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    平成二十六年一月二十五日(土)  川島町

    投稿:   佐藤 眞人 氏     2014.02.03

     旧暦十二月二十五日、大寒の次候「水沢腹堅」(さわみずこおりつめる)。天気予報では三月末から四月上旬の桜が咲き始める頃の陽気になると言っている。空は薄曇りでそれほど暖かくなるような気がしないが、どうしたものか。悩んだ挙句、いつもの作業服のベストの上から、脱ぎやすいように毛糸のチョッキを着て家を出た。いつものファミリーマートでライターを買おうとすると、「ライターなら上げますよ」と抽斗から出してくれた。有難い。貧しいオジサンだと思われているのだろう。
     電車の時刻を調べずに出たものだから、鶴ヶ島駅で十五分以上も待ってしまった。土曜の九時代になると本数が少なくなるのを忘れていた。川越市駅で降りて本川越に着いたのは九時五十分だ。駅前では「駅からハイキング」のゴール設定をしている。西武・東武の共同開催で、川越駅から七福神を巡って本川越まで、およそ九キロのコースを巡るらしい。
     改札口の方に曲がろうとしたとき電話が鳴った。ダンディだ。「今日はどうしましたか。」顔が見える。「今着きました。」同じような格好の集団がいるので参加者が多そうだと思ったのは一瞬で、全く別のグループだった。
     「アレッ、これだけ。」「そう、隊長と私と蜻蛉だけですよ。」これは恐ろしいことになりそうだ。「だけど、隊長の年間スケジュール表だと東武の川越駅になってるんですよ。」そうだったか、私は年間計画表をほとんど見ずに、数日前に来る隊長のメールだけを頼りにしている。「メールのない人は川越に行ってますよ」とダンディが断言する。「そうか、気付かなかったよ。」隊長も浮かぬ顔だ。
     スナフキンが西武線の改札から出てきた。こちらの方が近いか。「本川越で検索したからさ。小江戸号に乗ってきたよ。」西武国分寺線で東村山に出て、新宿線に乗り換えると近そうだ。マリーは別の方角から現れた。「川越からバスに乗って来たわよ。」川越から本川越までバスで来る人間は珍しい。「歩けば十五分かかるって言われて、それじゃ間に合わないから。」これで五人か。
     「それじゃバス停に行きましょう。八分発の八幡団地行に乗って終点だからね。ボクは川越に行って来る。たぶん三十八分のバスに乗れると思う。現地で待っててよ。」隊長を見送ってバス停に並ぶ。二三台やり過ごして、ちょうど定刻になった頃に来たのは東松山行だ。「これじゃないよな。」バスが行ってしまってからふと気付いた。「もしかして、あのバスだったんじゃないか。」経路図を見ると、やはり八幡団地経由東松山行であった。「そうよ、あれだったわ。」そう言えば隊長は東松山行でも大丈夫だと言っていたのに、八幡団地行の終点とばかり気にしていた。
     今日の目的地の比企郡川島町(かわじままち)は埼玉県民でも位置を良く把握していない人が多い。電車が通っていないから、車を利用しない人には縁が薄い町だ。川越市の北、坂戸市の東、桶川市の西に接する地域で、川越、東松山、桶川方面からバスを利用しなければならない。
     昭和二十九年に中山村・伊草村・三保谷村・出丸村・八ツ保村・小見野村が合併して川島村となって、昭和四十七年に町になった。四方を川に囲まれた島のようだというのが、命名の由来だと言う。
     「次は三十八分か。コーヒーでも飲むか。」現地で待つのもここで待つのも同じことだ。目の前にあるのはヴィ・ド・フランス(VIE DE FRANCE)という、スナフキンによれば有名な店らしい。フランスの人生か。「立川にもある。」本来はパン屋のようで、女性たちがトレーにパンを載せてレジに持っていく。土曜の十時過ぎにパンを食うのは朝食なのだろうか。子供連れもいる。
     「小江戸号を待つ間にコーヒーを飲んできちゃったよ」と、スナフキンは珍しくミルクにしている。「お腹の中でカフェオレになってしまうんじゃないの。」「ここは禁煙ですよ。」ダンディに指摘されるまでもなく、それは最初から分かっている。
     コーヒーを飲み終わった頃に千意さんから電話が入った。「こちらは隊長を含めて八人です。三十五分のバスに乗ります。」「こちらも同じバスに乗り込みます。」千意さんにも本川越集合のメールは行った筈だが見なかったのだろうか。「ちゃんとスケジュールを入れておくと、却って違いに気付かないものなんですよ。」ダンディの言う通りかも知れない。それではそろそろバス停に戻ろう。
     バスが到着すると、一番前の座席に千意さんの顔が見えた。仲間から声がかかってくる。「こっち、こっち。」それほど空いてはいないので、イトハンの隣に座った。後ろにはペコチャンが座っている。出欠簿を出してメンバーをチェックする。「エライわね。」ドラエモン、千意さん、シノッチ、イッチャン、クルリン、これに本川越組を合わせて合計十二人だ。千意さんの頭にチョコンと載っているのは蒙古の帽子だろうか。
     「不安だったわ、誰もいないんだもの。」「だけど仲間が集まってきたのよね。」「でも隊長がいないのよ。」イトハンが最初に来ていたらしい。「誰も来なければ駅ハイの方を歩こうかと思っちゃったわ。」イトハンの言葉に、「駅ハイは申込み制ですよ」とダンディから指摘が入る。
     隊長のくれた地図を見ながら道を確認する。バスは連雀町から蔵造りの街並みを通り過ぎ、やがて国道二五四号に入った。「城西高校って看板があるわ。川っぷちじゃなかったかしら。」ペコチャンは良く知っている。「すぐそこが川だよ。」私は城西川越高校の正確な位置を知らなかった。城西川越高校は城西大学附属を名乗ってはいるが、別法人の系属校だ。創立時は知らないが、現在では生徒の学力が上がった結果、城西大学へ進学する生徒はごく僅かしかいない。
     「間違えたわ、私が知ってるのは城北高校だった。」「上板橋ですよね」とドラえもんから声がかかる。みんな良く知っているものだ。子供が受験したのだろうか。調べると石神井川のそばにあった。偏差値七十はかなり高い。
     そして落合橋に入った。「この川は何なの。」標識が出ていたので「入間川」と答える。しかしすぐにドラエモンから指摘が入った。「ここは三本流れてますよ。入間川、小畦川、越辺川。」地図を確認すると、もう少し東で小畦川と越辺川が入間川に合流する。「アッ、四本だった。」大谷川と言う細い川があって、橋を越えた所で小畔川に合流しているのだ。ここで川越市を越えて川島町に入り、ここから先は越辺川を挟んで西側が坂戸市になる。
     「今日はタゲリが見えるかしら。」ペコチャンは鳥が好きだ。タゲリなんて聞いたことはあっても、どんな鳥なのか知らない。調べてみるとチドリ科タゲリ属。頭の冠羽が特徴のようだ。漢字で書けば田鳧である。
     長い橋を渡り切り、254号から左斜めに分岐して越辺川に平行するように走る。「オッペって面白い読み方よね。」ペコチャンの疑問に「アイヌ語だと思いますよ」とドラエモンが答えている。「ペってつくのは北海道にも多いね。」北海道に憧れ続けている隊長も同調する。私もアイヌ語が語源だと思っていたが、二つの説があるようだ。

