文字サイズ

    平成二十五年五月二十五日(土)

    投稿:   佐藤 眞人 氏     2013.06.04

     旧暦四月十六日。二十四節季では小満、七十二候では蚕起食桑(カイコオキテクワヲハム)の最終日で、明日からは紅花栄(ベニバナサカフ)となる。ベニバナというのは見たことがないがこの季節だったか。末摘花がベニバナの異称だというのも知らなかったから、つくづく厭になってしまう。こんなことを言うと、ダンディなら源氏物語を話題にするだろうが、私は『誹風末摘花』を思い浮かべてしまう。と言っても難しすぎて殆ど理解できないのだけれど。
     ここ数日、最高気温が二十五度を超える夏日が続いたが、今日はそれ程暑くはならないようだ。薄曇りの空模様で、長袖シャツがちょうど良い。
     集合は西武池袋線練馬高野台駅だ。最初は池袋を経由する積りだったが、無駄遣いをしないように調べ、本川越から西武新宿線に乗り、所沢で西武池袋線に乗り換えるコースにした。これで鶴ヶ島から五百五十円だ。池袋から西武線に乗り換えると七百円になるから、百五十円の差はバカにできない。
     集まったのは隊長、若旦那、ハコさん、ドクトル、スナフキン、桃太郎、小町、イッチャン、マリー、蜻蛉の十人だ。明日はネーチャー・ウォークが行田で行われるというので、常連も二手に分かれてしまったようだ。「お父さんは明日の行田に行くって言ってるからさ。」と、今日もひとりの小町は言う。ダンディも明日に備えているようだ。二日連続で歩くのは結構シンドイからね。このところ里山には必ず顔を出していたイトハンの姿が見えないのは、やはりネイチャーを優先したのだろうか。カズちゃんは仙台に行っているか。
     スナフキンと桃太郎は、二日酔いで調子が悪いとボヤイている。毎度毎度、酒を飲みすぎるひとたちであるが、それにしても毎日のように二日酔いになるまで飲めるというのも、実はなかなかできることではない。私なんかお小遣いが乏しいからそんなに飲めない。
     今日は、江戸歩きの第二十四回「石神井編」(平成二十一年七月)で私が企画したコースとおおよそ重なっている。隊長は知らなかったらしいが、江戸近郊の珍しい寺院が見られるし、石神井公園から三宝寺池にかけては植物観察ができるところだから、里山ワンダリングのコースとして企画したのも頷ける。私もまた歩いてみたいと思っていた。今日のメンバーであの時一緒だったのは、ドクトル、スナフキン、桃太郎だが、彼らはほとんど忘れているだろう(なんて言ってしまって良いかしら。)
     ただ問題は、計画では二時に終わることになっていることなのだ。「二時で終わったら反省会をどこでやろうか。悩んじゃうぜ。」「朝から反省会を気にするのはアル中だって、自分で書いてるじゃないか。」しかし、飲むに相応しい時間というものもある。最悪の場合、所沢の「百味」なら開いているだろうが、できれば四時頃まではもたせたい。三宝寺に道場寺を加えて貰えないかと隊長に訊いてみた。「隊長、なかなか良いお寺なんですよ。」「いいよ。」これで時間が稼げる。

     順天堂大学練馬病院の前には青い紫陽花が綺麗に咲いている。カメラを向けていると「珍しくもないだろう」とスナフキンから声がかかる。「俺だってアジサイは知ってるぞ。」「いや、今年初めて見るからさ、記念だよ。」「そうかい、もうあちこちで咲いてるよ。」しかし我が家の周辺ではまだ見かけないのだ。ただ鶴ヶ島駅前のタチアオイも赤紫の花がだいぶ大きくなってきた。紫陽花やタチアオイが咲いたなら、もう梅雨がすぐそこまで来ているのだろう。このところ毎回同じことを言っていて気が引けるが、今年は季節の変化が本当に早い。(気象庁は、関東地方も二十九日に梅雨入りしたと発表した。平年より十日、昨年との比較でも十一日も早い。)
     病院の角を左に曲がれば長命寺だ。練馬区高野台三丁目十番三。東高野山(旧谷原山)妙楽院、真言宗豊山派。山門の右前には長命寺と白く記された大きな三波石が置かれている。「長命寺って、向島の桜餅で有名じゃないの。」寺の名前に商標登録はないから、同じ名前の寺は結構多いのだ。
     「南大門」の右側(東側)は増長天、左は広目天と、名札を掛けていてくれるから分かりやすい。内側から見ると左(東側)に持国天、右に多聞天が立つ四天王門だ。建造年代は分からないが、明治以降の割に新しいものだろう。
     「あれは六地蔵かな。違うか、数が多すぎるわね。」小町が目にしたのは、鐘楼の周りに並んでいる白い石で彫られた等身大の十三仏である。これについては、後で奥之院まで行った時に少し触れることになるだろう。梵鐘は慶安三年(一六五〇)、鋳物師の矢澤次郎右衛門吉重によって鋳造されたものだ。
     本堂前の玉垣に囲まれた中に、背の高い地蔵が菩提樹を守るように立っている。菩提樹が植えられたのは寺が建立されて早々だから四百年近くなるが、一度落雷によって倒れ、残された部分から芽が出て現在の状態まで大きくなったらしい。「菩提樹っていっても、シナノキもあるからね」と隊長は厳密なことを言う。
     ブッダがその下で悟りを開いた菩提樹は、クワ科イチジク属のインドボダイジュ(天竺菩提樹)であり、日本では余り見かけないのではないか。日本の寺院でよく見るのは中国原産のシナノキ科シナノキ属のボダイジュか、日本原産で同じ属のシナノキであろう。シナノキは「科の木」であり、信濃国の名の由来(科野)にもなった木だ。それと別に西洋原産のセイヨウボダイジュ(リンデンバウム、同じくシナノキ属)がある。これがどれに相当するかなんて、勿論私に分る筈がない。
     本堂の石段の前には、山門前の石よりも更に巨大な三波石が置かれている。「ドクトル、こっちに来て下さいよ。」石のことならドクトルに登場して貰わなければならない。高さ二メートル以上、幅三メートル程の大きさで、「こんなに大きな石はもうなかなか採れないよ」と小町が断言するのも頷ける。
     「これは褶曲だろうね。」専門用語を使って隊長がドクトルに確認しているが、褶曲なんていう言葉は誰も知らないから、ドクトルと隊長以外、地学を真面目に勉強した者はいないと分かってしまう。勿論、ロダンがいればこの話題についていけただろう。乏しい知識を総動員して考えれば、波打っている紋様が褶曲を表しているのだろうと思う。確か圧力によって曲がった部分のことを言うはずだ。
     「ここに結晶が見えるよ。」三波石は児玉の辺りを歩いた時にも見ている。神流川上流の三波川で産出する結晶片岩で、薄い青緑に白い縞が入った文様が奇麗だ。武蔵型の板碑に使われる緑泥片岩もこれである。
     脇に「増島某」と書かれた小さな三波石が置かれているのは、この石を奉納した人物である。増島氏ならば、慶長十八年(一六一三)にこの寺を開いた増島重明(北条早雲の曾孫という)の後裔に違いない。谷原三丁目に、江戸時代末期に建てられた増島家医薬門が残っているらしいから、今でもこの地方に住み、長命寺の大壇越なのだろう。
     三鈷の松も立っている。ただ『江戸名所図会』には、「三鈷の松と称するものありしが、いまは枯れ失せたり」と書いてあるので、幕末以降に植えかえられたものだろう。「モリっていう字だろう」と隊長が頻りに口にする意味が分からない。「森じゃありませんよ、金編だからね。独鈷は一本、三鈷は先が三つに分かれたやつ。」「そうじゃなくてさ。」私はつくづく感度が鈍い。隊長は「森」ではなく「銛」と言ったのだ。それならば旁が「古」と「舌」の違いで似ている。
     三鈷は金剛杵(ヴァジュラ)の一つである。金剛杵は、インド原始宗教ではインドラ(帝釈天)が持つ雷を操る武器であったが、チベット仏教や密教が取り入れて、煩悩を砕き悪を払う法具となった。金剛杵を持った後醍醐天皇の絵を見たことがないだろうか。中央が握りになっていて、両端に爪のような刃がついている。その歯の数によって、他に独鈷杵、五鈷杵、七鈷杵などがある。
     「弘法大師が投げたやつでしょう。」小町はちゃんと知っていた。空海が唐から帰国する際、日本で密教を広める適地を求めて三鈷を投げた。それが日本海を越えて遥々高野山まで飛んで来て、松の枝に引っかかったという伝説である。「そうでしょう、知ってるよ」と小町が得意そうな声をだす。普通、松の葉は二本に分かれているのに、中に三本に分かれた葉ができるというのだが、去年高野山に行った時には見ることができなかった。
     三鈷の松があることから推測できるように、この長命寺の境内は高野山を模して造られており、そのため東の高野山として信仰を集めたのである。『江戸名所図会』に掲載されている境内図を見れば広さは今とほぼ同じようだが、かつてはこの十倍ほどの広さがあったと言う。

