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    平成二十五年十二月二十八日(土)  上福岡
    (里山ワンダリングの会 第八十八回)

    投稿:   佐藤 眞人 氏     2014.01.05

     旧暦十一月二十六日、冬至の次候「麋角解(さわしかつのおつる)」。年も押し詰まった今日では参加者は少ないのではないか。隊長と二人っきりのデートになったりすると聊かヤバイという私の危惧は見事に外れた。東武東上線上福岡駅には隊長、あんみつ姫、シノッチ、イトハン、伯爵夫人、画伯、ハコサン、ダンディ、ドクトル、千意さん、三四郎、宗匠、ヤマチャン、ロダン、蜻蛉の十五人が集まった。女性が四人も来るとは思わなかった。
     「女性は忙しいんじゃないの、掃除とか。」「何もしないわ。」「普段一所懸命やってるからね。年末だからって特別なことしないのよ。」「そうよね、やってるものね。」女性陣は口を揃えるが、嘘か本当か私には判別がつかない。そう言えば煤払いなんて言葉も聞かれなくなった。男はみんな逃げてきたのだろうが、果たして逃げ切れるかどうか。

     煤払ひ逃げる事情はそれぞれに  蜻蛉

     ダンディの帽子はスナフキンが被るようなトンガリ帽子だ。と言っても、ダンディは『ムーミン』の登場人物スナフキンを見たことがないのだから、それにあやかったものでは勿論ない。スロベニアのものらしい。宗匠がロダンに帽子のことを訊くと、「私のは婦人用なんです」と告白する。愛妻のお下がりだったようだ。実は私の毛糸の帽子も婦人モノだと妻が言っていた。
     宗匠とヤマチャンに会うのは随分久し振りのように思ったが、九月以来だからそうでもなかった。ドクトルは十一月に東松山スリーディ・マーチの三十キロコースを歩いたと言う。これはエライことである。私も一度だけ歩いたが、ただ闇雲に早さを競うものだから周囲をじっくり観察する暇もなく、ちっとも面白くない。
     上福岡駅に降りるのは随分久し振りだ。「この駅は新しいんじゃないの、昔はなかったと思うよ。」ヤマチャンの記憶にはないらしいが、少なくとも三十年前にはあった。踏切がしょっちゅう渋滞していたことも記憶がある。
     東口(以前は北口と呼んだ)に降りたところに「福岡駅碑」が建っていて、そこに大正三年(一九一四)、東上線開業とともに設置されたと書いてある。「ヤマチャン、ここに書いてあるよ。」「そうか、そんなに古いんですか。」

    表面には東上鉄道の開通に尽力した星野仙蔵の功績を讃える文と漢詩が、裏面には建碑に関わった人々の名前が刻まれています。(福岡駅碑について)

     星野仙蔵の名前は後でまた登場するので、記憶していてほしい。西口駅前には古い公団住宅が建っていた筈だ。「あれは古いですね。今は建て替えてますよ」と、不動産事情に詳しいロダンが即答する。昭和三十四年に竣工した霞ヶ丘団地である。同じ頃に上野台団地も造成され、それを機に福岡の人口は急激に増えたと言う。一時期、上福岡市は全国で最も人口密度の高い市であった。
     駅名は九州の福岡と紛らわしいので上福岡駅にした。そしてこの駅名から上福岡市の名称が採用されたのだが、大井町と合併して、現在はふじみ野市という面白くもなんともない名前になってしまった。しかも隣接してそれ以前から富士見市があり、そこにふじみ野駅があるのだから、紛らわしいこと夥しい。合併協議が不調に終わった腹いせではないかとさえ思ってしまう。命名にはもう少し神経を使って欲しい。
     「一番酷いのは南アルプス市ですね。」こういうことではほぼ全員と意見が一致する。古い地名を残しておかないと文化が断絶してしまうのである。福岡の地名は永禄二年(一五五九)の「北条氏所領役帳」に記録されているというから歴史がある。
     「随分変わっちゃってますね。」駅前の様子は少し変わっているようだが、ロータリーの向こうに見える店に覚えがあった。「あそこの日高屋で飲んだことがあるよね。」「そうそう、会長がいた時ですよ。」ロダンも覚えていた。あれはいつ頃だったろうかと古い記録をひっくり返してみると、平成十七年六月二十五日のことだった。「ふるさとの道自然散策会」のリーダーがカメチャンからN氏に代わった時で、最高気温三十五度の中、新河岸駅を出発して新河岸川沿いに歩いたのである。

     新河岸から川沿いに三キロほど。河原の草いきれ、蒸し暑さ耐えられず。住宅地に入って二キロほどで上福岡まで。新リーダーN氏は、本人の言うとおり事前調査はせず、道も分らず。カメチャンが参加してくれなければ収拾がつかなかっただろう。要するに「やる気なし」と全員の判断一致。ただひたすら歩くのみ。昼食を終えたのが十二時、そこから駅までは三十分ほどで、余りにも早すぎ、会長提案で福岡河岸記念館に立ち寄るグループと、真っ直ぐ駅へ向かうのと二手に分かれる。上福岡の「日高屋」でビール。十一人。こんな時間に空いている店はないのだが、ラーメン屋でビールが飲めるのだ。宗匠はここまで。更に川越の「ビッグ」。会長、隊長、カメチャン、桃太郎、ロダン、KS氏、O氏、画伯、他言居士。

     当時はまだニックネームをつけていないから、名前の部分だけ変えて掲出する。どこで飲んだかだけは書いてあるが、どこを歩き、何を見たか肝心の記録がない。「旧陸軍火工廠跡に行きましたよ。」ロダンの言葉で少し思い出した。福岡河岸記念館から上福岡駅に出る途中で、講釈師が弾薬について得意になって講釈していた場所だ。
     隊長の挨拶が始まったのに、伯爵夫人ひとりがあらぬ方角を見詰めている。「伯爵夫人、こっち向いてください。」隊長は当初、またこの駅に戻ってくる計画をたてていたのに、少しコースを変えて、ふじみ野駅まで行くことにしたと言う。「ただ、その辺は下見をしてないから少し迷うかも知れません。」
     駅前から左斜めに八雲通り商店街に入って行く。別名福岡銀座であるが、三四人が横に並ぶと一杯になってしまう細い道だ。街灯には朱塗りの鳥居が取り付けられている。「あそこでも飲んだことありますよね。」ロダンはすぐに飲み屋を思い出す。「無茶苦茶安い店、焼酎がデカンタで出てくるんだ。」「一休」である。その隣には「土間土間」もある。飲み屋、質屋、駐輪場などがごちゃごちゃ並ぶ雑然とした通りだ。
     八雲神社の裏口を通っているようだが、入り口はどこだろうか。「さっき鳥居があった。」三四郎は良く観察していた。後で行くことになっている長宮氷川神社から、昭和五年にスサノオを分霊した神社だそうで、歴史的には言うべきこともない。
     商店街を抜け住宅地の狭い道に入ると、道は曲がったり行止まりになったりややこしい。都市計画も何もなく、てんでん勝手に田畑を潰して家を建てた結果であろう。この道はおそらく二度と辿れない。「今どの辺だろう。」ヤマチャンに訊かれて隊長から貰った地図を確認すると、まだ目的地までは半分も来ていないようだ。この狭い住宅地の道でも時折車が通るから危ない。
     この時期だから当然のように雑煮が話題になる。切り餅か丸餅か。子供の頃には、米屋から大きな長方形の伸餅が配達され、固くならないうちに小さく切り分けるのも、年末の行事だったように思う。結婚して妻の実家で初めて丸餅というものを食った。
     それはともあれ、宗匠の子供の頃、ぜんざいが雑煮だったとは驚くね。宗匠の家だけがそうなのか、佐賀県一般の風習なのか、ヤマチャンに訊いてみればよかった。鈴木棠三『日本年中行事事典』によれば、「小豆雑煮は九州の一部や山陽・山陰などの海岸地方に見られ」る。更に調べてみると、ぜんざい文化圏というものが存在し、その中心は出雲地方であるらしい。

