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    平成二十四年二月二十五日(土) 八王子片倉城跡

    投稿:   佐藤 眞人 氏     2012.03.03

     「雨はどんな具合かな。」「結構降ってるわよ。」妻は早くから起きて弁当を作っている。夜中から降り始めるという天気予報は正確で、それなら今日は三時頃まで降り続き、かなり寒くなる筈だ。旧暦二月四日。立春は過ぎてもまだ寒い日が続く。(二月二十八日の朝日新聞に「四半世紀ぶり、長引く寒さ」という記事が掲載され、二十九日にはかなりの雪が降った。)
     カズちゃんと和尚からは、この天気だから体調を考えて欠席するというメールが入っていた。八王子は故郷だからと和尚は随分楽しみにしていたのに残念だった。三月には、花ちゃん、ネモっちゃんと一緒に是非参加したいと言っている。ただ私は高校の同期会(横の会関東支部)と重なってしまって三月は参加できない。
     セーターを着てみたものの、これでは暑すぎる気がしてまた脱いだ。こういう時に何を着れば良いのか。代わりに、二三年前にカインズホームで買った薄手のジャンバー(九八十円)にして、同じ時に買った合羽(四八十円)を羽織って出た。雨は強いが、手袋なしで傘をさしていても冷たくないから、気温はそれ程低くはなさそうだ。三十分歩いて川越線的場駅に着いた頃にはやや汗ばんできた。
     八時十五分発。いつものことながら、川越線というやつは殆ど駅毎に数分間の待ち合わせがあって、なかなか前に進んでくれないのが難点だ。高麗川からそのまま八高線に乗り入れているので、八王子まで乗り換えなしに行けることだけが便利と言えば言える。文庫本を持って来る筈だったのに、すっかり忘れてしまったので暇を持て余してしまう。
     川越線は扉の開閉にいちいちボタンを押さなければいけない。ずっと一車両に数人しかいなかったのに、高麗川を過ぎてから少しずつ増え始め、東福生の辺りからはどっと人が乗り込んできて、座れない乗客が目立ってきた。九時二十三分に八王子に着き、トイレに寄って二十九分の横浜線の快速に乗り替える。初めて乗る電車だ。片倉駅には三十二分に到着した。所要時間一時間十七分。
     階段で隊長と一緒になった。今日はあんみつ姫が主催する越谷のイベントと重なって、ダンディとドクトル、ハコさんはそちらに行っている筈だ。「越谷支部はいつも参加者が少ないから可哀そうです」と言うのが、越谷とは直接関係ない筈のダンディの言い分だった。ロダンと宗匠からは前もって欠席連絡がきている。こんな日だから参加者は少ないに決まっているが、まさか隊長と二人っきりということはないだろう。
     改札の外では珍しく桃太郎が一番乗りで待機している。上下揃いの合羽にスパッツを装着し、完全装備の態勢だ。「これだけ着込んできたから、全く寒くないですね。」はっきり言えば「着膨れ」の状態に見える。次の電車で、「ヘロヘロだよ」と言いながらスナフキンが降りて来た。顔が赤い。桃太郎の恰好を見て、オーバーパンツとスパッツを取り出して装着している。「とにかくリュックに放り込んで来たんだ。」
     次にチイさんが悠々とやって来て、「嵐を呼ぶ男たちですね」と言う。物好き、あるいは余程暇を持て余している連中だと言っても良い。それにしても彼が八時五十分に出て来たと言うのは納得できない。鶴ヶ島と蓮田とでは、明らかに鶴ヶ島の方がはるかに近いに決まっている。理不尽というものではないか。「大宮から武蔵野線に入って、そのまま八王子に直行するのがあったんだよ。むさしの号って言うの。大宮の次が北朝霞だからね、とっても早い。」
     なるほど、調べてみると一日三本しか走らないが、確かにそういうものが存在していた。停車駅は大宮・北朝霞・新座・東所沢・新秋津・新小平・西国分寺・北府中・府中本町・立川・八王子と、貨物の路線を利用しているから不思議な経路になっている。これで大宮から八王子まで四十一分しかかからないのだ。「スゴク快適だった。」そうだろうね。「だけど帰りは無理だと思うよ。時間が分からないからね。」
     少し遅れると連絡のあったロザリアを待ちながら、それぞれコンビニで熱いコーヒーを買って飲んでいるのに、貧乏人は我慢しなければならない。家を出た頃に比べると気温はかなり低い。手袋をしないと手が冷たいし、体の芯から冷え込んでくる。八王子は標高が高くて寒いと言われていたのに、セーターを置いてきてしまったのは失敗だったか。いつものことながら見通しが甘い。雨はずいぶん小降りになったきた。
     みんながコーヒーを飲み終わった頃、漸くロザリアがやって来た。「残念、あと一人いれば七人の侍になったのに」とチイさんが笑う。弁天様を入れて七福神の方がいいのではないか。実はロザリアがここには最も近い。「遅れるなんて不細工ね」と呟きながらリュックカバーを装着している。「これを取りに戻ったものだから。」私はビニール風呂敷を巻き付けて来た。チイさんのリュックは、比較的小さいビニールを上だけ縛ってあるから、余り雨除けには役立たないように思う。

     駅舎を出て横断歩道を渡ろうとした時、「アッ、弁当買うの忘れちゃった」とチイさんが頓狂な声をあげた。「隊長、待って下さい。」丁度目の前にコンビニがあったのは幸いだった。さっきあんなに時間があったのに全く気付いていなかったのだろうか。改札の正面にはオリジン弁当もあった。
     狭い歩道に入ると、前から傘をさした男がやって来た。こちらは傘をすぼめて端に寄っているのに、傘のまま避けようともせずに真ん中を歩いて来るので、危うく傘が頭にぶつかりそうになってしまった。全く無神経な男だ。
     国道十六号の標識に「東京環状」と書かれているのはいつ頃からなのだろう。暫く十六号も走っていないので、この呼称は初めて見るような気がする。東京の環状道路と言えば環七とか環八ではないか。十六号は横浜から木更津まで、町田と八王子の一部を通ってはいても、その大半は神奈川県・埼玉県・千葉県を走る訳で、「東京環状」という言い方には違和感をもってしまう。
     十六号を渡ると片倉城跡公園だ。もう雨はほとんど止んでしまって、こうなると傘が邪魔になる。「もう降らないのかな。」隊長が天気図を開いて見せてくれるが、素人には判断できない。「雨雲が動いているからね。ちょっと切れ間に入っただけだよ。またすぐ降ると思う。」

