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    平成二十五年一月二十六日(土)  深谷・渋沢栄一の跡を訪ねて

    投稿:   佐藤 眞人 氏     2013.02.02

     旧暦十二月十五日。寒い日になりそうだ。
     八時十七分に鶴ヶ島を出発し、川越から大宮に出る。大宮発九時四分の快速アーバン高崎行きの十号車付近で待っていると、「ここでいいんですね、良かった」と若旦那が現れた。この電車の前五両(十一号車から十六号車)は籠原止まりになる。「奥さんは。」「まだ膝がちょっとね。遅れると迷惑かけちゃうからって。」それは残念だが、日常生活には不自由しないそうだから安心した。大事にして貰いたい。
     到着した電車では、ドアの脇にちょうど二人掛けの席が空いていた。若旦那とゆっくり話をするのは初めてだろうか。LPレコードを三百枚近く所蔵していて、それを聴くのが楽しみなのだそうだ。「針は大丈夫なんですか。」「レーザーで聴くんですよ。」そういうものがあるのか。接触しないから傷が付かない。それでもレコードの手入れは欠かせないと言う。「面倒なんですけどね。それも楽しみだから。」音楽や芸術に明るい人だとはダンディから聞いていた。ダンディは能楽堂で何度も遭っているようだし、宗匠も文楽を観に行って偶然遭遇したと言っていた。どうも教養の範囲が私とはエラク違う。
     「今日は尾高惇忠の生家を見るんですよね。それが楽しみで。」なんでも尾高という有名な音楽家一家があるらしい。NHK交響楽団の指揮者であり、尾高賞に名を残す尾高尚忠、妻のピアニスト節子、その子に作曲家の惇忠、指揮者の忠明がいる。この尚忠の祖父が尾高惇忠(藍香)であり、今日はその家が見学コースに組まれている。また尚忠の母は渋沢栄一の三女ふみである。「だから、どうってこともないんですけどね。」音楽家の名前を知らないのは最初から諦めているが、私はその尾高惇忠という人物さえ知らなかったから全く無学だ。これについては、後で調べて書くことになる。
     「おはようございます。」相変わらず明るい声で現れたのはイトはんだ。ダンディもいる。「大宮で気が付いたのよ。一所懸命手を振ったんだけど。」私と若旦那はたぶん席を確保するために、他に目がいかなったのだろう。二人は、ちょうど私たちの前の席が空いたのを見て移ってきたのだ。
     籠原では車両切り離しのため五分停車した。発車するとすぐに、東側には大きな工場が立ち並ぶのが見えてきた。「こんなところに工場地帯があるんですね。」深谷工業団地である。日立プラント、三晃金属工業、東芝、サンウェーブ工業。そして九時四十七分に深谷駅に到着した。
     今日の参加者は全員この電車で来たようだ。隊長、宗匠、千意さん、古道マニア、スナフキン、ダンディ、ドクトル、若旦那、蜻蛉。女性はイトはんとカズちゃんの二人だけで、合計十一人になった。
     「この間はみんなに言われちゃったから。」先日の江戸歩きでは、ダンディが珍しく無帽だったから皆が驚いたのである。今日はアマゾンの帽子を被っている。スナフキンも先日のハンチングとは違うちょっと変わったキャップを被っている。「あれと一緒に買ったんだ。」
     「東松山からですか」と古道マニアが私の顔を見る。東松山からバスで熊谷に出たらしい。成程そういう経路もあったが、私は発想が硬直していてバスを使うなんて思いも寄らなかった。
     調べてみると、鶴ヶ島から東松山は十四分、二百四十円。東松山・熊谷間はバスで約四十五分、五百五十円。熊谷・深谷間は十四分、二百三十円。乗換時間を多めに見て一時間半、千二十円となる。それなら私が来た経路と時間的には変わらないが、料金は二百五十円安い計算だ。きちんと計算して行動しないと無駄遣いになってしまう。
     「また昨日も飲みすぎたよ。」スナフキンは相変わらずだ。会合が金曜日に集中しやすいこともある。「思ったほど寒くないな。」私も深谷ならもっと寒いかと思っていたが、今のところそれ程でもない。「だけど午後になったら風が強くなると思う」と宗匠は警戒する。
     十時三十三分のコミュニティバス「くるリン」に乗る予定なので、少し辺りを見学する余裕がある。北口の階段下のトイレから戻って来ると、スナフキンと宗匠がパンフレットを持っていた。「どこで。」「あっちだよ。」改札口から左に回り込んだところに市民サービスセンターがあり、そこでパンフレットが貰える。

     少し歴史を振り返って見なければならない。同じ埼玉県に住んでいても知らないことは多いのだ。戦国時代、深谷には山内上杉氏の房憲が城をかまえて深谷上杉を名乗った。家康の江戸入部以後は、松平康直(一万石)、松千代、忠輝、松平忠重、酒井忠勝とめまぐるしく領主が変わったが、寛永四年(一六二七)に酒井忠勝が川越へ移封されて、深谷藩は廃藩となった。
     深谷宿は中山道(木曾街道)六十九次のうち江戸から数えて九番目、距離にして十九里五町四十間、およそ七十五キロになる。江戸を発って二晩目の宿を取るものが多かった。天保三年(一八四三)の記録では、本陣一(飯島家)、脇本陣四、旅籠八十、家数五百二十五軒を数え、旅籠の数は道中最大である。塩尻が七十五、草津が七十二、大津が七十一、本庄が七十。それ以外、六十以上の宿場はない。
     熊谷宿は忍藩の禁制があって飯盛女を置かなかったが、深谷では殆どの旅籠が飯盛女を三、四人抱えていたと言う。飯盛女は宿場女郎とも呼ばれる。幕府の定めでは旅籠一軒について二人とされたが、そんな規制を守る宿場はなかった。勿論、初期には摘発されれば重罪に処せられたが、そのうち幕府も諦めた。溪斎英泉「岐阻街道 深谷之駅」には、旅籠の前で客引きをする五人の女が描かれていて、これを見れば明らかに遊女の姿だと分かる。
     また現在は深谷市と合併したが、深谷と本庄に挟まれた地域が岡部町だ。荒川が形成した櫛引台地の端にあることから岡部の地名が付けられたとされ、中世には武蔵七党の猪俣党と称する一族が館を構えて岡部氏を名乗った。
     今日のコースには入っていないし、今後いつ来るか分からないので、岡部六弥太忠純のことにも触れておきたい。隣の川本(ここも深谷市に合併した)には畠山重忠、熊谷には熊谷直実、永井の別当斎藤実盛がいるのはお馴染みだが、岡部六弥太の名前は余り知られていないんじゃないか。地図を見ると、岡部の普済寺にその居館跡と墓がある。保元・平治の乱では源義朝、義平に従い、熊谷直実、斎藤実盛などと共に義平十七騎の一人として名を上げた。ここでは『平家物語』「忠度最期」の条を読んでみる。

    薩摩守忠度は、西の手の大将軍にておはしけるが、その日の装束には、紺地の錦の直垂に、黒糸おどしの鎧着て、黒き馬の太うたくましきに、沃懸地の鞍置いて乗り給ひたりけるが、その勢百騎ばかりが中にうち囲まれて、いと騒がず、控へ控へて落ち給ふ所に、ここに、武蔵国の住人岡部六弥太忠純、よき敵と目をかけ、鞭鐙を合せて追かけ奉り、「あれはいかに、よき大将軍とこそ見参らせて候へ。まさのうも敵に後を見せ給ふものかな。返させ給へ」と言かければ、「これは御方ぞ」とて、ふり仰ぎ内甲を見入れたれば、鐵黒なり。

     味方と偽って落ち延びようとした、その口元にお歯黒が覗いた。これは平家の公達の証である。撃ち掛った六弥太を忠度は取り押さえ、太刀で三度突いたが二度は鎧を通さず、最後の一刺しは突き抜いたが浅かった。その時、六弥太の郎党共が駆け込んで撃ち掛り、忠度の肘を切り落とした。

    薩摩の守、今はかうとや思はれけん、暫し退け、最期の十念唱へんとて、六彌太を摑うで、弓長ばかりぞ投げ退けらる。其の後西に向ひ、光明遍照十方世界、念佛衆生攝取不捨と宣ひも果てねば、六彌太後より寄り、薩摩の守の頸を取る。

     忠度に取り押さえられ、二メートル以上も投げ飛ばされているのだから、この六弥太余り恰好良くはない。それも忠度の最期を飾る条だから無理もないか。打ち取った相手の名さえ知らなかったが、箙に結びつけた文を見つけて開いてみると、「旅宿花」と題して歌と名が記されていた。

