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    平成二十四年五月二十三日(土) 我孫子

    投稿:   佐藤 眞人 氏     2012.06.30

     梅雨の晴れ間である。「今日降ったら蜻蛉さんに何を書かれるかと思いましたよ。」私は嘘も誇張もなく、ただ粛々と事実を報告するのみだ。しかしダンディは飽くまで姫を庇って「先週の雨は大山の神様のせいですよ。今日は晴れ女の姫のお蔭です」と主張する。今回は隊長に代わってあんみつ姫がリーダーを務めるのだ。
     我孫子はもっと遠いかと思っていたが、鶴ヶ島駅を出たのが八時十七分で、我孫子駅に着いたのは九時四十五分である。武蔵野線の新松戸から常磐線に乗り換えると意外に近い。ただ私は天気予報を確認するのに茨城県を見ていたのだから無学が暴露する。
     集まったのは、あんみつ姫、隊長、ダンディ、多言居士、若旦那・若女将夫妻、ハコさん、チイさん、スナフキン、伯爵夫人、イトはん、カズちゃん、蜻蛉の十三人だ。
     暫く体調を崩していたカズちゃんが久し振りに笑顔を見せた。「まだ完全じゃないの」と言うが、家に閉じ籠ってばかりではいけない。たまには気晴らしの積りでのんびり参加すればよい。
     多言居士も随分久し振りだ。「この辺は探鳥会でよく来たんだよ。」森羅万象悉く一家言を持つ人だが、特に専門とするのは野鳥である。今日は鳥の博物館から手賀沼周辺を散策する予定になっているから、いつもより更に口数が多くなるに違いない。「講釈師がいたら大変でしたね。」

     駅の南口に出てまず正面に見るのは、「我孫子市ゆかりの文化人」と書かれた白樺派の三家族の写真だ。大正六年、実篤邸(我孫子市船戸)で撮影された写真である。後列に武者小路実篤(三十二歳)、柳宗悦(二十八歳)、志賀直哉(三十四歳)、志賀康子(二十八歳)が立ち、前列真ん中の武者小路房子(二十五歳)はしゃがんで犬の首を撫でている。その左に立て膝の柳兼子(二十五歳)、房子の右に立って志賀康子に肩を抱かれているのは武者小路喜久子(七歳)だ。大人の女性は全て日本髪を結っている。その他名前も記されない人物が数人いるのは使用人だと思われる。
     武者小路房子は旧姓竹尾、青鞜の同人で稀代の悪妻として知られる。結婚するとき実篤の母は、あんな女は妾にすればよい、結婚するならちゃんとした女でなければと反対した。「新しき村」が悪戦苦闘の末に分裂して無残な結果に終わったのは、元々発想自体に無理があったから当然にせよ、その没落を早めた責任の一端は房子が負うべきだろう。喜久子は康子が早折した先夫との間に産んだ娘で、直哉と再婚する際に実篤・房子の養女としたため生涯を翻弄されることになる。
     康子は実篤の叔父の勘解由小路資承の長女だから、実篤の従妹になる。そして、この時にはまだ生まれてもいないが、柳夫妻の次男宗玄は志賀直哉の四女万亀子と結婚する。武者小路、志賀、柳の三人はほとんど親族と言っても良い。
     白樺三人家族の集合写真の左右には、柳田國男、岡田武松、中野治房、嘉納治五郎、杉村楚人冠、バーナード・リーチの顔写真も載せられている。
     柳田國男が我孫子に関係しているとは気付かなかったが、赤松宗旦『利根川図誌』の解題に、幼年期利根川の近くで育ったことが書いてあったことを思い出した。しかし確認してみると、茨城県布川村(利根町)の長兄松岡鼎の家に住んでいた頃の思い出である。
     國男が第一高等学校在学中に、鼎が布佐町(現我孫子)に転居していたので、里帰りのような格好で遊びに来ていたものの、我孫子に住んでいた訳ではない。
     岡田武松については、「あの気象学のだよ」とスナフキンに言われても、まるで知識がない。文系と理系の教養の差が出てしまう。隊長なら当然知っているだろう。

     一八九九年東京帝国大学物理学科卒、ただちに中央気象台(現気象庁)に勤務。一九〇五年には予報課長として日本海海戦当時の天気予報を出す。この予報「天気晴朗ナルモ浪高カルベシ」は、連合艦隊から大本営宛に打電された有名な電報「敵艦隊見ユトノ警報ニ接シ聯合艦隊ハ直ニ出動、之ヲ撃沈滅セントス。本日天気晴朗ナレドモ浪高シ」の原典といわれる。(ウィキペディアより)

     中野治房は植物学者というだけで私には良い。少し離れた所には蒸気機関車のミニチュアが置かれていた。飯泉嘉雄顕彰碑である。我孫子宿は水戸街道と成田街道の分岐点にあり、また利根川舟運の要衝として栄えた。しかしかつて舟運で栄えた町の殆どは鉄道から見放されて没落していく。それに危機感を抱いた我孫子宿名主の飯泉嘉雄が鉄道誘致運動を起こし、私財を投じて土地を提供した。その結果、明治二十九年(一八く六)、常磐線開通とともに我孫子駅が実現した。

     飯泉喜雄氏は「鉄道なくして町の発展無し」と信じ駅誘致に奔走私財を投じて駅用地を無償提供し明治三十九年我孫子駅開設に成功した
     さらに我孫子町長千葉県議会議員をつとめ地域の発展に尽力した
     以来この町は成田線の開通生糸工場進出白樺派文人の来往など発展の道をたどる 氏は激務と心労のため三十八歳で病没した
     私たちは氏の先見の明と奉仕の精神に満腔の謝意を捧げ今こそ町を愛する精神を奮い起こそう
       平成十五年 五月
       飯泉喜雄顕彰碑建設の会
       協力者  壱千三百余名

     最初に立ち寄るのは香取神社だ。我孫子市緑一丁目六番八。香取神宮の祭神は経津主(フツヌシ)だ。武甕槌(タケミカヅチ)とともに出雲に降り、オオクニヌシに国譲りを迫った。つまり天孫族の尖兵である。ヤマト王権の東国進出に伴って、香取神宮は鹿島神宮とともに、蝦夷に対する前線基地として重要視された。

    香取神社は利根川・江戸川沿いを中心に分布する。南の荒川沿いには氷川神社、それらに挟まれる元荒川沿いには久伊豆神社が分布し、その分布圏は境界を侵すことなく分かれていることが西角井正慶により指摘されている。香取神社の分布圏は十世紀以降に開拓された、元は低湿地だった土地である。(ウィキペディア「香取神社」より)

     我孫子の香取神社ならば、今日はコースに入っていないが、天慶三年(九四〇)創建とされる我孫子市高野山四三二にある方が有名らしい。天慶三年と言えば平将門が敗死した年であり、北総・常陸の鎮めとして勧請されたと思われる。
     今いるこの神社はネットで検索しても大した記事がなくて良く分からない。享保の頃の創建と推定されている。
     参道に沿って石祠や駒形の青面金剛(文字のみ)、笠型の石仏などが並んでいる。市内各地から集めたものだろうが、「道陸神(上町講中)」はあまり見たことがない。何と読むのかダンディが首を捻っているので、「ドウロクジン、道祖神と同じです」と口を出す。このところ少しばかり道祖神のことを調べていたのだ。
     ひときわ目立つのが山形の大きな青面金剛だ。「ほら、ちゃんと講釈師もいますよ。」姫の言葉に「彫が深いね」と若旦那が感心する。殆ど風化していないので、表情もよく分かり、享保四年、日月、二鶏、邪鬼、三猿、それに金剛の六臂が手にする武器もはっきりしている。こんなにきれいなものは珍しい。
     姫を先頭にしてみんなは神社を出ようとするが、一応正面も確認しておきたい。「私も見ておきたいわ」とイトはんもやって来た。南側の正面石段に回ってみると、三組の狛犬が鎮座する石段の下はかなりの急坂になっている。かつては手賀沼に臨む台地の端だったようだ。
     神社を出るとき、「大正十五年五月吉日 奉納者 勲五等米国名誉法学博士 血脇守之助 建之」と彫られた石柱を見つけて、「野口英世の恩人ですよ」とイトはんに声をかける。先頭に追い付くために小走りにならなければいけない。
     国道三五六号(銚子・我孫子間)から脇に入る道の角には古びた道標が建っている。「読めないわ。」イトはんは簡単に諦め、若旦那も考え込んでいる。「従是子神道」、これよりネノカミ道である。「一番下は道ですか」と若旦那も納得した。「道」の字が半分以上埋もれていて見難かったのだ。側面を見ると寛政元年(一七八九)のものだ。