     松江藩の地誌『雲陽誌』佐陀大社の項に「此祭日俚民白餅を小豆にて煮、家ことに食、これを神在餅といふ、出雲の国にはしまる、世間せんさい餅といふはあやまりなり」とあります。その他、いくつかの古文献にも「神在餅」についての記述があるところから当社は「ぜんざい発祥の地」であるといわれています。」と書かれており、実際に出雲地方の正月に食べる雑煮は小豆汁の雑煮であるなど小豆との関係が強い。神前に供えた餅自体が「善哉」であり、この餅を食べる為の小豆を使用した食事をも善哉と呼ぶようになったとする説。(ウィキペディア「ぜんざい」より)

     神在月に供えたから神在餅(ジンザイモチ)で、これが訛ってゼンザイになったと言う説である。もう一つの説は、一休が食って善哉と叫んだと言うものだ。秋田では汁粉としか言わず、ゼンザイという言葉を知ったのは東京に出てきてからだったんじゃないか。元々は西の方の言葉であろう。
     「どうして旧暦十月に全国の神様が出雲に集まるのかな。」私はそんなことを考えもしなかったが、言われてみれば不思議である。そもそも、神無月の起源はなんだろう。こんな基本的なことも知らないのは恥である。

    「神無月」の語源に明確な語源があるわけではない。しかし、一番有力な説が神無月の「無・な」が「の」にあたる連体助詞「な」で「神の月」とする事である。また、出雲大社に全国の神が集まって一年の事を話し合うため、出雲以外には神がいなくなると言われるのは、後付けの中世以降、出雲大社の御師が全国に広めた俗説とされる。また留守神という性格を持つ神も存在し、すべての神が出雲に出向くわけではない。(ウィキペディア)

     左の路地は随分急な坂道が下に降りていて、ここはかなりの高台になっていることが分かる。右に広い通りが見渡せる角に出ると、東の方に大きな建物が目に付いた。「あれは大日本印刷だね。」大日本印刷上福岡工場である。隣接する新日本無線の川越製作所も含め、あの辺一帯が旧陸軍火工廠跡だった。

    昭和二年、それまで畑が果てしなく広がっていたこの土地に、東京から日本無線電信株式会社(現・KDDI)が進出してきました。それまで片田舎であったこの地に、突如として出現した時代の先端を行く無線通信基地。当然、そこに働く日本無線電信の社員もおおぜい引っ越してきました。それまでは地元の人かせいぜい近郷・近在の人が集住するだけの東上線の沿線の町や村で、突如埼玉とは縁もゆかりもない人が移り住んできたわけです。地元の子どもたちは坊主頭に絣の着物姿で学校に通うのが普通でしたが、都会からやって来た子どもたちは、坊ちゃん刈りにランドセルを背負った洋服姿。都会の生活の香りを運んできたのではないでしょうか。
    しかし、日本無線電信の進出は上福岡の変化の始まりの第一歩だったのです。関東大震災後、急激に都市化・過密化する東京市内に点在する軍事施設の郊外移転の一環として、昭和二年に帝国陸軍の火工廠移転が決まったのです。しかしこの話は地元農民の強硬な反対運動にあい、いったんは中止されます。しかし中国大陸での戦火拡大を背景に、結局は無線基地と県道(現在の市役所通り)をはさんだ反対側の広大な敷地に火工廠が建設され、弾丸や砲弾が製造されました。昭和十二年のことです。火薬を扱うので土塁で囲まれた倉庫が何棟も建てられました。 こうして一面に畑の広がるこの地域も、昭和に入って急速に景色を変えていったのです。 なお火工廠のための鉄道の引き込み施設はなく、川越線の南古谷駅から火工廠に向かう直線道路が開通し、物資の運搬にあたったということです。 現在も当時の給水塔が残っていて、当時の面影を残しています。
    敗戦という形で戦争が終結して、火工廠は廃止され、広大な敷地はほとんど民間に払い下げられ、現在は大日本印刷、新日本無線、市役所、学校、上野台団地などに利用されています。いかに広大な敷地だったかおわかりいただけると思います。(「東上沿線 車窓風景移り変わり」http://www008.upp.so-net.ne.jp/tojo/konjaku-17.html)

     清見台第二公園の脇を通る。路地ばかりの住宅密集地では、子供が遊ぶには公園がないといけない。しかし子供の姿は全く見えない。子供もいないのだろうか。あるいは狭い路地ばかりのこの地区では防災のために設置されたのだろうか。公園を設置する基準は何かとロダンは悩み、ハコさんに尋ねて人口によるのだという回答を貰った。ハコさんはどうしてそんなことを知っているのだろう。しかし、あんみつ姫はそんな基準はない筈だと首を捻る。
     それでは調べてみよう。都市公園法と言う法律があって、その第一条には、「この法律は、都市公園の設置及び管理に関する基準等を定めて、都市公園の健全な発達を図り、もつて公共の福祉の増進に資することを目的とする。」とある。

    第三条  地方公共団体が都市公園を設置する場合においては、政令で定める都市公園の配置及び規模に関する技術的基準を参酌して条例で定める基準に適合するように行うものとする。

     つまり基準はちゃんとあるのだ。ただ、「都市公園法運用指針 第二版平成」(二十四年)によれば一律ではなく、地方自治体が自ら条例で定めることができる。

     今回の改正は、国が一律に定めていた基準について、地域の実情に合った最適な行政サービスの提供を実現する観点から、当該基準が適用されていた地方公共団体自ら条例で定めるようにしたものであり、地方公共団体が都市公園を設置する場合には、当該地方公共団体が都市公園の配置及び規模に関する技術的基準を条例で定め、その基準に適合するよう行うものとされた。(http://www.mlit.go.jp/crd/townscape/pdf/koen-shishin01.pdf)

     かつては、街区公園が二百五十メートル、近隣公園が五百メートル、地区公園が一キロ(住区基幹公園における誘致基準)と定められていたが、平成十五年に廃止されたらしい。設置基準の緩和ということになるのだろうか。
     但しそれでも大凡の目安はある。それが住民一人当たり十平方メートル以上であり、用地取得困難な場合は五平方メートル以上でも良い。そして、「市町村は、このような趣旨を踏まえ、施行令第一条の2 で定める基準を十分参酌し、地域における都市公園の整備水準等を勘案して、住民一人当たりの都市公園の敷地面積の標準を定めることが望ましい。」これは、郊外に偏ることなく、都市部でも公園を造ることが出来るようにということだ。

