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    平成二十六年三月二十二日(土)
      狭山丘陵(武蔵大和から西武球場)

    投稿:   佐藤 眞人 氏     2014.03.29

     狭山は埼玉県の地名だとばかり信じていたのに、東京都東大和市に狭山の地名がある。埼玉県民の多くは知らないのではないだろうか。今日は主に東大和市を歩き、最後に埼玉県所沢に至る狭山丘陵のコースである。
     東大和市にはこれまで縁がなかったが、大正八年(一九一九)に清水村、狭山村、高木村、奈良橋村、蔵敷村、芋窪村の六ケ村が合併したとき、それまでの紛争を忘れて大いに和して一つになるよう、大和村と名付けられたと言う。また昭和四十五年(一九七〇)市制に移行するとき、神奈川県大和市と区別がつくように、東京の大和の意味で、東大和市と名付けたのである。お手軽な命名だ。
     集合場所の武蔵大和駅の名にはかすかに覚えがあった。しかしいつ来たのか、どこを経由したか、まるで忘れている。西武線の支線であることは間違いなく、乗換案内を開いて位置を確認する。鶴ヶ島からはいくつか方法はあるが、一番安くて早いのが本川越から西武新宿線で小平に行くコースだ。ここで拝島線に乗り換えて一駅目の萩山で降りる。降りたホームの反対側で、多摩湖線を六分ほど待つ。地図を見て分かったのだが、この線路は西武遊園地駅が終点だ。西武国分寺線、拝島線、多摩湖線が入り組んでいる地域で、関係が難しい。家からは東武東上線を含めて四つの路線を乗り継いだ訳だ。これで五百二十円である。
     「おやおや。」電車に乗り込むとスナフキン、宗匠、ヤマチャン、ロダン、シノッチが目の前に座っていた。「どこから来たんだい。」「本川越からだよ。」彼らはどういう経路を使ったのだろうか。「段々乗ってくる。」
     スナフキンの場合は、国分寺から直接西武多摩湖線が出ているので一番簡単だ。これは隊長の案内に書いてある。宗匠やロダンたち浦和川口方面からは、武蔵野線を使い新秋津で西武線に乗ったのだろうと思ったのは私の無学のせいである。武蔵野線の秋津を通り過ぎて新小平で降り、四百メートルほど歩いて西武多摩湖線の青梅街道駅に出たらしい。そんなコースは想像もしていないし、青梅街道駅なんて知らなかった。地図を確認すれば、今日のコースの南側には確かに青梅街道が通っている。それにしても昔から西武線とJRの仲が悪いとは思っていたが、秋津と新秋津、本川越と川越との関係のように、乗り換えるためには必ず歩かなければならない。
     数日前に隊長のプリンターが故障中だと連絡が入っていたので、メールの届かないひとのために隊長作成の資料を五部作ってきた。今日のコース案内と、平成二十六年度の計画表だ。ここで会ったのはちょうど良いので、一部をシノッチに進呈する。「有難う、印刷代は」と彼女が財布を取り出そうとする。「いいの、いいの。」「いつも悪いわね。」そんなに感謝されるのなら千円も貰っておけば良かったかな。「誰かが印刷してくると思ってた。」「私はすっかり忘れてました。」たぶんそういうことになるだろう思っていた
     武蔵大和駅に着いたのは九時三十九分だ。鶴ヶ島を出発したのが八時十七分だから、一時間半弱かかったことになる。宗匠は一時間ほどだから意外に近かったと言っている。たぶん直線距離では私の方が近いと思うが、乗り換え回数の違いであろうか。
     「安倍が喜びそうな駅名だな。」スナフキンの言い方が面白い。戦艦大和、戦艦武蔵は安倍好みか。そう言えば以前この駅に来た時も同じような話題が出ていたことを思い出した。記録をひっくり返してみると平成二十一年六月のことで、東村山から多摩湖を経て武蔵大和に到達したのである。勿論そのときには安倍首相はまだ存在していないが、大和も武蔵も、当時既に時代遅れになっていた大艦巨砲主義の亡霊である。同じ轍を踏まないよう願うばかりだ。
     改札の向こうから、見知らぬ人が深々と頭を下げて挨拶してくれる。黒装束にマスク姿で、私は知らない。誰だろう。「千意さんのカラオケ友達だよ。前回から参加してるんだ。」先月、私は勤務に当ってしまって参加できなかったから初めてだ。オカチャンである。(取り敢えず本人の申告による。もう少し良いネーミングが欲しい所で誰か考えてほしい。)「川島町にも行きたかったんですけど、丁度用事が重なってしまって。」お酒は大好きという頼もしい人である。白岡の住人。
     隣にはドクトルもいて、「下に降りれば日差しが暖かいよ」と言ってくれる。駅舎は、南北に細長い都立狭山公園と言う丘陵の南端に位置していて、駅を出るには階段を下りていかなければいけない。降り切ったところで、ローソンの前に隊長とハコさんが待っていた。隊長は用意した地図が不足したときのことを考え、いざとなればコピーするためにコンビニ前に待機しているのだ。「一部はシノッチに渡してあります。」隊長に残りの資料を渡したところで携帯電話が鳴った。
     「今歩いてるけど、十分程遅れそうだから。」ダンディだ。「それじゃ先に行っちゃいますよ。」勿論ダンディを置いて先に出発する訳がない。「どこからだい。新小平でも遠いよ」とハコさんが驚くが、新秋津から歩いているようだ。ここまで直線距離で五キロはある。これから一日歩こうとしているのに、わざわざ五キロも歩こうというのは尋常ではない。何を考えているのだろう。
     「やっぱり鉄人だね。」「この頃は木人になってきたけど。」「そのうちペーパーになってしまうんじゃないの。」電車代をケチっているのではないか。「金持ちほどケチなんだな。」口の悪い連中ばかりだが、巧言令色鮮仁という言葉もある。口の悪さは仁の証明であると、勝手に思うことにする。
     しかし口の悪さでは講釈師に敵う者はいない。あれも「仁」であろうか。段々自信がなくなってくる。「そうよ、最初は泣きそうになっちゃった。」カズチャンも久し振りだ。仙台で孫とのんびりしていたらしい。「でもそのうち楽しくなった。」
     東村山からバスに乗ってきた画伯も到着した。この経路も隊長の案内にあった。しかし画伯は私と同じコースを取って来た方が安かったのではなかろうか。バスは高いだろうと、私はすぐに料金のことが気になってしまう。
     旧暦二月八日。昨日が彼岸の中日で、七十二候では「雀始巣」である。昼には気温が上がる筈だが、まだ風が冷たい。もう一枚着込んできた方が良かったか。画伯はまだ冬と同じ格好をしているし、宗匠もマフラーを巻いている。やがて一時間歩いたダンディも到着し、定刻丁度の電車で若旦那夫妻もやって来た。「改札口に誰もいないんだもの、心配になっちゃいました。」
     女性はカズチャン、シノッチ、マリー、若女将、古道マニア夫人。男は隊長、若旦那、画伯、ハコさん、ダンディ、ドクトル、古道マニア、オカチャン、スナフキン、宗匠、ヤマチャン、ロダン、蜻蛉。

