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    平成二十三年十月二十二日(土) 関宿

    投稿:   佐藤 眞人 氏     2011.10.28

     旧暦九月二十二日。いつの間にか季節はもう晩秋に入った。ついこの間まで残暑にうんざりしていたのに、時の変化は早い。明け方までは降っていたようだが、家を出る時には雨は止んでいた。(四日後の十月二十六日、関東には木枯し一号が吹いた。)
     今回の里山ワンダリングはチイさんが企画した。集合場所は東部伊勢崎線の東武動物公園駅で、私はこの駅と関宿との位置関係が今一つ飲み込めていない。駅からはバスに乗ることになっているので、関宿には鉄道が通っていないのだろう。水運で栄えた町も、舟運の時代が去って鉄道からも見放されてしまえば、繁栄を取り戻すのは難しい。
     「セキジュク」と読めば東海道四十七番目の宿場(三重県亀山市)になってしまう。私たちがこれから向かうのは「セキヤド」である。

    関宿藩(せきやどはん)は、下総国(現在の千葉県野田市関宿三軒家(旧東葛飾郡関宿町久世曲輪))に存在した藩。藩庁は関宿城。
    利根川と江戸川の分岐点にあたり利根川水運の要衝であることから、江戸幕府にとっては重要拠点だった。そのため江戸期においては信頼の厚い譜代諸侯がその藩主に任じられた。(ウィキペデイァ「関宿藩」)

     鶴ヶ島を七時五十八分発の東上線に乗り、八時十分の川越線で大宮に出た。八時四十二分の東武野田線には誰かがいるだろうと車両を見回してみたが、仲間の姿は見えないようだ。おそらく大半の人は武蔵野線の南越谷経由で東武伊勢崎線に乗っているのだろう。それでも春日部で伊勢崎線に乗り換えるために階段を上ったところで、ダンディの後ろ姿が見えてほっとした。先日イタリア旅行を終えたばかりだから、イタリアの帽子かと思えば、何故かその正面にはオーストラリアの国旗が描かれている。
     ホームには待っている人が多いので、何となく二人で雑談している間に停車していた電車は行ってしまった。これに乗って九時十二分に着く積りだったのだ。次にやって来たのは特急で、更に十分ほど待って区間準急に乗り、予定より少し遅れて動物公園駅に着いた。同じ東武線でも東上線には「区間準急」という概念がないので戸惑ってしまう。

     予報が雨のせいもあるのだろう、今日の参加者は少ない。「女性は二人だけかしら」と小町とあんみつ姫が心配そうにしていたが、最後にやってきたイトはんを加えて女性は三人、総勢で十三人になった。チイさん、隊長、ハコさん、宗匠、ロダン、中将・小町夫妻、スナフキン、ダンディ、ドクトル、あんみつ姫、イトはん、蜻蛉である。
     チイさんは改めて地図入りの資料を配ってくれる。紅葉や小さな葉が貼り付けられていて洒落ている。この人のやることは全てに手が込んでいる。頭が下がるが、「次に続く者がやりにくい」という声も出てしまう。簡単に真似できることではない。
     スナフキンは駅構内のコンビニでティッシュペーパーを買っている。「鼻水が止まらないんだよ。」行田に行った時の自分の体調を思い出した。「私も昨日そうだった。大雨の予報だから欠席のメールを出そうと思ってたのに」と言う宗匠も鼻声だ。「だけど、メールを出そうと思った途端、雨でも実施するってチイさんのメールが入ってしまった。先手を取られちゃったよ。」風邪が流行っている。職場でも誰かがマスクをしている姿を見ることが多くなった。
     全員が揃ったところで、ちょうど九時五十分発の境車庫行き朝日バスがやって来た。他の乗客は少ないからみんな座れる。初めての町で、チイさんの地図で確認しようとしても、駅の位置は地図の左端から大きく外れていて、やはり位置関係が分からない。暫く行って漸く地図の左下の端にある地名が現れた。幸手市下吉羽。少し北側には中川沿いに工業団地が広がっているらしい。
     「だってね、途中で止まってしまって全然動かないの。どうしようかと思ったわよ。」ギリギリに駆け込んできたイトはんは、まだ興奮が冷めずにいる。「私は四十分までに着かなくちゃいけないんです。どうしたらいいですかって、駅員さんに訊いちゃったのよ。」たぶん区間準急か各駅停車に乗っていたのだろう。隣のホームの電車なら間に合うと教えられて、漸くギリギリに間に合ったようだ。
     やがて関宿橋で江戸川を越え千葉県野田市に入る。この辺りでロダンが関宿江戸町の表示を見つけた。「江戸町って、銀座みたいなものでしょうかね。」確かに銀座を名乗る商店街は全国にいくらでもあるだろう。しかし江戸町となると、そんなに多くはないのではないか。関宿は江戸と下総、常陸、下野を結ぶ要衝である。それが江戸町の由来ではないかと私は考えた。あるいは、ここから江戸川が始まると言う意味を込めているのかも知れない。どちらにしても舟運の中心で、河岸があって賑わった場所だったと想像される。
     十時十五分、関宿台町の停留所に着くと、そこが鈴木貫太郎記念館の前だった。乗車時間二十五分で運賃は四百六十円なり。千葉県野田市関宿町一二七三。
     曇ってはいても雨は大丈夫そうだ。ここでチイさんからクイズが出された。趣向を凝らす人である。封筒を手にして、「答えはここに入っています」と笑う。何だろう。「正解した人には、私が今作っている干し柿を、一ヶ月後にプレゼントします。」問題が何か知らないが、私はクイズが苦手だから当てられとは思えない。
     さて出題はこうである。「今日のコースには、いつもの里山ワンダリングと決定的に違うところがあります。一日歩いて、それが何か考えてください。正解は最後に。」