      道標の石古びたり額の花  蜻蛉

     所々に青色が鮮やかなガクアジサイが咲いている。暫く行くと分岐点に道案内が立っていた。右矢印は杉村楚人冠碑、三樹荘(柳宗悦邸)、嘉納治五郎別荘跡、白樺文学館、志賀直哉邸跡。左矢印の方には杉村楚人冠記念館入口、瀧井孝作仮寓跡、旧村川別荘とある。ここが我孫子文士村の入口になるか。「この矢印を見ればこっちだと思うでしょう。下見のときに騙されてしまいましたよ。」

     まず杉村楚人冠記念館から入る。我孫子市緑二丁目五番五。広い庭園は色とりどりの紫陽花が満開だ。屋敷の入館料は三百円。隊長と多言居士はこういうものに関心がないから建物には入らない。靴を脱いで上がったところがサロンだが、少し広めの書斎というような部屋で、机の上には楚人冠の胸像が置かれている。和室、展示室、書斎と回る。楚人冠については、朝日の幹部だったこと以外にはほとんど知らなかった。

    明治三六(一九〇三)年一二月、『東京朝日新聞』に入り、外電係となる一方論説を執筆した。その後数回欧米に特派され、軽妙な通信が読者に歓迎された。明治四四(一九一一)年その建言により、わが国新聞社最初の調査部が設置され、初代部長となった。大正八(一九一九)年わが国では、はじめての新聞縮刷版発行、大正一一(一九二二)年日刊アサヒグラフ創刊、大正一三(一九二四)年記事審査部新設なども、その提案による。大正八年から昭和一〇(一九三五)年まで監査役、のち昭和一〇(一九三五)年から昭和二〇(一九四五)年まで相談役となったが、執筆活動は続けた。(富塚秀樹『日本新聞学史における杉村楚人冠』)
    http://www.kyoto-seika.ac.jp/event/kiyo/pdf-data/no19/totsuka.pdf

     「和歌山の出身ですね。南方熊楠と親しかったようですよ」とダンディが教えてくれる。熊楠は紀州田辺の人、楚人冠は和歌山市内らしいから同じ県内といっても離れているのではないか。しかしそう思ったのは私の無学のせいだった。熊楠は後に田辺に住んだが、生まれは和歌山城下橋丁である。楚人冠も和歌山城下谷町であり、雄小学校の先輩後輩の間柄であった。そして楚人冠は明治五年生まれで、熊楠、漱石、紅葉、露伴、子規、緑雨より五歳年少になる。
     楚人冠の号の由来が面白い。項羽が咸陽に入って秦の王宮を焼き尽くしたとき、田舎者の仕業と罵られた。「楚人沐猴而冠耳」楚人は沐猴にして冠するのみ。楚人とは項羽である。項羽なんて所詮は冠を被った猿にすぎないぜと、当時の文化人は嘲ったのである。杉村広太郎はアメリカ公使館勤務時代に人種差別を受けて腹を立て、以来敢えて自ら楚人冠と号したと言う。

    (楚人冠と熊楠は)小学校が同じなので、その時から知っていた可能性もありますが、本格的に付き合うのは明治十九年二月、熊楠が東京大学予備門を退学し、和歌山に戻ってきてからです。それからアメリカに渡る八ヶ月の間親しく交遊しました。
    二人の間には喜多幅武三郎がいました。広太郎(楚人冠)は二歳で父を失ってから、母と共に母の実家、木梨家に身を寄せました。そこに後に下宿をすることになるのが、熊楠の親友となる喜多幅武三郎だったのです。一人っ子の広太郎にとっては兄同然の存在でした。その繋がりから、喜多幅は広太郎の四男武を養子(後に復籍)にしています。後に父と同じく朝日新聞社で活躍する杉村武です。『南方熊楠百話』(八坂書房)に彼の「素っ裸の南方熊楠翁」が掲載されています。それによると、武は熊楠の息子、熊弥とおない年でもあり、よく南方邸に遊びに行き、カメをもらったり、飼っているサソリを見せてもらったりしたそうです。
    熊楠のアメリカ留学に際して、広太郎らが別離の会を開いていますが、熊楠のアメリカ留学中も広太郎との文通は続きます。
    熊楠が要望したのか、広太郎は熊楠に写真を送ります。熊楠は写真を送ってくれたお礼を書き、その中で、「僕の疾を養うて和歌山にあるや、思いをかけし若衆三人あり。一は言わずと知れた羽山蕃次郎、二には利光の平夫ぬし、三はすなわち貴君にて、容をもって鑑を下せば羽山随一、才をもって察を看ればすなわち貴君第一」(明治二〇年八月二五日付)と広太郎の才能をほめています。(「楚人冠を取り巻く人々・南方熊楠」
    http://blogs.yahoo.co.jp/abbysasaki/27565702.htmlより)。

     熊楠には男色の気があったから、「思いをかけし若衆」と言われてしまっては、楚人冠も慌てたのではないだろうか。明治四十二年、熊楠が展開した神社合祀反対運動を中央紙として初めて取り上げたのが楚人冠である。
     建物を出るときに受付の人が「ご自由にお持ちください」と声を掛けてくれた。ラックには『あびこ歴史散歩』という小冊子が入っている。「これも戴けるんですか。」「どうぞ。」その他に「あびこガイド・マップ」も頂戴して、これなら三百円の元を取った。
     ところが後から出て来た連中は気付かなかったらしい。スナフキンに教えると、「知らなかったよ」とすぐ戻って手に入れてきたし、「それなら」と、入館料を払わなかった多言居士まで貰ってきた。「それはどうでしょうかね。」「だってくれるって言うからさ。」
     庭の高台には小さな一軒家が建ち、たった二部屋の家に「沢の家」と名付けられている。ここは楚人冠の母堂の居宅であった。広い庭には竹林があり、傾斜地の低い方では水が湧いている。そこを降りて裏の駐車場から道に出る。
     「国分寺崖線と似てるね。湧水が見られる」と隊長が呟いている。姫の調べでは、このハケの道がかつての手賀沼の水辺だった。地図を見ればなるほどそうで、この道の南側の若松地区は整然とした区画の公園になっているし、その東は我孫子新田、高野山新田の名が残っている。明らかに沼を干拓したところだ。
     緑に覆われた崖の狭い階段を登ると楚人冠公園に出た。この高台も楚人冠が所有していた土地である。かつては南側に建物もなく、手賀沼が良く見えたに違いないが、今ではそれも難しい。
     楚人冠句碑は陶芸家の河村蜻山制作になる。三十センチ四方程の陶板を四列四段に貼り合わせた形で、中央に句を浮き彫りにしたプレートを嵌め込んである。側面の石板には雪の結晶を彫りつけてある。
     「こういう風に書くんだネ」とチイさんが感心しているのは、句の表記の仕方が独特だからだ。「筑波見ゆ 冬晴れの 洪いなる空に」と読むらしいのだが、真ん中上から「筑波見ゆ」、右下に「冬晴れの」、左に「洪いなる空に」と書かれているのだ。何も知らないと、「冬晴れの筑波見ゆ洪いなる空に」と読んでしまうだろう。そう言えば、どこかで見た芭蕉句碑もこの書き方をしていたような気がする。「洪いなるって、どう読みますかね。」おおいなる、だろうね。

     また下に降りて崖沿いに歩き、上に長く伸びるコンクリート塀に沿って、急な石段を登っていく。「静かにして下さいね。普通のおうちですから。」石段途中のコンクリート塀に「天神坂の記」という文章のプレートが取り付けられていた。

     かつて我孫子が北の鎌倉と言われた大正時代 文人達の集まった三樹荘と椎の実の降る天神坂は 彼らがこよなく愛したと言う。耳をすますと往時の人の声が 足音が 轆轤の軋みが聞こえてきそうである。
     この度 市がこのような石段となし 私たちの憩いの道として整備された 遠き日の三樹荘が天神様の境内であった 歴史の道 文学の経を私たちも愛し守っていきたいとおもいます。  三樹荘主 村山祥峰