     また携帯電話が鳴った。誰だろうと確認すると隊長ではないか。すぐ横で耳に電話を当てた隊長がニヤニヤしている。そうか、前に番号を間違っていたから登録を確認したのだな。
     「それじゃ、ロダンにシンガリをお願いします。出発しましょう。」「今日は何人ですか。」私と宗匠が「十七人」と答えるが、ロダンは全く信用せずに改めてきちんと人数を数える。正しい態度ではあるが少し悔しい。「十八人いますが。」変だな、誰を忘れているのだろう。チェック用の名簿を確認すると宗匠にチェックを入れ忘れていた。宗匠はロダンを忘れていた。実にいい加減な二人だ。「蜻蛉が間違うのは分かりますが、IT専門家の宗匠が間違ってはいけないな。」かつては神童と呼ばれた私の計数能力はダンディに全く信用されていなかった。
     「この辺は田圃を無計画に宅地化したから、道路もいい加減なんだ。」確かに道路の曲がり具合が、畦道をそのまま広げたように見える。「この辺は馴染みがあるけど、駅には初めて降りるよ。」スナフキンは普段は車で移動しているのだろう。
     歩き始めてすぐに黄色い花が目についた。「なんだろう。」「サンシュユかな。」宗匠も目が悪くなった。近づいてみるとマンサクだった。漢字を知りたいダンディのために敢えて書いておけば万作、満作、金縷梅などと書く。万作、満作は宛て字だから漢字を読んでも意味が通じない。金縷梅は知らないでマンサクと読むのは無理だろう。
     「春に最初に咲くのは黄色い花、それから徐々に白い花が咲きます」と古道マニアが説明する。 民家の塀越しに見える白や濃い紅色の梅が満開で、香りが漂ってくる。「桜はまだだね。」蕾はまだ小さく固そうだが、それでも少しは色付いているようで、枝全体がなんとなく薄紅色に染まったように見える。染井吉野ももうすぐだろう。
     「あの白いのは辛夷かな、モクレンかな。」宗匠の言葉に「モクレンだと早すぎるんじゃないの」と言ってみた。「だけどこの間、佐賀では白木蓮が咲いてたよ。」九州とここでは時期がずれているだろう。しかし、そう言われれば辛夷にしては大きいような気もしてきたから、私は実にいい加減だ。「あれはレンギョウかな。」これも少し早すぎる気もするが、遠目に鮮やかな黄色はやはり連翹のように見える。

     愛宕山圓乗院に着いた。東大和市狭山三丁目一三五四番地。真言宗智山派である。狭山薬師第三十四番及び多摩四国八十八ヶ所第三十八番の霊場であり、また武蔵野三十三観音第八番。この最後の武蔵野三十三観音は昭和十五年に定められ、戦後西武の後押しで観光化されたものだ。
     玉垣には「錐讃不動尊」の石柱が立ち、参道には笠付の石幢六面六地蔵がいた。「六面だよ。」私のほかにこういうものに関心を持つのは宗匠しかいない。「そうか、四面かと思った。」年代は分からないがかなり立派なものだ。もう少し細い形のものは見たことがあるが、これは珍しいのではあるまいか。
     「ここは院ですね。院と寺があって、この区別は若旦那に教えて貰った。」ダンディが言う。しかし、院号と寺号の使い方の区別は難しくて、簡単に説明できることではないのではないか。各種事典を参照すると、院は本来垣根を巡らした場所で、僧侶が住むところを意味した。同じ疑問を抱いた人がいるようで、上手い具合にレファレンス協同データベースで埼玉県立久喜図書館の回答を見つけた。いくつかの例があるので、選択して抄録する。

    「○○院」について 『岩波仏教辞典』『例文仏教語大辞典』などに以下のような記述あり。(中略)院号は上皇の称号、天皇の追号、女院の称号でもあるが、仏教関係の施設を〈院〉と称することが中国・日本で行われ(東大寺戒壇院など)、寺で院号を称するものができた(知恩院など)。「○○院」とは通常、寺の名前そのもの(寺名)の場合や、寺内にある施設名になる。
    『浄土真宗法名・院号大鑑』では、以下のような別の解釈もしている。
    仏さまをおまつりしてあるところを「寺」というのに対し、僧侶などの人師の住むところを「院」と呼ぶ。(略)
    『日本国語大辞典』〈院号〉
    「一般に臣下、武将、僧侶などの貴人が建立した寺院の称号。また、その貴人の別称」(略)
    http://crd.ndl.go.jp/reference/modules/d3ndlcrdentry/index.php?page=ref_view&id=1000055806

     つまり院とは、寺の中で僧侶が住む施設を言う場合と、寺そのものの別名である場合とがある。この圓乗院の場合はどちらだろうか。しかし、寺は本来僧侶が住んで修行する場所であり、区別するのがおかしい。サンガ、僧伽とはそういう意味であり、仏法僧の僧がそれである。
     鐘楼門の下に立つ仁王像もかなり立派なもので、由緒ありそうな気配が漂う。寺のHPを見ると、同じ文章が重複したり年代順でなかったりして分かり難いが、八百年以上になる寺だ。順序を少し変えて引用してみる。

     当山第十七世秀範法印の代、慶長十二年(一六〇七年)八月十八日の風災によって坊舎が悉く吹き潰されたので、寺を狭山南峰の愛宕山(現在の場所)へ移し、山号を愛宕山とし、院号を円乗院と改めた。その後第二十世賢範法印代に、帰依によって紀州十三仏霊場第一番札所、近畿三十六不動第三十四番札所新義真言宗総本山根来寺に奉安の錐鑽不動尊像を写して当山の本尊とした。
     第二十三世法印宥賢の頃には、当地方において愛宕信仰がさかんであったようであり、宥賢法印は所願成就の願主として享保三年(一七一八年)六月十五日に、山内鎮守の愛宕大権現の御宝前に石灯籠を造立し、また御本尊の尊体を修覆し本堂庫裡再建の大業を成し遂げ、更に法資を養成して密教の興隆に盡力したので、遺弟が宥賢法印を当寺の中興と崇めた。次いで第二十四世法印宥専は、享保十六年(一七三一年)八月壱五日に石神井三宝寺第二十世日盛法師より法流を相承して、当山法流開基となり、当山は、香衣一色着用の寺格となった。
     かくて第二十五世乗誉法印の代、寛延二年(一七四九年)十月に本堂の前方に鐘楼門建立し同時に洪鐘を鋳造した。大檀越となって鋳成されたものであったが第二次世界戦争の際に金属類供出命令によって供出した。
     第三十四世法印允重は、天下泰平万民和楽祈願并に追薦供養のために宝筺印塔建立を発願したが果たさずして示寂されたので、後住の明瞬法印が先住の志を承けて総檀家中と念仏女講中の助力により文政四年(一八二一年)に塔の造立を成し遂げた。これが大玄関前の宝筺印塔である。ついで第三十六世法印宥諄は、大般若経六百巻を勧進して当山に備えた。かくて寺門は益々興隆したが、明治元年(一八六八年)三月二十八日に太政官布告を以って神仏分離が断行せられ、山内鎮守の愛宕大権現は、本地仏の勝軍地蔵尊像を寺に移し、改めて愛宕神社として、当山の管理を離れた。その頃当山の所化の秀鏡が還俗して、後藤兵庫と改称し、愛宕神社の神官となった。
     http://www.enjouin.or.jp/newlycategory/

