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    平成二十四年四月二十八日(土) 新井薬師から哲学堂公園へ

    投稿:   佐藤 眞人 氏     2012.05.04

     集合は西武新宿線新井薬師駅だ。宗匠が企画した第二十二回江戸歩き(平成二十一年三月)はここから出発した。あの時は哲学堂、新井薬師から中野駅に出て、中野犬屋敷、萬昌院巧運寺(吉良家墓所、林芙美子墓)、正見寺(笠森お仙墓)等を巡って中井の林芙美子記念館まで、九キロちょっとの距離を歩いた。今日は新井薬師、哲学堂からすぐ北に向かって江古田駅で解散する予定になっているから距離はもっと短い。たぶん六キロ程度にしかならないんじゃないだろうか。余り早く終わると時間を持て余してしまう。
     私としては随分早く九時十五分頃に着くと、チロリンがベンチから立ち上がって笑顔を見せた。北口へ向かう階段を前にして、南口出口の横のベンチだ。相変わらず早い人だ。「どっちだか分かんないよ。」「こっち、南口だよ。」外に出て煙草を吸っている間に、ぼつぼつメンバーが集まってきた。珍しく隊長が遅れている。
     ダンディは一昨日ミャンマーから帰って来たばかりで、「ちゃんと書いておいて下さいね」と言いながら帽子を取り出した。宗匠なら言わなくてもちゃんと書くのだが、鈍感な私は念を押されなければ気付かない。畳表(竹かも知れない)を六枚貼り合わせたような簡単な帽子で、縫い目のところで折り畳むこともできるようだ。「これで二百円ですよ。」裏にアルミ箔のようなものを貼りつけてあるから二百円、これがなければ百円程だったと言う。「農民が被るものかい」と面白いことを訊くのはドクトルである。確かに田植えに似合いそうだ。
     頭のサイズからはかなり余裕があって風通しは良く、蒸れる心配もない。しかし紐がなければすぐに飛んで行ってしまいそうだ。ただ、その紐がおかしな所で妙に固く結ばれていて、このままではうまく被れない。「指の力がないと解けない」と言うダンディに代わって、「若者」の私が挑戦した。実にきつく結ばれていてかなり苦労したものの、なんとか解いた。「ダンディは毎回帽子を買ってくるけどさ、どんなふうに整理しているんだい。」ドクトルでなくても気になってしまう。「何も。押入に放り込んでいるだけですよ。」
     北坂戸の住人古道マニア夫妻が変な所から現れた。北口から出て踏切を渡って来たのである。「電車を三台も待ちましたよ。」「こっちから出ればよかったのに。」「初めての駅だから様子が分からなかった。」彼らは本川越から上り電車でやって来たことになる。その方が良かっただろうか。若旦那夫妻は「本川越まで歩くのが面倒だったから」と、私と同じように池袋経由で来たと言う。本川越からでは随分遠いイメージを持っていたのだが、念のために調べてみた。確かに池袋経由の方が十分程早いが、値段は本川越経由の方が百五十円も安い。所用時間がそれしか違わないなら、断然本川越経由を選ぶべきだった。
     常連の男性陣に故障者が多く、その代わりに久し振りに野薔薇先生を中心とした女性グループが勢ぞろいした。このメンバー構成なら今日は植物観察会になりそうだ。しかし今日のコースは街中を歩くから、野の花を見るような場所は余りありそうもないけれど。
     それにしても定刻十分前になっても隊長は姿を現わさない。事故でも起きたのだろうか。「今日は蜻蛉が代理ですか」なんてチイさんが冗談めかして心配している所に漸く現れた。「ゴメン、ゴメン。」所沢から急行に乗って高田馬場まで行ってしまったらしい。結局最後になったのが隊長で、急いで地図を配り十六人の人数を確認して出発する。

     すぐそこの踏切を背にして真っすぐ行けば普通だが、隊長は何故か左に歩き始めた。「アレッ、あっちじゃないの。」マルちゃんは若い頃に哲学堂の近くに住んでいたので、この辺には土地勘がある。「そうか、広い道を避けてるのね。」工事中の道路の狭い間隙を自転車の後に続いて通り抜ける。交通整理のオジサンが旗を持って車を止めてくれた。「有難うございます。」「どうもね。」
     住宅地に入り込むと、右側の家では白とピンクのハナミズキが綺麗に咲いている。それよりも目を引いたのが、突き当たりの家の玄関先を飾る見事なモッコウバラだ。「すいぶん大きいわね。」私もこんな大きなものは初めて見る。「どういう字を書くのかな。」「木の香りだよ。」木香薔薇。花について私が言えることは決して多くないが、これは知っている。煙るような淡い黄色が美しくて、薔薇のくせに棘がない。
     この花のお蔭で「綺麗な薔薇には棘がある」というフレーズは死語になってしまったから、『麗人の唄』はもう歌えない。今時この歌を思い出す人もいないだろうし、私だって歌ったこともないが、可哀想だから書いておこう。サトウハチロー作詞、堀内敬三作曲、昭和五年の歌である。

      ぬれた瞳と ささやきに
      ついだまされた 恋ごころ
      きれいなバラには とげがある
      きれいな男にゃ わながある
      知ってしまえば それまでよ
      知らないうちが 花なのよ

