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    平成二十五年十一月二十三日(土)
     森林公園で紅葉狩りをした

    投稿:   佐藤 眞人 氏     2013.12.01

     旧暦十月二十一日、小雪の初候「虹蔵不見」。この会で森林公園には三回来ている筈だが、たいてい七月か九月の暑い頃で、この季節は初めてになる。もう花は余りないだろうから面白くないんじゃないか(これは後で良い意味で裏切られる)。隊長の案内を見ると、やはり花よりも樹木の実が重点になるようだ。
     一昨日までの寒さも多少は緩むと予報では言っている。しかし朝晩は冷え込むし、こういう時に着るものの選択が難しい。厚着をすれば汗をかくし、そうかといって安心していると寒さにやられる。風邪が完全に治りきっていないから悩んでしまう。
     森林公園駅に集まったのは、隊長、ドラエモン、古道マニア、三四郎、ダンディ、イッチャン、ペコチャン、カズチャン、蜻蛉だ。椿姫は車で直接向かうことになっている。ヨシミチャンも来ることになっているそうだが駅には現れなかった。三四郎は「ほぼ三年振りでお世話になります」なんて隊長に挨拶している。ペコチャンもずいぶん久し振りで、カズチャンはどこで知り合ったのだろう。随分親しげな挨拶を交わしている。
     宗匠は勉強中だろう。桃太郎は三頭山に登っている。ドクトルの姿を最近見ていないのが気にかかっていたが、あんみつ姫と一緒に越谷の外来種駆除作業に行ったらしい。「水戸の人はどうしたのかしら。」水戸人は忙しそうだ。
     今日は南口ではなく、立正大学行きのバスに乗って西口から入ることになっている。定刻にはまだ五分程あるが、「下で待っててよ」という隊長を改札口に残して階段を下りる。既に十時発のバスが停まっていて、既に学生で結構混んでいる。今時の学生は私たちの時代よりはるかに真面目で、土曜日だって授業には必ず出るのである。「これに乗るの。」「次だよ。」ペコチャンはこんな方面に立正大学があるのが不思議だと言う。
     「熊谷のもっと手前にあるんですよ」とドラエモンや古道マニアが口々に教える。森林公園駅から熊谷駅までの行程の三分の二程に位置するだろうか。本部は大崎で、熊谷キャンパス(熊谷市万吉一七〇〇)には法学部(但し来年度入学者から大崎に移転する)、地球環境学部、社会福祉学部がある。
     「最近は熊谷まで行くバスが少なくなって、立正大学で折り返すんですよ。熊谷行は一日に二三本しかないんです。」それが本当なら、この沿線から熊谷に行くのは結構面倒なことになっている。「大抵、車で行きますからね。」
     「立正」が日蓮の『立正安国論』に由来するのは言うまでもない。慶長元年(一五八〇)、下総国飯高郷(千葉県匝瑳市)に設けられた日蓮宗の飯高檀林を起源とすると言うので実に古い。大正一三年(一九二四)に大学令による立正大学となった。現在では八学部を有する総合大学で、仏教学部はその中の一つでしかない。そして、仏教学部以外の七学部は大学院を有しているので、相対的に仏教色は薄まっているだろう。
     ただ、最近では珍しく高齢者に配慮して立っている学生を見れば、躾は徹底されているのかも知れないと、少しは感心する。東武越生線の大学生(城西大学、明海大学、埼玉医科大学、それに東京国際大学の運動部)と高校生には、こんな配慮は絶対に見られない。
     最後の電車を確認し終えた隊長が走って来て、十分発のバスに乗り込んだ。イトハンはどうしたのだろうか。私より先に乗った筈の学生が数人立っているお蔭で、全員が座れた。バスが動き出した途端にダンディの携帯電話が鳴った。「椿姫だな。」バスの中でダンディの声は大きく響く。彼女は西口が分からず周辺の道路をウロウロしているらしい。ヨシミチャンは別の車で向かっていると言う。

     十分ちょっとで停留所に着いた。信号の変わるのを待って一七三号線を横断して森林公園西口に入る。入園料四百円を支払ったのは三人(だと思う)で、六十五歳以上なら二百円で済む。隊長は年間パスポートを持っているから券売機に並ぶ必要がない。「何回来れば元が取れるんですか。」「二千円だからね、十回だよ。」年に十回も来るのは難しいのではないか。「そんなことないよ、しょっちゅう来てるから。」そう言えばドラエモンも森林公園が大好きだったね。「私はそんなに来ませんね。精々年に三四回かな。」
     チケットを渡して階段を上り広場に出るとヨシミチャンが一人で立っていた。「娘と一緒に車で来たのよ。でもどこに行っちゃったのかしら。」「電車の方が早かったんじゃないの。」「それを言っちゃダメ。乗せて貰ったんだから。」しかし高速も一般道も渋滞していて、二時間もかかってしまったそうだ。「遠かったわよ。」お嬢さんには申し訳ないが、成増辺りからなら電車を使った方が遥かに早い。
     隊長は「ヨシミ」が苗字だと思ったようで、おかしな挨拶をしている。「だって知らないんだもの。」そうだった、彼女は里山ワンダリングに初めて参加するのだ。椿姫の姿が見えないと思ったら売店から姿を現した。
     やがてヨシミチャンのお嬢さん(ミエチャン)も姿を現した。「何どしですか。」早速ダンディが調査を開始する。「イヤねえ。必ずそうやって訊くのよね。分かっちゃうじゃないの。」母親が嫌がるのは、自分の年齢まで推定されると思うからだろうか。
     隊長が地図を見ながら今日のコースを説明する。ここから北口に向かい、ドッグランの休憩所か展望所で昼飯を食べる。それから中央付近のカエデ園で紅葉を見て南口に出る。「状況によっては少し変更する部分もあります。」車組は西口に戻らなければいけないから、途中で別れることになるだろう。これだけ広い公園である。どの出口で出ても良いように、車で来るのは避けた方が無難だろう。「何人になった。」折角チェックしていたのに出欠表を仕舞い込んでしまったので、改めて数えなければいけない。「エーット、十二人。」

     外周に沿うように左の方から回り込んでいくと、園外には刈り取られた後の田圃が広がっている。やがて林の中に入る。椿姫、ヨシミチャン、ミエチャンがやや遅れ気味なのは、話に夢中になっているせいだ。ダンディもそれに付き合っている。しかしこのペースでは却って疲れてしまうんじゃないか。私の足はどうしても速くなってしまうが、後ろからは「オホホ」という陽気な笑い声が絶え間なく聞こえてくる。
     「センボンヤリだな。」全く気付かずに通り過ごしてしまった所にドラエモンの声が聞こえたので、慌てて戻る。今日は主に樹木に関して隊長、花に関してはドラエモンに訊くのが良いようだ。白くなったタンポポのように、一見すると丸く綿毛のようになっているのが千本槍であった。しかし綿毛ではなく「花茎には線形の小葉が多数つく」(ウィキペディア)のである。線形とはいっても、こんな小さなものから人は槍を連想するものか。キク科であった。春と秋で全く形の違う花をつけ、春の花はタンポポに似ているらしい。
     「アッ、また食べてる。」何の気なしに後ろを振り返ると、椿姫が歩きながら寿司のようなものを食べているではないか。朝一番で売店で買っていたのはこれだったのだな。「朝ご飯を食べてないと思ったのよ。でもちゃんと食べてきたんだって」とヨシミチャンが笑う。「ニックネームを変えた方がいいんじゃないの。」歩きながらモノを食ってはいけないと、子供の頃に叱られなかったか。

