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    平成二十五年六月二十二日(土) 足利

    投稿:   佐藤 眞人 氏     2013.06.29

     旧暦五月十四日。昨日で二十四節季の夏至に入った。今週は台風の影響で西日本は記録的な豪雨に見舞われたが、埼玉県はそれ程でもなかった。昨日少し雨が多かったくらいだろうか。今日は晴れの予報だ。それにしても毎年のように「記録的な豪雨」が見舞うのでは、この先この列島は一体どうなってしまうのだろう。
     足利は前から来たいと思っていた町で、千意さんが企画してくれたのは有難い。但し遠い。鶴ヶ島発七時三十七分の電車に乗らなければならないので『あまちゃん』が見られなかった。今日はアキとユイちゃんが東京へ出発する日なのだ。(結局、ユイちゃんは出発できなかった。)
     川越、大宮を経由し、久喜で八時四十一分発の東武伊勢崎線太田行きに乗り換える。十時に間に合わせるにはこれしかないから、たぶん皆も乗っているだろう。乗り込んだ車両で座っているマリーと目があった。「これって各駅停車なの。」「確か区間急行の筈だと思ったけどね。」念のためにドアの上の路線図を見ると、駅間を省略するのは北千住と東武動物公園の間だけで、それ以外の区間は各駅に止まるのだ。
     土曜日だというのに高校生が多くて座席はあいていない。大きなバッグを通路に放り出す。大声で愚にもつかない話をする。五人掛けられる座席なのに大股を開いて三人で占領する。高校生のマナーの酷さは毎日の経験で分かっているから驚きはしない。注意するのも面倒だが、一時間近くも立っているのは嫌だから、その高校生の間を少し開けさせて座席に着いて本を取りだした。
     沿線には麦畑と水田が広がっている。足利まで一時間近くかかるのは、単線だから上下線交換でしょっちゅう停車するためだ。いつの間にか高校生の姿は減って、車内はすいてきた。そこにドクトルがやって来て隣に座った。後ろの車両から少しづつ前に移動してきたらしい。と言うことは、ほかの連中はここより前に乗っているのだろう。
     「カナダはどうでした。」「面白かったよ。」男三人、ダブルベッドの部屋に補助ベッドを入れ、ケチケチ旅行をしてきたらしい。「向うじゃ当り前なんだ。」かなり大きいダブルベッドだということだが、いくら親しくても男同士で寝るのはイヤだな。「山小屋に泊まることを思えば何でもないよ。」そういうものか。
     足利市駅に着いたのは予定通り九時三十四分で、家を出てから二時間十五分かかったことになる。遠いことは遠いが、昔、千歳船橋まで通っていた頃もこれに近い時間がかかっていたから、それを思えば遠すぎる程ではない。前の車両からは今日のリーダーの千意さんをはじめ仲間が降りてきた。「ずっとオサムちゃんと一緒に喋って来たよ」とスナフキンは言う。
     浅草から伊勢崎まで駅は五十五あるが、栃木県内(その中でも足利市だけ)を通るのは、ここを含めて五つの駅だけだ。館林から北西にほぼ真っ直ぐに走って足利市駅に着いた伊勢崎線は、これで栃木県には用はないと言わんばかりに、逆V字を書くように南西に向かう。館林から真っ直ぐ太田へ向かえばこんな不自然な図は描かなくて済むのだが、よっぽど足利を通りたくて無理をしたように見える。
     「桃太郎は五十九分に着く特急で来るそうです」と千意さんが教えてくれる。彼は海老名だから、おそらく代々木上原から千代田線に乗り換えて北千住に出る筈だ。私は特急なんて最初から頭にないが、調べてみると北千住からここまで特急料金は千円かかるではないか。現役サラリーマンの桃太郎でなければとても使えない。
     オサムは初めて里山に参加したので隊長に紹介すると、「知ってるよ」と言われてしまった。「府中で一緒だったよね。」そうか、千意さんが企画した江戸歩きの府中編の時だった。「それより、スナフキンの友達が来るんじゃなかったかな。」それがオサムのことだ。
     「ここにワインが売ってる。ココ・ファーム。沖縄サミットと洞爺湖サミットに提供されました。」千意さんの言葉でスナフキンがデイリーヤマザキに入って行ったが、あいにく売切れていたらしい。私は足利とワインなんて想像もしなかった。
     観光案内所で仕入れたパンフレットをみると、知的障害者入所更生施設「こころみ学園」が経営するワイナリー「ココ・ファーム」で造られるものだ。赤が千八百円、白とロゼが千六百円、その他にも色々あるが、サミットに提供されたというスパークリングが七千五百円である。

     平均斜度三十八度のこの葡萄畑は、陽当たりや水はけがよく、葡萄にとっては最良の条件です。しかし、耕運機やトラクターが使えず、人間の足で登り降りするしかありません。剪定後の枝拾いや、堆肥を運びあげる仕事、一房一房の摘房作業、そしてかごをかかえての収穫・・・全ての作業が、自然のなかでの労働を通して、自らの力をつけ、その力をもとに自然の恵みを引き出していくことでもありました。そんな毎日の暮らしのなかで知恵遅れと呼ばれ続けてきた少年たちは、知らず知らずのうちに寡黙な農夫に、陽に灼けた葡萄畑の守護人に、醸造場の働き手になっていきました。(中略)
     しかし、葡萄を育てワインを醸す仕事に、名もない(自分の名前さえ書けない)人たちが中心になって取り組んできたことを・・・どんなに辛くても、一年中空の下でがんばってきた農夫たちがいることを、ひそかな誇りに思っています。ここにご紹介するワインは、葡萄づくりに、ワインづくりにがんばってきた知的障害の仲間たちが、のんびりと葡萄畑で自分にあった仕事―草取りや、石拾いや、カラス追い―をしながら、自然に囲まれて、安心して年をとっていけますよう、そんな願いが込められています。(「こころみ学園だより」http://www.cocowine.com/cocoromi/cocoromi.html)

     昭和三十三年(一九五八)、中学校特殊学級の担任だった川田昇が、生徒たちと一緒に急斜面を開墾してぶどう作りを開始したのが始まりだった。やがて四十四年(一九六九)に川田は中学校を辞職し「こころみ学園」を開園する。五十五年(一九八〇)学園の理想に共鳴する卒園生の保護者からの出資金二千万円を得て、ココ・ファーム・ワイナリーを設立した。そして今では、サミットに提供するワインを作るまでに至るのである。
     農林水産政策研究所も「障害者の農業分野への本格的進出の草分け的な存在」として紹介している(http://www.maff.go.jp/primaff/kenkyu/Syogaisya/pdf/111101.pdf)が、これは障碍者教育と労働の確保の実践例としても、もっと宣伝して良いのではないだろうか。
     「最中も名物だよ。」小町もこの辺りには詳しくて、香雲堂の「古印最中」というのを紹介してくれる。「そのあし・ナビ(足利観光交流館)にあるよ。アリバイに買っていけばいいじゃないの。」ロダンと違って私にはアリバイの必要はない。「いつもお弁当作って貰ってるんでしょう。たまにはお礼をしなくちゃいけないよ。」私は妻の健康と体重を考えて、甘いものは買わないようにしているのだ。天井近くに巣があって、ツバメが数羽飛んでいる。
     そして桃太郎が時間通りにやって来た。「最初、新幹線で小山まで出ようかと思いましたよ。」しかし、それだと両毛線の足利に行ってしまうので不便なのだ。集まったのは千意さん、小町、マリー、隊長、ハコさん、ドクトル、ドラエモン、スナフキン、桃太郎、オサム、蜻蛉の十一人である。姫からは急な体調不良で欠席するとメールが入った。残念なことだ。ロダンも折角一日券を貰ったのに風邪を引いてしまったのは勿体ない。宗匠はまだ勉強が忙しいのか。イトはん、カズちゃんの姿が見えないのも淋しい。ダンディはオーストリアに行っている筈だ。
     リーダーの挨拶に続いて、地元で生まれたというハコさんが一言述べる。足利は織物の町で、ハコさんが中学生の頃には「休日には織り子さんがいっぱい河原を散歩していた」らしい。花火も北関東では有数の名所だと言う。隊長は天気図を広げて今日の天気を説明してくれるのだが、私にはよく理解できない。上空の寒気と地上の気温との差がそれほどないので、雷が落ちる確率はそれほど高くないと言っているようだ。(間違っていたらゴメンなさい。)

