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    二〇一三年四月二七日(土) 松戸

    投稿:   佐藤 眞人 氏     2013.05.04

     旧暦三月十八日。昨夜は満月だったから月齢と少しずれている。今回はあんみつ姫の企画で松戸を歩く。このところ姫の企画は里山、日光街道、江戸歩きと続いて大車輪の活躍だ。
     集合場所はJR松戸駅西口改札だ。武蔵野線新松戸駅で常磐線のホームに回ると、ちょうどスナフキンもやってきた。馬橋、北松戸、松戸。鶴ヶ島から約一時間半、九七〇円なり。しかし北坂戸の古道マニアは池袋から日暮里を経由してきたと言う。そちらを利用すれば八八〇円で、時間も数分短縮するのだ。武蔵野線とばかり頭にあって、よく調べもしなかったのは拙い。
     「西口ってどっちだろう。」それらしい表示がないから、取り敢えず中央口改札を出た。「あっちだ。」右手には西口広場が広がっていて、朝の日差しが暖かくて気持がよい。すっかり初夏の陽気だ。
     今日は初参加の人が多い。マリオには、里山は遠いから無理だろうと勝手に決め込んで知らせていなかったのだが、今回、姫が連絡してくれたお陰で初めてやって来た。「弁当が必要って書いてあったけど。」「そう、その辺のコンビニで買って下さい。」碁聖は世田谷のコーラス仲間のご婦人二人(タカちゃん、クラちゃん)を連れて来た。
     ロダンも久し振りに笑顔で現れた。「今日も半日券かい。」「大丈夫、一日券貰って来ました。」「残業は認めてくれるのかな。」「反省会までは勤務時間内ですよ。カラオケは許されないけど。」元気そうで安心した。
     あんみつ姫、小町、マリー、イトはん、クラちゃん、タカちゃん、宗匠、ハコさん、ロダン、碁聖、古道マニア、マリオ、スナフキン、隊長、ダンディ、ドクトル、講釈師、ヤマちゃん、蜻蛉の十九人である。
     松戸は初めてなので、取り敢えずネットから松戸宿界隈の地図だけを探して印刷してきた。それによれば松戸駅の周辺には水田が広がっていた。この辺りを北端に、旧水戸街道(流山街道)に沿って宿場が南北に続く。
     松戸は古代から下総国府と常陸国府との中継点で、また江戸川(旧太日川)を渡って東西を結ぶ交通の要衝であって、千住、新宿(にいじゅく)に続く水戸街道三番目の宿場である。江戸幕府によって対岸に金町松戸関所が設けられると、渡船場を控えた宿場として賑わった。天保一四年(一八四三)の記録で、人口は千八百八十六人、内男が九百五十一人、女が九百三十五人とされている。家は四百三十六軒、本陣脇本陣各一軒、旅籠二十八軒を数えた。宿場の景観が多少でも残っていると嬉しいのだが。

     松戸駅西口から真っすぐ南に歩き、伊勢丹に突き当たって右に曲がる。「へーっ、こんなところに伊勢丹があるよ」とダンディは少々松戸をバカにしたような声を出す。そしてすぐに街道に出ると向かいに建つのが宝光院だ。真言宗習豊山派、梅牛山と号す。松戸市松戸一八四二。
     門前には「四国八十八ケ所第五十四番 豫州圓明寺○」と彫られた石柱が建っている。○は「簒」の下の部分が「丰」になっているようで私には読めない。タケカンムリではなくクサカンムリなら「模」の異体字かも知れない。
     いずれにしても伊予国の圓明寺を模したというような意味に違いない。しかし四国五十四番は延命寺であり、圓明寺は五十三番になっている。無学な住職が何か間違えたのではないかと、失礼なことを思ったが、実は延命寺も江戸時代には圓明寺と名乗っていたのである。大変失礼をしてしまった。しかし同じ伊予国の順番続きの寺が同じ名前だったとは、実にややこしいことだ。
     参道の塀際には「四国八十八ヵ所御砂踏み霊場」が作られ、一番からずっと寺名、本尊を記した台石の上には全く同じ表情の僧侶の座像が並んでいる。各霊場の砂を集めて、それぞれの本尊を祀ったものである。それならこの僧侶は弘法大師であろう。かなり新しいもので、最近の流行ではないか。
     門の脇には「千葉周作修行の地」の木柱も立っていて、皆の関心は圧倒的にこちらの方に集まっている。結構人気があるようだ。私が最初に周作の名前を知ったのは『赤胴鈴之助』だったから、小学校の低学年のことだ。その後、講談を子供向けに焼き直したシリーズで『幕末剣豪伝』なんていうものを読んだ。その程度の知識しかない。
     この寺と善照寺の間に中西派一刀流(小野派一刀流中西道場)の浅利又七郎義信の道場があり、若い日の周作がここで学んだ。
     境内には富士塚のように溶岩で固めた塚があり、頂上付近に恐らく弘法大師と思われる僧が腰掛けている。濃い赤紫のツツジが満開だ。朱の柱に銅葺屋根の本殿は幕末に建てられたものだと言う。
     「千葉周作のお父さんと師匠の御墓がありますが、下見のときには探していません。だって一人で墓地に入るのは怖いんですもの。」取り敢えず探して見るか。「こんなところで探せるのかい。」案内は何もないからドクトルが不審そうに訊いてくるが、狭い墓地だから何とかなるのではあるまいか。
     「あった。浅利又七郎だよ。」表面を粗く削った不規則な形の石に「南無阿弥陀仏」と大きく彫られた石碑は、知らなければ発見できないだろう。予習をしてきたから分かった。右肩に「先祖代々霊伝」左に「浅利小笠原鈴木姓」とある。石碑の裏に倒れかけている施餓鬼の卒塔婆には「鈴木家先祖代々」の文字も見える。これが浅利又七郎の墓とされているのだが、三家合同で建てた供養塔である。
     小笠原は分からないが、鈴木は浅利道場に隣接した米問屋(荒物屋)鈴木源三郎の一族かも知れない。鈴木源三郎は義信の弟小四郎を婿に入れているから縁戚関係があると言う。
     実は浅利又七郎は二人いる。コトバンク(デジタル版日本人名大辞典)では義信を、ウィキペディアでは義明を説明するからややこしい。
     又七郎義信は中西道場第三代中西忠太の高弟で、同門に「音無の構え」の高柳又四郎がいる。元は農民で、鈴木の米問屋の手代をしながら剣術の修行をしたとも言う。若狭小浜藩江戸屋敷の剣術指南を務める傍らこの地に道場を開いた。後継者として弟子の千葉周作に養女を嫁がせたものの、組太刀の理論で対立して周作は去ってしまう。
     止むを得ず義信は中西派第四代・中西忠兵衛子正の二男義明を養子にして道場を継がせた。この人物も又七郎と称したのである。因みに山岡鉄舟は義明の弟子である。
     「昔剣道をやってましてね。現在の日本剣道の基礎になったのが北辰一刀流ですよね。」マリオは中学時代に剣道をやっていたと言う。「中学で初段を取って、高校じゃ柔道に変えました。」
     私もそう思っていた。秘伝や極意という闇の中にあった剣術を、基本的に技術の習得として階梯を設け、初心者が学びやすくしたのが千葉周作であった。しかし現代剣道の母体は北辰一刀流だけではない。明治になって大日本武徳会が発足し、各流派の技を統合して現在につながる大日本帝国剣道形を定めた。だから正しくは現代剣道の母体のひとつという方が良い。
     因みに剣道形制定に当たっては全国から二十五人の調査委員が集められ、その中で主査委員を務めた五人の流派は以下の通りだ。根岸信五郎(神道無念流)、辻真平(心形刀流)、門奈正(水府流)、内藤高治(北辰一刀流)、高野佐三郎(小野派一刀流)。内藤は武専、高野は高等師範の教授として、それぞれ明治剣道界を背負った人である。調査委員の中には鞍馬流、無外流、貫心流、新陰流、田宮流などもいたから、正に剣術界を統合したのである。
     形は太刀七本、小太刀三本の計十本と定められた。マリオや私のように初段で終わった者は、そのうちの太刀三本(面抜き面、籠手抜き籠手、突き返し突き)を覚えれば良かった。
     「竹刀も千葉周作が始めたんだ。」講釈師の言葉に「最初は袋竹刀」なんて私も同調したが、実は違った。ついでに調べてみた。
     袋竹刀は新陰流の系統では早くから用いられていた。しかし防具はまだない。そして防具を創始したのは、正徳年間(一七一一~一七一五)の直心陰流・長沼国郷だとされている。この頃には、顔面を覆うだけの面と籠手だけで胴はない。
     宝暦年間(一七五一~一七六三)に、中西派二代忠蔵子武が具足型の防具を考案し、それに応じて袋竹刀から現在の四つ割竹刀に変わったと言う。但し胴は竹胴で、面部には喉を守る突き垂がない。突き垂のある面が作られるのは天保期のことのようだ。その頃から、竹胴の外側に革を貼ったものが作られるようになる。
     それまで剣術修行は専ら形の習得が中心で、木刀による実践形式の稽古は危険すぎて他流試合に限られていた。しかし他流試合は滅多に行われず(禁じる道場が多かった)、これでは実践的な修練ができない。竹刀を使ったとしても胴を着けなければかなり痛い。
     そこで防具を改良した中西道場が積極的に竹刀稽古を奨励したことで、一挙に竹刀稽古、試合が主流になったのである。また竹刀の長さ三尺八寸と決めたのは、後に講武所頭取になる直心陰流の男谷精一郎信友(勝海舟の従兄)であった。幕末期にはほとんどの流派が竹刀を採用し、これが現代剣道に繋がることになる。
     「天然理心流の木刀はさ、こんなに太かったよ」と講釈師が両手で輪を作る。それは素振り専用の木刀であろう。私も高校時代に道場にあった木刀を持ってみたが、重すぎてとても素振りなんかできるものではない。
     「周作のお父さんのお墓はありましたか。」浅利又七郎の墓については予習してきたのに、周作の父までは手が回らなかった。「千葉氏はないよね」と講釈師と一緒になって探していたのだから見つかる筈がない。ネットで調べてみると墓石には「寿貞浦山先生之墓」「浦山氏」と彫られているだけで、千葉氏の名はどこにもないのだ。
     父の幸右衛門(又は忠佐衛門とも言い、系図が混乱している)は、陸奥国栗原郡荒谷村で北辰夢想流の千葉吉三郎の婿となり、やがてその地を離れて下総松戸に出て、馬医師を業として浦山寿貞を名乗ったとされる。
     千葉氏は桓武平氏良文流を称する名門である。その千葉氏の名を捨ててわざわざ浦山氏を名乗る意味が分からない。本名を名乗れない余程の事情があるか、それとも、浦山氏が元々の名字なのか。私は周作が下総出身だと思い込んでいたので、ヤマちゃんにも千葉の名家の後裔だろうと言ってしまったのだが、これは怪しくなった。頼朝の奥州藤原氏討伐の際の戦功によって、千葉氏の一部が奥州各地に住み着いたが、その後裔を名乗る系図はあまり信用できない。本来は浦山氏だったのに、周作が僭称したとも考えられるのではあるまいか。