     川名は押辺とも記される。語源には大きく分けてアイヌ語説と朝鮮語説がある。
     アイヌ語説には豊かな川、恋人を待つ、川尻に沼がある川の三説があり、青森県や北海道に多い「川尻に・沼がある・川」の意であるアイヌ語の地名「乙部」が「オッペ」の語韻に近いとされ、実際に越辺川下流部の現坂戸市東部には小沼、横沼など低湿な沼沢地を意味する地名が現存していることから、信憑性が高いといわれる。 
     朝鮮語説には、古代朝鮮語で布を意味する「オッペ」から、山の上から白く光る川を眺めて、布のような川と名付けた説と、現代朝鮮語では、「オッペ」は柚子を意味し、越生が柚子の産地なので、名付けられたとする説がある。 
     その他水源地の越上山(おがみやま)の近くにある小字越辺によるとする説、「越生辺川」がつまったとする説などがある。
     越辺川は毛呂山町より下流では入間川との合流点まで、江戸時代には比企郡と入間郡の境界をなしており、現在でも方言や生活習慣の違いもみられることから、異なる文化圏の境界線でもあった。(『埼玉県の地名』平凡社)

     この地域で朝鮮語説が問題になるのは、高麗郡があるからだろう。高句麗滅亡(六六八年)の前後にかけて、多くの高句麗人が渡来し、霊亀二年(七一六)に高麗郡が創設されたのである。従って古代朝鮮語に由来する地名があってもおかしくない。
     およそ四十分で終点の八幡団地に着いた。この辺りは工業団地になっていて、共同印刷川島工場、三井精機(本社)が並んでいる。「こんなところに共同印刷があるのか。」十分程歩くと前方に土手が見えた。土手の手前には臨時駐車場が開設されている。白鳥が飛んでいる姿が見えた。住所は川島町八幡。
     しかし以前に白鳥を見たときとは景色が違うような気がする。「前と違うよね。」「ここには来てないよ。」「エーッ、まだ山田新聞がいた時に来たでしょう。」「あれは荒川だよ。」すっかり勘違いしていた。以前コハクチョウを見たのは川本町本田の荒川河川敷であった。畠山重忠史跡公園なんかを歩いた時で、平成二十年一月のことである。随分寒い日だった。あそこでは盛んに餌付けをしていたが、川島町によれば、ここでは現在餌付けを中止している。
     プワーッ、プワーッあるいはコワーッ、コワーッというような鳴き声が聞こえてくる。既に見物客もいる。川の正面には堰(飯盛川樋門)がある。幅四メートル、高さ六メートルの鋼製ローラーゲートが四門装備されている。

     平成元年頃までは、この付近の越辺川の堤防は不連続で霞堤のような形態だった。飯盛川排水機場がなかった頃は、洪水時に越辺川の水位が上昇すると、飯盛川は越辺川へ排水することができず、飯盛川の流域では内水被害が甚大だったという。飯盛川が氾濫し宅地や農地が冠水してしまったのである。
     http://www.geocities.jp/fukadasoft/bridges/oppe/hachiman/index2.html

