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    平成二十五年三月二十三日(土) 館林

    投稿:   佐藤 眞人 氏     2013.03.30

     旧暦二月十二日。通勤の途中の道や大学構内には梅、桜、紫木蓮、幣辛夷、連翹、石楠花、雪柳が色とりどりに競うように咲いている。舗道植え込みの満天星躑躅も、白く小さな蕾が丸くなってきた。寒い冬が終わったと思うと、この一週間であらゆる花が季節を間違えたように一斉に開いた。
     都心の桜は平年より十二日も早く満開を迎えた。これは異常である。東京では三月十日と十九日に二十五度を超えた。三月中に二度も夏日になるのは観測史上初めてのことである。なにしろ桜が早すぎたので、今朝のテレビを見ると、各地の桜祭りは準備が間に合わず、てんやわんやになっているらしい。
     鶴ヶ島を七時五十五分に出て、川越を八時三分。大宮発八時三十九分の宇都宮線のホームに降りると画伯の姿が見えた。手を挙げて合図しているのに、なかなか気付いてくれない。近付いて顔を舐めるように見詰めてようやく認識してくれた。「コワイよ。笑ゥせぇるすまんみたいだ。」

     手を挙げて笑うセエルスマンが来た  午角

     こんなに優しい顔をしているのに、風邪の治りかけでマスクをしているのがいけなかったか。しかし、「笑ゥせぇるすまん」は黒づくめの筈で、私の恰好とは随分違う。画伯の感覚はどうなっているのだろう。
     乗り込んだ電車には既にスナフキンが座っていた。「どこから。」「浦和から。」久喜で伊勢崎線に乗り換えるには十四分待たなければならない。羽生を過ぎて利根川を渡ると、伊勢崎線はほぼ真っ直ぐに北上して行く。三十分ほど乗って九時四十六分に茂林寺前駅に着いた。出口の階段は最後尾にあり、私たちは一番遠い車両に乗っていた。前方の車両から降りた姫、ドクトル、中将の後姿が見える。姫は膝を庇うように、階段を一段づつ慎重に下りている。大分膝が痛いのだろうか。「お早う。」「あっ、気付かなかったわ。」
     この電車が最後で、大半は既に改札の外に集まっている。本日のリーダー千意さん、あんみつ姫、カズちゃん、いとはん、サッチャン、画伯、隊長、ダンディ、中将、ドクトル、ハコさん、スナフキン、宗匠、蜻蛉。十四人である。
     千意さんは先日膝を痛めたと言っていたのにもう治ったのだろうか。「大丈夫、グルコサミン飲んでるから。」そういうものか。隊長も踵を痛めているので、今日は無理だろうと思っていた。「まだちょっとね。でも大丈夫だよ。」無理はしないでほしい。ドクトルは花粉症がヒドイらしい。「年々ヒドクなるよ。」気の毒なことである。小町もまだ足が本調子ではないらしく、中将の話では大事を取って休んでいるとのことだ。この所足を悪くする人が多い。「口の悪い人は今日はいないけど。」
     サッチャンは随分久し振りだ。「でもね、毎回読ませてもらってるから。長い長い作文を。みなさんのことは全部知ってますよ。」拙い作文でも読者がいてくれるのは嬉しい。宗匠は迂闊にも名前を度忘れしているので、「ここに書いてある」とチェックリストを見せる。「羽生の時に来てくれたよ。」隊長の記憶もスゴイ。羽生を歩いたのは二十二年九月のことだから二年半振りということか。
     「可愛いのよ、見て頂戴。」イトハンに言われるまで気付かなかった。小さな駅舎の前にはタヌキの親子三人(匹)の像が立っている。父タヌキと子ダヌキは全く同じ形で大きさが違うだけで、子ダヌキも生意気に一生徳利をぶら下げている。父と子は裸なのに母タヌキは日本髪を結った和服姿だ。その背後に立て札が立っている。

    むかし、むかし、上野国館林に、茂林寺というお寺がありました。このお話は、お寺のお宝「分福茶釜」のたのしくて、ちょっとふしぎなお話です。

     「このお話のつづきは二十メートル先にあります」と書かれているので、何枚かに分けて、少しづつ紹介しているようだ。「なんだ、ここにもあったのか。俺は向うの角の奴を見てたよ。」

     菜の花や月は東に日は西に  蕪村

     千意さんの挨拶は毎回自作のポスターを広げるところから始まる。今回は蕪村の句をモチーフにした絵だ。「ツツジはまだですが、こんな光景が見られると良いと思います。春を楽しみましょう。」

     菜の花や月はで始まる千意散歩  午角

     館林と言えばツツジの名所である。ここには余り馴染みがないので、ウィキペディアで地理的な概要を押さえておきたい。

    東毛地域と呼ばれる群馬県の東部に位置し、市域の北部は渡良瀬川を隔てて栃木県佐野市及び足利市、東部は群馬県邑楽郡板倉町、南部は明和町及び千代田町に、西部は邑楽町に接する。
    南北を渡良瀬川、利根川の二大河川に挟まれ、鶴生田川が市街地を東西に、市西部を多々良川、近藤川が南北に流れ、新堀川、新谷田川、谷田川が市南部を貫流している。城沼、多々良沼、近藤沼、茂林寺沼などの沼が点在する低湿地帯と低台地から成り立っている。

     十分ほど歩いて茂林寺に着く。門前には土産物屋やうどん屋が並び、酒屋には地ビールのほかに「城下町のナポレオン」なんていう瓶も並べてある。当然麦焼酎だろうと思うが、名前の付け方が実に安易で、これでは「いいちこ」を真似たとしか思えない。画伯は「まだスタートしたばっかりだから、後で買います」なんて主人にお愛想を言う。
     茂林寺は曹洞宗で青林山と号す。館林市堀江町一五七〇。境内の桜を目当てにしたらしい、カメラを構えた親子連れがチラホラと見える。総門(黒門)から茅葺の赤門のまでの参道の両側には、さまざまな格好をしたタヌキが並んでいる。二十一体あるそうだ。瓦屋根の総門は応仁二年(一四六八)、茅葺の赤門は元禄七年(一六九四)建立と言う。応仁二年と言うのはこの寺が創建された年で、その当時から残っているとしたら相当なものだ。
     「タヌキの恰好が、前と違うような気がするわ。」「こんなに色鮮やかじゃなかったし、お墓も松林の中に転々といたんですよね。」イトハンと姫がなんとなく不満そうに首を捻っている。中将も「この着物は赤く塗っていなかった」と言う。そう言われれば、境内はガランとしていて整理しすぎているような気もする。宗匠の記憶でも境内の様子が一変したということだ。
     一番奥にはひときわ大きなタヌキが立っている。「正に八畳敷きだね。」「私はこんなに大きくない。精々、三畳敷き。」七十歳を過ぎた人たちは何という会話を交わしているのだろう。

