文字サイズ

    二〇一四年四月二十六日(土) 北小金
      春の麗の松戸散策 PartⅡ

    投稿:   佐藤 眞人 氏     2014.05.05

     旧暦三月二十七日。もう初夏と言って良い陽気だ。つい数週間前に春めいてきたと思ったら、もう春も終わりだ。ここ数年、春は短く過ぎてすぐに夏になってしまう。
     昨年四月に続き、あんみつ姫が案内してくれる松戸周辺の散策は二回目で、今回の集合場所は常磐線北小金駅である。武蔵野線の新松戸駅で降り、常磐線のホームに向かう階段で前を行くスナフキンの後ろ姿が見えた。「初めてのところだから迷っちゃうよ。こっちでいいのか。」「逆だよ。」実は私もはっきり知っているわけではなかったが、適当に答えたのがあっていた。
     乗車時間一分で北小金に着くと、碁聖のコーラス仲間だろうと思われる美女三人が立っているのが目に入った。事前に碁聖から連絡が入っていたのだ。二人は一年振りになるようだがなんとか見覚えがある。「あの時は紐を貰って助かりました」と言うのはタカチャンである。どうしたことか真新しい靴の底がパックリと割れてしまったので、たまたま持っていた予備の靴紐を進呈したからだ。「今日は大丈夫なの?」「大丈夫ですよ。」クラチャンは豹柄のパンツが若々しい。ヤスチャンは初参加だ。
     ヤスチャンの苗字は珍しいもので(個人情報なので、ここで明らかにする訳にはいかないのだが)、是非とも産地を訊かなければならない。「主人は群馬のクニムラです。」「国村?」「六合ですよ。」「そうか、知ってるよ。」ヤマチャンも知っている村だ。村の名前は小雨、赤岩、生須、太子(おおし)、日影、入山の六ケ村の合併によるのだが、これだけでは六合をクニと読む理由は分からないだろう。天地東西南北の六方向を支配するのがクニである。ウィキペディアから典拠を示しておこう。

     古事記上巻序文に「乾符を握って六合を総べ」、日本書紀の神武天皇即位のくだりに「六合を兼ねて以って都を開き」とあり、「六合」とは天地と東西南北、すなわち支配の及ぶ範囲「国」を表すことから、「六合」を「くに」と読んでいる。

     三人の「美女」が集まったのに、誘ってくれた碁聖は身内に不幸があって参加できなくなってしまった。オカチャンは途中で事故があったらしい。「地下鉄の中で電話を受けたんですけど、良く聞き取れなかったんですよ。」大したことでなければ良いのだが。ロダンは仕事が忙しそうだ。桃太郎は北アルプスに行っている。
     今日のリーダーのあんみつ姫、椿姫、ヨシミチャン、ハイジ、カズチャン、マリー、タカチャン、クラチャン、ヤスチャン、隊長、画伯、宗匠、ハコサン、スナフキン、ダンディ、ドクトル、ヤマチャン、蜻蛉。「何人ですか。」「十七人。」「おかしい、十八人いますよ。」また数え間違えてしまった。椿姫とヨシミチャンは弁当を持ってこなかったと言う。「コンビニがあるかしら?」「途中にオリジン弁当があるので大丈夫です。」姫はこういうことも事前に調査してある。
     今日のコースは駅を挟んで北と南に分かれている。南口に出ると、駅前ロータリーには「小金牧」「三跡の光」「小金宿」の三つの文字を彫り込んだオブジェが並んでいた。しかし小金牧と小金宿にはちゃんと説明が記されているのに、真ん中の「三跡の光」には何もない、裏に回ってみると、そこが表になるようで「小金城」とその説明が書かれていた。こういう.作り方は分かり難いが、つまり牧と宿と城が三跡ということだった。
     小金城址は後で行くことになるので、まず小金牧について前回調べたことを復習しておきたい。北総のこの周辺は古代から米作や畑作に適さず、軍馬の生産地として有名だった。生産地と言っても、広大な土地に野生の馬が生息しているだけのものだ。平将門の軍事力の背景にはこの牧の馬があった。牧をきちんと管理するようになったのは江戸時代に入ってからだ。南は鎌ヶ谷・船橋・八千代・習志野・千葉にまたがる下野牧から、中野牧(松戸・柏・鎌ヶ谷・白井)、上野牧(柏・流山)、高田台牧(十余二)、荘内牧(野田)まで、南北に細長い五つの牧を小金五牧と称したのは享保の頃のようだ。小金原とも呼ぶ。

     母馬が番して呑ます清水かな  一茶

     馬橋、流山は一茶の第二の故郷である。牧の管理に当たった牧士頭(享保以後は野馬奉行と改称)には代々綿貫氏が任ぜられた。その墓所も今日のコースに入っている。ところで駅名の「北小金」は歴史的にはない地名で、小金原の北部に位置することから採用された。
     駅前はイオンの大きな建物が占領している。千代田線が直通するようになってから北小金も発展したのだろう。かつては松戸市内を通る常磐線の五駅の中で乗降客は最下位だったが、今では松戸、新松戸に次いで第三位となった。
     北小金駅交差点の角に来ると、「平賀・本土寺道 是ヨリ八丁」の道標が立っていた。側面には「文化五(一八〇八)戊辰年三月吉祥日」とある。平賀は地名だ。本土寺には今日の最後に行くことになっているが、ここから参道が始まっていたらしい。「右水戸道中」側面に「左ながれ山道」とある道標と、並んでいるもう一本の道標は「右水戸海道」「明和」の年号だけが読めた。「海道って書くんだね。」その隣には大きな「小金鎮守 八坂神社御跡」の石柱も立っている。
     「八坂神社って京都のですか?」クラチャンから声がかかり、ダンディがそうだと説明している。元々は牛頭天皇、スサノオを祀ったもので、明治の神仏分離によって八坂神社と改名させられた。その「御跡」と言うなら移転したのである。神社は土地の守り神であり、移転してしまうと土地の精霊はどうなってしまうのだろうか。
     旧水戸街道と国道六号線との関係がよく分からないので調べてみた。もう少し南で国道六号線から分岐して一月寺(虚無僧寺)を通って北上してきた水戸街道が、ここで大きく東に曲がって柏を経由して我孫子に向かう。不思議な街道であるが、この曲がり角からまっすぐ北上していた本土寺参道も、鉄道敷設によって分断された。更に駅前再開発は神社にも移転を強要したのである。

     小金宿緑の風が吹き抜ける    午角

     信号を渡ると南側のビルの前には高札場のように作った小金宿の案内が立っていた。「先月下見で歩いた時はまだ建築中でした」と姫が言う通り、真新しいものだ。松戸市はこれから歴史観光に力を入れるのだろう。小金宿は松戸宿から一里二十八町(約七キロ)、次の安孫子宿へは二里二十一町(約十キロ)に位置した。