     我孫子が「北の鎌倉」なんて、私は初めて聞いた。『白樺』の読者だったら知っているのかもしれないが、生憎私は『白樺』に同情がない。坂を登りきると左が三樹荘(旧柳宗悦邸)、右が嘉納治五郎旧別荘跡だ。
     「灘の造り酒屋の出身ですね。」上方のことならダンディはなんでも知っている。確かに祖父の治作は灘の有数な酒造家であった。養子に入った治朗作は、家業の酒造りは治作の実子に譲り、自分は廻船業を営んで幕府御用達となり、和田岬砲台建設を請け負ったことから勝海舟と知り合い、そのパトロンとなった。嘉納治五郎はその三男である。
     明治四十四年(一九一一)、大日本体育協会を設立して会長に就任した年、治五郎はここに別荘を建て、少し離れた所(白山)に二万坪の土地を購入し、農場を開いた。その構想は、農場を中心とした学園を開設することだったようだが、なぜか分からない理由で計画は頓挫した。講道館柔道の創設者であることは勿論だが、学習院教頭、東京高等師範校長、第五高等学校長などを歴任した教育者であり、日本人初のIOC委員でもあった。
     「若い頃に富田常雄の『姿三四郎』を読みましたよ。」ダンディは言う。私も中学の頃に読んだ。六十年代には『姿三四郎』が流行っていたのである。テレビドラマも何度か作られていて、調べてみると、私が見ていたのは六三年の倉岡伸太郎主演のものだ。
     武者修行を人格修養と同一視し、主人公を慕う若い女性を配するのは、吉川英治『宮本武蔵』以来お馴染みの物語作法である。同じ六十三年には嘉納治五郎をモデルにした『柔道一代』もあり、村田英雄はその両方の主題歌を歌った。翌年の東京オリンピックを控えていたせいだろう。柔道が初めて五輪公式競技に採用され、四階級全て金メダル獲得が期待されていたのだ。しかし私たちはそれが果たされなかったことを知っている。無差別級の神永はヘーシンクに敗れ、日本柔道に痛恨の歴史を刻んだ。
     「三四郎のモデルは。」「西郷四郎です。」「そう、会津ですね。」講道館四天王の一人で、残る三人は横山作治郎、山下義韶、富田常次郎だ。常次郎の次男が『姿三四郎』の作者の常雄である。
     四郎は会津藩士志田貞二郎の三男として生まれ、満十五歳で会津藩元家老の西郷頼母の養子となったのだが、私は何となくぼんやりと、西郷氏の一族ではあっても頼母とは直接の繋がりはないと勘違いしていた。頼母の妻子は会津落城の際に全て自害した筈だ。
     戊辰戦争では、四郎は母親の実家のある津川(新潟県阿賀町)に避難してそこで育った。頼母の養子となった翌年の明治十五年、陸軍士官学校を目指して上京したが、軍人になるには五尺一寸(一五三センチ)の身長は低すぎた。合格基準は五尺三寸だったようだ。天神真楊流の道場で嘉納治五郎と出会ったのが人生を決めた。
     治五郎は四郎を講道館柔道の後継者と見做していた。しかし治五郎が洋行中の明治二十三年、四郎は不可解な理由で講道館を離れ、宮崎滔天と共に大陸革命運動に奔走する。後に長崎で鈴木天眼の『東洋日の出新聞』創刊に協力して編集長として活動する傍ら、柔道、弓道、日本泳法などを指導したと言う。武術万般に亘る達人だったに違いない。晩年リウマチを病んで尾道に隠棲し、大正十一年に満五十六歳で死んだ。嘉納治五郎は西郷の碑に次のように記した。

    西郷四郎 講道館柔道開創ノ際 予ヲ助ケテ研究シ 投技ノ薀奥ヲ窮ム 其ノ得意ノ技ニ於テハ 幾万ノ門下未ダ其ノ右ニ出デタルモノナシ 不幸病ニ罹リ他界セリト聞ク エン惜ニ堪エズ 依テ六段ヲ贈リ以テ其ノ効績を表ス

     「俺は講道館に通ってた。」そう言えば、スナフキンは前にもそう言っていた。たぶん三四郎に影響されたのだろう。「黒帯は取ったのか。」「その前に引っ越しちゃったんだよ。」それは惜しいことをした。確か隊長も講道館に通っていたんじゃなかったろうか。私も中学で柔道をやりたかったが、熊谷の小さな中学には柔道部がなかったので剣道部に入った。
     我孫子とは全く関係ないことで長くなり過ぎた。治五郎の別荘の東隣の土地を、柳宗悦の姉の直枝子(すえこ)が購入して家を建てた。最初の夫に死別して母勝子と老後に住むためである。勝子が治五郎の姉だから、直枝子は治五郎の姪になる。因みに勝子の名付け親は勝海舟である。
     椎の古木が三本あったので、治五郎が三樹荘と名付けた。やがて直枝子は再婚してここを去り、空家になった家に、大正三年(一九一四)、中島兼子と結婚した宗悦が「留守番」として入ったことから我孫子文人村が始まった。柳が志賀直哉とバーナード・リーチを呼び、志賀が実篤を呼ぶ。やがて白樺派の連中が集まって来る。バーナード・リーチが窯を築いたのもこの三樹荘である。しかし大正三年当時はまだ電燈もなく、近くには豆腐屋があるだけで、肉も野菜も東京でまとめ買いをしなければならないような土地柄だった。
     私はどうも民藝運動が苦手だった。昔良く見かけた「民芸風」居酒屋とか、「民芸喫茶」なんて、ヒネコビた非実用的な物を集めて喜んでいるようで好きではなかった。だから柳の『民藝とは何か』を読んだだけで良く理解していない。
     三樹荘には歌人の村山村山祥峰(正八)氏が住んでいるが、嘉納治五郎別荘跡に元の建物はなく、新しい公共施設が建っている。村山祥峰によるもうひとつの歌碑もある。

     三樹荘に夢をつむぎし文人の足跡しるは天神の坂  祥峰

     石段を下りて再びハケの道に戻る。まだ十一時二十分で、少し早いが手賀沼公園で昼食になる。四阿に誰もいないのでそこにしようとすると、一足違いで男が一人そのベンチに座った。こちらの方が多いから大丈夫だろう。案の定、私たちが座りこむと男はすぐに立ち去った。傍らにちょうど手頃な切り株があり、多言居士はそこに百円ショップで買った座布団(私も持っている)を敷いて座る。
     「誰もボートを漕いでないな。」沼にはボートが大量に繋留しているのに、スナフキンの言うように誰も漕いでいない。梅雨の晴れ間の貴重な土曜日に、せっかく手賀沼に来てボートを漕がないのは勿体ないのではないか。尤も私も実は手漕ぎのボートは苦手だ。「アッ、あそこに白鳥型のが一艘動いているよ。」
     チイさんは先週に続きエシャロット(エシャレット?)をまた持ってきてくれた。有難い。折角ベンチがあるのに、イトはんはコンクリートの床に腰をおろして足を伸ばしている。却って疲れないだろうか。
     昼食を終え、生涯学習センター・アビスタでトイレを借りてから、バーナード・リーチの碑を見る。黒御影石の左側にリーチの墨絵「巡礼」を彫って、右側に英文を刻んでいる。ダンディと姫はその英文を読む。姫の発音はきれいだね。

    I have seen a vision of the marriage of
    East and West. For off down the Halls
    of Time I heard a childlike voice.
    How long? How long?

