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    平成二十六五月二十四日(土) 鎌倉アルプス
      裏大仏を行く

    投稿:   佐藤 眞人 氏     2014.06.02

     旧暦四月二十六日。ここ一週間程で大学のヤマボウシの花が随分大きくなってきた。ツツジは咲き続け、紫陽花にはまだ少し早い。
     爽やかな初夏の日だ。鶴ヶ島を七時五十一分に出て、池袋発八時三十八分の湘南新宿ラインに乗り換える。車内は結構混んでいて、武蔵小杉を過ぎた辺りでやっと座ることができた。それにしてもこの沿線に武蔵小杉が存在するのには、何度来ても違和感がある。武蔵小杉と言う地名を見るだけで心ときめいた時代があって、その頃は武蔵小杉と言えば東横線の沿線としか考えられない。毎週のように池袋で飲み、山手線で渋谷まで出て東横線で武蔵小杉まで送る。そして再び戻って新宿から小田急線の代々木上原まで一人で帰る。ずいぶんバカなことをしていたものだ。
     北鎌倉駅には九時三十八分に到着したから、家を出てから二時間ちょっと、池袋からちょうど一時間かかった訳だ。週末の鎌倉はどっと繰り出した人で一杯になり、長いホームの先端にある改札口までなかなか辿り着けない。

     鎌倉やどつと繰り出す若葉風  蜻蛉

     ベビーカーも多く、足を踏まないようにノロノロ歩いていると、柵の外に待機しているオカチャンと目が合った。「トイレはあっち、西口にあります。」マメな人である。トイレに行くと、既に宗匠、ヤマチャン、ダンディが並んでいた。もう一度通路に戻って漸く円覚寺側の改札を出た。
     道路沿いにも人が多く、グループの集合を待っている連中が目立つ。山の方に行くのはそんなに多くはないだろうが、今日はAコース(山歩き)とBコース(寺巡り)に分かれるので、Bコースを選ぶ人は人混みを覚悟しなければならない。私は二度ほど土曜日の鎌倉を経験しているが、狭い道で車を避けながら歩くのはなかなかシンドイことである。

    山の尾根づたいの約十キロのハイキングコースです。
    岩場・階段とアップダウンが頻繁で、手足四本を使って
    進むところあり。手荷物不可、登山スタイルで参加願います。

     今回のリーダー千意さんからの事前のメールではかなり険阻な山のような雰囲気だったので、参加者は少ないと懸念された。あんみつ姫は明らかにこれで怖気づいていた。小町やイトハンも無理だろうね。それでも鎌倉は歩きたい人はいるかも知れず、そのため急遽、隊長が先導するBコースが設けられたのだ。隊長は昨日下見をしている筈だ。ただ、あんみつ姫とマリーは別の用事ができたと言っていたから、隊長一人だけになってしまう恐れは充分ある。
     「もののふは山野へ修行に 大阿闍梨は市井へ行脚に」が千意さんの言葉だ。我らはもののふ、隊長は大阿闍梨であったか。
     桃太郎は大きなリュックにストックを二本差してきた。「重装備じゃないの。」「ストックだけですよ。」スナフキンも「登山靴にしようか迷ったんだ」と言い、「その靴で大丈夫」と千意さんが応じている。「そうじゃなくて、こんな時でもなければ.登山靴を履く機会がないんだよ。」私もトレッキングシューズにしてきたから装備は万全だ。
     予想通り男ばかりが集まってきたが、やがて若旦那夫妻が現れた。二人は当然Bコースだろうね。「お寺を回るのが楽しみで来たのよ。」しかし、定刻間際に到着した隊長が「ボクはAコースだよ」といきなり宣言したので驚いた。「アラッ、そうなの。どうしようかしら。」以前痛めた足の調子からみて、若女将に山は難しいのではあるまいか。「大丈夫ですよ。」若旦那は簡単に結論を出すが、「後で家に帰ると叱られちゃうんですよね」と笑っている。
     夫唱婦随。若女将も素直にそれに従う。「紅一点だね。」「大事にしてね。」「歩けなくなったら桃太郎がおぶってくれるよ。」
     結局、千意さん、若旦那、若女将、隊長、ダンディ、ハコさん、オカチャン、スナフキン、宗匠、ヤマチャン、桃太郎、蜻蛉の十二人全員が山のコースを歩くことになった。弁当を持ってこなかった隊長と若旦那夫妻がコンビニから戻るのを待って、ようやく出発する。二十分程過ぎたろうか。隊長はパンしかなかったとぼやいている。「ここで弁当を買うのは少ないから、最初からおにぎりなんか置いてないんだよ」とスナフキンは断定する。
     意外に風が涼しいので、半袖Tシャツは失敗したかも知れない。私以外はみんな長袖を着ている。「ダニがいるんだよね。」ヤマチャンはそこまで考えていたか。私は何も考えていなかった。踏切を渡り、千意さんは東慶寺の門前で立ち止まった。臨済宗円覚寺派、山号は松岡山。鎌倉市山ノ内一三六七。
     「若女将、入りたいですか?」「どっちでもいいわ。」千意さんの顔が笑っているのは、縁切寺に掛けてあるからだ。「ああ、そういう意味ね。どうしようかしら。でもキヨシサンについていくわ。」仲の良い二人の縁を切らないために今日は境内には入らない。古川柳を少し並べてみるか。

    出雲にて結び鎌倉にてほどき
    くやしくば尋ね来てみよ松ヶ丘
    松ヶ岡男を見れば犬が吠え

     江戸時代の東慶寺が、非道の夫から逃れたい女性の避難所であったのは事実だが、少し実態を考えてみたい。東慶寺に伝わる由緒では、女性が離縁を申し出るため、鎌倉時代に特に勅許を得たとある。

     東慶寺は今から約七百二十年前、弘安八年(一二八五)に北条時宗夫人の覚山志道尼が開創いたしました。
     封建時代、女性の側から離婚できなかった時代に、当寺に駆け込めば離縁できる女人救済の寺として明治に至るまで六百年の永きにわたり、縁切りの寺法を引き継いできました。(東慶寺HP http://www.tokeiji.com/about/)

     これによれば、鎌倉時代から縁切り寺として女性を救済したように思える、歴史的には少し違う、あるいは誇張しすぎではないか。中世の女性の地位は実はかなり高い。女性でも家督相続権が認められていたし、御家人にさえなることができた。そうでなければ、北条政子があれだけの権威を持った理由が説明できない。そして自ら離縁を言い出すこともできた。