     握り飯片手に歩む紅葉狩り  蜻蛉

     やがて沼に出た。「これが大沼かい。」左の沼には「小沼」の看板が立っていた。「ここをこう来てるわけでしょう。」地図を確認すると、道を挟んで右側が大沼になるようだ。ドラエモンと古道マニアは双眼鏡を当てて鳥を探すが、目ぼしいものはいないようだ。冬鳥の飛来が遅いのだろうか。「マガモだけだね。」「そう、あれが青首。」青首とはマガモの雄を言うらしい。
     「鴨は旨いね。」ダンディはすぐに話題を食い物に転換する。「マガモも食べられるんですか。」「勿論。越谷に鴨場がある。」「皇室専用の。」これは私も以前調べたことがあるので知っている。宮内庁埼玉鴨場である。現在、鴨猟が行える鴨場は宮内庁管轄の埼玉鴨場、千葉県市川市の新浜鴨場と、浜離宮の中にある二か所しかない。
     高校生の時、下級生が林の中で拾ってきたマガモを、部室でみんなで食ったことがある。あれは猟銃で撃たれたばかりのものだったから、鴨場以外でも許されていたのだろう。羽根を毟る奴、首を落として包丁を入れ内臓を綺麗に始末する奴、ネギと醤油を買いに走る奴。そういうことに全く無能な私とは違って、才能と言うのは気づかないところに存在している。用務員室で鍋を借り、そこで煮て貰った。皿はないから、その辺に転がっていた灰皿を洗って使った。私は三年生だったから、後輩に全て任せて食うだけだった。
     「ネギも忘れちゃダメですよね。」椿姫も食べることは大好きだ。越谷では地元のネギと組み合わせて、カモネギ鍋を地域ブランドにしようと盛んに宣伝している。何度か行ったことがあるが、南越谷駅北口に「いちまる」という店があって、旨い鴨と葱を食わせる。
     烏瓜の赤い実が生っているのを見れば、誰もが同じことを思い出す。「これを食べた人がいるんだよね。」「この人です。」「そうそう、あの時は驚きましたよ。」「食べられるんですか。」ペコチャンやイッチャンの疑問はごく普通の感覚だ。
     食べた当人(ダンディ)の言い分はこうである。「毒があるかって訊いたんですよ。ないって言うからね、それなら食べてみようと思うでしょう。」普通の人はそんなことは思わない。「それで美味しかったの。」「不味かった。」中の種が集まっている部分のどろりとした感じは見た目にも気味の悪いものである。「戦中戦後の食糧難が続いてるんじゃないの」と、これを初めて聞くヨシミチャンが笑う。「私はいつだって食糧難だな。」グルマンを自称するダンディは、食えるものは何でも食うと自慢する。
     紫の実を見てムラサキシキブみたいだと思った背の高い木は、やはりムラサキシキブだった。こんなに大きくなるとは知らなかった。私は実の色とか形にしか興味がなく、葉や木の形をちゃんと観察していないから、ちょっと背丈が違っただけで判別できなくなってしまう。「道路際に生えているから人が植えたんだと思う」と古道マニアが推測する。「庭にも植えてるでしょう。」三四郎が尋ねると、「民家にあるのは大抵コムラサキ」と回答が返ってくる。これは私の知識と合致する。
     「ここがドッグラン。」左手に柵に囲まれた広場があった。「ほら、向こうから犬を連れた人が来る。」「犬は無料なんですよ。」ドラエモンは詳しい。ドッグランとは犬の競技会かと思っていたのに、ウィキペディアを検索してみると、単に綱(リードと言うらしい)から解放した犬と飼い主とが自由に遊べる場所ということらしい。
     この森林公園のドッグランは六千平方メートルの広さだという。折角飼っている犬と遊ぶためにこんな場所に来なければならないとは、犬を飼うのは実に不自由なことだ。そう言えば、中将小町夫妻は犬を預かったために家を空けるわけにはいかず、外出も交替でしなければならないと言っていた。
     敷地の中には、ピサの斜塔を模したような柱が二つ向かい合って立っている。ギリシアかローマの石柱のようなものを二本立て、その間に高さ十五センチほどの板を渡してあるのは障害物の積りだろうか。それなら、この高さは脚の短い犬のためだ。こういう障害競走のための道具をアジリティと言うって、みんな知っているだろうか。ベンチもあって人間が座ることもできるようになっている。
     朝のうちは少し風が冷たく感じられたが、今では風はすっかりおさまり、ポカポカと温かい陽気になってきた。トイレとベンチがあるので(勿論、柵の外である)、ここで休憩をとる。「お姉さん、喫煙所がありますぜ。」「ダメよ誘っちゃ。」ヨシミチャンに叱られてしまうが、椿姫はこれを待っていた。「やっとあったわね。」「まだアクシュウがやめられないんですか。」ダンディの言葉には悪臭と悪習がかけてある。今日は古道マニアを含めて喫煙者は三人だ。
     「だけど、パイプの香りは良かったですよね。」ダンディのように単純に悪臭なんて言えない。実に香りのよいタバコがあったのである。「なかなか火がつかなくてね。」「それにすぐ消えたりして。」どうやら古道マニアは私と同じ経験をしているようだ。私もパイプを買ったことがありました。しかしパイプを上手に吸うには技術がいる。古道マにアは銀座で買ったらしいが、新宿紀伊國屋ビルの一階にもそういう店があった。そもそもタバコがなければ、團伊玖磨の名随筆『パイプのけむり』は生まれなかった。
     今、タバコを擁護すれば非国民のように扱われるが、かつてタバコは大人の男の象徴であった。大人になるために、昔の少年はそれを一所懸命覚えたのである。そうでなければ、なんで高校生がタバコを吸うものか。どう持てば格好良いか。片手でマッチを擦る方法は、シェーカーを振りながら客の煙草に火をつけるために必要な技術だった。(シェーカーなんか振らないけれど)。風が強い日にマッチの火を消さずにいる方法は戦場で役立つだろう。(戦場に立つことなんて思いもよらないけれど)。新宿の安キャバレーのホステスは、上手な会話もできずに客のタバコに火をつけるしか能がなかったが、あれだって文化の一つだった。しかし、こんなことは終わってしまったことだ。愚痴である。
     「歌の先生に、やめた方がいいかしらって訊いたんですよ。そしたら、急に止めるとむしろ悪いって。」「俺はタバコ吸っても声はいいよ。」「ホホホ。」こういうアホなことを口走るから、隊長が怒るのである。「どんな歌を歌うんですか。一度も聞いたことがないわね。」「主に昭和三十年代の歌謡曲。」「じゃ、演歌とは違うのね。」そばで古道マニアが笑っている。

