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    平成二十四年一月二十八日(土) 善福寺公園・井の頭公園

    投稿:   佐藤 眞人 氏     2012.02.03

     旧暦一月六日。戊子。里山ワンダリングとしては珍しい都内のコースで、集合場所は西荻窪駅だ。今年度は上州福島や関宿にも行ったし、来月には八王子片倉が予定されている。埼玉県外に出ることが増えてきて、里山も「グローバル」になったなんて、不思議なことを言う人もいる。
     鶴ヶ島から最短で行くためには、東上線で池袋まで出て、山手線の高田の馬場で東西線に乗り換えれば良いが、運賃は最も高い。一番安いのは本川越から西武線を利用して東村山、国分寺を経由するコースで、この北風の中で川越市から本川越まで歩くのが億劫だ。軟弱な私は東上線の朝霞台(武蔵野線の北朝霞)から西国分寺に出るコースを選んだ。今年は例年に増して寒さが堪える。後で知ったのだが、実は山手線で新宿を経由する方が時間も短く料金も安かった。この時間帯で「乗り換え案内」を検索したときには出てこなかったので、うっかりしていた。
     西荻窪で電車を降りると隣の車両からスナフキンが出て来た。珍しく上から下まで黒づくめで、洒落たハットを被っている。早めに来た積りだったのに、改札を出るともう宗匠とヤマちゃんが待機していて、隊長が作った地図を配っている。隊長がおかしな所から現れたのはコンビニを探していたせいらしい。アレッ、ロダンは欠席の予定ではなかったかしら。「途中で早退することにしました。」
     ツカさんとロザリアも久し振りだが、もっと珍しいひとが顔を見せた。日記をひっくり返すと、花ちゃんとは一昨年の五月に野川公園でセリバヒエンソウを一緒に見ている。「友達が来るんですけど」と携帯電話を取り出して、離れた方に歩いて行った。
     暫くしてその友達がやってきた。まだ花ちゃんの姿には気づいていないようだが、この高齢者集団に違いないと確信して声を掛けてきたのだ。まだ離れた所で首を傾げながら携帯電話を耳に当てている花ちゃんに知らせに行くと、「イッショケンメイ電話してたのに」とちょっと不服そうに呟いたものの、二人で抱き合って喜んでいる。随分久しぶりの再会らしい。

     寒風は吹けども今日のめぐり逢ひ  蜻蛉

     「ニックネームは何ですか。」「ネモっちゃんって呼ばれてます。」花ちゃんと同じ和尚の「チルドレン」である。それにしてもチルドレンの女性はみんな元気だ。類は友を呼ぶのであろう。宗匠が「和尚には許可を貰ったの」と花ちゃんに笑いかけている。その和尚も脚の腱を切ってから里山に参加できなくなって久しい。ボランティアのギター演奏が好評で忙しそうなのは結構だが、もう長距離を歩けるようになったのだろうか。「都合がつけば反省会に出て来るって言ってました」と二人が口を揃える。
     「ネモっちゃんって言うと『海底二万哩』を思い出すわ。ネモ船長ですよね。」姫の記憶力には感心してしまうが、相槌を求められても応えようがなく、うろたえるばかりだ。ヴェルヌなんか中学の頃に卒業した積りで、もうすっかり忘れている。かすかに覚えているのはノーチラス号という艦名だけだ。
     「それじゃ行きましょう。」北口を出て突き当りの、日当たりの良い路地の入口で隊長が皆を集合させた。「何人になったかな。」「二十三人。」路地からバックしてくる軽トラックを避けながら、地図を開いて今日のコース説明を聞いていると、「良かった、間に合ったわ」とイトはんが息を切らせてやって来た。「西国分寺で快速を二本もやり過ごしちゃったのよ。」私も三鷹で各駅停車に乗り換える時ちょっと迷った。東西線が三鷹まで伸びていることを知らなかったのだから、私の知識も随分いい加減だ。
     これで今日の参加者は二十四人と決まった。隊長、あんみつ姫、イッチャン、チロリン、クルリン、花ちゃん、ネモっちゃん、ロザリア、シノッチ、マリー、マルちゃん、カズちゃん、イトはん、野薔薇先生、若女将、宗匠、ツカさん、ロダン、桃太郎、スナフキン、ドクトル、ヤマちゃん、若旦那、蜻蛉である。寒風吹きすさぶ中でもいつもより多いのは土地柄によるだろうか。「西荻とか吉祥寺っていうのは女性に人気があるんだ。俺は知ってるよ。」ヤマちゃんが自信を持って断定する。

     商店街を抜けて川に出た。「何ていう川かな。」地図を見ればちゃんと分かる筈なのに、手袋を脱がないとバッグから取り出せないので不精して訊いてみると、「ほら、善福寺川よ」とイトはんが答えてくれた。ちょっと反省して、地図は出しやすいようにポケットに収納した。善福寺川は、善福寺池を源に杉並区を北西から南西に流れて中野で神田川に注ぐ。
     三面コンクリートで覆われた川には風情も何もないが、水量は少なくても意外に澄んでいる。「結構きれいじゃないの」と若女将が感心したような声を出し、ドクトルは「下水道が完備しているからじゃないかな」と推測する。鯉が泳ぎカモも浮いている。
     川に沿った狭い歩行者専用道を歩きながら、「随分変わったみたい」とネモっちゃんが言っている。「この辺に住んでたの。」「もう三十年も前ですけど。」マンションや家が増えたと言う。
     井荻小学校に突き当たった所で遊歩道は行き止まりになってしまい、迂回してまた川に戻る。校庭を川が流れる小学校というのも、なかなか良いものだ。川を見詰めていた若旦那が「あれは何ですかね」と指差した。川底に円形の花壇のようなものが作られていて、そこにハスの葉が浮いているようだ。私はまるで思いつかないが、若旦那は「そうか、広がりすぎないように囲ってあるのか」と自分で納得している。なるほど、そういうものかも知れない。
     新町橋で川から逸れて右の坂道を行き、青梅街道に出るとすぐ左に高さ九メートルの大鳥居が立っていた。全体が朱塗りで笠木だけが黒い、ごく一般的な明神鳥居だ。井草八幡宮である。杉並区善福寺一丁目三十三番地。住所は善福寺なのに井草八幡というのは、かつての井草はここを含めてもっと広い地域を指していたからだ。

    中世、武蔵国多摩郡に属する井草村の範囲は、現在の井草・上井草・下井草をはじめ、今川・善福寺・桃井・清水の全域、上荻・西荻北の一部に及ぶ。(ウィキペディア「井草」)

