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    平成二十四年五月十九日(土)東京薬用植物園から武蔵野美術大学

    投稿:   佐藤 眞人 氏     2012.06.01

     本川越を八時五十二分に出る西武新宿線急行に乗って、小平で拝島線に乗り換え、九時四十二分に東大和市駅に着いた。この辺の西武線は、国分寺線、多摩湖線、西部園線、狭山線など短い区間の路線が複雑に分岐していて、慣れないと分かり難い。小平乗り換えが簡便だと事前に隊長から教えられていなければ、東村山で国分寺線に、小川で拝島線に乗り換えるコースを選んだかも知れない。
     南口に出ると隊長、画伯がいるのは不思議ではないが、イトはんがこんなに早くから来ているのは珍しい。今日は午後二時過ぎから中央線の工事で三鷹・立川間がほぼ運休になる。それに画伯の話では明日は植物の会があるらしい。「だから女性陣は少ないと思うよ。」
     「あら、珍しいわね。」丸い赤ポストがあるのが確かに珍しいが、よく見るとポストの胴体からは水道の蛇口がつながっている。当然口はふさがっていて、通常のポストよりサイズも大きかった。胴体に「丸いポストのまち こだいら」と書かれたレプリカだが、小平市にはこの懐かしい丸型の赤いポストが三十七本残っていて、その数は都内随一だと言う。こんなことが自慢の種になる。因みに二位は府中市とあきる野市の十八本である。
     「あれは何なのかしら。」今日のイトはんは色んなことに気がつく。「だって、いつも見逃したものが多くて反省してるのよ。今日はしっかり見なくちゃね。」「あの塔ですか。」「何だろうね。」スナフキンが律儀に説明を見に行って、貯水塔だと分かった。「貯水塔ってもっと太いんじゃないかしら。」「俺にそう言われても困ってしまう。「あら、ごめんなさいね。折角調べてくれたのに。」実は調圧水槽というものらしい。
     この間に画伯は駅舎の屋根に燕の巣を見つけてカメラを構えている。「ちゃんと撮れたよ。」定刻までに集まったのは隊長、画伯、ツカさん、古道マニア夫妻、イトはん、伯爵夫人、スナフキン、私の九人になった。ツカさんも随分久しぶりだ。

     「ここからバスに乗るんですか。」伯爵夫人は何を聞き間違えたのだろう。バスどころか、すぐ目の前の敷地だ。踏切の交差点に名を残す青梅橋は、今は暗渠になっているが野火止用水に架かっていた橋であり、西武線の駅名も昭和二十五年の開業当初は青梅橋駅だった。東大和市駅とは言いながら、東大和市の南端に位置していて、私たちがいるのは小平市になる。交差点を右に曲がればすぐに正門に着く。東京都薬用植物園。小平市中島町二十一番二号。東京都薬用植物園は以下のようなことをしているところだ。

     本園は、昭和21年設立以来、薬務行政のひとつとして、薬用植物を収集、栽培しています。平成15年度には、試験研究機関としての機能をより強化するため、健康安全研究センター内の組織として再編されました。現在は主に、違法ドラッグや健康食品の指導・取締りに向けた植物鑑別等の試験検査、調査研究を行っています。
     また、園内の一般公開や、薬草教室等の開催により、薬用植物の正しい知識の普及に努めています。(「薬用植物園案内」より)

     第四土曜日に開催される筈の里山ワンダリングが、一週繰り上がって今日になったのはケシのためである。禁じられたケシを我々が見る機会は滅多にない。たまたま来週の金曜までケシ畑の二重になった柵の外側を開き、内側の柵越しにケシが見られる。つまり来週土曜では遅いのだ。
     「ケシって、大麻だよね。」画伯の言葉にうっかり頷いてしまったが、ケシから採れるのはアヘンだった。大麻を採るのは文字通り麻である。
     門を入ると学生らしい若者十数人が入口付近で屯している。看板を見ると、東邦大学など三つほどの大学の薬学部学生の見学会が行われるのだ。「医学部や薬学部がある大学なら、どこだって自前の薬草園はあるだろうに。」「ケシは栽培してないからだよ。」「そうか。」城西大学も薬学部のために薬用植物園は持っているが、勿論ケシなんか栽培していない。この植物園は、法で禁止されているケシを都内で唯一栽培しているのである。
     隊長がパンフレットを貰おうとして、「ここは学生のためのものですから」と断られたのは、場所が違っていたからだ。学生が並んでいる場所の右手にちゃんとした建物(資料室)があり、そこに青いケシを展示して、ついでにパンフレットも手に入れられるようになっていた。
     「東京都薬用植物園案内」、「四季の薬草」、「身近にある有毒植物」、「医学・薬学・看護学生のためのケシ講座」を手にしたところで、「じゃ、行きましょうか」と隊長が建物から出ようとする。「アレッ、青いケシは見ないんですか。」「そうか、そうだったね。」
     資料室の入口を入ったところに、二つの植木鉢から六七十センチほど伸び、空色の四弁花が咲いている。おしべの先はオレンジ色だ。これがケシですか。ケシと言えば赤いものと私が思いこんでいたのは、「赤く咲くのはケシの花、白く咲くのはユリの花」(『圭子の夢は夜開く』石坂まさを作詞・曽根幸明作曲)の影響としか考えられない。白もピンクもあるのだ。この青い花は「ヒマラヤの青いケシ」と呼ばれる。