     要約すれば、根来寺の錐鑽不動尊のレプリカを作って本尊とした。また石神井の三宝寺(ここも以前行きましたね)の末寺だというのである。錐鑽はキリモミと読み、覚鑁の身代わりになったという伝説がある。
     「これは誰かしら、弘法大師じゃないわよね。」興教大師像の前で若女将たちが首を捻っているので、新義真言が興教大師覚鑁によって始められたことに触れておく。「高野山を追われて根来寺に拠ったんだ。」「改革派はいつも追われる」とハコさんが悟ったように呟く。「そこから智山派、豊山派が分かれました。」覚鑁の出身地なんて私は知らなかったが、ヤマチャン、宗匠はさすがに地元の人で、肥前佐賀の出身だと知っていた。
     おそらく本覚思想の影響もあっただろうと思うが、金剛峰寺座主となった覚鑁は真言宗に浄土信仰を組み込むことで真言宗改革を企てた。それに反発した金剛峰寺の刺客が覚鑁を殺そうと、その居所の密厳院に乱入した。中世の悪法師の乱暴狼藉に限りがないのは、「賀茂河の水、双六の賽、山法師、是ぞわが心にかなはぬもの」と嘆いた白河院を持ち出すまでもないだろう。
     そのとき、不動明王を念じた覚鑁が不動と化した。乱入した刺客が不動尊の腿に錐を刺したところ、不動像から血が流れた。これが錐鑽不動で、身替り不動の伝説になった。

     煩悩を断ち切れもせず歳重ね   午角

     既に煩悩を超越したように穏やかな画伯が、これ以上何を断ち切ろうというのだろう。もっと歌を上手に歌いたいという欲求だろうか。それが煩悩なら、煩悩があるからこそ生きている甲斐もある。
     「シキミだよ」と葉に触れながら隊長が注意を促す。仏事に用いられるから、寺の境内ではよく見かける。花が似ているので、弘法大師が青蓮華の代用として密教修法に用いたといわれている。「青蓮華」はショウレンゲと読み、菩薩の目に譬えられる。シキミ科シキミ属。樒、櫁、梻とも書く。木偏に密は密教に用いられたからであり、木偏に佛は榊からの連想で作られた国字である。
     葉はツバキのような光沢があり、薄く緑がかった白い花がきれいだ。花弁は細長く、十数枚あるようだ。「毒なんだよ。」「悪しき実から来てるんだよね。」別に四季を通して美しい「四季美」だとの説もある。スナフキンがスマホを検索して、植物で唯一劇物に指定されていると発見した。

    花や葉、実、さらに根から茎にいたる全てが毒。特に、種子にアニサチンなどの有毒物質を含み、特に果実に多く、食べれば死亡する可能性がある程度に有毒である。実際、下記のように事故が多いため、シキミの実は植物としては唯一、毒物及び劇物取締法により劇物に指定(毒物及び劇物指定令(昭和四十年政令第二号)第二条第一項第三十九号「しきみの実」)されている。(ウィキペディアより)

     「毒物及び劇物指定令」は第一条が毒物を、第二条が劇物を指定している。なるほど条文を読んでみると、他は全て「・・・を含有する製剤」とあるのに、該当条項だけ「三十九 しきみの実」と書かれていた。
     しかし同じ属のトウシキミは無害で、中華料理の八角になる。調べてみると、トウシキミの実はきれいな八方手裏剣のような形をしているのに、シキミのほうは少し小さく形も整っていないようだ。「植物としては唯一」というのが引っかかった。ケシだってそうではないかと思ったのだが、あれは麻薬取締法か。枝垂れ紅梅も美しい。

     丘陵や紅白の梅匂ひ立ち  閑舟

     徳治二年(一三〇七)の板碑があるが、本堂に保存されているようで見ることが出来ない。それでも格子の隙間から一所懸命覗いてみる連中がいる。「見えるかい。」「わかんない。」やはりそれらしきものは発見できない。「見える筈がないよな。」
     「鎌倉時代の珍しい板碑」と説明されているが、今に残る板碑は殆どが鎌倉時代のものであって、埼玉県内や東京近郊では割によくお目にかかる。寺のHPを見ると、それを含めて九枚の板碑を保管しているらしい。近くには小手指河原(所沢市)、八国山(東村山市)、久米川(東村山市諏訪町)など新田義貞の戦った跡もあり、この辺は鎌倉街道が通っていたのだろう。
     「それじゃ、東大和公園に向かいます。」寺の裏口を出ると「此の坂を上り右へ 貯水池を経て山口」と書かれた白塗りの道標が立っている。ちょっとした山道で土が足に優しい。それ程上ったとは思えないのに、右手にはかなり下のほうに民家が見える。意外に高低差がある。
     都立の丘陵公園である。「シュンランがあったわ。」少し後ろを歩いていたシノッチが追い付いて教えてくれる。「どこに。」「あっちよ。どうしよう、分からなくなっちゃたかしら。」シノッチに従って暫く戻ると春蘭があった。「これよ。」長い葉の根元に埋もれたように、数個の蕾はまだ緑色で固い。花は珍しい形をしているのだが、私は一度しか見たことがない。スナフキンがスマホを検索してみる。「これだよ。」形が珍しいのは、ウィキペディアの記述でもわかる。

    古くから親しまれてきた植物であり、ホクロ、ジジババなどの別名がある。一説には、ジジババというのは蕊柱を男性器に、唇弁を女性器になぞらえ、一つの花に両方が備わっていることからついたものとも言われる。(ウィキペディア「シュンラン」)

     「これがウグイスカグラだよ。」隊長が立ち止った。朝顔を小型にしたような細長い紅色の花が下を向いている。「ここに毛がないのが普通のウグイスカグラ、毛があるのがミヤマウグイスカグラ。」隊長は頻りに毛が、毛がと連発する。私を意識しているのだろうか。「そうじゃないよ。」要するに全体に産毛のようなもので覆われているのがミヤマウグイスカグラであり、無毛のものがウグイスカグラであった。
     「カズラ?」「カグラ、お神楽だよ。」鶯神楽。スイカズラ科スイカズラ属でありながら、。蔓性ではないからカズラとは呼ばないのだ。カグラはカクレ(隠れ)の転訛という説がある。

     青踏むや俯く花の紅の色  蜻蛉

     雑木林はよく手入れされたウォーキングコースになっていて、「雑木林博物館」という案内パネルが設置されている。この雑木林全体が自然博物館なのだ。「ああ、心が洗われるな。心の栄養だね。」ロダン得意のセリフが出る。里山は心の栄養とは宗匠の名言である。オカチャンも感心したように、「そうですよね、本当に」と頻りに頷いている。
     そのオカチャンは頻りにメモを取っている。何を書いているのか、植物の観察記録だろうかと覗き込むと、句をいくつも書いていた。「なかなできないんですよ。」