    当寺、昔は、東光・観照等の子院ありて、すべて諸堂舎輪煥として甍を並べ、実に野山の俤をなせしも、いつの年にや、火災に罹りて経営ことごとく烏有となれり。よつて元禄中再建ありしかども、旧観に復することあたはず。いまはその十が一を存するのみ。(『江戸名所図会』)

     そして地名の高野台もこれに因る。「それじゃ練馬高野台はコウヤダイって読むのかい。」なかなか難しい質問だ。「タカノダイですよ。」
     本堂前には芭蕉句碑があった。貞享五年(一六八八)の三月、四十五歳の芭蕉が杜国と共に高野山を訪れた時の句で、その前の月、芭蕉は伊賀で父の三十三回忌法要を済ませたばかりだった。高野山奥之院参道に句碑があり、それを模したものだ。

     父母のしきりにこひし雉子の声  芭蕉

     増上寺の石灯篭を二つ見つけたので、みんなに注意を促しておく。この寺には文昭院(家宣)を供養したものが七基、有章院(家継)五基の他に桂昌院(綱吉の母)が一基あるそうだ。何度か話したことはあるのだが、西武線沿線の寺に増上寺の石灯籠が多いのは、堤康次郎のプリンスホテルに関係があることも念のため言っておく。
     「奥之院にも行ってみましょう。」右東高野山道の石の道標に従って、やや薄暗い林の中に石を敷いた参道を行けば、両側には石仏がたくさん並べてあって、徳川家光の一周忌を追悼して安置されたものだという。「なにか説明してよ。」説明するほど詳しい訳ではないが、半跏思惟の如意輪観音が目立つので「女人講で守護神とされることが多い。月に一回、女だけが集まる」と触れてみた。「女子会のことね。」なるほどね。十九夜、二十二夜講が中心だろう。
     しょっちゅう見ているものだが青面金剛についても言っておこうか。「ここにはいないけど、踏みつぶされる天邪鬼がいることが多い。」「今日は静かでよかったよ、ホント。」

     石仏を辿り数へて若葉蔭  蜻蛉

     御廟橋を渡る。「ここからが霊域なんだろう。」石灯籠も多い。御影堂(大師堂)の裏手には十王が並ぶ。「一番大きいのが閻魔大王ですよ。」「十王って何なの。」「初七日とか四十九日とかの節目の忌日に審判を下す。」「地獄の裁判官だな。」死者が六道のいずれに行くかを決定するのだ。
     生きとし生けるもの全て六道を輪廻する。六道とは天道、人間道、修羅道、畜生道、餓鬼道、地獄道を言う、なんて今更改めて言うまでもないだろう。十王は人が死んでから七日毎に、生前の罪状を調べ審理し行き先を決定する。本来は中陰(四十九日)の期間に決定する筈だったが、どんな人間でも救われたいので再審の機会を設けた。
     私だってちゃんと知っている訳ではなく名前をすぐに忘れてしまうので、何度もメモをしておかなければならない。秦広王(初七日)は殺生、初江王(十四日)は偸盗、宋帝王(二十一日)は邪淫、五官王(二十八日)は虚言を調べ、閻魔王(三十五日)が最終審判を下す。これに基づき、変成王(四十二日)は転生の場所、泰山王(四十九日)は転生の条件を決定する。その審理の都度、死者への減刑を嘆願するのが七日ごとの法要である。
     これで終わる筈だが再審の機会があって、平等王(百ヶ日忌)・都市王(一周忌)・五道転輪王(三回忌)の追善供養を行うことで、更に罪の軽減をしてくれる仕組みだ。
     江戸時代に入ると蓮華王(七回忌)・祇園王(十三回忌)・法界王(三十三回忌)を加えて十三王になる。追善供養はそのまま教寺院の収入に直結するから、寺にとっては多ければ多いほど良い。
     因みに浄土真宗では死者は即座に阿弥陀浄土に行く。それが往生であり、六道輪廻の連環から抜け出すことだから、本来はこうした追善供養には関わりがなかった。今では他の宗派と同じようにやっているけれど。
     その右手には、不動明王・釈迦如来・文殊菩薩・普賢菩薩・地蔵菩薩・弥勒菩薩・薬師如来・観音菩薩・勢至菩薩・阿弥陀如来・阿閦如来・大日如来・虚空蔵菩薩の十三仏がロの字を書くように並んでいる。これが各王の本地仏ということになる。本地仏というのは日本の本地垂迹思想がつくり上げたものなのだが、例えば地蔵がなぜ閻魔の本地仏なのか、私には良く理解できない。この他にも七観音や様々な石仏が安置されている。
     「新義真言のお寺に来たんだから興教大師にも挨拶しましょう。」埼玉や東京に豊山派、智山派の寺は多いのに、興教大師像というのは余り見かけない。とエラソウに言っても、前回来た時に教えられたことである。その時、私は覚鑁の名前は知っていても興教大師の名を知らなかったのだ。
     興教大師、覚鑁上人は嘉保二年(一〇九五)六月十七日、肥前国藤津庄に生まれ、康治二年(一一四四)十二月十二日に亡くなった。天台宗では延暦寺と園城寺の対立が激化し、真言宗でも東寺が金剛峯寺の支配を嫌って対立していた時代である。一方では末法の世で浄土思想が流行して、極楽浄土への往生を願う衆生の存在が大きくなっていた。
     「腐敗していた高野山の立て直しを図った。だけど反対派に追われて根来寺に拠りました。根来寺は秀吉に焼かれるんだが、やがて再興して智山派と豊山派なんかの新義真言の流れが出てくるのです。」「改革派なんだな。」真言宗に覚鑁が生まれ、天台宗(比叡山)からは、後の鎌倉仏教を創設する人物が育っていく。

    この頃の浄土教の流行は真言宗にもおよび、密教と浄土教の融合をはかろうとする傾向を生じるが、これもまた本覚思想と密接な関連をもっている。その代表が覚鑁で、阿弥陀仏と大日如来の同一性の立場にたち、大日如来の浄土でこの世界にほかならない密厳浄土こそ真の浄土であるとした。(末木文美士『日本仏教史』)