     寛政元年(一七八九)の記録によると小金宿は本陣一・脇本陣一・家数百六十九軒とあり、本来の本陣(大塚家)とは別に小金御殿とも称される水戸藩専用の本陣(日暮家)が置かれた。http://tomozoaruku.blog89.fc2.com/blog-entry-558.html

     家数百六十九軒は宿場としては小さな規模だが、近くに水戸藩の鷹場があって、結構繁盛していたようだ。しかし先日スナフキに連れられて生麦に行き、そこが人口千六百人以上、家数二百八十軒と聞いたばかりだ。寒村とばかり思っていた生麦がその規模なのだから、小金宿はやはり小さいと言って良いだろう。
     水戸街道を少し南下すると、右手に東漸寺がある。浄土宗。松戸市小金三五九番地一。今日は縁日のようで、長い参道には露店が隙間もなく並んでいる。この時間ではまだ準備中の店も多いが、既にたこ焼きやお好み焼きの匂いが漂ってきて、子供が数人露店に立ち止っている。もう仕度が済んだのか、腰を下ろして煙草を吸うオジサンが目立つのは縁日ならではの光景だ。実は昨日から明日まで、御忌まつりの最中だった。御忌とは法然上人の忌日法要である。

     御忌まつり煙漂ふ露天商  蜻蛉

     「御忌って何と読むのかな。」案内版に「ギョキ」とルビを振ってある。法然は建暦二年(一二一二)一月二十五日に死んだから、今の時期に法要をするのは不思議なことだ。知恩院の案内を見ておかなければならない。

     もともと「御忌」という言葉は天皇や皇后の忌日法要を指していましたが、大永四年(一五二四年)当時の天皇である後柏原天皇より「知恩院にて法然上人の御忌を勤めよ」という「大永の御忌鳳詔」が出されました。これより法然上人の忌日法要を「御忌」と呼ぶようになりました。
     当初は一月に勤められていましたが、明治十年から四月に勤められるようになり、四月十八日午後から二十五日午前中までの八日間、日中・逮夜の各法要が勤められます。
     http://www.chion-in.or.jp/03_gyoji/tei/gyok.html

     四月に変更されたというのは分かったが、それが何故なのかという事情は分からない。ここで知恩院のHPを見たのは、ダンディの言う通り浄土宗の総本山だからだ。「大本山はいっぱいあるよ。」増上寺は大本山である。これは元和元年(一六一五)の寺院諸法度に基づき浄土宗法度が制定されて以来の定めだ。今年は法然死後八百三年目ということになる。
     「綿飴があるぜ。いくらだと思う。」団地の夏祭りでは百円で売った。「それじゃ商売にならない、これで食っていくんだからもっと高いよ。」「うまく作るのが難しいんだよね。」一袋が五百円である。

     東漸寺は浄土宗の僧、経譽愚底運公上人により文明十三年(一四八一)に根木内に創建され、十六世紀の中頃には現在の場所へ移ったと考えられています。小金城は十六世紀の東葛飾地域の政治的な中心で、この城に高城氏が定着した時期と一致します。東漸寺もまた高城氏とともに発展しました。
     江戸時代には、関東十八檀林という浄土宗学問所の一つとなりますが、その背景には第十七世住職、照誉了学の存在がありました。了学は滅亡した高城氏の出身ですが、徳川家康の授戒師を務め、二代将軍徳川秀忠にも信任が厚く、秀忠の葬儀では大導師を務めたほどです。(松戸市教育委員会の解説板より)

     了学は高城胤吉の三男で俗名を胤知と言う。後に増上寺十七世管主となって、徳川家の信頼を集めたのである。「胤」の字があるから、高城氏は千葉氏の流れだろうと推測できる。
     寺のHPをみれば、「享保七年(一七二二)には本堂、方丈、経蔵(観音堂)、鐘楼、開山堂、正定院、東照宮、鎮守社、山門、大門その他八つの学寮など、二十数カ所もの堂宇を擁し、末寺三十五カ寺を数え」たらしい。今では何もないが、この長い参道の両脇にはそれらの建物が並んでいたのだろう。
     最初に黒い総門を潜る。手前左に勅願所の石碑が立っているようだが、空き地は全て露店に占領されているから見ることができない。参道は長い。やがて大きな楼門に到達したが、見上げると不思議なことに山号の扁額が読めない。「なんて書いてるのかな。」「佛法山ですよ。」姫の案内にも仏法山と記されているが違うのではないか。「読める?」と宗匠にも声をかけたが、この時点では分からない。「明史何請甫書」の署名があるが、別の呼び方があったのだろうか。
     しかしいろいろ探っていくと、真ん中の文字は「灋」(サンズイ+𢊁+去)であり、「法」の本字であった。それならやはり佛法山だろうか。最初の文字は「價」の「貝」を「園」か「圓」に変えたように見えるが、調べがつかない。ただ、法と山がある以上、この三文字は佛法山を中国風に書いたものと考えなければいけない。
     楼門の二階部分は五色の幕で覆われていて、釈迦如来、薬師如来、不動明王像が安置されているらしい。かなり立派な仁王像の裏側には、白い石で彫られた犬と獅子とが対になって置かれている。獅子は阿、犬は吽だ。「角のあるほうが犬ですよね。」姫はちゃんと覚えていて、ヤスチャンに説明している。「初めて見る」なんて言う人は、芝神明宮のものを一緒に見ているのを忘れているのだ。角の代わりに宝珠を載せたのが獅子だ。「あら、そうなの。狛犬って言うからみんな犬かと思ってたわ。」クラチャンの反応は自然かも知れない。私だって芝神明宮で見るまで知らなかった。「唐獅子っていうのもあるでしょう。」
     元々エジプトの神殿を守護するライオンだったという。ライオンを知らない日本人は、朝鮮半島経由でやってきた獅子を犬だと思い込んだのだろう。その犬に角がある理由はよくわからないが、神獣として一角獣を想像したものだろうか。

     一般的に、獅子・狛犬は向かって右側の獅子像が「阿形」で口を開いており、左側の狛犬像が「吽形」で口を閉じ、古くは角を持っていた。鎌倉時代後期以降になると様式が簡略化されたものが出現しはじめ、昭和時代以降に作られた物は左右ともに角が無い物が多く、口の開き方以外に外見上の差異がなくなっている。これらは本来「獅子」と呼ぶべきものであるが、今日では両方の像を合わせて「狛犬」と称することが多い。(ウィキペディア「狛犬」より)

