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    平成二十三年九月二十四日(土) 上州福島(織田氏の城下町小幡)

    投稿:   佐藤 眞人 氏     2011.10.5

     台風十五号が通り過ぎると、いきなり秋がやって来た。それまでの残暑が嘘のようで、「暑さ寒さも彼岸まで」とは、昔の人は実に良く言ったものである。
     この台風で名古屋は市内全域が水浸しになった。強風は樹木を薙ぎ倒して渋谷駅前のタクシーを直撃した。もっと早く退避していればよかったのに、判断が遅れた会社では退社が遅くなり、山手線を始め一斉に止まった首都圏の電車網の前に、帰宅難民が駅に溢れた。私たちは台風というものを少し甘く見ていたかも知れない。
     私は三時に川角を出て四時には家に着いた。中野坂上を二時頃に出たスナフキンは止まりがちな中央線を使いながら何とか帰宅した。昼頃に会社を出た宗匠は、「全く問題なかった。」ロダンは「退社指示が出たのが三時ですから」苦労したらしい。三時に退社の指示を受けた息子は、東上線が止まってしまって結局八時を過ぎて帰宅した。三月十一日に比べればまだマシだったけれど。

     鶴ヶ島を七時十七分に出て小川町には七時五十二分に着く。八高線のホームで古道マニアと一緒になって八時一分発の高崎行きに乗り換えると、すぐ目の前に隊長が座っていた。八時五十七分高崎着。上信電鉄のホームは遠い。そのホームの方からマルちゃんがやってきた。「まだ時間があるからさ。」売店にでも行くのだろうか。若旦那夫妻もいる。
     この電車はパスモもスイカも使えない。まず昔懐かしい厚紙の切符を購入する。六百六十円なり。中将によれば、この電車は関東で一番運賃の高い路線である。
     取り敢えず古道マニアと一服吸ってからホームに入る。改札で切符にスタンプを押すのも珍しいので、改札掛に持って貰ったまま写真を撮る。若旦那夫妻もやって来た。上信電鉄なんて初めて乗ったので、基礎知識を得ておかなければならない。

    明治二十八年(一八九五)に上野鉄道として設立され、一八九七年に開業し同年中に高崎~下仁田間が全通した。現存する日本の地方民鉄(大手以外の民鉄)路線のなかでは、伊予鉄道についで二番目に早く開業している。
    さらに下仁田から余地峠を越えて佐久鉄道(現:小海線)の羽黒下駅まで延伸する計画を立て、社名を上信電気鉄道に改称した。当該区間の工事と路線営業のための免許を取得したが、世界恐慌により頓挫。中込方面へのバス路線を開設しただけで(後に廃止)、鉄道の延伸は実現しなかった。(ウィキペディア「上信電鉄」より)

     なるほど上州から信州迄つなぐ積りで「上信」と名乗ったが、現実には上州内部だけに留まった路線であった。営業距離は三十三・七キロ、全線単線で二十の駅を持つ。昭和四十年に一日の輸送人員六千四百九十三人を数えたが、平成十八年には二千四百五十三人にまで落ち込んでいる。
     乗り込んで暫くすると、随分久しぶりに野薔薇先生が現れた。チロリン、クルリンもいる。しかし他の大宮経由の男性陣はどうしたのだろう。「まさか一本前に行っちゃったなんてことはないよね。」「そんな筈はないね。」「それなら欠席だろうか。」隊長と気を揉んでいると、出発間際になってドクトルを先頭に漸く乗り込んできた。「切符売り場が混雑してさ。」「乗り換え時間が短くて慌てましたよ。」これで大体そろったのだろうか。
     九時十八分発下仁田行きである。運転席の後ろにはバスのような運賃表示表があり、料金箱が設置されている。ただしお釣りは出ない。「小銭がないときはどうするんだろうか。」ドクトルの心配は無用だった。途中の駅に止まると、その都度運転士が出てきて、料金を受け取り、乗ってきた人に切符(整理券?)を渡している。運転士はなかなか忙しい。
     「あれは妙義かい、榛名かい。」ドクトルが頻りに北のほうの山を指差す。私は全くわからないので地図を見比べ、進行方向に見えるのが妙義、真っすぐ目の前に見えるのが榛名と分かった。長い旅を終えて漸く上州福島駅に辿りついたのは九時五十二分だ。
     今回は本庄小町・中将夫妻が企画してくれた。こういう機会でもないとこの電車に乗ることもなかっただろう。
     ここは遠いし、参加者は少ないのではないかと思っていたが、案に相違して十七人も集まった。リーダーの夫妻、若旦那夫妻、隊長、画伯、ヨッシー、古道マニア、ドクトル、スナフキン、宗匠、ロダン、マルちゃん、チロリン、クルリン、野薔薇先生、蜻蛉である。