     記念館の敷地には裏口から入ったことになるようだ。植物園にでも入るような樹木の間を抜けると、片隅には苔生した石碑が建てられていて、題字は「以和為貴」と読めた。「それって聖徳太子じゃないですか。」ロダンがすぐに反応する。太平洋戦争の終結を決断した鈴木貫太郎に因むのだろうと簡単に判断したが、実は少し違っていた。碑文からは、「関宿町酪農組合」の他に「爾後の進展向上は一に元首相故鈴木貫太郎」「翁の遺訓正直」などの文字が辛うじて判読できる。つまり、終戦処理を終えて公職を辞した貫太郎は故郷の関宿に隠棲し、見るべき産業のない関宿に酪農を奨励したのである。それが関宿の酪農業の始まりであった。現在でも専業酪農家は三十戸あるそうだ。つまり、関宿の酪農組合が鈴木貫太郎の功を称えて建設した碑であった。
     玄関前の池には大きな塔が聳え、「為萬世開太平」と大きく書かれている。終戦の詔勅から採られた句だ。「何て読むんだい。」万世のために太平を開くだろう。詔勅の原案は内閣書記官長迫水久常、起草は漢学者川田瑞穂、最終案に安岡正篤の加筆があって天皇が裁可した。ついでだから詔勅の全文を書き写しておきたいが、それでなくても長い作文が更に長くなってしまう。「耐ヘ難キヲ耐ヘ忍ヒ難キヲ忍ヒ以テ万世ノ為ニ太平ヲ開カムト欲ス」の部分だけを参照すれば話は済む。
     大きな横長の御影石に「終戦内閣総理大臣 鈴木貫太郎記念館」と彫った文字は、迫水久常による。「迫水って部下でしたね。」「内閣書記官長だよ。」

     玉音の御心いづこ暮の秋  閑舟

     「鈴木貫太郎は泉州堺の生まれです。」上方のことになればダンディは知らないことがない。「久世村と言えば分るでしょう。久世藩の飛び地があったんですよ。」
     貫太郎は慶応三年(一八六七)十二月二十四日、関宿藩士鈴木由哲の長男として泉州大鳥郡久世村伏尾の関宿藩陣屋で生まれた。しかし三年で本籍地である関宿に移っているから、上方の影響はほとんどなかったと思われる。「飛び地に飛ばされたんだから、父親は下っ端の武士だったんでしょうね。」ダンディが笑いながら「調べてみてください」と言う。言われる通り調べてみると、実はそうではなかった。

    鈴木の家は三河の渥美郡の出で、大名にこそなっていないが、旗本や譜代大名の家臣として多数を占めており、古くからの徳川の家臣である。
    久世家関宿藩五万八千石の家老(一万石)で、砲術指南を務めた。鳥羽・伏見の戦いにも従軍した(関宿藩は上野戦争でも正確無比な砲撃で新政府軍を撃退した実績あり)。
    久世家は関宿のほかにも和泉国にも領地があり、由哲はそこの代官を務めたことがあり、長男・鈴木貫太郎はその時生まれている。(ウィキペディア「鈴木由哲」より)

     この記事にはいろいろ疑問が多い。まず、「関宿藩は上野戦争でも正確無比な砲撃で新政府軍を撃退した実績あり」としているのは、ちょっと注意が必要だ。上野戦争で活躍したのは、関宿藩から脱走した百名程だったようで、それを「関宿藩」と称して良いのかどうか。藩内が勤皇佐幕の両論に分裂し、幼少の藩主広文の争奪戦となった結果、佐幕派が藩主を擁して脱走し、上野の彰義隊に合流したらしい。(野田市立図書館「野田の戊辰戦争」より)
     それは別にして、一万石なら大名並みではないか。ただ、あちこち探してみたが、鈴木由哲の禄高を一万石とする典拠は見当たらない。堺の飛び地が八千石から一万石に相当したらしいから、これと混同している可能性があるのではないか。仮に知行地として与えられたのであれば、「代官」とは言わない筈だ。
     また、家老が砲術指南役をしたというのも、普通には考えられない。今のところ、この記事は疑問符付きで紹介しておく。(但しこの記事をそのまま転用しているサイトは多い。ウィィペディアがいかに利用されているかと言う証拠にもなる。)
     飛び地と言っても堺の一万石ならば、関宿藩にとっては経済的にも重要な場所だった筈で、家老クラスでなければその代官職は務まらなかったのかも知れない。その由哲は晩年に関宿町長を務めているから、単なる下級武士ではない。
     貫太郎が慶応三年生まれなら、漱石や子規、紅葉、露伴、緑雨と同年になる。「七人のつむじ曲がりって言うんですよね。」私は読んでいないが、姫の言うのは坪内祐三『慶応三年生まれ七人の旋毛曲り』だったようだ。不思議なものを読んでいるのですね。七人の中で私が数え漏れていたのは宮武外骨と南方熊楠であった。熊楠が東大予備門で漱石や子規と同級だったのは知っていた筈だったが、外骨も同年だとはこれまで気づかなかった。その奇人外骨が八十八歳の長寿を保ち、貫太郎はそれに次ぐ長命である。
     館内には遺品の他に「最後の御前会議」の絵(白川一郎)などが展示されている。「海兵時代の成績表があるんですよ」と、以前ここを見学したことのある姫が教えてくれる。その言葉で、ロダンがショーケースを覗き込んで「どの辺ですかね」と真剣に探し始めた。海兵十四期四十四人の試験結果が成績順に並べられているのだ。「アッ、ここにありました。十三番ですね。」十三番ではエリートではない。しかしこの十四期で大将になったのは鈴木貫太郎ひとりだけだ。その他に中将には岩村俊武、小笠原長生など七人、少将に九人が到達している。
     鈴木貫太郎は二・二六事件で襲撃されながら生き延びた。安藤輝三大尉に率いられた襲撃隊によって、至近距離から四発の銃弾を浴びせられたのである。血まみれになった貫太郎に止めを刺そうとする兵を鈴木夫人が制止し、安藤も敬礼して引き揚げた。指揮官が安藤でなければ間違いなく死んでいた。
     ルーズベルト大統領の死に当たって、同盟通信を通じて哀悼の意を表したと言うことを私は初めて知った。もっと知られて良い事実ではないだろうか。

