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    平成二十六年六月二十八日(土)  八王子城

    投稿:   佐藤 眞人 氏     2014.07.05

     旧暦六月二日。節季は夏至、七十二候では菖蒲華(あやめはなさく)となる。梅雨の真最中で、今週も時折局地的に雷を伴って猛烈な豪雨が降った。火曜日には三鷹や調布でかなり大きな雹が降った。これを氷雨と言い夏の季語になっている。但し俳句の世界以外では冬の霙混じりの雨を氷雨と言うのは、「・・・・外は冬の雨まだやまぬ この胸を濡らすように」という歌(『氷雨』とまりれん作詞・作曲)があることでも分かる。
     「何時に出るの?」妻には弁当を詰める都合があり、質問する権利がある。「いつもと同じ。」「通勤と同じってこと?」「『花子とアン』が終わったら。」NHKのBSの放送は七時四十五分に終わる。
     毎日見ているこのドラマに不満はある。宮崎滔天の長男龍介を演劇青年にするなんていう下手なフィクションを作らず、史実に忠実にした方が良かったのではないだろうか。東大新人会を絡めてくれば大正デモクラシーや社会主義との関わりも見えて来た筈だし、そうでなければ、花子の兄(憲兵・非実在)が龍介の周辺を探る意図がぼやけてしまう。また子供向けの雑誌を編集するなら、当然『赤い鳥』についても触れなければならず、花子と片山廣子(芥川龍之介の最晩年の恋人、堀辰雄『聖家族』の細木夫人のモデル)や市川房枝との交友も知りたくなってくる。『王子と乞食』の翻訳は後に片山廣子に勧められたものだからだ。しかし、こんなことはないものねだりである。
     朝飯を食い終わり、妻が弁当を用意する間に準備する。天気予報では今日一日中降り続くことになっているが、合羽は暑すぎるだろうと思ってやめた。シャツなら濡れても着替えればよい。靴下も濡れるだろうと、替えのシャツと靴下をリュックに入れた。ところが肝心の隊長作成の案内文を入れ忘れてしまい、ボールペンも忘れてしまった。
     家を出る時には降っていなかったので折り畳み傘にしたが、駅に着く頃には雨が降ってきた。駅前のセブンイレブンでボールペンを買って電車に乗り込む。百五十円の出費は実に無駄なことであった。朝霞台で武蔵野線(北朝霞駅)に乗り換え、西国分寺で中央線に回る。高尾駅は三度目になるのに、未だにこの辺りの路線の関係が分かってない。青梅行きに乗ってしまったから、立川駅でまた乗り換えなければならない。

     高尾駅で降り、階段に向かうところでスナフキンと会った。「家を出たのが九時頃だった。」いつもは一番遠くまで来るのだから、たまには良い。「今日は精々五六人だろうな。」「まず女性は来ないと思う。」しかし予想は外れ、北口に出るとカズチャンがいた。「久し振りね。」元気そうではないか。「どうしようかと思ったけど、思い切って出てきたの。この間はゴメンナサイね。」謝ることはない。こうして元気な顔を見せてくれれば安心する。
     隊長、カズチャン、画伯、ダンディ、オカチャン、千意さん、スナフキン、ロダン、蜻蛉。この天気で九人も集まるとは快挙ではあるまいか。「下手すると二三人しか来ないじゃないかって心配したよ」と隊長も笑う。外はかなりの降りだ。画伯、オカチャン、千意さん、スナフキン、ロダンは上下組みの合羽を着込んで準備万端怠りない。ロダンはいつ、こんなちゃんとした合羽を買ったのだろうか。「息子のお下がりですよ、ハハハ。」
     「五十六分着の電車まで待つからさ、先に停留所に行っててよ。」もう少し雨宿りしていたいと思ったのに、隊長の言葉を無視するわけにはいかない。しかし素直に停留所に向かったのは画伯と二人で、ほかの連中は駅舎に愚図々々していてなかなかやって来ない。それならこんなに早く雨の中に出てこなくても良かった。バスを待っていると、なんだか少し寒くなってきた。隊長が待っていた電車では誰もやって来なかったから、本日は九人で確定だ。
     十時二分発「八王子城跡行」のバスは私たちだけで貸切になった。この雨の中で標高四百四十六メートルの山に登ろうなんて酔狂な連中は、私たち以外にはいないだろう。十五分程で終点に着き運賃は百八十円だった。この辺で標高二百メートルになる。
     実は八王子城のことを私は知らなかった。仕事先でも誰も知らなかったから世間的にも余り有名ではないのだろう。隊長はボランティアのガイドを頼んであるらしいので、おいおい詳しいことが分かる筈だ。
     歩き始めて五、六分で到着したのはガイダンス施設である。八王子市元八王子町三丁目二六六四番二。中に入る前に玄関前で隊長が挨拶する。「この雨ですから頂上には行きません。登りは大丈夫だろうと思うけど、下りで滑ってしまう恐れがあるからね。」スナフキンは折角ストックも持ってきたのに、それでは活躍する場がないではないか。「山は滑ると思って、家を一度出たのにまた取りに戻ったんだよ。」「ここで八王子城の概要をつかんでおきましょう。」
     山小屋風の造りの白いきれいな建物は、平成二十四年十月にできたばかりの施設である。玄関前には「日本百名城・八王子城」の幟が雨に揺れている。入口に設置されたパンフレットの中から、「北条氏略系図」と年表、「日本百名城八王子城遺構鳥瞰図」のコピーなどを手に入れて中に入ると、先客には二人の高齢者男性がいた。
     ところで「日本百名城」とは何だろう。「また勝手に、百名山を真似したんでしょう。」調べてみると、財団法人日本城郭協会という組織が二〇〇六年四月六日に認定した。これによって、四月六日は城の日と決められている。

     日本城郭協会は、昭和三十一年四月に任意団体として設立されました。その後昭和四十二年六月に文部省(現、文部科学省)の認可を受け、現在は公益財団法人日本城郭協会として活動を続けています。活動の目的は「日本および世界各国の城郭に関する研究、調査、啓蒙を通じて、民族、歴史、風土に関する知識の普及を図り、もって教育、文化の発展に寄与すること」と定款に定められています。
     (日本城郭協会 http://www7a.biglobe.ne.jp/~nihonjokaku/kyokai.html)

