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    平成二十四年九月二十二日(土)  児玉

    投稿:   佐藤 眞人 氏     2012.09.30

     旧暦八月七日、秋分の日。東武東上線小川町で寄居行きに乗り換えると、車内は同じようにリュックを背負った中高年で混み合って座れない。若者の姿は少ない。今日は暑すぎもせずハイキングにはうってつけの陽気だから、長瀞や秩父の山を目指す人が多いのだろう。それでも男衾で一人降りていったのでそこに座ると、正面の席に座っていた女性が会釈してくれる。伯爵夫人であった。今日はリュックではなく、小さなショルダーバッグを胸に抱え、いつものベレー帽を被っていないから気が付かなかった。他に仲間の姿が見えないのは、小川町で八高線に乗り換えているものか。
     寄居駅ではいつも悩んでしまう。東上線のホームから階段を上がると、改札手前の通路に読み取り装置がある。そこに女性駅員が付きっきりで、通る人に「必ずタッチしてください」と声をかけている。これは秩父鉄道がカードに対応していないことが原因だ。秩父鉄道に回る際には、改札口の読み取り機にもう一度タッチをして一度外に出なければならないのだが、八高線はどうだろう。
     「そのまま進んで下さい」と言うので、半信半疑ながら通路を進む。寄居で降りた乗客の殆どはやはり秩父方面に向かうようだ。後ろを振り返ると伯爵夫人が秩父線のホームに降りかけているので、「こっちですよ」と引き留める。八高線に向かう通路は狭い。
     ホームの端のトイレで用便を済ませて戻ると、伯爵夫人とドクトルがベンチに座っていた。ドクトルはいつもの通り、羽生から秩父鉄道でやって来た。「今日はこれだけかな。」それでは随分淋しいことになる。ロダンからは出席のメールが入っていた筈なのにどうしたのだろう。
     九時五十六分の八高線に乗り込むと、目の前に座っていたロダンと目が合った。「小川町から来たの。」「エヘヘヘ。」ロダンは川越から川越線を使って、高麗川で八高線に乗り換えて来たと言う。それは遠かっただろう。「スゴク時間がかかりましたよ。」それに高い筈だ。
     検札係がやって来たのでドクトルは切符を買い、私は念のためにパスモにちゃんと記録されているか確認して貰った。乗務員は「寄居はややこしいんですよね」と言いながら携帯用の読み取り装置で確認して、「アッ、ちゃんと入場の記録があります」と驚く。なんだかおかしい。「すみませんネ、あまり電車に乗らないので。」
     電車を降りると、最後尾の車両からマリーが下りてきた。「不安だったわ、誰もいないんだもの。この電車しかないんでしょう。」そうなのだ。きちんと調べて乗った筈なのに仲間がいないと、自分がとんでもない間違いをしでかしたかと不安になってくる。通常は十時集合の会だが、なにしろ一時間に一本しかない八高線だから、それに合わせて集合時間が少し遅くなっている。
     この時間帯で川越から児玉に来るには三つの方法がある。お薦めするのは川越発八時四十一分の東上線小川町行きに乗り、小川町で寄居行きに乗り換える。そして寄居で九時五十六分発の八高線に乗る方法だ。児玉には十時十分に着いて料金は八百円だ。
     次善の策はマリーが利用した方法で、同じ東上線に乗って小川町で八高線に乗り換えるものだ。到着時間は同じだが、これだと九百三十円になる。ネットで検索するとこのルートが一番に表示される筈で、寄居乗り換えを知らない人は騙される。
     ロダンは普通誰も使わないような最悪のコースを選択した。川越線も本数が少ないから、川越発八時二十六分に乗らなければならない。出発が十五分も早く、しかも料金は千百十円もかかる。第一のルートに比べて三百十円の差は大きいだろう。貧乏人はちゃんと調べて来なければならない。
     児玉駅(本庄市児玉町)で降りるのは初めてだが、ここを挟んで松久駅(児玉郡美里町)と丹荘駅(児玉郡神川町)には降りたことがある。旧児玉郡の中で児玉町だけが本庄市と合併したので、住所表示が少しややこしい。
     改札口では隊長と中将、小町夫妻が待っていた。本庄の夫妻は車だから良いが、八高線を使った隊長は一時間近く前に到着していた訳だ。結局今日の参加者は八人と決まった。と思ったのに、伯爵夫人が何やら隊長に挨拶しているのはどうしたことだろう。「体調が悪いので欠席するそうです。」それでリュックを背負っていなかったのか。それなら隊長に会うだけのために、わざわざ児玉まで来たのだ。「やっぱり伯爵夫人ですね」とロダンがこっそり呟く。

     駅前から左の脇道に入る。「あれがウチの車だよ。」空き地に三台駐めた車のうち、左端がそうだと言う。「無料だからね。」
     最初は競進社模範蚕室跡に立ち寄ることになった。隊長の当初の計画ではコースの最後にとってあったのだが、今日は内部が見られないので最初に済ませてしまうのだ。「あれだね。」雑草に覆われた空き地に、既に使われていない工場のような建物の隣に並んでいるのが見えた。屋根の上に高窓を作った形は典型的な養蚕用の建物だ。換気を良くするための設備である。「ハクヨウ高校知ってるでしょ。」知らない。「その前身だよ。」
     道路を回りこむと、左の敷地にはかつて農業高校だった建物が残り、門の脇に「産業教育発祥之地」碑が建っている。昭和四十九年に金屋に移転するまで、児玉農工高等学校があった。競進社伝習所が児玉農業高校、児玉農工高等学校と変遷して、現在では現在では県立児玉白楊高校になったそうだ。残された校舎は現在では公民館になっている。
     「白楊高校は就職率がすごくいいんだよ。」小町のお墨付きがあれば、児玉の若者は大学に行くよりここに入学した方が良い。アルファベットを知らずに大学に入ってノウノウとしている者に比べれば、徹底的に実践教育が受けられるのではないか。
     実はつい最近、私はバカな学生と二時間ほど付き合って、アルファベットの書き取り練習をさせる羽目になった。本を書架に正しく戻す仕事をさせると、僅か十冊を戻すのに二時間かかった。点検するとまるで滅茶苦茶で、アルファベットを知らないことが分かったのである。取り敢えず手本を与えてAからZまで五十回書けと指示して、途中で確認してみると、最初の五行は何とか書けていたが、六行目からダメだった。大文字小文字、筆記体と活字体とが混在し、文字が三つほど抜け落ちてしまうし、順番が狂う。これで、図書館でアルバイトをしようなんていうのは、あんまりではないか。本人は、自分はゆとり教育の犠牲者だとシャアシャアとしているが、そもそも大学に入るべきではない。
     別の大学図書館では、「天声人語」の書き取り練習帳を用意して、学生に毎朝その日の新聞を与えて書き取りをさせている。最近の大学図書館はこんなことまでしなければいけないのである。要するに中学レベルの基礎ができていない連中が、大挙して大学に入って来るのだ。
     しかしこれは余計なことであった。道路を挟んで北側の空き地に模範蚕室が建っている。本庄市児玉町児玉二五一四。さっき見えた建物だ。木造中二階建てで高窓が四つ並んでいるのは、部屋が四つあるからだ。

     この蚕室は、養蚕技術の改良に一生をかけた競進社社長木村九蔵が明治二十七年(一九八四)に競進社伝習所内に建てたもので、本県に数少ない産業建造物の遺構です。
     木村九蔵は、炭火の火力で蚕室の湿気を排除し病蚕を防ぐ「一派温暖」と称する蚕の温暖飼育法を考案した。・・・・・
     なお、明治十年に結成された競進社(当時は養蚕改良競進組)は幾多の変遷を経た後、現在の県立児玉白楊高等学校に至っている。