     次の門が中雀門と呼ばれる。やっと境内に入ったわけで、すぐに目につくのが「明治維新の志士竹内廉之助と哲次郎兄弟」の二つの大きな石碑だ。兄弟で天狗党の加波山挙兵に参加し、弟の哲次郎は傷を受けて自刃した。廉之助は捕虜となったものの後に赤報隊幹部になり、偽官軍の烙印を押されて碓氷峠で戦死した。赤報隊の歴史に金原忠蔵として登場するのがこの人物である。
     赤報隊に関しては今でもよく分からない部分があるが、私は西郷の謀略が働いていたのではないかと疑っている。維新成立後の西郷の不可解な行動は、実は己の過去の所業に対する深い嫌悪感と反省が原因しているのではないか。西郷隆盛を人格者のように思う人がいるかも知れないが、薩摩藩邸によった浪士を使って江戸の破壊工作を行ったのは、明らかに西郷の指示である。権謀術数の人物であったと私は考えている。
     本堂にかけられた紫の幕には菊花紋と三つ葉葵紋が描かれている。浄土宗は江戸時代には幕府と朝廷と双方から保護受けていた。そこに、中学生か高校生かに見えるミニスカートの女の子二人が、きちんと賽銭を入れて手を合わせている。珍しい光景だ。
     この寺では枝垂桜が有名だというが、この季節では花は見られない。檀家の人かダイコクさんか、ご婦人が何やら一所懸命説明してくれているが、私は聞かなくても良い。「あの正面は法然上人ですか?」浄土宗の本尊だから阿弥陀如来に決まっている。ただ須弥壇はずいぶん奥だから、よく見えない。「こっちの観音堂の方がきれいに見えるよ。」画伯の言葉で、左の観音堂を覗いてみると、金色の聖観音が眩しい。
     「それじゃ戻りましょう。トイレがありますからね」また長い参道を戻ると、トイレのそばに白い花が咲いている。「これって何だろう。」「花弁は何枚?」と宗匠が訊いてくるので四枚と答える。「ヤマブキじゃないよな。」隣には鮮やかな黄色の山吹が咲いている。これは五弁花だ。悩んでいると「シロヤマブキよ」とハイジがあっさり答えた。ヤマブキはバラ科ヤマブキ属、シロヤマブキはバラ科シロヤマブキ属である。私は初めて見た。

     白山吹露店の並ぶ参道に  蜻蛉

     「このヤマブキは八重じゃないのね。」タカチャン、ヤスチャンが不思議そうに話していると、隊長が「八重のヤマブキは雄蕊が花弁に変化したんだ。だから実がならない」と答えている。そうだったのか。花粉ができないから実がならないのだ。
     少し脱線するが(私の作文は脱線だらけだ)、つい最近、三十代後半の図書館スタッフが、母親に聞いたという山吹伝説を語ってくれた。通勤路にモッコウバラを見て、これが山吹かと質問した女性だ。「小さい頃、母親が教えてくれたんですよ。傘がなくて困っていたところを、山吹を差し出して、笠の代わりにするんだよって娘さんが言ったんです。日本の伝説ですかね。」「それじゃオチがないね。」道灌の山吹伝説もこんな風になってしまうのだろうか。「これは太田道灌の説話だろうね。」「母親の創作だったんでしょうか?私はずっと信じてました。」
     「これ何だ?」寺を出てすぐに、民家の郵便受けに貼られた「松本清資料館」の小さな文字をスナフキンが目敏く見つけた。「松本清張じゃないよな。」松本清張がこんなところに関係していたとは私の知識にはない。「マツキヨですよ」と姫が笑いながら答える。「マツキヨは松戸の出身ですからね。」
     確かに松本清の資料館だったようだ。東葛飾郡湖北村(現我孫子市)に生まれ、丁稚奉公から始めてドラグストア「マツモトキヨシ」を創業した立志伝中の人物である。経営の傍ら千葉県議会議長、松戸市長を歴任し、松戸市長時代には「すぐやる課」を設置して全国に名を馳せた。しかし市長二期目の在職中に、心不全ため六十四歳で死んだ。
     「きよしケ丘だ。」住所表示が小金きよしケ丘になっている。「こんなところに自分の名前を付けるかな。」松本清に因んだ町名で、ほかに小金清志町があり、清ケ丘小金公園もある。この辺では大変な偉人なのだろう。
     もう一度駅前交差点まで戻り、信号を渡って右に行く。一幅は狭いが、これが水戸街道だ。「そこにオリジン弁当があります。お弁当を持っていない方はどうぞ。」ヨシミチャンと椿姫のために、あんみつ姫は立ち止まる。「アレッ、椿姫はいませんか。」「さっきまではいたよね。」「いた。」信号を渡る前には確かに話をしていた記憶がある。姫が人数を数えるとやはり一人足りない。
     またダンディと二人で別行動に走ったのではないか。私は一瞬疑ったが、ダンディはここにいる。おかしいな。これは失踪事件である。「携帯にかけて下さいよ。」彼女の番号を知っているのはダンディだけだ。「最近ようやく教えてもらった」と言いながらダンディが電話をするが出てこない。「ボクが行ってくる」と隊長が救出に向かった。そんな騒ぎは知らない風に、椿姫の相棒のヨシミチャンは弁当屋に入って行く。

     春惜しむ水戸街道で失踪す  蜻蛉

     前の道は狭いので、右側通行をしていた自転車のオヤジが邪魔だと罵って通り過ぎるから、珍しくダンディが反応する。「交通違反じゃないか。」右側通行は道路交通法で禁止されたのである。「即罰金っていうことはないでしょう?」ヤマチャンは警察に不信感を抱いているようだ。「隠れていて取り締まりする。やり方がキタナイヨ。」それにしても私たちが歩行者の邪魔になることも確かなので、すぐ脇の駐車場に引っ込んだ。ヨシミチャンはなかなか出てこない。「注文生産だから時間がかかるんだ。」
     「すみません。」やっと椿姫が隊長に付き添われて現れた。「みんなについて行ったらイオンに入っちゃったんですよ。」みんなは右に曲がったのだが。それにしても隊長はよく発見したものだ。「早くしてください。」「お弁当は持ってるのよ。」「それじゃ足りないから買いたいんでしょう。」理由は全く分からないが、ダンディも一緒に弁当屋に入っていった。「それじゃ先に行ってましょう。一本道ですから、だれか残っててくださいね。」姫は出発する。
     私が残ろうかと思ったが、隊長が残ってくれたのでゆっくり歩きだす。今日はリーダーではないが、これが隊長の責任感である。やがてビニール袋をぶら下げた三人も追いついた。小金交番の前では、警官が振り込め詐欺への注意を喚起するチラシを手渡してくれた。私たちの人相を見て配っているのだろうか。「われわれ年寄り向けだね」と言うと、警官は椿姫の顔を見て苦笑いする。私は貰っても仕方がないので前を歩いていたカズチャンに進呈する。「年寄りは注意しろってさ。」「イヤねえ。」「私も引っかかりそうになったの」とクラチャンは言うし、我が家にも息子の名を騙る電話がかかってきたことがある。
     ずいぶん背の高いモッコウバラを植える民家が並ぶ。国道を渡って根木内歴史公園城址口に辿り着いた。やや上り加減の坂の奥は森になっているようだ。「これって何て読むんですか。」「ネギナイかな。」姫の資料に「ネギウチ」とフリガナを振ってある。「根木内の由来はなんですか。」画伯は私に向かって訊くが、知っている筈がない。