     駅を出ればすぐ北には渡良瀬川が東西に流れている。正面に見える緑色のアーチが三連つながっているのは中橋だ。これを渡れば足利市の中心部に出る。JR両毛線が走るのもそちら側だ。かつては川の北側までが旧市街地で、南側の町村部との境となっていたのだが、南部の町を吸収して市域が広がったために、現在では渡良瀬川が市の中心部を分断するようになった。この辺りが関東平野の北端であり、北に行くにつれて標高は高くなって足尾山地につながっていく。
     初めて来た町で地理的な感覚もないので地図を確認しておかなければならない。足利市は栃木県の南西の端に位置し、東には佐野市、西には群馬県の太田市、桐生市、南に館林市と隣接する。この一帯を両毛地区と呼び、古くから文化経済の結びつきの強い地域だ。「シルクロードなんだよ。」「そうだね。」
     尤も「両毛」には上野と下野両国を合わせた意味もある。古代の毛国(毛野国)である。出雲族の一派がここに定着して大きな勢力を広げ、毛野国を造ったと推定されているが、それがいつ頃二つの国に分かれたのかは記録がない。
     先頭を歩く千意さんは道路から一段下がった緑地帯に降りていく。花壇も整備された河川敷公園だ。草を踏みながら上流に向かう。「足元に注意してください。ネジバナがありますよ。」小町が声を掛けてくる。「ネジバナッて、どんなのだ。」螺旋状に捻じれたように咲くからネジバナだ。シロツメクサばかりが目立つが、赤いネジバナもいくつか見つけた。
     「ここで風邪を引いたんですよ。」それは何だ。「森高千里の歌にあるのです。」それは何者であろうか。「父親はミュージシャン、夫は江口洋介です。」「足利の出身なのかい。」「違います。大阪生まれの九州育ちです。」
     「絶対知らないと思ったよ」とマリーに言われるまでもなく、私の知識の範囲には全く入っていない。しかし浪漫派のリーダーは「千意と千里の夢物語」をキャッチフレーズにしているから、取り敢えずその歌を知らなければ始まらない。「そのパンフレットにありますよ。」さっき千意さんが配ってくれた足利市観光案内の「渡良瀬橋を訪ねて・・・」というパンフレットを開いてみると、こういう詞だ。

    渡良瀬橋で見る夕日を あなたはとても好きだったわ
    きれいなとこで育ったね ここに住みたいと言った
    電車にゆられこの街まで あなたは会いに来てくれたわ
    私は今もあの頃を 忘れられず生きてます

    今でも八雲神社へお参りすると あなたのこと祈るわ
    願い事一つ叶うなら あの頃に戻りたい

    床屋の角にポツンとある 公衆電話おぼえてますか
    きのう思わずかけたくて なんども受話器とったの

    この間 渡良瀬川の河原に降りて ずっと流れ見てたわ
    北風がとても冷たくて 風邪をひいちゃいました

    誰のせいでもない あなたがこの街で
    暮らせないことわかってたの
    なんども悩んだわ だけど私ここを
    離れて暮らすこと出来ない

    あなたが好きだと言ったこの街並みが
    今日も暮れてゆきます
    広い空と遠くの山々 二人で歩いた街
    夕日がきれいな街(森高千里作詞、斎藤英夫作曲『渡良瀬橋』)

     「渡良瀬川って言えば田中正造と荒畑寒村しか思い浮かばないな。」私もスナフキンと全く同じで、かつて谷中村の墓地の跡を訪れたときの荒涼無残な光景は忘れられない。渡良瀬、足尾、谷中村と聞くだけで、胸の奥がザワザワする。
     しかし昭和四十四年生まれの森高には、足尾の鉱毒も田中正造も荒畑寒村も何もない。時代は変わったのだと、古老になった気分を味わうしかないのか。それにしても驚くのは、千意さんがこんな歌を知っていることで、同じ世代なのにこうも趣味が違うのはどうしてだろう。そう言えば、府中散策を企画した時はユーミンをテーマにしていたから、千意さんはこの手の曲が好きなのだ。
     千意さんは帽子の下にタオルを垂らしている。日射しがきつくなってきて、私もリュックからタオルを取り出して首に巻いた。「これが渡良瀬橋です。」緑地帯の遊歩道から道に上がり、橋の南詰で渡ると石造りの鳥居があり、そこから小さな山に登る階段が続いている。足利富士浅間神社の女浅間(下宮)である。千意さんの企画には、ここからやや南にある男浅間も記載されていたが、今日はそこには行かない。
     途中に「民俗文化財 ペタンコ祭」の案内板が立っていた。「有名ですよ。」六月一日の山開きの際に赤ん坊の額に御朱印を押すのである。「女の子はここで、男の子は男浅間(上宮)にお参りします。」江戸時代中期、渡良瀬川は頻繁に氾濫し、飢饉や疫病に悩まされて乳幼児死亡率が異常に高かったらしい。それで子供の息災を祈るために始まったのがペタンコ祭である。

    当神社は、天喜二年(一〇五四年)藤原秀郷公七世の孫藤原姓足利氏の祖従五位下足利大夫成行公が足利城築城に際し勧請されたと伝えられております。
    古来より足利富士として信仰され、上の宮と下の宮との二社から成り、上は男浅間、下を女浅間と称し崇拝されております。
    現在の上の宮は、昭和十年に改築され、下の宮本殿は平成七年に改築されました。
    初山祭(ペタンコ祭)は足利市重要文化財民族文化財に指定されております。(由緒)

     「私も女の子だからね、ちゃんとお参りするよ。」じぇじぇー。小町を「女の子」と呼ぶには相当の勇気が必要だ。ところで「藤原姓足利氏の祖」という記述に注目して欲しい。この由緒に書かれた足利成行は、私たちにお馴染みの源姓足利氏とは何の血縁もないので注意が必要だ。私は二種類の足利氏が存在することを知らなかった。
     河内源氏の足利氏が土着する以前、この地方は将門の乱を鎮定した藤原秀郷の子孫が領有し、足利氏を称していた。それが藤原姓足利氏であり、成行、家綱、俊綱、忠綱と続く。やがて源姓足利氏が進出して地頭職を争ったが、余りにも平氏政権に密着し過ぎていた。頼朝挙兵当初から従っていた源姓足利氏と違って、藤原姓足利氏の本流は最後まで平氏に加担したために滅ぼされてしまうのだ。
     ついでに言えば、源姓足利氏は八幡太郎義家の四男(三男との説もある)義国が足利庄を本貫としたことに始まる。義国の次男である義康が足利庄を継いで足利氏を名乗り、長男の義重は上野国新田庄に移って新田氏の祖となった。長男が本貫の地を継げなかったのは父に嫌われたためだろう。
     その時から新田氏には運の悪さが付き纏っている。頼朝挙兵の当初には日和見を決め込んで、頼朝の勢力が強大になってから漸く参加しても全く評価されず、逆に遅参を咎められてしまう。その後の対応も上手くなかったから、鎌倉時代を通じて無位無官で上州の田舎に逼塞しなければならなかった。
     足利氏が北条得宗家や有力御家人と縁を結び、源氏三代が滅びた後の源氏の棟梁の位置を自然に占めるようになったのとはエライ違いが生じてしまったのである。後に足利尊氏と新田義貞が争った際、武士の多くが尊氏に加担したのは、新田は武士の棟梁たるべき家とは思われていなかったせいもある。
     道を曲がりこみ、二の鳥居から真っ直ぐに登る石段の正面が拝殿だ。「これって珍しいね。」八畳ほどの舞台になっているのが普通には見ない形だ。柱に「拝礼のしかた 二礼二拍手一礼」の紙が貼ってあるから、拝殿に間違いないだろう。そうか、これがペタンコ祭の会場になるのだね。その先の石段の上に玉垣に囲まれた本殿があった。
     スナフキンが帽子を脱いで丁寧に拝礼するのには、いつものことながら感心する。しかし横に回ってみると「食行身禄御霊前」という石碑があったので、私の関心はこちらに集中してしまう。富士塚はいくつか見ているし、食行身禄が富士講中興の祖であることも知っているが、実際にその供養碑を見るのは初めてなのだ。川上講が造立したものである。
     「誰なの、それ。」つい二週間前に鳩ヶ谷で小谷三志を見たばかりではないか。全く学習というものをしていない。「身禄の三女の夫に入門したのが三志。」「それって関係ないってことじゃないの。」私の説明もブッキラボウだったか。富士講は身禄の弟子を称した連中から分派が広がったが、その中でも小谷三志は身禄直系とも言えるのだ。