     隊長はソフトクリームを舐めながら売店から出てきた。犬用だけでなく人間用の食い物も売っているのか。「甘いものも食べるんですか。両刀使いですね」とペコチャンが感心したような声を出す。隊長はこの頃では酒を飲んでも寝なくなったから、酒も強くなった。
     私は勿論そんなものを食う気はないが、中に入ってみるとカズチャンがこっそりソフトクリームを頬張っている。「だって、食べない人がいるのに見せびらかせちゃ悪いと思って。」カズチャンは気を遣い過ぎだ。売店に並んでいるのは、こんなにあるかと思うほど多種類の犬専用のおやつ(?)らしい。犬におやつを食わせるのか。間食をする犬は肥満にならないのだろうか。
     十一時半を回った頃だが、まだそんなに腹は減っていない。昨夜の鍋の残りで作ったオジヤを二杯食べてきたのが良かった。この間に椿姫は煙草を三本吸った。白いダウンのジャケットは脱いでベンチにおいてある。「暑いわね、汗かいちゃいました。」
     「どんどん脱いで頂戴。」こう言う時の隊長は実に嬉しそうだ。「またヤラシイことを。いやだね、年取ってくると。」「エロおやじみたいだわ。」カズチャンの表現もおかしいが、「どこまで脱ぐの」と、ペコチャンまで調子に乗っている。本人も「あんまり脱ぐと迷惑条例にひっかかっちゃうわ」と笑う。こういう会話をミエチャンに聞かせるのはいかがなものだろうか。
     それにしても犬を連れた人間が多い。そして犬の腹には一様に何か衣服のようなものを着せている。「みんな、自分の犬を見せに来るんですよ。ここの犬はみんなきれいだ。」古道マニアも犬を飼っているらしいので、犬の悪口は言ってはいけないかも知れない。「犬だって迷惑だよね。」犬は見世物であった。そのためには犬の気持ちなんか関係なく、美々しく着飾らなくてはならない。どうも私は犬に対して、(あるいは犬を飼っている人に)偏見を持ちすぎている。

      顔見世の犬牽き回す小春かな   蜻蛉

     「それじゃ行きましょうか。」「ここでお昼じゃなかったの。」ヨシミチャンは腹が減ったのだろうか。「すみません」と隊長が謝るのがおかしい。朝の説明では、ここか、北展望所のどちらかでと言っていたのである。
     天神沼。深緑の水の向こうの林が、緑から黄緑、黄色、赤と色調が少しづつ変化しているのがきれいだ。「アッ、トンボだ。」カズチャンの帽子の後ろに止まりそうだと思ったら、回り込んで目の前の枝にとまった。「何トンボだい。」椿姫は別の方向を眺めていて気づかなかったようで、大袈裟な悲鳴は聞こえてこない。
     その時、カズチャンの手が電光石火で動いてトンボを握りしめた。オーッ。「ゴメン、潰しちゃったかな」と手を広げて、隊長に渡した。隊長が鑑定してアキアカネだと宣言する。余り赤くないな。「昔はちゃんと捕まえられたのに。」それにしてもスゴイ。

      一瞬に握りしめたる赤とんぼ  蜻蛉

     武蔵嵐山では、コオロギだったかキリギリスだったかを一瞬のうちに叩き落としたカズチャンである。昔の子供向け講談本には、宮本武蔵がハエを箸で摘まんで捨てる逸話が書かれていた。正にこれに近い。そしてカズチャンの素早さから、私は石森章太郎の『おかしなおかしなおかしなあの子』の主人公猿飛エッチャンを思い出してしまう。東北弁を喋る、人並み外れた運動神経をもつ心優しき少女である。余計なことだが、あの頃の石森章太郎は良かった。ギャグマンガから活劇まで、それに加えてセリフの一切ない実験的な抒情作品を描いたりして、実に幅広い才能があった。後年発想が衰えて、『日本経済入門』なんて下らない絵解きマンガを描くようになるとは夢にも思わなかった。
     「蜻蛉の名前はスゴイですね。『赤肉団(シャクニクダン)上に一無位の眞人有つて、常に汝等諸人の面門より出入す』ですよね。」椿姫がいきなり難しいことを言い出した。「臨済禅ですよ。」私は知らなかった。この「眞人」は「シンニン」と読むようだ。知らない癖に知ったか振って「心正しきひとですよ」と答える。「エーッ、自分で言うんですか。ネエ、隊長。自分で心正しいって言うんですよ。」
     眞人(シンジン)は元々道教に由来する概念だろう。完成された理想的な人格を言うから、正に私のことである。(また隊長に叱られてしまうか。)その概念が日本に輸入され、天武朝に制定された八色の姓の最高位に採用された。

     此心あながちに切なるもの、とげずと云ことなき也(『正法眼蔵随聞記』)

     禅は知らない私でもこの言葉だけは心にかかる。この位の覚悟があればもっと違った風になっていたかも知れないが、私は怠け者すぎるのだ。
     「コゲラですよ。」ドラエモンが声を上げた。鳥を見る人の目はどうなっているのだろう。私にはちっとも見えない。「雀くらいの大きさで横縞があるんですよね」と椿姫も言う。「アッ、見えました。」「飛んで行ったわ。」しかし私には一向に見えない。「Japanese Pigmy Woodpeckerって言います。日本にしか、と言うより極東にしかいないんです。」ドラエモンの講釈は前にも聞いたことがあると思い出した。
     「コゲラのコは小さいっていう意味ですか。それならケラはなんだろう。」ダンディが、簡単なようで難しい疑問を提出したが誰も答えられない。「オケラじゃないよね。」調べてみると「ケラ」は一説ではキツツキの古名と言われている。つまりコゲラは小さいキツツキ、アオゲラは青いキツツキ、アカゲラは赤いキツツキである。
     ついでに、それではオケラとはなんであろうか。昆虫のケラ(螻蛄、コオロギの近縁種で地中生活をする)とキク科の植物のケラ(朮)とがある。やなせたかし作詞、いずみたく作曲『手の平を太陽に』に「ミミズだってオケラだってアメンボだって」と歌われるのは、この虫のケラである。
     それでは、いわゆる「オケラ」、たとえば競馬で負けてスッテンテンになった状態とは何か。別に虫けらという言葉がある。山田風太郎の公刊された日記の最初期のものが『戦中派虫けら日記』であった。この「けら」は取るに足りないもの、雑多な、矮小なという意味の接尾語で、スッカラカンになってしまった状態に転用したものらしい。しかし、この「ケラ」の語源ははっかいりしない。
     ヒヨドリジョウゴの赤い実がきれいだ。「そこにリンドウが咲いてるよ。」草むらの中に数本あった。薄紫の釣鐘型の花が上を向いて、と言っても、落葉の中に長い茎が倒れて少し横向きになっている。「ちょっと色が薄いね。」ヨシミチャンとミエチャンは長い茎を伸ばしてじっくり観察している。ミエチャンは植物が好きらしい。

    りんりんりんどうの 花咲くころサ
    姉サは馬コで お嫁に行った
    りんりんりんどうは 濃むらさき
    姉サの小袖も 濃むらさき
    濃むらさき
    ハイノ ハイノ ハイ(西条八十作詞、古賀政男作曲『りんどう峠』昭和三十年)

