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    平成二十六年十一月二十二日(土) 結城

    投稿:   佐藤 眞人 氏     2014.11.29

     高倉健が死んだ。報道されたのは十八日(火)だが、既に十日に亡くなっていた。計算してみれば当たり前なのだが、八十三歳という年齢に今更ながら驚いた。夜になって秋田のYから電話があった。「健さん死んだ。花田秀次郎が死んだ。」花田秀次郎は『昭和残侠伝』シリーズの主人公の名前である(但し第一作だけが違う)。毎週のようにYと一緒に高田馬場の早稲田松竹に通っていた頃がジワジワと甦ってくる。
     早稲田松竹は後に名画座になったようだが、私たちが頻繁に通っていた頃は、普段は東映の膨大なヤクザ映画群と東映ポルノ(池玲子・杉本美樹等)の二本立て興業で、それに加えて封切から二三ヶ月遅れで『男はつらいよ』シリーズもかけてくれる、実に便利な映画館であった。但し煙草でスクリーンが煙るような薄汚れた場所で、私が初デートの場所をここに決めたのは藤純子の『緋牡丹博徒』を見るためとは言いながら(これが抑々おかしい)、どう考えても正気の沙汰ではなかった。
     日活映画は語れなくても、東映任侠映画については多少の意見を言うことはできる。近代の「任侠」とは長谷川伸が『沓掛時次郎』等で発明した観念である。所詮ありもしないお伽噺の世界であるが、己が小さなものであると言う自覚と、他者への惻隠の情である。
     その世界の最高傑作は山下耕作監督『博奕打ち・総長賭博』(鶴田浩二・若山富三郎・桜町弘子・藤純子)に間違いないが、膨大なプログラムピクチュア群からエッセンスを取り出し、様式美を完成させたのが『昭和残侠伝』シリーズ(昭和四十年から四十七年)だったと言って良い。『網走番外地』(昭和三十九年から四十七年)では、短気でおっちょこちょいなところもある男を演じていた健さんの、現在まで続いた人物像はここで確立した。ついでに言うと、『日本侠客伝』も健さん主演のシリーズだとされるが、これは各作品が独立していて到底シリーズと呼べるものではない。
     『昭和残侠伝』のシリーズ九作と言っても、筋立ては殆ど同じだ。相手は利権目当てに非道の限りを尽くす新興暴力団だ。時には右翼の黒幕に操られ、古臭いが懐かしさに満ちた共同体を破壊する。これがいつものパターンであるが、しかし神は細部に宿る。古い町の美しさ、人々のふとした仕草、人を思いやる心根、それらが映画の魅力であった。シリーズ開始が東京オリンピックの翌年だったことを考えれば、『三丁目の夕日』の世界が徐々に崩壊していく時代を背景に、後の日本列島改造論への先駆けた異議申し立てだったと考えても良い。
     我慢に我慢を重ねてきた秀次郎の怒りが最後に爆発し、敵方の一家に斬り込みに行く。雪が降っている。長脇差を片手に蛇の目をさして歩く秀次郎。橋の袂に佇む風間重吉(池部良)。「秀次郎さん、あっしも御一緒します。」「あんたを巻き添えにするわけにはいきません。」「ここであんたを一人で行かせちゃ、風間重吉、義理も知らないケチな奴だと世間の物笑いになります。」結局二人は肩を並べて歩き出す。そこにかぶさる『唐獅子牡丹』のメロディ。カラオケにはない歌詞を書いてみるか。

    親にもらった 大事な肌を
    入墨(スミ)で汚して 白刃の下で
    積もり重ねた 不幸の数を
    何と詫びよか おふくろに
    背中で泣いてる 唐獅子牡丹(水城一狼・矢野亮作詞、水城一狼作曲『唐獅子牡丹』)

