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    平成二十四年十一月二十四日(土) 横瀬 秩父巡礼道

    投稿:   佐藤 眞人 氏     2012.12.01

     旧暦十月十一日。昨日の雨はすっかりあがり、小春日和の穏やかな日になった。
     東上線を使うとかなり不便で運賃も嵩むので、八時十六分に的場駅で川越線に乗った。車内は空いていて、事前に隊長から送られた案内を開いて予習する。そうか、今日は札所巡りなのか。
     四十八分、東飯能駅に着く間際にリュックを背負いながら、何の気なしに隣の車両に目をやると、同じような格好をした女性がこちらをじっと見詰めている。私には男性的魅力があるから女性の視線を浴びる。一瞬バカなことを思ったが、シノッチであった。彼女は川越から乗って来ていた。
     西武秩父線は八時五十二分発である。「どっちから来るのかしら。」「こっちかな。」私の勘は全然違った。乗り込んでシノッチと二人で歓談しているところに、後ろの車両からイッチャンがシノッチを探してやって来た。「いる筈だと思ったからね。ダンディも一緒なの。ガラガラよ。」それではそちらに移ろうか。彼女たちは西武池袋線を経由して飯能で乗っていたのだ。
     車内は空いていて、大きなリュックの乗客がちらほら見える。斜め向かいに座っている若い女性が、セーターを出して着込んでは脱ぎ、帽子を被ったり脱いだり、手袋を取り出しては仕舞ったり、何度もリュックの口を開け閉めしている。おそらく彼と行く初めての登山で緊張しているのではないだろうか。
     単線だから所々で長い停車時間がある。吾野駅で停車していると、「西武線は昔はここまでしかなかった」とダンディが教えてくれる。「いつ頃のことですか。」「三、四十年前かな。私が若い頃にはまだここが終点でしたよ。」調べてみると昭和四十四年(一九六九)に、吾野駅を起点として西武秩父線が開通した。
     それ以前に秩父に来るためにはどういうルートを辿ったか。たまたま少し前に、青空文庫で露伴の紀行文を読んでいたので覚えていた。明治の頃、東京から秩父へ行くためには大きく分けて三つのルートがあった。

    径路は擱きていわず、東京より秩父に入るの大路は数条ありともいうべきか。一つは青梅線の鉄道によりて所沢に至り、それより飯能を過ぎ、白子より坂石に至るの路なり。これを我野(吾野)通りと称えて、高麗より秩父に入るの路とす。次には川越より小川にかかり、安戸に至るの路なり。これを川越通りと称え、比企より秩父に入るの路とす。中仙道熊谷より荒川に沿い寄居を経て矢那瀬に至るの路を中仙道通りと呼び、この路と川越通りを昔時は秩父へ入るの大路としたりと見ゆ。(幸田露伴『知々夫紀行』)

     所沢か寄居か熊谷で降りた後は、馬車か人力車に乗るか歩くしかない。明治三十一年(?)の露伴は熊谷を経由した。吾野通りを選べば正丸峠を越えなければならず、一般には余り使われなかっただろう。トンネルが掘られ西部秩父線が敷設されたから、こちらのルートが利用できる。
     九時四十分に横瀬に着いた。的場から横瀬まで六百八十円也。他に仲間がいないかと振り返ると、更に後ろの車両から降りて来たカズちゃんが見えた。可愛らしい帽子を被っている。
     改札を出て待合室に入ると隊長とイトはんが待っていた。今日は十時七分に到着する電車まで待つことになっている。この駅には二、三度来たことがある。駅舎はログハウス風の造りで、小さな観光案内所兼売店が隣接している。暇潰しに店内を眺め、舞茸や山菜を一緒に煮詰めたもの(五百二十五円)を見つけて買った。朝飯にぶっかけると旨いと思う。イトはんは予想通り饅頭を買う。ダンディは武甲正宗のワンカップと饅頭を買った。「昼に飲んでもいいしね。」私は正しい生活を維持するために、昼に飲むのはよそうと思う。戻って来た私が袋の中を見せると、最初は躊躇っていたカズちゃんも「私も大好きなの」と買いに走った。
     次の電車が到着して今日の参加者が確定した。隊長、ダンディ、古道マニア夫妻、イッチャン、シノッチ、マリー、カズちゃん、イトはん、伯爵夫人、蜻蛉の十一人である。男が三人しかいず、女性の方が多いのは珍しい。隊長が「横瀬町観光ガイド・よこぜあるきマップ」を配ってくれた。

     線路に沿って東南方面に歩き始めると、南の方に武甲山の削られた山肌がくっきりと見える。「あんなに削ったら山が小さくなっちゃうんじゃないかしら。」隊長によれば、かつては千三百メートルを超えていたが、今では千二百九十五メートルになっているらしい。三菱セメントの工場も見える。

    一九〇〇年(明治三三年)の測量では標高は一、三三六メートルを記録したが、山頂付近も採掘が進められたために三角点が移転させられ、一九七七年(昭和五二年)には標高一、二九五メートルとされた。二〇〇二年に改めて三角点周辺を調査したところ、三角点より西へ約二五メートル離れた地点で標高一、三〇四メートルが得られ、国土地理院はこれを武甲山の最高地点と改めた。そして、地図上では一、二九五メートルの三角点と最高地点一、三〇四メートルの両方を表示することとした。(ウィキペディアより)

     「登りに四時間、下りに二時間かかるよ。」それなら、この会には向かないだろう。畑の中の道に入り、「綺麗ね」とイトはんとマリーが頷き合っている。山の紅葉を見つめているのに、ダンディは、「おいしそうだな」とおかしなことを言う。「何、それ。」「大根ですよ。」すぐ左の農家の庭に大根が干してあったのだ。「イヤねえ。」古道マニアは普通の大根より長いのではないかと指摘する。そうかも知れない。

      掛大根巡礼道に朝日浴び  蜻蛉

     やや上りの道に入り、民家の塀際を見ながらイトはんが私を呼んで笑う。「カエルが蜻蛉に挨拶してるわよ。」なるほど、足を組んで手を広げた蛙の玩具が置かれていた。しかし蛙に挨拶されても嬉しくない。「こっちにもあるわよ。」今度はウサギの置物だ。この家の主人は特殊な趣味を持っている。
     大きな石が二つ置かれ、「巡礼古道道しるべ石」の立て札が立っていた。自然石に掘られて磨滅している文字を辛うじて読んでみると、左の石の「みぎ九番道」が分かった。右の石の方は判読できなかったが、「みぎ九番」と彫られているらしい。「心求・はまの道標石」と呼ばれるもので、二人の発願で元禄の頃に建立されたものだ。四十五基が確認されている。その他に別々の願主によるものを加えれば百三十の道標が残っていると言う。

    その多くには願主のほかに建立のために費用を用立てた施主の居住地・屋号・名前が刻まれているものです。施主の多くは江戸の商人で、寛延三(一七五〇)年には三月一日からの二〇日間に二万六千人以上の巡礼者が訪れるほどのにぎわいで、道標設置の要望も高かったのでしょう。(埼玉県歴史と民俗の博物館)
    http://www.saitama-rekimin.spec.ed.jp/?action=common_download_main&upload_id=633

