文字サイズ

    平成二十六年十月二十五日(土)  太田金山城

    投稿:   佐藤 眞人 氏     2014.11.02

     旧暦九月二十五日。二十四節季「霜降」の初候「霜始降」は既に晩秋である。今週は火曜から木曜まで雨が続き、朝晩めっきり寒くなった。つい最近秋になったばかりだったのに、ちょうど良い季節が短くなって一気に冬に突入してしまいそうだ。それでも今日は天気も良く絶好のハイキング日和になるだろう。
     鶴ヶ島駅を七時三十七分に出る電車に乗らなければならない。普段より早いので弁当が作れるかどうか恐る恐る妻に訊いてみたが、しかし心配することはなかった。このところ息子が六時半頃には家を出るので、妻も早起きするのである。ロダンだけでなくオカチャンみたいに恐妻自慢の人が登場してくると、余計なことに神経を使うようになってしまう。実に遺憾なことだ。「今日は早いじゃないの。」煙草を買いに寄ったファミリーマートのオバサンが不思議そうな顔をする。
     川越から大宮に出て八時二十三分の快速ラビット宇都宮行に乗り、久喜で八時四十一分発東武伊勢崎線太田行に乗り換える。意外に乗客が多いのは高校生のせいで、沿線にはかなりの数の高校が存在する。仕方がないのでシルバーシートに座り込んだ。太田までは一時間強かかるし、幸い高齢者の姿は近くには見えない。
     久喜を出た東武伊勢崎線は加須市、羽生市を通って川俣駅で群馬県邑楽郡明和町に入る。次の茂林寺駅からは館林市になり館林駅・多々良駅を通過する。タタラは金属精錬に関係するだろうか。県駅(これも古い地名か)から栃木県足利市の福居駅・東武和泉駅・足利駅・野州山辺駅をかすめ、そして再び群馬県太田市に入って韮川駅、太田駅となる。通過する市の数も多く、長い旅だ。この辺りは狭義の両毛地区と呼ばれる。(広義には上野国と下野国の全体であるのは勿論だ)。
     暫くうとうとして気が付くと、高校生が大方いなくなって車内はずいぶん空いてきた。車両の中程でスナフキンが眠っている姿が見えたので席を移動する。
     太田駅に着いたのは九時四十六分。家を出てから二時間半で、料金は千三百九十六円だった。太田市は南に利根川、北西に渡良瀬川が流れ、ほぼ渡良瀬川を境に桐生市、足利市と接している。渡良瀬川の右岸に沿って北西から南東にかけて二百メートル級の八王子丘陵が広がり、その南東の端が今日の目的である金山になる。
     ちょうど良い電車はこれしかないので、結局みんなが同じ電車で来ていた。スナフキン、椿姫、隊長、ドクトル、ハコサン、オカチャン、千意さん、宗匠、桃太郎、蜻蛉の十人である。小町はタクシーで城跡入口の駐車場に来ることになっている。
     あんみつ姫もタクシー組として参加する予定だったが、このところ少し体調を崩して欠席となった。残念だが、結果としては良かったかも知れない。椿姫の姿があるのは思いがけなかった。今日は山道を歩くコースですよ。「随分痩せたんじゃないの。」「見違えちゃった。」「そういう発言はセクハラになるんじゃないか。」色々言う人がいる。「今日はできるだけ蜻蛉から離れて歩かなくちゃ。何を書かれるか分からないもの。危なくてしょうがない。」同じことを何度聞かされただろう。私はそんなに変なことは書いていない積りだ。
     桃太郎は「スナフキン初の企画だからね、遠くても来なくちゃいけないと思って」と言うが、それよりも山道でシンガリ役を務めるために来てくれたのではないか。そしてその力は後で実証される。「椿姫も一時間待って小町とタクシー使ったらどうですか。」スナフキンが気を遣うが、「大丈夫、頑張ります」と無理矢理応える。桃太郎がいるから何とかなるだろう。
     久し振りに会う千意さんの鬚が大分濃くなった。「蜻蛉は先月の里山に来なかったから会えなかったものね。伸ばし放題なの。」「俺は勤めがあるから無暗に伸ばせないんだ。」「顔立ちが優しいから鬚を伸ばしたなんて、笑っちゃうね」と隊長が笑う。しかし千意さんも私同様顔立ちが優しいから髭を伸ばしているに違いない。ロダンは今日も忙しい。

     今回はスナフキンが初めて里山ワンダリングのリーダーを務める。念のために十時まで待って、他に誰も来ないことを確認して出発する。北口ロータリーの正面には、新田義貞の立像と、義貞の兜をもって蹲踞して従う脇屋義助が並ぶ像があった。「どうして新田義貞がここにいるんですか。」「隣にいるのは家来かな。」確かに従者のような恰好だが、義助は義貞の弟ではないか。「実弟だね」とハコサンも呟くように断定する。しかし後で写真を確認すると、副大将の義助にしては大袖もなく鎧が余りに貧弱だ。義助ではなく家来なのかも知れない。私はどうして義助だと思ってしまったのだろう。
     「新田義貞の像って、あちこちにありますよね。」太田は新田義貞本貫の地である。生品明神(太田市新田町市野井)で綸旨を読み上げ、僅か百五十騎で挙兵してから鎌倉まで、その進軍した跡に像や石碑が立っている。埼玉県内では鎌倉軍との最初の戦闘が行われた小手指ケ原が有名だ。「七里ケ浜も義貞ですよね。」
     太田市にしてみれば郷土が生んだ最大のヒーローである。しかし鎌倉攻略以降の義貞は精彩を欠く。勾当内侍の色香に迷って出陣時期を逸したというのはフィクションだろうが、政治力や決断力の点で足利尊氏には遥かに劣る。鎌倉幕府の複雑な勢力関係の中で揉まれてきた尊氏と、田舎住まいしか知らない義貞との違いだ。そもそも義貞の軍にしても、武蔵国で尊氏の子息千寿王(義詮)と合流したことで関東武士が集まったのである。幕府内に地位を持たず無位無官の義貞に大軍を集める力はない。
     話は逸れるが(私の作文はいつもそうだ)、江戸時代に流布した『太平記評判秘伝理尽抄』には楠正成の言葉として、義貞は「忠臣に非ず」「先づ以て朝敵なり」と書かれている。尊氏でも義貞でも、どちらが政権を握っても武家の天下になる、それを阻止しなければならないと言うのである。
     因みにこの本は平凡社の「東洋文庫」に四巻本として収録されている。太平記中に起きた戦闘や.城攻めそれぞれについて楠正成の論評を加える体裁で、これを種本にした「太平記読み」(講釈師)はやがて「軍学者」を称することになる。

     太田市を中心に伊勢崎市の一部や笠懸町(現・みどり市)に及ぶ地域が上野国新田郡であった。というのを実は初めて認識した。承平年間(九三一~九三八)に編まれた『和名類聚抄』に新田郡駅家郷の名が見られるから、新田の地名は古い。太田市天良町では新田郡の郡庁跡も発掘されている。更に時代を遡れば、東日本最大の前方後円墳である天神山古墳(太田市内ヶ島町)があって、古代から一大勢力が存在した地域である。
     「ここは毛野国だろう。毛深い人がいたのかな?」ドクトルの質問は難しい。毛野が上毛野(かみつけの)と下毛野(しもつけの)に分離したとはされているが、毛野国の実態は良く分からないのだ。倭王武の上表文「東に毛人を征すること五十五国」が有名だ。私も単純に毛野(ケノあるいはケヌ)は毛人の国であり、それは蝦夷のことだろうと思っていたが、別に毛野は単に未開の沃野を言うとの説もある。
     古代には栄えた地域だが、天仁元年(一一〇八)の浅間山大噴火によって、上野国のほぼ全域が降灰に覆われ田畑は壊滅した。前橋や高崎での発掘調査でも、十~二十センチの地層が発見され、当初の降り積もった時期にはその倍にもなっただろうと推定されている。火山灰の降った土地で耕作はできない。
     その荒れた地域を再開発したのは八幡太郎義家の四男(三男との説もある)源義国である。義国は常陸国で佐竹氏と争い下野国を中心に勢力を蓄え、康治元年(一一四二)に足利荘を立券、保元二年(一一五七)には長男・義重とともに新田荘を立券した。「立券」とは荘園として不輸租や雑役免除を国に公認させることである。そして義重が新田氏を名乗り、弟の義康は足利荘を相続して足利氏を名乗ることになる。
     義貞は新田氏八代目当主、脇屋義助はその実弟である。脇屋を名乗るのは、上野国新田郡脇屋(現・太田市脇屋町)を本拠地にしたからだ。建武五年・延元三年(一三三八)に義貞が戦死した後も、義助は南朝方で戦い続け、康永元年・興国三年(一三四二)、伊予で発病して死んだ。二つ並べた年号は、前が北朝年号、後ろが南朝年号である。『日本人名大辞典』(講談社)のルールに従ったが、『コンサイス日本人名事典』(三省堂)では逆のルールを採用している。表記の順は両朝正閏論争につながる恐れがあるが、今回は判断保留のまま取り敢えずこのようにした。無意識のうちに北朝を正統とする気分が私にあるのだろうか。

