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    平成二十六年七月二十六日(土) 和光市白子湧水地ほか

    投稿:   佐藤 眞人 氏     2014.08.10

     旧暦六月三十日。立秋(八月七日)まで二週間弱とは言いながら、二十四節季では「大暑」、七十二候では「桐始結花」(桐の実がなる)、五行説では土用。口にしただけで暑くなるから言いたくはないが夏真っ盛り、猛暑である。本当に言いたくないのだが、しかし暑い。
     梅雨は昨年よりはかなり遅く、しかしほぼ平年並みの二十二日(火)頃に開け、途端に連日三十五度を超える猛暑がやってきた。しかしお天気予報が発表する最高気温で納得する訳にはいかない。私たちはアスファルトの照り返しやエアコンの放射熱の中で生活しているから、公表される数値に更に数度プラスしなければ実際の気温にはならないのだ。要するに私たちはほぼ四十度近い世界で生きているのである。
     大学のキャンパスでは一週間ほど前から蝉の声が喧しくなって来た。オープンキャンパスにやってくる母親たちも大変だが、しかし、たかが大学見学に親子だけでなく一族郎党引き連れて(爺ちゃんや孫も連れてくる連中がいるのだ)やって来ると言うのはどうしたものだろう。
     今日も湿度は相当高く気温も上がりそうだから、妻に叱られないよう日焼け止めクリームを忘れてはいけない。水分は勿論だが塩分補給も大事なので、駅前のセブンイレブンで「男梅」を買った。家の近くのファミリーマートにはなかったのだ。
     今日は我が家からは電車一本で行く。東武東上線成増駅に着くと、ロダン、宗匠、ヤマチャンの顔が北口の出口前に見えた。イトハンも久し振りだ。今日のコースなら南口から出る筈だが、こちらの方が日蔭になっているのだろうか。
     椿姫が来るという情報があったようで、隊長は改札口を凝視して動かない。隊長の期待は分かるが、しかしこの暑さで彼女が来る訳がない。暑さ寒さに耐えられない人である。カズチャンからも、熱中症が心配だから欠席すると連絡があった。
     こんな日でも家にいられないのは、隊長、イトハン、画伯、ダンディ、ドクトル、ハコサン、オカチャン、スナフキン、ヤマチャン、宗匠、ロダン、蜻蛉の十二人だった。「家にいても結局ゴロゴロしちゃうんだ。」そうなのだ。こんな日に家でゴロゴロしていると、昼からビールに手を出してしまうことになりかねない。私はアル中ではないから一所懸命夕方まで我慢するが、その時間が長くて嫌になる。イトハンだけはビールを飲まないとは思うけれど。
     定刻を少し過ぎ、椿姫が来ないとやっと諦めがついた隊長は、清水かつらの歌碑には目もくれず出発しようとするので、「一応、見てよ」と『緑のそよ風』碑に注目してもらう。すぐそばにあるし、清水かつらには後で白子橋でも出会う筈だ。

    みどりのそよ風 いい日だね
    蝶蝶もひらひら 豆のはな
    七色畑に 妹の
    つまみ菜摘む手が かわいいな(清水かつら作詞・草川信作曲・昭和二十三年)

     「これなら歌えるわね。」箱入り娘で歌謡曲とは一切無縁に過ごしてきたイトハンでも、こういう歌なら知っている。清水かつらは明治三十一年(一八九八)東京深川に生まれ本郷に住み、商業学校を卒業後、小学新報社で編集をする傍ら童謡の作詞を続けた。小学新報社では『少女号』、『幼女号』『少年画報』などを編集している。関東大震災にあって、継母の実家に近い新倉村に避難した後に白子村に転居し、昭和二十六年(一九五一)五十三歳で死ぬまで住んだ。「酒が飲めなくなったら終わりだ」というのが最後の言葉であった。
     与田準一編『日本童謡集』には、『あした』(弘田瀧太郎作曲・大正九年)、『靴が鳴る』(弘田瀧太郎作曲・大正八年)、『叱られて』(弘田瀧太郎作曲・大正九年)、『雀の学校』(弘田瀧太郎作曲・大正十一年)が収録されている。この本は『赤い鳥』創刊から昭和二十年八月までの期間を対象にしているから、『緑のそよ風』は含まれない。
     南口の交番脇にも清水かつらを顕彰する「歌の時計塔」があるのだが、みんな知らないのだろう。隊長もそこに近づく気配もなく国道二五四号に斜めに入る商店街に入って行く。一応記録しておくと、午前八時『みどりのそよ風』、午前十時『靴が鳴る』、十二時『雀の学校』、午後二時『あした』、午後四時『叱られて』、午後六時『浜千鳥』(青い月夜の浜辺には、親を探して鳴く鳥が)のメロディが流れるようになっているらしい。この中で『浜千鳥』(弘田瀧太郎作曲)は鹿島鳴秋の作詞だから、ここで流される理由が分からない。
     商店街は成増阿波踊りの飾りつけが賑やかだ。「最近はどこでも阿波踊りやってるね。」「東京じゃ、高円寺が有名だよ。」なるほど、成増の阿波踊りは八月七日に予定されていて、三十一回目の今年は「高円寺からは有名三連が参加します」と案内されている。今は全国どこでも阿波踊りとヨサコイソーランばかりで、私は嫌いだ。民謡と言うものが、江戸時代から全国各地に拡散して変化を加えてきたのは知っているが、私はあの現代風の踊りがダメだ。古い人間なのである。たぶんスナフキンの方が私より新しい。
     国道は切通しの坂を下っていくが、右脇の台地を通る道が旧川越街道である。しかし隊長はそのまま国道を進むので、スナフキンに「そっちの脇道の方が旧川越街道なんだよ」と教えておく。白子川に降りる新道で新田坂という。「里山に旧街道は関係ないんだろうね。こっちの方が涼しいんじゃないか。」どちらにしてもすぐに合流する。
     「隊長、ここに寄ってよ。」旧街道が国道に合流する角の林の中に、新田坂の石造物群があるのだ。と言っても「群」と呼べるほど多くがあるわけではない。文政十三年(一八三〇)の銘のある常夜灯には「石尊大権現・大天狗・小天狗」と彫られていて、大山信仰の手掛かりになる。隣接する板橋や練馬も大山講の盛んな土地である。道祖神の不規則な形の石は文久三年(一八六三)のもの、他には年代不詳の地蔵、稲荷の石祠などがあるだけだ。
     斜向かいの、二五四号と旧道に挟まれた場所には小さな八坂神社があるが、隊長はここにも寄らず今度は旧街道に入って行く。白壁に焦げ茶色の格子の二階屋で、旧街道の趣が感じられるのは白子村の旧家・加山家だ。
     そして隊長は白子橋の手前で立ち止まる。「ここに清水かつらが住んでたらしいんだ。」橋の袂から二三軒目の家である。なんだ、隊長も清水かつらを知っていたんじゃないか。ちょうど建て替えをしているようだ。
     そして白子橋に着く。白子川に架かる橋であり、ここから白子宿が始まる。この川がほぼ東京都と埼玉県との境になっているのだが、この辺では少し東まで埼玉県が入り組んでいる。「大泉の井頭(イガシラ)公園から始まって新河岸川に流れ込む川だよ。」こういうことは隊長が詳しい。
     「三重の白子はシロコって読む。ここは何て読むんですか?」関西人のダンディはこんなことを質問するが、ここはシラコと読む。「三重の白子って鈴鹿市だよな。鈴鹿医療科学大学に行ったことがある。」スナフキンは大学ならばどこでも行くのである。「何もないところなんだ。」土産を買い忘れて駅前で買おうと思ったが、めぼしい店もなかったと言う。
     今いる白子は新羅の転訛であり、渡来人が開発した土地である。「百済、高句麗の新羅ですか?」勿論そうだ。武州がもともと渡来人の開発した土地だったのは、高麗郡の例からも分かる。