     二十日で二万六千人とは、一日に千三百人である。これは驚くべき数字だ。三十四所、全長およそ百キロを三日で回ったとすれば、一日に三千九百人が百キロのコースのどこかを歩いているのである。これだけの人数を収容できる宿泊施設や飲食店が、江戸時代の秩父にあったとは到底思えない。とすれば大半は野宿したのである。飯はどうするか。「巡礼に御報謝」とは言っても、貧しい秩父の人が、この人数に食わせるだけの貯えがある筈がない。米持参で、野天で炊事したのだろうか。
     石灰岩の礫が敷き詰められた駐車場から、秩父三十四番札所第九番の明智寺に入る。山門も塀もない寺だ。明星山明智寺、臨済宗南禅寺派。横瀬町大字横瀬二一五七番地。建久二年(一一九一)の開創と伝えられる。
     境内の入口には桜がひっそりと咲いている。「十月桜だね。」私は十月桜と冬桜の区別がよく分かっていないが、白い花弁が清潔で、寒桜の緋色とはまた違った趣だ。
     文塚に這子(ぼうこ・ほうこ)が吊り下げられているのを見て、ここは以前に来たことがあるのを思い出した。隊長が「さるぼぼ」と言うのは、飛騨高山での呼び方だ。地方によっては「猿っこ」、「おさる」などとも呼ばれるらしい。赤ん坊を表現した人形で、伊豆稲取のつるし雛にも使われる。

     冬桜微かに揺れる吊り這子  蜻蛉

     カズちゃんの福島でも飛騨と同じように、赤ん坊を「ぼぼ」と呼ぶらしい。但し九州の人に「ぼぼ」と言っては誤解される恐れがあるから、宗匠の前では禁物だ。秋田弁では幼児を「ぼっこ」と呼ぶ。これは這子の転訛ではないだろうかと思い当った。

     巡りきてその名を聞けば明智寺心の月はくもらざるらん

     これは御詠歌である。信仰を易しく説いたものではあるが、鈴や鉦鼓を使う音楽でもある。つまり庶民の歌謡曲であった。線香の煙の籠る薄暗い部屋で、この陰々滅々たる御詠歌を合唱していると、昔の人は恍惚境に陥ったのだろうか。秋田では通夜を「お逮夜」と称し、その席上で西国三十三霊場の御詠歌を合唱する。これを補陀落(フダラク)と言う。もう歌える人も少なくなって、何度か聞いたが私は結局このメロディを覚えられない。宗派によっても曲調は違うかも知れない。今日は折角だから、訪れる札所の御詠歌を記録しておこうと思う。
     「禅宗の寺は珍しいじゃないですか。」「そうだね。」こういう感覚はダンディと共通する。巡礼遍路と言えば「同行二人」であり、弘法大師と共にあることだ。元々四国八十八所は弘法大師所縁の地を巡ることに始まった。だから稀に天台系や禅宗系も含まれるが、その殆どは真言宗の寺院である。
     西国三十三所は花山院(九六八~一〇〇八)が定めたことになっているから特に弘法大師には拘っていない。それでも真言宗が十七、天台宗が十一、その他五の構成になっている。坂東三十三所は実朝(一一九二~一二一九)が西国を模して定めたと伝えられ、真言宗十六、天台宗十一、その他六となる。花山院と実朝が本当なら、禅宗も含めて鎌倉仏教はまだ生まれてもいないし、仏教と言えば密教のことだったから当然のことである。勿論、後世になって宗旨を変えた寺院もあるだろうから、現在では真言宗、天台宗以外の寺もある。
     これらと比べると秩父はまるで違う。真言宗豊山派が僅かに三ヵ寺、曹洞宗が二十、臨済宗が十一(南禅寺派が八、建長寺派が三)で、禅宗寺院が圧倒しているのである。札所以外でも秩父は圧倒的に禅宗寺院で占められていて、宗派がこれほど偏っている地区は珍しいのではないか。もしかしたら秩父武士団と関係があるのかも知れない。
     秩父札所の成立については、下記を参考にしたい。

    ・・・・歴史的には室町時代中頃に成立したのが定説である。札所の最も古い資料は「長享二年(一四八八)秩父観音札所番付」(法性寺蔵)である。この番付では当山は三十一番であった。日本百観音霊場の編成は室町時代の末頃、関東では観音信仰が盛んで、しかも百観音成立の中心地であったため、秩父札所が進んで百観音に組み入れられることとなったようだ。それゆえ地方性を脱却したとされる。「大永五年(一五二五)西国三十三番・坂東三十三番・秩父三十四番の供養塔」長野佐久市岩尾城址や「天文五年(一五三六)西国坂東秩父百ヶ所順礼納札」(法雲寺蔵)がその成立を物語る。(西善寺ホームページhttp://www.saizen.or.jp/about/)

     「三十四番なのに九番ってどういうことですか。」イッチャンはこういうことには余り詳しくはないらしい。秩父霊場が三十四所あって、その中の九番目ということである。「合わせて百にするために、三十四番にしたんですよ。」ダンディの説明にもう少し補足してみよう。
     観音霊場が三十三所となっているのは、法華経「観世音菩薩普門品第二十五」(一般に観音経という)に、観音菩薩は三十三の姿に変化するとされているからだ。
     仏身、辟支仏身、声聞身、大梵王身、帝釈身、自在天身、大自在天身、天大将軍身、毘沙門身、小王身、長者身、居士身、宰官身、婆羅門身、比丘身、比丘尼身、優婆塞身、優婆夷身、人身、非人身、婦女身、童目天女身、童男身、童女身、天身、龍身、夜叉身、乾闥婆身、阿修羅身、迦樓羅身、緊那羅身、摩睺羅迦身、執金剛身。これで三十三になる。
     それはともあれ、西国三十三番札所、坂東三十三番札所は正にそれに基づいているのだが、それとは別に室町時代には百観音信仰というものも生まれていた。数に意味があると言うより、必要であればどんな姿にも変身するということである。それならば特に三十三に拘ることはなく、もっと数を増やしても構わないと考えたに違いない。現に四国は八十八所ある。秩父は西国坂東と合わせて日本百霊場を名乗るために、敢えて一箇所を増やして三十四所にした。  大きな石灯籠を見て、「これは寛永寺のもの」と言ってしまったのは私の間違いであった。ここは西武線の沿線だから、まず増上寺のものだと考えなければいけない。私の言葉を信じた人がいたらゴメンナサイ。「文昭院殿 尊前」(六代将軍家宣)と彫られているから間違いない。西武は芝のプリンスホテル建設のときに、霊廟敷地内の石灯籠を片っ端から集めて野積みにし、後で沿線の寺院に売り払ったのである。
     朱塗りの六角堂にも這子が吊り下げられている。内部を撮影した途端、「いけないんじゃないの」とマリーに注意を受けた。内部は撮影禁止の張り紙に気付かなかった。以前にも私は同じことをした気がする。信仰心というものがないのである。肉眼でははっきりしなかったが、後で写真を確認すると、本尊は金色の如意輪観音であった。
     六角堂の前に立てた錫杖を見て、「あっ、これだよね」と隊長も思い出した。明治四十年(一九〇七)、剣岳の山頂に初登頂した陸軍参謀本部陸地測量部が、古い錫杖頭と鉄剣を発見して驚いたという話である。ロダンも好きな話題だ。山岳信仰の古さを証明しているが、残念ながらそれが使われた時代は特定できていない。

     錫杖頭の制作年代については、発見から四年後の一九一一(明治四十四)年、考古学者の高橋健自が論文の中で、素朴な形状から「奈良時代末期から平安時代初期」と推定し、以来、これが定説のようになっている。
     蛍光X線による分析は、立山博物館の依頼を受けた元興寺文化財研究所(奈良市)が行った。報告書によると、錫杖頭から検出した銅、鉛、スズの元素から青銅製であることが確認されたものの、奈良時代の青銅に特有のアンチモニーは検出されなかった。また、金メッキの有無を示す金の成分も確認できなかった。報告書は「制作年代、制作地とも直接、示唆する情報は得られなかった」としている。(「北国新聞」二〇〇八・八・一八http://www.toyama.hokkoku.co.jp/_today/T20080818202.htm)