     「鳥居って、この系列だからこの様式って決まってないのかな。」私もかつてはロダンのように不思議に思っていたが、今まで見た限りでは、神明鳥居以外は何でも良いのではなかろうか。明神鳥居にしても両部鳥居にしても、氷川神社だろうが八幡だろうが系統に関係なく見ているような気がする。「恰好が良いのを選んでるんじゃないかな。」「カタログがあったりしてね。」私たちは細部まできちんと観察している訳ではないので、本当はちゃんと区別があるかも知れない。八幡鳥居という様式があるようだが、明神鳥居と八幡鳥居の区別を述べよと言われたって、私にはほとんど区別がつかない。どう見てもこの鳥居は明神鳥居にしか見えない。
     二百メートルほどの参道(東参道)は道幅も広く、ひとけがないので静かで良い。五年に一度、この参道で流鏑馬が行われると言う。片側には先週の雪がまだ残る。「気持いいわね。」「ホント、ホント。」塀の内側に背の高い樹木が鬱蒼と茂っているのが分かる。こういう場所ではロダンの心も洗われるだろう。いきなり姫が走り出し、十メートルほど前に立って後ろを振り向いてカメラを構えた。「逆光になってしまってダメね。」大鳥居を背景に全員の姿を撮ってみたいと思ったらしい。
     暫く行くと文政元年(一八一八)に富士講が奉納した石灯篭が立っている。そこを右に曲がると、左手に大きな朱塗りの楼門が見えた。「新しいんじゃないの。」昭和四十六年に建てられたものだが、塗り替えたのだろうか。まっ白な壁が朱で区画され、甍の緑が程良く調和している。遠目では仁王門かと思ったが、近付いてみるとそうではなく、隋神門であった。格子にガラスが嵌められていて光って中は良く見えない。説明を読めば、櫛磐間戸神(クシイワマドノカミ)、豊磐間戸神(トヨイワマドノカミ)である。右は黒の衣装に朱弓を持ち、左は赤の衣装に黒弓を持つ。名前も違っているが本来は石を象徴した神であり、異体同神だと思われる。
     ニニギノミコトが降臨した時、思兼神(知恵の神)、手力男神(怪力)に続いて随伴したのが、天石戸別神(アマノイワトワケ)である。

    次に天石戸別神、亦の名は櫛石窓神と謂ひ、亦の名は豊石窓神と謂ふ。この神は御門の神なり。(『古事記』)

     天孫の宮殿の門で悪霊の侵入を防ぐのが役割だ。櫛石窓神は奇岩真門(『古事記』倉野憲司の注による)である。「奇」をクシと読むのは奇稲田姫でお馴染だし、現代でも「奇しくも」というように使う。石(岩)には様々な力があると古代人が信じたことは、今まで何度も書いてきた。境界では悪霊が侵入してくるのを防ぐ。要するにサエの神(塞の神、障の神)であり、近世になってからも、辻々や橋の袂に道祖神や庚申塔などの石仏を置いたのはそのためだ。宮殿では結界としての門が重要であり、従って「御門の神」になるのは納得できる。
     黒塗りの鉄扉にある金の巴紋は八幡の神紋である。饅頭金具(講釈師の好きな乳鋲)も金色だ。門を潜ると両側は神輿庫になっている。そこに立っている杉並区教育委員会の案内板を読むと、「旧上、下井草村の鎮守です」とあるのが何だかおかしい。「村の鎮守」と言うと、私の感覚ではもっと小さくて素朴な社になってしまう。「村の鎮守の神様の今日はめでたいお祭日、ドンドンヒャララ、ドンヒャララ」(葛原しげる作詞・南能衛作曲『村祭』)である。しかし、「村」にも規模の大小があり、井草はかなり大きな村だったのだ。ここは大社である。
     隊長の案内文にある通り、神社本庁別表神社に指定されている。この用語も初めて知った。
     明治の国家神道体制の下では、神社にはそれぞれ社格が定められていた。昭和二十一年二月に出されたGHQの神道指令(正確には「国家神道、神社神道ニ対スル政府ノ保証、 支援、保全、監督並ニ弘布ノ廃止ニ関スル件」という長い名称)でそれが廃止される。伊勢神宮を除いてすべての神社は原則として同格になり、都道府県の神社庁の管理下におかれた。しかし昭和二十三年、神社本庁はかつての官幣大社や国弊大社に加えて、規模の大きな神社を「別表」に記して直轄管理とした。神職の任免権を地方の支店から本店に戻したとのである。それが別表神社であり、神職にもそれなりの位階を必要とする。これは由緒、社殿・境内地などの神社に関する施設の状況、常勤の神職の数、最近三年間の経済状況、神社の活動状況、氏子崇敬者の数および分布状況などによって定められる。全国でおよそ四百ほどになる。
     ついでだから、神職の位についても調べてみた。まず階位というものがあって、上から浄階、明階、正階、権正階、直階とある。また身分としては特級、一級、二級上、二級、三級、四級の別があり、更に職階として宮司、禰宜、権禰宜の別がある。別表神社の宮司及び権宮司は、二級上、明階以上でなければならない。しかし私は何故こんなことまで調べるのだろうか。何の役に立つとも思えない。

    善福寺川の源泉である善福寺池が豊富な湧水であったことから、この付近にはかなり古くから人々が生活していたと考えられ、境内地及びその周辺地域からも縄文時代の住居跡や土器等が発見されています。
    当宮は創建当時、春日社をお祀りしていましたが、源頼朝公が奥州藤原泰衡征伐の際に戦勝祈願をして立ち寄ったと伝わっており、それ以来八幡宮を奉斎するようになりました。奥州平定後、源頼朝公が報賽のため手植えしたと言われる松が当宮社殿前に雌雄二本植えられておりましたが、雌松(赤松)は明治初年に枯れ、都の天然記念物であった雄松(黒松)は昭和四十七年に強風で大枝が折れ、翌年には残念ながら枯れてしまいました。(現在は、二代目の松が植えられています)
    源氏が八幡神を氏神として尊崇したことから武神の性格が強く、室町時代には石神井城の豊島氏征伐のため、扇ケ谷上杉家の執事太田道灌が戦勝祈願をしたとも伝えられています。江戸時代には、三代将軍徳川家光による六石余の朱印領 (将軍の朱印状によって領有を認められた土地)の給付、また寺社奉行井上正利に社殿造営をさせるなど、篤く崇敬されていました。
    また、旧上井草・旧下井草は、正保二年(一六四五)以降、奥高家である今川氏の領地となり、とりわけ今川氏堯によって寛文四年(一六六四)に本殿の改築等なされ、寄進された一間四方の本殿は杉並区最古の木造建築物となり、現在も本殿として覆殿に納められています。http://www.igusahachimangu.jp/index2.html