     それにしても土曜日のこの時間だというのに駅前は殆ど人が歩いていない。ロータリーの隣は広い空き地になっていて、これで太田市は大丈夫なのだろうか。普通なら駅前にある大型商業ビルもないし、小さな商店だって殆ど見当たらないのだ。人口は高崎市、前橋市に次いで群馬県三位になるというのに、その市の中心になる駅前とはとても思えない。
     よく考えれば太田はスバル富士重工業の城下町である。群馬県は人口比自家用車保有率では全国一を誇っていて、その中でも太田地区は県内でもトップに位置する。平成二十四年の統計で、一人当たり台数は〇・六五四だから、三人家族の世帯なら二台持っている計算になる。因みに埼玉県は〇・四二二の四十二位で、当然のことながら最下位は東京の〇・二三二となる。(「都道府県データランキング」http://uub.jp/pdr/t/cr_6.htmlより)
     住民はみんな車を使うから電車やバスは利用しない。だから駅に人は来ない。これは同時に公共交通機関の未発達、あるいは衰退過程にあることを意味するだろう。コミュニティバス(土日はほぼ休業)はあるが、民間の路線バスは南口から出る熊谷行きしかない。
     太田駅の一日の乗降客は一万人強。群馬県内の東武線の駅の中では館林に次いで第二位だそうが、そのほとんどは通学通勤に使われるだけではないか。沿線に高校が多いことは既に書いている。
     富士重工の前身はもちろん中島飛行機で、父が戦時中に徴用で来ていた。入営初日の検査で結核が見つかり、即日帰郷になって徴用に回されたのである。江戸時代には日光例幣使街道の宿場ではあったが、田園地帯の小さな宿場に過ぎず、中島飛行機によって北関東随一の工業都市に変身するまで、太田はそんな状態だった。
     駅前の空き地の左側から回り込んで東本町十字路で北側の本町通りに出ると、少しは商店街のようなものが見えてきた。東西に走るこの通りが日光例幣使街道だが、そんな面影は殆どない。スナフキンは太田行政センター(太田市本町二十番地一)で立ち止る。外の芝生には、「太田宿本陣跡地」と彫られた大きな石が置かれている。

     人気なき本陣跡や秋日和  蜻蛉

     「宿場だったんですか。」倉賀野から数えて例幣使街道の七番目の宿場だ。「倉賀野って群馬県ですよね。どうしてそれと日光が関係しているのかしら。」「京都から日光東照宮例祭に派遣されたのが例幣使。都から中山道を通って来て倉賀野からこの街道に入る。今市で日光街道に合流するんですよ。」「位置の関係がよく分からない。うちに帰って地図を確認しなくちゃいけないわ。」「宿場と言っても休憩するだけだったようです」とスナフキンが説明する。
     ついでだから例幣使街道の宿場を数えてみる。倉賀野(群馬県高崎市)・玉村宿(群馬県佐波郡玉村町)・五料宿(同)・柴宿(群馬県伊勢崎市)・境宿(同)・木崎宿(群馬県太田市)・太田宿(同)・八木宿(栃木県足利市)・梁田宿(同)・天明宿(同)・犬伏宿(栃木県佐野市)・富田宿(栃木県栃木市)・栃木宿(同)・合戦場宿(同)・金崎宿(同)・楡木宿(栃木県鹿沼市)・奈佐原宿(同)・鹿沼宿(同)・文挟宿(栃木県日光市)・板橋宿(同)・今市宿(同)である。但し楡木から今市までは壬生通りと呼ばれ、日光西街道と共通する。
     例幣使の一行は四月一日に京都を発ち、十一日に中山道から例幣使街道に入って玉村宿に宿泊する。十二日は太田宿で小休止し、天明宿に泊まる。十三日は鹿沼、十四日は今市に泊まって十五日に日光に着く。
     「例幣使って、どうせ下っ端が来たんでしょうね。」桃太郎と同じで私もそう思っていたが、実は公卿が任命されている。公卿とは参議三位以上で、朝廷の執行部を構成する上級貴族である。古い話だが、藤原定家は五十歳で漸く従三位侍従に昇進して喜んだ。正四位下に昇任してから十一年経っていた。
     念のために数人確認してみると、正保四年(一六四七)の正親町豊実は参議、慶安元年(一六四八)の平松時庸は従二位権中納言、慶安三年(一六五〇)の柳原資行は従一位権大納言、もう少し時代を下ってみても天保元年(一八三〇)の勘解由小路資善が正二位でだから間違いないだろう。
     「威張りくさって接待を強要するんですよ。」映画や時代小説でお馴染みの姿だが、実際都の貴族は官位だけ高くても経済的には貧しかったから、そんなことでもなければ、わざわざ日光まで辛い道中を下るなんて引き受けはしなかっただろう。
     京都の大商人が江戸へ送る荷物の搬送を請け負って手数料を稼いだ。例幣使は公用だから馬は無賃で利用できる。また新しい幣を納めれば前の年の旧幣を持ち帰る。それを.細かく裁断したものを帰途の沿道で売り捌くこともした。これらがかなりの収入になったようだ。一行の人数は五十人前後、慶応三年の武者小路公香の時には九十人になった。
     少し先に行くと「呑龍書道会」の看板を掲げた小さなビルの前に、割に新しい「二宮尊徳像」が立っていた。「珍しいね。」像自体が珍しくなっていることは勿論だが、薪を背負って本を開いている姿だから、普通には「二宮金次郎」と呼ぶのではないかしら。
     本町の交差点を右に曲がると県道三二一号線で、通称大門通りと呼ばれている。大光院の門前町ということだろう。この付近で呑龍市が開かれる。

     中心市街地で賑わいを創出することにより、地域の活性化に繋がるよう大門通りを舞台に太田金山子育て呑龍の名にあやかり「第七回呑龍市」を開催いたします。
     当日は農産物、生鮮食料品、日用雑貨品、服飾装飾品などの販売を行います。皆様のご来場をお待ちしております。(太田市ホームページ)
    http://www.city.ota.gunma.jp/005gyosei/0080-004sankei-shogyo/2011-0512-0932-101-donryuiti.html