     行き暮れて木の下陰を宿とせば花や今宵のあるじならまし  忠度

     これぞ薩摩守平忠度であったかと知って、敵味方諸共に「あないとほし。武藝にも歌道にも勝れて、好き大将軍にておはしつる人をとて」と鎧の袖を涙で濡らした。歌が残ったのは、六弥太が都の藤原俊成に届けたからだろう。その後、六弥太は領地内の清心寺(深谷市萱場)に忠度の供養塔を建てて菩提を弔った。『平家』の武者はみな猛々しく、しかも心優しい。

     優しさは命の果てに寒椿   蜻蛉

     ついでだから平忠度の歌をもうひとつ。都を落ちるときに俊成に百余首を託した中から、『千載和歌集』に詠み人知らずとして採られたものである。

     さざなみや滋賀の都は荒れにしを昔ながらの山桜かな

     『青葉の笛』(大和田建樹作詞)の一番は敦盛、二番が忠度を歌っている。「更ける夜半に門をたたき」が「さざなみや」の故事、「残れるは『花や今宵』の歌」と言うのが、「行き暮れて」の歌である。どうも、スタートする前に余計なことで長くなってしまったが、私は『平家物語』が好きなのだ。

     深谷の駅舎は東京駅をモチーフにして、平成八年(一九九六)八月に赤煉瓦造り風に改築されたもので、実は鉄筋コンクリートの上に赤煉瓦の化粧タイルを貼ってある。この駅舎と階段の青銅製の手摺や街灯を見ると、文明開化の雰囲気が漂ってきて、なかなか良いではないか。観光の目玉になると思うのに、深谷市は余り宣伝しているようではない。
     なぜこんな建物を造ったかといえば、東京駅の煉瓦は深谷の日本煉瓦製造会社によるものだからだ。但し東京駅の表面を飾るものは品川煉瓦や大阪窯業で作られたものらしい。深谷の煉瓦は構造用として内部に使用されていて我々の目には見えない。それなら強度にはかなりの自信があるだろう。ここは橋上駅だから階段を下りてみる。「どこから撮ったらいいでしょうか。」カズちゃんが撮影ポイントを探しているので、連れ立っていってみる。エスカレーターに架かる屋根が邪魔だ。「こっちかな。」ほぼ全体像が収まる位置が見つかった。
     広場には青淵渋沢栄一像が建っている。和服で腰かけて膝の上の左手に和綴じの書物を持っている姿だ。渋沢の像は常盤橋門と飛鳥山でも見ているが、それぞれ服装も姿勢も違う。「鳩にとまられちゃしょうがないな。」頭の上に鳩が一羽、足元にも十羽程の鳩が休んでいる。
     「埼玉県の三大偉人ですよ。」ダンディの言葉に「他の二人は誰だい」とドクトルが訊いている。塙保己一と荻野吟子だ。三人とも日本の偉人と言っても良い。深谷(榛澤郡血洗島村)の渋沢、本庄(児玉郡保木野村)の保己一、熊谷(幡羅郡俵瀬)の吟子と数えると、この三人が揃って埼玉県北部の利根川に近いところで生まれているのも気にかかる。利根川の氾濫地であること、舟運が発達していたことが、何か精神形成に影響を与えたものだろうか。
     「からくり人形が出てこなくなっちゃったの。」「何、それ。」小さな時計台の真ん中の透明な箱の中に、緑色の服を着たおかしな人形が立っている。詰まらないものだと判断して私が見過ごしていたものだ。イトはんによれば、この人形の代わりに渋沢栄一の人形が出てきたらしい。「カメラを出そうとしているうちに引っ込んじゃったのよ。」何かの瞬間にこの人形が上に上がり、下から人形を抱えた渋沢の像が出て来たらしい。「可愛かったわ。」
     ネットで調べてみると、人形がくるくる踊りながら、時報を打つタイミングで台ごと上がり、下から両手に日本人形と西洋人形を抱いた渋沢がせり上がってくる仕掛けだ。写真で見る渋沢の顔は実物よりも少し細く作られているようだ。

      絡操の出を見逃すや寒の駅   蜻蛉

     昭和二年(一九二七)、悪化する一方の日米関係を憂い、シドニー・ギューリックの提唱で親善活動が行われ、その一環として一万二千七百三十九体のアメリカ人形が日本にやってきた。仲介したのが渋沢である。またその返礼に渋沢が中心になって市松人形が集められ、五十八体がアメリカに贈られた。それを記念したものだろう。
     ところで、このおかしな人形は深谷市のシンボルで、「ふっかちゃん」と名付けられている。頭に二本生えた角は深谷ネギだ。緑の部分を短く切って二股になった部分が上を向いているので、鹿の角のように見える。最近、こうしたおかしなキャラクターをシンボルにする町が多い。

    ウサギのようでシカのような「ふっか」という生きもの
    地元名産「深谷ねぎ」のしなやかで豪快な角が特徴
    胸には、市の花「チューリップ」のボタン
    とてもカワイイ、あま~いマスクで深谷市の魅力を発信中!
    (公式HPhttp://www.fukkachan.com/profile.html)

     駅前から出る路線バスは国際十王交通の熊谷行き、武蔵観光の寄居車庫行きの他は、「くるリン」が四系統走っているだけだ。それにしても「ふっかちゃん」と言い、「くるリン」と言い、こういう命名が私はあまり好きではない。こういうことを言うと、私自身がチロリン、クルリンなんて渾名を付けていることに非難が集まるかも知れない。世界は矛盾に満ちているのだ。
     そのくるリンはマイクロバスだった。北コース西循環。百円で一日乗り放題なのだが、日に二便しか走っていないのだから、そんなに有難いようではない。私たちのほかに老婦人が四五人、若い女性が一人いるので、千意さん、宗匠、私は後ろの方で立つ。私たちがいなければ、五六人しかいない乗客のために走るバスである。営利企業ではとても運行できない。
     最後尾で立っていると頭が天井につかえて首を曲げなければならず、このままで三十分以上も我慢するのはちょっと苦しい。「ちょっと前に移りましょうか。」帽子を自慢しているダンディとスナフキンが最前列の席に並んで座っているのがおかしいと宗匠が笑う。

      バス席の競ふがごとく冬帽子  閑舟

     駅前の通りを抜けると、バスは右に曲がり左に曲がって走るから、地図を見てもどこを走っているのかよく分からない。時々、停留所の地名と地図が一致するのが確認できるだけだ。しかしこの運転手はカーブやブレーキ操作がいささか乱暴ではあるまいか。たぶん乗客が立っていることを想定していないのである。ひとり老婦人が乗って来たので隊長がすぐに席を譲る。このバスはほとんど老人のために動いているようだ。
     最後尾の席に座っている女性に隊長が話しかけたものだから、私たちが渋沢栄一の生地に向かうことを知って、彼女は頻りに渋沢の悪口を言う。「村のためには何もしなかったんだよ。駅前の銅像だって持参金付きで来たんだから。」持参金付きというのは意味が分からない。日本近代資本主義形成のために奔走して、地元のことを考える暇は余りなかっただろう。しかし、日本煉瓦製造を深谷に設立したのは渋沢である。
     その煉瓦工場の話になると、もう一人、若い女性が話題に参加する。「今は動いてないんですよ。」「私の子供の頃はまだ営業してました。小学生の頃に工場見学しましたよ。」昭和四十三年まで稼働していたというから、ほぼこの女性の年齢が推測できる。今では内部を見ることができないのだから、概要だけを書いておこう。煉瓦はホフマン輪窯というものによって作られた。

     ドイツ人の窯業技術者フリードリッヒ・ホフマンが考案した大量生産用の煉瓦焼成窯です。全長56.5m、幅20m、高さ3.3mの総煉瓦構造です。
      内部には18の焼成室があり、各室に煉瓦の搬出入口、燃料の石炭投入口、排煙口が設置されています。この焼成室を窯火が巡りながら常時煉瓦を焼成することにより、月産約65万個の煉瓦生産高を実現していました。燃料の石炭は1日あたり約6tで、投炭坑の数は各室35あり、18室の合計は630にもなります。1つの焼成室に1万8000個の煉瓦が収容できるため、18室で32万4000個を焼成することができました。
      竣工当時には、窯は地上3階の木造上屋(うわや)に覆われ、二階は燃料投入室、3階は煉瓦乾燥室とされていました。本窯は明治40年頃に建造され、昭和43年までの約60年間生産を続けていました。現在上屋は撤去されたが、残った柱材、二階床面と燃料搬入用のトロッコレールが操業時の様子を伝えています。煙突も当初煉瓦構造でしたが、関東大震災により倒壊し、現在の鉄筋コンクリート構造となりました。
     http://www.gijyutu.com/ooki/tanken/tanken2000/nichiren/nichiren.htm

