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    平成二十五年二月二十三日(土)
     茨城県自然博物館と愛宕神社(野田市)

    投稿:   佐藤 眞人 氏     2013.03.01

     東武野田線の改札に着いた時は、丁度前の電車が発車したところだった。それでも予定通りだから、九時五分発の柏行きに乗り込んだ。見回しても仲間の姿は他に見えない。越谷方面以外のほとんどがここから乗る筈だから、たぶん余裕を持って一本前の電車で行ったのだろう。
     乗客の少ない車両に腰を落ち着け、リュックから本を取り出したところに桃太郎がやって来た。「七時過ぎですよ、出てきたのは。」私は鶴ヶ島を八時十七分の東上線に乗って来たのだから一時間も違う。海老名から来るのでは本当に大変だ。「最近は里山にはご無沙汰で。」今日も山岳会の雪中訓練があるのだが、「あんまり来ないと忘れられちゃうから」とこちらに参加したのである。
     野田線はほとんどの区間が単線で各駅停車しか走らない。あちこちの駅で上下線のすれ違いのため停車するので、大宮から愛宕まで二七・七キロの距離に四十分かかる。同じ東武でも東上線なら、池袋から川越まで三十キロを急行で三十分しかかからない。時折りすれ違う上り線の方は立っている客も多いのに、私たちの電車は空いている。大宮と船橋を結ぶ路線で、大宮方面に向かうのが上りである。
     相対式ホームばかりの駅を過ぎてくると、春日部駅は群を抜いて大きく感じられる。伊勢崎線と交差する駅だ。「沿線で一番大きいんじゃないの。」「一番は柏だろうけど。自分が住んでた頃とあまり変わってなさそうですね。」この沿線に数年で大きな変化が生じるとは思えない。乗降客数で比べてみると柏駅が最大で一日十三万六千人、大宮の十三万人、船橋駅の十万七千人に次いで春日部は第四位の七万人である。その後はずっと下がって流山おおたかの森の四万七千人、あとは三万人代から数千人の規模になる。
     春日部を過ぎれば次第に枯れた畑や雑木林が目立ってくる。江戸川を渡って千葉県に入り、愛宕駅に着いたのが九時四十五分だ。今日の集合は九時五十分と決められていて、それに間に合う最後の電車であった。
     改札の外には既に仲間が揃っている。今回は里山ワンダリングとしては珍しく、隊長の代わりにあんみつ姫が企画してくれている。集まったのは姫、イトはん、マリー、若旦那、ダンディ、ドラエモン、スナフキン、宗匠、ヤマチャン、桃太郎、蜻蛉の十一人だ。
     明日はネイチャーウォークが予定されているというので、女性陣の参加が少ない。「私は明日も行かないといけない。講釈師から電話があったから。」ダンディは忙しい。今日はヤクの革製の帽子をかぶっている。
     一年振り位に会うドラエモンは三脚を持っていて、しっかり鳥の観察をする態勢を作っている。姫の事前の案内ではコハクチョウが見られるらしい。ヤマチャンも久し振りだ。「一年、いや二年振りくらいかな。」
     「アレッ、隊長はどうしたの。」「メールが入ってました。踵を痛めたみたいですよ。」またゴキブリと格闘したのだろうか。「そうじゃなくて、結構重症なようです。」昨夜はメールを確認しなかったので知らなかったが、隊長は足底腱膜炎とかを発症して歩けなくなってしまったらしい。有森裕子も同じ病気に罹患したと言うのは自慢ではないだろうね。マラソン選手やサッカー選手に多く発症するそうで、それなら足に負担を掛け過ぎたのが原因だから暫く安静にして貰うしかない。
     地図を確認すると、線路の西側に野田市立中央小学校、東側に野田市立第一中学校がある。それならばこの辺が野田の中心部だと判断して良いだろうが、そういう雰囲気は全くない。「ここが野田市の中心ですよ。野田市駅の方はキッコーマンがあるから有名なだけです。」ドラエモンは鴻巣の人だが、この辺りにも詳しそうだ。隣の野田市駅前だって、特に栄えているようではなく似たようなものだった。野田のキッコーマンを見学したのは二十一年の九月のことだったから、もう三年半も経つ。
     野田市は北部の関宿を合併して、西の江戸川、東の利根川、南の利根運河に囲まれた徳利のような形になった。この地勢だから江戸時代には舟運で栄えたことが明らかだが、鉄道が東武野田線しかない現在ではこれ以上の発展は難しい。それを考えると、キッコーマンが本拠地を移転しないのはエライ。

     一時間に一本しかない茨城急行バス岩井車庫行きは十時一分発である。乗客は私たちの他には僅かに三人。茨木県道・千葉県道三号線(つくば野田線)をほぼ北東に向かって真っ直ぐに走って行く。一キロ程で国道一六号を超え、更に二キロ程行くと利根川の堤防が見えてきた。これを渡って茨城県に入る。
     「坂東市って書いてある。」平成の大合併以来、不思議な名前の市が増えてきた。この辺りは岩井市だった筈で、猿島町と合併して坂東市を名乗った。「坂東太郎に因んだと思うけど。どうもね。」「祖父が茨城でね、坂東太郎の話はしょっちゅうしてたわ。」イトハンが言う。
     ところで坂東太郎(利根川)、筑紫次郎(筑後川)、四国三郎(吉野川)の異称はどうしてつけられたのだろうか。河川の長さでいえば、日本一は信濃川の三六七キロで、利根川は第二位の三二二キロである。吉野川は第十二位、筑後川はトップ二十位に入らない。流域面積で比較すれば第一位が利根川、信濃川は第三位に落ちる。長さや流域面積で考えれば、信濃次郎とか木曽三郎とかの呼び名があっても良さそうなものだがそうはならなかった。
     四国では吉野川より四万十川の方が長いが、流域面積で吉野川に負ける。これらを総合して考えると、どうやら本州、四国、九州で、それぞれ流域面積の最も広い河川を代表としたのであろうかと結論付けてみた。しかし、昔から流域面積なんていう発想があったのかしら。
     冬枯れの田んぼが広がる。「田園風景はいいな。気持がなごむよ。」後ろの座席から、何事にも感動しやすいヤマちゃんの大きな声が聞こえ、イトハンも「私もそうなの」とすぐに反応する。イトハンは東京のひとでありながら街が嫌いなのだ。「だって、やっぱり自然の中を歩きたいじゃない。」