     住宅地のややこしい道を何度も曲がったせいか、大通りに出たところで隊長は一瞬迷ってしまったようだ。私たちをその場に留めて、一人離れて通りがかりの女性に道を訊いている。漸く確認できて歩き出せば新井薬師はすぐ目の前である。単純に来れば直線距離で四五百メートルだから、普通なら五六分で着く筈なのに二十分近くかかってしまった。モッコウバラを見るためだったのだろうか。
     「ここが新井で、東京の東にあるのが西新井。なんだかおかしいな」とダンディが笑う。それについては一月に西新井大師を訪ねた時に調べてある。本堂の西に新しい井戸が湧いたので西新井と名づけたのが西新井大師の由来である。「それじゃ、ここの新井はなんですか。」「これも新しい井戸ですよ、弘法大師伝説があります。」「弘法大師は所構わず出没するね。」
     正式には新井山梅照院薬王寺と号す。中野区新井五丁目三番五号。石造りの門の右脇には薄桃色の八重桜が満開に咲いている。ソメイヨシノはとっくに終わってしまって、この頃はあちこちで八重桜が見頃だ。今日は「八の日」の縁日に当たっていて、山門前や境内には花鉢や古着を広げる露店が出ている。金魚を浮べた琺瑯の洗面器を並べる店もある。洗面器には白いメダカもいるが、これは良いのだろうか。
     「アレッ。」金魚屋の前でロザリアが笑っていた。ずっと駅に待機していたのに全く気付かなかった。どこから来たのだろうか。訊いてみるとおかしい。彼女は高田馬場駅で降りて歩いて来られると思ったらしい。
     「だって、そうとしか読めなかったわよ。」私は真面目に読んでいなかったが、隊長の案内を改めて読んでみると「西武新宿線新井薬師駅南口(西武新宿駅、高田馬場駅から下り進行方向左)」と書いてある。なるほどね。「下り」を「くだり」ではなく、「おり」と読んでしまうと間違えそうでもあるね。「丁寧に書き過ぎたんだ。」そう、カッコの中が要らなかった。あるいは逆にちょっと書き足りなかったか。「西武新宿駅または高田馬場駅で西武新宿線の下りに乗り、到着したら進行方向左側の出口」ならば、新井薬師駅南口の正しい説明になる。相模原の人には分かりにくかったか。
     歩き始めたものの、どうやらこれはまずいと思い直して電車に乗り換えた。「だから遅れちゃったのよ。普通だったらちゃんと間に合っていたのに。」私たちが出発した直後に駅に着いたのだろう。それでも私たちより早く新井薬師に着くのである。
     これで本日の参加者は十七人と決まった。男性陣は隊長、チイさん、古道マニア、ダンディ、ドクトル、若旦那、蜻蛉の七人。女性陣はイッチャン、チロリン、ロザリア、シノッチ、古道夫人、マリー、マルちゃん、イトはん、野薔薇先生、若女将の十人である。女性の方が多いのはこの会では珍しい。「スナフキンはどうしたんだい。」知らない。忙しいか飲み過ぎかどちらかであろう。
     「姫も来たいって言ってましたよね。」ダンディはそう言うが、あんみつ姫はもう少し休養が必要で、まだ無理をしてはいけない。それにしてもロダン、宗匠(痛みはなくなったらしい)、碁聖、カズちゃんも含めて、早く元気な顔を見たい。(四月三十日、久しぶりに電話で碁聖の元気な声を聞いた。まだ入院は必要らしいが少し安心した。)
     「ここの宗派は何でしょうか。」真言宗御室派を宗旨とするダンディはそれが気になる。「真言宗ですよ」と古道マニアが言うのだが、知りたいのはそうではない。「そうじゃなくて、智山派とか豊山派とかっていうことですよ。」私は「古義じゃないでしょうかね」なんて相変わらず適当なことを口走ってしまうが、これは間違いであった。西新井大師と同じく豊山派の寺院である。これも西新井大師の時に調べていた筈なのに、すっかり記憶がなくなっている。
     蓮華の形をした手水鉢は梅鉢の紋を彫り、水面から青銅の蓮が伸びあがっていて、「珍しいよね」と若旦那が喜んでいる。「ちょっと見てよ、珍しいのよ。」イトはんに呼ばれて本堂を覗きこむと、木彫りの大きな狛犬が賽銭箱の左右に鎮座していた。狛犬が中にいるのは確かに珍しい。「不思議だね。」しかし「漆を塗ってあるんでしょうね」と若旦那が気付いてくれたので、やっと納得できた。私の感度は相当鈍い。それでは外に出しておく訳にはいかないだろう。前回来た時は雨で良く見もしないで過ぎてしまったが、今日はゆっくり見学できる。
     賽銭箱の上にはひらがなの「め」と、それを裏返した文字を記した紙片が何枚も載せられている。東福門院和子の眼病を治したと言うのが、眼病に効くという由来である。「薬師様って、薬の神様かい。」「そうです。」薬師如来は瑠璃光浄土の教主であり、衆生の疾病を癒し、無明の病を治す法薬を与えてくれるのである。「私はこのところ薬の厄介になっているから、お礼をしなくちゃいけない。」そう言って科学者ドクトルは賽銭を放り込む。
     塀際に集められた石仏が面白そうなのに、誰も関心を持たない。六臂の持つそれぞれの武器と日月二鶏が割にはっきりと分かる青面金剛が一基ある。如意輪観音が多いのは女人講の形跡だろうか。あるいは、この寺の本尊は薬師如来と如意輪観音の二仏一体だというので、それに因むのかも知れない。大悲殿の後ろには聖徳太子像が立っている。

     隣の新井薬師公園に入ると、隊長は大きな木の前で立ち止まってスズカケの説明を始めた。スズカケと言っても三種類あるらしい。ロザリアは、「木肌がぼろぼろっぽい」と隊長が書いているのがおかしいと笑う。「ぼろぼろっぽい」のがスズカケ(鈴懸)、木肌が白いのはアメリカスズカケ、その二つを交配したのがモミジバスズカケである。
     「スズカケってどこかの大学になかったかしら。」豊島区で育ったイトはんなら知らない筈はないだろう。「友と語らん鈴懸のみち、ですよ。」灰田勝彦が歌った『鈴懸の経』(佐伯孝夫作詞、灰田有紀彦作曲)は立教大学キャンパスがモデルである。学生時代には鈴懸なんて意識したことがなかったし、歌碑があることも知らなかった。そもそも私はスズカケとプラタナスが同じものだということさえ知らなかった。立教に関係していると知ったのはごく最近のことである。ただ恩師藤木久志先生が、出来の悪い学生たちの宴会に参加して、歌えるのはこれだけだと歌ってくれたのが『鈴懸の経』だったことは覚えている。(当時は勿論カラオケなんかなかった。)
     昭和十七年の歌だと知れば、ついででだからこの年に出た流行歌を探してみた。『石松ぶし』( 美ち奴・広沢虎造)、『朝だ元気で』 (柴田睦陸・藤原亮子 )、『シンガポールだより』( 田端義夫)、『迎春花』 (李香蘭 )、『つわもの日記』 (東海林太郎 )、『高原の月』(霧島昇・二葉あき子 )、『マレーの虎』 (上原敏 )、『ジャバのマンゴ売り』(灰田勝彦・大谷冽子 )、『マニラの街角で』(灰田勝彦・歌上艶子)、『みたから音頭 』(霧島昇・菊池章子 )、『新雪』(灰田勝彦 )、『今年の燕 』(霧島昇・松原操)、『鈴懸の経』(灰田勝彦)、『湯島の白梅』 (小畑実 ・藤原亮子 )。
     シンガポール、マレー、ジャバ、マニラと東南アジアを題材にした歌が多いのは、緒戦の勝利と戦線拡大の影響だと分かる。ほとんどが忘れられて良い中で、今でも残るのは灰田勝彦の『鈴懸の経』、『新雪』と『湯島の白梅』位じゃないだろうか。
     こうして曲目を振り返ってみると、灰田勝彦という人は「青春」を歌う歌手だったと今更ながら思い当たる。「青春」が歌謡曲の大きなテーマになるには昭和三十年代の半ばまで待たねばならず、当時としては珍しい存在だったのではあるまいか。しかしこんなことは余計な話だった。頷いてくれるのはロダンしかいないだろう。私の作文は寄り道が多すぎるのである。

     旧暦三月八日だと言うのに、もうすっかり初夏である。今年はいつまでも寒い日が続き、春らしい陽気はあっという間に過ぎてしまった。春を惜しむ暇もない。歩いていると汗が滲んでくる。チイさんはジャンバーを脱いだ。
     中野通りを越えると北野天神だ。中野区新井四丁目十四番三号。黒塗りの鳥居の額には「新井天神」と書かれている。隊長のお目当ては撫で牛である。「自分の悪いところを撫でてください。」「やっぱり頭よね。」誰でも思うことは同じようで、牛の頭の部分は黒色の塗りがやや剥げて見える。「ダンディはこれ以上頭が良くならなくてもいいんじゃないの。」しかし別の人は言う。「そうじゃなくて、毛が生えてくるようにって言うことですよ。」私は絶対に牛の頭は撫でない。
     「江戸歩きでも牛を見たよね。」最近江戸歩きにはさっぱり御無沙汰の隊長の質問に、「向島の牛島神社ですよ」とダンディが答えている。亀戸天神でも見ている。天神に牛はつきものだ。但し何故必ずいるのかという理由ははっきりしない。ウィキペディアによれば、道真の出生年は丑年である、大宰府への左遷時に牛が道真を泣いて見送った、道真は牛に乗り大宰府へ下った、道真には牛がよくなつき道真もまた牛を愛育した、牛が刺客から道真を守った、道真の墓所(太宰府天満宮)の位置は牛が決めた等の伝説があるらしい。

     石楠花や牛の頭を撫でるひと  蜻蛉

     ドクトルは七十貫の力石を見て喜んでいる。「これは何、紫陽花かしら、違うみたいね」とマリーが悩んでいると、野薔薇先生が「オオデマリよ」と決定した。真っ白な花だ。赤い芍薬も咲いている。
     前回も読めなかった歌碑が今日も読めないのは困ったものだ。まるで記憶というものが残っていない。仕方がないので再掲しなければならない。