     春まだき傘をすぼめて城の跡  蜻蛉

     案内板の地図が北を下にしているので方角が分かりにくいが、東北の角の入り口から入ってきたようだ。入口付近にナンジャモンジャの木(ヒトツバタゴ)が立っている。この辺りは彫刻広場になっていて、十九のオブジェが展示されている。「江戸歩きでも彫刻を見ましたよね。」「ウン、十一月の竹の塚でね。」竹の塚彫刻の道にあったのは抽象的でまるで理解できないものばかりだったが、ここにあるのはほとんどが人物像だから素人にも分かりやすい。
     ただ不気味な仮面にマントの男はなんだろう。「『アテネの戦士』(久保浩)って書いてるわね。」アテネの戦士はこんな仮面を着けていたか。『イーリアス』や『オデュッセイア』の挿絵の記憶でも、こんな仮面は見たことがない。それに兵士はもっと裾の短い服装をしていた筈で、こんな長いマントを羽織っていては戦闘にならないのではないか。古代ギリシアよりも、近代の無機質な、もっと言えば全体主義的な不気味さを感じてしまう。
     「春を感じて」(土田副正)、「希望」(長江録弥)、「春風」(木内禮智)、「早く来ないかな」(宮瀬富之)。裸婦像を見ても私の鈍い感受性ではそれらをイメージするのは難しい。ただ、本当にこの寒さにはうんざりしている。早く春が来てほしい。
     更に行くと「西望(北村西望)自刻像」に出くわした。北村西望の最も有名な作品は長崎平和祈念像だろう(私はそれしか知らなかった)。熊谷駅にある熊谷直実の騎馬像もそうだ。井の頭自然文化園にも、西望の作品を展示する彫刻園が設置されているらしい。台座にある説明によれば、ここにある彫刻群は、日彫展の最優秀賞である西望賞受賞作品だ。展示する場所としてこの地こそ相応しいと、西望自身が選定したのだと言う。西望の作品ではもうひとつ「浦島 長寿の舞」が展示されていた。
     「リョウブだよ。」これがリョウブか。何年か前に志木でリョウブの花を教えて貰ったことがある。トラノオのような房状の白い花だったと思う。その形そのままに黒い実(もう種が飛んでしまっているようだが)がなっているのだ。「確か難しい字ですよね。律令の令だったかな。」「オー、そうだよ」と隊長が驚く。「令法」という文字自体は難しくはないが、これでリョウブと読むのが難しい。若葉や乾燥させた葉を飢饉時の食料とするため、令で植樹を命じたのが語源ということなのだが、こんな葉っぱが飢饉対策になったのだろうか。なんだか怪しげな語源説だ。
     「酔っ払い」(坂坦道)の像は腹を突き出したやや俯き加減の老人で、膝を曲げ加減にしているのは千鳥足の様子を表しているのだろう。彫刻はリアリズムでなければいけない。「スナフキンだね。」「俺はこんなに酔っぱらわないよ。二日酔いになるだけ。」
     ミニスカートの若い娘の像には「ダンシングオールナイト」(江里敏明)と名付けられている。「懐かしいな、私が二十代の頃の歌。」チイさんがそう言うのは変だ。そんなに古くはないんじゃないか。「三十代かな。」調べてみると、もんた&ブラザーズの『ダンシング・オールナイト』(水谷啓二作詞・もんたよしのり作曲)が発売されたのは一九八〇年四月だった。私がちょうど二十九歳になり結婚した時でもある。それならばチイさんとスナフキンは、誕生日前なら二十代と言っても間違いではないが、流行ったのはもう少し後だろう。
     それにしても、そんな時代だったかしら。どうも記憶に乱丁があるようだ。「長い髪」(鷲見香治)。これはゴールデン・カップスではないか。「長い髪の少女、孤独な瞳。後ろ姿悲し恋の終わり」(『長い髪の少女』橋本淳作詞・鈴木邦彦作曲)。これが流行った頃、私はまだ高校生だった。
     公園の北側を歩いて行くと、すぐ外側に湯殿川が流れているのが見える。

    東京都八王子市にある多摩丘陵の起点である小峰(追分)に源を発するとされているが拓殖大学設置による開発によって川の一部が埋められており八王子市館町の拓殖大学敷地内の調整池が源流となっているが、神奈川県相模原市緑区城山付近が源流ともいわれている。寺田町付近まで蛇行した川筋であるがそれより東は改修工事によりゆるやかな川筋となっている。館町で殿入川、寺田町で寺田川、片倉町で兵衛川を合わせる。(ウィキペディア「湯殿川」)

     蓮池や菖蒲園があるということは湿地帯が広がっていたのだろう。これが城を構える上で重要な地勢だった。水車小屋は新しく作ったものだろう。本丸や二の丸はかなり小高い丘になっているようだから、平山城としては申し分のない土地だったに違いない。中世の城跡として空堀や曲輪跡などの遺構が残っている珍しいものである。

     現存する遺構は歴史的にほとんど不明ですが、室町時代の初期に築城されたと言われています。十五世紀後半、鎌倉幕府初期の重臣・大江広元を祖にもち関東管領家の扇谷上杉氏の家臣であった長井氏によって築城されたとも言われていますが定かではなく、また城主も城が放棄された時期も明確には判っていませんが、扇谷上杉朝定によって再築された深大寺城と、築城の特徴が類似しています。
     先端部分の東側(本丸広場)が主郭で、住吉神社のある所が腰郭、西郭(二の丸広場)南に大きく張り出し、東部の主郭を守るような形を成し、その前方には、大手から来る敵に対して防御を考慮した造りです。二つの郭は空堀によって区画され、空堀は鉤の手に掘り込んであり、曳橋か跳橋によって連絡されていたと考えられます。
     西郭(二の丸広場)は、東郭に比べて約二倍の広さを持ち、ほぼ完全に空堀が巡らされており、その空堀は北に向かって深く落ち込み、そこに湧水があります。
     後世の改変が加えられているものの空堀・土塁等の名残りがあり、十五世紀後半の中世城郭の形態を示す典型的なものです。平成十一年三月、東京都から史跡に指定されています。(片倉城跡公園パンフレットより)

     「この辺だと北条氏でしょうね。」桃太郎が断定的なことを言う。最終的にはそうなっただろうが、最初は良く分からない。深大寺城との縄張りの類似も言われているから、元は上杉系の城だったとも考えられる。「深大寺に城ってあったのかい。」深大寺にはしょっちゅう行っている筈のスナフキンが不思議なことを訊く。一緒に行ったじゃないか(一昨年の十月)。水生植物園の入口の辺りから右手に登った所だった筈だ。
     いずれにしろ、旧勢力の上杉氏と新興勢力である北条氏との、攻防の前線であることは間違いない。好きな(そして知識のある)人がきちんと見れば、縄張りや郭の位置関係などについても目を光らせるのだろうが、いかんせん、中世の城郭についての知識がないので、どこが観察のポイントなのか分からない。
     階段は丸太のフリをしたコンクリートで枠取られている。「これが腰に悪いんだ、滑るしね」と言いながら隊長は腰を押さえて登って行く。
     着いたのは住吉神社だ。地図を見れば本丸の北東、つまり鬼門に位置していることが分かる。本丸より一段低い場所で腰郭(曲輪)と呼ぶらしい。「住吉神社って大阪ですよね。」「そうだと思うよ。」桃太郎と同じように、私も住吉神社は大阪とばかり思っていたのだが、そんなに単純ではなさそうだ。この神社の由緒には二つの説がある。