     寺を出て春雨橋で坂川を渡る。「なんという風流な名前だこと。」袂には「松戸宿 坂川の歴史」という石碑が建っている。

    古くからここには水路があり、街道を横切っていた。橋は水戸石橋と呼ばれていたとつたえられている。のちに、かわの名を坂川、橋の名を春雨橋と言う。松戸宿はこのあたりから下横町渡し船場までが繁華街で、街道の東側は田畑が広がっていた。

     元は逆川だった。大雨が降ると江戸川の水が逆流し、沿岸の新田に大きな被害を齎した。これを防ぐためには新たに放水路を掘削することが必要だったが、村落同士の利害が対立してなかなか着手できず、十九世紀前半、二度に亘った掘削工事によって漸く逆流がなくなった。

     椿散る春雨橋は松戸宿  蜻蛉

     全面格子造りの、街道の雰囲気を感じさせる家が建っている。格子の間の障子が綺麗だから、まだ人が住んでいるのだろうか。これが福岡家(薪炭店)である。昔の写真や地図を見ると、左隣に山田屋(板金)、石川理髪店と三軒並んでいるのだが、二軒はこの数年の間に取り壊されてしまったようだ。脇から蔵の後だけが見える。
     坂川に沿って南に歩く。街道のすぐ東側なのに、里山の雰囲気のある鄙びた道だ。一の鳥居を潜ると渓谷の中に来たようだ。二の鳥居から坂川に架かる橋を渡る。コンクリート製の擬宝珠のある親柱と赤い欄干を持つ橋は潜龍橋と名付けられている。
     ここから松戸神社に入る。松戸市松戸一四五七番地。松戸神社なんて何の歴史も感じられない名前だが、これは毎度お馴染み、明治の廃仏毀釈で改名させられたものだ。本来は御嶽大権現で、さっきの宝光院が別当寺だった。祭神はヤマトタケル。社殿は寛永三年(一六二六)の創建とされるが、元文四年(一七三九)の松戸宿大火で焼失し、現在の社殿はその直後に再建したものだ。
     右手の手水舎の向かいには「御神水」がある。首を伸ばす龍の口から水を流し込む先には、岩戸溶岩で固めた水溜がある。これは自然の湧き水で松戸神社の名水とされる。その横には水神社が建っている。江戸川の存在を考えれば、これがこの地で本来祀られていた神ではないかと想像される。
     神楽殿、秋葉神社。社務所から拝殿の後ろに回れば、厳島神社、稲荷神社、庚申社、浅間神社、松尾神社と、それ程広くない境内に末社がいくつも並んでいる。何故か大きな亀の石像があるのは水に因んだのだろうか。「弁天じゃないんだな」とヤマちゃんの声が聞こえる。
     神社のHPには、「平成二二(二〇一〇)年には、当神社の氏子である山崎直子宇宙飛行士が、神幸祭・四神お守りを携えて宇宙へと飛び立ち、任務を達成し帰還されました。」と自慢そうに書いてある。
     もう一度街道に戻る。狭い路地の突き当たりに江戸川土手が見える。地図によればこの路地が昔の河岸道だ。ところで『江戸名所図会』では、江戸川を新利根川と称している。「松戸堤」の項に「新利根川の堤をいふ。」とあり、また次の記事が見える。

    新利根川  旧名を太井川といふ。(中略)源は上野国利根郡文殊岳の幽谷より発し、高科川・吾妻川・烏川・碓井川、および信州の国郡より出づるところの諸流合し、武州幡羅郡に到り一河となる。また上州渡良瀬川も利根に落ち合ひ、栗橋より分流して、一流は北総に入り、関宿・木颪等の地に傍ひて東流し、銚子に到り海に帰す。これを利根川と号く(坂東太郎と字す)。一流は武蔵・下総の間を南へ流れ、国府台の下を行徳の方へ曲流し、海水に帰せり(これを新利根川と称す)。

     しかし安政二年に記された赤松宗旦『利根川図誌』では、関宿で利根川から分岐する流れに「江戸川」と書いてある。そして「新利根川」は北相馬郡利根町の辺りから新しく掘削して、利根川本流のやや北を平行して流れる川だと言う。現在の地図で確認しても、これを「新利根川」としている。天保から安政にかけて川の名が変わったのだろうか。あるいは江戸人にしてみれば、葛飾郡なんて田舎を流れる川を「江戸」と呼ぶ気にならなかったものか。
     松戸郵便局の隣のマンションの敷地に「旧松戸宿本陣跡地」の碑が作られ、かつての本陣の建物の正面図、側面図が描かれている。松戸市教育委員会の説明によれば慶応三年(一八六七)に焼失して、その直後に再建されたものが、平成一六年に解体された。
     「ちゃんと残しておけばいいのに。」「これはさ、教育委員会が悪いよ。」壊したのではなく「解体」と書かれているので、あるいは、別の場所に復元する予定があるかも知れないと期待してみたいが、難しそうだ。松戸宿振興会という団体が寄付金を募っている。

     ・・・・建物は慶應三年の火災直後に再建されたものでしたが、長らく使われない部分もあり保存状態も好ましくないため、現状での保存は断念することとなりました.
     幸い、本陣の格式を示す玄関部分だけは松戸市立博物館に保管され、展示が検討されることになりましたが、財政状況逼迫のおり、松戸市では近々にこの展示を実現することが困難な状況にあります。・・・・
     現在私たちでは、旧所有者のご理解により本陣建物の大黒柱や梁、敷石などを保管しておりますが、これらをもとに当地周辺に歴史案内に供する案内板等の設備を設置し普及啓発を図れるよう計画中です。
     皆様には何卒ご理解ご賛同を頂き資金等ご賛助にご協力下さいますようよろしくお願い申し上げます。http://www1.ka5.koalanet.ne.jp/matusato/tangan.html

     これは民間の団体だが、こういうことは、松戸市が自ら積極的に動かなければならないのではないか。
     「『一本刀土俵入』は松戸だったかな」とダンディがおかしなことを思い出した。そうだったかな。「違う、我孫子だよ」と講釈師が答え、私もそうだったと頷いた。しかし講釈師と私は勘違いしていた。確認すると我孫子は、お蔦が二階から金と簪を茂兵衛に与えた、その旅籠屋の名前であり(表記は安孫子屋)、場所は取手宿だ。