     「シャトルに乗って頂戴。話は付けてあるから。」小町の声に急きたてられて甘楽町営のワゴン車に乗り込む。車を使うなんて案内にも書いていなかったから、事情がよく飲み込めない。車の腹には「歓迎・ようこそ!名水流れる城下町小幡へ」のステッカーが貼られていて、七人が無料で乗れる。十分ほどで到着したのは道の駅「甘楽町物産センター」である。小町が「話は付けてある」と言っていたのは、全員を運ぶために往復してくれるように頼んであるということだった。それでも全員が揃うまでには三往復、三十分ほどかかった。
     「ブランデーが入っているカステラ貰ったんだけど。」店の前のベンチで野薔薇先生が小さく切り分けた大きなカステラを出す。「ブランデーだからね、食べきれないのよ。」それほど甘くなさそうだから私も手を出してみた。これなら私にも食べられる。「どう、酔っぱらうかしら。」「全然。」全員が手を出すと、大きなカステラも綺麗になくなった。
     「お弁当のないひとはここで買って頂戴。」小町の声で画伯とヨッシーは桃太郎弁当なるものを買い込んだ。その間に女性陣は野菜を大量に仕入れている。「茄子がこんなに入って百二十円だって、安いわ。」「栗もあるわよ。」これから歩こうというのに、こんなに買い物をして大丈夫かと心配になるが、帰りまでここで預かって貰うことにしたらしい。私は朝飯が早かったのでなんだか腹が減ってきた。コロッケが二個で百二十円、ひとつをスナフキンに分ければちょうど良い。彼は私より一時間も早く出てきたから更に空腹を感じているだろう。画伯はソフトクリームを舐めている。

     甘楽郡甘楽町。中心は織田氏(後に松平氏)の城下町であった小幡である。戦国時代にこの辺りを領有した小幡氏は、上州八家(小幡、白倉、安中、倉賀野、桐生、 由良、山上、沼田)の一であり、管領上杉氏の四家老(長尾、大石、小幡、白倉)として山内上杉氏の重臣であった。秩父平氏児玉党であるというのが専らだが、別の説もあって定かではない。
     やがて古河公方、扇谷上杉との三つ巴の争いから、関東は実にややこしい戦乱時代に入っていく。後北条の台頭後、小幡氏は上杉を離れて後北条に従ったり武田に従ったりしたものの、最終的には小田原落城によって領地を失った。
     関ヶ原の戦いの後、織田信雄(のぶかつ)の子、織田信良を初代として小幡藩は七代続いた。信長直系の名流として、二万石の小藩ながら国主格の待遇を受けた。国主というのは別に国持ち大名とも言われるように、一国全域を領有するものである。但し陸奥国や出羽国のように一国が広大な場合、伊達、佐竹などの大藩は、国の一部を領有するだけでも例外的に国主とみなされた。小幡藩は上野国の西南部の一部を領有するだけで、本来なら無城(陣屋)あるいはせいぜい城主格である。
     しかし山県大弐事件に連座して、明和五年(一七六八)出羽高畠へ(その後、天童へ)移封され、国主格の名誉も剥奪された。家老吉田玄蕃初め多くの藩士が山県大弐の門弟になっていたのである。
     その後、小幡には上州上里美から若年寄の松平(奥平)忠恒が封じられて四代続き、そこで明治維新を迎えた。松平氏だって百年ほどは続いたのだが、誰も松平氏の城下町とは言わず、織田氏の城下町と言う。

     養蚕農家の古びた大きな二階家が並ぶ道には桜並木が続き、脇には堰が流れている。日本の名水百選という雄川堰だ。雄川から引き込んだせせらぎが町全体に通されている。生活用水なのだが水は透明で流れも速い。所々には水際に降りる石段が造られているので、ここで野菜などを洗っただろう。コンクリートではなく積み石の護岸で、おそらく江戸時代からそのままの姿だと思われる。川縁には所々に真っ赤な彼岸花が群れ咲いている。車は通るが人通りはほとんどない。静かなゆったりした町だ。

      城下町瀬音もやさし彼岸花  蜻蛉

     大手門跡。門はなくなってしまったが、町営無料休憩所の脇に大きな礎石が二つ置かれている。白壁の一軒家は富岡警察署小幡駐在所だ。
     蒟蒻畑が広がっている。葉の表面が白いのは消毒薬のせいらしい。「蒟蒻の花ってどういうのでしたか。」「色は何。」私に聞かれても分かるはずはない。しかし同じような種類だから里芋の花に似ているのではないだろうか。余り美しいとか可憐とかいうようなものではない、どちらかと言えば不気味な形状になる筈だ。
     樹木の多い脇道に入り込むと雄川堰一番口取水口があった。水量は豊かで、ヨッシーの真似をして手を入れてみるとかなり冷たい。
     中将は普通の家の庭に勝手に入っていく。良いのだろうか。「オープンガーデンです。」小澤さんという家の庭が開放されているのである。樹木にはそれぞれ名札が括り付けられ、草花の名札が地面にたてられている。薄紅色の秋海棠が目立つ。「あれは何、柚子かしら。」「大きいね。」しかし近づけばカボチャだった。カボチャの実がこんな高い所に生るのですね。一周するとかなり広い。「庭の広さを自慢してるんでしょうかね。」庭を持てない貧乏人同士が囁きあう。
     もう一度、堰に沿った道に戻る。「青面金剛でしょうか」と若旦那が呟いているが、「違うと思いますよ」と答えた。三猿も邪鬼らしきものもいない。額のあたりが風化して判別ができないが、頭の上方が細長い三角形に盛り上がっているから、馬頭観音ではないだろうか。ちょっと離れて文字庚申塔も立っている。