     この男同士の道行きは「恋」に似ている。池辺良は殆ど毎回死に、健さんは毎回生き残る。ワンパターンと言えば言え。
     しかし様式の「完成」は行き止まりだから、この後、東映は『仁義なき戦い』の実録ヤクザ路線への転換を図ることになり、健さんは東映を退社する。
     これまでに目にした評は殆んどが『幸せの黄色いハンカチ』(昭和五十二年)以後の健さんで、ヤクザ映画を真面目に論評したものは少ない。いちばん胡散臭いのは、熱狂的に支持したのが全共闘だという説だ。健さんの映画を見て彼らはゲバ棒を振るったと言う。バカなことを言っては困る。健さんのポスターを何枚も描いた横尾忠則、「背中の銀杏が泣いている。男東大どこへ行く」の駒場祭ポスターを描いた橋本治、どちらも全共闘ではない。
     大学進学率が二十から二十五パーセントの時代である。支持したのは労働者も含めたあの時代の若者であって、たまたまその中に全共闘の連中も含まれていたと言うだけの話だ。ただ、スナフキンも宗匠もロダンも任侠映画を見ていなかったらしいのが不思議だ。
     高倉健についてはこれからも様々な回想が語られるだろう。しかし渥美清の見事な伝記『おかしな男 渥美清』を書いた小林信彦のような、懇篤で痛烈な伝記作家が現れるだろうかと思えば心許ない。健さんは神話になってしまうのだろうか。私は江利チエミとの離婚の原因が知りたい。チエミの不幸な死と、その後の健さんの緘黙の理由はその辺にあったのではないか。
     『昭和残侠伝』時代から一貫して演じ続けてきたのは、寡黙、忍耐、優しさ、強さであり、その愚直な姿勢が健さんその人の生き方と重なって、それに私は感動するだけだ。四十年前、健さんのような男になりたいと秘かに願っていた私は、愚直に信念を通すこともなく六十三歳になってしまった。
     いつも余計なことを長々と書きすぎる。二十日には秋田から友人の訃報が届いた。彼も健さんに憧れていた男だった。私は聊か感傷的になっているのである。