     下に戻って渡良瀬橋を渡る。車専用道からやや下がったところに歩行者専用道が造られている。暑くなってきた。川を覗き込むと、水量は少ないが比較的きれいで底の石ころが見える。「アオサギだ。」千意さんが指さす方を眺めると、中州になった場所に青っぽい鳥が佇んでいるのが見える。肉眼ではよくわからないが、隊長と双眼鏡を覗き込んだドラエモンもアオサギだと認定したから間違いない。
     橋を渡って川を左に見ながら歩く。河原では子供たちがサッカーボールで遊んでいる。「あれが織姫神社です。」右手の山の中腹に豪華な社殿の屋根が見える。あそこには後で行く筈だ。この辺りで川から離れるが、川に沿う方には自転車専用道路が延びているようで、ヘルメットを被りスポーツタイプの自転車の男がやって来る。「今度は自転車コースを考えてもいいですね。」それは千意さんが企画してくれるだろう。信号のない交差点を慎重に渡り、両毛線を潜る地下道に入った。
     地上に出ると「冷蔵庫良かったでしょう」と千意さんが笑う。今日のような日には確かに地下道の涼しさは気持ち良い。八雲神社に着いた。足利市緑町一丁目三七七六番地。鳥居の貫に渡された注連縄に房が四つ垂れているのはちょっと不思議だ。七五三縄とも書かれるように、房の数は奇数と決まっているのではないだろうか。
     千意さんの案内文では二番目と四番目に八雲神社が登場する。「これって重複してるんじゃないの。」「ウウン、別のものなの。」足利市内には八雲神社が五つあるのだそうだ。提灯には「足利総鎮守 総社八雲神社」とある。ここも森高の歌に出てくる「名所」だ。鳥居脇の案内板に括弧書きで牛頭天王と注記してあるので、かつてはスサノオ=牛頭天王を祀ったものだと分かる。
     由緒によれば貞観十一年(八六九)、清和天皇の勅定によって京都の八坂神社(祇園社)、尾張国の津島神社(天王社)とともに、東国第一勅願所として創建されたというから古い。いずれも牛頭天王を祀る神社で、何かあったのではないかと調べてみると、貞観十一年とは陸奥国に大地震が起きた年であった。

     (貞観十一年五月)廿六日癸未。陸奥国地大震動。流光如昼隠映。頃之。人民叫呼。伏不能起。或屋仆圧死。或地裂埋殆。馬牛駭奔。或相昇踏。城郭倉庫。門櫓墻壁。頽落顚覆。不知其数。海口哮吼。声似雷霆。驚濤涌潮。泝徊漲長。忽至城下。去海数十〔千〕百里。浩々不弁其涯涘。原野道路。惣為滄溟。乗船不遑。登山難及。溺死者千許。資産苗稼。殆無孑遺焉。(『日本三代実録』)

     産業技術研究所によれば貞観の大地震はマグニチュード八・四以上と推定されている。津波は海岸線から四から五キロに及んで押し寄せ、陸奥国府である多賀城下でも千人の溺死者が出た。推定される震源域は三・一一に類似すると言われる。
     清和天皇は不運なひとで、絶え間ない天変地異と事件に脅かされた。年表から拾ってみると、貞観三年(八六一)には直方隕石が落下した。目撃情報の残る世界最古の隕石である。五年には越中越後で大地震が起き、六年から八年にかけて富士山が大噴火した(貞観大噴火)。八年に応天門炎上事件で伴善男が失脚し、藤原良房(北家)の権力が盤石となった。九年には阿蘇山の噴火、十年に播磨、山城、摂津で地震が起き、十一年には各地で疫病が流行した。
     もはや神仏に頼るしか手立てはなく、最も強力なスサノオの荒魂(牛頭天王)を三か所に祀ったのである。しかし天の怒りは収まらない。十三年に出羽国鳥海山が噴火、十六年に薩摩国開聞岳噴火、元慶二年(八七八)武蔵国相模国に大地震、四年には出雲国大地震と続く。
     これで世を儚んだものか、九歳で即位した天皇は貞観十八年(八七六)、二十九歳で突然譲位した。この清和天皇の皇子、孫からは十六人が臣籍降下して源氏を名乗ったが、中でも第六皇子貞純親王の子の経基王に始まる流れが、武家の清和源氏を生み出すことになる。
     そういう事情と全く関係はないが、この神社は昨年の十二月に放火によって本殿を焼失した。石段の前に鉄パイプで四角い枠を作っているのは、茅の輪潜りの準備だ。十数段の石段の上に鳥居が建ち、その正面には拝殿が建っている。手水舎は焼け残ったようだ。
     裏に回ると何もない境内はかなり広い。奥の石垣で囲って一段高くしてある場所に本殿があったのだろうか。石垣の下には表面が焦げた大きな丸太が一本横たえてある。その右に白い大黒像だけが残っているのが、いささか場違いのように見えてしまう。石祠、庚申塔、宝筺印塔の部品、五輪塔などが数か所に纏められているのは、末社、摂社の位置になると思われる。「泰山木だね。」「あんなに大きく。」白くて実に大きな花が咲いている。

     「それじゃ古墳を見に行きましょう。」隣接する足利公園には十基の古墳が残されているのだ。「ようこそ足利公園古墳群へ」と書かれた案内図をみると前方後円墳が一基、残りはすべて円墳である。「古墳っていつの時代の古墳なんだい。」古墳が造られた時代を古墳時代と一般には呼ぶだろう。千四百年前と書かれているから、それが正しければ七世紀初めである。「飛鳥時代か。古墳時代の末期だね。」ハコさんがこういうことに詳しいとは知らなかった。西日本では前方後円墳は六世紀末を最後に造られなくなったが、関東では七世紀に入ってから造られたものもある。
     「水戸光圀が『大日本史』を編纂した時に古墳を調べたんだね。」ハコさんがドクトルに説明している声が聞こえる。盗掘や遺物の趣味的なコレクションはあっても、発掘調査は明治になるまで行われなかったというのが常識ではないだろうか。近代考古学史によれば、明治十九年(一八八六)の坪井正五郎によるこの古墳の発掘が、日本での本格的な学術調査の最初である。
     ところが元禄五年(一六九二)、水戸光圀が那須の侍塚を発掘調査し、出土物はすべてスケッチしたあと再び丁寧に埋葬したのも古墳発掘調査の嚆矢とされている。『大日本史』の功罪はあるが、なかなか良いこともやっているのだ。
     「出土した遺物なんかはどうしたのかな。」「市立博物館とかに収めてあるんじゃないの。」実は東京国立博物館が所蔵している。
     起伏の多いゴルフ場を歩いているような雰囲気だ。尤も私はゴルフ場なんか行ったこともないから、想像するだけだけれど。古墳と言うと単独で塚を築いたものを連想するが、ここは山の中腹や頂上に、その斜面を利用していくつもの横穴式石室を造り、その場所を盛り上げたもののようだ。群集墳というものだろうか。十一号墳の横から草に覆われた丘を登って行く。「これが前方後円墳だな。」円部は割に小さいが、全長三十四メートルの第三号墳である。カメラを構えてみたが上手い具合には撮れない。空から見なければ全体像は把握できないようだ。
     九号、八号、五号墳の脇を通り抜けると、前方はかなり高くなっている。「ここからが最後の急斜面です。」一番北側のかなり急角度な草むらを登る。これは大きな第二号墳である。頂上に立つと気持が良い。北には山が連なり、東は平野が広がっていて、足利の町が一望できるようだ。まだ下の方で立ちすくんでいる小町には桃太郎が随っているが、頂上まで登るのを諦めた。「そっち、左に回ってください。」千意さんが指示をする。

     下に降りて行くと、右手斜面に広がる墓地の方から読経の声が聞こえてきた。観光案内の地図に記されていないが福厳寺である。足利市緑町一丁目三二七〇番地。臨済宗建長寺派。寿永元年(一一八二)足利又太郎忠綱を開基として創建されたとされる寺だ。千意さんのコースには入っていないが、足利又太郎の名前には覚えがあったので、ちょっとだけ寄り道して『平家物語』を読んでみたい。
     この忠綱はさっきも触れたように藤原姓足利氏四代である。治承四年(一一八〇)、源頼政が以仁王の平家追討の令旨を掲げて挙兵した際、十七歳の又太郎は父俊綱と共に平家の陣に加わった。場所は宇治川に架かる宇治の橋である。

    平家の方の侍大将上総守忠清、大将軍の御前に参り、「あれ御覧候へ。橋の上の戦、手いたう候。今は川を渡すべきにて候ふが、をりふし五月雨の比、水まさつて候へば、渡さば馬・人多く亡び候ひなん。淀・一口へや向ふべき。又河内路へや廻るべき。いかがせん」と申しければ、下野国の住人、足利又太郎忠綱、生年十七歳にてありけるが、進み出でて申しけるは、「淀・一口・河内路へが、天竺・震旦の武士を召して向はれ候はずるか。それも我らこそ承つて候はんずれ。目にかけたる敵を討たずして、宮を南都へ入れ参らせなば、吉野十津川の勢ども馳せ集りて、いよいよ御大事でこそ候はんずらめ。武蔵と上野の境に、利根川と申す大河候。秩父、足利、中違うて常は合戦を仕り候ひしに、大手は長井の渡、搦手は故我・杉の渡より、寄せ候ひしに、ここに上野国の住人、新田入道、足利に語らはれて、杉の渡より寄せんとて、設けたりける舟どもを、秩父が方より皆破られて申しけるは、ただ今ここを渡さずば、長き弓矢の疵なるべし、水に溺れても死なば死ね、いざ渡さうとて、馬筏を作りて渡せばこそ渡しけめ。坂東武者の習ひ、敵を目にかけ、川を隔てたる軍に、淵瀬嫌ふやうやある。この川の深さ早さ、利根川に幾程の劣り優りはよもあらじ。続けや殿ばら」とて、真先にこそうち入れたれ。(『平家物語』橋合戦の事)