     養蚕は気温と湿度に大きく影響されるものらしい。それを温暖飼育法によって安定させたということだろう。この建物は経済産業省の「近代化産業遺産」に認定された。「富岡製糸場もそうですよね。」ロダンは既に見学しているのだ。「経済産業省では産業遺産活用委員会を設置し、我が国産業の近代化に大きく貢献した『近代化産業遺産』について地域史、産業史を軸としたストーリーを取りまとめるべく検討を重ねて」、認定したものである。「地域史、産業史を軸としたストーリー」とは何のことか良く分からない。地域活性化のためであるが、果して地域活性に役に立っているのだろうか。別に文化庁が認定する「近代化遺産」というものがあり、これと重複するものもあって紛らわしい。富岡製糸場はこの両方に認定されている。
     養蚕は近代日本の重要な産業である。江戸時代には上信越からの物資は利根川と江戸川を使って江戸に運ばれた。横浜が開港して絹が重要な外貨獲得商品になると、横浜へ運ぶ手だてが必要になったが、この区間は舟運が利用できない。鉄道開通以前の明治初年には、前橋から横浜まで生糸を荷車に積んで三日かけて輸送したという。鉄道が開通すると、両毛線や上信電鉄を使って高崎に集積された生糸や織物は、八高線でいったん八王子に集められ、横浜線を経由して横浜港まで輸送されるようになった。これが日本のシルクロードである。
     「篤志家って言ってもいんでしょうけど、結局自分で儲けるためだったんじゃないですか。」ロダンは疑わしそうに言うが、そうではない。明治のこの時期、新技術の研究や地域への普及に燃える篤志家は随分多く存在し、学習活動は各地で盛んに組織化された。富国強兵という国家政策に沿ったものではあるが、何よりも我が郷土を豊かにしたいと願った人が大勢いたのである。
     木村九蔵とはこんな人物である。「埼玉ゆかりの偉人データベース」から引いてみる。

     養蚕改良家。弘化二年(一八四五)、神川町に隣接する群馬県藤岡市に生まれる。幼名を高山巳之助という。慶応三年(一八六七)二三歳の時に、現在は神川町の一部である旧新宿村の木村勝五郎の後継者となり、姓名も木村九蔵と改め独立農家となる。その後養蚕業の改良に努め、当時の画期的な飼育法である「温暖飼育法」を発表して大きな評価を得る。明治十年養蚕業の改良に努め養蚕改良競進組を組織し、その後明治十七年競進組を競進社と改める。明治十八年蚕業に尽くした功績により、西郷従道農務卿から功労賞を授与される。明治二十二年明治政府は、九蔵を蚕糸使節としてパリ万国博覧会に派遣。その後九蔵は、蚕種保護を指導、正常な孵化には蚕種貯蔵庫の必要性を訴え本庄町(現本庄市)に日本初の蚕種貯蔵庫を設立。
     http://www.pref.saitama.lg.jp/site/ijindatabase/syosai-99.html

     この競進社の伝習所で学んだ者が全国の養蚕地に戻って技術を伝えていく。養蚕教師は時代の花形でもあった。この記事だけだと埼玉県のお国自慢かも知れないので、別の記事も探してみた。厚木市のホームページである。

     明治二十七 年、競進社々員総数は九千名、伝習所の生徒が五百七十 名、教授員二百六十名でした。小林升の名もそこにあります。明治三十五 年には、海外にまで広がった社員総数が二万千七百六十八名にもなり、目覚しい発展をみせました。
     http://www.city.atsugi.kanagawa.jp/shiminbenri/kosodatekyoiku/bunkazai/tenji/kako/p004451_d/fil/0082_016050_6.pdf

     ここに記されている小林升は神奈川県愛甲郡荻野村のひとである。競進社で学んで厚木の養蚕教師として活躍した後、荻野村村長になる。間違いなく、日本の養蚕技術伝習の中心だったことが納得できる。
     道に戻ると空き地には女郎花やコスモスが咲いている。長かった残暑も漸く落ち着き、多少は秋の気配が漂ってきた。
     次は東光山玉蓮寺(日蓮宗)だ。本庄市児玉町児玉二〇三。幅一間もない狭い門柱には、右に「現世安穏 東光山」、左に「後世善処 玉蓮寺」とある。境内に入ると「これが藤袴だね」と中将が教えてくれる。弘安九年(一二八六)、児玉六郎時国の開基になり、境内は時国の館跡でもある。本堂の前に黒御影の碑が建っていた。

    玉蓮寺の沿革 文永八年(一二七一)十月十三日日蓮聖人は鎌倉より佐渡ヶ島御流罪の道すがら当地児玉党の領主児玉六右門尉藤原時国公に乞われて館に泊まり正しい教えの要法を御示しになった同十一年三月十七日御赦免の折も一泊され時国公は法悦を悟り大聖人の御弟子となり東京都下久米川まで御送りいたし大聖人の仰せにしたがい姓を久米と改め御館後に建立されたのが当山である東の道路が旧鎌倉街道です。

     時国については児玉党の系図をみても分からない。「児玉党ってどういうのだい。」「武蔵七党のひとつ。坂東には武士団が割拠してたんです。」「武士団の発生って、清盛の頃かい。」もっと前である。発生した中小武士団は自己の勢力を守るために、源氏や平氏の消長を窺いながら、どちらかの権威を利用した。勿論、利用した積りで利用され、滅びて行った武士団も多い。どれだけの地方的中小武士団を傘下に収められるかが、源平両氏にとっても鍵であった。
     但し武士団の発生とその性格規定については、戦後史学で論争が続いていて簡単ではない。私が学生の頃には、石母田正『中世的世界の形成』以来の、武士団は在地領主が武装化して発生したという説が一般的だった。ところが最近では、武士という職能(いわば貴族の傭兵)から発生したとする説や国衙軍制論などもあり、この辺は専門的な議論になってしまうので、今の私にはお手上げだ。
     「党」は同族的な結合組織なので、規模はそれ程大きくはない。合従連衡を繰り返し、あるいはより大きな組織の蔭に入って勢力の維持を図る。武蔵には桓武平氏良文流の秩父氏が勢力を奮っていたから、七党も概ねその支配下に入る。伊勢平氏(清盛に続く流れ)は坂東平氏の庶流で西国に移って力を伸ばしたから、東国の平氏が清盛流にそのまま繋がるというものでもない。東国に勢力を張ったのは河内源氏(頼朝に続く)の方である。頼義、義家の奥州戦争(前九年、後三年)には坂東武士が多く参戦した。ウィキペデイア「武蔵七党」を引いてみる。

     武蔵七党は、平安時代後期から鎌倉時代・室町時代にかけて、武蔵国を中心として下野、上野、相模といった近隣諸国にまで勢力を伸ばしていた同族的武士団の総称である。
     横山党、児玉党、猪俣党、村山党、野与党、丹党、西党、綴党、私市党などが知られているが、鎌倉時代末期に成立した『吾妻鏡』には「武蔵七党」との表現がないことから南北朝時代以降の呼び方と考えられており、数え方も文献により異なり一定していない。
     武蔵国は駿馬の産地であり、多くの牧が設けられていた。その管理者の中から、多くの中小武士団が生まれた。武蔵国の中小武士団は、朝廷や軍事貴族、それらと結びつく秩父氏の河越氏や畠山氏など在地の有力武士に動員を掛けられた。保元の乱や平治の乱、治承・寿永の乱(源平合戦)では、多くの坂東武者が活躍した。
     各党は婚姻による血族で、社会的・軍事的集団として機能していたといわれる。各領地も離れており、具体的にどの程度の結束力であったかまでは不明である。

     児玉党は武蔵七党の中では最大の規模を誇った。もともとは阿久原牧(現・神川町)の別当職を足掛かりとして力を蓄えてきたようだ。阿久原牧は勅旨牧である。つまり中央への貢馬の義務があるのだが、おそらく承平天慶の争乱を経て、十世紀末から十一世紀初めの頃には貢馬の制は廃れていったと思われる。