    常陸の国取手は水戸街道の宿場で利根を越えると下総の国。渡しは其処の近くにある。取手の宿場街の裏通りにある茶屋旅籠屋で安孫子屋の店頭は、今が閑散な潮時外れである。それは秋の日の午後のこと。(長谷川伸『一本刀土俵入』)

     そこに、腹を空かせた駒形茂兵衛が通りかかるのである。今回のことには全く関係ないのだが、末尾の茂兵衛の台詞を引用してみたい。

    お行きなさんせ早い所で。仲よく丈夫でおくらしなさんせ。(辰三郎夫婦が見返りながら去って行くのを見送り)ああお蔦さん、棒っ切れを振り廻してする茂兵衛の、これが、十年前に、櫛、簪、巾着ぐるみ、意見を貰った姐さんに、せめて、見て貰う駒形の、しがねえ姿の、横綱の土俵入りでござんす。

     もう一度坂川を渡って街道の東側に回ると、広大山高樹院松龍寺だ。浄土宗。松戸市松戸一五〇五番地。元和元年(一六一五)東漸寺末寺として小山に創建され、慶安三年(一六五〇)にここに移転した。「移転してって、どういうことだい。」「たぶん小山の寺は荒れ果てていたんじゃないですかね。それで引っ越してきたんでしょう。」「本尊を持って来たっていうことか。」
     私は、そしておそらくドクトルも「小山」とは栃木県小山のことだと思い込んでいたから話がおかしくなってしまった。小山は松戸の地名であった。ここから二百メートルばかり南の角町から南の部分、流山街道と坂川に挟まれた地域だ。代官の菩提寺として、宿場の中心地に移転させたのではないだろうか。松戸宿最初の領主である高木筑後守広正の墓や、代々の名主の墓があるという。広大山高樹院の号は、高木広正に由来するに違いない。
     参道入り口には「圓光大師・弘法大師安置」と彫られた石碑が建っている。「円光大師って誰だい。」私は全く無学である。弘法大師の名に引きずられてしまって、真言宗の高僧だろうか考えてしまった。「今は浄土宗だけど、もとは真言宗だったんじゃないか」なんて余計なことまで口にしてしまう。これは法然のことであった。しかし法然を円光大師と呼ぶのは余り聞かないのではないか。調べなければならない。
     圓光大師の号は、元禄十年(一六七九)東山天皇によって贈られている。法然死後四六七年も経ってからのことだが、更に驚くべきことに、五百年遠忌の正徳元年(一七一一年)中御門天皇により東漸大師、その後は五十年ごとに加謚され、慧成大師(桃園天皇)・弘覚大師(光格天皇)・慈教大師(孝明天皇)・明照大師(明治天皇)・和順大師(昭和天皇)・法爾大師(今上)と八つも大師号を下賜されているのだ。こんな人物は他にはいない。朝廷が独自に決める権限はなかった筈だから、将軍の意向が大きかったに違いない。徳川家の菩提寺が増上寺だからだろうか。それにしても明治、昭和、今上と、三人の天皇による大師号加謚の理由はつかない。
     この他に複数の大師号を持つのが黄檗宗の隠元で、大正天皇によって真空大師、昭和天皇によって華光大師号を贈られた。それ以外複数の大師号を持つ者はいないから、法然の場合が非常に特殊だということが分かる。
     序でに大師号を数えてみた。天台宗では最澄(伝教大師)、円仁(慈覚大師)、良源(慈慧大師)、円珍(智証大師)、真盛(慈摂大師)、天海(慈眼大師)の六人。真言宗は勿論空海(弘法大師)を筆頭に実慧(道興大師)、真雅(法光大師)、益信(本覚大師)、聖宝(理源大師)、覚鑁(興教大師)、俊芿(月輪大師)の七人を出して最も多い。臨済宗で関山慧玄(無相大師)、授翁宗弼(微妙大師)、無文元選(円明大師)の三人で、開祖たる栄西には下賜されていない。曹洞宗で道元(承陽大師)と螢山(常済大師)の二人、浄土真宗では親鸞(見真大師)と蓮如(慧燈大師)の二人、時宗の一遍(証誠大師)、融通念仏宗の良忍(聖応大師)、日蓮宗の日蓮(立正大師)となる。
     参道には青面金剛像も立っている。中央の両手は合掌せず、右手には剣、左手には玉を持っているのが珍しい。背後の四臂もそれぞれ武器を持つ。舟形向背の上部には日月も判別できるし、三猿も綺麗で状態は非常に良い。「俺がいないな、休んでるんだ。」金剛の足元に邪鬼がいないのだ。
     「葵の御紋を見てください。」山門扉に大きな三つ葉葵の紋が掲げられているのは、鹿狩りに来た将軍の休憩所に充てられたためだと言う。この山門だけが再度の火災を免れた古いものだ。
     「これは無縁仏かな。」「そうだと思う」と答えたが、鐘楼の周りは溶岩で固められ、所々に石仏や石祠が埋め込まれている。「違うみたいだね。」どうやら無縁仏ではなさそうだ。黒い鐘の表面には白く南無阿弥陀仏の文字が記されている。

     また西に行き、今度は街道を超えて土手まで行く。土手に沿って歩くとなんだか懐かしいような気分になってくる。「トラさんが歩いているみたいじゃないか。」そうか、スナフキンが言う通りかもしれない。対岸は金町、もう少し下流に行けばフーテンの寅が歩いた柴又辺りの土手である。

     風薫る土手に雪駄の音立てて  蜻蛉

     土手の反対側の空き地で姫が立ち止った。御領傍示杭跡碑が立つ。本来は土手を超えた河川敷の辺りに立っていて、それを復元したものだ。下横町渡船場があったところで、「是より御料松戸宿」、側面には「左江戸道」。傍示杭とは境界を示す標識であり、ここから北が松戸宿である。

     この「御領傍示杭」にどの様な文字が書かれていたのかは分かりませんが、街道の通行人に土地の支配関係を知らせる必要から、僅かに口承にも残っていたように「是より御料松戸宿」などと書かれていたものと推測されます。(説明板より)

     街道に戻り南に少し行けば、角町交差点で右に葛西橋・金町方面に行く道と二股に分かれ、左に回って坂川を渡る。ここに架けられた橋がレンガ構造三連アーチの橋である。小山樋門だが、通称レンガ橋、眼鏡橋とも呼ばれた。明治三十一年(一八九八)、江戸川からの逆流防止のために造られた。煉瓦構造の橋が今でもちゃんと使われているのは珍しいだろう。
     橋を渡って坂川の対岸に回る。春の小川はさらさら行くよ。水が余り綺麗ではないのが残念だが。案内板にある「あなたも慶喜公気分」とは何だろう。
     古い写真が二枚と説明文がパネルになって設置されている。川辺に腰をおろしカメラを構えた後姿の人物を撮った写真だ。今はあまり綺麗な川ではないが、昔は田舎ならどこにでもある小川だったに違いない。写っている人物は明治三十五年(一九〇五)の徳川慶喜、写真を撮ったのは慶喜の実弟の昭武である。
     しかし知らなければ、どこかのオジサンの写真でしかない。「違うでしょう、だれかがその恰好をしてるんじゃないの。」クラちゃんは疑り深いが、「だって、そこに書いてある。慶喜本人の写真ですよ」とロダンが指摘する。水戸のことなら何でもロダンに訊けば良い。昭武は私たちがこれから行く戸定の邸宅に住んでおり、慶喜はよく遊びに来ていたものらしい。
     「この花、なんだっけ。」宗匠が訊いてくる。「ユウゲショウ。」スナフキンは初めて聞いたようで、さっそく写真を撮る。日当たりが良いせいか背の高いユウゲショウだ。

     夕化粧宿場外れの川に沿ひ  蜻蛉

     陣屋口橋で坂川を離れて東に向かう。松戸神社の南側を通り常磐線の下を潜る。右に曲がれば道路脇の植え込みの中に「戸定みその坂」の木標が立っていた。「お味噌じゃありませんよ」と姫が注意するが、味噌とは誰も思わない。御園だろう。標柱には「御苑」と書かれていた。車道は鮮やかな黄色に色づけされている。「歩きやすいわよ、ほら。足に優しいの。」イトはん、そこは車道だから危ない。案の定すぐに車が通って行く。
     「戸定って地名かい。」「そう、ところの名ですよ。」ところの名か。ロダンはなかなか古風な言い方をする。
     少し曲がった坂を登りきると、正面に茅葺の門が見えてきた。「あそこですね。」駐車場の脇には観光協会の売店もある。「野菜も売ってる。」「まだ歩くからね。」「カズちゃんだったら買いそうだ。」
     二十段ほどの石段を上って門を潜る。徳川昭武が明治になって住み着いた邸宅の跡地で、戸定が丘歴史公園の入り口である。歴史館の前の通路は「ひなげしの小径」と名付けられているが、まだヒナゲシは咲いていない。歌碑が建っていた。

