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    平成二十五年九月二十八日(土)  栗橋

    投稿:   佐藤 眞人 氏     2013.10.06

     旧暦八月二十四日。秋分「蟄虫杯土」。爽やかな快晴である。この日、NHK朝ドラマ『あまちゃん』が最終回を迎えた。この半年間、大いに笑ってきたから聊か淋しい。来週からどうしたら良いだろう。
     栗橋は大宮から宇都宮線で二十九分、JRと東武日光線とが乗り入れている駅である。私は大宮で乗り換えてきたが、越谷方面の人は春日部か東武動物公園で日光線に乗り換えて来ただろう。
     かつての北葛飾郡栗橋町は、平成の大合併で久喜市、南埼玉郡菖蒲町、北葛飾郡鷲宮町と統合して久喜市になった。日光街道が利根川を越える要衝であり、権現堂川(旧利根川の流路)を挟んで東側の茨城県猿島町五霞町の一部(元栗橋)も、歴史的には栗橋に含まれる。
     改札に向かう出口はホームの北の端で、随分歩かされる。前方に何人か仲間らしい姿が見える。トイレで千意さんと一緒になった。千意さんはハンチングが似合う。橋上駅舎の改札口の前にはもう随分集まっている。
     「この像は何かしら。」長い袖の外套を纏った少女が胸で両手を交差させている像で題は「冬の像」、作者は佐藤忠良である。「誰だい。」「地元の彫刻家じゃないか。」誰もその名前を知らない。「こういう時これが便利なんだよ。」スナフキンは最近スマホを買ったばかりで、「まだ使いこなしてないけどな」と言いながらネットを検索する。するとすぐに出てきた。「有名人なんだよ。」
     佐藤忠良は明治四十五年に宮城県に生まれ、幼少時は北海道夕張で過ごした。東京美術学校彫刻家を卒業。終戦から昭和二十三年までシベリアに抑留された。昭和四十九年に高村光太郎賞、第十五回毎日芸術賞、芸術選奨文部大臣賞、五十年に中原悌二郎賞などの受賞歴がある。東京造形大学名誉教授。一昨年、九十八歳で死んでいる。女優佐藤オリヱの父で、この像のモデルがオリヱであったが、栗橋とどういう関係があるのか分からない。永福町駅や滋賀県の佐川美術館など、他にも同じ像が置かれる場所があるらしいから代表作なのだろう。

     今日の参加者は隊長、宗匠、ハコさん、ロダン、千意さん、スナフキン、ダンディ、ヤマチャン、あんみつ姫、イッチャン、シノッチ、ハイジ、カズチャン、椿姫、サッチャン、イトハン、マリー、蜻蛉の十八人になった。
     但し椿姫は東鷲宮辺りで渋滞に巻き込まれ、少し遅れるとの連絡がダンディに入っている。「駐車場を探すのも大変じゃないかな。」久しぶりのサッチャンは、相変わらず長い三脚付のカメラを右手に持っている。重いだろうね。ハイジは「夏の間は閉じ籠り放しだったわ」と笑うが、少し体調を崩していたらしい。カズチャンも仙台に行ったり来たりしていたようだ。
     定刻を過ぎたので、椿姫をエスコートする役目はダンディに任せて出発する。駅舎を出てすぐ北にある静御前の墓は、ポケットパークのように整備されている。「以前も来たことがあるよ。」「いつだっけかな。」隊長は忘れているのだろうか。「赤蕎麦の花を見たでしょう。」平成二十年十月に幸手から栗橋まで歩いた時のことだ。
     「静御前の墓は九州から東北まで、全国にいくつもあるんだ。」「どこが本物なんだい。」記録が全くなくて分からないのだ。だから「本物」なんかはなくて、どんなことでも言える。

     静の死については諸々の伝承があるが、はっきりしたものはない。自殺説(姫川(北海道乙部町)への投身、由比ヶ浜への入水など)や旅先での客死説(逃亡した義経を追ったものの、うら若き身ひとつでの移動の無理がたたったというもの。静終焉の地については諸説ある)など列挙すればきりがないが、いずれにせよまだ若年のうちに逝去したとする説が多い。(ウィキペディアより)

     栗橋の言い分では、奥州に逃れた義経を追ってここまで来て死んだことになっている。「九州よりは説得力あるような気がするわ。」マリーは簡単に判断するが、これは福島県郡山市が主張していることとほぼ同じ事情だ。栗橋の主張するのはこんなことだ。

     静御前は源義経の内妻で、文治五年九月十五日(一一八九年)ここ久喜市井坂(旧村名、静村)にて悲恋の死を遂げました。
     その時、侍女琴柱は遺骸を当時この地にあった高柳寺(現・中田の光了寺)に葬り、一本の杉の木を植え、そのしるしとしました。弘化三年五月(一八四六年)利根川氾濫により枯れてしまいこの時、杉の代わりに銀杏を植えたそうです。
     「静女之墳」は、静御前の墓だというしるしがないため、中川飛騨守忠英が、享和三年五月(一八〇三年)に建てたものと考えられています。(久喜市栗橋観光協会「静御前ゆかりの地 くりはし」より)

     墓を建てた中川飛騨守忠英は、寛政九年(一七九七)から文政三年(一八二〇)にかけて関東郡代の職にあった人物である。寛政七年(一七九五)に長崎奉行となり、手附出役の近藤重蔵に命じて『清俗紀聞』を編纂させているから、地誌や風俗に関心があったのだろう。寛政九年(一七九七)に勘定奉行となって関東郡代を兼帯した。文化三年(一八〇六)には関東郡代のままで大目付になり、四年(一八〇七)に蝦夷地に派遣されている。
     切妻屋根と玉垣に囲まれた墓域の正面には「静女之墳」、左右の黒御影石に「しづやしづ しづのをだまき くり返し 昔を今に なすよしもがな」と「吉野山嶺の白雪踏み分けて 入りにし人の跡ぞ恋しき」の歌が記されている。
     以前来た時とは少し様子が変わっている。以前は正面の「静女之墳」がなく、その後ろの、円の中で舞う静御前がすっきり見えたように思う。要するに今ある「静女之墳」は邪魔だ。その手前左には石製の厨子が置かれ、正面のガラスから、中川飛騨守が建てたという墓石が収められているのが見える。玉垣の外には義経招魂碑、静女所生御曹司供養塔(昭和六年・香積山人建立)も並んでいる。この御曹司供養塔も以前はなかった。
     「これは何て読むのかしら」とイッチャンが首を傾げているので、「静が生んだ男の子の供養塔。頼朝によって鎌倉で殺された」と教える。「頼朝って猜疑心の強い男だったんだな。男子は皆殺しか。」「静は一人しか生まなかった。」
     文治二年(一一八六)四月八日、静は鶴岡八幡宮社前で頼朝を前に、詠い舞った。

     静がその日の装束には、白き小袖一襲ねに、唐綾を上に引重ねて、白き袴踏みしだき、割菱縫いたる水干に、丈なる髪高らかに結ひなして、この程の嘆きに面痩せたる気色にて、薄化粧に、眉細やかに作りなし、皆紅の扇、(略)(『義経記』)

