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    平成二十三年十一月二十六日(土) 越谷でキタミソウを見る

    投稿:   佐藤 眞人 氏     2011.12.02

     旧暦十一月二日、今日は三の酉だそうだ。先月のチイさん企画の関宿に続き、あんみつ姫が隊長に代わって担当する。そして今回は某々協会越谷支部との合同行事でもある。集合は武蔵野線・越谷レイクタウン駅、平成二十年三月に開業した駅で、埼玉に住んでいても余り馴染みがない。武蔵野線北朝霞からは七駅、二十五分程になる。そもそもレイクタウンとは何者か。
     中川・綾瀬川・元荒川流域治水のために調節池を作り、同時に大規模商業施設や住宅などを建設したニュータウンである。開発主体はUR都市機構で、計画人口二万二千四百人、面積二百二十五・六ヘクタールの規模となる。
     元荒川から取水して中川に排出する「大相模調節池」をレイクと呼ぶのである。広さは三十九・五ヘクタール、不忍池の三倍になると言う。大相模の地名については後で触れることになる。
     かつては見田方と呼ばれた湿地を含む水田地帯で、ニュータウンの区画はその農地面積の一割に相当する。古墳時代後期の集落跡でもあり、昭和四十一年から翌年にかけて発掘調査が行われた。見田方遺跡公園として整備されたが、レイクタウン開発に合わせていったん撤去され、現在では「公園の下に現状保存されている。」つまり発掘遺跡を、そのままの形でもう一度埋め直したということだろう。
     マリーも「ショッピングモールには来たことあるけどね」と言っているように、余所の人間がここにやって来るのは、国内最大級のショッピングモール「イオンレイクタウン」が目的だろう。二十四万五千平方メートルの敷地に七百を超える店舗が入り、駐車場には一万四百台が収容できる。私も越谷に住む旧友に会うため八月に来たことがあるが、喫煙所を探しているうちに迷子になってしまった。やたらと広く、特に土日の昼間には家族連れを中心に人がウジャウジャ集まって来る。

     リーダーがまだ現れないうちに、私と宗匠が出欠表をチェックしていると、某々協会の会員らしき人が声を掛けてくる。「ここで良いのかな。」「越谷支部の方ですか。」「上尾支部だけど。」それなら違うのではないか。しかし私が持っている資料を見て、「これで良いんだよ」と二人組は納得している。キタミソウを見たい一心で参加したようだ。本日のコース最大の見どころはキタミソウ観察である。
     やがてあんみつ姫もやって来た。支部の公式行事なので、協会の黄色いペナントを肩に掛けている。このペナントを見るのも五六年振りになるだろうか。私は年会費二千円を払うだけで、名前だけの会員である。宗匠は数年前のある事件をきっかけに脱会した筈だ。
     伯爵夫人は久しぶりに顔を見せたのに、隊長に挨拶をしていたと思うと、すぐに改札口に消えて行った。どうしたのだろうか。「ご挨拶に来ただけみたいですよ。」隊長に会うだけのために、森林公園からわざわざ二時間掛けてやって来たのである。

      挨拶に二時間かける冬の朝  蜻蛉

     隊長の様子が心配だったのかも知れない。隊長はこのところ腰の具合がかなり悪いらしいのだ。「平地は大丈夫なんだよ」とは言っているが、結構辛そうな表情をしている。無理をしてはいけない。カズちゃんも少し前まで腰を痛めて動けなかった。「蜻蛉は腰を痛めたとき杖を突いて来てたわよ」とマリーが余計なことを言う。腰は人間の要である。大事にしなければならない。
     揃ってみれば総勢二十八名となり、うち里山ワンダリングの仲間が二十一人を占めた。リーダーのあんみつ姫、画伯、宗匠、ハコさん、蜻蛉、チイさん、バンブー、隊長、ダンディ、講釈師、ヨッシー、ドクトル、イッちゃん、チロリン、クルリン、シノッチ、マリー、マルちゃん、カズちゃん、イトハン、野薔薇先生だ。
     家から歩いて来たというハコさんが、「いつもの越谷支部のイベントなら、参加者は十人というところだね」と重々しい口調で断言する。そのハコさん、姫、ドクトルを越谷支部会員に勘定すればいつもの規模と変わらないことになる。
     ダンディと講釈師は姫に協力するため(あるいは邪魔をするために)、越谷支部の行事にはよく参加していて、講釈師は今日もスタンプを押してもらうのを楽しみにしている。連続して何回か参加すると姫がプレゼントをくれるのだ。
     体調を崩していたイッチャンとカズちゃんが復帰したのも嬉しい。カズちゃんは「不安だわ」なんて呟いている。彼女にとっても震災に始まって大変な年だったが、みんなで歩けば大丈夫だ。
     バンブーも随分久しぶりだ。私の顔を見て「帽子が違っていたから気付かなかった。タバコで分かったよ」と笑う。はて、どの帽子だろう。調べてみると彼に会ったのは去年十二月の岩槻だった。それなら私が真冬に被る毛糸の帽子のことだ。最近いろんな会に手当たり次第に参加して、ほぼ一日おきに歩いていると言う。昭和十三年寅の人は皆元気だ。「だけど歩いた後はやっぱり疲れるからね。雨が降るとホッとするんだよ。」
     帽子ならダンディを忘れてはいけない。今日はスロヴェニア製のトンガリ帽子で、「スナフキンの帽子ですよ」と自慢する。それに対抗したのか、講釈師は米軍基地で手に入れたという真っ赤なキャップを被っている。画伯は正ちゃん帽ですっかり冬支度の恰好だ。姫も珍しくキャップを頭に載せて気合を入れている。
     チイさんのリュックは今日も重そうだ。ダンディがすぐに気付いて「お土産が入っているんですね、期待しよう」と笑う。それに、手に提げるビニール袋には干し柿も入っている。「この間、あげられなかった人がいるから。」なんと心優しいひとであろう。
     隊長は「若紫は来ないのか」と残念そうな声を出す。地学ハイキングでロダンから話(美女だという)を聞いて、まだ見ぬ君に焦がれていたのだ。忙しそうな人だから、そんなに毎回参加はできないだろう。
     ロダンは「体調を考えて自粛します」なんて欠席のメールを送って来たが、これは口実である。月に二回しか外出許可が出ないのに(ロダンは「二回も」許してくれたと表現する)、今月は江戸歩きと地学ハイキングで使ってしまって、蟄居を命ぜられたに決まっている。スナフキンは仕事が入ってしまったとぼやいていた。

     駅北口に降りると目の前はすぐ池だ。黄色のカヌーが一艘ゆっくりと水面を行き、オオバン(大鷭)やカモなどの水鳥が泳ぐ。対岸には同じような屋根の新しい住宅が並んでいるのが見える。
     「最初は対岸まで大橋を架ける計画があったんですが、お願いして止めてもらいました。」越谷支部は(と言うより特に姫は)「こしがやレイクタウンふるさとプロジェクト」に協力して、生態系保護に努力している。橋を架けないのは、鳥の生活に影響を与えないためである。
     「対岸に住んでいる人は不便じゃないのかな。」「それを承知で買ったんだからね。」街づくりの計画段階で、きちんと意見を反映させたのだ。宗匠の予想では、数十年後にはここに姫の顕彰碑が立つことになる。「あんみつを食べる姫」の像である。
     まず「水辺の街づくり館」に入る。公共の施設かと思ったら、看板にはUR都市機構と書いてあった。

