぼして築城したと言われる。それまでも忍氏の館があった場所だろう。この城が歴史に記録されるのは、なんと言っても石田三成軍との攻防戦のためである。

     天正十八年の小田原の役の際、城主・成田氏長は小田原城にて籠城。家臣と農民ら三千の兵が忍城に立てこもった。豊臣方の忍城攻めの総大将は石田三成。三成は、本陣を忍城を一望する近くの丸墓山古墳(埼玉古墳群)に置き、近くを流れる利根川を利用した水攻めを行うことを決定し、総延長二十八キロメートルに及ぶ石田堤を建設した。しかし忍城はついに落城せず、結局は小田原城が先に落城したことによる開城となり、城側は大いに面目を施すことになった。このことが、忍の浮き城という別名の由来となった。(ウィキペディア「忍城」より)

     「三成なんか戦をする人間じゃないんですから、それに耐えても自慢にもなりませんよ」とダンディは断定する。通説では、堤防を切ったことで包囲側の陣地まで水浸しになり、泥沼と化してしまった。もともと経済官僚あるいは内務官僚とも言うべき人物で、実戦経験は少ない。戦が下手なのは当然なのだ。そして三成を嫌う武断派の連中は、三成の戦下手の噂を広めるために、この水責めの結果を大いに利用しただろうとは想像できる。
     しかし、そもそも忍城は「浮き城」と呼ばれる程、水害にあっても水没しない城であり、水責めという方針自体が誤っていたのだという説を見つけた。

     忍城の周囲は全くの平坦地で、周囲に丘陵等、自然堤防にあたる地形はない。また厳密には忍城の本丸付近は、三成が堤を築いた下堤、堤根付近など比べ、地形的に僅かに高地になっている。このことは城を完全に水没させるには、極めて大規模な築堤が必要なことを意味する。
     忍城は、別名浮き城と呼ばれていた。水害の際でも水を被らないことから、その名がついたという。この城は、水没させるのは困難な城だったのである。
     (中井俊一郎「忍城攻め-戦国の中間管理職・三成の悲劇」
     http://www.asahi-net.or.jp/~ia7s-nki/knsh/oshi.htm)

     これによれば、水攻めを強硬に主張したのは秀吉であり、三成の方針ではなかった。

     忍城は、水攻め困難な城であり、三成もそのことは理解していた。それでも、なお三成は水攻めに固執する秀吉の命に応え、大堤防を築きあげ、水攻めを行なった。その堤防の総延長は約二十八キロメートルにおよぶ。これは、備中高松城水攻めの四倍以上の長さであり、忍城攻めは、水攻めとしては戦国合戦史上最大規模である。しかし、その大堤防をもってしても、浮き城忍城の水没は困難であった。
     現場を見ない上司の無理な命令に、必死で応える三成の姿、そこには現代へも通じる中間管理職の悲劇が透けて見える。

     六月から七月にかけて一ケ月以上に及ぶ籠城である。籠城戦の最大の課題は食料備蓄の量だと普通には考え、そしてそれは勿論そうなのだが、実は糞尿処理も大問題なのだ。戊辰戦争時の会津藩では、一ケ月の間に溜まりに溜まった糞尿が籠城側の士気を挫いた面もある。こんなことを言うと会津の人は怒るだろうが、特に女性には耐え難いことだったに違いない。忍城の場合は城の周りは水ばかりで、溜めずに水に流してしまえば問題は一挙に解決してしまう。これも成田側にとって幸いだっただろう。
     この時、城主氏長は小田原にいて秀吉方と内通していたようだ。「東国一の美女」を秀吉が見逃す筈がない。甲斐姫は早速秀吉の側室になった。開城後、成田氏は一時所領を失うが、甲斐姫のお蔭もあって下野国烏山を領した。関ヶ原の戦いでは氏長の弟長忠が徳川方についたものの、その子の代になって後継者争いのお家騒動を惹き起して改易となった。忍城築城から二百年弱で成田氏は歴史から退場する。
     折角だから水攻め以後の忍城の歴史についても記録しておくべきだろう。家康の四男忠吉が十万石で据えられたが、まだ幼年で実際には忍には来ることなく、松平家忠(松平深溝氏)が一万石で入った。家忠は水攻めで荒廃した忍城と城下町を修築し、代官の伊奈忠次の助けも受けて検地を実施した。文禄元年(一五九二)家忠は下総国上代一万石に移され、忠吉が忍に入ったがまだ若年のため、家老の小笠原吉次が実際の政務を代行した。吉次は兵農分離、家臣団編成、新田開発、利根川の治水工事で手腕を見せた。
     関ヶ原の戦いの後、忠吉が尾張五十二万石に転封され、その後しばらく忍藩は廃されて天領となり、代官の伊奈忠次や大河内久綱らが治めた。ここにも伊奈忠次が登場する。江戸初期の関東のインフラ整備には、ほとんど伊奈忠次が関係しているのだ。
     やがて松平信綱(いわゆる知恵伊豆)三万石、阿部忠秋五万石(以降は阿部氏の所領)と続くと、忍藩は老中の藩として重要な位置を占めることになる。文政六年(一八二三)阿部氏が陸奥白川藩に転封され、桑名藩奥平松平忠堯が十万石で入る。
     忍藩は江戸期を通じて老中を数多く輩出して重要な位置を占めたが、「老中の藩」として出費を抑えられなかったこともあって、財政状態はかなり悪かった。寛保二年(一七四二)大洪水、天明三年(一七八三)の浅間山噴火と天明の大飢饉、その三年後の大洪水、更に安政二年(一八五五)の安政の大地震と安政六年(一八五九)の大洪水など、自然災害による被害が大きいのも更に財政を悪化させる原因になった。特に洪水の被害が大きいのは、もともと利根川沖積地の湿地帯だからだ。戊辰戦争にまつわるてんやわんやはどこの藩でも同じだ。最終的には新政府側に加担することに決めた。