     設立の中心になったのは井上宗和という、カメラマンで古城マニアともいうべき人物だったらしい。ただ「日本百名城」の選定委員は新谷洋二(土木・都市計画史)、小和田哲男(戦国時代史)、黒田日出男(中世史・美術史)、千田嘉博(城郭考古学)、平井聖(近世建築史)、村井益男(近世史)とあるので、そんなにいい加減な選定ではなさそうだ。この中では千田嘉博『戦国の城を歩く』を読んだことがある。ただ中世の城跡は難しい。天守閣や石垣なんていうものが存在しないのだから、縄張り等の知識がなければ空堀跡や土塁を歩いていてもそんなに面白いものではないのではないか。この時点で私は八王子城について全く無知である。
     椅子に座って身じろぎもしないのは管理人であろうか。管理人だとしても、もう少し愛嬌があっても良いのではないか。その横に展示してある手作りの甲冑は、着色されたプラスティックの胴に、大振りのサネを縅糸でかがり付けたチャチなもので、素人のお遊びに過ぎない。ボランティアによる甲冑制作講座が催されているらしいが、こんなものを飾る意義は何だろう。

     着用と観賞、共に堪能できる本格的な甲冑を製作します。製作には、八王子城跡オフィシャルガイドが技能を伝授し、お手伝いをします。武具等の製作に全くの未経験の方でもご心配はいりません。また、甲冑づくりに参加された方は、北条武将として「北條氏照まつり」や各地のイベントにも、手づくりの甲冑姿で参加できます。
     http://www.shiencenter-hachioji.org/event/event_detail.html?q=ev130217-142213

     この講習に参加するには三万円の参加費が必要となる。ネットで調べてみると、「着用甲冑制作キット」なんていうものが売られているから、その材料費なのだろう。ネット上の「北条氏照まつり」の写真を見れば、ここに展示してあるものとはかなり違って、結構それらしく見えるものを身に着けている。
     「北条氏照まつり」というのは、元八王子地区連合町会によって平成二十四年に初めて開催されたもので、従来行ってきた地区対抗の運動会に替えて、こんなものを企画したらしい。連合町会のメンバーに、八王子城跡ボランティアが参加して、甲冑姿で練り歩く。その時のための手作り甲冑である。
     しかし、こんなことよりも北条氏が関東をどう制覇してきたかの方がずっと重要だ。歴代当主の名前のボタンを押すと、城の名前が赤くなって領域が示される。最初の頃の地図に八王子城はない。氏政のボタンを押してやっと八王子城が出現した。つまり新しい城である。
     地形を立体化したものもある。これを見ると山麓には平時城主が住まいした御主殿や会所が並び、山頂には戦時に籠った本丸がある。「あんな上にあるんだよ。」戦国末期としては珍しく(時代的には平城が主流になってきた頃だ)、標高四四六メートル(比高二四〇メートル)の深沢山の全域を利用した山城である。山裾の南東には城山川が流れ、対岸も丘陵地帯だから、堅固な城だっただろう。
     頂上に八王子権現が祀られていたので八王子城と呼ばれた。八王子権現とは、牛頭天王の八人の王子である。

     城は大まかに、城下町に当たる「根小屋地区」、城主氏照の館のあった「御主殿跡」などの「居館地区」、戦闘時に要塞となる「要害地区」に分かれています。
     この城が築かれた時代は、それまでの戦闘重視の山城から、近世的な天守閣を持つ平山城、平城への転換期であり、比較的なだらかな丘陵を利用して構築された滝山城から、より急峻な八王子城に移ると言うことは、時代を逆行する面もありました。しかし、安土城をはじめ関西の城で取り入れられるようになり、後に近世城郭の一つの特徴ともなった石垣を取り入れているところに、古い時代の山城にはない、八王子城の特徴があります。
     (八王子市http://www.city.hachioji.tokyo.jp/kyoiku/rekishibunkazai/004416.html)

     私は北条氏の歴史に疎いので、まず系図から確認しなければならない。初代が早雲であるのは誰でも知っている。かつて早雲は一介の素浪人が下剋上で成り上がったとされ、昔の時代小説(海音寺潮五郎だったろうか)はそれを踏襲していたから私もそう思ってきた。しかし戦後の研究によって、備中伊勢氏、足利義尚の申次衆だった伊勢新九郎盛時だとするのが今の定説である。伊勢氏は桓武平氏で、室町幕府の政所執事を代々世襲した名門であった。
     新九郎が駿河に入ったのは、将軍の意を受けて今川家の家督争いを調停するためだった。姉(又は妹)の北川殿が今川義忠の正室であったことが理由であろう。姉が名門今川氏の正室になるのだから、それに相当する身分があったと考えるのが自然だ。
     そして将軍の意向通りに今川家当主となった氏親によって、新九郎は所領を与えられ、駿河国守護代の地位を獲得した。やがて相模に進出して小田原を手に入れたが、自身は最後まで伊豆韮山を本拠として過ごした。まだ北条氏を名乗ってはいない。
     小田原城を本拠として北条氏を名乗ったのは二代氏綱だ。北条を名乗った理由は、関東を本拠として全国を統治した鎌倉北条氏にあやかったものだろうか。この時代に北条氏が武蔵国に本格的に進出する。この時代の関東は山内上杉、扇谷上杉、古河公方、武田、里見などが抗争を続けていて非常に分かり難い。江戸城、岩槻城、毛呂山城を獲得して、松山城と河越城とのラインを分断した。
     三代氏康は、北条五代の中で最も評価が高い人物だろう。天文十五年(一五四六)の河越夜戦に勝利して、関東制覇の主導権を握った。課税の単純化・軽減化を図り、民政の充実に力を尽くした。
     四代が氏政である。長兄新九郎が早世したため次男でありながら家督を継いだ。氏政の時代に北条氏の版図は相模・伊豆・武蔵・下総・上総・上野から常陸・下野・駿河の一部に及ぶ最大規模となっている。家康の検地で二百四十万石である。
     五代目が氏直だが、小田原滅亡の時に氏直はまだ二十八才であり、全権は隠居した氏政が握っていた筈だ。小田原合戦の結果、氏政、氏照兄弟は死を命じられたのに、氏直は命を許された。氏直は三十歳で死んだが、従弟が名跡を継ぎ、これによって北条氏は河内狭山藩一万石の大名として幕末まで続くことになる。これも私が知らなかったことで、北条氏は全て小田原で滅びたと思い込んでいた。氏直が家康とつながりがあったこともあるが、抗戦派は氏政・氏照であり、氏直は恭順派とみられていた。
     「当主がボンクラだから滅びた。」これは北条滅亡の結果から導き出された俗説である。誰が当主であっても秀吉の全国制覇の目的からして、関東の要衝を抑えている北条氏は滅ぶべき運命にあっただろう。
     ところで北条氏五代百年の領国支配は、比較的穏やかな民政、官僚による合議制を特徴として、戦国時代としては最も成功した例である。全国で初めて検地を実施したのが北条氏であることも覚えておいてよいだろう。「小田原評定」はウィーン会議の「会議は踊る」と同じように、今では否定的な意味でしか使われないが、合議による政治は当時最先端の合理的な政治手法であった。