    城主と目されている大江備中守師親が長門国住吉神社を勧請したものであると言われているが確証はない。(境内にある縄張実測図の説明より)
    鎌倉管領片倉城主、長井大膳大夫道広が応安五年(一三七二)城の鎮守の守として、摂津国住吉大社を勧請したのである。(住吉神社由緒より)

     長門国住吉神社と摂津国住吉大社が出てきた。「住の江の岸に寄る波よるさへや 夢の通ひ路人目よくらむ  藤原敏行朝臣」。この「住の江」は明らかに摂津国住吉のことだ。佃島に住吉神社があるのは、摂津国佃村からの移住者による。だから住吉と言えば大阪と私が思い込んでいたとしても、バカにしないで欲しい。と言い訳をしても、そもそも知識が足りなかった。ウィキペディアのお世話になると、三大住吉神社というものがある。

     住吉三神(底筒男命・中筒男命・表筒男命)を主祭神とし、天照皇大神・神功皇后を配祀する。日本全国に約二千社ある住吉三神を祀る神社の中で最も古い神社であるとされ、古書には「住吉本社」「日本第一住吉宮」などと記されている。ただし、現在の全国の住吉神社の総本社は大阪の住吉大社である。大阪の住吉大社、下関の住吉神社、博多の住吉神社の三社が日本三大住吉とされる。(福岡市博多区)
     『日本書紀』神功皇后紀によれば、三韓征伐の際、新羅に向う神功皇后に住吉三神(住吉大神)が神託してその渡海を守護し、帰途、大神が「我が荒魂を穴門(長門)の山田邑に祀れ」と再び神託があり、穴門直践立(あなとのあたえほんだち)を神主の長として、その場所に祠を建てたのを起源とする。(下関)
     仲哀天皇九年(二〇〇年)、神功皇后が三韓征伐より七道の浜(現在の大阪府堺市堺区七道、南海本線七道駅一帯)に帰還した時、神功皇后への神託により天火明命の流れを汲む一族で摂津国住吉郡の豪族の田裳見宿禰が、住吉三神を祀ったのに始まる。その後、神功皇后も祭られる。(大阪府住吉区)

     これによれば最も古いのが博多(筑紫)で、次いで下関(長門)、大阪(摂津)の順になるらしい。住吉三神の底筒男命・中筒男命・表筒男命は、黄泉の国から帰還したイザナギが、筑紫の日向の橘の小戸の檍原で禊をしたときに生まれた神である。
     おそらく元々は北九州に発生した海の神、航海の神であろう。これは宗像神や八幡神とも似ている。神功皇后にかこつけて瀬戸内海経由で機内に齎されたものだと考えられる。その神が何故この多摩丘陵に勧請されたのだろうか。
     勧請した人物にも違いがある。大江師親はウィキペディアには毛利元春の名で載せられている。十四世紀末から十五世紀初め(南北朝時代初期)の人物で、高師直に臣従してその名の一字を与えられた。一族は相模国愛甲郡毛利庄(厚木市付近)を本貫として毛利氏を名乗る。南北朝の戦乱で一族互いに敵味方に分れ、中国九州を転戦した後、曾祖父の領地であった安芸国吉田荘を引き継いだ。この家系から後に毛利元就が生まれてくる。
     また長井道広も大江氏で、これも大江師親とほぼ同時代になる。出羽国置賜郡長井荘の地頭職を得て長井を名乗った。やがて所領の長井荘を伊達氏が侵したため、その戦闘の最中の応永九年(一四〇二)、置賜の地で戦死した。その後も長井氏(永井氏)の名は八王子を中心に出てくるので、道広死後も、その裔はこの近辺に存在している。
     しかし「鎌倉管領片倉城主、長井大膳大夫道広」とは不思議なことだ。鎌倉管領の呼称は余り一般的ではないが、関東管領の別称である。最初は関東における足利氏の総帥を意味したが、鎌倉公方の名称が発明された後では、公方を補佐して実際の執務権限を握る職名となる。公方の補佐でありながら任免権は将軍にあり、そのため次第に公方と対立していくことになる。初期には斯波氏や高氏、畠山氏が就いたこともあるが、貞治五年・正平二十一年(一三六六)に上杉憲顕が再々任されて以降、上杉氏が世襲する。長井道弘はちょうど上杉憲顕と同時代に生きた人物であり、「鎌倉管領」になることはあり得ない。また次のような意見もある。

     この地は、もともと武蔵七党の一派である横山氏の所領であった。牧で馬を飼い、朝廷に献上していた。坂東武者発祥の地だったのだ。ところが、建保元年(一二一三)、和田義盛の乱に際し、横山時兼が和田一党に与して鎌倉幕府に敗れ、横山党は滅亡した。この時政所別当であった大江広元に、愛甲荘とともに横山荘が論功行賞として授けられたのだった。以後、後北条氏の支配になるまでこの状況が続いたことは、よく知られている。
     この城の本丸の下に住吉神社が祀られている。鬼門の位置にあるので、城の鎮めの社であろう。この社もいつ誰によって建立されたものかわからない。また、海の神である住吉神社をなぜ祀ったのか。
     拝殿の破風に「一文字三星」の神紋が施されている。この紋は大江氏一族の紋ではあるが、この宮にある紋は大江氏が使っていた紋とは形が異なる。毛利氏の萩本藩の紋の形をしているのだ。けだし、毛利元就による弘治三年(一五五七)の防長経略後に、長門の住吉神社(下関市)から勧請されたのだろうか。
     毛利氏の祖は、大江広元の第四子であった毛利(大江)季光である。また、長門住吉神社は毛利氏の氏神であり、その神紋も一文字三星である。拝殿の横にまわると、寄進を記録した幾枚かの札がかかっている。その中に、「長門国一ノ宮住吉神社の額」と記されている一枚がある。これらのことは、この社が長門からの勧請であることを示唆しているように思えるものの、確証をもてない。
     http://www.geocities.jp/utunukimidorinokai/sonota/arekore8.html