     別に詳述した通り、中世の荘園公領制の下で、預所、公文等の荘官、百姓名の名主などの公式の諸職に女性が補任されることは、十四世紀までは決して例外的な事態ではなかった。また侍クラスの女性の場合、後家としての資格であったとしても、御家人交名に名を連ねる女性が見られるだけなく、さきの商業・金融等の活動を発展させ、供御人・神人等の職能民としての地位を公的に認められた女性は少なからずいたのである。(網野善彦『中世の非人と遊女』)

     所領を巡る訴訟でも、女性が原告となって勝利を勝ち取った例がある。そもそもいわゆる.三行半は、女性が再婚するとき、前の夫に言い掛かりをつけられないように貰っておく離婚証明書であった。十六世紀に来日したルイス・フロイスも、日本の女性の地位の高さや、離婚再婚の多さに驚いている。
     おそらく最初は、一般に寺院が担っていた犯罪者や逃亡農奴を匿うアジールだったと思われる。それが特に女人に限定するようになったのは、江戸時代になって女性の地位が低くなってからではないか。徳川幕府としては縁切寺の必要性は認めたものの、余り多くては社会秩序上よろしくなく、東慶寺ともう一つ上州太田の満徳寺の二ヶ所に限ったのだと思われる。
     次は浄智寺だ。臨済宗円覚寺派。山号は金峰山。鎌倉市山ノ内一四〇二。「鎌倉五山第四位だね」と、ダンディが一位から五位までの寺の名前を呟いている。参道入り口には甘露の井があり、石段の正面には花頭窓を持つ中国風の鐘楼門が聳える。「お詣りする人はどうぞ。待ってますよ。」リーダーが勧めても二百円の参拝料を惜しむのか、誰も境内には入らない。案内には、用のない人は左の山道を行けと出ている。
     「それじゃ行きますか。」その脇から山道に入ると、舗装された道が途切れる辺りに「たからの庭」という案内が見えた。どういうものかは分からない。「陶芸とか、そんなものじゃないか。」調べてみると、古民家を改造した「多目的スペース&カフェ」であった。そこからすぐに石段に変わる。予想通りこちらの方には人があまりいない。
     若女将は大丈夫だろうか。「大丈夫よ。幸い桃太郎にはストックが二本ある。「それを貸したらいいよ。」桃太郎がリュックをおろし、縛りつけていたストックを外して若旦那と若女将に渡す。「こういうのは何本も持ってるのに、肝心の時に忘れちゃうのよ。」山に来る積りはなかったのだから仕方がない。
     「なかなかタイミングが難しいのよね。」慣れなければストックを突くタイミングは確かに難しい。「松葉杖もそうなんだ、結構難しい。」踵の骨を折って初めて松葉杖を突いた日は、転んでばかりいた。坂を上ってくればやはり暑くなってくる。オカチャンも白いTシャツになった。
     登り切った林の中に道標が立っている。浄智寺から四百五十メートル、目的の葛原岡神社まで三百メートルだ。林の中を歩けばまた道標だ。葛原岡神社まで二百メートル。ここから下り道に入る。いざという時のために、桃太郎は若女将のそばを離れない。気は優しくて力持ち。頼もしいガードだ。鶯の声が聞こえてくる。「なかなか上手く啼くね。」かなり急な下り坂を降りて、葛原岡神社に着いた。鎌倉市山ノ内一一五七。
     男石、女石の縁結び石の脇には、ハート形の絵馬が大量に掲げられている。「これじゃ、あんまりご利益を感じないな。」どこからか篳篥か笙の音が流れてくる。「なんだ、これか。」お神籤の自動販売機(?)を操作すると、音楽が流れるようになっているらしい。
     「今の若い人は私たちの世代とは違って信じてないでしょう。」しかしそうだろうか。この頃の若い者は人文社会的な思考訓練ができてなく、迷信やゲン担ぎを信じやすいのではないか。占いはいつまでもなくならないし、パワースポットなんていう言葉が流行ること自体が胡散臭い。「ほら、ここのお御籤が最高なのよ。」後ろから若い娘たちの声が聞こえた。
     私は全く無知で、日野俊基を祭神とした神社だなんてまるで知らなかった。由緒によれば、明治十四年(一八八一)に俊基没後五百五十年祭を執行、十五年に社殿建設の許可を受けるとともに宮内省から金十五円が下賜された。これにより十七年(一八八四)には従三位が追贈されて二十年(一八八七)に神社が創建されたのである。
     生きていた時は従四位下だから「卿」とは呼ばないが、明治になって従三位が追贈されたので、この神社では「日野俊基卿」と称している。因みに三位以上または、参議以上大納言までを卿と呼び、大臣を公と呼ぶ。合わせて律令制のもとでの公卿となる。
     正中元年(一三二四)の討幕計画が露見した時は許された俊基も、元弘元年(一三三一)に再び捕まり、謀反の首謀者としてこの地で処刑された。

     秋を待たで葛原岡に消える身の露のうらみや世に残るらむ

     俊基が処刑されたのは翌元弘二年六月三日のことだったから、この神社ではその日が大祭となっている。竹の柵で囲まれた一坪ほどの場所に、「俊基卿終焉之地」の石が立っている。墓は源氏山公園の中にあるらしい。
     『太平記』の「俊基卿再関東下向事」は道行の名調子で、酔って機嫌の良い時の父が時々冒頭部分を暗唱していたが、私はとても暗記できない。長いので少しだけ引いてみたい。元弘元年、捕縛された俊基が鎌倉へ連行されていく道中である。途中で殺されるか、鎌倉で殺されるか。いずれにしても命は極まっている。

     落花の雪に踏迷う、片野の春の桜がり、紅葉の錦を衣て帰、嵐の山の秋の暮、一夜を明す程だにも、旅宿となれば懶に、恩愛の契り浅からぬ、我故郷の妻子をば、行末も知ず思置、年久も住馴し、九重の帝都をば、今を限と顧て、思はぬ旅に出玉ふ、心の中ぞ哀なる。
     憂をば留ぬ相坂の、関の清水に袖濡て、末は山路を打出の濱、沖を遥見渡せば、塩ならぬ海にこがれ行、身を浮舟の浮沈み、駒も轟と踏鳴す、勢多ノ長橋打渡り、行向人に近江路や、世のうねの野に鳴鶴も、子を思かと哀也。(中略)
     旅館の燈幽にして、鶏鳴暁を催せば、疋馬風に嘶へて、天龍河を打渡リ、小夜の中山越行ば、白雲路を埋来て、そことも知ぬ夕暮に、家郷の天を望ても、昔西行法師が、「命也けり。」と詠つつ、二度越し跡までも、浦山敷ぞ思はれける。哀やいとど増りけん、一首の歌を詠て、宿の柱にぞ書れける。
      古もかかるためしを菊川の同じ流に身をや沈めん
     大井河を過給へば、都にありし名を聞て、亀山殿の行幸の、嵐の山の花盛り、龍頭鷁首の舟に乗り、詩歌管弦の宴に侍し事も、今は二度見ぬ夜の夢と成ぬと思つづけ給ふ。(略)
     ・・・・急としもはなけれども、日数つもれば、七月廿六日の暮程に、鎌倉にこそ着玉けれ。