     白鳥はコハクチョウだ。川島町の発表では昨年十二月十八日に飛来し、昨日時点で九十五羽が確認されている。コハクチョウというからオオハクチョウより小型のものかと思えば、それほど簡単ではなかった。「並べて見ない限り、大きさでは分かりませんよ。」どちらも嘴の先端が黒で根元が黄色くなっているが、その黄色の部分の形が違うらしい。隊長とドラエモンは、丸とか角張っているとか言っているようだが、私には何のことか分らない。ネットで調べると、黄色い部分が全体の半分以下のものがコハクチョウだという説がある。
     コハクチョウはオオハクチョウより小さいだけ飛行可能距離が長く、シベリアでも高緯度のツンドラからやって来る。その地方では九月になると氷に閉ざされ、餌が取れなくなるのである。そしてオオハクチョウはやや南部から三千キロ、コハクチョウは四千キロの距離を飛んで北海道に渡ってくる。そのコースは、カムチャツカ半島から千島列島を経て北海道へ渡るものと、サハリンを経て北海道へ渡るものと二つに大別されると言う。
     「私はコブハクチョウが好きだな。一番高貴だからね。」「エーッ、私はコブハクチョウはあんまり。」ペコチャンの意見に賛同すると言うより、コブハクチョウ、オオハクチョウ、コハクチョウの間に、私はダンディの言うような貴賤の差を感じない。
     コブハクチョウはヨーロッパや中央アジアに生息する鳥で、本来日本には飛来しない外来種である。ヨーロッパではコブハクチョウが一般的なのだろうが、日本の白鳥はオオハクチョウやコハクチョウで、世界各地と同様に様々な白鳥伝説を生んだ。最もポピュラーなのはヤマトタケルの白鳥伝説だろうか。
     日本では古くから神聖な鳥と考えられていて食用にする習慣はほとんどなかったが、イギリス貴族は白鳥を食っていた。勿論このことが文化の程度に関係するとは言わない。メンタリティの問題、習慣の違いである。

     白鳥は古くから日本人の霊魂のかたどりとみなされてきた。白鳥に関する信仰や伝説ははるか南東の八重山にまで及んでいるが、とりわけ、東北地方に強烈であり、中でも、宮城県南部の刈田郡や柴田郡に集中している。(中略)
     ところで日本列島に飛来するオオハクチョウやコハクチョウのふるさとであるシベリア地方の諸民族の間にも、熱烈な白鳥信仰がみられる。(中略)
     ブリヤードには白鳥処女説話があるが、白鳥が羽衣をぬいで水浴しているとき、羽衣を奪われて人間の妻になったという点は、世界各地の羽衣伝説ともおなじである。けれども、白鳥は自分の羽衣の在処を探しあて、それを着ると、天幕の煙出しから.舞い上がったというところは、いかにもブリヤードらしい。白鳥は天へ高くのぼりながら、「毎年白鳥が北へ向かう春と、もどってくる秋にはかならず私のために特別の祭りをするように」と言い残した。末の娘が煤のついた手で母親の白鳥をさし止めようとして、その足をつかんだために、白鳥の足は黒くなった。今日、白鳥の足が黒いのはそのためである、と言う。(谷川健一『白鳥伝説』)

     谷川健一は、物部氏が白鳥を祖先としたと推測して、物部氏及び蝦夷が河内・大和からはるばる本州北端まで東遷する経路を追って、壮大な仮説を作り上げた。これは長髄彦の通った道だ。死んだヤマトタケルが白鳥になって飛び去ったことや、物言わぬ王子ホムツワケが白鳥を見て初めて声を出したことなどが、その世界にパズルのように嵌め込まれる。
     ヨーロッパにはケルトのアーサー王伝説中に白鳥の騎士がいて、ワーグナーのオペラ『ローエングリン』(Lohengrin)となった。出自を問うてはならないという主人公が命ずる禁忌は、正体を見るなと同じことで、鶴の恩返しとも共通する。ただ白鳥処女説話や羽衣伝説では白鳥は女性と決まったものだが、ここでは男性になっているのが珍しい。
     白鳥の周りにはオナガカモ、カルガモも群れている。オオバン(大鷭)数羽は、なぜか岸にも白鳥にも寄り付かず遠く離れて泳いでいる。「オオバンってどれだい。」「あの黒いやつ。鼻筋が白い。」
     スナフキンは誤解したようで、「首がグレーになってる、あれかい」と指差す。それは灰色の首のハクチョウだ。「あれは子供だよ。」「醜いアヒルの子なのね。」一年目か二年目の若鳥らしい。一羽の若鳥には一羽の親鳥が保護するように付き添っている。「生まれてすぐに飛べるのかしら。」生後三か月程で飛べるようになるらしい。
     「白鳥って小魚でも食べるのかしら。」「魚はいそうにないな。」「魚は食いませんよ。」「あら、そうなの。」ドラエモンや隊長によれば、白鳥は近くの田圃で落ち穂を拾って食うのである。「ここにいるのは休憩してるんです。外敵が来ないから安心できる。」
     「さっきから、この子だけが、こっちをむいたままじっとしてるの。」「カメラ映りを気にしてるのかしら。」「餌をくれると思ってるんじゃないか。」
     「私、黒い足が嫌いなのよ。足を見せないでちょうだい。」ペコチャンはわがままを言う。既にブリヤードの伝説を見たように、白鳥の足が黒いのは、母を引き留めようとする娘の切ない願いの故であったから同情して貰いたい。