     曹洞宗の名刹、青龍山茂林寺は、その開山を大林正通としています。 正通は美濃国土岐氏の出目で、華叟派の祖、龍泰寺開山華叟正蕚の法嗣でした。寺伝によると、正通は諸国行脚の折、上野国に立ち寄り、伊香保山麓で守鶴と出会います。この守鶴は、のちに茂林寺に分福茶釜を持ち込んだ老僧です。
     応永三十三年(一四二六)、正通は守鶴を伴い、館林の地に来住し、小庵を結びます。応仁二年(一四六八)、青柳城主赤井正光(照光)は、 正通に深く帰依し、自領地の内八万坪を寄進し、小庵を改めて堂宇を建立し、青龍山茂林寺と号しました。正光(照光)は、自ら当山の開基大檀那となり、伽藍の維持に務めました。大永二年(一五二二)には、後柏原天皇から勅願寺の綸旨を賜ります。 寛永十九年(一六四二)には、三代将軍徳川家光より二十三石四斗余の朱印を下賜されております。http://www7.plala.or.jp/morin/history.html

     この守鶴(しゅかく)が物語の主人公である。分福茶釜は巌谷小波のお伽話でお馴染みだが、松浦静山が『甲子夜話』で紹介した茂林寺の伝説は少し違う。茂林寺のHPで確認しておこう。

    元亀元年(一五七〇)、七世月舟正初の代に茂林寺で千人法会が催された際、大勢の来客を賄う湯釜が必要となりました。その時、守鶴は一夜のうちに、どこからか一つの茶釜を持ってきて、茶堂に備えました。ところが、この茶釜は不思議なことにいくら湯を汲んでも尽きることがありませんでした。守鶴は、自らこの茶釜を、福を分け与える「紫金銅分福茶釜」と名付け、この茶釜の湯で喉を潤す者は、開運出世・寿命長久等、八つの功徳に授かると言いました。
     その後、守鶴は十世天南正青の代に、熟睡していて手足に毛が生え、尾が付いた狢(狸の説もある)の正体を現わしてしまいます。これ以上、当寺にはいられないと悟った守鶴は、名残を惜しみ、人々に源平屋島の合戦と釈迦の説法の二場面を再現して見せます。
    人々が感涙にむせぶ中、守鶴は狢の姿となり、飛び去りました。時は天正十五年(一五八七)二月二十八日。守鵜が開山大林正通と小庵を結んでから百六十一年の月日が経っていました。(「分福茶釜と茂林寺」http://www7.plala.or.jp/morin/chagama.html)

     ここでは狢(むじな)とされている。ムジナはアナグマを指すようだが、タヌキと混同されることが多く、関東周辺ではタヌキをムジナと呼んでいたと言われている。それはともあれ、タヌキは茶釜の持ちであり、茶釜に化けたのではない。しかしこの話が世間に広まると、タヌキが茶釜に化けて恩人のために金儲けをする話に変形し、茶釜から顔と手足を出したタヌキが綱渡りをする姿が絵本に多く描かれた。小波はこれを『文福茶釜』として採話したのである。
     茅葺の本堂は享保十二年(一七二七)に改築されたものだ。「茶釜を見に行かないんですか。」三百円の拝観料を払ってまで見たいとは思わない。姫は前に見たことがあるらしい。枝垂れ桜が見事だ。

     茂林寺の花の下照る狸かな  閑舟
     満開のしだれ桜や狸寺    午角

     「今年の桜は色が白いんじゃないかしら。」「早く咲き過ぎたからじゃないかな。もっと我慢しなくちゃいけない。」「そうよね。」露天に立つ銅鋳造の聖観音は元禄三年に造立されたもので、神田鍋町の鋳物師大田久右衛門正儀の作と言う。大田正儀と言えば、江戸六地蔵を鋳造した鋳物師でもある。
     本堂の右に回ると大木が立っている。槇の種類だろうかと乏しい知識で考えていると、「茂林寺のラカンマキ」の説明がついていた。ラカンマキとはイヌマキの変種である。説明を信じれば、応永三十三年(一四二六)、本堂左側の柊と一緒に植えられたという。樹高十四メートル、幹の太さは目通りで二・八八メートル。
     「どうしてラカンなのかな。」ダンディも私と同じ疑問を感じていた。ラカンと言われれば羅漢しか思い浮かばない。

    羅漢槙。まき科の常緑針葉樹。果実は、上に緑色の小球形(種子部)と下に膨らんで付く円筒状で秋に赤くなる花托(花床)がある。修行者の羅漢の首(坊主頭)と袈裟(けさ)を着た胴体に似ている。比較的にイヌマキの果実が大きく花托も太すぎるのに対し、ラカンマキの果実は小さめで胴部が細長で人体形に似合う。それゆえ、樹型も小型で葉が細く短めに密集して繊細・優美に感じられるので、民間信仰の対象とし尊敬していた羅漢石像に例えて、「ラカン」の呼び名にしたというわけである。
    http://cocologtakao.cocolog-nifty.com/blog/2012/01/post-593c-1.html

     寺を出て裏手に回れば枯野が広がる。茂林寺川を渡る橋(五号橋)にもタヌキが立つ。「こっちはメスかな。」隊長やダンディはタヌキの下腹部ばかりを覗き込んでいるが、おっぱいが大きいではないか。「メスに決まってますよ。」「そうか。」それにしても、こうタヌキばかりが出てくると、そろそろ飽きてくる。
     私の記憶に残るタヌキはカチカチ山のタヌキである。と言っても太宰治の『お伽草紙』に登場する下品で不細工な中年のタヌキのことだ。

     カチカチ山の物語に於ける兎は少女、さうしてあの惨めな敗北を喫する狸は、その兎の少女を恋してゐる醜男。これはもう疑ひを容れぬ儼然たる事実のやうに私には思はれる。(中略)
     この兎は男ぢやないんだ。それは、たしかだ。この兎は十六歳の処女だ。いまだ何も、色気は無いが、しかし、美人だ。さうして、人間のうちで最も残酷なのは、えてして、このたちの女性である。(中略)

     狸は火傷を負わされ、更にその傷口に唐辛子を塗りこまれる。もう兎の悪意に気づくべきなのに、恋に盲目になった狸はまだ自覚しない。三十七歳の癖に十七歳だと、すぐにばれる嘘をつき続ける。そしてついにドロ舟に乗せられる。

     ぽかん、ぽかん、と無慈悲の櫂が頭上に降る。狸は夕陽にきらきら輝く湖面に浮きつ沈みつ、
     「あいたたた、あいたたた、ひどいぢやないか。おれは、お前にどんな悪い事をしたのだ。惚れたが悪いか。」と言つて、ぐつと沈んでそれつきり。
     兎は顔を拭いて、
     「おお、ひどい汗。」と言つた。

     必ずしも太宰の傑作とは言い難いが、「惚れたが悪いか」という反問は、太宰に生涯付き纏っていたコンプレックス(熱烈に理解や友情を求めながら、それが得られないという感情)だったと思われる。「井伏さんは悪人です」という太宰の言葉の裏にはこの感情があった。
     しかし、もうタヌキはお終いにしよう。橋を渡れば沼、湿地帯、野鳥の森が広がる茂林寺公園だ。土手一面に菜の花の黄色が広がっている。まだ日は東南に高いが、千意さんが期待した景色の一端が現れたことになる。