     「英語の読めるひとはいいわねエ。」私のように英語の読めない人間は隣の日本語解説を読む。

    私は東洋と西洋の結婚を夢見つづけてきた。はるか悠久の彼方から聖童の声を聞いた。それはいつの日か。いつの日か。

     「childlike voice」が「聖童の声」になるのは不思議だ。私はバーナード・リーチにも詳しくないのでウィキペディアを見ていると、リーチがバハーイー教に入信していたという記事を見つけた。バハーイーって何だ。これもウィキペディアのお世話にならなければならない。

     バハーイー教は、十九世紀半ばにイランでバハーウッラーが創始した一神教である。
     イランでは初期から布教を禁止され、バハーウッラーと信者はイランからイラク、トルコを経て、当時オスマン帝国の牢獄の町であったアッカ(現イスラエル領)へと追放され、投獄生活ののち放免され、そこで一生を終えたため、今日ではイスラエルのハイファにあるカルメル山に本部を持つ。
     信徒数は公称六百万人、百八十九ヶ国と四十六の属領に広がっており、・・・・。
     ・・・・バハーイー教は基本的にはアブラハムの宗教に含まれるものだが、モーセ、イエス、ムハンマドらに足して、アブラハムの宗教に含まれていないゾロアスター、釈迦などの世界の全ての大宗教の創始者も神の啓示者であり、バハーイー教の創始者バハーウッラーはそれらの最も新しい時代に生まれたひとりであるとされる。この他宗教を排除しない寛容な思想の影響もあり、相手を改宗させる目的での布教活動は禁止されている。
     人類の平和と統一を究極の目標とし、真理の自己探求、男女平等、一夫一婦制、科学と宗教との調和、偏見の除去、教育の普及、国際補助語(エスペラント語や英語はバハイからでもなければ、バハイによって承認もされていないが、その指摘からヒントを受け広がったと言われる)の採用、極端な貧富の差の排除、各国政府と法律の尊重(暴力革命の否定)、アルコールや麻薬の禁止などの教義、戒律を持つ。

     日本に伝わったのは大正三年(一九一四)らしいが、私はこれまでこの宗教のことを全く聞いたことがない。「世界の全ての大宗教の創始者も神の啓示者」というように、あらゆる宗教を同根としてしまうのは、時々怪しげな新興宗教が主張する。しかし上の記事の後半部分を見れば、その目指す所は宗教と言うより社会民主主義に近いような気がする。日本では「バハイ共同体」という組織があって、全国行政会(この名前も宗教らしくない)のもとで活動しているらしい。
     すぐそばに大きく立つのは「血脇先生謝恩の碑」だ。東京歯科大学が建てたもので、高さは三メートルを超えるほどだ。元々は国道三五六沿いの生家跡(緑一丁目五番)に建てたものを、駅前再開発のためにここに移転した。
     駅前の香取神社でも名前を挙げておいたが、血脇守之助が我孫子に関係していたとは全く知らなかった。「私も知りませんでした」と姫も頷く。我孫子宿の旅籠「かど屋」(加藤家)に生まれ、慶応義塾在学中に血脇家の養子に入った。高山紀齋の教えを受け高山歯科医学院で教師として働き、やがてその経営を引き継いだ。大正九(一九二〇)年に東京歯科医学専門学校(後の東京歯科大学)を創立し、長く日本歯科医師会の会長を務めた人物である。
     私は野口英世のパトロンとして、名前だけを覚えていた。散々迷惑をかけられながら、血脇は生涯野口英世の面倒を見た。

    野口英世の偉大な業績とその生涯を語る上で欠かせないのが歯科医・血脇守之助の存在です。・・・・
    会津若松の会陽医院で医学の基礎を学び、この頃に血脇守之助の知己を得ていた野口英世は、東京で実施される医術開業試験を受けるにあたり、彼(血脇)が教師を勤めていた芝の高山歯科医学院(現在の東京歯科大学)の学僕として住み込んで学業に励み、わずか一年で試験に合格。
    その後、高山歯科医学院の教師を経て順天堂医院、北里柴三郎の伝染病研究所などに勤務した後米国フィラデルフィア・ペンシルベニア大学医学部のフレスキナー教授を頼りに渡米することとなるのですが、この間彼は野口に、就職の世話や学費の援助、生活費、遊興費から留学費用の捻出までひとかたならぬ支援を行っています。
    特に裕福な訳でもなかった彼は留学費用を友人・知人に頼み込んで何とか借り集めますが、そのお金を野口は友人との送別会の支払いに使ってしまいます。
    普通ならここで絶交となるところですが野口の天才を信じた彼は今度は高利貸しから金を借りてまで留学を実現させたといいます。
    その後も二人の付き合いは続き、一九一五年に野口が日本に帰国した際に母親と三人で関西への旅行を楽しみ、一九二二年に血脇が訪米した際には野口はことさらに喜び二人で名所巡りをしています。
    これらのエピソードからも二人が待ち続けた師弟関係は深い信頼関係を垣間見ることができます。(野口英世医学研究所http://hideyo-noguchi-mri.com/より)

     貧農の子に生まれながら英世は金銭に異常にだらしなく、何度も血脇に面倒をかけた。それでも見捨てなかったのは、血脇が太っ腹だったせいもあるが、英世の天才を純粋に信じていたからかも知れない。こういう関係は啄木と金田一京助の関係にも似ている。
     「エッ、沼から離れちゃうの。」姫が沼とは違う方に歩き始めたのでイトはんが驚く。心配しなくても後でゆっくり散策する予定だ。
     「ここです。」ハケの道に戻ると、小さな白い三階建の建物が白樺文学館だった。我孫子市緑二丁目十一番八号。入館料は三百円である。「団体にはならないのか」と若旦那が確認しているが、団体料金が適用されるのは二十人以上である。それに高齢者割引もない。チイさんは白樺に全く関心がないから入らない。
     まず、この文学館の由来を調べてみる。日本オラクルが株式公開を果たし、莫大な創業者利益を得た佐野力が、当初は志賀直哉文学館を建てようと計画したことに始まる。

     「週刊朝日」(九九年九月一〇日号)に載った佐野さんの発言で『志賀直哉文学館』の構想を知った志賀直吉さんから、「父の遺言により、記念館の類をつくることは一切お断りします」という手紙が日本オラクル(株)に届いたのです。……
     「武田先生、どうしましょう……」と言うので、わたしは即答しました。「佐野さん、何の問題もありませんよ。『白樺文学館』とすればいいのです。志賀は柳に誘われて我孫子に来たのですが、かれは同人誌「白樺」を代表する文学者であり、思想・文学・美術・音楽・教育等の白樺文化運動の一翼を担った人なのですから、ひろく白樺派を顕彰する文学館とし、その中に志賀直哉に関する資料を展示すればOKです。」と。佐野さんは安堵し、その場で『志賀直哉文学館』は、『白樺文学館』になったのです。(武田康弘http://www.shirakaba.gr.jp/genesis/hiwa/hiwa1.html)

     なんだかお手軽な発想転換だ。当初の目的が志賀直哉文学館だったから、志賀関係の手紙や資料を多く保存している。平成二十一年に我孫子市に寄贈された。
     説明は要らないと私が勝手に断ってしまったが、イトはんは是非聞きたいと言う。「だって説明文を読むだけじゃ分からないんだもの。」「そうよね、聞きたいわ」と若女将も言う。それならお願いするか。「十五分でお願いします」と姫の注文は細かい。
     説明をしてくれるのは穏やかな男性で、最初はボソボソと話し始めたが、やがて我孫子への熱烈な郷土愛が現れた。「私たちは我孫子が北の鎌倉と呼ばれるのは面白くありません。」我孫子の人がそう主張しているのではなかったのか。「里見惇が志賀直哉と喧嘩して鎌倉に去りました。鎌倉に文人が集まるのはそれからですよ。こっちが先なんです。」「つまり、向こうが南の我孫子だと。」「そう、そうです。私が言いたかったのは正にそれなんですよ。」
     しかし誰も「南の我孫子」なんて言う筈がない。鎌倉と我孫子では歴史的な蓄積が違い過ぎる。我孫子の場合は殆ど白樺派に限定されていて、白樺以後は誰も住んでいないのではないか。私たちの江戸歩きでは田端の文士村と馬込の文士村も見ているが、あそこだって今でも住む文人はいない。
     それに対して鎌倉は、里見惇、久米正夫等の『文学界』同人に始まって、今でも作家に限らず学者も多く住んでいる。私の恩師の藤木久志先生も鎌倉の住人である。特に言っておきたいのは、鎌倉文士はただ住んでいただけではないということだ。戦後の鎌倉アカデミアは、学者も含んだ鎌倉文士の見事な試みであった。
     鎌倉アカデミアは文部省の認可を得られず、各種学校の位置付けだったこともあり、資金難で四年半しか続かなかった。しかし教授陣に三枝博音(校長)、服部之総(学監)、林達夫(文学科長)、西郷信綱、村山知義(演劇科長)、千田是也、宇野重吉、吉野秀雄、高見順(英米文学)、青江舜二郎、中村光夫(フランス文学)、大佛次郎(歴史文学)その他を揃えた学校なんて、他にどこを探したってお目にかかれるものではない。山口瞳がここの卒業生で、終生、林達夫や吉野秀雄を尊敬していたのは良く知られている。林達夫が学科長だなんて、私だって入学したい。