     旧暦十月一日。小雪の初候「虹蔵不見」。虹隠れて見えず。数日続いた寒さが少し緩んで、予報では暖かな日和になりそうだ。
     今回は千意さんの企画で結城の町を巡る。私にとっては初めの土地で、思い浮かぶのは結城合戦と結城紬だけという、殆ど知らない土地だ。このところ群馬、栃木、茨城の南部を訪れることが増え、漸く北関東の地理的な関係が頭に入ってきたが、結城がそもそも栃木県なのか茨城県なのかさえ怪しかった。
     結城市は、東は鬼怒川を挟んで筑西市(旧下館市・関城町・明野町・協和町)、南は古河市、北と西は栃木県小山市に接する。茨城県であるが旧下総国である。この辺が分かり難い所で、下総国と常陸国との境界は小貝川によって定められていた。文化的には水戸よりも古河や小山と関係が深い。
     集合場所は東結城駅である。鶴ヶ島を七時三十七分に出て、大宮で八時二十三分の快速ラビット宇都宮行に乗ると小山には九時ちょうどに着く。ここで水戸線に乗り換えるために三十二分まで待つ。鶴ヶ島を十分後に出る電車だと、川越線との接続のせいで水戸線に間に合わないから仕方がない。水戸線は朝晩でも一時間に二本、昼間は一本しかない路線だから、一つ遅れると面倒なことになる。
     取り敢えず煙草を吸うために外に出た。喫煙所はなく特に喫煙禁止の表示もない。なるべく通行人のいない場所をと思ったが、人通りは少ないから堂々と吸える。ちょうど一本吸い終わった頃にスナフキンから電話があった。「どこにいるんだ?後ろ姿を見かけたけど、いなくなっちゃったから。コーヒーでも飲もうと思ったんだ。」駅に戻って合流しベックスに入る。「そこに喫煙室があるじゃないか。」確かにあったが、一人でコーヒーを飲もうとは思わなかったのだ。
     「他に誰もいないんだよ。」ラビットでなければ間に合わないのではないか。「この後に各駅停車がある。」スナフキンが持っているプリントを見ると、大宮を八時三十五分に出る各駅停車が小山に二十四分に着くようだ。皆はそれに乗っているのだろう。
     水戸線は、元々小山からほぼ東に向って水戸まで通じた民営の水戸鉄道が源流である。官営になって明治四十二年(一九〇九)に線路名称が定められた時、笠間市の友部から水戸までは常磐線ということになり、小山・友部間だけが水戸線の名を残した。つまり今の水戸線は水戸とは直接繋がっていないのである。
     五分前にベックスを出ると、ロダンが歩いているのに出会った。「ちょっとトイレに。」「それじゃ先に行ってるよ。」電車に乗り込むとすぐ目の前に宗匠、ヤマチャンが座っていた。車内は案外混んでいて、漸く座席が確保できるような状態だ。隣の車両に隊長やダンディの姿も見えるが、そちらには座れる場所はなさそうだ。ロダン、あんみつ姫もぎりぎり間に合った。
     小田林駅、結城駅を経て九時四十三分に東結城駅に到着する。上下線とも同じホームに入る無人駅で駅舎と言うものがない。ホームの端に若い駅員が立っていて「あちらにお願いします」とカード読み取り機を指さす。改札口もなく、ホームの端からすぐに道路に出てしまうので、トイレの場所を訊いてみた。「この駅にはトイレはないんですよ。」この日本に、そんな駅があるなんて想像もしなかった。それにしてもこの駅員は、駅舎もないホームに一日立っているのだろうか。難儀なことである。
     降りたのは私たちのグループだけかと思ったが、見知らぬご夫婦らしい二人組もいる。千意さんの指示で取り敢えず線路の南側の空き地に集まると、その二人も一緒にやって来た。「巨樹の会」で隊長とダンディは顔馴染みだと言うので、隊長が誘ったのだろう。それなら桃太郎も面識があるかも知れない。あんみつ姫も奥貫氏とは顔見知りで、「いつもお世話になってます」と夫人に挨拶している。
     取り敢えずトイレを借りようと、南に百メートル程歩いてローソンに行くが、女性陣が並んでしまうとなかなか入れない。「行列のできるコンビニだね」と宗匠が笑う。素早く最初に済ませたスナフキンが、「一つしかないんだ」と言う。最初に寄る乗国寺までは近そうだから、そこまで我慢することにして男たちは諦めて駅前に戻った。
     全員が揃ったところで隊長が、「初めての人もいるので、それぞれ自己紹介しましょう」と発言し、順番に在住地と名前を申告する。スナフキンが「国分寺の」と言うと、夫妻からは驚いたような声が出る。「よっぽど遠い所から来てるみたいじゃないか」と、スナフキンはこぼす。S協会員だろうから、東京の人間が参加しているのが珍しいのだ。今日は遠いから女性の参加は少ないだろうと見込んでいた私の予想は外れ、カズチャンも久し振りに元気な顔をみせている。
     千意さん、奥貫夫妻、あんみつ姫、イッチャン、シノッチ、カズチャン、隊長、ダンディ、オカチャン、宗匠、ヤマチャン、スナフキン、ロダン、蜻蛉の十五人である。「十五人、間違いありません」とロダンが指で確認する。
     「深まり行く秋の澄み切った空、陽の光、風の匂いを感じながら歩きましょう。蕪村になったつもりで、この秋の一日を切り取って、一句詠んでみてはいかがでしょうか。」リーダー千意さんの挨拶が洒落ている。

