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    平成二十五年七月二十七日(土) 武蔵嵐山

    投稿:   佐藤 眞人 氏     2013.08.05

     旧暦六月二十日。大暑、桐始結花。
     二十一日の参議院選挙では事前予想の通り、自民党が圧勝し野党はズタズタに寸断された。小選挙区制度において、野党が分裂していて与党に勝てる筈がないのは分かりきったことだ。これから集団的自衛権の見直しや「憲法改正」論議が強まるだろう。(少し後には麻生太郎がとんでもないアホなことを言った。ナチス台頭について語るには厳密な歴史感覚が必要なのだが、タロウにはその感覚がない。)しかし私は政治を語るまい。定家に倣って「紅旗征戎吾事に非ず」と言わなければならない。
     天気予報では五十パーセントの確率で雨が降る。これも選挙の予想通り当たるだろう。この頃では夕方に急な豪雨がやってくる。暑さと雨では、今日の参加者は少ないのではないだろうか。
     九時四十五分に武蔵嵐山駅に着きトイレを済ませて改札を出ると、メンバーは既に集まっている。隊長、ハコさん、ドクトル、千意さん、宗匠、ヤマチャン、ロダン、伯爵夫人、カズチャン、マリー、蜻蛉。十一人か。隊長の判断で、念のために十時一分着の電車を待つことにしたのが正解だった。その電車でイトハンが息を弾ませてやってきた。「良かった、間に合わないかと思ったの。」これで十二人になった。
     伯爵夫人はほぼ一年振りではないだろうか。「コーラスやってるんですか。」「オホホ、月に四回になってしまって。なかなかこっちには来られないんですよ。」宗匠、カズチャン、イトハン、ヤマチャンは三四ヶ月振りか。
     まず隊長が天気図を広げて今日の天候について解説してくれる。上空の寒気と地上の気温の差が四十度あって、今日は確実に雷が鳴る。また最高気温と最低気温の差が七度あれば、これも雷の要因となる。「隊長スゴイじゃないの。」ヤマチャンは、隊長が気象予報士であることを知らなかった。
     駅前にコンビニは一軒もない。「水を買いたいんだけど」と千意さんが悩んでいるので、駅舎内の売店を覗き込んでみた。「そこで売ってるよ。」今日は水なしでは生きていけない。私は水筒のほかに、ペットボトル一本を持ってきた。
     今日は大平山に登ることになっている。山の名は簡単なようで読み方は難しい。オオヒラヤマ、オオヒラサンなどと読むようだが、秋田で高校の時に必ず登るのは同じ字を書いてタイヘイザンと読む。酒の名前にもなっているから知っている人が多いだろう。また紛らわしいが太平山というのも同じ読み方で全国に存在する。
     ここにあるのは標高一七八・七メートルで大した山ではないが、それでも念の為に山用の靴を履いてきた。千意さん、ヤマチャン、宗匠は長袖シャツで準備を整えてきた。「山にはヒルがいるからさ。」私はそんなことには気づかず、普通の半袖で来てしまった。私のことは良いが、伯爵夫人が七分丈のズボンで素足の脛を出しているのはいかがなものであろうか。気になってしまう。「雷が鳴ってもたぶん三時半頃だと思いますが、安全を期して大平山登山はやめて平地を歩くだけにします。」「頂上に登っても別に見晴らしが良いわけでもないからね。」

     駅前の道を真っすぐ南西に向かう。既に日差しは強く、伯爵夫人は優雅に日傘をさして歩いている。その隣で千意さんも透明のビニール傘をさしているのが不思議だ。「その傘は何の意味があるのかな。」「日よけ。」「エーッ、全く意味ないと思うけど。」透明なビニールは却って温室効果を齎すのではないだろうか。歩道にはオオムラサキの絵のパネルが嵌め込まれている。「これなんですか」とカズちゃんは不思議そうに見ているが、嵐山はオオムラサキの里である。
     嵐山町立菅谷小学校の横を通ると大通りに出る。「これは二五四かい。」「そうだよ。」「群馬に行くとき車でしょっちゅう通る」とヤマチャンが自慢する。「そこを右斜めに入れば大妻嵐山だ。」ヤマチャンは大妻嵐山中高校にかなり関心がある。「偏差値も悪くない。」
     「大学は三番町にありましたね。」「あちこちにあるよ。」三番町は佐野善左衛門屋敷跡である。大学だけでも三番町、多摩市唐木田、入間市狭山台と三つのキャンパスを持っていて、付属高校も三番町、多摩市唐木田、中野区上高田とここにある。