     八幡になる以前は春日社だったのか。春日社は藤原氏の氏神だから、平安時代にはこの辺りに藤原氏の荘園があったのかとも考えられる。
     神門を潜ると、右の回廊付近には雪が消えずに残っている。拝殿は権現造りで、拝殿左の回廊の内側には大きな松を輪切りにした衝立が飾られている。頼朝の松の成れの果てだ。頼朝の話が本当なら、この松は八百年以上のものということになる。目通り五メートルあったと説明されているから、直径は一メートル半以上になるが、この輪切りはそれよりは小さい。境内に植えられているのはその二代目である。
     本当に頼朝がここに立ち寄ったのか。後に鎌倉街道がある程度整備されるまでは、ほとんど原野の中できちんとした街道が存在する筈がなく、その時々で多少のズレを生じながら、星や遠くの山影を頼りに通っただろう。西永福には源頼義が凱旋記念に創建したという大宮八幡があるので、府中からこの辺り(と言っても東西にかなりの幅があるが)を通って奥州へ抜けるコースがあったということになる。鎌倉街道中道(奥州道)の原型になるのかも知れない。
     「随分立派な神楽殿なのね。」約三十センチ間隔で開かれた障子の間から覗いてみると、舞台正面には松が描かれ、左手には橋掛かりまで備えた能舞台だ。頼朝祈請八百年(平成元年)と皇太子結婚(平成五年)を記念して、平成七年に改築されている。「私、ここで踊ろうかしら」とイトはんが手をひらひらさせる。「踊れるの。」「踊れるわよ、ほら。」こんなことは講釈師がやる芸ではないか。

     神社を出てもう一度善福寺川に戻ると、八幡橋の下にはゴツゴツした岩の間を水が飛沫を立てて流れている。橋を渡れば下の池だった。上の池と合わせて善福寺公園となっている。善福寺の地名は、かつて池の畔にその名の寺があったことに由来するが、その寺は江戸時代に既に廃寺になった。近辺に今も善福寺を名乗る寺があるらしいが、これは後年になって地名をもとに改称したから関係ない。
     三宝寺池、井の頭池と並んで、武蔵野三大湧水池とされている。三宝寺池には江戸歩き第二十四回(石神井編)で行っているし、今日は井の頭池にも行く予定だから、三つを制覇したことになる。
     池には薄氷が張り、氷のない所には鴨が群れている。「珍しくもないけどね」と言いながら双眼鏡を目に当てる人が多い。オナガガモ、キンクロハジロがいるらしいが、明日になれば私はすぐに忘れてしまうだろう。「カワセミがいるかも知れないわね」と野薔薇先生が期待したが、どうやら見えないようだ。
     隊長が一本のエノキの前で立ち止って、根元の枯れ草を探り始めた。「オオムラサキの幼虫がいるかも知れないんだ。」それを聞いて花ちゃんは「エーッ、いやです」と逃げ腰になる。私も幼虫は別に見たいとは思わないが、虫愛づる姫は興味津々で見詰めている。孵化した幼虫がエノキの葉を食べて成長するのだと言う。「生きとし生けるもの、皆それぞれ営みがあるんだな。」ヤマちゃんはドラマチックに感動を表現する。
     ソシンロウバイが咲いている。もう何度も見ている筈なのに、普通のロウバイとの区別がつかない人が多いのは不思議なことである。「どっちがどっちだか分からなくなっちゃうよ。」「それを周章狼狽と言う。」今日のロダンは冴えているじゃないか。「今日の一枚の候補にしておくよ」と宗匠が講評し、「座布団のことね」と姫が笑う。宗匠のホームページで「今日の座布団一枚」に取り上げられるのはとても名誉なことである。これまでその名誉に与かったのは、ロダンとチイさんしかいないんじゃないか。それぞれ機会を狙っては、いろんなことを口走る。発想が柔軟なのだ。
     ソシンロウバイとロウバイの区別なら私に聞いてくれれば良い。和尚チルドレンの二人も知らないようなので、これがソシンであり、「素心」と書くのだと教えてあげる。「ヘーッ、そうなんですか。」しかし「満月ロウバイっていうのもあるんだよ」と隊長に言われると困ってしまう。エラソウにしても必ずボロは出る。
     「ロウバイってどういう字ですか。」花ちゃんとネモっちゃんの向学心はカワユイ。「エートね、ローソクみたいなやつ。」「難しい字ですね。」私は「臘」の積りで言ったのだが、実は「蠟」でも良いからローソクと言った方が簡単だった。蝋のような鈍い光沢から蠟梅と書かれ、臘月(陰暦の十二月の異称)に咲くので臘梅と書く。
     「今頃なのかしら、ロウバイってもっと早い時期じゃなかったかしら。これまだ満開じゃないわよね」とロザリアが頻りに悩んでいる。臘月から来た名前ならば、今頃で何の問題もないだろう。この時私は、今日はまだ旧暦十二月だと思い込んでいたのである。それにしても、やはりちょっと遅いかな。「ロウバイって言えば宝登山でしょう」とロダンが強調する。宝登山で満開のロウバイを見たのはちょうど一年前だった。「余り香りがしないわね。」確かに枝を曲げて鼻先に近づけないと匂いがしない。