     ここからは自分の頭の整理のためだけに書いておくので、関心のない人は飛ばして下さい。取り敢えず現段階で私が理解するのはこんなことだ。ここに言う本覚思想が大きなキーワードで、これが仏教の質を大きく変質させたのである。
     大乗仏教が発明されたときから、誰が悟りを得るのかというのは大問題であった。悟りとは煩悩を滅却して六道輪廻の連関を断ち切り、浄土に往生することである。それを達成したものが仏(如来)である。釈迦の原始教団では出家僧の中のごく一握りだけが悟りを得た。つまり選ばれた者だけが仏になれる。人間には定められた階梯があり、仏になる者、その前段階までしか行けない者の区別が厳然とあった。
     これを在家にまで拡大し、誰もが悟りを開くことができるようにしたのが大乗仏教で、在家信者用の戒律を定めた。在家であっても戒律を正しく守り、善根を施すことで往生できる。但し女人は除かれる。仏教の第一次大衆化である。
     中世になって天台宗の中から、山川草木一切悉有仏性という発想が生まれてきた。おそらく日本古来のアニミズムに適合した発想だったと思われる。人間だけでなく、生きとし生けるもの全てに仏性がある。つまり仏になれる。これが本覚思想であり、仏教の第二次大衆化であるが、更に拡大解釈は進んだ。存在するものは、存在するだけで既に仏であるとまで言う極論も出現した。ここまで来れば戒律や修行なんていうものは全く意味をなさない。
     院政期の山法師の破戒無残な行動を思い起こしてもよいだろう。戒律や修行が無意味であればどんなに破戒無残な行為をしても構わないのである。これでは既に宗教ですらなく、これに対する反省が真摯な仏教者の中で様々な思索を生み出していく。覚鑁もそのひとりであった。
     こうした試みの中から、やがて鎌倉新仏教が生まれてくるのである。後の親鸞が非僧非俗を称して公然と妻帯したのも、この本覚思想を潜り抜けた上での覚悟であった。
     親鸞の場合の立論の根拠はこうである。「無量寿経」に、阿弥陀如来がまだ法蔵菩薩だった頃、四十八願を立てたことが記されている。その内の第十八願で、十方衆生が自分の名を念じても成仏しない間は自分も成仏しないと宣言した。法然はこれこそが最も重要な「本願」だと捉えた。その法蔵菩薩が現在既に阿弥陀如来となって西方浄土にいるからには、一切衆生は阿弥陀仏を念じさえすれば成仏できる。理論的にそうとしか考えられないではないか。
     法然がそう教えてくれたから、「親鸞におきては、ただ念仏して、弥陀にたすけられまいらすべしと、よきひとのおおせをかぶりて、信ずるほかに別の子細なきなり。(中略)たとい、法然聖人にすかされまいらせて、念仏して地獄におちたりとも、さらに後悔すべからずそうろう。」(『歎異抄』)と親鸞は言うのである。
     ところで覚鑁が死んだ康治二年には、平清盛と西行は二十七歳、源義朝二十二歳。法然はまだ十二歳で比叡山に登る前である。この年、これまで子ができなかった藤原氏長者忠通に基実が生まれ、養子の頼長との対立が始まった。これが後の保元平治の乱に繋がり、権力の中心は武士に移っていくことになるのだが、覚鑁は知る由もない。乱世であった。
     「大師というのは大変な称号で、日本の歴史上に百人もいなかったんじゃないだろうか。」ハコさんの発言はいつも重々しい。しかしこれは松戸を歩いた時に調べて、二十五人しかいないことが分かっている。
     南大門から出て、入るときには見なかった仁王門にも寄ってみる。以前は普通に通れたのに、駐車場を鉄パイプで囲み、僅かに出入り口を開けてあるから、今では普通の人はここを通らない。寛文年間(一六六一~一六七三)の建立とされる。『江戸名所図会』には南大門はなく、仁王門しか描かれていないから、これが本来の山門であった。金剛力士の見える格子には古草鞋がいくつも結ばれていて、その中に四五十センチもある草鞋がぶら下がっている。「でも細いよね。」「祈願がかなったら草鞋を奉納するんだろう。」そのようである。

     「そっちじゃないよ、こっちこっち。」二日酔いの二人が西に向かって歩いて行くので隊長が慌てて声をかける。来た道を戻り、もう一度順天堂の前を過ぎる。「そこに二日酔いの薬ありませんかね。」「処方箋薬局だからダメだよ。」桃太郎はどれだけ飲んだのだろう。
     西武線の下を潜り笹目通りを南に向かう。長光寺橋公園の中を抜け、「平成みあい橋」で石神井川を渡る。左岸二か所、右岸一か所から伸び、つまり三又の形が中央で合流する橋で、欄干は木で作られている。平成二年の「練馬区の橋・デザインコンテスト」で最優秀賞を獲得し、平成六年に完成した橋である。

    「みあい」には「三会」「見合」「美愛」などの意味があり、自然との出会いや人々との語らいがあるように、という願いが込められています。(練馬区)

     橋の下には遊歩道が伸びている。「石神井川ってずいぶん深いんですね」と若旦那が感心する。これは河床掘削工事の結果だ。かつて石神井川は頻繁に氾濫が起きていた。しかし住宅密集地のため川幅の拡張は難しく、河床を深くして氾濫に備えたのである。その結果、親水性に乏しくなったと東京都も認めている。

    石神井川は、高度に市街化された地区を流れる都市河川であることを考慮し、治水上の安全性を確保することはもとより、地域住民と協働して河川環境の向上に努めた川づくりを進めていくことを基本としていくため、『①洪水に対して、より安全な河川の整備、②公園などとの一体的整備による親水整備、③自然河床整備による生物の多様性の創出』を計画の基本理念として河川の整備を実施していく。(東京都「荒川水系 石神井川河川整備計画」平成一八年より)
    http://www.kensetsu.metro.tokyo.jp/kasenseibikeikaku/pdf/syakujiihonbun.pdf

     青葉の並木に沿って川沿いを歩く。「サクラかしら」とイッチャンが考えこんだ。一本の幹に「ソメイヨシノ」の札が掛けられているので教えると、「花の季節は見事でしょうね」とため息をつくように言う。花が咲いていなくても新緑が心地よい。
     南田中小学校は運動会の真っ最中だ。練馬区南田中五丁目十五番地三十七。「運動会って今の時期かい。」「春と秋とあるみたいですね。」運動会は秋の季語だが、この頃では今時にやるところも多い。
     「この頃は騎馬戦とか棒倒しなんかできないんでしょう。」「危険だからね。」「特別参加してみようか。」「すぐにコケル。」「ミナミタナカ小学校なんだね。ミナミダ中小ガッコウかと思った。」色々と喧しい限りだ。運動会は何となく興奮を誘うものらしい。ただ土の地面ではなく、コンクリートで固められた校庭なのが可哀想だ。
     「おくらやま憩いの森」と名付けられた私有地の竹林に入る。練馬区南田中四丁目十八番地。案内板には「都市緑地保全法に基づく市民緑地」とある。練馬区では「憩いの森」と「街かどの森」と名付けて、所有者から竹林や雑木林を借り、解放する事業を行っているのだ。憩いの森は千平方メートル以上、街かどの森は三百平方メートル以上千平方メートル未満で、合わせて現在四十八か所が指定されている。
     この辺りに凶作に備えた蔵があったことが「おくら山」の由来のようだ。「森」とは言いながら実際は小さな竹林の中に歩道が通っているだけだ。竹の節をつかみながら、真竹と孟宗竹の違いについて隊長が講釈する。「節が一本だと孟宗竹、二本の筋があると真竹。間があいていればマダケって覚えるといい。」ここにあるのはすべて孟宗竹のようだ。「その筍はもう駄目だろう。」「地面から出てたらもう遅いよ。」