     菅谷館跡の駐車場から入り、案内板の前でハコさんの講釈が始まる。ここは畠山重忠の居館であった。「この話をすれば九十分位かかるんですが、二分三十秒でやれということなので。」ハコさんの話は桓武平氏の平良文から始まって重忠の最期に及ぶから、これでは確かに長くなる。
     畠山氏は秩父平氏の庶流である。秩父氏は秩父地方を中心に勢力を築いてきた豪族で、平良文(村岡五郎)流と称しているが仮冒の疑いも捨てきれない。秩父武綱が後三年の役の先陣を務めて八幡太郎義家から源氏の白旗を賜った。この白旗が後に重忠の役に立つ。子の重綱の時代に武蔵惣検校留守所を補任され、秩父氏の家督に世襲されることになる。重綱の子である重弘の長男の重能が男衾郡畠山郷の庄司となって畠山氏を名乗った。弟の重隆は河越氏の祖となって、畠山、河越両家の間で秩父氏の家督を巡る争いが続く。
     重忠は重能の嫡男で、関東武士団の頭領の位置に登って畠山氏の全盛時代を築いた。私たちは男衾郡畠山郷(川本町)の史跡公園や妻沼聖天で重忠の像を見ている。
     頼朝が石橋山で挙兵した時には、重忠は同族の江戸氏などとともに平家方に随っていた。まだ情勢が決まらず日和見をしていたのだと思われる。しかし石橋山敗戦後、頼朝は房総に渡って勢力を拡大する。精兵三万余騎を称する大軍団となったが、江戸湾河口には利根川水系を支配する江戸氏が頑張っていて進軍できない。
     坂東八箇国の大福長者である江戸重長を無視して関東を抑えることはできない。この間にも頼朝に加担する武士は続々集まってくる。この情勢をみて、同じ秩父平氏の豊島清光・葛西清重が、このまま頼朝と敵対しては明日がないと必死で調停した結果、江戸重長も漸く頼朝に随うことを決意する。このとき、畠山重忠も一緒に、例の白旗を持参して頼朝方についたのだ。それ以後の活躍は『平家物語』を読んでほしいが、鵯越えの逆落としで馬を背負って降りる姿が川本町の銅像になっている。重忠はその実力によって、関東武士団の棟梁の位置を確保したのだ。
     元久二年(一二〇五)六月の畠山重忠の死は、北条時政の継室、牧の方の讒言によると言われている。
     「鎌倉に騒ぎがあると聞いた重忠は百三十騎ほどの勢力で鎌倉を目指したんですね。しかし相手は大軍で、二俣川で嫡男の重保共に討ち死にしました。『吾妻鏡』、『玉葉』、『明月記』から、それぞれ矛盾しないことを抜き出すとこうなります。」ハコさんは、この三つを読み比べたのだろうか。
     『玉葉』は九条兼実、『明月記』は藤原定家の日記で、双方ともゴシップが大好きだが、坂東の一御家人についてそれほど正しい情報を持っていたとは思えないし、仮に記述があったとしても噂話の域を出ないだろう。根本史料は『吾妻鏡』になるのだが、これは北条得宗家の視点で語られる歴史だから、北条家に滅ぼされた重忠について正しく書かれているかどうかは分からない。ただ『吾妻鏡』でも、重忠の評判は良い。自信はないが『吾妻鏡』をなんとか読み下してみるか。

    (元久二年六月)○廿日丙午。晴。同宮臨時祭礼の如し。夕に及び、畠山六郎重保武蔵国より参着す。是稲毛三郎重成入道これを招き寄すと云々。○廿一日丁未。晴。牧御方、朝雅の讒訴を請け、鬱陶しがられ、重忠父子を誅すべきの由、内々計議有り。先ず遠州(北条時政)、此の事を相州並びに式部義時房主等に仰せらる。

     こんなことをしていては書く方も読む方も疲れてしまうので、簡単にまとめておく。まず重忠の嫡男の重保が騙されて鎌倉に呼び寄せられ、六月二十二日に由比ヶ浜で討たれた。重忠はハコサンの言う通り、百三十四騎で駆けつけた。討手は大軍である。部下からはいったん逃走することも提案されたが、それは坂東武者として採るべき道ではない。死を覚悟した二俣川の合戦で愛甲三郎季隆の弓に射られ、一族諸共に滅んだ。
     『吾妻鏡』では、北条義時は最初反対したものの、時政に押し切られて渋々重忠討伐の命に随ったということになっている。関東御家人の間で重忠の信望が厚く、北条政権内部でも重忠殺害は非道な事件と考えられたことで、権力者である義時を擁護したものだろう。
     鎌倉時代初期の血で血を洗う粛清は、日本史上非常に稀な殺戮時代を現出した。最初は頼朝による兄弟一族の抹殺である。それに続いて北条得宗家の独裁体制確立のため、有力御家人は様々な理由をつけられて滅ぼされた。この事件の後、時政は隠居させられ義時が権力を握るのである。
     ハコさんの解説が終わると、三の郭の解説板の立つところから森の中に入っていく。ハグロトンボが群れをなしている。ところが私はどうした加減か、これをチョウトンボと間違えて覚えていて、ロダンや宗匠に嘘を教えてしまった。後で隊長に「全然似てない」と言われてしまったから、謹んで訂正致したい。
     「林の中は気持ちがいいな。ああ、心が洗われる。」こういう場所に来るとロダンはいつも同じように感激する。「蝉の声を聞くのも久しぶりだ。」私は城西大学のキャンパスで毎日蝉の声を聞いている。今はミンミン蝉が多い。

     蝉時雨心を洗ふ街の人  蜻蛉

     「浦和じゃ蝉の声なんかあんまり聞かないものね。」「越谷でも聞かない。」城西大学のある川角は越谷より田舎であったか。図書館脇の喫煙所の草むらにはニホンカマキリとカナヘビが同居しているし、さっきのハグロトンボも群れている。
     蔀土塁の解説を見れば、「これがシトミと読むのか」と不思議がる人もいる。実は母の曽祖父の東海林別家十一代正成の諱が蔀で(こんなことは、母もマリーも知らないだろう)、読み方だけは知っていたが意味は考えたこともなかった。蔀は戊辰戦争時に羽後亀田藩大砲奉行を務めたようだが、維新後は小学校教員となった。明治維新によって没落した士族の典型である。
     『大辞林』によれば、蔀は「城外から見透かされないように設けた城内の土塁・建造物・植木などの総称」である。ここは西の郭から三の郭内部が見渡せないように造った土塁だ。と言われても、周囲は林だからよく分からない。
     正坫門と木橋の解説。その木橋を推測で復元した橋を渡る。下を覗き込めばかなり深い。図を見れば、本郭、二、三の郭、西、南の郭を構え、館というより城である。中世の城としてはかなりの規模だ。重忠戦死の後は足利義純が重忠未亡人と婚姻して畠山の名を継ぎ、居を構えた。(これが源氏系の畠山氏である。)その後は不明だが、十五世紀末から十六世紀前半には山内上杉家の城郭として拡充整備されたらしい。南側は都幾川で遮られた丘陵地だから、戦国時代の城としては充分な機能を持っていたように思われる。
     林の中を通り過ぎて一般道に出ると、「みちしるべ」が立っていた。馬頭観音と、頭に赤い切り妻屋根を載せ花柄の着物の地蔵が並び、その脇には上部が欠落した板石塔婆が立っていた。元享三年(一三二三)の銘はなんとか分かるが、阿弥陀三尊と思われる肝心のキリークが蓮の花を残して欠けている。
     埼玉県比企郡菅谷村大字千手堂。右熊谷方面、左越生方面。解説によれば江戸時代には高札場であった。道標は大正八年に建てられたもので、日本橋東京元標十六里、第十四師団宇都宮市三十三里などと記されていた。馬頭観音と地蔵が建てられたのはその後だという。
     県道一七三号線を越えてまた森の中に入る。左に流れているのは都幾川かと思ったら槻川だった。槻川は都幾川の支流である。