      水澄みて石仏の顔見つめたり  蜻蛉

     堰に沿って立つ柿が半分ほど赤くなっている。「これは食べられるよ、ケンポナシだ。」しかし隊長の言葉でそのあたりを見回しても、梨のようなものは一向に見えない。「これだよ、この枝のような。」枝の先がやや膨れて折れ曲がるように何本かに分かれ、その更に先に小さな丸い塊がついている。この丸いのが梨の実であろうか。「違うよ。その枝みたいなところを食べるんだ。」実に不思議である。「これが梨ですか。」「どういう字だろう。」それではウィキペディアのお世話になろう。

    秋に直径数ミリの果実が熟す。同時にその根元の枝が同じくらいの太さにふくらんで、ナシ(梨)のように甘くなり食べられる。

     果実の根元の枝(果柄)を食うのである。これがもっと膨らむらしい。クロウメモドキ科ケンポナシ属。玄圃梨と書く。ケンポはテンポ(手棒)の訛りと言う。膨れて枝分かれした部分が手指のように見えるということだろうか。野口英世の「テンボウ」である。
     中将は左の坂道を登って行く。「お父さん、この道でいいんかね。」小町は不安そうに中将に声をかける。「間違ったって、今日は文句を垂れる人がいませんからね。」「そうそう、大丈夫。」そして畑の中に入った。
     野薔薇先生が「これは珍しいわよ」と立ち止まったのは真っ赤なオクラである。私は初めて見た。枝も赤くて綺麗だ。赤オクラというものらしい。しかし茹でると緑になってしまうというのはちょっと残念だ。実は十五センチから二十センチにもなっていて、成長し過ぎたものかも知れない。
     畑を踏まないように慎重に歩いて漸く道に出た。どうやら中将は道を一本間違えていたらしいが、ちゃんと目的の墓地の裏に出たのである。
     織田家七代の墓所である。「朽ち果てているからアンマリ期待しないで」と小町が言うとおり、五輪塔墓の石が崩れて五輪の形が分からなくなっている。三番目のものに至っては三輪しか残っていない。私たちは裏口から入ってきたので、実は最も新しい七代目のものから見ている。
     順にたどっていくと、一番奥(正しい道を来れば本当は一番最初)に初代信雄のものがある。信雄から順番に、織田信良、信昌、信久、信就、信右、信富と続き、それぞれの後ろには正室の墓が並んでいる。そして初代から三代目まではそれほど風化もせず、綺麗なままで残っている。特に信雄のものは一段と大きくて、やや細長い立派な五輪塔である。つまり古いもの程きれいに残り、新しくなるほど風化の度合いが増してくる。

     墓石群風化もありて秋彼岸    閑舟
     歴代の墓石に鳴くやきりぎりす  午角

     「段々貧しくなって良い石材が手に入らなかったんじゃないか。」「中国の石だったりしてね。」ロダンは、全て砂岩であるが古いものほど密度が高いのだろうと推測する。私たちは石のせいにしてしまったが、実はそうではなかった。宝暦八年(一七五八)と明治四年の火災で破損したのである。
     「織田家七代の墓所」として信雄を初代としているのは、私の記憶と違うのでちょっと注意が必要だ。信長の二男信雄は元和元年(一六一五)、家康によって大和国宇陀郡三万石と上州小幡二万石を与えられた。しかし元和二年から三年にかけて、実際に小幡を領有していたのは永井直勝で、この辺の事情はよく分からない。隠居同然であった信雄(出家名常真)が遠隔地の支配を委任したものだろうか。翌年永井直勝が常陸笠間に移されると、信雄は子の信良に小幡を分地したのである。従って織田氏小幡藩としては信良を初代とする方が一般的で、小幡藩七代としては、信良から信邦まで数える。
     その信邦の墓がないのは幕府を憚ったためだろうか。信富の末期養子として家督を認められたのが明和二年で、明和四年には先にも書いた通り山県大弐の事件で蟄居(隠居)を命ぜられた、実に運の悪い藩主であった。この辺の事情もウィキペディアによって基礎的なことをメモしておこう。

    藩主となった信邦は吉田玄蕃を家老として登用し、藩政改革と財政再建を目指した。吉田は、幕政に批判的であった学者の山県大弐の門弟であり、そのほかの藩士にも門弟が多くいたが、明和三年、大弐が江戸城の攻防について兵学を論じたことから陰謀を企てていると訴えられ、翌年処刑された(明和事件)。吉田と対立関係にあった松原郡太夫らは、「吉田が山県と謀反の疑いを企てている」と信邦に讒訴、失脚をはかった。信邦は幕府に相談することなく、藩として吉田らを処分し、事件の収拾をはかった。しかし、幕府は信邦及びその家老らの対応は不適切として処分を決めた。明和四年八月二十一日幕府は信邦に蟄居すなわち強制隠居を命じ、実弟の織田信浮に家督を相続させた。同時に国主格の接遇を廃し、出羽国高畠藩に懲罰的な移封を命じた。鍛冶橋門内の江戸上屋敷も没収した。家老津田頼母・用人津田庄蔵・年寄柘源四郎は重追放、用人松原郡太夫らは追放になった。(ウィキペディア「織田信邦」より)

     「トイレは向こうです。」それならちょっと行っておこう。トイレには「東司」の額が掲げられ、「寺では厠(かわや)を東司(とおす)と言います」との説明も付けられている。これは新知識であった。
     どうやら禅宗に特有な言い方のようだ。本来は禅堂の東側にあるものを東司、西側にあるものを西浄(せいちん)と呼び、やがてそれが東司に統一されてきたらしい。そして東司に入るにも厳格な作法があって、京都東山の臨済宗大本山東福寺にある東司(重要文化財)の説明によれば、こんな風にするのである。