     昼を過ぎて少し腹が減ってきた。「それじゃ出発しましょうか。」隊長は土手の上を北に向かう。
     右手のかなり広い空き地ではソーラーパネルの設置工事の途中のようだ。ブルーシートで覆われているのは、まだ作業に入らない部材を積み重ねていると思われる。
     ここは川島町に少しだけ飛び出した坂戸市区域だ。隣に中途半端に空き地になっている部分も坂戸市の所有地の看板が立っているから、どうやら坂戸市が建設しているらしい。「どうせ補助金事業だろう。」知らなかったが、埼玉エコタウンプロジェクトという事業が太陽光発電を推進しているようで、その一環としてのものだろうか。ただ、ここに建設中のソーラーパネルについては調べがつかなかった。
     隊長の資料によれば、天神橋の辺りに「侠客」赤尾林蔵(山崎林蔵)の墓があるのだが、下見で発見できなかったと言う。赤尾は地名で、越辺川を挟んで対岸がかつての赤尾村、現在では坂戸市の赤尾という字である。「有名なのか。」私は聞いたこともなかった。「誰も知らないんじゃないの。」「所詮ヤクザだからね。」
     気になったので調べてみた。今日はそこまでは行かないが、天神橋から五六百メートル遡った対岸に成就院(曹洞宗。坂戸市赤尾一七六九番地)という寺があり、その墓地にあるらしい。
     かつては講談や浪花節でかなり知られた博徒だったようで、昭和二年には映画『赤尾林蔵』(行友李風原作)、昭和三十二年には林蔵を主人公とした『花まつり男道中』(小沢茂弘監督、市川右太衛門主演)も作られた。ほかにも小説がいくつかあって、ウィキペディアの「坂戸市」にも出身有名人として名を挙げている。
     林蔵は安永八年(一七七九)に生まれて文化元年(一八〇四)に死んだ。若い頃に高坂の藤右衛門を斬り殺して名を挙げ、やがて高萩の伊之松と縄張り争いを繰り広げた。坂戸も高萩も日光脇街道(千人同心街道)の一泊目の宿場になっていて、それにまつわる利権があったのだろう。しかし当時の日光勤番は半年毎に五十人の交代だから、日光からの戻りを入れて年に四回宿泊する程度では大したものではないだろう。遊女もいなかったのではあるまいか。林蔵や伊之松が馴染みになって通い詰めたのは中山道上尾宿の遊女だった。宿場の縄張り争いに加えて、この遊女の争奪が絡んで林蔵は伊之松を殺し、上尾宿の旅籠で伊之松の弟たちによって殺された。二十六歳である。
     ヤクザが発生するためには商品経済が発達し、剰余価値が生まれていなければならない。そして江戸時代中期以降、小農経営の解体による農村人口の浮動化が生じていた。商売によって小金を貯める層が増えると同時に、農村から欠落(かけおち)して、無宿浮浪となる層も生まれていたのである。
     田圃しかない農村にヤクザは発生しない。換金できる商品が必要なのだ。上州に大前田英五郎や国定忠治が出た背景には、養蚕と生糸がある。漁港(たとえば飯岡助五郎)や舟運の基地、主要な街道(東海道の清水次郎長、甲州街道の黒駒勝蔵、千葉街道の笹川繁蔵)も現金の動く重要な場であった。
     そして越辺川は木材流通に関係していたのである。飯能、毛呂、高麗川で産出する良質なヒノキを西川材と呼ぶ。それを産地で筏に組んで高麗川や越辺川を流し、この辺りで大きな筏に組み込み直して入間川、荒川を経て江戸に運んだ。林蔵はその交通利権に絡んだ。越辺川に私設の堰を造って、許可なく筏流しができないようにしたと言うから、関銭を徴収したということだ。更にこういう証言もある。

     新河岸夜船(チョボー船)を三艘持っていた任侠赤尾林蔵はその収入は大変なものだった。これは川越の新河岸から花川戸までくる船なので、夕方に発って翌日の午前には着く。
     明治になってもチョボー船は出たので、月の四には水天宮参りといって出る。その他、一六、二七、三八、四九、五十、これが往復五日積もりで、日交代に船が出る。
     船の中には大堤燈一つで、真ん中のところに大きな火鉢が置いてある。その下の所が盆茣蓙になるので、志木の井下田という老人の話によると、一度この船に乗って、そのテラ銭で、人力車五十台をつらねて成田参りをして、ご馳走を食って帰って来たことがあるそうだ。
     そのくらいテラ銭があがった。赤尾林蔵は、それを三艘も持っていた。(出典「三田村鳶魚全集第十三巻 侠客の話」)(日本下水文化研究会「新河岸川の舟運と川舟の便所」http://sinyoken.sakura.ne.jp/caffee/cayomo024.htm)