     甲冑隊の傍には土産物屋も出店しているが、まず博物館を見学しなければならない。入館料は二百円、高齢者割引はなく、二十人の団体扱いにもならない。ここが元の本丸の場所である。
     忍城のジオラマや絵図、随分大きな板碑を見て回り、考古学的な遺物は苦手なので素通りすると、奥には足袋のコーナーがあった。かつて行田は足袋の町であった(と今日知った)。日本髪でミシンに向かう女工の人形が並んでいる。

    行田の足袋は、旅行や作業用の足袋としてつくられました。
    明和二年(一七六五)の『木曽東海両道中懐宝図鑑』に、「忍のさし足袋名産なり」とあり、行田の足袋が名産品だったと記されています。「さし足袋」とは刺子にした足袋のことです。行田は木綿の産地でもあり、近くに中山道が通っていたことで、旅行や作業用の足袋づくりが盛んになったと考えられています。
    明治時代になるとミシンが使われるようになり、足袋の生産量は増大しました。また忍商業銀行や行田電燈株式会社が設立され、資金も安定し、ミシンの動力化も進んで、名実ともに行田の足袋は日本一となりました。昭和十三年(一九三八)の足袋生産量は八千四百万足で、これは全国生産の約八十%を占めていました。(行田足袋の歴史より要約)
    http://www.city.gyoda.lg.jp/41/06/11/kyoiku/iinkai/sisetu/gyoda_tabi/tabi_rekisi.html

     足袋は元々皮で作られたというから、猟師の山歩きや武士の戦場用に使われたものだ。つまり地下足袋だ。明暦の頃から漸く布製が普及してきた。明暦の大火によって皮製の羽織が流行し(多少の火では燃えないから)、皮製品が高騰したことが、木綿製品の普及を後押しした。行田の足袋は刺子で有名だというので、この頃まではやはり野外で用いるのが一般的だったのだろう。
     しかし足袋業界はほとんど発展の余地のない、むしろ滅びに瀕している産業の一つだ。昭和十三年の行田では二百社によって八千四百万足、全国生産量の八割を生産していた。現在ではそれが二十社で百四十一万足、全国生産の三・五割まで落ち込んだ。
     (http://tabireki70.blog114.fc2.com/blog-entry-137.htmlより)
     つまり昭和十三年から比べると、全国の生産量は一億足から四百万足に減ったのである。最盛期の四パーセントだ。ごく一部の人にしか使われないものは、「伝統産業」という名で博物館に入ってしまうしかない。中には華麗に転換を図って成功した者もいる。行田ではないが、ブリジストンは久留米で地下足袋を製造する会社だった。前身は日本足袋株式会社である。地下足袋の底のゴムがタイヤのゴムへと変身したのだ。
     曙太郎の三十センチの足袋を見て、「すごいね、物差しと同じだよ」と母親が子供に話しかけている。しかし「竹の物差しだよ」と言われたって、今どきの子供は分からないのではないだろうか。