    メコノプシス・ベトニキフォリア  一般にヒマラヤの青いケシといえば本種を指し、英名もそうなっているが主産地は中国雲南省北西部の高山地帯である。多年生であるため、一度根付けば種から育てる必要は無く、その点栽培の難しい本属の中では栽培しやすいといえる。ただし低地で栽培した場合は紫外線の影響もあり、花色の青は薄らぐ傾向にある。(ウィキペディア「メコノプシス属」)

     こうして一般人の手に触れられるところで展示しているのだから、アヘンを採るケシとは違う。メコノプシスの中でも、標高四千メートルを超える地帯にしか咲かないメコノプシス・ホリドゥラはブータンの国花である。
     「それじゃ、園内を見学しましょう。」入園は無料である。そのせいか、学生に混じって普通の人も案外多く見学に来ている。老夫婦の二人連れが何組も目につく。
     最初は有毒植物と外見上紛らわしい山菜を並べるコーナーに立ち寄った。ときどき死ぬ人がニュースで騒がれる。素人は初めから手を出そうとはしないが、中途半端な知識で山菜を採るオジサンたちが一番危ない。
     フキノトウに似ているのはハシリドコロ(走野老)と言う。食べると「走り出してしまう」ものらしい。「それならマラソンの前に食えば良いよ。」走り出すというのがおかしいが、錯乱してしまうのだろう。その他にも、オオバギボウシ(大葉擬宝珠)に似たバイケイソウ(梅蕙草)、セリ(芹)に似たドクゼリ、ゲンノショウコ(現の証拠)に似たヤマトリカブト(山鳥兜)など、私には区別がつかないものばかりだ。  日本三大有毒植物というものがある。というのをウィキペディアで知った。ドクウツギ、トリカブト、ドクゼリである。「三大」と言うからモノスゴイのだろう。

     「これ、綺麗じゃない。」カルミア(アメリカシャクナゲ)という花が珍しい。径二センチ程の薄いピンクがさす白い花が密集して、蕾は星型というか、金平糖のような形で真中がピンクになっている。「シャクナゲなんて思えないわね。」イトはんも初めて見るようだ。可愛らしい花だが、葉は有毒で羊が中毒しやすいという。どう見てもツツジの仲間には見えないが、ツツジ科カルミア属である。
     この三日後に川角の通勤路で民家の庭に咲いているのを見つけた。今まで気付かなかったが、園芸種として案外普通にあるものかも知れない。羊を飼っている家はそれ程ないだろうから、植えても問題ないに違いない。
     ノイバラ(野茨)も初めて見た。要するに野バラであり、ウィキペディアでは「日本のノバラの代表的な種」とされるのだが、私の頭にある薔薇とはまるで花の形が違う。白くて小さな五弁花で雄蕊が黄色い。清楚と言っても良い。どうやら私がイメージしていた、つまり花屋で売っているような豪奢な八重の花は園芸種なのであった。試しに蔓を触ってみるとやはり棘がある。この植物園にノイバラがあるのは、果実は営実(エイジツ)と称して瀉下剤、利尿剤になるからなのだ。

    ノイバラ  バラ科の落葉性のつる性低木。日本のワイルド・ローズ(野生バラ)の代表的な種。沖縄以外の日本各地の山野に多く自生する。ノバラ(野薔薇)ともいう。野原や草原、道端などに生え、森林に出ることはあまり見ない。河川敷など、攪乱の多い場所によく生え、刈り込まれてもよく萌芽する、雑草的な性格が強い。
    ワイルド・ローズは主に北半球に分布。もともと200種類ほどあるといわれていましたが、品種改良のもととなった原種は現在では10種類ほどとなりました。接木の台木として使用されるノイバラも、ここに含まれます。半つる性のものが多く見られます。今日の園芸バラの育種に重要な役割を果たしたバラの野生種の中でも、とくに重要な種はコウシンバラ、ノイバラ、テリハノイバラです。
    バラは世界で二万種ほど有るとされていますが、基本は八種で、その中に日本原産のノイバラ、テリハノイバラ、ハマナスの三種が入っており、バラ改良の基本種として大きな位置を占めています。
    世界のバラの多くはハイブリッドティ系とフロリバンダ系に属しており、フロリバンダ系の基本となるものがこのノイバラです。
    http://pcweb.hobby-web.net/n7030/r102001.html

     ノイバラの花は基本的には白い。「童は見たり野中のバラ」は「紅匂う」のだから、また別の種類になるのだろうか。この記事にもあるように、ハマナスを野薔薇ということもあるらしい。三木露風作詞・山田耕筰作曲「野薔薇」(野薔薇野薔薇蝦夷地の野薔薇・・・・)はハマナスのことであるという。しかしノイバラの花とは全然似ていない。
     ケシ・アサ試験区の柵の方に行ってみると、内柵の中には学生が二三十人集まって説明を聞いている。私たちはそこには入れないので、内柵の外側から眺めるしかない。赤も白もピンクもある。栽培可能なケシと比べて葉の外見上の三つの大きな違いは、葉柄がなく茎を抱いている、切れ込みが浅く縁が波打っている、ロウで覆われたような緑灰色である、ほとんど毛がない、である。