     天平宝字二年(七五八)八月二十四日に、朝廷は帰化新羅僧三十二人、尼二人、男十九人、女二十一人を武蔵国の空いた場所に移した。これが新羅郡の始まりという。これより前、武蔵国には持統天皇元年(六八七)と四年(六九〇)にも新羅人が移されていた。
     宝亀十一年(七八〇)には新羅郡の人沙良、真熊らに広岡造の姓を賜った。この後いつ改称されたかは不明だが、平安時代の『延喜式』には「新座郡」と記録されており、『和名類聚抄』では新座と書いて「にひくら」と読ませるようになった。その郷は志木郷と余戸で、ごく小さな郡であった。
     郡衙跡については、『新編武蔵風土記稿』に午傍山が新羅王居跡と記されているが時代が合わず、須恵器が出土した和光市の花の木遺跡が有力視されている。また新編武蔵風土記稿には「新倉郡」(にいくら)と呼ばれるようになり、さらに「新座郡」(にいざ)になったとある。(ウィキペディア「新座郡」より)

     最初は新羅郡、延喜式で新座郡。この辺りまではシラギあるいはシンクラと読まれていたのではないだろうか。『和名類聚抄』になると新座郡(にいくらごおり)志木郷とされ、それが訛って白子となり、江戸時代には川越街道の宿場として繁栄した。

     川越街道は公的には川越道、又は川越往還と呼ばれる。この街道は川越藩や仙波東照宮と江戸との連絡を主として整備されていったものだが、江戸から川越までの間に上板橋、下練馬、白子、膝折、大和田、大井の宿駅が設けられた。白子宿は下白子村である。(中略)
     江戸と川越の間の道路はすでに中世からあったであろうし、戦国時代に白子宿が存在したように宿駅制も布かれていた。しかし、この道に六か所の宿駅が設けられ、荷物や人を継ぎ送りする制度が整備されたのは、やはり江戸時代に入ってからのことであった。(『和光市史・通史編』)

     白子は古くから栄えた場所だったのに、東武東上線開通以後寂びれていった。明治七年(一八七四)、引又宿と舘本村が合併するとき新村名がなかなか決まらず、県(当時は熊谷県)の裁定によって新座郡志木郷の名を採って志木宿と称した。これが現在の志木市につながったのだが、本来「志木」を名乗る資格のある白子村は、上新倉村、下新倉村と合併して和光市の大字に転落した。但しかつての新座郡は、現在の和光市、新座市、朝霞市の全域に志木市の一部、それに練馬区の大泉地区、西東京市の保谷地区を加えた範囲である。
     橋の親柱には『靴が鳴る』の歌詞を浮き彫りにした銅板が埋め込まれている。東詰の右の柱に一番、左に二番。「そっちは何なの?」西詰の方は左に一番、右に二番だ。

    お手つないで 野道をゆけば
    みんな可愛い 小鳥になって
    唄をうたえば 靴が鳴る
    晴れたみ空に 靴が鳴る

    花をつんでは おつむにさせば
    みんな可愛い うさぎになって
    はねて踊れば 靴が鳴る
    晴れたみ空に 靴が鳴る

     これは大正八年(一九一九)に発表されたものである。前年七月に鈴木三重吉が『赤い鳥』を創刊し、この年に野口雨情編集の『金の船』(のちに『金の星』)が創刊され、童心主義に基づく童話と童謡が一大ブームを惹き起こした時である。童歌や唱歌ではない、「童謡」が生まれたのである。小学生の大岡昇平が『赤い鳥』に童謡を投稿して採用されたのも大正八年であった。因みに村岡花子が銀座教文館で子供向け雑誌の編集をしていたのもこの時代だ。
     三木卓編『日本童謡集』から『少女号』の絵を見ると、スカートで帽子の少女と和服で髪にリボンの少女が二人、白いエプロンを着け、赤い靴を履いている。ズックではなく革靴だからキュッキュとなるのだが、その当時、靴を履いて野道を行くような子供がいたのだろうか。いたとしても都会のかなり裕福な層に限定されるのではあるまいか。『赤い鳥』や『金の星』が対象にした子供とは、いったいどういう階層の子供だったのだろう。因みに『赤い靴』(野口雨情作詞・本居長世)は大正十一年である。
     大雑把に言えば大正の自由主義教育が生み出したものだが、同じ影響下で生活綴方運動も生まれている。こちらは地方の教員が主導して、『赤い鳥』の読者層よりはかなり広範囲に亘った筈だ。そして次第に貧しさを競い合うようにもなってくる。戦中の弾圧を挟んで戦後の無着成恭『やまびこ学校』まで続くわけだが、この二つの流れを統一的に把握することが必要なのだろう。私にはまだそれができていない。