    まず、着ている法衣を脱いで丁寧にたたみ、黄色の土団子と水桶を持って厠に上がります。厠の前でわらじに履き替え、両足で台を踏み、うずくまって用を足します。この時、決して周りを汚したり、笑ったり、歌ったり、唾を吐いたりしてはいけません。 用が済んだら、紙かヘラで拭き、右手で水を散らさないように流して壺を洗います。 手洗い所に戻ったら、手を三度洗います。ついで、灰で三度、サイカチ(植物の葉)で一度洗い、その後改めて水や湯で手を洗います。
    http://www.good-stone.com/hp/top/naisyo/n-108.htm

     用便も重要な修行と言われれば、なかなかトイレに入ることも難しい。どんなに非常緊急の際でも、この作法を守らなければならないとすれば、かなり苦しい場面もあるに違いない。トイレで歌う人間はあまりいないだろうが、黄色の土団子は何のために必要なのかは分からない。
     小さいながらも新しくて小奇麗な本堂は小幡山崇福禅寺である。だから実はこちらが表なのだ。位牌所のガラス越しに高さ五十センチ程の位牌が並んでいるのが見える。二段になった棚の上段には右端の初代信雄に始まって六基、手前の下の段に四基、合計十基ある。ただ名札は初代から三代まで、五代、六代、九代、十代の七枚しかないのは何か理由があるのだろうか。用足しに来た人だけが見ているのは勿体ないと思っていると、結局全員がやって来た。
     左の建屋には石像が三体並べてある。この中で、真ん中の一番風化して面相も何も分からなくなってしまったのが、町指定文化財の聖観音座像であった。舟形光背に浮き彫りしたものだが、石が砂岩なので朽ち易いのである。私たちにとっては緑泥片岩のものはお馴染みで、あれならばこんなに風化することもないのではないか。
     右側のものが、光背の端がやや欠けているにしても形は一番はっきりしている。右手に剣、左手に索を持つ憤怒相である。光背も良く見れば火焔のようでもあり、不動明王だろうか。左端のものは蓮華台の上の座像だが、像は真っ黒くなっていてよく分らない。これも火災にあったためかも知れない。石の表面に黴のような斑紋が多いのは砂岩に特有なものだろうか。
     寺を出て参道の下の石段脇で中将が立ち止まったのは「下馬の碑」を見るためだ。「昭和三年ですね。」ロダンが見ているのは、目的の下馬の碑ではない。戦友会とあるから、大陸で戦死した戦友の霊を祭ったものである。「こっちですよ。」これは高さ一・五メートル、幅五十センチほどの緑泥片岩で、大きく「下馬」と彫り込んである。案内板に大きく書かれた「大荘厳域」の字がなかなか読めない。

    小幡山崇福寺参道下の「下馬」の碑(現存高一五二センチ、幅五五センチ、厚さ一二センチの緑泥片岩)は、甘楽町唯一の下乗石で、近郷でも例がない。何時、誰によって建てられたか不明であるが、江戸時代初期頃と推定されている。「下馬」の二字以外何も刻まれていないが、なかなかの見栄えである。
    往時の崇福寺の勅使門には、後醍醐天皇宸筆の「大荘厳域」という四大文字の勅額が掲げられていたという。これに対して敬意を表するために「下馬」の碑が建てられたものと思われる。
    http://www.town.kanra.gunma.jp/cgi-bin/odb-get.exe?WIT_template=AC020000&Cc=7d47070f160506d

     緑泥片岩の割には色が白っぽいのでロダンが悩んでしまう。北の空には榛名や赤城の山々がくっきりと見える。大気が澄んでいるのだ。「あれが榛名だろう。」「そうだよ、右が赤城。」山の上には、真っ青な空にぽっかりと白い雲が浮かんでいる。