     橋から県道七四号線を東に向かい、すぐに右に逸れる。目的の農産物直売所には七四号線をそのまま真っ直ぐ行くのが早いのだが、「向こうは車が多いから」と隊長が判断した。入った道は「かわじま中央通り」だ。「これがメインストリートですか。」命名の理由はメインストリートではなく、町の中央を北西から南東に通る道だからであった。町道三路線の愛称を公募して二十九名の応募によって決めた名だ。
     はっきり言って何もない。畑を潰して宅地として売り出しているが、車がなければ生活できそうもない地域で、どれだけの購入者がいるのだろうか。実際に土地取引された実勢価格の平均を算出したサイトがある。(http://www.tochidai.info/saitama/kawajima/)これによれば、川島町の昨年第一四半期の平均で、土地代の坪単価は一万九千五百二十八円となって、前年比七十二パーセント下落した。公示価格では十万円程なのに、それでは売れないということである。
     中央通りから外れて少し行き、突き当たった所に大きな屋敷があった。「手前に洋風の建物もあるね。若風夫婦が住んでるのかな。」「この辺の名主でしょうか。」その角に道祖神と駒形の青面金剛が並んで立っている。金剛の足元には邪鬼、その下の三猿、両脇の二鶏もはっきり分って、周囲が風化している割には状態が良い。ショケラを握っている。「こっちにもあるぜ。」向かい合うように立っている舟形のものは、三猿がわかるだけで、その上の文字が判読できない。「なんで、こんなところにあるんだろう。」集落の境界だったのではないか。
     左右に広がる田圃の中を歩いていると、やがて前方に大きな通りが見えてきた。「あれが二五四号だろう。あの角だよ。」「田圃が広いわね。」田圃の真ん中に国道が走っているだけで周りには本当に何もない。国道を渡った南園部の交差点角がJAの川島町農産物直売所だ。川島町大字南園部二三九番地一。
     ちょうど一時だ。直売所は蔵造りのような建物だ。看板には「夢とロマンの川島の米」「川越藩のお蔵米」と書かれている。聞いたこともなかったが、川島は町の面積の六割が田畑で、そのうち八割が水田という農村地帯である。
     「川島町の米は、江戸時代、お蔵米として川越藩に献上されていた、由緒あるお米」と自慢しているが、蔵米とは蔵に収納された年貢米のことである。市場に出荷して換金し、あるいは家臣の俸禄として与えられる。産地がどこだって、米を年貢として差し出せば必ず一度は藩の米蔵に収納される筈で、特別自慢するようなものではない。川越藩領で最もコメの生産量が多かった地域というだけではないか。
     「道の駅じゃないんだな。」道の駅なら観光客を当てにするだろうが、ここは地元住民のスーパーマーケット的な位置づけだと思われる。「直売所」なのに、バナナが大量に売られている。「ここで昼食にしましょう。」もう一時だ。敷地の東端の、東屋が建つ敷地でビニールシートを広げた。イトハンとペコチャンは東屋の中のベンチに腰を下ろす。
     ジャージを着た中学生らしい男女七八人がベンチの傍ではしゃいでいる。ベンチにはそれぞれのものらしい魔法瓶が置かれているが、まさかハイキングではあるまい。こんなところで何をしているのだろう。地元で遊べる場所はこんなところしかないのか。
     弁当を終えると女性陣からお菓子が配給される。「川島は呉汁が有名なんですよ。」それは何だろう。「冷汁みたいなもんですかね。」ウィキペディアを見てみよう。

     呉汁(ごじる)は日本各地に伝わる郷土料理である。大豆を水に浸し磨り潰したペーストを呉(ご)といい、呉を味噌汁に入れたものを呉汁という。磨り潰した枝豆を入れた味噌汁は青呉汁あるいは枝豆呉汁という。
     秋に収穫された大豆が出回る秋から冬が旬。呉汁に入れる大豆以外の具材は、人参、大根、牛蒡、玉葱等の根菜類、豆腐、厚揚げ、油揚げ等の大豆加工品、葱、芹、唐辛子等の薬味、芋がら、こんにゃく、椎茸、煮干し、鶏肉等々、地域毎に様々。磨り潰した大豆と野菜類が豊富に入った呉汁は栄養価が高く体が温まり、冬場の郷土料理として日本各地で昔から親しまれている。
     呉汁の起源は諸説あり定かでない。呉汁の「呉」は磨り潰した大豆を意味する。

     川島町商工会によれば、大豆は田の畔で栽培できるので手軽なものであった。田の畔で栽培するので「たのくろ豆」の通称があると言う。

     現在川島町では、調理が面倒で呉汁を食べなくなったり、核家族化や町外からの人口流入により郷土食である「呉汁」が序々に忘れ去られる状況にあります。
     そこで商工会では、この食文化を継承し、と同時に地域を活性化させるために「かわじま呉汁」を開発いたしました。
     「かわじま呉汁」とは、「呉汁」をもっと美味しく食べられるように、という観点から開発した川島オリジナルの呉汁です。
     たっぷりの野菜と芋がらのシャキシャキ感が最大の特徴で、農村の旨味と栄養がこの一杯に凝縮されていますので、最後の一滴までお楽しみいただける料理です。
     http://www.kawajima.or.jp/suttate/gojiru/

     「やってないかな。」ダンディが探索に行くが「うどんしかなかった」とがっかりして戻ってくる。テントの中で作っているのは、けんちんうどんだった。男が一人、黙々と丼に向っている。折角商工会が呉汁を売り出そうとしているのに、JAは努力が足りないのではないか。あるいは、ここには外来者は訪れないと覚悟しているのだろうか。 
     呉汁は熱いものだが、冷汁に「すったて」がある。これは「擂り立て」の訛りだろうね。