      早春の野に魂を泳がせり  閑舟

     立春を過ぎて確かに季節は「早春」だが、まだ枯草ばかりで今年は春の訪れが遅い。十七八分乗ったところで自然博物館入口の停留所に着いた。三百九十円。地図をみると駅から五キロ程になって、歩けば一時間以上かかる。そして「入口」とは言っても、博物館まで九五〇メートルの案内が立っている。「これじゃ博物館に来る奴なんかいないんじゃないか。」「この辺の人はみんな車で来るのよ。だからバスなんか使わないんだわ。」
     白いヘルメットをかぶり自転車を引いた地元の女子中学生が、「こんにちは」と照れくさそうに声を出しながら通り過ぎていく。「田舎の子はいいね。」秩父の中学生も挨拶をしてくれたと思いだした。田舎ではこういう教育をしている。都会の中学生はこんなことをしない。

     春浅し挨拶恥じらふ中学生   蜻蛉

     それ程寒くはなく風もないから、歩くにはちょうど良い。右側の鉄柵の中が既に博物館の敷地なのだが入口はまだ先だ。「誰もいないんじゃないの。」しかし私はこの博物館を甘く見ていた。漸く着いた入り口前には幼稚園児の団体が座り込み、子供連れも大勢いる。幼稚園児はいつでも無料だし、第二・第四土曜日は小学生から高校生まで無料である。
     ミュージアム・パーク茨城県自然博物館だ。茨城県坂東市大崎七〇〇番地。入館料は一般五百二十円。七十歳以上は無料である。「七十歳以上の方は身分を証明するものを出して下さいね。」「顔じゃダメでしょうか。」「六十九歳だと思われるかも知れませんからね。」「そうか。」若旦那はその年齢とは思えないほど若いから、やはり証明書の提出が必要だ。
     「六十歳代じゃダメなの。私訊いてみようかしら。」イトハン、それは無理というものです。「六十歳代なんて、うじゃうじゃいるからね」と、本人もその年代のドラエモンが笑う。このところ、仲間の中でも定年や年金の話題が多くなってきた。ヤマチャンも今年定年だという。チケットは自動券売機で買う。カウンターには白い制服を着たコンパニオンが笑顔で待っていて、それに押印してくれる。
     この博物館は平成六年十一月十三日、「過去に学び、現在を識り、未来を測る」を基本理念に掲げてオープンした。七つの展示室を含む大きな本館の他に、雑木林・谷津田・沼など一五・八ヘクタールの里山的環境の敷地を持つ。

    ロマンあふれる宇宙の進化と地球の生い立ち、そして自然と生命の不思議な営み・・・・
    今キミは、四六億年の「時と空間の旅人」になる。(パンフレットより)

     組織図をみると、館長、副館長の下に四つの課があり事務系職員は三十名いる。これが県の職員だろう。その他に館内を案内するスタッフは、コンパニオン(業務委託だと思われる)が二十二人、学芸嘱託員が三人、臨時職員が四人となっている。
     地方公務員の平均年収七百万円(四十歳)を事務系職員の三十人に適用すれば、それだけで二億一千万円になる。年齢が若ければもう少し下がる。コンパニオン二十二人を業務委託として、ざっと八千万円から九千万円。その他を含めて人間にかかる費用だけで優に三億円を超えるだろう。これに広大な公園を含めた施設のメンテナンス、資料購入費などを含めれば、ちょっと考えただけでも年間十億円程度の費用がかかるのは間違いない。ウィキペディアによれば二〇〇七年度に要した経費は十一億四千万円を超えた。
     この費用を賄えるだけの来館者はいるだろうか。年間入館者は四十万人を越えるというから、一日に千三四百人がやって来る。リピーター率も六五パーセントと高い。なかなか健闘しているように思える。
     「茨城県自然博物館進化基本計画」(http://www.nat.pref.ibaraki.jp/img/keikaku.pdf)による一九九四年から二〇〇三年までの入館統計では、有料入館者は平均四十八・五パーセントしかいない。つまり幼稚園児と七十歳以上の高齢者が半数を超え、金を払って入館するものは二十万人しかいないのである。
     子供(小中学生)は百円である。仮に大人だけが二十万人やって来たとしても、収入は一億円にしかならず、これでは人件費の三分の一しか賄えない。大人と子供を半々とすれば六千万である。茨城県はこの博物館に相当な費用を投入していることになる。余計な計算をしてしまった。