     寛正三年(一四六二)高城胤忠の築城とされるが(『高城家文書』『日本城郭大系』)、永正五年(一五〇八)高城胤吉の築城とする伝承もある(『小金城主高城家之由来』、ただし、同書の記述の前後関係から大永五年(一五二五)の誤記とする説もある)。栗ケ沢城に代わる高城氏の拠点として機能し、天文六年(一五三七)小金城を築いて移るまで、同氏の本拠であった。(ウィキペディア「根木内城」より)

     道端の花を見て「ハナニラかしら」というクラチャンの声が聞こえた。私もそうだと思って「ハナニラだね」と言ったが、「違います。これはアマナですよ」と椿姫から訂正が入った。「ここが違うんですよ。」その何が違うのかは聞き漏らした。ハナニラは別名セイヨウアマナとも言われるようで、似ていてもおかしくない。しかしウィキペディアの「花の見かけはごく小さなチューリップそのものである」という記述とは全く異なって六弁の花が全開している。ネットでいろいろ検索してみたが、私にはアマナとハナニラの区別ができないと分かった。
     「食べられるんですよ。」「食べられるものなら詳しいのよね」とヨシミちゃんが笑っている。ウィキペディアによれば、「食用にされたこともあるが、現在では利用されない。また、山茲姑(さんじこう)の名で薬用とされることもあるらしい。滋養強壮の効果があるとのこと」と書いてある。
     突き当たった所で、犬を連れた女性に出会った。犬の首にはメガホンのようなものが嵌められている。これは最近流行りの飾りであろうか。「傷口を甞めないようにしてるんですよ。」「エリザベス・カラーね。」クラチャンの発言に、「発音が違う、英語ではこうですよ」とダンディのクレームが入るが、こんなことは聞く必要がない。この名称を初めて知ったが、エリザベス朝時代の襞襟に由来するらしい。
     雑木林の中で、椿姫は土を掬って何やら地質を考えている。ドクトルもそれに付き合っているが、ロダンがいれば一緒になって悩んでいただろう。隊長は桐の木を教える。城西大学へ行く途中に大きな桐の木があるが、花が咲かないと私は判別がつかない。

     新芽吹き緑恋しい八十路なり   午角
     はるうららそれぞれの道語り合ひ  閑舟

     空堀を渡って芝生広場に出て小休止をとる。かなりの高台に広く面積をとっているのは、本丸のあった場所だろうか。「あんまり城らしくないな。」一般の人が城と言われてイメージするのは石垣や天守閣だろう。あんなものは相当広範囲な支配権が確立して、強大な経済力を持つ頃にならなければ実現しないので、中世の多くの城はこんなものである。ただ、中世の平山城というやつは確かに素人には分かりにくい。千田嘉博『戦国の城を歩く』という本もあるが、私は結局理解できなかった。こういうものを専門に探索して歩くグループもあって、大学時代のゼミの同級生が参加している。
     モクレンが咲き残る。「まだ残ってるのね。」公園と隣の民家との境にはモッコウバラ。この花は最近の流行のようだ。
     掲示してある航空写真を見て、ドクトルが「裏返ってるから、これじゃ分からないよ」と文句をつける。航空写真は凹凸が逆になるようで、
    森の部分が沈み込んでいるように見えるのだ。これは初めて知った。
     根木内稲荷神社の三十番神という掲示物もある。確か日蓮宗に関係するんじゃなかったかな。念のためにウィキペディアを見てみよう。

     三十番神は、神仏習合の信仰で、毎日交替で国家や国民などを守護するとされた三十柱の神々のことである。太陰太陽暦では月の日数は二十九日か三十日である。
     最澄(伝教大師)が比叡山に祀ったのが最初とされ、鎌倉時代には盛んに信仰されるようになった。中世以降は特に日蓮宗・法華宗(法華神道)で重視され、法華経守護の神(諸天善神)とされた。これは、京都に日蓮宗を布教しようとした日像が、布教のために比叡山の三十番神を取り入れたためである。また、吉田神道も天台宗・日蓮宗とは別の三十番神として「天地擁護の三十番神」「王城守護の三十番神」「吾国守護の三十番神」などを唱えた。吉田兼倶は三十番神信仰が吉田神道から発すると主張した。

     流儀によって、祀る神の名前や順番が微妙に異なっているようだが、ここでは「日蓮聖人流」として三十柱を記述している。一日が天照大神で、三十日の貴船大明神で終わる。
     休憩を終わって下に降りると湿地帯が広がっていて、木道が通してある。その木道でさっきの不細工なメガホン犬に再会した。細い木道ですれ違うと、女性が苦笑いするのはどうしてだろう。「あれはなんだろう」スナフキンの疑問をハイジは樹木と取り違えたようで、返事がトンチンカンになってしまった。「そうじゃなくて。」スナフキンの質問は、水から延びる草のことだった。「葦じゃないわね。」
     菖蒲園の花はまだ季節にならない。小さな小川(池?)で何かを釣っているのはザリガニ釣りだろう。」「スルメを餌にするのよね。孫と一緒にやったわ。」クラチャンはいろんなことをしている。藤棚から薄紫の短いフジが垂れている。
     公園の外周を一回りしたようで、またさっきの道を駅方面に向かう。「公園でお昼にしましょう。」すぐに左に逸れると清ケ丘小金公園だ。この公園も松本清を名に負っている。
     「ここでお昼にします。出発は十二時三十分でお願いします。」今は十一時五十分だ。紅白のハナミズキが満開だ。「日陰を選んで座るのも久しぶりだね」とハコサンが感に堪えたように呟く。暑くなってきたのだ。皆さんから様々な差し入れがくる。「甘いものはいらないですよね。」あんみつ姫はホームパンとかいう知らないものを出してくれるが、「いらないですよね」と私の前は素通りして行く。マリーは煎餅、椿姫は飴、画伯はチョコレート。私は煎餅だけを戴く。何度も言っているが、私は甘いものは食べない。煎餅は大歓迎だ。これだけ言っておけば、次回は煎餅が大量に回されてくるだろう。飯を食い終わると眠くなってくる。
     出発前に隊長から、保険は掛けていないので各自充分注意するようにと訓示があった。初めて出会ってから十年以上経ち、私たちもそれぞれ年を取った。失踪は論外だが、怪我には充分気を付けなければいけない。歩き始めてすぐに背の低い藤棚を見つけた。「見事なフジだね。」背は低いが充分に広がり、房も長く垂れている。「さっきの公園のはあんまり垂れてなかったね。」
     イオンに入ってトイレ休憩を取る。先に外に出たが喫煙所はない。隅の一角に灰皿は置いてあるのだが、「禁煙」の張り紙がしてあるのだ。それなら灰皿は置かないでもらいたい。駅を突き抜けて北口に出る。線路沿いに西に向かっていると、「ここは歩いたところだ」とダンディが言い出した。「去年は歩いてませんよ。」「そうじゃなくて、今朝、新松戸から歩いてきたんだ。」先月は秋津から武蔵大和まで五キロも歩いてきたし、ダンディは意地になっているのではあるまいか。
     「これはムベですね。」言われると微かに記憶がある。「アケビじゃないのかしら。」「違う、これはムベだね。」隊長の鑑定は絶対だ。アケビの花弁は三枚、ムベは細長い筒の根元から五裂か六裂しているようだ。ムベもアケビ科だが、花が違うし実もアケビのように裂けない。