     すり鉢で胡麻と味噌と合わせ、更に採ってきたばかりの大葉、胡瓜、茗荷などの夏野菜を合わせていっしょにすります。最後に冷たい井戸水を入れ、良く混ぜて付け汁としてうどんを食べる。
     大豆を主成分とする味噌はタンパク質が豊富なうえ、発汗で失われた塩分も補給してくれます。しかも胡瓜や大葉、茗荷のさっぱりした味わいが更に涼味を誘い、一気に食欲をそそります。

     冷汁と言えば宮崎県のように魚を擂り潰すものが有名だと思うが、川島町では動物性蛋白質は一切使用しない。ベジタリアン向きである。ただ町おこしのプロジェクトに採用されている割に、「すったて」なんて埼玉県民にさえ余り知られていないのではないか。
     東松山名物焼き鳥(トン)を売る車もあるが、ここで焼いているのではない。ビニールパックに詰めたものを売るだけだから、匂いが全くしない。「こういうのは盛大に匂いを立てないといけないんだよ。」「商売が下手だね」と千意さんは断言する。
     「それでは出発しましょう。」天気予報はまるで外れてちっとも暖かくないが、寒すぎるほどではない。
     ほぼ東南に向かって、枯れ葦が覆いかぶさる畦道を歩く。「牛がいる。」荒れ果てた廃墟のような牛舎に牛が十数頭いる。「乳牛でしょうね。」ホルスタインのようだ。耳には黄色の認識票が取り付けられている。「飼ってる方も、これがない特別がつかないんじゃないの。」
     「乳搾りをしている様子がないな。」それにしても鉄骨の枠に屋根が載るだけの建物では牛も寒かろう。これで商売になるのだろうか。私たちの姿に驚いたのか、寝そべっていた牛が一斉に立ち上がる。隣の窓が壊れた建物には飼料が積み重ねられている。

     冬枯れを行けば牛共立ち上がり  蜻蛉

     「あれは苺ハウスでしょうか。」ビニールハウスは苺を作っているのだろう。川島町商工会によれば、県内屈指の苺の産地である。
     農道に入ると、そんなに急いでいる訳ではないのに、後ろが随分遅れてきた。山や鳥を見ているからだ。「チョウゲンボウだよ。」「どんな字。漢字じゃないとイメージできないからね。」ダンディが質問する。「長い、元、坊主って書きます。」ドラエモンは何でも知っている。「長元坊って、そういうお坊さんがいたのかな。」ダンディが首を捻っている。漢字を知ったからと言って、イメージできる訳ではなかった。

     語源は不明だが、吉田金彦は、蜻蛉の方言の一つである「ゲンザンボー」が由来ではないかと提唱している。チョウゲンボウが滑空している姿は、下から見ると蜻蛉が飛んでいる姿を彷彿とさせることがあると言われ、それゆえ、「鳥ゲンザンボー」と呼ばれるようになり、いつしかそれが「チョウゲンボウ」という呼称になったと考えられている。(ウィキペディア)

     「どんな鳥なんだ。」私は鳥については全く無学だが、名前を聞いたことはある。いずれ.猛禽類であろう。「可愛らしい顔をしてるんだ」と隊長は言う。「ハヤブサの仲間ですよ。」鳥に関してはドラエモンの言うことを信用した方が良い。
     「猛禽類は余り群れて飛ばないわね。どうしてかしら。」「群れるのは弱いんだよ。襲われても誰かを犠牲にして集団が生き延びるから。」種の保存本能ではないか。私の推測は間違っているだろうか。
     「ノスリですよ。」ペコチャンが教えてくれる。「どこ。」「あそこ。」確かに木に止っている。いつも感じることだが、鳥を観察する人の目はどうなっているのだろう。「漢字でどう書くのか知ってますか。」辞書を引いたダンディが得意そうに訊いてくる。以前調べた記憶があるが覚えていない。「難しい字だったよね。」「狂の下に鳥を書くんだね。狂った顔なのかな。」鵟である。鳥の顔が狂ったようだとは、どんなものか。

      風なくてノスリ動かぬ枯野かな  千意

     スナフキンも私も鳥には全く縁がないから、野鳥観察隊とは離れてしまう。県道76号を南に曲がり、すぐに安藤川の信号を左に曲がる。それにしても広い田圃だ。その中をほぼ真東に進む。
     やや広い道に出た。隊長の地図では、ほぼ真っ直ぐに線を引いてあるが、それらしい道はない。遥か後方を歩いている隊長を待つしかない。
     「道がない。」「こっちだよ。」道ではなく、図書館とグランドの間を抜けるのであった。「平和の森公園なんて、いい加減な名前だ。」あちこちにありそうで、川島町特有の匂いが感じられない。「あれっ、平成の森公園だね。」平和ではなく平成であったが、これだってあちこちにありそうな名前だ。そして森はない。「ただの遊園地じゃないの。」「どうせ補助金で造った公園じゃないか。」

    約8.4haの広さの公園には、カリヨン(鐘)が鳴り響いて時を知らせる「水と時の公園」、町の花である「はなしょうぶ」の中を散策できる「ショウブ園」、子どもたちが思いきり遊べる「ちびっこ広場」や「アスレチックコーナー」、スポーツやイベントが楽しめる「多目的広場」 などがあり、たくさんの人が利用しています。
     この公園は、「ふるさと創生事業」の一環として広く住民からアイディアを募集し、平成8年にオープンしたもので、だれもが憩える空間であり、レクリエーションの拠点となっています。http://www.town.kawajima.saitama.jp/kankou/heisei.htm