     山野を行きながら音を立てることで、熊やマムシを避ける効果があったと思われる。私が錫杖を回していると、「回してもいいの」とカズちゃんが訊く。ちゃんと書いてあるから大丈夫だと言うと、恐る恐る触っているのがおかしい。

     寺を出る。西武線の下を潜ると、前方上空に道路を横断して長く伸びる鉄橋のようなものが作られている。「ベルトコンベアでしょう。」今朝の電車の中でも言っていたが、シノッチは高麗川の辺りでコンベアを実際に見たそうだ。「音がしてたわ。」武甲山の採石場から太平洋セメント日高工場まで、大半は地下トンネルの中のコンベアで運ぶのだ。それが高麗川を渡るときには橋となっているのだ。輸送能力は一時間当たり千二百トンと言う。「探せなかったんですよ」と、古道マニアは詳しくその場所を訊いている。

    自然環境保護と輸送費低減の問題を同時に解決するためにつくられたのが、武甲鉱山と太平洋セメント社埼玉工場を結ぶわが国最長級の地中式長距離ベルトコンベヤ(Y ルート)です。
    総延長二三・四km、その九十七% を地下に設置、五地点に積換所を設け、スチールコードベルトコンベヤ六基を繋いだもので、各所に集塵機やサイレンサ、監視カメラや通信網を配置し、光ファイバーケーブルで鉱山側中央制御室から集中制御しています。(武甲鉱業http://www.buko-mining.co.jp/yusou.html)

     地蔵堂には延命地蔵が安置され、壁には般若心経の額が掲げられている。格子壁だから雨風が入るのだろう。殆ど判読できない古びた絵馬が飾られている。
     向うの山は、赤は少ないが黄、茶から緑までのグラデーションが美しい。その山を背景に下の方に里山の風景が広がる。こんな所を歩くのは随分久しぶりだ。「静かな静かな里の秋」(『里の秋』)である。
     「城谷沢の井 札所八番(近道)」の案内版には、柱の上に木造りのカワセミが載っている。この近道の方にUターンするように降り、かなり長く伸びた穭田が広がる中を行く。畔には「巡礼道」の立札が立っている。
     田圃を抜け、生川に架かる川久保橋から下を眺めると、川の色は白く濁り、すぐそばに砂利採石の跡のようなものも見える。
     「あの山が根古屋城の跡なんだよ。」戦国時代の山城は、よほど興味がないと面白くもなんともない。「何もないんだ。だから行きません。」詳しい人がいれば縄張りや濠跡なども指摘してもくれるだろうが、私たちでは無理だ。行かないけれど知識としては押さえておきたい。

     横瀬町の中央部にある二子山は雄岳と雌岳の双耳峰よりなり、二子山から張り出す尾根が、横瀬川と生川の合流地点に達する場所に根古屋という地名がある。この場所には戦国時代まで根古屋城という山城があり、その物見櫓を二子山の山頂に置いたことから、二子山には物見平の別名があるという。横瀬川、生川、小島沢、城谷沢(しらやさわ)に囲まれた根古屋城は、正丸峠から伸びる秩父街道を監視するための城郭であったと考えられている。城域は大きく三つの区域に分けられ、西郭、東郭、山頂郭で構成された。当初、小型の郭を並べた東郭に居館を置いて、山頂に詰城を備える単純な形態であった。その後時代が下ると、東郭から水の手郭を挟んだ場所に、広大な西郭を新造して御殿を置き、山頂郭を含めて改修したことが、西郭と山頂郭に技術的な時間差がないことと、東郭の形式が古いことから伺える。御殿跡といわれる二段の西郭は、根古屋集落のすぐ裏手の尾根上に造られており、高い城壁には二ヶ所の折が加えられ、横矢掛りを可能にし、虎口は枡形となる。南西斜面には本城の特色となる大規模な構堀が腰郭とセットになって築かれている。山頂郭は、見事な土橋で連結された本郭と二ノ郭を中心にいくつかの腰郭を配置する。山頂の本郭は、北半分が石灰石の採掘により破壊されていて、南半分が残るのみなので、その規模や構造を知ることはできない。だが、秩父地方の特色である「出枡形虎口」は、本郭、二ノ郭ともによく残っている。二ノ郭の尾根の裾部には東郭や水の手郭などがあるが、極めて貧弱な備えであり、構築された時代が古いことが分かる。
     http://takayama.tonosama.jp/html/negoya.html

     所沢の狭山湖北岸にも同じ名前の城があって、「根古屋城」でネットを検索すると、所沢の方が先に出てくる。そちらは山口市の居城である。また名栗(飯能市下名栗)にも根古屋城があって、史料によっては混乱している可能性があるが、ここは鉢形城主・北条氏邦の家臣・朝見伊賀守慶延の居城であった。北条氏滅亡後、朝見氏は帰農して今もその子孫が続いている。
     また、この朝見慶延は絹布の生産を奨励したと言われている。さっきの道しるべにあった「城谷沢の井」は、その染色に使用した井戸であり、秩父絹発祥の地とされている。
     坂道の途中に「札所への道」の石標が立っている。この石は緑泥片岩のようだ。次に現れた里宮橋にも、木柱の上にカワセミが立つ。「横瀬はカワセミをシンボルとしているんですかね。」どうやらそのようで、町民会館にもカワセミ会館と名付けられている。
     右側の斜面には坂道にそって石垣が長く伸びている。坂が途切れて平坦になった頃、西善寺に着いた。清泰山西善寺である。曹洞宗。横瀬町横瀬五九八番地。

     ただ頼め誠のときは西善寺来たり向かへん弥陀の三尊

     塀の上からも紅葉が鮮やかに見える。山門の真ん前に拝観料を投入する箱が設置してある。見るだけなら百円、写真撮影なら二百円、三脚を使うと三百円であるが、志でよいと書かれているので、取り敢えず財布は出さずに中に入る。

     開創は文暦元年(一二三四)一人の旅の僧であるとされ おそらく御堂のような簡素な建物に十一面観世音菩薩(伝惠心僧都作)をお祀りしていただけであろう。これは札所の成立の年代と重なる。
     その後、数百年の間 本堂建立や観音堂建立薬師堂など西善寺の基礎が出来上がる。当時は天台か浄土系か宗旨が一定ではなく、御詠歌に見られるように観音霊場でありながら直接 阿弥陀如来による救いを説いていることは他の札所とは異なるとこです。この御詠歌に面白い節をつけて旅の僧が唱えるとたちまち仲の悪かった嫁姑が踊りだし仲好くなったなど逸話が残っています。開山は寛正元年(一四六〇)田村圓福寺三世竹印昌岩禅師大和尚でこれより臨済宗としての五五〇年、ニ度の焼失なども経験しましたが現在で二七代目となります。(西善寺ホームページ)

     ここは紅葉の観光地であって、隣の駐車場に車が何台も停めてある。境内の真ん中に立つコミネカエデと名付けられた古木が見事なのだ。樹齢六百年という。幹回りは三・八メートル、高さ七・二メートル。枝幅は南北が一八・九メートル、東西二〇・六メートル。傘周り五六・三メートル(平成二十年の調査)。無数の腕を四方八方に伸ばし、足を踏ん張って仁王立ちしている姿だ。中心部の葉にはやや緑が残っているが、全体には黄から朱に鮮やかに色づいている。
     「頼んでいいかしら。」イトはんのカメラお受け取り、太い幹をバックに写真を撮る。「太さがはっきり分かるわね。」お父さんへの証拠であろう。「写真は全部、お父さんが整理してくれるのよ。」私も実は同じことをする。
     外には「コミネカエデ」とあったが、木には「コミネモミジ」の名札がついていた。隊長はコミネカエデとは違うようだと鑑定し、古道マニアは「イロハモミジだと思う」と言う。古道マニアと同じことを言うサイトを見つけたので引用しておく。