     行田駅履き違えたり一人たび  午角

     「子供の時はよく履いたな」とダンディが言う。私だって子供の頃には履いている。「コハゼを嵌めるのが難しくてね」とロダンも言う。「そうか、若者たちの世代も履きましたか。」冬には日当たりが悪く雪が踏み固められた路地で、下駄スケートなるもので遊んだ記憶がある。あれはまさか靴下では履けず、足袋でなければいけなかった。
     それに小学校の低学年の頃は、運動会と言えば足袋だったと思いだした。「はだし足袋」と呼んでいたと思う。コハゼはなく、足首のところにゴムを通していて、一度走ればすぐに底の薄皮が破れてしまうチャチなものだったが、運動会の当日、真新しい白い足袋を履くのは、なんとなく照れくさいような気分でもあった。それにあの頃は短パンなんかなくて、キャラコの白いパンツを穿いていたんじゃなかったか。昭和三十年代前半まではまだ運動靴が普及していなかったのだろう。それがいつからズック靴に変わったのかはよく覚えていない。
     さてそうすると普段の体育の授業では何を履いていただろうか。裸足だったろうか。この辺になると記憶が抜け落ちている。
     一階の展示コーナーを見終わり、櫓へ続く廊下を歩いていると、向こうからカズちゃんとイトはんが戻ってきた。「暑いの、窓もあけられないし蒸すからね。上まで行かなかったわ。」
     櫓の方は空調設備もなく窓が閉ざされていて蒸し暑い。せめて窓が開くとよいのだが。本来の三層櫓はもっと南の方に位置していたのだが、復元するときにここに決めたのは、これを含めて博物館の建物とするためだろう。四階まで登っても閉ざされた窓からは眺めるものもなく、下に戻ると、係員の女性が窓を開けている。「櫓の方も窓が開くといいけどね」と言ってみると、どうやらそちらに向かったらしい。
     全員が戻るのを待って、博物館を出て門前で記念撮影をした。「キレイドコロは前に出て。」「そうじゃない人はどうしたらいいでしょうか。」「フツウドコロも前に出てください。」隊長が二枚撮ると、「このごろはずいぶん早くなったね」と声が掛かる。かつての「日光写真」も、あれはあれで、なかなか趣というものがあった。
     出口の脇の露店を物色するとラッキョウが試食できる。たまり醤油漬け、ブルーベリー漬け、レモン漬けが、どれでも三個で五百円である。妻はラッキョウを余り買ってくれないし、なんだか寂しい行田を応援したい気分もあって手を出した。買ってから横の台を見ると、三つで二百五十円のものもある。ちょっと悔しくて、私が買ったのは高級品だと自分に言い聞かせなければならない。
     「蜻蛉が買うんなら私も買おう」とラッキョウが苦手な筈の宗匠も買っている。これに釣られたのか、かなりの量のラッキョウが売れたから、私たちは行田市の地場産業振興にずいぶん貢献しただろう。「ロダンは買わないんですか」とダンディが声を掛ける。ロダンは愛妻へのアリバイ作りが必要な筈だが、ここでは何も買わなかった。

     水城公園に入り、クローバーの草むらを歩いていると、小さくて見覚えのある可憐な花が見えた。ムラサキサギゴケだ。「苔ですか。」「苔って名前だけど、苔ではないです。」私は野川公園で初めて見て覚えた。クローバーと一緒にこんなに咲いているなんて知らなかった。ただし画伯の鑑定ではトキワハゼかもしれない。同じゴマノハグサ科サギゴケ属で、私には区別がつかない。この公園は忍城の堀跡である。
     二股になった道の角に、行田市が誇るB級グルメ「ゼリーフライ」の店がある。看板を確認すれば駒形屋だ。有名店のようだ。ひとつ六十円である。姫が七八人分のお金を集めて並んだ。先に並んでいる客は四五人だが、それぞれが十枚とか二十枚の単位で買って行く。作り置きはないから、その都度、丸めては油で揚げるので時間がかかる。私は勝手にスナフキンから半分分けて貰うことに決めて金は出さない。「分けるほど大きくないだろう。」「ちょっとでいいよ。」
     女将さんが作っているのを脇から覗いてみると、左手で材料を丸め、パン粉をつけずに油の中に放り込んでいる。ジャガイモ、ニンジン、ネギなどをオカラで練り込んであるのが素材だ。要するにパン粉をつけないコロッケだ。常連客らしい女性が「手伝おうか」と言っても、「いいよ、油臭くなっちゃうから」と女将は断る。

     「ゼリーフライの由来は、行田市持田にあった「一福茶屋」(現在は閉店)の主人が、日露戦争で中国東北地方に従軍した際、現地で食べられていた野菜まんじゅうを基にアレンジしたものと言われ、店売りされた詳細な年代は不明なものの、明治後期には既に確認されている。
     名称の「ゼリー」はゼラチンで固めた菓子の「ゼリー」ではなく、形状や大きさが小判に近いことから「銭富来(ぜにふらい)」と呼ばれていたものが訛り、「ゼリーフライ」に変化したと伝えられている(ウィキペディア「ゼリーフライ」)