     後北条氏は内政に優れた大名として知られている。早雲以来、直轄領では日本史上最も低いと言われる四公六民の税制をひき、代替わりの際には大掛かりな検地を行うことで増減収を直に把握し、段階的にではあるが在地の国人に税調を託さずに中間搾取を排し、また飢饉の際には減税を施すといった公正な民政により、安定した領国経営を実現した。江戸期に一般化する村請制度のさきがけと言える。
     また、家督を継承するにあたっては、正室を重んじることにより、廃嫡騒動やそれに起因する家臣団の派閥化といった近隣諸国では頻繁に見られる内部抗争や離反を防ぐことに成功。さらにその結果として宗家のほとんどが同母兄弟となり、その元に構成された一門と家臣団には強い絆が伴った。
     東国において、古河足利氏、両上杉氏、佐竹氏など血統を誇って同族間での相克を繰り返し国人の連合を戦力とした旧体制に対して、定期の小田原評定による合議制や虎の印判による文書官製など創業時の室町幕府系家臣団由来による制度の整った官僚制をもって力を蓄えた。(ウィキペディア「後北条氏」より)

     八王子城の城主は氏政の弟・三男氏照である。最初は滝山城(ここから北東約八キロ)に拠っていたが、永禄十二年(一五六九)甲州から小仏峠を経るルートを通って来た甲斐軍に攻め込まれて苦戦した。これがきっかけになって、より堅固な防衛体制を構築するために新たに八王子城を造った。
     築城はおそらく天正十年(一五八二)から十五年(一五八七)頃だったと推定されている。但し一挙に完成したのではなく、数年にわたって拡張を続け、落城の時点でも未完成だったらしい。地図を見ると山頂の本丸まで、高尾駅から北西に三キロ、八王子ジャンクションから真北に一・五キロというところだろうか。天正十九年(一五九〇)の秀吉の小田原攻めに際して落城したから、十年の命もなかった。

     三十分程見学して外に出る。雨は降り頻り、結構肌寒い。半袖シャツは考えが足りなかったか。「今日は五月中旬の陽気だって言ってたよ。」気温まで確認してこなかった。それでも千意さんは「暑い暑い」と合羽を脱いだ。
     左の道路脇の金網から黄色の花が覗いている。「ビヨウヤナギだね。」「こっちはキンシバイだよ。」
    カズチャンが区別を教えてくれと訊いてくる。「雄蕊が長いのがビヨウヤナギだよ。キンシバイと全然違うでしょう。」「どんな字を書くんだい?」美央柳(後で訂正する)と金糸梅である。「親類筋なんだろう?」どちらもオトギリソウ属オトギリソウ科である。
     石神井川の土手でこの花を初めて見たのは七八年前になるだろうか。こんなにきれいな花があるのかと思ったものだが、それ以後、あれほど美しいビヨウヤナギにお目にかかったことがないのが不思議だ。今日のビヨウヤナギも最初の印象より感動しない。「白秋の歌があるんだ。」以前にも紹介しているが、多分誰も覚えていないだろう。

      君を見てびやうのやなぎ薫るごとき胸さわぎをばおぼえそめにき (『桐の花』所収)

     『桐の花』は大正二年(一九一三)、白秋二十八歳のときに刊行された第一歌集である。前年七月に、白秋は隣家の人妻松下俊子との姦通罪で俊子の夫に告訴され、市ヶ谷未決監に収監された。姦通罪が成立するためには夫の告訴がなければならない。後、弟鉄雄の奔走で三百円の示談金によって告訴が取り下げられ、控訴棄却となったから白秋に前科はついてない。『桐の花』にはその事件を歌ったものも収録されており、事件そのものが桐の花事件とも呼ばれている。こんなことは余計なことだったか。

      降り濡つ未央柳や城の跡   蜻蛉

     さっきは「美央柳」と言ってしまったが実は「未央柳」が正しく、私はずっと勘違いしていた。「未」を「ビ」と読むことは、鷗外が「未亡人」は「ビボウジン」と読むのが正しいと、どこかで言っていた(今、典拠を思い出せない)。念のために大槻文彦『言海』をみると、確かに「ビ・バウ・ジン」とある。

      寡婦ノ異名。元来、自称ナルベシ、今、多クハ、他ヨリ敬称ノ如クニ用ヰル。

     『言海』刊行の明治二十二年の時点で、未亡人はビボウジンと呼んでいたことが分かる。また余計な横道に逸れてしまったが、未央柳の名は『長恨歌』に由来するようだ。未央宮の柳である。未央宮は漢代に高祖劉邦が長安に造営した宮殿であるが、唐の玄宗が楊貴妃と住んだ宮殿もこの名で呼ばれた。安史の乱で楊貴妃は死に、乱の終結後に玄宗皇帝は都に戻る。帰り来てみれば、太液池に咲く芙蓉(蓮)も未央宮の柳も元のままの姿で残っていた。