     その巨大な煙突が見えてきた。旧事務所は史料館になっているが、下見をした隊長の話では開館するのは金曜だけらしい。「いつもは開いてないよ」と老婦人が言う。「金曜だけですね。」「毎週かい。」「いつもじゃないですよ。金曜に。」「だから毎週かい。」隊長と老婦人の会話がなかなか噛み合わない。バスはこの辺でグルッと回ったから、すぐにもっと良く見える場所を通り抜ける。それにしても、折角の資料館を金曜しか開かないのは勿体ない。土曜日に開いてくれた方が余所者には有難い。
     「渋沢って人は莫大な借金こさえて出て行ったんだよ。借金の証文を持ってる人、いくらでも知ってるよ。」また悪口が始まったが、これは眉に唾をつけて聞いた方が良い。渋沢の生家は藍玉の取引額が年に一万両にも達した豪農である。当時の渋沢家で借金なんか考えられない。
     このご婦人は水戸の人だという。「疎開で深谷に来てそれっきり。母親が深谷だったからね。でも水戸に帰りたいよ。水戸はいい町だ。」ロダンが聞けば喜ぶだろう。「戦争中だって食料に苦労したことないよ。魚屋が売りに来るんだから。」「うちのメンバーにも水戸の人間がいます」と隊長が言うと、「水戸ったって、町外れじゃ仕方がない。うちはお城のすぐ目の前だよ」と答える。何の根拠もなく、ロダンの家は町外れにされてしまった。どうもこの人の感覚には独特なものがあって、余りお付き合いしたいタイプではないね。
     そのひとは予想通り福寿荘前で降りて行った。「お風呂に入りに行くんだよ。」「温泉があるんですか。」「普通のお風呂だよ。リクレーションだからね。」これは老人福祉センターで、入浴施設があるのだ。一緒に三四人が降りたので、やっと席に座れた。

     目的の停留所に着いたのは十一時八分だから、三十五分乗っていたことになる。「渋沢だ。」「この家もそうだよ。」この辺の家の表札は渋沢だらけだ。そして風格のある門にやって来た。ここが渋沢栄一の生まれた場所である。深谷市血洗島二四七番地。かつての地名は武蔵国榛沢郡血洗島村になる。榛沢郡は幕府領、旗本領、藩領に細かく分けられていたが、この血洗島村は岡部村、手計村などとともに安部氏岡部藩に組み込まれていた。
     血洗島とは随分おどろおどろしい地名だが、その由来に定説はないようだ。腕を斬られた武士の血で川が染まったなんていうのは論外だろう。利根川の氾濫地であり、「地荒れ」あるいは「地洗い」の転とする説が有力だ。もうひとつアイヌ語源説がある。血洗をケッセンと読めば気仙沼、厚岸などと共通して、岸や末端を意味するのではないかとも言う。
     重厚な瓦を吹いた切妻屋根の門の左には、「青淵翁誕生之地」と記した石標識が立っている。素早く側面を観察していたダンディが、「露伴ですよ」と声を出す。見ると「題筆幸田露伴先生」とある。露伴には渋沢の伝記があるからね。
     門を潜ると、石畳の続く広い前庭の正面に大きな二階家が建っている。「養蚕やってたんだな。」ドクトルはすぐに気が付いた。屋根に煙出しの天窓が作られているから典型的な養蚕農家だ。右側には蔵が二棟建っている。かつて青淵塾・渋沢国際会館というものがあったとき、日本語や日本文化研究を目的とした海外留学生のための寮として使われていたと言う。
     豪農ではないか。実は私は渋沢の伝記は余りよく知らず、ごく普通の農家の出身だと思っていたのだが、完全に間違っていた。左の池の畔には若い武士姿の栄一の銅像が立つ。大きな台石に「若き日の栄一 Eiichi in Paris 1867」のプレートが嵌め込まれているから、パリ万博に派遣された二十六歳時の姿である。笠を手にしている所を見ると、パリ到着の直後に撮影した写真からとったものだろう。晩年とは違ってまだ痩せている。

     蝋梅や幕末のパリ若き武士  蜻蛉

     解説員が待機していて、土間に入って説明を聞くことになっている。朝、隊長が作ってくれた資料を見て、ドクトルが「中の家(なかんち)」の意味が分からないとぼやいていたから、私も気になっていた。「中の家ってどういう意味でしょうか。」「すぐにご説明します。こちらに入って下さい。」少し先走りすぎたようだ。
     この辺りに渋沢一族の家は十七軒あり、それぞれ区別するために位置関係で屋号を決めたのである。ここは一族が住む集落のほぼ中心部に位置していたから中の家と呼ばれた。他に東の家(ひがしんち)、北の家(きたんち)、前の家(まえんち)、など様々に呼ばれる家があった。東の家からは遥か後に渋沢龍彦が生まれてくる。
     おそらく戦国の武士が土着したもので、武田の家臣だったという説、あるいは新田氏に関係するとの説もあるようだが、証明するものはない。但し武士であったことは間違いないというのが、露伴『澁澤榮一傳』の結論だ。土着した当初の五家が江戸時代を通じて分家増殖して、栄一の時代には十七家になっていた。

    一族勃興の気運は、「前の家」から出て新たに「東の家」を興した初代宗助(長登)に始まる。両親の貧苦困窮する姿を見て発奮、十三歳の時に自ら進んで上州尾島宿(現太田市)の呉服商に奉公に出た。郷里に帰ってのちは、最初飴菓子の行商などをして次第に財を貯えたという。
    二代宗助(政徳)、三代宗助(徳厚)と続き、養蚕や藍玉の製造・販売に活路を見出し、やがて巨万の富を築くことになる。
    栄一が育つころには、血洗島で一番の物持ちが「東の家」、次が「中の家」と呼ばれるまでになった。また、初代宗助の次男龍輔(号仁山)(渋沢仁山)は、分家して「古新宅」の祖となり、自邸内に私塾「王長室」を営み、一族の間に学問・芸術の世界に寄せる深い愛情と理解を根づかせる大きな要因となった。(「渋沢一族」より)
    http://fukapedia.com/wiki/%E6%B8%8B%E6%B2%A2%E4%B8%80%E6%97%8F

     「ここが生まれた場所ですが、生家ではありません。」明治二十八年、妹テイと婿養子の市郎夫婦によって建て替えられたものである。栄一は渋沢市郎右衛門・えい夫妻の長男(実は三男だが、上二人が夭折した)だったが、東京に出た栄一の代わりに家を守るため、妹テイに婿を迎えたのである。父の名の市郎右衛門は代々襲名するもので、襲名前は元助という。東の家の三男で、えいの婿になったひとだ。
     市郎・テイ夫婦からは元治(名古屋帝国大学初代総長)、治太郎(埼玉県議・八基村長)が出た。その元治が九十八歳で揮毫した書が掲げられている。「本立而道生」。九十八歳の筆とは思えない立派な筆跡だ。「この年齢になれば字が震えるのが普通ですが、立派なものです」と説明員も力説する。長寿の血統だ。
     「論語」学而編にある言葉で、「有子曰、其為人也、孝悌而好犯上者鮮矣、不好犯上而好作乱者、未之有也、君子務本、本立而道生、孝悌也者、其為仁之本与。」からとられた。君子は本を務む。本立ちて道生ず。
     玄関の土間から南の縁側に沿って十畳の部屋(玄関の間・座敷・上座敷)が一続きになっていて、一番奥の床の間付きの上座敷が栄一帰郷の際に宿泊する部屋だった。栄一のために特別に造作したということで、真ん中の座敷との境の欄間は透かし彫りになっている。欅の一枚板、杉の一枚板とかいろいろ説明されたが、私は良く分からないまま全て忘れてしまった。
     「タガヤサン、知りませんか。鉄刀木と書くんですが。」それなら栃木の旧家で聞いた記憶がある、と宗匠に言ってしまったが、記録をひっくり返せば、栃木ではなく野田の茂木佐邸の柱であった。謹んで訂正する。とにかく堅い木だと言う。「黒檀や紫檀と並ぶものですよ。」これを床柱に使った(と言ったと思う)。手作りのガラスも同じ時に見ている。
     玄関の間の奥が茶の間、その奥が次の間、中の座敷の奥二部屋が寝間になっている。どの部屋も全て十畳だからかなり広い。二階は蚕室になっているが上座敷の部分だけが二階を持たないのは、栄一のためであろう。
     市郎右衛門(元助)は年間に藍玉一万両を商う豪商であり、養蚕や金融も営んでいた。先代の時分にはやや衰えかけていた家だが、市郎右衛門の才と努力で家産を増やし、組頭にまでなって苗字帯刀を許された。名主、組頭、百姓代が村方三役で、村落支配機構の末端としての役を担う。この格式に従って家の造りも決められていて、長屋門と玄関は名主だけに許される。組頭の家は冠木門が普通だったようだ。ただこの家は明治になって造られたものだから、それには拘っていない。
     藍葉を仕入れ、藍玉を売って利益を得るためには商才が要る。栄一自身も十四歳頃から単身で越後や信州まで仕入れの旅に出かけたことから算勘や交渉の力が付き、後に近代的な経済思想を吸収しやすい性格を養ったと考えられている。
     土間には栄一関連の写真が飾られ、藍玉商の名残を示す遺物が展示されている。鬼瓦や軒丸瓦に飾られた文様は、ちぎり「りゅうご(輪鼓)」と呼ばれるものだ。輪鼓は独楽の一種で、鼓のように括れた部分に糸を挟んで独楽を操作する。ここにある紋は三角形を繋げた形の、中央のくびれた部分に一本の線を引いた形だ。「これが家紋ですか。」「違います。家紋は丸に違い柏です。これはブランドですよ。ルイヴィトンみたいな。」藍玉商としての商標だった。
     藍はタデ科であって、その葉が展示されている。「タデ食う虫も好き々々って言いますね。どういうわけか、この葉には不思議なことに虫が食った跡がありますが。」確かに直径一センチほどの穴が開いているが、別に不思議ではない。苦くて他の虫が食わないタデも、好んで食う虫がいて、これを蓼虫(りょうちゅう)と呼ぶ。主にホタルハムシ(蛍葉虫)という虫の類らしい。甲虫目カブトムシ亜目ハムシ科だから、蛍の仲間ではない。
     「これは何。」その隣の展示ケースには、黒い粘土のカケラのようなものが置かれていて、ドクトルが質問する。「藍玉です。」「こんな小さい。」「カケラです。」聞かなければ、藍玉とはこんなに小さいものかと誤解してしまう。