     国禁の柵を隔てて罌粟の花  蜻蛉

     あへん法で禁止されているのはソムニフェルム種、セティゲルム種(アツミゲシ)麻薬及び向精神薬取締法で禁止されているのは、ハカマオニゲシ(袴鬼芥子または袴鬼罌粟)と言われても分からない。もっとも私はケシを栽培しようなんて思わないから、こんな区別は知らなくても良い。
     そもそもケシのどこからアヘンが採れるのか。花が終わって未熟な実ができる。ケシ坊主と呼ばれて、まだ種はできていない。これに傷をつけると乳液状のものが分泌され、乾燥させると黒い粘土状になる。これが生アヘンである。しかしまだ不純物が大量に含まれているため、さらに抽出・分離、精製、濾過等手間暇のかかる工程を経なければ製品としてのアヘンにはならない。時々芸能人が大麻所持で捕まるが、アヘン所持で捕まると言うのは余り聞かないのはそのためである。大麻は花や葉を乾燥させただけで出来るので簡単なのだ。
     これも知らなかったことだが、種子にはアヘンアルカロイドは含有していない。従って食用にして何の問題もない。但し発芽しないよう加熱処理が必要である。
     柵の外にはそれとは逆の、栽培して良いケシの畑が広がっている。ヒナゲシはポピーであり虞美人草であるとは、昭和記念公園で学習した。橙色の、ここ数年道路沿いによく見かけるものもポピーの一種であることが確認できた。ナガミヒナゲシというものらしい。

    美しい花だが、繁殖力が強く、生態系を乱す恐れがあると指摘する専門家もいる。
    ケシ科の一年草だが、アヘンの成分はない。実が長いことからこうした名前になった。最初に見つかったのは東京都世田谷区で一九六一年。輸入堆肥に混じって種が入ってきたとの説もある。
    農業環境技術研究所が東京農大と共同で全国の専門家に呼び掛けて分布調査をしたところ、二〇〇七年時点では青森、沖縄の両県を除く全国で確認された。アルカリ性土壌を好むため、都市部に多いのが特徴。道路沿いの植え込み、コンクリートの割れ目から生えている姿も見られる。
    http://www.47news.jp/CN/201005/CN2010051701000015.html

     「美しい花」と言うが私にはそうは思えない。なんだか造花みたいではないだろうか。一つのケシ坊主に千から二千粒の種子があって、個体平均で十五万粒の種子を発生させるというから繁殖力は凄まじい。それに加えてアレロパシー活性が強く、周囲の植物の生育を阻害する。余り歓迎すべき植物ではなさそうだ。
     知ったかぶりで書いているが、アレロパシー活性なんていう言葉も初めて知ったのです。ロダンも知らない筈だ。

     アレロパシーの語源は、ギリシャ語のallelon(互いに)とpathos(一方が他に障害を与える)の合成語からきているといわれ、アレロパシーの定義は「ある植物(微生物を含む)が生産した化学物質の環境への流出を通じて、他の植物に直接的あるいは間接的に阻害的影響を与える現象」とされています。(中略)
     身近な植物を例にとり、説明してみましょう。秋空の見られる十月ごろになると、河川敷、鉄道沿線、空き地などで、あたり一面、黄色に染まったセイタカアワダチソウの大群落を見かけます。その群落の中や周辺では他の植物が殆ど生育していません。これはこの植物の根で生産される物質が原因であり、他の植物の生育を著しく抑制することが確認されています。http://www.phyton-cide.org/series2.html

     薬用植物園だから、ケシ以外の植物も勿論ある。真っ白で大きな芍薬が咲いている。私は未だに芍薬と牡丹の区別があやふやである。牡丹は木本、芍薬は草本と、呪文のように唱えていると覚えるだろうか。シラン(紫蘭)はあちこちに花を咲かせている。
     「ナンジャモンジャの木だよ。」ヒトツバタゴ(モクセイ科)である。ほとんど花は落ちてしまっているが、細長く糸のように切れ込んだ真っ白な花が数本残っている枝もある。「不思議な花ですよね。」憲政記念館にあることは知っていたが、花は初めてちゃんと見た。