     観蔵院には裏門から入る。慈雲山曼荼羅寺観蔵院、真言宗智山派。練馬区南田中四丁目一五番二四。三宝寺の塔頭として建てられ、文明九年(一四七七)にここに移転したという。
     ここには曼荼羅美術館がある。今日は寄らないが、少しでも関心のある人には一見を勧める。私たちが普通に見る、整然と秩序付けられたものとは違って、現代ネパールの仏画師ロク・チトラカールの描く極彩色の曼荼羅を見れば、仏教と言うものに対するイメージが一変する。仏教とは実に熱帯の密林から生まれたものなのだ。頭が二つも三つあるもの、腕が何本も生えたもの、象の頭をもったもの、翅の生えたものなど、密林には様々な怪しいモノがウジャウジャと存在しているのである。ヒンドゥの民間信仰に現れるこれらの怪物を仏教に取り込み、ひとつづつ世界の中に位置付けたのが曼荼羅だったのだ。
     庭がきれいな寺だ。「これはハゴロモジャスミンじゃないかと思うんだ。」隊長が足をとめたのは白い五弁の花だ。しかしイッチャンは「でもちょっと違うみたい。テイカカズラじゃないかしら」と首を振る。ハゴロモジャスミン(羽衣素馨)はモクセイ科ソケイ属、テイカカズラ(定家蔓)はキョウチクトウ科テイカカズラ属だ。
     二人の間に入って判定するなんてできるわけがないが、ネットで調べた写真で見る限り、テイカカズラに似ているような気がする。その名は、藤原定家が死んだ後、恋情が蔓となって式子内親王の墓に絡みついたという能によるから、なかなか趣のある名前だ。

    地   今降るも、宿は昔の時雨にて、宿は昔の時雨にて、こころすみにしその人の、あはれを知るも夢の世の、げに定めなや定家の、軒端の夕時雨、ふるきにかへる涙かな、庭も籬もそれとなく、荒れのみ増さる草むらの、露の宿りもかれがれに、物凄き夕べなりけり、物凄き夕べなりけり。
    (問答)シテ「今日は心ざす日にて候ほどに墓所へ參り候、おん參り候へかし。 ワキ「やがて參らふずるにて候。
    (問答)シテ「なふなふ是なる石塔御覧候へ  ワキ「不思議やなこれなる石塔を見れば、星霜古りたるに蔦葛這ひ纏ひ形も見えず候、是は如何なる人のしるしにて候ぞ  シテ「是は式子内親王の御墓なり、またこの葛をば定家葛と申候   ワキ「あら面白や定家葛とはいかやうなる謂はれにて候ぞ御物語候へ  シテ「式子内親王始めは賀茂の齋の宮に備はり給ひしが、ほどなく下り居させ給しを、定家の卿忍び忍びおん契り淺からず、その後式子内親王ほどなく空しく成給ひしに、定家の執心葛となつて御墓に這ひ纏ひ、互ひの苦しみ離れやらず、ともに邪婬の妄執を、おん經を読み弔ひ給はば、猶々語り參らせ候はん。(『定家』新潮日本古典集成版より)

     ところで式子内親王の呼び名ははっきりしない。ショクシ、シキシは昔からの呼び方で、私はシキシと覚えていたが、ノリコという説が有力らしい。二十歳の定家が初めて内親王のもとに伺候したのは、内親王三十三歳のときであり、「三条前斎院に参ず。今日初めて参ず、仰せに依るなり。薫物馨香芬馥たり」と感想を漏らしている。部屋中に香を焚き込め、内親王は御簾の蔭に静かに座っていたのだろう。顔を見ることなんか出来る筈はないし、この年齢差で恋が生まれるものだろうか。

     玉の緒よ 絶えなば絶えね ながらへば 忍ぶることの 弱りもぞする  式子内親王

     しかし新古今の歌の殆どは実感や経験とはまるで関係がない。ただ美しさだけを求めて言葉を選びぬくのであって、ボードレールやヴェルレーヌ、ランボー、マラルメにはるかに先駆けた象徴詩の世界なのである。実際に恋なんかしていなくても一向に構わないのだ。
     また最近では、内親王が密かに恋した相手は法然であったという説が登場したらしい。石丸晶子『式子内親王伝・面影びとは法然』の主張らしいが、私は読んでいないのでどの程度信用して良いかは分からない。内親王はなかなか謎の多い女人で、建仁元年(一二〇一)五十三歳で亡くなった。
     ヤマボウシも咲いている。「カルミアってあったかな。」隊長の案内文にあるので、スナフキンが訊いてくる。ざっと一回りした限りでは見なかったように思う。カルミアはアメリカシャクナゲであるとは、二週間前の江戸歩きで確認している。もう花は終わったんじゃないだろうか。隊長に訊いてみると、「あっちにあるよ」と奥に向かった。隊長が下見した時はもっと咲いていたのだろうが、今では僅かに一輪だけが残っていた。
     「これも珍しいものだから見てください。」私は植物ではなく山門近くにある筆子供養塔を指差す。筆子、つまり生徒たちが師匠の菩提を弔うために建てたものだ。小さな祠に「宝暦十二年(一七六二)・筆子中」、「文化五年(一八〇八)」の二つの石碑が納めてある。私は珍しいと言ったが、ウィキペディアによればかなり一般に行われたようだ。

    当時の寺子屋の師匠は、往々にして一生の師である例も多かった。寺子屋の生徒を「筆子」といい、師匠が死んだ時には、筆子が費用を出し合って師匠の墓を建てる事が珍しくなかった。そのような墓を筆子塚といい、房総半島だけでも三三五〇基以上の筆子塚が確認されている。(ウィキペディア「寺子屋」より)

     参道には元文二年(一七三七)造立の六地蔵と、その真ん中に享保十二年(一七二七)造立の主尊地蔵が立っている。
     もう一度さっきの小学校に戻って来た。「騎馬戦やってる。」危険だから最近はやらないのかと言っていたばかりだった。「女の子もいるよ。」それは珍しい。私たちの頃には男だけの競技だった。そして一対一で戦っているので、昔とはかなり様子が違う。乱戦の中で後ろから攻撃したり、逃げ回っているうちに運よく最後まで残ってしまったりするのが面白かったのではないだろうか。乱戦よりは一騎打ちの方が危険が少ないと言う理由だろう。
     「昔も帽子の奪い合いだったかな。」良く覚えていないが、私の時代も紅白の帽子を奪い合う方法だったと思う。「俺は棒倒しの方が面白かったな」とスナフキンが言い出した。あれは勇壮なものだったね。張り切って柔道着を着こんでくる奴、上半身裸の奴がいたりした。棒を守っているほうは手出しができないから、腹や背中は蹴られ、顔や頭は踏まれて散々ではあったが面白かった。
     父兄がビニールシートを広げた場所には、小さなテントがいくつも張ってある。「用意がイイネ。」「お昼は給食かね。」「お弁当だと思うけど、教室で食べるんでしょ。」うちの子供のときは、子供は教室で食べることになっているから、詰まらなくて弁当なんか作らなかった。親が来られない子供、弁当を作ってもらえない子供、弁当の格差などが例に挙げられ、それならいっそのこと子供だけ給食にしてしまうのが簡単だというのが、あの頃の方針だっただろう。最近ではさまざまな対応をしているようで、親と一緒に弁当を食べる方式を採用している学校もあるようだ。
     いくつかの考え方がある。まず「平等」の名のもとに画一的に子供全員教室で給食をとらせる方式であって、二十年ほど前は殆どの学校がこれを採用していたのではないだろうか。教師は面倒なことを考えずに済む。
     それは詰らない、折角の運動会なんだから親と一緒に弁当を食べさせたいとしても、考えなければいけないことがある。ひとつは、弁当のない子供だけは教室で先生と一緒に給食を食うことにする。これは淋しいね。次に、親が来られない、または弁当のない子供は、あらかじめ教師が近所の人等に頼んでおくことだ。私が子供の頃は、教師が頼まなくても自然な結果としてこうなっていただろうと思う。近所でなくても、クラスメイトが誘ってくれたりしたものだ。それから、個別の家庭事情に学校は容喙しないという考え方もあるだろう。それができない子供は人生の厳しさを味わう良い機会なので勝手に任せることだ。他にも考え方はあるだろうが、さて皆さんはどう考えるだろうか。
     ネットを検索していると、さまざまな問題が見えてくる。コンビニ弁当でも良いかと質問する親がいる。それに応えるように運動会弁当の予約を取る会社がある。親が作らないので祖母の私が作っても良いかという愚問がある。料理が不得意なのでママ友に頼んで断られた、どうしようなんていうアホな親もいる。少子化の現在、運動会には双方の祖父母も含めて一族郎党大勢やってくる。その弁当作りは実に大変だなんていう発言もある。他家の弁当と比較される怖さもある。○○ちゃんのお母さんは料理が上手と言われたいため、相当な覚悟を持って作らなければならない。日本の運動会は大変なことになっているのだ。
     騎馬戦はまだ続き、「始め」とか「ヤメ」とか、拡声器から聞こえる教師の声がやかましい。「引き分けなんて言ってるぞ。」騎馬戦に引き分けが存在するのかと不思議に思うが、時間制限制なのだろう。なんとなくぞろぞろと竹林の方に向かっていると、後ろから隊長の声が聞こえた。「運動会の声にまぎれて気付かなかった。」振り返ると五十メートルも後ろで、隊長が困ったような顔をしていた。何度も声をかけたに違いないが、運動会の騒音でかき消されてしまったのだ。