    藍玉とは、藍の葉を発酵・熟成させた染料である蒅(すくも)を突き固めて固形化したもの。玉藍とも。
    藍の葉を収穫して乾燥させた後、蔵の中で寝かせ、これに水を打って良く湿らせながら上下に撹拌し、約七五~九〇日間発酵させたものを再び乾燥させると、無色の物質であるインジカンが酸化されて青色のインジコへと変化して、その色が濃くなることで黒色の土塊状の物質が出来る。これを蒅と呼ぶ。蒅の状態でも染料としては十分使用可能であったが、運搬に不向きであったために後にこれを臼で突き固めて乾燥させて扁円形の小さな塊にすることによって運搬を容易にしたこれが藍玉である。(ウィキペディアより)

     「藍染めは酸化作用なんですよ。」ここで酸化作用なんて言葉を聞くとは思わなかった。そうだったのか。化学も私にとっては難問である。

    草木染めの多くは媒染剤を用いて定着させます。が、数少ない例外としてあげられる草木染めの代表格が藍染。媒染剤を必要としません。大気中や水中の酸素による酸化によって、色素が不溶化します。また綿でも麻でもよく染まります。(藍染め)
    http://www2.wbs.ne.jp/~ichiba/arekore/kusakizome/12.html

     色素が不溶化するということが、つまり繊維に付着し色を染めるということになるらしい。藍は特に阿波のものが良質だったが、武州では土壌が適していたため、荒川流域と利根川流域で栽培が盛んに行われた。幕末期のデータは見つけられなかったが、明治九年のデータでは、徳島県が全国生産の二十九・四パーセント、埼玉県が第二位で九パーセントを占めた。それほど違っていないだろう。阿波が突出しているが、武蔵国の藍もなかなか健闘していたのだ。
     パリの万国博覧会に出かけるときの写真、これは庭にある銅像のもとになったものと、パリ到着後すぐに断髪した写真が並べてある。「奥さんに送ったものです。この写真を見て奥さんは悲嘆にくれたそうです。」奥さんというのは、尾高惇忠の妹・千代である。当時、武士が髷を切るのは非人に転落したように思われた筈だ。
     後で行くことになるが、尾高惇忠はここから東に一キロほど行った手計村(テバカ)で藍玉を商う家に生まれ、藍香と号して塾を開いて論語を講義した。栄一は七歳からそこで論語を学んだのである。惇忠の母やへが渋沢宗助の妹で、栄一にとっては十歳上の従兄に当たる。だから千代とも従兄妹同士だ。宗助は市郎右衛門の長兄で、「東の家」当主にして血洗島村名主である。
     また彰義隊を結成して初代頭取となる渋沢成一郎(喜作)も従兄に当たる。そして彼らの精神的な祖形をたどれば、渋沢仁山(にたどり着く。渋沢本家の次男に生まれ、学塾「王長室」を開いて地元の子弟に論語を教育した。宗助、文平(成一郎の父・文左衛門)、元助(栄一の父・市郎右衛門)の兄弟も全て仁山の教えを受けている。
     「渋沢の号の青淵は尾高惇忠が名付けたと言われています。惇忠の号は藍香です。すると考えられるのは。」「青は藍より出でて藍よりも青し、ですか。」「そうです。自分を超えてくれという願いを込めたんではないでしょうか。」ただこれは解説員の想像であり、裏付けるものは私には発見できなかった。この近くにあった青い淵に因んだというのが一般的な説明だ。
     栄一、惇忠、成一郎等は天朝組を結成し、文久三年(一八六三)十一月、高崎城乗っ取り・横浜異人館焼き打ちを計画したが、尾高長七郎(惇忠の弟)の説得で断念した。長七郎は京都に在って、八月十八日の政変以降、尊攘派が追放されるのを目撃していたのだ。これは会津と薩摩の公武合体派が、京都の尊攘派を一掃したクーデターである。「土津川の天誅組の敗北も影響したようです。」政変の前日に大和五條で挙兵した天誅組も、この政変によって朝敵とされ九月末には壊滅している。
     栄一等の計画は、桃井可堂(武蔵国榛沢郡北阿賀野村)の慷慨組(天朝組ともいわれる)が、信州沼田での挙兵を計画したことに呼応したものだった。しかし慷慨組の計画は幕府に漏れ、桃井可堂は川越藩に自首して江戸に送られ、後自決した。この可堂も若き日に渋沢仁山の教えを受けた。
     幕府の追及を恐れた栄一は名目上の勘当を受けて出奔し、旧知の一橋家の重臣平岡円四郎を頼って京都に上った。この頃、栄一を含めて従兄たちは尊王攘夷の過激派そのものであった。やがて栄一は平岡の引きを得て一橋家に仕官することになる。そして慶喜が将軍になるや、栄一も自動的に幕臣となった。
     慶応三年(一八六七)フランス政府の招待を受けて、四月に開かれたパリ万博に幕府は徳川昭武(慶喜の弟・十四歳)を代表に、外国奉行向山隼人正、支配組頭田辺太一等二十五人の使節団を送った。この中には昭武の身辺護衛のために尊攘派の水戸藩士も含まれた。渋沢は奉行方庶務会計担当である。しかし幕府使節団がパリに到着するよりも早く、薩摩藩が「日本薩摩琉球国太守政府」の名で来ていた。なんとか隣り合って展示をしたようだが、かなりの悶着が起こった。
     万博の後は留学を続ける筈の昭武だったが、大政奉還のニュースはパリにも到着した。向山、田辺、付き添いの水戸藩士らは帰国したものの、昭武は留学を続けることが認められ、渋沢とともにパリに残った。この時期、イギリス、ドイツ、オランダ、ロシアにも留学生がいた。しかも幕府が派遣しただけでなく、薩摩長州等雄藩の学生も多かった。彼らの帰国に必要な費用は全て渋沢が捻出した。しかし昭武にも新政府の帰国命令が下され、翌年十一月に日本に帰って来た。既に元号は明治になっていた。この辺りの事情は、石附実『近代日本の海外留学史』に詳しい。
     母屋の周りは歩いて回れるようになっている。西側には土蔵が二棟建っている。これで蔵は合計四棟あるのだ。裏庭の竹林の向こうは河川敷の公園になっているようだ。
     門を出れば一族の墓所がある。直方体に笠を載せた形のものが多い。それに「渋沢家之墓」「渋沢家代々之墓」がいくつもある。「どれがどれだか分からないな。」