     散り急ぐなんじゃもんじゃに陽は高し  蜻蛉

     林地に入ると日が陰って少し涼しくなった。それにしても樹木は何度教えられても覚えられる気がしない。ガクウツギ(額空木)の白い花(ではなくガクか)はきれいだ。ヤマアジサイの表示のある木は何本かあるが、それぞれちょっと違うような気がする。「あれと、これじゃ、葉が違うよ。」植物に詳しくないスナフキンもおかしいと言う。「立て札が違ってるんじゃないか。」ツカさんはどちらも違うのではないかとちょっと懐疑的だ。マムシグサかと思ったのは、隊長やツカさんの鑑定ではムサシアブミ(武蔵鐙)だったらしい。花が終わって特徴のある「鐙」の形がなくなり実だけになってしまうと、私には全く区別がつかない。同じテンナンショウ(天南星)の仲間だから似ていても当り前か。
     それにしてもずいぶん広いじゃないか。総面積は十一万平米ある。「知らなかったよ。」スナフキンは、自宅から車で十分程だから何度も来たことがあるそうだ。「いつもは温室で終わっちゃうんだ。」その温室は工事中で入れない。ネットを当たっていると、八月から十月にはイエイライシャンが咲くようだ。『夜来香』と言えば姫の持ち歌ではないか。私はまだ見たことがない。
     「あっちに山野草を集めたところがあるよ。」樹木よりはそっちのほうが面白そうだ。ロックガーデンと名付けられている。
     セリバヒエンソウ(芹葉飛燕草)が咲いている。スナフキンだって野川で見ているはずなのに、初めて見るような顔をする。「このごろ増えましたね」とツカさんが言うから、それほど珍しいものではなくなっているのだろうか。
     どれにでも名札がつけられているのに、ユウゲショウ(夕化粧)には可哀そうに何も書かれていない。「雑草だからかな。」私はこの小さな花も好きだ。しかし少し離れてユウゲショウが群生しているところには、ちゃんと名札が付いていたので安心した。
     ヤグルマソウってこんなに煙るような白い花だったのか。「有名じゃないか。」私だって矢車剣之助以来、ヤグルマソウの名前は知っていたが、花自体は初めて見た。今日は初めて見る花が多くて勉強になるね。全体を見ると煙るようだが、一つ一つ見ると、矢が何本も突き刺さったように見えないこともない。
     「これ、蜻蛉さんの好きな花ですよ。」古道マニアが指差したのはヒペリカムだ。「ビヨウヤナギ(未央柳)ですか。」「そう、その仲間、オトギリソウ科ですよ。」私は花が咲いていないと分からないから、「好き」と言っても好きの度合いが心許ない。花が咲くのはもうちょっと後だろうか。
     「ここにはいつまでいるんですか。」伯爵夫人は少し飽きてきたようだ。今は十一時半。隊長はここで昼食にする積りだったようだが、「それじゃ行きましょうか」と腰を上げた。「イトはんがいません。」彼女は一所懸命ひとりで観察していたものね。隊長が探しに行ってすぐに救出してきた。

     全員が揃ったところで出発する。南に向かう通りで「華屋与兵衛」の前を過ぎる時、「ウナギが獲れなくなったらしい」とスナフキンが言う。そのため華屋与兵衛ではメニューからウナギを外したと言うのである。

     ウナギの稚魚であるシラスウナギが全国的に不漁で、かば焼きなどの値上がり懸念が強まっていることを受け、水産庁は22日、初の対策会議を農林水産省内で開いた。研究者や漁業関係者から資源減少への危機感を訴える声が相次ぎ、同庁は漁獲規制も選択肢に、資源管理強化に向けて検討に入った。
     会議では、養殖業者でつくる団体や自治体の関係者ら約50人が参加。水産庁幹部は冒頭、今月上旬までに養殖業者が調達した稚魚の量は前年比3割減と指摘、「ウナギは広く国民に親しまれている食材で、安定供給の確保は極めて重要な課題だ」と強調した。
     乱獲や生息環境の変化などが不漁の原因とされ、研究者から「ウナギは絶滅の危機に瀕している可能性がある」との指摘も出た。  具体的な対策としては、河川の整備で生息環境を改善することや、産卵のために川を下る親ウナギを対象に漁獲規制を敷くことを求める声が上がった。ただ、養殖業者が必要とするシラスウナギ漁はそのままにして親ウナギだけを規制対象とすれば、親ウナギを取る漁業者の反発は必至。漁獲規制を敷く場合、関係者の利害調整は難航しそうだ。(「msn産経ニュース」2012.3.22)

     この辺りは東大和市、小平市、立川市の境目になっている。南に真っすぐ歩くと玉川上水に出た。上水沿いの遊歩道は、以前スナフキンの企画で歩いたことがある。なかなか良いところだが、今日は小川橋から北東にV字形に曲がって立川通りに入る。道路の左には細い小川分水が流れ、道路から一段降りたところに遊歩道が作られている。「意外にきれいだね」と画伯が喜んでいるが、やがて水が濁ってきた。「生活排水が入っているのか。」
     民家側の斜面のあちこちに、大きな石の構造物等が置かれているのは何だろう。「ムサビの学生が作ったんじゃないか。」なるほど、明らかに人工的に作ったものである。「彫刻の谷緑道」と名付けられているが、「谷」とは大袈裟ではあるまいか。武蔵野美術大学の学生が作ったオブジェは十二点あるらしいのだが、四つくらいしか気付かなかった。
     小川分水は玉川上水から分水したもので、これによってこの地域の開発が進んだのである。明暦二年から開発を推進したのは小川九郎兵衛であり、それによって小川宿、小川村の名がついた。