      菜の花や茶釜の寺の裏の土手  蜻蛉

     エゾミゾハギの立札はあるが、勿論季節が違うからまだ咲いていない。赤松の林が広がっている。「赤松はきれいだわねえ。」青空に伸びる赤い幹が美しい。「マツタケはあるかな。」「季節が違いますよ。」林といっても松の間隔は広く日当たりが良い。
     危うく踏みつぶしそうになるが、落ち葉の間からスミレが薄紫の花を覗かせている。タチツボスミレをスナフキンに教えていると、「托葉も確認したんですか」と姫が訊いてくる。托葉と距が特徴だと隊長から教えてもらっている。姫は随分前にもらったスミレの図鑑のコピーを手にしながら、「ここで切れちゃってるんですよ」と笑う。「ミレしか分からない。」私も同じ資料を持っていて、やはり悩んだ覚えがある。隊長は小さなスミレを観察して、別の種類(ヒメスミレだったかな)だと断言する。

     枯葉敷く林を踏めば菫花  蜻蛉

     宗匠はこの頃バードウォッチャーになってしまったようで、双眼鏡を目に当てている。だんだん遠い人になっていくのか。その話では四十雀、ひよどり、ヤマガラが見えたようだ。
     林を抜ける所に、舟形石に浮き彫りした地蔵尊を祀った小さな祠が建っている。色白の地蔵で、「新しいんじゃないか」と言う声もあったが、元禄二年の銘がある。「磨いてるのかな。」あるいは白く塗ったものかも知れない。
     やがて冬枯れの田んぼや畑が広がる道に出た。小さな熊野神社を見つけてイトハンがお参りしてくる。狭い境内に鳥居が二つ並び、一の鳥居は朱塗りの両部鳥居だった。
     畑の片隅に咲く諸葛菜も、大量にあれば青紫の色が広がって美しい。「諸葛菜だって、この時期だと早すぎますよね。」姫も言う通り、あらゆるものが一挙に咲いたようで、おかしなものだ。「梅も桜もこきまぜて、って感じだね。」

     道ゆけば春を一盛り諸葛菜  あんみつ姫
     そこかしこ野草競ひて春を見せ  閑舟
     いきなりに色とりどりの春は来ぬ  蜻蛉

     「アッ、宗匠が姫の手を握った。」たまたま後ろを向いたダンディが声を出したのは、膝を庇う姫が土手から降りるときに宗匠が手助けをしていたからだ。画伯も声を上げる。

     菜の花や姫の手を取る若侍  午角

     「若侍」ネエ。確かに画伯からすれば私たちは若造ではあるが、私は「笑ゥせぇるすまん」で、宗匠は「若侍」か。ダンディは悔しそうな、羨ましそうな顔をしている。「今日は世之介をしないんですか。」「今日はサッチャンとお話したいから。」
     そのサッチャンは上から下まで黒づくめで、手甲のようなものだけが真っ白なアクセントをつけている。脚のついたビデオカメラを片手に颯爽と歩く姿を見れば、私より十歳も上だなんて全く信じられない。忍者みたいだ。猿飛サッチャン。時々、地面にカメラを設置して撮影している。
     「ここが蛇沼です。カモがいます。」カルガモが数羽浮かんでいる。「向こうにはカメもいます。」「蛇はいないんですか。蛇を見たかった。」ダンディは変なものが好きだ。「あそこの囲いのあるところがオニバスの自生地です。まだ季節が早いので見られませんが。」周囲は湿地帯のようで、今は黒っぽく濁った水が僅かに残るだけだが、梅雨時にでもなれば沼の面積はもっと広がるに違いない。

     蛇沼はおどろおどろと水光る  午角

     雨が降ればここまで水が来るだろうと思われる斜面に、長さ一メートル強、幅六十センチ程の長方形の小さな船が二艘放置されている。「田船でしょうか。」「ジュンサイを採るんだよ」と隊長が断言した。「ジュンサイ、大好きよ。」秋田ではよく食べたものだが、埼玉に住んで以来、我が家の食卓にはほとんど出てこないから、関東では余り見かけないのではないか。秋田県の山本町(今は合併して三種町)はジュンサイの生産量日本一である。

     人が誰も通らない農道のような道に出た。「平べったい町だな。」畑の奥に見えるのは農家なのだろう。屋根にソーラーパネルを設置する家が目立つ。「あれは全部補助金で設置してるんだろうな。」
     「どうしてスナフキンなんですか。」サッチャンに訊かれても、スナフキン自身どうして名付けられたか、そしてそれががどういう人物か分かっていないのだから答えようがない。「ムーミンに出てくるよ。」画伯の方がよほど知っている。「全体の雰囲気が優しいんですよ」と名付け親の姫が解説した。そうかね。私より彼の方がよほどコワイのではないか。私はさっきから少し拗ねているのです。
     砂丘のように道路より少し盛り上がっているのは自然堤防ではなかろうか。山小屋風の家の脇に二メートル以上もあるサボテンが生えているのが不思議だ。新興住宅地のように、新しい家が並ぶ一角もある。これも不思議だ。「農家の次男三男が独立したんだよ。」
     石仏がいくつか並んでいる場所に来た。墓地を囲む塀の外側である。大きな文字庚申は道標も兼ねていて、「右 ゆきどまり」「左 せんづい いひのざは」とある。「別に行き止まりじゃないだろう。」右手を見たスナフキンが指摘する。おそらく元は別の場所に立っていたのではないか。道路拡幅などで邪魔にされたものをここに集めたのだと思われる。
     「月山 湯殿山 羽黒山」と彫られた石を見れば姫が珍しいと声を上げる。「だけど湯殿山を入れているのは珍しいんじゃないでしょうか。」出羽三山は東国三十三箇国総鎮守とされた修験のメッカである。主に関東以北の人が講を組んで参拝した。
     武州上岡写馬頭観世音というのは、東松山市上岡の妙安寺のものを写したということか。道祖神は地面に半分埋められた格好だ。三猿の上に立つ青面金剛は、簡素化された彫刻がなんだか漫画のようで、余り古さを感じない。腹の前で両手を結び、後ろの二本の手は鏡のような円盤を持ち、残りの二本は何か短い武器のようなものを持っている。円盤を持っているのは初めて見るかも知れない。「新しいんじゃないか。」年号は良く読めないが、「延宝」とあるようだ。それなら一六七〇年代で、そんなに新しいものではない。赤生田村講中による如意輪観音もある。
     「シロバナタンポポですよ。」姫の言葉に「あら珍しいわね」とイトハンも反応する。「みなさん、珍しいものですよ。日本の在来種です。」これを見たのは二度目だ。ウィキペディアによれば、関東から九州にかけて分布し、西に行くほど多いと言う。
     カントウタンポポ、カンサイタンポポ、シナノタンポポ、トウカイタンポポ、セイタカタンポポなどとともに、ニホンタンポポに属する在来種である。私がセイヨウタンポポの進出によって在来種は絶滅に瀕しているのかと思っていたが、どうやらそれは誤解であった。