     かなり待ってやっと出来上がった。親切なスナフキンが食いかけを半分くれたので食べてみたが、これなら普通のコロッケの方が旨い。並んでまで買う必要はなかったと私は判断した。「だって六十円だからね。」安ければ我慢できるだろうか。
     日露戦争直後の行田では、まだコロッケなんて普及していなくて、そもそもパン粉というものがなかっただろう。『コロッケの唄』が流行するのは大正六年のことだから、行田で銭富来が発明された時点では、パン粉をまぶして揚げるコロッケなんか、ほとんどの人が知らなかったに違いない。それでも油で揚げるというのは、当時としては随分モダンだったのではあるまいか。「富来」はもちろん宛字だろう。
     因みに明治三十六年に発行された村井弦斎『食道楽』のコロッケの作り方を見てみる。

    先ず鳥の肉の生ならば極く上等の筋の無い処を挽かないとよく挽けません、ロースや外の料理の残肉でも宜う御座いますそれを御飯に混ぜて白ソース即ちバターとメリケンコと牛乳と塩胡椒のソースで煮込むのです、それから卸して玉子の黄身を入れて塩胡椒で味をつけて丸めてメリケン粉をつけて玉子の黄身をつけてパン粉をつけてバターで揚げます、上等にするとお米をバターで炒つて置いて鳥と一緒にスープで炊いてそれから白ソースで煮込んで拵へます、コロツケにはトマトソースを拵へてかけます

     当時の実用文の文体である。(国会図書館の近代デジタルライブラリーに収録されていたので読むことができる。)この本は当時ベストセラーになったと言うことだが、対象にしているのは都市の中産階級だろう。日露戦争直前、一般庶民がこんなものを作って食ったとは到底思えない。このレシピで作るのはたぶんクリームコロッケというものだろうが、私が好きなのはジャガイモのコロッケだ。

     行列しフライを待つや蓮の花  蜻蛉

     「お好み焼きみたいなのもあるでしょう、私はあれが食べたかったわ。」イトはんはわがままを言う。実は行田にはもうひとつ、単なる「フライ」というのがある。これがイトはんの食べたいものだったようだ。

     通常は小麦粉を水で溶いただけの物だが、長葱を入れる場合もあった。ソースではなく醤油を塗って味付けをし、生地に砂糖を入れてホットケーキのようにすることもあった。「フライ」の命名者は行田市天満の古沢商店の初代店主といわれている。大正十四年に近くの足袋工場で働く女性工員に、休憩時のおやつとして出し始めたのがきっかけとされ、当時はフライ焼きと呼ばれていた。手ごろな値段で手軽に食べられて、なおかつ腹持ちがよいことからファーストフードとして親しまれ、多くはこれら女工たちの手を経て地元家庭や市内飲食店に広まって行ったとされる。後に「フライ焼き」から「フライ」へと名前が省略された。(ウィキペディア「行田フライ」)

     鉄板焼きを「フライ」と呼ぶのはどういう気分からだろうか。フライと言えば洋食の響きがする。この鉄板焼きは貧しいけれど、せめて洋食だと無理やり思い込んで、気分だけの贅沢を味わっているのである。行田は貧しい。(行田のひとたち、ゴメンネ。)
     駅で貰った「フライ屋」MAPには五十軒が載せられていて、フライを出す店には「フ」、ゼリーフライを出す店には「ゼ」と表示している。これを見ると、「フ」と「ゼ」の両方を扱っている店は九軒だけだ。つまり行田のフライ屋の八割以上は、どちらか一方に特化しているのである。勿論この駒形屋もやはり「ゼ」だけなのだ。ゼリーフライとフライは宿命のライバル関係にあって、いわば不倶戴天であるのかも知れない。
     いずれにしても、行田市はこれを全国に広めたいと思っている。それは上手く行っているだろうか。(翌日、職場で十人に訊いてみた。全て埼玉県人であるが、ゼリーフライを食べたことのあるものは一人もいない。辛うじてどういうものかを理解していたのは一人だった。全国に広めるどころではなく、まず埼玉県に広めなければ仕方がないのではあるまいか。)
     通りを渡って公園の東側に入ると、沼の畔に大きな碑が建っているのが見えた。誰も気づかないようで先にどんどん行ってしまうが、寄り道して確認すると『田舎教師』碑だ。「何があったの。」宗匠が近づいてきたので冒頭部分を読みあげた。「田山花袋だよ。」