     東秩父村白石地区の堂平山付近に源を発する。外秩父山地に平行して北流するが、坂本地区で支流の大内沢川を合流する辺りより、流れを東北東方向から東方向に向きを変え、安戸地区から小川町へ入り、南から北へ曲流しながら小川盆地へ向かう。小川町は槻川の清流を生かした小川和紙(細川紙)の生産地として知られている。 兜川と合流し、小川盆地を抜けると次第に狭窄な地形となり谷底平野を大きく蛇行する。太平山の麓では南へ北へヘアピンカーブを描くように曲流し、長瀞の様な岩畳を縫って流れる渓谷の様相を見せる。この付近の槻川は嵐山渓谷と呼ばれる景勝地で、周辺の緑地に関しては一九九七年、「さいたま緑のトラスト基金」により県と嵐山町が取得し、みどりのトラスト保全第三号地「武蔵嵐山渓谷周辺樹林地」に指定されている。渓谷を抜けると東へ直線的に流れ、嵐山町鎌形で都幾川の左岸に合流する。(ウィキペディアより)

     右に大平山へ行く分岐点を過ぎ、やがて道の端に雑草に埋もれるように立つ小さな標識をロダンが見つけた。右は武蔵嵐山駅、左は展望台となっているのだが、「ちょっと草が伸びたら隠れてしまうよね。もっと高いものを作ればいいのに。」
     左の藪の中にウバユリが淋しく二輪だけ咲いている。「この根を煎じて飲むと産後の肥立ちがいいんだよ」と隊長が真剣な顔でイトハンに教えている。「是非試してみてよ。」「イヤねえ。産後の肥立ちなんて、そんな年齢じゃないわよ。」
     産後の肥立ちなんて久し振りに聞く言葉で、私はどうやら誤解していたようだ。というより、よく考えたこともなく、単に出産した女性の体力回復のことだと思っていた。しかし辞書によれば、それは出産してから体力の回復と共に太っていくことである。肥立ちとは文字通り肥えることだったのだ。これって、現代とはまるで反対ではないか。今なら、妊娠によって太ってしまった体を、出産後いかにして元に戻すかが重要な問題であって、「肥立ち」を喜ぶ訳には参らない。
     その先の開けた場所に大きな「嵐山町名発祥之地」碑が立っている。昭和の初め、本多静六が京都の嵐山に似ているとして、武蔵嵐山と命名したのが始まりである。このため東武東上線菅谷駅は昭和十一年に武蔵嵐山駅に改称した。「日比谷公園を設計した人ですよ。」ロダンの言葉に、明治神宮も付け加えておこう。日本の主な公園で、本多静六の手の入っていないものを探す方が難しいだろう。日本最初の林学博士である。
     二階建ての四阿のベンチにリュックを下していると、近くで草刈りをしていたボランティアの男性が近寄ってきて話しかけてきた。「どこから来たの。」「県内のあちこち。」ここはみどりのトラスト三号地である。「トトロの森もそうだよね。」ヤマチャンの疑問に、「あそこは民間のものだから」と答えが返ってくる。

     「さいたま緑のトラスト運動」は、県民が主体となって基金を積み立て、その資金で県内の優れた自然や貴重な歴史的環境を取得し、県民の共有財産として保全してゆこうというものです。
     「武蔵嵐山」として名高いこの地を、平成十年に埼玉県と嵐山町が「武蔵嵐山渓谷周辺樹林地」緑のトラスト保全第三号地として取得しました。
     荒れてしまっていた山を手入れしてもとの姿に戻すと共に、いまある豊かな自然環境や景観を生かして、ボランティア等の活動や交流の拠点、また環境教育や自然解説者の実地研修の場として利用できるような施設の整備が望まれています。
     (嵐山町http://www.town.ranzan.saitama.jp/0000001125.html)

     「毎週火曜日に集まって作業するんだけど、火曜に来られない人のために、たまたま今日やってる。」毎週、手弁当で作業に来るのである。しかし火曜日と決めてしまえば、リタイアした人間に限られる訳で、現役でもボランティア活動をしたいという人を締め出すことにならないか。勿論、私がしたいと言うのではない。「私なんか地元だから歩いてくるけど、本庄とか鴻巣の人はガソリン代だけでも大変だよね。」トラスト保全三号地を守っていくのは大変なことなのだ。
     「あれはヒマラヤスギ。」大きな木で、上向きに松ぼっくりのような実をつけている。「ヤニがすごいんだよ。」珍しいから持ち帰ろうと観光客が木を揺すって落としても、結局持ち帰らずに捨てて行くという。もう一人の若いボランティアがそれを二つ拾ってきてくれた。木の上にあるのは白っぽいが、これはもう少し茶色がかっていて、実の中間は確かにヤニでべとついているようだ。「私はイイワ」とイトハンは尻込みする。「根元の方を持てば大丈夫だよ。」鱗状の表面は、松ぼっくりのように傘が開くことはない。種と一緒に剥落してしまうから、生け花に飾ることもできない。
     「エノキはオオムラサキの食草だけど、そのエノキに似たものにエゾエノキがある。」この辺にも数本あるらしい。「あらそう、私たちはそんな種類のエノキがあるなんて知らなかったわね。」イトハンは感激する。こういう話題なら、隊長から一言あってしかるべきだが、今日は何も言わない。
     伯爵夫人が生姜の千切りを和えたキュウリの浅漬けを出してくれる。「もう重いから食べちゃって下さいよ。」やはりキュウリは夏のものである。生姜が旨い。水道の水を頭にかぶって生き返る。休憩も充分とったので川に向かって出発する。「またお昼に戻ってきます。」
     千意さんは黒いサングラスで坊主頭にタオルを巻きつけているから、知らない人は怖いと思うだろう。私もサングラスをもってくればよかったのに忘れてしまった。まだ川も見えない中途半端な所に与謝野晶子の歌碑が建っていた。「なんだか、印象が違うわね。」つばの広い帽子をかぶり結っていない髪を右肩に垂らした晶子は、私たちが知っているエラの張った顔とは違って、ふくよかな洋風の美人に描かれていた。