     三年前に始まり今年の五月で九回目というから、年に三回程度の催しらしい。「中心市街地」と言っても人通りは稀だ。何かのイベントでもない限り人が集まらない町なのだろう。これをどう活性化していくのか。まっすぐ北に伸びる道路の正面には山が聳える。「あれに登るんだろう。」
     左手を見ると鉄骨で組まれた火の見櫓が建っていた。「最近、火の見櫓も少なくなった」とハコサンが慨嘆するが、それだけならそれ程驚かない。花屋と焼鳥屋に挟まれた寺院の狭い参道入口を跨いで建っているのでで、寺に入るにはこの火の見櫓の下を潜っていかなければならない。「珍しいよね。」寺は浄土宗長念寺、門柱の右側には三宝山浄土院とある。
     右手の東光寺(高野山真言宗)の塀から上に伸びる木が立派で、かなりの樹齢だと思われる。後で調べると樹齢五百年を超えるムクが二本、四百年を超えるムクやイチョウやケヤキがある。と言うことは、太田はそれほど空襲の被害にはあっていないのではないかと思ってしまう。しかし中島飛行機がある以上空襲は免れない。米機は或いは工場一帯に限定して襲ってきたものだろうか。太田市を襲った空襲は九回、死者は三百人以上、焼失家屋は四百戸弱になる。
     寺のホームページよれば、新田義貞の次男・義興を埋葬しており、更に義興の弟の義一の子孫がこの寺の住職になったと、岡家の墓に記されているそうだ。しかし、それを裏付ける史料は他に存在しない。系図上では義一の名は義貞の長男・義顕の子として登場する。その隣には春日神社があるがどちらも寄らない。「下見の時に寄ったけど、たいしたもんじゃなかった。」
     やがて観光大門という、コンクリートでできた大きな門が出現した。これも太田市の観光政策の一環だろう。モダンなものだが、こういうものは古い形を残した方が良かった。「ようこそ関東菊花大会へ」の横断幕が張られている。道路側で支える柱は五角形(というより家の形)で、右には三葉葵、左には「丸に一つ引き」(大中黒)を光らせている。一つ引き両は新田氏の紋だ。
     「あれが太田の名物みたいですよ。」金山町交差点角にある山田屋では、店先に出したベンチに高齢者が二人座っている。焼き饅頭を食っているのだろうか。「帰りに寄りますから。」
     通り沿いには「呑龍様」の名を負う駐車場が何軒もあるが、どれも車が停まっている気配がない。「呑龍ってなんですか。」「呑龍上人、呑龍様。」「あっ、人の名前ですか。」講釈師なら中島飛行機で製作された重爆撃機「呑龍」のことを言い出すかもしれない。それもこの呑龍様から採られた名前だ。
     左に曲がると大光院の山門に着く。太田市金山町三十七番地八。正式には義重山大光院新田寺(浄土宗)だが、誰もそんな呼び方はせず呑龍様と呼ぶ。群馬県人なら誰でも知っているらしい(小町が詳しい)上毛かるたに「太田金山子育て呑龍」とある。山門の向かいには昔から続いているらしい土産物屋「中澤」が店を開いている。かつては門前に土産屋が軒を並べていたようだが、今はこの一軒だけが営業している。
     山門は三間一戸八脚門の形式で、棟瓦には三葉葵紋が三つ飾られている。七五三の看板が立てられ、着飾った子供を連れた家族の姿が目立つ。「可愛いよね。」「やっぱり女の子がいいね。」

     七五三よその子ながら愛らしく  蜻蛉

     目を引くのは「ぐんま名所百選」の一位に輝くというポスターだ。それによれば一九八三年に上毛新聞社が選定したものだが、群馬は山と温泉の国である。観光名所は他にもいろいろあるだろうに、それらを押えてこの寺を一位にした理由は謎だ。
     境内に入ると左は幼稚園になっていて、その前でハコサンの講義が始まる。「五分で済みますから。」今日のハコサンは、話すべきことをカレンダーの裏に書いてきた。「視力一・〇の人であれば、四メートルの距離でも見えるように文字の大きさを計算しました。」いつもながら数字には細かい人である。
     内容は子育て呑龍の説明だ。呑龍上人は弘治二年(一五五六)武蔵国埼玉郡一ノ割村で生まれた。「一ノ割って春日部かい。」「そうです。」林西寺で修行した後芝増上寺に入る。「林西寺は今もあります。」「越谷だね。」
     やがて増上寺十二世の高弟となり、武蔵国多摩郡八王子の大善寺(浄土宗関東十八壇林の一)三世となって壇林の基礎固めを行った。慶長十八年(一六一三)、家康の命によって大光院の開山になる。「資料によっては招聘されたとも書いてますが、命によってというのが正しいと思います。」こういうことで悩んでいると、いくら時間があっても足りない。家康は新田氏の裔(世良田氏)を自称したから、初代新田義重を祀る必要があった。義重は法然に帰依していたから、徳川家の菩提寺と定めた増上寺から推薦を受けたのだろう。増上寺は戦国時代から浄土宗東国の要であった。
     名前の由来は「孝心のため国禁を犯した子を匿い幕府から譴責されたが、五年後に赦免された」である。「ウィキペディアの記事を抜き出したもので、学術的には正確かどうか。それほど間違ってはいないと思います。」そんなに学術的に厳密な説明は私だってできない。
     「質問は三人受け付けます。」早速ドクトルが名前の由来について質問する。「呑龍にはそういう意味があるのかい。」「龍を呑む。それが子育てとどう関係があるのか、私もはっきりとは言えません。」二人とも勘違いしている。ハコサンが説明した名前の由来は、「呑龍」ではなく「子育て呑龍」の「子育て」に係るのである。結局質問は二人で終わったが(はて、ドクトルの他に誰が質問したのだったか覚えていない)、ハコサンの講義は十五分程にもなっただろうか。
     子育てのことをもう少し補足しておこうか。呑龍は捨て子や間引きされそうになった子供を、弟子の名目で寺に引き取って養った。元和二年(一六一六)、親の病気治癒に効くと信じて鶴を殺した少年を匿って罪に問われる。鶴の肉には神秘的な力があると信じられ、また三鳥二魚の五大珍味ともされていたのである。朝鮮通信使の饗応に鶴料理が出され、天皇も鶴を食った。三鳥は鶴・雲雀・鷭、二魚は鯛・鮟鱇だそうだ。魚は分かるが、鳥は現代の感覚では食いにくい。
     しかし庶民が勝手に鶴を獲ることは厳禁されていた。これによって大光院を追放された呑龍は信州小諸に逃れることになるのだが、元和七年に許されて戻ったという。
     菊花展は今日から始まったもので、関東各地から八百点が出品されたという。菊祭りといえば大輪の大きさや姿の美しさを競うものとばかり思い込んで、懸崖という小菊を飾る様式は初めて見た。愛好家なら今更何をと言うところだろうが、素人はこんなことにも驚いてしまう。盆栽仕立てで、幹や茎が根元より低く垂れるように作ったものである。

     懸崖の型のいくつか菊まつり    閑舟
     七五三 菊のにぎわい 呑龍さま  千意

     参道を進むと臥龍松が素晴らしい。呑龍手植えと伝えられていて、それが本当なら四百年である。松を竹柵で囲んだ芝生の中にある石灯籠には最樹院殿の文字が見えた。一橋治済のことで、石燈籠は増上寺のものかと思ったが、治済の墓所は寛永寺なので、そちらのものかもしれない。
     「これはどういう意味だい?」ドクトルが「世界一大国旗掲揚塔」を指差す。世界一を称す程大きいとは思えない。ネットを調べていくと、旧ソ連タジキスタンが世界一高い国旗掲揚台を建て、その高さ百六十五メートルというから、まるで勝負にならない。しかしこれは読み方が間違っていたか。私は世界一大きい「国旗掲揚塔」と読んだが、世界一の「大国旗」を掲揚する塔だったか。それならその国旗はどれ程の大きさなのだろう。日本語表記は難しい。
     「それじゃ出発しましょう。」それぞれ私以外が本堂にお詣りしたところでリーダーの声がかかる。本堂裏手から境内を抜けていくと、林の手前に「呑龍上人廟所参道」の石柱が立ち、その脇には「西山ハイキングコース」の立札も立っていて、モータープールまで一・五キロとある。それが私たちのコースになる。
     石垣で保護された石段を上ると広い墓地に出る。石垣の上の墓地に登る最後の石段下には「孝子源次兵衛の墓」の案内板が立っている。説明を読むと、「鶴の生血を服せしむべく」とある。「これで国禁の意味が分かったよ。」
     更に石段を上ると、正面の高さ二メートル程の巨大な卵塔が呑龍のものだ。それを横から見るように、右端には「鎮守府将軍源義重朝臣の墓」の古びた宝篋印塔が祀られている。呑龍の卵塔から左に、少し小型の卵塔がずらりと並んでいるのは歴代住職の墓である。「どうして僧侶の墓はこの形式なんだろう?」そんなこと訊かれても答えられない。「頭が丸いからじゃないかしら?」「俺みたいに?」仕方がないのでウィキペデイァのお世話になる。卵塔は無縫塔とも呼ぶ。

     無縫塔も、鎌倉期に禅宗とともに大陸宋から伝わった形式で、現存例は中国にもある。当初は宋風形式ということで高僧、特に開山僧の墓塔として使われた。近世期以後は宗派を超えて利用されるようになり、また僧侶以外の人の墓塔としても使われた。(ウィキペディア「無縫塔」より)