     結局、決定的な説はなく、南北朝の頃かその後かに大江氏の一族が築城し、住吉神社を勧請したことが推測されているだけだ。
     本殿に算額が奉納されているというので、格子越しに覗き込む。「あれだろう。」「よく見えないよね。」横長の額があるのは見えるが、薄暗くて判読できるものではない。嘉永八年(一八五一)、川幡元右衛門泰吉とその門人が奉納したものと言う。
     これを図に書いてくれるサイトがあった(http://utrblog.exblog.jp/10465003)。空積、円積率、二段平方などという用語があって、算木を置いたような絵も入っている。第一問は、互いに外接する二つの等円と、その共通接線によって囲まれた部分の面積を「空積」とすれば、等円の直径はいくらになるかというものだ。第二問は、半円の中に三つの小円を入れた図、第三問は正三角形の中に大円と二つの小円を接触させた図。第四は二等辺三角形の相似の問題のようだ。「ようだ」と言うのは、添えられた漢文が私には読めないからだ。
     「庶民の間でも算術が盛んだったんだよね。日本人の能力はスゴイね。」隊長は頻りに感心している。確かにヨーロッパ数学を知らずに独自で和算が達成したものは大きい。ただ決定的に不利だったのは数字の表記ではないだろうか。漢数字しか知らず、しかも横書きの概念がなくては数式が書けない。それでよく天文の複雑な計算が出来たものだ。因みに看板の文字を、右から始まる横書きだと思ってはいけない。あれは一行一字の縦書きである。
     一段上に上れば本丸跡の芝生広場が広がっている。空堀跡がはっきり分かり、その上に掛る木橋(を模倣したもの)を渡れば二の丸跡だ。本丸跡より広い。かなりの規模の城だ。
     枯れ木の間にはシジュウカラ、コゲラ、ヒヨドリがいるようだ。ピーとかギーッという声が聞こえてくるが、私にはどれがどの鳥かまるで判別がつかない。ツカさんがいれば鳴き声で判断してくれるだろう。それでも歩いているセグロセキレイは私にも分かった。城西大学キャンパスでしょっちゅう見ている。
     二の丸の西側は空堀跡に低木が茂り、その向こうは畑になっているが、三の丸跡かとも推定されている。ずっと向こうに五重塔(大林寺)が見え、更に遠くの山は雨に煙っている。
     隊長の当初の予定では、この辺で昼食になる筈だったがまだ十一時だ。「向こうへ行きましょう。」ぬかるんだ畑の間の農道を右に行く。朝までの雨であちこちに水溜りができていて、靴が泥まみれになってしまう。スナフキンが足を滑らせたが、なんとか転ばずに持ちこたえた。スパッツを留める紐(?)が、靴底で滑るのである。

     早春の 雨雲重き 城跡よ 女傑と勇者 土踏み進む  千意

     「あれはスズメかな」と双眼鏡を取りだした隊長が「ツグミだ」と断定した。胸を張るように畑の中を歩いている。「エラソウなんだよ」という隊長の言葉にロザリアが笑う。「この頃やってくるのが遅いんだ。」「やって来るって。」「冬鳥だからね。」昔はカスミ網で一網打尽にして食っていたが、今では禁止されている。それにしてもこの頃雀を見ることがめっきり少なくなった。「軒下がなくなっちゃったからなのよ。」「巣を作る場所がないっていうことね。」

     泥濘を踏むその先に冬の鳥  蜻蛉

     畑を過ぎてまた別の広場に着いた。「新しそうじゃないか。」平成二十二年に開園したばかりの「片倉つどいの森公園」で、隊長が配ってくれた地図には載っていない。樹木に名札が付けられているのが親切だ。
     しかし、ハコネウツギの標識のある低木を見て、チイさんとロザリアは「どう見てもアジサイだよね」と納得しない。私は「ハコネウツギの花はアジサイに似てるんじゃなかったかな」と適当なことを言ってしまうが、まるで違った。ハコネウツギはスイカズラ科である。私はガクウツギと間違えていたようだ。
     暫く行けば今度は確かにアジサイがあり、ここにはちゃんと「アジサイ」の表記がされていた。「さっきと同じだよね。」さらに今度はもう少し背の高い木に「ハコネウツギ」と記されている。「やっぱりそうだよ。」さっきの名札はだれかが適当に付け替えてしまったのだろうか。
     「これはマユミだね。」赤い実は知っているが、殻が弾けて薄茶色になっているのは初めて見るような気がする。大きな豆のさやが落ちているのを見つけて、「これ何」とチイさんが質問する。「ネムノキだよ。」ネムノキはマメ科だったのか。あの細く煙るような美しい花から、マメ科なんて想像もしていなかった。それにこんなに大きな木になるのも知らなかった。「皇后さまがお好きなのよね。」私は宮城まり子のねむの木学園を連想していた。

     片倉に 冬芽を探り 春を見ん  千意

     「鷲だ。」チイさんの声で、隊長が双眼鏡を目に当てる。「違うね、トビだよ、トンビ。」くるりと輪は描かないが、グライダーのように羽を動かさずに飛んでいる。「尾っぽがさ、三味線みたいだろう。」三味線のバチの形をしているのが特徴らしい。
     トイレから戻ってくると、隊長は公園の端に立って下界を見下ろしながら、「このお寺に行きたいんだ」と地図を広げている。しかし今見ている景色と地図がどうしても結びつかない。私は方角が分からないし、そもそも地図にはこの公園が載っていないのだから仕方がない。あの五重の塔に行くのかと思ったら、「あれは遠すぎる」と言われた。「とにかく降りて行こうか。」
     通り抜けられそうな細道を見つけていけば、遊歩道になっているようで、ところどころにベンチが置かれている。暫く降りて行くとショッピングセンターの駐車場に出た。「あそこにお寺があるわね。」ロザリアの指さす方に、墓地の脇の緑の甍が見えた。あそこまで行けば良い。しかし、なんとか辿り着いたものの、塀がめぐらされ門は閉ざされて「監視カメラ作動中」の掲示が出されている。「ぐるっと回らなくちゃ駄目だな。」「随分遠回りになるみたいだ。」道路を大きく回り込み、住宅地の狭い上り坂に入ると竹林の脇に石段が出現した。ここから入れるのだ。松門寺、鶴壽山と号す。八王子市片倉町二一二番地。
     石段の両側には無縁墓が綺麗に並べられている。山門前に「不許葷酒入山門」の戒壇石が立っているから禅宗だろうか。葷酒山門に入るを許さず。「クンシュって読むのか」と隊長がメモをする。「意味はなんだい。」「葷はニラとかニンニクとか匂いのキツイやつ。」何年か前、三時頃にどうしても居酒屋が発見できず、ラーメンの「日高屋」で餃子を肴にビールを飲んだこともありましたね。あれが正に「葷酒」であろう。しかし最近では「許されざれども葷酒山門に入る」なんて読むひともいる。勿論冗談である。
     ところで昔(二十五六年前か)、亀田(秋田県由利本荘市)の寺で「不許芸能入山門」を見たことを思い出した。しかし去年十月の墓参で太平寺(東海林家の墓)と正念寺(鵜沼家の墓)を回った限りでは見当たらなかった。それなら石山家の菩提寺で見たのだろうか。調べてみると、やはりそうだ。その戒壇石は亀田藩主岩城氏の菩提寺である龍門寺にあった。しかし私の記憶もいい加減で、正しくは「禁芸術売買之輩」であった。他では見たことがないし、これは全国的にも珍しいものだと思う。
     乳鋲のある黒塗りの扉の羽目板の一部が反り返って隙間が開いているのが惜しい。屋根の紋を見ていたチイさんが「葵の紋ですよね」と指摘する。「違うんじゃないの。」こんなところに葵の紋は不審だが、本堂の額には「勅賜」の文字があるから由緒はありそうだ。