     「兄弟がいたんですよね。誰だったか。」私もそんな風に覚えていたが、すぐには名前が出てこない。確認してみるとダンディが言うのは日野資朝のことだろうが、実はこの二人は兄弟ではない。資朝(従三位権中納言・贈従二位)は権大納言になった俊光の子で日野氏本流の正真正銘の卿だが、俊基は傍流である。因みに資朝も同じ明治十七年に従二位を追贈された。
     正中元年(一三二四)の変では俊基は許されたのに、資朝は佐渡へ流罪とされた。資朝については、兼好法師がこんな逸話を残している。

     西大寺の静然上人、腰かがまり、眉白く、誠に徳たけたる有様にて、内裏へまゐられたりけるを、西園寺内大臣殿、「あなたふとの気色にや」とて、信仰の気色ありければ、資朝卿これを見て、「年のよりたるに候」と申されけり。後日に、尨犬の浅ましく老いさらぼひて、毛はげたるをひかせて、「この気色尊くみえて候」とて、内府へ参らせられたりけるとぞ。(『徒然草』第百五十二段)

     佐々木道誉などに通じるバサラの気配が感じられる。バサラ(婆娑羅)とは後の時代のカブキ(傾き)に繋がる連中である。権威を屁とも思わない連中がこの時代に多く誕生していた。そもそも後醍醐自体が、バサラと言ってもよいような異様な人格であり、こういう連中が太平記の世界を縦横に駆け巡る。この時代は日本史に珍しい異様な人間が輩出した時代でもあった。後醍醐政権を網野善彦は「異形の王権」と名付けている。
     俊基が処刑されると同時に、佐渡の資朝も処刑された。こうしてみると日野一族は全て後醍醐に加担したように思えるが、実はそうではない。資朝の兄の資名は光厳天皇方について、やがて足利氏に重用されることになる。「日野富子がいるでしょう。」「そう言えばそうですね。」
     こういうことばかり考えているから、隊長が武蔵鐙を発見したことには全く気付かなかった。太平記の世界に浸っているときに武蔵鐙とは、なんともピタリと合いすぎている。

     「それじゃこの辺で食事にしましょう。」まだ十一時だが、千意さんの合図で手頃な場所を探して歩き出す。「もう飯なの?」宗匠は驚いたような声を上げるが、実は私はさっきから空腹を感じていた。「みなさん朝が早かったでしょう。早目に食べて山歩きに備えることが大事です。」これも千意さんの周到な計画のうちである。私たちは神社の裏から入って来たので、石造りの鳥居から表参道を通って公園に入る。左手の林の中にベンチとテーブルがいくつかおかれている。
     「その辺でいいんじゃないか。」「あそこの四阿はどうかな?」右手の低くなった広場の真ん中に四阿が建っていた。ちょうど十二人分が座れるスペースだ。「あそこから富士山がきれいに見えました。」少し遅れてきた千意さんが教えてくれるが、私は全く気付かなかった。「どこから?」「降りてきたところ。」
     今日はおにぎり三個、魚肉ソーセージ、イワシの醤油煮をコンビニで買ってきた。オカチャンが走り回って全員に水羊羹風の甘いものを配ってくれる。「疲労回復には甘いものがいいんですよ。」いつもと違ってなんとなく断りかねて口にしてみたが、やはり甘い。
     「紙芝居を作ってきました。」千意さんはこういうことが実に好きだ。オバマが三度来日していることが話題である。最初の絵には「トラスト・ミー」とあり、鳩が豆鉄砲を食らったと書いてある。全く信用できなかった鳩山由紀夫のことだ。二つ目は菅直人がオバマに焼酎の炭酸割りを飲ませたというものだ。「ほんとかね。」「これがカンチュウハイ。」まったく良く考えるものだ。最後はもちろん安倍晋三である。「豪華寿司屋のすきやばし次郎ですね。これは何でしょうか。」想像もつかない。「寿司屋だけに、シャリ(米=TPP問題)とネタ(尖閣島)で握ってみました。」私にはこういう発想がまるでできない。精神が硬直しているのだろう。
     「それではハコサンお願いします。但し三分で。」予めリーダーとハコサンの間で打ち合わせてあったらしい。「三分だとちゃんと説明できるかどうか。本当は五分三十秒欲しいんだが。」ハコサンの講釈は逗子開成中学生ボート遭難事故にまつわることで、五分どころか十五分程に及んだ。私はそんなに詳しく知らなかったし、桃太郎と同じように単純にボート訓練中の事故かと思っていた。しかしハコさんの話では、子供たちが無断でボートを持ち出して遊んで起こしたのであった。明治四十三年(一九一〇)一月二十三日のことである。
     逗子開成中学は日暮里にある開成中学の分校で、海兵進学を目的に作られたらしい。「カギは誰がもっていたか、謎なんだよ。」持ち出したボートの座席は固定式の七人乗りである。「エイトはスライド式で、平均体重六十五キロの八人乗りなんだが。」ハコさんの話は異常に細部に亘る。「ボートが出発したのはどこか、インターネットを調べてもどこにも書いていないんだね。私は小動岬じゃないかと思う。」最年少は十二歳だった。漁船が最初に犠牲者を発見したのは午後三時頃、港に戻って招集をかけたのが何時何分。当時は無線がなかったから半鐘を鳴らした。全員の遺体が見つかるのは四日後である。「なにしろ時間がかかった。」
     「時間と言えば、ハコさん、そろそろ時間なので」と千意さんが促すと、「それじゃ、あと一分十秒で終わります」と時間を刻むのがおかしい。「備えあれば憂いなし、というか憂いなければ備えなしか。」最後の結論が不思議だ。この事故と備えとがどういう関係にあるのか謎である。

    真白き富士の根 緑の江の島
    仰ぎ見るも 今は涙
    帰らぬ十二の 雄々しきみたまに
    捧げまつる 胸と心 (三角錫子作詞・インガルス作曲『七里ケ浜の哀歌』)