     見学のスタートは巨大なマンモスの骨格標本の前だ。これは中国内蒙古自治区で発掘された、世界最大の松花江マンモスのレプリカである。体長九・一メートル、高さ五・三メートル。体重は二十トンにも達する。「こんなのに、槍で立ち向かったのかな。」「美味そうには思えない。」
     ヌオエロサウルスの骨格標本はマンモスよりも大きい。体長二十六メートル、高さ九・七五メートルもある。世界最大級の恐脚類だそうだ。これも内蒙古自治区で発掘されたものだ。ウィキペディアを見れば、最近はヌーロサウルスと呼ぶことになっている。
     「ここは一階かな、二階かな。」二階のようだ。「十一時四十五分にはここに集まってくださいね。遅刻は厳禁です。」順路に従って行くことになるが、私はまずトイレに入らなければならない。ここ二三日、どうも胃の調子がおもわしくない。「風邪じゃないのか。最近は腹に来るのが多いみたいだぜ。」頭もすっきりしないのはやはり風邪気味かも知れない。
     最初は「進化する宇宙」のコーナーだ。「宇宙を見ますか。」とりわけ関心がある訳ではないが、ビッグバン理論は昔読んだ。勿論詳しいことは忘れてしまっている。
     ガラスの円筒内に錘と羽根を仕掛けてあるのは、物体の落下運動を実験させるコーナーである。円筒内はスイッチで大気が充満した状態から真空状態に変化し、それによって落下速度の違いが分かる筈だ。「これは有名な実験だよ」とヤマちゃんが言うのでスイッチを押してみた。しかし、錘も羽根も下に横たわったまま身動きしない。「こわれてるんじゃないの。」仕方がないので、貧しい頭脳を回転させて考えてみると、空気抵抗を受けなければ、物質の重量は落下の速度に関係ない。空気中ならば羽根は抵抗を受けすぎてゆっくり落ちる。その筈である。
     「隕石を持ち上げよう」というコーナーもある。かなり重そうだ。「大丈夫ですか、腰が。」腰をおろしてゆっくり持ち上げる。五十キロ程だろうか。「三十キロですよ。」私の感覚もいい加減ですね。「枠があって中腰だからですよ。」石と言うよりこれは金属の塊である。三百キロのものもある。今まで隕石なんて考えもしなかったが、つい先日ロシアに落ちたばかりだから少しは気になる。
     NASAの分析では、先日の隕石は直径十七メートル、重さ一万トンのものが秒速十八キロの超音速で大気圏に突入し、高度二十~二十五キロの空中で爆発したと推定されている。そして、半径百キロの範囲を強い衝撃波が襲った。「ロシアはあの隕石を回収したのかな。」「どうもよく分からないよね。」
     この規模は百年に一度程度のものだというが、宇宙の歴史から見ればかなりの確率である。そしてこれほど大きくないものなら、もっと頻繁に落ちているのである。たまたま広大なロシアだったからあの程度の被害で済んだが、東京に落ちていたら壊滅状態になっていただろう。大都会を外して過疎地に落ちてやろうなんて親切心を隕石が持っている筈はないから、これは単なる運でしかない。
     次に進むと「地球の生い立ち」コーナーだ。最初は岩石を見なければならない。「隊長やロダン、ドクトルがいれば良かったんですけどね。」と姫は残念そうだ。「石のことなら椿姫が一番詳しいよ」とダンディは断言するが、私は彼女が石の講釈をする場面に出会ったことがない。それに、この冬の寒さでは彼女はまだ冬眠中だろう。「啓蟄を待たなくちゃ。」宗匠も分かっている。
     黄鉄鉱の結晶は綺麗な立方体をしている。名前からして黄色いものかと思っていたのに、そんなことはなかった。それに私は鉱石というのは、外見は普通の岩で、それを砕いて何らかの方法で金属だけを抽出するのかと思っていた。全く理科の知識に欠けているが、もうこれだけで純粋に金属である。この立方体がいくつも、岩石の中から顔を覗かせているのである。
     輝安鉱の結晶は鋼のような色で細長い。結晶はこんなに美しいものだったのかと、初めて気が付く。自然界にこんな幾何学的な形態が存在しているのが実に不思議だ。
     もっと不思議なのは、結晶が成長するということである。黄鉄鉱の結晶が小さなものから大きなものへと順に並べてある。成長とは生命活動そのものではないか。もはや無生物と生物との違いも分からなくなってしまう。

     恐竜の模型もある。ティラノサウルス、ランベオサウルス、ドロマエオサウルス。表面はすべて爬虫類のように見えるが、これはもっと違った風になったのではなかったかしら。羽毛を持つ恐竜も発見されている筈だ。
     私は恐竜のことにも不案内だが、三十年ほど前に、絶滅の原因は隕石であると秋田大学の生物学の教授に教えてもらった。もっと昔は、恐竜は巨大になり過ぎた結果、進化の袋小路に入り込んで滅んだと習ったような気がする。しかし、ある時期を境にしてぱたりと化石出土が途絶えるということは、非常に短期間に一気に滅びてしまった証拠である。
     念のためにウィキペディアをみてみると、やはりそうだった。メキシコ・ユカタン半島に、直径百六十キロメートルにも上る巨大なクレーターが発見された。約六千五百万年前に直径十キロメートルもの隕石の落ちた跡であり、この地層(K-T境界)を境に恐竜やアンモナイトの化石が消滅するのである。つまりこのときの隕石落下(小惑星衝突)が原因となって恐竜が絶滅に至ったというのが、現在でのほぼ確定的な学説である。このとき、種のレベルで七五パーセントの生物が絶滅したと言われている。
     但し隕石衝突がどう作用したのかについては説が分かれる。ひとつは、地球規模の大火災と、衝突後に生じた塵埃が大気中に舞い、日光を遮断して起きた急速な寒冷化によるという説である。衝突以前と比べて地球の平均気温は十~十五度下がったと推定される。
     もうひとつは、太陽光が遮られた結果、生態系が破壊され光合成を行う生物の様相が大きく変わって餌の不足に陥ったというものである。寒冷化説と生態系破壊説と、いずれにしろ地球規模に及ぶ隕石の影響は凄まじい。
     そして恐竜に関する研究は年々進化していて、かつての常識(理科がまるでできなかった私の)は今では通用しない。そもそも恐竜は完全に絶滅したのではなかった。その一部は鳥に進化して現在も生き続けているのである。二〇〇七年、ノースカロライナ州立大学の研究チームは、ティラノザウルスの骨のタンパク質を分析した結果、ニワトリに近いと発表した。それならば、羽毛が生えていた可能性もあるのではないかしら。
     また「宮城の新聞」(http://shinbun.fan-miyagi.jp/article/article_20110313.php)によれば、二〇一一年二月のScience誌に報告された東北大学の田村宏治の論文によって、鳥が恐竜に進化したという説にただ一つ残っていた矛盾点が解明された。詳しいことは分からないが、指の構造が恐竜と鳥とでは異なっているのが問題だったのだが、発生学的に見て、鳥と恐竜とが全く同じであることが証明されたのである。これで鳥は恐竜が進化したという説が完全になった。