     絶望と悲哀と寂寞とに
     堪へ得られるるやうな
     まことなる生活を送り
     運命に従ふものを勇者といふ
     田山花袋作田舎教師より

     「寂寞」を私はジャクマクなんて抹香臭く読んでしまったが、これは近代的にセキバクと読んだ方が良い。「よく知っているじゃないの。田山花袋だよ。」変なところから声が掛る。声は釣りをしていたオジサンだった。「田山花袋は行田に住んでたんだよ。」何が釣れるかと宗匠が訊ねると「フナだよ、フナ」と返事が返ってくる。
     しかし花袋が行田に住んでいたというのはマチガイである。『田舎教師』の主人公小林秀三(作中では林清三)の実家が行田にあった。城に近い長屋だったというから、この辺りだったかもしれない。羽生の弥勒の小学校まで三里の道を最初は通っていたが、後に羽生の建福寺に下宿した。建福寺の住職太田玉茗が花袋の文学上の盟友であり、妹の夫でもあった。だから花袋は羽生に泊ったことはあって、そこで小林秀三の日記を見たことが『田舎教師』執筆の契機になるのだが、住んだことはない筈だ。この辺の事情は羽生を歩いた時に調べてある。地元の人間でも結構いい加減なことを言う。
     佐間天神には裏から入ったから、最初は稲荷(鳥居の額には「伊奈利」と書いてある)を守るキツネを見ることになる。オオカミか山犬かと思ったほど顔が太っている。左は珠を、右は巻物を咥えている。大きなケヤキは樹齢四百年以上と推定されている。

    佐間天神社の創建は忍城主の成田氏が忍城築城の折、谷郷、春日社、西を城の没沢の取入口とし、天神坊を出口としたと伝えられている。その天神坊を慈眼山安養院の守護神として天神社を勧請した。今から五百年前のことである。享保五年十二月(一七二〇)京都の唯一神道、吉田殿より「正一位天満天神」の神格を与えられた。その後、文化十年八月二十五日(一八〇〇)本殿が再建された。本殿に安置される天神座像は春日の作と伝えられている。又、境内の欅の樹齢は行田市教育委員会の推定によると四〇〇年とされている(掲示より)

     天神の鳥居を出ると向かいが高源寺だ。臨済宗円覚寺派、天真山の山号をもつ。門前に「山門不幸」の立て札が立っていた。「どういう意味なの。」この寺の住職が亡くなったという知らせだ。私は谷中を歩いていて知った。普通一般民家の「忌中」札に相当する。ただ良く考えると、この言い方は寺院には相応しくないのではないか。仏教では死は必ずしも「不幸」ではない。「成仏」「往生」という言葉もある通り、輪廻転生の連鎖を断ち切って涅槃に入ることは仏教の最大の目標であろう。この表現がどこから来たものか、今の私には分からない。

    禅宗臨済派、上崎村龍光寺末、天真山と号す。開山守天和尚、慶長五年八月二十五日示寂。開基は成田下総守氏長の家人正木丹波守勝英なり、天正十九年六月二日卒し、傑宗道英と謚す。当寺に墳墓あり。本尊正観音を安置す。(新編武蔵国風土記稿より)

     門前の掲示板には、正木丹波が無常を感じ、「水攻め彼我被害者の霊を弔わんと発心し」と書かれている。正木丹波はさっきのイケメンの兄ちゃんだ。あの若者が無常を感じることがあるだろうか。
     隊長は境内には入らずにそのまま先を進んでいくが、本堂脇に丸彫りの如意輪観音二体が見えたので入ってみる。「山門不幸」の寺内には無暗に入りこまない方が良いが、やはり確認しておきたい。「境内には入らないって言ってますよ。でも蜻蛉さんが入ったから」と姫も入ってくる。左のものには蓮華を支える台石に「二十二夜供養塔」「享和二年(一八〇二)」「九月吉祥日」、右は年号が分からないが「二十二夜講中供養塔」の文字が確認できた。
     羽生で見た如意輪観音は十九夜塔だった。二十二夜塔を確認するのはこれが初めてだ。(勿論これまで見ていても気付かなかったかも知れない。)Googleで「二十二夜」を検索すると「もしかして二十三夜」のメッセージが表示される。その通りに、二十三夜についてはかなりの記事が見つかって、全国的に普及していたのが分かるのに、二十二夜の記事は余り多くない。そして漸く「熊谷市WEB博物館」の記事を見つけた。