     頼政の軍は宇治橋の橋板を落とした。川は五月雨で増水している。平家の侍大将藤原忠清は迂回を考えたが、又太郎が反対した。利根川を渡った坂東武者である。宇治川が渡れぬ筈がないと豪語して、真先かけて川に馬を乗り入れた。

     足利がその日の装束には、朽葉の綾の直垂に、赤革縅の鎧着て、高角打つたる甲の緒をしめ、金作の太刀を帯き、二十四さいたる切斑の矢負ひ、滋藤の弓持つて、連銭蘆毛なる馬に、柏木にみみづく打つたる金覆輪の鞍置いてぞ乗つたりける。鐙踏張り立ち上り、大音声を揚げて、「昔朝敵将門を亡して、勧賞蒙つて、名を後代に揚げたりし、俵藤太秀郷に十代の後胤、下野国の住人、足利太郎俊綱が子、又太郎忠綱、生年十七歳にまかりなる。かやうに無官無位なる者の、宮に向ひ参らせて、弓を引き矢を放つ事は、天の恐れ少なからず候へども、但し、弓も矢も、冥加の程も、平家の御上にこそ留り候はめ。三位の入道殿の御方に、我と思はん人々は、寄り合へや。見参せん」とて、平等院の中へ、攻め入り攻め入り戦ひけり。(同)

     無位無官の十七歳の少年が、こうして先陣を切って功を立て歴史に名を残し、敗れた源三位頼政は自害する。平家が亡びるためにはまだ機が熟していなかった。
     しかしこの戦いで名を上げた忠綱も、この寺を創建した翌寿永二年(一一八三)には野木宮(都賀郡野木町)で頼朝方の小山朝政に敗れ上州に敗走し、その後の消息は不明となった。こうして藤原姓足利氏の本流は亡びた。
     緑町配水場の横を抜けて六七号線に出ると正面に見えるのが常念寺だ。足利市通七丁目三〇九四。康治二年(一一四三)に創建されたと言われるが、その後長く荒廃していたため、一遍上人の法孫が再興したという。ただ「法孫」というだけで名前も分からない。
     通七丁目の交差点で道を渡った角が次の目的地だった。「この床屋と公衆電話です。」床屋の角には通七丁目自治会の掲示板が立ち、「森高千里来店」とA4の紙一枚に一字づつ書いて貼ってある。何の変哲もない電話ボックスだが、ほとんど街中で見かけない時代になってしまうと妙に気になる。ただ中にある電話は比較的新しいタイプではないだろうか。
     「床屋の角にポツンとある 公衆電話おぼえてますか きのう思わずかけたくて なんども受話器とったの」なんて歌われて、足利名所になってしまった。もう十年もすれば、公衆電話なんていうものも死語になってしまうかも知れない。取り敢えず写真を撮っておくか。「別に写真撮るまでもないだろう。」スナフキンが笑う。
     そこに床屋から主人が出てきた。「よろしかったら、これどうぞ。」パンフレットを何枚も持っている。これは既に千意さんから配られて、さっき歌詞を確認している。「公衆電話は使われてるんですか。」「利用者は結構いますよ。」真偽は不明だが、NTTとしては撤去したいのに、折角の観光資源だと足利市が反対しているという。床屋の名は尾沢理容店。足利市通七丁目三一四三番地である。
     しかし公衆電話の歌なら松山恵子ではないかと私は思ってしまう。余りにも感覚が古いか。

    なにも言わずに このままそっと
    汽車に乗ろうと 思ったものを
    駅の喫茶の 公衆電話
    いつかかけていた 馬鹿ね馬鹿だわ
    私の未練 さようなら さようなら
    お別れ電話の せつないことば(『お別れ公衆電話』(藤間哲郎作詞、袴田宗孝作曲)

     昭和三十四年の歌だから、これは赤電話だろうね。今では完全になくなってしまったものだ。と言うより、ダイヤル式の電話自体が滅び、あらゆるものがデジタル化してしまったのだ。滅びたものは全て懐かしい。それに「汽車」自体が死語だった。

     日盛りや公衆電話を撮る男  蜻蛉

     「この道には電線がありません。」県道六七号線(中央通り)は旧市内のメインストリートなのだろう。向かい側には、黒板を貼り付けた蔵と黒瓦の二階家の間に、屋根つきの立派な門を持つ家がある。
     やがて八雲神社に来た。足利市通五丁目。長い参道が一直線に続き、拝殿まで見渡せる。こちらの祭神は奇稲田姫で、さっきの総社を男八雲(上社)と呼び、それに対して女八雲(下社)と呼ばれる。鳥居の脇の大きな銀杏が市の天然記念物に指定されているが、その他には特に見るべきものはなさそうだ。
     裏から出れば、すぐに北仲通りの織姫神社前の交差点だ。信号脇に鳥居が建ち、長い石段には擬宝珠付きの朱塗りの手摺がついている。足利市西宮町三八八九。「二百二十九段あります。」結構登り甲斐がある。小町は大丈夫だろうか。姫は来られなくて正解だったかも知れない。「お昼が待ってますから頑張りましょう。」
     縁結びの神とされているのは、天御鉾命と天八千姫命のペアを祭神としているかららしい。どうした訳かオサムは独身だと思われて、「ちゃんとお参りしなくちゃね」なんて言われている。子供が二人もいる男だぞ。
     天八千姫命は天棚機姫神の孫である。度会神道の『倭姫命世記』では、倭姫命の命で伊勢神宮の機屋で天照大神の衣服を織ったとされている。

     垂仁天皇の二十五年丙辰春三月、(倭姫命は)伊勢の百船度会国の玉綴伊蘇国に入り座す。即ち神服織社を建て、太神の御服を織らしむ。麻続機殿神服社、是なり。(此処より始在、伊雑宮と号ふ)。
     然後、神の誨に随に神籬を造り建つ。丁巳年冬十月甲子、五十鈴川上の後に遷し奉る、清麗膏地を覓めて、和妙の機殿を五十鈴の川上の側に興し、倭姫命を居らしむ。時に天棚機姫に太神の和妙御衣を織らしめ給へり。是の名を礒宮と号ふ。(中略)
     ・・・・天棚機姫の裔 八千姫命をして、毎年夏四月・秋九月に神服を織らしめ、以ちて神明に供ふ。故、神衣祭と曰ふ也。

     それが織姫であると言われれば納得するが、ペアにされる天御鉾命が分からない。織姫神社では服部(機織部・ハトリベ)の祖神と言っているのだが、ネットを調べても関連する記事が見つからず追跡ができない。もしかしたら天日矛のことではないか。アメノヒボコは新羅の王子であった。逃げた妻を追って日本まで来たが、巡り合うことができず、但馬国に住み着いて現地の娘を妻にした。織姫とは何の関係もない。
     踊り場で一息入れると、右手に何かの顕彰碑が見えた。飯塚啓太郎(大正・昭和期の足利織物業界の指導者)、織物組合初代理事長・吉田孫三郎、二代理事長・殿岡利助、三代理事長・三田禧三郎、足利トリコットの歴史。
     トリコットとは何か。そんなことも知らないのかと言わないで下さい。一般常識が欠けているのはハナから分かっているのだ。要するにメリヤスであるらしい。メリヤスなんて今では誰も口にしないが、ジャージーもニットも同じものだ。銘仙で全国に名を知られた足利だったが、それが衰退してからは、トリコット(編み物)業に転換したのである。トリコット団地、トリコット通りなどの名が残るが、それも今では見る影もなくなっているらしい。

     足利市は、昭和二十二年から四十年代後半に至る間、トリコット(経編メリヤス生地、および当初「足利ジャージー」、後半スリップ・ネグリジェなどの製品)の生産額で日本最大であった歴史をもつ。(中略)
     昭和四十四年以降、日米間に「繊維摩擦」、「ドルショック」、「円高」などが発生し、トリコットの輸出は絶たれた。またこの頃から国内需要の主力商品であったスリップ・ネグリジェの需要が消えた。(「足利トリコットの歴史」碑より)