     秋桜や上州の山連なりて  蜻蛉

     今日のリーダーはどんどん行ってしまうので、ちょっと立ち止まっているとすぐに先頭との間隔が空いてしまう。追い付くと、軒先で大きな栗を売っているところに皆が集まっている。五センチ程もある大きな栗だ。朝通りかかった時は、おばさんが栗を乾かすために広げていた。売ってくれるのかと誰かが訊ねて、「売ってもいいよ、だけど今は干してるところだから」と言っていたのである。私たちが戻ってくるのを期待して用意していたのだろう。
     しかし用意した以上に売れているらしい。「ごめんなさい、袋に詰めたのがなくなっちゃって。自分で詰めてね。」おばさんの言葉でクルリンと若旦那夫人が袋を手にして栗を入れ始めた。既に買い終わったマルちゃんがそれを見ていると、やにわにその袋をひったくって秤に載せる。「えっ、何。」呆然とするマルちゃんの代わりに「これはもう買ったものだから」と私が口を出す。「そうでしたか。」「何されるかと思ったわよ。」こんな特需に出会うとはおばさんも想定していなかったから、忙しさに動揺しているのだ。
     「この大きなのは何分位茹でれば良いのかしら。」若旦那夫人が訊ねても「分からないです」としか返ってこない。「道の駅でも買ったんですよ」と若旦那は苦笑いをしている。どれほどの量の栗を買っていくのだろうか。
     運動公園に入って昼食だ。まずヨッシーが今朝買った桃太郎弁当なるものを披露する。名前の由来は分らない。「雉飯なのよ。」炊き込みご飯が雉を炊き込んでいるらしい。雉がいれば、桃太郎として充分な要件を満たすのだろうか。
     今日は特に女性陣からの差し入れが多い。小町からは茹でた落花生が提供された。チロリンからは枝豆。そのほかにも飴、煎餅、つまみのピーナッツ、サキイカなど、これなら弁当を少し控えても良かった。「余ったおつまみは、どうしようか。」「ロダンがリュックにしまってよ。」もしかしたら帰りの電車で飲むかもしれないからね。
     十二時四十五分、里山初参加のヨッシーの紹介を終えて出発する。喰い違い郭がある。入り口の石垣だけ残されていて、先は通り抜け禁止だ。当然防衛上の見地から造られたものだろうが、下級武士が上級武士と出会うのを避けて隠れるためにも使われたと言う。石垣は大小さまざまな板状のものを組み合わせて、差し込むように重ねてある。
     「あれは中学校だよ。」コンクリートの建物の周囲には武家屋敷さながらの塀が続いていて、小町に教えられなければ中学校とは気づかない。石垣の上に載る長い塀は、下半分は黒の下見張り板、その上に白の漆喰を塗り、瓦屋根を載せたものだ。地域の歴史景観に配慮しているのである。この学校の卒業生は結構自慢できるのではないだろうか。
     「ところで、これって何だい。」さっきから気になっていたのだが、あちこちに黒い箱が設置してあるのだ。「百葉箱だろう」とスナフキンは簡単に言う。確かに百葉箱に似ていないでもないが、黒塗りのものなんか見たことがない。「違うわよ、消火設備を入れてあるの。」小町の言葉でスナフキンが鍵をあけると、ホースがきれいに畳んで収納されていた。町中に水が流れていて、更にあちこちにこのホースがあれば火事のときには大いに威力を発揮するだろう。
     御殿前通りを突き当ると楽山園だ。真新しい白木の門が目を引く。柱はかなり太く、しかも貼り合わせたものではなく、一本の木材で作っているのではないか。ここは小幡藩の陣屋と庭園跡である。ただ、小幡藩の場合は武家屋敷地区も含めて町全体を陣屋として縄張りしていたようで、その中心の領主御殿がここにあったということらしい。

    楽山園は群馬県甘楽町小幡にある大名庭園。築庭は織田信長の次男である織田信雄。名の由来は『論語』の「智者は水を楽しみ、仁者は山を楽しむ」の一文から採ったものである。国の名勝で群馬県では初の名勝指定庭園である。
    江戸時代初期の池泉回遊式庭園である。広い昆明池の周りに四十八のいろは石を配し、熊倉山と紅葉山を借景として取り込んでいる。現在は江戸時代当初の姿への復元へ向けて整備事業が行われている最中であり、暫定開園中。周辺は発掘事業も盛んである(工事竣工は平成二十四年の予定)。(ウィキペディア「楽山園」より)

     無学なもので、「知者楽水、仁者楽山」の意味が分からない。山を楽しむ桃太郎が仁者であることは間違いないが、知者が水を楽しむのはどういう訳だろうか。

    「水」とは河です。「不尽の長江、滾々として来る」(杜甫)にあるように、一日として休むことなく流れていています。知者の頭もこのように、次々と知恵が湧き出て尽きる事がありません。その進退も世の中の動きの応じて自在に変化します。
    これに対して、「山」は「動かざる事山の如し」(孫子)で、動かない物の形容です。仁者もまた世の中の動きに超然して、自分の内面世界を守り、いささかも動きません。
    http://www.gld.mmtr.or.jp/~sumiyosi/tetugaku(jinsei)20.htm

     そんなものですか。ところで築園したのが信雄だというのはすぐに信じる訳にはいかない。築造者については資料によって異なっていて、信良、あるいはその息子である信昌だったかも知れないからだ。信雄は実際には京都に留まって鷹狩りと茶の湯に明け暮れたという説もあり、小幡には来ていないのではないか。信良もまた福島の陣屋を根拠にしていて寛永三年(一六二八)四十三歳で没している。それなら、下記の甘楽町教育課による記事が最も信憑性が高いように思える。信昌によって築かれたとする説である。

    (信良の死後)嫡男信昌が二歳で相続したが、信雄の命により、信雄の四男織田出雲守高長が後見役となった。三代信昌は寛永六年(一六二九)に福島から小幡への移転を決め、場所見立て、地割・御用水割・水道見立てを行い、十三年後の寛永十九年(一六四二)に普請を完了して小幡陣屋に移転し、小幡陣屋は小幡藩の中心となった。陣屋屋敷に南面して楽山園と呼ばれる庭園が造営された。
    http://www.town.kanra.gunma.jp/cgi-bin/odb-get.exe?WIT_template=AC020000&WIT_oid=icityv2::Contents::1081

     陣屋(御殿)と全く別の場所に、わざわざ庭園だけを築くとは思えない。だから実際に小幡陣屋を根拠にした信昌によって造園されたと考えるのが自然ではあるまいか。しかし、記事はあくまでも中立を守って、次のように異説もちゃんと記している。