     「雄々しきみたま」とは何であろうか。勝手にボートを持ち出して、定員七名の所に小学生一人を含むとはいえ十二人が乗り込み、勝手に死んでいったアホな子供たちである。迷惑至極なこと夥しい。
     ウィキペディアによれば、事故の補償のために学校は鎌倉女学校の土地の一部を売却した。管理責任ということになるのだろうが、賠償しなければならない学校もたまったものではない。あっ、もしかしたらハコさんのいう「備え」とは、そういうときのために金を貯めておけということだろうか。
     因みに元歌は文部省唱歌『夢の外へ』(大和田建樹作詞)であるが、こんな歌は誰も知らないだろう。私は知らなかった。作詞した三角錫子は系列校の鎌倉女学校の教師で、追悼式で鎌倉女学校の生徒が合唱した。また作曲者は長らくゴードンと信じられていたが、ジェレマイア・インガルスと定まった。(ネットを検索すると、今でも作曲者をゴードンとしているものがある。)レコードは大正四年、歌詞・楽譜が五年(一九一六)に発売され、演歌師によって全国に広まった。
     ハコサンの講釈が終わって荷物をまとめる。千意さんに眺望ポイントを教えて貰って富士山を見る。青空にくっきりと白く浮かんでいる。「良く見えるね。」「ホントだ。」日本人は本当に富士山が好きだ。

     新緑の奥にどしりと富士の山  閑舟

     この後二時間はトイレがないらしいから交代で用を済まさなければならない。公園のモミジの葉が赤茶けているのは、こういう種類なのだろうか。「よくあるよ」とスナフキンは事もなげに言う。「葉緑素はあるのか?」ヤマチャンが不思議な質問をしている。私はこの時期に紅葉するモミジは見たことがない。「野村楓っていう。」宗匠はなぜこんなことを知っているのだろう。

    ノムラカエデ(野村楓)は、春に紅葉する珍しいモミジです。 オオモミジ(大紅葉)系カエデ(楓)の園芸品種で、葉は大きく、春は暗紫色、夏は深緑色、秋は紫紅色となる落葉中高木です。 葉は七~八裂します。半陰地や水分が好きで乾燥を好まない樹木ですが、紅葉が美しいのは日向で多少乾燥気味の場所に植えられたものといわれます。
    http://www.kagiken.co.jp/new/kojimachi/hana-nomurakaede_large.html

     十一時五十分。全員の用も済み、公園を出る。「こっち行くんじゃないの?」「そっちは源氏山公園ですが今日は省略します。」「源氏には何も関係ないのに。」しかしやはり源氏に関係しているのである。八幡太郎義家が後三年の役(一〇八三~一〇八七)の戦勝を祈願して白旗を立てた故事に由来するという。日野俊基墓と頼朝の像があるようだ。
     私たちは大仏方面へ向かう。五分程登った所で千意さんが立ち止った。「海が見える。」新緑の山を越えて湾曲した海岸線と白い波が見える。あれは由比ヶ浜だろうか。「嬉しくなってくるね。」海を見ると私たちは何故嬉しくなるのだろう。遥か昔、海を捨て陸上生活を選択した哺乳類の血が騒ぐのだろうか。
     「はるかに見える青い海 お船が遠く霞んでる」(『みかんの花咲く丘』)なんて歌が浮かんでくる。ロダンがいれば「心が洗われる」と感動していただろう。場所は違うが実朝もこんな気分で詠んだのではなかろうか。

     箱根路をわが越えくれば伊豆の海や沖の小島に浪の寄る見ゆ

     ただ小林秀雄は、見える筈のない沖の小島の波を見たのは実朝の孤独の故であるなんて言っていた。そういう言い方は若い者の心を鷲掴みにしてしまって悪影響を与える。

     初孫や香る若葉に青き海   蜻蛉

     源氏山公園から七百メートル、大仏まで一・五キロの標識がある。平地ならすぐだが、ここは山道だ。「大仏まで行くのかい?」「大仏は行きません。」下に降りる道は所々でぬかるんでいて滑りやすい。「気を付けてね。」若女将も無事に歩いている。下から上ってきた若い女性の足元を見ると、街を歩くようなヒール付きサンダルだ。私たちを舐めていないか。

     初夏の山ペディキュア赤く闊歩せり  蜻蛉

     「もう何でもありなんだよ。」躓いて怪我をしても知らない。三十分ほどで鎖場にやって来た。大した下りではないが、鎖をつかめば更に安全だ。
     「こっちに行っても何もないけど。」それでも千意さんが勧めるのだから何かがあるのだろう。道から逸れて右の細い道を行けば、大仏切通しだ。なるほどね。「これも鎌倉を守るためだったんでしょ。」鎌倉を守り、同時に最小限の物資運搬のために切り開いた道だから、広くては防衛のためにならない。極楽寺坂切通し、大仏切通し、化粧坂、亀ヶ谷坂、巨福呂坂、朝比奈切通し、名越切通しを鎌倉七口と呼ぶ。鎌倉は難攻不落の筈だった。ついでに言えば、鎌倉市内に並ぶ広壮な寺院群は、いざという時の防衛拠点でもあった。

     一般には鎌倉時代からのものだろうと言われるが、発掘調査ではかわらけ(素焼きの小皿)の小片が出土した以外には見るべきものはない。また、鎌倉時代に京などから鎌倉に来る記録では、初期にはほとんどが稲村路を通っており、後期には極楽寺坂切通しを通ったと思われる文献もあり、鎌倉期にこの道が存在したことを確認することは困難である。ただし、現在の大字長谷は旧くは深沢村の一部であり、ローカルな生活道があった可能性は否定できない。
     大仏切通の史料上の初出は江戸時代初期であり、一六二四年~一六四七年頃に刊行された『玉舟和尚鎌倉記』に「大仏坂(藤沢口)」がそれである。よく知られるのは一六八五年の『新編鎌倉志』の「大仏切通 大仏西の方なり。この切通を越えれば、常盤里へ出るなり」という記述である。(ウィキペディア「大仏切通」より)

     元の道に戻ってかなり急勾配の階段を下りる。すぐ下には県道のトンネルが見えるが、もうすぐ降り切る手前でリーダーが立ち止った。「二百段あります。どうしますか。」階段の途中で立ち止まっていると、後ろから「早く決めてくれよ」と悪態をつきながら若い男女が私たちを追い抜いて行った。大仏に向かうのだろう。県道を左に行けばすぐ近くだ。
     「それじゃ登りましょう。」右に上る階段を二百段も上るとさすがに息が切れる。頂上は長谷配水池広場だった。広場と言うには少し狭い細長い敷地で、ベンチとテーブルのセットが二組置かれている。丁度一時だ。