     見分け方としては花期に総苞片が反り返っているのが外来種で、反り返っていないのが在来種。在来種は総苞の大きさや形で区別できる。しかし交雑の結果、単純に外見から判断できない個体が存在することが確認されている。
     より個体数が多く目に付きやすいことから、「セイヨウタンポポが日本古来のタンポポを駆逐してしまった」というような記述が見られるが、これは正確には誤りである。セイヨウタンポポは在来種よりも生育可能場所が多く、かつ繁殖力が高いが、その反面で多くの在来種よりも低温に弱く、初春から初夏にかけての寒暖差が激しい条件下では生育できない場合も多い。セイヨウタンポポの個体数が多いために相対的に在来種の割合が減っただけで、在来種も一定の個数で存在している。また、茎を大きく伸ばさないため、かえって都市部で在来種が見られる場合もままある。(ウィキペディア「タンポポ」より)

     畑一面を色どっているのはホトケノザだ。「シソ科ですから茎が四角です」と姫が茎を触る。珍しくもないホトケノザも、一斉に赤紫の色が広がっているとなかなか綺麗ではないか。ヒメオドリコソウ。「どこが姫なんだい。」ドレスの襞のように見えるのが名前の由来だろうか。しかしウィキペディアでは、「花序が環状に並ぶ様子を、踊り子が並んで踊るさまに例えて名づけられたものとされる」と書いてある。
     「オドリコソウはもっと大きいですよ。」しかしオドリコソウの白く妖艶な姿とは似ても似つかない。私はオドリコソウが好きなので、同じ名前を使って欲しくない。「姫って、小さいとか劣っているとかいう場合に使われるんですよね。そりゃ、大きいことが善ならば、小さいのは悪ですけど。」姫は少し拗ねているようだ。そういう意味なら、イヌタデ、イヌマキのように「犬」を使う場合もある。
     オオイヌノフグリも広がっている。「私ね、オオイヌノフグリが好きなんですよ。」私も好きだ。「歌を作ったんです。」

     道野辺のオオイヌフグリ寄り合ひて 大空の青写し染め咲く  さっちゃん

     「三首作ったんですよ。」メモを取ろうと思ったのに、「書いちゃダメです」と言われてしまったので、ここに引くことができないのが残念だ。果実の形がそれに似ているというのだが、この清楚可憐な花に「フグリ」は似合わない。「星の瞳って言うんだよね。」画伯は詩人であったか。しかし宝塚か少女漫画みたいなネーミングはどうだろうか。瑠璃唐草とか天人唐草という呼び方もあるらしい。

     いぬふぐり星のまたたく如くなり  虚子

     こんな句を見ると、虚子も星菫派だったと言わなければならない。354号に出てコンビニでトイレ休憩をする。姫の半日券はこの辺で切れた。次の角を左に三キロほど行けば館林駅に着く筈だ。「これ、みなさんで食べてくださいね。」袋の中から飴やチョコレートの類を引っ張り出してダンディに託して、姫は慌ただしく去って行った。「そろそろ腹へっちゃった。」ちょうど十二時になった頃だ。
     「つつじが岡公園」の信号標識には、日本の漢字と簡体字で「杜鵑花岡公園」と併記してある。杜鵑ならばホトトギスと読む筈でおかしいではないか。しかしこの疑問は私の無学を証明してしまった。植物のホトトギスは杜鵑草と書く。これは知っている。ところが杜鵑花と書けばサツキの漢名だと言う。フーン。しかしサツキはツツジの一種ではあってもツツジを総称するものではないだろう。それとも中国では一般にツツジ科をサツキとしているのだろうか。
     「あれはどうだい。」スナフキンに言われるまで、同じ標識にある横文字の方には気付かなかった。Tsutsujigaoka Parkは英語である。その下のTsutsujigaoka Parqueは何語だろうか。「フランス語かな」とスナフキンが首を捻る。しかしいまどきフランス語を併記する看板なんかあるだろうか。
     自慢するわけではないが、私は第二外国語でフランス語を選択したのですよ。全くものにならない語学だったが、それでもなんとなくフランス語とは違うような気がする。尤も私が知っているフランス語はジャック・プレヴェールの『枯葉』だけだけれど。
     フランス語はかつて石原慎太郎によって都立大学から追放された言語である。慎太郎の政策は言語道断だが、現実に国際社会においてフランス語の地位が相対的に下がっているのは認めなければならないだろう。道路標識にフランス語を掲げたものなんか、今まで見たこともない。
     「スペイン語とかポルトガル語じゃないかな。ブラジル人が多いんだと思う。」しかしスナフキンはポルトガル語とは違うと頑張る。後で辞書を引いてみると、やはりParqueはポルトガル語であった。フランス語ならParcになる。
     信号脇に大きな石碑が建っているので見に行くと、「道路づくりにたずさわった人びと」であり、六十人の名前が記されていた。「名前を見ても知ってるひとなんかいないだろう。」
     躑躅ケ岡公園で昼飯だ。十二時十五分。「どうしてこんな難しい字を書くのかしら。」案内板の字を見詰めていたイトハンに言われても、こう書くのだから仕方がない。と言ってはみたが私も気になった。「テイショクとでも読むのかな」とダンディも首を捻る。調べてみると、こんな記事を発見した。

    中国で毒性のあるツツジを羊が誤って食べたところ、足ぶみしてもがき、うずくまってしまったと伝えられています。このようになることを躑躅(てきちょく)と言う漢字で表しています。従って、中国ではツツジの名に躑躅を当て、日本へもその中国で使われていた名称躑躅が入って、つつじと読むようになったと考えられています。
    http://www.city.tatebayashi.gunma.jp/tsutsuji/09.html

     簡体字を採用するようになって以来、中国でもこんな難しい文字を使わなくなったのかも知れない。それで杜鵑花で代用しているのだろうかと推測してみる。折角の公園なのに、時期でないから客の姿はほとんど見られない。ツツジだけではほんの一時期しか客を呼べないのである。
     「土曜日だって言うのに店も閉まっているし。」これだって、その時期だけの店ではないだろうか。海の家のようなものだろう。「それでよく食っていけるな。」「農家の兼業じゃないのかな。ほんの小遣い稼ぎだよ。」
     館林藩最初の城主榊原康政の側室「お辻」が、沼に小船を浮かべて遊んでいて沼の主に見込まれてしまった。そして侍女と一緒に城沼に沈んでしまう。お辻の死を悲しんだ康政は菩提を弔うために、彼女が生前愛したツツジを城沼の南岸に植えた。後、歴代藩主がツツジを増やし、現在の躑躅が岡公園になったと言うのが伝説である。
     但し説明板によれば、康政以前に「躑躅ケ崎」の地名が残っていて、古くからヤマツツジの自生地だったようだ。それならば、お辻はその野生のツツジを愛していたのだろう。
     「ここが一番見晴らしの良い場所です。」その行啓記念碑のちょっと下にある四阿で弁当を広げることにした。私がもう少し降りて城沼の畔のトイレに行って戻ろうとすると、千意さんが「上は満員、そこにしましょう」とすぐ脇の四阿に入った。上よりはここの方が広いのだが、ここで弁当を広げたのは千意さん、スナフキン、私の三人である。
     途中でいとはんが、「小町が作ったんですって」と大きなタッパーウェアにぎっしり詰まったホウレンソウを持ってきてくれた。サッチャンは冷えたパイナップルを持ってきてくれる。「甘いのはダメなんでしたか。」果物は大丈夫なのだ。有り難いがとても冷たくて、二切れ以上は入らない。カズチャンは飴を出してくれる。
     上の四阿の様子を見に行くと、サッチャンは一所懸命全員のニックネームをメモしている。ハコさんの命名由来を尋ねられ、箱根駅伝を走ったひとなので、と答えた。「いきなり走れって言われたんだ。三区だった。」いきなり言われて二十キロも走れるものだろうか。
     「大谷休泊紀功の碑」が分からない。紀功碑とは功績を記した碑であることは間違いないのだが、大谷休泊という人物が分からないし、緑泥片岩のような大きな石に彫りつけた句の、上五の「扇」しか読めない。