     騎馬戦や声も轟に若葉風  蜻蛉

     小学校正門前の狭い道を西に行くと旧早稲田通りに出る。豊島橋を渡ればすぐに禅定院だ。真言宗智山派、照光山無量寺。練馬区石神井町五丁目十九番十号。
     境内には一本の幹から枝分かれしているヒヨクヒバの大木がある。ヒノキ科ヒノキ属。ヒヨクとは比翼であろうか。隊長によれば、ヒバにはヒヨクヒバ、ニオイヒバ、チャボヒバの種類があり、ヒノキアスナロ(ヒノキ科アスナロ属)である。
     ヒヨクヒバをネットで検索すると、サワラの園芸種だと言うものもある。私はサワラと言えば魚しか知らないが、サワラはヒノキ科ヒノキ属であるらしい。それならばれっきとした檜の一種になる。
     樹木に関して私の知識は全く乳幼児同然なので、ウィキペディアを参照すると、ヒバには二つの説明がされていた。ひとつは「ヒノキやサワラの別名。ヒノキ科にはヒヨクヒバ(サワラの変種)のようにヒバと名がつくものが多い」とされ、もう一つは隊長の説明と同じで、「林業で、ヒノキ科アスナロ属アスナロまたはアスナロの変種ヒノキアスナロを指す」というものだ。
     しかし、こんなことは素人が考えても仕方がない。ところでアスナロと言うのは実に悲しい名ではないか。明日は檜になろうと夢見ながら遂にそれは実現しない。努力の成果と言うものが一切認められないとすれば、人は努力も教育も放棄してしまうのではなかろうか。高望みせず分相応に生きよとは、封建身分制度の処世訓である。
     ここで見るべきもうひとつは切支丹灯篭である。寛文十三年(一六七三)十月朔日の銘を持つと石標にある。戦国時代の茶人古田織部が好んだので織部型灯篭とも呼ばれる形だ。竿に人の像が彫られているのが特徴で、これまでいくつか見たが、笠や火袋はなくなっているものが多い。
     つい先日も高輪の高山稲荷で同様のものを見て、何の疑いも持たなかったのだが、これが本当に切支丹の信仰にかかわりがあるのかどうか、実は確証がないらしいのだ。「切支丹灯篭」の呼び名に真っ向から反対する説がある。松田毅一によれば、切支丹との関係は一切ない。

     私たちが今、旅行すると、あるいは石屋などに行くと、「キリシタン灯籠」といわれているものを見出します。ところが、それはたいへんな間違いで、それらはキリシタンとは何の関係もありません。ですから、もちろん南蛮文化とも何の関係もありません。(中略)
     或る人々が「キリシタン灯籠」と称しているものは、灯籠の一種で、特徴的なことは棹の上の部分が少し横に出ばって、多くの場合、正面に何かわけのわからない文字らしきものがあり、下の部分に人物像が前に出たように刻まれています。それとは別に、この種の灯籠の下の部分、つまり棹に当たる部分だけの形の石造物をも、キリシタン関係のものと誤解している人もいます。
     ・・・・そのようなことが言われ出したのは、大正の終わりからで、こういう謬説が広まりだしたのは昭和の初年です。(松田毅一『南蛮太閤記』)

     一刀両断切り捨てているのである。松田毅一はフロイス『日本史』の共訳者で、切支丹文化や日葡交渉史、イエズス会史の専門家で、この分野では権威と言って良い。私はこの本も『南蛮巡礼』も読んでいたのに、今まで全く忘れていた。
     二冊から要約すれば、千利休や古田織部などの茶人は神社仏閣から古い石燈籠を貰って茶室を飾った。また、古来の灯籠や五輪塔、供養塔、庚申塔等を一緒にして新しい形の灯籠を作った。これを寄せ灯籠と呼ぶ。梵字を文様として新たに彫る時に、偶然ローマ字のように見えるものも出来てしまった。また古田織部本人は切支丹でもなんでもない。図面を確認すると、古いものにはアルファベットのような記号は一切見つけられず、十九世紀以後の写本に漸く現れる。つまり、後代の人間が様々な模様を加えたものであろう。そして江戸時代のキリシタン禁制と弾圧を考えれば、人目につくような場所に置く訳がない。

    ・・・・キリシタンと関係があれば、徳川時代に壊されてしまい、残っても、墓碑のように地下に埋没していたり、覆われたところにあるべきであるのに、桂離宮、修学院離宮、北野神社、その他寺院、茶庭、墓地などに公然と、しかも全国各地におびただしく現存するわけがない。(松田『南蛮巡礼』)