     槻の川赤柄の傘をさす松の 立ちならびたる山のしののめ  晶子

     「しののめって何ですか。」「シノノメノストライキって歌がありますね。」ロダンは変なことを覚えている。「東の雲と書くけどね。」『東雲節』は熊本東雲楼の遊女のストライキを歌ったというのが通説だが、その発生についてはいくつかの説があった筈だ。「朝焼けのことかい。」几帳面な宗匠はすぐに電子辞書を引く。「うっすらと明るくなってくるんだよ。」夜明けの薄明かりのことを言うだろう。
     昭和十四年六月、晶子は六女(末っ子)の藤子とともにこの地を訪れ、「比企の渓」二十九首を歌った。昭和二年からは井荻村(南荻窪)に住んでいたが、既に鉄幹は昭和十年三月二十六日に六十二歳で死んでいる。この年の十月に『新々訳源氏物語』の完成祝賀会が上野精養軒で開かれた。しかし晶子は翌年五月に脳溢血で倒れ、病状は悪化した。十六年三月、鎌倉円覚寺で鉄幹七回忌の法要を行い、七月には甲州に転地療養を試みたものの、十七年五月二十九日、六十五歳で死んだ。
     そして川に出た。ここは槻川が狭いU字形にターンする場所で、地図を見ると帯を折り畳んだような格好をしている。隊長が川に手をいれた。「生ぬるいよ。」角度のせいか澄み切ったようではないが、高い岩場に登って川を眺めていた千意さんが、「澄んでるよ」と報告してくれた。トンボが飛んできた。「シオカラだね。」
     「顔を水面から上げて泳がなくちゃいけないのよ。」イトハンは確かスイミングスクールに通っていた筈だ。「最近水の事故が多いじゃない。今はクロールが主体でしょう。日本古来の泳法だと顔を上げるから、周囲の状況が分かるのね」そういうものか。「だから私たちの頃には水の事故なんか少なかった。」
     イトハンのお嬢さんは古式泳法の達人だというので恐れ入った。「是非、実演してよ。」「水着を持ってくればよかったわね。」「水着なんか要らないでしょう。」隊長の言葉が些か怪しくなってくる。「学校で教えて欲しいわね。」実は私は泳げないので、学校のプールの時間はいつも見学ばかりしていた。「この頃は少子化でプールをもたない学校が増えたんですよ」とロダンが嘆く。コストが合わないのだ。
     小さな魚がうようよ泳いでいる。「アメンボじゃないの。」「アメンボもいるけど、ほら、そこに。」二センチ程の稚魚である。「これは何かしら。」この辺ではヤマベ(オイカワ)、ウグイ、カワムツなどが釣れるらしいから、その稚魚なのだろう。

     槻川に 透き通る魚 蝉しぐれ   千意

     ただ水を眺めていてもすぐに飽きてくる。腹もへってきた。もう一度晶子の歌碑の辺りまで戻って来ると、輪切りにしたキュウリを山盛りにした丼を持った男を先頭に、数人の男がやってきた。これから河原で飯を食うのだろうか。それにしても、まだキュウリを切らなくても良いではないか。
     しかし展望台は昼食休憩の人で満員だった。さっきの男たちは、このために川に向かったのか。「そうだよな。こんな良い所に人が来ない筈がないと思ったよ。」ヤマチャンはさっきから感動しているのだ。隊長の判断で別の場所に向かうことにしたのだが、さっきのボランティアの男性が話し足りなさそうな素振りでついてくる。孤独な老人の話し相手になるのは私とイトハンである。
     「あのヒマヤラスギの種がここに来たんじゃないかと思うんだよ。」「これかしら。」確かに小さなヒマラヤスギが生えているようだ。「ウバユリは育たないんだよ。」「さっき、見ましたよ。」「二本か三本だろう。あれしかない。生えかかってもすぐに枯れてしまう。」何か特殊な事情があるのかどうか分からない。「だけど地味な花だからね。」「色がね。」「それでウバユリですか」とロダンが笑う。ウィキペディアによれば、命名の理由はそうではない。

    花が満開になる頃には葉が枯れてくる事が多いため、歯(葉)のない「姥」にたとえて名づけられた。

     もう盛りはすぎているようだが、まだ葉は枯れていない。そのウバユリの前でサヨナラをして、先に行く隊長たちに追いついた。隊長は川辺に降りて、橋を渡って対岸に向かうようだ。塩沢冠水橋である。歩行者専用のコンクリート製の橋で、欄干がないのは洪水で冠水しても流木などが絡んで堰き止めないようにしているのである。「ここまで水が来るのかい。」来る時があるのだろう。
     川の中では黒いビキニの女性と男性、子供連れが五六人で泳いでいる。橋の途中で立ち止まってなんとなく景色を眺めていると、後ろから、「早く渡りましょうよ」と伯爵夫人が駆け抜けた。欄干のない橋の途中で立ち止まっているのは、確かに余り気持ちの良いものではない。しかし伯爵夫人は別のことを感じたのかも知れない。つまり、私たち男性陣の視線が怪しかったのかも知れないと、私は反省するのだ。

     橋の上黒きビキニを目で追ひて  蜻蛉

     「これがサイカチだよ。」おおきな莢が垂れ下がっているが、実はついていなようだ。「枝にトゲがあるの。」「これはなそうね。」「良いところじゃないの。嵐山なんて大妻嵐山しかしらなかったよ。」嵐山渓谷は良いところなのだ。久し振りに里山ワンダリングの名に相応しい散策になった。
     「シキが鳴いている。」千意さんが悪戯っぽい目をして言う。なるほど子規、つまりホトトギスが鳴いている。ところでホトトギスには、子規の他に不如帰、杜鵑、時鳥、杜宇、蜀魂、田鵑など、やたらに漢字表記がいろいろある。