     吹き抜けの周囲を回遊するように展示室が作られている。「私ここが好きなんです」と姫が言うのは、「自然のしくみ」コーナーの入り口だった。「百円玉があんなに大きくなった世界です。」床に直径一メートル以上の百円玉が描かれている。つまり土の中を百倍に拡大して見せているのである。巨大なミミズ。ダニ、ムカデ。気持ちの良いものではないね。虫愛づる姫はこんなものが好きなのだ。「ほら、ここがミミズの口です。」口があるのか。とバカなことを口走ってしまったが、ミミズが土や落葉を食って良質な土に変えてくれるのだから、口がない筈がない。
     「生命のしくみ」「人間と環境」。申し訳ないが私はそろそろ飽きてきた。しかし今日はずいぶん理科の勉強をしてしまった。学生時代にもう少し関心を持っていれば、四年生最後の試験まで一般教養の自然科学を残してしまうこともなかった。
     ここまでが二階で、周回する廊下を一階に下りていくと、かなり広い展示場で植物の絵の展示会が開かれていた。ボタニカルアートと言い、図鑑のように描くものらしい。テンナンショウの絵がある。これはマムシグサではないか。勿論マムシグサだってテンナンショウ属だから似ているのは当たり前だ。ただ単に「テンナンショウ」という植物はい。ウラシマソウもムサシアブミも同じ仲間だ。ミミガタテンナンショウというのも以前隊長に教えてもらったことがある。
     さてそろそろ時間だ。集合場所はどこだっただろう。周回する廊下で繋がれているので、方向感覚がおかしくなってしまった。集合はマンモスの所、二階だったよね。迷いながらマンモスの場所を探していると、マリーがいたのでその後を追い掛ける。マンモスからはちょっと離れた休憩コーナーに半数以上が座っていた。ここは飲食禁止である。飲食できるのはセミナールームだと聞いている。

     「どうしましょうか。セミナールームはもう満員状態です。」「外でいいじゃないの、風もなさそうだから。」一階に下りて館を出ると、花木の広場にはテーブルとベンチが並んでいる。「ここでいいよ。」穏やかな日だ。「イバラギってもっと寒いかと思ってた。」「違います。イバラキですよ。濁らない。」またダンディに叱られてしまった。紅梅が一本、少しだけ咲いている。
     ダンディは「大宮弁当」というものを買って来た。「腹減っちゃったよ。」スナフキンが羨ましい。私はここ二三日、胃の調子がおもわしくない。「なんだ、食えないのか。」二つ持ってきたおにぎりは一個だけ食べた。おかずは半分も食えないで弁当箱を片づけた。(後で妻に、「折角作ったのに」と叱られた。)
     イトハンが、お父さんの作った黒ニンニクの漬物を出してくれた。「全然匂いがないのよ」と言われるが、残念ながら私は戴けない。にんにくは胃に負担がある筈だ。スナフキンが皮を剥くのを見ていると、中は真黒だ。「こんなに黒いよ。」
     私は「黒ニンニク」という種類があるのかと思ってしまったが、普通のニンニクを一定の温度と湿度のもとで熟成させると黒くなり、そして臭いがなくなるのである。あるメーカーの宣伝文句ではこうなる。

     熟成黒ニンニクは、一定の温度と湿度のもとで、約一ヶ月間熟成させることによって作られます。乳白色の生ニンニクと異なり、十分に熟成したニンニクは色が真っ黒になります。色が変わるということは、熟成によって含まれる成分が変化することを意味しています。
     まず、熟成させることによって臭いの原因となる揮発性のイオウ化合物が減るため、食べた後に吐息とともに体内から臭ってくるニンニク特有の不快臭が全く無いことが大きな特徴です。そして、ポリフェノール類の含量が増え、生ニンニクには存在しないS-アリルシステインという水溶性含硫アミノ酸が生成します。
     その結果、抗酸化力は、原料となる生ニンニクに比べて著明に上昇し、がん予防、コレステロール低下、動脈硬化改善、心疾患予防などの効果が生ニンニクよりも 著明に増強することが明らかになっています。
     http://www.1ginzaclinic.com/garlic/garlic.html

     炊飯器に放り込んで保温状態にして二週間ほどたつと出来上がると説明するサイトもある。しかし無臭になる前は強烈な臭いが発生するので、ご飯を炊くものとは別に用意した方が良いとも書いてある。「お父さん」は随分な手間暇をかけて作ってくれたに違いない。「今年は干し柿が作れなかったから、これにしたんですって。」
     桃太郎はカップ麺を作り、食後にコーヒーを飲む。強力な魔法瓶だ。私の魔法瓶ではカップ面が作れるほどの熱さは保てない。「これいいんだよな、でも高い。五千円するんだよ」とスナフキンが羨ましそうに見ている。「五千円か。」それなら私の千円の魔法瓶とは威力が違って当然だ。ダンディも熱いコーヒーを飲んでいる。「食後はコーヒーを飲まないと落ち着かないからね。」
     桃太郎は売店で買った唐揚げを出し、姫からは洋風の煎餅、マリーからはチョコレートが提供される。「チョコレートは血圧にいい」と宗匠が言っているが本当かね。調べてみると、二〇〇七年にドイツのケルン大学の研究チームが、Journal of the American Medical Associationに報告していた。