     天に去る薔薇のたましひ地の上に崩れて生くるひなげしの花  与謝野晶子

     台石の上にテーブルのように赤茶色の御影石が置かれ、そこに書家の文字が記されている。これはなかなか読めないから、台石に嵌めこまれたプレートの活字を読む。気がつけば、辺りにはこれ以外にも晶子の歌碑がいくつか建っている。松戸と晶子と何の関係があるのか。

     ・・・・戸定が丘歴史公園内にあるフットライト一九箇所の上に与謝野晶子が松戸で詠んだ歌六〇首(歌集瑠璃光)のうち一八首と夫である与謝野寛(鉄幹)の歌一首を松戸シティガイドの趣旨に賛同した一九人の松戸市にゆかりのある著名な書家の先生に揮毫していただき赤御影石に刻み、フットライトの上に設置しました。(松戸市「ひなげしの小径(与謝野晶子歌碑)について」)
     ttp://www.city.matsudo.chiba.jp/index/profile/shisetsu-guide/rekishi/tojo/hinageshi.html

     晶子は友人を訪ねて松戸に遊び、その時に詠んだ歌五十首を「松戸の丘」と題して『明星』(大正十三年七月)に掲載していた。その中から選んだものである。しかし晶子とヒナゲシと言えば有名なのはこれだろう。

     ああ皐月仏蘭西の野は火の色す君も雛罌粟われも雛罌粟

     雛罌粟はコクリコと読む。半年前に渡欧した鉄幹を追って晶子がフランスに行ったのは明治四十五年五月のことである。その時の歌だ。私は晶子に特に関心のある方ではないが、こんな歌を読まされるとさすがに晶子だと感じる。
     まず歴史館に入る。邸宅と共通の入館料は二百四十円。「老人割引はないのかな。」「七十歳以上無料って書いてある。」「松戸市在住の方が対象なんです」と男性係員が笑う。十九人だから団体割引も適用されない。「先月来た時は工事中だった。」宗匠はこんな所に来ていたのか。
     この歴史館を含めた広大な庭園は、徳川昭武が明治十七年に建てた別邸である。「水戸徳川家の何代目でしたか。」ロダンからはすぐに答えが返ってくる。「十一代当主です。慶喜の弟ですよ。」
     ここは昭武に関する資料を収めた歴史館である。徳川昭武と言えば、パリ万博に行って来たことしか知識がない。スフィンクスの前で日本の武士が集まっている写真があった筈だと思ったのに、この館内にその写真がないのが不思議だ。しかし私はすっかり勘違いしていた。その写真は、文久三年から四年にかけて派遣された池田筑後守遣欧使節団の一行、総勢三十四名のものだった。
     慶応三年(一八六七)一月、十四歳の昭武は将軍の名代としてパリ万博に出席するため渡欧した。「このとき、渋沢栄一が随行していたんですよね。」これは深谷で渋沢栄一の生家を訪ねたときに確認した。当時フランスは日本における権益をイギリスと争い、幕府に肩入れしていたのである。

     ・・・・この一行の渡仏は、少なくともおもてむき親善と留学を主要な目的としたものであった。もっともその背後には、幕府がフランスとの関係を強化し、フランス資本を導入し、造船所を充実させることなどが意図されており、かなり政治的な動機もあったといわれる。(石附実『近代日本の海外留学史』)

     しかし昭武一行がパリに到着した時、万博には一足早く薩摩藩が「日本薩摩琉球国政府」の名で出展していたので、幕府の面目は潰れたと言って良い。また幕府の呼びかけに応じた佐賀藩も出品しており、その団長として佐野常民の名も見える。商人では羽生出身の清水卯三郎が柳橋芸者三人を同行して、会場内に水茶屋を開いた。
     万博の後、昭武はスイス、オランダ、ベルギー、イギリスを歴訪し、以後パリで留学生活を送っていたが、慶応四年一月には大政奉還、三月に鳥羽伏見敗戦の報が届く。五月、新政府からの帰国命令によって帰国し、水戸徳川家を相続した。
     その帰国直前の五月にはイギリスに行った。「徳川民部大輔 英国で款待」と言う記事が、「萬國新聞紙」に掲載されている。

    ○日本貴公子徳川民部大輔様、欧羅巴諸国を経歴スルニ、山川ノ奇景数点順覧シ、遂ニ「ロンドン」(都名)ニ着セリ。(中略)コノトキ女王ノ士卒大勢女王の旌旗オヨビ太鼓横笛ヲ以て音楽ヲ奏シ、大ニ貴公子ヲ迎ヘンタメニ備ヘリ。
    ○何処ニテモ女王及ビ女王ノ一族ヨり大イニ敬慕ヲ受ケシトゾ。(『新聞集成明治編年史』より)

     十四歳の昭武はいかにも幼くて小さい。ヨーロッパの人間はどう感じただろう。綺麗な筆記体のフランス語のノート(幾何学講義ノート)が展示されている。これが十四歳の手跡なならスゴイと思ったのは勘違いだ。明治になって再留学した時のものだから十一年後のものである。
     烈公水戸斉昭の写真が残っているのは不思議だ。攘夷主義者の斉昭が写真を撮らせたか。しかしこれは絵を写真にしたものである。昭武が作った陶器、自転車や狩猟の写真がある。
     「私は徳川が嫌いだから」とダンディは展示にほとんど関心を示さない。しかし近世日本において徳川氏の果たした功績は公平に評価すべきだと思う。ただ私も慶喜だけは好きになれない。大阪城からの逃亡は、どんな理屈をつけたところで部下を見捨てた敵前逃亡に変わりはない。
     折角来たのだから昭武についても簡単に調べておこう。昭武は斉昭の十八男として嘉永六年(一八五三)に生まれ、慶應二年(一八六七)清水家を相続した。慶應四年、パリから帰国し水戸徳川家を相続した。版籍奉還によって水戸藩知事、明治四年の廃藩置県で藩知事を免ぜられ向島小梅の水戸邸に住む。
     明治九年(一八七六)、フィラデルフィア万国博覧会の御用掛となり訪米し、その後フランスに向かって再び留学する。一三年(一八八〇)、留学先のエコール・モンジュを退学し、ヨーロッパ各地を旅行し、イギリスに半年滞在して帰国した。
     明治一六年(一八八三)、妻瑛子は長女出産の産後の肥立ちが悪く二月に死んだ。これで何事かを感じたものか、五月には甥の篤敬に家督を譲って引退し、ここ松戸の戸定に移り住んだ。満で三十歳である。昭武の公的な生活は終わり、明治四三年(一九一〇)五十八歳で死ぬまで趣味に生きたと思われる。
     煙草を吸いに外に出ると、ダンディも一緒に出てきて、「ちょっと向こうを見てきますよ」と公園の方に歩いて行った。
     玄関の脇にはシャガの白い花が咲いている。古道マニアも出てきて煙草を吸う。やがて皆も出てきた。「それではお昼にします。邸宅は跡で見ましょう。」しかしダンディはもう屋敷の方に入ってしまったぞ。「ご飯の後でって言ったんですけど。」「話を聞いてないな。」「ダメだ、勝手な行動をしちゃ。」ダンディはチケットに「再」と書いてもらって出てきた。
     前の方に藤が満開に咲いているが、花の位置がずいぶん低い。「綺麗ね。」「藤棚じゃないんだな。」近づけば、植木鉢に植えられたものだった。それをいくつも並べてあるのだ。「香りが高いね。」白い藤もある。それにしても植木鉢というのはどんなものだろう。「季節が終わればすぐに片付けるんだな。」腹が減って来た。