     その脇には石幢六面六地蔵(享保元年)と種子板碑が四基並んでいる。「なんて書いてあるの。」マリーが覗き込んできた。一枚だけ分かったので、「これは阿弥陀一尊」と教える。キリークが判別できたのだ。
     墓地入口には「いぼ神地蔵」。安政六年(一八五九)の宝筺印塔がある。茅葺屋根の鐘楼。境内隅の「なかよし・わらべの碑」は幼児が抱き合った形で、双体道祖神を模したものと思われる。これは明治五年の学制発布によって、この寺内に豊島小学校が開設されたことを記念したものだ。
     寺を出て野球場の端を通って石神井公園に向かう。グラウンドの隅で小さな鳥が二三羽地面をつついている。「あれは。」「ムクだよ。」樹木もそうだが、鳥も全く分からない。右に石神井池が見えてきた。「東屋があるね。」「やっぱり屋根があるといいね。」マリーと小町は、あの辺で休憩したいようだ。しかし隊長は止まらずに、左の小さな公園に入って行く。
     入って行ったのは池淵史跡公園の中の「旧内田家住宅」である。茅葺がきれいだからまだ新しい。明治二十年代に練馬区中村に建てられた民家である。平成十九年に解体し、二十二年(二〇一〇)にここに移築して復元した。「屋根のアシは、あっ、ヨシって言わなくちゃだめですね。福島から持ってきました。茅葺の職人もやはり福島から来てもらったんです。」案内の女性が説明してくれる。この辺りにはもう茅葺職人なんかいないのだろう。
     家の中で食事ができるらしい。取り敢えず狭い玄関で靴を脱ぎ、先客二人のいる和室に入る。玄関からすぐ、縁側に沿って十畳の部屋、その奥が十畳の下座敷、ここで縁側は直角に曲がり、その隣に十畳の上座敷がならんでいる。桁行一五・三メートル、梁間一〇・九メートル。茅葺寄棟造り平入りの建物だ。
     下座敷に細長いテーブルが二列並んでいて、その一列を二人の婦人が占領しているから、スペースはそれ程広くない。上座敷でリュックを開けようとして、そちらは困る、テーブルのある部屋だけが飲食可能だと、さっきの女性が慌てて説明する。それでもこうした古民家で飲食ができるのは珍しい。「初代の館長が、できるだけ一般の方に接してもらいたいと言って。」
     マリーが仙台の牛たんジャーキーを配った。「こんなの出されるとビール飲みたくなっちゃうな。」スナフキンの二日酔いは回復したのだろうか。小町は種を抜いて少し甘みを利かせた梅干しをくれる。「これ、うまいな」とドクトルが感動したような声をあげる。
     食事を終えて屋内を見学する。板間は二十畳以上の広さで、囲炉裏が切られ、土間には竈が据えられている。「ここがリビング・ダイニングなんだよ。」小町が断言する。最近、夫婦で信州鬼無里の民宿に泊まってきたスナフキンは、「あそこじゃ、囲炉裏には飯が炊ける竈がしつらえてあった」と報告する。「鬼無里はいいとこだよ。」水芭蕉の大群落を見てきたそうだ。
     家の外では、揃いの服を着た男女がブルーシートにテーブルを置き、紙飛行機を作って遊んでいる。七十歳ほどの男性が、「私のころにはこうやって」と少し若い婦人に作り方を教えている。今日は一時から子供たちを集めて紙飛行機で遊ぶイベントがあるのだ。十五分前に子供が何人かやってきた。「ちょっと待ってね、今は大人の時間だから。」リーダーらしい男性が子供を待たせる。

     風薫る紙飛行機の行方かな  蜻蛉

     庭の外は史跡公園になっていて、区内全域で邪魔にされていた石仏や石碑が適当に配置されている。文字だけの庚申塔、青面金剛の庚申塔、馬頭観音、力石、「従是石神井弁財天」の道標など。この青面金剛には邪鬼がはっきり写っている。
     「ニホンタンポポがあるようなんですよ。」ドクトルと若旦那が植木職人に聞いたらしい。しかし探してもそれらしきものがない。「これかな。」「花が小さすぎるよ。」直径一センチもないような黄色の花の、根元をたどれば確かにタンポポの葉のようではあるが、花弁の数が少ないし、小さすぎる。タンポポでは絶対にない、タビラコの類ではないかというのが隊長の判断だ。オニタビラコかもしれない。
     ちなみにニホンタンポポと言うのは、セイヨウタンポポに対して日本在来種をいう総称だろう。カントウタンポポ、カンサイタンポポ、シロバナタンポポなど、二十一種類とか十五種類とかがあるらしい。総苞片が反り返っていればセイヨウタンポポ、そうでないのが在来種だというのが、一般的な見分け方だと教えられたことがある。

    在来種のタンポポ(ここではニホンタンポポと総称)は研究者によって分類法はさまざまですが、最近は二グループ十五種の分類(森田龍義氏:一九九五)が提唱されています。(参考・引用文献:日本のタンポポとセイヨウタンポポ 小川潔著)(「日本たんぽぽラボ)http://taraxacum.sakura.ne.jp/kokusan.htmlより」

     これによれば、ニホンタンポポは大きく分けて、モウコタンポポ節とミヤマタンポポ節の二つに分かれる。モウコの方は、「総苞薄緑色で、果実は卵型で大きく、冠毛柄は比較的短い。暖温帯の低地に分布」するもので、カントウタンポポ、カンサイタンポポ、モウコタンポポ、ウスギタンポポ、シロバナタンポポ等が含まれる。
     ミヤマのグループは、「総苞片は黒緑色で、果実は細く、冠毛柄が相対的に長い。冷温帯寒帯に分布」すると言うから、普段余りお目にかかるものではないらしい。エゾタンポポ、ミヤマタンポポ、シコタンタンポポなどが含まれる。
     「野草園には行かないの。」隊長の案内ではそこに行くことになっているのだが、既に順番としては過ぎているのでイッチャンが隊長に質問した。「行きましょうか、すぐそこです。」野球場の方に少し戻った所が、狭いながら野草園になっている。
     シライトソウ(白糸草)、セリバヒエンソウ(芹葉飛燕草)、ヤマオダマキ(山苧環)、ヤブレガサ(破れ傘)、オキナグサ(翁草)、クリンソウ(九輪草)、ヤエドクダミ(八重蕺)。ヤエドクダミというのは初めて見たが、真っ白な花が縦に重なってドレスのような格好で、ドクダミと言うには勿体ない姿だ。「綺麗じゃないか。」「初めて見るわ。」ただ、この白いものは花弁ではなく総苞片である。これは普通のドクダミも同じで、真ん中に棒のように立っているのが花で、白い花弁のように見えるのが総苞なのだ。

     信号を渡って三宝寺池に入る。池の面にはスイレンの花が広がっている。「アタシはハスがどうも好きになれないけど、スイレンは好きだよ。」小町が好きになれないのは、あの中心部にある花托のせいではあるまいか。あれはつくづく見ると実に不気味なものだ。「ヒツジグサとスイレンとはどう違うんですか。」桃太郎が悩んでいるが、同じものだろう。「未草は古語じゃないかな。未の刻に咲くという。」これは違った。睡蓮は漢名、未草は和名であった。
     カルガモの親が小さな子を何匹も連れて泳いでいる。子供は小さくて軽いから、親に遅れまいとハスの葉の上を転がるように走る。面白い。「何匹いるんだ。」十羽以上いるようだ。散歩者にとっては格好の被写体で、大勢がカメラを向けている。
     「小さいから撮れたかどうかよく分からない」と呟く若旦那に、「パソコンに入れて拡大すればいいんだよ」と小町が教えている。「やったことがない。」ドクトルは写真屋に頼んでCDに焼いてもらうのだと言う。「メモリカードを挿入するだけで取り込めるでしょう。」「私のパソコンはデジタルカメラ以前のものだから、カード・スロットがない。」確かに昔のデスクトップタイプにはなかったかも知れない。しかし、「カードリーダーが数百円で買えますよ」と桃太郎が言い、ハコさんも「そうそう」と頷く。実は私はそれを知らなかった。調べてみると、USB付きのSDカードリーダーというものがあるのですね。
     池の北側に沿って木道を歩く。ザリガニ釣りをしている子供に母親がサキイカを手渡している。私はやったことがないから、サキイカとはザリガニも贅沢ではないかと思ってしまうが、どうやらこれが一般的なことらしい。
     「あっちにはカワセミがしょっちゅう来ているんだよ。」今日はいないようだ。「今日の主役はカルガモに決まってたんだよ。休んでるんじゃないかな。」
     「あれ何かしら。」カラスのように黒い鳥が一羽、枝に止まって何か沈思黙考している按配である。イッチャンの声に「カワウだよ」と隊長が一言で決める。サラサウツギ(アジサイ科ウツギ属)という白い花を見る。隊長が熱心に何度も葉を触って教えてくれるのはナワシログミ(苗代茱萸)である。珍しいものなのだろうか。十月頃に花をつけるらしい。

    この池水、冬温かに夏冷やかなり。洪水に溢れず旱魃に涸れず、湯々汗々として数十村の耕田を浸漑し、下流は板橋・王子の辺りを廻り、荒川に落ち会ヘリ。(『江戸名所図会』)