     緑風の山を越え行く十二人 ガイドブック(案内書)の絶景へ行く  千意

     お茶を飲み、十五分程休憩して出発する。「まだ上り下りがあるのかしら?」「もうすぐ平坦ですよ。」「さっきの階段を下りるのかと思ったよ。」かなり標高があるから「平坦」とはいかないが、だらだら下りの山道が続く。やがて少しづつ民家が現れてきた。しかし表札もなく住んでいる気配のない家が多い。高齢者はこんな坂道に住むことができなくて町のマンションに引っ越していったのではなかろうか。商店らしきものも全く見えない。それなのに、やたらに大きなアメ車をおいた家がある。「こんなところで。」「無駄だな。ガソリン撒き散らすだけじゃないか。」こんな狭い道で車はすれ違えないから大変だ。
     住所表示が極楽寺になってきた。やっと町に近づいてきたらしい。「極楽寺は人気なんだ。」「テレビドラマがあったんだよね。」宗匠が言うのは、私たちの世代では勝野洋、長谷直美なんかの『俺たちの朝』だろうか。私は時々しか見ていなかったが、確か男女三人が同じ家で住む話ではなかったかしら。事前に千意さんから今日欠席のロダンに歌が贈られていた。

    時には思い出ゆきの 
    旅行案内書にまかせ
    「あの頃」という名の
    駅でおりて「昔通り」を歩く(略)

     私は全く知らないが、さだまさし作詞・作曲の『主人公』という歌らしい。同級生同士で結婚して、今でも愛妻家のロダンに相応しいか。それにしても千意さんがこういう歌に詳しいのには、いつもながら驚いてしまう。つくづく私とは感覚が違う。私はどうも、さだまさしはいけない。
     そして宗匠の言ったのも私の想像とは全く違って、『最後から二番目の恋』というドラマだったようだ。これも知らないからウィキペディアを引いてみると、「古都・鎌倉を舞台とした四十五歳独身女性と五十歳独身男性が繰り広げる恋愛青春劇」で中井貴一と小泉今日子が主演したものらしい。
     それにしても千意さんと言い、宗匠と言い感覚は若すぎないか。ひそかに懸念しているように、私の感覚が古すぎるか。私の味方はロダンだけだろうか。
     観光客が多くなってきた。導地蔵堂から曲がりこんで極楽寺に入る。真言律宗、山号は霊鷲山。鎌倉市極楽寺三丁目六番七。最盛期には七堂伽藍に四十九もの子院が立ち並んでいたと言う。

     正元元年(一二五九年)、北条重時が当時地獄谷と呼ばれていた現在地に移したものであるという。ここに極楽寺が建てられたのは、現実には死骸が遺棄されたり、行き場を失った者たちが集まったりする「地獄」ともいうべき場所になっていたためとの指摘がある。(ウィキペディア「極楽寺」より)

     写真撮影禁止の立札が置かれているのは何故だろう。茅葺の山門前には「当寺開基北条重時・開山忍性菩薩墓」と彫った石碑が立っている。重時は二代執権義時の三男で、三代執権泰時の弟にあたる。六波羅探題として十七年間都に在住し、後、連署として五代執権時頼を補佐した。
     重時が家訓として書いた「極楽寺殿御消息」は武家の家訓の最も古いものとして有名だが、これを見つけた。百か条ほどある中から二つほど引いてみよう。

    一 主人の仰なりとも、よその人のそしりを得、人の大事になりぬべからん事を、いかにもよくよく申べし。それによりて、かんだうをかふらん、くるしかるまじきなり。よくよくあんぜさせ給候はゞ、道理にきゝて、いよいよかんしんあるべし。又神仏もめぐみ給ふべし。

    一 馬にのりてたかき坂をゆかん時は、生ある物なれば、くるしからんとおもひて、とゞめてやすむべし。よわき馬などにてたかき坂をばおりてひかすべし。ちく生はかなしみふかき也。(心)得べし。

     なかなかのものではなかろうか。最初のは、道理に合わないものならたとえ主人の命令でも従わなくて良い、諌言せよと言っているのである。二つ目の「生ある物なれば、くるしからんとおもひて」なんて言うのは仏教臭が濃いが、今でもこの言葉を教えてやりたい連中はいくらでもいる。義時、泰時を筆頭に、幕府安定期の北条得宗家にはなかなかの人物が揃っていた。
     見るべきものも少ないし、写真を撮ってもいけないのでは詰まらない。外に出ようかと思った時、隊長が「オガタマの花があるよ」と呼びとめてくれた。香りが良い。少し厚ぼったいような花弁が六枚、真ん中が赤くなっている。雌蕊は太い緑で、赤っぽい雄蕊が無数に取り巻いている。モクレン科の常緑樹である。写真撮影は禁止されているが、ご婦人が携帯電話で撮影しているので、私もこっそり写してみた。「建物を撮らなければいいんじゃないの。」宗匠の言葉を信じた振りをすればよい。
     オガタマはオギタマ(招霊)の訛りである。榊と同じように神前に供えたものらしい。ネットを検索すると、アメノウズメが天岩戸の前でストリップをしたときに手にしていたという記事が多いのだが、その典拠を発見できないから未確認情報としておく。

     をがたまの花に惹かるか極楽寺  閑舟

     芍薬の花も咲いている。「これって牡丹じゃないよね。」「立てば芍薬座れば牡丹。」別に牡丹も咲いている。黄色の花菖蒲もある。山門を出ると極楽寺前の橋は、ちょうど江ノ電のトンネルになっており、出てくる電車を撮影するポイントになっているようだ。そんなに腰をかがめて橋の隙間からカメラを構えなくても良いではないか。一所懸命にカメラを構えている人には気の毒だが、私はこういう熱意がよく分からない。なぜか、オカチャンが嬉しそうに「撮影ポイントですよ」と宣伝してくれる。
     次は成就院だ。「あそこです。」狭い道は極楽寺坂切通しだ。少し先の右側に見えるのが石成就院の石段だろうが、その前に、角の石段の所に小さな石碑があるのを若旦那と一緒に発見した。「なんでしょうかね。」車が走るのでなかなか横断できず、若旦那は諦めて先に行ってしまったが、こういうものはきちんと確認しなければならない。さて、文字はなんだろう。なんと、上杉憲方墓とあるではないか。憲方は山内上杉氏の祖であり関東管領になった人物である。ノリカタと読んだが、ノリマサが正しいらしい。それにしても、こんな道端に墓があるのか。しかしウィキペディアによれば、憲方墓は明月院にあることになっている。ここにあるのは、下記の記事に関係していることは間違いない。

     神奈川県鎌倉市極楽寺にある上杉憲方のものと伝えられる墓。墓は極楽寺坂の南側山裾の道路脇に位置している。この一帯は極楽寺の子院西方寺跡といわれるところで、墓塔の周辺には遺存状態がよい五輪塔や多層塔などが残されていることから、一九二七年(昭和二)に国の史跡に指定された。(「伝上杉憲方墓」)
     http://kotobank.jp/word/%E4%BC%9D%E4%B8%8A%E6%9D%89%E6%86%B2%E6%96%B9%E5%A2%93