     「ふるさと創生か。」そんなものもあった。記憶を呼び戻すと、昭和六十三年から平成元年にかけて、竹下登内閣が全国の自治体に各一億円をばらまいた事業である。同時に消費税を導入しているから、それと相殺する積りだったのか。
     さて一億円の使途だが、有効に活用した自治体はどれだけあったか。吉川町のナマズのように何の役にも立たないオブジェを造った例は多い。青森県黒石市で作った純金こけしが平成十九年にオークションにより一億九千万円で売却できたのは、上手くいったというべきだろうか。補助金の趣旨には全くあっていないような気がする。似たような例では北群馬郡榛東村でそのまま貯金し、十五年間で六千万円の利息を儲けている。
     最も下らない使い方をしたのが秋田県仙北郡仙南村(現美郷町)で、町営キャバレー(!)を作ったが赤字がかさんで閉鎖した。町営なら、キャバレーのホステスは公務員だったろうか。山梨県北都留郡丹波山村では日本一長いことを謳い文句に滑り台を作ったが、三日後に日本一の座を奪われた。兵庫県佐用町も同じことをした。滑り台の長さ競争が流行だったようだ。高知県高岡郡中土佐町では純金のカツオ像が盗難にあって、売り飛ばされた挙句に溶解された。岐阜県旧墨俣町でも金のシャチホコが盗難にあっている。
     ここは親水施設を中心にした公園で、「森」を名乗る意味がどこにあるのかサッパリ分からない。公園自体に見るべきものは何もなさそうなので、休憩もとらずに素通りする。公園を出たところで、「モミジバフウだね」と隊長が注意を促す。地面に無数に落ちている実に気が付いた。「これが実じゃないの。」茶色く枯れたゴルフボール大の球体に、トゲトゲがついている。「ここに種が入っていたのね。」
     イトハンが烏瓜の実を取ろうと、蔓を一所懸命引っ張っている。「アッ、ダメね。」隊長が手伝って漸くとれた。生け花にでも使うのだろうか。

     「あそこの木の生えている辺りなんだ。」「ショートカットできそうだな。」スナフキンが先頭に立って農道から田圃に降り、細い畦道を歩く。「大丈夫そうね。」又農道に入る。「あれじゃないか。」左の方にそれらしい一画が見えてきた。農道を南に行き、川島中学校の角から左に曲がる。「なかなか洒落た建物じゃないか。」ここはソフトボールの宇津木妙子の母校であった。中学校の後ろには圏央道が走っている。
     突き当たると閉ざされた門があった。「こっちは裏門だな。」右に回り込む。正門前の駐車場には数台が停まっている。塀に沿って濠が掘られ、正門の前は広い堀となっている。大名屋敷のような長屋門だ。「屋敷っていうより、館だね。」「平城みたいだ。」
     遠山記念館である。比企郡川島町白井沼六七五番地。私は知らなくて、「日興証券の創立者ですよ」とドラエモンに教えてもらった。「私が若いころはかなり有名だった」とダンディが言う。私が知らないだけだったか。

     (明治二十三年)埼玉県比企郡三保谷村(現在の川島町)の豪農の家庭に長男として生まれる。父親の放蕩により生家が没落したため、高等小学校卒業後、十六歳で東京日本橋兜町の半田商店に雇われ丁稚奉公をする。市村商店や平沢商店に勤務していた時期に度重なる病気で苦しみ、プロテスタントの信仰に入る。一九一八年に独立し、川島屋商店を設立。一九二〇年、株式会社に改組。これら一連の経済的成功により、一九三六年、故郷に三千坪の豪邸を建設して生家を再興し、錦を飾る。
     一九三八年、川島屋證券会社を創業。一九四四年、川島屋商店を吸収合併。大日本證券投資取締役を経て、一九四四年、旧日興證券との合併により社長となる。
     一九五二年、同社会長に就任。一九六四年に会長を退くまで戦後日本の証券業界の近代化に尽力し、遠山天皇と呼ばれた。東京証券取引所理事、経団連評議員・同常任理事、東京商工会議所常任理事、日本証券業協会連合会会長などの要職を歴任。一九六八年、故郷の豪邸を法人化して財団法人遠山記念館とし、敷地内に美術館を建てて長年にわたる貴重な蒐集美術品を収蔵。一九七一年に川島町名誉町民となる。
     長男の一行は音楽評論家。次男の信二は指揮者。三男の直道は出版社社長。
     一行によると、元一はしばしば人に騙されたが、「だまされてもぐずぐずいわずに一歩しりぞき、しかもまたくりかえしだまされた」という。そして或る時、元一からは「自分は今まで人にだまされることはあっても、人をだますことはしなかった。自分に万一のことがあったら、そういう精神だけはうけついでくれ」と言われたという(『遠山一行著作集』第四巻所収「だまされる相場師」(新潮社、1987年)。(ウィキペディアより)