     「ワカケホンセイインコがいるわよ。ワカケホンセイインコ。ワカケホンセイインコだよ。」野薔薇先生がこれでもかと言う程連呼するから、初めて聞く名前も覚えてしまう。「どこにいるのよ。」ツカさんが「あれですね」と指さしてくれた。高い樹上に緑のインコがほとんど身動きもせずに止まっているのだ。「輪掛本青鸚哥」と書く。オウム科ホンセイインコ属。ウィキペディアによれば、インド、スリランカに分布し、世界各地でペットとして飼われているが、日本では東京都における野生化が目立つらしい。
     「逃げ出したんですかね。」飼育が面倒になって放してしまったに違いない。「五千円よ。」何を言っているのか分からなかったが、一羽五千円で売っているということらしい。五千円で買われたものの、すぐに飽きられて捨てられた。金で買われたインコは愛の永続を期待してはいけない。本来は南方種だと思うのだが、この寒さで生きて行けるのだろうか。
     「エナガだ。」「どこ。」「そこに何羽も固まって。」「アッ、動いた。」小さな丸っこい体に、体と同じくらいの長さの尾が付いているのが五六羽、同じ木に集まってチョロチョロ動いている。「尾が長いね。」「それじゃオナガじゃないのか。」オナガはもっと大きいだろう。コロコロと太った様子が可愛い。鳥を「可愛い」なんて思ったことはなかったが、初めて知るエナガは面白い。「良かったわ、エナガが見られて。」姫がそう言うからには珍しいものだろうか。スズメ目エナガ科、漢字で書けば柄長である。
     鳥のことになればツカさんに聞くのが一番だ。「あれはヒヨですよ。」エナガよりはるかに大きいのはヒヨドリなのだ。姫は「コゲラがいます」と声を挙げる。「日本で一番小さなキツツキです」と言う言葉に、「一番小さい、ヘーッそうなのか」とヤマちゃんが感動する。私の眼にはよく見えないが、双眼鏡を持参している人は鳥観察に余念がない。
     「これはエンジュ。」莢豆のような実がぶら下がっている木の前で、木肌の特徴を隊長が説明してくれる。しかし何度聞いても身に付かない。「こういうのは漢字で書いていてほしいよな」とスナフキンが文句を垂れるのは、ダンディと発想が似ている。幹に針金で取り付けられている木札がカタカナ表記になっている。しかし植物学や動物学で漢字表記をしないのは、中国原産のものと日本種との違いがあるためだ。漢字で書けば、それはあくまでも中国原産種でなければならないと言うのである。素人にはそんな厳密な区別は要らないので、漢字の方がイメージが伝わりやすくて良い。
     「どんな字なのか」というスナフキンに「キヘンに鬼でしょう」とクルリンが応える。その通り、槐と書く。「鬼の木って何だい。不気味じゃないか。聞かなきゃ良かったよ。」スナフキンの心理も難しい。この木で面を彫って家の鬼門に置いた、あるいは鬼門除けに植えたからだという説がある。ただ面倒なことに、サイカチ(ジャケツイバラ科サイカチ属)も同じ「槐」の文字で表わされることがある。随分前に、草加のサイカチド橋(槐戸橋)で、クルリンと「変だね」と話しあったことがある。但しサイカチは皁莢、又は梍と書く方が普通だ。
     ついでに調べてみると、エンジュは古代中国では高貴の木とされていたらしい。周の宮廷に三本のエンジュを植えて、それに面して三公(太師、太傅、太保)が座ることに定められたことから、三公の位を槐位と言う。日本では太政大臣、左右大臣に相当する。源実朝の歌集を『金槐集』と言うのは鎌倉右大臣の集だからなのだ。金はカネヘンで鎌倉を意味する。
     隊長は背の低い常緑樹の葉を裏返して観察している。「裏が白いだろう。ナワシログミだよ。」「どういい字ですか。」ロダンも漢字を聞かなければ納得しない。「苗代だよ。」苗代茱萸と書く。隊長の様子を散歩途中の婦人がじっと見ながら、「専門的なのね」と呟いて通り過ぎて行った。

     道路を渡ると今度は上の池だ。入口にはボートが何艘も繋がれているが休業中だ。氷が張っている池でボートを漕ぐ者はいないだろう。「六百円だよ。季節のモンだから、そのくらい取らないと合わないんだな。」
     ここで昼食休憩になる。「エッ、もうそんな時間なの。」宗匠が驚いたように声を挙げるがもう十二時十分前だ。確かに午前中のコースはあっという間に過ぎ、余り時間が経ったような感じがしない。テーブルとベンチが設置されているので、今日はシートを敷かなくても良い。ただベンチは点在しているから、いくつかのグループに分かれてしまったのは仕方がない。
     ドクトルが焼き鳥を食べているのが珍しい。「だってさ、コンビニにサラダがなかったんだよ。」普通のひとは、サラダの代わりに焼き鳥は買わないんじゃないか。隊長はカップ麺の包装を剥がし始めた。魔法瓶に熱いお湯を持ってきているのだ。更に「最近これに凝っちゃってさ」と言いながらマクドナルドのハンバーガーを取り出す。「日本にはおにぎりがあるのに、何が悲しくてパンなんか食わなくちゃいけないんですか。」これは私が言うのではない。ロダンと姫が言うのである。ひとしきりハンバーガーの話題で賑やかになる。
     向こうのベンチからイトはんが、「お父さんが作った干し柿」を持ってきた。「足りないかしら、女性優先で配ったからね。」ヤマちゃんと私が辞退してちょうど数は合う。「嫌いじゃないけど、積極的に欲しいものじゃないから。」ヤマちゃんは私と同じことを言う。
     「二日酔いに効くんじゃなかったかしら。」「それならスナフキンにピッタリじゃないですか。」しかしそれは本当だろうか。俗説ではないのか。Yahoo知恵袋を見ると、同じ疑問を感じる人がいて、それにちゃんと答える人もいた。基礎知識として押さえておきたい。柿に含まれるタンニンが重要なのだ。

     悪酔いの原因は、アルコールが肝臓で分解された際に生じる中間生成物のアセトアルデヒドです。血中アルコール濃度は飲酒後、約一時間でピークに達して減少しますが、アセトアルデヒドはその後に増えて頭痛や嘔吐を引き起こします。このアセトアルデヒドと反応しやすい性質を持つタンニンが、アセトアルデヒドと結合して、これを体外に排出すると推測されています。また、柿に含まれるカタラーゼという酵素も、アルコールやアセトアルデヒドの分解を助けると考えられています。
    そのため、柿は二日酔いの解消にも効果的です。頭痛や吐き気、だるさといった二日酔いの諸症状は、アセトアルデヒドの体内への貯留、アルコールによる脱水症状、エネルギー消耗による低血糖状態などが引き起こすものです。そこに柿を食べると、アセトアルデヒドの排出・分解が促進されるとともに、体内に吸収されやすい果糖が、失われたエネルギーを補給します。さらに水を一緒に飲むと、柿に多量に含まれるカリウムの利尿作用によっても、二日酔いの症状改善が期待できます。
    http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1221190252

     野薔薇先生がキンカンをくれた。姫、桃太郎、マリーもそれぞれ違う種類の煎餅や飴を出してくれる。食事を終えて池畔に立って水面を見ていると、私たちを目がけて猛烈な勢いで鴨が群がってやって来る。飛ぶのは苦手だと思うのに、遠くからわざわざ飛び上がって水上を滑って来るのもいる。餌を貰えると思ったのだろうか。「餌付されてるようだね。」「飴をやったらどうだい。」「咽喉に詰まって窒息してしまう。」