     梅の花匂ふあたりの夕くれはあやなく人にあやまたれつつ  大中臣能宣朝臣

     ついでだから江戸歩きの時は調べなかったことも記録しておこう。どうせまた忘れてしまうかもしれないけれど。

    大中臣能宣 おおなかとみのよしのぶ 延喜二十一~正暦二(九二一~九九一)
    伊勢神宮祭主頼基の子。母は未詳。子の輔親、孫の伊勢大輔なども著名歌人。
    蔵人所に勤務したのち、天暦五年(九五一)、讃岐権掾となる。のち家職を継いで伊勢神宮に奉仕し、神祇小祐・大祐・小副・大副を経て、天延元年(九七三)、伊勢神宮祭主となる。以後十九年間在職。寛和二年(九八六)、正四位下。
    天暦五年(九五一)、源順・清原元輔らとともに梨壺の五人として撰和歌所寄人となり、万葉集の訓点と後撰集の撰進に携わる。天徳四年(九六〇)の内裏歌合を始め多くの歌合に出詠。また屏風歌も多い。冷泉・円融二代にわたり大嘗会悠紀方歌人。平兼盛・源重之・恵慶らと親交があった。家集『能宣集』が三系統伝わるが、そのうち西本願寺本系統は能宣の花山帝への自撰献上本の系統をひくという。拾遺集初出。勅撰入集は百二十余首。三十六歌仙の一人。
    http://www.asahi-net.or.jp/~sg2h-ymst/yamatouta/sennin/yosinobu.html

     大化改新における中臣鎌子(藤原鎌足)の功績によって、不比等の子孫は藤原氏を称することになったが、それ以外の系統の中臣氏は藤原姓を許されず、後に大中臣朝臣の姓を賜った。その嫡流が伊勢祭主を世襲したから、能宣は大中臣氏の嫡流であっただろう。しかし三位参議以上を公卿と呼ぶのと比べれば、正四位下は貴族としては下級に属する。
     百人一首の「みかきもり衛士のたく火の夜はもえ」は大中臣能宣の作とされているが(前回の江戸歩きではそのように書いた)、能宣の私家集に見えないと疑われているらしい。
     神社を出て脇の樹木で隊長がまた立ち止る。「木肌が黒いんだ。」下見をした時にはウワミズザクラ(上溝桜)が咲いていたらしいが、既に花はなくなってしまっている。あのブラシ状の白い花がサクラの仲間だと納得するのはなかなか難しい。
     妙正寺川の薬師橋に出た。三面護岸の川は風情も何もないが、水はかなり低い位置で意外に澄んでいる。「綺麗じゃないの。」「だけど、風情と言うものがないね。」護岸がかなり高くなっているのは、水害があったからだろう。

    東京都杉並区の妙正寺公園内妙正寺池(すぐそばにある妙正寺に由来)に源を発し、途中中野区松が丘二丁目で江古田川を、新宿区の西武新宿線下落合駅付近で落合水再生センターからの放水路とそれぞれ合わせ、新目白通り(東京都道八号千代田練馬田無線)の下を流れ、新宿区の高田橋付近で神田川に合流する。(ウィキペディア「妙正寺川」)

     隊長の案内文では、この後に妙正寺公園に行くことになっている。昨日地図を調べていて、それなら相当な距離を歩かなければならないと覚悟した。歩くのは別に何の問題もないし、余り早く終わっては困るから望む所である。しかし本当かな。里山ワンダリングがそんなに歩く筈はないんじゃないかと、心を落ち着けて冷静にもう一度案内文を読んでみると、その公園は哲学堂の近くにあるらしい。そうだったか。それなら妙正寺川公園であろう。「川」がつくかつかないか、紛らわしい名前だが、妙正寺川公園なら哲学堂と川を挟んで隣接している公園で、隊長の案内と矛盾しない。
     川沿いに歩いて行くと西武線で塞がれてしまい、少し左に迂回しなければならない。「スゴイ。」「綺麗ね。」踏切を渡った左手の家は東側の壁一面が緑に覆われ、南向きの玄関の二階から下の駐車スペースまで、薄紫の藤の房が規則正しくぶら下がっているのだ。黒い車の屋根には大量の花びらが落ちている。
     新開橋で川に戻り少し行って沼袋公園で休憩する。大した距離は歩いていないのに、今日はなんだか足が酷くダルクなっている。異様に速度が遅いからではあるまいか。民家の庭木を見れば必ず立ち止って観察するからなかなか前に進まない。野の花はなくても観察すべき樹木は多いらしい。普通に歩いているとすぐに後ろと離れてしまうので、意識して歩幅を小さくしてゆっくり歩く。歩幅はおそらく三十センチ位のような気がするが、こういう歩き方は疲れる。
     後で分かったが、隊長は時間調整をしていたのである。
     「ホオが咲いてますよ。」ハナミズキの脇に大きな朴の木が立っているのだ。勿論、私がホオの木を知っている筈はない。「そこに花が咲いてますよ」という声で裏に回ってみると、立ちかに白い大きな花が一輪咲いていた。「モクレンの大きなのみたいよね」とロザリアが言う通りだ。ホオはモクレン科であった。
     隊長はハナミズキの花を手にして、「ほら、ハナミズキは先が割れているんだよ」と言う。ヤマボウシとの違いを言っているので、それなら私も知っている。「ヤマボウシはスッと先が細くなってるよ。」「そうそう。」私はヤマボウシが好きだ。城西大学の正門を入った所にはヤマボウシの木が何本も立っていて、もう少しすると白い花を一斉に咲かせる。ただ十三人いる図書館スタッフに訊いても誰もヤマボウシを知らなかった。世間的には余り知られていないのだろうか。
     ヤマブキの隣にキンシバイも咲いているような気がするが、時期的にはちょっと早過ぎるし勘違いかも知れないと思って、私は黙っている。園内には珍しい樹木が多いようで、植物班は観察に余念がない。
     ふと見るとダンディは公園の端の柵に腰を下している。「疲れが後から来たようです。」気温が四十七度にもなるミャンマーから帰国したばかりでは無理もない。「私は後から疲れが出て来る体質みたいだ。一緒に行った奴は最終日にダウンしてたけど。」チイさんも「なんだか疲れちゃった」と言う。「俺も」と相槌を打っているとロザリアがおかしそうに笑う。それにそろそろ腹が減って来た。

     すぐ先の曙橋を渡って東に向かい中野通りを超える。あちこちの庭先に芍薬や赤い躑躅がよく目につく。左にマンションや妙正寺川公園の運動場を見ながら行くと四村橋だ。さっき曙橋で別れた川が、あそこから四百メートル程北の地点で大きくU字型に曲がってここを流れているのである。
     橋を渡ってすぐに哲学堂公園に入ると新緑が気持ち良い。「O157のせいにするのはおかしいですよね。」何のことだろう。「あれですよ。」その先を見ると、「全国的にO157が広がっています。水の中には入らないでください」という立札が立っていた。あれが流行った頃に建てられたものだろう。池の水は汚いが鯉が泳いでいる。ここでも樹木観察班は何かを見つけたようで、なかなか動こうとしない。
     漸く歩きだしたと思ったら、また珍しいものがある。「これが一葉桜よ。」やや大ぶりな八重桜の幹に札がついていた。樋口一葉と何か関係があるのだろうか。野薔薇先生はすぐに行ってしまうから確認できない。しかし「ここにね、一本あるのよ」と無学な私にイトはんが教えてくれた。花弁の中心に一本細長い緑色の線が突き出ていて、これが「一葉」だと言うのである。「どれなの、分からないわ。」私も、もう一度確認するために、ロザリアの前で花びらを毟ってみた。花びらが全部なくなると、確かに細長いものが一本残った。「これなのね。」しかしこれでは毟らなければ分からない。念のために調べてみた。