     「極楽寺坂の南側山裾の道路脇」とはこの場所ではないのだろうか。しかし「国の史跡に指定された」ものとは到底思えない。別のサイトを調べてみると、これは墓地の入り口を表す道標であったらしい。墓地はおそらくこの階段を上ったところにある。墓は七層塔になっているらしい。ただ先にも書いたように、これと名月院の墓との関係は分からない。だからここは「伝上杉憲方墓」とあって、歴史的には謎のままである。
     写真を撮り終わると、みんなはもう成就院の石段に到着している。急いで追いつく。成就院は真言宗大覚寺派。山号は普明山。鎌倉市極楽寺一丁目一番五。新田義貞の鎌倉攻めで焼失し、江戸時代に再建された寺だ。
     二時少し前。西結界の門をくぐって石段を登ると、坂の途中には青いアジサイが四株ほど咲いていた。山門前から下る急坂の向こうに海を望むのは絶好だ。湾曲する由比ガ浜の波は高い。「ウィンドサーフィンしてる。」確かにそれらしきものが見えるが、浪が高くてすぐに倒れてしまうようだ。
     門前に紫陽花と白波を写した写真が掲示されていて、これを写真に収める女性もいる。観光地に来たアリバイのためであろうか。丁度やって来た女性三人に海がきれいだと教えていると、「皆さんもおきれいです」と千意さんが笑う。「どうも有り難う、ホホホ。」こういう御愛想をサラッと言えるのは人徳である。私だったら却って怪しまれるところだ。暫く海を眺めてから境内に入る。

     成就院や五月波立つ由比ヶ浜  閑舟
     紫陽花や眼下に寄する白き波  蜻蛉

     「この花はなんだい?」スナフキンが首を捻っているのは、青紫と白の花が混じっているもので、ジャスミンではないかと思った。「そうか、香りがいいからな。」その根元には大きな赤いアジサイと、ガクアジサイが咲いている。「もう咲いてるのね。」カメラを向けていると後ろから若い女性の声が聞こえてくる。
     もう一度海を見て極楽寺方面に戻り、さっきの橋から江ノ電に沿うように南西方面に向かう。太陽が眩しいが時折強い風が吹く。「海が近いね。」針磨橋の石碑柱が立っている。

    鎌倉十橋ノ一ニシテ往昔此ノ附近ニ針磨(針摺)ヲ業トセシ者住ミニケリトテ此ノ名アリトイフ

     鎌倉町青年団が昭和十三年に建てた碑である。江ノ電の踏切を二度渡ると、左の角にあるのが十一人塚だ。千意さんは寄る積りがなかったようだが、折角だから見ておこう。「大したもんじゃないんだろう?」「特に大したもんじゃないよ」と簡単に言っては見たものの、実は新田義貞の戦術に大きく影響したものだった。

    元弘三年(一三三三)五月十九日 新田勢大館又次郎宗氏ヲ将トシテ極楽寺口ニ攻入ラントセシニ敵中本間山城左衛門手兵ヲ率イテ大館の本陣ニ切込ミ為ニ宗氏主従十一人戦死セリ即遺骸ヲ茲ニ埋メ十一面観音ノ像ヲ建テ以テ其ノ英魂ヲ弔シ之ヲ十一人塚ト称セシト云フ

     又次郎とあるが、『太平記』では次郎宗氏と書かれていて、新田氏の同族である。鎌倉攻めに当たって義貞は軍を巨福呂坂、化粧坂方面、極楽寺坂方面の三つに分けた。極楽寺方面の左将軍が大館次郎で、右将軍には江田三郎行義が当たった。その勢十万余騎と『太平記』は書いている。迎え撃つ鎌倉方は大仏陸奥守貞直が大将で、新田軍はこれを破ることができず、大館宗氏はここで戦死したのである。「新潮日本古典集成」本の注では、左将軍は総大将の意味である。
     極楽寺坂切通しが、いかに堅固な防衛ラインだったかが想像できる。新田義貞はこれに驚愕して切通しの突破を諦め、稲村ヶ崎経由の道を選んだ。

    明け行く月に敵の陣を見たまへば、北は切通しまで山高く路けはしきに、木戸をかまへかい楯を掻をかいて、数万の兵陣を並べて並みゐたり。南は稲村崎にて、沙頭路せばきに、波打ちぎはまで逆木を繁く引き懸けて、沖四、五町が程に大船どもを並べて、櫓をかきて横矢に射させんと構へたり。(『太平記』)

     稲村ヶ崎は海岸沿いの細道しかなく、海から矢で狙われていたが、干潟になって鎌倉方の船は遠ざかったのだ。
     同じ敷地に「新田義貞 稲村ヶ崎古戦場」の碑も立っている。この角を左に曲がると、急に潮の匂いが強くなってきた。国道に出る極楽寺橋を渡ると、鎌倉海浜公園だ。海は波が高く、サーフィンの連中は砂に上がって休んでいる。「一人いるぜ。」確かに一人だけ海の中で頑張っている男がいるようで、時折頭が波の上に浮かんでくる。
     ここにも鎌倉町青年団による碑が立っている。これは大正六年のものだ。

    今ヲ距ル五百八十四年ノ昔元弘三年(一三三三)五月二十一日新田義貞此ノ岬ヲ廻リテ鎌倉ニ進入セントシ金装ノ刀ヲ海ニ投ジテ潮ヲ退ケンコトヲ海神ニ祈レリト言フハ此ノ処ナリ

       「金の剣を投げるなんて勿体ないよね。紐が結んであったりして。」「やっと思い出した。尋常小学唱歌だった。」若旦那が笑う。一番の歌詞だけ知っていても、タイトルが『鎌倉』で、八番まである歌詞の中で新田義貞は一番だけに登場するなんて気づかなかった。つまり鎌倉観光案内の歌なのだが、こんなことを今頃気づくのだから私の知識も杜撰だ。ということで、二番まで引用して見る。作詞は芳賀矢一、作曲者は不詳だ。