     満場の坂東武者は感涙に咽んだが頼朝は激怒した。反逆者義経を想い続けることは、鎌倉に対する反逆である。それを北条政子がとりなしたと『吾妻鏡』は記す。

    暗夜に迷ひ深雨を凌ぎて君の所に到る。亦石橋の戰場に出で給ふの時、獨り伊豆山に殘留す。君の存亡を知らずして日夜消魂す、その愁ひを論ずれば今の靜の心の如し。

     私だって、あの時は今の静と同じ気持ちだったと政子は言うのである。『吾妻鏡』は北条政権の正史だから政子顕彰の目的があるのは明らかだ。この時静は妊娠していて、男子なら殺すと頼朝の通告を受けた。閏七月二十九日に出産した男子は、泣き叫ぶ静の面前で安達清常が取り上げ、由比ガ浜に沈められた。
     静と母の磯禅尼は九月十六日に鎌倉を後にし、京都へ戻った。静の消息は歴史の記録としてはここで終わる。資料的価値はないが『義経記』では、静は十九歳で髪を下ろして天王寺の麓の庵で過ごし、翌年にはそこで死んだとされる。
     気が付くとスナフキンが団子の串を持っている。「どうしたんだい。」「そこで、六十円だったよ。」甘辛の醤油ダレは甘くはないか。「この時間じゃ食べられないわ。もう少し後だったらよかったのに。」団子を食いたいとは思わないが、そばで誰かが食っていると腹が減ってくる。
     その和菓子屋から女将さんが出てきて「一本六十円ですよ」と声をかけてくる。女性陣は目を見合わせていたが、結局みんな団子を買いに走った。まだ食べられないと言っていたあんみつ姫までがその仲間に加わっている。まことに腹は別腹である。「俺が宣伝したお蔭じゃないか。少し割引しても良いよな。」

     しづやしづ秋麗かに串団子  蜻蛉

     「静桜ってどれのこと。」さっき、みんなで見ていたのだが宗匠は確認し漏れていたようだ。「そこにあるよ、札がついてる。」十月十九日に催される「静御前まつり」のポスターが何枚も貼られた掲示板の脇に立つ木だ。

    静桜は、里桜の一種といわれていますが、ソメイヨシノのような一般の桜に比べ、花期の訪れが遅く、四月中頃から開花します。花は、五枚の花弁の中に、旗弁(はたべん)といって、おしべが花びらのように変化したものが混じる特殊な咲き方をします。
    このことから、開花した様子は、一見、八重と一重が混じったように見え、他の桜とは趣を異にした風情を見せています。(久喜市栗橋観光協会)
    http://www.kurihashi-guide.jp/cn_tour_guide/sizuka.html

     かなり待った積りだが椿姫は一向に姿を現さない。ダンディと二人でどこかに行っちゃったんじゃないか。隊長は出発を宣言した。北東に五分程歩いたところが宝治戸池だ。寛保二年(一七四二)、利根川氾濫によってできた池で、かつてはもっと広大なものだったが、周辺を埋め立て、現在の形になった。外周三百五十メートルが柵で囲まれ「私有地」の札が立っているのも不思議なことだ。
     十本程の白いヒガンバナが柵に絡まるように咲いている。「最近は白いのもあるんですよね。」綺麗ではあるが、ヒガンバナの名にそぐわないような気がする。「赤い花なら曼珠沙華」だからね。

    赤い花なら 曼珠沙華
    阿蘭陀屋敷に 雨が降る
    濡れて泣いてる じゃがたらお春
    未練な出船の あゝ鐘が鳴る
    ララ鐘が鳴る(『長崎物語』作詩:梅木三郎・作曲:佐々木俊一)

     香取神社は素通りして八坂神社に入る。本来は牛頭天王社で、祭神はスサノオだ。八岐大蛇を退治したのだから勿論水に縁が深い。道路際に「関所番士屋敷跡」の標柱が立っているが、それに関する説明はどこにもない。
     ここにダンディと椿姫がやっと現れた。今まで何をしていたのだろうか。「また書かれちゃう。」「酷いこと書かれちゃったからね。」「あれは宗匠で、俺は書いてませんよ。」

     合流を嫌がる如くドジャース帽  閑舟

     帽子マニアのダンディの今日の帽子がドジャースなのだ。ドジャースについて色々薀蓄を語っているが、二人で遅れた事実を忘れてもらうために話題を切り替えたのである。だが、しっかりと「合流を嫌がる」と見透かされている。
     拝殿の前には、狛犬の代わりに勢いのある鯉が対に置かれているのが珍しい。こういうものを「狛鯉」などと言う人がいるが、間違いだと断言して良いだろう。波の上に身を躍らせるような形で、左は「災除の鯉」、右は「招福の鯉」である。「ここに由来が書いてあるぜ。」開いた本を鯉と亀が頭で支える格好の石碑だ。

    御祭神 素盞鳴命
    慶長年中利根川洪水ノトキ水溢を防カントテ村民等堤上ニ登リ居タリシニ渺々タル  水波ノ中ニ鯉魚ト泥亀トアマタ囲ミ神璽ト覚ホシキモノ流レ来タレリ引キ上ゲ見ルニ全ク御神像ニテ元栗橋ノ天王ナルコト集ヘル村民等モ見認メ得タリシカバ衆庶皆奇異ノ思ヒヲナシカゝル乱流ノ中ニ傾覆ノ患ヒモナク鯉魚泥亀ノ類囲テ当所ニ流レ来ル事ハ之レ霊ノ然ラシムトコロトナシ則ニに勧請ス
    元和年中當地開墾栗橋宿ト称シ奥羽日光両街道ト定メラレ衆庶集マル為鎮守神社益々殷賑ス  新編武蔵風土記

     「元栗橋ノ天王」が流れ着いたのである。元栗橋つまり茨城県五霞町には今でも八坂神社がある。後で歩くことになる権現堂堤で舟渡橋を渡ってすぐのところらしい。かつてと同じ場所に位置しているのなら、洪水で川を遡ってきたのだろうか。そして五霞町の方には神体が失われていることになる。
     境内社には一間社流造の波除八幡神社、日枝神社、皇太神宮が並んでいる。「コウダイ神宮って読みますか。」「普通はコウタイでしょうね。」看板に「コウダイ」とルビを振っているのを、濁音にはとても煩いダンディが見つけたのだ。
     ヤマチャンが日枝神社の説明を読んでいるので、「日枝神社は比叡山の地主神だよ。」と言っていると、「エッ、そうなの」と宗匠も驚いている。インド仏教の原理的なことを勉強していても、日本の神仏習合にはあまり詳しくないか。比叡山延暦寺(天台宗)の護法神として山王権現とされた。明治の神仏分離で権現名称が禁じられたため、日枝(日吉)神社、山王神社などと称している。「それじゃ溜池山王も同じかな。」「そうだよ。」
     秋葉神社の大きな石碑も建っている。「私は香取神社かと思ってました。」サッチャンは、さっきの神社と勘違いしていたらしい。
     境内を出て堤防に近づくと発掘現場に出た。一か所だけかと思ったらかなり続いていて、広い範囲が掘り返され、一部にはブルーシー
    トがかけられている。ここが関所番士を務めた加藤、足立、嶋田、富田の四家の屋敷跡である。どうやらスーパー堤防を造るために(正確な情報かどうか不明)、周辺の家は立ち退きさせられ、江戸期の住居跡を発掘調査しているものらしい。