    関東管領山内上杉家の家臣。上杉憲政の下で農業奨励、開拓事業を行う。
    天文二十一年(一五五二)憲政の居城の平井城が、北条氏康により落城し、その後は、館林城の長尾顕長の招聘を受け、防風林や用水路を作る。
    防風林については、太田金山の松苗を移植し、二十一年間に百五十万本の松を植栽し、「大谷原山林」を造成した。また用水路は、後に「休泊掘」と呼ばれ農業生産力の向上に貢献した。大正四年(一九一五)その功績から従五位が追贈された。(ウィキペディアより)

     館林は利根川と渡良瀬川の氾濫に悩まされ、冬は空っ風が土埃を舞上げ、地味も痩せた土地だった。それが、この大谷休泊の施策によって農業生産の適地に生まれ変わったということらしい。
     「樹齢八百年ってホントかしら。」ヤマツツジの老木である。「一説によれば匂当内侍遺愛のツツジ」と言うのだが、こんなことは信じられない。匂当内侍の色香に溺れて新田義貞は出陣の機会を逸するのだが、都の住人の彼女が上州に来たとは思えない。樹高は五メートル、葉張りは長径十一メートル、根元の幹囲四メートル。幹は三十一本に分かれているらしい。
     この公園では五月の初めになれば五十余品種、一万株のツツジが一斉に花を咲かせる。私も一度来た覚えがあるが、どんな具合だったかもう覚えていない。「なんだか整備されすぎちゃってイヤだわね。」イトハンはあくまで自然なままであってほしいのだ。
     鮮やかな紅梅が咲いている。ここから城沼の対岸に渡る渡し船や観光船が出るらしいのだが、営業している気配はない。城沼一周七百円。対岸の善長寺まで二百円、尾曳橋まで四百円となっている。
     対岸には善長寺の屋根が見える。「ここには白鳥は来ないのかい。」「多々良沼にはきますよ。」地図を見るともっと西の方、東武小泉線を挟んで関東短大の北側に広がる沼である。
     昼食休憩も終わり、沼に沿って桜並木の下を歩き始める。気温が上がって来た。この道は「朝陽の小径」と名付けられている。公園は整備している最中のようで、新しい盛り土の上にまばらに梅を植えている。これが梅林になるらしい。館林市もツツジだけでは客を呼べないと観念したのだろうか。
     鶴生田川(つるうだがわ)に出る。「上流を見てください。鯉幟がいっぱい見えます。日本一、いや世界一の鯉幟です。」鯉幟は日本のものだろうから、日本一はすなわち世界一と言って良いのだろう。サッチャンが一気に駆け出して、前方でビデオを撮り始めた。その間に尾曳橋を渡ると、橋の上からの方が眺めが良い。三百本程の桜並木が続く中、桜祭りに合わせて、五千を超える鯉幟を川の上に張りめぐらすのである。
     対岸の公園には、木道をめぐらした一角が見えた。「花菖蒲です。」木道の周りは湿地帯なのだろうが、今は完全に乾燥しているように見える。親子がその木道で追っかけっこをするように遊んでいる。
     その脇の門から秋元家旧別邸(館林花菖蒲園)に入る。館林市尾曳町八丁目一番地。秋元氏は最後の館林藩主である。

     この建物は明治時代後期に建てられた旧館林藩主秋元家別邸として建てられました。木造平屋建て、入母屋、瓦葺き、庭園側がほぼ全面ガラスの引き戸で構成されています。廊下部分が主構造部から張りだし上部が銅板葺きの下屋が下がっている為、若干むくりの附いた瓦葺きの大屋根と対象的であるのと同時に水平線を強調した日本建築らしい品位のある印象を受けます。離れは逆に外壁が白く塗られた下見板張りで、出窓の軒下を赤く塗り、縦長の連想窓を採用するなど洋風建築の要素を取り入れた構成で主屋とは対象的な建物になっています。http://guntabi.web.fc2.com/tatebayasi/akimoto.html

     家康の江戸入部に伴って、天正十八年(一五九〇)最初に館林藩主となったのは徳川四天王の榊原康政である。戦国時代に荒れた城を修復し、石垣や天守を造り、城下町を整備した。利根川を抑えるためには幕府にとっては要衝の地で、譜代大名が頻繁に交代した。榊原家三代の後、正保元年(一六四四)から寛文元年(一六一一)まで大給(オギュウ)松平家が二代続いた。そして綱吉が入り、将軍職に就くとともに、その子徳松が家督を継ぐが、天和三年(一六八三)に急死して廃藩となった。この時に城は壊されたようだ。
     宝永四年(一七〇七)、越智松平(甲府の徳川綱重の二男)が入封し四代続く。その後享保十三年(一七二八)から太田氏二代、延享三年(一七四)から再び越智松平家が三代。天保七年(一八三六)に井上氏。弘化二年(一八四五)に秋元氏が入って二代で明治を迎える。
     「綱吉は随分長かったんだね。」「でも彼自身はここには来てません。ずっと江戸にいました。」千意さんは良く調べている。因みに越智松平家の末裔が、後にこの地で学校を開いた。関東短期大学(館林)と関東学園大学(大田)である。「新入社員の頃に来たよな。」スナフキンや私を含めて新入社員五六人が、訳も分からず館林に連れて来られたのが、最初の宿泊出張だった。短大の学科増で図書を整理する仕事が間に合わずに溜まっていたのである。
     屋敷は平屋の上に、もう一段屋根を載せたような形だ。庭に面して長い縁側が続いている。「入れません。」「ガラスが昔のだね。」表面がデコボコしているのは、旧家ではよく見かける。「野田のキッコーマンでも見ましたね」と千意さんが応じる。渡り廊下で洋館が繋がっているのも珍しい。銀閣寺垣、光悦寺垣。千意さんは庭師の修行もしたからこういうものにも詳しい。
     庭園の脇には、秋元春朝(秋元氏十三代)が褌ひとつで網を投げようとしている立像が立つ。もう断髪しているから明治以降の殿様(明治十四年生まれ)ではあるが、殿様が裸体になっている像というのは珍しい。