     秩父西善寺のこみねももじ  カエデの種のひとつにコミネカエデがあるが、これはコミネカエデではなくイロハモミジである。従って、なぜ「こみねもみじ」と称されるようになったのか気になるが、ちょっと小高い当地の峰にあったためそう呼ばれたものであろうと推測する。一般名称と特殊名称の面白さと見る。
     http://mohsho.image.coocan.jp/saizenji2.html

     このモミジは一メートル程高く盛りあがった場所に立っていて、盛り土の周囲は簀のようなもので土留されている。これが境内の真ん中の大半を占めているのだから、この寺最大の売り物である。
     本堂前には増上寺の石燈籠がある。巡礼の白衣を身に着けた若い女性がいるのが珍しい。正式な巡礼をしているのだろうか、奇特なことである。

     古木なる紅葉の映ゆる白衣かな  蜻蛉

     山門を出て、マリーに五百円玉を崩してもらって二百円を拝観料として投じた。左の駐車場脇に赤い小さな実が塊になっているのは見たことがある。「タラヨウですよ。」そうだ、葉書の木(郵便局の木とも言う)であった。「葉が小さいような気がするわ。」「木によって違うようですよ。」古道マニアはタラヨウ(多羅葉)に関しても随分詳しい。
     「食べられるのかな」とダンディが不思議なことを言い出す。「鳥も最後まで食わないっていうから不味いと思う。」「上手い不味いじゃなくて、毒があるのかっていうこと。」「毒の話は聞きません。」「毒がなければ食べられる筈。」古道マニアと問答の末にダンディが赤い実を口にした。「不味い。種ばっかりで。」好奇心旺盛なのは尊敬するが、タラヨウの実を食う人間は余りいないだろう。葉は煎じると茶になる。苦丁茶と呼ばれ、苦味は強いが健康茶として用いられると言う。
     「実の形はサネカズラに似ているね」と隊長が言う。そう言われれば小さな実が塊になっているのが似ている。ただこちらは形がデコボコしている。サネカズラはもっと形が整っていると思う。
     歩き出してすぐに、右側の垣根にカラスウリの実が生っているのを見つけた。ダンディがそれを割って、「納豆みたいだ」と言う。果肉がどろどろになって種に絡んでいる様子がそう見えて、余り美しくはない。まさか食べるのではあるまいね。しかしダンディは「不味い」と顰め面をする。なんでも口にしてはいけないと、幼い頃に叱られなかったであろうか。「ホントに毒があるのもあるんだから、やたらに口にするのは危険です」と古道マニアも注意する。  そもそも、カラスも食わないと言うカラスウリである。人間が食うものではない。と書きながら疑問が生じた。それなら何故「カラス」の名が付くのか。今まで疑問も持たず烏瓜とばかり思っていたが、「唐朱瓜」が本来の語源らしい。カラシュウリである。

    中村浩氏の著書の中では、「からす瓜」とは、往時、唐から輸入された朱赤色で卵形の朱の原鉱に類似しているので当時の人がこの植物を「唐朱瓜」と呼んだと記されています。(http://konohanaki.jugem.jp/?eid=91)

     「朱の原鉱」とは朱墨の原料となる辰砂(硫化水銀)、丹砂のことだ。朱墨は江戸時代になって初めて国産品が作られるようになり、それと区別するために従来から輸入していた朱墨を唐朱と呼ぶことがあったようだ。確かに朱墨の色に似ている。中村浩というのは成蹊学園創始者の中村春二の二男のことだと思われ、それならば『植物名の由来』という著書がある。
     道が大きく曲がる三叉路の角に、「従是頂上迄弐里拾五町」の石の標柱が立っていて、イトはんが熱心にメモをとる。標柱の正面に回ると「武甲山御嶽神社入口」とあった。かつては武甲山蔵王権現であり、武甲山頂にあった。石灰岩を採取するのに邪魔になったのでこの近くに移転したのである。
     左の崖側にガードレール、右側は林の続く道を行けば、馬頭観音を祀った祠があった。自然石の表面を磨き「馬頭観世音」の文字を刻んだものだ。奥の壁には絵馬が何枚も掛けられている。
     西武線を潜ると、右の山側に大きな杉が十本程立ち、その手前にある低木の赤と黄の色が綺麗だ。横瀬川を渡る。この権現橋から見下ろす水は、さっきとは違って綺麗に澄んでいる。「権現橋」の名は蔵王権現に由来するのだろう。
     「橋はハシ、濁りません。」ダンディの言うところでは、建設省だったか国土地理院だったかが橋名を定めたとき、水の濁りに通じるから全て清音にしたというのである。もしそうなら、そんなことは役所の勝手な決め事である。日本語には特有の語感があってしかるべきで、一般通用に従えば良いのではないか。
     その時は反論できなかったが、この説はちょっと考えればおかしいとすぐに分かる。ネットで調べてみても、役所が定めたというのは発見出来なかった。それにダンディも良く例に出すように、江東区の高橋はタカバシである。日本橋だってニホンハシとは呼ばない。
     そして「関東は濁る」というダンディに対抗して、関西でも濁る例を探してみた。大阪の淀屋橋、天満橋、心斎橋はどうであろうか。これは「バシ」ではないか。「大阪橋物語」というサイト(http://www.osakacity.or.jp/gallery/bridge/index2.htm)を見れば、ほとんどの橋が「ばし」と読むことが分かる。関西だって、ちゃんと濁るべきところは濁るのである。(エヘン、どうだ。)
     ことは学問的に説明されなければならない。地名などの名詞に「橋」がついて複合語になれば、普通は連濁現象が起きる。つまり、日本語の通常の語感であれば、複合語の後半部分の語頭が濁音化するのは当り前なのだ。勿論例外はあって、連濁を阻止する条件については、ウィキペディアの「連濁」を参照して貰いたい。(今日の私はかなり学術的である。)
     漆喰の壁に黒板壁を持つ伝統的な二階建ての家を見る。屋根に高窓を設ける養蚕農家だ。右手の田圃の向こうには、林をバックにして石垣の土台の上に立つ、大きな農家の建物も目立つ。こちらは森林農家か。道は真っ直ぐではないが、要所々々に「巡礼道」の道しるべが立っているから分かりやすい。
     狭い道に曲がりこむと、後ろから車が続々とやってくる。正面に大きな観光農園(小松沢レジャー農園)の駐車場があるのだ。「送迎バスもあるよ、すごいね」と古道マニアが驚いている。今の時期ならキノコだろうか。農園に沿って行けば、葡萄園には袋を掛けられたブドウが所々に残っている。袋の中を覗き込むと萎びてしまったものもあるが、中には食べられそうなものもある。しかし私はダンディではないから手を伸ばさない。