     ここからすぐ先の交差点には「白子村道路元標」があり、ロダンが見れば喜ぶ筈だが隊長はそこを通らない。橋を渡って右に曲がり、川沿いに少し歩いて住宅地に入り込めば、着いたのは地福寺(天台宗・瑞應山地蔵院)だ。和光市白子二丁目十八番一。山門を入るとすぐに六地蔵と馬頭観音、回国供養塔、庚申塔が並んでいる。左手は墓地、右に樹木の繁る参道を行くと奥まった階段を上ると本堂がある。本堂奥から左手は急斜面になっており、湧水が出る。
     奥の石段脇にはエスカレーターも設置されている。野天のエスカレーターは珍しい。「こんなものがありますよ。」しかし勝手に使ってはいけない。斜面の上の方まで墓地が続いているから、年寄りや身体が不自由な人の墓参のために設けられたのだろう。
     案内に従って石段を登っていくと石神(シャクジン)の祠があった。観音扉を開けてみても、その中が鍵のかかった格子戸になっていて、ただ三十センチばかりの石棒か石剣のような形が僅かに覗くだけだ。正に石神なのだが、普通は「イシガミ」とでも言うところを、わざわざ「シャクジン様」とルビを振っているのは珍しいだろう。説明によれば、本尊に安置する地蔵尊を本地仏が垂迹した「石神大権現」とされている。

    武蔵夜話の中に、「地福寺の後の山に大木の樫あり。その根本におしゃくじんと称して頭痛・咳など癒えんことを祈祷する石棒あり。即ち古代の石剣なり。・・・・一尺三寸ばかり」とある。

     この寺には「枕がえし地蔵」の伝承が残されている。旅の僧・尊恵(ソンネ)が死から再生して奉納した地蔵尊だ。

     交通上の要地で旅人の往来もあった白子宿を含む、市域の寺社の信仰や縁起には、ひとつの特色がみられる。その特色とは、白子の地福寺の地蔵縁起、東明寺の観音縁起、下新倉妙典寺の墨田五郎時光の縁起にあらわれている。つまり三寺の縁起は、いずれも「旅する僧侶」がこの地を訪れてくる物語であり、そこで、地蔵や観音や高僧のあらたかな霊験によって、信仰者が救済される話である。
     旅する僧侶は地福寺では尊恵、東明寺では浄西、妙典寺では日蓮である。このように旅する僧侶の伝説が成立したのは、和光地域が江戸と川越を結び、あるいは鎌倉街道の要地と考えられていたからにほかならない。(中略)
     ・・・・地福寺ではこの地蔵信仰が、我が国古来の「さいの神」信仰とも習合して人々に広く信仰されている。(『和光市史・通史編』)

     この石神が「さいの神」(塞の神)であろう。何度か言っていることだが、石神、塞神を音読みすればシャクジン、ソクジンとなって習合した。
     境内に戻ると「梛の木」の前でみんなが悩んでいた。「スナフキンか蜻蛉に訊いてみよう。」「なんて読むのかな?」悩んでいるのは標柱の文字が読めないからだ。「前に見てるじゃないか。ナギノキ」だよ。「そういえば思い出した」と宗匠が苦笑いし、「そうか、熊野神社にありますね」とオカチャンが叫ぶ。熊野では神木とされている木だ。ナギは凪ぎと通じて船の航行の安全を祈願したのである。
     「そうだったね。」隊長もようやく思い出したようで、秘蔵のノートを開いて、葉脈が全体に縦に並行して走っている絵を見せてくれる。ほかに多羅葉の木、沙羅双樹もある。

     夏草や飛べば打たれるコガネ虫   午角

     蝉の抜け殻が二つ葉に残っていて、隊長がアブラゼミとミンミンゼミンの区別を講釈する。以前にも何度か聞いているが私には馬耳東風だ。「短い一生なのよね。」「それでも充実した生涯とも言えるんじゃないの。」ロダンは蝉の心に思いを致す。しかし蝉に心があるか。「恋に焦がれて泣く蝉よりも泣かぬ蛍が身を焦がす。」喧しく鳴けば良いと言うものではない。
     ところで、蝉の命は地上に出て一週間程度だと私は思っていたが、最近の研究では一か月ほどになると言う。みんな知っているだろうか。

    成虫期間は一~二週間ほどと言われていたが、これは成虫の飼育が困難ですぐ死んでしまうことからきた俗説で、野外では一か月ほどとも言われている。(ウィキペディア「蝉」より)

     「それじゃ向うにいきましょうか。」私とスナフキンはもう石神を見てしまったから、山門の辺りで風に当たりながら待つことにする。既に暑さが体に堪えてくる。眺めていると、みんなは更に上の墓地に登って行ったようだ。高台だから眺めが良いのである。
     次は熊野神社だ。和光市白子二丁目十五番四十七。「これ、何と読むのかしら?」文化十一年の鳥居の額の文字が読めないとイトハンが悩む。「中国の文字じゃないの。」篆書体だろう。参道を抜けると、丸く刈り込んだ躑躅で一面に覆われた右手の山が富士塚だ。これだけの大きさの富士塚は珍しく、明治三年、丸瀧講によって築かれたものだ。実は以前ここに来た時には躑躅の盛りで、これが富士塚だとは全く気付かなかった。
     私たちの声が喧しかったのだろうか。社務所から奥さんが出てきた。「どちらからいらっしゃったんですか?」「あちこちです。」富士塚は登ってよいのだろうか。躑躅の植栽を避けて道なりに登れるらしい。「躑躅を育てているので、そこは踏み込まないでくださいね。」既にオカチャンが登っているが、今日の私は気力が欠けている。富士塚を目の前にして登らないのは初めてのことだ。
     社務所には諏訪神社の祭礼のポスターが貼られている。「ここは熊野神社でしょ?どうして諏訪神社なのかしらと思って。」イトハンの疑問は自然だ。諏訪神社の創建は不明だが江戸期を通じて村民の管理下にあった。明治四十年(一九〇七)に熊野神社に合祀されたのは、三十九年(一九〇六)の勅令によって全国の神社の合祀が進められたからである。大正三年(一九一四)までの間に全国で七万の神社が取り潰された。ここで、南方熊楠の合祀反対運動を想い起しても良い。それでも神社の形だけは村民が維持してきたのだろう。そして現在では熊野神社の神職が諏訪神社の神職を兼ねているらしい。
     「今日はお祭りなので、主人が行っています。」「ホラ、花火を二百五十発も上げるみたいよ。」今日は旧暦で六月三十日である。ということは悪疫退散の夏越の祭りであろうか。「露店も出るのね、私、露店が大好き。」「だけど祭りは夕方が本番だろう。」諏訪神社は二五四号と笹目通りが交差する和光陸橋の角にある。