     この研究では、56~73歳の高血圧前症あるいは第1期高血圧症患者44人を対象に、糖分と脂肪分の低いダークチョコレートを少量摂取したときの効果を調べた。
     被験者に対し、2005年1月から2006年12月の18か月間、30ミリグラムのポリフェノールを含有したダークチョコレート6.3グラム(30カロリー)あるいはココアを含まないホワイトチョコレートを無作為に投与した。
     ダークチョコレートを食べた集団では、最高血圧が平均2.9mmHg、最低血圧が1.9mmHg降下した。体重、脂質およびブドウ糖の血漿中濃度の変化はみられなかった。また、高血圧症あるいは高血圧の発症を86%から68%に抑制した。
     一方、ホワイトチョコレートを摂取した患者は血圧に変化はみられなかった。(医療医学ニュース二〇〇七年)http://medical-today.seesaa.net/article/46906274.html

     何でも良い訳ではなく、ダークチョコレートでなければいけないのだが、それはどういうものなのか、私は初めて聞いた。ブラックというものとは違うのだろうか。スナフキンのために調べておこう。
     乳製品を含まないカカオマス四〇~六〇パーセントのものをビターチョコレートと言う。そして「わが国の洋菓子業界ではダークチョコレートと称する場合が」あるらしい。(日本チョコレート・ココア協会http://www.chocolate-cocoa.com/dictionary/word/chocorate.html#w1_2より)。カカオマスとは、「カカオ豆から外皮を取り除いて磨砕して出来るペースト状のもの」だそうだ。
     私はチョコレートに関心はないが、血圧を下げるために食いたい人は、こういうことを考えてから口にすることを勧める。間違ってもバレンタインデーで貰ったものを食ってはいけない。

     「それではこれから園内を散策します。二時一分のバスに乗りますから。」なにしろ一時間に一本のバスだから、それに合わせて行動しなければならないのだ。約一時間の散策である。
     私たちがスタートすると、ちょうど直前を幼稚園児の集団が歩き始めた。「一緒になってしまうのかな。」子供たちの後ろをゆっくり歩いていると、後ろから女性の大きな声が聞こえた。「アッ、あれですか。スゴイ。」
     ドラエモンがコゲラを発見し、ちょうどそこにやって来た若い女性に双眼鏡を貸して教えていたらしい。「良いものを見せて貰いました。」私の肉眼でもコゲラは見つかった。枝に取りつき頻りに嘴をたたきつけている。「何かを食ってるんだろうね。」「日本で一番小さなキツツキです」と姫が言うのは前にも聞いたことがある。「バードウォッチングの方ですか。」「そうじゃないけどね。」彼女は「有難うゴザイマシター」と大きな声をあげて走って行った。「あんなに大声あげてちゃ、鳥が逃げちゃうよ。」幼稚園の先生だったようだ。
     とんぼの池の橋を渡り、幼稚園児たちとは逆方向に向かう。「季節になればいろんなトンボが飛ぶんですよ。流れるところ、滞留しているところなんかで種類が違います。でも今はダメですね。」「トンボならそこにいるじゃない。自称しているひとが。」紐のようなマンサクが咲いている。

     まんさくや幼稚園児の声遠く  蜻蛉

     水門が三つある煉瓦造りの反町閘門橋が登場した。「随分立派な閘門ですね。」姫が何度も「コウモン」と言うと少しおかしい。実はこれは復元移築したものである。本来は二・五キロ程北の方にあったものだ。
     菅生沼は、かつての利根川支流が断ち切られて独立したものだろう。ここから北東方面に飯沼干拓地があり、排水を菅生沼経由で利根川に流していた。ところが天明の浅間山噴火以来、利根川の河床が上がり頻繁に洪水を起こし、利根川の水は飯沼干拓地に逆流した。これを防ぐために慶応三年(一八六九)に工事が計画されたものの、実際に閘門橋が完成したのが明治三三年(一九〇〇)のことである。
     しかし飯沼干拓地はその後も水害に悩まされ、別の水門や排水機構が整備され、この閘門の役割は終えた。撤去されたのが平成三年のことである。
     望遠鏡が数台設置されていて、菅生沼の方を見ることができる。「見えたよ。」「みんな、こっちにお尻向けて休憩してる。」あれがコハクチョウだろうが、お尻だけを見ても仕方がない。
     橋を渡ったところには、かつて実際に使われていた水門の扉が露天に展示されている。鉄部分は赤く錆びて大きな穴があき、構造をなしている木部も腐って朽ちかけている。白い梅が開きかけている。辛夷の小さな花芽を包む銀色の毛が日に照らされて光る。

     穹青し橋を渡れば辛夷の芽   蜻蛉

     コハクチョウを見るためには受付を通る必要があるが、さっきのチケットを見せればよい。「ここで双眼鏡が借りられますよ。」五人が借りたらしい。私は双眼鏡の操作ができないので初めから諦めている。肉眼で小さく見えていても、双眼鏡を目に当てるとまるで方向が違ってしまう。
     坂を降って、「菅生沼ふれあいばし」という長い木橋を渡り、半分ほど過ぎた途中の小さな水たまりにコハクチョウが三羽いた。頭から首にかけて薄黒いのは泥のためだろうか。「若い時は灰色なんですよ。」そうなのか。「もう一羽いるわ。」イトハンのお蔭で四羽発見できた。
     コハクチョウと言うからにはオオハクチョウもいる筈だ。調べてみると、頸が長いのがオオハクチョウであるが、比べてみなければ分からない。もうひとつの区別は、嘴の付け根から鼻孔の先まで黄色いのがオオハクチョウで、鼻孔の手前で黄色が止まるのがコハクチョウである。しかしこんなに近くから見たって、鼻の穴がどこにあるかなんてちっとも分からない。
     「日本のハクチョウは、ヨーロッパのハクチョウに比べて美しくない。」またダンディがヨーロッパと日本を比較する。「あれはコブハクチョウですからね。」しかし美醜の感覚は民族によるだろう。日本の白鳥だって充分に美しく思われたのである。ヤマトタケルは死後、白鳥になって飛び去っていく。江戸時代まで鶴や白鳥が猟を禁じられたのも、その美しさのためである。
     「アッ、魚を食べてるんじゃないの。」すぐに「コハクチョウは草食ですよ。魚は食べません」とドラエモンから注意が入る。一羽が何やら十五センチほどの筒状のものを咥えては頻りに首を振っている。「プラスチックじゃないのかな。」私は葦や何かの節ではないかと思った。「遊んでるんだよ。」地面に上がりこんで枯草を突いているのもいる。ときどき羽根を大きく広げて体操をするのもいる。人見知りをしない鳥で、私たちが大きな声を上げても逃げようともしない。