    大きな特徴は下半部が葉化した緑色の雌しべが普通一本突き出て咲くので「一葉桜」と呼ばれている。よく見るとめしべが二本ある花もある。オシベは退化して短い、垂れるように咲く。
    花経が五センチ、花弁は二十から二十五枚もある八重の大輪、花の形は円形で色が咲き始めは淡紅色、花びらの内側の弁が白いために満開時は白色に変化する。若芽は少し褐色を帯びた黄緑色、
    樹形は杯状形で直立して生育よく、幹の皮が所々縦に裂けるので鑑別し易い品種。樹勢強く栽培しやすい。山桜の一種「大嶋桜系」の変種だという。
    (http://blog.goo.ne.jp/ohananokai/e/d970fee2af232c20bbaa46096dde46e4より)

     「葉化した緑色の雌しべ」と言われても、「葉」のようにはまるで見えない。私はこの名前を初めて聞いたが、浅草観音裏の小松橋通りでは街路樹として植えているらしい。四月十五日は「一葉桜まつり」が開かれ、花やしき少女歌劇団のステージや吉原おいらん道中なんかもやったそうだ。
     ここからは川沿いの道を西に歩く。右側は木立の深い高い崖だ。「不可思議なものがいっぱいありますからね。」私は前に見ているから、ロザリアやドクトルに注意を促した。植物班はそんなものには関心がないから、どんどん前に歩いて行く。
     主観亭、概念橋、鬼灯、理性島。崖を上る階段は二元衢、直覚経。タヌキの腹に穴があいているのは狸燈である。ドクトルはひとつひとつ丁寧に説明を読んでは「これはどういう意味なんだ」と真剣に考え込んでいる。同じように熱心に読んでいたロザリアは、「こんなふうに断定されるのはスゴクイヤだ」と断言した。
     例えばこんなことだろか。主観亭は、「唯物園の客観盧に対する名称で、心界の休憩所であり、心界の風光を観察するのに適した地点に選ばれている」場所であり、あるいは「理性(島)に達する道程には概念(橋)が存在する。」なんていう言葉だ。

     先頭を行く隊長は「観象梁」という橋で妙正寺川を渡って行く。こんな所に何があるのだろう。宗匠と来た時にはこんな所はなかったのだが、実はここは重要な場所であった。素人っぽい高齢者が何人かカメラを持ってうろうろしているので、何か写真撮影の会をやっているようだ。ちょうど休憩時間なのだろう。その係員らしい男が数人で丸い池の縁に座りこんで弁当を食っている。
     その池が私たちの見学の目的だった。だから池の縁で弁当を食われていては邪魔なのだ。「哲学の庭」である。池の周りには平伏した男が一人、立っている男の像が四人立つ。像の背後の芝生に置かれた名札を見て、ひれ伏しているのはアブラハムと分かった。「どうして平伏してるんでしょう。」「神を畏れているんでしょうね。」アブラハムの神(後にイサクの神、ヤコブの神とも言う)は恐ろしい神である。その神の啓示を受けて、アブラハムは否応なく一族を引き連れて約束の地カナン(パレスチナ)へと旅立たなければならない。こうしてアブラハムはユダヤ教、キリスト教、イスラム教の祖となった。その召命の場面ではないだろうか。
     老子、キリスト、釈迦は良いが、頭が細長く後ろに異常に突き出た人物が分からない。「エジプトでしょうか。」私は宇宙人かと思ってしまった。名札を読むとエクトナンとあって、私の知識の範囲には全くない人物である。
     この時点では分からなかったが、後で買ったガイドマップに説明が入っていたので、先廻りして書いておこう。別名はイクナートンとある。「イクナートンですか、それなら分かりますよ」とダンディに言われてしまうのが悔しい。紀元前一三七七~一三五八の人。エジプト第十八王朝第十代の王アメンホテプ四世の別名だとも書いてあり、その名前ならかすかに記憶がある。異常な頭だとおもったのは帽子のようだ。
     「アメンホテプって言ったら『少年王者』に出てきましたね。」ダンディの世代と違って、山川惣治の絵物語に親しむためには私の世代は少し遅過ぎた。たぶんその名前は高校世界史の教科書でお目にかかったのだろうと思う。改めて調べてみると教科書的記述では、歴史上初めて一神教を提唱したとされているらしい。それなら私は一神教が歴史に齎した害毒の方を思ってしまう。唯一絶対神を信じることは、他の全ての可能性を否定してしまうことに繋がった。
     しかしエジプトの宗教については知識がない。ピラミッドが信仰の形跡だったのは間違いない。それは太陽信仰、王イコール神、あるいは死者の再生等に関わる信仰ではないだろうか。しかし当てづっぽうを言っていても仕方がない。世界の宗教を知ろうと思えば、頼りになるのはミルチャ・エリアーデである。

     ところで、エジプト文明の発生以来、その構造を形成するのに貢献したのは、宗教、とくにファラオの神性の教義であった。エジプトの統一と国家の創造は、メネス(歴史上のナルメル王に当たると考えられる)と呼ばれる初代王の偉業であったと伝えられている。(中略)その後、三千年以上にわたって、ファラオたちはメンフィスで即位し、この至高の儀式はメネス王が始めた即位式を踏襲していたと思われる。それはメネス王の偉業を記念する式典ではなく、原初のできごとに現れている創造的源泉の更新であった。(エリアーデ『世界宗教史』)

     ファラオの神性に対する信仰と同時に、一方では太陽神を始めとする様々な神が存在した。第十二王朝時代になって、八神のひとつであったアメン神が太陽神アメン・ラーとして至高神に浮上する。

     アメンの太陽神化は諸宗教の融合と、太陽神の至高神としての回復を容易にした。太陽はどんな民族にも受け入れられる唯一神であった。(中略)第十八王朝期に、アメン・ラー神殿は相当拡張され、その収入は著しく増加した。ヒクソスの占領と、とりわけテーベのファラオによるエジプトの解放の結果、神々はいっそう直接的に国事を統べるようにしむけられた。これは神々――とりわけアメン・ラー――が、祭司集団をとおして助言を伝えることを意味した。アメン神に仕える祭官の長は相当な権威を獲得し、ファアオのすぐ下に位置づけられた。エジプトは神権国家になりつつあったが、これはまた大祭司とファラオとのあいだの権力闘争を和らげはしなかった。祭司階級の過度の政治介入こそが、ときには、解消できない敵対関係にあった、相異なる神学的姿勢間の緊張を硬化させたのである。

     こうした状況の中で、アメンホテプ四世は「アマルナ改革」によって、太陽神アテンを唯一の至高神として、祭司階級の権力を剥奪する。

    「改革」を強要するために、アク・エン・アテンはアメンと他の神々を追い出し、生(アクン)の普遍的源泉であり、太陽神と同一視された至高神であるアテンを崇めた。

     これが、唯一神を提唱したということになるのだろう。アメンは満足するという意味のアメンホテプの名を、アテンに仕える者という意味のアク・エン・アテン(エクナトン)に変える。

     ファラオはそのすぐれた讃歌の中で、アテンが彼個人の神であると明言している。「御身はわが心にあり、御身の計画と力を知る息子(すなわちアク・エン・エトン)以外に、御身を知るものはだれもいない!」これゆえに、「アテン主義」はアク・エン・エトンの死後、ほとんど時を移さずに消滅したのである。要するに、それは王室と廷臣にかぎられた信仰であった。

     エクナトンの宗教とその影響に対するエリアーデの評価は低い。一神教とは言ってもファラオ個人に対する信仰の強制であった。
     ここまで読んでみても、エクナトンが「哲学の庭」に存在する意味は私には依然として謎である。井上円了が考えることは理解できないことが多すぎる。と思ったが、実はこれはハンガリー出身の彫刻家ワグナー・ナンドールが造ったもので、円了とは直接の関係がなかった。ここは平成二十一年十二月に出来ているから、以前に買ったガイドマップには当然出ていない。