     また横道に逸れてしまった。約束通り十五分で説明は終わり、二階の展示室から見学する。志賀直哉が小林多喜二に宛てた長い手紙が広げてある。多喜二の手紙に対する返信である。生涯一度も働いたことのない(働く必要のなかった)志賀に、小林多喜二が心酔していたことは、私にはどうしても飲みこめないことだ。
     実篤の写真の前に立つと、「ムシャコウジなんてあり得ないよ。ムシャノコウジと言わなければ」とダンディが憤慨する。「それはさっき説明してましたよ。実篤自身がムシャコウジって言ってたって。」そこに、さっき説明してくれた男性が現れた。「実篤がそう言っていたのです。」念のためにウィキペディアを引いてみても、同じことが書いてある。
     「それは実篤がバカなんですよ。」確かに実篤の兄で十代当主の公共は、ムシャノコウジと名乗っている。「ミナモトノと言う風に、貴族はみんなノがつくんです。」「そうですか。」私も調子に乗って、「フジワラノ、タイラノ」なんて言ってみる。正確な根拠を知らないが、おそらくこれは苗字ではなく「氏」の名称だからだろう。その氏に属する何某という意味で、何「の」何某と称したと思われる。
     「徳川は貴族じゃないから、トクガワノとは言わない。」ダンディの徳川嫌い面目躍如である。しかし徳川というのは「氏」ではないからね。朝廷に対して正式に名乗る場合にはミナモトノ家康という風に言う。織田信長も初期には藤原氏を称していたが後に平氏を名乗って、タイラノ信長と言う。秀吉も藤原や平を仮称してみたが、どうしても認められなかった。当り前のことだ。
     しかし私もうっかりしていたが、そのことと、ムシャ「ノ」コウジの「ノ」とは明らかに別のものだ。「武者小路ノ実篤」と言うのならダンディの意見の説明がつくが、今の議論はそうではない。武者小路は元々地名である。御所を守護する侍が居住して武者小路と呼ばれた。地名に貴族もヘッタクレもない。京都人の語感によるだけだ。武者小路初代公種が三条西家から独立し、邸宅が武者小路通りに面していたことから名乗ったものである。
     リーチの「巡礼」の絵皿がある。「さっきの碑に描いてあったね。」これは、リーチがハイファのバハーイー教本部を訪ねたときに得たイメージのようだ。李朝の壺は見ても分からないから、下に降りると事務室の中に出た。「アレッ、間違えたかな。」「いいんですよ、そこで。」ちょうど姫も降りてきた。事務室の壁の書棚に『白樺』の創刊号から全てのバックナンバーが揃っている。
     「この表紙の絵が岸田劉生なんだね。」さっき説明を受けたのだ。「復刻版は手にとってご覧いただけますよ。」復刻版は各号単位で売っているようだ。既に言っているように、私は『白樺』に同情がないので買おうとも思わない。スナフキンも「シラバカだろう」とアッサリ片付ける。とはいえ、学習院出身の坊っちゃんたちの文学運動が、一時とはいえ時代の象徴になったのが私には不思議なのだ。中学三年の頃に実篤の『馬鹿一』、『友情』を読んですぐ、私はすぐにこれはアホだと断定した。
     雑誌『白樺』は明治四十三年に創刊され、大正十二年まで全百六十号を出した。正に大正の時代精神と共に存在した。とすれば、大正という時代には何か特有なメンタリティが存在したのである。それを探ろうと、関川夏央は『白樺たちの大正』を書いた。

     大正中期、第一次大戦の影響で日本が異常な好況に見舞われた大戦バブルの様相を呈したとき、生活向上と中等教育の普及とともに、市井の青年たちは自我拡大を強く意識した。彼らは、何のために生きるか、どう生きるかを真剣に考え、生活の「改造」を模索した。それは月給取りという階層が全就業者の五パーセントを超えた大正七、八年頃に生じた現象で、たちまち巨大な波となって日本社会をおおった。青年たちは文学に生き方のヒントをさがし、指針を求めようとしたのだが、そのうちの一部は「白樺」の熱心な読者となり、さらにそのうちの意思的な分子は「新しき村」に身を投じた。
     この大正中期こそ大衆化への流れが確立した時期、すなわち現代の原型が姿を現した時代であった。

     それならば、これは大正教養主義の背景の説明にもなるだろう。白樺派と大正教養主義は同根である。「教養」と言う言葉は実質的に死語になってしまったが、七十年頃までは辛うじて生き残っていた。私はあの頃から時代遅れだったようで、阿部次郎『三太郎の日記』、倉田百三『愛と認識との出発』なんていう「詰まらないもの」(今だから批判できる)も高校時代に読んでいた。個人の人格修養のための「教養主義」に今では何の関心もない。
     しかし私の尻尾には未だに教養主義の切れっぱしがくっついている。大学進学率が五十パーセントを超え、それと同調するように日本人の知的レベルが極端に低下している今、改めて教養の必要は主張しても良い筈だ。
     地下に降りると声楽が聞こえてきた。部屋いっぱいの大きなテーブルの周りに座り心地の良い椅子が並べられ、CDの音楽が流れているのである。適度な冷房が心地よい。ちょっとしたサロンの雰囲気だ。声は柳兼子である。壁には兼子が帝国ホテル演芸場で演奏会を開いた時のチラシが貼ってある。宗悦の妻兼子のことは知らなかったので、ウィキペディアを引いてみた。

    かつては「声楽の神様」とまで称され、数々のドイツ・リートを歌った。・・・・一九二八年にドイツへ留学した。ベルリンでのリサイタルではドイツ人を驚愕させるほどの日本最高のリート歌手であったが、軍歌を歌うことを頑なに拒否した。一九三〇年に自由学園講師、一九三三年東京に帰り毎日音楽コンクール審査員。一九三九年帝国音楽学校講師。一九四六年皇居において御前演奏、1950年毎日音楽賞特別賞受賞、一九五四年国立音楽大学教授、一九六一年紫綬褒章受章、一九六五年日本芸術院賞恩賜賞受賞、一九六六年皇后還暦記念御前演奏、一九七二年日本芸術院会員。
    八五歳まで公式のリサイタルを続け、その後も数年間は私的な集まりで歌い続けていた。また九十二歳で亡くなる死の二ヶ月前まで後進の指導にあたっている。これは肉体を自身の楽器とする声楽家では普通はあり得ないことであり、世界的に見ても八七歳まで演奏活動を続けた声楽家というのは彼女以外存在しないであろう。(ウィキペディアより)

     ゆっくりしたいが、そうもいかない。「チイさんはいませんか。」「アッ、もう向うに。」文学館を出てすぐ左手の高台に登ると、空き地の隅に小さなお堂のような家が建っていた。ここは弁天山、志賀直哉旧居跡である。母屋のほかに書院造風の「二階家書斎」、茶室風の書斎があったもので、その茶室風書斎だけを復元したのである。
     「蜻蛉さんの嫌いな人物ですよね。」姫にはすっかり知られてしまった。私が志賀を批判するようになったのは、フランス語国語化論を知ってからだが、どうやらそれ以前からなんとなく嫌っていたらしい。そもそも小説の神様と持ち上げられ、金科玉条のように持て囃されたことが日本の小説を詰らなくしたのである。重要な小説には、作家自身にも制御出来ずにはみ出してしまう、何か過剰ともいうべきものが必ずあるのではないだろうか。過不足なく整然とまとめられたものなんか、ちっとも面白くない。
     志賀には好き嫌いの感情だけあって、人への愛情がない。死の直前の太宰が『如是我聞』で、やっきになって志賀に対する悪口雑言を捲し立てたのは、おそらくそのせいだ。そして日本の文章にレトリックという概念が育たなかったのは、明らかに志賀の文章を名文と持ち上げてしまったせいである。
     「奈良にも志賀直哉の旧居がありましたね」と若旦那が口を切り、ダンディも「そうそう、ありました」と同調する。私がそれを知っているのは、中原中也の伝記を読んでいるからだ。長谷川泰子との神経戦のような同棲生活から逃げ出して、小林秀雄が避難したのが奈良の志賀直哉のもとだった。泰子に「出ていけ」と言われたのがきっかけで、泰子自身は、小林はすぐに戻って来ると思っていた。小林が逃げたのなら泰子は自分に戻って来る筈だと中原中也は勝手に決め込んだが、泰子が中也の元に戻ることはあり得なかった。これも余計なことですね。
     「志賀直哉は宮城県出身ですね。」辞書を調べていたダンディが言う。それは知らなかった。確か父は古河市兵衛と一緒に足尾銅山に関係していた筈だと言ってしまったが、それは父ではなく祖父の志賀直道のことだった。維新後、破綻した磐城中村藩相馬家の財政立て直しのために家令として招じられ、古河市兵衛と一緒に足尾鉱山を経営して利益を挙げた。また、忠臣を自称する錦織剛清によって、殿様殺害の中心人物として告訴された相馬事件は、後に錦織が有罪となって決着した。
     父直温は第一銀行を経由して総武鉄道創立に参加し、また帝国生命保険の役員にもなった。総武鉄道が国有化されたとき莫大な売却益を得ている。直哉は直温が第一銀行石巻支店に勤務していたときに生まれたのである。直哉が足尾鉱毒問題に関心を示した時、直温がそれを許さなかったのが、親子不和の原因の一つとされている。