     早口に 旅人を呼ぶ ホトトギス  千意

     河原に降りて昼食だ。「ビニールシート敷きますか。」「この階段に座れば良いよ。」取り敢えず、宗匠、ロダン、マリー、蜻蛉がシートを敷いた。「こんなに可愛いの。」マリーのシートは幼稚園の子供が使うようなものだ。
     夏の日差しを浴びながら河原で弁当を広げるのは気持ちが良い。なんだか眠くなってしまう。マリーからは洒落た包装の菓子が回されてくる。「俺はいらないと思う。」「甘くないよ、豆だから。」細い海苔巻き煎餅のような格好だが、海苔の中に豆が入っているのだ。ドクトルはよほど気に入ったのか、「どこの名産だい」と頻りに訊いている。熊本の「風雅巻き」というものらしい。千意さんからはグミが提供されるが、これは戴かないことにする。
     川を離れてしばらくは道路を歩く。「桔梗じゃないの。」畑の端に咲く花を見て宗匠が声を上げた。確かに鮮やかな青紫のキキョウが咲いている。「時期的に早くないかな。」桔梗は秋の七草ではあるが今頃から咲いている。後日宗匠から、あれはほんとに桔梗だったかと疑問が出たが、星形の青紫の花は桔梗で間違いない。

     やがて「くよづかのべったら地蔵」というものに出会った。細いものも含めて道が六つに分かれているので六道の辻と呼ぶ。そこに地蔵堂を立てたのだ。「くよづか」とは供養塚の意味だった。堂はちょっと高い土台に建っていて、格子越しに覗いても背の高い地蔵の顔が見えない。「見えないわね。」正面から裏にかけてちょっとした斜面になっているから、裏に回ると土台の上に乗れた。格子を握りながら回り込むとちゃんと見える。「イトハン、こっちから回れるよ。」「そんな場所があったの。」
     地蔵の顔は正面から見ると優しげだが、横から見ると顔が扁平だから「べったら」なのだ。襷を両袈裟がけにし、頭には赤い毛糸の帽子がかぶせてある。宝永六年(一七〇九)の銘があるらしい。堂の前の鰐口をロダンが伯爵夫人に教えている。「ヘーッ、これが鰐の口なんですか。」その時、いきなり隊長が鰐口を鳴らしたので驚いた。  横には如意輪観音、その後ろには半分欠けた(おそらく阿弥陀三尊種子)板碑が埋もれている。「削り花だよ。」宗匠の言葉で地蔵堂の壁に立てかけた削り花を確認する。かなり茶色っぽく汚れているので、だいぶ前に立てかけたものだろう。
     「本当に道が六本あるのかな。」「一本足りないんじゃないか。」「その脇道も勘定するんだろう。」「こっち、こっち。」地蔵堂の脇の道を入る。

     六道の辻に憩へり百日紅  閑舟

     周辺の墓地には板碑形式の墓石がやたらに目につく。「この花はなんだろう。」畑の脇にオレンジ色のユリのような花が咲いていた。見た記憶はあるし、名前も知っていたはずなのに出てこない。「ヤブカンゾウだよ」と隊長があっさり決める。思い出した。なんとなくクチャクチャと萎んだように咲いている。別名ワスレグサは、一日花と考えられたために名付けられた。

     六道の辻に迷へば忘れ草  蜻蛉

     ワスレグサと言えば、立原道造『萱草(ワスレグサ)に寄す』を思い出す人もいるだろう。ワスレナグサではありません。ただ、道造が萱草と呼んだのは、同じユリ科ワスレグサ属のユウスゲであったようだ。その『萱草に寄す』冒頭の詩を引いておこう。

     はじめてのものに

     ささやかな地異は そのかたみに
     灰を降らした この村に ひとしきり
     灰はかなしい追憶のやうに 音立てて
     樹木の梢に 家々の屋根に 降りしきった

     その夜 月は明かつたが 私はひとと
     窓に凭れて語りあつた(その窓からは山の姿が見えた)
     部屋の隅々に 峡谷のやうに 光と
     よくひびく笑ひ声が溢れてゐた

     ――人の心を知ることは……人の心とは……
     私は そのひとが蛾を追ふ手つきを あれは蛾を
     把へようとするのだろうか 何かいぶかしかつた

     いかな日にみねに灰の煙の立ち初めたか
     火の山の物語と……また幾夜さかは 果して夢に
     その夜習ったエリーザベトの物語

     県道一七三号を渡って東に歩いた所に嵐山幼稚園があった。比企郡嵐山町鎌形二二三〇番地。あまり目にしたことのない、長い棒のような花穂の先端に黄色い小さな花が咲いている。「ビロードモウズイカ。」「この葉がビロードか。」そう言われれば、葉の表面がそのように見える。ゴマノハイグサ科モウズイカ属。モウズイカとは毛芯花と書く。当然日本原産ではなく帰化植物である。

     日本においては、明治時代初期に観賞用として導入された。現在では全国各地に溢出し、市街地から山間部の道端まで広く見られる。日本におけるビロードモウズイカの分布域は三十以上の都道府県に及び、日本において「成功した帰化植物」の一つと考えられる。
     ビロードモウズイカは裸地や荒地、一般には砂地や石灰質土壌の先駆植物としてもっとも頻繁に成育する。この植物は土手、草原、道路脇、伐採地、牧草地などを含む多様な環境で成育できるが、乾燥した砂礫土壌でもっともよく育つ。この広範な環境での成長能力は適応力の幅広さというよりむしろ、強力な表現型の多様性に関連している。(ウィキペディアより)