     狭山丘陵の小梢を渡る春風かな  オカチャン

     「コゲラですよ。」「どこ?」「あそこだよ。」コゲラはそれほど珍しいものではない。この会ではしょっちゅうお目にかかるから、Japanese Pygmy Woodpeckerと言うのも覚えてしまった。
     枝に大きなコブのようなものをいくつもつけているのは何だろう。古道マニアに質問すると「虫こぶですね」とすぐに回答が返ってくる。「チュウエイですか。」「そうです。チュウエイですね。」エイは難しい字で、虫癭と書く。「カッターで切ると虫がうようよ出てきます。気持ちのいいもんじゃない。」「イヤダワネエ。」想像するものいやだね。
     「木に悪影響はないのかな、寄生木みたいに養分を吸われるとか。」「そんなに影響はないようですよ。」ネコがマタタビに酔うのは本来のマタタビの実ではなく、この虫癭となった実によるのである。原因になる虫はマタタビミタマバエ、そして虫癭となった部分をマタタビフクレフシと言う。なんて初めて知ることだ。虫こぶのことをフシと言うようだ。
     アカマツが集中している場所にやって来た。「マツタケが採れるんじゃないの。」ヤマチャンが何度も口にする。「何度も言ってるのに、誰も反応してくれない。」「だって季節が違うだろう。」所々に、幹にビニールテープを巻いている木がある。「これなんだよ。」隊長が指摘するのを見ると小さなプレートが貼ってある。薬剤を注入している部分だった。樹皮は触るとすぐにボロボロと剥がれ落ちそうで、それを防止するためらしい。札には薬品製造会社はファイザーと印刷されている。
     「ファイザーって、あれで大儲けしたんだ。あれだよ。」スナフキンの言う「あれ」とは何か。「精力剤だよ。何て言ったっけ。」なんとなく分かったが私も言葉が出てこない。このところ、仲間内でこういう症状が珍しくなくなった。後で調べてみるとバイアグラである。
     少し下って行くと、やがて大きなサンシュユに出会った。「これが自然のサンシュユか、大きいな。」オカチャンが感動したような声を出している。「どんな字を書くの。」「三つに朱に、ユは難しい字。」私の説明も違っていた。宗匠がすぐに辞書を引き、山茱萸と示してくれる。ミズキ科ミズキ属だが、枝の具合だって違うし、ミズキとはあまり似ていない。
     しかし茱萸と書けばグミと読むのだから、サンシュユはヤマグミである。赤い実をつけるところが似ているが、本当のグミとは違って実は渋くて食えないらしい。
     「植物名は漢字で書いてもらいたい。」ダンディがまたいつもの科白を言い出した。このことは前にも触れたことがあるが、宛て字や中国原産種と違うものなどあり、学問的にはカナで書くのが正しい。今の山茱萸だって、漢字にしたからと言って正体が分かるわけでもないだろう。享保の頃に薬用植物として輸入したから、漢字名をそのまま音読みしたものらしい。
     古道マニアが懇切に説明するのだが、ダンディは「それは学問の世界、文学の世界は違う」と言い張ってやまない。しかし公的機関が案内を出すためには、学問的に曖昧な記載をすることはできない。文学なんて所詮個人の趣味である。
     馬酔木が咲いている。ヤマチャンに訊かれて「アセビ」と答えた。「赤い方が綺麗だわね。」「赤いのは園芸種だよ。」古道マニア夫妻の会話が聞こえた。そうなのか。自然のものは白いのだ。
     アシビが正しいのかアセビが正しいのか、実は私は良く知らなかった。ツツジ科アセビ属だから植物名としてはアセビが正しいらしいが、水原秋櫻子の雑誌『馬酔木』はアシビと読む。因みに子規没後に、『ホトトギス』の後継として伊藤左千夫を中心に発行された『馬酔木』は、茂吉の『アララギ』に受け継がれたので秋櫻子の『馬酔木』とは違う。私が初めて買った歳時記が秋櫻子名義のものだったので、秋櫻子の名を聞くとなんとなく嬉しい。折角だから秋櫻子の句を引いておこうか。

     来しかたや馬酔木咲く野の日のひかり  秋櫻子
     馬酔木咲く金堂の扉にわが触れぬ    同

     枝に直接黄色い花がくっついているのは何だったか。最近まで近所でよく見ていたし、知っている筈なのに言葉が出ない。「ソシンロウバイ。今教わったのよ。芯が赤くないの。」言われてみれば確かにそうだが、まだ咲いていたか。我が家の近所の素心蝋梅はとっくに終わっている。蠟梅がこの時期まで残っているのは、やはり今年が寒いからではないか。
     「腹が減った。」まだ十一時半だが、ダンディが大きな声を出すので、見かねたマリーがチョコレートを進呈した。「チョコレートが一番効くね。」集合前に一時間も歩いていては、この時間に腹が減るのは当たり前だ。
     「それじゃ、いったん道路に出ます。」小さな公園を見下ろすガードレールに犬がつながれて寝そべっていた。そばには人影がない。公演は水田の跡らしい。「野良犬かな。」つないだ紐の先でガードレールにぶら下げられた板には「私は日光浴をしています」と書かれ、犬の脇腹には弾痕のような傷跡がある。ハコさんは皮膚病ではないかと言うが、撃たれた跡ではなかろうか。「そうかな、弾痕かな。」原因は不明だ。
     次は天王山雲性寺だ。東大和市奈良橋一丁目三六三番地。真言宗豊山派。狭山三十三観音霊場十八番。
     石段の左脇には笠付の青面金剛像が立つ。側面には「武州多摩郡村山郷奈良橋村施主」とあった。「多摩郡は神奈川県でしたね。」ダンディが確認するように言ってくるが、これは以前にも触れたことがある。
     横に「ア字庚申」の案内板が立っているのでこれがそうかと思ったら違う。それは本堂に安置しているらしい。

     この庚申塔は、上部に八葉の蓮華を座とした月輪を浮彫し、その月輪の中に梵字「ア」字を陰刻したもので、「阿字庚申」と名付けられている。庚申講中が造立した庚申塔とはその趣を異にする市内唯一の稀れな塔である。
     下部の三猿も、中央前向、左右横向に浮彫されており、めずらしい三猿配置である。
     塔の裏面に、正徳六丙申三月、法印伝栄と陰刻されている。
     現在、庚申塔は本堂に安置されているが、その台座は現在もその位置にある。

     それとは違ってこの庚申塔は上部の月輪と日輪の間の空白に梵字が刻まれている。これは「ア」ではなく、青面金剛の種子「ウーン」のようだ。合掌型六臂で、三猿はかなり磨滅している。
     その左隣にあるのは馬頭観音だ。「これって珍しいよね。」若旦那と宗匠が注目したのは、位牌型で、大きな馬頭観世音の文字の上部に、小さく合掌型三面六臂の馬頭観音座像が浮き彫りにされている部分だ。寛政の銘がある。合掌型三面六臂で青面金剛に似ていなくもないが、かすかに馬頭が確認できる。
     ここは永享十一年(一四三九)創建と伝えられる寺だ。石段を登って境内に入る。山門は箱根本陣の門を昭和二十六年(一九五一)に移築したもので、薬医門の形式だ。なぜ箱根のものを移築したのかは分からない。本堂はコンクリートで新築されたのだろうが、こんな所で檀家が充実していることを思わせる。「この辺は田圃や山林を売り払って、檀家は金を持ってるんだよ。」寄進者の名を彫った石碑を見ながら、金額の多寡を穿鑿する声が喧しい。
     中央は薄い黄色で、外周に向かって徐々に白くなっているのはシロバナタンポポだ。「シロバナ?シロタンポポじゃないの?」シロバナタンポポと言う。「セイヨウタンポポ、カントウタンポポ、いろいろ種類がありますよね。」シロバナタンポポは日本在来種である。