     岸村(現東村山市)の大百姓で、名主役を務めた小川九郎兵衛は、玉川上水と野火止用水に挟まれた三角地を明暦二年(一六五八年)から開拓、小川新田の村作りを行った。地割は東西を走る青梅街道を挟む南北を一〇九筆に分筆し、一筆の間口を最少九間から最大七十間としたが、十間が多くを占めた。一軒分の持地は、屋敷地と耕地のある短冊形で、奥行は屋敷地二十五間、下畑五十間、下々畑二〇〇間の計二七五間となっている。玉川上水や野火止用水に沿った五十~六十間分を植林した。
     http://www.shurakumachinami.natsu.gs/03datebase-page/tokyo_data/ogawashinden/ogawashinden_file.html

     当時の青梅街道では、江戸の漆喰需要に応じるため、青梅の成木村から石灰を大量に運んでいた。と言うよりも、慶長十一年(一六〇六)、江戸城改修のため青梅成木村の石灰を運ぶ輸送路として開かれた道であり、成木街道と呼ばれていた。青梅宿から江戸までは十一里。箱根ヶ崎(西多摩郡瑞穂町)から次の田無宿まで約五里の道のりを休まずに運送するのはかなりきつい。従ってその中間点に馬継ぎ場を設けることが、小川九郎兵衛の開発申請の理由になった。

     この着眼点は岸村の小川九郎兵衛が当時すでに江戸への白土(石灰)運搬事業に精通していた有力者であったと云うことからであろう。
     それに伴い玉川上水からの貴重なはずの分水(小川用水)も、「野火止用水」に続いて翌年には認められている。「小川用水」は青梅街道沿いに引き回して、均等に敷地間口十間という短冊形の敷地割りで開拓が進められる。「平等主義」に貫かれた小川新田の誕生である。http://www.h6.dion.ne.jp/~arc-yama/sketch/machi/doc/ogawa.html

     これによって青梅街道の宿場は、西から箱根ヶ崎、小川、田無、中野と整備されたのである。従ってこの辺は「小川」であるが、明治二十二年に小川村を中心とする七ケ村が合併して町制が敷かれた際、この地域が平坦であることから、「小川」「平坦」を合わせて「小平」の町名が付けられた。
     用水が途切れたところで道路の反対側に渡る。向い側の日枝神社には寄らず、隊長は右に曲がる。正面は突き当りになっていて、そこからワイシャツ姿の男が出てきて、頭の上で腕を交差させている。「ダメダメ、ひとの家だから。」武蔵産業という会社の敷地であった。
     隊長は一つ道を間違えたのである。もう一本先の、青梅街道と合流するちょっと手前の道が正しかったのだ。
     「ここだった。」竹内家の大ケヤキである。小平市小川町一丁目五八三番。角から右手には古くて広い民家や蔵が立っている。茅葺の屋根はトタンで覆われていて、広い家は現在では使われていないように見える。土蔵には足場を組んであるからか修理をするのだろう。維持管理は大変だろうね。

    屋根は葺き替えられているものの、間取りや柱、梁などは建築当初のまま現役の竹内家の母屋。十五代目の現当主・繁義さんによると、築二百年以上になるそうです。(略)座敷はほぼ当時のままで、太い梁や柱、代々の仏壇が黒光りしています。夏は土間に入るとひんやりしてホッとしますが、冬は室内でも零下二度ぐらいになり、代々ここで土地を耕してきた祖先の苦労が偲ばれます。
    http://www.ksnc.jp/kodairashoukai/ookeyaki/ookeyaki.html

     これは二〇〇六年の記事である。土蔵の裏手の庭に来ると、確かに大きなケヤキが立っているのである。ひときわ目立つ巨木の他にも大きな木が何本も鬱蒼と茂っている。カメラを構えても天辺を撮れない。よほど離れないとダメだ。
     このケヤキは寛文年間(一六六一~一六七三年)に防風林として植えられたものというから、 樹齢は三五〇年以上になる。高さ三十五メートル以上、目通り六・五メートルある。「今まで一番大きな巨樹はどうでしたか。」ツカさんが古道マニアに確認すると、「これが最高じゃないでしょうか」と答えが返ってくる。かなり詳しい彼の話でも、これがどれだけ珍しいか分かる。
     畑で作業していた若い婦人の話では、竹内家は十五六代続いていると言う。小川開発当初からの住人なのだ。「この辺りは全部竹内さんの敷地ですか。」「全部とは言えませんが、まあ大体そうです。」
     「ミミズクとかアオバヅクが飛んできませんか。」ツカさんは鳥の方が専門だ。「名前は分かりませんが、ホーッ、ホーっていう声は時々聞きます。」畑仕事の最中で忙しいだろうに、こちらの質問にいちいち丁寧に応えてくれる。「世話が大変でしょう。」「落葉を除くとか、その程度ですよ。」「落葉は堆肥にするんですか。」「そうです。」