     歸來池苑皆依舊、太液芙蓉未央柳
     芙蓉如面柳如眉、對此如何不涙垂
        帰り来たれば池苑皆旧に依る 太液の芙蓉未央の柳
        芙蓉は面の如く柳は眉の如し 此に対して如何ぞ涙垂れざらむ

     芙蓉は楊貴妃の顔、未央柳は眉であり、それは再び帰らない愛の記憶である。「これは何だい?」スナフキンが指差すのは薄紫の花だ。「ホタルブクロ。」
     右手の駐車場を過ぎてすぐに管理棟前に着いた。隊長が雨の中に立っているガイドに声をかけた。「みなさん、どちらから?」「入間市から。」隊長はなんだか緊張しているようで、入間市は余計だ。「ほとんどが埼玉県で、それ以外の人もいます。里山を歩いているグループです。」「成程、埼玉県のひとなら鉢形城はご存知でしょう。ここは鉢形城にも大いに関係する城です。」鉢形城には氏輝の弟氏邦が拠っていた。東山道を通って来た上杉・前田・真田軍は、鉢形城を落とした後に八王子城を襲ったのである。
     「それで、どうしますか?」「この雨ですから上には行きません。」「成程、それじゃ御主殿までですね?」「そうして下さい。」ガイドとはいえ、この雨の中を案内してくれるのはご苦労なことである。これがボランティアのS氏であった。
     S氏が最初に立ち止ったのは深い堀の前である。「これは人工的に造った堀切です。今は水が流れていますが空堀です。」かなり鋭角的に切り立った崖で、深さは十メートル以上にもなるのではないか。私は山城だからほぼ自然の地形を生かしたものだろうと思っていたが、相当人工的な手が加えられている。
     そしてヒノキや杉が生い茂る広場で再び立ち止る。正面には尾根を縦に切った堀切の上に橋が架けられているのが見える。「この光景を見て、戦国時代の城を想像してはいけません。当時は禿山です。」そうだったのか。「防衛のための城ですからね、忍者が隠れるような樹木があっては役に立ちません。」成程(S氏の口癖が移ってしまった)。そんな単純なことを考えたこともなかった。
     つい三十年程前までは、ここは単なる山であり、城跡だとは地元の人間も知らなかった。江戸時代は徳川氏の直轄地、明治以降は国有林として人が入ることもなく、お蔭で荒らされることが少なかった。だから余り知られていないのである。戦後の発掘調査によって城の遺構が発見され、それから城跡として本格的に整備されるようになったという。「四百年の間に土が堆積していました。」
     「関ヶ原の戦いが一六〇〇年、この城ができたのが、その十五年ほど前だと言われています。徳川家康が全国制覇に向かって拡大していた時でした。」S氏が間違えた。「秀吉ですよね。」「そうです、豊臣秀吉です。」

      家康がいや秀吉がと蜻蛉言い   千意

     私も時々こんな言い間違えをすることがある。本人は正しく言っている積りなのに、無意識に違うことを口走るのである。知識がないせいではなく、この心理的なメカニズムが良く分からない。
     「ちょっとそこの石段を登りましょう。」「この石段も戦国時代のものですか?」「現代です。思い込みで造ったんですね。」十段程上れば広場になっている。「アシダ曲輪と呼んでいます。アシダの意味は分かりません。」芦田であろうか。「そこから先は私有地なので発掘できないんです。」「どうして私有地が。」「戦後のゴタゴタだったり、料亭用や神社が買ったりしました。」国有林の中に私有地が点在していると、いろいろなことがやり難い。かつてホテル建設の計画があって、土壌を掘り返したことがあるらしい。

    あしだ曲輪
    「慶安古図」に「アシダ蔵」とかかれています。二三段の曲輪群からなり、館や倉庫があったと考えられています。落城時、近藤出羽守が守っていたといわれています。

    昭和六十二年三月三十一日  八王子市教育委員会  

     「江戸時代になると、曲輪は丸と呼ばれます。本丸とか二の丸とか。」吉原など、遊女を集めた地域も遊郭・クルワと呼ばれるのは、一定の区画を囲い込んだ場所だからである。
     橋を渡ると大手門跡だ。「サンコウチョウの声が聞こえる。」隊長が声をあげ、「そうですね、聞こえます」とS氏も応える。「先週まではカメラを抱えた人が一杯来てましたよ。」珍しい鳥なのだろう。「雛が飛び立つとカメラマンもいなくなりました。」
     ウィキペディアをみると、「ツキヒーホシ、ホイホイホイ」と啼く声が月・日・星と聞こえるので三光鳥と呼ばれる。私はたぶん見たことがないが、頭に冠毛があり、オスは十五センチ程の体に、その三倍の長さの尾を持つらしい。隊長は下見の時に姿を見ていて、あんみつ姫も見たがっていた鳥だ。
     ここから川の南側を通る道が御主殿へ辿る本道(大手道)である。「幅八メートルあったといわれます。」今の道はその半分程度だろうか。「幅員が広すぎませんか?」ロダンの質問に、「氏照は見栄えの良いものを造りたかったようです。」S氏の意見によれば、次男(実際は三男)として任された城を、小田原の本城に負けないほど飾りたてたかったのではないかとのことである。それはどうだろうか。
     やがて曳き橋が見えてきた。かなり深く、しかも広く掘った堀切の上にかかった橋で、対岸の斜面には見事な石垣が四段になって組まれている。「上の方の石垣は発掘したものをそのまま使っていますが、下の方は、かなり思い込みで作っています。」思い込みという言葉が面白いが、推測といってよいだろう。
     「この橋は現在通行止めになっています。柱が沈んで、橋が歪んでしまったんですよ。」わずか二三十年前に復元した橋脚が沈み込むとは、ずいぶん杜撰な工事ではないか。「当時のお金で一億円かかりました。バブルの頃ですからね。」
     そもそも、こんなに立派な橋脚をもつ橋が実際にあったのだろうか。城主の居所に直接つながる橋である。わざわざ深い堀切まで作っているのだから、いざというときには敵が通行できないよう落とす仕組みになっていた筈だ。「曳き橋」とはそういう意味ではないか、吊り橋のようなものだったのではないかと思いながら、以下の記事を見つけた。