     南中や瞠目の鴨迫り来る  閑舟

     「この鴨は取って食ってもいいんですか。」ロダンは鴨鍋が食いたい。私も鴨肉は好きだ。「ダメでしょうね。」「それは法的に何か根拠があるんですか。銃刀法とか鳥獣保護法とか。」ロダンはどうしても鴨が食いたくて、ツカさんに食い下がる。「禁漁区でしょう。」そう言うことか。狩猟が許可されている場所では取って食っても良いのである。
     柘植の木に雪吊が施されているのも珍しい。「兼六園が有名ですよね」とロダンが口を切る。足立区の国土安穏寺で徽軫燈籠を見た時も兼六園の話題が出たね。しかし、「そんなに雪が降るとは思えないけどね」と桃太郎は頻りに不思議がる。「無駄な仕事じゃないの。」「これをしないと、伝統技術が継承されないんですよ。」姫の意見が正解かも知れない。
     「真ん中の柱はどうやって立てたのかしら」とロザリアはおかしなことが気になって仕方がないらしい。一所懸命に中を覗きこんでいる。そう言えば、最近園芸を勉強しているチイさんもこれを作ったと言っていたんじゃないか。無学な私はウィキペディアに頼って、このように中心に建てた柱から放射状に綱を張る技法を「りんご吊り」と言うことを知った。

     公園に雪吊一つ在りにけり  閑舟

     「アンデスの乙女よ。」野薔薇先生が園芸種に反応するのは珍しい。まだ完全には開いていない黄色の花だ。「アンデスの乙女」というのは花屋業界が勝手に付けた名前だろう。和名では「ハナセンナ(花旃那)」と言うらしい。
     姫は「園芸種でしょ、知りません」と素っ気ない。マメ科カワラケツメイ属。原産地はブラジル、アルゼンチンで、昭和初期に渡来したものと言う。花期は九月から十一月らしいのだが、それからすれば開化が少し遅いのではないだろうか。
     十二時半に出発する。池を回りこんで行くと、池の反対側に「善福寺川源流 遅野井湧水の碑」が立っていた。高さ四五十センチ程の小さな滝が流れ、細長い自然石に「遅野井」と彫ってある。

    その昔、源頼朝が奥州征討のため、この地に軍を率いて宿った。氏神八幡宮に誓願し無事征討を終え、この地に戻った際、折からの干ばつで軍勢は渇きに苦しんだ。頼朝は弁財天に祈り、自ら弓で地面を七か所掘った。軍勢は渇きのあまり水の出るのが遅い、遅野井と言った。その時、忽然として七か所から水が湧き出し、軍勢は渇きを癒した。その後江の島弁財天をこの地に勧請して善福寺弁財天を創建したと言う。

     かつては豊富な湧水を誇った池も、今では地下水を汲み上げて流し込んでいると言う。池には緋鯉や真鯉がうじゃうじゃ泳いでいる。その向かいの池の中の島には小さな祠が立ち、橋があったと思われる跡があるだけで、渡るすべがない。説明には「市杵嶋(イチキシマ)神社」とある。市杵嶋姫は宗像三女神の一柱だ。
     古事記本文では、沖ノ島の沖津宮に多紀理毘売(タギリビメ)別名奥津島比売(オキツシマヒメ)、大島の中津宮に市寸島比売命(イチキシマビメ) 別名狭依毘売(サヨリビメ)、田島の辺津宮に多岐都比売命(タギツヒメ)がいることになっている。
     これが日本書紀本文になると、イチキシマビメがいるのは辺津宮であり、更に日本書紀の第三の一書には、イチキシマはオキツシマの別名で、沖津島に鎮座すると言う。三女神は一体になって(と言うよりも本来は同一の神か)その三つの宮を守っているのであり、誰がどこにいても良いのだろう。玄界灘が荒れた時の避難所として神聖視されたのではないだろうか。
     「イチキシマ」は「オキツシマ」か、斎き島(イツキシマ)が転じたとも考えられている。厳島の語源も同じだ。本来は朝鮮半島との海上交通を守る神として宗像氏が奉戴した神であり、やがてヤマト国家に取りこまれて中央の神に昇格し、古事記では、スサノオの十拳の剣から生まれたことになった。八幡神が宇佐に出現する以前の土着神「比売神」として、神功皇后とともに八幡三神として祀られる。中世になると弁天とも習合してしまうのでなかなか忙しい。

    池の南に弁天の祠あり。一尺四方にて南に向ふ。本尊は石の坐像にて、長八寸はかり(『新編武蔵風土記稿』

     江戸時代には弁天と呼ばれていたことが分かり、それならば市杵嶋神社の名は神仏分離以後のことになるか。今見ている祠が一尺四方と言うことはないから、改築されたものだろう。
     こんなことを考えているのは私だけで、鴨やバンの方に関心を持つ人の方が多い。「バンって何」と声をあげているヤマちゃんに、「黒い鴨だよ」と私はいい加減なことを言ってしまうが、実はツル目クイナ科の鳥である。いつも鴨と一緒に見るから、仲間かと思いこんでいたのだ。「嘴の根元が赤いんですよ」と姫が正確なことを教えてくれる。
     鳥の写真撮影に忙しいひとがいる間、ネモっちゃんは腕を振りながら脇の石段を上り下りしている。「どうしたの。」「じっとしてると寒いの。」鳥に興味のない人には退屈な時間だったようだ。ようやく鳥の観察も終わり、その石段を上って公園を離れる。