     八幡神社になっているのが本丸の跡である。八幡は元城内の廓に祀られていて、明治の終わりになって、上毛モスリン会社によって現在地に移されたという。八幡に向き合う土手が土塁の跡だ。高さ数十センチの石垣は新しく設けられたものだろう。

     館林城は、館林、邑楽地方の代表的地形である低台地と低湿地をたくみに利用して造られた平城で、別名を尾曳城と言います。
     城の中心は現在の文化会館敷地の三の丸から東に、現市役所の二の丸・その東に本丸・南に南郭・本丸の東へ八幡郭と並び、城沼に突出した舌状台地を土塁と塀とで区画して造られていました。・・・・・

     「こんな場所だったら守るのも難しかったんじゃないか。」現在の地形を見ればそう思うが、湿地の存在が大きかったに違いない。渡良瀬川と利根川に挟まれた地域はいったん大雨が降れば、辺り一面沼状態になったのではないか。人馬の通行も困難なほどになったとすれば自然の要害である。忍城が浮城と呼ばれたように、低湿地は充分防御に堪えるのである。
     館林城の築城は十五世紀、赤井照光によると伝えられる。赤井氏の出自は良く分からないが、邑楽郡佐貫庄(現館林)の出身らしい。佐貫庄は佐貫氏(藤原秀郷流)が支配しており、おそらくその被官から下剋上で成り上がったとみられている。
     十五、十六世紀の関東は、上杉二家(扇谷、山内)と鎌倉公方(後に古河公方)とが三つ巴の抗争を繰り広げていた。地元の群小武士団もその消長に影響され、勢力図は頻繁に変わった。更に北条の台頭、上杉没落と長尾景虎の登場が、関東の勢力図を大きく変えることになる。赤井氏は当初は足利成氏方に従っていたようだが、その後北条氏に従って長尾景虎に滅ぼされる。

     「春になって真っ先に咲くのが満作とか連翹とか黄色い花だと思ってたのに、今年は違うわね。」サッチャンの言葉で脇を見れば連翹が鮮やかな黄色の花をつけている。この春は異常だ。冬はあんなに寒く、東北北海道では稀に見る大雪だったのに、三月になってあらゆる花が一斉に開いた。
     千意さんは、田山花袋記念文学館、向井千秋記念こども科学館の前で立ち止まる。「ここで自由見学にします。今二時ですから、二時半にはそこの赤レンガの門に集合してください。」
     向井千秋には申し訳ないが、館林に来たからには田山花袋を表敬しなければならない。田山花袋記念文学館。館林市城町一番三号。入館料は二百十円である。「『蒲団』位じゃないのか。」とスナフキンは侮っていたが、中に入って全集の巻数を見て「こんなに書いたのか」と驚いている。「読んだのか。」そんなに読む筈はない。数えてみれば『蒲団』『少女病』『田舎教師』『東京の三十年』か。あとは青空文庫でいくつかの紀行文を読んだだけだ。
     「柳田國男と関係あるのかい。」田山録弥が上京して初めの頃に知り合った友人だった。知り合った頃、柳田國男はまだ十四、五歳だった。読書量はかなりの筈のスナフキンでも、田山花袋のことは余り知らないようだ。尤もいまどき花袋を読む人が多くいるとは思えない。あの時代の小説は文体が洗練されていないし、思想もまだ若いから読むのは少し辛い。それに比べれば紀行文や随筆の方が読みやすいだろう。
     田山録弥は明治四年十二月十三日(一八七二年一月二十二日)、田山鋿十郎・てつ夫妻の次男として、栃木県邑楽郡館林町(当時は栃木県だった)に生まれた。
     明治四年はまだ太陰暦の時代で、西暦年とは一ヶ月ちょっとずれがある。同世代にどんな人物がいたか。一八七一年には堺利彦、戸川秋骨、高山樗牛、島村抱月、国木田独歩、川上貞奴、幸徳秋水、土井晩翠、一八七二年には徳田秋声、島崎藤村、樋口一葉、佐佐木信綱、岡本綺堂、添田亜蝉坊等が生まれている。
     田山家は館林藩秋元氏に仕えた武士である。鋿十郎の家禄がどの程度だったかは分からないが、下級武士だっただろう。明治九年、父が警視庁巡査となって一家を挙げて上京したが、明治十年(一八七七)、父が西南戦争で戦死したため館林に戻った。鋿十郎の「四等巡査」の辞令が展示されている。
     明治十四年(一八八一)二月、数えで十一歳の録弥は上京して京橋区南伝馬町の有隣堂書店に丁稚奉公をする。主に農業関係の本を扱う本屋で、横浜の有隣堂(明治四十二年創業)とは別の書店のようだ。

     私の小さな小僧姿を私は東京の到るところの町々に発見した。最初、私は年上の中小僧に伴れられて、あるいは車を曳いたり、あるいは本を山のように負ったりして、取引先やお得意の家を廻って歩いた。ある冬の日は、途中から俄かにぼた雪になった。雪に艱まされて、背中には沢山な重い本、下駄にはごろごろと柔らかい雪がたまって、こけつ転びつして、漸く一緒に行った番頭に扶けられて車で帰ってきた。私はまだ満九年十カ月になったばかりの幼い子供であった、「無理はないよ。まだ小さいんだから。」こう人々の言うのを私はよく耳にした。私は田舎の城下町から祖父に伴れられて、寒い河舟の苫の中に寝て、そして東京へと出て来た。その時その長い碧い川の土手には、雪が白く処々に残っていた。舟の苫の上にも雪があった。(田山花袋『東京の三十年』)