     次は慶林寺だ。松戸市殿平賀二〇九番地二。熊耳山、曹洞宗。「熊はユウって読むのね。」椿姫は能の『熊野』(ユヤ)を思い出したが、私は熊掌(ユウショウ)を連想した。姫が下見に訪れた際には河津桜が満開だったらしい。永禄八年(一五六五)、小金城主であった高城胤吉の病没後、その夫人が出家して桂林尼を名乗って庵を開いたのが始まりである。桂林尼は千葉介昌胤の妹だから、千葉氏と高城氏との関係の深さが思われる。
     さっきは千葉氏の流れかと考えたが、実は高城氏の出自ははっきりしない。藤原氏二階堂流(藤原南家・武智慧麿の裔)と称するもの、千葉氏庶流の原氏の流れとするものなどが混在している。江戸時代になって子孫によって系図は飾られたから、今となっては正確なことは分からない。千葉氏の家老格であった原氏の家臣であったことは間違いないようだ。
     参道に咲いているのはカジイチゴだと隊長が教えてくれる。「食べられるの?」「食べられるよ。」棘がないらしい。最近、城西大学に向かう神社の脇にはクサイチゴが目立つようになってきた。同じような白い花だ。シャガが群れ咲いている。
     キキョウに似た五角形の紫の花が気になった。しかしこの季節にキキョウである筈がない。「ツルニチニチソウだよ。」よく見ると、五弁の切れ込みがキキョウより深い。境内に入ると左の地蔵堂には六地蔵が並んでいる。「あっ、鐘を撞いてもいいんだね」と画伯が本堂前の鐘に向かった。鉄パイプで小さな櫓を組んで、鐘を吊るしている。
     本堂の扉には五七桐紋と、桔梗を五つ配した紋が取り付けられていた。「ずいぶん曹洞宗を強調しているな。」柱に大きく「曹洞宗」と書かれた札がかけられているのだ。姫に案内されて墓所に向かっていると、鐘を撞く音が聞こえた。「いいんですか、音を出しても。」姫は心配する。「撞いてもいいって書いてた。」「それならよかったですけど。」月菴桂林大姉と彫られた墓石には花も供えられている。

    月菴珪林尼は、小金大谷口城を築いた高城胤吉の妻で十三代千葉介昌胤の妹にあたり胤吉の死後(永禄八年一五六五年二月十二日)剃髪して月菴珪林尼と称し、鹿島神霊の辺に庵を結んだ。そして胤吉の没した翌月の三月十二日に永眠した。その子従五位下野守小金城主胤辰は、珪林尼追幅のために同所に慶(桂)林寺を建立した。
    なお、現在ある月菴珪林尼の墓石は享保十五年(一七二〇年)に子孫といわれる高城清右衛門が建てたもので、その銘に「胤辰の妻」とあるは誤りである。(松戸市教育委員会掲示より)

     綿貫夏右衛門の墓の標柱が立っているが、どれがそれなのか。一族の墓の真ん中にある元禄の年号が見られるものだろうか。しかしそんな穿鑿は意味がなかった。綿貫氏は代々、重右衛門、夏右衛門を世襲しているので、どれか特定できるものではなかったようだ。「どういう人だい?」「その標柱に書いてある。」
     慶長年間、綿貫重右衛門が徳川家康によって野馬奉行に任じられたとされていたが、野馬奉行の役職は享保の頃に始まるようだから、牧士の頭に任じられたということだろう。綿貫氏は千葉氏の流れとされていて、高城氏とも縁がある。高城氏の東葛飾地域の支配と歩を合わせて、戦国時代から牧の管理に携わっていたのだろう。 

     寺を出たところで、ホウの実について隊長の講釈が始まる。「これはさっきのムベかしら」と椿姫が足を止めたが、ちょっと違うらしい。私には区別がつかない。スナフキンがスマホを様々に検索しているが、なかなか回答がみつからないようだ。長くなりそうなので先に行くことにするが、あんみつ姫を先頭にしたグループの姿が既に見えない。「ここかな。」右に曲がる丁字路で前方を眺めると少し先で立ち止まっている。
     「まだ悩んでるよ。」漸く追いついてきたスナフキンに調査結果を訊くと結局分からなかったようだ。「隊長からも、いろんなことを検索しろって言われるからさ。時間がかかった。」そして椿姫と隊長がゆっくりやって来た。「走って」とドクトルから声がかかる。
     崖に階段が取り付けられているのが小金城の達磨口だ。上は行き止まりになっていると姫が言うので、ちょっと見ただけで素通りする。比高二十メートルほどの広大な台地に、大手口、達磨口、金杉口、大谷口の四ケ所の虎口があって、達磨口の高所には、殿平賀に通じる回転式の木橋が架けられていたそうだ。その広大な台地も切り刻まれて宅地化しているから、全貌はなかなかイメージできない。
     崖に沿って歩いていると後ろから声がかかった。地元の人らしい女性に宗匠たちが何か教えてもらっているようだ。「何なの?」「キンランよ。」達磨口のすぐそばの斜面に、二株だけ、黄色の花が咲いていた。これがキンランか。金襴緞子ではなく金蘭である。初めて見た。

     城跡や生き残りたる蘭ふたつ  蜻蛉

     「珍しいんですか。」「珍しいよ」と隊長も断言する。「さっさと通り過ぎるから教えてあげようと思って。」奇特なひとである。「昔はもっとあったんだけど、採られちゃうんだよね。」
     「ギンランはないかしら。」椿姫はわがままを言う。キンランを見ただけで満足できないのだ。「それは見たことないわね」と地元のご婦人が首を捻る。