     「あの左の崖の上に、瀧井孝作の旧居があるんですけど、行きますか。」「行かなくていいよ。」瀧井はとにかく志賀直哉が好きだったらしい。志賀に誘われて我孫子に住み、その媒酌で再婚し、志賀が我孫子を離れると、京都、奈良へとその後を追って従った。『無限抱擁』の私小説作家には関心がない。
     「次は村上さんのおうちです。」「村川じゃないの。」「そうでした、村川さんです。」崖下にずいぶん立派な門が構えてあり、坂を登ると二棟の家が建っている。村川堅固が大正六年に建て、その息子の堅太郎も別荘として使った家だ。堅固は熊本五高時代の嘉納治五郎教授の教え子だったから、嘉納に誘われて別荘を建てたのだろうと推測される。
     私は堅固を知らなかったが、西洋古代史の研究者である。村川堅太郎の名前なら、高校時代に使った山川出版社の世界史の教科書の監修者として覚えている。本来はギリシア・ローマ史が専門で、つまり父子二代で同じ学問をしたのである。姫の案内では『地中海からの手紙』がエッセイストクラブ賞を受賞しているそうだが、それは読んでいない。
     ところで太平洋戦争に敗れるまで、東洋史、西洋史はあっても「世界史」はなかった。世界史が高校社会科に登場したのは昭和二十四年のことである。しかしまだ教科書はできていない。西洋史と東洋史に分離して交流のなかった学界で、継ぎ接ぎではなく、「世界史」という統一した概念を作り上げるのは実に大変な仕事であった。間に合わせだったかもしれないが、取り敢えずできたのは村川堅太郎、山本達郎、林堅太郎の『世界史概観』である。私が習った教科書はその流れを汲んでいる筈だが、統一した世界史が成功したかどうかは分からない。私の記憶では未だ継接ぎだらけであった印象が強い。余り勉強しなかったせいもあるが、要するに西洋と東洋と、更に日本との繋がりがサッパリ分からなかった。
     今でも学界の状況は似たようなものだろう。大学に西洋史研究室や東洋史研究室はあっても、世界史研究室なんていうものはない筈だ。勿論歴史学は個別具体的な事象を掘り下げなければならず、そのために狭い専門分野を追及することは当たり前だが、一方ではそれら個別分野の厳密な研究に基づいて統一した通史を書くことも重要なのだ。但し大雑把な文明史観ではなく、厳密な学問的手続きを経たものでなければならない。これは日本史にも言えることで、とても難しいことではあるが、まともな歴史家がきちんとした通史を書いて普及してくれないと、「新しい歴史教科書をつくる会」なんていうヤクザな連中がのさばるのである。啓蒙と言うのは大事なことなのだ。
     我々はどこから来てどこへ行くのか。それを問い続けることが歴史学の最大の課題である。「我々は遠くから来た。そして遠くへ行くのだ」というのは、白土三平『忍者武芸帖』の末尾で影丸が森蘭丸にテレパシーで語りかける言葉だ。白土三平はその「遠く」を原始共産制から未来の共産社会に結び付けていただろうが、しかし既に私たちはそんなことを信じる訳にはいかない。本当に、人間はどこから来たのか、どこへ行こうとしているのか。
     母屋の方は我孫子宿本陣の離れを解体移築したものだ。もうひとつの建物はお堂の屋根のようなものを持つ。室内に入ると入口付近に石造の常夜燈が置かれていた。「これを見て、屋根を見ると、どうしてもお寺だわね」とイトはんがボランティアのガイドに訊いている。「これは村川堅固が朝鮮を旅行した時、その民家をイメージして作ったものだと言います。」これが朝鮮風なのか。「屋根の反りは朝鮮風ですが、鴟尾は日本にしかないそうです。」また常夜燈は、まだ電気が通じていなかったため、母屋とこの建物の間に置かれていたのだろうと言う。
     「これだよ、この教科書。」私たちが習った世界史の教科書があった。表紙の色が少し違うような気もするが、デザインは一緒だ。『地中海からの手紙』(中公文庫)も置かれていて、ダンディはそっちの方に関心を示している。

     この敷地からもう一段上に登ると子之神大黒天がある。我孫子市寿二丁目二七番一〇。この地形は古墳を思わせる。冠木門に屋根を載せたような山門の柱には「日本正統少林寺拳法我孫子道院」の看板が掲げられている。境内は割に広い。本堂には鰐口が三つぶら下がっている。そもそも子の神大黒天とは何だろう。

    子之神大黒天延寿院は康保元年(九六四年)甲子の年正月八日子ノ日一字を建立して茲に子之神と大黒天の尊像奉祠する様になったそうです。
    この地には六世紀初頭からの「子の神古墳群」があり、前方後円墳一基と円墳十三基からなる古墳群がある。
    http://www.kyoritsu-estate.co.jp/link/heisei20nenogami/index.html

     子の神は、薬師如来を守護する十二神将のひとり毘羯羅(ビカラ)大将で、「子の神神将」とも言う。十二人神将に十二支を当て嵌めたのである。本来十二支と動物は関係ないのだが、子の神だから鼠になった。また大黒天はオオクニヌシと習合した。オオクニヌシがスサノオの計略で焼き殺されそうになった時、鼠が助けたという説話があって、そこで子の神と大黒天が習合したと考えられるだろう。
     十月には柴燈護摩火渡りの行事がある。山伏姿の僧侶が法螺貝を吹き鳴らして行列する祭りのようだ。七福神を覆う大きな屋根の下には、「金のわらじ」の説明とともに、ブリキ製の草鞋がいくつもぶら下げてある。またこの寺は「新四国相馬霊場八十八か所」になっていて、ご丁寧に三十八番と四十三番札所が同居しているのは、別々の寺が合併したことを意味しているに違いない。
     現在は正式には白花山延寿院甲子寺と言う。真言宗豊山派で、本尊は不動明王である。どういう理由か分からないが、大正七年、それまで我孫子の中心地にあった延寿院甲子寺が移転してきて子之神大黒天を吸収合併したようだ。

     もう一度村川邸の庭を通って下に降りたところで、伯爵夫人が「キャーッ」と叫んで跳び上がった。その声にカズちゃんも驚いて、同じ悲鳴を上げて道路に避難する。たぶんカズちゃんは理由も分からずに叫んだのである。「なんだ、どうしたの。」小さな池の傍を一メートル以上ありそうな蛇がゆっくり這っていたのだ。「なんだ、青大将じゃないか。」隊長や多言居士が近づこうとすると、「やめてください、可哀想ですよ」と姫から声がかかる。「私たちは外来者ですから先住者の邪魔をしちゃいけないんです。」虫愛づる姫は蛇も愛しているのだ。

     子の神に悲鳴轟き青大将  蜻蛉

     やがて湖岸に沿った道に出て、姫が立ち止まったのは道路脇に建つ小さな神社だ。千勝神社である。我孫子市高野山新田一〇八。「なんて読むんでしょうかね。」「センショウ、センカツかしら。」その場では分からなかったが、チカツと読むようだ。竹が一本倒れて鳥居前を塞いでいるので、それを潜って参道に入る。鳥居はごく一般的な石造りの明神鳥居だ。阿形の狛犬は笑っているような表情をしている。「可愛らしいので寄ってみました。」