     リンドウと聞いて思い出すのがこの歌しかなかったのは、私の知識の偏りだ。リンドウは濃い紫でなければならないらしいのだが、今見ているのは色が薄い。
     ところで島倉千代子は下手な(と言い切ってしまってはファンに叱られるだろうか、少なくとも不器用な)歌手であった。若い頃の泣き節にはあまり感心しなかったが、年齢を重ねて軽みと明るさを帯びてから良くなった。決して大歌手ではない。テレビの追悼番組のコメントを聞くと、歌謡曲をよく知りもせずに故人を余りに過大に評価するのを耳にする。歌謡曲に関して、いい加減なことを言われると私は怒る。藤圭子が死んだときの田原総一郎のコメントも実に杜撰なものであった。
     そんな番組では流されないが、私は『ほんきかしら』(岩谷時子作詞、土田啓四郎作曲、昭和四十一年)や『涙の谷間に太陽を』(西沢爽作詞、和田香苗作曲、同年)なんかが好きだった。
     『人生いろいろ』は、生き方自体が不器用だった島倉の個人的体験に寄り過ぎているようで、少し切ない。それに本人が望んだとしても、死の三日前にレコーディングをするなんて、実に無残なことである。南こうせつが「奇跡の歌声」「歌の神様」なんて提灯持ちをしても、これはプロの「歌」ではない。哀切な「遺書」として扱うべきであろう。
     このリンドウが昔はエヤミグサ(疫病草、瘧草)と呼ばれたというのが不思議だ。リンドウの根から胃腸薬としての竜胆(リュウタン)が作られるので、病気に効く草と言う意味で名づけられたのだろうか。それにしても余り良い名前ではない。
     黄色の葉が素晴らしいのはアオハダと言う。「ほら、こうして木肌を擦ると下が青いだろう。」隊長が実際に白っぽい木肌を擦って見せる。樹高はかなり高い。周囲の常緑樹を圧倒して、高く広がる葉の黄色が、少し青みを帯びているようで何とも言えず上品で美しい。モチノキ科モチノキ属。
     赤い実が二つに分裂して黒い種を顕しているのはゴンズイだ。これは私も知っている。私が花の写真を撮り始めてすぐの頃に教えてもらったのだから、もうずいぶん前になる。黒い種が目のようにも耳のようにも見えて、なんとなく愛嬌があって面白い。漢字では権萃と書く。ミツバウツギ科ゴンズイ属。
     それにしてもゴンズイとはおかしな名前で、何の役にも立たないのでゴンズイと呼んだのではないかと牧野富太郎は推測している。

     それでは役立たぬこの樹がどういう意味合いでゴンズイであると唱えられるのかというと、元来、このゴンズイとは食料として余り役立たない魚であるので、その役立たぬ魚の名すなわちゴンズイを、役立たぬと思惟せられたこの樹に対して利用したのではないかと考える。・・・・しかしゴンズイの語原は全く不明でその意味は判っていない。(『植物一日一題』)

     「この先です。」結構人が歩いている。「いつもは殆どいないんだけどね。祝日だからかな。」「日曜祝日でも、普段はいませんよ。」隊長とドラエモンが首を捻っている。そして展望所に着いた。
     北側が崖になって展望が開けた広場で、みんなは早速山並み眺める。赤城、榛名、谷川岳から東は筑波山まで見えるらしい。「あの白いのは群馬の白根でしょう」と言うドラエモンと、隊長の判断は少し違うようだ。私は山の形も位置もさっぱり分からない。
     「朝はくっきり見えましたけどね。」椿姫はここに来るまでの間に、真っ白な富士山を見てきたという。「どこで。」「荒川を越えた辺りですよ。」「脇見運転しちゃいけないな。」「正面に見えたんですよ。」山並みと空との境界がややぼんやりとしているのは、気温が上がったせいだろう。「あの白いドームみたいなのは。」「あれは熊谷のサッカー場。」
     気が付くと殆ど埋まっていたベンチから少しづつ人が去って、なんとか場所を確保することができた。ここで食事である。十二時半。「何時までですか。」ペコチャンが声をあげ、「一時半にしましょう」と隊長が応える。
     弁当を食い終わると眠くなってきた。背中にあたる日差しが暖かい。椿姫からは煎餅、カズチャンからはチョコレートその他、そしてドラエモンからは柿が提供される。「ウチのだから甘いかどうかわからないですよ」なんて言うが、くどくない甘さがちょうど良い。
     「甘い柿も干し柿になるのかな」なんて三四郎が訊いている。普通は渋柿で作るものだろうね。同じ団地に住んでいるのに、渋柿を貰ってきて干し柿を作ったのだというからエライ。「私はビニール袋に密閉して」とイッチャンが言う。「そうそう、ヘタに焼酎を浸ませてね。」「私は霧吹きでシュッシュしたんだけど間違ってたかしら。」「それでもいいです。」「素人だから勝手な判断でやったんだけどね。」こういうことはドラエモンが一番よく知っているのだ。カズチャンだって以前は作ったんじゃないかな。イトハンの「お父さん」が作った干し柿を貰ったこともあった。
     ツツジが咲いているのが面妖だ。「そういう種類っていうことじゃないよね。」「返り咲きでしょう。」本当に、この頃では季節と花の関係が分かり難くなってきた。
     「センブリが咲いてたんだけどね。」隊長がドラエモンと一緒に探しているが見えないようだ。「終わっちゃったかな。千回煮出しても苦いからセンブリ。」「リンドウと同じ仲間でしょう。リンドウだって竜のキモって書くから。」ドラエモンの知識はどこまであるのだろう。センブリとリンドウが同じな仲間だなんて、私は全く知らなかった。調べてみると、リンドウはリンドウ科リンドウ属、センブリはリンドウ科ゼンブリ属である。どちらも苦いものの代名詞になっているようで、竜胆は熊の胆の十倍苦く、センブリはリンドウの百倍苦いという。
     センブリの花や葉の形を知る筈もないのに、なんとなく地面を見ながら歩いていると三四郎も同じ格好で探し始めた。「何をしてるんですか、お金でも落ちてるの。」「姉さんがタバコを吸って無為な時間を過ごしてる間、我々は自然観察にいそしんでいた。」「私だってちゃんと観察してますよ。」
     センブリは胃の薬として使われる筈だった。良薬は口に苦し。しかしウィキペディアによれば全く薬効成分はないのだと言うから、私の常識は間違っていたのか。

    シーボルトが、近江路の製薬所で俵に入ったセンブリを「ゲンチアナ」と間違えたという有名な逸話があるが、ヨーロッパでは、ゲンチアナのような苦い薬を、胃腸薬に使用していた。
    しかし、上記の苦味配糖体以外には、特に薬効成分は含まれておらず、苦味が舌を刺激して、食欲増進などに効果があると言われるほかには、特に胃の疾患には効果がない。それでも胃の万能薬としてもてはやされているのには、「苦ければ胃によく、漢方薬である」という誤解が氾濫しているからだと考えられる。(ウィキペディア「センブリ」)

     しかしセンブリは医薬品に指定されており、薬事法の許可なく販売することはできない。現実には胃腸薬として販売されているし、また最近では育毛効果が確認されたという説もある。隊長に勧めておきたい。
     予定より少し早く、一時十五分に出発する。ススキの風情が良い。やがて林の中で、ゲーゲーというようなおかしな声が聞こえてきた。「カケスですね」とすぐさまドラエモンが反応する。カケスはこんな風に啼くのか。しゃがれたオッサンの声のようではないか。「真似するんですよ。」カラス科カケス属。
     島倉千代子に続いて思い出すのは春日八郎である。私には歌謡曲しかないのかね、ホントに。ダンディのようにクラシック音楽や西欧美術の話をすれば、私ももう少しは尊敬して貰えるだろうが、生憎そんな教養がない。

    泣けた 泣けた
    こらえきれずに 泣けたっけ
    あの娘と別れた 哀しさに
    山のかけすも 鳴いていた
    一本杉の 石の地蔵さんのよ
    村はずれ(高野公男作詞、船村徹作曲『別れの一本杉』昭和三十年)