     當山は延徳元年(一四八七)、子安六萬坊の地に虚空蔵菩薩を本尊として開創され当初子安山松門寺と称しました。本尊は密教の菩薩であり当初は密教の寺であったかと推測されます。慶長元年、寺町に移され鶴壽山と山号を改め、禅室祖参大和尚を心源院より請し禅宗として坐禪の真髄を伝えていくことになります。以後三百七十余年にわたって寺町において檀信徒の方々の攝化に努めてまいりました。江戸時代には幕府より御朱印を戴いているという記録もあり由緒のある寺でありました。
     http://www.shomonji.or.jp/history.htm

     「子安六萬坊の地」というように、元々は子安町(もうちょっと北になる)に創建された寺だ。江戸時代に寺町に移り、更に昭和四十四年の区画整理で現在地に移転してきた。本堂の唐破風の上の鬼板にも本堂の障子にも、やはり丸に三つ葉葵がちゃんとついている。チイさん、疑ってゴメンね。「幕府より御朱印を戴いている」のが、葵の紋を許されたということだろうか。良く分からない。
     座禅会の案内を記した立て看板に、「正法眼藏」の文字があるのを隊長が発見した。「道元だったかな。」「そうです。」曹洞宗であった。紅色の梅の蕾がまだ小さく固い。

     正法眼藏蕾も固し梅の花  蜻蛉

     「それじゃ城跡に戻って昼にしましょう。」隊長が「たぶんこっちから行けると思う」と当りをつけて歩き始めると、昭和三十年代に良く見かけた社宅のような、古くて小さな平屋が並ぶ一角に出た。今でもこんな住宅に人は住んでいるのである。(こういう言い方は失礼です。)車は通り抜けできないという狭い道なのに、家の前に車を止めているのは何故だろう。「この先が通り抜けられないっていう意味だよ。」実に当り前の話で、私は何故そんなことに気づかないのか。そこを抜けると、さっきの水車小屋に出た。今出て来た方角の民家からはドラムの音が聞こえてくる。「傍迷惑だろうね。」「夜はできないね。」
     「あそこがいいね。」四阿には二人掛けのベンチが二つ並んでいて、何とかそこに座って弁当を広げた。今朝のことを思えば、雨もなく屋根のある場所で飯が食えるのは有難い。隊長はお握りを四つも食べたらしい。「今日はマクドナルドじゃないの。」「なかったんだよ。」それに、「だけどカップラーメンは食べられなかった。場所がなかったから」と言う。場所さえあればラーメンも食べる積りだったのである。食べ過ぎではあるまいか。
     ロザリアがクッキーを出してくれたが、私は戴けない。「これなら大丈夫だよね」と桃太郎は煎餅をくれたので、喜んで戴く。
     チイさんが「今日のお土産」と言いながら大きなフキノトウを配ってくれるのに、桃太郎は「料理できないからね」と辞退する。「隊長はどうやって食べるんですか。天麩羅ですか。」「油の処理が面倒だから、天麩羅はしないんだ。」誰も食べ方を知らないようなので、チイさんが「簡単ですよ。蕗味噌が美味いんだから」と教えてくれる。「フライパンに油を敷いてフキノトウを細かく刻んで炒める。そこに味噌を入れてまた炒める。それだけですよ。」
     想像するだけだが、ご飯にのせても美味いし、酒の肴にも良いに決まっている。「ちょっと苦いのよね。」まだ来ない春が偲ばれる。「秋田の方じゃバッケって言いませんか。」そんな風にも言っていたなと、桃太郎の言葉で思い出した。どうしてそんなことを知っているのだろう。「盛岡に行った時にバッケ味噌って食べたんですよ。」どうやら東北一円でそう言うらしい。語源は不明だ。それにしても、チイさんのお土産はいつも季節を感じさせてくれるのでとても嬉しい。友に持つべきは豪農である。

     蕗の薹掌に載す雨上がり  蜻蛉

     私はネットで検索した記事を参考にして、刻む前にちょっと茹でてみた。ほんの一握りにしかならなかったが、確かに旨い。普通のバッケ味噌がどんな風だったか記憶にないが(子どもの頃は食べなかったかも知れない)、蕗の香りが漂ってやや苦みのある味に味噌が上手くからんで、初めて作ったにしては上々だと自分では思う。私は料理の才能があるかも知れない。酒が進みすぎるのが難点だ。
     桃太郎が合羽を脱いでスパッツも外す。「もう普通の道路ばっかりでしょう」と隊長に確認して、スナフキンも同じことをする。折角のスパッツも活躍した時間は短かった。「だけど寒いよね」と合羽を脱いだ桃太郎がこぼす。じっとしていると芯から冷えてくるようだ。
     「それじゃ出発します。」もう一度本丸に上って二の丸に戻ると、テナーサックスの音が聞こえてきた。「さっきは太鼓で、今度はラッパか」とロザリアが笑う。「女の子だったりして」とスナフキンが期待したが、ベンチでサックスを吹いているのは男性であった。
     「楽器が出来るのは良いよね。うらやましい。」「私はクラリネットを買ったことがある。」チイさん、スゴイじゃないか。音を出すだけでもかなり難しい。「買ったけど、それだけ。吹くまでならなかった。」そうだろうね。「リードって言うんだっけ。」中学高校時代にブラバンの連中に教えて貰って試したことがあるが、管楽器の音を出すのはとても難しい。管楽器ではないが、楽器は高校の頃に三千円のギターを買ったものの、コードをいくつか覚えただけで全くモノにならなかった。ウクレレもダメだったから、私には楽器を操る才能がないと見極めがつき、歌一筋と決めた。
     さっきと逆に左の方(南になる)に向かう。横浜線の高架を潜ると新興住宅地に出た。「駅はどっちだっけ。」「あっちかな。」私の判断はまるで逆だった。同じような造りの新しい一戸建てが並んでいる。ここの住所はまだ片倉だが、もう少し南には「みなみ野」というニュータウンが広がり、その新興住宅のために平成九年に「八王子みなみ野」という駅ができた。
     横浜線に沿うように左を流れるのは兵衛川だ。「ひょうえ」と思ったが、「ひょうえい」と読むようだ。地名なのだが不思議な読み方だ。