     そう言えば、スリップとかネグリジェなんて言うのも耳にしなくなった。そうか。ここで気づくのだからつくづく私の感度は鈍い。つまりこの神社は、足利の繊維業界が繁栄を祈願して建てたものなのだ。但し創建は宝永二年(一七〇五)だから、その頃から足利では織物業が盛んになっていたのだろう。勿論その時点でマニュファクチュアが始まっていたわけではなく、問屋制家内工業の段階だったと思われる。日本のマニュファクチュア段階については、かつて講座派と労農派との間で資本主義論争が繰り広げられたが、おおよそ天保期と見られている。
     江戸時代には通四丁目の八雲神社の境内社として祀られていた。明治十二年に現在地に遷座したものの、翌十三年に火災で焼失し、昭和昭和九年から三年かけて、当時としては珍しい鉄筋コンクリートの社殿を完成させたのである。
     しかしこの時点で私は全く分かっていない。足利織物はせいぜい近世に始まると思っていたのだが、色々探してみると徒然草に出てくると教えられる。

     最明寺入道、鶴岡の社参の次に、足利左馬入道の許へ、先づ使を遣して、立ち入られたりけるに、あるじまうけられたりける様、一献に打ち鮑、二献に海老、三献にかいもちひにて止みぬ。その座には、亭主夫婦、隆辨僧正、主方の人にて座せられけり。さて、「年毎に給はる足利の染物、心もとなく候ふ」と申されければ、「用意し候ふ」とて、色々の染物三十、前にて、女房どもに小袖に調ぜさせて、後に遣されけり。(『徒然草』二百十六段)

     北条時頼は、「毎年もらう足利の染物が待ち遠しい」と足利義氏に催促しているのである。義氏は時頼にとっては義理の叔父に当たる。酔った勢いでのオネダリではあるが、鎌倉時代から足利の着物は有名だったことが分かる。それなら、両毛地区の養蚕もこの時代には確立していたことになり、古代の調に遡ることが出来るかも知れない。
     小町が荒い息を吐きながら登ってきた。「百十一段。まだ半分だよ。」途中の踊り場で、足利氏の系図、足利と足利織物の歴史、籾山唯四郎などの石碑を見ながらゆっくり登れば、綺麗に整備された広い公園のような境内に出た。汗が流れてくる。千意さんが笑いながら「あっちですよ」と待っているので、更に二十段程の石段を上ると漸く社殿に着いた。朱塗りに白壁、緑の屋根が美しい。拝殿の両脇にそれぞれ建物を配したのは、寝殿造りの形式らしい。ここは標高約七十メートルになる。市内にそれ程高い建物はなく、北部の山と南部の関東平野が一望にできる。空は青い。

     隅の藤棚の下にテーブルが二つと、それを囲むベンチが作られているので都合がよい。念のために千意さんが社務所の了解を取り、漸く弁当にありつくことが出来た。
     藤棚の上からは二十センチほどの細長い豆が、何となくだらしない形で無数にぶら下がっている。私は初めて見るが、これが藤棚なのは私でも分かるから、それならこれが藤の実だ。「食えるのかな。」藤の実を食うなんて話は聞いたことがない。「旨そうですよね」とオサムが適当なことを言う。ネットで検索すると、有毒説と食べられる説とふたつあった。余り食うべきものではないだろう。

     藤の実は食ふべからずか握り飯  蜻蛉

     すぐそばに自動販売機もあるから便利な場所だ。朝に買ったお茶がなくなり、二本目を購入する。千意さんとドラエモンから胡瓜の漬物が回ってくる。どちらも自分で漬けたらしい。マメな人たちである。千意さんの塩漬けも旨いし、ドラエモンの酢漬けも好い。
     桃太郎がトゲトゲのあるゴルフボール程の大きさの実を拾ってきた。「モミジバフウだよ。」隊長の鑑定は早い。ただの「フウ」との違いも解説してくれるが良く聞こえなかった。「フウって楓のことですか。」「そうそう、木篇に風って書く。」それなら単なるフウをカエデとは呼ばないのか。
     訊いてみないと分からないことは多い。モミジバフウは確かに紅葉葉楓と書き、フウと共にフウ科フウ属である。これに対してカエデはカエデ科なのだ。この仲間の代表はイロハモミジである。本来(つまり中国の文字では)「楓」はフウ属のことで、カエデと読むのは日本の慣用あるいは誤用であった。葉の形が似ているからそう読んだらしい。
     全員が食べ終わった頃を見計らって、千意さんがボイスレコーダーで森高千里の歌を聴かせてくれる。これはアイドルの歌であり、私には関係ないな。(家に帰ってYou tubeでも確認してみた。)曲の良し悪しより、多分この歌い方がダメなのだ。ただメロディーを綺麗になぞっているだけではないのか。今世間で流れている大勢の小娘の歌と同じで感情移入ができない。しかしそう思うのは既に滅びてしまった歌謡曲派の感傷である。
     千意さんは蕎麦屋に電話を入れる。本日のコースでティタイムとされている店だ。「三時に行きたいんですが。」しかし三時ではダメだと断られているようだ。「どうしましょうか、二時半に入ればいいって言うんだけど。」蕎麦はどうでもよいがビールが飲めるならそれで良い。「ひとつ後回しにすれば良いんじゃないかな。」「そうしましょう。」もう一度電話をかけて二時半に予約した。「前に訊いた時は三時でも良いって言ってたのに。」
     「それじゃ早く行こうよ。」「そんなに急がなくても大丈夫。時間は充分ありますから。」奥の駐車場を抜け、掲示されている大きな案内図をみると、ここは山全体が織姫公園になっていた。最初に出会ったのが大山阿夫利神社だ。「大山にはみんな登ったのかい。」ドクトルはあの時参加していない。「半分かな。」また階段を登らなければいけないが、ここはそれほど長くない。崖に突き当たったところに石造りの鳥居と石祠が祀られ、大山阿夫利神社の石碑が建っている。その脇には足尾大神の石碑もある。この辺はもう足尾山地の南端になるのだろう。
     又暫く登っていけば、今度は機神山(はたがみやま)山頂古墳だ。ここが標高百八十メートル。山頂に登る階段は設置されているが、塞がれていて行くことができない。二十三年の大地震で横穴式石室の壁が転落するなどの事故があったための措置らしい。前方後円墳だという。裾野に沿って行くと、その先が見晴らし台になっていてベンチも置かれている。句碑は読めるか。「渡良瀬をカモ(?)○○四方の春景色。」「カモ」は万葉仮名だと思ったが、そのまま漢字で読めば良かった。正解はこうだと思う。