     一九四五年四月十一日、連合軍がナチスドイツを東西からベルリンに追い詰め、ヒトラーの命運も尽きかけたころ、米国大統領ルーズベルトが病死しました。
     その直前の四月七日に日本の首相に就任したばかりの鈴木貫太郎は、同盟通信社の古野伊之助を呼び、アメリカ国民に対する弔電の発信を依頼しております。
     その内容は国内には公表されず、古野の独断で英文により世界に発信されました。
     その要旨。
     「今日の戦争においてアメリカが優勢であるのは、ルーズベルト大統領の指導力がきわめて優れているからです。―――その偉大な大統領を今日失ったのですから、アメリカ国民にとっては非常な悲しみであり、痛手でありましょう。―――ここに私は深甚なる弔意をアメリカ国民に申し上げる次第です」
     http://yukishin.thyme.jp/tsuiroku1.html

     これまで鈴木貫太郎については余り関心がなかったが、もう少し調べてみたくなる人物だ。終戦工作を巡るあれやこれやについても書きたいことはいくらでもあるが、それではいつまで経っても記念館から出られない。高木惣吉『自伝的日本海軍始末記』、細川護貞『細川日記』などが、その工作に関わった人物の証言として面白いとだけ言っておこう。
     見学の途中から降り出した雨がやや本降りになってきた。用意周到なひとたちは、カッパ、オーバーパンツ、スパッツを身につける。「私は赤頭巾ちゃんになっちゃうよ」と小町は水玉模様の真っ赤なポンチョを身に付けた。チイさん、ロダンも真新しい上下のカッパを着込んでいるので、私も五百三十円で買ったカッパをリュックから引っ張り出した。「安いじゃないか、そうは見えない」と言う人もいれば、「質屋で買ったんじゃないの」「五百三十円って聞けば、そういう風に見えてくる」と言う人もいる。

     時雨るや真赤なマントを翻し  蜻蛉

     次は光岳寺だ。浄土宗天機山傳通院。野田市関宿台町二九四六。慶長七年(一六〇二)、関宿藩初代藩主である松平康元によって、母於大の方の供養のために建てられた。松平康元は久松俊勝と於大の間に生まれ、家康にとっては異父弟にあたる。
     参道に入る手前には、如意輪観音を載せた十九夜供養塔(願主 女講中二十八人)、文字だけの二十三夜塔、その他正体の分からない石碑が二列に並んでいる。後列に立つ舟形の青面金剛には三猿も邪鬼もいない。
     門を入り、参道を正面に突き当たったところに大きな地蔵が鎮座している。参道の周囲には櫓田(ひつじだ)や畑が広がっている。

    光岳寺の地蔵菩薩(唐金製 御丈七尺 石台二重高さ六尺 重量五十貫目)は、慶長丁酉年 松平因幡守(徳川家康の異父弟で松平康元)により母於大の方の菩提を弔う為に建立され、於大の方の歯骨も葬られています。又古来より延命子育地蔵尊として多くの方より信仰されてまいりました。

     丈六地蔵かと思ったが違っていた。座像七尺ならば、立てばその二倍の一丈四尺となり、丈六よりはちょっと小さい、中途半端なサイズだ。昭和二十年四月に供出され、戦後になって首が切断された姿で見つかり鉄材で修復した。私に信仰心はないが、人々の思いが込められたものが無神経に破壊されてしまうとなると、やはり悔しいような気がしてくる。更に腐食が進んだため、昭和六十一年に再度修復がなされ、現在見るようなものになった。

     艱難の地蔵見上ぐる初時雨  蜻蛉

     ここから右に曲がって、真っすぐ行った突き当たりが山門だ。参道が直角に曲がっているのである。「これって珍しいんじゃないですか。」ロダンに言われるまでもなく、おかしな参道だ。寺の位置を変えたとは考えにくいから、道路の道筋が変えられたのではないだろうか。辿り着いた山門の柱には三つ葉葵の金の紋が入っている。
     門前の説明を読んで、「ここはデンツウイン、濁らない」とダンディが目敏く見つけた。小石川傳通院は「デンヅウイン」と読むのを私たちは知っている。ダンディは濁音の有無で文化の度合いを判定し、いつでも関東は「濁る」と言うのである。
     山門を潜ると、小さな僧形坐像(浄土宗だから法然像だろうか)の左隣に、牧野康成を供養する宝篋印塔が建っている。説明には関宿藩第七代・牧野信成の父とある。
     関宿藩は、久世家が入るまで、久松(松平)二代、能見(松平)一代、小笠原二代、北条一代、牧野二代、板倉三代、」久世二代、牧野二代と、目まぐるしく藩主が変わったところである。そして漸く宝永二年(一七〇五)久世重之が再任されてのち、幕末まで久世家が八代続く。この供養塔の説明にある牧野信成は、牧野家としては最初の関宿藩主で、正保元年(一六四五)に就任して四年に隠居した。
     「関宿藩って言えば、一番有名な藩主は久世広周でしょう。」ロダンは幕末史についてはなかなか煩い。安政の大獄に際して井伊大老の極刑主義に異を唱えて更迭され、井伊大老暗殺後に復帰して安藤・久世内閣を組織した人物である。しかし安藤信正が坂下門外の変で傷つき罷免されると、広周も公武合体策(和宮降嫁)の責任を問われて失脚する。同時代の福地櫻痴は、「世論はこの人を目して権謀詐術を専らとせる政治家の如く言做せども、その実は縝密円滑の人にて、させる奸雄にはあらざりしなり」(『幕末政治家』)と言っている。つまり、ごく普通の常識人であったと言うことだろう。生まれながらの大名ではなく、旗本大草高好の次男から久世家に養子に入った人物であった。
     白い椿のような花は何だろう。椿でないのは地面に落ちた花弁で分かる。お茶かしらと一瞬思ってしまうのは、私が季節感のない証拠だ。「サザンカだよ。」中将が言うのなら間違いない。確かに山茶花だ。しかし早過ぎはしないか。「春に咲く花よりも北風に咲く花が好き」(『さざんか』中山大三郎作詞、猪俣公章)と森進一は歌っていたし、山茶花は真冬の花かと思っていた。講釈師がいたら大川栄策の『さざんかの宿』(吉岡治作詞、市川昭介作曲)を歌いだしたに違いない。私はこの歌は下品で嫌いだ。(実は市川昭介の曲が好きでなかったのかも知れない。)