     創建は一六九八年(元禄二年)江戸初期で、当時は新田の水神として祀ったようである。一九八〇年(昭和五四年)道路建設に伴い、現在地に遷宮、改築、鎮座。
     社殿は瓦葺入母屋造(平入)、本殿は拝殿と同棟、拝殿内部(右)には、八咫鏡や太鼓などが見える。
     明神鳥居(作年不明)一基、狛犬(明治三一年作)一対で、玉(鞠)持と持物なしの組合せ、燈籠(明治二九年作)一対、手水鉢一基、社務所はなく、御祭神は日本武尊、水速比売命、神紋は賽銭箱にあるが、名称不明で総本社の神紋に極めて酷似している。
     千勝神社が千葉県にあるのは極めて珍しい。 境内には石像など多数が祀られている。総本社は、常陸国南部にある千勝神社(以下「千勝神社の総本社は同じ。」、茨城県つくば市沼畔、御祭神は猿田彦命)で、創建は五〇二年(第二五世武烈天皇)、世の中や人生などの「道開きの神様」として知られている。
     所在地は、我孫子市「山階鳥類研究所」、「鳥の博物館」の近くで、道路に面して鎮座している。http://members3.jcom.home.ne.jp/narui-tadao/subpage12.html

     これがこの神社の説明である。「千葉県にあるのは極めて珍しい」とあるが、埼玉にだってあまりないのではないだろうか。私は初めてお目にかかった。元は何か、なかなか探せなかったが、ようやく次の記事を見つけた。チカツ神社、またはチカタ神社と呼ばれるものらしい。表記も智方、知方、千形、千方、血方、近津、千勝、近戸と様々である。

     ・・・・東国のこれらの神社の祭神には特長がある。大きく二つに分類され、一つは、東国開拓の神である関八洲の一宮の神や、古代の国造の祖神(赤城神、秩父神)たちであり、もう一つは、興玉命、猿田彦神、手力男神などの道案内の神、護衛の神である。
     思ふに関東の国土開拓の神は、他所からお招きした神が多いので、地元の道案内役の神が必要になる。そこで、ちかた、ちかつの神は、猿田彦や興玉神となって現はれたのかもしれない。また単なる道案内の神としてでなく、開拓の神自身として現はれる場合もあった。これは、御眷属の神などが、元の神自身としてふるまったり、神自身の霊を憑依して現はれたりするのと、同じことなのだらう。また国造の祖神たちに代はって、実際に村々の開拓にあたった祖先たちを、国造の祖神の御家来の神の名で祀ったとも考へられる。または土着の神で服属した神もあっただらう。
     ちかつの神による道案内の道程は、川を遡って良い場所を探すものだったらう。埼玉県のちかた神社、ちかつ神社は、県の東部から北部に分布し、古利根川や元荒川の流域である。他県のいくつかを見ても、大きな川の岸辺やそこにごく近いところにあるものが多い。http://nire.main.jp/rouman/ubu/tikata.htm

     この記事によれば、埼玉県では児玉郡、大里郡、北埼玉郡にチカタと呼ばれる神社が存在する。
     やがて前方左に山階鳥類研究所の看板が見えてきた。多言居士によれば、この研究所が我孫子に移転する際、江戸英雄(三井不動産)とさまざまな確執があったと言う。「江戸英雄に騙されちゃったんだ。」なんでも、最初は別の候補地を探していたのだが、江戸英雄がそちらは駄目だというので、我孫子市が誘致してくれたのもあって、ここに移転した。江戸英雄が反対した場所は、後に三井が開発したというのである。真偽は不明だ。
     「でも、我孫子市と相思相愛なんだからいいじゃありませんか。」姫は冷静である。姫によれば、我孫子市は鳥との共生を街づくりの基本政策に掲げている。「こういう自治体は珍しいんですよ。」鳥と共生するということは、ある場面では人間にも我慢を強いる必要がでてくるのだ。
     右手にドーム状の高い塔を持つ建物が見えた。「あれじゃないか。」しかし違った。あれはプウラネタリウムで、高い塔の部分が展望台になっているようだ。「登ってみたいわねエ。」若女将の言葉に、「後で寄りますからね」と姫が応えている。「嬉しいわ。」
     鳥類研究所に隣接するのが我孫子市鳥の博物館である。昭和五十九年に山階鳥類研究所が移転して、それに遅れて平成二年に建てられた。日本で唯一、鳥類について総合的に研究・展示する博物館である。我孫子市高野山二三四番地三。
     入館料三百円、七十歳以上は無料である。受付で「昭和五年です」、「昭和十三年、七十三歳です」なんてそれぞれ自己申告をする。「残念ながら六十代。」「申し訳ありませんネ。」
     一階には団体の中高齢者がたむろしていて喧しいので、早々に二階から三階へと移動する。私は鳥が得ではない。三階に上がると、ガイドがにこやかに声をかけてきた。どこから来たのか、どんなグループなのか。われわれは概ね埼玉県から来た者である。五十代から八十代まで幅広い年齢層が集まって、十キロ程の道をあちこち見学しながら歩くグループである。
     「うらやましいですね。ところで、何か説明しましょうか。」剥製の前に立って、鳥の踵はどこにあるかと訊いてくる。確か膝が逆に曲がったような部分じゃなかったかな。「スゴイ。鳥の基本構造をマスターしてますね。」こんなことで誉められるとは思ってもいなかった。「私はこの博物館のガイドになってから知りました。」そう言う人でもガイドになれるのである。「うちのグループには鳥を語らせれば止まらない人間がいます。」「そうですか。その人が企画したんでしょうね。」「ちょっと違う。」
     「良いところですね。」「我孫子の誇りです。」さっきの白樺文学館の人もそうだったが、我孫子の人の郷土愛は強い。「税金が高いけどね。」その辺りでガイドから離れて下に降りる。スナフキンは売店でポスターを買った。「鳥がいっぱい描いてあるから勉強する。」彼が鳥に関心を持っているとは思わなかった。
     外に出てベンチで少し休憩して出発する。今度は手賀沼の遊歩道に沿って東に歩く。そもそも手賀沼とは何であるか。

     平安中期(約千年前)の古地図によれば、銚子から内陸に向かって「香取海」と呼ばれる広大な内海が広がり、その最奥部の入り江の一つに「手賀浦」がありました。その後流入する河川の堆積物で香取海が大きく後退して手賀浦は常陸川(利根川)とは細い水路で結ばれるようになります。
     江戸初期、幕府の命で木下に堤防が造られ水門で仕切られた事で手賀浦は利根川から分断されて「手賀沼」となりました。手賀沼周辺の住民はわずかの耕作地がしばしば洪水と利根川からの逆流水で田畑が流出する被害に悩まされてきました。
     一七二九年(享保十四年)に江戸の豪商、高田茂右衛門が私財を投じて手賀沼のほぼ中間点に南北に沼を仕切る「千間堤」を構築しました。沼の西半分を上沼、東部分を下沼と称し、比較的水深の浅い下沼の干拓を行い、二百三十町歩におよぶ耕地を生み出し、一五〇〇石の水稲収穫を可能にしました。
     http://abikonobunka.sakura.ne.jp/400_BackNumber_Kaiou/4130_kaihou_130/4130_kaihou_130_2010_10.html

     「オオヨシキリだ。」ギョウギョウシの声が聞こえてくるが姿は一向に見えない。「ギョギョシって言ってる。」「キョッキョかな。」人によって聞こえる鳴き声に違いが出る。

     響く声人様々に行々子  蜻蛉

     葦の間から時折吹く風が心地良い。「利根の川風袂に入れて、って感じだね。」「そうですね、すぐそこが利根川ですから。」

    利根の川風袂に入れて 月に棹差す高瀬舟
    人目関の戸叩くは川の 水に堰かるるくいな鳥
    恋の八月大利根月夜 佐原ばやしの音も冴え渡り
    葦の葉末に露おく頃は 飛ぶや蛍のそこかしこ
    潮来あやめの懐かしさ わたしゃ九十九里荒浜育ち
    と言うて鰯の子ではない
    義理には強いが情けにゃ弱い
    されば天保十二年抜けば玉散る長脇差し
    赤い血しぶきしとどに浴びて 飯岡笹川両身内
    名代なりける大喧嘩
    伝え伝えし水滸伝

     玉川勝太郎『天保水滸伝』である。おっと違った。調子に乗って長々と引用したのに、これではヨシキリが出てこない。ヨシキリが登場するのは三波春夫『大利根無常』(猪俣良作詞・長津儀司作曲)である。