     『延喜式』によれば、勅旨牧は信濃(十六ヶ所)・甲斐(穂坂牧、真衣野牧、柏前牧の三ヶ所)・上野(九ヶ所)・武蔵(石川牧・小川牧・由比牧・立野牧の四ヶ所)の計四ヶ国に設置され、前二ヶ国は左馬寮、後二ヶ国は右馬寮の管轄下であった。なお、承平年間(九三一~九三八)には武蔵国で二ヶ所(阿久原牧、小野牧)が増設されている。なお、追加された二牧は宇多院・陽成院の所持していた牧が勅旨牧に編入されたと言われている。(ウィキペディアより)

     伝承によれば、藤原伊周の家司であった有道惟能が阿久原牧の別当として武蔵に下向し、その息子である有道惟行(児玉惟行)がそのまま土着して豪族化した。この惟行が児玉党の祖とされる。神川町下阿久原にある有氏神社は、惟行を祀ったものとされる。
     本堂も鐘楼も、三つ並んでいる堂もかなり古い。鐘楼の壁面の朱や腰板の黒はすっかり色褪せてしまっていて、手入れが全くなされていない。地震で何ともなかったのが不思議なほどだ。

     鐘楼の壁褪せにけり秋彼岸  蜻蛉

     八幡神社とは地続きになっているのでそちらに向かう。巨大な石碑が横倒しにしてあるのはどういう訳だろう。地震で倒壊したものか。緑泥片岩のように見えるが、近隣の産地を考えれば三波石かも知れない。八幡との境に一輪咲いている彼岸花を見つけた。
     八幡宮は正式には東石清水八幡宮と言う。向拝や木鼻の彫刻が見事だ。

    埼玉県本庄市児玉町白鳩峯に鎮ります八幡神社の御祭神は譽田別尊(応神天皇)、比売大神(応神天皇妃)、息長帯姫命(神功皇后)の三柱に座せり。
    今謹みて御鎮座の年月及びその由緒を按するに人皇七十代後冷泉天皇の永承六辛卯年に源義家父鎮守府将軍頼義に従い奥賊安部頼時征伐の途次当所に師を駐め斎場を築き石清水八幡宮を遥拝し戦捷を祈願せしが其後十三年を経て康平六葵卯年(一〇六三)に至り奥州平討の功を奏し凱旋の際頼義は八幡宮を鎌倉に建立し義家は当社を造営し男山八幡宮(京都)の御分霊を移し神田を若干寄進し社頭を東石清水白鳩峯と称せり。
    其の後各地の武将守護神として尊崇し児玉党を初め地方の人々は皆鎮守氏神として奉祀しければ同党の一族各地に繁営するに従い当社の基礎暫漸く確立し延徳年中に至りては既に地方数里に渡りて崇敬者非常に多かりき此の時に当り夏目豊後守定基当地方一円を領有し雉岡城を築くや能く領民の意向を察知し当社の由緒を考え八幡山領の総鎮守となし社殿の御改造を営み境内末社を建立し諸般の設備を整え社領を寄進し厚く崇敬しければ当社の規模大いに拡張せられたり。

     現在の社殿は時国十五代の裔を名乗る久米六右衛門の発起で、享保七年(一七二二)に再建されたものである。「建物の彫刻は江戸の彫刻師の手によるもので、緻密な彫に極彩色がほどこされており、特に本殿の左右及び裏の三面には唐様の人物や花鳥が彫刻され、その華麗さは県下でも稀な社殿として有名」とのことだ。
     青銅の鳥居の前で隊長が立ち止まる。青銅製の鳥居は一般には余り見かけない。私が最近で覚えているのは平河天神だ。かつてはもっとあった可能性があるが、戦中の金属供出で失われたのかも知れない。江ノ島や桑名の春日神社のものが有名らしい。
     「青銅は銅とスズの合金なんだ。十円玉もそうだよ。」「十円玉は黄色ですよ。」あるいは赤銅色ではないか、青銅のイメージとはまるで違う。「違うの。スズの含有量が少ないとそうなる。」そうだったか。
     私が青銅にイメージしていた青い色は、どうやら緑青のせいらしい。ウィキペディアを見ると、「青銅は大気中で徐々に酸化されて表面に炭酸塩を生じ緑青となる。そのため、年月を経た青銅器はくすんだ青緑色、つまり前述の青銅色になる」と書いてある。
     「銅と亜鉛を混ぜると黄銅、真鍮だよ。これは五円玉。」序に調べると、五十円玉や百円玉は銅とニッケルの合金(白銅)である。こういう基礎的なことを私は何も知らない。
     この鳥居は下野国佐野の鋳物師の井上治兵衛藤原重治と井上太郎左衛門重友によって鋳造された。「佐野は鋳物で有名だよ」と小町が注意を促してくれる。佐野天明(テンミョウ)鋳物」と言われるようだ。

    平安時代に平将門を滅ぼした藤原秀郷が河内(大阪)から五人の鋳物師をこの地に移住させ、軍器の製造にあたらせたのが始まりといわれ一千年余の歴史を有しています。
    室町時代茶の湯の流行と相まって天明の茶釜は、九州の芦屋釜とともに「西の芦屋、東の天明」として天下にその名を知られました。http://www.tochigiji.or.jp/2791.html

     河内鋳物師は日本で最も古く、そして最も先進的な技術を持っていた。ところで鋳物師を皆はイモノシと呼ぶ。現代ではそれが一般的かも知れないが、イモジと呼ぶのが正しい。「イボ痔と間違えそうだな。」もとは山師と同様、全国を漂泊した「道々の者」「道々の輩」である。

    ・・・・漁労民―海民、狩猟・採集民―山民、さらに芸能民、呪術者、宗教者、商工民等が、山野河海で活動し、道を通り、市で交易活動を展開する限りにおいて、彼らは漂泊民、遍歴民として姿を現すが、その根拠地においては若干の農業に携わる場合が多かった。釣糸を垂れ、網を引く海人、や斧を持つ山人、遊行女婦(うかれめ)や乞食人、山林に入り、道路を遊行する聖(ひじり)、さらに時代を下れば廻船人、塩売・薬売から鋳物師(いもじ)にいたる商工民、馬借・車借などの交通業者、遊女・傀儡(くぐつ)等の芸能民などは、みなそうした人々であり、十一世紀に入れば,これらの人々を〈道々の輩〉(道々の者)として一括する見方も現れてくる。(『世界大百科事典』「漂泊の民」より)

     やがて遍歴の職人たちを戦国大名が囲い込んで城下に定着させる。佐野の鋳物師も、慶長七年(一六〇二)に始まる佐野信吉の城下町建設に当たって再編成された。
     宝暦六年(一七五六)に建てられた隋身門を潜って外に出る。八幡正面の道が鎌倉街道になる。さっきの玉蓮寺の東を通っていたのが鎌倉街道上道で、ここはその支線の上杉道と呼ばれた道のようだ。人が住まなくなってもう随分経ったような靴屋が赤錆びた看板を晒していた。
     八幡神社の駐車場と玉蔵寺(臨済宗妙心寺派)の参道との間に、石垣を組んで高札場を移築復元した跡がある。

    この高札場は児玉村の高札場で、従来は連雀町と本児玉(本町)の境あたりの街道上にあったが、交通の障害となったため、現在の八幡神社北西隅に移築したものである。
    この高札場は屋根が銅板葺きの切妻形式で、高さは三メートルある。材質は杉材で、柱は三本。これに高札四枚を掛けたカギが残っている。これを囲んで高さ約一メートルの駒寄せを、立ちめぐらしている。

     高札場があるからには、かつては賑わった街道だろうが、その面影は全く感じられない。人が歩いていないのである。「この辺から連雀町って言われたんだ。」隊長の言葉で街道を渡ると、「連雀町」の謂われを書いた立て札が建っていた。「三鷹の連雀町しか思いつかない」とロダンは首を捻る。