     諏訪神社は江戸時代、白子宿に悪い病気が蔓延した時、苦境に陥った人々が神社に疫病快癒の祈願をしたところすぐに治ったことから、悪病除けの神様として知られるようになりました。
     神社に茄子の紋章があることから、地元ではその年に初めてとれた茄子を供え悪病にかからぬよう祈願したあと、供えた茄子の半分を持ち帰って食べるという風習が今も残っているそうです。
     毎年七月に行われるお祭りでは伝統の白子囃子も見ることができ、大変な賑わいを見せています。
     (和光市http://www.city.wako.lg.jp/home/miryoku/suteki/shiki/_5758/_5759.html)

     斜面のあちこちからは湧水がでていて、水に手を触れると冷たい。滝のように落ちているところもある。
     「昔はこの山全体がうちの神社でした。」夫人はそう言うが、隣には修験らしい不思議な寺ができている。「お隣りとは一切交流がありません。」「お隣」とは、清龍(きよたき)寺不動院(大本山神瀧山)である。大本山と称しながら、ほかに関連する寺院があるわけではなく単立である。

     熊野神社は白子の鎮守である。『新編武蔵風土記稿』に、「中古、不動堂の境内なる熊野権現を鎮守と崇め」たと書かれている。中古には不動堂は修験者が管理し、その境内に熊野神社があったことが推測される。(『和光市史・通史編』)

     神仏習合の時代には、別当寺が神社を管理していたのだから仕方がない。左手から石段を登ると、長髪で僧衣を身に着けた怪しげな老人が堂から出てきた。どうやらここは修験の寺である。寺のホームページを見ると、こんなことが書いてある。

     本能寺の変により織田信長が自害したとき、僅かな部下と共に、大阪の堺にいた家康公は、一躍、明智方のターゲットとなり、あらゆる道を封鎖され、三重県の山中に逃げ込んだ、この人生最大の危機に瀕した家康公とその一行を救い、三重の白子の浜から自城の岡崎に船で逃してくれたのが、服部半蔵を頭領とする伊賀忍者。恩義を感じた家康公は後に、同じ白子の地名のある、和光市の白子一帯を領地として与えた。この地にある名刹の清龍寺不動院を、伊賀忍者は出城として、江戸城の警護に日々出仕していた。また不動院の法主は家康公より多大な石高を下付され、伊賀忍者の監督を行っていた。
     このような関係で、家康公の生前の命により、二代将軍の秀忠公が当寺院に家康公のご守護神を祀り、以来約三百九十余年の間、歴代住職により日々の灯明を欠かさずお祀りされている。http://www.nana.or.jp/~seiryuji/about/index.html

     白子が伊賀者の領地とは知らなかった。しかし「伊賀忍者は出城として、江戸城の警護に日々出仕」は意味がよく分からないし、「不動院の法主は家康公より多大な石高を下付され、伊賀忍者の監督を行って」というのは完全に信用できない。この文脈では伊賀同心がこの地に居住していたかのようではないか。しかし伊賀同心が領地に住んで直接支配するなんてことはあり得ない。坊主の監督を受けることもない。町同心と同じ待遇身分なら、三十俵二人扶持を給米として受け取るだけである。信用できそうな『和光市史・通史編』を見てみよう。

     伊賀者の領地となった白子村について『新編武蔵風土記稿』は上白子村の条で、「御当代ニ至リ、天正十九年、此所ヲ伊賀者ノ給地ニ賜ハリシガ、後新ニ闢キシ地、又ハ給地ノ中ニ、故アリテ公ニ入シ処は、其ママ御料所トナリシニ、此隣村橋戸ノ中ニモ、伊賀者ノ同ジ頃上知トセシカバ、御料所トナリシヲ、後ハ共に白子ト唱ヘシヨリ、白子ノ地ハ増加セリ、夫ヨリイツトナク、カノ御料所ヲ土人ノ上ト呼シカバ、伊賀者ノモトヨリ領スル方ハ、自カラ下ト云ナラハセシヨリ、遂ニ上下二村トナリシト、村老イヘリ」と記し、(後略)

     確かに伊賀同心の給地であったことは間違いないようだ。白子村には上下あり、そのうち新規開発した方が上を名乗ったというのである。江戸に近いという理由だろうか。その上白子村は現在では東京都練馬区に編入されていて、下白子村が和光市に編入された。ついでに言うと、和光市を構成したのは下白子村のほかに、上新倉村、下新倉村の三村だが、この「新倉」はかつて「新座(ニイクラ)」と書かれたものだ。つまり白子も新倉も語源は新羅である。現在、新座市が隣接しているので、この辺りの地名はややこしい。
     上新倉村は当初、板倉勝重(後、京都所司代)が領有していたが、後に幕府直轄領となった。下新倉村は寛永の頃から旗本酒井壹岐守の領地となる。またこの三ケ村は幕府御鷹場ともなっていた。
     「洞窟があるんだよ。」スナフキンと二人で、「開運利益洞窟めぐり」の看板通りに斜面に沿って左に行くと、入り口がある。「電気を消してくださいって書いてあるけど、スイッチはどこにあるんだ?」洞窟内の右手の壁にある。胎内巡りになっていて、薄暗く狭い通路を行けば稲荷を祀ってある。更に行くともう一ヶ所にも同じ稲荷が祀ってある。暫く行くと少し先の出口に出た。寺の宣伝によれば、富士山の溶岩百トンをわざわざ運んで作った洞窟である。コケオドシと言ってよい。