    菅生沼で見られるハクチョウは、コハクチョウ。毎年十月末ごろに飛来し、その後徐々に数を増やして三月初旬までその優雅な姿を見せてくれます。
    菅生沼は、えさとなるマコモなどの水生植物が豊富にあり、多数越冬できる全国でも数少ない場所です。
    コハクチョウは家族を単位とした群れで生活し、春になるとユーラシア大陸の北極海沿岸の繁殖地へと帰っていきます。http://www.city.bando.lg.jp/index.php?code=375

     枯れた植物を私は葦の類かと思っていたが、マコモであったか。講釈師がいたら、「・・・・思い出すさえ ざんざら真菰 鳴るなうつろなこの胸に」(藤間哲郎作詞・山口俊郎作曲『おんな船頭唄』)と歌いだしたかも知れない。咥えているのはマコモダケ(筒状に肥大化した部分)かも知れない。皮を剥ぎとると人間でも食える部分が出てくるらしい。三橋美智也の歌でマコモは利根川名物であるとは知っていたが、食えるものとは全く認識していなかった。
     私はまだお目にかかったことがないが、このマコモダケというのは最近健康食として出回っているようなのだ。マコモの新芽に黒穂菌が寄生し根元が筍状に肥大したもので、筍とアスパラの中間の食感らしい。たぶん、カロリーはほとんどなさそうだから、ダイエット食にはよさそうだ。
     しかし人間が食い過ぎるとコハクチョウの餌がなくなってしまうから、適度に抑制しなければならない。

      それぞれのポーズで魅せるコハクチョウ  閑舟

     「ダイサギですよ。」綺麗に足を揃えて飛んでいる。「航平飛びですね」と姫が即座に反応する。ドラエモンは鷹も教えてくれる。その他にも姫とドラエモンはもっといろいろな鳥を見たようだ。私は気付かなかったので姫の報告を記録しておくと、コゲラ・シジュウカラ・ハクセキレイ・アオジ・ツグミ・シロハラ・ダイサギ・オオタカ・ハイタカ(?)・シギである。
     「そろそろ時間じゃないかな。」ダンディが時計を見て合図する。「そうですね。ゆっくり戻りましょう。」
     坂を上ってさっきの受付に戻るとコンパニオンが笑顔で迎えてくれた。「ここで双眼鏡を返してくださいね。」しかし宗匠は首にかけて素通りしているではないか。「これは自前だよ。」宗匠も本格的にバードウォッチャーを目指すのだろうか。
     「今日は時間が少なくて申し訳ありません。それでも、この博物館を紹介したかったので。」どうしてもバスの時間に縛られてしまうのが惜しい。ここはやはり車で来るところであろう。「今度は孫を連れてこようと思うの。」イトハンはかなり気に入った様子だ。
     また一キロ歩いてバス停に戻る。途中で石仏を祀った小さな祠があるので覗き込んだ。庚申塔か。違った、青面金剛ではない。何かの観音の座像だが正体が分からない。「鍬のようなものを持ってるわね。」とイトハンも覗き込む。鍬ということはないだろう。何かの武器に違いない。とすれば千手観音だろうか。しかし手は多くなさそうだ。

     今度のバスも先客は一人だけだった。愛宕駅を過ぎて次の停留所で下りると、目の前が愛宕神社だ。野田市野田七二五番地。「下見の時は裏から入ったんですけど。今日は正面から入ります。」
     石造りの神明鳥居を潜ってすぐに目に付いたのが、本殿の前に置かれた茅の輪だ。季節が中途半端ではないだろうか。「冬と夏ですよね。」茅の輪が夏の季語であるように、本来は夏越しのもので、後に年越しにも使われるようになったものだ。悪疫を予防するために穢れを祓う、また去る年に積った穢れを祓うのが目的である。茅の輪の由来になった牛頭天王と蘇民将来の話は以前宗匠も紹介してくれていた。講釈師がいれば、茅の輪の正しい潜り方についても喧しく教えてくれただろう。
     ちょうど設置し終わったばかりのようで、数人の男たちが茅の輪の横に佇んでいる。何か謂れがあるのかと周囲を見回すと、年間行事を記した看板に、「おびしゃ(茅の輪くぐり)」とあった。
     「オビシャって何だろう。毘沙門に関係するだろうか。」「違うと思います。」「ドンド焼きに関係するか。」「弓に関係したんじゃなかったかな」と桃太郎が呟いた。「流鏑馬かい。」「そうじゃなくて。」私は全く初めて耳にする。宗匠が早速辞書を引くと「御歩射」とあって、弓を射る行事だ。桃太郎の指摘が正しかった。弓で豊凶を占う神事はごくありふれたものだろうが、これをオビシャとは初めて聞いた。