    栗橋関所番士屋敷跡は、栗橋関所に勤務した番士の住まいです。番士屋敷としての存続期間は、関所が置かれたとされる寛永元年(一六二四年)から明治二年(一八六九年)に廃止されるまでの約二百四十年間に及びます。
    番士の屋敷は四軒(近年まで子孫の方が暮らしており、屋敷の位置も確認されています)あり、そのうちの三件が今回の発掘調査の対象となりました。いずれも高い盛り土の上に建物が建てられていましたが、調査では、この盛り土の下からも建物の跡が見つかりました。この地域は 利根川に面しており、何度も洪水の被害を受けました。番士屋敷も洪水のたびに盛り土を高くして建て直し、現在の姿になったと考えられます。(埼玉県埋蔵文化財調査団事業団
    http://www.saimaibun.or.jp/hakkutsu/1551.htm)

     「発掘って言ったって、江戸時代だろう。」鼻で笑うスナフキンに、「私は古墳より、こっちの方が好きですよ。古墳とか土器はどうもダメなんです」と姫が応じている。近世遺跡の発掘は古墳などとは違って余り理解されていないが、結構大事なことなのである。例えば台所付近の土に浸み込んだ動物の痕跡から、江戸時代の人間が獣を食っていたことがきちんと証明されることもある。それに、ここは利根川の氾濫によって何度も盛り土されたところだから、氾濫状況も分かってくるだろう。
     ここは旧栗橋宿の町中である。ここまで堤防を拡張しては宿場の面影は全く消え失せてしまう。しかしそれは感傷というものだろう。昭和二十二年のカスリーン台風で、この栗橋も甚大な被害にあっているから、治水対策が重要であることは間違いない。

     幸手を行けば栗橋の関   芭蕉
     松杉をはさみ揃ゆる寺の門 曾良

     これは奥の細道の旅を終えた四年後、深川芭蕉庵の連句の席で詠んだものとされる。そして堤防の下には栗橋関所跡の碑が立っている。

    ・・・・栗橋関所は、日光街道が利根川を越す要地に「利根川通り乗船場」から発展した関所の一つで『房川渡中田・関所』と呼ばれた。東海道の箱根、中仙道の碓氷と並んで重要な関所であったという。
     関所の位置は、現在の堤防の内側で利根川のほとりにあり、寛永年中に関東代官頭の伊奈備前守が番士四人を置いた。以後、番士は明治二年関所廃止まで約二百五十年間、代々世襲で勤めた。

     「伊奈備前守の時代には利根川は今の流れじゃないでしょう。だから関所も別の場所だったんじゃないですか。」椿姫は利根川東遷のことを言っているのだ。伊奈備前にゆかりの地に住む椿姫の意見は尊重したいが、しかし利根川から分離する権現堂川が、かつての利根川の流れだった。だから、この辺ではそれ程大きく変わっているとは思えない。
     この伊奈備前守は忠次の次男・忠治のことだ。利根川東遷事業を主に担った人物である。忠次に始まる伊奈家の職は、一般には関東郡代と呼ばれてきたが、関東代官と呼ぶのが正式な職名らしい。
     「内堤はこちら側、外堤は川の方と決まっているんですよ。この看板の書き方はおかしいですね。」椿姫は「堤防の内側で」という言葉にひっかかる。地学に関しては椿姫の方が正しいだろうが、素人に学術用語は分かりにくい。「現在の堤防の内側で利根川のほとり」とある方がよほど親切だと思う。
     「房川ってなんでしょうね。」ロダンは別の疑問を持つ。「房総かな」なんて私はまたあてづっぽうで言ってしまうから良くない。説明を読めばちゃんと書いてある。

    【房川渡しの由来】
    往古、奥州街道は、下総台地の五霞町元栗橋(下総国猿島郡・栗橋町)を通っていて、その「幸手=元栗橋」の乗船場を『房川渡・栗橋』と呼んだ。後、利根川の瀬替えなどで、街道が付け替えられ「栗橋=中田」に乗船場が生まれ『房川渡・中田』と呼ばれた。一説に房川とは、元栗橋に宝泉寺という法華房があり、『坊前の渡し』と呼んだことから、房前が房川と記され、川と渡しの名になった。

     これを読むと、かつて街道はもう少し南側の権現堂川(旧利根川)を渡ったのだ。利根川東遷によってそれが廃止され、今いる辺りの利根川に渡し場が造られたのだと思われる。そしてそこに関所が設けられた。但し堤防の位置はもっと川の方にあったのだろう。
     「この辺は水塚が目ませんね。」ロダンがさっきから周囲を見回していたのは、それを探していたかららしい。水塚または水屋と呼ぶ。河川氾濫の際に備えて屋敷内に盛り土をして蔵を立てたもの、またはその盛り土自体を言う。羽生か行田で見かけただろうか。
     宮村忠『利根川流域における歴史的水防災施設「水屋(水塚)」の調査・研究』では、利根川流域で水塚(水屋)が多いのは、大利根町の七十八(他に消失十二)で、次いで熊谷の五十六(消失二十)である。それに対して栗橋は残存十六(消失九)で、調査対象九市町村の中で最も少ない(http://www.kasen.or.jp/seibikikin/h23/pdf/rep3-05.pdfより)。他所より少なくても探せば見つかるかも知れないが、今日はそんな余裕はない。
     古い石蔵を隣接する家があるから、これが旧街道だろう。地蔵堂には、浸食が進んで溶岩のように細くなった地蔵が祀られている。堂の脇には小さな地蔵が三体並び、一番状態の良いものは安永三年の銘が読めた。

     隊長が足を止めたのは福寿院(真言宗智山派)の門前だ。久喜市栗橋中央二丁目八番地六。山門前の道路脇に、鹿の角を根元で握った福禄寿が安置されていて、これが目的である。そんなに古いものではない。栗橋八福神というものがあると言うことを私は今日知った。折角隊長が作ってくれたのに、案内文を予習していないことが分かってしまう。
     イトはんのメモを見ると、七福神に吉祥天が加わっている。「字が間違ってるかも知れないから、あんまり見ちゃダメよ。」彼女はちゃんと予習をしてきているのである。
     イトはんのメモによって並べると、深廣寺(恵比須)、常薫寺(大黒天)、顕正寺(毘沙門天)、迎盛院(弁財天)、定福院(布袋尊)、福寿院(福禄寿)、浄信寺(寿老人)寶聚寺(吉祥天)の八人だ。今日はそのうちの四人を見ることになっているようだ。
     おそらく昭和になって作られたものではないか。「浅草の(下町八福神)を真似たんでしょうね」とダンディはニベもなく言い放つ。七福神は江戸期に流行したものだが、昭和五十年以降、町興しの一環として更に全国的に広まった。
     七福神については以前にも調べたことがあるが、当初の三福神(恵比寿・大黒・毘沙門)が次第に数を増して、室町時代末期に現在の七人に落ち着いた。女神としては吉祥天やアメノウズメを入れる場合もあったのだが、弁財天の嫉妬によってか最終的に女神は一人だけに決められた。吉祥天の無念はいかばかりであろう。福禄寿と寿老人は南極星の化身で元々同一神とみなされる。それが七人に数合わせするために分割されたのだから、これを一人に戻して吉祥天を加えても良かったのだ。福助とお多福は入らなくて良かった。
     「お寺の中には入りません。見るものはないからね。」そうなのか。山門前まで来て寺に入らないのも珍しい。三叉路の角に田丸屋呉服店の看板を掲げる古い木造二階家が建っている。今でも営業しているようだ。
     「昼食の場所はここから三十分位。でもそこにはトイレがない。公民館に頼んでますが、行きたいですか。」それなら行くべきだろう。ということで、久喜市栗橋公民館でトイレ休憩をとることになった。久喜市栗橋中央二丁目七番地一。元は栗橋町立栗橋東第一小学校の建物である。平成十三年に東第二小学校、北小学校と統廃合して別の場所に栗橋小学校が作られた。ここでも子供の数は減っている。
     「中にもありますが、体育館の入り口を開けましょう」と職員が奥の方に向ってくれた。玄関を入ると正面に置かれた小さなカラーボックスに、リサイクル本が三十冊ほど入れてあるのをスナフキンが見つけた。「貰いたいものはないな。」私も覗いてみたが欲しいものはない。調理実習室では何かの講習会をやっている。
     「どちらからいらしたんですか。」「あっちこっち。入間の人もいます。」「国分寺もいるよ。」「どちらへ。」「幸手まで。」「権現堂堤ですか、それはご苦労様です。ヒガンバナはまだ咲いているでしょうかね。」ご苦労様と言われるほど、大したことはしていない。「この辺が今盛りのようだから大丈夫でしょう。」
     外に出て煙草を吸っていると椿姫もやってきた。「ここで吸っていいのかしら。」「大丈夫だよ。」彼女が縁石に腰を下ろして煙草に火をつけると、隊長から出発の号令が出た。「今、火をつけたばっかりなのに。」実にタイミングが悪い。