     「それじゃお昼にしましょうか。」隊長は八幡神社の石段の下を通り過ぎる。ここには寄らないのだろうか。通り過ぎた辺りで桜を見つけた。「これって、サクラだよね。」「梅じゃないな。」色が濃いから寒桜か彼岸桜だろうか。隊長は何も言わずに通り過ぎるので、私は勝手にヒガンザクラと決めた。しかしハコさんは難しい顔をして悩んでいる。
     八幡神社の隣が郷土博物館だった。ちょうど十二時か。ダンディのことばかり言ったが、実は私とスナフキンも十一時頃から腹が減っていたのだ。建物脇の階段を登れば、博物館の屋上の高さに芝生が広がり、その真ん中辺りで親子連れが座り込んで弁当を食べていた。「この辺にしようか。」シートを敷こうとすると、「もっと向うに行きましょう」と、ロダンが更に奥の土がむき出しになった場所まで向かう。「折角の家族団欒を邪魔しちゃいけない。」気配りのひとだ。
     ビニールシートを五六枚敷き詰め、弁当を広げたところでオカチャンが煎餅を配り始めた。「お口直しにどうぞ。」彼もまた気配りの人であった。私は梅干し飴の袋を出す。「どうしたの。」「珍しいね。」「雪になったらイヤだな。」言われると思った。
     「妻が持たせてくれた。いつも貰ってばかりで肩身の狭い思いをしてるだろうって。俺はいつも肩身が狭くて、言いたいことも言えず小さくなってる。」「嘘ばっかり。」「それじゃ」と画伯もチョコボールを取り出した。ドクトルからはオイキムチが回される。
     マリーが走ってきて、女性陣から集まったチョコ、煎餅、飴を配る。「みんなが持ってきたら肝心の弁当が食えなくなっちゃう」なんて、肩身の狭い連中は言い訳する。「そのうち、差し入れ目当てで弁当を持ってこないやつが出てくるぜ。」

     春の野やお握り煎餅チョコレート  蜻蛉.

     風もほとんどなくなり、暖かい陽気で眠くなる。遥か遠くに見える煙突から煙が真っ直ぐ上に上っている。十二時四十五分。良い時間だ。下に降りて博物館に入る。東大和市立郷土博物館。東大和市奈良橋一丁目二六〇番地二。まずトイレで用を済ませなければならない。
     ここはプラネタリウムが目玉だが、ほかに見るべきものはない。と言い切るのは東大和市に失礼だった。だって私は二階(常設展示)まであるのに気付かず、一階で済ましてしまったのだから。オカチャンは椅子に座り込んで句の推敲に夢中になっている。企画展示として昔の玩具を展示してあるのは良いが、その中にオセロが置いてあるのはどうしたものだろう。これが懐かしい玩具であろうか。
     皆が集まっているのは、玄関ホールの片隅に置かれたボードの両面に、漢字クイズが張り出されているものだ。片面は植物の名、裏面は鳥の名だ。「読めないな。」「漢字にしたって分からない。」「宛て字が多いからね。」クイズに強くなるかもしれないが、こんなことを知っても余り役に立ちそうにない。
     「十一ってなんだい。」これは聞いたことがあるから、「そういう鳥だよ」と断言する。ずっと以前にツカさんに教えて貰ったんじゃないかな。「そんな名前の鳥がいるのか?」「鳴き声が十一って聞こえるんだよ。」鳥の絵を専門にする画伯の言だから信じない訳にはいかない。スナフキンは早速スマホを検索する。「これか。」カッコウ科カッコウ属。別名に慈悲心鳥ともいう。これも鳴き声を慈悲心と聞いたもので、仏法僧と同じ命名法である。
     熊啄木鳥はクマゲラ、赤啄木鳥はアカゲラ、緑啄木鳥はアオゲラ。藪鮫とは鳥なのか。この漢字を見ればダンディも魚の類だと思うに違いない。文字通りヤブサメと読む。ウィキペディアではスズメ目ウグイス科、『世界大百科事典』ではスズメ目ヒタキ科と言う。
     「信天翁は?」「アホウドリだよ。オキノタイフ。」昔習ったボードレールにあったじゃないか。たぶん高校の教科書にあったのはこれだったと思う。まるで記憶が霞んでいるのだが。

     信天翁(おきのたいふ)  上田敏訳

    波路遥けき徒然の 慰草と船人は、
    八重の潮路の海鳥の沖の太夫を生擒りぬ、
    楫の枕のよき友よ心閑けき飛鳥かな、
    奥津潮騒すべりゆく舷近くむれ集ふ。

    ただ甲板に据ゑぬればげにや笑止の極みなる。
    この青雲の帝王も、足どりふらゝ、拙くも、
    あはれ、眞白き双翼は、たゞ徒らに廣ごりて、
    今は身の仇、益も無き二つの櫂と曳きぬらむ。

    天飛ぶ鳥も、降りては、やつれ醜き痩姿
    昨日羽根のたかぶりも、今はた鈍(おぞ)に痛はしい、
    煙管に嘴をつゝかれて、心無しには嘲けられ、
    しどろの足を模ねされて、飛行の空に憧がるゝ。

    雲居の君のこのさまよ、世の歌人に似たらずや、
    暴風雨を笑ひ、風凌ぎ猟男(さつお)の弓をあざみしも、
    地の下界にやらはれて、勢子の叫びに煩えば、
    太しき双の羽根さへも起居(たちゐ)妨ぐ足まとひ。

     同じ上田敏訳でもブッセ「山のあなたの空遠く」やヴェルレーヌ「秋の日のヰオロンのためいきの」の親しみやすさとは随分違っている。これがボードレールなのだろうか。こんなものを読まされたものだから、詩は翻訳で読むものではないと高校生は観念したのである。かといって原文で読む力は勿論ない。要するに私は外国の詩を読むことは諦めた。
     外に出ると、菜の花の黄色がまぶしい。玄関前で人数を確認していたロダンが足りないと悩む。「いない人は誰ですか。」「見て来るよ。」もう一度中に戻ると、ちょうどヤマチャンが階段をおりてきたところだ。「もう出発するよ。」「上にまだいるから呼んでくる。」そしてドクトル、ハコさんも降りてきて十八人が揃った。