     「ここからは少し歩きます。」左手にずいぶん立派な家を見つけて、「あら、すごいわ」とイトはんが声を上げる。大型バスが二台も入れるほどの広い入口で、石の柱にはカエルの像が載っている。敷地の奥には巨大な石灯籠や、子を二匹抱えた招き猫らしいものなども立っている。門から入って確認してきた私に、「猫には何て書いてましたか」と姫が訊ねる。「開運招福。」「やっぱり招き猫でしたね。」「屋根も変わっているじゃない、ねえ。」二階建ての建物の、心持ち湾曲するような作りの瓦屋根も珍しい。
     「あれが処刑場の跡です。」「どこ。」「あれですよ。」遠くに利根川堤防が見え、その手前の樹木が生い茂る辺りに背の高い石碑が立っているのが分かる。野田市納谷二九〇〇番二号。 「石碑だけですからね、今日は寄りません。」
     「処刑場って。こんな所にあるんですか」とロダンが考え込むのが不思議だ。「処刑場だよ。」「小塚っ原みたいなものですか。」それ以外に何があるだろう。死刑執行の場所は何も江戸だけにあるのではない。「そうか、各藩にもあったっていうことか。」処刑場があるということは、この辺りは城下町の外れになると思われる。当り前だが水戸藩にも処刑場はあった。天狗党の百三十人が処刑されたのが、赤沼牢屋敷、吉沼磔刑場、渋井町の土壇場、吉田ヶ原などである。
     やがて堤防の方に真新しい天守閣のような建物が見えてきた。あれが関宿城かと勘違いしてしまうが、これから向かう博物館である。関宿城は度重なる利根川の改修とスーパー堤防の工事によって、大半が江戸川の土手に埋まってしまったのである。「当時の天守閣を復元したんでしょう」とロダンが同意を求めてくる。私は関宿藩がどの程度の大名だったか、この時点で知らない。「二万石程度じゃないでしょうか」とロダンも適当なことを口にする。それなら天守閣はないのではないか。二万石以下なら無城、陣屋相当である。
     二人とも関宿藩を見くびっていた。関宿藩はほぼ五万石の譜代大名である。それなら充分に城持ち大名であり、この天守閣は、かつて実際に存在した三層櫓を模したものであった。
     博物館の入口に着いたのが十一時半だ。そろそろヒダルくなってきた。つい先日この言葉を覚えたので使いたくなってしまう。「ダンディはヒダルイっていう言葉を知ってますか。」「知らないな。」休憩所の前でチイさんが「昼食はこの休憩所で取りますが、その前に博物館を見学してください」と宣言する。「集合は。」「十二時にここで。」

     ここは千葉県立関宿城博物館である。野田市関宿三軒家一四三番四号。入館料は三百円(普段は二百円だが、企画展を実施しているときに三百円になる)、但し六十五歳以上は無料で、実際に三百円を払ったのは五人だけだ。
     最大の関心は利根川付け替えによる河川の変容である。ドクトル、隊長、ロダンが最も熱心に観察する。荒川、利根川、鬼怒川がかつてどう流れていたか。地図を見るだけでも、利根川東遷工事が大事業であったことが分かる。
     昔は、江戸の河川改修事業はもっぱら治水を目的としたものとして教えられていたと記憶するが、今ではむしろ舟運による物資輸送網の拡大が最大の目的であったと考える方が普通のようだ。それ以前、東北や北関東から江戸へ物資を輸送するためには、銚子沖の危険な海路を通過し、房総半島を大きく迂回する必要があった。利根川東遷によって、これらの不便が解消したのである。物資輸送に活躍したのは高瀬船(舟ではない)で、西日本の高瀬舟に比べてかなり大型のものだったらしい。階段の四階から下まで、ずいぶん大きな帆がぶら下げられている。
     また河川改修の結果として北関東一円の新田開発が進むことになり、耕地面積が大幅に増大した。旧利根川、旧渡良瀬川、旧鬼怒川、旧小貝川の下流域は縄文海進時には海であり、河川の堆積作用によって湿地帯が形成された地域だった。要するに沼沢地であり、陸上交通もままならない地方だ。手賀沼、印旛沼、牛久沼がかつての名残を留めている。
     「これっておかしいな」とスナフキンが指をさす。展示ケースの中を覗くと、大洪水の写真が絵葉書になっているのだ。利根川や江戸川、荒川は明治四十三年、昭和二十二年に大氾濫を惹き起こし、下流の東京にも大きな被害をもたらした。特に四十三年の洪水は関東一円を水浸しにした。漱石が療養のために赴いた修善寺で大雨に降り込められたのも、その四十三年の洪水の時であった。

     湿った頁を破けないように開けて見て、始めて都には今洪水が出盛っているという報道を、鮮やかな活字の上にまのあたり見たのは、何日の事であったか、今たしかには覚えていないけれども、不安な未来を眼先に控えて、その日その日の出来栄を案じながら病む身には、けっして嬉しい便りではなかった。
     夜中に胃の痛みで自然と眼が覚めて、身体の置所がないほど苦い時には、東京と自分とを繋ぐ交通の縁が当分切れたその頃の状態を、多少心細いものに観じない訳に行かなかった。余の病気は帰るには余り劇し過ぎた。そうして東京の方から余のいる所まで来るには、道路があまり打壊れ過ぎた。のみならず東京その物がすでに水に浸っていた。余はほとんど崖と共に崩れる吾家の光景と、茅が崎で海に押し流されつつある吾子供らを、夢に見ようとした。(夏目漱石『思い出す事など』)

     この後、漱石は夥しい血を吐き人事不省に陥った。そして漱石の病状とは関係なく、政府は大々的な治水対策を講じなければならず、これによって荒川放水路の開削も決まった。
     時間が迫って来て、二階から三階と駆け足で回らなければならない。企画展「猿島茶と水運」のコーナーで、猿島(さしま)茶なるものを初めて知った。

    関宿藩が領有していた猿島地方(茨城県)の特産物である猿島茶は、水運の発達とともに流通経路が拡大し、幕末には海外に輸出されるまでに至った。猿島茶を通して水運との関わりについて展示します。 (博物館HPより)

     「知ってましたか。」「知らない、初めてだよ。」本日の参加者で、猿島茶を知っていたものは誰もない。県人のロダンだって知らないのだ。
     猿島茶は、関宿藩が茶の栽培を奨励したことに始まったが、品質は劣っていて、上州、野州、信州には売れても江戸では見向きもされなかった。改良が行われたのは漸く幕末になってからだった。