    利根の利根の川風よしきりの
    声が冷たく身を責める

     「止めて下さるな妙心殿、落ちぶれはてても平手は武士じゃ。・・・・・行かねばならぬ。」学生時代、明らかに無謀な牌を捨てる時に、必ずこのセリフを口にする男がいた。私の連想は手賀沼とは益々関係がなくなってしまう。
     前方に花菖蒲の畑が見えてきた。「こっちからは行けませんね」と姫が言った途端、小さな橋が見えた。「少し寄ってみますか。」姫は不本意なのだが仕方がない。車椅子の老人が何人も、介護する人に囲まれて木の傍で花を眺めている。「あんまり遠くへ行かないでくださいね。すぐに出発しますから。」
     イトはんはかなり疲れて来た。「ベンチがあったら休憩しましょう。」すぐにベンチはあったが、若い男二人が占領して煙草を吸っている。若い男はベンチに座ってはいけない。暫く行くと前方にトイレらしい建物が見えてきた。「あそこならベンチがありそうですよ。」ちょうどよいベンチとテーブルが三組ほど設置されていた。ここは滝の下広場と呼ぶらしい。手賀沼公園から三キロ地点になる。

     手賀沼を ぐるりと一目 見渡せば 水面の風が 頬を撫でゆく  千意

     多言居士は、ここなら天王台駅が近いと言う。地図で確認すると確かに北へ真っ直ぐ、一キロ程の所にある。念のためにリーダーに言ってみると、「そこには行きません。別の予定がありますから」という返事だ。ダンディは、私が軟弱でそんなことを言い出したように思ったらしいが誤解です。ここで暫く休憩して計画通り遊歩道を戻ることになる。
     ここまではずっと後方を歩いていたダンディが、帰りはかなりの速度で先頭を行く。「ちょっと待って下さい。」「若旦那はちゃんと付いてきますよ。」「一杯一杯です。」女性陣がかなり遅れているのだ。
     「なんですか、あの声は。」ウシガエルの声がかなり大きく響いてくる。ずっと以前、黒部ダムの近くの山道で、日が落ちそうになった頃、道にウシガエルが無数に蔓延っているのを見たことがある。あれは実に不気味なものですね。
     「可愛いですね。」何が可愛いかと言えばコガネグモである。姫が説明していると、「コガネグモだ」と多言居士が口を出し、「コガネグモじゃないか」と隊長も言う。こんなものが可愛いか。ダンディは「コガネグモを見て良かった」と笑っている。私は別に良かったとは思わない。そんなに珍しいものなのだろうか。

     葦の間に脚広げたる黄金蜘蛛  蜻蛉

     漸くさっきのドームが見えてきた。手賀沼親水広場内に設置された「水の館」である。この辺には黄色いビヨウヤナギがよく目につく。「キンシバイもあるじゃないか。」カズちゃんが「その区別が分からないの」と言うので特徴を教えて感謝された。
     水の館に入って、高さ二十五メートルの展望室に上る。ここから眺めていると手賀沼の広さが実感できる。「スカイツリーが見えるよ。」「どこ。」「あの塔の左に、ほら。」確かにうっすらと見えた。階段を下りて行くと、漸くこれから上に向かう伯爵夫人と出会ってしまった。
     ここからは手賀沼を離れて市街に向かう。我孫子市役所を過ぎた辺りに並び塚というバス亭があり、姫が注意を促す。「古墳が並んでたんでしょうね。」ここから南西に二百メートルほどの辺り、さっきの子之神大黒天のある台地に沿って、六世紀の築造と推定される「子の神古墳群」があるのだ。十三基の円墳と一基の前方後円墳が並んでいたらしい。
     消防本部前から三五六号に入ると、古い街道の雰囲気が感じられる。割烹旅館や鰻料理屋がある。
     「成田道」の道標が置いてあるのは、水戸街道と成田道との分岐点だ。側面には大きく「東」と記され、その下に各地への里程が記されている。佐倉九里、成田九里等。倒れかかっている石碑を見れば三猿の庚申塔だし、ほかにもいくつかの石碑や石祠が無造作に放置されている。「どうせなら、ちゃんと置けば良いじゃないか」と多言居士も言う。
     この辺りから我孫子宿に入ったことになる。道は大きく直角に左に回り込んで行き、角には割烹「鈴木屋」がある。その先の家が立派だ。白い石塀で囲まれた黒門である。「随分立派な門構えじゃないか。」軒瓦には渦巻き紋を持つ。「茅葺屋根だよ。」塀が高いので、少し離れて見上げなければ気付かなかった。門脇の白壁に鰯の頭と柊の葉が飾られている。「オーッ、珍しい。」良く見るとガムテープで貼り付けてあるのが惜しい。実際にお目にかかるのは初めてだが、しかしこれは節分の頃の風習ではなかっただろうか。
     「今は一般の方のおうちですから、余り騒がしくしないでくださいね。」ここは我孫子宿の問屋兼名主で脇本陣を務めた小熊家である。天保二年(一八三一)の建築で、今でも住居として使用されているのだ。少し先に行くと道の反対側のマンション前に「我孫子宿本陣跡」の標柱が建っていた。

     正面に大光寺が見えた。「朝通ったところだね。」香取神社の隣であった。長い立派な塀を持つのは割烹旅館「門松」である。
     駅を目の前にした我孫子駅南口東公園で姫は休憩を宣言する。イトはんは精根使い果たしたようにベンチに倒れこみ、天を仰ぐ。声をかけても返事もできない。隊長も疲れたような顔をしている。「腰がね。」スナフキンの万歩計で十キロちょっとの距離であった。
     母親がベンチに座り、三人の子供が裸足で走り回っている。手漕ぎのポンプからペットボトルに水を入れて砂に運ぶ。土の上を裸足で遊びまわれる公園は最近珍しい。
     この公園と、道路を挟んですぐ向かいのイトーヨーカ堂に及ぶ敷地が、明治三十九年に開設された山一林組我孫子支店跡地である。我孫子市本町三丁目二番。三百人以上の女工を抱える東葛飾郡最大の製糸工場で、昭和六年には千葉県下で生産する生糸の七割を占めたと言う。昭和十三年の世界恐慌の煽りで石橋製糸に吸収され、昭和六十年まで生産を行っていた。それを記念した公園で、蚕霊塔が建っている。道路との境界に立つ卵塔のような車止めは、繭玉を模したものなのだ。
     調べてみると、山一林組は信州岡谷に本社を置く会社であった。信州岡谷と言えば思い出すことがある。『あゝ野麦峠』の主人公政井みねは山一林組で働き、病を得て明治四十二年に二十歳で死んだ。その劣悪で苛烈な労働環境は、昭和二年になって女工による歴史的な労働争議を惹き起す。「山一林組争議ストライキ」である。

     製糸業では最大の争議。総同盟婦人部が総力をあげて応援した。一九二七年八月二八日、長野県岡谷の山一林組労働者一三五七人(うち女工一二一三人)は、組合加入の自由・待遇改善要求など七項目の請願書を提出し、三〇日ストに突入した。争議団は結束し団結を守ったが、会社側は製糸業者の団体や軍人会の助けを借りて切り崩しに狂奔し、九月一二日寄宿舎閉鎖、女工を閉め出し、糧道を断った。女工たちはなおも争議団本部と〈母の家〉に分宿してストを続けたが、中心的な活動家の逮捕で一七日敗北し、争議団は解散した。(大原クロニカ『社会・労働運動大年表』解説編
     http://oohara.mt.tama.hosei.ac.jp/khronika/1926-30/1927_18.html)

     我孫子に来て女工哀史に触れるとは思わなかった。しかし、そんなことはこの公園のどこに書かれていない。我孫子発展の象徴である。

     水遊び女工哀史の公園に  蜻蛉

     もう駅はすぐそこだから、多言居士は一人別れて駅に向かっていった。スナフキンは公園脇の道を探検して、佃煮屋(安井)を見つけたと帰ってきた。姫は勇んでその店に向かう。一緒に行ったカズちゃんは何も買わずに帰ってきた。
     我孫子駅に戻る直前に「華の舞」を見つけたので偵察してみた。「どうだった。」「四時からやっている。」今は四時半だからちょうど良かった。ダンディはまだ飲めないようで、ハコさんと一緒に帰ったので、反省会をするのは七人に決まった。隊長、姫、イトはん、カズちゃん、チイさん、スナフキン、蜻蛉である。
     「こちらで宜しいでしょうか。」案内されたのは狭い通路を挟んだ両脇のテーブルだ。「座敷の端が空いてますが、五人用の狭いところですから。」それでは仕方がない。
     今日も注文はチイさんにお任せしてしまう。焼酎の四合瓶はすぐに終わり、三合瓶も追加したせいか、帰りの電車では半分寝込んでしまった。

    蜻蛉

    これを書いているとき、『ちい散歩』の地井武男の訃報に接した。病気が分かってから僅か半年、死因は心不全である。七十歳だと言う。謹んで哀悼の意を捧げる。