     増上寺の石灯籠(これも文昭院殿)の脇に「南無地蔵菩薩 元禄十五年」と彫られた三十センチほどの石が立っている。その隣に立っているのが「日本百番霊場秩父補陀所第六番荻野堂」の石柱だ。「補陀所」は宛て字かと思ったが、実は「札所」の語源だという説がある。これは補陀落信仰によるもので、補陀落山は観音菩薩の浄土である。だから札所は、それぞれが観音の住まいするじ南方海上にあると信じられ、中世には熊野那智や足摺岬から小舟に乗って浄土を目指す補陀落渡海という自殺行が盛んに行われた。
     これを左に曲がりこめば良い。道は四五十メートル程で直角に曲がる。角に願い地蔵尊の小さな祠が建っていた。覗きこむと、白い石灰岩を大きく切りだしたものを台にして、その上に三十センチ程の地蔵が鎮座している。元文二年(一七三七)のものである。その足元に五センチ程の小さな地蔵がたくさん並べてあるのがおかしい。細い道のガードレールの右外側に柚子の実が生っている。
     「これは食べられますよ。ガマズミです。」石段の脇に小さな赤い実が生っているが、ダンディは見向きもしない。よほどカラスウリで懲りたものだろうか。十段程の石段を上ると境内だ。第六場札所・向陽山卜雲寺荻野堂である。曹洞宗。横瀬町大字横瀬一四三〇番地。

     初秋に風吹きむすぶ荻の堂宿かりの世の夢ぞ覚めける

     腹が減ったので、詮索は後回しにして四阿に入る。私たちよりちょっと先に三人が入って座ったが、詰めて貰うとなんとか座れる。古道マニア夫妻は外のベンチに仲良く座った。先客は三人だけかと思っていたが、さっき西善寺で見かけた白衣の女性も加わった。親子のようで、種類を変えて買ってきたらしいお握りを交換し合って食べている。「お父さんはこれにしなさいよ」と言う声が聞こえたので、両親と娘二入だと分かった。母親は巡礼用の木の杖を持っている。
     飯を食い終わり煙草を吸って戻ってくると、私がいない間にマリーから柿が配られたらしい。「どうせ要らないでしょう」と言われれば「要らない」と言うしかない。チョコレートが二三種類回されてくるが、勿論私には関係ない。「ブラックなら大丈夫でしょう。」ダメである。「煎餅はないのかな。」「また偉そうに。」こういう言い方は確かに拙いと反省していると、「あるわよ」とシノッチが取り出してくれた。
     「お饅頭、食べられなくなっちゃった。うちに持って帰るわ。」折角買ったのにイトはんはチョコレートを食べ過ぎたであろうか。隊長は別の店で買った饅頭を食べている。ダンディはワンカップをすっかり忘れているようだ。
     余ったチョコレートをカズちゃんが親子連れに分け、会話の糸口ができた。白衣を着た若い方は「さいたまです」と言い、姉の方は静岡だと言う。白衣の背中にはハンコがいくつも押してある。「ハンコじゃなくて御朱印ですね」とダンディが笑う。「さっき貰いに行ったら順番が違うって言われちゃったんですよ。」納経所で言われたらしいが、一番から順に巡るのはかなり難しいだろう。
     「納経所」の字面から私はもっと面倒なものだと思っていたのだが、現在では朱印を貰うことを「納経」と呼ぶようになっているらしい。本来は本尊の前で写経し、それを納める場所であった。いつしか経文を唱えることで済むようになり、更にそれも省略して単なるスタンプラリーに転落したのである。何事も簡略化、スピードアップは避けられない。
     ところでこの白衣だが、折角朱印を貰っても道中かなり汚れてしまうのではないか。洗濯したら朱が落ちてしまう。どうするのだろうと思ったのは、無学のせいである。巡礼の白衣には道中に着るものと、朱印を貰う判衣と二種類用意しなければならない。つまり、朱印を貰うときだけ出すものなのだから、それほど汚れる訳ではないのだ。
     腹が落ち着き煙草も吸ったので、漸くこの寺のことに触れることができる。

     札所六番堂は荻野堂といい、本尊は聖観音(伝行基作)である。縁起によれば、本尊は武甲山頂の蔵王権現社に永く鎮座していた後に、荻野堂に移されたと伝える。当初、荻野堂は苅込五区の竹の後にあったが、火災に逢い、宝暦一〇年(一七六〇)、別当寺の卜雲寺に移された。荻野堂のあたりには「卜ヶ池」という大きな池があったと伝えられ、縁起に登場する。
     卜雲寺は向陽山と号し、曹洞宗である。開山は撫外春堂、開基は卜雲入道(前出の嶋田三河守四郎左衛門)。寛永一五年(一六三八)の創立である。
     明治九年(一八七六)八月、卜雲寺は本堂、および境内にある荻野堂や庫裏などを全焼する被害を被った。しばらくして明治四〇年(一九〇七)頃、寺の堂宇は再建されたが、以降、本堂に荻野堂の本尊を合わせ祀ったことから、現在は「札所六番卜雲寺」と称されている。
     同寺には、荻野堂の縁起を記した町指定文化財「紙本着色荻野堂縁起絵巻」、同じく秩父地方唯一の「清涼寺式釈迦如来立像」が所蔵される。(横瀬町)

     小さな薬師堂がある。江戸神田昌平橋通り・小島源右衛門が宝暦十二年(一七六二)に奉納した聖観音像がある。これは白の石灰岩を彫ったものだろうか。切妻屋根を載せただけだから、風雨に晒されて、全体は茶色っぽい白なのに、禿げたように白くなっている。ゆっくり見学し終わって寺を出る。
     地図を見れば、次はほぼ西に五百メートル程の距離だ。十分程で札所第七番に着く。青苔山法長寺(牛伏)。曹洞宗。横瀬町横瀬一五〇八番地。

      六堂を兼ねて巡りて拝むべし又後の世を聞くも牛伏

     山門前の左に、「不許葷酒入山門」の文字が彫られている石柱は石灰岩である。所々が欠け落ち、更に縦にヒビが入っている部分もあるから、将来崩落してしまう恐れがある。右側に立つのはグレーの石で、「法長禅寺」とある。これもやや形が変形していて、左のものの半分の高さだから、もしかしたら「青苔山」の部分が割れてなくなってしまったかとも思われる。
     本堂は新しくて立派だ。入母屋造りで唐破風を持つのは禅宗寺院によくある形だ。

     簡素な山門を入ると、平賀源内の原図によって設計されたという本堂があり、内陣の欄間には同じく源内の原図による讃岐志度寺縁起の彫刻が掲げられている。間口十間、奥行き八間、秩父札所のなかで、最も大きな本堂である。
     http://www.nichibun.ac.jp/graphicversion/dbase/reikenki/chichibu/reijo07.html