    兵衛川は湯殿川の支流の1つです。水源は八王子市宇津貫にある東京造形大付近で、兵衛、みなみ野、片倉を流れて、 湯殿川と合流します。
    (http://esprit.weblike.jp/area/river-hyouegawa.html)

     地図を確認すると、片倉城は北側を湯殿川で、東で湯殿側に合流する兵衛川で南側を守られていることが分かる。西側の備えを堅くすれば良いことになり、地形的にはかなり堅固な城だったように思われる。
     右(東)に曲がって、みなみ野大橋を渡る。横浜線と兵衛川を越える橋だ。川の西側がみなみ野、東側は宇津貫町になっている。字名に兵衛という地名がある。かなり高低差のある丘陵地帯で、ちょうど尾根筋を歩いているようだ。「あの木はなんでしょう。」左手の下に広がる民家の間の小高い塚の上に、姿の美しい背の高い木が三本ほど並んでいるのだ。「あの木なんの木。」「メタセコイアだよ。」
     十六号を渡ると右側に都立片倉高校がある。その奥が東京工科大学になるのだが、片倉高校のグランドに立つ看板が大きいため、丘に聳え立つ工科大学の神殿のような校舎まで片倉高校かと思ってしまう。
     東京工科大学の起源は片柳鴻の創立した創美学園に始まる。日本テレビ技術学校が日本電子工学院、そして日本工学院と名称を変え、法人名も片柳学園と変えた。これが母体になり、一九八六年に開学した大学である。デザイン学部・医療保健学部・メディア学部・コンピュータサイエンス学部・応用生物学部を持ち、大学院にはバイオ・情報メディア研究科がある。産学協同を推進する大学だ。
     すぐに右に入った住宅地に、普通の民家と接するように大六天宮が祀られていた。八王子市片倉町一六三二番地。鳥居からすぐに続く十段程の石段を上ると、狭い境内に間口二間の小屋のような、切妻平入りの祠が建っている。「飯能にもありましたよね。」「蓮田にもあります。」私は大六天が何者なのか分かっていないので調べなければいけない。
     大六天は第六天とも書かれ、字は違うが同じものである。第六天魔王(他化自在天)を祀る。私は余り見かけたことがない。
     生死を繰り返して輪廻する世界を三界と言う。この三界から解脱して輪廻の鎖を断ち切ることが悟りである。三界は下から慾界、色界、無色界によって構成される。更に慾界は三つに分けられる。最下層は八大地獄(無間地獄・大焦熱地獄・大叫喚地獄・叫喚地獄・集合地獄・黒縄地獄・等活地獄)で、次に餓鬼・畜生・修羅・人間の住む四大州があり、その上に六慾天(四王天・利天・夜摩天・兜率天・化楽天・他化自在天)がある。
     この慾天の最上階を第六天と呼び、最高の快楽が得られる世界とされる。その世界の主が天主大魔王たる第六天魔王波旬(他化自在天)だ。魔王と言うから恐ろしい障碍神でもあるが、他人の快楽を自在に自分のものとする。本来は釈迦が修行するのを邪魔した悪魔であり、シヴァ神の化身だとも言う。
     次の記事は茅ケ崎の第六天神社の訪問記らしいが、説明が詳しくて分かりやすい。

     現在は、淤母陀琉(オモダル)神、妹阿夜訶志古泥(アヤカシコネ)神の二神を祀る第六天神社ですが、もともと第六天とは仏教で「欲界第六の天なり、略して他化天と云う。下天の化作せし他の楽事をとり来りて自在に受楽するが故に、他化自在と名く。正法を妨害する天魔なり、釈尊成道の時これを降伏す。密教にては胎蔵曼荼羅の一尊となす」などと記されている天魔で、身丈は二里、寿命は人間の千六百歳を一日として一万六千歳とされ、強力な魔力をもった魔王として描かれています。
     このような魔王が何故信仰の対象とされるようになったのかと言うと、釈迦が成道の際にこれを降したことから、以来、仏教の守護神として祀られるようになったとも、御霊信仰のように祟りをなす者を丁重に祀ることによって逆に災いを防ぐよう祈願したものとも言われていますが、第六天信仰がいつどのような形で民間に流布し、どのような感覚で民衆に受け入れられてきたのか、諸説ありますが詳しいことはわかっていません。例えば『日本の神々 神社と聖地』では以下のようにその起源を推測しています。

     (第六天の本源は)比叡山の守護神日吉山王七社の第六に当たる十禅師権現ではないかと思われる。『七社略記』の十禅師荒神と申事の条に「十禅師大明神は宇賀神と名づけ、是則ち一切衆生の胞衣、寿福の神なり云々」とあり、真言宗の稲荷信仰に対し天台宗の十禅師信仰として布教され、六欲天の最高位の第六天と習合し、福神として民衆の間に拡まったものが、そもそもの始めではなかろうか。(谷川健一編 『日本の神々 神社と聖地 第十一巻』白水社)

     もっとも起源はどうあれ、民衆レベルではとても柔軟な受け入れ方がなされたようで、個人祈願の形が強いもの、荒神としての性格が強いもの、子供の守護神として祀られているものなど、地域によって信仰のされかたは様々です。そもそも、「第六天信仰とは○○である」などと一言でいえないあたりが、民間信仰の姿をよく表しているものなのかもしれません。(http://aralagi.travel-way.net/jinja/dairokuten.html)

     オモダル、アヤカシコネを祭神とするのは、明治の神仏分離によって第六天魔王を祭神とする訳にはいかなくなって、記紀神話から神世七代の内の第六代目の男女神を無理に引っ張り出してきたからである。「十禅師大明神は宇賀神と名づけ」、「六欲天の最高位の第六天と習合し」たのであれば、第六天も宇賀神同様に中世密教が作り出した「異神」の仲間であった。
     一方、第六天魔王はイザナギ・イザナミが誕生する以前のこの国土固有の神であるという説が中世に生まれてくる。仏教を嫌う神であり、この国には仏教を広めないと約束をして、アマテラスはやっと日本の国土を譲り受けたと言うのである。伊勢神道から唱えられた説のようだ。中世の神仏習合思想というやつは、実にさまざまなことを考えてくれる。