     鉢植えに香りも高し藤の花   蜻蛉

     「ハンカチの花があるみたいよ。見てみたいわね。」取り敢えず公園の方に行き、広場にシートを敷いた。「早く敷けよ。」里山には久し振りにやって来たのに、講釈師の口調はちっとも変っていない。男どもはここに座り、女性陣は四阿の方に去っていった。古道マニアは一人離れて木陰のベンチの方に行く。碁聖はコーラス三人組で藤の花の見える別のベンチに座った。「この年になっても男女別々か。」「これじゃ差し入れが期待できませんね。」
     隊長と講釈師の間に挟まったスナフキンは居心地が悪そうだ。早々と食べ終わって煙草を吸い、古道マニアのいる木立に行くと、「ハンカチの花が咲いてますよ」と教えてくれた。「一番上に、ふたつだけ。」本当だ。真っ白な花がてっぺんに見える。「桐の花も咲いてます。」もう咲いているのか。「あそこですよ、高い木の上に。」紫の花がたくさん付いている。城西大学に行く途中の墓地の脇の桐はまだ咲いていないから、もう少し後だと思っていた。
     スナフキンもやってきたので教える。「ハンカチ、ハンケチ、どっちかな。」幹には「ハンカチ」と書いてある。「あれは花じゃなく、苞なんだよ」と隊長から声がかかる。ずいぶん上の方に咲いているから細部はよく見えない。調べてみると、花自体は小さくて黄色のものだ。最後にやってきたイトはんにも教える。
     「それじゃ御屋敷に入りましょう。」「ダンディ、今日は靴を間違えないでね。」「この間は書かれちゃったからね。」「ガイドはどうする。」「要らないよ。」
     実に広い屋敷だ。表玄関を入り、左の廊下の突きあたりが十六畳の「使者の間」である。玄関のすぐ先には六畳間、右に六畳、八畳の部屋がある。廊下を真っすぐ行けば客間があるが、これが何畳あるか分からないほど広い。襖を閉めればいくつかに分割できるが、開け放してあるから、とてつもなく広く感じる。十二畳が二つ、八畳が三つ、その右側に鍵の字型に並べた畳は十七枚あるか。欄間には葵の透かし彫りが入っている。
     「ガラスに波が入ってるでしょう。」宗匠が縁側のガラスに注意を促す。「どこかでも見ましたよね」と言うロダンに、「野田の茂木邸とかね」と応えた。縁側からは広い庭が見えるのでガラス戸を開けてみた。風もなく爽やかな空気が気持よい。
     綺麗に丸く刈り込まれた赤と白のツツジ。天気が良ければ富士山も見えるという。「あそこにスカイツリーが見える。」「どこ。」「こっちだよ、ここまで来なくちゃ。」枝を切り落とした松の先に確かにスカイツリーが見えた。「このために枝を落としたんだってさ。」そうまでするか。

     初夏の空スカイツリーに枝落とし  蜻蛉

     更に迷路のようにいくつかの部屋を回る。狭い廊下で、ガイドに案内される二組の先客とすれ違うのが厄介だ。渡り廊下で繋がった湯殿は結構の面積なのに浴槽が小さい。「これは一人しか入れないわね。」そして底が深い。昔の風呂はこんな風だったろうか。「五右衛門風呂にはいったことがあるよ」と小町は自慢する。
     下りになった渡り廊下でつながれたのが離れである。「この廊下はどうしてこんなに狭いんのかな。」そこに、別のグループのガイドがやってきて、「離れの玄関だったんですよ」と教えてくれた。なるほど、玄関を潰して出入りできなくしてしまったから狭いのである。
     内庭にはイイギリが植えられている。「お庭に入ってみたいわね」とイトはんが訊いてみると、一年のうち、特定の日しか公開していないと言われてしまった。
     外に出ると、晶子の歌碑の前で議論が喧しい。

     松戸なる人の贈りしひなげしを置けばいみじきうすものの膝  晶子

     「うすものってなんだい。」これには女性陣からすぐに答が出される。絹織りの網のような薄い着物をさす。夏に着る普段着で、漢字では羅と書く。「うすものの膝か。」もしかしたら隊長は絹の靴下を履いた膝を想像したのではないか。
     「いみじきっていうのは何。」「素晴らしいとか、とてもとか。」宗匠は「非常にっていうこと」と答える。私の「素晴らしい」は正確ではなく、宗匠の回答が正確だった。
     「いみじ」の第一義は甚だしい意であり、良い方にも悪い方にも使われる。あとの形容詞を省略しているから、文脈で判断しなければならない。

     御室にいみじき児のありけるを、いかで誘ひ出して遊ばんと企む法師どもありて、能あるあそび法師どもなどかたらひて、風流の破子やうの物、ねんごろにいとなみ出でて、箱風情の物にしたため入れて、双の岡の便よき所に埋み置きて、紅葉散らしかけなど、思ひ寄らぬさまにして、御所へ参りて、児をそそのかし出でにけり。(『徒然草』第五十四段)

     とても美しい稚児がいたと言う意味である。「時代によって意味が変わるんじゃないかな、俺はそう思うよ」とヤマちゃんが力説する。晶子の歌も「とても素敵だ」程の意味であろう。夏物の薄い着物の膝にひなげしを置いた姿が「いみじき」と言うのである。
     しかし「いみじき」ものはヒナゲシかうすものの膝か。「うすものの膝」を修飾していると普通は考える。「うすものの膝」が「いみじき」では何だか色っぽくなりすぎるが、それが晶子の歌かも知れない。しかしそれとは別に、「いみじき」でいったん切れると考えれば、「いみじき」ものはヒナゲシである。膝に置いたヒナゲシがとても綺麗だというのも自然な感覚だが、これは文法的におかしいだろうか。

     藤の香や晶子の歌を味わひて  閑舟

     さっきの門を潜って公園を出る。「皆さんはどうぞ階段で。」姫は降り階段が苦手だから坂道を迂回する。「ここから約三キロ、何もありませんが頑張って歩きましょう。午前中ゆっくりでしたからね。」
     すぐに国道六号線に出る。途中、七畝割の交差点で六号線から分れて右の道を行く。国道かと思ったほど広いが、県道二六一号線(松戸柏線)であった。国道六号線が整備される前はこれが国道六号線であったというから、道幅が広いのも納得できる。旧水戸街道でもあったようだ。
     微かに吹く風が心地よい。右手が野菊野という住所表示だ。伊藤左千夫の『野菊の墓』にでも因んだものか。新しそうな地名だ。しかしあの小説の舞台は矢切の渡し付近だから、こことはちょっと違う。文学碑を見て矢切の渡し船に乗ったのは、平成二十二年八月のことだった。
     「矢切の渡しがさ、高くなっちゃったんだよ。」講釈師はどこにでも出没して情報を集めている。「確かあの時は百円だったよね。」「それが五十円か百円上がったんだ。」松戸市観光協会のページを調べてみると、確かに二百円に値上がりしている。一挙に倍になるのも珍しい。
       白い花を見つけた講釈師がクラちゃんとタカちゃんに説明していたらしい。「木イチゴと野イチゴってどう違うのかしら。」クラちゃんが疑問を口にしたときには講釈師はもう前に歩いて行ってしまった。「あんまり信じない方がいいですよ。いつも口から出まかせだから。でも非常に稀に本当のことを言うことがある。」クラちゃんが笑う。私はクサイチゴではないかと思った。
     もう一度同じ花が出てきたので隊長に訊いてみた。「木イチゴだよ。」「クサイチゴじゃないの。」「そうだよ、クサイチゴ。」「えーっ、何なの。ますます分からなくなっちゃうわ。」
     キイチゴは木本、クサイチゴは草本ではないのか。城西大学へ行く途中の星宮神社(旧妙見社)の草むらに、今はクサイチゴの白い花が咲いている。「隊長、あれは草ですゼ。」「いや、クサイチゴは木本だよ。ヘビイチゴは草本だけどね。」納得できない。頑迷固陋の私が言い張るものだから、困った隊長が調べてくれると言ってくれたが、私もネットで調べてみた。

    クサイチゴ(草苺、学名: Rubus hirsutus)は、バラ科キイチゴ属の落葉小低木である。別名、ワセイチゴ(早稲苺)。
    クサイチゴは背丈が二〇~六〇cmと低く、草本のように見えるため、このように呼ばれるが、実際は木本である。生命力は強く、刈っても、根から生えてくる。(ウィキペディアより)

     そうだったのか。これまでの常識が一遍に覆された。あの草のように見えるのが木本なのか。(二十九日に、小仏城山でクサイチゴの群生を見て、確かに木本であると確認した。)そしてもうひとつ。

    果実は食べられるものが多く、いわゆる野いちごは大部分がこの属(キイチゴ属)のものである。(ウィキペディア)