    ① 曳き橋の意義
    曳き橋は大手道終点から御主殿側へ渡る橋で防衛上、景観上からも重要な位置づけのある施設である。御主殿側の石垣、虎口階段とともにこの城の見せ場となっている。
    ② 曳き橋の位置
    この橋は復元ではなく城内の見学通路として架けたもので、本来の橋は虎口側で現在地より四メートルほど西寄りの虎口石垣の切れ目に架かっていた。この位置だと御主殿跡に対して直角の位置に当たりまた虎口に侵入した敵に対する横からの攻撃距離をかせぎやすく橋の位置としては間違いないと考えられる。
    ③ 橋の構造
    橋は「引き橋」としたほうが分りやすい。ただし三十メートル以上ある橋をここでは引くことは出来ないことから、橋の中央部で一方に引き上たり、板を取り外して遮断する様な橋であったと考えられる。
    (「山麓遺構群」http://www.e-sit.jp/~hachioujijyou/4-1-sanroku-ikou.html)

     橋脚を据える礎石が見つかったからには吊り橋ではなかったと断定できるだろうか。「修理はしないんですか?」「歴史的におかしいという意見もあって。それに建て替えるにしても、もうお金がないんですよ。」だから最初に作る時に、きちんと歴史家の意見をきくべきだったのだ。「急いで発掘して、急いで埋めて、急いで作ったんですよ。」バブルの時でもなければ、こんな発掘調査もできなかったかも知れないと思うと、いささか複雑な気分になってくる。
     綺麗に整備されているとはいえ、アスファルト舗装しているわけではなく、土の上に、やや黒めの細かな粉が敷かれているだけだ。所々に泥濘ができているので、それを避けながら歩く。「ボランティアは何人いるんですか?」スナフキンがS氏に訊く。「四十人位。でも十人位は名前だけですけどね。曜日で担当を決めていて、私は土曜日の担当なんですよ。」晴れていれば結構観光客が訪れるらしい。

     青梅雨や渡さぬ橋を眺めゐて   蜻蛉

     橋が渡れないので、もう一度アシダ曲輪まで戻って川の北側の道を行く。この道は曳き橋の下を潜る。橋の下にリュックを置いて腰を下ろしているオジサンは何をしているのだろうか。ちょうど雨がかからない場所だとはいえ、目的が分からない。何かの調査だろうかとも思うが、S氏が挨拶もしないから関係者ではなさそうだ。
     土手の上に上がって、S氏は橋を覗き込むようにする。「ここから欄干を見ると歪んでいるのが分かるでしょう。」波打っているのである。
     後ろを振り返れば、石垣の上の方には番号を記した石が積まれている。「あれは発掘した時の場所を表してるんですよ。」発掘は闇雲に行われたのではない。江戸時代初期の図面があって、それに基づいて掘ったのである。「そして本当に絵図の通りに出てきたんです。担当者は喜んだでしょうね。」

    江戸時代慶安年間(一六四八~五十一)に記された「慶安の古図」は落城時の八王子城を知る原典となります。
    一九八七年(昭和六十二年)、八十八年の発掘が行われる前は現在の虎口周辺から御主殿曲輪あたりは山野の状態であり、それまで「慶安の古図」に描かれている「北条陸奥守御主殿」はじめその存在物の真贋はいかにと考えられていました。
    (八王子城跡ボランティアガイドの会 http://hshiro.fuma-kotaro.com/k_bsiro.html)

     土手の上の方に最上段の石垣だけを残す場所もある。「これは発掘したままの状態ですね。」曳き橋を見下ろせば随分下に見える。入って来た広場には芝生が敷かれ、石を並べた空間、木で舞台を造ったようなもの、土がむき出しになった場所などが並んでいる。敷地は東西百二十メートル、南北四十五~六十メートル、面積は六千平米(一八一五坪)ある。
     「その林の下に行きましょう。」林に入っても雨を凌げるわけではないが、何もない場所よりは多少ましであろうか。膝から下が完全に濡れてしまって、脹脛の辺りの感触が悪い。靴の中にも水が浸みてきた。しかし完全防備のオカチャンは傘もささない。

      城跡にガイドの声と雨の音    千意

     遺構を発掘した後、元通りに埋め直してビニールシートをかぶせて土を埋めた。深さは六十センチほどだと言う。つまり四百年の間に六十センチの土が積もったことになる。「最近になって広い庭園と池が発掘されました。」今でも少しづつ発掘調査が進められているらしい。「当時の関東では例のない、広大な庭園でした。」しかし見る限りではそれほど広いとは思えない。池の脇がすぐ林に接しているが、普通そんな風には作らないだろう。その向こうまで庭園だったのではないか。「向うは林野庁、こちらは文科省(だったかな)の管轄です。林野庁の方は発掘できないんです。」
     S氏によれば、この庭園には三種類の石が置かれてある。いずれも発見された場所に置いたものだが、「一つは近所の石材屋で買ってきたものです。」この表現もおかしい。「もう一つ、色がぼんやりしている石は、発掘した石の形をきちんと計測して、買ってきた石にモルタルを吹き付けて復元したものです。」そして最後は発掘した石そのものである。
     「出てきたのがその大きな石です。」丸みを帯びて、おむすびのような三角形に整形している石だ。「この下に同じ形の石が二つありました。これを象徴したんじゃないでしょうか。」S氏がキャップにつけた三鱗の紋を指差す。「そうか、家紋ですね」とオカチャンが喜ぶ。御主殿からは三鱗の正面が、会所からは側面が望めたらしい。
     木で建物の床だけを復元した場所が会所跡である。「この下は鉄骨とボルトです。」幅一間ほどの回廊で囲まれた空間には、六間、四間などと書かれた札が置かれている。柱と柱の間(一五〇センチ程)を一間とし、二間掛ける三間が六間、二間掛ける二間が四間である。S氏は「ロッカン」、「ヨンカン」と発音したが、それが.正しいのかどうかは私には分からない。
     「この会所跡で、日本に一つしかないヴェネチアのグラスが発見されました。信長から与えられたものではないかと言われています。」「子ども解説シート・八王子城」というパンフレットにその復元写真が載っている。破片はごく一部だけで、グラスの大部分は白い石膏で復元したものだ。「これでヴェネチアってよく分かるよね。」それに形だって、本当にこんな風だったのか。考古学者というのは実にエライと思う。
     「氏照は文化人だったんですかね?」「そうかも知れません。お茶の道具も随分発掘されています。」ウィキペディアには、氏輝は「北条氏の家中において『取次』の役割を多く担当し、諸勢力との外交・折衝に尽力した」と書かれてある。つまり、ここはそうした外交のための接待の場所でもあったのだろう。そのために茶は重要な役割を負っていたし、ある程度の教養がなければ外交交渉はできない。しかしそれだけでなく、滝山城主時代には武田信玄の軍勢を三の丸で食い止めているから、武将としてもまずまずの力量は持っていたと思われる。秀吉の小田原攻めの際は徹底抗戦を主張して、小田原城に籠った。
     「その隅から山頂の本丸までの近道があります。石垣も残っていますよ。」是非とも次は山頂まで登りたいものである。「本丸から尾根を更に西に辿ると詰めの城もありました。」本丸が敗れた場合、そこまで退いて腹を切るのだと言うが、詰め城にそんな意味があるのか、私には分からない。