     この説明は少し舌足らずだ。宋の形式なら初めは禅僧が採用した筈で、これを言わなければ「宗派を超えて」の意味がはっきりしない。十一時をちょっと過ぎた。ガイドとは駐車場で十一時半の約束をしているようで急がなければならない。標識では金山モータープールまでは一・ニキロとなっている。平地なら何でもないが、太田市内の平均標高は五十メートル程だから、二百メートル近く登らなければならない。
     ここでスナフキンに小町から連絡が入った。太田駅でタクシーに乗るところらしい。あんみつ姫が欠席になったことが小町には伝わっていなかったようだ。そういえば、先日パソコンが壊れたと言っていたからメールが読めないのではないか。「上の駐車場に来てください」とスナフキンが答えている。
     木枠を組んだ階段は土が流れてしまっているから、段差がきつい。できるだけ階段から逸れた地面を歩く。上を眺めると階段はほぼ真っ直ぐに続いている。どこまで登るのだろう。「お先にどうぞ。ゆっくり行きます。」既に息が上がっているような椿姫を追い抜いていくが私もそんなに余裕がある訳ではない。桃太郎は椿姫に付き添う。やがて階段は終わったが木の根が広がる山肌も歩きにくい。樹木の切れ目から広がる景色を眺める気力もない。更に岩盤地帯に入っていく。
     「小学校の遠足で来たことがある。この辺を見て思い出した。」蓮田の小学生はここまで遠足に来るのである。「五十年以上も前のこと、よく覚えてるね。」

     遠き日の 遠足模様 よみがえる 金山を一歩 一歩踏みしめる  千意

     漸く尾根に辿りつき椿姫を待ちながら息を整える。時間的には短いがかなりハードな山である。「下見の時は終戦記念日だったから、もう暑くて暑くて。脱水症状になりそうだったよ。」夏に登る山ではない。標識には大光院まで五百メートルとある。残り千メートルだ。

     薄紅葉急な山坂尾根に立ち  蜻蛉

     「俺は先に行ってるよ。小町が着いてるかも知れない。」やがて私たちも歩き始める。隊長とハコサンは先に行く。尾根伝いの道は今までより遥かに楽だ。やや登り加減から平坦になり更に下り坂になる。隊長たちの姿は見えなくなってしまった。
     電話が鳴った。スナフキンからだ。「二股があるから、それを神社の方に左に来てくれ。」隊長は既に行ってしまっているので電話をかける。隊長の携帯電話は時々電源を切っているから大丈夫だろうか。九回鳴って隊長が出た。「二股を左に行ってください。」「神社の標識なんかなかったけどな。取り敢えず二股まで戻るよ。」
     そして私と宗匠も分岐点まで到着したが、このことだろうか。しかしここには神社方面なんていう標識はない。右も左もモータープールまで四百メートルと記されている。それに道は右手の方に行くのが自然に感じられるので、そのまま少し登っていくと隊長が戻ってきた。「神社なんて書いてないだろう。」「取り敢えずこのまま行きましょう。また二股があるかも知れない。」
     最後にまたキツイ上りが待っていた。下りがあれば再び登らなければいけないのは道理だ。「そこじゃないですか。」「そうだね。」結局、二股道は二度と現れず、登りきったところが駐車場だった。小町の嬉しそうな声が聞こえてきた。「良くいらっしゃいました」とガイドも迎えてくれる。十一時三十五分。スナフキンの計画から五分程遅れたか。背中が汗で気持ち悪い。数百台が駐車できそうな広い駐車場だが、閑散としている。これが秋晴れの行楽日和の土曜日の状況である。最近は城巡りがブームだと言うのはウソだったのだろうか。いわゆる「歴女」たちは、天守閣がなければ城ではないと思っているのではあるまいか。
     「俺と違う道を通って来たじゃないか。」それではやはり、さっきの二股がそうだったのだろうか。「だけど神社なんて書いてなかった。」ボランティアガイドも三人待っている。「取り敢えず到着した人から資料を差し上げます。十人ですよね。」「十一人です。」
     やがて椿姫もオカチャン、桃太郎を従えて到着した。「肺が爆発するかと思ったわ。」資料を配っていたガイドが「十二人ですね」とおかしなことを言う。「えっ、誰がいるんだろう。」慌てて名簿を確認してもやはり十一人である。宗匠も人数を数えて十一人だと確定する。ガイド氏がくれたのは主な人物の生没年の比較が分かりやすいよう、棒グラフを使った年表だ。
     私は事前に太田市のホームページから「国指定跡 金山城跡」と言う十六ページのパンフレットをプリントしてきた。実に詳細な説明で、興味のある人は参考にしてほしい。URLは下記。
     http://www.city.ota.gunma.jp/005gyosei/0170-009kyoiku-bunka/topics/files/kanayamajoato.pamph.pdf
     メインのガイドでスナフキンが連絡をとっていたのは糸川氏だ。「普通は十人のグループに一人なんですが、今日は暇な者がいるので二人つけます。それにカメラマンを入れて合計三人でご案内します。」事前にスナフキンがどう説明していたのだろう。「歴史に詳しい人たちだと聞いています。」一時間と言うことでお願いする。出発する前に金山城について基本的な事項を押えておこう。
     金山城は文明元年(一四六九)、岩松家純によって築城された。文明三年といえば応仁の乱(応仁元年から文明九年)の真っ最中だが、関東に及ぼした影響はそれほど大きくはない。関東ではむしろ、享徳三年(一四五五)から文明十四年(一四八三)まで続いた享徳の乱が大きな画期となっている。上野国から武蔵国西部に山内上杉、武蔵国東部から南部に扇谷上杉、下野国に宇都宮氏と那須氏、常陸国に佐竹氏と結城氏、下総には千葉氏が割拠し、鎌倉公方(後に古河公方)足利成氏との複雑な政治関係を作っていた。この乱が関東における戦国時代の開始を告げた。
     岩松家純(一四〇九?~一四九四)は新田氏を称している。本来は足利氏の支流だが、足利義純が畠山重忠の未亡人(北条時政の娘)を娶ったとき、先妻(新田兼義の娘)の子の時兼が義絶され、母方の新田氏を称したのである。但し時の勢力関係によっては父系の足利氏を称すこともあったらしく、複雑な動きをしている。
     新田本家が滅亡した後は新田荘の大半を支配下に置いたものの、上杉禅秀の乱、享徳の乱などで一族も分裂し一時は没落しかけたが、家純が統合再興したものらしい。
     しかしその岩松氏も家臣の由良氏(新田荘横瀬郷を本貫として元は横瀬氏を名乗る)にとって代わられる。横瀬氏は武蔵七党の横山党に属し小野氏を称していたが、この横山党については昨年八月に八王子を歩いた時(江戸歩き番外編)に八幡八雲神社で少し考えたことがある。最終的には北条氏に屈服した。

    標高二三九メートルの金山山頂の実城(みじょう)を中心に、四方に延びる尾根上を造成、曲輪とし、これを堀切・土塁などで固く守った戦国時代の山城です。特筆されるのは、石垣や石敷きが多用されていることで、従来、戦国時代の関東の山城に本格的な石垣はないとされた城郭史の定説が金山城跡の発掘調査で覆されました。
    主な曲輪群は実城・西城・北城(坂中・北曲輪)・八王子山の砦の四箇所ですが、山麓にも、城主や家臣団の館・屋敷があったと考えられ、根小屋(城下)を形成していたと見られます。(太田市HP「国定史跡 金山城跡」より)
    http://www.city.ota.gunma.jp/005gyosei/0170-009kyoiku-bunka/topics/nyumon.html