     講釈師は間違っていなかった。栽培されるもの以外、野生、自然に生息するイチゴを野イチゴと総称するのだ。またいつもの口から出まかせだと思ってしまった私は謝らなければならない。翌日、隊長から丁寧な解説が届いた。お騒がせしてしまった。
     地図がなくて、どこを歩いているのか分からない。目的地までの距離感が分からないと疲労が増してくる。二キロはとっくに超えたからもうすぐだろうと思った頃、姫は振り返って「あと半分ですから」と言う。三キロではなかったのか。これで半分なら目的地までは五キロもあるだろう。汗が出て来た。  「お風呂があるよ。」湯楽の里松戸店。「澁澤栄一の名が残る会社ですよ」とダンディが言うのは澁澤倉庫だ。「有名ですよ」とマリオも応える。「そこですね、みのり台の駅がありますから、その辺で休憩しましょう。」
     信号を渡り左に曲がれば線路が見えた。「京成ですね。」「違いますよ、新京成です。」「ここにケイセイはいっぱいいるのに。」この姫の言葉に瞬間的に反応できなかったのは、やや疲労を感じて来た私の反射神経の鈍さだ。傾城だったか。ここは新京成線みのり台駅である。独身の頃、新京成の高根木戸駅に近いアパートに住んでいたことがあるが、この駅名は全く知らない。線路を越えて、次の角の空き地で少し休憩する。
     ここを右に曲がると、やがて風景がやや農村のようになってきた。右に八坂神社がある。姫が立ち止ったのは、三猿の上に文字で「青面金剛」とだけ彫った庚申塔の前だ。駒形の上部両隅に日月だけは彫ってある。側面には「葛飾郡千駄堀村」、裏面に「文化五年」と読める。「文化五年っていつごろですか。」「おおよそ千八百年頃でしょう」と言ってみた。正確には一八〇八年だから、そんなに間違えてはいない。
     「青面金剛ってどういうものなの。」クラちゃんに訊かれてどう説明したらよいか。「六臂の明王のようなもの」と言って通じたろうか。「腕が六本、それじゃ千手観音みたいなものかしら。」違うだろうね。庚申塔について説明するためには、道教由来の庚申信仰、日本古来の月待ち、密教との習合などに及ばなければならず、簡単ではない。
     千手観音の話が出たので、「こういう路傍には如意輪観音もときどき見られるよ、女人講で」と言ってみた。「私は横になった観音様を見たことがありますよ。」それは観音ではなく寝釈迦ではないか。
     随分立派な屋根を持つ家がある。「瓦屋根がスゴイね。」「立派だな。」「街道沿いの雰囲気がありますね。」武蔵野線を渡る跨線橋には陣屋前橋と記されている。この辺に陣屋があったのだろうか。地図を持っていないので位置関係が分からなかったが、今日の最後に予定されている金ケ作陣屋のことだった。
     ようやく目的の森が近づいてきたところで、またひとつ同じ形の庚申塔が建っていた。こちらには「千駄堀村の庚申塔」の説明板が設置されている。裏面ではなく側面に文化七年の銘が彫られている。「さっきより新しいのね。」
     「埼玉じゃ、講釈師が踏みつぶされているのをよく見ますよね。こういう文字だけのものもあるんですか」とロダンが頻りに首を捻る。二つ続けてこの形を見ると、千駄堀村ではこれが一般的なのかと思う。
     江戸時代後期は貨幣経済、商品経済が発展した時期であるが、相次ぐ凶作で農村は荒廃した。商品作物の生産に成功した地方は良かったが、それが出来ない地方はどうしようもなかった。特に関東近辺の農村の食えない者は江戸に流入し、文化文政期の江戸町方の人口の三分の一は他所からの出稼ぎ者だったと言われる。天保の改革では、人返し令によって強制的に帰農させようとしたが効果はなかった。後でも触れるが、この地方には幕府管理の広大な牧があったため、新規の田畑の開墾は難しかったのではあるまいか。こういう時代に、手間暇のかかる高価な庚申塔は造れなかったとみるべきだろう。尊像を彫るより石工の手間は簡単だから、安価に出来た筈だ。
     「あと少しです。ここを曲がりこめば博物館の入り口ですよ。」大きなボールのようなオブジェがある。「なんだい。」「梨だよ。」「二十世紀梨の原産地 松戸の梨」であった。そういえば妻の実家からは毎年、松戸の梨を贈ってくれる。
     しかし二十世紀が松戸原産であるとは、ほとんどの人が知らない。「梨と言えば鳥取でしょう。」「そうですね、鳥取をイメージしますよ。」ダンディとクラちゃんの話が合っている。調べてみると確かに二十世紀梨の国内生産高の半分を鳥取県が占めていた。松戸の梨はどうしてしまったのか。

    青梨系の代表品種で、一般的な唯一の青梨。一八八八年に千葉県大橋村(現在の松戸市)で、当時十三歳の松戸覚之助が、親類宅のゴミ捨て場に生えていたものを発見した。松戸は「新太白」と名付けたが、1898年に渡瀬寅次郎によって、来たる新世紀(二十世紀)における代表的品種になるであろうとの観測と願望を込めて新たに命名された。なお、当時日本では西暦の概念さえまだ一般的ではない時代であったため、非常に先進的な命名と言える。その後、一九〇四年に鳥取県に導入され、鳥取県の特産品となった。花は鳥取県の県花に指定されている。
    発祥の地は後に「二十世紀が丘梨元町」と名付けられ、覚之助の業績を記念しているが、発祥の松戸市を含む関東地方では現在あまり栽培されなくなっている。(ウィキペディより)

     但し二十世紀ではないが、千葉県は幸水と豊水を中心として、和梨生産量日本一を誇っているらしい。鳥取の場合、二十世紀は全国一だが和梨全体では全国三位になる。
     碁聖はよほど疲れたのか、歩く体がやや傾いてきた。姫の「三キロ」は実際にはおよそ五キロで、ほとんど休まずに歩くのは私の年齢でもちょっと堪えたから、碁聖には少し辛かったに違いない。
     「随分立派な図書館じゃないか。」「千葉県立西部図書館って書いてるね。」「東部もあるってことだよな。」そして松戸市立博物館に着いた。松戸市千駄堀六七一番地。入館料は五百円だ。今は二時二十分。一時間半以上かかったことになる。
     「三時半にここに集合してください。」ダンディは「松戸の歴史なんか見てもしようがない」と講釈師と二人でコーヒーを飲みに行った。碁聖も女性二人とゆっくり休めば回復するだろう。
     長い廊下を通って二階に上がる。最初は土器や考古学の部屋で、私には手が出ない。小町は「私はジオラマが見たいんだよ」と急ぐ。
     阿弥陀三尊種子板碑を見ていると女性ガイドと目があったので、さっきの青面金剛について訊いてみた。「この辺じゃ尊像の形式は少ないのかな。」しかしそんなことは全く知らなかったようで、ややうろたえながら「お調べしましょうか」と応える。たぶん無駄なことなので丁重に御断り申上げた。学芸員ではないらしい。
     「これだよ、これ」と小町が松戸宿のジオラマに喜ぶ。「水戸家の大名行列もあったよ。」どこだったか。そこにロダンが登場した。「そこにあります。」なるほど小さな陶器で作ったような人形の行列がある。「磁器だよ」と宗匠が訂正する。「昭武が作ったのか。」「慶喜じゃないか。」そこに別のガイドがやってきて、「伝徳川昭武です。伝ですからね」と念を押してくれる。宗匠はテレビ体操の「お姉さん」押味愛里沙に似ていると喜ぶ。そんなもの、私は見たことがない。

     観るよりも女性ガイドに話し込み  閑舟

     「かなり金をかけてるな。」松戸市の財政は豊かなのだろうか。「競輪も競馬もあるよ」と小町が言う。それなら、保管してある本陣の玄関を展示してもバチは当たるまい。しかし、松戸市の財政も他の市町村と同じように厳しいらしいのだ。
     市民税の減税、市税の収納率の低下によって歳入が減る中、経常費経費は増加し減税補填債の発行による利子負担も馬鹿にならない。年度末の市債の発行残高は五百四十六憶円である。当年度の歳出決算額が千二百六十七憶円だから、その比率の大きさが分かる。(「松戸市の財政状況・平成二十三年度決算版」による)
     「そこに団地の一室があります。」展示場の隅から一段上がれば、昭和三十七年当時の常盤平の団地の一室が復元されている。昭和三十四年に第一次入居を開始した公団の賃貸住宅で、総戸数は五千三百。室内は2DKで、和室は六畳と四畳半になっている。2DKの広さは三十八平米、3Kでも四十五平米しかない。計画時には、この広さで子供二人を持つサラリーマン家庭が生活することを推定していた。今ならとても無理だ。
     懐かしいブラウン管テレビと大きなステレオが置いてある。先に見学していたご婦人が、「四十五回転とかありましたよね」と笑いかけてくる。江分利満家にステレオがやって来たのもちょうど同じ昭和三十七年だった。