     東隣の家も古そうな二階家だ。「お食事処って書いてある。」煮ぼうとう店「藍屋(らんや)」であった。この建物は元々渋沢家の番頭の家だったそうだ。

    「煮ぼうとう」とは、小麦粉が比較的容易に手に入れることが可能であった土地ならではの、工夫と知恵がたっぷり入った深谷の郷土料理です。
    特徴は、幅広の麺(およそ2.5cm、厚さ1.5mm程度)と、特産である深谷ねぎ、地元で収穫される野菜類をたっぷり使い、生めんの状態から煮込んでいるところです。生めんから煮込むことで、適度な「とろみ」があり、しょうゆで味をつける、深谷の冬の定番メニューです。(深谷市観光協会http://www.fukaya-ta.com/niboto/)

     長ネギ、白菜、人参、しめじ、牛蒡、干し椎茸、鶏肉、油揚げなどを入れるらしいが、これなら家庭で作るものではなかろうか。敢えて店を出すのは、渋沢生地にやってくる観光客を当てにしたのだろうが、果たして客は来るのだろうか。今は十一時五十分。私たちのほかに歩いている人は誰もいない。
     川沿いに広がるのが青淵公園だ。栄一が手計村の尾高の塾に通った道で、「論語の道」と名付けられている。渋沢の言葉とその解説が記された看板がいくつか立っている。看板のタイトルは「渋沢栄一の言葉 今、日本に必要な精神」である。一枚だけ写真に撮っていると、「それだけかい、他には撮らないのか」と笑われる。こんなものは一枚だけで充分だ。折角撮ったから紹介しておこうか。

    私は仏教にも基督教にも帰依せぬ無宗旨の人でありますけれども、人として人を殺す以上の罪悪は無いと思うのでございます。

     実に平凡な感想である。ただ、かつては尊攘派の過激派として横浜焼き打ちも考えたことを思えば、感慨も浮かんでくる。「論語と海外見聞。これが渋沢の柱ですね。蜻蛉も海外旅行をしなくちゃいけない。」またダンディに言われてしまった。しかし、渋沢の時代とは違う。これだけ情報が流通している時代に、特に海外旅行に行かなくても私に支障はない。「だからダメなんですよ。」そもそも日本のことだって、知らないことが多すぎるのである。人生の残りの年数を数えれば、海外なんか行っている暇はない。

     若者よ 論語と算盤携えて 今日の日本を 明日の世界を  千意

     千意さんは教育者に向いていそうだ。私のような頑迷固陋とはまるで違う。『論語と算盤』は渋沢の著書の書名でもある。これを「倫理と経済」と言い換えても良いだろう。元々アダム・スミスがグラスゴー大学の道徳哲学の教授であったこと、マックス・ヴェーバーが『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』を書いたことを思い出せば、経済は倫理と結びつかなければとんでもないことになるのは分かり切ったことだ。
     かつてインサイダー取引で逮捕された村上世彰が、「金儲けって悪いことですか」と尻をまくったが、株の買占めによる株価釣り上げと売り抜けの横暴な手法が非難されたのである。私たちはそこにモラルの欠如を見た。勿論モラルの在り方は時代によって変わるから、今でも論語やプロテスタンティズムが有効とは限らない。私は惻隠の情こそが大本になければならないと思っている。
     有賀裕二「渋沢栄一と『論語』(http://c-faculty.chuo-u.ac.jp/~aruka/rongo2008.pdf)のなかに、渋沢の自叙伝の中の言葉を見つけたので孫引きしておく。この感覚を古いと言う人は、私とは違う種類の人である。

     私は取引所の必要を認め、その発達のためには及ばずながら微力を尽くしたのであるが、私自身はその事業には携わらなかったのみならず、投機に類似した事にも一切手を出さなかった。
     ・・・・私自身も鉄道債券を買い込んで置けば大いに儲けることが出来たのであるけれども、私自身では只一枚の鉄道債券も買わなかった。
     ・・・・私の信条からすれば、如何に確実な債券であるにしても、将来騰貴するのを予想してこれを買い込み、その騰貴に依って儲けたのでは結局投機に依って金儲けした事になり、絶対に投機には手を染めぬという私の信念を傷つけるに到るからである。
     殊に私は他人の金銭を預かって居る銀行事業に関係し頗る重大な責任を担っている身を以て、投機に関係するが如き事あっては、自然世間の信任に背きまた自分の職責を完うする事が出来ない。

     左手の方を見やるとサギのような鳥が二羽立っていた。「あれは何かな。」「アオサギじゃないの。」宗匠が適当に答えているうち、一羽は飛び去って行った。

      冬鷺の一羽残りて論語読み  蜻蛉

     八基(やつもと)小学校の校庭の金網際に随分太いクスノキが立っていた。「スゴイワネ、巨樹じゃないの。」幹回り五メートル四十センチとあるが、二三本が捩れたようにくっついたように見える。
     風が随分冷たくなってきた。北の方には上州、野州の山並みがくっきり見える。「男体山が見える筈なんだけど、今日は見えないね。」見えるのは日光白根山や赤城、榛名らしい。スナフキンは頻りに隊長に山の名前を訊いているが、ちゃんと理解したのだろうか。「若い頃にはあの辺は随分登ったんだけどな。」宗匠と私が区別できるのは富士山だけだ。
     「腹へってきたよ。」もう昼を過ぎたが弁当を広げる場所があるだろうか。しかし隊長は何も言わずに真っすぐ進む。やがて大きな建物が見えてきた。建物の裏側にあたるベランダに、北を望んでかなり太った足の短い男の像が立っている。これが渋沢である。つまり、この建物は渋沢栄一記念館・八基公民館であった。十二時十分。
     隊長が受付で「十二時半に予約してましたが、弁当を使わせて貰っていいですか」と尋ね、体育館を開けてもらった。玄関ホールには、等身大の渋沢の写真が立てられている。随分背が低く、太っている。六十三歳の時の身長は五尺三寸(一六〇・六センチ)、体重十八貫(六七・五キロ)という記録がある。現在の基準ではかなり低いが、江戸時代の庶民男子平均身長が一五七センチというから(鈴木尚『骨は語る 将軍・大名家の人々』)、これでも平均より少し上であった。
     因みに坂本龍馬が一六九センチ(写真からの推定)、勝海舟一五六センチ、近藤勇一六二センチ、土方歳三一六七センチ、西郷隆盛一八二センチ、大久保利通一七八センチ、山岡鉄舟一八七センチ、福沢諭吉一七三センチなんていう数字を見つけた。(「歴史上の人物 身長あれこれ」よりhttp://blog.goo.ne.jp/sakura707_2006/e/7c5abce89a059b078ee307ffe6b1a770)。鉄舟は現代の基準で見ても大男である。これだけのデータで何事かを言える筈はないが、西の方が体格が良さそうに見える。また五代将軍綱吉は一三〇センチもなかったと言う。当時の基準でも奇形ではないか。
     先にトイレを済ませてくると、隅に積み重ねてあった椅子が今度は横一列に並べてある。弁当と言うのは、こんな風に横に並んで食うものだろうか。しかしわざわざ動かすのも面倒だ。イトはんとカズちゃんは、床に座り込んでしまった。それよりは椅子のほうが疲れないと思う。
     飯を終えて玄関ホールの隣の記念館の方に行くと、館長が早く説明をしたそうに待機しているが、まだ全員が揃わない。「それじゃその写真でも眺めていてください」と言いながら、記念館入口脇で説明を始める。なんだか渋沢の体型に良く似たひとだ。
     漸くカズちゃんとイトはんも食事が終わって体育館を出て来たので、揃って記念館に入る。「飛鳥山の史料館には行かれましたか。」「行きました。」「ここでは主に生誕地に関連するものを中心に集めています。」
     最初は年表の前に立つ。「尊王攘夷の過激派が一変して佐幕派に転じます。ここにはいろいろややこしい事情があったのですね。」私たちはもうそれを学習済みだ。「千葉道場に入門しています。この頃、坂本竜龍馬も千葉道場にいましたから、面識があったかも知れません。」「龍馬は桶町ですよね。」「定吉の。渋沢は神田お玉が池の玄武館、千葉周作の方でした。」
     栄一が千葉道場に学んだのは文久元年(一八六一)と三年(一八六三)の二度だったようだ。このとき千葉周作はすでに亡く、玄武館の当主は「千葉の小天狗」栄次郎になっていた。しかし栄次郎は文久二年に三十歳の若さで急死し、文久三年に渋沢が上京した時は、高弟の下江秀太郎が塾頭になっている。
     そして龍馬が江戸に来て千葉道場に入門したのが嘉永六年(一八五三)で、安政元年(一八五四)には土佐へ戻っている。二度目が安政四年(一八五七)から五年にかけてのことで、玄武館にも通ったらしいが、栄一とは年代的にずれている。
     栄一が関係した会社の一覧表もある。一々数え上げるまでもなく、資本主義勃興期の日本で渋沢が関係しなかった会社を数えたほうが早いだろう。そして三菱等の財閥と違って、渋沢は株を大量に保有してその会社を支配するようなことは考えなかったようだ。
     渋沢が初代頭取に就任した第一国立銀行が民間企業だというのは初めて知った。全く私は経済史の知識がない。アメリカのNational Bankの訳語で、国法によって立てられた銀行の意味だというのだ。当時、イギリス流の中央銀行制度とするのか、アメリカ流の分散的な国法銀行制度を採るかで、伊藤博文と大隈重信・井上馨との間で議論があったようだ。最終的には伊藤博文の、統一は必要だがまず作って運用してから後に統一するのがよいという判断に基づいたものだったらしい。結局明治五年(一八七二)に国立銀行条例が制定され、翌年に国立第一銀行が設立されたのだ。
     「百五十三まで作られましたね。」民間銀行ではあっても紙幣の発行が許された。百五十三もの銀行が独自に紙幣を発行するなら、すぐにインフレになってしまうだろう。明治十五年(一八八二)に日本銀行が設立されると、これら「国立銀行」の紙幣発行は廃止される。この辺の事情には、金本位制と兌換紙幣、不換紙幣の問題が絡んでいるようだ。
     展示ケースには渋沢の肖像が描かれた紙幣が並べてある。こんなものの存在は知らなかった。明治三十五年(一九〇二)から三十七年にかけて、大韓帝国で第一銀行が発行し、公用紙幣として通用したものだ。因みに大韓帝国の名称は、明治三十年(一八九七)から四十三年(一九一〇)の日韓併合まで、僅かな期間に李氏朝鮮が使用した国名である。
     このとき一円、五円、拾円札が作られ、「券面の金額は在韓国各支店に於て日本通貨と引替可申候也」と印刷された。これが韓国における紙幣制度の始めになる。まだ日本の植民地になっていない時期に、日本の銀行が発行した紙幣が国の公用紙幣に採用された訳だ。
     第一次日韓議定書が調印されたのは明治三十七年(一九〇四)二月、八月には第一次日韓協約が成立し、韓国は日本政府の推薦する者を財政・外交の顧問に任命しなければならなくなった。そして最終的に日本が韓国を併合するのは明治四十三年(一九一〇)のことである。
     おかしいのは、これに並べて拾万円札がおかれていることだ。冗談かと思ったが深谷市では、拾万円札を発行してその肖像に渋沢を採用させようという運動があったらしい。平成十五年(二〇〇三)に地元の商工業者が一万三千枚を見本として作ったものだという。
     実は日本銀行券の肖像に栄一が候補になったことがある。但し当時は偽造対策技術が今ほど進歩していなかったため、偽造し難いヒゲが必要だった。栄一は当時の人としては珍しくヒゲがない。そして採用されたのが伊藤博文である。
     イトはんは「養育院」に注目する。「板橋の大山にありまして、今は東京都の老人医療センターになっています。」その場所は知っている。「養育院って、老人保護のためのものだったんですか。」「最初は、維新戦争で親を亡くした孤児のためのものでした。」しかし、単なる孤児院ではなかったようだ。