     「適当にその辺で二組に分かれてよ。」まず糸川氏に先導されて六人が行く。私は後続グループに入り二宮氏のガイドを受けることになった。カメラマン氏の名前は申し訳ないが失念してしまった。二宮氏の説明はなかなか丁寧で、じっくりと歴史的に確実に分かっていることを説明してくれる。
     総合案内板から、先陣は左の舗装道路を行ったが、私たちは右の土の道を行く。いずれにしてもすぐ先で合流するのだけれど。やがて西矢倉台西堀切に出る。石柱には「西矢倉台西塹壕」とある。堀切とは尾根を切り裂いた堀である。かつての道はここから右に逸れて、斜面を通って堀切の下から西矢倉台へ迂回するのだが、現在の見学道路は尾根に沿って新しく作られた道だ。
     「ここはエンドウだから。」カメラマン氏の言葉だが、それはどういうことだろうか。沿道だろうか。どうやら、本来の道ではなく、観光のために作った新しい道の意味であるようだ。土が掘り返されたような跡はイノシシによるものだそうだ。「イノシシが耕すのね」と農業人の千意さんが喜ぶ。あちこちにその形跡が残っているので、かなりの数のイノシシがいるのではないか。
     やがて岩盤の斜面が見えてきた。表面には石を切り出したような跡が見られるから、この岩盤を切って石垣にしたのだろう。八王子城もそうだったが、中世の山城で石垣をこんなに大量に使った城は珍しい。
     石垣の大半は復元したものだが、下の一段か二段は発掘された本物が敷かれている。その本物と復元した石との間には付箋のようなもの(鉛板)を挟んで区別している。八王子城でも同じことをしていたんじゃなかったか。竪堀とは、急斜面の崖から切り出した堀で、崖側は行き止まりだ。斜面からの侵入を防ぐためのものらしい。
     また、通常の石垣は全体の重量が直接下にかからないよう斜めに築かれる。しかし、この金山城の石垣はほぼ垂直に近い七十五度ほどに築かれていると言う。なるほど言われてみればそうである。「この場合、全体の重量が全部一番下の石にかかって、それが壊れれば石垣が崩落します。」それを防ぐため、最下段の石は十五センチ以上手前に飛び出させている。「これがそうです。」「ホントだね。」これを「アゴ止め石」技法と呼ぶらしい。
     馬場下通路という、一方が岩盤の崖になった狭い敷地には、手前に柱の礎石が並び、丸太と木枠を置いてある。その奥の行き止まりの方には礎石はないが、柱穴が発掘されたので建物が建っていたのは間違いない。だからこちらの方は掘立小屋である。「礎石がある方がエライ人が住んでいたんじゃないかと想像します。」住居だとすればとても狭い。勿論平時に常駐したわけではないだろう。カメラマン氏が、「この配置をみると、戦いのときはエライ人の方が先に出たんじゃないかと思いますね」と言う。これは私には判断がつかない。
     そして物見台に登る。柱穴の位置は確認されており、そこに木製の台が作られ、その上に残念ながら鉄骨の枠が張られているのだ。北西の方には山並みが見えるがやや霧がかかっているだろうか。北方の上杉謙信・武田勝頼軍の侵入を見張るために作られた物見台だと推測されている。「あの山は何ですか。」「八王子山と言ってもいくつも山があるんですが、右が唐沢山(標高二六一メートル)です。」
     「あっ、ちょっと動かないで。」カメラマン氏が隊長に声をかけた。隊長の首筋に進めば地が留まりそうになっているのだ。「叩いたほうがいいかな。」それでもすぐにスズメバチは飛んでいったから何事もなかった。
     「以前、脇屋義助の子孫の方と一緒に、里見に行ったことがあります。」私は無学だから、何故ここで里見が登場するのか分からない。小町が「どこの里見?」と訊くので、「安房か房総か」と言ってみたが、とんでもない勘違いだった。「榛名でしょう」と小町は当然のように口を尖らす。
     現在は碓氷郡榛名町に含まれたが、かつての里見郷は新田義重の長庶子である里見義俊が居を構えた地であった。そしてこの系譜から、結城合戦の後に安房に移った(つまり八犬伝の)里見義実が出てくるのだ。勉強になるね。二宮氏は新田氏関連で里見を訪れたのであった。「あんな田舎に、と思いました。」
     月の池が見えた。長いホースを水面に入れているのは、水を排出するためのものだ。「放っておくと溢れてしまうんです。」山頂付近に池を作った山城も珍しい。別に井戸もあったので、おそらく岩盤の間に豊富な地下水脈があるのだろう。そして大手虎口(こぐち)にやってきた。この石垣も立派なものだ。「八王子城に似てるじゃないか。」「北条の築城形式だろうか。」不定形な石積みの間にわざと丸く磨かれた石が挟んであるのは、装飾のためだろうか。
     「ここまで敵が侵入してきたことはありません。」築城から小田原落城による降伏まで、落ちたことのないのが自慢で、難攻不落と謳われた。
     石垣に挟まれた石積みの通路には、四つの大きな礎石が埋め込まれているが、それが中心から対象ではなく、左に寄っている。「おそらく、右側には通用門があったと思うんです。」なるほど、門は通常閉ざしているのだろう。復元のために新しく積んだ石と、元の石とでは明らかに色が違う。元のものは地中に長く埋もれていたせいか、茶色身を帯びている。「木は古く見せる方法があるんですが、石ではそうはできません。」
     それにしても、これだけの石垣を築いた労働力はどこから得たものか。勿論領民を動員したことは間違いない。しかしそれだけでできただろうか。これだけの規模で石垣を構築するには、やはり北条氏の経済力が前提されると考えるべきだろう。
     日の池は月の池より更に大きい。パンフレットによれば、水に関わる祭祀を行う土馬(十世紀のもの)がこの池から出土していて、おそらく水に関わる聖地であったのではないかと推測している。つまり単なる貯水池ではないらしいと言う。
     ここで城の地図を確認していると本丸には「実城(みじょう)」と書かれている。ドクトルがこれに何か特別な意味があるかと質問するが、答えは返ってこなかった。これは後でガイダンス施設の学芸員に教えてもらったが、先走って書いてしまおう。この城でも本丸、二の丸などと呼んでいるが、中世にはその呼び方は一般的ではなかったようだ。本丸に相当する主郭を実城または本城、一の城、根城などと呼んだのである。
     そして南曲輪の前で集合写真を撮って解散する。十二時四十五分。約束通りほぼ一時間のコースだった。糸川氏より、後でガイダンス施設に行くのなら篆刻の展示を見てくれと補足があった。自分の作品もだされているらしい。
     「せっかくですから、昼食の後に実城にも行ってください。すぐそこですから。」本丸跡であり、今は新田神社が建っている場所だ。「実はですね。」糸川氏の声が低くなる。「売店と社務所が火事にあったんですよ。それで工事が入っていますが、通れますからね。」「放火ですか。」「そうだと思います。」確かに工事作業員らしい男数人が芝生に座っているのが見える。

     かなり腹が減ってきた。休憩所の中に入り、一段高くなった板敷に座って弁当を広げる。椿姫と小町は座るのが面倒だと、ベンチを引き寄せて腰を下ろす。オカチャンが早速紙コップにカリントウを詰めて配布する。「蜻蛉さんは甘いものが苦手だから」と私にだけくれたのはスルメだった。実に気配りの人である。他にも珈琲寒天というものもくれる。
     「久しぶりに弁当作ったよ」と小町が笑う。「江戸歩きや日光街道だとお弁当いらないからね。」そういえば私の弁当も久しぶりだ。スナフキンも朝早くて奥さんに頼むのは大変だったと思うが、ちゃんと手作りの弁当を広げている。
     「写真はどうするんだろう。」「活動実績の証明にするんじゃないかな。」「メールで送ってくれるかもしれない。」スナフキンも集合写真の意味については知らされていなかった。

     出発は一時二十分だ。歩き始めてすぐに中島知久平の像に気が付いた。言うまでもなく中島飛行機の創業者だ。とは言っても私もそれほど詳しく知っていたわけではないので、ウィキペデイァにお世話になってみる。

    一八八四年(明治十七年)一月一日、群馬県新田郡尾島村字押切(現在の群馬県太田市押切町)の農家中島粂吉(条吉)と母いつの長男として生まれた。
    一九一六年中島機関大尉と馬越喜七中尉が、欧米で学んだ新知識を傾けて、複葉の水上機を設計した。これが横須賀海軍工廠の長浦造兵部で完成され、横廠式と名づけられた。中島は、航空の将来に着眼し、航空機は国産すべきこと、それは民間製作でなければ不可能という結論を得た。これを大西瀧治郎中尉にひそかに打ち明けたところ、大西も大賛成で、中島の意図を実現させようと資本主を探して奔走した。大西も軍籍を離れて中島の会社に入ろうと思っていたが、軍に却下された。中島の「飛行機製作会社設立願い」は海軍省内で問題となった。中島はこのとき「退職の辞」として、戦術上からも経済上からも大艦巨砲主義を一擲して新航空軍備に転換すべきこと、設計製作は国産航空機たるべきこと、民営生産航空機たるべきことの三点を強調した。 一九一七年海軍の中途退役を認められ、兄弟で飛行機製作所(のちの中島飛行機株式会社)を創設した。(ウィキペディア「中島知久平」より)