     「平賀源内の原図」なんてホントかねと疑いたくなるが、源内が秩父に大いに関係しているのは間違いない。明和二年(一七六五)、源内は火浣布の原料となる石綿を探して大滝村中津川を放浪した。前年に両神山で発見した石綿は、僅か数センチ四方の布を作るだけの量しかなく、これでは産業として育たないからだ。しかし全く発見できない。今度は金の採掘を試みたがこれも失敗する。源内を信じて財産を使い果たした者もいて、源内が山師と呼ばれる所以だ。しかし源内が金の採掘を試みた山は二十世紀になって鉱山開発が進み、亜鉛、磁鉄鉱、珪砂などを産出した。
     「嗟非常人、好非常事、行是非常、何死非常」(ああ非常の人、非常のことを好み、行いこれ非常、何ぞ非常に死するや)。これは杉田玄白による源内の墓碑である。万能であっただけに、ひとつのことに専念して深めることができなかった。生まれた時代が少しばかり早過ぎたのである。
     「浄財」と書かれた賽銭箱には菊水の紋が描かれている。本堂の左側と墓地の間に立つ紅葉が美しい。幹の中心部はまだ緑だが、周縁部は真っ赤だ。大きな石灯籠はやはり増上寺のものだ。「牛伏堂由来の石像」の首には白い涎掛けが結ばれている。
     さっきの四人組に、五番に向かう途中にある棚田が見事だと隊長が教えている。第五番はここからほぼ真北に二キロほどの場所にある。「それじゃお先に。」
     五六百メートル歩いた辺りから登り坂になり、右に広がる棚田が見えてきた。僅か二畳ほどの田圃もあって、こんな所まで利用しなければならなかった秩父の貧しさに打たれてしまう。寺坂の棚田である。
     隊長は適当な所から畦道に入り込んでいく。「あの屋根のところに行くからね。」かなり高い所に四阿があり、二人座っているのが見える。かなりあるじゃないか。漸く辿り着くと、八十歳程の女性と中年の男性だった。女性が「どうぞ座ってください」と、丸木を地面に固定した椅子を勧めてくれる。「嬉しいわ。」やっと追い付いて来たイトはんが座りこむ。
     女性は地元の人らしいが、男性は狭山の人である。聞きもしないのにいろいろなことを教えてくれる。ここでは小学校や保育園の体験授業をやる。古代米や餅米を作るそうだ。二年ほど前に、田の周りに彼岸花を植えた。農薬を使っていないからホタルが飛ぶ。「ヘーッ。」「源氏じゃなくて平家だけどね。」皆既日食は田圃に映ったのを見た。「手で掬い取れそうだったよ」と女性が何度も言う。
     「鎌倉時代の寺坂棚田復元図」が掲げられていて、それを見ると、今私たちがいる辺りに、横瀬六郎左衛門屋敷がある。すると中世にはこの辺りが横瀬の中心だったのだ。
     「電車で来られる棚田なんて珍しいだろう」と男が自慢するので、概要を掴んでおかなくてはならない。

    ~ 概要 ~
     埼玉県秩父郡横瀬町の棚田は、秩父盆地の東部にあります。荒川支流・横瀬川とその支流曾沢川との合流点の右岸、武甲山麓から北へ四㎞ほどに位置してます。
     標高は二三〇m~二七〇m、下段の曾沢川と上段の丸山林道との標高差は四〇mで、 東西四〇〇m、南北二七〇mに広がっており、面積は五ha、正面に武甲山の雄姿を望むみごとな景観です。
    ~ 歴史 ~
     寺坂の地形は古く、二万年前の最終氷河期以前に形成されたと言われ、棚田の南面 には縄文遺跡があり、寺坂遺跡と呼ばれています。遺跡の地形は東に続く高篠山から 流れる扇状地で、昭和五五年に発掘調査が行われました。高篠山には御荷鉾緑色岩類 が多く、磨製石斧の未成品と製作剥片が多出されたため、遺跡は磨製石斧の製作跡と 考えられています。
     鎌倉時代にはすでに当地で稲作が行われていたとされ、最盛期には三六〇枚を数える田があったといいます。寺坂棚田の景観は、長い年月をかけて先人が開発した貴重な遺産です。
    ~ 棚田復元までの道のり ~
     昭和五〇年頃までは大部分の田で稲作が行われており、昔ながらの田園風景でした。しかし、時代の流れと共に、減反政策や後継者不足などの理由から耕作放棄地が年々増加し、平成一〇年頃には地権者約五〇戸の内、耕作する者はわずか四戸となり、雑草・雑木が生い茂り荒れ果ててしまいました。武甲山を望む里山地域の無残な姿に、昔のようなきれいな寺坂棚田を復元しようという気運が田の所有者たちの間で高まり、平成一二年、埼玉県の中山間地域ふるさと事業で棚田の復元方法について農家や行政関係者などで話し合いを行いました。その結果、復元は農家だけでなく、学校という形を取って都市住民と共に行っていこうという結論に至りました。
     平成一三年、地元農家が中心となり寺坂棚田学校を開校し、まずは学校としての活動ができるよう、草刈や抜根など、荒れ果てた田の整備から取り組み始めました。
     平成一四年、田の所有者を中心とする農業者一九名が先生となり、応募による三二名の参加者(生徒)と共に、有機無農薬、手植え、ハザ掛けで天日干しなど、昔ながらの方法で稲作を始めました。
     同学校の活動が定着し実績が認められるにつれ、鉄道会社、TVや新聞などによる広報の力もあって、多くの人々の共感を得るようになり、現在では、六〇名を超える県内外の都市部の住民が生徒として参加しています。卒業生を対象としたオーナー制度も行われ、すでに八割り方の田が再生されました。
     (寺坂棚田ホームページhttp://www1.ttcn.ne.jp/~kawarada/newpage11.htm

     私たちとは違う道を通って、四人組が登ってきた。到着するとすぐに父親は名刺を取り出して「ブログをやってます」と私に言う。私の名刺は何の役にも立たないから隊長を呼んだ。「隊長、名刺を出してよ。」「少し汚れてるけど」と取り出した名刺を彼に渡した。すると、さっきから説明してくれている男性も「俺もブログをやっている」と言う。URLも教えてくれなかったが、もしかしたら「私の『横瀬・寺坂棚田』耕作日誌」というものかもしれない。妹の方は隊長の名刺を見て「気象予報士、スゴイ」と感動しているので、「予報してないけどね」と私は余計なことを言う。こんなことは言わなくても良いのだ。
     景観としてはとても素敵だ。日本人の知恵の結晶だと真面目に思うが、これが生業だとなれば大変な作業になるわけで、五十戸中四軒しか残らなかったと言っても責める気にはなれない。こうしたものは、もはや善意の力を借りなくては維持できないのである。狭山の男は仲間と六枚ほどの田圃のオーナーになっているという。
     お礼を言って切り上げる。田圃を出たところで、親子は逆方向に行こうとする。「おばあさんに教えてもらったんですよ。」「隊長、あんなことを言ってますぜ。」「どうぞ行ってください。私たちはこっちを行きますから。」隊長は案外冷淡な態度で坂道を下っていくから、私たちはそれに従うだけだ。四人は一所懸命悩んでいるが、私も途中で地図を取り出してみると、やはり彼らが教えて貰ったのは全く違うようだ。やがて決心した親子もこちらに向かってくる。地図によればこの道は丸山林道である。向こうに行けば日向山の方に出てしまう。
     林道を出て右に曲がったところに町民グランドがあり、トイレが設置されていた。この先は暫くトイレがないというので、ここで休憩する。やがて親子も追い付いてきた。「おばあさんに騙されました。」「ボケてたかもしれない。」

     グランドの角を左に曲がり、信号を右に曲がる。あと五百メートル程だろう。途中、二股になったところはちょっと分かりにくい。隊長は右の道を選んで行くが、ここにも道しるべを立てて欲しい所だ。そして札所五番の小川山語歌堂の朱塗りの門が見えてきた。横瀬町横瀬六〇八六番地。別当寺は道の反対側に少し離れた長興寺(臨済宗南禅寺派)である。