     八幡神社の石段は上らずに回り込んで境内に入る。「八幡神社が日本で一番多いって本がでただろう。オウムの時の宗教学者の。島田ナントカ。」「島田裕巳だろう。最近復活してきたな。」サリン事件が発生したとき、島田はオウムの仕業ではないと警察を批判したのであった。日刊スポーツが、島田がオウムのホーリーネームを授かり、学生をオウムに勧誘したと報道したが、これは後に名誉棄損の裁判によって島田の全面勝訴で終わっている。だから噂だけで批判することはしないが、特定の新宗教に余りに肩入れするのは宗教「学者」としての存立基盤が疑われる。宗教学が「学」としてあるのなら、島田のような研究方法は明らかに間違っていた。
     ところでこの『なぜ八幡神社が一番多いのか』という本は結構知られているようだ。私は勿論(と自慢する程ではないが)読んでいない。「八幡神社が一番多いっていうじゃないですか。」ダンディが言い、画伯も「一番多いのが八幡様だって」と同じことを言う。最近クイズ番組でも何度か耳にした。ただ私は一番多いのは稲荷ではないかと疑っている。神社本庁に登録しないまま存在する、全国の名もないような小さな祠や屋敷神を、勘定にいれていないのではないか。
     島田がどんなことを書いているか知らないが、八幡神は最も早く仏教と習合した神で八幡大菩薩と呼ばれた。東大寺の大仏建立にあたって、わざわざ九州から上京して力を尽くした。また祭神は応神天皇であり、源氏の氏神でもある。仏教、天皇、源氏とくれば、中世日本の権威を総浚いしている。おそらく源氏の氏神と言うのが、全国に浸透した理由ではなかろうか。

     拝殿には「凱旋」と書かれた額が三枚掲げられている。右端は日露戦争時のものだ。左端は昭和七年満州事変、その右が問題になる。年号は大正六七年とある。「西比伯」とあるのが問題になったのだ。「なんて読むんだい。」大正六七年ならシベリア出兵だろう。「シベリアなんて読めないだろう。」「この村の連中が無学だったからじゃないか。」スナフキンは信じないが、スマホを検索して納得した。宗匠が調べたように「西比利亜」と書くのが普通だろうが、「西比伯」の例も少ないながらある。国立公文書館アジア近代資料センター収蔵目録中『西比利亜鉄道関係雑纂 第二巻』の目次に「夏季西比伯鉄道旅行者須知事項」というのを見つけた。
     「この辺は日清日露もそうだけど、西南戦争従軍者も多いんです。坂戸にもありますよ」と古道マニアが教えてくれる。日清日露の忠魂碑はよく見るが、シベリア出兵関係は初めて見るような気がする。ロシア革命に驚愕して各国がシベリアに出兵した事件だ。

    シベリア出兵とは、一九一八年から一九二二年までの間に、連合国(大日本帝国・イギリス帝国・アメリカ合衆国・フランス・イタリアなど)が「革命軍によって囚われたチェコ軍団を救出する」という大義名分でシベリアに出兵した、ロシア革命に対する干渉戦争の一つ。
    日本は兵力七万三〇〇〇人(総数)、四億三八五九万円から約九億円(当時)という巨額の戦費を投入。三三三三人から五〇〇〇人の死者を出し撤退した。アメリカが七九五〇人、イギリスが一五〇〇人、カナダが四一九二人、イタリアが一四〇〇人の兵力を投入。ソビエト・ロシア側の兵力・死者・損害は現在まで不明(後述する一九二〇年「四月四・五事件」だけでも五〇〇〇名以上が殺害されたとされる)。また別資料では、死傷者八万人、六億ルーブル以上の被害とされる.(ウィキペディアより)

     この時、大陸で諜報活動に従事していた石光真清は、軍の命令によって孤立無援の状態でアムール政府に関与せざるを得なくなった。日々変わる上層部の指示の中で現地交渉を続ける石光は悩む。結局石光の努力は全く無益に終わり、やがて失意のうちに諜報活動から身を引いた。石光真清は余り知られていないかも知れないので、少し引用しておきたい。(こういうことをするから、作文が無暗に長くなって顰蹙を買うのである。)書名の由来になった部分だ。

     ウラジオストックからブラゴベンシチェンスクへ帰る冬の汽車旅行は、ただでさえ退屈であるのに、ひとり旅でさびしさと怒りを胸に抱いて帰るのは堪えられないことである。野も河も丘も白く塗りつぶされ、窓に過ぎゆく景色は朝も夕も、夜が明けても同じであった。なにもかも白く凍りついていた。
     「君は一体、なにを報告に来たのかね。日本軍に忠告に来たのかね」
     「君は誰のために働いとるんだ、ロシアのためか」
     「よかろう、辞めたまえ」
     同じ声が同じ調子でレールの響きのなかに聞こえた。夢うつつにも繰り返し聞こえてくるのである。
     「任務を解除していただきます。不適任です」
     「よかろう、辞めたまえ」
     ああ、なんという馬鹿げた問答であろう。(中略)  私の長い旅路も終わりに近づいていた。しかもその旅路の果てに待っていたものは、いくら叩いても身を投げても突き破れない厚い壁である。戻って身を構えて出なおしても、またも行く手に厳然と立ち塞がる壁である。その壁の下に私はくずおれて、不名誉な身を横たえてしまった。(石光真清『誰のために』)

     後に子(石光真人)は絶対に大陸に関わるなと遺言するほど、石光の喪失感は大きかった。手記最終巻は、我が生涯をかけた事業は全くの徒労であったという深い悔恨に包まれている。『城下の人』『曠野の花』『望郷の歌』と合わせて手記四部作は、明治から大正という時代の裏面を知るうえで必読の書です。

     凱旋の額を見上げて彼岸かな  蜻蛉

     ここから東大和市立狭山緑地に入る。「スミレです。」「タチツボだろうね。」柵で囲ってあるから足を踏み入れてはいけないだろうが、隊長は慎重にその中に入って確認する。今年初めて見るスミレで、ずいぶん色が鮮やかだ。
     少し行くと「カタクリですよ」の声がかかった。時期的に少し早すぎないか、勘違いではないかと思ったが、確かにカタクリだった。群生しているほどではないが、ポツリポツリと咲いている。それでなくてもカタクリの下を向く姿は派手ではなく、こんなに間隔をおいて咲いていると、なんとなくさびしくなってくる。

     かたかごの花色薄し昼下がり  蜻蛉

     竹林の中で捻じれに捻じれながら、長く枝を伸ばした一本の木があった。「フジですね。」オカチャンが断定する。フジはこんな風になるのか。それにしても枝が長い。「あそこまであるよ。」
     やがて木橋が続く場所に来た。これは地面を歩くなということだと思うのだが、ダンディは平気で橋を外れたころからショートカットする。つられて何人もそのあとを追う。真っ赤な椿が美しい。「これはヒュウガミズキかな。」隊長が確認しているが、まだ蕾が開いていないのでトサミズキと区別がつかない。
     多摩湖を東西に分断する堤防に来た。「この辺に慎太郎の碑がありませんでしたか。」ロダンが訊いてくるが、私は一向に記憶が蘇らない。「全く思い出せない。来たことはあると思うけどね。」通称は多摩湖、正式には村山貯水池である。東側が下貯水池、西側が上貯水池だ。
     村山貯水池と呼ばれるが、東村山市にも武蔵村山市にも関係がなく、東大和市の中にある。武蔵村山、瑞穂、東大和、東村山の一帯はかつて武蔵国多摩郡村山郷と呼ばれ、武蔵七党の村山党が支配した土地である。村山党の一族には金子、宮寺、山口、仙波などがいて、今でも地名に残されている。