     会社の宴会のカラオケ大会ではこの歌ばかり歌っていた時期があった。そのくせ、かけすがどんな鳥かなんて知ろうともしなかった。それ以前、高校生の頃には春日八郎と三橋美智也とどちらがエライか、なんてアホな論争をしていた。その頃の私は、故郷を捨てた男と、捨てられた故郷との二項対立の中に、近代日本史の構造を見ようとしていたのである。
     その文脈では故郷を捨てた代表が春日八郎であり、残された故郷から歌うのが三橋美智也である。しかし故郷との別れには千差万別の事情と思いがあって、それ程単純化できる筈もないのに、何でもかんでも二項対立に単純化して割り切ろうとする。これは未熟な若者の陥りやすい通弊であって、私もそこから抜けていなかった。
     思い出したからついでに言うと、美空ひばりか越路吹雪か、森進一か五木ひろしかなんて論争もあって、当時の秋田の高校生は実に馬鹿げた論争をしたものだ。前者は日本的なるものとヨーロッパ的なるものの対立(言い換えれば前近代と近代)、後者は現代演歌の本道はどこに行くのかと言う問題設定が裏にあったのだけれど。
     俺は日本歌謡史をやるんだなんて若い頃に言っていたのは、卒論に挫折した言い訳だったが、西沢爽の『日本近代歌謡史』(全二巻+資料集)という膨大な述作を読んで(まだ第二巻の途中だけれど)、完膚なきまでにやられた。この論文で西沢は國學院大學文学博士号を取得したもので、私にはこれだけの資料を博捜して実証分析する根気がなかった。
     それにしてもこの本を読んだのは良かった。演歌の発生について添田亜蝉坊・知道親子の著作集(全五巻+別巻)だけを読んで、演歌は自由民権運動の「演説歌」に始まるという定説を鵜呑みにしていた蒙が啓かれた。恣意的に拾ってきたものではなく、埋もれていた資料を広範に探し出し、正確な分析、合理的な論証がなされなければならない。今日はなんだか余計なことばかり言っている。

     北あずまやでトイレ休憩をとる。花壇に植えられた、長い穂に無数の紫の花をつけたものはなんだろうか。私が眺めているとミエチャンが近づいてきて、「これは何ですか。サルビアとは違いますよね」と訊いてくる。分からない。「向こうの赤いのはサルビアですよね。」そうだと思う。しかしこの会のメンバー全員が花に詳しいと誤解していてはいけない。「詳しい人がいるんだよ」と言いながら向こうを眺めると、古道マニアとドラエモンがいたので呼んでみた。「これはメキシカン・セージすね。」ドラエモンはあっさり正解を口にする。
     メキシカン・ブッシュ・セージ、あるいはアメジスト・セージとも呼ぶらしい。シソ科サルビア属であった。花を軽く握ってみるとビロードのような手触りで、三四郎にも教えて触ってもらった。
     植物花木園の入り口に来て、「静かにしてよ」と言いながら隊長が少し中に入っていく。「これです。」ゲートの脇に、真っ赤になった葉の間に黒い実をつけた木が立っていた。「ナツハゼです。」隊長はその実をつまんで口にする。「旨いんですよ。」それを聞いてダンディも早速口にする。ペコチャンもヨシミチャンも口にする。私はノド飴を口に入れたばっかりだから、残念だが遠慮した。「少し酸っぱくて美味しいわ。」「静かに。」その間に椿姫は何度も手を伸ばす。いくつ口にしたのだろう。隊長が慌てて「そんなに食べちゃダメだよ」と注意する。
     「ハゼってウルシの仲間だよね。かぶれないのかな。」ハゼにかぶれる人はいるらしい。樹液に含まれるウルシオールが原因で、一度かぶれるとかぶれやすい体質になると言う。胃の中がかぶれるとどうなるだろう。それにハゼの実からは蝋を採取するはずで、胃の中に蝋が入るとどうなってしまうのか。
     しかしナツハゼは実はツツジ科スノキ属であって、ウルシ科のハゼとは別物であった。ややこしい。ブルーベリーやコケモモも同じツツジ科スノキ属だから、似たような味だろうか。果実は甘酸っぱいのでジャムや果実酒として利用されるという。
     ここからボーダー花壇に沿って歩くと、この季節でも珍しいものは咲いている。草むらに二三十センチほどの高さに茎を伸ばして咲いているのはバーベナ、和名ビジョザクラ(クマツヅラ科)であった。そう言われれば花の形がサクラソウやシバザクラに似ている。
     「あれはトキワマンサクね」とペコチャンに声をかけられても、花が咲いていなければ私には何とも判断がつかない。「赤くなるほうだわね。」 
     「これはハマナス。」「食べられんですか。」今日は何を見ても食べられるかどうかが基準になる。「ナシって言う位だからね。」「浜梨が訛ったんだよ。」「ズーズー弁だね。」自生南限地は茨城県だというので、東北訛りということだろう。バラ科バラ属である。弱い甘みと酸味があるらしい。
     「あれは何かな。」背が高くオレンジの不思議な形の花が咲いているのはカエンキセワタ(英名ライオンズ・イヤー)という。「名札が付けられているから有難いわね。」ペコチャンも知らない花だったようだ。英名はライオンの耳という意味で、和名は火炎被綿と書く。
     「これはフウです。」中国で楓と書く植物で、日本でカエデというのは別種である。マンサク科フウ属。「そうなんですか。」私は足利の織姫公園で隊長に教えてもらった。翻訳には常にこの種の誤解や危険が伴っているだろう。だから牧野富太郎は、植物名は必ずカナで書かなければならないと主張した。ごく簡単なものでも、中国の松と日本のマツは違うのである。
     実はゴルフボール大でウニのようにトゲトゲガあるから、トウカエデの翼果と全く違う。「落ちてませんね。」実はたくさん生っているのに、地面には全く落ちていない。しかし足利で見たのは今年の六月だった。実のなる季節が半年もずれるものだろうか。

     ここからカエデ園に入っていく。椿姫とヨシミチャンの本日の最大の目的はここであった。人が大勢いて、それぞれカメラを向けている。緑、黄色、赤。赤も朱に近いものだけでなく紫に近いものもある。「グラデーションなんて英語で言いたくないけど、悔しいけど、グラデーションがきれいだね。」隊長が言う。私も日本語でどう表現したらよいのかよく分からない。辞書によっては「諧調」と言うが、諧調には整然と調和したという意味があり、これではニュアンスが伝わらない。「美はただ乱調にある。諧調は偽りなり」と大杉栄が言ったのは、秩序に従った世界と言う意味である。
     トウカエデの枝につく翼果をドラエモンが毟り取って落とす。「ほらよく回るでしょう。」「ヘリコプター。」幼児を連れた母親がいるので、私も毟り取って見せた。「アッ、ホントに回るんですね。」母親が「やってみる」と子供に持たせたが、子供の背では回る前に落ちてしまう。「抱っこしてあげれば」とドラエモンが声をかけるとホントにそうした。「回ったわ。」「これが種です。」「持って帰ろう。」
     一口にカエデと言っても実に種類が多い。このカエデ園には野生種二十二、園芸種五十種が植えられているらしい。貰った紅葉ガイドによれば、アサノハカエデ、ミツデカエデ、ヒトツバカエデ、チドリノキ、カジカエデ、ウリカエデ、ウリハダカエデ、ホソエカエデ。イロハモミジ、ヤマモミジ、オオモミジ、ハウチワカエデ、コハウチワカエデ、イタヤカエデ、オニイタヤ、エンコウカエデ、ウラゲエンコウカエデ、ハナノキ、メグスリノキ、カラコギカエデ、トウカエデ、トネリコバノカエデ、これで二十二種になる。
     ハナノキとは面白い名だ。花が咲くのは何もこればかりではないだろうに、これでは花をつける木の代表のように思ってしまう。「背が高くて花が小さいから、双眼鏡じゃなくちゃ見えませんよ。」古道マニアも樹木には詳しかった。四月頃、葉が開く前に咲くというのは、染井吉野と同じではないか。どこかに行けば見られると教えてくれたのだが、折角の場所を忘れてしまった。
     「エンコウカエデっていうは、エンは猿。コウは難しい字。」それなら猿猴であろう。どちらも猿の意味だ。イタヤカエデの変種らしい。「ケモノヘンなら、ショウジョウモミジっていうのも聞いたことがある」と三四郎が言い出した。「ケモノヘンに星を書くやつ。」猩々紅葉か。これはイロハモミジの園芸種らしい。赤子でも猿でも、とにかく手の平のある動物なら良いのだろう。それにしても、カエデにこんなに種類があるとは思わなかった。
     「立田川」と名付けられた木がある。「からくれないに水くくるとは、の立田川ですか。」椿姫の質問に「いや、あれは難しい字。龍の方」とダンディが応える。ダンディは上方の地名をゆるがせにするわけにはいかない。
     相撲に立田川部屋があった(今はない)ので、「相撲にあったよね」と口にした途端、「それじゃ落語になっちゃう」と椿姫が笑う。私は感度が鈍かった。花魁の千早に振られたのが相撲取りの竜田川である。「そうか、トワとは千早の本名なんて。」「その落語を知ってるだけで古い」とドラエモンも笑う。
     「百人一首にありましたね」とダンディが今更のように言うのがおかしい。詠んだのは在原業平で、あんまり大した歌とは思えない。小学生私は「水潜る」と覚えていて(全く落語に出てくる知ったかぶりの大家と同じだ)、それが「水括る」だと知ったのは大分後になってからだった。