     二十二夜塔は、二十二日の夜に人々が集まり、勤業や飲食を共にし月の出を待つ月待ちの行事を行った女人講中で、供養のために造立した塔です。「二十二夜」の文字を刻んだものと、如意輪観音の像を刻んだものがあります。全国的には、二十三夜塔が最も一般的に認められますが、二十二夜塔は、埼玉県の北西部から群馬県の中西部域に濃密に分布しています。江南地区の月待塔は、ほとんどが二十二夜塔となっています。如意輪観音は、富を施し六道に迷う人々を救い、願いを成就させる観音様として、江戸時代中期以降民間信仰に広く取り入れられ、二十二夜さまの本尊として女性の盛んな信仰を受けました。また、女子の墓標仏としても、各地に数多く造立されています。(http://www.kumagaya-bunkazai.jp/museum/sekizo/nyoirin.htm)

     なるほど、北武蔵から上州にかけて集中しているのだったか。十七夜、十九夜、二十一夜、二十二夜は主に女人講として如意輪観音を祀る。二十三夜では祀る対象は勢至菩薩になる。ついでに調べれば十三夜は虚空蔵菩薩、十五夜が大日如来を本地仏とする。この月待ち信仰については、庚申信仰と合わせてもっと知らなくてはならないことが多い。
     急いで皆に追いつくと、バスセンターの停留所は、木の柱を立て屋根をあげているから、駒繋ぎとでも呼びたいような風情がある。このように行田市は景観を美しくしようとなんとか頑張ってはいるのだが、それ程効果は上がっているように見えない。
     用水路に沿って歩く。水かさがずいぶん多い。「もうすぐ溢れてしまいそうじゃないか。」「アメンボがいるわよ。」イトはんの声で水面を覗くと、確かに濁った水面に浮かんでいる。最近、アメンボなんかなかなか見る機会がない。
     「関東シロバナタンポポです。珍しいんですよ。」姫の言葉で花を確認する。私も前に一度だけ見た記憶がある。ところが「うちには、一杯咲いてるよ」とドラエモンが自慢する。「これは自家受粉するんですよ。だからひとつ咲けば増えてくる。」
     隊長はアカメガシワの雌花雄花の区別を教えてくれる。「柏って柏の葉に似てるってことかな。」私に代わってロダンが当然の質問をすると、「全然違いますよ。アカメガシワはトウダイグサ科です」と答えられた。これには驚いてしまう。トウダイグサ科と言えば、私が知っているのはネコノメソウとトウダイグサだけだ。どうもトウダイグサ科というやつは範囲が広すぎる。
     「カシワ」の名の由来については姫が調べてくれた。柏の葉と同じように飯を盛ったことによるらしい。形は似ていなくても用途が似ていたのである。念のためにウィキペディアで見ても、「葉が柏のように大きい」ことが名前の由来だから間違っていない。だからロダンの質問だって、そんなに的が外れていたわけではない。
     環境センターの辺で用水路から左に逸れると、水田の向こうに小高い丘が見えてきた。「あれですよ。」武蔵用水を渡れば、さきたま古墳公園の入口だ。ところで、この「さきたま」が埼玉の元の読み方だということをスナフキンが知らなかった。「訛ったのかい。」訛ったと言うより、音便と言うべきである。
     公園に入る前に、武蔵水路の説明板を確認する。武蔵水路は、利根大堰で取水し、見沼代用水と分かれて行田、吹上、鴻巣を通って荒川に出る、全長十四・五キロの水路である。

     管理者は水資源機構。東京都水道局の約四割、埼玉県水道局の約八割の給水エリアの水道水を送っている。また、周辺地域の洪水や出水を取り込む役割を果たしている。一九六五年、見沼代用水路の一部を使用して緊急送水を開始、一九六七年、武蔵水路の工事が完成した。(ウィキペディア「武蔵水路」)