     今見ているのは「第一の輪」と呼ばれ、「異なった文化を象徴する、思想を作り世界の大きな宗教の祖となった人物」を集合させたものであった。しかしエジプトの宗教が「世界の大きな宗教の祖」となったとは、たとえ一神教の始まりだとしても私には理解できない。
     それに宗教の祖を問題にするならムハンマドを除く訳にはいかないのではないか。イスラムを除いて世界の宗教と思想を語るのは了解できない話で、少なくともエクナトンより遥かに重要だ。ムハンマドを敢えて除外したとすれば、かつてオスマン帝国の支配を受けていたハンガリー出身のワグナー・ナンドールにとって、個人的な理由、何か大きなトラウマが存在していたかとも思ってしまう。
     少し離れた所には第二の輪があり、達磨大師、聖フランシスコ、ガンディーが立っている。「文化や時代が違っても、同じように悟りの境地に達してそれぞれの社会で実践し成果を得た人物像」である。「後ろ姿でもガンジーはすぐに分かるわね」と言うのは若女将だ。確かに、枯れ枝のような細い足はガンディーのもの以外には考えられない。しかしガンディーは悟りの境地に達していただろうか。
     「フランシスコ・ザビエルだよ。」おっと、それは違います。聖フランシスコは一般にはアッシジのフランチェスコ(一一八二~一二二六)と呼ばれる。日本で言えば鎌倉時代初期に生きた人物だ。教会の腐敗を批判してフランシスコ会を創設、その後次々に誕生する修道会の先駆けとなった。確か小鳥に説教したという話が残っていたと思う。因みに日本にやって来たザビエルはイエズス会士である。
     達磨は何か「社会で実践し成果を得た」だろうか。禅の祖。面壁九年、遂に足が萎えてしまったという伝説以外に詳しいことは知らない。『日本書紀』聖徳太子の片岡飢人伝説に、その飢人は達磨だったという話があり、日本でも古くから信奉されていたことは間違いないが、その社会的活動については殆ど伝わっていないのではないだろうか。
     第三の輪に立つのは聖徳太子、ユスチアヌス、ハムラビだ。この三人は現存する法律の主流を作った人物とされる。
     「目には目を」のハムラビ法典は有名だ。報復の無限循環を禁じて刑罰の限界を定めたのは明かに文明としての法である。しかしユスチアヌス帝について私は何も知らなかった。五世紀の末から六世紀の半ばに生きたビザンチン帝国の皇帝で、五三四年に「ローマ法大全」を公布した。ローマ民法が近代法に与えた影響は大きいから、この二人は確かに法律制定の上で大きな役割を果たしたと言って良い。しかし聖徳太子の十七条の憲法は実際に制定されたかどうかさえ疑問が抱かれているものだ。仮に聖徳太子のものだったとして、世界史的レベルでみて、「現存する法律の主流を作った」と言えるとは到底思えない。日本に帰化した人物の日本趣味、敢えて言えばオリエンタリズムが聖徳太子を選ばせたのではないだろうか。

     これらの像を造ったワグナー・ナンドールという人物もなかなか興味深い。ウィキペディア他によれば、一九二二年、トランシルヴァニアに生まれて建築学、美術史、考古学、民俗学、哲学等を研究した。高校時代に父親から老子の書を、祖父からは新渡戸稲造の『武士道』を貰ったのが、東洋哲学に目覚めたきっかけだったようだ。一九五六年のハンガリー事件では文化人の代表に推されたが、スターリン体制下のハンガリーでは生きて行けずスウェーデンに亡命した。一九六六年、日本人の秋山ちよと結婚。一九六九年、永住のために来日し、益子町にアトリエを設けた。一九七五年には日本に帰化し、日本名を和久奈南都留とした。益子に作られたタオ世界文化発展研究所は、現在は公益財団法人ワグナー・ナンドール記念財団となっている。「タオ」と言うからには道教の影響を受けたのかも知れない。

     科学の発達の成果を正しく有効に用いる為には、健全で平静な精神の人間が必要です。落ち着いた心を持つ人間なしには、今日のように進歩した科学の成果も、破壊的であり、役に立ちません。
     科学の知識とその応用は、もうずっと以前に、世界中のどんな人でもが、賢い平和な生活が出来るような道を開いています。それを妨げているものは、政治的と経済的との性格を持っています。双方共に、原因は法律と法の適用の違いから始まっています。
     世界の異なった場所の人々が、より相手に近づくことが出来るようになるためには、プラス・マイナス・ワンの原点に立ち返ることが必要です。
     もし我々が、倫理と法の原点を受け容れるならば、全人類のために共通の法律を作ることがよりたやすくなります。(和久奈南都留)

     ワグナー・ナンドールが分析美術史の研究を始め、思想を深め、その哲学理論の表現として「哲学の庭」を彫刻の形で制作し完成するまで約半世紀かかりました。
     平成13年10月18日母国ハンガリーの首都ブダペスト市に「哲学の庭」が建立されました。ニューヨークの惨事の直後でもあり、このワグナー渾身のライフワークにこめた民族、宗教を超え、世界平和を願うメッセージが大きな反響を呼んで居ります。
     始めからの構想によって8体の彫刻がハンガリーに建ちました。日本の「哲学の庭」11体の彫刻は大切に保管されて居ります。日本でも同じ思いで「哲学の庭」建立が実現されることを私共も心から願って止みません。(和久奈ちよ)
     http://www.wagnernandor.com/jtetsugakunoniwa.htm

     「プラス・マイナス・ワンの原点」とは何か私には分からない。また「私は文化、宗教などの相違点よりも各々の共通点を探しているのです。共通点を通してしかお互いに近づくことは出来ないのです」という言葉をみると、哲学と言うには余りに発想が通俗的ではないかと思ってしまう。スローガンだけで和解出来る程、世界の状況は単純ではない。さっきも言ったように、イスラムを抜きにして現代世界の問題は解決できない。但し珍しいものを見たのは確かだ。

     橋を渡ってさっきの道まで戻り、広場に出て昼飯だ。桜の木の根元にシートを敷く。今日は私とダンディとドクトルしかシートを持ってきていない。それにドクトルはいつもの大きなものとは違って一人用のシートだ。三枚敷いて、やっと常連男性が座れるスペースが確保できた。
     若旦那夫妻はいつものように二人きりでベンチに座り、古道マニア夫妻もやはり夫婦だけでベンチに行った。マリーとイトはんもベンチ組だ。ロザリアの姿が見えないと思ったら、たった一人でベンチに座っている。孤独が好きなのだろうか。「そうじゃないのよ、ベンチはここしか空いてなかったの。」
     すぐそばにシートを広げた野薔薇先生のグループからは、漬物その他の様々な差し入れが回されてくる。ダンディからはミャンマー土産のTAMARIND FLAKESという菓子が配られた。包装の絵を見ると豆科の植物である。私は欲しくはないが、「奥さんに持って行って下さい」と強制されたのですぐにリュックにしまった。それなのにチイさんが早速袋を開け、私にも無理やり食べさせようとするので仕方がない。
     直径二センチ程の薄片十枚ほどを一組にして紙で包んである。その小さな一きれを口にしてみると、酸味と甘みが混在する不思議な味だ。言われても豆科とは到底思えない。ウィキペディアによれば、タマリンドはアフリカ原産で、インド、東南アジアなどの熱帯、亜熱帯で栽培されるマメ科(ジャケツイバラ科)の植物である。

     料理の酸味料や食品添加物の増粘安定剤として用いられる他、ピクルス、シロップ、清涼飲料水に加工されるなど、利用範囲の非常に広い果実である。その他に甘みと酸味を楽しむ生食、ドライフルーツや砂糖漬け、塩漬けに加工される。
     種子の胚乳部分から抽出して得られたものから、食品添加物としての多糖類を主成分とする 増粘安定剤のタマリンドガム(タマリンドシードガム)を製造する。
     酒石酸とクエン酸による強い酸味をもつ黒褐色の果肉が使われる。 水に浸してとんかつソースのようになったものを調味料として使う。 栽培地では果肉だけを集めて黒味噌のような姿で、日本には数百gのブロックか、浸出したエキスの形で売られるのが一般的である。