     尋常高等小学校を卒業後にすぐ海軍機関学校に入っているから、兵科ではなく根っからのエンジニアである。中尉時代にフランス航空事情を視察し、海軍大学校を卒業して大尉に任官した。卒業後もアメリカに出張して、日本人三人目となる飛行士免状を取得した。
     上の記事の「戦術上からも経済上からも大艦巨砲主義を一擲して新航空軍備に転換すべきこと」というのが「退職の辞」なら、大正六年(一九一七)のことである。正確には下記の手紙のことだと思われる。

    惟に外敵に対し、皇国安定の途は富力を傾注し得ざる新兵器を基礎とする戦策発見の一つあるのみ。戦艦一隻の費を以ってせば、優に三千の飛行機を製作し得べく、その力遥かに戦艦に優れり。実に飛行機は一カ月の日をもって完成するを得。故に民営を以って行なう時は一カ年に十二回の改革を行ないうるも、官営にては僅か一回のみ。帝国の飛行機工業は官営をもって欧米先進の民営に対す。今にして民営を企立し、改めずんばついに国家の運命を如何にかせん。(鈴木五郎『疾風-日本陸軍最強の戦闘機』サンケイ出版・ウィキペディア「中島飛行機」より孫引き)

     貧乏な日本では、戦艦一隻を作る費用で飛行機なら三千機を作れることができる。そしてその方が遥かに勝ると言っているのだ。世界的にも相当早い時期であり先覚者と言ってよいが、日本海軍は太平洋戦争に至るまでその大観巨砲主義を捨てきれずに終わった。
     退職と言っても正確には予備役大尉となったから、いざ事が起これば召集される可能性は残している。郷里の太田で飛行機を作ることに決めたのが、現在の工業都市太田市につながった。それまでの太田は、呑龍様だけが有名な田舎町に過ぎなかったのだ。

     月の池の外側を回り込むように北に行けば、売店の焼け焦げた木材からはまだ煙の臭いが漂ってくる。「つい最近じゃないのか。」「下見の時には営業してなかったよ。」実は売店(廃業して空き家)が焼けたのは先週の十月十三日のことで、社務所は二十一日深夜に全焼したのである。当時は無人だった。まだ原因はつかめていないようだが、明らかに放火であろう。「消防車はどうしたんだろう。」小型自動車ならここまで登ってくる道があるが、大型の消防車は無理だろう。
     「金山の大ケヤキ」は確かに大きい。高さはそれほどでもないが、幹回りが目通り周六・七九メートル、樹齢推定八百年と言うから、金山城以前からここにあったものである。「これは明らかに巨樹ですね。」桃太郎が感嘆し、隊長も保証する。
     新田神社は金山城の山頂で、かつての本丸(実城)の跡である。明治六年に創立の許可を受け、明治八年に社殿を建立した。祭神は勿論新田義貞である。

    公の裔孫新田俊純・地方有志と謀り、明治六年神社創立の許可を得て、同八年社殿を建築し、新田神社の社號を賜る。同九年縣社に列せられ、同十八年十月廿五日と翌十九年十月廿九日に皇后(昭憲皇太后)陛下御参拝幣帛料御奉納あらせられ、同二十一年十月二十二日皇太后(英照皇太后)陛下には使御差遣幣帛料御奉納御代拝仰付けられ、同二十五年十月十七日皇太子殿下(大正天皇)御参拝幣帛料御奉納あらせられたり。同四十二年十一月七日 皇孫殿下(今上天皇陛下)には学習院生徒の御資格にて御参拝幣帛料御奉納あらせられ、度々皇族方の御参拝辱ふせり。
    又昭和八年五月新田公義挙六百年祭執行の趣天聴に達し祭粢料を御下賜あらせられ、同九年十一月十三日今上天皇陛下には御使永積侍従御差遣幣帛料御奉納あらせられ御定せらる、同十三年五月二十二日御祭神殉節満六百年祭を奉行せり。(由緒より)

     新田俊純は百二十石の交代寄合旗本岩松氏である。明治元年に新田氏を名乗り明治十七年に男爵となった。五千四百石で幕府高家だった由良氏も同じく新田氏の嫡流を名乗って争ったものの、こちらは受爵できずに終わっている。
     「ガイダンス施設に行く道が良く分からないんだ。下見の時にはかなり遠回りしてしまった。」「取り敢えず駐車場まで行けば案内板があるんじゃないか。」車道を下りて駐車場に着く。しかし案内板の表示が分かり難い。「通りすぎちゃったか。」「でも、金龍院の隣にあるんじゃないだろうか。」地図の上でガイダンス施設の文字は駐車場の上にあるのだが、そこから引いた棒線が金龍院の隣にあるように見える。「隣じゃないけどな。」
     ここからの山道が結構きつかった。小町はストック二本を持っている。スナフキンが自分で持参したストック一本を椿姫に渡す。「魔法の杖です」と千意さんは笑う。「長くした方が良いよ。」「ここで調節できるから。」「有難うございます。」
     登りの時にも言っていることだが、土が流れて段差が大きい。できるだけ階段を外れようと思うが、滑ってはいけない。「雨の日だったらとても無理だね。」椿姫はストックを不器用に操って何とか降りてくる。「膝に来るわね。」隊長はかなり腰をかばって降りているように見える。
     先頭を行くスナフキンの姿は見えなくなった。階段がなくなっても岩があると、手を付かなければならない。「こっちだよ。」二股にも見えないような、僅かに道が分かれている場所で、下から声が聞こえた。ここを左に行くのだ。
     私が暫く後続を待って待機し、宗匠がやって来たので交代して降りる。なんだ、すぐそこではないか。やがて後続も続き、最後に桃太郎、小町、椿姫も降り切った。椿姫の表情が険しい。「あんみつ姫は無理だったな。」「結果的には正解だったんだよ。」
     降りたところが太田市立史跡金山城跡ガイダンス施設だった。太田市金山町四十番三十号。建物の外壁は石垣をイメージしたようで、サイズの異なる長方形や正方形の石板を、台形の空間を残すように貼りあわせてある。「隈研吾の設計です。」私には分からないが、かなり金のかかった建物ではないか。
     しかし駐車場からここまで、標識はないから他の地方から来たものには分かり難い場所だ。それに駅からのバスもない。歩こうと思うのは私たちのようなものだけで、普通はなかなか来てみるのも億劫な場所だろう。他に見学者は見当たらない。
     最初に一階のホールで金山城の歴史を描くビデオを鑑賞する。実は私はトイレに行っていたので途中から入ったが、椅子は十個しかなく、すべて占領されていた。ビデオが終われば二階の展示場に行く。椿姫はすぐに外に出る。煙草を吸いに行ったらしい。
     江戸時代に入ると金山城は御用林となって一般には入山を許されなかった。全山が赤松の林に覆われ、そこで採れるマツタケが幕府に献上されたと言う。北条滅亡以来明治まで、金山城は手つかずのまま森林の中に埋もれていた訳だ。これを発掘するのは大変なことだったに違いない。
     山城の模型の前で若い学芸員が説明してくれる。既に書いてしまったが、実城の意味を教えてくれたのはこの可愛らしい学芸員である。「春日山城にもその例があります。」「上越の?」「そうです。謙信の居城ですね。」後で確認すると、確かに春日山城では本丸に相当する郭を実城と称し、謙信を「御実城様」と呼んでいた。
     また金山の地名については、かつて鉄を製錬していたことによると教えてくれる。鉄の製錬にはタタラを使うが、そのためには強い風が必要だった。上州は空っ風の国である。渡良瀬川は砂鉄が多いとも言うし、その説は有力だ。ただしどこで産出した砂鉄を利用したかは訊かなかった。
     もう一つ知識を得た。駅前の広大な空き地には、図書館を含めた複合文化施設が建設されることになっている。「三年後です。その時に来て下さい。」わざわざそれを見に来るほど暇ではない。その施設も指定管理者制度で運営されることになるが、流行のTSUTAYAへの委託なんかを考えないでほしい。
     「篆刻はどこですか」「そこの展示場です。」「糸川さんのを見なくちゃ。」「あら、糸川さんをご存知ですか。」「さっき、ガイドをしてもらった。」「あら、そうですか、オホホ。」糸川氏はこの辺では有名人なのかも知れない。
     第三回龍舞篆会展「高山彦九郎の恩人 印聖高芙蓉作印模刻展」である。高山彦九郎は私には関心の外でほとんど知識がないが、その名前は単にダシに使われているのではないか。要するに高芙蓉作印を現代の会員が模刻した展示会であるらしい。と言っても、高芙蓉その人の名前を初めて見るのだから、その価値が分からない。