     現在では石神井川の水源は小金井市花小金井とされているが、幕末頃まで石神井川は三宝寺池が水源だった。「あれ、水が湧いているんだろうか。」以前来ているのに、私は記憶力が不足している。かつては豊富な湧水があったのに、現在ではほとんど期待できず、地下水をポンプで汲み上げているのである。
     池の南側に回って厳島神社、穴弁天を過ぎた辺りで「この辺で上に行きましょうか」と声をかけ、隊長に許可を貰った。本当はもう少し行って、石神井城址の碑を見てから上った方が良かったかも知れない。あるいはもう少し前に上に登って「照日塚」を見ても良かったか。階段を登れば氷川神社の鳥居が立っているが、いったん外の通りに出て、もう一度氷川神社の境内に入る。
     「大宮の氷川神社とは随分ちがうね。」一の宮と規模が違うのはやむを得ない。応永年間(一三九四~一四二八)、豊嶋氏が石神井城の中に、城の守護神として武蔵国一ノ宮の分霊を祀ったのが始まりである。石神井城の範囲は、三宝寺池・石神井池を北端に、南に三宝寺、道場寺を含んで現在の石神井川辺りまで約十ヘクタールにも及んでいた。
     石神井城は豊島氏の本拠である。豊島園にあった練馬城、飛鳥山の南の平塚城(現平塚神社)を押さえ、更に赤塚、志村、板橋にも豊島氏の支流を配して勢力を築いた。これと対抗したのが川越、岩槻、江戸に拠る太田道灌である。というより、道灌の勢力線を豊島氏が分断したという方が正しいだろうか。文明八年(一四七六)、長尾景春が上杉顕定に反して挙兵したとき、豊島泰経は長尾方に加担した。妻が長尾景春の妹(?)という縁である。しかし翌年、道灌の攻撃にあって石神井城は滅ぼされた。平塚城で再起を図ったがこれも落城し、やがて消息不明のまま泰経は歴史から姿を消す。
       但し豊島氏の一部(と主張する)は江戸時代に旗本として生き延びた。その一族が奉納した石灯篭が、小さな堂に収められている。
     表参道を抜けた辺りで、「この辺には記憶があるよ」とスナフキンが言い出した。私は朝からずっと記憶を辿っている。左に曲がれば三宝寺の塀が続き、そして入り口に着く。練馬区石神井台一丁目十五番六。応永元年(一三九四)権大僧都幸尊が開山し、豊島氏によって尊崇された寺である。真言宗智山派、亀頂山。豪華な四脚門は、家光が鷹狩りの際に立ち寄ったことから御成門と呼ばれる。
     伽藍の配置図を見ながら左の階段を登ろうとしていると、隊長は一人で右手に行って姿を隠した。「どうしたんだろうか。」「見てきます。」桃太郎が確認に行って戻ってきた。「向こうにトイレがありました。」女性三人もトイレに向かう。その間に四国八十八か所を回ってみようか。
     起伏のある敷地の所々に手摺でコースをつくり、それぞれに個性を持たせた石碑を建てているのだ。阿波国から始まる。一番竺和山霊山寺、二番日照山極楽寺、三番亀光山金泉寺。「ここに四番がある。」四番黒厳山大日寺。桃太郎が先頭に立って、若旦那、ハコさんと一緒になって順に歩く。「この時間になったら二日酔いも治ってきた。」
     「土佐に入りましたね。」「二十九番国分寺がある。」「これで半分でしょうか。」「全部で八十八ですから。」「まだ半分も来てないのか。」土佐は二十四番から三十九番まで。
     「伊予国に入りました。」四十番から六十五番まで。そこに女性陣がやってきた。「どこから入るの。」「あっちにあるよ。」「分からないからここからにする。」六十六番からは讃岐国に入る。七十番代では折り返しのコースが分かりにくく、ちょっと迷った。「こっちにあった。」そして八十八番医王山大窪寺で完了である。二十分程の四国札所めぐりであった。
     「実際に回ると一週間くらいでしょかね。」桃太郎はずいぶん簡単に考えているが、そんなものではない。「一ケ月以上かかるんじゃないかな。」調べてみると、一日三十キロのペースで四十日かかるという。
     本堂の前に戻ると、スナフキンは疲れたように座り込んでいる。「どこに行ってたの」と隊長が訊くので巡礼してきたと答えた。「どこにあるの。」「あっち。」待っていれば良かったろうか。

     隣の寺は道場寺だ。曹洞宗。豊島山。練馬区石神井台一丁目一六番七。この辺りに石神井城の南東の郭があったようだ。長命寺門前と同じように、三波石に寺の名が記されている。建長五年(一二五三)、豊島氏が蘭溪道隆大覚禅師を招いて道場としたのが始まりで、応安五年(一三七二)石神井城主豊島景村の養子輝時(北条高時の孫)が堂宇を整え、豊嶋山道場寺と号した。
     「ここは建物がいろんな時代の様式で作られてるんですよ。」案内プレートを指差して、室町様式の山門、鎌倉様式の三重塔、安土桃山様式の鐘楼、本堂は奈良・唐招提寺の金堂を模した天平様式と説明する。
     しかし小町とマリーが感心するのはそんなことではない。石を刳り抜いて作った護美箱である。「どうやって取り出すんだろうか。」「裏を見てよ。」ポリバケツがそのまま取り出せるようになっているのだ。灰皿まで置いてあるのはエライ。「珍しいよな。」「だからエライ。」
     狭いながら静かな落ち着いた雰囲気の寺である。ここにも増上寺の石灯籠がある。有章院(七代家継)と惇信院(九代家重)だ。「院殿は大名クラスだな。」ハコさんが感心したように呟くのは「有章院殿」を見たからなのだが、有章院は七代将軍の諡号で、殿をつけて戒名になる。「将軍の霊前に捧げた灯篭ですよ。」ついでに将軍の諡号を数えてみた。台徳院(二代秀忠)、大猷院(三代家光)、厳有院(四代家綱)、常憲院(五代綱吉)、文昭院(六代家宣)、有章院(七代家継)、有徳院(八代吉宗)、惇信院(九代家重)、浚明院(十代家治)、文恭院(十一代家斉)、慎徳院十二代家慶)、温恭院(十三代家定)、昭徳院(十四台家茂)。家康にも安国院の号があったが、東照大権現の神号を与えられたので安国院なんて誰も言わない。慶喜にはない。
     「正徳の年号がある。正徳の治で有名だよね」と珍しく隊長が歴史の知識を披露した。「新井白石の頃ですよ。」四歳で将軍職を継いだ七代家継が、僅か八歳で死んだのは正徳六年(一七一六)である。この結果、紀州の吉宗が八代将軍になり、正徳の治世を担った白石と間部詮房は追いやられることになる。

     「あそこにキャベツの碑があるよ。」石神井小学校前の交差点角のJA敷地にある碑を指差した。正確には「甘藍の碑」で、黒御影石の碑の中央に、銀色のキャベツを置いている。これも前回歩いた時の知識だが、練馬大根は既に作られていない。練馬の農産物の代表はキャベツなのだ。
     後ろで桃太郎が何かを口にして小町に笑われている。「なんだって。」「カンランシャはキャベツなのかって言うんだよ。字が違うよね。」
     後は石神井公園駅をめざすだけだ。石神井池の北に沿って歩く。この辺は池が道路のすぐそばまできていて、釣りをしている人が多い。「釣りが禁止されてるのは三宝寺池の方だったね。」こちらは区域を区切って許可されているようだ。元々、三宝寺池から周辺の田に引いた水路だったものを、堰きとめて人工的な池にしたものである。
     池と反対側には豪壮な家が並んでいる。「門が立派だよね。」この辺は高級住宅地なのだろうか。「舞踊の稽古場があるよ。」「花柳流だね。」
     私たちと同じような格好で駅を目指す人が多い。その中の何組かが左の坂道に曲がっていった。石神井駅近道とある。しかし隊長はそのまま真っすぐ進む。漸く駅に着いたのは四時だ。ちょうど良い時間ではないか。少し遅れてきたスナフキンが「花の舞が開いてた」と報告する。最悪の場合は所沢の「百味」でと思っていたが、ここで飲めるならそれでよい。今日はおよそ八キロほど歩いたことになるだろう。