     養育院は、明治五年(一八七二)一〇月一五日に創設された。維新後急増した窮民を収容保護するため、東京府知事大久保一翁(忠寛)の諮問に対する営繕会議所の答申「救貧三策」の一策として設置されたものである。この背景には、ロシア皇子の訪日もあった。事業開始の地は、本郷加賀藩邸跡(現東京大学)の空長屋であった。その後、事業拡大などのため養育院本院は東京市内を転々としたが、関東大震災により大塚から現在地の板橋に移転した。養育院設置運営の原始資は、営繕会議所の共有金(松平定信により創設された七分積金が新政府に引き継がれたもの)である。
     養育院の歴史は、渋沢栄一を抜きには語れない。営繕会議所は、共有金を管理し、養育院事業を含む各種の事業を行ったが、渋沢栄一は明治七年(一八七四)から会議所の事業及び共有金の管理に携わり、養育院事業と関わるようになった。明治一二年(一八七九)には初代養育院長となり、その後亡くなるまで、五十有余年にわたり養育院長として事業の発展に力を尽くした。
     養育院は、鰥寡孤独の者の収容保護から始め、日本の社会福祉・医療事業に大きな足跡を残した。平成一一年(一九九九)一二月、東京都議会において養育院廃止条例が可決され、一二七年にわたる歴史の幕を閉じた。
    (「東京都台東区の歴史」より)http://tokyotaito.blog.shinobi.jp/Entry/409/

     設立当初の目的は「窮民を収容保護」することであった。ロシア皇子アレクセイの目に窮民の姿を見せないために、街路から一掃して一カ所に収容してしまえという思惑が政府の中にあったのは間違いない。現代だって同じことをする。
     但し大久保一翁(忠寛)は勝海舟を見出して登用した、幕末の有能な開明官僚である。社会福祉の観念を理解していた可能性がある。ここに「七分積金」という言葉が出てきた。寛政の改革によって町方に積み立てを命じ、飢饉のための備蓄米や貧困者への救助に充てたものだ。江戸時代にも社会福祉思想の萌芽はあったのだ。維新後、およそ百七十万両の積立金が東京市に引き継がれていた。これを東京市は銀座の煉瓦街やガス灯整備に充てていたが、その本来の趣旨に沿った使い道をすべきだと大久保一翁が考えたのである。
     「渋沢栄一は福祉にも強い関心があったんですね」とイトはんは感激する。「母親のえいさんの影響だと考えられます。」すぐ近くの鹿島神社の境内に井戸があり、その水で共同浴場が営まれていた。えいは、そこに来る癩者の体を自らの手で洗ってやったというのである。「それを渋沢栄一は見て育ったんですよ。」
     宮前千雅子『前近代における癩者の存在形態について』によれば、癩者は単に感染の恐れのある病者ではなく、穢多身分と同じように、ひとつの差別される身分として扱われていた。そういう時代に、もし本当に母親がそういう行為をしたとすれば、相当に近代的な態度である。ちょっと信じ難い逸話だ。
     姫の案内で飛鳥山の渋沢史料館に行ったことがある癖に、私は今まで余り関心を持つことがなかった。見るべきものは多いがきりがない。渋沢については少し勉強しておく必要がある。ダンディは吉川弘文館の「人物叢書」の一冊を持ってきていた。「土屋喬雄って知りませんか。」知らない。「やっぱりね。日本経済史の泰斗ですよ。私は直接には習わなかったけど。その人が書いた本です。」調べてみると土屋喬雄は労農派の論客だったようだ。それならダンディとは思想が異なるのではあるまいか。それはともかく、人物叢書は日本歴史学会が編集しているから、小説としての伝記とは違って信頼性は高い筈だ。
     少し早めに記念館を出て、千意さんやスナフキンとホールで休憩していると、壁に張り出された深谷市の特産物の絵が目についた。ネギ、ニンジン、ブロッコリ、ハクサイ。「野菜ばっかりだな。」深谷は農業の町であった。土壌の特性上、米はできないが野菜の発育にはとても良いらしいのだ。館長にお礼を言って館を出る。

     「そこが鹿島神社ですが、寄りません。」隊長はそう宣言する。「だけど、井戸があるって言ってましたぜ。」「そうか、それなら行きます。」隊長は苦笑いして参道に曲がっていく。隊長の意思に逆らうのは申し訳ないが、寄って貰って良かった。
     小さな神社だが、社殿は唐破風の向拝を持つなかなか風格のあるものだ。「鹿島神社」の神額は渋沢栄一の筆になる。従三位勲一等男爵の肩書がつく。さっきの記念館で、普通の実業家は男爵止まりだが、渋沢は子爵に上ったと言っていた。尤も渋沢が子爵になるのは八十一歳だから、大抵のものは男爵時代になるだろう。ダンディがドクトルに公侯伯子男の序列を教えている。気がつくと隊長は社殿に向かって丁寧に拝礼していた。
     そして井戸が不思議なものだった。巨大なケヤキの内部が虚ろになっていて、そこに井戸が掘ってあるのだ。「不思議ですね。」「スゴイ。」こんなに虚ろになっていても、大正十三年に県の天然記念物に指定された頃はまだ生きていたようだ。幹回り三丈五尺(十・五メートル)という。今は枯れ果てて、回りは金網で囲み、上に屋根を作って針金で吊り、つっかい棒で支えて崩れ落ちないようにしている。
     境内の隅に大きな碑が建っていて、「あれは誰の頌徳碑かな」とダンディがすぐさま見に行った。「藍香尾高惇忠翁頌徳碑」だ。高さ四・五メートル、幅一・九メートル。題字は徳川慶喜、碑文は三島毅(中州)になる。三島中州は二松学舎を創設した人で、義利合一論を唱えて渋沢と意気投合している。義は倫理、利は利益である。