     元々、日本ではありふれた和ランの一種であったが、一九九〇年代ころから急激に数を減らし、一九九七年に絶滅危惧Ⅱ類(VU)(環境省レッドリスト)として掲載された。また、各地の都府県のレッドデータブックでも指定されている。
     同属の白花のギンラン(学名:C. erecta)も同じような場所で同時期に開花するが、近年は雑木林の放置による遷移の進行や開発、それに野生ランブームにかかわる乱獲などによってどちらも減少しているので、並んで咲いているのを見る機会も減りつつある。(ウィキペディア「キンラン」より)

     農家の庭先で、野菜を扉が透明なコインロッカーに入れて売っているのを見つけた。「最近よくあるよ」と言われるが私は初めて見た。一律百円で、ロッカーにはそれぞれキャベツ一個、玉ねぎの袋、じゃがいも、ホウレンソウなどが収められている。「キャベツが安いわよ、昨日はスーパーで百四十円だった」とヨシミチャンが笑う。「でも持って帰れないものね。」
     突き当りの遠矢山普門寺大勝院には入ることができない。松戸市大谷口一四五番地。山門脇の入り口は開いているのだが、境内に入るには事前許可が必要らしい。豊山派の寺だが、おかしなことをする。ここは小金城の鬼門の郭に当るようだ。
     「これ珍しいよ」と宗匠が指差したのが、双体道祖神を現代の子供風にデザインした道標だ。右は「ようちえん」、左は「歴史こうえん」である。こういうものは時々見かける。「じゃ、これは珍しいんじゃないの。」山門の塀に取り付けられた縦横一メートル程の石垣の上に、一回り大きな石を載せ、その二面に観音の顔だけを三つづつ浮き彫りにしているのだ。合計六面だから、六観音を表しているのだろうか。これは確かに珍しいと思う。
     回り込んで金杉口から大谷口歴史公園に入る。木の柵を通って山道の階段を上る。城の規模は東西八百五十メートル、南北六百五十メートルという。「ざっと五十五ヘクタールか。」慎重に考えていたハコさんが断定する。「それってどのくらいの広さなの?」東京ドームの建築面積が約四・七ヘクタールだから、十一個以上ということになる。東京ディズニーランドが五十一ヘクタールだから、それより広い。かなり広大な城であった。
     畝堀、障子堀を一部復元した場所もあるが、案内板の写真と実際は違っていて、畝も障子もイメージできない。畝堀は文字通り、堀の長さに直行するように粘土の畝を作ったものだというが、砂に覆われてしまって、滑りやすかったかどうかも分からない。障子堀というのは衝立のように、堀を区切ったものらしいが、これも残っていない。
     小田原落城に伴って高城氏が滅亡した後、家康の五男の武田信吉が城主になった。母親が甲斐武田の家臣・秋山虎康の娘だった縁で、武田氏の名跡を襲ったのである。「秀忠と五歳ほども違うかな?」「もっと離れてるんじゃないですか。」しかしハコさんは正解に近かった。信吉は秀忠の四歳下になる。「関ケ原の時も江戸の留守居役だった。生来病弱だったから早く死んだ。」それにしてもハコサンはよく知っている。調べてみると享年二十一歳だ。
     この地区はかなり起伏があったから、みんな草臥れたようにベンチに座り込んで動かない。座り込んでしまうと却って疲れるんじゃないか。「それじゃ出発しましょうか。」座り込んでいた人たちは畝堀も障子堀も見ずに歩き出す。

     下に降りると、フェンスで仕切られた空き地に大きな石碑が建っていた。「何だろう。」「土地改良の記念碑ですよ。見たいですか。」取り敢えず寄ってみた。「大金平」千葉県議会議員・松本清書であった。

     この地は東京を隔てること僅か二十五粁の近くにありながら、道らしきものもなく耕地も昔ながらの不整形のままにて近代農業を取り入れるには極めて不適であり、殊に近年の農村の労働力不足は田を次第に荒田と化しつつあったのである。(以下略)

     長い文章を全部読み取る気力はないが、要するに未開拓だったこの地を開墾した記念碑である。総面積十一万坪(三十六ヘクタール)を、土地所有者がそれぞれ十五パーセント供出して共用地や土地改良費用に充てた。碑文は中金杉の田島允一、昭和四十三年十一月吉日の日付を持っている。田島允一は大谷口神明社の宮司だったらしい。
     「この辺は、小金、大金、中金って、金ばっかりだ。」住所表示は中金杉だ。「ナカカネじゃなくて、ナカ・カネスギだよ。」次は金龍山廣徳寺、曹洞宗である。松戸市中金杉四丁目三番。寛正三年(一四六二)、高城胤忠の開基とされている。胤忠は高城氏の祖とされているが、小金城を築いた胤吉以前の系図ははっきりしていない。
     墓地の隅を高台にして、そこに高城家の墓所が作られている。正面の墓石の表面は風化が酷くて読み難い。「これはコシ(越)、これは前でしょう。」クラチャンが判読を試みる。「それなら越前だね。」「そうよね。」
     三人の名前が併記されているようだが、右端は全く読めず、真ん中が「高城治部」、そして左端の高城越前だけが分かった。側面に彫られているように、御持筒頭の高城清右衛門胤親によって天保十年四月に建てられたものである。さっきの月菴珪林尼の墓石を建立したのも清右衛門だが、百年以上隔たっているので同一人物ではない。
     御持筒頭とは『大辞林』によれば、「鉄砲隊の長で、御持筒与力・御持筒同心を率いて、将軍を護衛する。平時は城内中仕切門を警固する。千五百石高で三人置かれていた。」高城胤則が小田原籠城に参加して所領を失って後、胤則の遺児である胤重が旗本に召し出され、高城家は続いていた。
     受領名で見ると、治部少輔は胤忠、越前守はその子の胤広になるようだ。「ボタンザクラがきれいね。」クラチャンの言葉に、「これって、ボタンザクラって言うんですか」と質問する。「正式じゃないかも知れないけど、こんな風に八重で大振りのものを言うわ。」正確なことは分からないが、下記の記事を見つけた。

     ソメイヨシノに並んで人気の高い桜ですが、一般的には八重桜で大ぶりの桜の総称として「牡丹桜」は知られています。しかし、財団法人遺伝学普及会のデータベース「遺伝研の桜(http://www.genetics.or.jp/Sakura/)」では、
     里桜の八重咲きの代名詞である「ボタンザクラ」の名は多くの人に用いられるが、品種名の「ボタンザクラ(牡丹桜)」の名は、古くからありながら知られていない。そのため余り植栽されていない品種である。
     と紹介されており、「牡丹桜」は固有の品種あると説明されています。
     http://kabokuya.net/japanese/catalog/spring/botanzakura.html