      渡良瀬を加茂ぞと四方の春景色  青木幸一露 

     青木幸一露というのは足利市で和菓子屋をやりながら俳句を作ったひとらしい。渡良瀬川が京都加茂川に似ていると言うのだ。ホントかね。「句碑とか歌碑はどうして楷書で書かないんですかね」とドラエモンが不思議そうに隊長に訊いている。「楷書だと威厳がないんじゃないの。」ただの草書ではなく、時々万葉仮名を使ったりするから、ますます分かりにくくなる。こういうものを、何の苦も無くすらすらと読んでみたいとは思うのだが、そのための勉強をしている訳ではない。
     「これ持ちますよ」と桃太郎が息を切らせている小町のリュックを奪い取った。「何が入ってるんですか、ずいぶん重いですね。」「どれどれ。」私も持て持ってみたがホントに重い。「鉄アレイでも入れてるんじゃないの。」これでは疲れる筈だ。お菓子も満載になっていると思う。
     一旦下ってまたなだらかな登りに入る。次は行基平山頂古墳だが、ここは頂上までの道に砂袋を敷き詰めてあって、通れそうもない。つつじの園を過ぎる。遊歩道を進むと緑に塗られた吊り橋(?)に出た。下のなだらかな道の上に置かれた橋だ。
     やがて岩場になった。表面に四角い結晶が目立つゴツゴツした岩で、所によっては両手を突かなければ登れない。表面が滑らかできらきら光る部分もあるから、これが鏡岩なのだろうか。ちょっとした登山気分だ。「結構きついわね。」マリーは昨日から筋肉痛らしい。
     両崖山城跡の案内板が建っていた。やっと頂上だ。鏡岩広場という場所らしい。織姫神社から八百メートル、両崖山頂(標高二五一メートル)まではまだ一・二キロもある。洒落た東屋には先客の男が数人休んでいるが、外にもベンチが置いてあるからちゃんと腰を下せる。小町はあの岩場を登れただろうか。「途中で待ってもらってます。」
     「あっ、アカシジミだよ。」隊長が見つけたのはかなり珍しい蝶らしい。ベニシジミは見たことがあるような気がするが、アカシジミというのもあるのか。運よく葉に留って静かにしてくれるから写真が撮れる。「いいのが撮れたよ。」隊長は早速ブログに載せるだろう。ドラエモンは図鑑を取り出して隊長に確認する。「これですよね。」「これです。」
     「こっちの黒いのは何かな。」スナフキンが指さしたのは蛾の一種で、閉じていると黒い翅の裾に波型の白線が付いている奴だ。これは見て写真に撮ったこともあった。「ホタルガだね。」千意さんの言葉で思い出した。三匹、四匹いるか。いずれもじっと葉に留ったままで動かない。
     この辺りから両崖山頂まで、尾根に沿って城があったと推定されている。両崖山城とされているが、平時に居住するような場所ではない。普段は物見の兵が常駐し、緊急時の避難場所程度の砦だったのではあるまいか。案内板の説明によれば、天喜二年(一〇五四)、足利成行(藤原氏)が築城したと伝えられる。戦国期には長尾氏が支配したが、小田原滅亡とともに廃城となった。
     「私は先に降りてますから。」千意さんが小町の救出に向かった。私たちも少し休憩した後で降りることにする。「下りが怖いですね。」オサムは、こういうところを歩くのは初めてではないだろうか。「降りるのが難しいから気をつけなければいけない」とハコさんに注意されている。
     岩場を過ぎて舗装された道に戻ると、千意さんの姿が見えた。小町はベンチに腰を下している。「小町と音楽を聴きながらお茶してました。」「断崖絶壁だった。小町だったら転がり落ちてたんじゃないかな。」「行かなくて良かったよ。」
     「これ食べなよ。」小町が出してくれたのは夏ミカンに砂糖をまぶした様なものだ。「要らない。」「疲れた時はこういうのがいいんだよ。」私以外は皆貰って口にする。こういうものを入れているからリュックが重いのだ。
     草むらの中を左に降りる道があるが、千意さんは下見のときに通っていない「どこに出るのかな。」下の方に市街地らしい光景が見える。「たぶん行けると思うよ。」「人が登ってくるよ、訊けばいい。」やがて山ガールがひとりで登ってきた。
     「あなたさんは、ここから登ってきたんですね。」ハコさんが不思議な訊き方をする。「ここから下に行けますか。」だから登ってきたのだと私は思うので、つい余計な口を出してしまった。「そうじゃなくて、この道はどこに通じてますか。」「すみません、地理に疎くて。」地理に疎い女が一人で山に登る筈がない。胡散臭い中高年者に恐れをなしたのではあるまいか。
     「なだらかな道を行きましょう。」「そうだよね、小町もいるし。」アスファルト舗装された道をゆっくり下る。「さっきの橋だね。」今度は橋を使わずに下の道を行く。「ここにも古墳がある。」機神山十七号塚の石室跡が露出している。

     正義山法楽寺に着いた。曹洞宗。足利市本城三丁目。建長元年(一二四九)、足利義氏によって創建された。義氏は足利氏三代当主である。母は北条時政の娘で、自身も北条泰時の娘を正室にした。北条得宗家と密着していたのだ。
     この寺は万延元年の火事で大門を残して焼失し、明治元年に再建された。現在の本堂は銀閣寺を模して昭和五十八年に建てられたものだ。「そう言われればそうだね。」二階建ての本堂だ。
     義氏の墓は土饅頭型で、周囲を石垣で守り表面に小石を並べた亀甲墓のような形をしている。「沖縄のものみたいじゃないか。」「典型的な土葬の墓だね」と言ってみたものの、実は十三世紀の関東の墓でこんなものは見たことがない。その手前の梵字を刻んだ五輪塔も鎌倉時代にしては新しそうに見える。少なくとも、地輪、水輪は現代のものだろう。
     案内板によれば、火輪は宝筺印塔の笠の部分、風輪、空輪は相輪を組み合わせたものだ。その他にも宝筺印塔の部品、五輪塔の一部のような恰好のものが数個置かれ、石垣の中にはやはり相輪のような石も使われている。どこかの時点で壊されてしまったものを、残された部品を適当に集めて復元したのではあるまいか。
     白い夾竹桃が咲いている。白い花は一輪咲きで、この方が八重の赤花よりきれいだと思う。「だけど猛毒だからね。」ウィキペディアをみると、フランスで夾竹桃の枝を串焼きの串に使って死亡した例があるという。そこに咲いているノウゼンカズラも有毒ではなかったろうか。白いナツツバキも咲いている。

     やっと街中に戻ってきた。足利短大付属高校体育館を過ぎて消防署西交差点を曲がれば、一茶庵本店がある。足利市柳原町八六二番地。足利が蕎麦を売り物にしていることは今日初めて知った。大体この辺りはうどんに代表される小麦粉文化圏だろう。何故なのかと思っていたが、この一茶庵の功績によるらしい。本店のホーページ(http://issa-an.co.jp/rekishi.html)から抜き書きしてみよう。
     一茶庵は大正十五年二月、新宿駅東口前に片倉康雄が創業した蕎麦屋であった。昭和四年、『新版大東京案内』(中央公論社刊)で、食堂横丁の「群鶏の中の一鶴」と紹介される。 この数年の間に、北大路魯山人と知り合い、両国「與兵衛ずし」主人の小泉迂外に蕎麦寿司を教えられ、客として出入りしていた作家・評論家の長谷川如是閑、作家・小林蹴月ら多数の文化人と知り合い、薫陶を受ける。 魯山人の名前がでてくると、それだけで私は敬遠したくなる。男は美食を語るべきではない。
     やがて片倉康雄は蕎麦に関する様々な史料を収集。また、向島の木地屋・森下源一郎、塗り師・江部伝咲と懇意にし、器づくりを始めた。製粉技術の研究にも没頭する。昭和五年頃から更科蕎麦に挑戦し、七年頃には生一本で打つ技術を習得した
     昭和八年に大森に移転。十七年には戦時食料統制のために大森店を閉め、浦和に移る。戦時中は蕎麦が打てずに軍需工場などを手伝い、空襲で浦和の自宅と妻子を失い、戦後は熊谷の親戚が始めた映画館の支配人をするなど、蕎麦とは縁遠い生活が続いた。
     蕎麦屋としての復活は昭和二十九年、五十歳のときである。これが足利における一茶庵の始まりだ。蕎麦職人を養成して、直系の店のほか全国に弟子の店が広がった。嘘かホントか知らないが、「蕎麦聖」と呼ばれたというのは、弟子たちによる宣伝の効果であろう。

     しかし千意さんが予約したのはここではない。けやき小学校を右に見ながら塀にそって右に曲がると道は石畳になった。奥の院通りと名付けられており、正面が足利の歴史を語る鑁阿寺(バンナジ)だ。足利市家富町二二二〇番地。金剛山仁王院華坊。ほぼ正方形の敷地の周囲を掘割で囲み、土塁には石垣を組んである。「お寺が堀に囲まれてるのは珍しいね。」足利市の居館跡だからだ。
     建久七年(一一九六)足利義兼(法名を鑁阿と号した)が館内に大日如来を奉納した持仏堂を建てたのが始まりとされる。元は真言宗智山派だが、昭和二十六年に独立して大日派を立てた。薬医門(北門)を潜って中に入り、三十分ほど見学時間が与えられた。かつて堀の外には塔頭十二坊と言われる支院があった。その筆頭の千寿院の門を移築したのが、この北門である。
     取り敢えずトイレに行っている間に、皆はそれぞれに散開していた。蛭子堂(ヒルコ)は北条時子(政子の妹)を祀ったもの、校倉造の大黒堂、大酉堂、御霊屋が並んでいる。その横が、敷地内なのに児童公園になっているのがおかしい。一切経堂(室町時代)、不動堂、本堂(鎌倉時代)。本堂の右側には原色のマフラーを巻き付けられた、ミイラのようなオビンヅルが座っている。庭園の方に行くと、ここには鎌倉時代の鐘楼が建っている。
     三十分弱の散策の後、ちょっと早めだが南門(仁王門)に行ってみた。案内板によれば、こういう門だ。

    開基足利義兼公が建久七年(一一九六年)創建せるも室町時代兵火にあい、永禄七年(一五六四年)足利幕府十三代将軍足利義輝の再建である。
    構造雄大、手法剛健、入母屋造、行基葺。両側の仁王尊像はこの建物より古く鎌倉時代運慶の作と言われている。