    楽山園の造営年代・造営主については不明な点が多いが、『楽山園由来記』では元和七年(一六二一)に織田信雄が造営したと伝えられている。この由来記が正しいとすれば、最初に信雄によって作庭が行われ、お茶屋が営まれた後、藩邸として再構成された可能性がある。庭園の構成から考えると、藩邸ができる前から、庭とともに別荘的な建物が存在したと考えられる。
    また、藩邸造営時に庭園が造られた可能性も否定できない。この場合、三代信昌の後見人である高長の存在が大きかったものと考えられ、その差配のもと、庭園が造られたと考えられる。

     いずれにしろ「不明な点が多い」庭園である。十年計画で復元工事が行われ、来年完成する予定だ。門が真新しいのはそのためだ。受付で「ビデオがありますから見ていってください」と言われ、門を潜って茅葺の九間長屋に入りこむ。「靴のままでいいんですか。」「はい、そのままでお入りください。」木の床がきれいに磨かれているのでなんだか気が引ける。ビデオは十五分程で小幡の見どころを簡単に紹介してくれる。ロダンはすっかり眠りこんでしまったようだ。
     外に出れば、釣瓶井戸には二本脚の屋根がついている。底を覗きこんでみるとかなり深い。忠実に再現するのが目的の筈だから、この場所にちゃんと井戸があったのだろう。井戸は敷地内に三つ確認できた。
     ところどころに、地面をきれいに区切って舗装してあるのは、かつての建物の跡である。ここに建物が復元されれば嬉しい。御殿部分から芝生の敷き詰められた庭園に向かい、心字池を巡って歩く。「回転寿司じゃないから、自分たちで回転しなくちゃいけないのね。」それが回遊式庭園なのだが、野薔薇先生は面白い発言をする。
     小高い丘の上の四阿には畳が敷いてあり、子供連れの先客がのんびりしている。私たちが入っていくと恐れをなしたか、外に出て下に降りてしまった。縁側に座り込んで空を眺める。「トビじゃないの。」「二羽いるわ。」鳶は珍しいものだろうか。ゆっくり飛んでいる。眺めているともう一羽の姿も確認できた。

     秋近し楽山園に鳶が舞う     午角

     ゆっくり休んで下に降りて行くと、少し下にある四阿の茅葺の方形屋根のてっぺんには土甕がかぶせられていた。「面白いね。」雨を防ぐ工夫だろうか。

     楽山園を出る。矢羽根橋分水路には、一メートルから一・五メートル程の石の板三枚の橋がかけられている。破魔矢を意味し、陣屋の鬼門を守るという。芙蓉が咲き、少し行けばムクゲも咲いている。ムクゲは韓国の国花だと隊長が説明しているが、これもすっかりお馴染みになってしまった。私は「俳句では底紅っていうんだ」とスナフキンに教える。千宗旦が好んだので、宗旦槿とも言う筈だ。

     底紅や鬼門を守る石の橋  蜻蛉

     「お父さん、どっちを通るのよ。」自分のイメージと違う道を中将が歩くと、小町は心配になってくるらしい。狭い町で、この辺りならどう通っても目的地に着くだろう。
     「お父さん」が連れて行ってくれたのは武家屋敷松浦家だ。茅葺屋根にトタンがかぶせてあるのは、復旧のための予算がとれないための応急措置らしい。茅葺の復旧には四千万円もかかるらしいのだ。建物自体もかなり老朽化が目立つ。織田氏時代の武家屋敷を観光の目玉にしているのだから、甘楽町としてはもう少し対策を立てる必要がある。
     しかし庭には水を引いて小さな滝も作ってある。さっきのビデオでみた高さ十センチばかりの「蓬莱の滝」とはこれであろう。「池の前方にある五葉松は宝船に形どられて」いると説明されているのだが、あれが宝船に見えるだろうか。庭は良く手入れされている。
     家自体はそれほど大きくはないが、庭を作っているのはかなり裕福な武士だっただろうか。
     片隅にはボケの実が生っている。「そう、これがボケなの。カリンかと思ったわ。」スナフキンは家にボケがあるので詳しいらしい。若旦那夫人が旦那に「ボケですって」と教えている。
     野薔薇夫人に教えられて棗の実を口にしてみる。「皮を剥くのよ。」まだ熟れていないから皮を剥くのも難しい。噛んでみるとぼそぼそとした食感だ。「もっと茶色にならなくちゃいけないのよ」とクルリンも言っている。それでもなんとなく林檎のような味がした。

     荒れ果てし武家の屋敷の棗かな  蜻蛉

     もう一度御殿前通りに出ると角の家が「大奥」である。人が現に住んでいる門の内部に案内の立て札が立っていて、そっと門内に入って読まなければならない。ペリー来航時、大奥の女官十五六人を避難させた家である。「わらわの部屋はどこかの。」庭まで入り込むのは気がひけたので、すぐに退散したが、こんな庭である。

    庭園は敷地南部に位置し、南・西側の石垣、北は主屋で囲まれている。小堰は、直角に折れ東側隣地境を流れている。池は中央にあり、瓢箪形をしている。滝口は南端にある。石垣沿いに築山が築かれ、高さは池の石組より一メートルをこえる。門付近はサルスベリ、ツバキ、石垣隅部はアオザリが植えられている。池の南にはサルスベリ、隣地境にはサルスベリ、モミジ等が、池の周辺はツツジが植えられている。門から主屋へのアプローチは、現在は埋められているが、第二次大戦頃迄は、池があったため、門から石橋を渡り玄関に入ったと伝えられている。
    http://www.town.kanra.gunma.jp/cgi-bin/odb-get.exe?WIT_template=AC020000&Cc=7da511103820232