    この付近は鎌倉街道沿いで連雀町という商人町でした。連雀とは「連尺」とも書き、長方形の木枠を縄などで背当てを編んでつくった「背負子」を連雀と言います。この背負子を担いだ連雀商人たちが集まり八幡神社を中心に定期的に集まり「市」を開いていました。

     「それなら全国にありそうですね。」川越の連雀町には熊野神社がある。やはりそこに商人が集まって市を開いたのだろう。三鷹の連雀町は明暦の大火の被害にあって、神田連雀町(現・神田須田町、淡路町付近)から移住した者によって作られた。城下町を探せばいくらでもありそうだ。
     立札の脇の家の窓ガラスには、「連雀町の昔ばなし」という印刷物が数枚貼り出してある。中に、「キリシタン嘱託」という高札の例があった。「嘱託ってなんだい。今言うのと同じ意味か。」ドクトルに訊かれて答えられないのが悔しい。日本切支丹史研究の権威であった海老沢有道先生に古文書を習ったこともあったのに。きちんと読んでみよう。活字化しているから誰でも読める。

        定 きりしたん宗門ハ累年御禁制たり自然不審のものこれあらハ申出ヘシ御ほうびとして
     ばてれんの訴人   銀五百枚
     いるまんの訴人   銀三百枚
     立ちかえり訴人   同断
     同宿并宗門の訴人  銀百枚
    右之通下さるヘシたとひ同宿宗門之内たりといふとも申出る品により銀五百枚下さるヘシかくし置他所よりあらハるゝにおいてハ其所の名主五人組迄一類共に罪科におこなハるへき者也
     正徳元年五月年             奉行

     「密告の奨励だネ。」大槻文彦の『言海』で引けば、「嘱託」(ゾクタク)は「頼ミ委ヌルコト」であるから、意味は現代の「委嘱」あるいは「委託」に近いだろうか。キリシタン密告を民間に「頼ミ委ヌル」のである。そしてこの訴人褒賞金を嘱託銀(ソクタクギン)と言う。
     銀五百枚はどれほどの価値だったか。ウィキペディア「包金銀」によれば、恩賞や贈答用に銀四十三匁を一枚とする。銀六十匁を一両とすれば、三百五十八両となるか。庶民にとっては莫大な金額である。
     「イルマンって何ですか。」バテレン(伴天連)はパードレ(司祭)の訛りで、教会または地区に一人しかいない。イルマンは平の修道士でバテレンを補佐する。

      秋桜や伴天連を売る高札場  蜻蛉

     「そこのパンが旨いんだ。」「マロンだよ。」赤い屋根の子供が喜びそうな店だが、特にそこに寄るわけでもない。住宅地に入ると、郵便局の向かいに配水塔が建っていた。本庄市児玉町児玉三二三。ドーム型の塔で、登録有形文化財である。ずいぶん立派な「児玉町旧配水塔」の説明看板が立っている。「新しいね。平成二十四年一月。なんだ、今年じゃないの。」小町によれば、本庄市が児玉市と合併して以来、歴史的記念物があまりにも多すぎて、こうした案内板を立てるにも順番待ちがあると言う。
     昭和三年着工、六年に竣工した配水塔である。説明によれば、この地は「扇状地地形のため生活用水が潤沢ではなく、近代水道の敷設は永年の悲願であった。」と書いてある。「この辺が扇状地ですか。武蔵野台地全体が扇状地と言えば言えるけど」とロダンは不審な顔をする。高さ十七・七メートルあり、五千人に給水するのも目的とした。
     「練馬にもあるね。」「この間見たじゃないですか。」「弾丸の痕があるヤツよね。」あれは練馬だったかな。調べてみると、空襲の弾丸痕のあるのは中野区江古田の荒玉水道野方給水所である。今年の四月、新井薬師や哲学堂を歩いた時に見た。練馬なら上石神井にある。
     「ヤオコーでトイレ休憩をしましょう。」「ドクトルはそこで弁当買えば良いよ。」この頃ヤオコーは各地にずいぶん展開している。我が家の近くにも出来た。「小川町が本社だったのに、川越に移っちゃったんだよね。」中将はなぜか悔しそうに言う。「超優良企業なんだよ。一部上場もしたしね。」中将は詳しい。ここからも配水塔の裏側が良く見える。

     次は天龍寺(曹洞宗)。児玉三十三霊場第七番札所。本庄市児玉町金屋一四二。大きな鐘楼門の一階部分には仁王が立つ。左右の金剛力士はそれほど古くなさそうだが、今風ではなくちゃんとしたものだ。銅鐘は高さ一・三五メートル、外周の口径七十六センチ。宝永八年(一七一一)、金屋の鋳物師によって鋳造された。鋳物匠工は、倉林太左衛門金貞と同茂左衛門金珍である。
     「ここにも鋳物師がいた。」金屋という地名を見れば、鋳物師が集まった地域だと分かる。かつては金屋村である。全国各地に金屋の地名があって、その殆どが鋳物師に関係している。少し南の神川には金鑚神社があるから、御室ケ嶽で採掘した銅や、神流川の砂鉄を精錬加工する集団が集まったのだろう。児玉党の力もこれを背景にしていたと考えられる。兵(つわもの)の道は弓馬の道である。既に牧を所有して馬は確保してある。これに鋳物師が加われば武器生産に欠けることがない。
     「このお寺はエライね。」小町が感心するのは、無縁になった墓石を塔のように積み上げ、施餓鬼会をしているからである。こういう風に無縁仏を綺麗に積み上げ、三界萬霊塔としている寺は多い。箱型の六地蔵が並んでいる。青面金剛の庚申塔が立っているので写真を撮っていると、「講釈師がいるじゃない」と声が掛った。残念ながら講釈師つまり邪鬼はいなかった。合掌六手、日月二鶏に三猿。
     ところで、金屋村は秩父困民党が鎮台兵、警官隊と銃撃戦を繰り広げた所であった。明治十七年(一八八四)十一月四日、皆野の本陣が崩壊した後、本庄方面へ転戦を図った部隊もこの銃撃戦で壊滅状態になった。秩父事件中、最大の激戦だったとも言われる。残存の一部が上州から信州へと転戦したが、十一月九日の八ヶ岳山麓での戦いの敗北で組織的な抵抗は終わった。

    明治十七年十一月四日夜、風布村の大野苗吉と思われる幹部が率いた一隊が本野上から出牛峠を越 え、秩父新道を通って本庄方面に展開しようと進軍していた。ちょうどそのころ東京鎮台兵の一隊も高崎線本庄駅から児玉・八幡山方面に進み、児玉郡金屋村にさしかかったところで困民軍一隊と遭遇し、銃撃戦となった。午後十一時三十分頃と言われている。苗吉と思われる大将が「進め進め」と号令し突撃を試みるも、鎮台兵の銃撃により戦死したと言われている。この戦闘は極めて激しい白兵戦だった模様で、十名以上の死傷者を出して終わった。(秩父事件研究顕彰協議会
    http://www.chichibujiken.org/folder5/post.html)

     大野苗吉は、「乍恐天朝様に敵対スルカラ加勢シロ」と布告を発した人物だ。秩父事件の重要な舞台なのに、それらしい説明はこの辺のどこにも見当たらない。どうやら円通寺(児玉町金屋八四)に慰霊碑が建っているらしい。地図で確認すると天龍寺からはほぼ南に向かって、直線距離で四百メートル程のところにある。