     入館料は七百円だ。「川越行きのバスに乗るには三十分しかないけど、どうしますか。」十五時五十三分を逃すと、次の川越行きは十七時十八分までないと言う。「桶川行きは十六時二十五分だけどね。」桶川まで行く気はしないから三十分で見てしまおう。
     三十分で七百円では聊か高いが、折角ここまで来たのだから入ってみたい。まず美術館に入る。「これはエジプトかな。」「そうみたいね。」遠山元一のコレクションの一部だろうが、私はこういうものに全く知識がない。今の時期に公開しているのはこのようなものである。

     午年にちなんで日本の馬の木彫(米原雲海作)から、馬を模様にした子供の着物、香遊戯盤の中国騎馬兵をコマとした呉越香、そしてオリエントからは、エジプトの騎馬戦車の浮彫りに、シリアの馬のテラコッタなど、また、ヨーロッパの狩猟文様タペスリーも圧巻です。馬の美術をお楽しみいただきます。
     あわせて、日本の松竹梅や鶴亀などの吉祥文の書画工芸品を取りそろえ、初春を寿ぐ展観です。

     屋敷に入ると驚いた。敷地面積は約三千坪である。切り売りされて畑や林になっていた土地を、全盛時の規模に買い戻したというから、没落以前は相当な豪農である。建物は昭和八年から十一年にかけて建築された。
     建物は三つが渡り廊下でつながれている。東棟は茅葺の農家風の造りで、まず玄関を入ると囲炉裏を切った十八畳の部屋で、無縁畳のうち二枚が斜めに置かれている。その他を含めて六十三坪になる。浴室は当時としては広いのだろうが、浴槽は狭い。
     母親美以(慶応二年~昭和二十三年)が元一に書いた手紙が展示されているが、見事な筆跡だ。単なる農家の母親のものではない。かなり教養のある女性だ。
     船底天井でつながれた中棟は和洋折衷の二階建てで中央の十八畳は書院造り、全体で八十七坪ある。二月から三月にかけて豪華な雛壇が飾られる。二階は特別な時を除いて非公開だ。西棟は母の居所として建てられた数寄屋造りで六十一坪だ。合計二百十一坪、部屋数は十五。それに土蔵が二棟ついている。
     見事な建造物を上手く説明できるだけの知識がないのが悔しい。知識がない私でもスゴイと思うのだから、細部をそれぞれ丁寧に観察すれば、好きな人はもっと驚くだろう。個人の邸宅としては最高峰のものだろう。
     これだけの屋敷を維持するのだから、入館料七百円は高くない。屋敷の維持管理だけではなく、昨年十月に公益財団法人となって、学術文化研究への助成や各種団体への支援を行っている。
     平成二十四年度の収支決算書によれば、事業総収入八千七百万円のうち、有価証券運用益が七千二百万円に上り、入館料も含めた博物館収入は五百八十万円でしかない。そして事業支出は一億二千七百万円、有価証券売却益を入れても千五百万円の赤字であった。
     財産目録を見ると、有価証券が二百二十七億円、流動資産が四億円あるので賄えるのである。また九千六百平米の土地の評価額が百九十万円と言うのには驚いてしまう。一坪千円しないのだ。屋敷の建物も評価額としては千百七十万円でしかない。美術的建築的な価値ではなく、減価償却しているということなのだろう。
     庭も綺麗に整えられている。黒い石を敷き詰めた水琴窟に水を注ぐと幽かな音が美しい。

     水音の響き幽けき冬の午後  蜻蛉

     「それじゃ急ぎましょう。」ここまで常に最後方を歩きながら鳥を観察していた隊長が、今度は先頭に立って走るように急ぐ。「バス停まで、どのくらいなの。」「二十分かな。」圏央道を潜り、七四号に出て山ケ谷戸交差点で一二号線に突き当り、左に曲がる。
     「コンビニかな。」ここまでコンビニには一軒も出会わなかった。ここも建物を転用した自転車屋であり、若い連中が屯している。その脇がバス停だった。実際には十五分で着いたから少し余裕がある。千意さんが自転車屋に入っていったのは何故だろう。
     「おかしいな、時間が過ぎてる。」桶川から来るバスだから、道路事情によって、若干のズレはあるだろう。二、三分の遅れでバスは来た。ドラエモンは四時二十五分の桶川行きを待つらしい。「三十分もあるぜ、それでも早いのかな。」彼なら川越経由で行くより、三十分待っても桶川に行く方が遥かに近いだろう。路線図を見ると、桶川と川越とのほぼ中間点になるようだ。
     バスの中でスナフキンはすっかり寝ている。私も眠くなってきた。下貉、釘無なんて不思議な地名だ。釘無橋のすぐ東で入間川と越辺川が合流する。その橋を渡り、やがて神明町、札の辻を経由して川越に着いた。およそ四十分。ここでシノッチ、イッチャン、クルリン、ペコチャンと別れる。
     「どうするの、反省会はいなかいの。」イトハンが心配そうな声を出す。それにしてもバスなんか利用したことがないから、降りた場所の位置関係が良く把握できていない。「こっちかな。」「大(ビッグ)はこっち。」千意さんが指差すのでそちらへ向かう。しかしビッグは予約で満席だった。「今日はちょっと時間が遅いからね。」「じゃ、さくら水産に行きましょう。」
     私たちにはやはり、さくら水産がお似合いか。川越店は久し振りだ。この店にはタッチパネルではなく、赤鉛筆で記入する懐かしい注文書がおいてある。「やっぱりアナログがいいね。」今日は千意さんに注文をお任せした。

    蜻蛉