     晴天へ河津桜や多摩湖畔   閑舟

     「あれが西武園かな。」右手遠くには西武園遊園地の観覧車が見える。堤防を渡り切ったあたりの正面に茅葺の長屋門のようなものが見えた。あれはかつてここにあった慶性院の山門で、慶性門と呼ばれる。東大和市多摩湖二番。寺は多摩湖造成によって東大和市芋窪に移転を余儀なくされ、山門だけがここで朽ち果てようとしていたところ、平成四年に東大和市によって復元された。「住所が芋窪だぜ、何にもなかったところだろうね。」窪地で芋しか栽培できなかった。あるいは芋も採れないほど荒地かと思うのは私の偏見である。
     「後ろから自転車です。」「前からも来ます。」自転車道は前からも後ろからも自転車が走ってきて危ない。山口観音裏参道に入る。少し下り気味の道で、道を隔てた左手には朱色の五重塔(八角の建物で千躰観音堂)が見え、こちらには「文学碑の丘」の石柱が見える。しかし隊長は見向きもせずに直進する。左手の方を眺めると「合同句碑」「合同歌碑」の文字が見えた。「地元の連中のかな。」所沢にある日刊民報社が建てたものらしい。

    三十年間続いている「所沢歌壇」「所沢俳壇」は、当社の文化事業のみならず、所沢市の文化向上にも貢献しています。さらに、当社の記念事業として、市内山口の金乗院山口観音内「文学碑の丘」に打木村治、高橋玄洋、合同歌碑・句碑を建立いたしました。http://www.minpou.jp/company/

     道を降り切ると本堂の前に出た。正式には吾庵山金乗院放光寺、通称は山口観音である。所沢市上山口二二〇三番地。真言宗豊山派。武蔵野観音霊場第十三番札所、狭山三十三観音霊場第一番札所、奥多摩新四国八十八ヶ所第五十二番札所。
     寺伝によれば、弘仁年間(八一〇~八二四年)行基によって開かれたという古刹である。伽藍の朱色が鮮やかに映える。かなり大きな寺である。新田義貞が祈願したことでも有名で、その乗馬であった白馬を象った馬の置物を置いた霊馬堂がある。
     「ぽっくりさん」なんてものもある。これは高野山の「引導地蔵」を写したもののようだ。「ぽっくりさん」なんておかしな名前を付けなくても良いではないか。オカチャンは真面目に本堂に向かって手を合わせる。その間に不信心者たちは絵馬に夢中だ。「お金がたくさんたまるように、なんてある。」「不純だね。」
     境内には今日二度目の、かなり風化した笠付の石幢六面地蔵がある。大きな石灯籠は、もしかしてと確認するとやはり増上寺のものである。「ヘーッ、そうなんですか。立派なものですね。」オカチャンは感動しやすい質であろうか。宝暦年間(一七五一~六四)の再建という本堂に下げられた青銅色の鰐口はかなり大きい。ドクトルが大きな音を出す。

     梵鐘の鳴り響きたり春彼岸   午角

     全体に中国風を感じる建物が多い。本堂の階段下にある「お宮参りおめでとう」の立札はよいとしても、石屋の「墓地分譲中」の立て看板は余計ではないか。右手の軒下に釣るされた梵鐘は朝鮮のものだという。
     門前にはオハギを売っている店がある。「春でもオハギって言うのかな。」「普通はボタモチだよね。」オカチャンも「そうですね」と同調する。春は牡丹、秋は萩に決まっているだろう。「今はどっちでもいいんじゃないの。」「俺はどっちにしても食べないけどね。」(翌日の『朝日新聞』天声人語欄に同じ話題が出ていた。)
     私はこの牡丹餅(春)、お萩(秋)説を疑いもなく信じていたのだが、実はそれが正しかったかどうかにも疑問がある。そもそもあの形と、牡丹、萩の花とどう関係しているのだろうか。ウィキペディアやYahoo知恵袋等を見ると話は簡単ではない。
     一般に言われるのは、盆に盛りつけた餅の形が牡丹に似ている(そのように並べた)、また粒餡の粒を萩の花に見立てたというものだろう。しかしボタモチはボタボタした様子から名付けられたという説がある。サンスクリット語のブッダ(飯)ムチ(柔らかい)が語源だという突拍子のないものまであった。またボタは古語で萩のことであった。段々難しくなってくる。
     東京では春秋ともにオハギと呼んだという説、漉し餡がボタモチ、粒餡がオハギという説、(その逆の説)、米を完全に餅の状態にまでついたものをボタモチ、米粒が残っている(所謂半殺しか)のをオハギという説。実に様々だ。曖昧な知識で、簡単にこの店を無学だと笑ってはいけなかったのである。因みに私の持っている『角川俳句歳時記』には、ボタモチ、オハギいずれも季語として採用されていない。

     浅学の非才を笑う釈迦如来   午角

     道路に出たところに、柵で囲んだ何やら由緒ありげな場所があった。隊長は関心もなさそうに道路を横断してしまったが、見るべきものではなかろうか。案内板を読むと、白い狛犬を門前においた瓦葺の門は、天誅組の本陣とされた大和五條の桜井寺の山門であった。なぜここに移築されたのかはわからない。「天誅組本陣」の表札を掲げているが、これも当時のものなのかは分からない。その先の参道の両側には増上寺の石灯籠がいくつも並び、左手の柵で仕切られた所には緑青色の大灯籠も並ぶ。これについては何の説明もない。増上寺の石灯籠だから西武が絡んでいるのは間違いないが、謎である。(後で分かる。)
     車の合間を縫って道を渡って合流する。次に向かったのは村山山口貯水池管理事務所に隣接した公園だ。埼玉県立狭山自然公園。ロダンが芝に足を取られて蹲った。「大丈夫。」「捻った。」気を付けなければいけない。暫く足をぶらぶらさせていたが、どうやら大したことはなかったようで、良かった。「前に右足のアキレス腱を切ったことがあるんです。」「前立腺は。」「なんてことを言うんですか。」「座布団、取り上げて。」
     奥まで進むと狭山湖畔にやってきた。水は青く波もない。多摩湖は村山貯水池、狭山湖は山口貯水池、いずれも東京都の水道のために造られた人造湖である。狭山湖は埼玉県にあるのに埼玉県に水は供給されない。
     「あれですよ、慎太郎は。」湖畔に立つ大きな石碑を見てロダンが思い出した。どうせ詰まらない石碑だろうと私は見もしなかったが、ロダンとオカチャンがきちんと観察していた。「五風十雨の味わい」とあるそうで、それが石原慎太郎の文字なのだ。
     そんな言葉聞いたこともなかったのは無学のせいである。それにしても、ここは埼玉県である。東京都知事だった慎太郎が、何故ここまでしゃしゃり出てくるのかといえば、東京都の水瓶だからなのだ。
     宗匠が「五風十雨」を調べてくれたので一応記録しておく。五日に一度穏やかな風が吹き、十日に一度柔らかい雨が降ると言う意味だ。豊作に都合がよく、天下泰平のしるしである。王充の『論衡』にある言葉らしい。

    風条を鳴らさず、雨塊を破らず、五日にして一たび風ふき、十日にして一たび雨ふる。

     「五穀豊穣と同じだね。」「なんでも言えばいいってもんじゃないよ。」「アハハ、知ってる言葉を口走っただけ。」慎太郎とは全然違う。慎太郎なら五日に一度の猛烈な突風、十日に一度の豪雨か。そろそろ引退して、誰にも迷惑をかけずに穏やかに暮らしてほしいと切に願う。