     「この花を知っているかい。」隊長が私たちを試そうとしている。何度も聞いたことがあるのに思い出せない。「マルバルコウソウだよ。」そうだった。丸葉縷紅草。ヒルガオ科サツマイモ属である。アサガオのような形の小さな濃い朱色の花で、直径は一・五センチ程度だ。「どこが丸葉なんだい。四角じゃないの。」ドクトルは花の形を見て不思議そうに質問する。ルコウソウは花弁に切れ込みがあって星形になるのだが、マルバのほうは切れ込みが浅い。
     しかし本当の区別は葉を見る必要がある。ルコウソウの葉は細くて羽根のような形をしているに対し、マルバルコウソウの方はハートのような形なのだ。これがマルバの由来だろう。
     畑の中を広い道が通るのは国道四六二号線だ。長野県佐久市から群馬県伊勢崎市に至る道である。歩く人の姿は見えないし、車もそれほど多くない。神社があるのに隊長は寄るそぶりも見せないから鳥居の写真だけ撮る。白髭神社だ。道端の所々に彼岸花が咲いている。
     その先の金屋小学校のグランドの外の角に、丸石を積んでコンクリートで台を作り、石祠を祭ってある。正体は不明だ。道路端とはいえ、これだけ綺麗にしているのだから、何らかの説明が欲しい。グラウンドではサッカーの試合が始まるところだろうか。ベンチに、揃いの黒のTシャツを着た母親らしい二人が座って眺めている。
     左手には倉林医院(倉林は金屋では古い名家の一族である)、その向こうの林の奥に埼玉県立児玉白楊高校が見える。そこを通り過ぎて児玉文化会館セルディに入る。本庄市児玉町金屋七二八番二号。多目的ホール、会議室、図書館分館を一緒にした建物であるが、セルディとは何のことか。やっと調べた結果がこうである。

    「セルディ」は児玉町総合文化会館の愛称です。セルフ(自分自身)の「セル」と スタディ(学習)の「ディ」を組み合わせた造語です。
    http://www004.upp.so-net.ne.jp/kijigaoka/seldy.htm

     地元の人には申し訳ないが、こういう造語は嫌いだ。この言葉からセルフ・スタディを連想することはあり得ない。
     玄関ホールに入ると、塙保己一の座像を載せた台の前に、「塙先生のマンガ本が発刊」という横長のポスターが立て掛けられていた。「全国の書店で好評発売中」であるが、ホントかね。『マンガ塙保己一』である。「面白いよ、分かりやすいんだ」と小町も中将も言う。
     原作は花井泰子の『眼聴耳視 塙保己一の生涯』(柏プラーノ)で、しいやみつのり(椎屋光則)がマンガ化したものだ。編集製作協力は岩崎書店、発行はストーク、発売は星雲社となると、図書館で目録を作るのに苦労する。花井泰子にはこれを含めて六冊の著書がある。椎屋光則はこの手の学習マンガを中心とする作家のようだ。
     ストークは自費出版を請け負う会社だ。書店での流通を希望するなら、ストーク自体は取次の取引口座を持っていないので、星雲社を窓口にして扱って貰う。製作流通にかかわる費用はすべて著者持ちで、更に一割の手数料がかかる。
     とても運が良い場合を想定して、取次が引き受けて書店に配本してくれたとする。更に運が良くて即返品されずに書店の店頭に並び(書店の限られたスペースで自費出版物が展示される機会は少ない)、万が一にも売れた場合、六ヶ月後に定価の六九パーセントが手に入ることになっている。但し新刊委託の期限は通常三カ月で、売れ残ったものは全て書店から取次に返品され、最終的には出版社(この場合は著者)に戻されてしまう。
     隊長が窓口でパンフレットを貰おうと頼む。「児玉郡市みどころマップ」というものだ。「先日一部貰ったんですが、七人いるものですから。」係の男はあちこち探した挙句、「どこで貰ったんですか」と逆に訊いてくる。「こちらです。」漸くなんとか探し出してくれた。裏面に大きな地図が載っているので便利なのだ。
     隊長はこのホールで食事をする積りだったが、屋内はなんだか蒸し暑くて、今日は外の方が気持良い。「さっきの東屋にしましょう。」「そうだね。」国道から入ったすぐのところに東屋があったのだ。
     小町は生姜と菊芋を粕漬けにしたものを出してくれる。菊芋は芋というよりレンコンのような食感で美味い。イモとは言ってもキク科ヒマワリ属である。生姜も良い。種を取り除いた乾燥梅干しも美味い。「山芋が採れたんだよ。」「随分掘ったでしょう。」「零余子は毎年採って食べてたんだけどね。初めて掘ってみたの。」自分の家で山芋掘りをするとは、どういう家であろうか。小町の家は山林を持っているとしか思えない。
     ゆっくり休憩して歩き出すと、道路に木の実が落ちているのに気付いた。「なんだい。」これは私でも分かる。棗である。「その木だね。」かなり高い枝に手を伸ばす。「アッ、落ちちゃった。」なんとか少し赤くなった実を取って口にする。

      手を伸ばし爪先立つや棗の実  蜻蛉

     両側に田圃が広がる中を北に向かう。昨夜の雨に打たれたのだろう。折角実った稲が大量に横に倒れているのが気の毒だ。こういうのはもうダメになるのだろうか。「手で刈るんだよ。機械じゃできないからね。」既に刈り取りが終わって稲架(ハザ)にかけた一画もある。
     隊長は下見の時、かんかん照りの中を一人で歩いて疲労困憊したと言う。今日は暑さがそれ程でもないことに加えて、一人じゃないというのが効いている。「こうやってさ、話しながらだと疲れないよね。」
     二キロ近く歩いたのではないだろうか。左に曲がると塙保己一の生家があった。本庄市児玉町保木野三二五。入母屋造り茅葺二階建て。保己一が誕生してから江戸に出るまで住んだ家である。若干の増築と改修は施されているが、ほぼ当時のままを残しているようだ。保己一はこの荻野家に生まれた。父は宇兵衛、母はきよ。丙寅に生まれたため寅之助と名付けられた。七歳で失明し、十五歳で江戸に上る。
     家は国指定文化財になっている。「補修が大変だよね。補助が出るんだろうか。」貧乏人はこんなことを気にしてしまう。この家には荻野氏の子孫が今でも住んでいる。「静かにネ。」
     門脇に「史跡 塙保己一舊宅」の石柱が立っているが、「舊」の字が読めない人が多い。これは「旧」の本字である。上を外してみれば分かるのだが。保木野村に因んで最初は保木野一を名乗ったが、後に保己一に改めた。「そうか、さっき冗談で言ってたんだ。」
     歩いて二三分程の龍清寺に近づくと獣の臭いが漂ってきた。畜産関係の施設が近くにあるらしい。墓地を通り過ぎると、すぐそばに真新しい小さな公園があった。
     龍清寺墓地にあった墓が老朽化に伴って移され、塙保己一公園として整備されたのだ。「平成二十四年九月十二日。今週じゃないの。」もともと保己一が埋葬された安楽寺の墓地の土を分けて貰って作られた墓だ。その安楽寺は明治三十年に廃寺になったため、四谷の愛染院(新宿区若葉)に改葬された。
     ひときわ大きな石碑は「塙先生百年祭記念碑」である。とても読めないのでネットで調べたものを引いておく。