     青々と空に広がる欅かな  蜻蛉

     句の体をなしていないネ。こんなときは名句を探してみる。

     がうがうと欅芽吹けり風の中  石田波郷

     丁寧に応接してくれた女性に礼を言って離れる。「あそこのお寺だけど、畑を突っ切る道がないからね。」もう一度さっきの道まで戻るのである。
     「声が素敵ですね。歌を歌うんですか。」スナフキンはいきなり伯爵夫人に問いかけられて絶句した。「低音が素敵ですね。」おそらく生涯で最も驚くべき瞬間ではなかったろうか。彼の声をこんな風に評した人は私も初めてだ。
     青梅街道に戻り、向かいの神明宮は後回しにして小川寺に入る。臨済宗円覚寺派、医王山と号す。小平市小川町一丁目七三三番。小川寺と書いてショウセンジと読む。それが分かるのは信号機に「SHOSENJI TEMPLE」とあったからだ。
     立派な楼門が聳え立ち、木彫りの金剛力士像もなかなかなものである。「立派ですね。」「一木造りかしら」とイトはんが感心していると、古道マニア夫人が「ここに継ぎ目があるみたいよ」と目敏く見つけた。しかし、頭と胴体が一木であれば良いらしいので(そもそも腕まで含んだ一木と言えば、木を探すだけでもかなり難しい)、これは一木造りと言っても良いのではないだろうか。

    江戸初期 ・承応三年(一六五四)に玉川上水が開削されるまでの小平周辺は、茅芒の生い茂る無人の原野で、青梅街道往来の最大の難所とされ、“逃げ水の里”とも呼ばれたそうです。
    古くからの集落・武州多摩郡岸村(現在の武蔵村山市)出身の小川九郎兵衛は、玉川上水に続く野火止用水の開削で水の確保に自信をつけるや、明暦二年(一六五六)新田開発と馬継場の新設を願い出て、小川分水の開削を許可されました。(中略)
    開拓に着手する一方で、江戸市ヶ谷の月桂寺住職・雪山碩林大禅師を勧請、薬師瑠璃光如来を本尊として開山したのが医王山・小川寺で、九郎兵衛本人も境内の墓地に眠っています。(http://www.ksnc.jp/kodairashoukai/syosenji/syosenjitop.htm)

     古代型雪見灯篭、池の中には一寸法師(?)像、琴柱灯篭など見るべきものが多そうな寺だが、取り敢えず昼食休憩に入る。ベンチがいくつも置いてあり、東屋もあるから見学者に優しい寺である。私とスナフキンは灰皿が設置されているベンチに場所を決めた。  食事が終わって境内を歩いてみると、これは実に金のかかった寺だということが分かる。イトはんは十三仏を一体ずつ写真に収めている。私は全体を獲っただけで、こんな律儀なことはしない。「十二人かしら。」「十三人いる筈ですよ、数えてみてよ。」不動明王(初七日)、釈迦如来(二七日)、文殊菩薩(三七日)に始まって虚空蔵菩薩(三十三回忌)まで十三体が並んでいなければならない。「そうだわ、十三人いる。」
     「オオヤマレンゲがあります」と古道マニアに呼ばれた。ちょうど夫妻が食事をしていたベンチの後ろにそれがあるのだ。「私は十年前に一度だけしかみたことがないんですよ。」「そんなに珍しいものですか。」「そうですよ。」朴とか泰山木の花に似た、白い大きな花が数輪咲いている。ツカさんも隊長も、「これは珍しい」、「一度しか見たことがない」と口を揃えて言う。とすれば、これは本日最大の収穫ではあるまいか。花の寿命は四五日というから、絶妙のタイミングであった。
     オオヤマレンゲ(大山蓮華)はモクレン科モクレン属の落葉広葉樹の低木である。いつものようにウィキペディアを参照する。

    古くは一六九五年の伊藤伊兵衛による園芸書『花壇地錦抄』に記載され、延宝年間に江戸に栽培用として持ち込まれた。和名は奈良県南部の大峰山に自生していて、ハスの花(蓮華)に似た白い花を咲かせることに由来する。別名が「ミヤマレンゲ」(深山蓮華)。

     その奥の小さな門を潜ると、また広い庭が広がっている。宝篋印塔の周りには舟形の石仏がいくつか並んでおり、その中に比較的きれいな青面金剛も立っている。
     それよりも目立つのは岩が敷き詰められた上に並ぶ三十三観音だ。「逃げ水の里 三十三観音」の立て札がある。正面の等身大の立像が聖観音なのだろう。「ショウカンノンってどういう字を書くのかな。」古道マニア夫人が首を捻るので、「正観音または聖観音と書きます」と教える。その他の観音は小さな舟形の石仏だ。観音は三十三の姿に変身して法を説き、衆生を救う。
     とても覚えられるものではないが、三十三の観音の名を挙げておこう。
     楊柳(右手に柳の枝を持つ)・竜頭(竜の背に乗る)・持経(右手に経を持つ)・円光・遊戯・白衣・蓮臥・滝見・施薬・魚籃・徳王・水月・一葉・青頭・威徳・延命・衆宝・岩戸・能静・阿耨・阿麼提・葉衣・瑠璃・多羅尊・蛤蜊・六時・普悲・馬郎婦・合掌・一如・不二・持蓮・灑水。(デジタル大辞泉より)
     通常目にする馬頭観音、如意輪観音、千手観音なんていう名前とはまるで違う。また「観世音菩薩普門品第二十五」によれば、三十三の化身は下記に対応するのである。
     聖者の三身(仏・辟支仏・声聞)、天界の六種身(梵王・帝釈・自在天・大自在天・天大将軍・毘沙門)、人界の五種身(小王・長者・居士・宰官・婆羅門)、人界の四衆身(比丘・比丘尼・優婆塞・優婆夷)、人界の四種婦女身(長者婦女・居士婦女・宰官婦女・婆羅門婦女)、人界の二幼童身(童男身・童女身)、人非人の八部身(天・竜・夜叉・乾闥婆・阿修羅・迦楼羅・緊那羅・摩睺羅)、その他一身(執金剛)。つまり、愛に相応しい形に変身するのである。これが上の楊柳・竜頭以下とどう対応するのかは分からない。良く分からないが、三十三ヶ所を一度に回ったことにしておこう。