     「あれっ、桃太郎がいない。」スナフキンが捜索に出かけた。「どこへ行っちゃったのかな。」暫くして隊長の携帯電話がなった。「さっき、そっちの電話も鳴ってたでしょう」とマリーに指摘されて確認してみると、確かに電話が入っていた。気付かなかった。電話はスナフキンからで、桃太郎を見つけ出し、花の舞の前で待っているというものだった。
     小町、イッチャン、若旦那が帰っただけで、残るのは七人だ。ハコさんから江戸時代の大工の手間賃はいかほどであるかと問題が出された。ハコさんは月に一両から二両は貰った筈だと言う。私は日に数十文ではないかと応え、桃太郎は蕎麦十杯分として百六十から二百文が適正ではないかと考えた。実に私はいい加減だ。当時は日払いだし、私の頭の中では一両というのは庶民が手に入れられるものではないという先入観があったのだ。この機会にきちんと調べることにした。こういう時に『守貞謾稿』は実に役に立つ。以下、引用はこれによる。

    大坂、大工雇銭定アリ。一日銀四匁三分也。(中略)江戸、大工雇銭無定制。平日、大略銀五匁、或ハ五匁五分也。

     江戸時代を通じて金銀銭の為替相場は変動しているので、どの時点を取るかで違いがあるのだが、計算しやすいように一両が銀六十匁、銭六貫(千)文とする。これが天保の頃の相場だろう。銀五匁は五百文で、十二日働いて一両だから、月に二両というハコさんの説が正しい。大工の日当は五百文から五百五十文である。石工、瓦工、左官も同じだが、他の職人に比べて高いということになっている。
     その下で働く未熟な手伝い人足は「一日雇銭、皆必ラズ自食ニテ、二百八十文を定トス」とある。とすれば、ある程度経験のある普通の職人(大工以外)で一日四百文程度とみてよいのではあるまいか。
     三十代の職人で女房と子供がいるとして、これでどの程度の暮らしができたか。挿絵に、米を入れた桶に「白米大安売」、「中国米百拾六文」「肥後上白百廿四文」の札が描かれているのを見つけた。安売りの米一升が百十六文から百二十四文である。平均して一人三合食べるが、女房幼い子供の三人家族なら少なめに見積もって一日に七合として、およそ八十文とみればよいか。いくつかの統計をみると、味噌醤油塩の調味料と薪炭油等の光熱費合計が、米代のほぼ倍かかっているので百六十文。九尺二間の長屋の家賃が月に銀五匁(五百文)として日割で十七文。これで合計すると二百五十七文である。しかし米と調味料と光熱費だけで人間は生きていけない。

    江戸ハ、朝ニ炊キ味噌汁ヲ合セ、昼ト夕ベハ、冷飯ヲ専トス。蓋、昼ハ一菜ヲソユル。菜蔬或ハ魚肉等、必ラズ午食ニ供ズ。夕飯ハ、茶漬に香ノ物ヲ合ス。

     「江戸ハ、朝ニ炊キ」とわざわざ言うのは、京阪では飯は昼に炊くからだ。どちらも飯を炊くのは一日一回に変わりはないが、京阪では朝が冷飯になる。冬の寒い京阪では、冷飯に水を加えて再加熱して粥にしなければ喉を通らない。江戸では粥を食う習慣がないと、守貞は言っている。
     鬼頭宏『文明としての江戸システム』によれば、江戸時代には摂取カロリーの八十六から九十パーセントは穀物(米、麦、芋、豆)で採られている。極端に炭水化物依存型の食生活だが、米以外の穀物が食えるのは、自給体制がある農村だからできるので、都市生活者は米によるしかない。副菜が味噌汁、一菜、漬物だけだとしても多少はかかる。
     豆腐一丁十二文(江戸の豆腐は大きくて五十文以上のものがあるけれど)、茄子十本で十文、沢庵一本十文、玉子なんか滅多にお目にかかれないが一個二十文。銭湯八文。職人ならば道具にかかる費用があるし、寺子屋の謝礼が年に五貫文として日割で十四文。たまには子供に駄菓子のひとつでも与えたい。髪結いの費用もある。どの程度の頻度か分からないが、一回に男三十文、女五十文程度はかかる。時々は手拭を新調する。手拭一本百文。これら諸費用を入れてざっと考えれば、親子三人で一日三百文というのが、ぎりぎり最低の生活ラインではあるまいか。
     日当が四百文だったとしても、雨で仕事が流れたり病気にでもなったりしたら一文にもならない。雨や正月、節句などを休むと年の平均労働日は三百日に満たない。仮に四百文を三百日貰えば年にちょうど二十両になるが、三百六十日で割れば一日当たり三百三十三文にしかならないのだ。勿論、女房だって遊んでいられないから、賃仕事に精を出さなければならない。
     歌舞伎の桟敷席が二貫文というから、庶民はまず直接見ることなんかできなかった。たとえ二八でも蕎麦を食い、安酒を飲み、たまには水茶屋をひやかしたりできるのは、独身者に限られるだろう。
     それに開国以来、急激なインフレが日本を襲った。諸色は高騰しても日当は上がらない。鬼頭宏の上述の本によれば、一八〇〇年頃に比べ、安政、万延の頃には実質賃金は半減している。「宵越しの金は持たぬ」が江戸っ子の心意気だと言うが、実は持ちたくても持てなかったのではないか。
     「落語の『時そば』って、何文だったのかな」と桃太郎が疑問を口にした。「当然二八だろうね。十六文。」これは間違っていなかったが、ついでに蕎麦の値段の変化も確認しておく。

     又、或書云、二八蕎麦ハ、寛文四年ニ始ル云々。即價十六銭ヲ云也。慶應ニ至リ、諸價頻リニ騰揚ス。依之江戸蕎麦賈、請官テ價ヲ増シ二十銭トシ、又、尋テ二十四銭トナル。故ニ、招牌類ノ二八ヲ除ク、江戸然リ、京坂モ恐クは同ジカラン。然モ二十四銭ニナリシカド、三八トハ云ズ。

     幕末にはかつての二八蕎麦も二十四文になっていたわけだ。「三八トハ云ズ」と言うのがおかしい。そしてこれをみると、蕎麦の値段はお上の許可が必要だった。これが最も安価低級な蕎麦であったのは、「従来二八、後に二十四文ノ物ヲ商フヲ、駄蕎麦ト云。駄ハ惣テ粗ヲ云ノ俗語也。」という記述から分かる。今ならば立ち食いの蕎麦程度だろう。
     挿絵に描かれた品書きを見てみると、年代は不明だが蕎麦(カケかモリ)が十六文の時、御膳大蒸籠が四十八文、天麩羅(芝海老)三十六文、しっぽく(現在のおかめか)二十四文、玉子とじ三十二文、上酒一合四十文などとある。このメニューなら一文が二十円程度と考えてよいだろうが、酒が四十文とはかなり高い。
     そして、実は思い出せばもっと恥ずかしいことも私は言ってしまった。ハコさんが一両は四分、一分は四朱と正しく発言したのに、私は何を考えていたのか、一両は四朱なんてアホなことを口走ってしまった。謹んで訂正致したい。酒が入ると私は実にいい加減な発言をしてしまうことが分かった。私の言うことを簡単に信じないことを願う。
     六時過ぎまで、焼酎は二本開けたのだろうか。その後、スナフキンと秋津で降りて日本酒を飲んだ。翌朝気づくと、右手の拳に二ヶ所と膝に擦り傷がついていた。少し飲みすぎである。

    蜻蛉