    豪農・名主であった中山元成(坂東市辺田 文政元~明治二十五年)は、文化・文政期の茶の安値を嘆き天保五年(一八三四)春に山城宇治の茶師多田文平を招き製茶法の改良に取り組み、(中略)それまでの日乾法(天日製法)から焙炉法に変えたことによって品質は格段に向上し、その後の猿島茶業発展の基となりました。そして嘉永六年(一八五三)五月二日、関宿藩は江戸箱崎上屋敷に物産会所を設立し、幕府より江戸市中に於いて茶の独占販売の許しを得て中山元成、初見和三郎・境町(境町船戸)、富山三松・矢作村(坂東市矢作)の三名に会所の経営を託し、さしま茶は好評で名声を一段と高めたのでした。(中略)
    野村佐平治(文政五~明治三十五)は、天保八年江戸日本橋の茶商山本嘉兵衛の店を訪れ焙炉法で作られた宇治茶に衝撃を受け栽培と製茶法について詳細に教えを受けました。以来伝授の製茶法を試み、中山元成との努力によって製茶の改良と猿島茶業の発展を促しました。(境町茶生産組合「さしま茶について」より抄録。)
    http://www.sashimacha.com/sashimacha.html

     こうした努力によって、初めて海外に輸出した日本茶としての誇りを地元の人は抱いている。
     ここまで来たのだから、四階の展望ルームも見なければならない。天気が良ければスカイツリーも見えるらしいが、今日は一面に霧がかかって、良く見えない。一階に降りると、イトはんが「四階は景色がいいんですってね」と上がって行くところだった。もう時間がないのだが。玄関ホールでは小町が彼女のリュックの番をしている。
     ロダンやダンディが「なかなか充実した博物館ですね」「そう、三十分じゃ足りないね」と戻って来る。確かにそうだ。しかし私はとてもヒダルくなってしまったので、お先に休憩所に入る。
     弁当を広げた途端、チイさんからは茹でた金時イモが大量に提供された。イトはんは「お父さんが漬けた」生姜を出す。小町は葡萄を出し、食後にはダンディがイタリア土産の菓子を配ってくれる。
     飯を終えてから売店内を眺めたものの土産物は大したことがなく、これではロダンはアリバイになるべき土産を買うことができない。ドクトルは地方出版物を売るコーナーに見入っている。「こういうのを読めば利根川のことが分かるだろう。」しかし買うようでもない。こういう地方出版物は玉石混交で、つい買ってしまって後悔することもある。私は赤松宗旦『利根川図誌』(岩波文庫)を持っているが、まだちゃんと読めていない。
     地元の野菜を売っているコーナーもあって、道の駅のようだ。レタス三個で百円は安いのではあるまいか。小町も絶対に安いと断言する。「お父さん、これリュックに入るかな。」「イヤだ。絶対に入らない。」それでなくても、中将のリュックは何が入っているのか、パンパンに膨れている。
     トイレは休憩所のすぐ脇にある。天守閣に相応しい木造の重厚な造りで、「これじゃトイレに入るのも緊張してしまう」とハコさんが苦笑いする。タイミング良く雨があがった。

     裏の方に回って庭園から眺める天守閣は、白壁に石垣も白っぽくて、切りに煙るような趣だ。「スナフキンさん、お願いします」とチイさんが声を掛け、城を背景にして、久しぶりに記念写真を撮る。ついでに私も一枚撮った。
     隣接する水辺公園の方では祭りの準備をしているようだ。明日は第十六回「関宿城まつり」が開かれる。久世大和守広周を先頭にする大名行列、稚児行列に、郷土民謡、火縄銃や抜刀術の実演などが行われるらしい。祭りと言うよりイベントである。
     土手沿いの赤く舗装された坂道では、スナフキンが何度も滑って、「アッ」と声を上げる。確かに滑りやすいのは舗装の仕方に問題があるのだろう。しかし本当に危ないのはスナフキンだけだ。「分かったよ、俺だけが滑る理由が。」暫くしてスナフキンが原因を発見した。スパッツを靴に留めているゴムが靴の底で滑るのであった。スパッツは便利そうだが、こういう問題もあるということか。
     利根川から江戸川が分離する地点で、江戸川に注ぐようにもう一本の川が流れている。そこを管理橋で渡って着いたのは中の島公園だった。ここは茨城県猿島郡五霞町山王地先である。私たちは県境を越えた。「『中の島ブルース』ってどこだったかな。」ダンディの疑問に、「札幌、大坂、長崎ですね」と姫が即座に応える。「これは隊長得意の歌です。」「そうか、札幌だものね。」
     明治時代のトラス橋を復元したものが置かれている。「棒出しの石」なるものがある。小町がその石に荷物を置いてしまったから、ドクトルはなかなか写真が撮れない。「そっちを写しなさいよ。」そっちは短い。荷物を置いた石の方が長いのである。
     「関宿水閘門」の袂には「土木学会選奨土木遺産認定書」なるものが掲げられている。閘門というのは、水位の異なる河川や運河、水路の間で船を上下させるための装置である。つまり利根川と江戸川とでは水位が異なっていたのだ。

     江戸川が利根川から分かれる場所、江戸川の起点付近にあり、江戸川を流れる水量を調節することと船を安全に通すことを目的に、大正七年(一九一八)に着工し、昭和二年(一九二七)に完成しました。実に九年におよぶ大工事でした。
     当時の日本は、大型建造物がレンガ造りからコンクリート造りへと移り変わりつつある時代であったため、コンクリート造りの関宿水閘門は当時の建築技術を知る上でも貴重な建造物で、土木学会選奨土木遺産に認定されています。
     水流を制御する水門には八つのゲートがあり、上流から見て右側に船が行き来する閘門が造られています。閘門の幅は十メートルで、長さ百メートルほどの水路の両側にゲートが設置されています。閘門は現在も動きますが、特別な場合をのぞいて使用されていません。http://www.town.goka.lg.jp/hp/page000000700/hpg000000601.htm