     建物は昔の学校の木造校舎のようで、赤い瓦屋根に壁板を青く塗ってある。「信州の小学校みたいじゃないか。」「そうですね。」ヤマチャンとロダンの会話が私には分かっていない。調べてみると、飯田市南信濃木沢にある小学校らしい。私が最初に通った秋田市立築山小学校も勿論木造だったが、こんなにカラフルではなかった。
     横に回り込むと、「旧日本赤十字社埼玉県支部社屋」の解説板が立っていた。もともと浦和市内にあったものを、どういう理由か分からないが、昭和五十八年にここに移築したのである。明治三十八年建築、十八世紀から十九世紀に流行したピクチュアレスク(絵画的な奇抜なデザイン)であり、イギリスの植民地住宅に見られる様式だという。また日本では外国人居留地にしか見られないとも説明されている。「浦和に外国人居留地があったのかい。」「そうではないだろう。」
     移築されてからは鎌形小学校の講堂や音楽室として使用されていたが、人口減少によって小学校は平成十九年に閉鎖された。閉校記念碑が建っている。「開校記念はよく聞くけど、閉校記念は珍しいね。」「地元じゃ大事な学校だったんだよ。」明治二十五年に鎌形尋常小学校として創立し、平成四年には創立百周年を迎えた伝統のある小学校だった。現在は町立嵐山幼稚園が使っているが、この幼稚園も定員に満たない状況らしい。子供がいないのである。

     右に曲がって坂を下ると鎌形八幡神社だ。すぐ左には都幾川にかかる八幡橋が見える。擬宝珠付きの欄干が風情ある。林の中の参道に入れば一瞬暑さを忘れる。比企郡嵐山町鎌形一九九三。
     かなり古びた石の鳥居から一直線に、二の鳥居、神門の先の石段の上の拝殿までが見渡せる。伝承によれば、延暦年間(七八二〜八〇六)に坂上田村麻呂が九州の宇佐八幡神社宮を勧請したのが始まりとされている。そんな起源は信じなくても良いが、この神社は帯刀先生源義賢、朝日将軍木曽義仲、清水冠者義高三代にまつわる伝説を伝えている。帯刀(たてはき)は東宮親衛隊、先生(せんじょう)はその指揮官である。
     私は木曽義仲がこんなところで生まれたなんてまるで知らなかった。「義仲の父親は義朝の弟でしたか。」ハコさんは意外にこういうことに詳しいのである。義仲と頼朝とは従兄同士なのは知っているから「そうです」と答えたが、実は私も詳しく知っているわけではない。取り敢えず、ウィキペディア(源義賢)から抜き出してみる。

     父・為義と不仲になり関東に下っていた兄・義朝が、仁平三年(一一五三)に下野守に就任し南関東に勢力を伸ばすと、義賢は父の命により義朝に対抗すべく北関東へ下った。上野国多胡を領し、武蔵国の最大勢力である秩父重隆と結んでその娘をめとる。重隆の養君(やしないぎみ)として武蔵国比企郡大蔵(現在の埼玉県比企郡嵐山町)に館を構え、近隣国にまで勢力をのばす。

     ここが源義賢の館である。河内源氏統領の為義には子供が四十人もいたらしい。義朝はその長男であり、義賢は二男、為朝は更に弟になる。摂関家と結んで勢力を伸ばそうとする為義と、東国武士団の勢力を背景にして鳥羽院と結びつく義朝との間は決定的に対立した。義朝の弟たちは全て父為義と行動を共にしたから、親子兄弟の間の対立にも発展したのである。
     久寿二年(一一五五年)八月、義賢は義朝の長男悪源太義平に大蔵館を襲撃され、義父・秩父重隆とともに討たれた。このとき、義賢の次男でまだ二歳の義仲は、畠山重能・斎藤実盛らの計らいによって乳父の中原兼遠に抱かれて木曾に逃れ、その庇護のもとで成長することになる。義仲にとっては、伯父の義朝、従兄の義平は父の仇であり、そうであれば、義朝の血を引く頼朝とは従兄弟同士とはいえ、最初からうまく行く筈がなかった。義仲は頼朝の七歳下、義経より鹿砦上である。
     久寿二年は保元の乱の前年に当たる。そして保元の乱では、為義は四男から九男までの息子を率いて崇徳上皇方につき敗れた。為義の子で唯一後白河天皇方についたのが義朝で、父と弟を処刑する役回りを担ってしまった。『保元物語』では、これが義朝の身を滅ぼす原因になったのだと断言する。

     中にも義朝に父をきらせし事、前代未聞の儀にあらずや。且は朝家の御あやまり、且は其身の不覚なり。(中略)
     ・・・・誠にたすけんと思はんに、などか其道なかるべき。恩賞に申替るとも、たとひ我身をすつるとも、いささかこれを。救はざらん。他人に仰付られんには力なき次第也。誠に義にそむける故にや、無双の大忠なりしかども、ことなる懸賞もなく、結句いく程なくして、身をほろぼしけるこそあさましけれ。

     「貞和の懸仏」の解説板が立っていた。私は懸仏を良く知らなかったので有難い。写真を見ると円盤の中央に阿弥陀仏が浮き彫りにされ、上部の二ヶ所に吊るすための穴を開けてある。これを内陣に掛けて礼拝の対象にしたのである。神社に阿弥陀仏だから正に神仏混淆の象徴になる。もともと八幡神は特に仏教と縁の深い神だ。貞和四年(一三四八)の銘があるといえば、楠木正行・正時兄弟が高師直に討たれ、後村上天皇が大和五條に逃れた年である。
     向かい合うように立つ、もう一つの「鎌形八幡神社」(埼玉県)」の解説では、これよりももっと古い安元二年(一一七六)の懸仏もある。それには「奉納八幡宮宝前 安元二丙申天八月之吉 清水冠者源義高」と陰刻されているという。そして「源義高は安元二年には生まれていない」と書かれているのだが、その根拠は何だろう。義高は承安三年(一一七三)に生まれていて、このとき四歳になっている筈だ。まだ木曽山中で過ごしていた筈だが、義高の名義で実は義仲が、父の館だったこの神社に奉納したものだろうか。
     「貞和の懸仏」の解説(嵐山町教育委員会)には県内最古とあるのに、それよりも古い安元二年のものはどうして無視されるのだろう。また「鎌形八幡神社」には、阿弥陀仏は安元二年の方で、貞和の懸仏は薬師如来だと書かれている。同じ境内にある二つの解説板が違うことを書いてあるのもおかしい。
     二の鳥居を潜ったところで、石燈籠の前でロダンが不思議な動きをしている。「何してるの。」「そこ、読めますか。」ロダンがイトハンと私に近寄って来て、石灯籠の脇の小さな石標を指差す。「読めないわ。」私はちゃんと読める。木の根が伸びているため、石燈籠が傾いて危険だと書いてある。「あれが読めるんですか。スゴイ。」
     読めるのがスゴイのではない。石燈籠のすぐ傍によって見なければ分からないような説明は、却って危ないのではないかとロダンは言うのだ。確かにそうだ。
     「龍がスゴイわね。」イトハンが感激するのは拝殿の蟇股、木鼻の彫刻だ。色は褪せているが、かなり豪華な彩色を施していたようだ。宗匠も一見の価値があると断言する。
     「木曾義仲産湯清水」の石柱が立つ手水舎は、確かに湧き水のようだが、手水鉢が綺麗でないので、そのまま飲むのには躊躇する。しかし、柄杓でその水を頭にかけると冷たくて気持がよい。隊長はロダンに、なんとか崖線だと説明している。