     千早ぶる神代もきかず龍田川からくれなゐに水くくるとは  在原業平朝臣

     古今集には、「二条の后の春宮の御息所と申しける時に、御屏風に竜田川にもみぢ流れたる絵を描けりけるを題にてよめる」と詞書をつけて、素性法師「もみぢ葉のながれてとまるみなとには 紅深き浪やたつらん」と並べてあるそうだ。二条の后とは例の藤原高子で、かなり奔放な女性であったと言われる。しかし『伊勢物語』で「白玉かなにぞと人の問ひし時 露とこたへて消なましものを」なんて読まされれば、儚くて可憐な美少女を想像してしまう。
     この時は思い出せなかったが、百人一首にはもうひとつ竜田川を詠んだ歌があった。

     嵐吹く三室の山のもみぢ葉は竜田の川の錦なりけり  能因法師

     「学徒壮行出陣の碑のところに同期の桜と万朶の桜がありましたね。あれは素敵だったわ。」そうかね。これは椿姫が『万朶の桜』の歌を知っていることを意味する。「ヨシミチャンは『万朶の桜』を知らないって言い張ってた。」「ホントに知らないの。私は若いのよ。」「だって今日は二百円でしょ。」「娘が買ったから私は知らない。」
     「万朶ってどういう意味。」ダンディがこういうことを訊くのは珍しい。「いっぱい咲いてるっていう意味ですよ」と椿姫が正しく答える。朶は垂れ下がった枝のことである。一杯の花の重みで垂れ下がるのである。
     隊長の案内もよく見ていなかったので、こんなにきれいな紅葉を満喫できるとは思わなかった。この季節の森林公園はいいじゃないか。十二月一日まで夜はライトアップされ、「紅葉見ナイト」と称して夜十時半まで開園している。

     売店の前で休憩だ。喫煙所がありそうなものだが、それが見当たらない。私と同じように周囲を見回していた古道マニアと、「ちょっとその陰にでも外れればいいでしょう」と脇道に逃げる。
     売店の裏のトイレを経由して、みんなが座っているベンチに戻る。ベンチにはオレンジ色の布が敷いてある。「緋毛氈じゃないね」と古道マニアが笑う。紅葉にかけてあるのだろうが、自然の色には敵わない。
     「ここには喫煙所がないんですか。」椿姫はタイミングが遅い。「隠れて吸えば大丈夫。」「売店の陰に行こうかしら。」「あそこはトイレ。」結局諦めたようだ。トイレに隠れて吸うのは高校生までで止めた方が良い。
     園内を周回するバスが通っていく。「満員じゃない。」子供が多い。「大人は屋根に乗らなくちゃいけない。」ドラエモンの言葉に「エーッ、そうなの」と素直に反応してはいけないだろう。
     車組三人はここから西口に戻ることになった。「どこを歩けばいいんですか。」「この地図に従って。」「だって分からない。」「要所々々で道しるべがありますよ。」「若い人がいるから大丈夫でしょう。」
     別れる前に花壇に植えられたシクラメンの原種の花を見る。実は私は普通のシクラメンの花もきちんと見たことがない。だから比べようもないのだが、薄いピンクに紅の入った小さな可憐な花だ。「カタクリみたいね」とイッチャンが呟く。おかしな形だと思ったが、茎の捩じれているところをもって下に向いた花弁の開口部を見ると、壺のように狭くなったところから、花弁が反り返っているのが分かる。イッチャンが言っていたのは、その反り返ったところを観察していたのである。
     またまた歌謡曲の話題になってしまうが、小椋桂が「シクラメンのかほり」と書いたのは仮名遣いとして正しくない。香りは「かをり」でなければいけない。サクラソウ科シクラメン属。
     シクラメンの原種には春に咲くバレリアリクム、夏から秋にかけて咲くヘデリフォリウム、冬から早春に咲くコウム、ペルシカムなどの種類があるようだ。今見ているのはヘデリフォリウムで、葉はない。葉が出る前に花をつけるらしい。

     橋を渡って西口に向かうという三人と別れて私たちは南に向かう。中央橋、野草コースを通り過ぎる。「そこで休憩しましょう」と隊長が声を出したのは記念塔の前だ。ここは椿園になっていて、何本かには花が咲いている。花弁の落ちている状態を見れば、これはサザンカではなかろうか。なにしろ私は、花全体が落ちていれば椿、花弁が別々に散り落ちていればサザンカと、それだけの判別基準しか持っていない。
     「そこにヒヨドリジョウゴの実がなっているんだ。」さっきも見ている。「ヒヨドリが食べるのかしら。」ウィキペディアを参照してみる。