     「ここで仕切って水を溜めて、それからあっちを開くんだよ。」ドクトルはこういうものが特に好きだ。さっき見た「棒出しの石」は、この閘門が作られる以前、川幅を狭める堤防として使われた石だった。
     公園に戻り、榎の巨木が枝を広げているのを見て、「これは巨樹だろうね」とハコさんが感嘆したような声を上げる。私やスナフキンのような素人は、これがそんなに驚くべきものだということが分からない。「エノキって、普通はこんなに大きくはならないのかい」とスナフキンが訊くと、「大きくなります。一里塚の目印にもなるくらいですからね」と姫が答えて、榎の実を拾って見せてくれる。以前にも見せてもらった事があった。
     「あれは浚渫船だよね。」小町の声で芝生の方を見ると、二台(?)の浚渫船が置かれている。先端部は泥を浚うような複雑な形をしていて、底はキャタピラのようになっている。
     ここからは江戸川に沿ってスーパー堤防の上を歩く。「アッ、踏まないでくださいね。」姫が道路に迷い込んだ小さな蝸牛を拾い上げて草むらに戻している。虫愛づる姫である。

     でで虫が季節に迷ふ初時雨  蜻蛉

     だんだん暑くなってきてカッパを脱いだ。「私、頭に汗をかいちゃうのよ」と小町が言うものだから、私も「俺もそうだよ」と帽子を取った。「あっ、毛が増えている。」それはないだろう。「波平さんの毛も一向に生えませんね。ヘアトニックが効かないんだな。」ダンディも変なことを思い出すものだ。私は敢えて断言するが、毛は決して増えない。無精をしていて単に伸びるだけである。「蜻蛉ですよ。」

     関宿の水塚も眺む秋茜  閑舟

     所々に、三月十一日の地震で破壊された部分を修復したと説明する看板が立っている。注意してみると、堤防のところどころに、黒いアスファルトで修復した痕跡が見える。やがて土手の左下の方に何か立札のようなものが見えてきた。「あれは何かしら。」姫が先頭を歩くリーダーに声を掛けた。「全員が集まってから説明します。」ちょっと後ろとの間隔が開いてきていた。結局これは関宿城本丸跡を示す案内板だったようだ。
     関宿城は、鎌倉公方足利持氏に仕えた梁田満助(あるいは成助)によって、長禄元年(一四五七)に築かれたとされる。古河公方足利成氏と関東管領上杉氏が対立している真っ最中であり、梁田氏は古河公方に加担した。上州と武州への備えとなる要であったと思われる。そして時代は移る。

     関東の制圧を目論む北条氏康は「この地を抑えるという事は、一国を獲得する事と同じである」とまで評した。
     戦国時代末期には、北条方と上杉方の間で激しい争奪戦が繰り広げられた(関宿合戦)。北条氏康・氏政・氏照父子が、上杉謙信・佐竹義重の援助を受けた簗田晴助の守る関宿城を、三度に渡り攻撃。最終的には北条氏がこれを制し、北関東進出の拠点とした。(ウィキペディア「関宿城」より)

     当時の河川の様相は今とはまるで違っていて、利根川も荒川も江戸湾に流れ込んでいたのは、さっき博物館で学習した通りだ。ここを抑えるのは、北関東一円の物資輸送の権を握ることであり、北条氏康が重要視したのは当然のことである。
     「なんだか、変な宗教施設みたいなのが見えるのよ。」イトはんが言い出した。屋根の形を見ると寺のようではないか。近眼乱視老眼の目で見ると、玄関口に御幣が飾られているのが見えるから神道系の宗教であろう。「そうですね、御幣が見えます。」あんみつ姫も見つけたらしい。説明を書いているらしい看板も見えた。「なんて書いてあるかな。」双眼鏡をのぞいた人が見つけた。「アッ、見えるよ。」看板のほかに、大きく「ほんみち」と書かれたものも立っていた。「それなら天理教から分離した教団ですよ。」相変わらずダンディは詳しい。もっとも大阪に本部を置く教団だから知っていて当然か。「聞いたことない名前です。」リーダーは全く知らなかったようだ。
     ほんみち教は実態のよく分からない教団である。信徒数は三十一万八千という。この辺りのことも勉強しなければいけないのだがまだ手に余る。大西愛治郎は、自分こそが中山みきの正当な後継者だと確信して分派を結成したが、天理教から追放される。不敬罪と治安維持法違反容疑で逮捕されるなど、その強硬な姿勢が際立っていた。この時代に生き残りを図る天理教本体にとっては邪魔な存在だっただろう。
     高橋和己『邪宗門』を読んで以来、私は近世の新宗教と弾圧事件には関心を持っている。高橋がテーマに選んだのは大本教であり、こちらも弾圧の後、生長の家や世界救世教などが分離している。日本近代の精神史を知ろうと思えば、当然こうした新宗教についても学ばなければいけないのだが、中山みき(天理教)、出口ナオ(大本教)等の教祖の前半生の悲惨な生活と突然の神憑りや、病気治癒にまつわる荒唐無稽な奇跡についても訊かなければならず、それはかなりシンドイことである。
     この辺りから獣の臭いがきつくなってきた。牛舎と思われる建物が見える。「牛はいるかい。」姿は見えないようだ。堤防のすぐ下で、牧草地が広がっているようには思えないが、これも鈴木貫太郎の遺したものだろう。「サイロがあるかと思ったら、普通のおうちでした」と姫が笑う。
     そして石段を伝って土手の下に降りる。「ここも注意してください。クイズに関係あります。」クイズのことはすっかり忘れていた。ドクトルはずっと遅れて、まだ土手の上で何かの撮影に一所懸命になっている。こんなところでは置き去りにされる心配はないだろう。
     降りた処に神社があるが。石の門の向うに、石造の神明鳥居があるが名前が分からない。地図を確認すると、どうやら香取神社らしい。そのすぐそばに関宿関所跡碑がたっている。野田市関宿江戸町。普通の民家の立つ交差点で、面影は何もない。「川にも関所ってあったんですか。」関所とは言わなくても船番所なら見たことがあるではないか。「あそこの川でさ。なんだっけ。」このところ、固有名詞がなかなか出てこない。ロダンは不思議そうな顔をしている。彼は行かなかっただろうか。やっと翌日思い出した。言いたかったのは小名木川であった。姫の企画で東大島の中川船番所資料館に行ったではないか。江戸歩き第十六回「小名木川周辺から亀戸天神編」を確認すると、しかしロダンの名前はなかった。
     関所の本来の位置は川の向こう側で、「棒出し」と称する場所にあったらしい。牛舎からはかなり離れたのに、空気にはまだ異臭が残る。