     川崎の交差点で五六号と合流し、そこから石畳の細い道に入る。河岸に降りる道である。「ここが目的地なんだけど、残念ながら今日は入れません。」回漕問屋福田屋の建物をそのまま利用した福岡河岸記念館である。ふじみ野市福岡三丁目四番二号。「図書館はまだやってるのにね。」昨日が御用納めだから基本的に公共施設は休みになるが、大方の図書館は業務委託を採用していて、一般のお役所よりは長くやる所が多い。
     福田屋は母屋が木造二階建、建築面積一八五・一九平米。文庫蔵が木造二階建、建築面積五〇・九八平米。離れが木造三階建、建物面積三三・九五平米。現在残っているのはこの三棟だけだが、かつては十数棟の建物が並んでいたという。中でもこの三階建ては、明治三十三年(一九〇〇)頃に、福田屋十代目当主星野仙蔵が接客用として建てたものだ。
     星野仙蔵は駅前の碑にもあったように、衆議院議員になり、同期議員で東武鉄道社長の根津嘉一郎に働きかけて東上線敷設に積極的に関わった人物である。新河岸川舟運の将来に見切りをつけていたのは先見の明があった。上福岡駅の敷地取得に千九百円程が必要だったとき、私財千六百円を寄付している。
     また高野佐三郎から一刀流の免許を受けた剣道家でもあり、敷地内に道場を建てた。高野佐三郎は中西派一刀流の名人で剣聖とも讃えられた。その人物から免許を受けたからには、星野仙蔵も相当な腕前だったことが分かる。衆議員時代には武道を中学校の正課とする請願運動を続け、衆議院で可決して実現した。剣道殿堂にも特別功労者として顕彰されているらしい。「この頃、幕末からの剣豪を描いた小説を読んでるんですよ。榊原健吉も出てきます。」こういうのはロダンが好きなことだろう。
     塀に沿うように小さな地蔵堂が建っている。地蔵の台石は供養塔になっていて、「寛延二年(一七四九)・宗眼道超禅定門、宝暦元年(一七五二)・宗通妙円禅定尼 各霊位」と彫られていた。これが茂兵衛地蔵と呼ばれている。「人柱になったのね。」イトハンは信心深いからきちんと手を合わせる。
     しかし「農民に対する圧政に抗議して自ら生き埋めとなり命を絶った茂兵衛を供養するため」という伝説は信用できるのだろうか。彫られた文字を見る限り、これは夫婦の供養塔であり、妻女が死んだ後に建てられたものである。この手の伝説には、いつ、誰の圧政だったか、基本的な背景が伝えられていない。この辺りは川越藩領と旗本領が入り組んでいたようで、領主が誰だったかも分からない。
     ただ幕府は寛延三年に、幕領大名領の百姓が年貢減免・夫食・種貸などを願って徒党強訴することを厳禁しているから、全国的に百姓一揆が頻発していたことが分かる。例えば寛延二年十月には常陸国笠間領三十カ村の百姓が年貢延納・減免を強訴、十二月から翌年にかけて陸奥国の各藩領、幕領で年貢半減を求めて次々と強訴が続いた。弘前藩では不作による餓死者が二万を数えた。そもそも享保の改革によって、年貢率は四公六民から五公五民に引き上げられ、また豊凶に関わらず年貢額を一定に保つ定免法によって、農村の負担は増大していた。各藩では家中に半知借上げを命じるケースが増え、大名の経営も破綻しかかっているのである。
     川沿いの道に降りて、吉野家の蔵の前から振り返ると、福田屋の土蔵は高い石垣の上に建てられ、その上に天守閣のように三階建の屋根が浮かんでいる。当時ならほかに匹敵する建物はなく、富士山が良く見えたに違いない。
     歩道には白帆を掲げた帆掛け船の絵が嵌め込まれている。「川を上るとき、この帆を上げたのかな。綱で引いたんじゃないんですか。」勿論両方併用したのだろう。急流を綱で引くためには両岸に綱手道があるべきだが、この辺りの水はほとんど動いていないように見えるほどゆっくり流れている。
     「できるだけ川の勾配をなくす工夫をしたんだよ。そのために何度も曲がりくねるようにさ。」ドクトルはこういう地形に詳しい。「橋があったでしょう。その時、帆はどうするんですか。」「下ろすんだよ。」ドクトルの当たり前の答えにロダンも苦笑いする。「そうか。そうですよね。」二本の柱の先端に滑車をつけていたという。

    この舟運が本格的に開始されたのは、松平信綱が川越藩主になってからで、領内の伊佐沼から流れる川に多く屈曲をつけ、舟の運行に適するよう水量保持の工事をした。川越五河岸(上・下新河岸・扇・寺尾・牛子)をはじめ、下流に福岡・古市場・百目木・伊佐島・蛇木・本河岸・鶉・山下・前河岸・引又・宗岡・宮戸・根岸・新倉河岸といった河岸場が次々に開設され、積問屋が建ち並び、新倉「川の口」で荒川に合流していた。
    舟の種類は、並船・早船・急船・飛切船などがあった。並船は一応の終着地の浅草花川戸まで一往復七・八日から二十日ほどかかる不定期の荷舟、早船は乗客を主として運ぶ屋形船。急船は一往復三・四日かかる荷船。飛切船は今日下って明日上がるという特急便であった。舟の形は普通「高瀬船」で七・八十石積み、川越方面からは俵物(米・麦・穀物)さつま芋や農産物、木材などを運び、江戸からは肥料類をはじめ、主に日用雑貨を運搬した。(「新河岸川舟運の生活と文化」斎藤貞夫・川越市文化財保護協会1995)
    http://www.alpha-net.ne.jp/users2/kwg1840/fune.html

     川の対岸は葦で覆われ、川幅は狭い。「アシをヨシなんて、関東の人間はいい加減だよね。だから吉原なんて名付けたんですからね。もともとアシ原なのに」とダンディが画伯に語っているのが聞こえてきた。本当だろうか。
     豊葦原瑞穂国以来、葦は勿論アシである。音が悪し(アシ)に通じるのでヨシと読み替えたのも知っているが、それが関東発祥だったなんて初耳だ。その根拠は何だろう。手元にある辞典類ではそれが分からない。因みにウィキペディアでは「要出典」と注記されているが、ダンディ説とは全く逆に「関東では『アシ』、関西では『ヨシ』が一般的である」と書いてある。これも典拠が示されていないから判断できない。
     養老橋の向こうに「はしもと」の屋号が見えるのは、古市場河岸の問屋だった橋本屋である。橋を渡って左岸の土手を下流に向いながら、「こっち側が川越市」と隊長が呟く。土手の並木はサクラだが、まだ若い樹のようだ。風もなく日差しが強いから暖かい。それに眩しい。サングラスをしてきて良かった。
     「こういう日は小春日和って言ってもいいのかな。」画伯が訊いてくるのは句を詠む準備だろうか。本来「小春」は陰暦十月の異称だが、冬の季語として陰暦十月から十二月まで使ってよいのである。
     「コゲラですよ」と姫が声を上げる。これは私にも見えた。雀程の大きさで、色はグレーに近いか。白い斑点があるようだ。時折、枝をつついている。姫が図鑑を取り出して、「これですよ」と説明してくれる。それを見ていたダンディが「キツツキみたいだ」と言い、姫は「れっきとしたキツツキですよ」と苦笑いする。Japanese Pygmy Woodpeckerと呼ぶとは、以前ドラエモンに教えてもらったことである。「サクラの木が好きなのかな。」「そうじゃなくて、枯れ木がいいんですね。」「アッ、ひっくり返ってる。」