     草むらに小さなスミレを見つけて隊長と野薔薇先生が判定に忙しい。ヒメスミレというものらしい。「我が家でもコンクリートの割れ目から出てくる」と言うダンディに、「そうなんだ、栄養の足りない所でも育つんだよ」と隊長が答えた。その言葉に女性陣から笑い声が起こる。「こっちにもあるわ。」「一杯咲いてるじゃないの。」
     「この花は誰にも話題にされず可哀想。」チイさんが、スミレの傍に咲く小さな白い花を見つけた。おそらく誰も知らないのだ。話題にされるためには名前を覚えて貰わなければならない。

     菫咲く野に名も知らぬ花ひとつ  蜻蛉

     哲理門(妖怪門)からではなく、脇からに入って六賢台の前に出た。この辺の一画は「時空岡」と名づけられている。説明によれば、「この辺一帯の丘状の平坦をもって哲学の時間空間を表現したものである。」理解不能な説明だ。
     「アレッ、開いてますよ。」これは珍しい。これまで来た二度とも建物は全て閉ざされていて、中に入ることは出来なかった。「私、すぐそこに住んでたけど、初めてだわよ」とマルちゃんも驚いている。靴を脱がなければならないのは面倒臭いが滅多にない機会だ。折り畳み椅子に座ってガイドマップを販売している係員に訊くと、ちょうど今日から連休中の間だけ、この一画の古建築を公開しているのである。秋には十月の土日にも開放すると言う。
     それでは取り敢えず三層の六賢台から入ってみる。古道マニアは螺旋階段があるかと期待していてようだが、狭い急な階段があるだけだった。「頭をぶつけちゃいそうね。」三階の天井には、聖徳太子、菅原道真、荘子、朱子、龍樹、迦毘羅の絵(複製らしい)が吊り下げられている。これが円了の選んだ東洋の賢人である。その選択に異論は多いだろう。
     「迦毘羅というのは簡単に言えばヨーガの創始者。」「それじゃ龍樹は誰なの。」マリーは仏教というものにまるで関心も知識もない。ナーガールジュナ。大乗仏教の根本理念である空の理論を完成した人物である。
     世界には確固とした実在というものはない。あらゆる事象は因果関係(つまり縁起)によって現れるだけである。それが空であり、色即是空というのはそれを端的に表現したのである。しかしこの思想は分かり難い。実在、イデアというものを認めないのはある種のニヒリズムと言って良く、インド思想が文明としては何程のものも残すことができなかったのは、こうした思考方法のせいではあるまいか。
     途中で気がつくと、植物班の皆はベンチに座り込んでいる。「今日は珍しいんですよ。滅多にない機会だから見た方が良いんじゃないかな。」「それじゃ見なくちゃね。」「ところで幽霊を見ましたか」と訊いてみたが誰も気付いていない。本来は哲理門から入った方が良かったかも知れない。「左が幽霊、右が天狗です。横からじゃ見えませんよ。」
     「ちっとも怖くないわね。」「なんだ、足があるじゃないですか。足がある幽霊なんてあり得ない」とダンディはバカにする。単に着物で隠れているのではないか。しかし幽霊に足がないというのは昔からの観念だとは思えない。『雨月物語・菊花の約』では幽霊とも気付かずに話し合っているのだから、足がなかった筈はない。円朝の『牡丹燈籠』だって、下駄の音をカランコロンとさせながらやってくるから、足はあったと思われる。念のためにウィキペディアを開いてみた。

     日本では幽霊は古くは生前の姿で現れることになっていた。歌謡などの中でそうされていた。
     江戸時代ごろになると、納棺時の死人の姿で出現したことにされ、額には三角の白紙の額烏帽子をつけ白衣を着ているとされることが多くなった。  元禄年間(一六八八~七〇四)刊行の『お伽はなし』では、幽霊はみな二本足があることになっていた。だが、『太平百物語』(一七三二年)では、幽霊の腰から下が細く描かれた。  享保年間(一七一六~三六)ころになると、下半身がもうろうとした姿で、さらに時代を経るとひじを曲げ手先を垂れる姿で描かれるようになり、定型化した像(ステレオタイプ)が形作られていった。  一七八五~八七に書かれた横井也有の『鶉衣』には、腰から下のあるものもないものもある、と書かれている。(ウィキペディア「幽霊」より)

     一般的に幽霊に足がないという観念が普及したのは、四谷怪談などの江戸歌舞伎の影響らしい。哲理門の説明には、天狗は物質界の、幽霊は精神界の不可解の象徴とみたと書いてある。円了は妖怪博士と異名を取った人である。幽霊に関する知識は少なくとも私やダンディよりは上にある筈だ。そして彼が幽霊も天狗も信じていなかったことは明らかで、何故こうした門を作ったのかは分からない。
     円了はかなり合理的な考え方をしたようで、迷信打破のために『迷信解』を書いている。迷信の最たるものは妖怪である。円了によれば妖怪には四種類ある。

    その第一は、人為的妖怪すなわち偽怪にして、人の偽造したるものをいい、第二は、偶然的妖怪すなわち誤怪にして、偶然誤りて、妖怪にあらざるものを妖怪と認めたるものをいうのである。この二者は古今の妖怪談中に最も多く加わりおるに相違なきも、その実、妖怪にあらざるものなれば、これを合して虚怪と名づく。つぎに第三は、自然的妖怪すなわち仮怪にして、妖怪はすなわち妖怪なるも、天地自然の道理によりて起こりたるものなれば、物理学あるいは心理学の道理に照らして説明し得るものである。すでに説明しおわれば、妖怪にあらざることが分かる。ゆえに、これを仮怪と名づく。これに物理的妖怪、心理的妖怪の二種がある。狐火のごときは物理的妖怪にして、幽霊のごときは心理的妖怪というべきものである。第四の妖怪は、天地自然の道理をもって説明し得べからざるものにして、真の不思議と称すべきものなれば、これを超理的妖怪すなわち真怪と名づく。この真怪は世間の人の妖怪とせざるものにして、学術上の研究によりてはじめて妖怪なることを知るものなれば、ここに迷信の一種として説明する必要はない。それはともあれ、この仮怪と真怪とは真実の妖怪とすることができるから、これを合して実怪と名づくる次第である。(井上円了『迷信解』)

     様々な迷信の原因由来を解きほぐして、幽霊も天狗も、誤認や恐怖感などの心理的要因によって生まれたと断定する。その上で尚、人智では説明できない「不可知的不可思議」があるというのが、井上円了の妖怪学の基本的な立場であるらしい。それを「真怪」と呼ぶ。

     しかし世界には、人知をもって知るべからざることがあるは疑いなかろうと思う。その知るべからざるとは、未知という意ではない。未知というときは、今日いまだ知るべからざるも、将来においては知るときがあろうという意味に解せらるるも、余がいわゆる知るべからずとは、真の不可思議の意にして、人知にて知ることは不可能なりとの意である。これを証明することは決して困難でない。もし人知の性質の有限にして、宇宙の事物の無限なるを知らば、人知以外の事物ありて存することが分かる。すなわちその体たるや、不可知的不可思議と申すものじゃ。かかる不可思議を名づけて真怪とするときは、世界に真怪の存するは疑うことができぬ。(『迷信解』)