     上り下り弁天島の寒さかな  蜻蛉

     道端や畑にはまだ雪がかなり残り、路面も凍結しているので気を付けて歩かなければならない。杉並浄水所前には、緊急時にはここで水を配ると書いてある。善福寺池の地下水を汲み上げて原水とする、東京都の区部では珍しい浄水所である。
     東京女子大学の脇を通り、住宅地の狭い道を歩いて行くと住所表示が善福寺から吉祥寺東町に変わった。「あれ、見てよ。」バルコニーの床に丸く穴を開け、それを突き抜けて背の高い松を立てている家がある。二階の屋根の辺りまでは枝もなく、その少し上から三本の枝が更に高く伸び、そこに残る葉だけを小さく丸く刈り込んでいる。四階程の高さになるのではないだろうか。「どうやって刈り込んだのかしら。」何事にも職人はいるだろう。
     そして中央線の高架の下で、ロダンが「それじゃ、ここで失礼します」と言い出した。「じゃ、サヨナラ。」「そんな冷たい態度を。」「仕事なの。」「野暮用ですよ、ヘヘヘ」と笑うのは何か怪しい。先頭を行く隊長に律儀に挨拶をしてロダンは遠くへ去って行った。
     また踏切が現れるとイトはんが悩んでしまう。「これは何なの、さっきも線路があったでしょう。」井の頭線である。「あら、そうなの。」どうやら位置関係が呑み込めないようで、頻りに首を捻っている。「私は井の頭線には乗ったことがないですよ。」姫はそう言うが、東大駒場から渋谷まで乗ったことがある筈だ。「そうだったかしら。」スイカのお蔭で切符を買うことがなくなり、そのために路線を意識しなくなったと言うのが姫の言い分だ。
     地図を見て井の頭線を確認していたイトはんが、それに沿って流れる川が神田川であることに気付いた。「神田川って、あの神田川のことなの。」そう、あの神田川である。ロザリアも、「神田の辺りを流れている川よ、中央線に沿って」と教えるのだが、なかなか納得できないらしい。「中央線に神田って駅はないわよね」と不思議なことを口走る。「あるじゃないの、神田、東京。」スナフキンは呆然としてこの会話を聞いている。イトはんは少し東京の地理を学習する必要がある。出身は豊島区だった筈なのに、大事な箱入り娘で外には一歩も出ずに育ったのだろうか。
     「そう、ここが源流なの。不思議ね。」桃太郎の企画で神田上水遡上のコースを歩いたから(江戸歩き第三十四回)、私たちはかなり詳しい人たちになっている(筈)だ。
     すぐに井の頭公園に着いた。「ひょうたん橋」という小さな橋が架かっていて、地図を見ると、池の一番東側に当たる。私は初めて来る。カズちゃんは以前来たことがあるようで、頻りに懐かしがっている。
     善福寺公園とは違って、こちらではボートがいくつも活躍している。この時間になると多少は寒さも緩んだろうか。「最近は漕げない連中ばっかりでさ、足踏み式が多くなったよ」とスナフキンがバカにしたように言う。「ペダル式のね」と応じたものの、実は私も手漕ぎ式のボートは得意ではない。何度もやってみた訳ではないが、真っ直ぐ進まないのだ。「恋人同士で井の頭公園のボートに乗ると必ず別れるって言うぜ。」そんな俗説があるのか。ボートを漕ぐのが下手な男だと、バカにされて女が去って行くのかも知れない。

     回遊路に沿って、道端にはシートを敷いて小物を広げている露店がいくつも並んでいる。フリーマーケットかと思えばそうではない。誰でも勝手に店が出せるのでもない。ART※MRT(アートマーケッツ)というものに登録して順番を待たなければいけないのだ。

     「井の頭公園アートマーケッツ」は、公園を核とした賑わいの創出のため、手作り作品の出展や、パフォーマンスの出展者を、登録制で実施する事業です。
     平成19年度より実施され、多い日には100名以上の出展があり、井の頭公園の風景として定着してきました。手作りアクセサリーやポストカードのようなアート系手作り作品や、大道芸や楽器演奏などの個性的なパフォーマンスを見に、多くのお客さんを呼び、公園に賑わいをもたらしています。
     アートマーケッツでは、お客様と出展者、また出展者同士が交流を行う拠点となっており、日々、井の頭恩賜公園から新たな文化が発信されています。(略)
     アートマーケッツは営業行為を目的とするものでなく、個々の自己表現を通じて公園の魅力向上に寄与することを目的とするものです。
     http://www.kensetsu.metro.tokyo.jp/seibuk/inokashira/artmrt/artmrt2011.pdf

     宗匠が、「百円ショップに慣れちゃったから、こんなものを見ても食指が動かないよ」と笑う。似顔絵は「一人五百円」だが、外人の男女が小さな椅子に並んで描いてもらっている。「あれは千円って知っているのかな。五百円だと思って国際紛争にならないか。」スナフキンはおかしな心配をする。カワセミの写真を展示している店では、「きれいね」と感心するものの、誰も金を出そうとはしない。

     公園のアートマートや風寒し  閑舟

     姫や花ちゃんは散歩中の犬の腹を撫でる。この頃の犬はみんな服を着せられているのが私には理解できない。犬を飼う人間が等しくアホになったと言うことではあるまいか。
     野外ステージの所でトイレ休憩になった。隊長が人数を確認していると一人足りないようだ。「誰かしら。」ロザリアの姿が見えないのだ。どうしたのだろう。「さっきはいましたよ。」そこに彼女が慌てたように走って来た。「数を数えているみたいだから飛んできたの。」パフォーマンス(と最近は言うけれど、要するに大道芸である)を見ていたのだ。
     人数確認が終わったので私も見に行った。赤白の格子模様のパジャマのような服を着たオジサンは、子供たちを相手に細長い風船を捻って動物を作っている。手を背の後ろに回して作りながら、「以前、目隠しをしてやったことがあります」と話し始めた。終わってみたら客が誰もいなくなっていたと言うのである。「お客さんがいなくなるのは仕方がないんです。でもね、せっかく皆さんが投げ入れてくれたお金まで無くなっていました。それ以来、絶対目隠しはしません。」これで観客の笑いを取る。「できました。」芸というより、子供の遊びではないか。私だって同じようなことをした覚えがある。
     池のそばでは、オジサンがギターを鳴らし、ハーモニカを吹きながら大きな声で歌っている。カントリーである。「相当な肺活量ですよ」とロザリアが感心している。「あっちの音と混ざって、よく聞こえなかったよ。」なるほど、こちら側の池のそばではキーボードを演奏している者がいる。どちらも余り客はいない。
     おどろおどろしい声が聞こえて来たので見ると、漫画の画面を開き素早くページを捲りながら、声色を使っているらしい。その男の前にアベックが座り込んでキャーキャー笑っている。こんなことをするなら、紙芝居の方が良いのではないだろうか。シートにはコピーに彩色したような粗雑な絵が広げられている。売り物になるとは到底思えない。こんなものが「自己表現」であり「新たな文化が発信され」るものだろうか。「文化」という言葉は実に幅広く使われる。
     すぐ傍では、十数人を前にして、望遠鏡をセットした専門家らしい人が講義をしている。鳥の観察会だろうか、素人に双眼鏡の使い方を教えているようだ。有名なひとらしく、隊長やツカさんが「あの帽子のひとね」「ナントカさんだ」と囁いている。