     「この辺でいくつかお寺を回ります。」畑の前で二人の高齢男性が腰を下ろして休んでいる。「どこから来たんだい。」「あっちこっちから。」毎度お馴染みのやり取りだ。「どこまで行くのかね。」「幸手まで。」「それはそれは。」どんな物好きと思われたか。
     次は無涯山深廣寺(浄土宗)だ。久喜市栗橋東三丁目七番二十四。この寺で見るべきものは六角名号塔である。私は初めて見た。高さ三・六メートルで、各面に「南無阿弥陀仏」の六字名号を刻む塔が、左手に本堂と正対して八基、直角に曲がって十三基並んでいるのは壮観だ。この大石は伊豆から運んだと言われている。

     六角名号塔は、承応三年(一六五四)より明暦二年(一六五六)の間に二十基が造立、明和三年(一七六六)に一基が造立され、合計で二十一基ある。
     平成二十三年三月十一日に発生した東日本大震災により部材のずれが生じ、余震で倒壊する危険性があったことから緊急で解体工事を実施した。今後、復旧工事を行う予定であるが、基礎石に傾きがあることから、一度基礎石を外し、補強のために基礎石の下にコンクリートで基礎を作り、復旧工事を行う予定である。また、部材の目地にモルタルを入れて補強を図る。
     さらに、一部の基礎が松の根元にあり、復旧工事に際し松の根を傷つけることが予想される。松は指定文化財ではないが、所有者は六角名号塔と同じように寺院の歴史を語る資料と考えており、松を守るために六角名号塔の位置をずらして復旧したいと考えている。(久喜市)
     http://www.city.kuki.lg.jp/section/bunka/bunshin/pdf/23_2/23bunshin2shiryo2.pdf

     写真を撮っていると、ロダンやハイジが「時計草に見惚れていたので」とやって来た。それには気づかなかった。「エーッ、見なかったの。」「こっちですよ。」ロダンが道路の角にある民家の塀の前まで連れて行ってくれた。この花を見るのは三度目だが、こんなに綺麗に育てているのは初めてだ。初めて見る赤い実は、網のようなものに包まれている。花と実とが同時なのは珍しくないか。
     スナフキンも気づかなかった筈だから、急いで戻って連れてくる。「見たことはあるよ。だけど珍しい」と言いながら彼も写真を撮る。ダンディが、時計草とはパッションフラワーのことではないかと、姫に質問したらしい。そんな名前は初めて耳にした。「パッションフラワーの中に時計草があるんです。園芸種ですよ。」

    和名は三つに分裂した雌しべが時計の長針、短針、秒針のように見える特徴のある花を咲かせることに由来する。
    英名 passion flower は「キリストの受難の花」の意味で、イエズス会の宣教師らによってラテン語で flos passionis と呼ばれていたのを訳したものである。十六世紀、原産地である中南米に派遣された彼らは、この花をかつてアッシジの聖フランチェスコが夢に見たという「十字架上の花」と信じ、キリスト教の布教に利用した。 彼らによればこの植物はキリストの受難を象徴する形をしており、花の子房柱は十字架、三つに分裂した雌しべが釘、副冠は茨の冠、五枚の花弁と萼は合わせて十人の使徒、巻きひげはムチ、葉は槍であるなどと言われた。(ウィキペディア「トケイソウ」)

     「蜻蛉は卑猥な花だっていうよね」と隊長が苦笑いしている。「右カーブ、左カーブ・・・・応援団がチャッチャッチャ」という下品な絵描き歌を連想して困るのは、私が下品なのかも知れない。境内に戻ると、百日紅がまだ衰えずに花を咲かせている。桔梗も咲いている。
     寺を出て少し歩くと、民家の塀際にまだ青さの残るリンゴの実が生っているのに気付いた。その向かい辺りでイトはんたちが立ち止っている。「これは何かしらね。」イトハンやシノッチが声を上げるが誰も分からない。長さ二十センチもある細長い実がたくさん垂れ下がっているものだ。イトはんは大きな葉を触りながら考え込む。
     「あんみつ姫は分かるかしら。」少し遅れてきた姫は「キササゲじゃないですか、違いますか」とあっさり答え、隊長も「そうか、そうだね」と承認した。宗匠は広辞苑を検索し、スナフキンはスマホでネットから画像を引っ張り出した。「まさにこれだよ。」スマホに映し出された写真と全く同じだ。ノウゼンカズラ科の落葉樹で、中国原産の帰化植物である。
     「だから、スマホは便利なんだよ。」スナフキンは盛んに現代文明の便利さを吹聴する。今日の参加者の中で他にスマホを持っているのはマリーだけだろうか。「便利になりすぎちゃダメなんだよ。」私はこういう機械を使いこなせない。デジカメの画面でさえ、指で動かすことができないでいる。「私は買おうと思ったけど、絶対に使えないって娘に断言されてしまった」と嘆くのはダンディである。
     そもそも電話とメールだけで充分便利なのである。これ以上便利を求めて人類は一体どこに向かおうとしているのか。次第に時代から取り残されそうな私は、理論武装しなければならない(言い訳を考えなければいけない)。「仕方ないよ。ケイタイだって、すぐにスマホにとって代わられる。」おそらくそうなのだろう。その時私はどうしたら良いか。
     無量山浄信寺(浄土宗)。久喜市栗橋橋町東三丁目八番十五。この寺には寿老人が鎮座する。「これは。」「シュウメイギクね。」今度はハイジが即答する。白い花で黄色の短い雄蕊が円環をなしている。『三才図会』では秋牡丹と呼ばれるように、菊というより、花の形は牡丹に似ている。キンポウゲ科。
     赤い萩は二種類あるようだ。金水引草、漢名は金線草。「あの水引とどっちが先に名乗ったのかな。」ロダンは不思議なことを考える。勿論、飾り紐が先だ。
     安政三年の銘のある「得大勢至」の碑は何だろう。実に無学で嫌になるが、得大勢至菩薩、つまり勢至菩薩のことであった。阿弥陀三尊として観音菩薩と共に阿弥陀如来の脇にいるのが普通で、勢至菩薩を単独で見ることは珍しい。
     墓地の入口には「梅澤太郎右衛門の墓」の説明板が立っている。北条遺臣で、土着して栗橋を開墾した人物らしい。誰も墓を探しに行こうとはしないので説明を抄録する。