    第六天の魔王と申すは、他化自在天に住して、欲界の六天を我が儘に領ぜり。然も今の日本國は六天の下なり。「我が領内なれば、我こそ進退すべき処に、この國は大日といふ文字の上に出で来る島なれば、仏法繁昌の地なるべし。これよりして人皆生死を離るべしと見えたり。されば此には人をも住ませず、仏法をも弘めずして、偏に我が私領とせん」とて免さずありければ、天照大神、力及ばせ給はで、三十一万五千載をぞ経給ひける。譲りをば請けながら星霜積りければ、大神、魔王に逢ひ給ひて曰く、「然るべくは、日本國を譲りの任に免し給はば、仏法をも弘めず僧・法をも近付けじ」とありければ、魔王心解けて、「左様に仏法僧を近付けじと仰せらる。とくとく奉る」とて、日本を始めて赦し与へし時、「手験に」とて印を奉りけり。今の神璽とはこれなり。(『平家物語』屋代本)

     また、信長が第六天を信奉したという説がある。信玄が「天台座主沙門信玄」と署名したのに対抗して「第六天魔王信長」と名乗ったと言う記事が、ルイス・フロイスの書簡にあるらしい。
     しかし信長が「信奉」したかどうかは分からない。今ちょっと探し出せないが、信長が一切の神仏を軽蔑していたという証言も、フロイス『日本史』にあったと思う。比叡山を焼き、石山本願寺を滅ぼしたことからも、仏教への憎悪あるいは民衆が信仰を持つことに対する恐れは確実にあったに違いない。仏教を滅ぼす「悪魔」という意味で、比喩的に第六天魔王を自称したのではないだろうか。

     この種の中世神話でしばしば活躍を見せる第六天の魔王とは、欲界の頂にある第六天(他化自在天)の主の自在天で、魔王の名にふさわしく、仏法の敵対者としての威力は絶大であった。(山本ひろ子『中世神話』)

     隊長が決めていた見学コースはここまでで、あとは片倉駅に戻るだけなのだが、まだ一時を少し過ぎたばかりではないか。これではあんまり早過ぎる。「じゃ、時間調整しましょうか。」当初のコースとは少し変えて脇道を辿りながらのんびり歩くことになった。
     「歩いたことがないからね。」今日は道に迷っても文句を垂れる人はいないから大丈夫だ。新興住宅地の中を歩けば、表札の形も屋根の形もお揃いの家が並ぶ。さっきのメタセコイアがすぐ近くに見えた。片倉車石北公園の石段を登り、石段を降りる。これから造成するらしく、林を切り開いて土を露出させた一角に出た。「ここなら地盤が固そうね。」その脇には小さな白山神社の祠がある。

     長い塀が左に続いている。「なんだろう、大学かな。」「分かった、日本文化大学だよ。」スナフキンによれば法学部のみの単科大学で、警察官養成学校と言っても良い程らしい。試しに大学ホームページを開くと、最も目立つのが「警察官・消防官・公務員への最短距離」の惹句だ。就職実績のページに入れば、「警察官志望AO入試だから合格に直結」とある。就職体験記は神奈川県警のYさん(男)、警視庁のNさん(女)である。平成二十三年三月の卒業生では五十名以上の合格者を出したそうだ。開講科目には、警察学・警察行政ゼミ・警察官講座・犯罪心理学・少年非行論などがある。
     その大学が何故「日本文化」を名乗るのか。面白いのでホームページを繰っていくと、「六百年に及ぶ伝統と実績を受け継ぐ」なんて書いてある。

    日本文化大学の起源は、室町時代に草創された有職故実(現代の歴史学・政治学・法学に相当する分野)の学塾「柏樹 書院」にあります。

     有職故実が「現代の歴史学・政治学・法学に相当する分野」とは驚いてしまう。有職故実とは、古来の先例を墨守するための煩瑣な知識の蓄積であろう。平安貴族が実にマメに日記を書き、日々の衣装や式事の次第、席次などを克明に記しているのは、次回の参考にするためである。これが有職故実の始まりではないか。行動や判断の基準はあくまでも「先例」であり、新義は許さない。
     一年生に茶道が必修なのは、それは「昔から伝わる形=パターンをひたすら反復練習することが大切」だからであり、また選択科目の武道でも「古くから伝わる形を繰り返し練習することが重要」なのだ。これが警察官や公務員に求められるものなのだろうか。それにしてもいろいろな大学がある。

     かまぬき公園を過ぎた辺りで、慈眼寺入口の看板を見つけた。「ここに寄ってみましょうよ。どうせ時間はたっぷりあるんだから。」先を歩く隊長を呼び戻した。古い石の道標の正面には「板橋ヨリ壱丁参道」、その左側面に「至子安村」、右側面に「至鑓水村」、裏面には「武州多摩郡片倉邑」と彫られている。この道は「浜街道」と呼ばれる絹の道の一つだったと言う。「浜」とは横浜のことである。八王子市八日町から鑓水峠を越え、町田、長津田を経由して横浜に至った。「板橋ヨリ壱丁参道」の板橋は旧釜貫橋になるらしい。
     右側には民家が建っているが、きちんとした参道が続く。ミツマタがもうじき開きそうな風情だ。

     三椏も開き遅れて俯けり  蜻蛉

     白華山慈眼寺(曹洞宗)であった。ジゲンジと読む。八王子市片倉町九四四番地。朱塗りの楼門の一階は仁王門で、乳白色の金剛力士はなかなか迫力がある。二階は鐘楼になっているようだ。見学者は案内を乞えと書いてあるが構わないだろう。誰何された時に応じれば良い。

    室町前期文安二年(一四四五)畠中進江と申仁建立地也。「自賢菴」。開基心安守公和尚、文安五年辛辰八月十八日寂。その後壱百四十年来不詳。然るに天正年中頃宗祖道元禅師より拾三世法孫、永林寺三世岳應義堅和尚請求して開山となせり。天正十五年亥十月十五日寂。即今十八世見峰文久二年九月十七日賜綸旨。年歴四百四拾五年相成候也。現文雄二十一世代、年歴五百五拾五年也。