      父母の恵みも深き語歌の堂大慈大悲の誓たのもし

     朱塗りの仁王門はかなり色が褪せ、滅多やたらに千社札が貼られている。金剛力士は朱と青が鮮やかだ。ちょっと気づき難いが、門を潜って内側から格子を覗くと、色鮮やかでコミカルな風神雷神が左右に立っていた。
     「分かりましたよ、語歌堂の意味が。」先に説明板を読んでいたダンディが私を呼ぶ。実は朝から気になっていたのである。隊長の今日のコース案内には「詩歌堂」とあったのに、マップには「語歌堂」と印刷されていたからだ。隊長はすぐに間違いだと謝ったが、日本語としては隊長の感度が自然であり、語歌とは何のことか意味が分からない。
     本間孫八という人物が、慈覚大師作と伝えられる准胝観音像を祀るために私財をなげうって堂を建立した。この人物は歌道に憧れていたものの才がなく、それを極めたいと念願していた。ある晩、聖徳太子の化身の僧が現れ、夜を徹して歌の極意を語ってくれた。そのためにこの名をつけたというものである。
     本堂は四間四方の銅版葺き方形造りだ。ここにも千社札が所狭しと貼られている。文化年間(一八〇四~一八)に再建された建物である。
     さっきの親子は第五番で今日の行程を終えると言っていたが、なかなか姿を現さない。二股の所を逆に行ったのではあるまいか。私たちは最後の第十番・大慈寺を目指す。堂の脇の道を左に曲がり、横瀬川に架かる語歌橋を渡る。少し行ったところで、向こうから親子がやってきた。女性たちは少し草臥れたような顔だ。「大分、遠回りしましたね。」
     脇道に入ると民家の庭にクコの赤い実が見えた。子供の頃にクコ茶なんていう代物を飲まされた記憶があるが、あれはとても不味いものだった。今でもあるのだろうか。実は甘酸っぱいものらしいが、ダンディは手を出さない。
     萬松山大慈寺に着く。曹洞宗。横瀬町横瀬五一五一番地。延徳二年(一四九〇)の開創で、明応二年(一四九三)東雄禅師が再建開山となった。

      ひたすらに頼みをかけよ大慈寺六つのちまたの苦にかはるべし

     大きな延命地蔵が鎮座している。急な石段を上った所にある山門は割に新しい楼門で、左右に仁王尊を安置している筈だ。しかし仁王が立つ場所は花頭窓が切られ、その内部に磨りガラスが嵌め込まれているので、全くと言って良いほど中が見えない。
     本堂にはかなり奥行きのある唐破風の向拝があり、その下で中を覗き込むと、賽銭箱の左に赤茶色のお賓頭盧様がいた。自分の身体の悪い所を撫でるのだが、私が見た限りでは、大抵の人は頭を撫でる。提灯に描かれた寺紋は五七桐。本尊の聖観音は恵心僧都作と伝える。六地蔵は新しくて、こういうものは余り新しいと感興がない。これで、今日は五番から十番まで六ヶ所の札所を巡った。札所巡りもさることながら、横瀬の町はなかなか良い。新しい物は一つもないが、里山の風景がちゃんと残っているのである。

     ここからは羊山公園を通って西武秩父駅まで行くことになる。途中、民家の並ぶ細い道で「数術家 加藤兼安の碑」というのを見つけた。算学、算術とは言うが、「数術家」という言い方は私は初めて見た。

     この寿碑は嘉永元年(一八四八)に建てられ、大野玄鶴(大野原生れ医師、秩父志の著者)の撰文並びに書による。
     算学者加藤兼安(一七八六~一八五七)は、川西地区三角に生まれ、名を治兵衛といい、天保から嘉永年間にわたり数術を広め、門弟実に千名を超えた。また、指導する傍ら「知慧車」と題する書を著しているが、現在確認されていない。また町内には、大越数道軒等数名の算学者を挙げることができるが、いずれの系統も異にする。

     このように説明されているが、加藤兼安に関する事項は、ここに書いてある以上のことが見つけ出せなかった。どの系統に属するのかも分からない。門弟千人とは大層なもので、これが本当ならもっと知られてよいのではないか。地元出身者を誇大に宣伝しているのではないか。
     しかし武州の人で最も有名な和算家は、男衾郡本田村(現深谷市)に生まれた藤田雄山貞資であろう。関流の四代目に擬せられた人物なのだが、それでもその門弟数は数百人とされている。門弟千人がいかに誇大な数値であるかが分かるだろう。

    化政以降、算学の中心は江戸にシフトし、これ以後、関東・東北地方にも算額が増えた。関流和算家、藤田貞資(一七三四~一八〇七)は『神壁算法』(一七八九年)を刊行、関流和算家の算額を整理している。明治以降も、和算の伝統の残る北関東、東北地方では算額奉納が続き、したがって、現在見られるものの多くは、これらの地域のものである。・・・・
    算額の正誤を巡って、会田安明(一七四七~一八一七)と藤田が四半世紀も論争を繰り広げたのである。 発端は些細なことであった。会田は、藤田を尊敬しており、入門しようとした。藤田も会田の実力を認めていたので、最初の指導のつもりで、会田が愛宕神社に奉納した算額の誤りを正すように指示したのである。これを会田は、嫌がらせと誤解し、却って、藤田の算学書の誤りを本にして出版したので、話がこじれてしまった。(城地茂「和算の興亡」http://www.osaka-kyoiku.ac.jp/~jochi/j14.htm)

     会田安明は出羽国最上の人で、関流に対抗して最上流を旗揚げした。ウィキペディアによれば、「分数の分母にも未知数を許すように代数の記法を改良し、・・・・楕円・円の幾何学的な研究、有限級数、連分数展開などに著しい業績を残」した。
     坂道を登ると、突き当たりに羊山公園の案内が見えてきた。行程の最後に来ての山登りは結構きつい。イトはん、シノッチ、イッチャンはだいぶ遅れてしまった。見晴らしの丘に到着すると、秩父の街並みが一望できる。西部秩父駅は正面に、秩父鉄道の駅は右手に見える。
     犬を連れた婦人が手にする植物が、イトはんには気になって仕方がない。「訊いてみようかしら。」いいんじゃないか。イトはんがひとつの植物と思ったのは、実は二種類であった。「向こうの方に生えていたんですよ。」山百合の実が弾けた後の殻が残った茎と、ヌバタマの黒い実だ。ヌバタマは今年の夏に城西大学図書館に飾られた活花で覚えた。檜扇(アヤメ科アヤメ属)の実である。カラスオウギともいう。ぬばたま、むばたまとも書き、漢字では射干玉と書く。言うまでもなく、夜、黒、闇、髪の枕詞である。いくつか例を挙げておこう。

      居明かして君をば待たむぬばたまの我が黒髪に霜は降るとも  磐姫皇后
     ぬばたまの夜の更けゆけば久木生ふる清き川原に千鳥しば鳴く  山部赤人
     いとせめて恋しきときはむばたまの夜の衣を返してぞ着る  小野小町

     「一本差し上げましょうか。」「よろしいんですか。」イトはんは感激する。この黒い実を播けば、二年ほどで花が咲くと言う。「春まで待った方がいいかしら。」「今の時期に播いた方がいいですよ。」山を下りれば急な坂道の途中に若山牧水の歌碑が建っていた。

     秩父町出はづれ来れば機をりのうた声つゞく古りし家並に

     「昭和三十年初秋 喜志子書」とあるのは妻である。信州松本の庄屋の娘に生まれた文学少女で、牧水の熱烈な求愛を受けた。悩んだ挙句、柳行李一つを持って家出同然に東京に出て牧水と一緒になった。その彼女の歌碑もある。

     のび急ぐしたもえ草のあさみどりあやふくぞおもふ生い立つ子らを 喜志子

     牧水が訪れた頃は秩父銘仙の最盛期である。機織り工場が忙しく稼働し、女工が歌いながら働いていたのだろう。私は全く無学で、そもそも銘仙というのがどんな着物かも分かっていない。