    元和八年(一六二二)四月、徳川二代将軍秀忠の日光東照宮社参の際、暴風雨のため利根川が満水となり、将軍の渡る船橋が危なくなりました。太郎右衛門は人夫を率いて水中に入り、命がけでこの橋を守り、災難を救いました。秀忠はこれを賞して、関東郡代伊奈半十郎忠治を通じて貞宗の名刀・金地に日の丸の軍扇及びお墨付きを与えました。

     「どうも臭うと思いましたよ。」境内には銀杏が無数に落ちていた。「拾いますか。」「面倒くさい。」土に埋めて果肉を腐らせるような手間が要るのである。誰かがそんな手間をかけてくれれば、私はいつでも頂戴する用意がある。
     幡谷山顕正寺(浄土真宗)。久喜市栗橋東三丁目十四番十四。ザクロの実がかなり大きくなっている。毘沙門天と三面六臂の馬頭観音像はかなり新しいものに見える。
     ここには池田鴨之介の墓がある。「どこだい。」説明板があるのは池田家の墓域の前だが、たくさんある墓のなかで、どれが鴨之介のものか分からない。「この一番古そうなやつじゃないか」といい加減のことを言っているうち、宗匠がちゃんと特定した。説明に「釈常薫」とあったので、墓誌をきちんと確認してくれたのだ。ひとはこのように丁寧な観察を心掛けなければならない。「この一番端がそうだよ。」
     元禄十六年(一七〇三)十一月二十九日の釈廣薫、慶安元年(一六四八)十二月九日の釈常薫、正徳元年(一七一一)七月二十一日の釈了薫の三人が同じ墓石に並んでいる。

     池田鴨之介(鴨之助)は、新編武蔵風土記稿によれば、並木五郎兵衛と共に、幕府に願い出て、慶長年間(一五九六~一六一四)に、下総国栗橋村(現茨城県五霞町元栗橋)より、村民を引連れ、後の栗橋宿となる上河辺新田を開墾しました。
     また下総国中田新宿村藤の森(現茨城県古河市中田)より顕正寺を写したといわれています。
     慶安元年(一六四八)十二月九日に没し、法名を「光明院釈常薫」といいます。
     池田家は、江戸時代初代鴨之介の子、與四右衛門よりその名を世襲し、代々栗橋宿の本陣役を務めました。
     子孫、鴨平は明治二十二年に私立淑徳女学館を設立し早くから女子教育に力を入れ、その子義郎は、旧栗橋町の第三代町長として町政のためにつくしました。

     「淑徳を設立したって書いてる。今もあるよね。」ヤマチャンが説明の中の淑徳女学館に気付いた。「常盤台にある」と言うのは隊長だ。隊長は昔板橋に住んでいたことがあるので知っているのだろう。常盤台(短大と中高校)、みずほ台(経営学部・国際コミュニケーション学部・教育学部)、千葉(社会福祉学部)にキャンパスを持つ大乗淑徳学園は、明治二十五年に伝通院内に開かれた淑徳女学校に始まる。「伝通院って本郷小石川のですか。」「そうだよ。」
     しかし、池田鴨平の淑徳女学館は別の学校だろう。もっと早く淑徳の名を名乗っていたことになる。「淑徳与野でしょう」とヤマチャンが想像するが、これも違った。東京で淑徳の名を冠する中学高校は、みな大乗淑徳学園の系列だ。
     私立淑徳女学館の方は今のところ追跡ができない。明治二十年代半ばから三十年代にかけては女子中等教育が全国に広まった時代だ。少し後には愛知淑徳と言う学校もできているし、良妻賢母教育の思想に「淑徳」の名前が適合したのだと想像できる。「良妻賢母」は女子教育の必要性を訴える当時最新の思想であった。

     県道六〇号線に沿って、二階は障子で閉ざされた古い店構え(小林畳店)を見る。一階の土間には軽トラックが停めてある。家の中が駐車場になるのだ。国道四号線の下を潜り利根川の土手に上がる。「あっ、筑波山だ。」正面に青く見えるのが筑波山だ。勿論私が知っていたのではなく、教えてもらったのだ。山の姿がくっきりと見える。

     秋気澄む筑波の山に利根の風   蜻蛉

     「その左に見えるのが加波山ですよ」と椿姫がカズチャンに教えている。「どういう字を書くの。」「加えるに波。」椿姫と私の声が重なった。「そうか、加波山事件はあそこだったのか。」「何ですか、それ。」椿姫は、歴史は全くダメだと笑っている。
     加波山事件は、政府の弾圧政策によって過激化した自由党員が、明治十七年九月に三島通庸暗殺を謀って加波山に立て籠もった事件である。この後、秩父事件、飯田事件、名古屋事件と事件は続発するが、自由党は解党して運動は衰退していく。
     「申し込みましたか。」椿姫がロダンに尋ねているのは、今月、日曜地学ハイキングで筑波山が予定されているらしいのだ。彼女は山に登れるのか。ロダンは別の会とぶつかって参加できないと応えている。
     昼食場所に予定していた四阿には先客がいて、私たちは叢の上にビニールシートを広げた。女性陣は木の根元に座る。「どうぞ、私たちは出発しますから。」先客のグループが四阿をあけてくれたが、一度敷いたものをしまうのも面倒くさい。結局、シートに座り遅れていたあんみつ姫とスナフキンが四阿に入っただけで、後はそのままだ。
     風が心地良い。食べ終わると「眠くなってきちゃう」と千意さんはシートの上で体を丸めた。

     秋の日の 利根の堤に そよぐ風   千意

     飴、煎餅が提供される。折角ハイジが蛍烏賊漬を出してくれたのに、これを食べては酒が飲みたくなってしまうので辞退した。申し訳ない。「果物は大丈夫って聞いてたけど」と、サッチャンが冷凍したパイナップルを分けてくれる。滅多に会わないのに、私が甘い菓子はダメだと知っていてくれるのだ。
     ダンディが江戸重ね図(一万五千円)を取り出して、先日(江戸歩き四十八回「目黒川編」)不明だった目黒の爺が茶屋の場所を示してくれる。随分重かっただろう。現代の地図に切絵図を重ねたもので、きちんと把握するまで時間がかかる。
     すぐ隣には水神社があった。「新しいじゃないか。」昭和六年(一九三一)に東京土木出張所長の真田秀吉氏が個人で建設したものだと言う。
     「それじゃ出発しましょう。」ダンディが重ね図を忘れて歩き出そうとする。こんな高価なものを忘れてはいけない。「警察に届けたら何枚か貰えたかしら。」
     「この川は魚がいるのかな。」「いますよ、鮎が東京湾から上ってきます。」椿姫の言葉に、私だけでなく宗匠も驚いた。鮎は海から来るのか。「そうですよ、稚魚の時は海にいるんです。」私は山間の清流で一生を送るものと思い込んでいた。
     「土手をずっと歩きましょうよ。」我儘を言う椿姫だ。それでは、隊長が計画していた「会津見送り稲荷」は飛ばされてしまいそうだが仕方がない。日光街道歩きでお目にかかるだろう。しかし、すぐに利根川と別れて権現堂川の方に行く筈だから、椿姫の希望はすぐに消えてしまうのではなかろうか。
     少しだけ歩いてすぐに土手を降りてベイシアに入る。「ここでトイレ休憩をして下さい。」「ベイシアって珍しいな。東京にはないんじゃないか」「うちの方にあるよ。」但し車でなければ行けない距離だ。「そうだろう、こんなに広いんだからな。」調べてみると前橋に本社を置くスーパーマーケットだ。カインズ・ホームも同系列にある。ウィキペディアによれば、群馬・栃木・埼玉・千葉・長野に多く展開しているようで、東京にはまだない。
     「トイレは左に入ってすぐです。」その言葉通りに、入り口を入って生鮮食品売り場に沿って歩いたのにトイレは見当たらない。「あっちに見えますよ」とカズちゃんが前方を指差した。あれでは「左」ではなく、「右」ではないか。あるいは中央か。「隊長は間違ってたんじゃないの」と、アホな私が口走る。
     「食料品売り場にトイレはないよな。」当たり前だ。実は入り口を入ってすぐ、カフェの横から左に入ればトイレがあったのである。女性陣の先頭に立っていたのに恥かしい。
     ベイシアの駐車場から国道に出る。「ボートピアって、競艇をやってるのかい。」「どこで。」「舟券を売ってるだけですよ。」千意さんが詳しい。そういえばボートピアと言う名は、随分前に小町夫妻に聞いたことがあった。岡部にもあるのだ。舟券を売るだけにしては立派な建物だ。「各地のレースの状況が見られるんですよ。」ロイヤルルームや指定席があり、大型モニターが完備されているのである。