      空青し啄木鳥叩く枝の音  蜻蛉

     やがて左手に大きな寺が見えてきた。曹洞宗、蓮光寺である。川越市大字渋井二四八番地。川に並行して入る門が総門で、朱塗りの扉が開け放たれている。なんだか門と本堂の位置関係がおかしいと思ったのも当然で、新河岸川の改修に伴って門を移動したものらしい。寺は長禄二年(一四五八)創建、この門は江戸時代末期のものらしい。
     高麗門じゃないか。先日、日光御成道を歩いて覚えたばかりで、すぐにまた確認できるのは嬉しい。「どういう特徴があるのかな。」三四郎は初めて見るようなので説明しておく。「ロダン、こっちに来てよ。高麗門だよ。」本柱の上の切妻屋根の他に、内側の控え柱二本にも切妻屋根の載る形だ。さすがに宗匠は門に詳しくて、「そんなに珍しくもないよ」とヤマチャンに冷静に答えている。
     鳥居なら額束に相当する、大きな太瓶束(タイヘイツカ)が見事で(この言葉を初めて知った)、虹梁に刻まれた曲線もあまり見かけない形だ。
     「また酒飲みは入っちゃダメだって書いてある。」不許葷酒入山門はそういう意味ではないのだが、先日からダンディは、自分は酒飲みに含まれないかのような言い方をする。鷲嶽山蓮光寺と刻まれた門柱を見て、「すごい山号ですね」と姫が感心する。シュウガクサンと読むか。
     参道には大きな石塔がいくつも並んでいる。普通の宝筺印塔のような笠の装飾性に乏しいが、これも宝筺印塔と呼んでいいのか、それとも宝塔と呼ぶものなのか、知識がないから分からない。台座に見事な唐獅子を彫ったものは、「奉造主大乗妙典宝塔」と読めるようだ。
     今度は川に向かって開く立派な楼門があった。「仁王門だね」と近づくと持国天と増長天である。四天王か。格子にガラスを嵌めてあって、光が反射して良く見えない。門を潜ると内側は板張りになっているだけなので、二天門と言うのだろう。四天王のうち、この二人が守る二天門は案外多い。持国天は国を支え、増長天は五穀豊穣を司る。
     境内に入って早速目につくのが、小坊主が並んで動物と戯れている像である。「そうか、十二支なのね。」イトハンも熱心に観察する。十二番目の、足を投げ出した小坊主の膝にじゃれる猪が余りに小さすぎて最初はネズミかと思った程で、姫が可愛いと喜ぶ。その向かい側にはお掃除小僧が立っている。その四角い顔が誰かに似ているのだがと考えているうち、ヤマチャンだと気付いた。
     「流石は曹洞宗の寺だな。武士の仏教だから凛としている。」ヤマチャンの家の宗旨も曹洞宗だそうで、親近感があるらしい。静かな落ち着いた寺で、桜の季節になれば人出が多いだろう。
     本堂の左を回り込んでトイレを使わせてもらう。ただこのトイレには男女の仕切りが設けられておらず、あんみつ姫とシノッチが男性の終わるのを外で待っているのが気の毒だった。「ここで番兵してるからね、誰も来ないように。」

     境内に戻って皆なんとなくぼんやりしていると、「ここで昼にしましょう」と隊長が突然宣言した。もう少し歩くのかと思っていた。最初は境内で腰を下ろす積りの隊長に、「いつか弁当食べて叱られたことがありましたよね」とロダンが言い出したので、土手に上がる。
     土手にシートを広げて川に向かって足を投げ出す。女性陣は少し離れたベンチに肩を寄せ合って座る。ダンディは「いつもの武蔵浦和の弁当屋がなくなってしまった」と嘆いている。ハコさん、画伯、伯爵夫人から甘いものが回ってきて、そのあとでシノッチが煎餅をもって来た。「蜻蛉はお煎餅がいいんでしょう。」この頃ではみんな分かってくれているから有難い。
     子供が「こんにちは」と声をかけながら通り過ぎていく。ポカポカとして眠くなってくる。こんなに暖かくなるとは思わなかった。「だからさ、昼になれば暖かくなるんだ。みんな着膨れだよ。」そう言う隊長はやや薄着だろうか。

     葦原や凜然として百舌一羽  午角
     枯葦を眺む堤の昼餉かな  閑舟
     陽だまりや足を投げ出す土手の上  蜻蛉

     出発する前に千意さんがみんなを集めた。「イトハン、早くしてください。リュックはそのままで。」千意さんがリュックに丸めて収納していたのは手作りのポスターだった。「これだったんですね。何か作ってきたとは思ってたけど。」ロダンがポスターを掲げ、千意さんは用意してきた原稿を読み上げる。実に周到な人である。
     「平成十八年四月、加治丘陵から始まり、今回で八十八回を迎えます。」それはめでたい。「この間にいろいろなことがありました。隊長が北海道に移住するって言い出したり。」「誰も信じてなかったけどね。」「足を怪我した隊長の代わりにあんみつ姫がリーダーをしたこともありました。」「ゴキブリと格闘したんだよね。」「それから、ここ一二年は小町や私が企画を担当したこともありました。」
     N氏がリーダーを引き継いでから一年ももたず、SH協会は「ふるさとの道自然散策会」の解散を決定した。その時、義侠心を奮って里山ワンダリングの会を立ち上げてくれたのが隊長である。ついでだから記念すべき第一回の記録を掲げておこうか。

     平成十八年四月二十二日(土)晴れ。
     里山ワンダリングの会、発会。隊長以下、カメチャン、画伯、住職、マルチャン、小町中将夫妻、講釈師、KS氏、ロダン、桃太郎、古道マニア、鷲宮の姫、長老、他言居士、望遠鏡氏、蜻蛉の合計十七名。
     八高線金子駅から唐沢トラスト、(山の中の獣道を通って)桜山展望台、武蔵野音大裏、西武線仏子駅まで。
     タチツボスミレ(薄紫)、ツボスミレ(白)、フモトスミレ(白)の三つの区別を覚えた。一年経ってなお覚えていられるかどうか。スミレ色というから薄紫色とばかり思っていたのは無学の故。春蘭、姫踊り子草、ヤマルリソウ(瑠璃色の小さな花)など多数。今日の一番の見ものであったヤマルリソウ群生地では、山道からちょっとした低湿地に飛び降りる段差でマルチャンが前のめりに倒れこみ、隊長に抱きかかえられながら二人とも倒れる。
     植物名に圧倒され記憶の許容量を遥かに超過。植物にかける鷲宮の姫、隊長の説明にいちいち感動しながら素直に聞き入る姿は熱心な先生の話を聞く忠実な生徒。KSさんも既にプロの領域に入っている。今日は完全に植物観察会となって歩みは遅く、小町中将夫婦はやや物足りない顔をしているが、しかし発会として大成功であったと思う。
     仏子駅前の喫茶店で休憩。押し花のコースターが素敵で、女性たちがお金を払うから分けて欲しいと頼むと、言ってみるものだ、ただで呉れた。所沢「百味」で反省会。

     あれから七年半か。本当にご苦労様でした。全員で隊長に御礼申し上げる。次は百回を記念しよう。「良かったわね、今日来てホントに良かったわ。」イトハンの言葉に、「里山は心の栄養だよ」と宗匠が応えている。

     里山は八十八の冬日より  千意
     里山ワンダなるビタミンや冬うらら  閑舟

     「向こうに見える高い建物は何でしょうかね。」ダンディが磁石を見ながら、やや左前方は東だと確定する。ロダンは「誰かアナログの時計もってませんか」と訊きまわる。時計が磁石の代わりになるらしいが、そんなに厳密なことをしなくても、昼過ぎの太陽がやや右手にあるのだから、向こうは東に決まっている。「さいたま新都心ですね。」「あの方角なんですか。」
     富士見川越バイパスに出た。「昔の有料道路だね。」「ここに出たのか、車ならしょっちゅう通るのに分からなかった。」「浦所街道に出る道だよね。」ここで橋を渡って今度は右岸を戻る。しかし、隊長を始めとして山に関心のある人は立ち止まって動かない。空が真っ青だから山並みがくっきり見えるのだ。大岳山、御前山、雲取山、笠山など、私には初めて聴く名前ばかりだ。