     中小路と呼ばれる通りに出る。石垣には不思議な黒い石が紛れ込んでいて、不思議だ。「ドクトル、ちょっと来て頂戴。」ロダンもそばにいるのだが、小町はドクトルの意見のほうを信用するらしい。しかしドクトルもロダンも見たことがないようだ。周囲の石と明らかに異なる黒に、菊のような斑紋が浮き出ている。
     白壁の塀が続くのは高橋家。元勘定奉行の役宅である。黒板の上部が白い漆喰で塗り込められていて、松浦家よりは相当規模が大きい。松浦家や大奥と同じように、この庭にも堰で水を引いている。貴重な生活用水であるはずの小堰が、屋敷にまで引いているのには驚かされる。「蓬莱の滝はこっちだよ。説明に書いてある。」「そうだろう、おかしいと思ったよ。」「どっちにしても大したことないな。」叢の中を覗き込むと落差十センチの小さな滝が何とか見える。水の音がよく反響するように、石の組み方に工夫を凝らしているのだそうだ。

     天高し堰の瀬音の武家屋敷  閑舟

     自転車で通るジャージ姿の中学生は、必ずと言ってよいほど「こんにちは」と声をかけてくる。田舎の子供は躾が良い。それにしても、この中学生たちのほかには、そして観光客らしい二三人を除いて、歩いている人にほとんど遭わないのは何故だろう。人が住んでいない筈はない。人口推移をみると平成十年の一万五千九十四人をピークに漸減傾向にあるが、甘楽町にはおよそ一万四千人の住民がいる筈なのだ。
     裏門橋で見る雄川はかなりの水量で流れている。ちょっと上流側に、三四メートルほどの高さから水が音を立てて落ち込んでくる。
     ここからは川に沿って「せせらぎの路」という遊歩道を歩く。これを真っすぐ行けば朝の道の駅に辿り着く。

     清流のながるる小幡の町外れ   午角

     また道の駅に戻ってきた。珍しくスナフキンがアイスクリームを買って食べ始めた。大量に買い物をした女性陣は、預けてあった荷物とさっきの栗をリュックに詰め直している。マルちゃんやチロリンのリュックはハチ切れそうだ。相当重いに違いないから、彼女たちはシャトルワゴンを待つことになった。
     シャトルが車で十分ほどあるが、それ以外は歩いて駅に向かうことにして、ここで中将から解散宣言が出された。落ち着いた良い町で嬉しい企画だった。中将と小町には御礼申し上げたい。
     養蚕農家の二階家を見ながら行けば、葬礼橋と名付けられた橋がある。雄川堰には、両側の家々の通行のために十二の石橋が架けられていた。東側の家々に不幸があった場合、その葬列は必ず葬礼橋と言われるこの石橋を渡って、西側へ出て通行しなければならなかった。八幡神社の参道を横切ることを避けたためだという。
     道端に井戸が設けられているのは防火用水である。

    昔、この地に織田の殿さまが着任された頃、この地域の人々は皆水利に苦慮しておりました。殿さまは早速城内に「二つの井戸」と城外に「三つの井戸」を掘ったそうです。この井戸もその時に造られた井戸の一つです。(「井戸のはなし」より)

     「やっぱり三つの井戸ですよ。さっきの楽山園に三つありました。」ロダンは勘違いしている。三つの井戸は城外にあったのである。
     割に新しい、分厚い扉を持つ立派な門構えの家が並んでいるのが不思議だ。門だけでもかなりの金額になるだろう。覗きこめばそれぞれ広い敷地を抱えた家だ。「だけど、立派なのは表側だけじゃないか」とスナフキンは悪いことを言う。表面を飾るだけでも金はかかるのである。「こういう家は、何で儲けているんだろうか。」これがドクトルの疑問であり、私の疑問でもある。

    この地では江戸中期より養蚕業が行われ、大いに発展を見ていたが、安政六年(一八五九)の横浜開港以後、急速に蚕糸業が発達し、明治期がピークであった。士族も蚕糸業を営み組合を結成し、製糸工場へと発展した。明治四十二年、小幡村では全戸数七百七十五戸のうち、生糸生産戸数は六百戸、絹生産戸数七十五戸であって殆どの家で蚕糸業を行っていたようだ。http://matinami.o.oo7.jp/kanto1/kanra-kohata.htm

     最盛期に村の七割が生糸を生産していたのは、四キロばかりのところに富岡製糸工場があるためだ。かつては町を潤す重要産業だったことは分る。しかしそれは最盛期の話であり、日本の養蚕業は現在では壊滅状況に陥っているのではないか。ちょっと歩いただけだが、農業のほかに見るべき産業はなさそうではないか。
     甘楽町の税収は落ち込む一方で財政的には苦しいが、決算状況をみるとここ数年、支出が削減され状態は改善しているようだ。しかしそれでも、城下町再生に向ける予算はかなり取っているように見える。個人の家がどこから金を引き出して門を作っているのか気になるし、町が観光予算をどう捻出しているのかも実に不思議だ。