     権現堂川の土手に上る。「今どの辺かな。」隊長が配ってくれた地図を確認する。「エーッ、まだこんなに歩くのか。」ここからおよそ五六キロを延々と歩くのだ。権現堂川とは言いながら、実は利根川と中川の中間にある調節池である。昭和初期までは埼玉茨城の県境を流れ、幸手市西関宿付近で江戸川に流れ込んでいた。

     旧権現堂川は長い間、利根川の本流であった。沿岸には数多くの河岸場が設けられ、特に権現堂河岸には廻船問屋が軒を連ね、江戸との間を往来する船で賑わっていた。
     承応三年(一六五四)に赤堀川(新利根川)の開削がほぼ完成し、太日川(渡良瀬川)と常陸川が結ばれ、現在の利根川の流路の原形が成立した後も、権現堂川は周辺地域の河岸場の拠点であり、その地位はさほど変わらなかったようだ。なお、武蔵国郡村誌の葛飾郡権現堂村によれば、権現堂河岸は慶長四年(一五九九)に伊奈駿河守によって、近郷七ヶ領の米及び荷の津出し場(積み出し場)として開かれたのだという。
     また、文政年間(一八一八~一八二九)に編纂された新編武蔵風土記稿には、権現堂河岸には船問屋が六軒あり、船九艘が常備されていたと記されている。
     http://www.geocities.jp/fukadasoft/rivers/gongendo/

     茨城県猿島郡五霞町川妻、つまりベイシアの裏手で利根川と別れ、埼玉県幸手市権現堂で中川に注ぐ。その両端には給排水機場があって、水量調整を行っているようだ。明治九年、天皇が東北巡幸の際に立ち寄ったので、行幸湖と呼ばれる。権現堂の名の由来は、「村内に熊野、若宮、白山の権現を合祀せし旧社あれば、この村名おこれり」(『新編武蔵風土記稿』)による。
     「あれは何かな。」川には船ではない何かが浮かんでいる。「動いていないですね。」円盤を三つ繋げて、ホースを何本も結んでいるように見える。「水を浄化する装置じゃないかな。」ロダンの勘は確かだ。水域浄化装置応用・超音波照射式藻類抑制装置「アルジーハンター」である。十七基配置してアオコの発生を抑止するのだ。但しこの機械を設置した(と思われる)マリン技研は今年五月に破産手続きに入っている。
     対岸にはキューピーの工場が見える。「最近の子供はキューピーさんが分からないみたいですよ。」そうかも知れない。キューピーと言えばマヨネーズのことしか思い浮かばないか。昔はどこの家にもあのセルロイドの裸の人形が転がっていたものだが。「私は子供の頃から人形に全く興味がありませんでした」と言うのは椿姫だ。「ダッコちゃんもありましたね」とロダンも言い出した。「うちには今でもあるかも知れません。」
     「あの木は何だい。」対岸に木肌が白く、ひときわ背の高い木が立っている。「ユーカリですね。」「俺はオーストラリアには何度も行っているけど、あれがユーカリか。」ヤマチャンはそんなにオーストラリアに行っているのか。脂分の多い木ではなかったか。
     陽射しが照り付けてくると汗が滲んでくる。「向こうの方が並木になって日陰があるんじゃないですか。」サッチャンは左岸を歩きたいようだが、右岸にもすぐに桜並木が続いていて、日陰に入れば風が気持ち良い。この桜並木は、大正九年に約六キロの川筋に三千本のヨメイヨシノが植えられたのが初めである。

    一九二〇年(大正九年)に桜を植え替える運動は既に始まっていたが、利根川や江戸川の流路変更に伴い、権現堂川は明治時代の終わりに締め切られ、一九三三年(昭和八年)に廃川となる。そのため、堤防は荒れ果て、堤防の桜は終戦前後の混乱や燃料にするために、その多くが伐採されてしまった。
    一九四九年(昭和二四年)、旧権現堂川堤防のうち中川の堤防として残った部分へ改めてソメイヨシノを植樹したものが現在の権現堂堤である。なお、一九八八年(昭和六三年)には周辺の休耕田にアブラナが、一九九六年(平成八年)には堤の一部にアジサイが植えられた。 また二〇〇〇年(平成一二年)には、堤の東半分にヒガンバナ(曼珠沙華)が、二〇〇三年(平成一五年)には堤の一部にスイセンが植えられた。(ウィキペディアより)

     関東でも有数の桜名所だが、ソメイヨシノの寿命は六十年と聞いたことがある。昭和二十四年に植樹したものであればもう寿命が来ているのではないだろうか。桜の根元には赤いヒガンバナが咲いている。
     舟渡橋袂の駐車場に差し掛かったところで、道の向こうに小さな白猫が寝そべっているのが見えた。「驚かしちゃうと危ないから、静かにして下さいね。」ここで少し休憩をとることになった。
     縁石に腰を下ろして煎餅を食っていると、黄色のブチの入った母猫と、その子供らしい黒猫と白猫が近づいてきた。千意さんが近づいても、足にまとわりついて離れない。野良猫だとは思うが、人間に酷い仕打ちをされた経験がないのだろう。「何もないよ、タバコしかないよ。」椿姫が煙を吹きかけようとする。「可愛い」と言いながら、こういうのはないのではなかろうか。
     まだ赤くないアキアカネが宗匠の帽子に止まったところを、ヤマチャンの大きな掌がつかみ、隊長に渡した。「雌だね。」「イヤーッ。」今まで腰を下ろしていた椿姫がいきなり立ち上がって逃げる。トンボを見て逃げる人は珍しい。「虫はダメなんですよ。」蝶もダメだったようだ。どんなものでも虫が好きなのはあんみつ姫、どんな虫でも叩き落とすのがカズちゃんだ。