    ① 一つの城の中で最終拠点となる地域、または曲輪。本丸一帯をさす場合と、本丸よりもさらに重要な曲輪を設けてそれをさす場合とがある。
    ② 複数の城で防衛地域を設定した場合、最終拠点となる城。支城に対する本城。(『大辞林』)

     これが『大辞林』の説明だ。位置的に考えると、山頂の本丸を背後から脅かされないように防衛するための曲輪、あるいは最後の砦ではないだろうか。
     「階段に行ってみますか?」「行きましょう。」冠木門を潜ると虎口の石段だ。これが正面入り口で曳き橋から真っ直ぐ繋がっているのだが、さっきは裏口から入ってきたことになる。かなり段差が高く、奥行きもある。当時の人の身長を考えれば、登るのは容易ではない。「この石畳は戦国時代のそのままです。」S氏は少し大きめの丸形の石が足元に四個、敷石より少し出っ張って置かれているのに注目させる。「櫓門」の礎石だろうと考えられているという。

     「小田原を攻めるのに、わざわざここを通らなくちゃいけないのかな?」「無視すればいいのにね。」こちらにやってきたのは前田利家、上杉景勝、真田昌幸などの別働隊であり、既に鉢形城を落としていた。

     その目ざすところは、徳川・北条・伊達などの独立性の強い大名勢力を解体しようという強硬路線であり、行きつくところ、徳川の分国を作戦基地として自由に使いながら、北条氏の分国を粉砕し、さらには伊達氏の誅伐を果たそう、という大動員が天下一統の名のもとに強行されることになる。(藤木久志『天下統一と朝鮮侵略』)

     つまり北条の城は根こそぎ粉砕する必要があり、前田・上杉軍は東山道を経由して、北関東の北条支城を一つづつ潰してきたのである。忍城だけは最後まで水攻めに耐え抜いたが、他の城は全て小田原落城以前に打ち破られた。
     小田原攻めと言えば、小田原城を囲んで大茶会を開くなど、秀吉の富と権力を誇示するデモンストレーションが有名だが、その陰では容赦ない殲滅戦が繰り広げられていた。八王子城の戦いで攻撃軍は一万五千、北条方は避難してきた領民も含めて三千。北条方の死者は千人を超えたと言われる。城主氏照は小田原に駆けつけており、城を守るのは重臣だけだった。
     城に立て籠もったのは北条氏の家臣団だけではない。信長秀吉の天下統一戦争は別に考える必要があるが、中世の合戦の多くは領内の飢饉対策の意味合いが強く、攻め入った敵地内での米麦の略奪と捕虜の捕獲が大きな目的となっている。上杉謙信の出陣の大半が、米の収穫前の端境期だったのもそのためだ。捕獲した捕虜は人質として村に賠償を求め、あるいは奴隷として売買される。
     だから戦さが始まれば領民は城に避難し、城が遠ければ山に逃げ込んだ。城は地域住民の避難場所でもあったから、築城には領民が労力を提供したのである。雑兵として兵力の一部を担う者も多かった。
     余りにも酷い濫妨狼藉はどこの大名も禁止したが、禁制が頻繁に出されたということは、略奪捕獲が頻繁に起きたということである。

       男女生捕り成され候て、.ことごとく甲州へ引越し申し候。
       さるほどに、二貫、三貫、五貫、十貫にても、
       身類(親類)ある人は承け(買い戻し)申し候。
     相模(神奈川県)の戦場の村で、男女が武田軍に生捕られ、みな甲州に連行された。しかし、親類のある裕福なものは、二~十貫ほどの身代金で武田軍から買い戻されていた、というのです。(中略)
     ・・・・もし貧しくて身代金を払えない人々はどうなったのでしょうか。北関東の戦場には、こんな衝撃の証言があります。それは、はしがきでも紹介した事件ですが、越後の上杉謙信(長尾景虎)が北関東に遠征して、常陸の小田氏治の城(茨城県つくば市)を攻め落とした時のことだった、というのです。
       小田開城、景虎より、御意をもって、春中、人を売買事、
       二十銭、三十二(銭)程致し候。
     城主が降参し落城(開城)すると、戦いに敗れ敵軍に占領された小田城下は、たちまち奴隷市場に一変し、大名の上杉謙信自らが差配して、人の売り買いをはじめた、奴隷の値段は二十~三十銭ほどしていた、というのです。(藤木久志『戦国の村を行く』)