     無尽蔵は円了が収集した様々なものを収蔵する倉庫だったようだが、それらの品は現在では中野区歴史民俗資料館や東洋大学井上円了記念博物館に移された。一階には六賢人の肖像画(複製)が展示されていた。二階に上がると、この公園の今昔写真展が開催中だった。
     絶対城に入ると一階の入口付近には、ここにある建物をかつて飾っていた各種の鬼瓦が展示されている。正面奥には孔子(だと思う)が鎮座し、その背後には黒い石の板に線刻した四聖が描かれる。しかし線が細くて薄いからはっきりとは見えない。四聖とは孔子、釈迦、ソクラテス、カントである。この選択も独特なものだ。二階に上がると「婦人閲覧室」という小部屋もあった。
     四聖堂の雨戸は開け放たれているが畳敷きの部屋には入れず、縁を回って観察しなければならない。明治三十七年に建てられた時には「哲学堂」と名付けられていたというから、最も古く、そして中心になる建物だ。座敷には黒光りする大きな釈迦涅槃像(和田嘉平作)が横たわり、そばには「南無絶対無限尊」と書かれた石塔(唱念塔)が置かれている。これは円了の造語であるが、今でも東洋大学ではこれを三唱することが推奨されていた。下記は平成二十一年三月の学位授与式・卒業式での松尾友矩学長のスピーチの一部だ。

     井上円了先生の残されている言葉で、皆さんが在学中に接することのほとんど無かった言葉に、「『南無絶対無限尊』を反復数回唱えれば、自然に絶対の本源より宇宙の大精神が、吾人の心門(心の門と書きますが)のうちに流れ込むに相違ない」と言う教えがあります。この『南無絶対無限尊』の『南無』は南無阿弥陀仏『南無』であり、『絶対無限尊』の『尊』は尊敬の『尊』となっています。この言葉の説明にはかなりの時間を要するので、ここでは省略しますが、人生の進路の選択等において不安になるような時には、心の中で『南無絶対無限尊』と唱えてみると、井上円了先生が皆さんの決断を支援してくれることもあろうかと思います。困ったら試してみてください。
     (http://www.toyo.ac.jp/ap/p03/speech/p03_12_j.htmlより)

     「仰向けになっていますよ。変だな。」これもダンディの疑問のタネになる。私の記憶でも、涅槃仏(寝釈迦)は右脇を下にした横臥の姿が多いと思う。ただ、それが何かの決まりなのかどうかは知らない。この涅槃仏は仰向きに寝て、臍の辺りで手を組んでいる。
     調べていると、「頭北面西右脇臥」という言葉を見つけた。北枕の由来を現わすのだが、釈迦入滅時の姿勢によるのである。これによれば頭は北にし、顔は西向き、右脇を下にするのが寝釈迦の正しい姿勢であった。この像を製作した和田嘉平がどういう人か分からないが、何を典拠にして仰向けの涅槃仏を造ったのだろうか。
     最後に宇宙館に来てみると、皆は椅子に座りこんでビデオを見ている。畳敷きの部屋の正面奥には聖徳太子の黒光りする立像(これも和田嘉平作)がある。ちょっと見ただけだが、ビデオの説明はガイドマップに書かれてあることと変わらないようなので、すぐに外に出た。
     外で退屈そうにしていたチイさんが「釈凝然って誰ですか」と訊いてきた。石段を上ったところにある三学亭を見て来たのだね。これについては、前に調べたことをメモして来た。伊予国出身、鎌倉時代後期の東大寺学僧である。華厳、律を中心に、真言密教、浄土教などを学んだ当代最高の碩学だったらしい。
     三学亭に同時に祀られているのが平田篤胤と林羅山だ。説明を読めば、神・儒・仏三道で最も著作が多い人物である。確かに篤胤の著作は無茶苦茶多い。講釈紛いに書きなぐったようなものを含めて、名著出版版の全集は二十一巻にもなる。林羅山の編著書はウィキペディアによれば百五十余に上る。凝然も「日本仏教の包括的理解を追究して多くの著作をのこした」そうだ。
     しかし著作の数は学問の質と正比例しない。篤胤に関しては、私は「仙境異聞」と『霊能真柱(たまのみはしら)』を読んだだけだが、殆ど与太話だと言って良い。神隠しとか天狗を真面目に信じていたようだし、主著と目される『霊能真柱』に至っては、夜郎自大のプロパガンダに満ちた本である。しかし、それが後世に与えた悪影響は甚大であった。ちょっと抜書きしてみよう。

    また我が皇大御国ハ。万ノ国の。本つ国の。本つ御柱たる御国にして。万ノ物万ノ事の。万ノ国に卓越タル元因。また掛まくも畏き。我が天皇は。万ノ国の大君に坐すことの。真理を熟に知得て。

     この発想が、日本人のある層の支配的なイデオロギーとなって太平洋戦争まで続くのである。それにしても著作の数の多さだけで選ぶというのは結局何だろう。実は内容や質について何の評価もしていないということである。
     井上円了の思想については相変わらず良くわからないが、前回見られなかったものを見ることが出来て収穫だった。所用で参加できなかった宗匠は悔しがるに違いない。ガイドマップも買って良かった。前回の百五十円より値上がりしているが、新しい情報が載っていたから不満はない。ここは哲学をダシにしたテーマパークと思えば良いだろうか。

     不可思議の世界に迷ふ暮の春  蜻蛉

     「それじゃ行きましょうか。」隊長が号令して哲理門から出発する。まだ幽霊を見ていなかった人はここで見学する。「ここに来たのは小学校の遠足以来でした。」遠足というのも懐かしい言葉になった。若旦那の小学校時代と言えば戦前である。
     次は水道タンクを見る筈だ。正面口から出ると左前方にドームのような建物が見えた。「あれでしょう。」「そうだよ、あれなんだ。」新青梅街道を横断して中野通りを少し行くと「みずのとう幼稚園」(中野区江古田一丁目一番一号)の真後ろに巨大な塔がはっきり見える。「近づきすぎると却って見えないんだ。ここからの眺めが一番良い。」隊長がそう言うのでは写真を撮らばければならない。
     幼稚園の鉄柵に蛇のように複雑にからみついているのは、ツルウメモドキと言っていただろうか。かなり太い枝がこんなに捻じれてからみつくのか。「江古田って中野区なんですね。」「そうそう、練馬のイメージが強いけどね。」江古田駅が練馬区にあるのからおかしいのだ。
     「弾の跡が残っているんだよ。」隊長の言葉に、「ピストルなの」と訊くイトはんがおかしい。誰がこんなものに向けてピストルを放つだろう。空襲によるに決まっている。民家の庭先では、野薔薇先生がまた何かの木を見つけて熱心に観察しながら講釈を垂れ、その家の主人があっけにとられたように見ている。今日の私は樹木観察にはもう飽きてしまったから、何を言っていたのかはすっかり記憶から除かれている。
     「そこ曲がって」と後ろの隊長から声がかかったが、曲がり角はない。「ありませんよ。」「おかしいな」と隊長が元来た方へ戻って行く。「さっきの幼稚園の角じゃないの。」そうだった。
     確かに近づくと屋根のドームがちゃんと見えない。「上を見上げると首が痛くなっちゃうわ。」荒玉水道の野方給水場であった。中野区江古田一丁目三番一号。
     荒玉水道とは、多摩川の水を砧で取水し、中野区野方と板橋区大谷口に送水するための地下水道管であった。「荒」は荒川、「玉」は多摩川である。おかしな命名だね。この野方配水塔は昭和四年(一九二九)に竣工し、一九六六年に停止になるまで使用された。現在は災害時の給水槽として使われているそうだ。

     大正時代から山の手地域は人口が急増しました。そのため水道の敷設が急務となり荒玉水道が敷設されました。これは世田谷区砧から多摩川の水を引いて中野・杉並・豊島・板橋・練馬・北区に水道供給をするためのものでした。野方配水塔はこれらの地域に配水するために昭和四年(一九二九)に建てられました。高さ約三四m・径約一八mの円筒形の塔は約二千トンの水が貯水することができます。各戸への配水はこの塔の中に水を溜めて水圧による自然降下によって行うものでした。現在はその役目を終え、地域のランドマークとして、また東京の都市形成の過程を示す遺構として重要なものとなっています。
     http://www.city.tokyo-nakano.lg.jp/dept/407000/d007752.html