     「そんなに古くからあったのかな」と疑問を持つひともいるが、片倉城があったからには、当然その頃から寺があったと考えておかしくない。畠中進江というのは分からない。「その後壱百四十年来不詳」と言うのは、片倉城が滅んだ頃の空白期間を言うのではないだろうか。
     台座に寛政のものと記す宝篋印塔がある。十三層塔が二基建っている。本堂正面に掲げられた「慈眼寺」の字体を見て、「これ、面白いな」とスナフキンが笑う。この額にも「勅賜」の文字があるのは、上の記事にある「文久二年九月十七日賜綸旨」のことだろう。文久二年は一八六二年である。この年に与えられた綸旨とは何だろう。
     文久二年は、坂下門外の変、家茂と和宮の婚儀に始まった。六月に勅使大原重徳が幕政改革を迫る勅旨を伝え、八月には生麦事件が起きた。朝廷は攘夷の方針が不変であることを再確認し、九月には幕府にそれを伝えることを決定している。これらの動きを見て、この寺が横浜街道に位置することを考えれば、綸旨とは攘夷実行のことではなかったか。ただしこれは、あくまでも私の推測でしかない。
     「この木はなんだろう、モミかな。」スナフキンは樹木に興味を持ち始めたのだろうか。「これはカヤだよ」と言いながら隊長が葉を触る。「やっぱりそうだ。痛いんだよ。」この話は前にも聞いたことがある。「触ってみてよ。」似ていてもイヌガヤの方は痛くない。境内の樹木は綺麗に刈られているが、墓地も含めて周囲は鬱蒼とした雑木林に囲まれている。私たちのほかには誰もいない。静かで落ち着いた良い寺だ。鎌倉などにある大きな寺よりも、私はこういうところが好きだ。

     寺を出るとすぐ左に片倉駅が見えてしまった。ここで終わる訳にはいかないだろう。「八王子まで歩きましょうよ。」おおよその方角を見定め兵衛川に沿って歩き始めると、川の合流地点で湯殿川が渡れない。西に戻って橋を渡り、更に西に行って十六号を北上する。ゆるい登り坂が長い。
     「日が照ってきたんじゃないの。」少し暖かくなってきた。「結局降らなかったね。」「案外、ここだけだったりして。」去年の四月にも、関東全域が大雨だというのに、私たちが歩いている芦ヶ久保周辺だけ快晴になったことがある。何しろ私は晴れ男なのだからネ。越谷方面はどうだっただろうか。
     子安町交差点から十六号は左斜めに逸れていくが、標識を見れば八王子駅方面にはまっすぐ行けば良い。しかし隊長は右折した。「こっちじゃないの。」「そうだけどさ、静かな道がいいじゃないか。」さっきの道と並行しているらしい道を行く。急な下り坂を自転車少年が顔を真っ赤にさせて登ってくる。「エライ。」隊長は感動したようで、なんども振り返ってその後姿を見ている。八王子駅前の高いマンションが目印だから、ここまで来れば迷うことはない。駅まで一直線の下り坂で、標高差はかなりのものだ。
       右手のアパートのような住宅に「医療刑務所」の看板が立ち、立入禁止とされているのが不審だ。「こんな小さな家が医療刑務所か。」「よっぽど身動きできない患者ばかり収容しているのかな。」無知な私たちはまるで勘違いをして、頓珍漢な問答をしていた。これは医療刑務所の職員住宅であって、地図で確認すると刑務所自体は左側にちゃんとあったのである。
     「中華居酒屋が開いているよ。」「まだ腹がこなれてないよ。」スナフキンはまだ昨日の酒が抜け切れていない。正面に八王子駅が見えてきた。案外近かった。トイレ休憩を取って、「駅の向こうだろうね」というスナフキンに従って階段を渡り連絡路を通る。人がいっぱいだ。八王子は大都会である。
     北口に降りて、スナフキンは狭い路地に入りこんで行く。小さな居酒屋が並んでいるが、当然まだ開いていない。「金太郎がある。」「さくら水産はないんじゃないか。」路地を抜けると、交差点の所に「天狗」を見つけた。看板にはAM十一時からとある。「やってるじゃないか。」

     エレベーターの脇には「昼から飲めます」という看板が置かれている。今は二時半だ。地球上には飢えに苦しむ人が多いというのに、日本人はこんな時間から飲んで良いのか。空いてはいるが、それでもこの時間から飲んでいる客はいる。女性客だっている。
     「ここって養老の滝の系列だったかな。」「違うよ、昔からある。」池袋西口の「天狗」には学生時代に、ちょっと贅沢して「新政」(秋田の酒)を飲みたいときに良く通った。勿論当時は「旬鮮酒場」なんて看板は上げていなかった。
     ロザリアがレスキューセットを取り出して一所懸命説明してくれる。実に有益な講義だったが、肝心の「これだけは持っていたほうが良いわよ」と教わったものの商品名を忘れてしまった。十センチ四方程に薄く畳まれたもので、広げると寝袋のように身を包んで寒気を防いでくれるのだ。金色と銀色とがある。「自分は銀色を持ってる」と言う桃太郎に、「絶対に金色よ、どうして銀色なんか。ダメねえ」と先生の言葉が厳しい。「厳しい先生なんですよ。」ヒマラヤに登るには厳しすぎる位でないといけないだろう。これを持っていれば、去年の震災のときにかなり役に立っただろう。知っているのと知らないとでは随分違うのだ。
     焼酎二本はあっという間になくなった。「小さい瓶だから」と桃太郎が言うのは五百ミリリットルだったのかもしれない。「それじゃもう一本いこうよ。」それでも普段の二本分だ。「四月になったら、コバケンの醸造元の見学に行こうよ」と言うロザリアの提案に話が盛り上がる。越後鶴亀はスナフキンが絶賛する酒だ。「名古屋に転勤になったとき、なかなか買えないだろうって思って、一升瓶を大量に持って行った。それなのに名古屋にも売ってたんだよ。」その酒を泊りがけで飲みに行こうというのである。四月は法事があったりして結構忙しいので私は参加できそうもない。「向こうの都合だから、五月になるかも知れないわよ。」
     焼酎を三本飲み終わってもまだ五時半で、この時間ではまだ家に帰り難い。桃太郎はここで別れ、ロザリアが同調してくれたので五人はカラオケ館に行く。今日の隊長の咽喉の調子が良いのは、ロザリアがいるから気張ったせいも知れない。「泣いてるわよ。」隊長は『朧月夜』を歌うと感極まってしまうのである。幼い頃の故里を思い出すのであろう。(はて、隊長は東京で生まれたひとなのだが。)
     ロザリアは演歌の人であった。「海の男にゃョー凍る波しぶき 北の漁場はョー男の仕事場サー」(新條カオル作詞・桜田誠作曲『北の漁場』)。北島三郎を歌う女性は珍しい。ヒマラヤではサブちゃんが流行りなのだろうか。七時三十七分終了。
     帰りは西国分寺から北朝霞経由で東上線に乗り換えた。地図で確認すると、今日の行程は八キロか九キロだったと思われる。

    蜻蛉