     今日はどうやら早めに終わってしまいそうだ。この辺は花ちゃんが詳しいのではないか。「吉祥寺で早くからやってる店はないかな。」「伊勢屋がありますよ。」「俺もそう思ってた。一本七十円だろう。」スナフキンが反応すると「今は八十円ですよ」と即座に返事が返ってくる。三鷹の住人の花ちゃんは、吉祥寺の焼き鳥屋に通うのである。しかし宗匠が焼き鳥を食えない特異体質だから、そこではダメだ。「さくら水産もありますよ。」それなら決まった。
     「人が少ないですね。」カズちゃんが言うので驚いた。私は人が多いと思っていた。スナフキンも、寒いから人が少ないと断言する。普段は「こんなもんじゃない」らしい。「あそこの屋根を行けばお店が並んでいましたよね。」「屋根は歩けないよ。あの屋根の間の道。」スナフキンとカズちゃんが不思議な会話をしている。
     ハナちゃんとネモっちゃんはここで別れていった。ゆっくり二人だけでお喋りしたいのだろう。和尚には連絡が付かなかったらしい。
     隊長はこの辺りで終わる積りだったらしいが、噴水の向うに、甍がいくつか重なるかなり立派な建物が見えるので寄ってみたい。たぶん弁天だろう。私は気が小さくて言い出せなかったが、イトはんが隊長に頼んでくれたのが上出来だった。「あんまり関心ないんだけどね。それじゃ行きますか。」「隊長、腰は大丈夫ですか」と姫から声が掛る。余り大丈夫そうではない。太鼓の音が聞こえてくる。「太鼓の音を聞くと血が騒ぐんだろう。」別にそんなことはない。「そうかな、ボクはわくわくするよ。」芝で生まれた隊長は、やはり江戸の血が騒ぐのだろうか。聞こえる音は祭り太鼓のようではないけれど。
     池を回り込んで、まず太鼓の音がする方に行ってみた。小さな不動堂に入りきれないひとが床几に腰掛けている。護摩炊きの最中だった。「二時から護摩炊きって書いてあるわね。」ついさっき始まったようだ。護摩は密教に特有なものと思うだけで、私は護摩炊きの実態も良く知らないので、ウィキペディアのお世話になって知識をつけておきたい。

    護摩の炉に細長く切った薪木を入れて燃やし、炉中に種々の供物を投げ入れ(護摩焚き)、火の神が煙とともに供物を天上に運び、天の恩寵にあずかろうとする素朴な信仰から生まれたものである。火の中を清浄の場として仏を観想する。

     そもそも密教というものは(とエラソウに言ってしまうが)、釈迦の創唱した仏教が、ヒンドゥーの土俗信仰に決定的に敗北した結果ではないか。ひとは悟りでは生きて行けず、現世利益や奇跡を求めで様々な迷妄を信じる。釈迦の仏教は実に孤独で厳しい。この護摩炊きにも拝火教の匂いがする。元からのヒンドゥーではないにしろ、ペルシアのゾロアスター教がインドに伝播して土着に広がったものではないか。
     「不動明王の名前の呪文を繰り返している。」桃太郎はきちんと聞いていたらしい。陀羅尼とかマントラ、真言と言うが、要するに「呪文」である。「アブダラカブダラ」とか「開けゴマ」みたいなものだ。
     不動明王呪法では「ノウマク サラバタタギャテイビャク サラバボッケイビャク サラバタタラタ センダマカロシャダ ケン ギャキギャキ サラバビキンナンウン タラタ カンマン」と唱える。意味は、「全方位の一切如来に礼したてまつる。一切時一切処に残害破障したまえ。最悪大忿怒尊よ。カン。一切障難を滅尽に滅尽したまえ。フーン。残害破障したまえ。ハーン。マーン。」ということらしい。「最悪大忿怒尊」が不動明王のことなのだろうか。これを十回唱える。
     もっと簡単な小呪になら、「ノウマク サマンダ バザラダン カン ハーン」(あまねき金剛尊に礼したてまつる)だけでも良い(http://www.sakai.zaq.ne.jp/piicats/hudou.htmより)。日本語にすればどうと言うこともないが、梵語(漢訳音)で唱えるから、訳も分からず玄妙なものだと思い込み、なんとなく有難がってしまうのである。燃え上がる火と充満する煙の中で、太鼓がリズムを刻んで摩訶不思議な呪文が繰り返される。それが人を酔わせた。こういうものは現代の音楽シーンにも見られるだろう。
     もう一度ウィキペディアを見てみると、こんな効果が期待される。

    一.息災法…災害のないことを祈るもので、旱魃、強風、洪水、地震、火事をはじめ、個人的な苦難、煩悩も対象。
    二.増益法(そうやくほう)…単に災害を除くだけではなく、積極的に幸福を倍増させる。福徳繁栄を目的とする修法。長寿延命、縁結びもその対象。
    三.調伏法…怨敵、魔障を除去する修法。悪行をおさえることが目的であるから、他の修法よりすぐれた阿闍梨がこれを行う。
    四.敬愛法…調伏とは逆に、他を敬い愛する平和円満を祈る法。
    五.鉤召法(こうちょうほう)…諸尊・善神・自分の愛する者を召し集めるための修法。

     堂の扁額には「七井不動尊」とある。さっき見て来た善福寺公園の七か所の井戸と関連するのかと思ったが、それとは別らしい。

     井の頭池 神田上水の源なり。長さは西北より東南へ曲がりて三百歩ばかり、幅は百歩あまりあり。池中に清泉湧出するところ七所ありて、旱魃にも涸るることなし。ゆゑに、世に七井の池とも称す。(『江戸名所図会』)

     「銭洗いがあるよ。」宗匠の言葉で裏手に回ってみると、龍である。中世密教では、弁天の本身は蛇であり(宇賀神)、また龍女が成仏して弁天になった。
     大きな唐破風が立派な朱塗りの本堂の祭壇前の額に、「井の頭弁財天尊 湛山謹書」とあるのは石橋湛山だ。こんなところで湛山の名前に出会うとは思わなかったが、随分前に『石橋湛山評論集』(岩波文庫)を買いながら、まだ読み通せずにいるのを思い出して反省してしまう。湛山のリベラリズムと小日本主義とはきちんと押さえておく必要がある。
     十二年に一回、巳年にしか開帳しないので弁天本尊を見ることはできないが、八臂の美女像で、頭上に宇賀神と鳥居を載せていると言う。典型的な宇賀弁天である。

     宇賀弁才天。宇賀神王。宇賀神将。如意宝珠王。龍宝神王。さまざまな名前で身を飾った異貌の尊格。(略)
     死の香りに満ち、来世がこの世に嵌入しているとおぼしい中世にあって、この偉大なる「福徳の尊」「決定転貧の王」は、おそるべき絶対肯定の宗教思想とその実践法を、メッセージとしてこの今にさし向けるかのようだ。(略)
     経典中の妙音弁才天を尻目に、いな、その本性をも収奪しつつ、龍蛇と稀有なる合体を果たした異貌の弁才天女。(山本ひろ子『異神』)