    大相模調節池は、越谷レイクタウン最大の魅力です。将来にわたり魅力ある市民の憩いの場として利用するためには、水辺の保全、景観の美化、そして利用者の安全を確保するために、市民の皆さまにより維持(管理)活動も行うことが重要です。
    水辺のまちづくり館では、市民の皆さまが維持活動する場合には、必要な器具等をお貸しするとともに、管理活動を行った方には、「Lake券」を発行し、水辺の環境維持活動を支援しています。(http://www.koshigayalaketown.com/activity.html)

     「Lake券」は、「水辺の街づくり館」の有料施設を利用する場合に限って使用できる。例えば調整池の清掃を三十分行うと一Lake、除草作業では一時間に四Lake貰える。そして大会議室一時間の使用料が四Lakeになる。
     中に入ると暖房の熱気でムンムンする。この暖かい日に、こんなに熱くする必要はないではいかと思うが、地中熱を利用しているらしい。窓際の狭い階段を、降りてくる人とやっとすれ違いながら上ると、眺望テラスになっていて池の全貌が見渡せる。ちょっとの間池を眺めて、パンフレットをいくつか貰って外に出る。
     これだけの人数がいると、出発時の人数確認も大変だ。私と宗匠は数が数えられないと知られているので、余計な口は出さない。ここからは池を右手に見て時計回りにゆっくり歩くことになる。
     双眼鏡を用意している人は水鳥の観察に忙しい。鳥が専門の画伯は望遠レンズ付きのカメラを肩に掛けている。ユリカモメが飛ぶと「都鳥だよね」という声がかかる。「アッ、アオジがいますよ。」「そうだ、アオジだ。」アオジとは何であろう。「アオジ切れ痔にイボ痔かな。」品のないことを口走るのはてっきり講釈師かと思えば、予想に反して宗匠で、「イヤねエ」とシノッチやイトハンの顰蹙を買っている。「俺がそんなこと言う訳ないじゃないか。」ダンディが辞書を引くと蒿雀と出た。ほかに青鵐、蒿鵐という表記もある。決して青くなく、私には黄色いスズメのようにしか見えない。スズメ目ホオジロ科ホオジロ属。
     「ここではオオバンが繁殖しているんですよ。」専門家なら珍しいことだと分かるのかも知れないが、私やダンディにはどんなに大変なことなのか分かっていない。双眼鏡を構える人たちを横目で見ながら、ダンディは鋪道脇の石に座りこんでしまった。「どうしたんですか。疲れたの。」「オオバンなんて、大判小判しか思いつかないな。」ヨッシーは「私は大判焼きだね」と応えた。鴨みたいな恰好で黒ければオオバンだと私は勝手に判断している。
     カルガモは珍しくもないが、スズガモという種類もいるらしい。「越谷は鴨ネギが有名なんだぜ。」講釈師の言葉に、越谷支部の女性が「越谷のネギは、昔は千住葱って呼ばれたの」と教えてくれる。「やっとこの頃、越谷ネギって言えるようになったんです。」
     江戸では越谷の名前では売れず、千住の名を冠したのだろうか。私は簡単に「千住」と思い込んでしまったが、実は「千寿」かも知れなかった。千住にはネギだけを扱う市場(草加山柏青果物市場)があって、そこで売られる最高級品を「千寿葱」と呼んだらしいのだ。中でも越谷産のものは優秀だったようだ。葱はそれで分かったが、それがなぜ鴨ネギ鍋になるのか。

    宮内庁埼玉鴨場にちなんだ「鴨」と「越谷ネギ」をはじめとする特産の地場野菜等を組み合わせた「こしがや鴨ネギ鍋」を越谷市の地域ブランドに育てるプロジェクトを紹介します。越谷市商工会特産品等開発推進プロジェクト委員会では、市内二十二店舗で「こしがや鴨ネギ鍋」が食べられるキャンペーンを実施中です。
    http://www.city.koshigaya.saitama.jp/kanko/koshigayabrand/kamoneginabenosusume.html

     伝統がある訳ではなく、町興しであった。江戸時代には鴨は芹と一緒に煮たと言う。カモネギではなくセリナベで、ネギになったのは明治以降スキヤキが普及してかららしい。鴨肉の臭みを消す必要があったと言うのだが、そんなに臭いだろうか。
     高校時代、後輩が鴨を拾ってきて(散弾銃で撃たれたばかりのものを通学途上の林で見つけたのだ)、部室に五六人集まって食ったことがある。醤油は買って来たと思う。用務員室で鍋とコンロを借り、皿もないから、用務員室で見つけた灰皿を洗って使った。あの時ネギは入れたかどうか、私にとってはそれが鴨を食った初めだったが、臭みは感じなかったし、旨いものだと思った。そんなことが許された時代であった。
     それにしても宮内庁埼玉鴨場なんてものがあるのですね。越谷市大林三十九番地。北越谷駅から北に一キロ程の所にあるらしい。敷地十一万七千平米の中心に約一万平米の鴨池があると言う。かつては水郷であり、湿地帯が広がっていた越谷の面影を残すのだろう。昔は獲った鴨を食べたらしいが、今は食べずに再び放すらしい。殺さずに捕える伝統的な猟法があるのだ。

    猟方は飼いならされた囮のアヒルを使って、深い引き堀の中にカモを引き入れ、両側の土手の上から大きな網で飛び立つカモを捕えるというもの。ただし、捕えるといっても学術研究のために標識を付け、放している。シーズンには、皇族だけでなく、各国外交官や国賓を招待してカモ猟が行われる。
    (http://www.yumekaido.ne.jp/kamo.htm)

     やがて、茶色に枯れた葉が浮かぶ一角に来た。「蓮です。夏になれば蓮の花が一面に咲くんです。綺麗ですよ。」ヤレバスである。その周りにもオオバンやカルガモが群れ、中には草叢に上がりこんで日向ぼっこをしている奴もいる。

      敗荷や枯れ果てたるも鳥は群れ  蜻蛉

     「アッ、逃げちゃう。」赤い帽子の人が近づいたのでオオバンが水に飛び込んだ。オオバンも正しい判断をする。それでも逃げずに、草を頻りに突いて何かを食うのに忙しい無神経な鳥もいる。「朝からバン飯を食べてる。」チイさんの感覚は絶妙だ。イトはんがコロコロ笑い、宗匠は名誉ある「今日の座布団一枚」に選定した。
     葦原の間の藪を見ていた隊長が「オオイボタンだよ」と指をさす。「何、ヒボタン。」私は若き日の藤純子の姿を一瞬思い浮かべてしまった。宗匠は「多い釦」あるいは「大疣丹」か、「どこで区切るか分からない」と呟いている。「違う。オオイボタ。」大イボタか。初めて聞く名前だ。ブルーベリーのようでもあり、ブドウのようでもある紫がかった黒い実が生っている。ネットで検索すると、オオバイボタの葉は先端が尖り、イボタノキの葉は丸いらしい。ここにあるのは丸い葉だ。隊長はマルバとも言っていたようだ。モクセイ科イボタノキ属。