     山の手大空襲の際の弾丸跡が残ることから、中野区の平和史跡にもなっている。これで今日見学すべきものは全て見終わった。あとはほぼ真っ直ぐ北上して西武池袋線の江古田駅に向かうだけだ。
     途中の江原公園でトイレ休憩を兼ねて小休止を取る。ロザリアはとうとう半袖シャツ一枚になってしまった。暑いのである。樹木の多い公園で女性陣は喜んでいるが、私やダンディはもうすっかり関心を失った。ロザリアは、砂場を柵で囲んであるのを見て感心する。「こういう配慮が必要なのよ。」確かにそうだろう。犬猫が入りこんでは雑菌が混じりこむ。
     しかし私たちの子供の頃は、そんなことは一向に気にならなかったよね。どこでも裸足で平気で歩きまわり、時には錆釘が足裏に刺さったこともあった。地面に落ちているものを拾って食っても特に何の問題もなかった。人間が脆弱になって来たのである。
     垣根に赤く咲き残っている花を見つけて「何かしら」とシノッチとイッチャンが話している。「ベニバナマンサクじゃないかな。」「マンサクなの。」彼女たちも花に近づいて見て「確かにマンサクの形ね」と確認した。「赤いのは初めて見るわ。」私は何度か見ている。「園芸種だと思いますよ。」本日初めて私は偉そうに言ってみた。
     「アッ、亀よ。」ちごの歯科には小さな池があり、亀が七八匹ほどが甲羅干しをしているのだ。甲羅の長さが二十センチ程の、結構大きな亀ではないか。それにしても歯医者と亀の関係は何だろう。中野区江原三丁目一三番三号。

    ちごの歯科は、平成二十年八月二〇日に開院しました。
    医育機関附属病院に長年勤務し、定年退職してから開業しました。
    大学病院でさまざまな貴重な経験、貴重な臨床経験をしてから開業して良かったとつくづく思います。
    大学病院を受診した患者さんが、今の自分を育ててくださったので、この経験を踏まえて少しでも地域の方、この医院を受診される方に恩返ししたいと思います。
    亀のいる池に面した明るい広い診療室には、診療椅子を1台だけにしました。
    1?2か月に1度、「歯の話」、「お口の病気」の豆知識チラシを発行しております。診療所の外に置いてありますので、ご自由にお持ちください。
    ゆったりとした中で、楽しく、悠々、充実を基本として、感謝しながら診療にあたりたいと考えております。(http://www.chigono-dental.jp/)

     なるほど、「ゆったりとした中で、楽しく、悠々」の象徴ということか。しかし歯医者で治療するとき、余りそんな気分にはなれないのではないだろうか。私は殆ど歯医者には行かないが、親不知を抜かれた時の痛さは堪えがたくて、とてもそんな楽しい気分にはなれなかった。診療椅子が一台だけでは予約も大変だろうね。チイさんに言わせれば、この亀は「噛め」の象徴である。

     歯医者さんもしもし亀よ良く噛めよ  千意

     交差点の角にはエプロンを括りつけられたような地蔵が立っていた。「なんだか、猿の顔に似てませんか」と若旦那が笑う。顔の表面が削られて(あるいは風化して)鼻の部分が窪んでいるから、そう見えないこともない。かなり古そうな地蔵だ。
     信号の角にあるマンションの、新しく植えたばかりらしい庭木にも、野薔薇先生の関心は絶えない。お蔭で狭い交差点で、信号の変わるのを三回も待ってしまった。
     駅はもうすぐだ。しかしまだ早すぎるのではないか。この時間では、仮に池袋に出たとしてもやっている店を探すのは面倒になる。どうしようか。住宅地の中の道を複雑に曲がっていくと、飲み屋が並ぶ一角に入って来た。「あっ、そこやってるよ。」「今日は近いから、たまにはこういう店も良いね。」外から見た限りでは結構広そうな店だ。チイさんとこんなことを話し合っている内に、すぐに江古田駅に着いた。三時である。
     隊長は駅舎の階段の上で解散を宣言する積りでどんどん歩いて行くが、私の頭はさっきの店に戻ることしか考えていない。「ここでいいじゃないですか、お茶を飲みたい人もいるようだから」と野薔薇先生にかこつけた。彼女も下で解散宣言して欲しいと言っていたのは嘘ではない。隊長も了解して、エスカレーターに乗ったひとを呼び戻し解散宣言が出された。
     野薔薇先生のグループはお茶を飲みに行き、八人は反省するために、さっき見つけた店に戻る。隊長、ダンディ、ドクトル、ロザリア、イトはん、チイさん、マリー、蜻蛉。ロザリアもイトはんもすっかり反省会メンバーに定着した。
     ここは大衆割烹を名乗る「お志ど里」である。練馬区栄町四番一号。定食を出す店で、これで「大衆割烹」とはちょっと言い過ぎではないだろうか。単なる大衆酒場である。チェーン店ではない居酒屋に入るのも久しぶりだ。大した店だとは思えないが、下記の記事を見つけたので書き留めておこう。筆者は武蔵大学の先生らしい。

    行き先は、江古田を代表する居酒屋「お志ど里」である。この店、もっと早くに紹介してもよかった店である。江古田駅の南口を右側に出て、徒歩三〇秒ほど。武蔵大学へ向かう角のところにあるのだが、角の頂点あたりは別の店になっているので、敷地はL字型。中はかなり広く、二階とあわせれば二〇〇人は入るだろう。客層は、日大芸術学部と武蔵大学の学生、教員、サラリーマン、そして地元民と幅広い。昼から営業していて、明るいうちは定食がメインだが、酒も飲める。地元の人々に愛される本当の意味での大衆酒場だ。(「橋本健二の居酒屋考現学」
    http://d.hatena.ne.jp/classingkenji/20071026/1193351285)

     これによれば、「江古田を代表する居酒屋」である。しかしその評価は、昼からやっていることが相当影響している気がする。中はかなり広い。畳に上がりこんで、大きなテーブルの周りに座ってビールを注文する。たまたま通路側の端に座ったチイさんに、「注文は任せるからね」と言ってみた。「それって、おかしいんじゃないの。」長幼の序というものを知らない私をマリーがたしなめる。
     焼き物、揚げものは四時からでないと出せないらしいので、取り敢えず枝豆、冷奴、刺身で飲み始める。冷奴の器に水が張られているのは珍しいが、実家でも採用している方式で良い。
     ここで、チイさんが先日の大山街道歩きに参加しなかった訳が分かった。ロザリアと一緒にコバケンさんの越後鶴亀を訪ねていたのである。そんな楽しいことをしていたのか。心配して損をした。「美味しかった。」そうだろうね。コバケンの話を聞いてきたロザリアによれば、秋篠宮から直接注文の電話が入ったそうだ。電話を受けた方も驚いただろう。しかし直接の注文は受けないでくれと宮内庁からお達しがあったと言う。「そうだよね、毒見しなくちゃいけないし。」この時代に毒見なんてものが存在するものだろうか。これは怪しい説である。
     四時になるとやっと焼き物が解禁になり、チイさんが鯖とホッケを注文してくれた。私は鯖に箸をつけたが、なかなか旨い鯖であった。ひとり三千円。
     五時に終わってもまだ世界は明る過ぎ、この時間に帰る訳にはいかない。「じゃ、行きますか。」ダンディだけはそのまま帰って行き、残った七人は「カラオケの鉄人」に入る。西郷輝彦や舟木一夫を歌ってしまうと、カラオケは「青春」である。かなり発散して終了したのは七時十七分、ひとり八百円は安いではないか。

    蜻蛉