     おびしゃは、関東地方の新年行事で、とくに千葉県の利根川沿いの東葛飾・印旛・香取郡、および九十九里沿岸の山武郡・長生郡地方で多く行われている。
     おびしゃは、神社の他のいろいろな祭りにくらべると、行事が行われる場所は、せいぜい神社の中と社殿の前、氏子の家などで、また、参加する人数も、拝殿に入れる程度で行われるきわめてファミリーでプライベートな行事といえる。
     おびしゃには、奉射、奉謝、奉社、備射、備社、鬼射、毘舎、毘沙などの漢字が当てられているが、もともとは、「御歩射(おぶしゃ)」が訛ったもので、馬に乗って行われる「流鏑馬」に対し、立って、あるいは座って弓を射て、その命中度で吉凶や豊作凶作などを占う農村の神事である。奉射、備社は神事からきており、また毘舎、毘沙は神仏混淆からきているとされている。
     今では弓を射ることは少なくなり、単に豊作や安全を祈ったり、村の人たちの酒を酌み交わす場になっているところが増えているといわれており、村の賀詞交歓会、あるいは新年互礼会といったところか。
     http://japanfestival.web.fc2.com/04-tradition/obisya/obisya.html

     「明日がそうなんですね。」一般には正月行事である。そうか、明日は旧暦正月十五日である。私がドンド焼きを連想したのも、そんなに的外れではなかった。この地方では小正月の行事として「おびしゃ」を行い、茅の輪を設置するのである。
     拝殿の格子から覗きこむと本殿は立派だ。千葉県の文化財に指定されている。

     現在の社殿は、文化一〇年(一八一三)に再起工し、文政七年(一八二四)に再建されたといわれています。社殿様式は、権現造りで木造銅板葺です。
     愛宕神社本殿の彫刻は「匠の里」と呼ばれる花輪村(現在の群馬県東村)出身の二代目石原常八の作です。常八は、当時かなりの腕利きで、関東一円にその作品を残しています。意匠や技術に優れた江戸時代後期の典型的作品です。
     (野田市)http://www.city.noda.chiba.jp/syoukai/bunkazai/atagojinja.html

     石原常八の名前は何度か目にしたことがある。案内板によれば創建は延長元年(九二三)、野田開墾の後、火の災難を防ぐ為に山城國愛宕郡愛宕の里から迦具土命(カグツチノミコト)の分霊を勧請したことになっている。
     しかし火伏せの神として信仰を集めた愛宕神社は、山岳修験に由来する。愛宕山白雲寺の本地仏である勝軍地蔵が、愛宕権現として垂迹した。本体はイザナミである。また若宮には愛宕太郎坊という天狗も祀った。
     だから延長の頃にカグツチを持ち出す筈はないので、これを祭神としたのは明治の神仏分離以後のことだろう。そもそもカグツチはイザナミの陰部を焼いて生まれた火の神であり、このためにイザナミは黄泉国に行くのである。イザナミからすれば、我が子とは言いながら仇も同然である。
     下見の時に姫が発見したという「磐境(いわさか)」がある。私の今日の目的はこれを見ることだったが、長さ三十センチほどの卵型の石で、なんだか期待を裏切られてしまった。宗匠はおごそかな雰囲気を感じたようだが、信仰心のない私にはただの石だ。
     「磐座(いわくら)」と言うものがある。神が降臨する所が盤坐であり、これを依代(神籬・ひもろぎ)として祀ったのが神社の初めである。樹木に降臨すればその木が神籬であり、神木とされるのも同じだ。現在見られるような神社が建築されたのは仏教寺院の影響によるものであり、それ以前の原始的な信仰では石そのもの、木そのもの、あるいは山や川が信仰の対象であった。
     磐境のサカは文字通り人界と神界とを分けるサカイである。だから正確に言えば、磐坐を中心にして結界を巡らす、その結界が磐境になる。つまりストーンサークルのようなものを連想すれば良いので、この小さな石ひとつだけでは磐境と呼ぶに相応しくない。
     説明をちゃんと読んでいないと余計な疑問を感じてしまう。「この磐境は石を並べて立て、あるいは円形なり、方形なりに敷き並べて斎場とし」とちゃんと書いてある。たまたま今では一つしか残っていないが、本来は本殿を囲むようにもっと沢山あったのだろう。

     磐境の胸張るごとく春の昼  閑舟

     雪見灯籠。「私は灯籠の中でも雪見灯籠が好きなんですよ。」ダンディが言う。元禄七年に建てられた石造鳥居は地震で倒壊してしまい、修復の最中だ。その脇には芭蕉の句碑がある。万葉仮名を使ってあるから、普通の表記にしてみる。

     百年の気色を庭の落葉かな  はせお
     西行の庵もあらむ花の庭 
     

     最初の句だけを見て離れてしまったので二番目の句には気付かなかった。裏面にあったと宗匠が教えてくれた。
     隣接する西光院(真言宗豊山派)が別当寺である。「鶏魂碑 川島正次郎」というのがおかしい。養鶏業者によるものだろうが、ニワトリに魂があるのか。
     その後ろには「武運長久講中 埼玉県大澤町新勝講」という石碑もある。新勝講というのは成田山新勝寺を信仰する講であるらしい。新勝寺は真言宗でも智山派だから、それが何故ここにあるのかよく分からない。
     本堂の左には勝軍地蔵堂が建っている。愛宕権現の本地仏であり、神社と隣り合ってこれがあるのは神仏習合の痕跡だと説明されているのだが、私はシャグジの話をしてみた。たぶん余り関心は持たれなかったかも知れない。
     民俗用語は漢字表記を離れて発音で考える必要がある。ショウグンジゾウはシャクジ、シャクジン、シャグチなどの転訛と考えられるというのが、一般的な解釈だ。道祖神をシャクジと称することも多く、ウィキペディアには道祖神と習合したと書いてある。
     道祖神から類推して、シャクジを柳田國男はサエノカミ(塞の神)、境界を守る神だと考えた。しかし五来重によれば、大石、奇岩、石剣、石棒、石地蔵など全て石に対する信仰に由来するのであり、石神(シャクジン)のことだと断じている。石神井の地名もそこから生まれた。どこかで触れたことがあるが、シャクジを杓子と書いてシャモジ信仰に転換させたものもある。
     明治四十三年に建てられたと言う堂の外柵は東日本大地震で倒壊し、再建のための寄付を募っている。その外柵の部分に並べられた銘板には寄進者の名前がずらりと列記されていて、これが東京市時代のものだ。「懐かしいですね。深川区佐賀町、深川区石嶋町、日本橋区小網町、日本橋区檜物町、神田区鎌倉川岸、京橋越前堀等々。「他県の地名もありますよ。」
     「館林の正田さんがいますね。」「ここにも。」館林の正田といえば正田醤油、日清製粉であり、美智子妃である。