    贈正四位塙保己一先生は東西に例なき偉人なり この村よりかくの如き偉人を出しゝは真にこの村又この郡の名誉ともいふべし 大正十年はこの偉人の歿後一百年に当れるを以て郡の有志相謀りて遺蹟保存会を組織し記念祭典を行ひ尚あまねく全国の賛同を仰ぎて記念館を建設し又この碑をも立つることとなせり 今より後学生は教師に引率せられて次々に見学に来るなるべく遊覧者は遺物の展観を楽みとして遠近より尋ね寄るなるべし さても始めてこの地に遊ぶ人の感想や何如 偉人の出生地としては余りに平凡なりと失望する人もあらん この片田舎の目無し子がよくも学問に心を寄せしよと不思議に思ふ人もあらん 目明人も読得ぬ千万巻の古書を読みもし版にもして世を益せられしは人間業とも覚えずとて今更にその偉業に舌を巻くもあり 飛騨工ほめて造れる真木柱の一たび立てし志は動かず撓まず神明に盟ひし初一念を晩年に成遂げられし意志の強きをこれぞ成功の秘訣なるべきとて誉めたゝふるもあり 常人の堪ふべくもあらぬ困難辛苦に打克ちて世に不可能といふ語なきことを示されたるぞその一生なりける 非凡といひ超人間といふは当らずとてひたすらにその努力に感じ入るもあり 今の世にいふ学齢にも達せぬ齢にて早くも両眼を失ひながらかくも前代未聞の大業を成就せられしはこれすべて心眼の力にあらずや 心眼の光は齢とともにや加りけんと専ら頭脳の威力を歎美するもあり 或はその逸話を談じ或はその著述を数ふるなど十人十色音に聞きつる偉人の旧蹟を今まのあたりに蹈見ては古き記憶も新しく呼覚さるべく新しき印象は更に新しき感想をも生むなるべし こゝに一つの忘るべからざるものこそあれ そは当時の一盲少年を動かして他日の大学者たらしめし原動力なり この原動力が葦牙のごとく少年の胸に萌初めしは何時の事とも知らざれどもその成長は極めて速かにして忽ちに心の全部を占めはては炎とも燃上らんとせり 少年を江戸へ誘ひ去りて国学の門に導き入れしもこの力なり 身の不具者たるをも忘れて叢書刊行の大願を思ひ立たしめしもこの力なり 古史を研究し古典を整理し我が古代文化の闡明に勉めたる一盲書生は終始一貫この力に刺激せられ激励せられて五十余年一日も倦まず遂に一世の大家となりて不朽の功績を遺したるなり かの一心不乱や堅忍不抜や勢力絶倫や皆この力の発現活動に外ならざりしなり この力そは何ぞ 尊皇愛国の精神即ちこれなり この精神の一念凝づて文献学の方面に具体化せられたるは即ち先生の事業なり もしこの精神にして先生の心霊に触るゝことなかりせぱ先生は唯僻村の一盲人にて終りしなるべく世界人を驚かせる群書類従の編纂も印行ももとより行はれざりしなるべく百年後の今日の日本も現状の日本とは異なりしなるべし 今は昔この郡この村に盲目の少年ありけり その心眼の光は今も尚学界を照し世界を照せりと言はゞ人或は謎かとも思はん されどこは謎にもあらず空想にもあらずして疑ふべからざる史実なり この史実が未来永劫にわたりて国民に与ふる教訓と感化とは至大至高なるものあらん 来りてこの碑の下に立たんものは偉人の学徳を追懐するとともにこの偉人をはぐくみ出でたる国家的精神の更に偉大なることをも認むべきなり
     大正十一年九月十二日
       正三位勲一等子爵              澁澤榮一 題額
       東京帝国大学名誉教授従三位勲二等文学博士  芳賀矢一 撰
       御歌所寄人正五位勲四等           坂 正臣 書

    児玉町 伊藤仁作 刻
    (http://member.tokoha-u.ac.jp/~kuninaka/hanawa.htm)

     その隣に、玉垣で囲った敷地に溶岩で高さ一メートル程の小山を造り、墓碑を立ててある。「和学院殿心眼智光大居士」。「院殿大居士。スゴイ。」戒名を見るとロダンは必ずこう反応する。左に少し小さな文字で保己一の歌も彫られている。これも実際には読めないからネットで調べた。

     言の葉のおよばぬ身には目に見ぬも なかなかよしや雪のふじの嶺  保己一

     墓前の花入れには白とピンクのコスモスに女郎花が入れられ、小さなお茶のペットボトルが一本供えられている。三日前に供えたものだろう。
     以前にも言ったことがあるが、保己一の息子、次郎忠宝は伊藤俊輔(博文)、山尾庸三によって暗殺された。「どうして。」幕府に依頼されて外国人接待の先例を調査していることが、孝明天皇廃位のために廃帝の典故を調査しているとの噂になったのだ。「伊藤博文が自分でやった訳じゃないんでしょう。」自分でやったのだ。「随分長く犯人は分からなかったんだよね。」大正十年になって渋沢栄一が暴露した。その時点では既に二人とも故人である。渋沢は温故学会開館建設のために、芳賀矢一とともに力を尽くしている。
     山尾庸三については余りよく知らないが、「日本の工業の父」と呼ばれているらしい。次郎を暗殺した翌年、伊藤俊輔、井上馨などとともに密航してイギリスに渡った。明治四年には「盲唖学校ヲ創立セラレンコトヲ乞フノ書」という建白書を太政官に提出している。これは後に楽善院訓盲院(後・東京盲唖学校。現・筑波大学付属視覚特別支援学校、同聴覚支援学校)となって実現されるのだが、次郎を暗殺したことで罪の意識を感じていたのではあるまいか。
     東方山龍清寺(真言宗豊山派)。児玉町保木野三八七番。児玉三十三霊場二十七番札所になっている。巨大な榧の木には「飛龍の榧」の標注が立つ。斜めに大きく傾いて伸びているのが、天に向かって龍が飛ぶ姿だというのである。句碑があった。

     若葉して御めの雫ぬはゞや  芭蕉

     これは芭蕉が唐招提寺を参詣した際に鑑真和上を偲んだ句だが、保己一のことと思っても如何にも相応しい。境内を出る所で、ブロック塀補修記念の文字をロダンが発見して、「こういうのも記念するんですかネ」と首を捻る。「檀家の寄付でやってるからよ。」「そうか。」
     薄緑色のホウヅキのような実が生っているものはあった。「まだ色づいてないホウヅキだろう。」「違う。これはフウセンカズラ。」「ホウヅキじゃないのか。」なるほど、世来れば形が少し違うようだ。風船葛。ムクロジ科である。ちょっと行くと今度はホウヅキがあった。
     道端に青面金剛が立っているが、これにも講釈師の姿はない。児玉の人は邪鬼が嫌いなのだろうか。三猿の上に合掌六手の青面金剛が立つ。舟形石の表面はかなり摩耗していて、日月や鶏は判別できない。

     また田圃の中の一本道が続く。これも二キロ程になるだろう。暑い盛りにひとりで下見をしてくれた隊長はさぞ大変だっただろう。
     雉岡山浄眼寺(真言宗豊山派)。本庄市児玉町八幡山三七五。「眼に良いんだな。」「汚れたマナコが浄化される。」児玉第三十三霊場六番札所。一枚の石板に線刻された六地蔵は珍しい。私は初めてみる。「技術がこれしかなかったんじゃないの。」ドクトルは面白いことを言う。横長の大きな石に、蓮華に座った地蔵が六体彫られているのだ。石段を上ると山門が建つ。
     「シャネルだよ。」中将が笑うのは、山門の屋根の棟瓦に取り付けられた金色の寺紋である。私はシャネルのマークを知らなかったので調べてみたが、似ているようでちょっと違う。シャネルはCを重ねたものだが、これは輪を二つ組んだもので「輪違い紋」と呼ぶ。

     輪違い紋は、大和の長谷寺の寺紋として知られている。同寺の由来によれば、「天地は金剛界、胎蔵界の二界に分かれていて、生物は二界を右往左往して生きているという。金剛界とは智の世界で、胎蔵界とは理の世界とされ、衆生はそのいずれにも付かず離れず、泣いたり笑ったり怒ったり恨んだりしている。これを大乗遊戯相という。だが、仏はこの衆生をすべて救う。それが仏の慈悲だと。二つの輪が互いに組み合っているのは、不悟の衆生としっかり結んで、天地の調和のなかに組み込むことである」と説明されている。
     輪違い紋は文様として形状が美しいこと、図柄が連鎖し広がっていく目出度さ、加えて宗教的由来などが相俟って家紋として用いられるようになったようだ。
     http://www.harimaya.com/kamon/column/watigai.html