     「次はお寺に行きます。」暫く歩き脇道に入るところに、白い布を巻かれた菩薩が立っている。台座の文字は摩滅しているが、「明和九年」「鎌形村領主 大久保善明」と読めるだろうか。向かい合わせに、やはり白い布を胸に巻かれて顔がのっぺらぼうの地蔵が立っている。そこを曲がれば斑渓寺だ。威徳山。比企郡嵐山町鎌形一九〇七。門前に「禁葷酒」の結界石があるから禅宗であろう。この結界石には文政四年の銘がある。
     木曾義仲の長男である義高の母(つまり義仲の妻)の妙虎大姉(山吹姫)が、義高の菩提を弔うために創建した寺だとされている。義仲といえば巴御前を連想するが、山吹姫なんて知らないぞ。義高の母は中原兼遠の娘とされていて、その名が山吹であったかどうか証拠はないだろう。
     「木曽義仲長男 清水冠者源義高為 阿母威徳院殿班渓妙虎大姉 創建スル所也」の石碑が建っているのだが、「阿母」が実母と判断してよいのかどうか。「阿母」には乳母の意味もある。また「為」の文字の位置が変格であろう。「義高のため」と読むのであれば、「為」は冒頭にこなければならない筈だ。
     清水(志水)冠者義高は、頼朝の長女大姫の婿、実質的には人質として十一歳で鎌倉に入っていた。婿と言ってもまだ幼く、許婚という立場であったろうが、『吾妻鏡』の記事を見る限り、大姫との間は仲睦まじく、政子にも可愛がられていたようだ。元暦元年(一一八四)、義高は十二歳である。

    ○(四月)二十一日己丑。去夜より、殿中聊か物騒す。是志水の冠者武衛御聟たりと雖も、亡父すでに勅勘を蒙り戮せらるるの間、其の子として、其の意趣尤も度り難きに依り誅せらるべ きの由、内々思し食し立つ。この趣を昵近の壮士等に仰せ含めらる。女房等此事を伺聞き、密々姫公御方に告げ申す。仍て志水の冠者計略を廻らし、今暁遁れ去り給う。此間女房の姿を仮り、姫君御方の女房これを圍み郭内を出し畢んぬ。(中略)武衛(頼朝)太だ忿怒し給う。則ち幸氏を召し禁しめらる。また堀の籐次親家已下の軍兵を方々の道路に分け遣わし、討ち止むべきの由を仰せらると。姫公周章し魂を鎖しめ給う。
    ○二六日甲午。堀の籐次親家郎従籐内光澄帰参す。入間河原に於いて志水の冠者を誅するの由これを申す。この事密儀たりと雖も、姫公すでにこれを漏れ聞かしめ給い、愁歎の余り、奬水を断たしめ給う。理運と謂うべし。御台所また彼の御心中を察するに依って、御哀傷殊に太だし。然る間殿中の男女多く以て歎色を含むと。(『吾妻鏡』)

     義仲が既に討たれ、その息子も殺されなければならない。女房の姿に変装して脱出したが、入間河原(狭山市)で討ち取られた。これによって義仲の血統は断絶したのである。義高の死を知った大姫は嘆きのあまり病に倒れ、政子は頼朝を強く詰った。
     本堂前には大きな「木曽義仲公顕彰碑」がある。『平家物語』では義仲の田舎者振りが嘲笑されているが、大概の坂東武者だって同じようなものだったのではいだろうか。
     墓地に入って山吹姫の墓を探すと、歴代住職の無縫塔が並ぶ一角の入口に古めかしい小さな五輪塔が立ち、横に新しい観音像が立っている。