    七里ケ浜の磯伝い
    稲村ケ崎名将の
    剣投ぜし古戦場。

    極楽寺坂越え行けば、
    長谷観音の堂近く
    露坐の大仏おわします

     鎌倉名所の一番が稲村ケ崎だとは納得がいきかねるが、おそらく南朝の「忠臣」新田義貞を顕彰する必要があったのだろう。

     明治維新によって北朝正統論を奉じてきた公家による朝廷から南朝正統論の影響を受けてきた維新志士たちによる明治政府に皇室祭祀の主導権が移されると、旧来の皇室祭祀の在り方に対する批判が現れた。これに伴い、一八六九年(明治二年)の鎌倉宮創建をはじめとする南朝関係者を祀る神社の創建・再興や贈位などが行われるようになった。また、一八七七年(明治十年)、当時の元老院が『本朝皇胤紹運録』に代わるものとして作成された『纂輯御系図』では北朝に代わって南朝の天皇が歴代に加えられ、続いて一八八三年(明治十六年)に右大臣岩倉具視・参議山縣有朋主導で編纂された『大政紀要』では、北朝の天皇は「天皇」号を用いず「帝」号を用いている。(ウキペディア「南北朝正閏論」)

     ところで七里ケ浜の名は、稲村ヶ崎と小動岬との間が七里あることから名付けられたと言われてきた。「七里って言うけれども、魏志倭人伝じゃ狗邪韓國から対馬まで千余里だからね。一里は百メートルもない。」ハコサンが不思議な比較してくれる。同じ単位を使っていても時代によって長さが異なるのは当たり前で、まして魏の度量衡が日本中世にそのまま適用される筈はない。尤も鎌倉時代の関東では一里は六町、一町が百九メートルとされるので、一里は六百五十四メートル、七里では四・六キロ弱になる。
     「小動岬って、江の島の手前のあそこだろう。」あれなら四キロもあるとは思えない。実際の七里ケ浜の長さは二・九キロ程しかなく、その命名由来には様々な疑問が投げられている。ウィキペディア「七里ヶ浜」から引用してみる。

     近年、「これは鶴岡八幡宮と腰越の間の距離であり、『浜七里』と呼んだ」という説が出された。密教の「七里結界」に基づくもので、裏鬼門(南西)方向に七里の腰越までが浜七里だという。そして、鶴岡八幡宮の鬼門(北東)方向に野七里という地名が現存する(横浜市栄区)。八幡宮からこの野七里までの直線距離は、関東里の七里に満たない。また、間に険阻な丘陵がある。朝比奈切通しを経由すると若干遠回りになる。これはまだ通説にはなっていないようだが、興味深い説である。

     七里結界とは、魔障の侵入を防ぐために七里四方に境界を設けることである、と辞書には書いてある。この説が当たっていそうな気がする。数値は問題ではないのだ。これをケッカイと読むかケッパイと読むのか今まで曖昧にしてきたが、ケッパイはケッカイの訛りである。ただなんとなく、シチリケッパイという方が玄人っぽい感じがする。
     ところで、私はずっと義貞は干潮を利用したのだと思って何も疑わなかったのだが、通常の気象条件で干潮が起こるのなら鎌倉方が知らない筈がない。そして.義貞に従った多くの関東武者にとっても、それ程不思議ではなかっただろう。それならば天変地異が起こったか。昔から疑問を感じる人はいたが、未だに正解は得られていないようだ。

     五月二十一日の未明に稲村ヶ崎で干潮が生じたことは天文学者小川清彦の検証によって証明されている。義貞は幕府御家人として鎌倉に在住することも多く、さらに結果として失敗したが先立って大舘宗氏が突破を敢行しており、干潮については把握していてもおかしくは無いと指摘される。一方で、稲村ヶ崎を守備する幕府軍も、当然そのことは知悉していたと考えられる。
     久米邦武は稲村ヶ崎徒渉を虚偽であると断定した。これに影響を受け、三上参次も干潮虚構説を支持した。久米は、『和田系図裏書』に所収されている軍忠状を援用して、河内の武士三木俊連が、霊山をよじ登り、背後から幕府軍を奇襲し、義貞らが鎌倉に突入する道を開いた、という見解を示した。これに対して、大森金五郎は、徒渉説を支持した。峰岸純夫は、突発的な地殻変動や自然現象が起こり、幕府軍の想像を絶する大規模な干潟が出現したのではないかと推量した。高柳光寿は、『梅松論』にある「石高く道細し」という記述に着目して、干潟を通ったのではなく、山道を通って鎌倉に突入したと解釈した。石井進は、小川清彦の計算記録と当時の古記録との照合から、新田軍の稲村ヶ崎越え及び鎌倉攻撃開始を干潮であった五月十八日午後とするのが妥当であり、『太平記』が日付を誤って記しているとする見解を平成五年(一九九三年)に発表している。(ウィキペディア「新田義貞」より)

     年長の少年に、小さな子供が縋りつくように立つ像がある。「有名なのかい?」私が眺めているとスナフキンが近づいてきた。碑文を読むとボート遭難碑であった。台座には『七里ガ浜哀歌』の歌詞を彫ってある。碑文はこんな調子だ。

     前途有望な少年達のこの悲劇的な最期は当時世間をさわがせましたがその遺体が発見されるにおよんでさらに世の人々を感動させたのは彼らの死にのぞんだ時の人間愛でした
     友は友をかばい合い、兄は弟をその小脇にしっかりと抱きかかえたままの姿で収容されたからなのです
     死にのぞんでもなお友を愛しはらからをいつくしむその友愛と犠牲の精神は生きとし生けるものの理想の姿ではないでしょうか