     そしてコンクリート護岸が切れ、葦やススキの生い茂る場所にやって来た。ビオトープゾーンである。「真夏の三十四度を超える日に、越谷支部では草刈りをしました。」ビオトープを維持するにも大変な努力が必要なのである。何Lakeに相当しただろうか。ボランティアの努力は貴重で、それに対しては頭が下がるが、自然保護がそれだけによって漸く達成されるのだとすれば別の感慨が浮かぶ。私は二千円ではなく、四千円の会員にならなければならないだろうか。
     野薔薇先生は相変わらず植物観察に忙しい。いろいろ教えてくれるが、全てを聞いているときりがなく、それにとても覚えきれるものではない。
     「カンムリカイツブリだ。」「どこ。」「アッ、潜っちゃった。」越谷支部の女性が「これですよね」と鳥の図鑑を開いて見せてくれた。なるほど、頭の形がこうなっているのか。このひとは講釈師を鳥の専門家と思い込んでしまったようで、「あれは冬の羽根ですか」と質問する。「そうだよ。当たり前じゃないか。」
     「どこにいるの」と水面を眺めているカズちゃんに、「双眼鏡持ってる癖に、使わなくじゃ駄目じゃないか。バッカだな」と講釈師の罵声が飛ぶ。久しぶりにカズちゃんに会って、嬉しくて仕方がないのである。それにロダンがいないので、からかう相手が欲しいのだ。「イッチャンには優しいのに。」「イッチャンは昔から知っているからさ。転校生は苛めたくなるんだよ。」おかしな理屈を捏ねる。それでも「双眼鏡はちゃんと練習しなくちゃ、必要な時に使えないだろう」と優しげなことも言うのである。
     「昔からって言えば、随分昔の写真に蜻蛉さんが写っていたわ。古いのね」とクルリンが言い出した。どんな写真か分からないが、一番古いものなら十五六年前になるだろうか。シオジイが「山田新聞」に載せたものだと思う。
     ビオトープを離れ、なんとなくモダンな感じのする休憩所で一休みする。「かつての越谷の水田地帯を象徴しているんですよ。横から見ると分かります。」姫の声で細長い東屋の横に回ってみると、平らな屋根の梁を支える柱が斜めに組まれて並んでいる。これは、あれではないか。すぐに単語が出てこないのが悔しい。「そうです、ハサです。」私が言いたかったのもそれである。ハサ、あるいはハザとも言う。稲架をイメージしているのだ。
     ここでチイさんがリュックからお土産を取り出して配り始めた。「両端をちぎって食べて下さい。」金時芋である。私はサツマイモなんか食べないが、イッチャンが二つに折った芋は綺麗な紫色だった。「ムラサキ芋も何本か混ざっています。」「当たり。」「何か貰えるかしら。」全員に行き渡ってまだ余っていたようだから、チイさんはかなりの量を持ってきたものだ。重かっただろう。
     サクランボのように柄にぶら下がった赤い実はソヨゴだ。これも初めて耳にする。実は赤いのに、不思議なことに冬青と書く。モチノキ科モチノキ属。別名フクラシバとも言う。

    葉身は卵状楕円形、やや革質、光沢があってのっぺりした外見を持つ。表面は深緑で滑らか、裏面はやや薄い色で中肋が突出する。縁は滑らかだが波打つのが特徴。葉の構造は比較的丈夫であり、炎で過熱すると内部で気化した水蒸気が漏出することができず、葉が音をたてて膨らみ破裂する。このことが別名の「ふくらし」の語源になっている。またその構造ゆえ、風に吹かれて葉が擦れ合うときに特徴的な音が発生し、「そよご」の語源となった。(ウィキペディア「ソヨゴ」)

     池を離れると、先頭と最後尾の間がかなり離れて来た。先頭に立つ上尾二人組の足が速く、姫もそれに合わせているからどんどん離れてしまう。
     レイクタウンを区切る通りを越えると、ニュータウンとは全く違う、古くからの農村地帯を思わせる光景が広がってきた。周りは櫓田になっている。家々の敷地も広く、屋敷林も見える。「豪農ですね。」
     樹木が密集した一角で姫が立ち止まった。道路から一段高くなったところで、松の木の根元に「従是東忍領」の領界石が立っているのだ。ここから東は忍藩領だと言う。こういうものがあることは以前に姫に教えられていたのだが、忍藩と越谷との位置関係が良く呑み込めなかった。住所は越谷市大成二丁目である。
     忍藩と言えば行田とばかり思ってしまうのだが、こんなところにも領地があったのだ。飛び地であろう。越谷は、岩槻藩領、忍藩領、天領、旗本領が入り組んでいたところで、境界を巡る争いが多かったと想像される。忍藩は領内十六か所に、このような領界石を建てたらしい。熊谷には「従是南忍領」があって県の子弟記念物となり、吹上の旧名主の江原家には「従是西忍領」のものが残っているようだ。
     しかしここには領界石があるばかりで何の説明もないので、姫は「不思議です」と憤慨している。やっとこれに関係する記事を見つけた。

    初代大相模次郎が当地に移住した時から現当主まで同じ敷地に代々居住し、外周部に構堀と土塁を回し、敷地内に「神明社」が記載されている。隣接地に墓地「桜堂」、元荒川の堤防の側に氏神「久伊豆神社」があり、菩提寺「観音寺」も記載されている。(中略)
    現在は構堀内の北側略半分は住宅地(貸地)となり、当主の住宅も一部古材を活用して改築され、長屋門や道場も明治期に解体されて今はない。構堀遺構は三周囲方向すべてふたつきのコンクリート構造に置換され、土塁と判定できる高さがなく、古くからの樹木が茂っている。敷地の外部南西の角に忍藩の飛び地であった名残の石柱「従是東忍領」がある。(中略)
    遺構の発掘調査が行われたが、中世を代表する青石板碑が五基確認された程度で、めぼしい出土品はなかった。五基の板碑は「桜堂」に移設・保存されている。
    http://www.ne.jp/asahi/ohsagami/salon-koshoga/home/r-yakata.html

     ここは大相模氏(更に後裔の中村氏)館跡地の南西角に当たるのであった。中世の在地領主の時代から江戸の名主まで、一貫してこの地に根拠を置いた一族である。幕末には神道無念流の道場を開いていたようだ。越谷の歴史にとっては重要な場所で、少なくとも説明板位は設置して貰いたい。そして今日はこの後も大相模氏や中村氏に関係するものに色々出くわすことになるのだが、私はまだ何も気付いていない。
     「イシミカワですよ。」今日は初耳の植物が多い。「ママコノシリヌグイみたいなんだよ。」宗匠がそんなことを知っていのか。「エライじゃないの。」確かに蔓に棘がある。調べてみるとママコノシリヌグイも同じタデ科イヌタデ属であった。トウモロコシの粒のような、少しひしゃげた形の青い実に薄紅や白も混じり、それが握り拳位の塊りになって、開いた葉の上に載っている。「こんなに綺麗なのは初めて見るわ。」私以外のほとんどの人は知っているのである。石見川・石実皮・石膠と表記され、語源は不明だ。実のようなものは萼だという。