     ほかに人は全く歩いていない。線路を渡って北に三百メートル程行くと最初の目的地の乗国寺に着く。結城市上小塙三〇七三番地。総門は延宝七年(一六七九)に建てられた四脚門で、門前左脇には比較的新しい双体道祖神が置かれている。石を刳り貫いて祠のようにし、その内部に男女を浮き彫りにしたものだ。
     総門を潜ると十メートル程の参道の両側に、割に新しそうな五百羅漢像が並んでいる。「何体あるのかな。」「五百人はいそうですね。」「羅漢って何なの?」「釈迦の弟子だよ。」釈迦入滅後、釈迦の言行録(つまり原仏典)編纂のために結集した弟子が五百人ということになっている。
     その先には、正徳三年(一七一三)創建の竜宮門がある。但し白いコンクリート部分は大正の修復になる。本堂向拝の柱に彫られた上り龍、下り龍は金に塗られた見事なものだ。その前にも羅漢像が並ぶ。
     六角堂の横には、船のように見える蓮の花弁に、風呂に入っているような恰好で、左膝を立てて座る一葉観音がいた。胸が膨らんでいるので少し色っぽい。宗匠に教えてもらって初めて知るのだが、三十三観音のひとつで水難救助を担当するらしい。
     乗国寺の歴史を知るためには結城合戦を知らなければならない。『南総里見八犬伝』の発端となる合戦である。
     鎌倉公方足利持氏が京都の幕府と関東管領上杉憲実と対立し、持氏は敗北して永享十一年(一四三九)二月に自害した。これが永享の乱と呼ばれるもので、いったん鎌倉府は滅びた。しかし反幕府・反上杉勢力は残っており、翌永享十二年結城氏朝が持氏の遺児(春王丸・安王丸)を擁立して反旗を翻した。関東武士団の利益と京都の幕府の利益が違っていたのである。結城城での籠城は一年に及んだがついに敗れ、嘉吉元年(一四四一)結城十一代氏朝と十二代持朝は共に討死し、春王丸、安王丸は殺された。
     馬琴はこの戦いを「義戦」とした。「義」のために参戦した里見義実は父の命で逃れて安房に至る。持氏の末子の永寿丸は幼いゆえに許され、後に鎌倉府を再興することになる。それが足利成氏(しげうじ)だ。但しそれも束の間でやがて上杉と争って敗北し、古河に逃げた。これが古河公方である。馬琴は成氏に余り好意的ではない。
     犬塚信乃の父大塚番作は、その父の匠作が公方の近習であったために結城方で戦い、足利家の宝刀の村雨丸を託されていた。信乃はこれを古河公方に返すために古河に出向き(その間に浜路は死ぬ)、芳流閣の闘いで犬飼見八(後に現八)と巡り合うのである。
     そして足利成氏の鎌倉府再興によって結城城に復帰した結城十三代成朝が、宝徳元年(一四四九)に先代を弔うため、城の東に三国山福厳寺を開基した。「三国」は下野、下総、常陸であり、結城氏の版図がこの三国に跨っていたということだろう。
     しかし文明十一年(一四七九)の大洪水にあって伽藍も流失したため、現在地に移って見龍山覚心院乗国寺と改称した。曹洞宗である。
     このような由緒の寺だから結城家に関係する墓があるのではないか。墓地に入るとすぐに非常に立派な墓石が目につくが、結城家には関係ないようだ。更に奥に入ってみると、苔むした宝筺印塔数基と大小の五輪塔を並べた狭い塋域があった。板塔婆には「結城家先祖代々諸聖霊菩提塔」の文字が読める。これだ。「何かありましたか?」「結城家の家臣に関係あるみたいだ。」「みなさん、ありました。」姫の声で数人が集まってくる。
     石碑の文字は読みにくいが、十三代成朝が十一代氏朝と十二代持朝及び家臣を葬ったとある。写真に撮ったので後で何とか読んで見ると、十四代簾中、十六代の母、十七代簾中も葬られていることが分かった。簾中は夫人の意味である。よく見ると宝筺印塔の基礎の部分や、五輪塔の一部を新しい石に替えているのもある。復元したのだろう。シノッチ、イッチャン、カズチャンはこういうものに全く興味がないから境内で待っている。