     さっきも記したように、頭の悪い子供たち(最年長は二十二歳だったようだが)の無謀な遭難事件である。顕彰する理由は全くないのに、「前途有望」「友愛と犠牲の精神」なんて煽り立てる人がいるから困るのだ。この像はどうやら徳田勝治、武三(小学生)の兄弟である。
     「上からの眺めがいいですよ。」千意さんの言葉で高台を目指す。確かに眺めがよいが、風が強くなってきた。ローベルト・コッホの記念碑がある。明治四十一年(一九〇八)来日したコッホ夫妻を北里柴三郎が案内したのは、実はここではない。コッホを案内したのは、かつて霊山(リョウゼン)山と呼ばれて眺望の良さで知られていた場所だったが、関東大震災でその山容は全く変わってしまったので、昭和五十八年にここに移されたと言う。霊山山は成就院の後ろに聳える山で、極楽寺坂の戦いで鎌倉方が陣を構えた。この時、コッホ夫妻は七十日も日本に滞在した。
     「富士山が見えないのは残念だな。」「でも薄っすらと見えますね。」そう言われれば、江の島の上空に見えるような気がしてくる。「津波が来れば江の島も沈んじゃうじゃないか。」規模にもよるだろうが、さっきの極楽寺方面だって沈む可能性は高いだろう。
     ここからリーダーは砂浜を歩いて行く。砂の色は砂鉄が多く混じっているように黒い。ウィキペディア「稲村ケ崎」によれば、古代、この地で製鉄が行われていたと言う。そして当然のことながら砂浜は歩きにくい。足が重くなってくる。
     「日本海と比べてどうなの?」とヤマチャンが訊いてくる。「日本海は暗いんだ。」「そうでしょう、そうだと思うよ。」高校時代、お盆過ぎの海岸に行くと寒々しい気持ちがしたのは、当時の私の感傷のせいだったろうか。あの頃、「今はもう秋 誰もいない海」なんていうフレーズが身に沁みた。ボクの恋人東京へイッチッチ、という気分でもあった。
     県道を横切って町に入り、コンビニで煙草を買って追いかけると、途中の八百屋で若女将が引っかかっていた。夏みかんのようなものを一袋抱えているではないか。「美味しいんですって。聞いたのよ。」「トマトが安い」と桃太郎は百円の値段を見て未練ありげに呟く。「ほんとに安いんだから。普通、百五十円はしますよ。」「先に行ってて頂戴、見えるから。」
     駅はすぐそこで、若女将を待つ。今日の歩数は、スナフキン、ヤマチャン、宗匠の意見を勘案して一万五千歩と決めた。歩数は大したことがないが、山道の上り下りだから結構疲れている。それにしても八十歳を超えた二人が、同じように歩き通したのは賞賛に値する。
     江ノ電は予想通り混んでいるが、身動きできないほどではない。分散して、なるべく空いていそうな入り口から飛び込んだ。少し遅れてきた親子連れ三人は乗り込むのを諦めたが、これ以上待っても状態が改善するとは思えない。親子は永遠に待ち続けるのだろうか。反省会には若旦那夫妻とオカチャンを除いた九人が参加する。
     鎌倉駅も人でいっぱいだ。「そこで出てください」という千意さんの言葉で改札を出ると記憶のない景色だ。「普通は向こう側なんだよ。」千意さんはおそらく混み具合で判断したのだろう。線路の下を潜って向こう側に出る道があった。鳥居が見えれば記憶がある。
     「明るい。」まだ三時半を過ぎた頃だ。やっている店はあるのだろうか。鎌倉の飲み屋は高いのではないかと思っていたが、千意さんが連れて行ってくれたのは和民鎌倉駅前店である。「やってるのかい?」「お昼からやってる。」
     禁煙席、喫煙席どちらでも良いというので、それなら喫煙席を選ぶ。少し離れた窓際には、小学生らしい子供を連れた男がいるのは、どうしたものだろう。時間的には子連れでも良いが、喫煙席に座ることはないではないか。自分で煙草を吸う癖に、喫煙席に子供を連れてくる奴は嫌いだ。孫の前では一切吸わないようにしよう。
     突き出しは二品出てくる。「これが高いんじゃないか。」注文担当の桃太郎はすべての品を三つづつ頼んだ。しかし枝豆は二皿しか出てこない。「もうひとつ来るんだろう?」しかしこれで三人分だった。三人と六人でテーブルが少し離れているので、気を利かせて一人前と二人前で器を変えているのだった。「鉢の大きさを見ればすぐ分かるでしょう?」笑われてしまうが、そこまでよく見ていなかった。店の女の子も笑っている。
     ほとんどの焼酎四合瓶ボトルが千九百三十円とは安い。「黒霧島はこの間飲んだしな。」「それじゃ一刻者にしよう。」「これだけが完全に芋だけなんだ。」それがスナフキンが自宅で飲む理由らしい。普通に買っても千四百円だから絶対お得である。ひとり二千七百円也。

     「野毛で飲みましょうよ。」さっきから桃太郎がスナフキンを頻りに誘っている。確かに時間はまだ早い。私は、一度は断ったのだ。桜木町で一緒に降りたのは拉致されたせいである。「飲みすぎないで」と宗匠やヤマチャンが笑っている。
     この辺りが野毛なのか。「どこに行きましょうか?」「あれっ、桃太郎が知ってるんじゃないの。」「ここはスナフキンの縄張りだと思ったから。」
     桃太郎が行きたがっていた「末広」という有名店は、外で並ぶほど混んでいるので諦めた。焼鳥を並んでまで食いたいとは思わない。「ここも有名だよ」とスナフキンは満州焼きの庄兵衛(だったかな?)に入る。チェーン店とは違う昔ながらの大衆酒場で、多少ガタガタするテーブル席は結構埋まっているが、三人掛けのテーブルが空いていた。「日本酒にしようぜ。」ここではスナフキンがリーダーだから従わないわけにはいかない。
     熱燗は平べったい土瓶のような容器に入ってきた。ずっと前に、まだ焼酎がそれほど普及していなかった頃、新宿の鹿児島焼酎を専門に飲ませる店で出された、お湯割りを入れる容器に似ている。「珍しいよね」と桃太郎も喜ぶが、大きめのガラスの猪口に入れるとすぐになくなってしまう。
     タンは売り切れだったのでハツ、レバ、カシラなど四五種類を塩で頼む。なかなか旨い。「宗匠がいないからね。」焼鳥は宗匠のいないときに隠れて食うものである。先週の川越に引き続き、二週連続して焼鳥を食うのは私にとっては珍しい。先週の川越というのは、画伯の個展を見て少し散策した後入った焼鳥屋である。川越ならさくら水産かビッグが定番だったが、さくら.水産も少し飽きてきた。初めて入った店で案外旨かったが、桃太郎が焼き鳥ばかり大量に注文したものだから、最初は美味しいと喜んでいたあんみつ姫が悲鳴を上げていた。
     「そうかい、俺はしょっちゅう食べるよ。」満州焼きとはカシラの甘味噌タレ焼きで、私にはちょっと甘さが強かった。酒は何合飲んだろうか。焼鳥がなくなったところで、「次に行こうぜ」とスナフキンが宣言して勘定をする。四千円ちょっとだ。「ここは俺が払っておく。次で調整しよう。」ひとはこんな風にして梯子酒をするのである。
     今度はシラスの看板が出ていた店に入る。「シラスは握り二個分しかないんですが、小さめで三個に握りましょうか?」それで良い。たかがシラスでも話の種である。刺身も頼み、日本酒を飲んで六千円ほどになった。二軒で一万千円程なら一人三千五百円だからまずまずだろう。この時の私は、さっきの和民と交通費を加えれば八千円近い出費だったことをすっかり忘れている。乏しい小遣いをもらう身であることを、しっかり自覚せねばならない。
     横浜からスナフキンは横浜線に乗り、田舎者の私を桃太郎が東横線の改札まで送ってくれた。「桃太郎は?」「自分はどっからでも帰れますよ。」もしかしたらもう一軒行ったんじゃないか。幸い和光市駅行に座れたので、途中眠って無事終点まで帰って来た。実に便利になったものである。

    蜻蛉