     桜堂墓地に入る。越谷市相模町五丁目。今は眞大山大聖寺の墓地の看板が掛けられているが、本来は大相模氏(中村氏)の墓地であった。「すごく小さいよ。」観音堂を覗いていた講釈師の言葉で私も覗き込んでみると、確かに十五センチ程の金色の観音像が鎮座している。堂の前には大相模次郎観世音菩薩というのも立っている。「大相模次郎って誰だろう。」ダンディが呟いているが、この時は私もまだ知らないから返事のしようがない。野与党の箕勾次郎経能(岩槻箕輪を本拠にしたらしい)の次男能高である。生没年ははっきりしないが、承久の乱(一二二一)の後、大相模に移住して地名を苗字にしたと考えられている。
     墓地には、江戸時代以前と思われるかなり古い型の五輪塔や宝篋印塔、如意輪観音像などが所狭しと並んでいる。その間を飛び石伝いに一番奥に行くと、竹で組んだ塀の手前に阿弥陀一尊種子が大小四基、阿弥陀三尊種子一基の青石塔婆が並び、一番左には背の高い「南無阿弥陀仏」六字名号の板碑が建っていた。越谷市の有形文化財で、文和三年(一三五四)正月吉日の銘があるという。文和は北朝年号で、南朝では正平九年に相当する。
     高さ八十五センチ、幅二十三センチ。彫は薄く、余り見たことがない優しげな書体だ。姫の調査では一遍流というものらしい。六字名号は阿弥陀仏に対する絶対帰依として親鸞の真宗系と一遍の時宗系で唱えるが、一遍流というからには時衆によって建てられたものになるのだろう。一遍は時衆を率いて各地を遊行しながら、「南無阿弥陀仏 決定往生六十万人」と書いた札を配布(賦算)した。その文字を石に写したものだと思われる。

     小春日や一遍流にナムアミダ  蜻蛉

     これが中村家に伝わったものだと言うことは、大相模氏は時衆だったかもしれない。実は私は一遍の踊り念仏が良く分からないでいる。躍ることによって無我の境地に入るということだろう。しかし「無我」というのは思考放棄ということではないか。それに阿弥陀仏への絶対帰依と熊野への熱い信仰との関係がつかめていないのだ。
     久伊豆神社の鳥居の柱の両側には「風雨順時」「村家安寧」の文字が彫られている。それを潜ると参道の両側には民家が並ぶが、随分長い参道だ。やっと参道を抜け、正面に二の鳥居が見えてきた。鳥居の手前の両側に立つのは大きな公孫樹で、樹齢百年と言われる。越谷市大成町一丁目二一五六番地。

    久伊豆神社は武蔵七党の一つ「野与党」の氏神とされ、大相模次郎能高が本拠地とした大相模郷にも『久伊豆神社』が勧請されている。境内入口には樹齢数百年と言われている直径一・五メートルにも及ぶ銀杏の大木があり、太いしめ縄が張られている。また、境内には文化四年(一八〇七)銘の御手洗石などがある。
    http://www.ne.jp/asahi/ohsagami/salon-koshoga/home/r-hisaizu.html

     ここにも大相模次郎が登場した。野与党は秩父平氏(平良文を祖とする)を名乗ったが、別に武蔵国造家(出雲出身)の武蔵武芝の裔とする説がある。その領域と久伊豆神社の分布とがほぼ一致していることから、出雲との繋がりが深いと考えられるのである。
     てっきり境内に入るのかと思ったのに、先頭の姫は左に曲がって歩いて行く。ちょっと覗いてみたい気がして鳥居を潜ろうとすると、「寄らないで下さい」と声が掛った。「あーあ、怒られちゃってさ。」「バッカだな、素早く入らなくちゃダメだよ。気付かれないように、こっそりと。」私は講釈師とは違うので、「こっそり」ということができない。
     狭い道を道なりに行くとやがて朱塗りの冠木門に突き当たった。日枝神社の裏に出たのである。越谷市相模町六丁目四八一番地。「元は比叡山、本社は大津の坂本ですね。あっちは日吉と書くけれど。」ダンディが念を押す。元々は比叡山の地主神の大山咋神で、天台密教と習合して山王権現となった。天台宗とは切り離せないのだが、明治の神仏分離で日吉神社、日枝神社と称するようになっている。「ヒエ」は比叡である。
     小さな社殿を回り込んで正面に出ると、朱塗りの両部鳥居の前に猿の石像がしゃがみ込んでいる。猿は山王権現の神使とされる。「可愛いでしょう。」「表情がいいわね。」雄猿の顔はヘラヘラ笑っているようにも見える。右には子猿の蚤取りをしているような母猿が座っている。

     元荒川の土手に出たところで「ちょっと早めですがお昼にします」と姫が宣言した。「日当たりが良いところがいいね。」石段に日が当たり、その下の草叢が良さそうだ。しかし宗匠と私が折角ビニールシートを敷いたのに、シートに座ったのはドクトルだけで、他の人は石段に腰を下ろす。
     講釈師は愛妻弁当を広げて「愛妻じゃないよ、悪妻だよ」なんて呟く。テレているのだ。弁当を終えて靴を脱いで寝そべっていると、ポカポカして眠くなってくる。今日は寒くなる筈ではなかったろうか。

     冬日向土手に寝転ぶ昼下がり  蜻蛉

     食べ終わると、どこからともなく煎餅や飴が回されてくる。やがてチイさんがまた何かを配り始めた。女性陣から配り初めて、「残り物」と目の前に出されたのは柚子だった。彼に柚子を貰うのも、もう何度目になるだろう。講釈師はすかさず五六個抱え込もうとする。ハコさんはすぐに皮を剥いて食べ始めた。柚子はこうして食うものかと皆が驚いているのに、「これが旨いんだよ」と、いつものように重々しく断言する。
     土手に上がってトイレを済ますと、関西弁の男性が土手の反対側に建つ小さな祠を指差して、「板碑があったよ」と奥さんに話しているのが聞こえた。「イタビ。イタビって何。」それなら見なければならない。
     日枝神社の説明に書かれていた「神社にほど近いおしゃもじ橋と称された祠堂」にある二つの板碑だと思われる。ただ祠堂を「おしゃもじ橋」と言うのは変だ。「おしゃもじ様」ではないだろうか。嘉暦三年(一三二八)と元弘三年(一三三三)の銘がある筈だ。「キリークだよね」と宗匠と確認したから間違いない筈で、どちらも阿弥陀一尊種子である。「この青い石はどこから持ってきたんやろか。」それなら私の領分である。「秩父長瀞の緑泥片岩ですよ。」「そうですか、初めて見ました。」
     二つ並べて御幣を飾り、その手前にはシャモジが供えられている。両側には大量の杓文字を入れた古い袋も置いてある。「これって何。」何だろうか。
     シャモジを奉納するのは何故か。宗匠は「風邪・喘息・百日咳などで咳に悩む人がこの社に上げてあるおしゃもじを持って帰り、喉を撫でると効き目があるといわれる」という民間信仰を探し出して来た。近世の習俗だろうが、本来はもっと違うものだったのではないか。まず、語尾に「モジ」を付けるのは女言葉であり、正しくは「杓子」と言うことを念頭におかなければならない。
     杓子は「シャグジ」「シャグチ」「シャグジン」(石神)の謂いである。サエ(塞)の神や道祖神とも混同することがあるのだが、漢字表記は様々で、御社宮司、御左口神、赤口神、尺神、杓子神、守公神、御作神、御社宮司、守宮神、御射軍神・佐久神、石神、尺神、赤口、裂口、赤地などと書かれる。この中の「杓子神」に注目するのである。