    当時の江分利は3千円のラジオを買うのも容易ではなかった。山本富士子さんと一緒に暮らしたいと切に希っている独身男性が何人かはきっといると思う。しかし、山本富士子さんと結婚できる可能性は零に近い。江分利にとってステレオは山本富士子さんだった。(山口瞳『江分利満氏の優雅な生活』)

     それが画期的に格安なステレオが発売されることになったのである。レコードなんか一枚も持たない江分利は、レコードを持つ同僚二人を家に誘い、昼から飲みながらステレオの到着を待った。届けられたのは夕方の四時頃である。サントリーのホワイト一本が空になり、三人はかなり酔って来た。

     そこへステレオがやってきたのだ。まだ1度も支払いをしていないが、今年中には自分のものになるだろう。幅1メートル強で、よほど耳を近づけなければステレオであることが、分からないがそれでもステレオはステレオである。
     ここまできた、やっとここまできた、という思いで江分利は胸がいっぱいなのだ。涼しそうなふりして暮らしてきたが、江分利はこの数年背広1着靴1足つくったことがない。実を言うと、江分利はもうステレオなんか、どうでもいいのである。ブラームスもシベリウスもあるものか。ベラ・エレンもオスカー・ピータースンもどうでもいい。(同上)

     余程のマニアでない限り、当時のサラリーマンにとってステレオとはこういうものだったに違いない。私の父も特別音楽に趣味がある訳でもないのに、家には同じようなステレオがあった。父は日本歌謡全集かなんかのLPレコードを買ってきた。
     「アラジンのストーブじゃないか」とスナフキンが声をあげた。私は知らなかったが、三十六年の『暮らしの手帖』で最優秀の評価を得たものらしい。当時我家ではどんなストーブを使っていただろうか。
     この昭和三十七年には何が起きていたか。テレビ普及率は前年の四九・五パーセントから一挙に上昇して六四・八パーセントとなった。高度経済成長の真っただ中である。
     五月一日に横綱若乃花が引退した。鬼と言われた若乃花もこの頃には腹の張りがなくなり、大鵬に寄られると残す足もなくなっていた。五月三日には常磐線三河島駅構内で列車事故が起こり百六十人が死んだ。七月十八日、堀江健一が小型ヨット「マーメード号」で太平洋単独横断に成功しサンフランシスコに到着した。八月五日、マリリン・モンローが三十六歳で死んだ。十月にはキューバ危機が起こった。しかし小学校五年生の私は若乃花のこと以外はほとんど知らなかった。
     ザ・ピーナッツ「ふりむかないで」、橋幸夫・吉永小百合「いつでも夢を」、植木等「ハイそれまでョ」、石原裕次郎「赤いハンカチ」、ジェリー藤尾「遠くへ行きたい」、中尾ミエ「可愛いベイビー」、飯田久彦「ルイジアナ・ママ」、西田佐知子「コーヒー・ルンバ」、弘田三枝子「ヴァケイション」、倍賞千恵子「下町の太陽」、北島三郎「なみだ船」、仲曽根美樹「川は流れる」、松島アキラ「湖愁」、北原謙二「若いふたり」、フランク永井「霧子のタンゴ」、三橋美智也「星屑の街」。
     映画は『キューポラのある街』、『椿三十郎』、『キングコング対ゴジラ』、『座頭市物語』。テレビは『てなもんや三度笠』、『隠密剣士』。コマーシャルの「あたり前田のクラッカー」が流行ったのもこの年であった。
     部屋を出て狭い階段を下りると、外壁もそのまま復元されていた。「そのまま持ってきたのかな。」そうではないと思う。しかし昭和五十年代初期に建てられ、今も妻の両親が住んでいる村上団地だって、部屋数と広さは違うが印象はそれほど違わない。これが歴史的なものになって博物館に収まってしまうとは思わなかった。

     等身大の虚無僧の像と、ショーケースの中には尺八。松戸には普化宗の金龍山一月寺があったらしい。普化宗は禅の一派だが半俗半僧の有髪で、独特の虚無僧笠を被り尺八を吹いて托鉢をした。元は薦僧とも書き、ぼろんじ(梵論字)、ぼろぼろ等とも呼ばれた。宗教の外装を纏っても、要するに尺八を吹いて物乞いする中世芸能民の末裔である。それが徳川幕府によって公認され、服装も私たちが知っているような形に統一された。明治三年(一八七一)、普化宗は政府の禁制によって解体された。

    元々「一月寺」は、武蔵野国新町の鈴法寺と共に普化宗の触頭として関東総本山という地位にあった。伝承では正嘉年間(一二五七~一二五九)に金先古山禅師によって創建されたと伝わる。徳川幕府の庇護もあり、隆盛を極めた。(ウィキペディア)

     その隣の部屋では三匹獅子舞の解説をビデオで流しているので、休憩がてら入った。スナフキンもついてきて、「なんだかぼやけてないか」と言う。確かにピントがあっていない。プロジェクターの設定が下手なのだろう。「なんだか、ロダンの歌みたいだな。」画面から獅子舞に合わせて、高齢男性の歌が聞こえてくる。

     市内大橋・和名ケ谷・上本郷の三地区に伝承されている獅子舞は、五穀豊穣と悪霊退散をいのる行事として行われてきたものですが、その起源と由来は分かっていません。僅かに日枝神社(獅子舞では最も古いとされる)に関して、天明年間に地震と飢饉があった際に、この地の代官が神輿とともに獅子舞を奉納したという伝承が残されているのみです。
     獅子舞はいずれも三匹獅子舞といって「おおじし」「なかじし」「めじし」の三匹の獅子と太鼓、猿、花、笛で構成されています。
     http://www.city.matsudo.chiba.jp/index/profile/sanpo/sanpo-map/sanbikinosisimai.html

     マリーが入って来て椅子に座った途端、番組は終わった。裏の出口から外に出ると「21世紀の森と広場」につながっている。ここでイトはんや小町と一緒になった。姫もやって来たが何だか怒った表情だ。「園内の地図をもらったんだけど、数が足りないの。そこでコピーしろって言うんですよ。」それで遅くなったらしい。
     イトはんが池に行きたいと言うので、地図を見ながらそちらに向かう。まず竪穴式住居を復元した一画がある。「煙が出てるぞ。」中で焚火でもしているのだろうか。池に行くには山道をかなり降りなくてはならない。姫は大丈夫だろうか。「これだけ降りるって言うことは、登るってことだよね。」「そうだわね。」さっきまで疲れた顔をしていたイトはんも、ここに来て元気になった。「自然の中を歩くのがいいのよ。」
     階段の途中、前方に不気味なものがいる。膝丈の短いピンクの着物に、長い金髪を垂らしているのはさっきビデオで見た獅子舞の仲間であろうか。「違うだろう。」俯いていたのが顔を上げると、頭の前に二つくっつけたような髪が角のようだ。もう一人は短い金髪で学生服を着ている娘だ。「あいつら、なんだ。」今時の若い者のやることは謎だ。不気味だから目を合わせないようになんて考えていると、だんだん古老のような気分になってくる。「何かのイベントじゃないのか。」「そうですよ、アニメのコスプレじゃないでしょうか。」スナフキンと姫は冷静だ。

     コスプレの金髪怪し若葉蔭  蜻蛉

     宗匠、ロダン、ドクトルは別の場所で女忍者に出会ったそうだ。「忍者ごっこですか、って訊いてみた。」こんな不気味な連中に声を掛けて大丈夫なのだろうか。後で写真を見せてくれた。

     若葉風くノ一ふたり微笑みて  閑舟

     どうやらここでは毎週のようにコスプレイヤー(と言うのだそうだ)の写真撮影会が行われているようだ。そもそもコスプレとは何であろう。私だって子供の頃には頭に風呂敷を巻き付けて、怪傑ハリマオや忍者の気分になったことはあるが、あれはコスプレではないだろうね。精々小学生の遊びであった。
     有り余る小遣いを持ったガキ単なる遊びかと思えば、日本コスプレ協会とか、日本コスチューム協会とか、もっともらしい組織まであるのだから驚いてしまう。コスプレは商売になるということだろう。
     階段を降り切れば、人工的に作った広い公園が広がっている。千駄堀池はコンクリートで護岸されていて、少なくともこちら側には自然なものは残されていない。

    千駄堀池は三つの谷津が集まって出来ている人工の池で、広さは東京ドーム約一個分(五ヘクタール)の大きさがあり、湧水量は一日で約千トンもある雄大な池です。池の中央には水鳥等が営巣出来るように島が作られ、北側は生きもの専用区域として人の立入りを制限し自然環境の保全に努めています。一方南側には霧の噴水が設けられ毎日午前十時から午後四時まで一時間に一回水面を霧が覆いとても幻想的な風景が楽しめます。(松戸市公式HPより)