     庭を一巡りすると、布袋や狸の像も目に入った。片隅に西洋風のテーブルとイスが置かれているのが、この庭の雰囲気とは合わない。
     「この赤い花はなんでしょうか。」古道マニアがツカさんに訊いても、ツカさんにも判別がつかないようだ。赤というよりも褐色か暗紫色に近い色だ。隊長も分からないと言う。たまたま庭師らしい男が現れたのでイトはんが訊いてくれたが、彼も知らない。不思議なことだ。後で隊長が調べてくれた結果、アメリカロウバイだと判明した。クロバナロウバイとも言われる。日本のロウバイとは似ても似つかない花である。
     もう一度山門前まで戻ると、鐘楼の建設にあたって寄付した人名を刻んだ大きな黒御影の碑の前で「これ、すごいよ」とスナフキンが感心している。一番組から八番組まで、それぞれその筆頭者は五百万円、次席者が三百万円、組の末端でも数十万を出しているのだから、檀家も大変だ。そして一番組の筆頭には「竹内」の名があるから、さっきの大ケヤキの家かも知れない。平成十一年に、楼門と一緒に再建したのである。
     楼門を潜って出発しようとすると、先に出ていたイトハンは右隅の方のプレハブを覗き込んで何かを一所懸命撮っている。「何があるのかな。」小さな小屋の壁には消防の紋がつき、ガラスを覗くと昔の消防車(大八車にポンプを据え付けたような形)が鎮座しているのだった。ポンプには、「小平消防組第一番」とある。但し平成になって復元した模型だ。

     「神明宮に行きましょうか。」青梅街道を少し戻ったところにあるのが小平神明宮だ。小平市小川一丁目二五七三番。石造りの鳥居を潜ると、樹木が鬱蒼と茂り、ほの暗い参道が百メートル程続いている。「ここの木も立派ですね。」
     「これって藁じゃないわよね。」イトはんは鳥居に這わせた注連縄が気にかかってしようがない。私には判別できないが、そう言われれば違うようにも見える。ツカさんの判定も、新素材かも知れないということだった。腐食で交換する手間を省くために、ビニールなどの新素材で作ったものだろう。

     今から三四四年前、徳川家康が江戸に幕府を開いてから五十八年、私達の祖先はこの地に最初の鍬を入れました。この辺りは富士箱根火山帯の噴火による火山灰(関東ローム層)が幾重にも推積し、古歌にも『行く末も空もひとつの武蔵野に草の原より出ずる月かげ』(後京極摂政大政大臣)と詠まれ『逃げ水の里』とも云われる程水利に乏しい、生活に過酷な不住の土地でありました。
     未知の土地に移り住む人々の守護神として、明暦二年の開拓願いとともに神明宮勧請の願いが出され、五年後の寛文元年(一六六一)に、西多摩郡殿ヶ谷村(今の瑞穂町)鎮座の延喜式内社(平安時代以前からの古社)阿豆佐味天神社(アズサミノアマツカミノヤシロ)の摂社、神明ヶ谷の小高い山の中腹の神明社から分祠遷座されました。
     荒地の開墾は難儀を極めましたが、「小川村の開拓」はいくつかの歴史的諸条件が合致して事業が順調に進んだ典型として紹介されています。この成功の一要因に、開拓事業を推進した人々に篤い敬神の心があったことも加筆されるべきと思います。(「由緒」より)

     小川寺と同じ頃に創建されたのである。主祭神は大日霎貴、つまり天照大神であるのは、神明宮だから当然だ。「牛がいるわよ。」参道に寝牛の像があるからには天神も祀っているのだろう。由緒をよく読むと、天満宮、天王宮、愛宕社、八雲社、春日神社、八幡神社、稲荷神社、秋葉神社、熊野神社、白山神社の十社を祀っていた。
     「狛犬が多いのよ」とイトはんが驚いている。確かに四組ほどいるのではないだろうか。隊長や古道マニア夫人は雌雄の別、阿吽の左右別などを気にするが、これに正しい規則がないのは、もう何回か言ったことがある。石工の趣味や流派によるのではないだろうか。
     神輿蔵のガラスを覗いてみると、比較的新しそうな立派な神輿に、大きな太鼓が納められていた。神輿は栃木県の小川政次氏の作品である。栃木県の無形文化財技術保持者の称号を持つ、その世界では有名なひとらしい。
     「これはなんて読むのかな。」子を抱いた狛犬の台座に掘られた文字を見て画伯が声を上げる。読めない。「蜻蛉が調べてくれるんだね。」画伯にそう言われては仕方がない。「禦菑」である。ギョサイ、あるいはギョシと読むだろうか。「禦」は守る、防ぐ意である。「菑」は「初耕的田地、開荒」(http://www.zdic.net/zd/zi/ZdicE8Zdic8FZdic91.htm)などと出てくるので、どうやら荒れ地を切り開いた開墾地の意味らしい。それなら意味は明瞭だ。折角開墾した土地が、再び荒れ地に戻ることのないようとの願いが込められたものであろう。もう一方の台座には「権鬼」と彫られているようだが、意味は分からない。もしかしたら「権」ではないのかも知れない。