    (略)自然石の手に持てるぐらいの棒石や丸石を祠にまつって、石神、シャグジ、サグジ、シャグジン、社宮司、シャモジ、オシ、ヤモジサンなどと、その他いろいろの名でよぶ例は多い。この石神の問題は、日本の庶民信仰の根源を示すものなので、(中略)『石神問答』となって、日本民俗学の草分けとされている。すなわち日本民俗学は「石の崇拝」という問題から出発したといっても過言ではない。(中略)
    オシャモジサマというのはオシャグジサマ(御石神様)の訛りであろうけれども、とくに女にとって御利益のある神のようになったのは、縁結び、男女和合が石神の一つの属性だからである。(中略)
    このような祠が村や集落の共通の信仰対象になれば、石神または社宮司といわれ、オシャモジサマともいわれて、子供の夜泣きの神や百日咳の神、耳だれの神、疣の神なお、きわめて庶民的な信仰の神になる。(五来重『石の宗教』)

     漸く宗匠が調べた結果に行き着いた。石神信仰はこの列島に最も古くからある民間の信仰であった。
     午後の部は大相模不動尊から始まる。元荒川に沿って、さっきの久伊豆神社、山王権現を経てこの不動の前を通る細い道が、古奥州道にあたっているようだ。正式には眞大山大聖寺と号す。越谷市大相模町六丁目四四二番地。私たちは東門から入ったようで、赤い塀、赤い柱に屋根を付けた門を潜った。門の右脇には「是より大さがみふどうそん」の石標が立っている。
     寺伝によれば、天宝勝宝二年(七五〇)、東大寺の開山良弁僧正が相模国大山で彫りあげた不動明王を祀ったのが始まりである。相州大山寺も同じ縁起をもっていて、天平勝宝七年(七五五)、東大寺初代別当良弁により大山寺が開創したことになっている。これでは越谷のほうが五年も古いことになる。
     そして、これが大相模の地名の由来なのだ。「何故ここに相模ってあるのか不思議でした」とチイさんは朝から言っていた。良弁は一本の木から二体の不動明王を彫上げ、相州大山と分け合ったのだが、越谷の不動明王は木の根元の部分だったので、「大」を付けた。そしてこの寺こそは真の大山であるとして、眞大山と号し大聖寺と称したと言うのである。
     これは胡散臭い話だ。そもそも「真の」と言い、「相模」と名付けるからには、それに先行して相州大山寺が存在しなければ理屈に合わない。むしろ、相模国大山寺の不動明王を模倣して、大山の「大」と相模を合わせたと考えた方が自然ではないだろうか。
     「良弁杉って知ってますか」とダンディが笑いかけてくる。記憶の底にあるようだが朧気だ。曖昧な顔をしていると、「鷲に攫われて」と付け加えてくれる。そうだった。鷲に攫われて杉の木に落ちた子供が良弁である。一説には相模国の漆部氏、別の説では近江百済氏とも言う。別に越前遠敷で生まれたとの説もある。義淵僧正に師事して位階をあげ、東大寺創建に尽力して僧正位に上った。

     赤い実をつけるのはガマズミである。「何を見ても同じに見えてしまう。」宗匠は私が思っていたことを口にする。
     「これだよ、俺は堂々としているだろう。」天保十年の銘を持つ庚申塔で、保存状態はかなり良く、青面金剛の表情がしっかり確認できる。左前の手でショケラを掴んでいるのもちゃんと分かる。不動明王のように髪を逆立てた青面金剛に踏まれている邪鬼の顔が、「堂々としている」と講釈師は主張するのだ。
     チロリンやクルリンが賓頭蘆堂でオビンヅルの頭を撫でているところに、「ここに集まってください」と姫の声が掛る。由緒ある寺で見どころはいくつもある。自由に見学して定刻に集まるようにとの指示が出た。
     「山門を見ようぜ。」講釈師が何人かを引き連れて山門を目指す。私はその前にタブの木を見る。樹齢五百年ほどと推定される木は、太い幹の中ほどから空洞になっていて、それが広がらないよう細い縄で縛って固定している。本堂の欄干には色鮮やかに七福神を彫った三枚の額が掲げてある。左が恵比寿と大黒、真中は毘沙門、弁天、寿老人、右が福禄寿と布袋だ。
     ぴんころ地蔵なんていう、マンガのような新しい地蔵が立つ。この頃の流行りなのだろうか。私はこういう名前の付け方が好きではない。
     それでは山門を見に行こう。仁王門は、正徳五年(一七一五)、茅葺屋根で建立され、文化五年(一八〇四)瓦葺に改修、その後破損して明治十七年に銅板葺に改修したものだ、正面の額字「眞大山」は松平定信による。余程書に自信があったのだろうか。定信書の扁額は前にも見たことがある。どこでもそうなのだが、折角の仁王像も、金網で囲われてしまうと、ちゃんと見ることが出来ないのが残念だ。
     山門の前では作業服を着たオジサンが解説している。「昔は二十段の石段を上って本堂にあがった。明治二十八年の火事で、この仁王門を除いて全部焼けてしまったんです。」まさか住職ではないだろう。
     境内に戻ると、講釈師は「虹だんご」の虹屋の前で憮然とした表情で立っている。「どうしたの、買わないんですか。」「三本セットでなくちゃ売らないんだってさ。」「それなら三人集めればいいじゃないの。」もちろん私は食べないけれど。関西弁の男性の奥さんも、「三本なのよ、それも三人兄弟なんだもの、多すぎるわ」と悩む。ちょうどやって来たマリーも「私は食べられないわ。さっき食べたばっかりだもの」と言い、姫やカズちゃんも頷いている。
     また奥に戻ると、庫裡の方には家康が使った寝衣の説明がある。鷹狩りの際に宿泊したというのだ。「垢付きだってさ。俺の布団だって値打ちがでるんじゃないかな。」汚染されていると誰も触らないし、捨て所もなくなってしまうんじゃないか。
     毎年九月四日には梨市が開かれる。その日は、家康が関ヶ原に出陣する際ここで戦勝祈願をしたのだと言う。家康が江戸を発ったのは九月一日とされている。四日にこんな所に来ていて、九月十四日の布陣に間に合ったのだろうか。本当に来ていたとすれば明らかに遠回り、無駄な行動である。また梨がどう関係してくるのか分からない。
     「持ってませんか。誰が持ってるのかしら。」さっき寺の地図を回覧するように回していたのだが、まだ姫の手元に返ってこないようだ。「変だわね。最後は誰が見たのかしら。」いろいろ探ってみると、宗匠からチイさんへ、そしてチロリンへと回ったらしい。「確か返したと思うけど。」姫がバッグに手を入れて確かに有ったと確認した。「ごめんなさいね。」

      冬うらら睡魔と惚けの探り合ひ  閑舟

     本堂を前に記念写真を撮って寺を出て、また川べりに出た。穏やかな日を浴びて土手を歩くのは気持ちが良い。
     「あれ、見なよ。川鵜とアオサギだよ。」川岸に錆びた鉄の枠が立ち、上段に川鵜、下段にアオサギが、仲良く日向ぼっこをしているのだ。「珍しい光景ね。」二羽ともほとんど動かず、瞑想に耽っているようでもある。