    高芙蓉は、江戸時代中期の儒学者、篆刻家、画家である。日本における印章制度を確立して印聖と讚えられる。(ウィキペディアより)

     「篆刻って、どんな価値があるんだろう。」隊長の疑問に、私も自信はないが言ってみた。「書画の落款として使うでしょう。書画の価値に比べてあんまりみっともないものだと困る。それなりの美術的価値がないといけないんじゃないですか。」正直なところ、見てもその価値が私には良く分からない。
     ところで実は私は篆刻とは、篆書体で彫った印ということしか知識がなかった。時代によって流行があったことも勿論知らない。ウィキペデイァその他から簡単な歴史を追ってみるか。
     まず、明の滅亡によって亡命してきた黄檗宗僧侶によって齎されたのが、江戸篆刻史の始まりである。それまでは篆書と言っても正式な書体ではないものも多かったらしい。特に独立性易が伝えた正書法を継いだ榊原篁州、池永一峰、細井広沢が初期江戸派と呼ばれた。基本的には明時代の書体を写すもので、初期浪速派や長崎派も含めて今体風と呼ばれるようになる。
     高芙蓉はそれに飽きたらず、秦漢まで遡って印影を博捜して印章学を確立した。これが古体派と呼ばれ、弟子に蒹葭堂、池大雅、葛子琴、曽之唯、浜村蔵六、前川虚舟、源惟良などがいるらしい。この尚古主義は、もしかすると伊藤仁斎や荻生徂徠の古学や国学にもつながるメンタリティではないだろうか。
     ここで貰った資料「高芙蓉と高山彦九郎~特に、彦九郎を中心に」によれば、二人の接触は次のようなものである。但しこの資料はA3版コピーで、誰が書いたものか分からない。展示会主催者がコピーしたものだろうが、こういうものはきちんと典拠を示してくれなければいけない。

    高芙蓉は、常日頃「自分の祖は、上野国新田氏の一族である」と言い、自らの家系には、晩年までとりわけ関心をはらっていたようだ。その高芙蓉(近藤斎宮)が彦九郎に自分の祖の調査を依頼したのである。

     ところで、林子平、蒲生君平と並んで「寛政の三奇人」と言われた高山彦九郎という人物は私には謎である。由来ファナティックなものには近寄らない主義で、敢えて関心の対象から外していた。しかしここに来てしまったからには避けるわけにはいかなくなった。彼もまた太田の「偉人」である。彦九郎は新田郡細谷村(太田市)の郷士に生まれ、太平記を読んで勤王思想に目覚めたという。
       彦九郎だけでなく、『太平記』が江時代の思想に与えた影響は非常に大きい。太平読み(講釈師)の由比正雪は楠正成の末を自称し、軍学者として弟子を集めた。大石内蔵助は正成の生まれ変わりだとの伝説が流布し、吉田松陰は正成の七生報国を肝に銘じた。後期水戸学を中心に幕末になって過激になる尊王思想は、ほとんど『太平記』によって醸成されたと言って良いかも知れないのだ。この辺については兵頭裕己『太平記〈読み〉の可能性』に詳しく論じられている。別の視点から、江戸時代の政治思想に与えた影響については若尾政希『「太平記読み」の時代』で考察されているらしい(これは読み始めたばかりでまだ途中)。
     そもそも彼は何をしたのだろう。吉村昭に『彦九郎山河』があるが、私は読んでいない。郷士の身分でありながら、祖先は新田氏の重臣である高山重栄(秩父平氏)だと信じた。著書はないが膨大な日記が残されている。全国を遊歴し、信じられないほど多くの人と交流した。前野良沢・大槻玄沢・林子平・藤田幽谷・上杉鷹山・広瀬淡窓・蒲池崑山・光格天皇・中山愛親と書き始めてもキリがない。「人と会った」ことこそが彦九郎生涯の事業だったと言って良いだろう。太田市立高山彦九郎記念館(http://www5.wind.ne.jp/hikokuro/)では、彦九郎が交流した四千人の名前を公開している。
     特に京都では芙蓉の家に寄寓して多くの公家たちと交流し、尊王思想を鼓舞した。やがて芙蓉の家を辞して北国へ赴くとき、高芙蓉とその夫人までが涙で見送り、彦九郎もまた涙を流し「立去難かるべき所」となった。

    彦九郎が、初めて京に出た明和元年から十一年後、いかに両者が信頼し合い親密な関係になっていたかが、右の記事からだけでも十分理解できよう。

     どうやら尊号一件事件が躓きの石で、これによって幕府に睨まれた。光格天皇が父親の典仁親王に太上天皇号を贈りたいと願い、松平定信に拒絶された事件である。彦九郎は一介の郷士の身でありながら、光格天皇の拝謁を得て感激していた。これは実に異例のことで、『愛国百人一首』に採用されたのがこの感激を歌った歌である。

     我を我としろしめすかやすべらぎの玉のみ声のかゝる嬉しさ  高山彦九郎

     朝廷の権威を強くするため薩摩藩の協力を得ようと薩摩に入ったもののうまくいかず、九州を遍歴しながら久留米で自殺した。享年四十六であった。
     死後、藤田幽谷が『祭高山処士文』、水戸藩の杉山忠亮が『高山正之伝』、頼山陽が『高山彦九郎伝』を書くなど、様々なひとが彦九郎を偲んだ。また真木和泉は『高山正之伝』に評釈を加えているし、吉田松陰もこの『高山正之伝』を読んだ。彦九郎は自身では何事もなすことがなかったが、後に勤皇を称する人々に多大な影響を与えたのである。
     「古河に篆刻美術館があるんだ。」一度行ったことがある。「そうなの?」確か日本唯一の篆刻美術館を称していた筈だ。次回の日光街道ではそこにも寄るのではないだろうか。それはともあれ、私たちは糸川氏の作品を見たことで満足して引き上げる。

     次は金龍寺だ。「歩道がないので一列縦隊で。」駅に向かって歩き始めると、スナフキンが左手の山を振り返った。「ホラ、アカマツ林だよ。」「今でも松茸が採れそうだね。」五分程で大田山金龍寺(曹洞宗)に着く。太田市金山町四十番一。境内に入るには階段を上らなければならない。「小町と椿姫は休んでいていいですよ。」「そうするわ。」

     創建は応永二十四年(一四一七)に横瀬貞氏がその祖とした新田義貞を追善供養するため開基したとされています。近年の研究によれば、金山城の重臣であった横瀬氏が文明年間(一四六九~一四八六)に創建したとする説が有力です。
     その後、金龍寺は下剋上により新田(岩松)氏を退け金山城の実質的な城主となった横瀬氏(のち由良氏)一族の菩提寺として興隆しました。しかし、天正十八年(一五九〇)、金山城の廃城に伴ない、由良氏は常陸牛久に移封され、金龍寺も寺僧とともに同地へ移りました。現在の金龍寺は慶長年間(一五九六~一六一五)に、この地を領した館林城主榊原氏により再興されたものです。(太田市HPより)
    http://www.city.ota.gunma.jp/005gyosei/0170-009kyoiku-bunka/bunmazai/otabunka8.html

     境内から更に階段を上ったところに墓地がある。由良氏の五輪塔が並ぶ中に、一番奥の石段を上ったところに祀られる多層塔(五重塔)が新田義貞の供養塔である。石段の形はかなり不規則な大きさで、相当の年月が経っていることを思わせる。
     由良氏(横瀬氏)は小野氏だった筈なのに、いつの頃からか新田氏を名乗るようになっていた。恐らく岩松氏に代わって新田荘を支配するにあたって、新田氏を名乗った方が都合良かったのである。