     その頃兄の実弥登は本郷弓町の包荒義塾で漢学を学んでいた。録弥は「不都合あって」有隣堂を辞め、翌年五月に館林に戻った。花袋は「不都合あって」としか書いていないが、おそらく金銭に関わることだったのではないだろうか。
     そして明治十九年(一八八六)、今度は家を挙げて上京する。実弥登(実)が帝国大学史誌編纂掛写字生に雇われたので、一家生計の目処がついたのではないだろうか。史誌編纂掛は、太政官修史局を帝国大学が引き継いだもので、『大日本史』を継承して日本の歴史を記述するのが本来の目的だった。当時は編纂委員長が重野安繹、副委員長に久米邦武、星野恒がいた。しかし明治二十五年に久米の『神道は祭天の古俗』が問題視され、修史事業は廃止された。そして史料収集とその編纂のみに当たることになり、現在の史料編纂所に引き継がれていく。結果的にはこれが日本の歴史学にとって幸いだった。歴史記述に国家が容喙してはならない。
     実は十年にも亘って古地震に関する史料を収集し、それが大森房吉『大地震概要』や武者金吉『日本地震史料』に引き継がれていく。篤実な歴史家だった思われる。郷土史としては『館林藩国事鞅掌録』を纏め、遺稿『埋れ木 一名岡谷嵯磨介事跡』を残した。
     花袋の教養は漢学塾と和歌と英学塾で鍛えられた。硯友社の江見水蔭の指導を受けた頃の花袋は美文調の文章を書いていた。しかし松岡(柳田)國男、島崎藤村、国木田独歩、戸川秋骨と知り合って次第に硯友社の影響から抜け出ていく。藤村や秋骨は透谷の影響で『文学界』に拠った連中だし、独歩が長く生きていれば自然主義の名は花袋よりも独歩の名と共に呼ばれた筈で、硯友社とは基本的に相容れないだろう。
     展示を見終わって、スナフキンは群馬の文学ガイドを買った。群馬の文学と言えば、私はもうひとり前橋の萩原朔太郎しか知らない。しかし案外多いのである。私の関心の範囲に絞っても、生方敏郎(沼田)、金井美恵子(高崎)、伊藤信吉(前橋)、萩原恭次郎(前橋)、山村暮鳥(棟高村)、土屋文明(高崎)、吉野秀雄(高崎)、羽仁五郎(桐生)などを数えることが出来た。
     「向井千秋は行かないのか。」「だってもう時間があんまりないよ。」道路を渡って田山花袋旧居を見なければならない。貧乏士族の父が戦死した後の家だから、もっと貧弱なものかと思っていたが、茅葺の平屋ながら玄関土間に続いて三畳間、左に八畳二間、右に四畳、裏に三畳の板の間に土間もある。親子四人であっても暮らす広さは充分ではなかろうか。しかし花袋は「二間しかない田舎の藁葺の家」と書いている。「野口英世の実家より随分立派だ。」猪苗代の貧農の家とは比べられないだろう。

     二間しかない田舎の藁葺の家、広い煤けた台所、そこから出て行くと、赤い素焼の土器の井戸側があって、つるべはそれに伏せてある。井戸端には、夏草がしげって、滴す水が夜の涼しい月の光に美しく砕けた。その近くにある梅の古い幹には、いつも美しく白い花が咲いた。
     残ったお城の土手の萱原の中で、日和ぼっこをしながら、揚った凧の動くのを楽しい心で見ている私、裏の切通を抜けて地蔵裏という田圃の堀切の中に魚をすくいに行っている私、いろいろさまざまな想像に耽って将来をあれかこれかと夢んでいる私、釣魚に夢中になって釣竿とびくとにばかり心を入れて母親に怒られた私、田舎の町をにきびの出た顔をして通っていく私、小学校の庭で悪戯をしている私、そろそろ色気がついて来て藩の家老の家の娘を恋した私、その娘に途中で逢ったりすると、どうにもこうにもしようのないようにとちって顔を赤くした私、漢詩を作って、『頴才新志』というその頃唯一の少年投書雑誌であった雑誌に投稿して、それが誌上に載せられたのを天にでも登ったように喜んでいる私、城を取り巻いた沼の四季の風物を拙い漢詩や和歌にして得意になって、『城沼四時雑詠』などという本を作った私――それが突然再び東京に出ることになった。今度はすべて一家を挙げて・・・・・。(『東京の三十年』)

     望郷と懐旧に感傷は免れ難いが、私は花袋のこういう文章が好きだ。『蒲団』や『少女病』しか知らない人には、こうした花袋の感傷は珍しいかも知れない。沈丁花が咲いている。

     幼き日思ひ遥かに沈丁花  蜻蛉

     上毛モスリン株式会社の事務所は、外壁工事中のためだろう。足場に囲まれていて入ることはできない。木造二階建ての洋館である。

     上毛モスリン株式会社は、館林地方の伝統産業である機織業を活かした近代的織物会社として荒井藤七、鈴木平三郎らが中心となって明治二十九年(一八九六)毛布織合資会社として設立されました。
     明治三十五年には「上毛モスリン株式会社」と改称し、明治四十二年に旧館林城二の丸跡に工場を移転します。
     この工場は、当時の館林では比較的大型の工場や近代的な設備を導入し、町の基幹産業として近代化の発展に寄与してきました。
     最盛期の大正中頃には、従業員約二千人の大工場として町の発展を支えてきましたが、大正末期に倒産し、その後、共立モスリン、中島飛行機、神戸製絲と会社が変遷し、上毛モスリン時代の建物は増改築が繰り返されてきました。

     構内は禁煙なので、道路に出て煙草を吸っていると、隊長、ドクトル、ハコさんが向井千秋記念館から出てきた。さすがに理科系の三人だ。「入場料はいくらでしたか。」「六十五歳以上は無料だからね。」モスリン事務所の前には、間知石と角石が積まれて案内板が立っている。
     館林女子高校の前を過ぎる。「群馬県は男女別学でしたね。」ダンディの声が聞こえる。「向井千秋もここを出たんじゃないかな。」調べてみると残念ながら違った。ウィキペディアによれば、医学部を志して中学二年で上京し、日比谷高校、雙葉高、慶應女子高に合格して慶應女子に入学していた。私は彼女についてほとんど何も知らなかったが、宗匠と同い年である。
     そして城門に着いた。「大手門かな。」「違います。土橋門です。」「復元したんだろうね。」サッチャンは「おしゃぶり昆布」をくれる。

     ここからが市街地になり、次第に城下町らしい狭い小路に入って来た。新しい建築の間に、武家屋敷だったような門構えの家がある。マンションの出入り口に長屋門のような門を構えているのも珍しい。「この一階に大家が住んでいるんでしょうね。」
     「侍町だね。」「ほろ、そこに武家屋敷がある。」鷹匠町武家屋敷「武鷹館」である。移築したものだが、やはり花袋の家よりは立派だ。茅葺屋根の平屋ながら、ちゃんと床の間が付いている。鷹匠町とは懐かしい町名で、秋田にもある。そこに立つ「鷹の松」という老松が、家から高校に自転車で通う道のほぼ中間地点に相当していた。
     門扉は古いが、白壁や屋根瓦が新しい長屋門がある。「写真撮る必要ないよ。新しいんだから。」そう言う声を聞きながら中に入ってみると、ただ空き地が広がっているだけだった。外池酒店は二階建の典型的な町家だ。店内を覗きこんだが、商品はあまりない。「やる気ないんじゃないか。」
     旧二業見番組合事務所の玄関先の唐破風を見て、「銭湯みたい」とイトハンが声を上げる。しかし二階を見上げれば切妻屋根が三つ並んで、料亭のようにも見える。館林市本町二丁目一六番地二。この辺は肴町である。昭和十三年に建てられたものだ。ただの事務所ならばこんなに凝った造りは要らないだろうに、二階には芸者衆のための踊りの稽古場を持っているらしい。三業とは言うが二業とは珍しい。芸者置屋、料理屋、待合のうち、待合がないのを二業地と呼ぶらしい。これは初めて知った。今では本町二丁目の自治会館になっている。