     秋茜を恐々避くる珍姫かな  閑舟

     「アキアカネって赤とんぼのことですか。」「赤とんぼは色々あるよ。」赤とんぼは赤い色の蜻蛉の総称であり、アキアカネはその代表的なものである。アカネ属の他に、赤とんぼにはベニイトトンボやショウジョウトンボも含まれる。三木露風の「赤とんぼ」はアキアカネだと思う。新宿駅裏にあって閉店が決まった、ちあきなおみの酒場は紅とんぼである。(私の話を信じないように。)
     「それじゃ出発しましょう。」「エーッ、もうですか。」椿姫のタバコはまだ終わっていない。どうもタイミングの悪い人である。
     いつの間にかカズチャンと一緒に先頭を歩いていた。「カズチャンと一緒になると、いつも早くなってしまう。」「そんなに早くないんですけどね。」ダンディと彼女が風のように過ぎて行った姿は今でも忘れられない。「ちょっと後ろを待とうよ。」
     「あれが大噴水なんだ。」スカイウォーター120と名付けられているのは、主噴水の噴出高さが百二十フィート(三十三・六メートル)に達するからだという。この数字は埼玉県が出来て百二十年記念事業として造られたからだ。
     中川に注ぎこむところが水門になっていて、橋を渡りながら下を覗き込んでみる。水門は閉ざされているが、ずいぶん深い。「怖いわね。」ここが行幸給排水機場である。更に中川にかかる外野橋を渡って権現堂堤に到着する。

     中川は利根川東遷事業以前は利根川と荒川の本流だった。江戸時代初めまで現在の中川下流の川筋に流れ込んでおり、その時「中川」という川はなかった。利根川を東に移し、荒川を西に移す工事が完成した後に残った流れが、中川である。江戸時代の中川は、元荒川、庄内古川、古利根川などの流れが合流した地点から下流を指した。明治時代に庄内古川、島川の流路が本流とされ、さかのぼってこれらも中川と呼ばれるようになった。(ウィキペディア)

     正面の階段を上れば、土手は一面ヒガンバナで真っ赤に覆われている。桜だけではさびしいと、ここ二十年程の間に菜の花、アジサイ、ヒガンバナを植えて観光客を呼び込もうとしているのだ。幸手には他に目ぼしい観光資源がないのだと思われる。ただヒガンバナに関しては、日高市の巾着田に比べてまだ認知度は低いのではあるまいか。
     「昔はヒガンバナってあんまり縁起のいい花じゃなかったよね。」死人花、地獄花、幽霊花、剃刀花、狐花、捨子花などとも呼ばれたのは、かつて墓地に多く植えられたからだ。有毒だが球根を水に長時間晒せば食用になる。そのため救荒作物として墓地の草取りの片手間に植えたのである。畔や土手に植えられたのはモグラや虫の害を防ぐ目的だ。「花に触っても大丈夫かな。毒は根っこにあるんでしょう。」ヤマチャンがおそるおそる花弁に手をふれてみる。
     「名前が悪いのよね。他にも可哀そうな名前の花があるわ。ママコノシリヌグイとかヘクソカズラとか。」ハイジは不幸な名をつけられた花に同情する。だからここでは曼珠沙華と呼ぶ。ちょうど曼珠沙華祭りの最中だ。

    日本に存在するヒガンバナは全て遺伝的に同一であり、三倍体である。故に、種子で増えることができない。中国から伝わった一株の球根から日本各地に株分けの形で広まったと考えられる。(ウィキペディア)

     「三倍体」と言うのは何のことか分からないが、一株からこんなに広まったというのは驚くべきことだ。それなら白い花も別の種類ではないのだな。
     市女笠の女性と娘を線刻した絵が描かれているのは、堤防工事で人身御供になったとされる順礼の碑だ。あんみつ姫はこの「順」の文字が不思議だと言うが、順礼、巡礼の文字遣いについては以前調べている。最近では巡礼が多いようだが、明治以前には順礼の文字も良く使われているので、どちらでも良いというのが結論だろう。

     享和二年(一八〇二年)、長雨が続き堤が切れ、幾度修理しても大雨が降りだすと一夜のうちに切れてしまうというありさまでした。
     ある時、堤奉行の指図で村人達は必死の改修工事をしていましたが、大被害と続く工事の疲れに、口をきく元気さえも失っていました。その時、夕霞のかかってきた堤の上に母娘の順礼が通りかかったのです。母順礼が堤の切れ口をのぞきこんで、「こうたびたび切れるのは、竜神のたたりかもしれない。人身御供を立てなければなるまい。」と言いました。そこで、堤奉行は「誰が人身御供に立つものはいないか。」と人々を見渡しましたが、誰も顔を見合わせるだけで、進んで私がなるとういう者はありません。すると重苦しい空気を破り誰ともなく「教えたやつを立てろ。」という声があがりました。母順礼はこの声を聞くと、「私が人柱になろう。」と念仏を唱えて渦巻く泥水の中に身をおどらせたのです。これを見た娘順礼もあっというまにその後を追いました。すると不思議にもそこから水がひいて、難工事もみごとに完成することが出来たといいます。
     この順礼母娘を供養するため昭和十一年に石碑が建てられ、この碑には明治時代の日本画家結城素明(ゆうきそめい)による母娘順礼像が刻まれています。(幸手市観光協会http://www.satte-k.com/kanko/jyunrei/)

     「なんだか怪しい連中がウヨウヨいるよ。」「コスプレみたいですね。」真っ赤なヒガンバナの間のあちこちに、異様な格好をした少女たち(少数だが男もいるようだ)が点々とし、ほぼ二人一組でカメラを向けあっている。おそらくアニメやゲームの登場人物なのだろうが私にはさっぱり分からない。
     その多くが、着物でもないのに刀を持っているのはどうしてなのだろう。日本刀の反りを反対に腰にしているのはお愛嬌だ。新選組のダンダラ模様を刺繍したような服も見える。襟を立てた陣羽織風の上着。大昔流行ったミリタリールック風の娘もいる。紫やピンクや金色の髪。パチンコ屋のCMで見るような格好だ。
     周りはヒガンバナを見に来たオジサン・オバサンたちばかりの中で、他人の視線にはお構いなく、自分たちの世界に浸りきっている。黒のセーラー服姿で地面に足を投げ出して座り込んだ長い髪の少女、すぐそばに膝をつき、正面から刀を突き付けている男はどういう物語の登場人物なのだろう。男は(実は男か女かは不明だが)左手で少女の胸に切っ先を突き付けながら、右手で少女の顔に向けたカメラを操作している。
     敢えて無表情に作った化粧と、濃い隈取の中で何を見ているのか分からない目は、なにやら不吉なものの気配を感じてしまう。ヒガンバナの別称、死人花が似合うシチュエーションだ。