     凍てつくや秩父連山雪化粧  午角
     冬晴や連山遠く数えをり  蜻蛉

     河川敷は整地され、ゴルフの練習場のようになっているが、傘をひっくり返したようなものがあるからゴルフではない。「ゲートボールかい。」それは違う。「バドミントンのシャトルみたいなのを使うんだ。」「そう、ゴルフボールに羽根のついたものだね」とハコさんも重々しく断言した。「埼玉県が発祥なんだよね。」ターゲット・バードゴルフであった。こんなものが面白いのだろうかと思うが、ゴルフの練習に最適らしい。
     「そう言えばこの頃ゲートボールを見なくなったんじゃないかな。」「あれはチームプレイで、だから喧嘩になっちゃうからダメなんだって。」三四郎の説では、あいつの失敗のために負けたなんて言われてイジメや喧嘩になるのだそうだ。「職場に老人が多いから、そんな話を聞いた。」
     やがて、対岸に蓮光寺が見える辺りで左に上る階段があり、子供が二人、『こんにちは』と声を出しながら降りてきた。

     元気だね子供風の子僕ママの子  午角

     「階段ですね。」小高い塚の頂上に出ると、低木の枝に紙でできた射撃の的が二枚刺してある。穴がいくつか開いているから誰かがここで射撃したのだろう。「ここにあるよ。」四阿のテーブルに玩具の拳銃が二挺置かれているのは、さっきの子供のものだろう。自転車も二台置きっぱなしだ。「弾も落ちてる。」直径五ミリほどの銀色の弾だ。「子供はこういうのが好きなんだよね。」私は子供の頃にこういうものを買って貰えなかった。拳銃で遊ぶのは軍国主義につながると言うのが父の言い分だった。
     階段を下りて細い道を渡った所が権現山古墳群である。家康が休憩したのでこの名がついたとされている。しかし古墳は分かり難い。小さなものだから雑木林に紛れてしまうのだ。「群」と言うのだから、この雑木林になっているやや小高い場所が全部古墳だったのだろう。
     七号墳と標識が置かれているのは前方後方墳だという。説明を読むと三世紀後半から四世紀初頭の古墳時代前期のものらしいが、それが本当なら関東ではかなり古く、私はこの時代のものにお目にかかったことはない。

    一九八五年(昭和六〇年)以降、十回近い試掘と発掘調査によって、「権現山」とよばれていた権現山古墳群第二号墳は、古墳時代前期初頭の三世紀末~四世紀初頭の前方後方形をした古式古墳(前方後方墳)であることが判明した。二号墳の全長は三二メートルで、後方部は、二〇メートル四方のほぼ正方形を呈する。前方部は、墳丘がほとんどないか低い状況で、後方部との接合部分は細く、前方に向かって大きく開く、バチ形であって、初期古墳の特徴をよく示している。二号墳の周囲には十一基の方墳が造られ、新河岸川を見おろす標高二十メートル前後の台地上に一群の古墳群を形成している。七号墳の墳丘は、ほぼ完全に近い形で残り、一号墳、二号墳は一部削られているものの良好に残っている。(ウィキペディアより)

     「七号墳の墳丘は、ほぼ完全に近い形」とは到底見えない。古墳に関してほとんど無知だが、前方後方墳とは習った記憶がない。行田の稲荷山古墳は五世紀後半もので、きれいな前方後円墳だ。「あそこは素晴らしいですよね。」古墳は苦手だと言う姫も、あれだけは見ておくべきだと力を込める。

    主に弥生時代後期末前方後円墳と前方後方墳の違いについて、いろいろな学説が提起されたが、まだ十分解明されていない。西嶋定生は墳形が身分秩序を示し、カバネの中でもオミを表すのが前方後方墳であるという。都出比呂志は墳形と規模から前方後方墳は前方後円墳体制という政治秩序の中では少数派的なあり方であると考えている。白石太一郎は前方後方墳を狗奴国の系譜と見る説である。東海地方に前方後方墳の起源を求める説は赤塚次郎らによって主張されてきた。
    一つの説として、政治勢力としては、西日本は邪馬台国を中心とした政治連合であり、東日本は濃尾平野の狗奴国を中心として形成された政治連合であったが、東の狗奴国中心の連合は、西日本の邪馬台国連合ほど強固な連合ではなかったとするものがある。また、この濃尾平野の勢力は、『魏志』倭人伝に記載のある倭の女王卑弥呼の邪馬台国と闘った狗奴国との関係を想定する学者もいる。
    広瀬和雄は、墳丘規模がどの地域においても前方後円墳が前方後方墳を上回ること、東国においても前方後円墳と前方後方墳が併存していること、前方後円墳だけでなく前方後方墳でも最大規模のものは畿内に存在すること、副葬品に前方後円墳と前方後方墳に差がないことをあげて、畿内と東国との二項対立説を退け、前方後円墳と前方後方墳の違いは「首長層の政治的なランク付け」の反映であるとしている。(ウィキペディアより)

     雑木林を抜けると、西養寺の小さな墓地に出る。ふじみ野市滝三丁目四番地。この片隅に建っているのが蔵造りの阿弥陀堂だ。中を覗くと、真ん中の座像が鉄造の阿弥陀如来である。鉄仏は初めて見るが、ちょっと見には白っぽい石造のように見える。高さ八十四センチ。両脇には木造の観音と勢至の立像が控えている。
     印相は膝の上で両掌を重ねた弥陀定印で、宗匠と一緒に確認した。親指と人差し指を合わせて輪を作っているから、上品上生印だろう。像は江戸初期のものと推定されているが詳細は分からない。錆びもなく綺麗な形を保っていて状態は非常に良い。

    日本では建保六年(一二一八)銘の栃木県石川薬師堂薬師如来像が在銘像として最も古く、鎌倉~室町時代に多く製作され、東北、関東、および愛知県を中心に九十余軀が現存する。(「鉄仏」『世界大百科事典』)

     関西以西にはほとんど見られないのも鉄仏の特徴だと言う。余り造られなかったのは、銅の融点一〇八三度に比べて鉄は一五九三度と高くて細工がしにくいこと、酸化によって腐食しやすいこと、脆いことなどによると推測されている。
     「お寺はどこにあるんだろうね。」それらしきものは見当たらない。「離れてるのかな。」どうやら廃寺になってしまったようだ。「蓮光寺に引き取られたんだ。」「それはおかしい、蓮光寺は曹洞宗、西養寺は天台宗ですよ。違う宗派が合併するなんてあり得ない。」ダンディが断定する。ただ江戸時代には幕府命令で宗派を変えることは良くあった。だから、全くあり得ないことではないだろう。
     寺はなくなっても墓地には新しそうな墓石もあって、現に女性が二人お喋りしているのは墓参であろう。どこかで管理しなければならないからには、宗派は違っても、一番近い蓮光寺が管理を引き受けることはあり得そうな気もする。
     「この紋は何でしょうか。」墓石に彫られた紋を見てロダンが首を捻る。確か源氏車ではなかったか。「榊原健吉もそうだよ。」ところが宗匠が辞書を引き、「榊原家は輻が十二本なんだよ」と指摘した。今見ているのは八本だ。後で確認すると、源氏車はもともと牛車の車輪を表わしたもので、輻が六本、八本、十二本などの違いがある。八本が一般的で、宗匠の言う通り十二本のものを特に榊原源氏車と呼ぶらしい。
     滝の交差点を過ぎ少し行ったところが長宮氷川神社だ。ふじみ野市長宮二丁目二番四。長宮とは、参道の長さが四町十六間(約四六五メートル)あり、その参道の両側に門前町「長宮千軒町」が形成されたことに由来すると由緒は言う。参道に千軒の人家が密集するとは徒事ではないから、信用できない。例えば中山道板橋宿の家数が五七三軒、蕨宿が四三〇軒、浦和宿が二七三軒、大宮宿が三一九軒という数字が残っている。これと比べて、千軒とはとんでもない数字だと分かるだろう。その由緒とは別に、所沢市三ケ島の中氷川神社が長宮と呼ばれており、そこから勧請したと言う説もあるようだ。
     今ではその参道も町の中の道路と一体になってしまって分からない。石製の神明鳥居を潜ると、石畳は五十メートル程だろうか。幅三メートル程の、天保七年(一八三七)作成の『江戸市ヶ谷〜福岡村迄道略図』が掲げられている。