     長谷寺は豊山派の総本山である。それならば、これまで気がつかなかったが、豊山派の寺院は全てこの紋を掲げているのだろうか。台石の上に丸みを帯びた円柱を載せたのは「読経塔」であった。
     警察官殉難碑もある。「秩父事件でしょうかね」と言うロダンは鋭い。それに比べて私はなんと感度が鈍いことだろう。この時はまだ金屋の銃撃戦のことを知らなかったから、よく確認もしないままにしてしまった。
     次いで城跡の公園に入る。「雰囲気があそこに似てるよね。」「どこ。」「あそこ、どこだっけ。」「鉢形城だね。」

    雉岡城は通称八幡山城と呼ばれ、四~五郭で構築された平城です。戦国時代に山内上杉氏の居城として築かれました。その後、地形が狭いということで、山内上杉氏は上州平井城に移り、この城には家臣の夏目豊後守定基が入り、永禄年間には北条氏邦によって攻略され鉢形城の属城となったようです。天正十八年(一五九〇)の豊臣秀吉の小田原攻めの際に前田利家により落城しました。徳川時代には松平家清が居城していましたが慶長六年(一六〇一)に三河吉田城に移ると廃城になったと伝えています。城跡は西側が削平されていますが、空堀や土塁が多く残り往時の面影を伝えています。
    http://www.asahi-net.or.jp/~ab9t-ymh/kakuchi/kodama01/kijioka.html

     八幡山というのは、午前中に立ち寄った八幡神社がここにあったからだ。八幡は夏目定基によって現在地に移されたが、城山の名として残った。公園になっているのは南東の郭の部分だけで、市立児玉中学校が本丸と二の郭、県立児玉高校が三の郭の跡地に建っている。児玉党の城跡かと思っていたら、山内上杉氏であった。
     「山内上杉っていうのがいたんですか。」関東管領上杉氏宗家である。鎌倉山之内に館を持っていたことから山内(やまのうち)上杉と呼ばれた。もう一方は、太田道灌が家宰として仕えた扇谷(おうぎがやつ)上杉氏である。これも鎌倉扇谷に館があったからだ。中世の関東は、古河公方と両上杉氏の争いを軸として展開するのである。
     空濠跡に、何かの案内板を見つけてロダンが立ち止まる。「何があったんだい。」説明を読むと「夜泣き石」であった。

     昔 殿さまの夕餉に針が入っており 怒った奥方は側女小夜の仕業だと思い とりしらべもしないで お仕置き井戸に生きたまま沈めさせてしまいました
     そのとき お小夜のお腹には 生まれるばかりの赤ちゃんがいたそうです お小夜の死後 お城ではお乳がにじみ 飲み水も池の水も白く濁り 夜になると お小夜の泣き声が どこからともなく聞こえてきたそうです
     また 井戸からお小夜の棺桶を引き上げてみると 大きな石になったお小夜は 小さな子供石を抱いていたそうです

     問題の石はかなり深い濠の中に置かれているので良く見えない。「結局これって嫉妬でしょう。」ロダンの考えるように、夕餉の針は後から付けた言い訳であろうね。妊娠したことが怒りをかったのである。但し夜泣き石は全国各地に存在し、さまざまな伝承が残されている。中でも遠州掛川にある「小夜の中山の夜泣き石」が有名で、これもやはり身重の女性が殺され、その霊が石に乗り移って泣き声を上げるのだ。
     身も蓋もないことを言えば、こういう伝説には年代の記述が全くないのを注目して欲しい。奇妙な形の石を見て、それに相応しい物語を考えるのである。他国から旅の商人が持ちよった話を変形する場合もあるから、各地に似たような話が残ることも多い。ただ、石には霊が籠ると信じられていたのは間違いないようだ。
     その間に隊長は塙保己一記念館に入ってしまったので、急がなければならない。説明を頼んでいるのだ。但し三時一分の八高線に乗らなければならないので、それほど余裕がある訳でもない。駅まで十分程だと言うので、時間は二十分ちょっとだ。
     「塙保己一先生座像」に迎えられて建物に入る。取り敢えず十分ほどのビデオを見せて貰う。私たちは渋谷の温故学会(江戸歩き第三十一回)も、愛染院の墓(第十五回)にも行っている。保己一については随分詳しくなっている筈だと思ったが、ロダンもマリーも、どちらも見ていないのだった。つい最近では番町にあった和学講談所跡も通り過ぎた。「ありましたっけ。」「大妻通りにね。」番町で目あき盲に道を聞き。但し標識その他、それを記念するものは何もなくなっていたから気付かなかった人もいる。
     中将小町夫妻は地元の人だから勿論詳しい。塙保己一は偉人である。『群書類従』一二七三種五三〇巻六六六冊の版木を温故学会で見たときは感動した。四十年かけて完成したのは保己一の死の二年前、文政二年(一八一九)である。その後も『続群書類従』を計画し、息子の次郎忠宝や弟子に引き継がれ、更に明治以降、続群書類従刊行会が刊行した。
     公家や大名が秘蔵している写本を見せて貰うだけでも、相当な謝礼が必要であったろう。幕府の補助を得たとしても、持ち出しは多かった。

     『群書類従』編纂刊行における多額の借金は、ついに保己一の時代には返済できず、二代目忠宝が背負うこととなり、塙家の苦労は大変だった。
     さらに、明治維新の混乱期になると膨大な版木の維持管理は困難を極め、三代目忠韶は版木のすべてを浅草文庫に献納した。のちに、東京帝国大学の管理下となるが時代とともに所在場所は世間から忘れさられてしまった。
     しかし、明治四二年文部省構内の倉庫から偶然発見され、摺りたてを再開した。
     その後、愛染院(保己一墓所)に版木倉庫を建設し移したが、大正一二年関東大震災により倉庫が倒壊。版木は幸い消失からは免れた。
     その後、移転先を検討し、昭和二年皇室御料地であった現在地に会館を建設した。
     やがて、太平洋戦争の始まりと物不足に摺りたては中断、二〇年の空襲によって本会周辺は焼き尽くされたが、前理事長斎藤茂三郎らの必死の消火活動により版木は守られたのである。(温故学会HPより)

     貴重な文献が散逸されるのを恐れたのが収集刊行の主目的ではあるが、単にそれだけなら金さえあればなんとかなる。弟子の読み上げるのを保己一自身が聴いて、写本の異同を校訂して定本を確立したのがスゴイのである。これを暗記だけで成し遂げたということが、どれだけのものか。人間が出来る範囲をはるかに超えているではないか。保己一は偉人であると、何度言っても良い。
     二十五部に分けた内訳は次の通りだ。神祇部、帝王部、補任部、系譜部、伝部、 官職部、律令部、公事部、装束部、文筆部、消息部、和歌部、連歌部、物語部、日記部、紀行部、管弦部、蹴鞠部、鷹部、遊戯部、飲食部、合戦部、武家部、釈字部、雑部。保己一の志は、現在、東京大学史料編纂所として引き継がれている。
     「塙というのはどうして。」本来であれば実家の荻野姓を名乗るのが順当である。しかし荻野検校知一という有名な人物がいて、同名を名乗ることが出来なかった。荻野検校は保己一より十五歳年上になる。ウィキペディアから引いてみる。

     宝暦三年(一七五三年)に上洛し、前田流平曲を寺尾勾当に、波多野流平曲を河瀬検校に師事。明和二年(一七六五年)検校に登官。明和八年(一七七一年)、尾張第九代藩主・徳川宗睦に招かれて名古屋に移住し平曲普及に貢献、伝承が途絶える危機だった平曲を救う。安永五年(一七七六年)平曲譜本『平家正節』を編纂、完成させ貴重な遺産を残した。

     そのため、師の雨富須賀一検校の本姓である塙の名乗りを許された。保己一の死後、塙家は息子次郎忠宝の裔が跡をついで現在に至り、生家の荻野家は、保己一の弟卯右衛門が継ぎ、その系統が今に繋がっている。
     ところで須賀一検校も大変な人物である。この人がいなければ保己一は凡庸な按摩で終わっていただろう。