     曼珠沙華 コスプレ少女 新歌舞伎   千意
     パドックを見るが如くや曼珠沙華  閑舟

     しかし千意さんの感覚は私よりはるかに若くて、彼女たちに理解がある。あるいは面白がっている。その千意さんのハンチング姿が、競馬場のパドックを見ているようだと、宗匠は観察する。
     これは現代の傾奇者なのか。それなら、この中から何か新しい文化が生まれるのだろうか。中世の傾奇者や婆沙羅は、時代を突き破らずにいられないエネルギーを内包していた筈だが、今の彼らにそれがあるのだろうか。頑迷固陋の私にはとても信じられない。
     憚りながら、現代漫画の発生直後から成長を見続けてきた世代である。漫画はかなり読んできた積りだが、今のコミックやアニメは読もうという気すら起きない。漫画が「コミック」と呼ばれるようになってから、全てが変わってしまったようなのだ。勿論、諸星大二郎や大友克洋や谷口ジローの作品なら読みたいと思う。しかし、彼らの作品は「コミック」とは呼ばない。
     「コスプレって何のことか分からない。」「コスチューム・プレイですね。」「それなら時代劇ということですね。宗匠の辞書でやっと、二番目に和製英語って出てきた。」ダンディが知らないのは当然だ。
     詳しい人によれば、彼らは自ら「レイヤー」と称しているらしい。これもいい加減な言葉で、プレイヤーをこんな風に略してしまうのである。衣装や刀もほとんど自分で作るのだそうだ。
     実は私は、コスプレと言うのは性風俗産業から始まったと思っていた。つまり看護婦や婦人警官やスチュワーデスなどに扮した女性との性的遊戯である。しかし一方、これはSF界に発生したというのがウィキペディアの説である。全部引用していると長すぎるので、いくつかに分けて抄録する。

    日本SF大会で一九六〇年代末から一九七〇年代に既にコスチューム・ショーとしてプログラムの中に取り入れられていた。日本SF大会におけるコスプレは、一九七四年の京都大会からショウアップが行なわれて、翌年から定着したという。(ウィキペディア)

     確か七十年代後半に「奇想天外」というSF雑誌があって、その記事から、SF界ではファンを集めてこんなことをやっていたのを思い出した。(こんな雑誌も読んでいたのだった。)日本SFが、草創期を牽引してきたベテランから新人若手作家に移り始めていた頃で、横田順弥が「ハチャメチャSF」なんて書いていた頃だろう。「マニア」という存在が出現したのがこの頃だったと思われる。その数年後には私はSFを読むのをやめている。

    同人誌の即売会等でもコスプレは行なわれており、単にアニメの仮装と呼ばれていたマンガやアニメの扮装をすることをコスチュームプレイと呼ぶようになったのは、同人誌即売会コミックマーケット(コミケット、コミケ)代表者の米澤嘉博を中心したメンバーだった。(ウィキペディア)

     SF同人誌とコミック同人誌に拠る層がかなり接近していて、そのマニアがコミケに集まっていた。あの頃のコミケは、少女マンガが描く同性愛(しかも男性の)や、有名な作品のエロいパロディを作ったりしていた。私にはいかがわしいマニアの集まりとしか思えなかった。この当時のイデオローグは米澤と中島梓だったろうか。これでほぼ発生の源は分かった。

    アニメ『新世紀エヴァンゲリオン』の流行等でサブカルチャーに注目が集まるようになり、コスプレという用語・行為も普及した。一九九〇年代初頭のビジュアル系バンドブームの火付け役となるX JAPANのライブではファンによる凝ったコスプレが披露され、これは二〇〇七年の復活後にも少数ながら見られた。
    その頃から商業資本もコスプレに着目するようになった。(ウィキペディア)

     歴史的にはこんなところを押さえて置けばよいだろう。これに加えて、現在ではツイッターやフェイスブックによる、節度のない感情の垂れ流しが輪をかけているに違いない。
     無知な政治家は、日本のアニメやコミックこそが世界に誇る文化(つまり輸出に耐える)と宣伝し始めた。業界もそれに乗り、補助金も出たが、しかし本当にそうなのだろうか。おそらく『エヴァンゲリオン』が何かの分水嶺を超えて以来、日本のアニメは袋小路に入ってしまったのではないか。宮崎駿についてはまた別の視点で考える必要がある。
     どうも話が長くなり過ぎた。そろそろ里山に戻らなければならない。

     ここからはバスで幸手駅まで行くことになっているが、次は一時間待たなければならない。こんな異様な人種を見ながら一時間も待つのは耐え難い。「曼珠沙華祭りっていうんだから、どこかでビール売ってるんじゃないかな。」「あそこにJAの即売所がある。」スナフキンと二人でそちらに向かう。
     外では焼き芋を売っている。中に入れば地元野菜を売っているがビールはあるか。あった。一本づつ買って外の椅子に腰かける。「つまみはどうする。」「つまみを買ったらもう一本飲まなくちゃいけない。」
     暫くしてあんみつ姫がやってきた。「タクシーで帰ろうかと思って。」家に戻って資料作りをしなければならないらしい。タクシー会社の電話番号を聞きにJAに来たのである。「でも今日は反省会に出られないから、飲んじゃおうかしら。」中に入っていった姫はビールとサキイカを持って帰って来た。つまみが登場しては、もう一本追加せざるを得ないではないか。「あの連中はどこで着替えたのかな。」着替えのできそうな場所はない。「車の中かな。」あの恰好で電車に乗ってはいけないと決められているらしい。

     四時少し前に戻ると、皆、雛壇で記念写真を撮るような格好でベンチに座り込んでいる。「私も飲みたかったな。」ダンディは嘆くがもうバス停に行かなければならない。「頼んだら写真を撮らせてくれました。ダメだっていう人もいましたけどね。」サッチャンのように優しい物言いで頼まれれば、今時の娘でもそうそう拒否はしないだろう。
     四時十六分発の予定だったのに、バスは四時五分頃に到着した。「臨時かな。」カードは使えないバスである。とにかく幸手駅に到着した。料金は百七十円だ。幸手は東武日光線の駅である。
     宗匠の万歩計で一万九千歩。十一キロ程になったか。「私は二万二千歩。脚が短いのが分かってしまう。イヤだわ。」カズチャンは身長が違うのだから仕方がない。
     「春日部経由がいいですね。」野田線に乗り換えて大宮まで行こうという寸法だ。「ハイジは今日は大丈夫なのかな。」「ゴメンナサイネ。まだ私はシンデレラなの。時間が来たら帰らなくちゃいけない。」残念なことだ。椿姫は栗橋に車を置いているから戻らなければならない。ハコさんもあんみつ姫も明日があるから今日は反省会に出ない。イトはんも用事があるらしい。
     「アッ、虹が。」七里を過ぎた辺りで、南側の窓から虹が見えた。地面から垂直に立って、曲線を描く前に上で消える。「あの辺で雨が降ったのかな。」

     束の間に車窓過ぎ行く秋の虹  蜻蛉

     大宮に着いたのは五時を少し過ぎた頃で、さくら水産に入れるかどうか心配したが大丈夫だった。テーブルにはタッチパネルで注文を受ける機械が設置されている。初めてのことだがこれは苦手だ。安い居酒屋はこれからこういう機械が増えてくるのだろう。まず焼酎を注文するのに苦労する。「お湯割りセットだろう。」これではまだ焼酎が注文されていない。「焼酎は。」「いつもの芋のやつ。」グラスは八。操作はすべて宗匠が行った。
     暫くして無愛想な中国人店員が注文票を持ってきた。「焼酎八本でよいですか。」グラスを八つと入力した筈が、焼酎八本になってしまったらしい。「一本に変えておきました。」操作を間違える客が多いと分かる。こんな機械は嫌いだ。店員の態度が無愛想だと怒るひともいるが、日本語がたどたどしいのだと思えば腹は立たない。
     今日も新さんま祭りの最中で、一人一尾の塩焼きを食う。それ程大きくはないが旨い。今日もダンディは頭まで食った。昼のビールが効いたせいか、私はカズちゃんの太腿に焼酎をこぼしてしまう醜態を演じてしまった。一人二千二百円なり。

    蜻蛉