    江戸市ヶ谷に屋敷のある福岡村の旧領主、布施家のために略図をしたためたもので、川越街道の裏道を通りながら和光市付近にて街道と合流し、白子、下練馬の両宿を経て椎名町、市ヶ谷方面へとぬける近道を示したもの。川越裏街道は鎌倉古道ではないかと見られている。

     福岡村が川越藩ではなく、旗本の布施家の領地であったことが分かった。とすれば、さっきの茂兵衛地蔵を「圧政」した領主は(実在したなら)この布施氏になるのだろうか。しかし江戸中期の中程度の旗本が、「圧政」をするとは到底思えない。
     布施氏は千五百石程の家柄だったらしい。天明の狂歌壇に布施弥二郎胤致(山手白人)という人物がいた。勘定所留役で終わったが、茂兵衛地蔵の寛延二年には十二三歳である。文化人としては有名だったようで、こんなものを見つけた。

     今の奥右筆組頭、布施蔵之丞(胤毅)の父は、弥二郎と云て、留役に終りしとなり。繁劇なる吏務の中にて和歌を好み、冷泉家の門人たり。没せし年は春より病悩なりしが、七月の比殆ど危篤に迫しとき、辞世とて、
      なき魂の数にはいりて中々にうき秋風の身にぞしみぬる
     とよみしが、又暫く快く、遂に八月に至り没しぬ。其時戯の狂歌に
      乾坤の外とよりこれをうちみれば火打箱にもたらぬ天つち
     いかにも豪励の気象なりけり。(松浦静山『甲子夜話』巻之四十二)

     「出会いの泉」という珍しい彫像があった。幅一・一三メートル、長さ五・一五メートル、十三トンの茨城県産稲田乃御影石が手水石になっていて、その表面を水が流れている。石の右端には左手を付いて上流の様子を伺う若い男、左端には女性が座っている。スサノオとクシナダヒメの出会いであった。クシナダ姫は古事記では櫛名田と書くが、書紀にある奇稲田の名の通り豊饒の神であろう。

     神の在す世界へワンダ石蕗の花  閑舟

     それを眺めるように、背後の植え込みに「大国主神像」として大黒像が立っているのが気に入らない。スサノオ、クシナダとともにオオナムチ(大国主)も祭神となっているのだから居ても良いのだが、それが七福神の大黒像だということが納得できないのだ。
     元ヒンドゥの暗黒神・大黒が中世になって大国主と習合したからなのだが、スサノオ、クシナダの彫像のイメージと全く合わないではないか。どうせなら、同じ彫刻家によって若き日の大国主を作ってくれれば良かった。御影石の下にポツンと置かれた石の動物はカエルだろうか。
     「ダイコク様ならウサギですよね。残念。」姫のイメージは、「大きな袋を肩にかけ大黒さまが来かかると ここに因幡の白うさぎ皮をむかれて赤裸」(石原和三郎作詞『大黒様』)である。ところが、カエルに見えた動物の頭の後ろに長い耳があることが、千意さんの観察で分かった。「やっぱりウサギです。」耳の形が分かり難く、目を黒く描いてギョロ目にしているのがカエルに見えたのである。
     境内社には八雲神社、諏訪神社、愛宕神社、日ノ宮神社、天神社、八幡神社、稲荷神社、疱瘡神社が祀られている。「疱瘡神社だって、珍しい。」ダンディが笑うが、瘡守(カサモリ)と言えばそれ程珍しいものでもない。「笠森お仙さんでしたね」と姫がすぐに気付いてくれた。「谷中でしたよね。貰った絵もまだありますよ。」冬の雨降り頻る谷中で、宗匠が笠森お仙に会いたいというので大円寺まで行った時のことだ。住職があんみつ姫にお仙の錦絵(コピー)をくれたのである。

     上福岡歴史民俗資料館も今日は休みだ。「あら、残念ね。開館してるんじゃなかったの。」イトハンだって隊長から資料を貰っているでしょう、ちゃんと「閉館」と書いてある。「あら、私ったら開館って読んでたのよ。イヤネエ。」
     ここから隊長の当初予定した道筋とは違って、福岡小学校前信号を越えて真っ直ぐ進み、川を暗渠化した緑道に出る。福岡江川緑道と名付けられているから、江川だったのである。「農業用水路だろうね。」しかし違った。

     福岡江川は、埼玉県ふじみ野市亀久保二丁目(旧入間郡大井町大字亀久保)の亀久保神明神社付近の旧上福岡市飛地(現ふじみ野市南台二丁目飛地)の湧水を水源とし、東久保、丸山、駒西、新駒林、駒林を流下し、福岡新田(ふじみ野市運動公園付近)で新河岸川に注ぐ荒川水系の普通河川である。上流部の殆どは暗渠化され、現在は江川緑道として整備されている。暗渠化されていない水宮付近には川底に湧水群が見られ、福岡江川湧水群と呼ばれている。(ウィキペディアより)

     「これってどういう意味かな。」掲げられている「江川緑道(歴史の散歩道)」という地図が不審なのだ。新河岸川の方から西に向かって、川を古代、中世、江戸、明治、大正、昭和と区切ってあるのが分からない。これは何だろう。ヤマチャンも悩むしダンディも悩む。誰も分からないだろうね。
     「ここは土橋だから、ここから中世に入るわけだ。」しかし中世の出来事として、一五九〇年(天正十八年)に滝に後北氏印判状三通が出されるなんて書いてある。「北条滅亡は何年だったかな。」ハコさんが悩んでいると宗匠が電子辞書を引く。「天正十八年です。」つまり北条滅亡の年に手紙を貰ったということなのだが、それがどうしたのか。印判状はおそらく所領安堵を伝えるもので、小田原合戦を前にして関東各地の引き締めを狙ったものだろう。この看板ではそんな事情は何一つ分からない。ただ滝という地名が既にこの時代にあったということを言いたいのだろうか。
     それに天正十八年を「中世」と簡単に書いているのも違和感がある。中世はいつまで続くかというのはなかなか難しい問題だが、織豊政権を以て近世に入るというのが、現代歴史学のほぼ一般的な理解ではあるまいか。信長の楽市楽座、秀吉の太閤検地によって、荘園制に基づく中世の税体系が完全に打倒されて近世に入る。「古代には上古、中古、近古なんて区分もありましたね。」ダンディは随分古いことを言う。「それは国文学の時代区分ですね。今の歴史学では使わない。」
     更に、古代、中世の次を「江戸」としているのもおかしいと言うのがダンディの指摘で、それはその通りだ。「江戸にしたいのなら、その前は安土桃山とか室町とか言わなくちゃいけない。」「江戸」だけが概念が違うのである。どうも素人が作った看板としか思えない。「こんなの知られたら、ふじみ野市は笑われちゃうよ」とヤマチャンが真剣な顔をして断言する。
     少し歩くと「慶珍地蔵尊」の案内板はあるが、肝心の地蔵は影も形もない。地図を確認すると、ここからほぼ西に七八百メートル程の所に慶珍塚交差点があり、そこの三角形の小さな公園に地蔵堂があるらしい。上福岡駅からならほぼ真東に一キロ弱だろうか。その案内をこの緑道に建てても仕方がないではないか。説明によれば、小手指原の合戦で敗れた鎌倉方の武将がこの辺りで自害したという。「それから、ずいぶん後になりますが、慶珍と言う僧がこの地を通りかかり」、地蔵を立てて武将の霊を弔ったという。
     小手指原の合戦は元弘三年(一三三三)のことである。しかし調べてみると、慶珍地蔵は享保七年(一七二二)、福岡村の念仏講によって建立されたものらしい。これだけの年代の違いがあって、「それから、ずいぶん後」と言うだろうか。因果関係さえはっきりしない。大体、この看板には誰が書いたものか責任表示がない。実にいい加減なものである。
     「モッコクの実です」と姫が指差してくれたので写真を撮っておく。暗渠が途切れ、前方に川が見えた所で緑道を離れて左の道に入った。民家の庭のピラカンサスが見事な実をつけている。
     水天宮の交差点の右手の公園に、朱塗りの鳥居に一間社流造りの小さな社がある。ふじみ野市水宮一番地。これが水天宮だろうか。公園に立つ案内板によれば、かつて縦三十三間、横二十二間の赤沼と呼ばれる池があった。向かいに薬王寺があるので薬師手洗いの池とも呼ばれた。