    雨富須賀一、本姓は塙氏。常陸国茨城郡市原村の人。宝暦中 江戸四谷に住む。検校たり。平生 慈恵を好む。
    塙保己一 年僅かに十三、其の門に入る。須賀一 其の奇才を愛し、誘導懇切 至らざる所なし。保己一 長ずるに及んで学を嗜む。然れども 多病にして意の如くならず。須賀一 之を慰めて曰く、人の業を成すは身体の健康に在り。汝 宜しく山河を跋渉して以て其の病を養ふべし。然る後に学を修むるも未だ晩からざるなりと。乃ち路費を与ふ。保己一 懽喜、装を促して出で、伊勢の大廟を拝し、六旬にして帰る。其の病 果して癒ゆ。是より苦学して殆ど寝食を忘る。然れども貧 殊に甚だし。須賀一 又諭して曰く、汝 有為の志を抱くと雖も、盲官卑きに居れば、財を獲る能はず。財を獲る能はずば終身轗軻、志を遂ぐること能はざらんと。更に百金を与へて盲官に拝せしむ。
    是より先、保己一 荻野氏を称せしが、是に於て須賀一の本姓を冒して塙氏と曰ふ。天明四年 須賀一 病に罹り、将に歿せんとするや、保己一を召して曰く、吾 曩(さき)に金を人に貸し、其の券 尚在り。今将に汝に与へんとすと。保己一 辞して受けず。深く其の恩を謝して曰く、児 少小より師の洪恩を受けて業を就すを得たり。願 已に足れり。児 又何をか望まんと。須賀一 既に歿して 保己一 追悼して已まざりしと云ふ。――『本朝盲人伝』http://amayo.fc2-rentalserver.com/5/56/ametomi_suga-i.html

     「位を一つ上るにも金が必要です。保己一の場合、その全てを師の雨富検校が出してくれました。大恩人ですよ」と説明してくれる人も力説する。「何しろ階級が七十三もあって、その都度、金がかかるんです。一度に千両を払って検校の位を買うこともできましたがね。」
     盲人の組織である当道座についても整理しておこう。室町時代、明石覚一検校が『平家物語』の定本をまとめて室町幕府に保護され、「座」を開いたことに始まる。仁明天皇第四皇子の人康(さねやす)親王(八三一~八七二)を当道の祖とするが、これは中世の諸職、道々の輩が権利(諸国往反の自由、課税免除等)を主張するために、職業の発生の根源を皇室に結び付けたものである。例えば木地師は自身の職の起原を惟喬親王に結び付けた。

     江戸時代には、江戸幕府から公認され、寺社奉行の管理下におかれた。
     その本部は「職屋敷(邸)」と呼ばれ、京都の佛光寺近くにあり、長として惣検校が選出され、当道を統括した。一時は江戸にも関東惣検校が置かれ、その本部は「惣禄屋敷」と呼ばれ、関八州を統括した。座中の官位(盲官と呼ばれる)は、最高位の検校から順に、別当、勾当、座頭と呼ばれていたが、それぞれは更に細分化されており合計七十三個の位があった。当道座に入座し三絃、鍼灸等業績を挙げれば、それらの位は順次与えられたが、昇格には非常に長い年月を要し、実際にはそのままで検校まで進むことは容易ではなかったため、幕府は当道座がこれらの盲官位を金銀で売ることを公認した。最下位から検校まで七十三の階級を順次すべて金銀で購入するには総額七百十九両を要したという。 官位であるために、検校ともなれば社会的地位はかなり高く、将軍への拝謁も許された。さらに、最高位の長である惣検校となると大名と同様の権威と格式を持っていた。
     江戸時代においては、当道座は内部に対しては、盲人の職業訓練など互助的な性質を持っていたが、一方では、座法による独自の裁判権を持ち、盲人社会の秩序維持と支配を確立していた。位の上下による序列は非常に厳しかったと伝えられる。外部に対しては、平曲(平家琵琶)及び三曲(箏、地歌三味線、胡弓)、あるいは鍼灸、按摩などの職種を独占していた。これは、江戸幕府の盲人に対する福祉制度としてとらえられていた。特に平曲は鎌倉時代以来、当道座の表芸であったが、江戸時代には次第に沈静化し、代わって地歌、箏曲を専門とする者が一般化した。
     このような音楽家や鍼灸医の他、学者や棋士として身を立てる者もおり、また早期の昇官に必要な金銀を得させやすくするために元禄以降、金銭貸付業としても高い金利が特別に許され、貧しい御家人や旗本をはじめ町人たちからも暴利を得ていた検校、勾当もおり、十八世紀後半には社会問題化したこともある。このため、時代劇などでは検校はあくどい金貸し業者として描かれていることがある。
     しかし総じて、このような盲人への保護政策により三味線音楽や近世箏曲、胡弓楽の成立発展、管鍼法の確立など、江戸時代の音楽や鍼灸医学の発展が促進されたことは重要である。(ウィキペディア「当道座」より)

     最初は座頭の最も下の位である「半内掛」から始まる。そして座頭十八階の内、下から四階級目の才敷(彩色衆分)になって初めて座頭と称すことを許される。更にその上に、勾当(三十五階)、別当(十階)、権検校(四階)と続く。ここまで総額七百十九両也。そして、検校も下は六老から一老(惣検校)まで六階あった。
     気が遠くなる世界だが、才と金さえあれば百姓の子でも最高位の惣検校に上り詰めることができたのだ。実際は様々な問題を抱えていただろうが、盲人に対する社会福祉制度として世界に冠たるものではあるまいか。惣検校になれば京都に住まなければならないのだが、群書類従の事業を幕府が認めて江戸居住が許された。
     「荻野吟子も恩恵に与ってます。」それは初耳であった。女医の先例がないという理由で、荻野銀子は医師免許試験の受験を許されなかった。『令義解』を調べて先例があることを知って交渉したお蔭で、漸く受験することができたというのである。これも『群書類従』に収録されていなければできなかった。埼玉県の三偉人と称される澁澤榮一、塙保己一、荻野吟子の全てが、何らかの繋がりをもっていたのである。
     「立原翠軒も関係しています」の声で、ロダンが俄然元気を出した。立原翠軒は水戸彰考館総裁であり、藤田幽谷と対立した人物である。大日本史編纂を巡る論争は単なる学問上の問題ではなく、政策論争に繋がったから、藤田派と立原派の対立は水戸藩に大きな亀裂を生んだ。しかしこの論争の中で藤田派が主張したことは、翠軒を追放するために出されたイチャモンにしか思えない。
     それはともかく、立原翠軒とどう関係していたか。寛政元年(一七八九)、立原翠軒の推薦によって、保己一は水戸藩から『大日本史』の校正を依頼されていたのだ。「最初は百姓出身の盲人とバカにしていた水戸人も、試みに提出させたものを見て舌を巻いたんですよ。」「それは知らなかったな。実は私も水戸人なんですけどね。」「そうですか。」

     そろそろ時間だ。もっと見ておきたいものはあったが仕方がない。この電車を逃せば一時間以上無駄になってしまうのだ。駅まではほぼ一本道だ。児玉駅入り口の交差点から駅前までは電線が地中に埋められている。
     駅に着いてロダンと小町の万歩計を参照すれば一万六千歩。十キロ程度だと思われる。今日は「里山ワンダリング」と言うより、児玉の歴史散策という趣であった。
     駅で中将・小町と駅で別れ、私たちは八高線高麗川行きに乗りこんだ。「どこにする。」「川越でしょうね。」八高線も東上線も、同じような恰好の乗客で酷く混んでいるが、ロダンは座席でウトウトしている。
     川越ならば当然いつものさくら水産である。ロダンははしゃぎ過ぎてビールのグラスを倒してしまう。「駄目だよ、慌てちゃ。」「先日は蜻蛉も零してたね。」そういうこともあった。二時間飲んで解散。

    蜻蛉