     高城氏の墓所を下りると、ダンディと椿姫が田嶋氏の墓石にならんで腰かけている。「なんとバチアタリな」とクラチャンが一喝する。「椿姫に六地蔵を説明してたんですよ。」

     行く春や六道を説く道祖神  閑舟

     なるほど、ダンディと椿姫は双体道祖神のように仲良く並んでいた。山門脇には、薄紅色に染まった葉を広げる高い木があった。香椿(チャンチン)というものらしい。「これは珍しいよ」と隊長も断言するように、こんな紅色は若葉の頃だけで、やがて緑に変化するのだそうだ。センダン科である。そして中国ではこの若葉は高級食材だそうで、天麩羅や卵炒めなどにするらしい。

    春を告げる野菜は?と聞かれたら何と答えますか?きっと北京の人は「香椿」(チャンチン)と答えるはずです。この野菜はセンダン科の落葉高木の若葉の部分で、木そのものは大きくなると九~十二メートルになります。日中が少し暖かいと感じ始める季節になると市場の野菜売り場に顔を出し始めます。若葉は葉先がほんのりと赤くなっていて、束になっていると一瞬花のように見えます。http://blog.sorachina.jp/?p=4933

     但し若葉はかなりアクが強いので、必ず湯がく必要がある。不思議なのは、「別名 唐変木」と書かれてあることだ。いくつかの国語辞典を当っても、それがこの木に由来するなんてどこにも書いていない。どうやら唐変木は江戸の造語であるが、特にこの木を名指したものとは考えられない。この木を唐変木と言うのは、この寺の勝手な言い分であろう。ところで、唐変木は今でも生きた言葉だろうか。

     世の中に唐変木があると知り   午角
     薄紅の新芽に惑ふ唐変木   蜻蛉

     住宅地の坂道に入る。「マンションが多い割に駐車場が少ないな。」重々しく言うハコサンの観察は人とは違っている。本土寺まで地図上では東北東に五百メートル程だが、姫はかなりややこしい道を辿る。「モウダメ。」坂道でヨシミチャンが音を上げた。「久し振りに歩いたからね。」しかし、次の目標の本土寺まではもう少し頑張ってもらわなければいけない。
     イチゴ農家ではイチゴの販売をしているようだ。「昨日買ったばっかりだったのよ。」「それを今日持ってこなくちゃ。」「だけど潰れちゃうものね。」クラチャン、タカチャンは笑うが、潰れないように工夫して持ってきてほしい。
     「長い長い参道です。」そして参道入り口に着くと二本の石柱があり、そこから十メートル程の場所に漬物屋「黒門屋」があった。後で店の女性に聴いたところでは、この石柱の場所に黒門があった。「すぐ先の赤門と、この黒門とセットであったんです。」
     その赤門は仁王門(楼門)である。参道を覆う若葉が眩しい。更に長い参道を歩いて境内入口に着いた。長谷山本土寺。松戸市平賀六十三番地。
     拝観料は五百円だ。「団体は何人ですか?」「二十人です。」「十八人なんだけどね。」「それは残念。」「十九人だと割引できたんですけどね。」十九人でも合計四千円で這入れると言う。「団体は?」「二十人です。」同じ応答が何度も繰り返される。

     本土寺は、池上の長栄山本門寺、鎌倉の長興山妙本寺とともに「朗門の三長三本」と称されている。「朗門」とは日蓮の弟子日朗の門流という意味であり、「三長三本」とは、上記三か寺の山号寺号にいずれも「長」「本」の字が含まれることによる。
     近年、境内には茶室も整備され、千本のカエデ・五千株のハナショウブ・一万株のアジサイの名所として人気を集め「あじさい寺」として親しまれている。本土寺過去帳は、歴史を語る重要な資料である。

     『平賀本土寺史要』によると、文永六年(一二六九年)、日蓮に帰依した蔭山土佐守が「小金の狩野の松原」の地に法華堂を建てたのが本土寺の起源という。建治三年(一二七七年)曽谷教信(胤直)が平賀郷鼻輪に法華堂を移し、日蓮の弟子日朗が開堂供養した。日蓮の直弟子である日朗、その異母弟にあたる日像(四条門流の祖)、日輪(池上本門寺三世)は平賀氏の出身で、平賀郷はこれら日蓮宗の祖師ゆかりの地であった。延慶二年(一三〇九年)、曽谷教信の娘・芝崎(千葉胤貞の妻)より、土地の寄進を受け、寺が整備された。芝崎夫人は夫の胤貞の死後、出家し、日貞尼とも称される。延文三年(一三五八年)、台風により、本堂が倒壊するが、その後再建された。貞治四年(一三六五年)、山号を北谷山から長谷山に改称したとされる。(ウィキペディアより)

     「紫陽花が見られないのに五百円も払いたくない。」とダンディはどこかに行ってしまった。姫も「ちょうど端境期なので」と言い訳をするが、花は盛りに月は隈なきをのみ見るものかは。

     花は盛りに、月は隈なきをのみ、見るものかは。雨に対ひて月を恋ひ、垂れこめて春の行衛知らぬも、なほ、あはれに情深し。咲きぬべきほどの梢、散り萎れたる庭などこそ、見所多けれ。歌の詞書にも、「花見にまかれりけるに、早く散り過ぎにければ」とも、「障る事ありてまからで」なども書けるは、「花を見て」と言へるに劣れる事かは。花の散り、月の傾くを慕ふ習ひはさる事なれど、殊にかたくななる人ぞ、「この枝、かの枝散りにけり。今は見所なし」などは言ふめる。(『徒然草』第百三十七段)

     兼好法師は時々良いことを言う。頑ななる人ぞと兼好は諌めているのである。「花は盛りだけじゃないよね。」宗匠も笑う。

     「月は隈なき」思い出せよと拝観料  閑舟

     隊長、椿姫、ヨシミチャンも入らなかった。確かに紫陽花寺として有名なのは分かる。境内(というより広大な庭園)は紫陽花で囲まれている。花は勿論ないが、しかしそれでも見るべきものはある。
     「五重塔だ。」本堂の手前には翁の碑がある。卵を立てたような石の下半分に「翁」の文字が見えるだけで、句は全く分からない。案内を読めば、芭蕉、一茶の句が書かれているらしい。

    この句碑は、江戸時代の文化元年(一八〇四年)に行われた芭蕉忌を期して建立されたものです。正面には、この句碑を建立した今日庵元夢とその門人、可長、探翠、幾来、一鄒といった東葛地方の俳人達の名が見られます。ここに名を連ねる一鄒とは、本土寺第三十九世日浄上人のことです。本土寺ではしばしば「翁会」と称する句会が催され、小林一茶も参加しており、いくつかの句が残されています。碑面には「御命講や油のような酒五升」のほかに、芭蕉忌にちなんだ「芭蕉忌に先づつつがなし菊の花」という句などもあります。
     松戸市教育委員会