    渋沢の利徳合一論の背景には、山田方谷(備中松山藩の執政)の右腕として活躍した三島中州(二松学舎大学の創設者)の「義利合一」論があったと言われる。山田方谷三島中州渋沢栄一の系譜がある。
    (有賀裕二『渋沢栄一と『論語』』http://c-faculty.chuo-u.ac.jp/~aruka/rongo2008.pdf)

     神社を出て歩き始めてすぐ、ずいぶん立派な家が見えてきた。「お寺みたいな屋根ね。」「豪農だね。」これが尾高惇忠の生家であった。深谷市下手計九四三番地。この家も二階に天窓が作られている。
     黒板塀に囲まれたこの家は江戸後期、惇忠の父親によって建てられたとされている。それにしては、外観はそれほど痛みが見えない。今は誰も住んでいないようだが、「尾高浩一 豊里村大字下手計二三六」の白い表札が掛っている。豊里村が深谷市に編入されたのは昭和四十八年だから、それ以前の表札だ。この家の二階で栄一や成一郎たちが高崎城乗っ取り計画に熱を上げていた。惇忠の儒学は陽明学だと言われているから行動の人である。
     彰義隊から分離した成一郎や惇忠は振武隊を結成したが、飯能戦争で敗北する。惇忠の弟で栄一の養子となっていた渋沢平九郎は黒山村(越生)で負傷して自害した。成一郎と惇忠は函館まで転戦する。パリに行っていなければ栄一もこれに参加していた可能性が高いのではないか。
     明治になって、栄一の招聘を受けて富岡製糸場の初代場長として力を振るう。ただの儒学者ではなく、経営の才に秀でていたのは渋沢家と同じように藍玉取引や養蚕を行っていたからだろう。下記の記事を読めば、産業育成にも大きな功績をあげている。

    一八七七年(明治一〇年)、第一国立銀行頭取渋沢栄一は東北開発のため、盛岡に同行の出張所を設置、翌年二月には昇格させて盛岡支店とした。尾高は渋沢に依頼され支配人として着任する。第一国立銀行盛岡支店は、公金を取り扱うために設けられたが、東北地方の殖産興業を図るという目的も併せ持つ。来盛した尾高は盛岡の産業経済の発展に尽力した。
    一八七八年(明治一一年)、旧盛岡藩士が中心となって行った第九十国立銀行の開業に積極的に協力し、経営指導を行う。また一八八一年(明治一四年)には、商工会議所の前身にあたる盛岡商法会議所を設立、所長として盛岡の若手実業家たちに新しい経済理論や実務を教えた。この中から後の経済界のリーダーとなる人物が多数育っている。また一八八五年(明治一八年)、北上川舟運の近代化を図り北上廻漕会社を設立、最新の快速蒸気船を走らせ、盛岡‐石巻間の人と物の流れを円滑にさせた。さらに、藍問屋の出身である尾高はその専門技術を生かし、中津川付近で近代的な藍染の指導を行うなど、地場産業の指導育成にも功績を残した。明治二〇年(一八八七年)、尾高は一〇年間過ごした盛岡を後にしている。(盛岡市教育委員会)
    http://www.city.morioka.iwate.jp/moriokagaido/rekishi/senjin/007564.html

     横に回ってみると、赤煉瓦の蔵が建っていた。「煉瓦の蔵は珍しいね。」風除けの木の北側は畑になっている。
     「あれは何だい。」スナフキンは何も知らないね。あれは柚子ではないか。「それじゃあれは。」柚子よりかなり大きい。「鬼柚子だね。」「そんないい加減な。」確かに私も適当に言ってみただけだ。「夏ミカンじゃないの。」宗匠は冷静に答える。「あの小さいのはキンカン。」「一軒にあんなに何種類も植えているのか。」「この頃は夏ミカンなんて誰も取らない。」蝋梅が咲いている。
     十四号線を横切るとすぐに清水川の土手になる。北風が冷たい。名にし負う上州の空っ風、赤城颪だ。カズちゃんは耳覆いの上からフードを被り、宗匠は顔を顰めながら手で耳を覆う。イトはんの髪も逆立っている。「毛糸の帽子で良かった」と言う千意さんの頭は、耳の下まですっぽり隠れている。私の帽子は耳の半分しか覆えないが、それでも多少はましだ。

     葱畑赤城颪に背を押され  蜻蛉
     友と行く 赤城おろしの 風の中  千意

     「深谷ネギの特徴ってなんだ。」そんなことをスナフキンに訊かれたって、私に分かるわけがない。仕方がないから調べてみた。

    深谷市はネギの生産量日本一の市であり、深谷ねぎは全国的なネギのブランドとして定着している。深谷ねぎは品種名ではなく、深谷地方で栽培されたネギの総称である。根深ネギ・千住群に属する。
    http://dic.nicovideo.jp/a/%E6%B7%B1%E8%B0%B7%E3%81%AD%E3%81%8E

     深谷で栽培されれば単なる根深ネギが深谷ネギになる。これに対して下仁田ネギは品種名であった。それでは根深ネギとは何であるか。これは青葱に対して白葱と呼ばれるもので、もともと根元の白い部分が多い品種であり、土を盛り上げて白い部分を更に多く作る。しかしそれだけではない。

    特徴は、繊維のきめが細かく柔らかいこと、糖度が高く甘いこと、白根の部分が長く、皮を剥くと白く美しいこと、などが挙げられる。特に、糖度は一〇~一五度前後の糖度があるといわれており、その糖度はミカンなどの果物に匹敵する。(同上)

     ミカンに匹敵する糖度のネギなんて食ったことがない。ウィキペディア「ネギ」によれば、西日本では青ネギが好まれ、東日本では白ネギが好まれるという。ネギのことでも東西に文化の対立があったのだ。私は両方好きだ。
     そもそも深谷は、さっきから言っているように藍玉の生産地だった。それが明治三十年代後半にドイツから化学染料が輸入されると、藍の価格が暴落して産業自体が立ち行かなくなった。この時にいち早くネギ栽培に切り替えて成功したと言われる。
     古道マニアはいつも必ず双眼鏡を持っていて、今日も頻りに覗きこんでいる。鳥を観察する人は、よほど目や耳が良いのだろう。私には全く気付きもしないのに、しょっちゅう何かを発見する。

     田の一つ群れ啄むや寒鴉  閑舟

     「あれは何だい。」「ホウレンソウだよね。」「俺はポパイが好きだったせいじゃないけど、ホウレンソウも好きだった。この頃のホウレンソウは小松菜と区別がつかなくなった。」確かに、昔は必ず茹でるものだったのに、この頃では生でも食う。ホウレンソウのサラダがあるのは、私たちの年代の者にとっては不思議なことだ。
     私もホウレンソウは好きだが、シュウ酸には注意しなければならない。ホウレンソウは必ずカルシウムと一緒に食うのが原則だ。ホウレンソウのおひたしに鰹節をまぶすのは先人の知恵である。シュウ酸とカルシウムが胃の中で合体してシュウ酸カルシウムになれば、粒が大きいので血管を通さず、そのまま腸を通って排出される。ところが時間差で採った場合、それぞれが胃から血管に入りこみ、最終的には腎臓に辿りつく。そしてここで合体すれば腎臓結石、尿路結石になる。こんなものが、腎臓と尿管の付け根に詰まってしまうと実に大変だ。十五年も前のことだが、私は結局腹を切って石を取り除くために、一ヶ月入院した。
     清水川を南に下れば今度は小山川の土手にぶつかる。今度は土手に沿って西に行くとまた十四号線に出る。
     「あれが浅間山だよ。」「どこ。」「白いのが見えるだろう。」「きれいね。」この辺で冠雪した高い山を見れば浅間山と思えば良いと宗匠が笑っている。手前の山は稜線に沿って雪が模様を作っている。
     川を渡ったところが深谷市大寄公民館だ。深谷市起会八四番地一号。この敷地内に誠之堂と清風亭が建っているのだ。隊長はここでも解説員の説明を頼んである。
     「時間はどのくらい。」「そうですね、二十分程度でお願いします。」誠之堂は大正五年(一九一六)に渋沢栄一の喜寿を祝って、第一銀行の社員が出資して立てられた建物だ。最初から深谷にあったわけではない。東京府荏原郡玉川村瀬田(現:東京都世田谷区)の第一銀行の庭園である清和園内に建てられ、平成十一年(一九九九)に現在地に移築復元されたものである。名は『中庸』の「誠者天之道也、誠之者人之道也」に由来する。