    ヒヨドリジョウゴの名は、ヒヨドリがこの実を好んで食べることから名付けられたとされるが、実際にはとくに好んで食べるわけではなく、冬になっても残っていることが多い。

     小さい実の表面はトマトのような光沢がある。「食べられるのかな。」ダンディの木の実への関心は食えるか否か、それだけなのか。「試しに食べて貰おうか。」「明日になれば結果が分かるわね。」しかしこれは素人の危険な発想であった。「猛毒です」と隊長が断言する。ソラニンというものがあって、神経に作用する。ジャガイモの芽や皮にも含まれているから、芽は必ず除かなければいけない。
     ソラニンとは主にナス科植物に含まれるステロイドアルカロイドの一種である。と書いていながら私には何のことか分からない。ウィキペディアによれば、「神経に作用する毒性を持ち、中毒すると溶血作用を示し、頻脈、頭痛、嘔吐、胃炎、下痢、食欲減退などを起こす。」大量に摂取すれば昏睡状態に陥り死に至る場合もあるという。
     毒がないと他人に言われても、すぐに信用してはいけない。素人は私のようにいい加減なことを無責任に口にすることがある。まず、知らないものは食わないのが無難であろう。これがナス科ナス属であるというのも不思議な気がするが、トマトに似ていることを思えば、そうなのかと納得もできる。
     後は見るべきものもあまりなく、坂道を下って出口に向かう。「今日の反省会は何人なの。」カズチャンが訊いてくる。「多分男は三人、それにカズチャンを入れて四人だね。」「久し振りだから行こうかしら。」勿論大歓迎だ。男三人で飲むより余程楽しい。
     売店では三四郎が土産を買いそうな素振りをしたが、結局何も買わない。バス停で時刻を確認すると次は十五時五十九分発だから十分ちょっとある。この間に用を済ませて戻ると、もう大勢並んでいる。それでもカズチャンの隣に座れた。
     森林公園駅から乗った電車は始発の急行だった。ドラエモンは東松山で降り、古道マニアは坂戸で降り、三四郎は鶴ヶ島で降りた。川越で、そのまま乗っていくイッチャン、川越線に乗り換えるペコチャンと別れて、反省会組四人(隊長、ダンディ、カズチャン、蜻蛉)は川越の町に出る。クレアモールは相変わらず人でいっぱいだ。
     いつものようにさくら水産を目指していたのだが、和民の看板に中生ビール半額の掲示を見つけた。「ここでいいですか。」今日のメンバーだと焼酎ボトルを注文するのは無理だ。そうするとビールが安ければ安いほど良い。それに最近のさくら水産はタッチパネル式の注文機械を導入して、なんだか面倒臭くなっている。
     ビールが出されるまでの間に、カズチャンは昼の残りのおにぎりを食べた。今日は私が若者代表として注文係を承る。ダンディが希望した本日のお勧めの、数種の刺身をサイコロに切って味付けしたのは、カズチャンが食べられない。そう言えば刺身は苦手だと聞いたことがあって、それを忘れていた私が悪い。
     珍しく四人と言うこじんまりした反省会で、かなり本音が飛び交った。私が何事につけ断定的な物言いをすると隊長は指摘する。ホントにそうだ。悪い癖だと分かっているのだが、自戒これ努めなければならない。
     ダンディと隊長の万歩計を勘案して、今日の歩数は一万八千歩と決めた。およそ十キロであろうか。七時頃に終わって二千六百円。家に帰ると、「早かったね」と妻に言われてしまった。もっと飲むべきだったろうか。

    蜻蛉


     里山日記としては以上であり、以下は余計なことである。
     酒席の話題からの延長になってしまうが、少しだけ書いておきたい。酔いが回って上手く伝えられなかったが、私にとっては大事なことなのである。わが精神を奮い立たせるための覚書である。

     私が外国旅行を嫌うことを、いつものようにダンディが責め立てる。既に結構酔っている私は、外国に行かなくても全て本を読めば分かるなんて、極端な、しかも粗雑なことを言うものだから、隊長にも批判されてしまう。こんな弁解では批判されるのは当たり前で、これは私が悪い。言い訳に困って、「林達夫は七十五歳で初めてイタリア旅行をするまで、海外旅行をしたことがなかった」なんて、こともあろうに敬愛する林達夫の名前を出してしまった。林は二歳から六歳まで外交官だった父の任地のシアトルで過ごしたことはあるが、これは勘定に入れない。勿論問題は外国旅行のことではなく、林達夫のことである。
     「林達夫、知らないな。」と言いながら隊長がメモを取る。口にしてしまった以上、紹介しなければバチが当たる。近代日本を生きた最高峰の知識人だと私は思っているが、一般にはほとんど知られていないだろう。大江健三郎、中村雄二郎、山口昌男、高階秀爾、澁澤龍彦などが林達夫に師事した。このメンバーを見ただけでも、その範囲は哲学、人類学、芸術、文学に及ぶ。大学教師としての教え子には、東洋大学での坂口安吾、鎌倉アカデミアでの山口瞳がいる。
     現在の大学では一般教養科目が排除され、教養の終焉が当たり前のように言われる時代である。その言葉を口にするさえ勇気がいるが、それでも、その「教養」を一身にまとった大教養人である。そもそも「教養」をお蔵入りさせて、われら日本人の知性はどこに向かうのだろう。
     私が最初に手にしたのは『歴史の暮方』だったが、高校生の時分にはよく理解できなかった。大学に入って再び読んで初めて林達夫のスゴサを認識したのだから、あまり頭脳は明晰でない。その『歴史の暮方』から、いくつかの断片を拾い出してみよう。国家総動員法が発令されて以来、「バスに乗り遅れるな」の合言葉の下に、大半の知識人が翼賛運動に組み込まれていった時代のことである。

     私は一箇所の貧しきエピキュリアンにすぎない。この書に集められた文章が書かれた時代、すなわち一九四〇年から四二年にかけて、わが国は世を挙げてあたかも一大癲狂院と化しつつあるの観があった。そこに生起する一切は、私の眼には、尊大と軽信との烙印を捺された、気負い立った牡牛のとめどもない仮装行列のようにしか映じなかった。(序)

     絶望の唄を唄うのはまだ早い、と人は言うかも知れない。しかし、私はもう三年も五年も前から何の明るい前途の曙光さえ認めることができないでいる。誰のために仕事をしているのか、何に希望をつなぐべきなのか、それがさっぱりわからなくなってしまっているのだ。

     ・・・・・・私の所属していると思って、あてにしていた集団が失くなってしまったからだ。ほんとうは失くなったのではなくて、変わったのであろう。だが、私にとっては、どっちみち同じことだ。私は変わっていない。

     ・・・・・・時代に取り残された人間とは、私の如きものを言うのであろう。だが、それを寂しくも心残りにも思っていない。目前に見るこんな「閉ざされた社会」なんかにもはやこだわっている気持ちは一向にないからである。

     戦争が終わってなお監獄に留められて獄死した親友三木清を語った『三木清の思い出』がある。昭和十年代に一世を風靡した哲学者を哀惜しながら、三木の真に独創と言えるのは奇怪な書体にしかなかったと、その学問的業績は完全に斬り捨てた。京都帝国大学生三木の可憐な恋愛と失恋(相手は共通の親友の谷川徹三夫人となった)、京都帝国大学教授になる夢を棒に振った院生時代のスキャンダルなどを語って、三木への友情が溢れるほどに感じられる名文である。拘置所を脱走した高倉テルを匿ったために拘束されて死に至った三木と、非合法共産党員と接触しながら無事だった自分とを比べて、その文章は終わる。

    ・・・・・・私はこれなら信頼するに足る確信することのできない人々には、一切どんな因縁があっても心を許そうとしなかったためである。三木の寛宏な暖かさと私の狭量な冷たさは、こんなところにもあらわれているといえるだろう。――だが、それにしても、やはり運であった。
     ※友情の務めが果たされるためには、一しょに何斗も塩を食わねばならない。