     関宿台町に戻って来ると見覚えのある景色になった。また鈴木貫太郎記念館でトイレ休憩をとることになる。さっき気になっていた五輪塔を確認すると、英霊供養塔であった。
     日蓮宗寶樹山實相寺はすぐ近くだ。野田市関宿台町二一四〇。広い参道の正面には、唐破風の屋根をもつ立派な山門が建つ。久世家の菩提寺である。もとは真言宗だったが、応永十六年(一四〇九)、日英上人によって日蓮宗に改宗した。「日蓮宗は乗っ取りがうまい。」ダンディが面白いことを言う。鐘楼は袴を履いた様式だ。「岩槻の時の鐘もそうでしたね」と姫が言うので思い出した。客殿は関宿城本丸の一部を移築したものである。
     鈴木貫太郎の墓は塋域の奥から右に曲がったところにあった。鈴木家の墓の隣に、「鈴木貫太郎墓」が建っている。昭和二十三年四月十七日、満八十歳であった。

     終戦の結末付けしその人の墓前に参り合掌をする  千意

     二・二六事件で命拾いをしたことを思えば、命の長さに不足はないだろう。為すべきことを成し遂げた悔いのない生涯だったのではないか。弟の鈴木孝雄陸軍大将の墓もある。「兄弟そろって大将になったのはすごいことですよ」とハコさんが断言する。横には貫太郎の経歴を掲げた横に長い看板がたっている。「割合質素だね。」墓を大袈裟にするようになったのは最近のことではないか。「だけど、漱石のお墓なんか立派なものじゃないですか。」そう言われればそうだが、あれは弟子が悪いのではないか。「後継者が貧しかったんでしょう。」
     しかし貫太郎の長男の一は農林省山林局長、侍従次長、外務省出入国管理庁長官等を務め、後に『鈴木貫太郎自伝』を編纂しているから、決して貧乏ではない。鈴木貫太郎は「質素」に似合う。
     境内に戻って本堂の付近に回ってみると、大きな鬼瓦が二つ、ちょうどそれが載る小さな屋根のような台に載せられていた。屋根を修復した記念だと思われる。「これは撮らなくちゃ。」鬼瓦愛好委員会書記長の姫は熱心に写真を撮る。

     山茶花や地球を睨む鬼瓦  蜻蛉

     白いサザンカがきれいに咲いている。紅葉したハナミズキの枝の間からは、赤く光る実も見える。この時期のハナミズキも私は好きだ。しかしスナフキンは、そんなものを見る余裕もなく溜息をついている。「鼻が詰まって息苦しいんだ。」
     寺を出れば人通りの少ない道で、酒屋兼魚屋兼八百屋兼乾物屋のような店が一軒開いていて、他に商店らしきものは見えないから目立つ。よろず屋だ。「懐かしいわね。」「こういうお店があったわよね。」彼女たちの会話を聞いていると、これは既に歴史的景観である。スーパーやコンビニなどの大資本が来ていないから、辛うじて生き延びている。こういう店が頑張って生き残っていることに敬意を表するし、これからも頑張って欲しいとは思うが、実は商圏がない、人がいないということではないか。明日は祭りだというのに、この辺りにはまるでそんな気配は感じられない。同時に思うのは、あの関宿城祭りというのは、地元に根付いた祭りではないということだ。

     寺町によろず屋のあり暮の秋  蜻蛉

     曹洞宗宗英寺は素通りするが、参道のずっと向こうに見える山門はかなり立派(創建当時のもの)で、その背後には現代風の大きな甍も見える。古河公方第四代の足利晴氏の墓があるらしい。
     自転車に乗ったオバアサンが、先頭を行く人たちに話しかけている。歩くのと、ヨロヨロと漕ぐ自転車の速度が全く同じだ。よほど余所者が珍しいのではあるまいか。人の姿が余り見えない町である。
     最後は真言宗豊山派・清瀧山昌福寺だ。野田市関宿台町二五七。仁王門を支える柱が少し傾いているのが怖い。屋根が重すぎるのだろうし、これも地震の影響だろうか。仁王門と言ってしまったが、左右の金剛力士が納まっているのは、後から取り付けたらしいプレハブの小屋のようなものだった。ガラス越しで力士像は良く見えない。門を潜って裏から見ると、その小屋のドアには鍵がかかっている。
     境内には石塔が多い。二十三夜塔、文字だけの青面金剛がある。その隣の二つある十九夜供養塔のひとつは如意輪観音の上半身が欠けている。この地方には女人講の跡が多いようだ。奥の宝篋印塔も、二つとも先端部分が欠けて地面に落ちたままだ。これを放置しているのもどうだろう。檀家が貧しいのか。ツワブキが三輪咲いている。少し早すぎるような気がする。

     仏塔の欠け落ちたるや石蕗の花  蜻蛉

     「地形土持供養塔」という大きな塔は何だろう。「何か書いているじゃないか。」しかし、四角柱の全面に記されているのは細かな梵字で、判読できる筈がない。水害の多い土地で、防水工事のための土盛りなどに従事した人夫を供養したものかも知れない。何か一つ説明が欲しいところだ。
     文化十五年建立という不動堂は、羽目の彫刻が素晴らしい。こういうことには全く疎いが、二十四孝図ではないだろうか。そろそろ充電が少なくなってきたのを気にしながらカメラを向けていると、姫も「あと八分で電池がなくなってしまう」と笑う。「でも、カメラはもう一台持ってきたんですけどね。」傾いた山門や捨てられたままの石仏と較べて、この彫刻の見事さがあまりにちぐはぐだ。