     藤木(恩師を呼び捨てにするのは気が引けるが)の調査では、こうした例は全国の戦場に及んでいる。ドラマに登場する戦国大名たちの華やかな「国盗り物語」だけをみて、信長が好き、直江兼続が好き、真田幸村が好きなんていう連中には、是非この本を読んでもらいたいと思う。
     古来から人身売買は禁じられていたが、中世における慢性的な飢饉は、緊急避難的に人命を救助するため、「飢饉奴隷」を認めるようになっていた。やがてそれが拡大解釈されていったのだろう。

    ・・・・日本の中世に見える「飢饉相伝の下人」ということばは、飢饉のときに養った者を下人とすること(飢饉奴隷)は正当であるという、ぎりぎりの生命維持の習俗があったことを示す。(中略)「そのままでは(餓死や刑死によって)失われるべき生命を助ける」ということであったと思われる。それゆえに、戦いの最中に戦場で捕えられた人々もまた、戦死すべき生命を救うことで下人(戦争奴隷)とすることが許された、と見る余地があるかも知れない。(藤木久志『雑兵たちの戦場』)

     歴史は一筋縄ではいかないが、特に注目すべきは戦国という時代であっても、人命を無差別に奪うことに対する禁忌があったということだ。比叡山焼き討ちや一向宗徒に対する信長のジェノサイドは、当時でも天を恐れぬ「魔王」の仕業と怖れられた。現代の感覚で歴史を判定してはならないが、少なくとも生命に対する尊重、怖れが歴史を貫いて存在していたことだけは間違いない。

     もう一度来た道を戻って下に降りる。今度は御主殿の滝が見えた。「女たちが自害したんです。男は切腹、女は喉を斬る。その女たちが身を投げた。三日間、谷川は血の色に染まったと伝えられています。」落城は天正十八年六月二十三日(一五九〇年七月二十四日)のことであった。ここは晴れた日にもう一度きちんと歩くべき城である。
     管理棟の前でS氏にお礼を言って別れる。「また是非おいで下さい。」「来てよかった」とカズチャンが感動したような声を出す。昼食はさっきのガイダンス施設でとることになっている。十二時半。スロープで上ると二階が広い休憩室になっていて、片隅のテーブルには四五人のグループが陣取っていた。
     「ちょうど人数分ですね。先日の鎌倉もそうでした」と千意さんが喜ぶ。大きな丸テーブルの周りにちょうど九人分の椅子がセットされていたのである。このセットが五組並んでいる。隣のテーブルの椅子に濡れたものを掛けて飯を広げる。途中で八人のグループが入ってきて、隅に座った。オカチャンに日光街道の作文を渡すと、「これに書いてます」とメールアドレスを書いたメモをくれた。次回からはメールでよいということだ。

     出発は一時二十分頃になった。「誰の墓に行くんですか?」「氏照です。」「氏照は小田原で死んだって書いてた。分骨したのかな。」パンフレットには氏照と家臣団の墓だと書いてある。落城した八王子城の城主を、戦死した家臣団とともに供養したものだろう。
     バス通りを五分ほど行くと左に参道があり、その突き当りに長い階段が上に続いていた。かなり高いから、滑らないようにしなければならない。「シンドイね。」スナフキンのストックが羨ましい。長い階段はかなり堪える。登り切った正面には、ひときわ大きな笠塔婆の墓石を真ん中にして両脇に少し小型の墓石を配し、案内板が立っている。高さ二メートルの真ん中の墓石には「天正十八庚寅年七月十一日 青霄院殿透岳關公大居士」とあって、これが氏照の戒名である。
     案内板によれば、八王子城で戦死した中山勘解由の孫で水戸藩家老の中山信治が、氏照没後百年祭に建てた供養塔である。両脇が勘解由と信治のものだ。
     中山勘解由左衛門は正式には中山家範という。丹党加地氏の一族で、父とともに山内上杉氏に仕えたが、河越夜戦で山内上杉氏が滅んだ後に北条氏に臣従した。家範は八条流馬術の名人で武名も高く、小田原攻めの際には、その武勇を惜しんだ前田利家の降伏勧告を拒んで討ち死にしている。
     その子中山信吉は家康に召し抱えられ、常陸松岡城主として水戸頼房の付家老となった。信治はその四男で、兄の二代信政の跡を継ぎ三代松岡城主・水戸藩付家老となった。この中山氏は幕末まで水戸藩付家老を務めている。
     右の自然石が「本室宗無居士」(中山家範)、氏照供養塔と五輪塔を挟んで左端の少し傾いた自然石が「中山道軒居士」(中山信治)である。
     尾根伝いに細長く緩やかに、林の奥の方まで小さな墓石が散らばるように建っているのが北条家臣の墓だろう。
     階段は慎重に降りなければならない。数を数えながら降りると百六十一段あった。四五分歩いたところに「国史跡八王子城跡案内図」が掲げられてある。「現在はどこだい?」「ここか?」氏照墓まで約十分とある。「私はまじめに歩いてきて四分だった。」下りだからである。ここから墓に向かうにはあの百六十一段の階段を登らなければならないのだ。
     「アレッ、似たような靴ですね。」模様が同じ、靴底の赤も同じ。比べてみるとロダンと私の靴が全く同じであった。値段がばれてしまうから先に白状しておかなければならない。「三千円だったよ。」「値段は忘れました。確か流通卸センターかどっかで買ったような。」私もそうである。ただ、私の靴よりはロダンの方が新しそうだ。飲み屋で間違わないようにしなければならない。
     「サイズはどの位なの?」画伯が訊き、「十文七分、トシチです」とロダンが答えるのがおかしい。「それは古いよ」と画伯にも笑われてしまうが、私も久し振りに聞いた。昭和三十年代にはまだ生きていた単位で、子供の頃には使っていたがすっかり忘れていた。それは何センチになるのだろうか。現代では十文七分の靴を探すのは並大抵ではないだろう。
     一文銭の直径を二十四ミリとして計算すると十文七分は二十五・六八センチ、私のこの靴は二十六センチだから十文八分ということになるが、業界ではそんな半端なことはしていない。十文半が二十五センチ、十文七分が二十五・五センチ、十一文が二十六センチとしているようだ。