    銘仙は、絹を素材とした先染の平織物の総称であるが、同じ絹織物でも丹前地、黄八丈とは区別して呼称された。語源は天明時代(一七八一~一七八八)に、経糸の数が多く、その織地の目の細かさ、緻密さから、「目千」「目専」といわれたのが転訛して「めいせん」になったという説がある。そのふるさとは関東地方に位置する伊勢崎、秩父、桐生、足利、飯能などで、これらは古くからの養蚕と織物の産地であった。・・・・
    第二次世界大戦頃まで、主に女性の普段着に多く用いられたほか、裏地・夜具地・丹前地・座ぶとん地などの需要が多かったが、昭和三〇年代からウール・化学繊維の普及により急速に市場から姿を消していった。(京都古布保存会)
    http://www.kyoto-tsubomi.sakura.ne.jp/japanaese_texitile/meisen.htm

     明治四十年(一九〇七)、乃木希典が学習院院長に就任すると、女学生の華美を改めるために制服に銘仙を採用したと言う。明治の末には、銘仙は地味な縞柄が多かった。やがて技術革新によって斬新な派手なデザインの銘仙が登場する。カフェの女給が多く着たのがこの銘仙であった。絹ではあっても丈夫で安価であり、要するに仕事着、作業着として重宝されたのだろう。
     「出はづれ」は私には聞き慣れない言葉だったが、町や村の外れを意味する。歌集『黒土』には「秩父の春」と題して三十九首が収録されていて、この歌には「秩父町にて少憩、其処より表秩父に出でむとして妻坂峠を越ゆ、思ひの外の難路なり」の詞書がつく。大正九年(一九二〇)四月六日、牧水は熊谷から秩父鉄道に乗り、長瀞の「長生館」に泊まった。翌七日、秩父から妻恋峠を経て名栗へ向かったから、秩父では少し休憩しただけである。
     ただ、それ以外にも牧水は秩父に何度も足を運んだ。初めて来たのは大正六年十一月で、この時の歌は「秩父の秋」と題して『渓谷集』に収録されている。旅を好んだ牧水は、日に一升の酒を飲む生活を続け、昭和三年九月十七日、四十三歳で死んだ。
     「同じ頃、有名な作家も秩父に来ましたね。」古道マニアの言葉で考えると、露伴のことだろうか。しかし冒頭に引用した『知々夫紀行』は明治三十二年に発表されたものだから時代が違う。花袋かな。「そうだと思う。全国の旅行記を書くひとだから。」鉢形城址に花袋の大きな漢詩碑が建っているのは見た。大正八年、花袋は坂戸から乗合馬車で越生、小川、寄居を経由して長瀞に遊び、その記録を『秩父の山裾』に書いた。
     下まで降りれば池がある。牧水に因んで人工の滝を造り日本庭園を造成したのである。水車も造られていた。「綺麗ですね。」「水清ければ魚棲まず。やっぱり魚はいないな。」ここが羊山公園の入口になっていた。羊山には何度か来たことがあるが、ここは通ったことがなかったと思う。

     五分程で西武秩父駅に着いた。ほぼ十キロの行程であった。私はこの駅には初めて来た。なかなか賑わっているではないか。イトはんは「しゃくし菜を買いたいんだけど、いいかしら」と走りだしそうな勢いだが、まず時刻表を確認するのが先であろう。今は四時ちょっと前、次の飯能行きは四時二十分発である。「三十分位あるのね、嬉しいわ。」仲見世通りという商業施設が駅構内にあって、土産を買うには便利だ。
     皆はしゃくし菜漬けは旨いというが、私が以前食べたものは発酵が進みすぎたのか、酸味が強くてそれほど旨いものとは思わなかった。そもそも、しゃくし菜とは何であろうか。ほかでは余り聞いたことがない。
     明治の頃に中国から齎されたというが、調べてみるとタイサイ(体菜)の別名である。アブラナ科で葉が杓子の形に似ているというのである。
     それなら「体菜漬け」で調べると、秩父の「しゃくし菜漬け」のほかに、新潟県長岡の「体菜(たいな)漬け」をみつけた。そして、実はチンゲンサイも同じ仲間である。

     タイサイ(体菜)というのは明治の頃に日本に入ってきた結球しないハクサイにつけられた名前である。語源はよくわかっていない。タイサイのうち茎の白いものをパクチョイ。茎が緑色のものをチンゲンサイという。植物学的な分類ではアブラナ科アブラナ(Brassica)属でカブやコマツナと同種ということになっている。
     タイサイ類は中国揚子江中流域以南で栽培される大衆野菜で、茎が長いのを長梗、短いのを短梗、白いのを白梗、緑のものを青梗などと呼ぶそうだ。日本には明治時代に長梗で茎の白い系統のものが導入され、その後、第二次世界大戦前にも白梗系のものが導入された。
     また 一九七二年の日中国交回復後に青茎のチンゲンサイも導入された。農林水産省は白いのをパクチョイ、緑のものをチンゲンサイ(青梗菜)と呼び分けるよう取り決めた。 (http://www.chinjuh.mydns.jp/hakubutu/kuirejo/tngn_a.htm)

     ネットで調べた限り、これを食べるのは秩父と新潟に限定されているようだ。全国に普及しなかったのは、余り旨いものとは思われなかったからではないだろうか。私も普通の白菜漬の方が美味いと思う。
     ダンディは蕎麦を食っていたらしい。「あんな短時間に食べたんですか」とマリーが驚いている。武甲正宗の温めたワンカップも買っている。「蜻蛉は土産は買わない主義だろう。」隊長は私が既に朝のうちに買ったことを知らなかった。「お土産っていうより、自分が食べたいから買っただけ。」
     十分前にホームに降りると既に電車は待っていて、ボックス席に座った。ダンディはワンカップを取り出し、あっという間に飲んでしまう。古道マニア夫妻は高麗で降りた。車を駐めているそうだ。伯爵夫人とシノッチは東飯能で降りた。飯能で池袋行きに乗り換える。

     所沢駅に降りると、少し様子が違う。「あれっ。こっちでいいのかな。」「いいんだよ。」以前は一番ホームからすぐに西口に出る改札があったのだが、橋上改札に生まれ変わっている。こんな風になったのか。  既に五時を過ぎたところだ。「所沢は賑やかだわね。」さかなや道場を見つけたのでそこに入る。隊長は不思議そうな顔をするが、この時間なら別に「百味」まで行く必要はない。「百味」の取柄は昼から飲めるということだけなのだ。「八人です」と言って個室に案内されたが、実は六人だったので移動することになった。「ボケてるんじゃないの。」「なんとなく八人って信じ込んでたんだよ。」
     隊長、ダンディ、私、イトはん、カズちゃん、マリーである。今日は私が注文担当にならざるを得ない。ダンディの希望を少し容れて適当に注文する。店名に「さかな」を冠している以上、魚は不味くない筈だと七種盛り合わせを取る。ダンディが希望した長芋の揚げ出しは二つと言ったが、一つしかなかった。
     ブリカマは旨い。「ブリは出世魚ですからね。」イナダ、ワラサ、ハマチ、ブリ。これは地方によって呼び方が違う。関西ではワカナ、スバス、ハマチ、イナダ、ブリと出世するようだ。またハマチは養殖魚に限定する場合もある。
     「トドのつまり、って言うでしょう。」これはボラである。オボコ、イナ、ボラ、トドと変身するらしい。これも地方によっていくつかのバリエーションがあるだろう。変身の最終段階がトドであった。
     今日は私しか焼酎を飲まないので、ボトルは入れずグラスで頼む。これなら余り飲みすぎず、軽い酔いが心地よい。ダンディは車内で一気に飲んだワンカップが効いているのではないか。隊長も余り飲まないから、一人二千円で済んだ。「そんなに安いんですか」とダンディが驚くが、つまみを少し控え気味にしたのである。桃太郎がいればこれでは済まない。

    蜻蛉