      小正月明治の町を読み上ぐる   蜻蛉

     殆どが、個人名で寄進しているのに、村上店員、岡田店員、蜂須賀店員なんていうものもあって、スナフキンが「店員一同って意味か」と笑う。明治になっているのに「遠江国」としているのはどんなものだろうか。
     その脇の木立の間には、二つに割れた板碑(青石塔婆)をセメントの外枠に嵌めこんで修復したものがある。青板の色が浮かぶようで、こういう修復も悪くない。説明には、道路工事中に発掘されたと書かれている。江戸時代になると板碑に対する信仰も忘れられ、道端に放置されたり溝に渡して橋としても使われたりした。
     蓮華の上にあるのはキリーク一文字だ。勢至、観音が下に並んでいれば阿弥陀三尊になるのだが、念のために「阿弥陀一尊でよろしいですね」と宗匠に確認をとった。「そこに書いてあるよ。」「弥陀種子板碑」と書いてあった。
     「種子板碑って何ですか。」代表してドラエモンが訊いてくると、宗匠がリュックの中から種子の一覧を出してくれる。私も別なものを持っているのだが、リュックに入っていたためしがない。「飛っていう字みたいだな。」確かに、右側の点々があるのでそう見える。これがキリークであり阿弥陀如来を表す(但し千手観音もキリークで表される)。他に胎蔵界大日如来はバン、金剛界大日如来はアーク等、梵字一字でそれぞれの仏を表すのである。とエラそうに言っているが、私はキリークしか判別できない。

     早春の光を浴びて梵字読む   蜻蛉

     これは密教によるもので、普通の人間には理解不能な不思議な形をしているので、その文字自体を神聖なものとして崇めた。種子真言とも言う。真言とは要するに呪文である。日本語にしてしまうと余り有難みがないので、一般には了解不能な摩訶不思議な音を用いて、悪く言えば人心をだまくらかすのである。漢訳仏典を音読みで読経するのも同じ理由に違いない。
     そして板碑には大きく分けて、秩父・長瀞の緑泥片岩による武蔵型、同じような青石の阿波型、下総型(筑波山で産出する黒雲母片岩)の種類がある。ここにあるのは明らかに緑泥片岩だから、秩父の石が荒川、利根川水系を利用して普及したものだろう。埼玉と東京では下総型というのは見たことがない。
     「室町時代のものって書いてますよ。そんなに古いんですか。」板碑は鎌倉時代から室町時代前期に多く作られ、戦国末期にはもう出現しなくなる。だから大抵は室町時代のものだ。私が見た一番古いのは、弘安(一二七八~一二八七)の頃のもので、元寇の時代だから鎌倉幕府もあと五十年ほどで滅亡する時代だ。
     もう一度愛宕神社境内に戻って、鳥居脇の小さな塚に登ってみる。頂上に三峰神社と稲荷神社の小さな祠が建ち、松尾大神は大きな石碑だ。「お酒の神様ですよ」と姫がドラエモンに説明している。
     それでは駅に戻ろうかと先頭が歩き始めた時、「先に行っていいわよ」とイトハンが言い出した。何をしようと言うのだろうか。「あのね、七福神を描いた絵馬が素敵だったの。お寺の方で買えるっていうものだから。」別に急ぐ旅ではないから待っている。しかし残念ながら結局買えずに戻って来た。「ゴメンナサイネ、遅くなって。」

     愛宕駅まで歩き、三時六分発の大宮行きに乗る。本日のコースは宗匠の記録で八千五百歩となった。五キロちょっとにしかならない。
     ヤマチャンは頻りに「この路線は初めてだよ」と声を上げている。国道十六号のやや内側を走っていると思えばイメージしやすいのではないだろうか。最近の里山ワンダリングでは、余り来なくなったが、大和田や大宮公園の辺りは見沼田んぼ散策では何度か降りたことがある。
     「この沿線には里山のメンバーは住んでいないのか。」確か、多言居士が藤の牛島に住んでいたんじゃなかったかな。あの辺で突然姿を現したことがある。
     大宮駅には三時四十八分に着いた。いつものさくら水産に行くのは丁度良い時間だ。土曜日は昼からやっている。
     今日は適度なペースで料理が運ばれて来る。「だって、この間みたいにテーブルが一杯になっちゃいけないからね。」発注担当の桃太郎はペース配分を考えているようだ。しかし最終局面になって一変した。ダンディが「お腹が空いたな」と言いだしたのをきっかけに、ピザと焼うどんが山ほど出てきた。こんなに食えないぞ。「大丈夫ですよ、このくらい。」ダンディは「私はグルメじゃなくてグルマンだから」といつも言っている。
     私の胃はまだ本調子ではなく、ビールの後の焼酎が余り進まない。私のせいではないが、珍しく一本の焼酎が少し余った。桃太郎が計算してひとり二千百円也。「そんなに安いのか。」「安すぎるんじゃないの。」「さくら水産ですからね。」しかしやはり桃太郎の計算は違っていた。レジでなかなか戻ってこない桃太郎を心配して、イトハンが偵察に行って戻ってきた。
     「だって全部で二万三千いくらなのよ。」酒を飲んでいないイトハンは冷静だ。単純に九人で割っても二千百円で足りる筈がない。「桃太郎は一番裕福だからね。ご馳走になろうか。」私はそう言ってみたが、そうはいかない。結局五百円を追加して、二千六百円ということで決まった。

    蜻蛉