     「それじゃ出発します。」歩き出してすぐ、リーダーは道を間違えたことに気付いた。「幼稚園の所から行かなくちゃいけなかった。」寺の敷地に沿った道を行くと、幼稚園ではなく「みくに保育園」だった。子供たちが引率されて散歩に出かけるところらしい。東に回り込んでいくと、こちらにも新しい墓地が広がっていて、かなり広い寺だ。「あっ、トイレに行くの忘れた。」「忘れる位だから大丈夫なんだろう。」
     そして貴布禰神社に着いた。結城市結城三一一九番地。社伝では康元元年(一二五六)結城二代朝広によって創建されたと伝えられる。祭神の高龗神(タカオカミノカミ)は水神である。この地方はおそらく鬼怒川の氾濫による被害が頻発したのではないだろうか。
     本殿は江戸時代中頃に再建されたもので、見事な彫刻が「結城百選」に指定されている。「名所が百ヶ所もあるのかな。」結城市の二十一世紀記念事業として市民の投票で選定されたものである。「市・内外にPRするとともに、新たな観光資源(新名所)として活用することを目的とする」(結城市ホームページ)のだが、広報はきちんとされているのだろうか。
     閑散とした境内で、延享元年(一七四四)の石灯籠が立つ。「どこにあるのかな。」赤い屋根の簡素な拝殿にはそれらしい彫刻はない。「そっちじゃないの。」本殿は覆殿(というより粗末な小屋)の中に収められていた。粗末な木組みの覆殿の屋根と板塀の間が離れているので、そこから見ることができる。「見えないわ。」「そこに足を載せればいいよ。」カズチャンは板塀の土台の石の上に立ち、手を塀の上にちょこんと載せる。「カズチャン、カワイイ。」「ハズカシイ。」四面それぞれが彫刻を施した一枚板だ。
     他の絵は良く分からないが、碁を打っている絵だけが分かった。「爛柯」の故事だろう。樵が深い山に入っていくと、碁を戦わしている人がいる。あんまり面白いので貰った棗を食いながら見物していた。どのくらい時間が経ったろうか。ふと気づくと、持っていた斧の柄(柯)がぼろぼろに爛れていた。里に帰ると我が家もなく、知る人も誰一人いない。浦島太郎と同じ仙境伝説のひとつだ。このことから、爛柯は囲碁の別称にもなっている。
     その裏手に回ると寛政四年(一七九二)の宝筺印塔が建っていて、ヤマちゃんとロダンが頻りに悩んでいる。「これ、漢文ですか?」基礎の部分に、漢訳仏典の一部と思われる一節が彫られているのだ。「経曰若有有情能於此塔一香一華礼拝供養八十億劫生死重罪一時消滅。」「読めないよ。」それは根性が足りない。読もうとする意志があれば何とかなる。経ニ曰ク、モシ有情有ラバ、ヨク此ノ塔ニ一香一華ヲササゲ礼拝供養セヨ。八十億劫生死重罪一時ニ消滅スベシ。たぶんこんな風に読むのだと思うが、信心の気持ちがないから罪は消滅しない。
     神社を出て歩き始める。赤い実のたくさん生っているのはサンゴジュかも知れない。「馬頭観音があります。」道端には「馬頭尊」の文字だけの馬頭観音と水神(?)の石祠が、コンクリートの土台で保護されて置かれている。黄色の実は柚子だろうか。夫妻が何か別の名前を言っているようだが、私には聞こえなかった。

     目で交わす 結城の秋に いい夫婦   千意
     柚子の実や夫婦語らふ田舎道   蜻蛉

     十一月二十二日は「いい夫婦」と読むらしく、千意さんの句はこれにかけてある。やがて農村風景が広がってくる。すぐ北側を流れるのは田川だ。人家の庭のサザンカが赤い。「『さざんかの宿』しか思いつかないね。」大川栄作の歌(吉岡治作詞、市川昭介作曲)は好きではない。まず大川の声が嫌いだ。それに市川昭介の曲は昔から苦手だ。ロダンは森進一の『さざんか』を知らないだろうか。「どういうのでしたっけ?」

    春に咲く花よりも 北風に咲く花が好き
    そんな言葉を残して 出ていったね
    別れのわけも言わないで
    さざんかの花びらが
    小さな肩先に こぼれていたよ。(『さざんか』中山大三郎作詞、猪俣公章作曲)

     ロダンが知らなければ、他に知っている人はいないだろう。左手の畑にヒマワリが咲いているのが不思議だ。「隊長を呼ぼう。」「姫がいるよ。」ヤマチャンたちが助けを求めているのは、カズチャンの疑問に答えるためだった。ヒマワリの種は一番上の花からしか採れないのか、それがカズチャンの疑問である。花があれば、上だろうが下だろうが種はできるだろうというのが姫の回答だ。しかし姫はヒマワリが嫌いだと言う。右手の農家の庭先に腰を下ろしたオジサンが、何事かというように私たちを眺めている。
     「あっ、ワタですよ。」枯れた畑の木数本の根元に真っ白い綿がいくつか残っている。「綿畑でしょうか。」如何にも結城に相応しい。結城の地名は木綿(ゆう)から生まれたと言う説があるのだ。