     正徳元(一七一一)年、薬王寺住職厳周が改修工事を行い、池の豊富な湧水を福岡・中福岡・福岡新田の三か村は農業用水として使用することが出来るようになった。その時に、池の島に弁財天社(現在の厳島神社)が創建された。(案内板より)

     池は埋め立てられて、この厳島神社だけが残ったのである。「水天宮は向かいにありますよ。」「お寺じゃないの。」「お寺は隣。」道路を渡ると石の神明鳥居があって、余り神社らしくない境内の奥に、寺院の本堂の半分に向拝を取り付けたような建物が建っている。これが水天宮であった。

    御祭神:底筒男命、中筒男命、上筒男命、大綿津見神、安徳天皇、建礼門院 
    由緒:埼玉県入間郡福岡村中福岡に、明治二二年三月郷の先覚八名が相計り、水神教会の祠を創建し、底筒男命、中筒男命、上筒男命、大綿津見神、安徳天皇、建礼門院を奉斉しました。厳かな森の傍に池があり、島の上に天女を祀る泉からは清流が流れ出し、そこに老い杉が影を落とし、桜並木が続く素晴らしい景観の地だったようです。(由緒より)

     祭神の最初の三柱(筒男)は住吉三神、綿津見は言うまでもなく海神である。安徳と健礼門院は久留米の水天宮の祭神だ。なんでもかんでも水に関係するものを持ってきたような按配だ。隣の薬王寺の手前右側を削って作ったような敷地で、本来は薬王寺の境内だったのであるまいか。歴史的には見るべきものもないので、早々にそちらに向かう。
     曹洞宗大龍山薬王寺。ふじみ野市仲三丁目一番五。境内左にある地蔵堂で、六地蔵の赤い帽子と涎掛けを替えているオバサンがいる。「こんにちは、ご苦労様です。」「お正月を迎えるからね、新しいものに。施餓鬼の時にも替えるんですよ。」どうやらこのお寺のダイコクさんらしい。
     ここの六地蔵には、地獄道、餓鬼道、畜生道、修羅道、人道、天道の順に檀陀地蔵、宝珠地蔵、宝印地蔵、持地地蔵、除蓋障地蔵、日光地蔵の名をつけている。「普通の六地蔵とは違うのかしら。」普通の六地蔵である。但し上の順に金剛願地蔵、金剛宝地蔵、金剛悲地蔵、金剛幢地蔵、放光王地蔵、預天賀地蔵とする寺もある。またそれとも違う名をつける場合もあるから、名前には余り意味はないのではないか。地獄道、餓鬼道、畜生道、修羅道、人道、天道の六道を私は覚えておけばよい。
     香炉の金の紋は五七桐である。「天皇家の裏紋でしょう」なんてみんなよく知っているね。「首相が演説するときの演台にもついてますね。」ロダンが説明するが、皇室に関係する紋なら明治神宮に訊いてみようか。

     「桐」は中国の古い思想で聖天子の出現をまって現れる瑞鳥・鳳凰が住むめでたい樹でありました。我が国では平安初期(嵯峨天皇の時代)天皇がお召しになられる黄櫨染御袍に竹と鳳凰と麒麟、そして「桐」が描かれてあり、時代が下るにつれ政府機関に用いられる装飾の文様に使われたり、また菊紋の代用として用いられ、国家政府のシンボルのような役割を果たしてきました。この二.つ紋章は成立事情から菊紋は私的な紋章(後鳥羽上皇が個人的にご使用されていた為)で表紋的要素が強く、逆に桐紋は政府機関の公的な紋章で替紋的な性質を持っています。http://www.meijijingu.or.jp/qa/jingu/06.html 

     「秀吉も下賜されたんですよね。」私は秀吉の紋と知っていただけで、それが皇室や政府に関係するなんて知らなかった。
     次は八幡神社だ。「横から入っちゃいましたね。」姫が笑うが、講釈師がいないから大丈夫だ。ふじみ野市駒林八九〇番地。

    創建は、室町時代中期の寛正年間(一四六〇~一四六五)と伝えられるが不詳である。
    他の伝承によると字鷺森の鷺宮神社が当初の駒林村鎮守であったが、江戸時代前期に駒林村地頭(領主)を務めた幕府旗本の小栗平吉が、武家の神として八幡大菩薩(誉田別命の別名)を信仰して八幡神社を創建したところ、村民の信仰も集めるようになり、やがて鎮守になったという。(由緒)

     「見てますよ。」姫が気づいたのは、拝殿に向かい合う社務所(?)の中で、窓越しにこちらを見ている人影だ。頭を下げると向こうも頭を下げてくれた。「監視されてるみたい。お賽銭あげなくちゃいけませんね。」誰かがやってくれるだろう。十五人の中には信心深いひとはいるのである。
     私は賽銭なんか上げたこともないが、信心深い人の後ろから正面を覗き込むと神体は鏡であった。注連縄に吊るされた紙垂を指して「八幡神社はこれが八つある」と宗匠が知識を披露すると、「このぶら下がっている白い紙ですか。これって何って言うんですか」とロダンが訊いてくる。私はちょっと自信がなかったので宗匠と顔を見合わせた。
     宗匠が「ヌサと言う」と答えてくれた。「なんですかそれ。ムサ。」「ナニヌネノのヌ。ヌサ。漢字で書けば紙幣の幣だよ。音読みして御幣とも言う。」「そうか、五平餅って言うな」とヤマチャンが納得したような声を出す。私は五平餅の語原を知らなかったが、御幣の形をしているからだと言う説が一般的なようだ。
     意味を訊かれて宗匠が「ここからが神の領域を示すんだ」と応えている。正確な意味は知らないが、元々神に捧げるものであったと思う。姫が「このたびは幣も取り敢えず手向け山ですね」と補足してくれる。「ますます分からない。」「百人一首ですよ。」

     このたびは幣もとりあへず手向山 紅葉の錦神のまにまに  菅家

     菅家とは勿論、菅原道真である。急いで出発したので幣の用意もできなかった、この見事な紅葉を幣の代わりに捧げる、と言うのがこの歌の意味だろうか。「昔はさ、旅をするとき神の加護を祈って、この紙切れを辺りに振りまいたんだよ。」
     一般の辞書では、この紙垂(シデ)を棒に挟んだものを幣と言うとしているが、この紙自体を幣と言っても間違いではない筈だ。元々は神前に供える布を幣と言った。田辺聖子が上手い説明をしてくれている。

     さて、この歌は昌泰元年(八九八)十月二十日、宇田上皇が吉野の宮滝へ出かけられたとき、お供した道真がよんだもの。
     たむけ山は固有名詞とは考えなくてよかろう。神の鎮まります坂や峠のことである。旅の安全を祈る峠は、昔は神聖な場所であった。
     幣というのは、神主さんがお祓いのときに手に持つ白い紙だが、この時代のは、色の絹を小さく切ったものだと言う。旅へゆくときはそれを幣袋に入れて、峠で撒き、神に、旅の無事を祈るものである。(田辺聖子『小倉百人一首』)