     戦前には雑誌『思想』の編集長、戦後の平凡社『世界大百科事典』の編集長を務めたことが知られている。と言えばジャーナリストかと思われるだろうが、具体的事実の綿密な検証に基づき批判的方法論を駆使する歴史家である。主なフィールドは古代ギリシアからルネサンス、近代に及ぶ西欧精神史であり、戦前戦中を通して筋金入りの「洋学派」であった。
     本人はアカデミズムとジャーナリズムの間で危うくバランスをとっているなんて言っているが、そのどちらの世界でも、なまなかの専門家が足元にも及ばない見識と成果を示した。現実のアカデミズムを嫌ったが、本来は根っからの学問のひとである。林達夫の文章を読むと、学問ってなんて素晴らしいものだろうと、いつも思う。
     余りにも書かなすぎる著述家とも評されるが、平凡社から全六巻(+書簡集)の著作集が出ている。各巻の内訳は、第一巻「芸術へのチチェローネ」、第二巻「精神史への探究」第三巻「無神論としての唯物論」、第四巻「批評の弁証法」、第五巻「政治のフォークロア」、第六巻「書籍の周囲」である。
     久野収を聞き役とした対談集『思想のドラマトゥルギー』を読めば、膨大な知の量と発想の柔軟に圧倒されて眩暈がする。
     『精神史――ひとつの方法序説』(これは林達夫の学問的業績の最高のものと評価されている)は難しくて何度読んでも正確に理解できない。なにしろ知識が足りず、ルネサンス美術を論じられると手が出ない。それでも通説に囚われず細部をきちんと実証しながら積み上げていく手続きの厳密さ、それを元に全体像を提示する鮮やかさには目を見張らされる。
     手軽なところでは、岩波文庫で『林達夫評論集』が手に入るので、お薦めする。戦時中に自ら発言を禁じて、ハーブ園(小石川植物園の係員にはシェークスピア・ガーデンを作るのかと尋ねられた)を自宅の庭に造るほど植物にも造詣が深い。『拉芬陀』『作庭記』なんかは、隊長やあんみつ姫は面白いと思ってくれるかも知れない。
     また山田吉彦(きだみのる)と組んで岩波文庫版『ファーブル昆虫記』(全十巻)を訳したことも知られている。子供向けには『ファーブル 昆虫記と暮らして』を書き、まえがきでこんなことを言った。

     ・・・・・・わたしははじめ、この本から諸君が汲みとるべき数々のヒントを書こうと思っていたが、よく考えてみるとそれは、ファーブルの精神――諸君がそれを学んでほしいとわたしが切に望んでいる――その精神に反するおろかな企てであることがわかった。「自得」(自分でさんざん苦労し、工夫してさとること)が、知識への道は何よりも大事なことだ。

     別なところでは同じことをこうも言っている。

     というのは、こうしたもの(虎の巻のようなもの)は真の自習を無効にし、工夫、苦心、練磨といった多少とも労力の「無駄」と時間の「空費」とを伴う「勉強」の機会を空にしてしまうからだ。・・・・・・
     小さな無駄を省くこの便利な用具が実は大きな無駄をしているのである。(『「虎の巻」全廃論』)

     この「虎の巻」をほかのものに置き換えれば、現代の教育に決定的に不足しているのが何か、分かるだろう。知力の衰えは、林の言う「労作」を嫌うようになったことに始まる。
     林の足元にも及ばない私が言うのは余りに烏滸の沙汰ではあるけれど、林のように生きたい、林のような明晰な文章を書きたいとは、若い頃からの私のひそかな希望である。勿論生涯それが達成する見込みはない。

     ついでに、「歴史なんて、あんなものは施政者に都合のよい恣意的記録に過ぎない。私は全然信用できませんね」というダンディの言葉に反論しておかなければならない。勿論、皇国史観に基づく教育が行われていた時代は確かにそうだったと言うのが大前提である。
     だから戦後の歴史学はそのことに対する深刻な反省に立って出発した。再出発の時点では皇国史観を批判するあまり、唯物史観に基づく発展段階論に拠りすぎ、西洋史の構造を機械的に日本史に当て嵌めるような欠陥は確かにあった。しかし一九六〇年頃を境にして、その後の五十年以上に及ぶ歴史学界の真摯な努力を全く認めず、かつての印象だけで判断されては日本の歴史学が浮かばれない。
     中国、韓国の実情は知らず、現代日本の歴史叙述で、施政者の都合に合わせたものなんかない。それにたとえば経済史を欠いた経済学、政治史を欠いた政治学の存在が考えられるだろうか。少なくとも人文系諸科学は歴史の成果に負わなければ何事も語ることができないだろう。
     全体を俯瞰する能力はないが、貧しい私の本棚を見ても、増田四郎『西洋中世社会の成立』、阿部謹也『中世の星の下で』『ハーメルンの笛吹男』、網野善彦『蒙古襲来』『異形の王権』、藤木久志『天下統一と朝鮮侵略』『戦国の作法』、井上鋭夫『本願寺』、石井進『鎌倉武士の実像』、山内昌之『瀕死のリヴァイアサン』『神軍緑軍赤軍』など、戦後歴史学の優れた業績(決して恣意的ではない)はいくらでもある。
     ただダンディの意見の背後には、歴史は史料を恣意的に継ぎ接ぎしたものであって科学ではないという、一般に流布する抜きがたい偏見がある。あるいは小林秀雄の、歴史なんて子供を亡くした母親の嘆き、思い出に過ぎないという放言への共感も根強くあるだろう。作家や哲学者が、歴史をダシにして都合の良いことを語りすぎているのである。

     私は歴史家であるが、歴史と取引することは好まない。ましてかかる取引を是認することになるような仲介人になることは尚更辞退したい。現代において書かれる歴史が現代を反映するということと、現代の自己的利害から歴史に注文をつけるということとは別事であろう。近頃はいろんな形の歴史的取引が大はやりのように見受けられる。歴史の素人――例えば哲学者が自分の思想体系に合わせて歴史的倉庫から何かを勝手に取り出すのはまだしもだが、れっきとした歴史家自身が歴史的作品の名のもとに――ひどいのになると「唄」をこっそり忍び込ませている。それは自己の胸中にわだかまる鬱憤を晴らす一つのカタルシスとひては、たしかに存在理由があるかも知れない。だが、それならばそれとして正直に「文学」と名告るべきであって「科学」を僭称すべきではないであろう。(林達夫『歴史との取引』)

     これは昭和十四年に書かれた文である。和辻哲郎や谷川徹三が、実証的な手続きを一切省いて、哲学者の勘だけで歴史を語ることに対する批判が込められている。ここに梅原猛の名前を加えても何の不自然もないだろうと思う。
     正にこの問題を巡ってエドワルト・マイヤーとマックス・ウェーバーが論争した(『歴史は科学か』)。本棚のどこに埋もれてしまったのか、今探しても出てこないので記憶によるのだが、些末な実証主義への埋没、イデオロギーによる安易な図式化に対しては徹底的に反対し、歴史が科学としてあるべき論点を明確にしたと言ってよいだろう。
     マルク・ブロックは歴史研究者の立場から『歴史のための弁明』を書いた。その中でマルク・ブロックは、誠実な歴史家がどのように史料を探し出し、恣意に陥らないためにどのような手順を辿っていくかについて、具体的詳細に説明してくれている。

     「パパ、だから歴史が何の役に立つのか説明してよ。」このように、私に近しいある少年が数年前、歴史家である父親に尋ねたことがある。以下に読まれる本書に関して、私はこれが私の答えであると言えたらよいと思う。なぜなら著作家にとって、同じ調子で学者にも小学生にも話すことができるという賛辞ほど立派なものは私には想像できないからである。しかし、それほどの高度な平易さは、わずかのまれなエリートの特権である。とはいえそのときにはその知識欲を満足させることがうまくできなかったかも知れないこの子の質問を、私は進んでここに題辞として残しておきたい。おそらくある人たちは、この言葉を素朴だと判断するであろう。しかし私にはむしろ、これはまったく適切だと思われる。あの手加減することを知らない年齢の扱いにくい正直さをもってこの言葉が提起する問いは、歴史の正当性の問題にほかならない。(マルク・ブロック『新版・歴史のための弁明』)

     ダンディには、是非この本を読んで欲しいと思う。アナール学派の創始者としてのブロックの学問的な達成には、『封建社会』がある。また、大学教授の職を擲って対独レジスタンスに加わり、抵抗と逃走を続けながら、何故フランスは敗北したのかを考察した『奇妙な敗北』がある。そしてブロックはついにドイツ軍に捕まり銃殺された。