     山陰の義貞の碑や実紫  閑舟

     「このピーヨピーヨって鳴いてるのはなんだろう、ヒヨドリかな。」スナフキンの言葉に、「そうだね、ヒヨドリだよ」と隊長が頷く。スナフキンの勘が珍しく当たった。私は鳥については全く無学である。
     「だって、書いてあるじゃないか。」スナフキンの資料の末尾には「十月下旬は霜降りの候、旬の草花は紫式部、野鳥はヒヨドリ」と書いてある。最初からこれを言い出すタイミングを窺っていたに違いない。「ヒヨドリに季節があるなんて知らなかった。」宗匠が知らないのだから私が知っている筈がない。なるほど歳時記を見れば鵯は晩秋の季語である。と書きながら初めて字を覚えた。ヒヨドリが卑しい鳥とされているのは可哀そうなことである。可哀想だから、ヒヨドリを読んだ句を探してみた。

     鵯のこぼし去りぬる実のあかき  蕪村
     鵯や紅玉紫玉食みこぼし     茅舎

     茅舎の句は蕪村の本歌取りのように見える。但し他の季語と組み合わせてほかの季節を詠んでも良いようだから、季語としての拘束力は強くない。そもそも一年中見られる鳥なのだ。例を挙げてみる。これらは「ひよ」と読むのだろう。虚子の椿は春の季語だし、万太郎の句も明らかに春である。

     鵯こぼれ椿落ちしに非ざりし   虚子
     夕桜ひそかに鵯をゆるしけり   万太郎

     古びた墓が並ぶ静かな寺でヒヨドリの声を聴く。「地味だけど、いいですね。歴史を感じます」とオカチャンが沁み沁みとした声を出す。私も同じく沁み沁みとしてきた。
     外に出ると、千意さんが干し柿を配ってくれる。甘味がきつくなくこれは私でも食べられる。「このところ雨が降ったせいで渋みが残るでしょう。」気にはならなかった。椿姫が煙草に火をつけたところで「出発しましょう」の合図がかかった。
     「俺は小町と一緒に大光院に寄ってくるから、焼き饅頭食べててください。」二人は右に曲がっていた。「すぐ追いつくから、私の分も注文しておいてね。」
     今朝通り過ぎた山田屋本店だ。太田市金山町十三番地一。焼き饅頭は百九十円である。先に注文していた夫婦の串を眺めると、一本に四つついている。「でかいね。」「そうなんです、こんなに大きいと思わなかったんですよ。」「大丈夫、軽い。」ご主人は甘党なのだろう。「二本下さい。」桃太郎が注文する。「小町の分も頼まれてるから。」
     しかし他には誰も注文しない。「私はさっきの柿でお腹がいっぱいになっちゃった。」絶対注文するだろうと思われた椿姫が遠慮する。「無茶苦茶甘いですよ。」桃太郎が顔を顰めながら、それでも一串をあっという間に平らげた。「小町は甘くないって言ってたけど、味噌ダレが甘い。」小町は餡子が入っていないから蜻蛉でも食べられると言っていたのだ。そこに小町もやってきた。「それ、私のかい。」小町もあっという間に食べ終わる。それを隊長がびっくりしたような顔で見詰めている。

     焼きまんじゅうかぶりつく人見てる人  閑舟
     串饅頭一気に喰らふ暮れの秋   蜻蛉

     「お餅じゃないの?」これは餅ではなく、桃太郎の言い方によれば、スカスカのパンのようなもので、量的には充分食べられるものらしい。元は酒饅頭で、後は味の問題である。
     私たちが見守るうちに、四本とか五本とか注文して持ち帰る人がやってくる。冷めると不味いらしいので近所の人であろう。「餡子を入れたのもあるよ。」小町は、これは上州人のソウルフードだから、是非一口でも食べて欲しかったと嘆く。上州に対する礼儀に悖り大変申し訳ないことだが私はダメだ。

     焼きまんじゅう(焼き饅頭、やきまんじゅう)は、群馬県地方の郷土食の一種。前橋市・桐生市・伊勢崎市・太田市・館林市などの中毛・東毛地区が本場とされる。
     蒸して作ったまんじゅうを竹串に刺し、黒砂糖や水飴で甘くした濃厚な味噌ダレを裏表に塗って火に掛け、焦げ目を付けたもので、軽食として好まれる。(中略)
     焼きたての温かいうちは軟らかいため食べやすいが、冷めると水分が抜けてしまい、噛みちぎれないほど固くなる。このため、焼きたてで冷め切っていないものが珍重され、お土産用等も、焼く前のモノに別にパッケージしたタレを添えて、自宅で焼く事を前提とした形で販売している。(ウィキペディア「焼きまんじゅう」より)

     「ここではお煙草ご遠慮ください。ご協力お願いします。」しまった。迂闊にもベンチに座って火をつけてしまった。「太田は焼きそばも有名なんだよ。」最近は全国どこでもB級グルメと称して焼きそばを作るから、珍しくもなんともない。
     後は駅まで歩くだけだ。「三時三十八分を目指します。」三十分あるから大丈夫だろう。しかし意外に道のりは長かった。左には神社の入り口が見える。「あそこに行くにはまた山を登らなくちゃいけないんだ。」今日はこれ以上登るのは無理だ。後で調べてみると、これが高山彦九郎を祀る高山神社であった。
     「間に合うかな。」椿姫と小町は大分遅れている。それでもなんとか三時三十八分の館林行きに間に合った。これを逃すと三十分以上待たなければならないだ。「死ぬかと思いました」と椿姫が息を切らす。最後尾でやってきた小町を急かすと、「私は伊勢崎経由だから」と言うのでここで別れる。宗匠の万歩計で一万五千歩。距離は短いが山登りを考えれば二万歩にも相当するエネルギーを使っただろう。
     山登りと歴史を満喫して、今日はなかなか良いコースだった。発展から取り残されたために残っているものもある。見るべきものがあるかどうかは、私たちがどれだけ関心をもつかにかかっている。地方都市は、地道に地場の歴史を追求し深めていくことでしか生き延びる道はないのではなかろうか。
     来月は千意さんが結城散策を企画する。「結城って何があるんですか?」「一番有名なのは結城紬ですね。」「椿姫は着物を買うお金を用意してきてください。」「買ってもコースター程度だわ。」足利に行ったときは、桃太郎が小町に足利銘仙のコースターをプレゼントしていた。

     館林で降りると、向かいのホームには久喜行きが待っていた。車内は空いている。気が付くと桃太郎は池田敏之氏の『平成奥の細道ウォーク記』を開いている。「池田さんらしいよね。」私もリュックから取り出して宗匠に見せると既に買ったと言う。この仲間の内でかなりの数が売れたことになる。スナフキンは椿姫とハコサンにチラシを配る。
     久喜で浅草行きに乗り換える。ハコサンはそのまま伊勢崎線で行くと別れたが、何も言わなかったドクトルの姿が見えない。「どうしたんだろう。」JRのホームから伊勢崎線のホームを眺めて、隊長は「おーい、ドクトル」と叫ぶ。ドクトルはそのまま帰ることに決めたらしい。私たちは宇都宮線上野行に乗る。
     蓮田駅に車を停めてきた椿姫と白岡の住人オカチャンが途中で降りていく。「次回は絶対参加します。大宮まで行って飲むのはダメだって言われてきたものですから。ホントにスミマセン。」そんなに謝ることはないのだ。オカチャンは実に腰が低く、そしてロダン以上に恐妻家であることが分かってしまった。
     大宮の「庄や」に入ったのは隊長、スナフキン、千意さん、宗匠、桃太郎、蜻蛉の六人だ。「ここは初めてだよ。」「前に来たことがある。」「庄やは余り入らないからね。」この所「さくら水産」は飽きたのである。
     宗匠の初孫(女児)誕生が発表された。目出度いことである。千意さんは、もうすぐ百回を迎える里山ワンダリングのために何か記念になるものを作りたいという。「本を作るのはどうでしょう。」それは難しい。しかし隊長も「いいじゃないの」なんてけしかける。どうも池田氏の出版に刺激を受けたのではあるまいか。桃太郎は金太郎に向かうために途中で切り上げた。
     焼酎を二本空けて二千三百円。「久し振りだし、これからスナフキン、蜻蛉と飲むのが難しくなるから、ちょっと行きましょう。」千意さんに強いられてスナフキン、蜻蛉はカラオケの鉄人に入る。「一時間だけだよ」。

    蜻蛉