     炎昼を避けておどろの洞の中  蜻蛉

     外に出ると、みんなはどうした訳かさっきの「開運利益洞窟めぐり」の看板前で立ち止っている。「そこから入れるよ。」「私も行ってみようかしら。」それで漸くみんなも洞窟に入っていった。「最後の人は電気を消してください。」
     本堂の右手の崖下には滝の修行場があるようで、階段の入り口には修行中なので立ち入り禁止の札がかけられていた。滝行は勝手にやることはできず、三千円払わなければならない。さらに祈祷も頼めば五千円かかる。
     寺のホームページによれば、「明治の軍神、乃木希典将軍は当不動院に一週間参瀧され、境内の不動の瀧に打たれ修行されました。そのときの揮毫「知者不惑」の扁額が残され、当山の観音堂に掲げられている」そうだ。

     隊長が次に向かったのは、富澤医院の正面にある崖際の駐車場だ。この前を通る道は明治になって付け替えられた旧川越街道である。江戸時代の街道はここでほぼ九十度の角度で曲がって大坂を越えて行く。病院の隣は富澤薬局、そこから白子宿通りに曲がる角の郵便局も含め、この一帯を占める富澤家は白子宿の本陣を務めた家である。
     この駐車場のハケから水が湧き出るのである。「冷たいね。」「十八度だよ。」(隊長はきちんと水温を測ったらしいが、私はいい加減に聞いているから間違っているかも知れない。)「ここ礫層があるね。」地層が露出した部分をドクトルとロダンが見詰めているのは、地学の専門家だからだ。「水が湧くってことは地下に水路があるんでしょう。それはどこなの?」ヤマチャンがロダンに質問する。「この礫層に水が溜まるので、それを水路って言えば言えます。」湧き出る水を手で掬って頭にかけると気持ちが良い。「飲めるんじゃないの?」「飲まないほうが安全だろうね。」「自己責任でお願いします。」ドクトルは登り道を見つけてマシラのごとく駆け上る。「スゴイね。」「元気じゃないか。」

     滴るや崖駆け上る白子宿  蜻蛉

     武蔵野台地の一番下は、数十万年前に浅瀬の海だった場所に堆積した「東京層」で、粘土質だから水を通しにくい。その上に古多摩川が多量の石を運んでできた「武蔵野礫層」があって、ここが水を通すのである。更にその上に火山灰が積もった「関東ローム層」が重なっている。
     振り返ると病院の隣(熊野神社の隣でもあるが)の建物の窓にある「コミセン」の文字が気になった。「コミセンってなんだよ。」「コミュニティセンターか、それにしてもひどい。」しかし地図を見ると、この辺ではコミセンという言葉は普通に通用しているようで、地図にもそう書いてある。こういうおかしな略語を地方自治体が使ってはいけない。
     実はそこには以前立ち寄ったことがある。確か清水かつらと大石真の展示コーナーがあった筈だ。大石真も白子村に生まれた人である。と言っても児童文学に関心のない人には知られていないだろう。しかし和光市では「和光市ゆかりの文化人」として清水かつらとともに挙げているのだから、一応触れておきたい。大石は早大童話会の出身で、よく知られているもの(と言うより私が読んだもの)に『教室二〇五号』『チョコレート戦争』などがあるが、実は私は大石真の良い読者ではなく、それ程面白いとは思わなかった。
     私は児童文学を結構読んできたと思うのだが、小学生の頃に強く印象付けられたのは、いぬいとみこ『木かげの森の小人たち』、さとうさとる『だれも知らない小さな国』、山中恒『とべたら本こ』『サムライの子』などだった。そのどれにも戦争の陰が落ちていた。『だれも知らない小さな国』と『サムライの子』は大人になってから文庫本も買ったから、今でも手元にある。大石真は入って来なかった。
     そういえば山中恒も早大童話会の出身者だった。山中は後に『ボクラ少国民』シリーズで、戦中の教育について広範な史料収集による克明な批判を展開している。妹尾河童『少年H』に対する山中の徹底的な批判は読むべきものである。
     そして早大童話会といえば、鈴木清順の名作『けんかえれじい』の原作者鈴木隆もその出身だ。鈴木清順の映画には、唐突に北一輝が登場したり、松尾嘉代扮する謎の女性も登場してなんだか分からない部分もあるが、ヒロイン浅野順子(昔『おてんば天使』に出ていた浅野寿々子)が可憐であった。余計なことではあるが、なぜ彼女が大橋巨泉の嫁にならなければいけなかったのか。巨泉三十五歳、浅野順子二十一歳である。これは犯罪というものではあるまいか。
     それはともあれ、原作である鈴木隆の自伝的小説も、(私はTBS出版のものを持っているが)今では岩波現代文庫に入っているから入手しやすい。映画は同名の小説の上巻(第一部 青春編)の半分まで終わっているが、その後、主人公南部麒六は早稲田に入って童話会に所属する。やがて学徒動員で中国戦線に赴くとき、麒六は宮沢賢治童話集を携えていく。戦争のバカバカしさ、空しさを描いて実に傑作です。結末は哀切である。