     窓枠に 黒い川鵜と 青い鷺 狙い撃ちする シャッター音  千意
     冬日向嫋やかなりし鷺の背よ  閑舟

     「カモは羽毛に脂分があるんですが、鵜には脂がないんです。だからああして羽を乾かす必要があるんですよ。」鵜の羽毛に油がなくて濡れやすいのは、水に潜るために便利ということもある。そこに、アオサギがもう一羽やってきて、上段の川鵜の隣に並んだ。最初は声を上げようとした鵜もすぐに静かになってまた瞑想に耽る。「こっちのほうが若いな」と講釈師が断言した。

      鷺と鵜と又鷺とまる日向ぼこ  蜻蛉

     「シロサギもいるよ。」「あれはコサギだよ。シロサギなんていないんだ。」既にアオサギが存在するならば、シロサギという種類があっても良いのではないかと素人は思ってしまう。ウィキペディアによれば、白鷺(シラサギ)は、サギ科のうちほぼ全身が白いサギ類の総称で、日本ではダイサギ・チュウサギ・コサギ・カラシラサギを指す。そしてコサギはサギ科シラサギ属である。シラサギであって、シロサギではないのだ。
     「白サギは小首かしげて。」講釈師がまたおかしな歌を歌いだした。「なんですか、それは。」「知らないのかい、高田浩吉だよ。エーそれそれ、そじゃないか。」高田浩吉までは私の知識の範囲に入っていない。ついでだから調べておく。西条八十作詞、上原げんと作曲『白鷺三味線』である。

      白鷺は小首かしげて水の中
      わたしとおまえは
      エーそれそれ そじゃないか
      ピイチクパアチク深い仲

     下らない歌詞である。そしてこれが昭和三十年の映画だと知ると、なおさら驚いてしまう。既に三橋美智也と春日八郎が登場して、歌謡曲の世界は、田舎と東京との対立、そして望郷が時代のテーマになっているのだ。それと比べてこの感覚は余りに古い。「知らないなんて嘘でしょ」とマルちゃんが疑わしそうに私の顔を見る。「本当に知らないんだよ。」「また、ウソバッカリ。」
     芦の生える場所から雀が飛び立った。この頃、街中では雀をとんと見かけなくなった。ウィキペディアによれば、日本の雀の個体数は確かに減少しており、一九九〇年にくらべて二〇〇七年には半減している。機密性の高い住宅の普及で巣を作る場所が少なくなったこと、コンバインの普及で落ち籾が減少して冬季の餌が減ったことなどが原因として考えられるらしい。

      芦原に雀群れたり冬の午後  午角
      歳古れば芦原の風に物想う  午角

     やがて見覚えのある風景になった。「これは葛西用水です。さっきまで見ていた元荒川はその向こうに並行して流れています。」すぐ向うにしらこばと橋が見える。
     記録を引っ繰り返すと、ここには三年前の七月に来ている。瓦曽根堰である。逆川を流れてきた水を堰き止め、貯溜して用水路に流すのである。慶長年間に瓦曽根溜井が築造されてから後も、利根川、荒川は瀬変えを繰り返し、水量不足が起っていた。万治三年(一六六〇)伊奈氏四代の忠克によって利根川に取水口が設けられ、漸く葛西用水路の体系が完成した。「元の水門ですよ。」赤い水門がモニュメントのように立っている。

    「赤水門」は、葛西用水の瓦曽根溜井を形成するために江戸期に築かれた石垣を撤去して、1924年(大正13年)にかんがい用に県が建設しました。全体に塗ったさび止めの色から、その愛称がつきました。高さ2.7m、幅3mの鋼板の扉が10枚あり、チェーンによる巻き上げ式でした。
    http://homepage3.nifty.com/shirakobato-network/town/akasuimo.html

     「カワセミじゃないか。」「どこに。」「あそこだよ、あの枝の。アッ、飛んだ。」確かにオレンジ色の腹が見えた。「良かったわね。」
     ちょっと休憩してもう少し土手を歩き、市民会館が見える辺りから、石垣を降りて河原に入る。「気をつけて下さいね。」雨が降ったら入れない湿地帯だ。「私も晴れ女が復活しましたからね。」「私だって晴れ男だから、姫に協力した。」科学を知らない人たちの聞きなれた話である。
     ここからが今日のメインテーマであるキタミソウ観察会なのだ。こんなところに生えているのか。「アッ、ありました。」「どこ。」「俺、踏んじゃったかな。」言われてもなかなか探し出せない。姫の案内では花は直径一ミリ程度。まず地面にへばり付くように放射状に伸びる葉を見つけなければならない。長さは四五ミリで細く、先端がスプーンのように丸くなっているのだ。
     「それじゃないかい。」数本の葉が放射状に延びているその付け根に、白い小さなものが見えた。二ミリ程度だろうか。ヨッシーが「これですよね」とルーペを貸してくれたので漸く分かった。私も虫眼鏡を持っていたことを思い出して、リュックから引っ張り出した。
     確かに花の形だ。しかし虫眼鏡でも細部はよく見えない。カメラで撮って拡大してやっと花弁の数が分かる。それにしてもキタミソウとは何であろうか。「ウラサワ先生が発見したんです。」そう言われても、私は面識もなく名前も知らない。
     本来、シベリアのツンドラ地帯に生育するもので、明治の頃に北海道の北見地方で発見されたことから北見草の名が付けられた。越谷では昭和二十五年(一九五〇)、大井次三郎によって元荒川で発見されたものの、その後いったん絶滅したと思われた。それが昭和五三年(一九七八)になって、葛西用水で卜沢氏(元越谷北高校校長)によって再発見されたのである。姫の言うウラサワ先生とはこの人物のことだ。
     現在、国内の群生地としては、埼玉県東部(越谷市、三郷市、さいたま市岩槻区、行田市、南河原村)、茨城県の小貝川、北海道、千島列島、熊本の江津湖などで自生が確認されていると言う。知る人ぞ知る、貴重な植物なのだ。

    キタミソウの分布を世界的に見ると、サハリンなど北方の湿地にだけ生育しています。したがって本来は、温暖な気候の越谷地方には、生育しないはずです。ではなぜ、越谷で生育しているのでしょうか? それは、たぶん、北国から飛んでくる渡り鳥によって運ばれた種が適地を見つけて繁茂したのでしょう。でも、これは実は、葛西用水の人為的な管理と関係が深いのです。葛西用水は、4月下旬に堰を止めて水が溜められて、水は支流の用水から水田へと流れます。そして、水田に水が要らなくなった9月上旬頃に堰が開き、水が落ちます。キタミソウは、夏は水中で(深さ2~3m以上になる場所に限られているようです。)暑さから守られ、北方の夏と同じ気候条件となる秋に発芽・開花し、真冬にはほとんど枯れてしまいますが、春になると、再び発芽・開花するのです。花の時期は10月~11月と3月~4月の2期あります。(「水辺のロマン花」キタミソウ)
    http://homepage3.nifty.com/shirakobato-network/nature/kitamiso.html