     五風十雨味はひ歩く彼岸かな  閑舟

     「鳥がいないね。」水鳥の姿は一向に見えない。画伯やシノッチも双眼鏡を目に当てているが、成果はない。「向うにカルガモが数羽いたけど、昼寝してた」と古道マニアが報告する。乏しい知識で考えると、大抵の水鳥は渡り鳥だろう。もう北に帰ってしまったのではないだろうか。
     静かな湖面は穏やかな日に映えて美しい。しかし少し寒くなってきたので、リュックにしまったジャンバーを取り出して着込む。画伯は漸くミコアイサを発見したようだ。

     春の湖季節はずれのミコアイサ   午角

     漢字で書けば巫女秋沙で、カモ科の渡り鳥である。帰り遅れたカモを言うのに、春の鴨とか残る鴨という季語がある。「それじゃ、行きましょうか。」西武球場駅に向かう。途中で、隊長はさっきの石灯籠の並ぶ参道に入っていく。「なんだ、予定通りだったんだ。」「さっき、写真撮りまくってたじゃないの。」寄るとは思わなかったからね。
     ここも金乗院の一部かと思っていたが、狭山山不動寺という別の寺だった。所沢市上山口二二一三番地。昭和五十年(一九七五)、西武の堤義明が建てた寺である。堤義明が寛永寺と関係があって、天台宗別格本山になった。徳川家の菩提寺増上寺を無慙に切取ってプリンスホテルを建てた、その懺悔であろうかなんて思うのは人が良すぎる。「金に飽かせて集めたんだよ。」スナフキンの評言があっているのではないか。
     総門は長州毛利家江戸屋敷の門を移築したものだった。台徳院(秀忠)霊廟の勅額門、御成門の他に崇源院(お江)霊廟の門「丁子門」もあるらしい。青銅の大灯篭もそこにあったものだろう。他にも櫻井寺の山門を初めとして全国各地から様々なものを集めているようだ。集めた歴史遺産の陳列場としての寺である。

     ゆるやかな坂道を下り、道路を渡ればすぐに西武球場駅だ。三時半を過ぎた頃だ。「今日の距離は。」宗匠の万歩計は一万五千歩、スナフキンの万歩計は一万六千歩。間を取って、今日の歩行数は一万五千五百歩と決めた。十キロ弱というところだろう。「私の万歩計は何歩かな。」ダンディは最初に五キロも余計に歩いているのだから参考にしない。
     隊長はここで解散を宣言する。「素敵なコースでした。」若女将が隊長に挨拶する。今日のコースはホントに良かった。ロダンの言うように、このところ少し鬱屈していた気分が晴れた。池袋行の電車が待っているので急いで改札を通って乗り込んだ。
     次月はあんみつ姫が松戸案内してくれるらしい。「エッ、そうなの。」「なんだい。知らなかったのか。資料を印刷してきたって言ったじゃないか。」よく見ていなかった。それにしてもあんみつ姫は日光御成街道もあるのだから大変だ。白岡在住のオカチャンは日光御成街道にも参加したいと表明した。
     西武球場駅から所沢までこんなに近いとは思わなかった。ここで降りて反省会に向かうのは十一人、久しぶりにカズちゃんも参加する。「一人だとイヤだけど、マリちゃんが行くっていうから。」ここは彼女の地元と言っても良いくらいの場所だ。ハコさんは町内の寄合、画伯はカラオケの会があって反省会には参加できない。
     所沢の駅が改修されてから、どうも方向感覚が狂ってしまう。「こっちですよね。」「たぶん、そうだと思う。」目指すのは百味だ。しかし商店街に入っても感覚が違う。「なんだか新しくなったんじゃないだろうか。」綺麗になったような気がする。

     「ここだ、あったよ。」百味に着いて、十一人と叫ぶと少し待たされる。まだ四時だが、こんな時間でも店は結構混んでいる。レジ前で待っているので、後続部分はまだ入り口前の階段の途中だ。スナフキンは待つのが嫌いで、階段の後ろの方でスマホで別の店を探しているのが分かる。別の店を探し当てたようなスナフキンと眼があった途端、「どうぞ、そちらの座敷に」と声がかかった。
     最初のビールを飲まないひとはいない。次は焼酎の黒伊佐錦だ。「これが一番安いからね。」しかしヤマチャンは納得いかないような顔をしている。芋焼酎は四種類、全て二千百円となっているからだ。「みんな同じ値段じゃないの。」観察が足りないね。同じ値段でも他は七百二十ミリリットル、これだけが九百ミリリットルなのだ。「そういうことか。」「多すぎませんか。」ロダンは何を言っているのか。一本で足りる訳がない。
     「アッ、オカチャンも焼酎で良かったかな。」確認もせずに、いつもの調子で勝手に注文してしまった。「大丈夫ですよ。」本当は酒の方が好きらしい。「失礼だけど、オカチャンは何年生まれですか。」「団塊ですよ。」私より四歳上であった。
     「ドクトルは今日は飲んでも大丈夫なの?」「医者からは一合程度だったらって言われてる。日本酒一合だとビールどのくらいだい。」「合計で二合飲むことにするよ。」「それじゃ薄い焼酎にしなさい。それをゆっくりと。」
     珍しく鶏の唐揚げ、素揚げのニンニクが出てくるのは、ダンディの注文だろう。「宗匠は鶏はダメだろう。」「私は食べないから。」「蜻蛉はニンニクはダメかい。」「一つ食べたよ。」大昔、炉端焼きの店が流行していた頃は焼いたニンニクは結構食べていた。ホクホクとして柔らかい芋みたいで美味いが、この臭いは妻に怒られる。ドクトルは初めて口にするらしい。
     「待って下さい。いいものがあります。」オカチャンがリュックを探ってガムを取り出す。「これで大丈夫ですよ。」実に用意周到である。「これを.先に食べるのかい。」ドクトルは面白いことを言う。「後で口臭を消すために噛むんですよ。」(ガムが効いたのだろうか。妻は全く気付かなかった。)
     ヤマチャンは里山、江戸歩きのコースをいくつか考えているようで、どの位歩けばよいかと訊いてくる。「六時間位歩けばいいんでしょう。」「終了がこの位になるように。」余り早く終わっては反省会ができないからね。
     オカチャンはダンディの話に真剣に耳を傾け、「そうですね。スゴイですね。本当ですか」と頻りに感動する。私なんか眉に唾つけ、まず疑ってみようという捻くれた根性持ちだから、そんなに素直に感動しない。それにダンディとの付き合いも長くなれば、大抵聞き飽きているしね。
     それにしても、ダンディがニンニクの皮をテーブルの下(畳である)に捨てるのはいけない。「ここにちゃんと捨てて下さいよ。」「中華料理と間違えちゃった。」間違えても畳の上には捨てない。向こう端に座っているロダンと目が合うと、焼酎の瓶を振っている。一本目がなくなったようで、指を一本立てたのが合図になった。言葉は交わさなくても愛は通じる。「同じものでいいだろう。」
     六時にお開きとなる。ひとり二千六百円なり。

    蜻蛉