     「それじゃ行きましょうか。」右に曲がって、大坂を登りかけた右側には、鬱蒼とした屋敷林を持つ由緒ありそうな旧家が建っている。「ここも富澤さんだ。」この富澤家(佐和屋)が白子宿中本陣だったらしい。「蜻蛉はこの辺を知ってるのかい?」「以前、川越街道を歩いたことがある。」
     この急な坂道を上るのが江戸時代の街道だが、そこは後回しにして、隊長は左に曲がる道を選んで国道を越える。そこからまた坂道を登っていくから、この国道が切通しだったことがよく分かる地形だ。
     坂道の右側は「越ノわんぱく広場」という児童公園になっているようだが、隊長の目的地はそこではない。台地の上の住宅地を更に進み、小さな公園「南越ノ児童公園」を過ぎた辺りで道が分からなくなったらしい。「ここは下見してないんだ。」ロダンが「ナンコシですか」なんて訊いてくるのは南越谷の連想である。「越」と言うのがこの辺りの地名ならば山越え、岡越えの意味であろうか。台地になっているのだ。
     ちょうど幼児を連れた若い父親に出会って隊長が訊いてみる。「それじゃ行きましょうか。」実に親切な人である。帽子を被った幼児も、特に文句を言わずついてくる。
     「ここです。」それは道ではなく、民家の間のわずかな間隙ともいうべきもので、これでは案内して貰わないと分からない。裏手から八雲神社の境内に入ったことになる。和光市白子二丁目二十八番。祭神はスサノオだから、かつては牛頭天王社だろう。
     狭い境内の反対側は崖になって、階段が続いている。生い茂った樹木の間から下を覗き込めば民家があるようだから、正面の入り口はそちらになるのだろう。(後で調べると民家ではなく、牛房コミュニティセンターと観音寺があるようだ。)拝殿も小さく、神輿を収納するためらしい倉庫だけが新しくて大きい。「ここで食事にしましょう。」
     やや湿っぽい地面にビニールシートを広げて座り込む。道路を歩くより幾分涼しいのは、土の地面と樹木のせいだろう。「アッ、蚊がいる。」どういうわけか、蚊はヤマチャンに集中しているようだ。おそらく一番酒を呑みそうな顔だと蚊も知っているのだ。「違うよ、俺は一週間に二日しか飲まないよ。」ホントかね。それで生きていけるのだろうか。
     オカチャンはリュックから紙コップを取り出し、更にビニールチューブ入りのアイスキャンディ(チューペットというものらしい)をセットして全員に配給する。「鋏もあります。子どもの気分でチューチュー吸ってください。」普通、紙コップまで用意する人はいない。実に気配りのひとである。「トンボは甘いのが嫌いですから、ドライー・ジンジャーがあります。」
     イトハンからはタコトンビというものが回されてくる。私は食ったことがなかった。「タコの目玉だろ」と言う人がいるが、目玉ではなく嘴ではあるまいか。「酒のつまみだね。」味は良いが固くて、あまり年寄向きではない。しかしこれ一つをツマミにすれば、二合くらいは飲めそうな気がする。一所懸命齧って口が疲れた。
     「ここにトイレはないからね。」その辺でやってしまっても誰も文句は言わないだろうが、「警察に捕まっちゃう」とヤマチャンは警戒する。

     ギラギラと蝉も鳴きやむ炎暑なり  午角

     「出発しようか。」一時頃に出発し、さっき通り過ぎた南越ノ児童公園でトイレ休憩をする。水道の水は生ぬるいが、タオルを濡らして首に巻く。「それって、いつまでも冷えるやつかな?」ごく普通のタオルである。そう言えば去年、妻はそういうタオルを買ってくれた筈だが、あれはどこに行ってしまったのだろう。
     少し先で百段階段(実際には七十段くらいらしいが)を降りる。「トカゲがいた。」「ヤモリかしら?」私は見なかったが隊長がトカゲだと判定した。トカゲなんか珍しいものではない。大学の喫煙所には今時分、尻尾の部分が玉虫色に輝くトカゲがしょっちゅう出てくる。カナヘビも出る。
     階段を下りれば本田技研工業白子ビルに前に出た。本田は和光市に拠点を持つ会社で、二五四号の理研の向かいに大きな研究所がある。国道を渡り、もう一度さっきの大坂に戻って少し上ると、すぐ左が「大坂ふれあいの森」だ。道路から階段で少し降りると、斜面に沿う林の中を湧水が流れている。ここは和光市が地権者から借地した約千四百平方メートルの市民緑地である。

     湧水の林に入れば蝉時雨   蜻蛉

     「蝉の声なんて久し振りだな。」「そうだね。」そういう会話を聴いていると、みんな大都会に住んでいるみたいだ。私なんか毎日大学構内で蝉の声を聴いている。「こういう湧き水のあるところに蛍が来るんじゃないの?」そうかもしれない。
     暫く日差しを避けてからまた歩き始める。今日は気力が衰えているのか、坂道がきつい。諏訪神社の祭礼の笛太鼓が聞こえてくる。「練習かな。」「本番だよ。」ちょうど左手に入る道を神輿が過ぎたところだった。イトハンは祭の露店に惹かれているようだが、それではコースから外れてしまう。

     ふれあいの森のしじまや祭り笛  閑舟
     遠ざかる夏の坂道笛太鼓   蜻蛉

     ゆめの木保育園の角から笹目通りに出ると、オリンピック道路の標示があった。「オリンピック道路ってなぜなんだろう。」「クレー射撃に関係したんじゃなかったかな。」隊長とハコサンの会話に私が割って入り、「聖火ランナーが走ったんですよ」と偽りの情報を流す。
     私はそう思い込んでいたのだが、実はそうではなかった。東京オリンピックの際に戸田のボート場までの道を整備したのでその名前が付けられたのである。因みに所沢にも同じ名前の道路があって、そこはハコサンの言うように、クレー射撃場が近かったからだ。
     階段を下り、陸橋の下を潜って県道一〇九号(新座和光線・明治以後の旧川越街道)に出てすぐ右に曲がる。写研の横を通って公園の脇に回り込む。隊長の地図ではここを回り込まずに真っ直ぐに行けば良い筈だが、コースを変えたのだろうか。さっき、暑いから少し省略すると言っていたのはこのことだろうか。
     そして東上線の谷中隧道の入口に出た。中は涼しいだろうと思ったのに、先頭が立ち止っている。「どうしたの?」サングラス越しだと、トンネルの奥が鏡を張ったように見える。「冠水してるんだ。」ハコサンがそれでも突っ切ろうと試みるが、十センチも水が溜まっていては難しそうだ。「昨日一昨日の豪雨のせいでしょうかね。」「それじゃ、回り道をしましょう。」
     左から大回りすると谷中川沿いの道に出た。「これがさっきの隧道から続く道かな。」残念ながら違うのだ。それにしても三面護岸の川を流れる水は、水量は少ないが意外に澄んでいる。この川は越戸(コエド)川の支流である。

     陸上自衛隊朝霞駐屯地の埼玉県朝霞市から和光市にまたがる七ッ釜の湧水(現在は暗渠化され地上からは確認できない)を水源とし、埼玉県和光市本町の県道一〇九号線(旧川越街道)の北側から地上に姿を現す。すぐに東京メトロ和光検車区付近から暗渠となり、東武東上線を越えて和光市新倉から再び地上を流れ、支流の谷中川と合流し、朝霞市下内間木で新河岸川へ合流する。(ウィキペディア「越戸川」より)