     ゴマノハグサ科キタミソウ属である。石が転がり他の野草も混じるこの湿地で、夏は水中で、そして用水の水が落ちる春と初冬の時期だけ顔を出して、健気に生きているのである。世界中のほとんどの人は、こんな花が生きていることにまるで気づかないだろう。興味があっても、探し出せずに踏んづけてしまう。
     「どこだい。」ドクトルはまだ発見できないでいる。「ここですよ」と石ころを外すと漸く分かってくれた。隊長はカメラをぐっと近づけて撮っている。「そんなに近づけるのかい。私のは十センチ離さないとダメだ。」ジャンバーの裾が濡れないように気をつけて見なければならない。花は星型の五弁だというのだが、隊長の撮ったのも私の撮ったのも六弁ある。家に帰って確認すると、もう一枚の写真では確かに星型になっていた。栄養が良ければ六弁になってしまうのもあるのだろう。

      キタミソウ小さき命花開く  午角
      冬の川皆つくばひの北見草  閑舟
      蹲踞して北見草見る冬河原  蜻蛉

     「草加にもありますよね。」「でも越谷で発見されたのが最初です。」姫の越谷ナショナリズムが頭を擡げる。やがて茶色になった他の草を刈り取って、テープを張った場所に出た。他の植物がいない場所で生育を観察しようというのだろう。
     土手に戻り、中央市民会館でトイレ休憩をした後、一億円のトイレを横に見ながら橋を渡って行くと東福寺に着く。真言宗豊山派。越谷市東越谷一丁目十二番地二十一号。仁王門の格子にガラスが嵌め込まれているから、ここでも仁王像はよく観察出来ない。
     ここが東越谷河畔砂丘の最高点になると言う。この辺りは元荒川がちょうどほぼ直角に曲がる地点で、自然堤防が発達したと考えられている。

    砂丘を形成維持するために必要となる、安定した砂の供給源を持たない植生の豊かな日本の内陸部で砂丘が形成されるのは河畔砂丘のみで、河原から吹き上げられた砂が、蛇行した河川の凸部の風下側に堆積することにより形成されるものである。したがって河畔砂丘は、砂を含んだ河原が広い、ある程度規模の大きな河川の流れる平坦地(氾濫原)という限定された条件がなければ形成されない。低地にある微高地という点で自然堤防と類似する地形である。(ウィキペディア「河畔砂丘」)

     仁王門を潜って境内に入る。南北朝時代の板碑が保存されているようだが、境内には見えない。この辺に板碑が多いのは、荒川を利用して緑泥片岩の輸送が容易だったためではないだろうか。古くは下総国新方荘小林と言ったと言う。本来、下総と武蔵の境は荒川だろうから、その流路が時代によって変遷したことが分かる。
     宗匠は閻魔堂の内部を窺って閻魔を見ている。「この紋は閻魔のものかな。」そんなことを聞かれても分かる筈がない。ドクトルは境内の砂を拾って掌に広げて観察するのに夢中だ。「これを撮っておいてよ。ルーペ越しに。」写してはみたものの、私にはそれがどんな価値があるのか分からない。河畔砂丘特有の何かがあるのだろうか。寺を出た後も掌にその砂を載せたまま、皆を集めて講義する。石英、雲母が混ざっているらしいのだが、それがどういう意味を持つのか誰も分からない。
     加藤幸一『かつての利根川の河畔砂丘』(http://bc3456de.sakura.ne.jp/231.pdf)という報告がある。一九九一年の越谷北高等学校気象部(指導教諭・佐藤和平)の研究成果をまとめたものだ。これによれば、元荒川はかつての利根川水系だったということになる。

    河畔砂丘はかつての利根川流域で見られる。かつての荒川流域にはみられない。
    河畔砂丘は、わが国では、この関東地方のかつての利根川流域で見られる(濃尾平野と北上平野では小規模な河畔砂丘があるのみ)。
    河畔砂丘の砂は、火山性の石からできた砂が多く含まれている(50%弱)。

     石英や雲母が混ざっているのはそういうことだろうか。
     また一億円トイレに戻って来た。イトハンは話のタネだと中に入って行った。「どうだった。」「全然。普通以下だったわね。」一億円というのは、トイレとその周辺施設すべてを含んで掛った費用で、トイレ自体は三千万円ほどだという説もある。
     今度はかつては川筋だったのではないかと思える遊歩道を歩く。静かな雰囲気で、姫によれば「スダジイのドングリがたくさん落ちている」ようだ。そろそろ少し寒くなって来た。

      晩秋の 西日目に入る 散歩道  千意

     照蓮院の前の駐車場に、何かを金網で囲ってある場所に出た。越谷市瓦曽根一丁目五番地四三号。大きな碑は「最勝院奉納相撲由来記」である。こんなものは姫の案内資料には書かれていない。裏に回ると、実は石碑や庚申塔、力石が檻に閉じ込められたように集められている。
     しかし姫の目的は窮民救済の碑だった。但し題字は「稲垣茂齊翁瘞歯之蔵」とあって、これで窮民救済碑と判断するのは難しい。「瘞」は埋めると言う字だから、稲垣茂齋の歯を埋めた、つまり稲垣茂齋を顕彰したのだろうと想像できる。

     この石碑は、天保九年(一八三八)一月、瓦曽根観音堂敷地に稲垣宗輔らが建立した窮民救済の碑である。
     稲垣宗輔は、浅草福富町の豪商稲垣氏・池田屋市兵衛方に婿養子に入った、瓦曽根村名主中村彦左衛門重梁の次男である。
     天保五年から七年(一八三四~三六)にかけては、全国的な大冷害により関東地方なども大凶作となり飢餓に瀕した人々が数多く、各地で穀物商などを襲って食糧を奪い取る打ちこわし騒動が頻発していた。
     この碑銘を要約すると、中村彦左衛門は代官久保田十左衛門支配のとき、凶年手当用として御貸付所(幕府の銀行)に預金していたが、天明年間の凶作年には、御貸付金の元利金を下ろして窮民に与え、飢餓より救った。
     重梁は、その子らにも凶年手当金を備えておくよう遺言して没したが、稲垣家に養子に入った宗輔はこれを受け、文政九年(一八二六)浅草猿屋町会所御貸付所(当時勘定奉行遠山景元)に凶年手当金として百両を預金し、天保七年(一八三六)の大凶作にはそこから金九十二両を下ろし、瓦曽根村の窮民九十二名宛てに金一両づつ施金してこれを救った、との旨が記されている。
     また、碑文と歌は、宗輔とは弥従兄弟にあたる恩間村の漢学者兼国学者渡辺荒陽(瓺玉斎)によるものである。
        平成六年 越谷市教育委員会