     義仲の縁の寺や不如帰  閑舟

     山門の脇にピンクの百日紅が真っ盛りに咲いているのに、その横の同じような百日紅の木には花がない。「どうしてかしら。」私に分かる筈がない。

     三代の非業に死すや百日紅  蜻蛉

     都幾川に架かる班渓寺橋は、朱塗りの欄干に金の擬宝珠があしらわれている。ここは渡らずに都幾川に沿って草むらを北に歩く。さっき見た八幡橋を渡って、川の東側に出る。一面田んぼの中だ。「あの、ガードレールのところまで行きます。」山の中腹には国立女性教育会館NWECの茶色の建物が見える。「仕分けにあっただろう。」民主党政権の事業仕分けで、蓮舫の追求を受けたのである。
     「あそこまで。随分遠いね。」「一・四キロってとこかな。」田圃の中の道である。喉が渇いて来た。「コンビニがないんだよね。」ロダンとハコさんは水がなくなったらしい。「オオムラサキの森に行けば自動販売機があるよ。
     「ちょっと休んでいいかしら。」イトハンの希望で少し休憩する。塩飴が廻って来る。塩は嬉しいが、飴を舐めていると喉が渇いてくる。私の二本目のお茶もここでなくなった。隊長はイトハンやカズちゃんに「大丈夫ですか、無理しないで」と声をかけている。「水は飲んでますか。」「大丈夫、まだ凍ってるの。」イトハンはペットボトルを首筋に当てる。
     やっと、隊長が言っていた大通りまで来た。その「あそこが、河岸段丘なんだよ、二段になってるだろう。」右手の坂を指さして隊長がロダンに説明している。
     二瀬橋を渡る。隊長は「蝶の里」の石標のある脇道に入っていったが、どうやらこれは間違いだったようで元に戻る。「空が少し黒くなって来たんじゃないか。」やや怪しげな空模様だ。この道の両側が蝶の里公園になっているのだが、どこから入るのか。少し歩いて「ここだね」と左に入った。どうやら、エノキ(?)の樹液が垂れている場所が目的らしいのだが、オオムラサキはいないようだ。隊長はすぐに諦めた。ここにもヤブカンゾウが咲いていた。
     もう一度道に戻って、喉の渇きを我慢しながら歩いて行くと右手にオオムラサキの森活動センターがあった。比企郡嵐山町菅谷八二九番地一。ここに自動販売機があるのだろう。「あそこじゃないの。」違った。センターの中にあるのだろうか。「ありません。」
     「ここから五分程歩けば、倉庫の前にありますよ」と職員が教えてくれた。それでは歩こうか。「五分は間違い。二分位かな。」取り敢えず水分を補給しなければ死んでしまう。「その前に人数だけ書いてください」と言われて宗匠が十二人と書く。「県内ってどこですか。」この質問は今日二度目だが、なかなか難しいのだ。「あっちこっちから。」「そうですか。」
     道路に出て前方を眺めてみる。「あそこだよ。」なんだ、すぐ見える場所だった。「売り切れてたりして。」「早いもの勝ちだからね。」急がなければならない。これでやっと息をつく。
     鎌倉海道の解説板が立っていた。センターに戻る。靴を脱ぐのは面倒だが、さっき自動販売機の場所を教えてもらったからには、少しは説明を聞かなければならない。義理である。といってもここに来るのは三度目だから、特に聞きたい情報があるわけではない。ヤマチャンは初めてだから、「国蝶」という言葉にもいちいち頷きながら感激している。
     「オオムラサキがいたよ。」隊長の声で外に出る。建物を出てすぐ傍にある木に、オオムラサキが一頭取りついているのだ。最初は翅を閉じていて、茶色の地味な色しか見えなかったが、やがて蜜の味に陶酔したのだろうか、翅を広げてじっとしている。「ちゃんと撮影してくれよ。」ヤマチャンは宗匠が撮影した画像を貰おうという魂胆のようだ。「もっと大きなものかと思ってたわ。」「俺もそう思ってた。」イトハンやヤマチャンはやや不満気だ。「だって、オオムラサキって言うぐらいだから。」

     夏木立オオムラサキの翅広げ  閑舟

     暫くオオムラサキを観察した後、センターの手摺に凭れながら周辺を眺めていると、「あっ、キリギリス」とイトハンが声を上げた。すぐ目の前にいるのに隊長は全く気がつかない。「どこ。」隊長は目をきょきょろさせている。「エイッ。」いきなりカズちゃんが目にもとまらぬ早業で、隊長の目の前の手摺に止まっているキリギリスを打ち払った。
     何が起きたのだろうか。隊長は呆然としている。「ゴメンナサイ。私が嫌いなものだから、払ってしまったの。ホントにゴメンナサイ。」そんなに謝る必要もないが、その早技に驚いたことは確かだ。隊長は苦笑いするしかない。
     道路には戻らずに、林の仲を抜けて城跡を通って行く。広場に出ると団体が先着して休んでいた。水道があるので水をかぶる。気持ち良い。嵐山史跡の博物館の横を通って二五四(嵐山バイパス)に出る。「犬の床屋がある。」「今朝も気づいてたわよ。」朝は気付かなかった。「ブリーディングとか言うんですよね。」それは違うんじゃないか。ブリーディングは繁殖させて売る商売ではなかった。マリーによればトリミングというらしい。「資格がいるのかな。」「要るわよ。」
     あとは駅を目指すだけだ。「この辺に教会何かありましたか。」「あったような気がするよ。」この当たりを歩いたのは何年前だろうか。駅東口の交差点を左に曲がり、嵐山駅入口にくればもう駅は目の前だ。宗匠の計測で、本日の歩行距離は二万歩である。この暑さを思えばよく歩いた方だ。
     「電車の本数は少ないんだよね。」十五分に一本はあるんじゃないか。しかし宗匠の方が正しかった。この時間帯では一時間に三本しか走っていないのである。ちょうど出たばかりのようで、二十分待つことになった。「着替えてこよう。」私もそうしよう。トイレでヤマチャンと一緒に着替える。一緒といっても個室に入ったわけではなく、手洗いのところだ。
     電車のなかには浴衣姿の娘が数人いた。「花火大会があるのかな。」「隅田川の花火が今日ですね。」この時間から両国にいくだろうか。「あちこちでやってるんじゃないかな。」小川町と越谷も今日予定されている。
     川越に着いたのは五時だ。前もってロダンと打ち合わせて今日は「大」ビッグに決めてある。浴衣姿の娘たちの姿が多いのは川越祭のためだ。「前にも川越祭のときに川越で飲まなかったかしら。」マリーに言われると、そんなこともあったような気がしてくる。調べてみるとちょうど一年前のことだ。あの時は甚平姿の若い娘の姿が目立ったが、今日はそんな連中は見えない。
     ビッグはいつも混んでいる。少し待たされて十人掛けのテーブルに十一人が座ることになった。痩せた人間が六人並び、比較的痩せていない五人と向かい合う。「そんなに太ったひとはいないのにねえ。」やはり歩いているせいだろう。それにしても十二人が歩いて、反省するもの十一人とはなんと高打率であろう。「歩留まりがいいですね」とロダンが喜んでいる。
     最初のビール一杯が堪えられない。今日もロダンの適切な注文で、楽しく飲んだ。二千五百円也。しかし会計を済ませて店を出ると土砂降りで、駅に着くまでの間にすっかり濡れてしまった。越谷は朝のうちに中止を決めていたが、隅田川の花火は強行して三十分で中止になったらしい。

    蜻蛉