     設計者は、当時の建築界の第一人者であった田辺淳吉。誠之堂の設計にあたっては、条件とされた「西洋風の田舎屋」で「建坪は30坪前後」を守りつつ、独自の発想を凝縮してこの建物を造り上げた。
     建築面積112㎡、煉瓦造り平屋建、外観は英国農家に範をとりながらも、室内外の装飾に、中国、朝鮮、日本など東洋的な意匠を取り入れるなど、様々な要素が盛り込まれ、それがバランスよくまとめられている。(パンフレット)

     設計した田辺淳吉は清水組の技師長で、飛鳥山の晩香蘆、青淵文庫も手掛けた人物だ。赤煉瓦にスレート葺きの建物で、屋根の上に煙突が立っている。これはイギリス風なのだろうか。靴を脱いで中に入り、最初に漆喰のドーム型天井に浮き彫りにされた模様を見る。「おめでたいものを彫っています。鶴と雲ですね。」これは朝鮮青磁にある雲鶴の意匠から採用されたものだ。また「壽」を図案化した模様もある。
     「次にステンドグラスを見てください。」三枚のステンドグラスの絵は漢代の「画像石」を模したものだと言う。一番右の絵は宴席に座る貴人と侍者で、この貴人を渋沢に見立ててある。その左は宴席で歌舞を披露する芸人たち、その左が厨房の料理人たちということになる。隣の部屋の天井は網代天井で、数寄屋造りの様式を取り入れているらしい。
     スリッパのままベランダに出ると、左右の角にベンチが作られていて、これが朝鮮風の木組みとオンドルをイメージしてある。
     外に出て暖炉の外側の煙突部分の壁を見ると、「喜寿」を図案化した文字が色違いの煉瓦で表される。解体復元したために、外壁煉瓦の表面に切断した跡が見える。「屋根を見てください。」切妻屋根の裏側の方だけが、反りを入れている。「日本の神社仏閣のイメージでしょうか。」
     その屋根を見れば「雨樋がないでしょう」と説明する。「お寺の屋根もそうでしょう。」確かにそうだ。それで雨垂れを受けるために軒下に石を敷く。これを宗匠が調べてくれて、砌下(せいか)と呼ぶということを教えられる。今日はいろんなことを勉強したが、果していつまで覚えていられるだろう。
     「それじゃ、清風亭に行きましょう。」こちらは白壁に黒タイルの縁取りがある。これはスペイン風だろうか。
     大正十五年(一九二六)、当時第一銀行頭取の佐々木勇之介の古希を記念して建てられたものだった。これも建築資金は第一銀行行員の出資による。社長の長寿を祝って社員が金を出して建物を建てるなんていうことを、どう考えればよいのだろう。それだけ社員に慕われたと考えるべきか。

     設計者は、敏公建築の第一人者の西村好時。
     建築面積168㎡で、鉄筋コンクリート造平屋建、外壁は人造石掻落し仕上げの白壁に黒いスクラッチタイルと鼻黒煉瓦がアクセントをつけている。屋根のスパニッシュ瓦、ベランダのアーチ、出窓のステンドグラスや円柱装飾など、西村自身が「南欧田園趣味」と記述している当時流行していたスペイン風の様式が採られている。
     大正12年の関東大震災を契機に、建築構造は、煉瓦造から鉄筋コンクリート造に主流が代わったが、その初期の建築物としても建築史上貴重なものである。

     長いテーブルが置かれているが、ダンスでも出来そうな板張りの床である。床の隅に暖房の吹き出し口がある。「床暖房なんだね。」
     そろそろ時間だ。「残念ですね、もっと話したいことが一杯あるんですが。」珍しく客が来たので張り切っていたに違いない。僅か二十分では本領が発揮できず、悔しい思いをしているのだ。「最後にあれを見てください」と言うのは、誠之堂の屋根にある風見鶏だ。鶏の下に付けられた東西南北の印が、アルファベットではなく漢字になっているのも珍しい。「それじゃお気を付けて。」随分丁寧な挨拶をされてしまった。

     木枯しや煉瓦の家の風見鶏  蜻蛉

     「土手を歩こうと思ったけど、風が冷たいから下を歩きましょう。」東西をながれる小山川の南側の農道を行く。やがて朱色の鉄橋が見えた。水の少ない用水路の上に架けたもので、備前渠鉄橋というものらしい。「キョですかね、何って読むのかな。」古道マニアも不思議に思っていた。私は「ホリ」で良いではないかと思ったが、単純に「キョ」で良かった。「備前」は伊奈備前守忠次に由来する。それなら武蔵国一円、用水は殆ど全て備前渠と呼んでも良い位だろう。
     橋は後でゆっくり見ることにしてそのまま進むと煙突が見えた。今朝バスの中から見た、ホフマン輪窯の煙突である。「特に近くに行かなくても良いでしょう。」「バスから見たからね。」どうせ中には入れないのだ。少し先まで行って用水を渡りさっきの鉄橋の方に戻る。
     これが国の指定する重要文化財とは思いもよらない。明治二十八年(一八九五)、ここ上敷面にある煉瓦工場と深谷駅を結ぶ日本煉瓦製造の専用鉄道が敷設された。この橋はその鉄道のための橋である。ポーナル型プレートガーダー橋という型式である。全長十五・七メートルある。ポーナルというのは、イギリス人鉄道技師チャールズ・アセトン・W・ポーナルのことである。備前渠用水から分岐する水路を跨ぐ煉瓦のアーチも残っている。鉄橋自体は何ということもないが、この煉瓦のアーチは風情がある。

     ここからは廃線跡の遊歩道を駅まで歩くだけだ。「右側は自転車道だぜ。」時折、ジャージ姿でウォーキングをしているらしい人が通るが、それ以外に普通の人の姿は見えない。

     空風や廃線跡の遊歩道  閑舟

     家の外壁に赤煉瓦を貼った家を良く目にする。一七号線の高架を潜るとすぐに、福川鉄橋だ。たいしたものとは思えないが、これもプレートガーター橋という形式であるらしい。無学な人間が見ると、歴史的に貴重なものでもその価値が分からないという見本だ。
     「その先にトイレがある筈なんだ。」小さなトイレの前で後続を待つ。イトはんを始め、かなりの人は橋をじっくり観察しているようで、なかなかやって来ない。
     漸くやって来た。「まだ二・五キロもあるのね。」三十分ではないか。ダンディとカズちゃんはすぐに出発する。私とスナフキンもそれに続く。「あっ、自転車が来た。」本日初めて出会う自転車だ。後ろを振り返ると、後続の姿は全く見えない。
     信号待ちの所でダンディ、カズちゃんに追いついたが、「休んじゃうと却って歩けなくなっちゃうんだもの」と、飛ぶように歩いて行く。カズちゃんとダンディが風のように去って行く姿を見ると、なんだか記憶が甦ってくる。デジャヴではない。あれは二十二年二月、神川町の廃線跡の遊歩道だった。カズちゃんは赤頭巾を被っていた。廃線跡を歩くと二人は風になるのである。

     駅に着いたのは四時十分頃だ。なかなかやって来ない後続を待ちながら、もう一度渋沢栄一像を眺めた。全員が到着したのは四時二十五分頃だ。宗匠の計測で、本日の行程は一万七千歩。十キロ程度は歩いたようだ。
     四時三十七分発の新宿湘南ラインに乗る、スナフキンは浅草まで行かねばならず、二十分程後に来るアーバンを待つと言う。「乗り換えなしで上野までいくからな。」「また飲むんですか。」「またって言っても、中学の同窓会だから必然的にそうなるのは俺の責任じゃないよ。」
     アーバンを待つ選択が正しかったかどうかは微妙な時間だ。私たちは大宮には五時三十三分に着き、いつものさくら水産を目指す。参加する積りだったイトはんは、足が痛いから早く帰って風呂に入りたいと帰っていった。カズちゃんも疲れたようだ。反省会に参加するのは六人。「少し出遅れたけど、六人なら入れるかな。」以前十人を超えて入れなかったことがあるので、宗匠は心配している。この時間だったら別にさくら水産に固執する必要はないが、ちょうど六人座れるテーブルが空いていた。
     千意さんが来年度の里山の計画案を披露して、皆に喜ばれる。足利や佐野なんて行ったことがないところばかりで、私も行ってみたい。テーブルが狭いので、食べ終わった容器はすぐに下げてもらわなければならない。しかし千意さんの注文のタイミングは絶妙で、皿が溢れてしまうようなことにはならない。
     最近伸ばし始めた私の顎髭が話題になる。正直に告白すれば、私は顔立ちが余りにも優しすぎるので少しアクセントが必要なのだ。「何言ってんの。」「喧嘩は得意でしょう。」私は誰にも理解されない。
     最後にダンディの意見でピザを食って終了する。ひとり二千三百円也。

    蜻蛉