     「このお蔭で水道が通ったんですよ。」越谷に住む姫が言えば、「東京オリンピックの頃だよ」と鴻巣の住人のドラエモンも言う。東京オリンピックは私が中学一年時のことだった。「ウソでしょう、私が中学になってたから」と言うヤマちゃんは勘違いしている。昭和三十九年(一九六四)で計算してみるとよい。ドラエモンは「私は高校生になってたかな」と言うから、私より三歳上と分かってしまう。
     「三宅の真似して、みんなが丸太を持ち出して重量挙げやってた」とスナフキンは言う。中学に高さを変えられる大型の鉄棒が導入されたのも、やはりオリンピックの影響だったろう。「小野に鉄棒ですね。私は遠藤が好きでした」と姫が言う。確かに遠藤幸雄は格好よかった。東京オリンピックのときには小野喬は既に最盛期を過ぎており、伸び盛りの遠藤が初めて個人総合優勝を獲得したのである。戦争中か戦後すぐに母親を亡くして、秋田の孤児院(児童養護施設と言うだろうか)で育ったひとである。感恩講というんじゃなかったかな。「そうですか、知りませんでした。スポーツ選手って経済的に恵まれた人がするものだとばかり思ってました。」一昨年に七十二歳で亡くなった。「円谷は可哀そうだった。」円谷の遺書については前にも書いたことがある。
     良きにしろ悪しきにしろ、あのオリンピックは戦後の日本にとって、そして私たちの世代にとっても大きな出来事だった。オリンピックを境に私たちの生活環境は大きく変わるのであり、日本現代史を考えるときに五輪紀元というやつを採用しても良いくらいだ。足袋にまつわる私の思い出も、その年紀法で数えれば正しく五輪紀元前のことであった。
     広い敷地内はほとんどが芝生の養生中で、柵を越えないようにと注意書きが書かれている。こんなに広い場所だったかしら。「以前は、逆方向から来たからね。」
     少し行って、芝生に座れる場所を見つけて昼食だ。「それって愛妻弁当じゃないですけ。」私の弁当を見てロダンが鬼の首でも取ったように声をあげるが、私はロダンように宣伝しないだけである。そしてロダンは気付かなかったが、スナフキンの弁当も同じだ。
     マリーが秋田銘菓もろこしを配っている。たまたま母が秋田に行っていたから、その土産に違いないが私は勿論食わない。「昔ながらの落ち着いた味ですよね。殿様に献上したんでしょうね」と水戸の人が感心している。それほど感心するものでもないだろう。簡単に言えば少々粉っぽくて堅い落雁だ。しかし、これも郷土の銘菓である。多少は宣伝もしておくべきだろうか。

     もろこしとは、秋田県地方で作られている銘菓であり、落雁の一種である。製法は、小豆粉を木などで造った枠に入れ、固めたものに焼きを入れており、現在では小豆粉に砂糖も一緒に混ぜることが多い。
     漢字表記は諸越だが、これは江戸時代に藩主へ菓子を献上した時に「諸々の菓子を越えて風味良し」との評を得て銘を受けたことによるもので、地方によっては唐土や諸粉子とも書かれるが、一般的には秋田諸越(あきたもろこし)と呼ばれることが多い。(ウィキペディア「もろこし」)

     ドラエモンからはサクランボが配られ、カズちゃんと姫からも差し入れを貰う。いつものことながら有難いことである。
     丸墓山古墳は直径百五メートル、六世紀前半の築造と推定されている。日本最大の円墳である。「円墳としてと、ちゃんと但し書きを入れておいてくださいよ。これが日本最大の古墳かって誤解されますからね。」仁徳稜(今は大仙陵古墳と言うらしい)の後円部分にも遥かに及ばないのだと、ダンディは指摘する。
     ダンディが自慢する大仙陵古墳の後円部の直径は二百四十五メートルある。確かにこれでは明らかに違う。古墳の大きさは要するに権力基盤の大小に比例するだろう。しかし、こうした大型古墳築造は失対事業でもあったと姫が言うのはどうだろうか。当時の社会体制は奴隷制(あるいはごく初期の農奴制)と言っても良いだろう。そういう社会に失業問題は発生しない筈だ。
     十八・九メートルの階段は一息で登るにはちょっときついか。石田三成が陣を張った場所でもある。イトはんは途中で立ち止り息を整えている。「もうすぐだよ。」頂上は平らに整備されていて、眺めがよい。
     段差の高い階段を下りるころからちょっと雨が降ってきた。山を下りて画伯は合羽を着こんで本格的な雨対策をしている。ヤマちゃんも合羽を着こんだが、雨はすぐに止んだ。「今日は絶対大降りになると思って、スパッツも長い奴を買ってきたのに」とスナフキンがぼやく。樹木の多い園内を回り込んで行くと、泰山木の大きな白い花に出くわした。「ずいぶん大きいね。」「モクレン科ですね」とドラエモンがすぐに言う。
     「こっちが稲荷山古墳です。行きたい人はどうぞ。」隊長は階段を登るつもりはないらしい。マリーが登りたそうにしているから「じゃ、行くか」と登り始めると、なんだ、半分以上の人が一緒について来る。イトはんも登ってきた。
     稲荷山古墳は典型的な前方後円墳で、五世紀後半のもので、後円部の頂上に、遺体を発掘した跡を石で象っている。礫槨のレプリカである。本来、葬送儀礼のためには後方部から登って円墳を拝むのが正しいのだろうが、私たちは円墳に登って、方形の方は遠慮した。
     大仙陵古墳(いわゆる仁徳天皇陵)を四分の一に縮小すると、この稲荷山古墳の形になることから、それをモデルにしたものと推測されている。墳丘の長さ百二十メートル、後円部の直径六十二メートル、高さ十一・七メートル。方形の部分は沼地の干拓のため崩されていたものを復元した結果、幅七十四メートル、高さ十・七メートルになった。