     ここから美大通りという細い道を行けば武蔵野美術大学に到着する。目的は美術館だ。守衛所で美術館見学と言うと、特に記入する必要もなく正面突き当たりだと教えてくれる。「やっぱり女子学生が多いね。」美術大学らしく綺麗に整ったキャンパスだ。ただ私とスナフキンは二時前にはここを出なければならない。「ぱっと回っちゃおうぜ。」
     新しい建物で、受付には若い美人が二人待機している。美術館と図書館が一体化した施設である。美術館には入れるが、図書館の方には簡単には入れないようだ。
     一階の大辻清司フォトアーカイブから見始める。私はこういう方面にも疎いので、この人がどれほどの写真家なのかも分からない

     大辻清司(一九二三~二〇〇一)は、第二次世界大戦後まもない一九四九年に、オブジェの美学を追求した前衛的な写真作品を発表することから写真家としての活動を始めます。旺盛な実験精神に貫かれた制作を繰り広げるとともに、写真というメディアがもつ可能性について原理論的な思考をかさね、優れた写真論、写真批評の書き手として、また教育者としても重要な足跡を残し、後続世代に広く影響を及ぼしました。
     当館ならびに造形研究センターは、大辻が残した膨大なネガフィルム、プリント作品等の写真資料を、二〇〇八年にご遺族よりご寄贈いただきました。これらの写真資料は、一人の写真家の生涯にわたる活動を包括的に検証することのできる、写真研究において極めて稀なコレクションだといえます。その中には、大辻のカメラアイによって捉えられた戦後日本の芸術諸分野(美術、デザイン、建築、音楽、演劇等)の貴重なドキュメントも数多く含まれています。
     http://mauml.musabi.ac.jp/museum/archives/1406

     残念ながら見てもさっぱり良さが分からない。私はこうした方面の感受性に乏しい。スロープを伝って上に上ると、「椅子ギャラリー」とかポスターなど、この大学の学生教員が作成した作品が展示されている。どれを見ても私は感動しない場所であることが確認できただけだった。
     一通り回って一階に降りてもまだ誰も戻っていない。見上げると二階のロビーで、イトはんと伯爵夫人が椅子に腰掛けている。疲れてしまったのだろうか。スナフキンが戻ったのを機に出発することにした。隊長を探して挨拶する暇はないので、イトはんに伝言を頼んで別れた。
     守衛所で、鷹の台駅への道を訊ねて十五分程だと教えられた。急がなければならない。中央線が止まっては、ここから新宿に出るのも結構面倒臭いのである。
     白梅短大の所で玉川上水に出て、暫く歩いて遊歩道から離れ、創価学園(小・中・高)の前を過ぎる。「この辺は学園都市だからね。」スナフキンによれば近辺には朝鮮大学校もあるらしい。津田塾大学もある。
     守衛は十五分と言ったが、実際には二十分弱かかった。昔ながらの住宅地域の商店街を行けば、突き当たりが西武国分寺線のたかの台駅だ。見たところ喫茶店のようなものはなさそうだし、学生はどこで暇を潰すのだろうか。駅前に着くと松屋があり、正面の駅舎にはロッテリアがある。遊ぶためには国分寺辺りに出るしかないのだろうか。因みに鷹の台の地名は尾張徳川家の鷹場に由来する。
     スナフキンがネットで検索した結果、小川町で西武新宿線に乗り換え、小平で準急に乗り換えるのが一番早い。私は携帯電話でこんな検索はできない。
     電車が来たので乗り込もうとすると、それは国分寺行きであった。「反対だよ。」しかし私たちは逆方向のホームに来た筈だが。「向うへ行く階段は塞がれているじゃないか。」時間帯によってだろうか、上下線とも同じホームに来るのだった。確かに対面する向かい側のホームには誰もいない。調べてみると、二番ホームは始発から八時台までと、二十一時台から終電までしか使われていないのだ。
     「イトはんなら絶対悩んでいたな。」しかし私たちも悩んでしまった。小川町に着いて階段を上ったところで、上って来る必要はなかったと分かってもう一度下りる。なんだか分かり難い。西武新宿駅に着いても、出口でまた迷ってしまった。「西武新宿駅なんか来ることないからね。」「そう、大抵は高田馬場でJRに乗り換えるからね。」田舎者二人であった。

    蜻蛉