     一茶は天明二年(一七八二)、二十歳の頃に馬橋の油商・大川平右衛門の店に奉公し始めたと伝えられているから、流山や松戸には縁が深い。芭蕉の句にある御命講とは日蓮の命日で、十月十三日である。芭蕉の死んだのは十月十二日。芭蕉は万燈会を詠み、一茶はその万燈会の前日に死んだ芭蕉を詠んだ。

     日蓮消息文に、日蓮が信徒からの贈り物への礼状に、「新麦一斗、筍三本、油のやうな酒五升、南無妙法蓮華経と回向いたし候」とあるから採った。このことからして、芭蕉は日蓮文書を読んでいたことが分かる。
     一句も、芭蕉が門人の誰彼から酒を貰ったのに対しての謝礼吟または酒に対する褒美の吟であろう。実際油のようなコクのある酒であったかどうかは怪しいが、そこはあくまで日蓮の用いたコードを使いたかったのであろう。
     江戸童歌に、
       「お正月はよいもんぢや
        油のような酒飲んで
       木っ端のような餅食って
        雪のようなまま食って
       これでもとつさん正月か」
     がある。一句にある「油のような酒」は、こちらに近いのかも知れない。
     http://www2.yamanashi-ken.ac.jp/~itoyo/basho/haikusyu/omeiko0.htm

     しかし「油のような」酒とはどんな酒だろうか。江戸童歌で、「油のような酒」「木端のような餅」「雪のようなまま」と併称されるなら、それは貧しい食事の象徴であろうか。ねっとりとしたものなら、現代ではまず飲まれない。
     本堂正面には鰐口が三つ並んでいて、相変わらずスナフキンは丁寧に手を合わせる。林の中から、ベトナムかカンボジアの人らしい家族が歩いてきた。秋山夫人の墓を見る。家康の側室で、武田信吉を産んだ女人である。信吉の甥にあたるのが徳川光圀で、今見ている墓石は光圀が建立したものだ。「ロダンがいれば感激したでしょうね。」 それにしても広い。所々に建物があって行き止まりになっているので迷路のような庭だ。周回路の周りには紫陽花がぎっしり植えられている。まだ咲いていないが菖蒲園も広い。
     「これ知ってる?」宗匠が自慢気に指差したのは黒い花だ。茶褐色というよりもっと黒い。自慢じゃないが知らない。「クロバナロウバイだよ。」こんな黒い花があるのか。「こんな時期に咲くロウバイがあるのね」とハイジも不思議そうに言う。ロウバイ科ではあるが、花の形も色も蠟梅とは似ても似つかない。
     池に面して緋色の花が咲いている。花弁の捩れ具合からして、私はマンサクではないかと思ったが、自信がないので小さな声で言ってみた。しかし「桜かな?」と声がかかる。そこにハイジがやってきて、「ベニバナトキワマンサクじゃないの」と言ってくれた。初めから大きな声で言えば良かったが、付け焼刃の知識はこんなものだ。もう少し早い季節のものだと思い込んでいたが、今頃に咲く花のようだ。
     それにしても広い庭園だ。休憩している間もクラチャンは精力的に歩き回る。隊長やダンディと同じ年齢だと聞いたが、元気なことだ。かなり歩き慣れている。「あっちに大きな牡丹があったわ」と誘ってくれるので一緒に行ってみた。「迷路みたいで、抜けられないのよ。」迷路の手前に実に大輪の牡丹が咲いていた。
     姫の携帯電話が鳴ったのはダンディからの催促だった。待ち草臥れたのだろう。御土産屋で休んでいるらしい。それは、さっき来るとき、姫は帰りに絶対に寄ると言っていた漬物屋のことだろう。「それじゃそろそろ行きましょうか。」出口には隊長が待っていた。「あれ、ダンディたちと一緒じゃないんですか?」「どっか行っちゃったんだ。」
     店に入るとダンディと椿姫が座っているのが見えた。ヨシミチャンは?彼女はベンチに横たわっていた。相当足が痛いのだろうか。「脹脛がつっちゃって。」それは痛そうだ。「湿布があるわよ」と椿姫が手渡す。
     店の屋号は黒門屋で、無料休憩所を兼ねている。「そこにコンクリートの門があるでしょう。そこに黒門が建ってたんですよ。木造だから壊れてしまって。」それに因んで屋号にしたと女将が言う。楼門の前に赤門屋という漬物屋があるらしいのだが、気付かなかった。アジサイの季節以外は閉めているのだろうか。
     筍に菜の花を詰めた鉄砲漬けがある。手を伸ばすと「それは私が買うのよ。あっちに置いてるわ」とヤスチャンに叱られてしまった。「奥さんにお土産買わないんですか。」漬物は好きだが特に買わなくても良いか。「いいよ。」ほかに柴漬け、ラッキョウのたまり漬けなどを買った人もいたらしい。
     駅までは八百メートル。四時ちょっと前に着いた。本日の歩行距離は一万七千歩。十キロ程度になっただろう。

     反省会組は南越谷で降りる。越谷の住人ドクトルとハコサンは、今日は都合がつかない。最初にガード下の二十四時間営業の「一源」に行ってみるが、案の定今日も予約でいっぱいだ。これで三回連続入れなかったことになる。仕方がないので駅前のビルに入り、「はちや」を覗いたがこれもダメだった。
     同じフロアに「一休」もあるが「ここは面倒くさい」とスナフキンが言うので、「日本橋亭」へ行く。ここでも席を確保するのに随分待たされたが、なんとかかなり広い個室に案内された。越谷の人は昼から飲んでいるのである。
     焼酎のボトルは五百ミリリットルか一升分瓶しかない。「一升の方が絶対安い」とスナフキンが断言する。確かに五百ミリ二本より一升の方が安いのだ。何種類かあるうち、今日は黒伊佐錦を選ぶ。しかし一升はやはり多かった。こういうとき、ビールを追加するひとも少しは配慮して貰いたい。この一升瓶を飲み乾さなければならないと吝嗇な私は思い詰め、その結果かなり酔っぱらってしまった。
     店の外のトイレに行って戻れなかった。店内をどう歩いても席に着かないから、レジに行ってポケットに入れていた下駄箱のカギを見せると、「うちではありません」と答えられた。「はちや」に入ってしまったようだ。それにしても、カギを見せた意味が分からない。酔っぱらいの行動と言うのは実に不思議なものだが、何とか席に戻ると、ヤマチャンから「いつもと違うよ」と言われた。最後の方はいささか朦朧として記憶が曖昧になっている。私は金を払ったのだろうか。

    蜻蛉