     相変わらず桃太郎と隊長はきちんと賽銭を投じて拝んでいる。エライ。私はそういうのをやったことがない。

     相伝ふ、建久八年(一一九七)鎌倉右府将軍頼朝卿創建したまふと。正慶年間(一三三二~三四)、新田義貞、鎌倉と対陣のとき、当社に軍勝利を祈念し、北条家を亡ぼされたりとなり。
     本尊天女の霊像は伝教大師作なり。(『江戸名所図会』)

     「カワイイ。」イトはんの声に若女将も「カワイイわね」と頷く。狛犬の形が面白いのだ。丸顔に小さな耳を垂らして、まん丸い目玉を飛び出させている。余り見たことのない形だ。「狛犬フリークとして興味あります。結構古そうですよね」と姫も喜ぶ。「吽」形の方の台座に明和八年(一七七一)の銘が確認できた。

     狛犬の眼を見開くや冬の池  蜻蛉

     弁天島を出て右に自然文化園(分園)を見ながら少し行けば、湧水が出ている所に「お茶の水の由来」の立て札が立っていた。

    その昔、当地方に狩に来た徳川家康が、この湧き水の良質を愛して、よくお茶をたてました。以来この水は、お茶の水と呼ばれています。(東京都)

     神田上水を開削するとき、この水質の良さが決め手になったのだろう。家光がこの水を愛して池を「井頭」と名付けたとも言う。

    この池は清泉にして、炎天にも水の減ずることなし。つねに泌沸として湧出す。その池もっとも閑寂にして、池辺柳樹多く、初夏の頃に至れば、新葉黯々として陰をなし、浅翠嬌青碧空を蔽ふに似たり。(『江戸名所図会』)

     ジャージ姿の中学生らしい娘が数人、マラソンスタートの恰好をしてコーチの合図を待っている。池の周りを走るのだろうが、人混みの中では走りにくかろう。周回コースは一マイル(ざっと一・六キロ)と言う。それでも、この年頃の少女が一所懸命走る姿は良い。私は自分では走れないのに、ひとが走るのを見るのは好きだ。もう遥か昔のことになってしまったが、校内マラソン大会でいつも一番でテープを切る少女を見て、私は心ときめかせていた。中学一の美女だった。
     「マンサクだよ。」せっかく私が感慨に耽っているのに。その声で振り返ると、確かに黄色の短い毛糸が捩れたようなマンサクが咲いていた。おかしな形だといつも思うのだが、もう咲いているのか。「まず咲く」からマンサクとは言っても、ちょっと早過ぎはしないだろうか。まだ他では見ていないが、僅か一本だけのマンサクでも何となく春が近いと思わせてくれる。

     まんさくや駆け行く人の頬紅き  蜻蛉

     東北で「まんず咲く」と訛ったのが語源とされているが、別に東北特有の花ではない。本州から九州まで分布しているこの花に、わざわざ東北弁を持ちだす理由がない。この語源説はなんだか怪しい。他の花に先駆けて春の訪れを告げ、今年の豊年万作を祈願するので満作と言われる方が私には納得できる。菱山忠三郎『樹木』(講談社ネイチャー図鑑)では「満作」とし、『岩波国語辞典』では「万作」の表記を採用している。金縷梅とも書くようだ。
     公園を出て吉祥寺駅に向かう狭い通りの両側には商店が並んでいる。「そこが伊勢屋だよ。」さっき花ちゃんが「伊勢屋なら早い時間から開いている」と言っていた。看板にはやきとり・すきやき」と書かれている。暖簾を覗きこむと確かにもう客が入っているようだ。「やっぱり八十円だったね。」張り出された品書きを見てスナフキンが笑う。伊勢屋公園店である。総本店は吉祥寺駅南口にあるらしい。
     すぐに駅南口(井の頭線)に着き、隊長が解散宣言をした。宗匠の万歩計で一万二千歩、七キロちょっとか。「お茶を飲まないんですか」と姫が首を傾げるが、これだけの人数が一緒に入れる店はないだろう。野薔薇先生を中心とする生態系の女性陣はどこかでお茶を飲むことにしたようで、すぐに別れて行った。反省会組はさくら水産を目指す。
     駅ビルの中を通り抜けて北口に出て信号に着くと、さっき別れて行った筈の女性陣がいるのに気付いた。どこへ行こうとしているのだろう。「駅はあっちよ」と言って戻って行ったから、JRの駅に気付かずに来過ぎてしまったらしい。解散したのは井の頭線の入り口だったからね。
     「こっちって言ってたよな。」「線路沿いだって。」「ちゃんと聞いておけば良かったな。」てっきり花ちゃんも一緒に来るものと思っていたのだ。しかしすぐに見つかった。いつものさくら水産とは看板のデザインが違っている。がらんとした店内に入ると「ランチタイムは終わっていますが」と声を掛けられた。「お酒だけどね。」「それならどうぞお入りください。」ちょうど三時だ。
     座敷はないが、一番奥まったところのテーブルをくっつけて全員が納まった。反省する人間は十三人(うち女性が四人)である。珍しくツカさんが参加してくれた。「私はちっとも反省する必要なんかないんだけど。」そう言い張るイトはんは、地理の学習不足を反省する必要がある。
     ジャズボーカルが流れていて、いつもと雰囲気が違う。部屋の造りも、さくら水産にしては少し洒落ているようだ。調べてみると、この店は「居喰屋さくら水産」と名乗る。私たちがいつも行くのは「海産物居酒屋」であった。同じグループではあるが、ちょっとした違いがあるのだろう。
     注文は桃太郎に全て任せておけば良い。薩摩白波の黒麹はすぐに空いた。暫くして「いつもの冷奴は注文してなかったのかな」と声がかかる。注文した筈だが確かに遅い。店員を呼んで確認すると、理由は分からないが注文が通っていなかった。いつもは二人でひとつとして人数の半分を頼むのだが、女性は余り食べないかも知れない。桃太郎と相談して改めて五人分を注文したが、すぐに「足りませんよ」と声がかかって、結局追加しなければならなくなった。焼酎の二本目も終わり三本目に突入したのは、この人数だから不思議ではない。一人三千円也。
     もうかなり日が長くなって、五時過ぎの解散ではまだ明る過ぎる。姫が電話をして(電話番号をどうして知っているのだろう)、場所を確認して入ったのがカラオケ館だ。隊長、ドクトル、イトはん、姫、スナフキン、マリー、蜻蛉。二時間歌って一人千四百円也。

    蜻蛉