     城下町面影探り木瓜の花  閑舟
     花街の唐破風見上ぐ紅椿  蜻蛉

     路地を抜けた角にあるのが清龍神社という小さな社だ。地図では青竜神社とあるのだが、額には清龍神社と書いてある。脇の水槽には、青い龍の口から水を吐き出している。「青い龍なのね。」青龍、白虎、朱雀、玄武とあるからには龍は青と決まったものだろう。
     商店街から路地に入り、青梅天満宮を通り抜ける。朱塗りの神門はかなり歴史がありそうに見える。随身門の形だが、二神はいない。「あれ、四つしかない。」「一つ外れてるんだ。」注連縄に結んだ房が一つ外れてそのまま放置されている。梅祭りのために向拝の柱から電線を引いてあるのに、地元の人は誰も気づかないのだろうか。

    青梅天満宮の創建は不詳ですが延喜元年(九〇一)大宰府に左遷させられた菅原道真が「東風吹かば 匂ひをこせよ 梅の花 主なしとて 春な忘れそ」と詠い四つの梅の実を枝に刺し投げたところ日本各地に散らばり根付いたそうです。その四箇所とは花久里梅(島根県)、飛梅(福岡県)、四季梅(香川県)、青梅(群馬県)でそれぞれに天満宮の分霊を勧請し菅原道真を祀っています。谷越商店街から路地に入ると鳥居の前の石碑に「日本四社 青梅天満宮」と刻まれ、その奥には朱色に塗られた山門が建っています。
    http://guntabi.web.fc2.com/tatebayasi/tenman.html

     「日本四社」なんて初めて聞いた。少し調べてみたが、これを称しているのは館林だけで、なんだか胡散臭い。この記事に「山門」と書いているのもおかしい。三椏が無数に花を開いている。
     街道沿いの町屋のような古い建物も目につき始めた。生蕎麦の山本屋の屋根瓦は今にも崩れ落ちそうだが、これで営業を続けているのだろうか。分福酒造店舗「毛塚記念館」は木造二階建て、江戸後期の建物だ。一階部分は黒板壁、二階は同じく黒塗りの格子が嵌め込まれ、切妻側には漆喰が塗ってある。残念ながら閉まっていて中には入れない。屋号は丸木屋、毛塚というのは苗字のようだ。ここは本紺屋町だ。
     川を暗渠にしたと思われる遊歩道の入口に、車止めとして置く御影石に「歴史の小径 竜の井」とあって、龍が描かれている。「三つとも違う形なのね。」
     その突き当たりが元は善導寺の境内だったという。駅前整備のために寺は移転したが、井戸だけは残された。空き地の隅に四本柱で屋根を組んだ井戸がある。木彫りの龍が見事だ。「顔はどこにあるの。こっちには爪がある。」「そっちにあるよ。」「内側にも。」「龍の奥さんが身投げしたんだよね。」奥さんでも龍であろう。その龍が身投げとは不審なことだ。元々水に棲む霊獣だから身投げしても死ぬ筈がない。
     説明を読めばやはり違った。寺を守るために、井戸の中に入ったのである。この井戸と、さっきの清龍神社の井戸と城沼とが繋がっているという伝説があるようだ。

     さて駅に着いた。館林駅は駅舎が二つある。「左側が旧駅舎、右が新駅舎です。」時計台のある旧駅舎は洋館風の造りで「関東の駅百選」に選ばれていた。新駅舎は何の風情もない。この駅からは東武小泉線、東武佐野線が分岐している。
     駅舎の跨線橋を通って西口に出れば、そこが日清製粉ミュージアムになっていた。入館料は二百円なり。受付嬢が二人もいるのは、よほど余裕のある会社だ。
     日清製粉は、明治三十三年(一九〇〇)、正田貞一郎らによって、群馬県邑楽郡館林町に館林製粉株式会社として設立されたのが元々の始まりだ。利根川流域の小麦が決定的だったのは、野田のキッコーマンと同じだ。明治四十一年(一九〇八)、横浜の日清製粉株式会社を合併して、社名を日清製粉株式会社と改称し、本社を東京に移転した。尚、正田醤油の方は本家筋になる。
     新館には新式の機械を並べて、製粉行程を説明している。しかし製粉とは結局、砕く、篩うという物理的な作業を如何に効率よく大量に行うかということに過ぎないから、余り面白いものではない。この辺りが、キッコーマンの工場と違うところだろう。
     それよりも旧事務所だった本館の方が趣がある。ほぼ正方形に近い木造二階建ての洋館だ。貞一郎、英三郎の正田二代の写真や、使っていた机などが置かれている。「美智子さんのことは何も触れていないだろう。」「遠慮してるんだよ。」そうなのか。
     庭に出ると、イトハンは建物内の見学なんか一切関係なく、池畔に足を投げ出して休んでいる。靴も脱いでいるではないか。「だって機械なんか見てもしようがないもの。」池には鯉が泳ぎ、真っ白なユキヤナギが眩しいほどだ。
     アンケートを書くと何か貰えることになっている。「蜻蛉さん、アンケートを。」入館料を払った時に用紙を貰っていたね。猫の人形、お好み焼きの粉、たこ焼きの粉が選べるのだが、お好み焼きもたこ焼きも家では作らない。「子供が小さい時、たこ焼き作ったな、」「そう言えば家にもその鉄板があったような気がする。」しかし粉は重そうだからネコにした。スタジオジブリ製作による麦わら帽子を被った猫である。
     千意さんが決めた集合時間にはまだ時間があるが、駅で待っていても良いというので早めに駅に戻った。スナフキンは外に出て館林うどんを買ってきた。「さっきの粉と合わせると重くて仕方がない。」粉はどちらかを選ぶのではなく、二つともくれたようだ。これが二百円分だと思えば別に文句を言う理由もない。サッチャンもイトハンも猫を貰ってきていた。
     宗匠の万歩計で一万七千歩。十キロちょっとか。一時間に五本ほどある電車に乗って大宮に出る。中将は足利まで出て両毛線に乗るらしい。ハコさん、サッチャンは途中下車せずに越谷へ帰る。画伯は今日もカラオケの会があると言うので大宮で別れる。
     私たちはいつものさくら水産だ。この時間になるとやや寒くなって来る。さっきジャンバーを脱いでしまった私に、「風邪引かないように気を付けてくださいね」とカズちゃんが優しく忠告してくれる。帰りにはもう一度ジャンバーを着込まなければならない。
     「何人様でしょうか。」「九人。」「それではこちらにどうぞ。」席に着こうとすると、「済みません、二階に行って下さい」と言われた。「なんだ、なんだ。」私たちと入れ替わりに、同じ九人の団体がやって来た。どうやら予約していたようで、九人と言ったから店員が間違えたのである。「勝手に予約席に着こうとして」なんて声が聞こえるのには納得がいかないが、ここで喧嘩する訳にはいかない。
     二階では靴を脱がなければならない。「銭湯みたいね。」下駄箱の下足札を見てイトハンが喜ぶ。冷奴はいつも二人で一つを分けるのだが、今日は奇数だから私が一丁貰った。カズちゃんが何も言わないのに、宗匠は気を利かせてお握りセットを注文する。気配りの人である。ダンディは「この頃、焼酎はきつくて」と言ってビールだけにしている。隊長もそうだ。二本入れた焼酎は少し残してしまった。二千五百円なり。

    蜻蛉