     その運慶作と言われる仁王像は、金網の奥が暗くて良く見えない。そして全員が集まった。千意さんの決めた時間よりは少し早いが、スナフキンと桃太郎はビールが飲みたくて仕方がないのだ。「また俺のせいにして。」仁王門の前の堀に架かる太鼓橋にも立派な屋根が架かる。
     門を出れば綺麗に石畳を敷いた道だ。左の黒塀の中には土蔵が見える。右手の小さな公園には衣冠束帯姿の足利尊氏像が建つ。綿布問屋、京呉服と小物の店など衣料関係の店が目立ち、その間には甘味処やカフェもある。そのまま真っ直ぐ行けば、「めん割烹なか川」である。「まだ時間が早いので足利学校に寄りましょう。」今は二時三分だ。
     角を左に曲がれば銀丸本店の前に店員が三人ほど出て、小さな紙コップの味噌汁をサービスしてくれる。麦味噌だ。使う麦は足利二条大麦である。汲み上げた地下水を流す手洗いも設置されていて、誰でも自由に使えるようになっている。ちょっと店の中を覗いてみると、麦味噌の店頭販売のほか、麦とろ飯も食わせらしい。重厚な黒瓦の中にモダンな装いの店だ。味噌汁を振舞って貰ったので住所も書いておくか。足利市昌平町二三五九番地。この住所表示は足利学校に因むものだろうね。
     「足利って書いてアシカガって読むのは、実は難しいな。」スナフキンに言われるまで気付かなかったが、確かに知らなければ読めない。何かの宛て字であろうかと調べてみると、「かが」は利益を意味する古語であると分かる。だから本来「利」の訓読みなのだが、今の学校教育ではそんなことは教えない。却って人名で馴染みの「トシ」なんて読む方が実は難しいのである。
     正面が足利学校の入徳門だ。入校料は四百円を払うと「入学証」をくれた。「二時二十八分にここに集まってください。」左に、長い顎鬚の前で両手を組み合わせた孔子像が立っている。学校門を潜って、堀で囲まれた敷地に入る。
     日本最古の学校と言われながら、創建年代がはっきりせず、さまざまな説がある。最も古い年代にあてるのは八世紀で、下野国の国学であったとするものだ。国学とは律令制における官吏養成のための学校である。これは足利に国府があったとする説と連動しているらしい。
     次に九世紀の承和の頃、小野篁によって作られたとするもの、十二世紀末の文治年間に足利義兼によるという説もある。未だに謎に包まれているが、長い間衰退していたものを、永享四年(一四三二)、足利領主となった上杉憲実が再興したのは確かなことらしい。史跡足利学校事務所によるパンフレットを見てみよう。

     鎌倉建長寺住持の、玉隠永璵は、長享元(一四七八)年の詩文の中で、「足利の学校には諸国から学徒が集り学問に励み、それに感化されて、野山に働く人々も漢詩を口ずさみつつ仕事にいそしみ、足利はまことに風雅の一都会である。」と讃美しております。
     また天文十八(一五九四)年にはフランシスコ・ザビエルにより「日本国中最も大にして、最も有名な坂東の大学」と世に紹介され「学徒三千」といわれるほどになりました。

     旧遺蹟図書館の前には「六月は論語月間です」の立て看板が置かれている。論語購読の会でも開かれるのだろうか。偕樹というのは、孔子墓所の木の種を育てて、大正十一年に植えられたと言う。
     築地塀で囲まれた杏壇門を潜れば孔子廟だ。湯島聖堂のように、屋根に鬼犾頭と鬼龍子がいるかと眺めてみたが、それらしいものはいない。中に入ることは出来ないが、孔子座像が見えた。
     門の外に出て、孔子廟と隣り合っているのが、茅葺寄棟造の大きな方丈だ。障子が開け放たれ、縁側で寛いでいる女性もいる。
     入口の前には「宥座之器」というものが置かれている。ユウザノキと読む。水盤の上に、底の丸い容器がやや傾いて宙吊りにされている。杓子で水を掬い容器に入れる。ちゃんと真っ直ぐになるではないかと安心してはいけない、六杯入れた所で、容器は逆さになって水が零れてしまう。

    宥座之器者、虚則欹、中則正、満則覆、
    宥座の器なるものは、虚なれば則ち欹き、中なれば則ち正しく、満つれば則ち覆る。(『荀子『宥座編 一』』

     「私もやってみるよ」と小町も挑戦してみた。「この位かな。」「まだ大丈夫、後二杯はいけるよ。」「ホントかな。」しかし一杯入れた所で容器は逆さになってしまった。じぇじぇ。「ダメじゃないの。」中庸ということが私には分からないということか。
     今日は山用の靴を履いて来たので脱ぐのが面倒臭い。脇玄関には孔子を中心にして、左に孟子、曾子、右に顔子、子思子の像が立っている。
     しかし、この時代に論語を教えたのかと、小町以下みんなが不思議に思っているようだ。確かに、「シノタマハク」なんていうのは江戸時代の寺子屋のイメージであろうか。鎌倉時代はちょうど宋で朱子学が起った時で、当時の最新思想として日本に齎され、鎌倉五山を筆頭に主に禅宗僧侶によって研究された。日本のインテリは昔から舶来の新思想に弱いのである。

    ・・・・鎌倉円覚寺の僧快元を庠主(しょうしゅ、校長のこと)に招いたり、蔵書を寄贈したりして学校を盛り上げた。その成果あって北は奥羽、南は琉球にいたる全国から来学徒があり、代々の庠主も全国各地の出身者に引き継がれていった。
    教育の中心は儒学であったが、易学においても非常に高名であり、また兵学、医学も教えた。戦国時代には、足利学校の出身者が易学等の実践的な学問を身に付け、戦国武将に仕えるということがしばしばあったという。学費は無料、学生は入学すると同時に僧籍に入った。学寮はなく、近在の民家に寄宿し、学校の敷地内で自分たちが食べるための菜園を営んでいた。構内には、菜園の他に薬草園も作られていた。(ウィキペディアより)

     これを読むと、儒学と易学とは別のもののように勘違いしてしまいそうだが、易は五経の筆頭であり、儒学に含まれるのだ。ちなみに四書は「論語」、「孟子」、「大学」、「中庸」で、五経は「易」「書」「詩」「礼記」「春秋」である。四書は入門書であり、「五経を以て四書よりも高しとする」。ただ江戸時代には専ら四書が読まれるようになってくるのは、太平の故だろう。乱世には、「易」や「春秋」こそが戦いに臨んでの指針となった筈だ。
     足利学校漢字試験(初級)というプリントが置いてあったので貰って来た。ざっと眺めると小学生レベルの問題である。
     試しに家でやってみると、二問解けず九十二点の成績だった。私が解けなかったのは、上下左右に漢字を配置し真ん中が空白になったものだ。上下左右の文字と併せて二字熟語を作る問題で、これが四問あって二問はすぐに分かったが、勘が働かないとさっぱり分からない。正解を示されればなんだと思うのはいつものことだ。妻はこういうものが得意で、クイズ番組を見ているといつもバカにされる。因みに私が出来なかったのは、「絵□能、見□気(□は同じ文字)」と「開□見、草□火」である。(上下左右に描くのが面倒なのでこう書いてみた。□を中心に十文字になる恰好を想像して下さい。)
     靴を履いて外に出ようとしたとき、「旦那さん、何か落としましたよ」と後ろから声を掛けられた。旦那さんとは私のことか。振り返ると入学証を落としていたのだ。「どうも有難う。これじゃ落第だね。」「アハハ。」
     北西の隅には歴代庠主の無縫塔が並んでいる。十七基あるようだ。その脇の黄色い花は懐かしい。「ビヨウヤナギじゃないか。」オサムが笑うのは、彼が去年初めて参加した時に教えたのを覚えていたのだろう。埼玉ではもう一ヶ月近く前に終わってしまったが、この辺では今咲いているのか。「空が真っ黒になってきたよ。」「こりゃ、もうすぐ降るよ。」雲の流れは早そうだから夕立ではあるまいか。