     じっくり読んでいると、次第に疑問が生まれてくる。この「要約」によれば、窮民を救うのに力を尽したのは中村彦左衛門と、その次男で池田屋に養子に入った稲垣宗輔である。ついでに言い添えれば、彦左衛門は、大相模氏の後裔である中村氏の当主が代々世襲する名だ。普通に考えると、この二人の業績を顕彰したものと見たいところだ。ところが記事の冒頭には、「稲垣宗輔らが建立した」とある。宗輔自身が自分の業績を顕彰するとは考えられない。それならば「宗輔ら」が顕彰する稲垣茂齊翁とは誰のことだろう。宗輔の実父の彦左衛門ならば中村だから名字が違う。
     もしかしたら、「稲垣宗輔らが建立した」の部分が誤っているのではないか。この一文さえなければ、稲垣宗輔の事業を顕彰した碑であって、茂齊はまさに宗輔のことと考えて、何もおかしいことはないのだ。下手な「要約」をせず、碑文の原文を全て活字に起こしてくれていたら良かった。
     また天明や天保の飢饉にあって、私財を投じて窮民を救済した豪農や豪商の話は各地に残されている。勿論善意によることを否定はしないが、一揆打ち毀しを免れたいという本音もあったことは間違いないだろう。それに百両は確かに大金だが、稲垣宗輔にとって、それ程大きな金額だったとは思えない。浅草福富町の豪商と言えば蔵前の札差だろうか。窮民一人当たりの施し金一両は下女の給金(相場は一両二分)にも及ばない。もし妾を囲っていたとすれば、一カ月に一両から二両かかる。これらを考えれば、決して端金ではないが、エライと感嘆する程の金額ではないだろう。
     「弥従兄弟って何かな。」画伯の質問に私は適当に「またいとこじゃないかしら」と答えた。念のために国語辞典に当たって間違いないと確認できた。父母のいとこの子である。その渡辺荒陽は平田篤胤の門下だった。天保九年二月に八十七歳で没しているので、この碑文は死の直前に書かれたことになる。
     姫は「この保護の仕方、淋しくなります」と言っている。金網で保護しているというより、檻に閉じ込められた感じがするのだ。
     更に栃木銀行の近くの路地に入ると、地蔵堂に石幢六地蔵や庚申塔、秋葉権現の石宮などがまとめて置かれた場所に出る。姫曰く「住宅地にポッと不思議な空間」である。地蔵堂庚申記念碑という大きな石碑も建っている。
     石幢六地蔵を見て、イトハンは「ロクニジュウニで」十二面あるなんて不思議なことを言う。六角です。「あら、そうだったわ。ヤーネー。」この形の六地蔵には何度かお目にかかったことがある。「どこかで見たよね」と宗匠も言っているが、それがどこだったか思い出せない。それに子を抱いたものは初めて見るような気がする。因みに石幢というのは六角または八角柱の石塔の事を言うが、八角のものにはまだお目にかかったことがない。
     ネットをあちこち検索しているうち偶然に辿りついた記事によって、詳しいことが分かった。越谷市郷土研究会に去年報告されたもので、よく調べている人がいて有難い。

    なんと、六地蔵石幢前面の主尊が、「左手に子を抱え、足元の衣にもう一人子供がすがっている、子安地蔵尊」である。他の五地蔵は、「数珠、宝珠、香炉、幡、天蓋」を持った姿である。今までにも、かなりの数の六地蔵石幢を拝見してきましたが、私にとって子安地蔵を主尊とする六地蔵石幢は初めてであり、報告するものです。
    (加地勝「子安地蔵を主尊とする六地蔵石幢」http://bc3456de.sakura.ne.jp/94.pdf)

     この報告に収録されている図(加藤幸一作図)を見ると、「三界萬霊」と彫られた台座があったらしいが、私はそこまで確認できなかった。文化元年(一八〇四)のものと言う。越谷一丁目十一番地。かつては薬師堂があった場所らしい。
     研究会の「調査・研究・レポート」(http://bc3456de.sakura.ne.jp/newpage21-99.htm)は役に立った。河畔砂丘の所で触れた報告もここにある。大相模氏館跡についても高崎力「越谷における中世の城館跡」というレポートがあったが、それには領界石のことは書いていないのが惜しまれる。

     計画の三時半よりは少し早く越谷駅前に着いて解散する。歩行距離は一万四千歩で、姫の企画にしては短かったと宗匠が安堵している。
     二十人も入れる喫茶店はなかなかないだろう。野薔薇先生たち六人は別の店を探すと言って別れ、こちらは越谷支部からも三人加わって十五人がちょうど入れる店を見つけた。チイさんはまたしても銀行で大金を下ろしてくる。あんみつ姫はケーキ依存症というものではあるまいか。四時少し前に「そろそろ時間です」とダンディから声が掛って店を出る。
     反省会は新越谷に決まった。ドクトルとヨッシーは所用があってそのまま伊勢崎線で帰り、画伯はJR武蔵野線の改札口に消えて行った。「次回は参加しますよ」と言う声が少し淋しそうだ。

      輪を辞して一人冬日の街を往く  午角

     「ほかの店は大体四時半からだからね。」ハコさんの言葉で、武蔵野線のガード脇の「いちげん」に入る。昔は「一源」と称していたのではなかったろうか。四時から開いているのはここだけらしい。反省するのは隊長、ダンディ、ハコさん、姫、イトハン、カズちゃん、マリー、チイさん、宗匠、蜻蛉の十人である。
     五人ずつ向かい合って座ると何やら合コン風でもあるが、男六人、女四人ではどうしても半端が出る。残念ながら私は端っこで宗匠と向かい合ってしまった。たまたま一番遠く離れた隊長と眼があうと、「睨まないでよ」と言われてしまう。「どうしたの」とイトハンが笑う。「見詰め合ったと言って欲しいね。」「気持悪いわねエ。」
     今日は桃太郎もロダンもいないから、注文係は宗匠に決まった。メニューを見ながら「面倒臭いな」なんて呟いている。「桃太郎は金太郎に行ってますね。」ダンディが断定するが、どうだろうか。海老名から千束の大鷲神社まで手伝いに行くのも大変だ。
     焼酎は宗匠の一声でタンタカタンに決まった。先月も新越谷の別の店で鍛高譚を飲んでいる。「パンパカパンって何ですか。私のことなの」と姫が反応した。今日はかなり神経を使って案内してくれたから、姫も疲れている。パンパカパーン、パパパ、パンパカンパーン、今週のハイライト。漫画トリオ、ノック、フック、パンチなんて言っても、もう知る人は少ないだろう。
     そうではない。鍛高譚というのは紫蘇焼酎の銘柄である。甲乙混合だから安いので先月も飲んでいるのに、ダンディも姫も気付かなかったらしい。「香りがフワッとくるわ。」初めて飲んだカズちゃんは、悪くはなさそうな感想を口にする。女性には飲みやすいのではないかと思う。
     鍛高譚とはアイヌ民話にあるタンタカの物語である。(メーカーのオエノングループがそう言っている。)タンタカはカレイ科の魚だ。ある時、川の水が濁って魚たちが呼吸できなくなった。タンタカは川を遡り苦労した挙句、山に登って紫蘇を取って川に落とした。これによって川の水は浄化され、呼吸の出来なくなっていた魚たちも息を吹き返す。その山は英雄タンタカに因んでタンタカ山と呼ばれるようになった。釧路ではタンタカカレイというのが獲れるらしい。
     豆腐は塩を添えて出てくる。私は普通の木綿の冷奴が食いたいのに、こういう「高級な豆腐」を装う店が増えて来た。「塩だけちょっと頂戴」と宗匠が手を出したものの「なんだ、普通の塩じゃないの」とがっかりする。岩塩とか何か特殊な塩を持ち出してきたと思ったのである。それはともあれ鯖もホッケも旨かった。カズちゃんはお茶漬けが旨いと言っていた。鍛高譚を二本空け、いつものように賑やかに二時間過ごし、ひとり三千三百円也。

    蜻蛉