     悠久の墳墓は座せり瑞穂田  午角

     旧忍川の橋を渡り、前方に塔が見えるのが古代蓮の里である。この辺から鼻水が止まらなくなってきた。左手の旧忍川には蘆が生い茂り、ギシギシと鳴くオオヨシキリの声がやかましい。私はまだヨシキリの姿を見たことがない。

     さきたまの古墳登れば行行子  閑舟

     水田の畦道を抜けて蓮の里に入る。駐車場には、五時から十四時まで有料とある。十五時以降は無料だ。「つまり午後には人がほとんど来ないってことだろう」と初めて来るスナフキンが言う。そう、蓮が見たければ午前中に来たほうが良い。
     但し時期的には一ケ月ほど早かったのではなかろうか。一番近い蓮池(世界の蓮)を一回りすると、ほとんどが蕾の状態で、その中で少しは花も咲いている。奥の方には古代蓮の池があるが、鼻が詰まって息苦しくなってきたので、ベンチで休憩する。スナフキンも二日続きの酒で眠そうだ。イトハンとカズちゃんの荷物番をしながら時間までを過ごす。古代蓮会館に入るためには四百円必要だから誰も入らない。
     売店でビールを売っていないかと探検に出たが地場の野菜が中心で、ビールなんか売っていない。「車で来る人ばかりですからね、アルコールは売らないんですよ。」この時間ではうどん屋も店を閉めてしまっている。
     ほかの人たちはちゃんと園の奥まで入って、古代蓮を見ながら散策している。途中でダンディとマリーがベンチで休憩しているところを画伯と宗匠に見られてしまったらしい。鬼子母神のときもそうだったように、ダンディは時々こういう場面を目撃されて話題を提供してくれる。

     見つめれば天女の舞か蓮の花    午角
     蓮を前に二尊となりて冷やかされ  閑舟

     三時三十七分のバスを待ちながら呆然と時間を過ごしているとダンディがやって来た。「五十分頃にバスがあったんですよ。それが美人の運転手でね。」隊長は知らなかったらしい。「時刻表に載ってないんだから。バス会社に文句言わなくちゃ」と憤慨する。せめて運転手が不美人だったら、こんなに怒らなくて済むのだ。美人運転手を見たのはダンディだけだから、隊長は悔しいのである。
     ついにティッシュペーパーがなくなり、私はスナフキン、マリー、あんみつ姫に分けて貰って鼻をかみ続ける。どうしようもないね。それにしても雨にならず(わずか五分程を除いて)、暑すぎもせず本当に良かった。これも隊長の人徳によるのである。
     少し遅れてやって来た市内循環バスは小さい。座席に座れたのは四五人であとは立っていなければならない。今朝歩いた道を逆から通るから、見覚えのある景色が次々に見えてくる。行田市駅で伯爵夫人が降り、終点のJR行田駅で残りの十四人が降りた。どこからどこまで乗っても百円である。三十分も乗ってお得だとも言えるがこれでやっていける筈がないので、観光客を目当てに行田市が助成しているのではないだろうか。この駅前も何もない。宗匠の万歩計で一万二千歩。七・五キロとしておこう。

     ドラエモンは鴻巣で降りて行った。ロダン、スナフキン、蜻蛉は電車の中ですっかり寝込んでしまってイトはんに笑われる。画伯はカラオケの会があるので大宮で別れた。私はコンビニでティッシュペーパーを大量に仕入れた。さくら水産に着いたのは五時をちょっと過ぎていて、出足が遅れて心配したが、二階はまだガラ空き状態だった。十二人参加。「歩留まりが良いですね」とロダンが喜ぶ。珍しく宗匠のテンションが上がっている。私は本調子ではなく、すぐに朦朧としてきた。二時間ほどで一人二千四百円なり。
     帰りの大宮駅で、スナフキンがカズちゃんに付き添ってスイカカードの買い方を教授して、彼女もやっと手に入れることができた。文明開化の世界に入ってきたのである。

    眞人