     おそらく由来は全く違うだろうが、くす玉を割って紙吹雪を舞わせるのは、幣と似たような意味合いを持つのではないだろうか。それにしても、八幡神社には八つと言うのは知らなかった。境内を出るときはきちんと参道を通って鳥居を潜る。「この参道の方が長かったですね。」県道二七二号線に出た。
     次は安楽寺だが、特に見るべきものなさそうで隊長は素通りしてしまう。天台宗、大林山潅量院安楽寺。ふじみ野市駒林八六六番地一。
     隊長の地図では、「駒林の地蔵堂」を丸で囲んであるから、そちらに向かうのだろう。次の信号を左に曲がった所らしいが、その途中で道の反対側に何かの祠を発見して、隊長一人が道を渡って確認に行った。しかし何でもなかったらしく、すぐに戻って来た。
     信号を左に曲がり、地蔵堂を探しているような素振りはするものの隊長は真っ直ぐ行ってしまう。「見つからないのかな。」「どこでしょうかね。あっ、あそこにお堂が見えますよ。」右側を眺めていて、姫と一緒に発見した。「ちょっと見てくる。」少し腰が痛くなってきていたが、ここでいい恰好を見せなければならない。
     右に曲がって走って行くと、墓地の入口に小さな新しそうな祠に地蔵が立っていた。これだろうか。説明するものは何もないが、台石に「駒林村」の文字が見えたから、これに違いない。祠の天井には鰐口が取り付けられている。そこに姫もやって来た。「これですね。」しかしみんなは隊長に従って先に行ってしまい、誰もやってこない。
     ところが実は「駒林の地蔵堂」はこれではなかった。私はこれを見てすっかり信じ込んでしまって気が付かなかったが、墓地のもう少し奥に、扉を閉じた堂があったらしいのだ。「ゆるーい日記」というサイト(http://keny72.blog.fc2.com/blog-entry-787.html)が写真入りで説明してくれているのを見つけた。

     地蔵堂の本尊として安置されている地蔵尊は、江戸時代初期の作と思われ、像の高さは十一センチメートルになります。一木造で、両手は失われていますが、肉身部には金泥が施され、着衣部は古色仕上げにされています。本像は、岩屋のかたちにつくられた木製の龕[仏像等を収納する厨子の一種]に安置されており、さらに龕は厨子に収められています。

     隊長も探していたのだが分からなかったと言う。それならもっと大声で呼べば良かったろうか。「何があった。」宗匠の質問に「ただの地蔵だった。大したことないよ」と応える。違うものを見て報告するのだからどうしようもないですね。宗匠もロダンも聊か疲れて、寄り道する気にもなれなかったようだ。この時間になると少し寒くなってくる。

     帰路急ぐつるべ落しの師走かな  午角

     腰を押さえながら歩いていると、やがてマンション群の立ち並ぶ街にやって来た。「東武が開発した町です。」公園の中を突っ切ればふじみ野駅だ。「これは新しい駅だろう。」町が出来て駅が開業したのは平成五年十一月である。私が鶴ヶ島に住み始めた頃は、川越の次に急行が停まるのは志木だったが、ふじみ野駅は最初から急行が停まる駅として生まれた。この駅を最寄にしている知り合いが三人いる。
     宗匠の万歩計で一万七千歩。十キロ程度か。大した距離ではないがなんだか疲れた。「ゆっくり歩きすぎたかも知れませんね。」特に午前中の速度が遅すぎたか。
     「さて、どこに行きましょうか。川越ですかね。」ロダンはそう言うが、しかし今日は武蔵野線を使う人が多いから朝霞台が良いのではないか。「私も朝霞台の方がいいです。川越はちょっとね。」たった一駅だが、これが上福岡だったら川越に決まっていたかも知れない。
     シノッチと伯爵夫人だけが川越経由で帰り、残った十三人が朝霞台に向かう。十五人中十三人というのは、ロダンが言うまでもなく歩留まりが良い。昼過ぎに人身事故があってダイヤは多少乱れていたようだが、この時間では問題ない。電車に乗り込むと、座っていた高校生や若い女性が立ち上がり席を譲ってくれた御蔭で全員が座れた。私たちは年寄軍団なのだった。
     朝霞台のさくら水産に入ったのは四時を少し過ぎた頃である。座敷の真中のテーブル二つに十三人が座るとなかなか壮観だ。こんなに参加者が多いのは初めてではなかろうか。三四郎が反省会に参加するのも初めてだろう。千意さんが、昼に披露したポスターを窓際に置く。
     ここの女店員二人は愛想が良く、気が利いている。「大宮とはエライ違いですね。」「そんなに褒めるほどですか」と姫が笑うが、全店がせめてこの程度にはなってほしい。「褒められる部分があれば褒めた方がいいんだよ。励みになる。」叱って育てるか、褒めて育てるか。育てる積りなら、おおむね褒めた方が良いような気がする。ドクトルは飲み過ぎてはいけないので、ビールの後はウーロン茶にしている。イトハンは最初からウーロン茶で楽しそうだ。彼女は酒を飲まなくても面白い。
     「お父さんにもね、一緒に来ないかって誘ったのよ。」「そうですよ、一緒に来ればいい。」「そしたらね、それならお前もゴルフに来るかって言うの。うちはバラバラだわ。イヤになっちゃう。」私も妻とは全く趣味が合わないが、それはそれで良いのではないか。
     「宗匠の奥さんはSRハイキングに来るんですよ」とダンディが言い出した。「会ったんですか。」「顔を知らないんだから。今度は『宗匠妻』っていう名札を付けてくるように言ってくださいよ。こちらは講釈師とかね。」ロダンの愛妻にもお目にかかりたいものだ。
     二時間楽しんで二千二百円也。カラオケに行かない人とはここで別れる。

     宴果てて喧噪の街ひとり行く  午角

     ビッグエコーに入ったのは八人である。隊長はひそかに練習を重ねているのではないか。『雪国』(吉幾三作詞作曲)なんか随分上手くなった。ヤマチャンは昼間、伯爵夫人に声がいいなんて褒められていた。スナフキンも伯爵夫人に声を褒められたことがあった。どうも彼女の感覚が良く分からないが、ヤマチャンは太い声である。千意さんはもうすっかり余裕だ。きちんと習うと言うのは、やはりエライことなのである。画伯は相変わらず真面目に歌う。今日のロダンは不思議におとなしい。イトハンも珍しく二曲程歌った。
     姫の『琵琶湖哀歌』は初めて聴く。紛らわしいが『琵琶湖周航の歌』が作られたのは大正六年頃、レコード化されたのが昭和八年である。第四高等学校漕艇部の十一人が琵琶湖で死んだのが昭和十六年。『琵琶湖哀歌』(奥野椰子夫作詞、菊池博作曲)はその年にレコード化された際物であった。曲の半分程は『周航の歌』の借用で、今ならば盗作、剽窃と言われてもおかしくない。
     ヤマチャンに『別れの一本杉』(高野公男作詞、船村徹作曲)を歌われたのが悔しい。この曲は高野、船村コンビの出世作であるとともに、時代を刻む名曲となった。高野公男は不遇時代の船村徹の盟友だったが、この後すぐ結核のために二十六歳で死んだ。仕方がないので私は三橋美智也の『リンゴ村から』(矢野亮作詞、林伊佐緒作曲)を歌う。八時十分に終了して千四百円也。今年も良く歩き、良く飲んだ。

    蜻蛉