     さてこれで今日のコースは終了した。記念館前のバス停まで戻って、最後のトイレ休憩を済ます。「三回もトイレを借りて怒られちゃうんじゃないの。」「大丈夫です。最初にお願いしてましたから。」三時十九分のバスが来るまで十分ほどある。
     「クイズの答えの分かった人はいますか。」私はまるで見当がつかない。「植物の話題が出なかったこと。」これは違う。「行き帰りにバスを利用すること。」これだって前例がある。結局誰も分からない。「それじゃ正解を発表します」とチイさんが、封筒から解答を出して広げた。全コースのほとんどが舗装された道だというのである。なるほど、江戸歩きでは珍しくもないが、里山ワンダリングとしては珍しい。
     「それじゃ干し柿は貰えないのかい」と隊長ががっかりしたような声を出す。「次回に持ってきますから大丈夫です。」正解していれば一人で五個貰えたらしい。買えば一個が二三百円はするのだそうだ。「カズちゃんに教えて貰ったんですが」とチイさんが秘訣を教える。皮を剥いてからお湯につけるのがポイントである。「知らなかったわ。」「お父さんに教えなくちゃ。」イトはんは、干し柿は「お父さん」が作るものと決めている。カズちゃんは今ちょっと体調を崩しているが、ゆっくり静養してまた元気な姿を見せてほしい。
     ロダン、小町、宗匠が万歩計を取り出して確認した結果、本日の歩行距離は一万二千歩、八キロ弱、リーダーの計画通りであった。
     また雨が降り始めて来たが、それほど酷くならないうちにバスがやって来た。実にタイミングが良い。一時間に二本しかないから、これを逃すと面倒なことになる。「天気予報ピッタリだよ。三時から雨になるって言ってた。」宗匠は天気予報を克明に調べていたのだ。バスは順調に走り、朝よりは早いと思われる速度で駅に戻って来た。ところが、駅入り口の狭い場所に違法駐車している乗用車があって、進むことができない。ハザードランプを点滅させているから遠くに行った筈はない。買い物でもしているのではないか。
     姿の見えない犯人を呼ぶために、バスは何度もクラクションを鳴らす。そこに若い男がやってきて、運転手と何か話をしている。運転席の近くに座っていた小町によれば、クラクションが煩いと文句を付けにきたらしい。運転手は「オメエに言われる筋合いはネエ」とタンカを切ったと言う。
     すぐそばには交番があるのに、警官は何をしているのだろう。後ろを振り返ると、バスが止まっているおかげで、車の長い列ができている。十分も待っただろうか。やっと若い女が買い物袋を抱えて戻って来た。そこに女性警官がやって来て、車は交番の方に誘導された。それにしても常識がない女である。この狭い駅入り口に駐車して車から離れるバカがどこにいるか。

     「どうしますか、お茶でも飲みますか。」「どっちでもいいよ」と小町が返事をしたので、「それじゃお茶を飲みましょう」とリーダーが決めた。外にはドトールもあったが、駅構内二階のロッテリアが空いていた。ちょうど半額セール実施中で、コーヒーは百円だった。
     三十分ほど休憩して店を出る。改札の正面にあるコンビニで私はタバコを買い、スナフキンはまたティッシュペーパーを買い込んだ。
     「今日はどこにするんだい。」ドクトルの質問に「宴会幹事に訊いてください」とロダンが私の顔を見る。私は宴会幹事ではないぞ。大多数の人が便利なのは南越谷だろう。チイさんだけがちょっと不便だが、それで決まった。
     ちょうど止まっている電車が空いているので座り込んだものの、ドクトルが乗ろうとしないのは何故だろう。行かないのかしら。
     「この後の急行の方がいいんだよ。」座ってしまったのだから、このままでもいいんじゃないか。しかし区間準急というのは、ほとんど各駅停車なのであって、急行や特急に追い越される。中将小町夫妻は春日部で乗り換えのために別れて行った。新越谷を目指す私たちも、結局途中で急行に乗り換えることにした。やはり先達の意見は尊重しなければならない。
     五時をちょっと過ぎて新越谷に着いた。スナフキンは余程体調が悪いらしい。「今日はダメダ」と言って、武蔵野線の改札口に向かった。この辺の電車に不案内なひとに説明しておくと、東武伊勢崎線の新越谷駅がJR武蔵野線の南越谷駅と接している。東武東上線の朝霞台駅が武蔵野線の北朝霞駅と接しているのと同じである。「お互いに譲歩して、駅名を統一して欲しい」とダンディが言う。
     「さくら水産」はないが、「笑笑」「和民」など居酒屋の多い街だ。鴨とネギ(越谷名産だと言う)を食わせる「いちまる」という店に何度か入ったことがあるが、あそこは小人数でないと入れない。姫が選んだのは「はちや」だ。「ここは以前、笑笑だったんですけどね。」余り馴染みのない店だが、埼玉県内に数店を展開するチェーン店である。
     ビールの後の焼酎は、ロダンが珍しく「鍛高譚」を選んだ。「値段で決めてますから。」紫蘇焼酎で、芋よりは確かに安い。「紫蘇をチソって言う人もいますよね。」またロダンが不思議なことを言い出した。それは単なる訛りではないか。気になって調べてみた。やはり訛り、音変化であることは間違いないが、京ことば、高松方言で「ちそ」と言うらしい。(『大辞林』http://www.weblio.jp/content/%E3%81%A1%E3%81%9Dより)
     この店のメニューの最大の問題は冷奴がないことだ。訳の分からないものを掛けた豆腐はある。最近こういう店が増えてきて困る。「それじゃ要らない。」「ただの豆腐を一丁出しましょうか。薬味をつけて。」愛想は悪いが結構気が利く店員ではないか。それならそれが良い。二人で一丁として四丁を頼む。
     どういうきっかけだったか、ロダンが「団塊の世代」と言って私を指差した。私はその後の世代である。それに私は二十五年生まれまでが「団塊の世代」と信じ込んでいたのに、その二十五年生まれのチイさんが、「違う、チガウ。団塊は二十四年までですよ」と言うので驚いた。ダンディは朝日新聞の記事の「偏向」について話し始め、六十年安保を東大新聞の一員として経験したダンディと、七十年安保を日和見で過ごした私との間で、時ならぬ左翼論議が始まった。こういうのも面白い。

     秋の夜や左翼右翼と花が咲き  閑舟

     メニューをじっくり点検していた宗匠が、「みなさん、味わって食べて下さい」と言う。高いから慎重に選べという趣旨である。しかし会計をしてみればひとり二千三百円。決して高くはなかった。

    眞人