     早めに外に出て「なか川」を目指す。「雨が落ちてきた。」「急ごうよ。」千意さんの案内によれば「なか川」は相田みつを所縁の店だ。「相田みつをって足利の人間なのか。」駅で仕入れたタウン誌を開くと、「足利は『相田みつを』が生きたまち」である。足利市に生まれ、旧制足利中学を卒業している。書家であり詩人だというが、私はその詩が全く理解できないでいる。
     看板の文字が相田の筆になるのではないだろうか。「早く入ろうぜ。」店に入り、席に座った途端、雨は本降りになってきたようだ。「ちょうど良かった。」しかし人数が足りない。隊長とハコさんと千意さんがまだ来ていないのだ。「取り敢えずビールを注文しようよ。」小町も待ち切れなかったか。意外なことにドラエモンも飲むという。
     「蕎麦はどうするの。」さっき弁当を食べたばかりで、腹はまだ空いていないが、注文しなければならないだろうね。「お薦めは天抜きです。」それは何か。説明を読んですぐに理解できないのは、ここに江戸っ子がいないからだ。
     困った時の神頼みでウィキペディアを引けば、温かい天麩羅蕎麦から蕎麦を抜いたものである。つまり蕎麦ツユに天麩羅が浮いているのだろう。蕎麦屋で酒を飲むとき、蕎麦はまだ早いがツマミが欲しい、しかし板ワサはちょっと物足りないなんていう時に頼むようだ。鴨南蛮蕎麦から蕎麦を抜けば鴨抜きである。台抜きとも言う。腰を落ち着けて飲むと思われたか。
     しかしこれが二千円もするのだ。「なか川」のホームページを見ると、天ぬきをツマミに酒はゆっくり飲めと書いてある。但しツユは全部飲んでしまってはいけない。最後にモリ蕎麦を出すので、残ったツユにつけて食べるのである。こんな食べ方の指南までされるのはイヤだな。
     「ザルにする。」「私もそうしよう。」小町と意見が一致したとき、「俺はモリがいい」とスナフキンが」言い出した。名前に義理立てしたのではなく、海苔などの余計なもののないシンプルなものが好きだという。ツウですね。面倒だから六人がそれに合わせた。モリはザルより安いのが一般的ではないかと思うが、この店では値段は同じだ。今では刻み海苔を載せているかどうかで区別するが、昔はツユ自体が違ったと聞いたことがある。ドクトルはザル二枚。「えーっ、そんなに食べるの。」
     そうこうするうち、千意さんと隊長がかなり濡れた様子で現れた。ハコさんは地元の親戚と待ち合わせをしていたとのことで、別れて行ったそうだ。「えっ、ビール飲むのかい。」一瞬戸惑った隊長も、この場の雰囲気に抵抗できる筈がない。「他はモリを頼んだよ。」千意さんはザルにした。
     ビールはジョッキということだったが、少し大きめのグラスであった。さくら水産のビールより美味いのは、注ぎ方が違うのだろう。もう少し空腹のときに来たかった。
     「十人様で、まだお蕎麦は九人様しか伺っていませんがよろしいですか。」桃太郎は悩む。「この店で反省会になだれ込むんですか。」「違うよ。雨宿りの間だけ。」「こんなに土砂降りでしょう。すぐやむとは思えない。そうすると飲む時間が長くなるからつまみを頼まなくちゃいけない。」かなり悩んだ挙句、板わさに、これもお薦めだという三種類試し酒セットを注文した。純米酒、原酒、大吟醸の三種類が少し大きめのガラスの猪口で出てきた。
     これが有名な蕎麦か。かなりコシのある蕎麦だ。味については言うべきことはない。どうやら私にはこういう高級な蕎麦は合わないようだ。駅の立ち食い蕎麦が一番美味いと思ってしまうのは食生活が貧しいせいだろうか。小さな炊き込みご飯もついてきたが、とても食えない。蕎麦で腹が重くなってきた。

      夕立ちや名代の蕎麦で雨宿り  蜻蛉

     「モリとザルの違いが分かった。」千意さんが声を上げたのは、モリにはインゲンが載っていたことだ。「インゲンなんてあったかな。」スナフキンだって今食べたではないか。確かに二つほど載っていた。千意さんのザルには当然のように海苔が載っている。これがザルとモリの区別か。
     全員が食べ終わった頃には雨も上がり、窓の外からは強い日差しが戻ってきた。桃太郎は中途半端な飲み方だったが、この店で満足するまで飲もうと思えば、いくらかかるか分からない。それにもう一カ所行くべき所がある、それでは行こうか。この店には相田みつをの作品がいくつも展示されているようだったが、誰もそんなものは見ずに終わった。
     モリが八百四十円なのは分かっている。「ビールはいくらなのかな。」「ちょっと待って。」スナフキンがメニューを点検すると、なんと六百四十円もするではないか。居酒屋の安いビールしか知らない私は驚いてしまう。桃太郎の三点セットはどのくらいになったのだろう。会計を済ます時の店員は実に愛想が良いが、普段の営業時間を過ぎて十人の客が金を落として行けば、笑顔も出てくるだろうというものだ。
     店を出れば外は眩しい程の日射しだ。孔子像の立つ石畳の路地に面しているのが「足利まちなか遊学館」だ。足利市通一丁目二六七三番地一。「もう駅に行くんじゃなかったのか。」「勉強するんですよ。」「勉強しなくちゃいけないのか。」
     入ってすぐ目立つのは大きな撚糸機だ。色々説明してくれるが良く分からない。近代日本の工業史に関心のある人は自分で調べて欲しい。「これが縮みです。触ってみてください。」この生地が縮みか。「糸の撚り方でこうなるんですよ。」縮みと銘仙とがどう関係してくるのかが分からない。「最近、若い子に流行ってるんだよ。」小町はそう言うが、銘仙の着物を着た娘なんか見たことがない。
     「銘仙と着物との違いが分からないって言ってるの。」小町は難しい質問をする。銘仙も着物なのだが、桃太郎が悩んでいたのは、訪問着のようなものとどう違うかということだったらしい。「普通はプリントが主流ですが、銘仙は糸を染めてます。」それだけの違いなのだろうか。銘仙と言えば大正から昭和初期の普段着、女学生やカフェの女給の着物に使われたのではないかしら。正装としては使えないと、秩父でも聞いたことがあったようだが、殆ど覚えていない。足利織物博物館のパンフレットから引用してみる。

     銘仙とは、絹先染め平織りの大衆向け織物のことをいいます。もともと節のある屑絹糸などを使った「太織」などがその起源で、織地の目の細かさを意味する「目千」「目専」といわれたのが「めいせん」「銘仙」と転訛したという説があります。(中略)
     戦前期、足利は花柄模様などを自由に捺染できる模様銘仙(解し)を得意として人気を独占したといわれます。また、模様銘仙ではヨコ糸は一色ですが、一部に絣を入れる「半併用」銘仙の発明も業界の発展に大きく寄与しました。

     「小町にプレゼントします。」桃太郎はさっきの酒で既に酔ってきたのではあるまいか。「百円ですけどね。」小物はいくつも種類があるが、百円で買えるのは銘仙のコースターである。ペットボトル入れもある。「保温機能がある訳じゃないんだからな、誰も買わないだろう。」私も買いたいとは思わない。
     千意さんはワインを売っている店がないかと尋ね、「あるかどうかは分からないが」と教えられたコンビニにスナフキンと一緒に行った。近くに酒屋はなさそうなのだ。しかし暫くして残念そうな顔で戻って来た。生産量が少ないのかも知れない。

     「今日は夕日だけが見られませんでした。」千意さんはあくまでも森高千里に義理立てしたいのだが、夕日を待っていては遅くなってしまう。夕日は見なくても足利は充分に楽しめた。
     今度は中橋を渡って駅に着いた。「時間はありますからね。お土産を買う人は買って下さい。」小町は伊勢崎まで行くから私たちとは逆方向になる。「三時四十九分だよ、行かなくちゃ。」小町を送りだし、さて私たちはどれに乗れば良いのか。同じ三時四十九分は館林止まりだから、これではだめだろう。「特急で行くんですか。」ドラエモンがびっくりしたように訊く。そんなことはないだろう。「じゃ、四十九分に乗りましょう。」それは館林行きだよ。「館林で浅草行きが待ってますよ。」それなら急がなければならない。
     電車に乗り込んだ途端、スナフキンはすっかり寝込んでしまった。「館林だよ。」「もう着いたのか。」反対側のホームに浅草行きが待っている。
     「蜻蛉は反省会やりますか。」千意さん、それは訊くまでもないだろう。まさか、あの蕎麦屋が反省会とは思いもよらない。「大宮にしようよ。」蓮田の千意さんには申し訳ないが、やはり大宮が適当だろう。
     ドラエモンは途中で降りて行った。「奥さんが車で迎えに来るんだ。」確か鴻巣の住人だから路線が違うが、車なら分かる。
     「大宮だぜ。」漸く着いた。大宮に来れば言うまでもなくさくら水産に向かわなければならない。「さくら水産は久し振りだな。」最近、この店のない所ばかり歩いていたかも知れない。私もスナフキンもビールはもう飲めない感じだから、最初から焼酎にする。しかし、お湯が随分ぬるい。「これじゃ冷たい方が良かったよ。」それでも私は二杯飲んで、やはりこれはダメだと分かった。熱いお湯に替えてくれるよう頼むと、「時間がかかりますよ」と中国人の店員が応えるのが不思議だ。お湯が湧くまで待てないほど急いではいないのだ。普通に沸かしてくれればよい。
     さっき「板わさ」しか食べなかった桃太郎はきちんと料理を注文しているが、私はもうそんなに食えないぞ。しかし焼酎は飲める。「もう一本入れていいですか。」千意さん、私に訊かなくても良いです。結局もう一本追加して、それが終わった頃にオヒラキになった。千七百円也。

    蜻蛉