     遮るものの何もない道を、地図を見ながら歩いていると新倉幼稚園の前を通る。やはり予定していた道からは随分西に逸れてしまっている。次の角を右に曲がればよいだろうと思っていると、隊長はその角で左に行きそうになる。「隊長、ここを右に行くんですよ。」ここで曲がるしかないだろう。「今は地図のここだから。」もう一度曲がって中新田通りを行けば氷川八幡に着く筈だ。
     「イトハン、大丈夫?」「大丈夫。」「あそこの森みたいだよ。」「頑張るわ。」やっと着いた八幡氷川神社は祭りの最中だった。和光市下新倉三丁目十三番三十三。由緒によれば寛治五年(一〇九一)に八幡宮を勧請し、文禄三年(一五九四)に大宮の氷川社を勧請したものである。
     神社の祭りと言っても団地の夏祭りと余り変わらない。笛も太鼓も聞こえない。露店は出ていないし、テントの中でビールやジュースを冷やしているのは町内会のオバサンたちだろうか。取り敢えず飲みたい。「ビール頂戴。」水槽にはまだ覆いがかかり、釣銭の用意もできていない。「まだやっていないんじゃないか」スナフキンは冷静に観察しているが我慢できない。「まだダメかな。」「大丈夫ですよ。」しかし三百円払ったのに氷水に浸かった缶ビールは生温かった。「そうだろう、まだ早すぎるんだよ。」
     「どうぞ、どうぞ。」町内にも氏子にも何の関係もないのに、私たちはテントの中の椅子を勧められ、冷えた麦茶も振る舞われる。親切なことだ。「ああ、生き返るわね。」「金を無駄に捨てたのは蜻蛉だけだね。」画伯が笑う。確かに生温いビールよりは麦茶のほうが余程旨い。

     八幡の恵みのお茶や盆踊り  閑舟
     生温きビールを悔やむ祭かな  蜻蛉

     三十分ほど休憩して出発する。次は妙典寺(日蓮宗)だ。和光市下新倉四丁目十三番六十。子安の池があるので、本堂の裏に回る。これも湧水の筈だが水は濁って汚い。隅田五郎時光の妻が難産で苦しんでいた時、通りかかった日蓮が楊枝で地面をつつくと水が沸いた。その水を飲ませると無事に子供が生まれたと言う伝説である。「私も丈夫な子が生まれるかしら。」既に孫を数人持っているのに、イトハンはまだ子供を産むつもりなのか。
     池の前には法華堂が建つ。「法華堂って何なの?」「法華経を納めてるんだよ。」私はまたいい加減なことを言ってしまう。実は法華三昧の行を行う堂であり、法華三昧とは法華経を音読する修行である。
     「法華経って何なのよ。」かつては、釈迦が最後に説いた最終的な教説だと信じられていて、今でもそういう主張をする連中はいる。それは無視しても良いのだが、しかし法華経が近代の思想に与えた影響は大きくて、宮沢賢治、北一輝、石原莞爾の名前を挙げればよいだろう。この辺りが私には全く理解できないことなのだ。法華経自体は結構面白い読み物で、いわゆる観音経も、法華経中にある第二十五品「観世音菩薩普門品」である。しかしいくら読んでも、私には一向に信仰心が湧いてこない。
     本堂に戻ると隊長たちが待っていた。「行きますよ。」オカチャンが先頭に立って、なるべく日蔭の方を歩くように先導する。「庚申塔がある。」しかし辻の祠に収めてある庚申塔はレプリカではなかろうか。セメントで型を取ったもののように見える。「だけど、やっぱり講釈師がいるよ。」講釈師は必ずいるのである。「俺はどこだっているよ」という声が聞こえてきそうだ。

     片陰を連なり行くや庚申塔     閑舟
     天邪鬼やっと見つけて安堵する   午角

     次は壱鑑寺(曹洞宗)だ。和光市下新倉七九六番地。「不許葷酒入山門」の結界石(戒壇石)を見てイトハンが「お酒入門よ」と言いながら、実は違うことを言いたそうにしている。誤解のないよう大事なことを教えておかなければならない。「葷」はニラ、ネギ、ラッキョウ、ニンニクなどの臭いの強い野菜である。境内に入って、そういう野菜を食ったり酒を呑んだりしてはいけないと言う意味で、寺に入る前にビールを飲んでも何の問題もない。(私が言ったのは嘘なので信じてはいけない。)「問題ないだって?」「エーッ、そうなの?」「都合のいいことばっかり。さっき、一人だけ飲んだからね。」

    壱鑑寺
    是も金泉寺の近邊にあり、曹洞宗、近江国普化腹松寺末なり、薹月山と号す、開山は嶺室雪大和尚、開基は酒井壱岐守忠重なり、寺僧の傳に云、此寺もと川越領酒井家采邑の中にありしを、寛永年中領地を移されし時、当寺も今の地へ移すと云、斯説によれば川越にて忠重開基をなし、造立は寛永の初めなるべし、嶺室和尚は慶安三年遷化、それより第三世是心作大和尚中興す、この和尚は延宝五年寂、本堂六間四面、本尊釈迦如来を安置す。
    位牌堂。本堂の後にあり、惣塗籠なり。
    鐘楼、門を入り左にあり、高さ四尺、元禄中の銘あり、(銘文省略)
    酒井壱岐守忠重墓。本堂の右高き所にあり、五輪の石塔、表に松厳院殿薹月一鑑大居士、慶安元子年六月念日と刻せり、忠重は備後守忠利が第三の子、始め内記台徳院殿に仕へ、本郡入間郡の中にて五百石を賜れり、寛永四年十二月二日、父忠利が所領川越にて二千石を分ち下され、壱岐守に任せりと云ふ。(新編武蔵風土記稿より)