     荒梅雨や十文七分の靴の跡   蜻蛉

     次は宗関寺だ。朝遊山と号す。曹洞宗。八王子市元八王子町三丁目二五六二番地。この辺りが城下町で、根小屋地区と呼ばれるところだ。

    延喜年間の草創で天慶二年朱雀天皇から領地を賜り勅願所として牛頭山神護寺とした。北條氏照が八王子城を築き、永禄七年牛頭山を復興した。天正十八年落城翌年再興し朝遊山宗関寺とした。現在の場所には明治二十五年に移築された。

     延喜年間(九〇一~九二三)の草創というのは、八王子権現の神宮寺として開創されたということである。また天慶二年(九三九)は将門が常陸国衙を襲撃した年である。関東は騒然としており、朝廷は諸国の神社仏閣に鎮護安定を祈らせた筈だ。勅願所となったのはそのためかも知れない。
     梵鐘は中山信治が寄進したもので八王子市の指定有形文化財になっている。オカチャンが手を伸ばして撞木の先を探っている。棕櫚の木だと確認しているのだろうか。本堂の左奥を眺めると、かなり上の方まで墓地が広がっている。「さっきの墓までつながってるんじゃないかな。」「違うと思う。」スナフキンは冷静だ。
     「それじゃバス停まで行きましょうか。」「これで終わりですか?」「そうです。雨だからね。」随分あっさり終わってしまった。「石材屋が何軒もあるね。」それも当たり前で都立八王子霊園があるではないか。十分程歩いて霊園前のバス停に着く。「今日はどこでしょうかね。」「八王子かな。」妥当なところだろう。
     バスに乗り込んでも、オカチャンは座席が濡れるからと座らない。なんという気配りをする人だろう。スナフキンは合羽を脱ぎ、それを見ていたロダンも「そうか、ここで脱げばいいんだ」と合羽を脱ぐ。ズボンもあるから結構大変である。
     高尾駅に着いたのが二時だ。「一分があるよ、急いで。」しかしその電車は階段を上った向うのホームである。「アー、行っちゃった。」次の十分発の上りに乗って八王子に着く。画伯、オカチャン、カズチャンはそのまま乗っていく。「六人か、歩留まりが悪いですね。」ロダンがおかしな計算をしている。

     八王子ならスナフキンに任せておけばよい。狭い路地を抜けて彼が見つけたのは「金太郎」という店である。「ここでいいだろう。」焼き鳥屋のようだ。「今日は金太郎がいないね。」名前を間違えている。桃太郎は山に行っている筈だ。
     「すぐできるのは刺身。」さっき昼飯を食べたばかりで、そんなに食いたい気分ではない。「タレと塩で十本づついかがでしょうか?」「塩だけでいいんじゃないの?」「俺はタレも食いたい。」「焼き鳥はちょっと時間をください。」「それにお新香ね。」「冷奴はどうですか?名水で作ったから旨いですよ。」「それじゃお願い。」
     焼酎は黒甕。全員腹がもたれているようで焼き鳥全部が食いきれない。焼酎が開いたところでお開きだ。勘定を頼み、ロダンが電卓を開いて「電子計算機、電子計算機」と呟いているところに、店員が「おひとり様二千四百円です」と計算済みの勘定書きを見せてくれる。親切である。
     外に出ると雨は完全にやみ、世界は明るい。まだ三時四十五分か。若者四人はもう一軒を目指す。このところ、梯子酒の癖がついてしまったのだろうか。これはあまりよくない傾向だが、私のせいではない。時間が早すぎるのが原因である。
     「どこに行くんだい?」隊長が声をかけてくるが、今日は若者だけで飲みたい気分なので失礼する。「どこかな?」「向うの方にありそうじゃないですか。」千意さんがカラオケに行こうかと言うのでビッグエコーに入ってみたが満席だった。それでは別の店を探さなければならない。「向こうへ行ってみましょうか。」ロダンはこの辺を知っているのだろうか。
     「和民がありますよ。」「やってるかな。」「十六時開店って書いてある。」二三分前だが大丈夫だろう。ビルの三階に上って玄関を入る。「宜しいですよ。」しかし私たちの風体を見て、店員は「お客様はお荷物が多いので、お二階でよろしいですか」と言う。どこでも構わないが、スナフキンはビルの二階だと勘違いした。そうではなく、私たちは靴を脱いで店内の階段を上がる。従って正確に言えば四階だった。案内されたのはそんなに広い席ではなかった。他に客は誰もいない。靴下がびしょ濡れで気持ちが悪いので履き替える。
     「もうハシゴ三軒目。」注文を取りに来た店員に千意さんが真面目な顔で嘘を言う。「この時間で三軒目ですか、スゴイですね。それじゃウコンはいかがですか?肝臓に効きますよ。」「要らない。」「商売上手だね。」
     日本酒のヌル燗と枝豆をもらう。スナフキンは奥方の誕生会があるので六時過ぎには帰宅していなければならないがまだ一時間は大丈夫だろう。「息子たちも来るんだ。」ロダンだけが愛妻家として名を馳せているが、実はスナフキンもそれに劣らぬ愛妻家だった。私は妻の誕生日に何かをしたなんて、一度もない。誕生日を忘れているわけではない。日本酒を追加する。「追加のご注文はいかがですか」という声を無視して、酒が空になったところでお開きにする。一人千円也。
     スナフキンと別れて三人はもう一度ビッグエコーを覗いてみる。「三人。」「どうぞ、空いております。」八王子のひとは昼にカラオケをやり、夜は別のことをするらしい。「お時間は?」「一時間。」三人できちんと順番を守って歌い、ちょうど一時間でお開きにする。一人七百円也。漸く腹の満腹感が消えた。「そうでしょう、歌うといいんですよ。」もう少し飲んでも良いような気がしてきたが、それでは地獄へ落ちていく。
     八王子駅で乗った電車は快速特急で、気が付くと国分寺だった。私たちは西国分寺で武蔵野線に乗るのだから、もう一度戻らなければならない。難儀なことである。下りはなかなか来ない。漸く来た下りに乗って、何とか武蔵野線に乗り込むと、ロダンはすぐに眠ってしまった。

    蜻蛉