     「千駄堀の自然を守り育てる」のがこの公園の基本方針らしいが、人工的に霧を発生させて何の意味があるのだろう。「あっちから廻りましょうか」とイトはんが言っているところに、ダンディと講釈師がそちらの方から現れた。「ダメ、行き止まりです。」それなら逆に行ってみるか。四阿と、突き出たような中の島にも同じような建物が見える。
     「ブラックバスが釣れるんだな。」「釣っても食えないだろう。」私とスナフキンは途中まで行って諦めた。鳥もいないし見るべき植物もない。最後まで行ってもそんなに大したものがありそうには思えない。「でも私、行ってみるわ」とイトはん、ヤマちゃん、隊長たちは先まで行った。戻りかけたところに、さっき階段で姿が見えなくなったあんみつ姫が、ソフトクリームを舐めながらやって来た。
     ベンチに座ると姫がお菓子の箱を取り出した。「碁聖に戴いたんです。皆で分けましょう。」博物館で分配する積りが、コピーで手間取っている間に皆それぞれ分散してしまったのだ。「それに、そこのお店に、ちゃんとカラーの地図があるんですよ。」やがて四阿の方に行っていた連中も戻って来る。
     再び階段を上って戻る。竪穴住居の前で碁聖のグループが写真を撮っている。充分休憩ができただろうか。碁聖もすっかり元気を回復したようだ。博物館に戻る道を間違えた。階段を上り下りして後ろを振り返ると、小町とマリーが怪訝な顔をしている。「こっちで良いの。」「大丈夫。だけどちょっと間違えた。」そこに古道マニアもやって来た。「少し遠回りでしたね。」
     入口に着くと、「三時半で終わりになっちゃう」と言いながら、ハコさんが外に飛び出していった。あと五分しかない。「三時半で閉まっちゃうんですか」と古道マニアが驚くが、姫の決めた集合時刻のことだろう。
     定刻には全員が揃って博物館を出た。「もうひとつ行くんだよね。」「どのくらいかしら。」「すぐだと思うよ。」

     新京成線に沿って東側を通る道がさくら通りだ。その一角に、金ケ作陣屋跡の標柱がぽつんと建っている。松戸市常盤平陣屋前一番地。新八柱駅の北に三百メートルほどの場所だ。陣屋といえばふつうは代官の所在する役所を想像するだが、ここは牧を管理する役所であったと言う。
     慶長年間に設置された幕府の牧で、小金牧と称した。元々下総は牧の多い所で、宇治川先陣争いの池月もこの辺りの産だとされている。また神子上典膳(小野忠明)と善鬼が、伊藤一刀斎の相伝を争って決闘したのが小金原だと言う伝説もある。この小野忠明の一刀流が遥か後、中西忠兵衛、浅利義信、千葉周作、山岡鉄舟に継がれていく。

    廿九日、小金原にかゝる。此原は公の馬をやしなふ所にして、長さ四十里なるをもて、四十野といふ。草はあく迄青み、花も希々に咲て、乳を呑駒有、水に望むあり、伏有、仰ぐあり、皆々食に富て、おのがさまざまにたのしぶ。(小林一茶『寛政三年紀行』)

     寛政三年(一七九一)三月、一茶は出郷後初めて柏原に帰る旅に出て、馬橋から布川に向かう途中で小金原を通った。それにしても長さ四十里の牧とは実に広大で、本当かしらと疑いたくなる。江戸から日光まで行ったとしても四十里はない。幸いウィキペディアに地図が出ていたので測ってみた。南は鎌ヶ谷・船橋・八千代・習志野・千葉にまたがる下野牧から、中野牧(松戸・柏・鎌ヶ谷・白井)、上野牧(柏・流山)、高田台牧(十余二)と北上し、荘内牧(野田)まで、南北に細長く五つの牧で構成されていた。そのため小金五牧とも呼ばれた。直線距離で精々四十キロ、十里しかない。
     そして松戸の辺が中野牧で、一茶の言う小金原である。五つの牧のほぼ中心に位置するのでそれを管理する陣屋を設けたのだろう。金ケ作の「作」は「柵」である。
     姫も引用している「帝国博物学協会・下総国金ケ作陣屋」というHPの記事では、千葉市の一族である綿貫氏が野馬奉行に任ぜられ、享保七年(一七二二)に陣屋が建てられたことになっている。(http://www42.tok2.com/home/hakubutukan/shimosa_kazusa_awa/kanegasaku.html)
     しかし川名登による大谷貞夫著『江戸幕府の直営牧』の書評(「國學院雑誌」111-5)には、もっと詳しい説明が書かれている。ちょっと長めになるが抄出しておこう。

     「野馬奉行」とは、現地にあって直営牧の管理を担当する「牧士」を配下にまとめて、直轄牧をとりしきる役で、下総国小金に在住した綿貫氏が代々世襲した職であったという。この綿貫氏には古い「由緒書」が伝来し、その記載を根拠として「野馬奉行」は近世初期の慶長期から存在し、綿貫氏が世襲して来たと考えられてきた。(中略)
     慶長十九年の「小金之領野馬売付帳」、寛永十六年の「下総国小金野馬売上勘定事」寛文十二年の「印西手形」をそれぞれに分析検討され、そこには「野馬奉行」はなく、幕府勘定方ないし関東郡代の指示を受けて動く「伯楽」あるいは「勢子奉行」という存在を確認したのである。(中略)
     郷土史家篠丸頼彦氏の残した「篠丸文庫」の中の史料を検討され、綿貫十右衛門が幕府より「御切り米拾俵」を支給されることになったのは享保九年からであり、「野馬奉行」を公称するのはその子綿貫平内の時、享保十六年からであったことを明らかにされたのである。(中略)
     論考「金ヶ作陣屋考」は、葛飾郡日暮村境の金ヶ作に建てられた「金ヶ作陣屋」の成立や陣屋詰野方代官の変遷等に関する論考である。
     「金ケ作陣屋」は、享保改革期に活躍した幕府代官小宮山杢之進昌世が新設し、小金、佐倉牧の地面や新田を支配する拠点とした陣屋である。この陣屋の成立時期については、従来不確かな説が多かったが、大谷さんは種々検討をした結果、享保八年それも八月以前に設置したものという結論を得ている。
     また、小宮山杢之進以後、牧内の新田と牧の地面を支配する幕府代官を「野方代官」と呼んだが、この代官の変遷をも明らかにしている。その後の寛政四年、旗本岩本正倫が小納戸頭取となり牧の支配を命ぜられるに及んで、牧制の改革が実施され、金ヶ作陣屋は、「金ヶ作野馬方御役所」と呼ばれて、野馬方書役が詰めるようになることも述べられている。http://www.iwata-shoin.co.jp/shohyo/sho1029.htm。

     この一本の標柱のために、こんなことまで調べる羽目になるとは思わなかった。そもそも松戸の地名は馬津郷に因るという説もあり、馬橋の地名も残っているのだから、無駄なことではなかった。
     「駅は遠いのかしら。」「すぐそこじゃないの。」そして十分もしないうちに武蔵野線八柱駅に着いた。宗匠の万歩計で一万九千歩。姫の計画では八から九キロだったから、あの三キロと五キロの目算違いが大きい。
     碁聖のグループとマリオは西船橋経由で帰ると言って、逆方向に乗って行った。西船橋だと方向が逆になるような気がするが、その方が便利らしい。小町とイトはんは、南浦和から大宮へ向かうと言う。「乗り過ごしちゃダメだよ」と小町に言われるまでもない。
     反省すべき連中は南越谷で降りる。勿論講釈師もここで降りるが、反省する人ではない。まだ四時半だが、「一源」はやっている筈だ。しかし店に入って「十一人」と叫ぶと、女店員が「予約でいっぱいです」と投げやりな口調で言う。この店でこうして断られたのは二度目だ。席はかなり空いているように見えるが、そんなに一杯になるほどの予約があるのか。
     仕方がないので別の店を探す。「養老の滝の電気がついてるよ」と宗匠が見つけた。階段を上って席に案内されたのが、畳の部屋だ。「ごめんなさい、畳には座れないの。帰ります。」姫に帰られては今日の反省ができない。それでは庄屋に行こう。
     今度は掘り炬燵式の部屋だから大丈夫だろう。三千八百円なり。全員から徴収してスナフキンが札を数えると千円以上余った。百円づつ払い戻したものの、レジで千円足りないと言われた。慌ててさっきの百円を戻してもらう。
     小町が懸念した通り、私は武蔵野線で乗り過ごしてしまった。スナフキンと話している内、気がつけば東所沢だった。慌てて飛び降り、逆方向に二駅戻らなければならない。

    蜻蛉