     上りの電車は三時五十四分だ。二十分ほど余裕をもって到着すると、駅では若旦那夫人が待っていた。野薔薇先生、チロリン、クルリンは前の電車に間に合ったのだが、なにしろ若旦那が歩いているから夫人は帰れない。ロダンと宗匠が万歩計を確認しあった結果、解散した道の駅までが七・五キロ、それに駅までの道のりが二・五キロだと言う。「二・五キロ、もっとあるよ。」下り加減の道を普通に歩いて四十分近くかかっているし、地図と比べあわせても、あそこから駅までは三キロ以上はありそうに思える。従って私の独断で出した本日の歩行距離は十一キロである。
     窓口で例の切符を購入し、ホームの方が風通しがよさそうなので少し早めに移動する。ちょうど入って来た下り電車は、『銀河鉄道999』のイラストを描いたラッピング車両だった。車内を覗き込んだスナフキンが、「こっちにもある」というので天井を見ると、宇宙の中に鉄郎やメーテルがいる。
     つい最近、小田急電鉄の「ドラエモン電車」(車両全体に藤子・F・不二雄の絵が描かれている)は、東京都条例の規制で「広告」であると判断されて撤去しなければならなくなった。小田急電鉄は広告とは思わず独自に企画したのだが、東京都によれば、「一定のイメージを伝達するものはすべて広告にあたる」のである。アホではないか。
     ここは東京都ではないから問題ないのだろう。ただ、『銀河鉄道999』と上信電鉄の関係はなんだろう。松本零士は九州出身の筈で、上信電鉄とは縁がありそうにもない。実は上信電鉄は利用客の減少で危機的な状況にある。新駅設置の可能性を質問した住民に対して、平成二十一年二月に高崎市はこんな回答をしている。

    現在、上信電鉄は赤字経営が続いており、会社単独の経営再建が大変難しい状況です。平成十一年度から、国・県・沿線市町村による公的支援(鉄道事業部門への補助)を行っていますが、今後もこの公的支援を継続して行かなければ、上信電鉄の経営再建はままならない状況です。
    http://www.city.takasaki.gunma.jp/koe/miru/0902/0902-02.htm

     だから新しい駅なんてとんでもないというのが回答の趣旨である。それでも鉄道は守らなければならないと、周辺市町村住民が支援のための実行委員会を立ち上げて企画し、松本零士が協力したのである。しかし『銀河鉄道999』の原作が完結したのは昭和五十六年、アニメや映画になってからもすでに十年以上経っている筈だ。それでもまだ一般的に愛好者が多いのだろうか。
     実は私は『銀河鉄道999』や『宇宙戦艦ヤマト』には余り関心がなかった。私にとって、松本零士はあくまでも『男おいどん』の作者である。無様な青年のみっともなくて滑稽な所業を描きながら、なお哀切とも言うべき共感が込められていた。松本の初期の戦記物でも、無名の兵士の無残な死への満腔の同情が溢れていなかったか。戦闘機や戦車、銃器に至るまで、メカニックなものに対するフェティシズムは最初からあったが、あの頃の作品はセンチメンタルではあっても、一切のヒロイズムと無縁であったように思う。ところが『ヤマト』に満ち満ちたヒロイズムはどうだろう。何か危険な匂いを感じてしまうのだ。『銀河鉄道』だって、鉄郎はヒーローになってしまう。初期松本零士の愛読者にとっては縁の遠い世界になってしまった。
     このとき電車のドアがいきなり閉じたので驚いた。「首を差し込んでなくてよかったよ。」スナフキンは、ここで上り電車との待ち合わせをすると思いこんでいたのだ。「まだ十分もある。」「だって単線だからさ。」下り電車が出発して、やがて上り電車もやってきた。二両しかない電車で乗客も結構乗っているが、何とか全員が座ることができた。
     高崎に着いたのは四時三十分で、上りの高崎線快速列車は四時三十八分発だ。急がなければならない。宗匠は高崎で友人と会う、古道マニアは朝と同じく八高線を経由するというのでここでお別れだ。ロダンは愛妻のために、小町に教えられた土産を高崎で買うつもりだったのに、とてもそんな時間はない。「だから早めに買っておけば良かったのに。」「大宮で買ったらどうだい。」「そんな。正直に、時間がなかったって言いますよ。」愛妻は許してくれるであろうか。

     アリバイの土産のなくて秋の暮れ  閑舟

     JRの改札を通って階段下のホームに降りると、ちょうど電車が到着したところだ。グッドタイミング。大宮着五時三十分。ヨッシーは所要があるとそのまま電車に残り、反省するものは六人と決まった。
     改札を出て駅から出ると隊長の姿がない。「確かにホームに降りたよね。」「たぶん、パスモのチャージがなくなって精算しているんですよ。」「ちょっと見てきますから、先に行っててください。」ロダンの言葉に甘えて四人はさくら水産に入りこむ。座り込んだところに、ちょうど隊長とロダンも現れた。
     久しぶりに男だけの反省会になって、女性には聞かせたくない話題も出る。それに、如何に妻を愛しているかという、いつものロダンの話題で盛り上がる。それにしても途中で入ってきた学生三十人程の団体がやかましい。友人から掛かってきた携帯電話の声がまるで聞こえない。トイレに立つと、中で嘔吐している音もする。子供の癖に生意気に酒を飲むからいけない。余りにも喧しいので教育的指導をして席に戻ると、「怖い」とロダンが笑う。学生たちはちょっとの間静かになったが、五分もすると元の木阿弥だ。本日ひとり二千円なり。

    眞人