     酒井壱岐守忠重は川越藩初代藩主・老中酒井備後守忠利の三男である。因みに川越藩二代藩主の忠勝は後に若狭小浜藩に転封される。先日の江戸歩き「神楽坂編」では、若狭の酒井家の下屋敷跡を訪れたのを覚えているだろう。
     三基並ぶ大型の五輪塔の中央が忠重、右がその夫人、左が二代忠興夫人のものだという。五輪塔はこれまでもずいぶん見ているし、作文にも書いているのに、誰もそんなことは覚えていないらしい。あるいは読んでくれていない。「下から何ですって?」五輪の表面にはそれぞれ、地水火風空の文字が刻まれている。「あっ、そうか、ちゃんと書いてある。」
     「ちょっと待ってください。六つあるようだ。地はこの四角でしょう?」ロダンの質問に答えたことを一応書いておくか。地輪は方形(六面体)、水輪は球、火輪は宝形屋根に反りを入れた形、風輪は半球、空輪は一般には宝珠だが、ここのものは球形の上に尖った角が立っている形だ。「そうか、あれが二つで一つですか。」球形と角を別々に数えると六輪になってしまう。
     インド、中国、朝鮮にこの種の石造物がないので、平安末期に日本が独自に発明したと考えられている。「下からア・ヴァ・ラ・カ・キャって読むんだ。」「それってサンスクリット語ですか。」梵語の日本読みである。日蓮宗に限っては、上から「妙法蓮華経」の文字を入れる。この例は本所法恩寺で大田道灌の供養碑を見ているが、覚えているだろうか。
     ダンディの温度計が三十九度になったという。「なんで温度計なんか持ってるんだ?」高度計やら温度計やら、普通は余り関係なさそうな機能を備えた時計だろう。

     体温を超える暑さの夏は来ぬ    午角

     上り坂が続いてくる。先頭から少し遅れて長照寺に入ると、通りがかりのオジサンが隊長と話している。どうやら、この会に興味をもったらしい。隊長が連絡先を教えたので、次回から参加するかもしれない。「暇を持て余してる老人が多いんだよ。」「俺らもそうだな。」真言宗智山派、光明院。和光市新倉三丁目三番三十五。
     庭には樹齢七百年の大銀杏がある。乳が垂れ、幹回り七・五三メートル、樹高二十九メートルにもなる。今読んだばかりなのに、高さ七メートルなんて覚えてしまい、「歳は取りたくないもんだ」とロダンが大笑いしている。

     七年の学びし成果蝉の歌      午角

     この辺りは台地の上の畑をそのまま宅地にしたようなところで、道が複雑に入り組んでいる。十年ほど前、まだカーナビなんかなかった頃にこの辺に入り込んで往生したことを思い出した。更地のままの状態になっているところも多いから、これからだろうが、しかし商店らしきものも見えないし、高台で坂道が多いから年寄は住みにくい。
     和光市駅はもうすぐだが、暑さのせいで坂道が堪える。「ここで三十分ほど休憩しましょう。」隊長は新倉ふるさと民家園で立ち止った。和光市下新倉二丁目三十三番一。この中にある旧冨岡家住宅は元禄時代に建てられた建物を移設したものだ。

     旧冨岡家住宅はこれまでの調査などから、江戸時代中期の十七世紀後半に建築されたものといわれています。
     昭和六十三(一九八八)年に東京外郭環状道路の建設に伴い、旧冨岡家住宅は部材として解体保存されました。 平成十五(二〇〇三)年十一月三日に和光市の指定文化財となり、平成十七(二〇〇五)年二月より復工事が開始され、翌平成十八(二〇〇四)年三月に完成しました。
     復元では建築当初の外観を採用し、囲炉裏が土間境にある、床の間の前身といわれる押し板がある、縁側がないといった特徴があります。

     中に入るとボランティアのオジサンが二人で歓待してくれる。「どうぞ、冷たい麦茶があります。」それは有難いとすぐに並んだ。しかしこの人数だからロダンの順番が来た時にはもうなくなったようで、頻りに容器を斜めにしていると、「あっ、なくなりましたか。」すぐに補充してくれる。
     「今日は三十人も来ましたか?」ハコサンの言う三十人はどこから考えた数字だろうか。「いや、今日は十五人ほどですよ。」それならほぼ私たちだけではないか。こんな日に、わざわざこの辺を歩く人はいない。
     イトハン、ダンディ、画伯はラムネを買って飲む。「アラ、どうやってするのかしら。」「ここを外すんですよ。」「甘いんだろう。」却って咽喉が渇くのではないか。私は子供の頃にもラムネを飲んだ記憶はあまりない。我が家は上流家庭だったので(ではなく、小遣いがもらえなかったから)駄菓子屋で飲食品を買うと言う習慣がなく、たまに家や親戚の家で三ツ矢サイダーを貰う程度だった。あの頃、キリンレモンは高級品で、たまに飲むとなんとなく大人になった気分だった。
     宗匠やヤマチャンはボランティアの話を真面目に聴いている。この辺りは鷹場で、年貢の代わりに鷹の餌となる蝙蝠などを納めたと言う。「和光市は何もなくって。」「本田がありますよね。」「工場は移転して、都市対抗も今は宇都宮、今度は寄居が中心になるんですよ。」
     コースの最後にこんな施設があるのは非常に嬉しい。お礼を言って出発する。今度は坂道を下ると、不思議に開けた場所に出た。「これって関越?」「違う。外環道だよ。」そうか、関越自動車道から分岐しているところではないか。

     和光市駅に着いたのは三時半頃で、宗匠の万歩計で一万二千歩になった。七八キロというところか。距離は短いが暑さと起伏の多い地形で疲れた。五百ミリリットル入りの水筒の他にペットボトル三本を飲んだので、本日の水分補給は二リットルになった。その他に振舞われた麦茶も飲んでいるが、ほとんど汗になってしまったようで、トイレにはあまり行かなかった。
     隊長の挨拶に続き、ヤマチャンの次回の案内でお開きになる。ヤマチャンとの打ち合わせで、来年一月の江戸歩きはヤマチャンが担当してくれることになったので、私は三月だ。
     反省会の場所は朝霞台に決めてあるから、電車に乗る。和光市駅の近辺では四時前にやっている店はない。画伯、オカチャン、スナフキンが帰って、参加者は九人。さくら水産も久し振りだが、朝霞台の店は昼からやっているので都合が良い。普段の私はビールは一杯しか飲まないのに、今日は珍しく二杯飲んだ。それだけ水分が不足していたのである。
     「この一杯のために我慢してたんだ。」それはいけない。アルコールは脱水を起こすから水分の代わりにはならないのは、今や国民的な常識である。
     本日の注文は宗匠にお任せした。「全部三人分でいいね。」「どこで区切るんだい?」「ここから三人で。」焼酎も飲んで一人二千円也。「安いですね。」あまり食べなかったせいだろう。

    蜻蛉