     綿の実の取り残されし枯れ畑  蜻蛉

     日本に綿が齎されたのは延暦十八年(七九九)、三河国に漂着した崑崙人によるとされている。その後各地に広まったが、戦国時代になるまでワタの栽培はそれほど普及せず、真綿が中心だったようだ。
     そして伝統工芸館に着く。「結城市伝統工芸館」と「茨城県本場結城紬織物協同組合」の看板が掲げられている。結城市結城三〇一八番地一。
     紬とはなんであるか。こんな基礎的なことも私は知らないのだ。要するに真綿から糸を紡ぎだすのである。そして真綿とは、生糸を取れない粗悪な繭玉を洗って不純物を取り除いて乾燥させたものである。
     中に入ると、玄関前には大きな紬のパッチワークが掛けられている。受付の脇のテーブルで、女性説明員が「これが真綿です」と、袋状になった綿を手で操りながら親切に教えてくれる。繭玉を、重曹を入れた湯で煮沸し、水洗いを繰り返して蚕を取り除く。この繭玉五六個を一枚にして、手で広げながら袋状にする。「真綿を触ると精神が安定すると言われています。みなさん、どうぞ触ってみてください。」精神の不安定な者ばかりだから、一所懸命触らなければならない。「特に隊長は良く触って下さい。」真綿は柔らかくてすべすべして軽い。
     説明に熱が入る。「ここから手で撚りながら糸を紡ぎます。」手で撚りをかけるため太さが均一でなく、節が多くなる。これを平織りしたのが紬の生地になる。地機(じばた)の構造は千数百年来変わらないと言うのは驚くべきことである。絣模様を入れるための糸括りは全て手作業で行われる。

     遠い古代、三野(美濃)の国の多屋命と言う人が、久慈郡機初村(茨城県常陸太田市)に移り住み、織物を始めました。その織物は長幡部絁(ながはたべのあしぎぬ)とよばれ、その後常陸国の各地に広まり結城地方にも伝わりました。また、奈良時代中期に常陸国から朝廷に献上された絁の一部が、東大寺正倉院に保管されており、これらの絁が結城紬の原点と言われています。(結城市教育委員会生涯学習課文化係作成パンフレットより)

     これは『常陸国風土記』に記されていて、それ程起源が古いということが確認できる。長幡部(ナガハタベ)は服部(ハタオリベ・ハトリベ)同様、織物技術を持った集団であろう。
     昭和三十一年には国の重要無形文化財に指定されていて、その要件は①使用する糸はすべて真綿より手つむぎしたものとし強撚糸を使用しないこと、②絣模様を付ける場合は手くびりによること、③地機で織ること、の三つである。つまりすべて手作業が前提で、高価になる訳だ。平成二十二年十一月、結城紬はユネスコ無形文化遺産に登録された。日本の染織部門では小千谷縮・越後上布に次いで二番目だという。
     「東を流れる川は何ですか?」オカチャンの問いに「田川です」と返ってくる。結城城の東を守る川だ。「ああ、そうか。鬼怒川はもっと東だものね。」
     「ここで買えますか?」姫は小銭入れを買ったらしい。奥貫夫人が二つ、宗匠、スナフキンがそれぞれ一つの真綿を買う。精神を安定させたい人たちなのだ。私の精神はいつだって安定しているのでわざわざ買う必要はない。「普段ここで買う人が滅多にいないので。」お釣りの用意がなく、女性は封筒に入ったお金を持ってきた。
     なかなか有意義な社会科見学であった。説明に感謝して外に出る。

     外に出ると暑くなってきた。みんなジャンバーを脱いで腰に結び付けているが、私のジャンバーは結び付けるにはちょっと厚手なので、リュックに仕舞いこんだ。この作業を歩きながらするのは、実は結構大変であった。田圃の中にアオサギが佇んでいるのをシノッチが見つけた。かなり遠いが、確かにアオサギだ。

     冬鷺や遠く佇む古戦場  蜻蛉

     長閑な風景を見るとヤマチャンはいつでも故郷を思い出す。千意さんが立ち寄った松月院には何もない。結城市大谷瀬二七一六番地。がらんとした境内で、本堂の前に青銅の水子地蔵が立っているだけだ。乗国寺の末寺である。
     「あそこですね。」道路を隔てて塚の上の墓地のようなものが見える。結城家御廟である。結城市結城二七〇九番地。城の南端に当たる。畑の中に殺風景な一段小高くなった場所があり、かつては乗国寺末の福聚山慈眼院の境内だったのだ。周囲に堀・土塁を構えた塚なのだが、今では寺はなくなり、畑の中にポツンと取り残された小さな丘のように見える。ここにも「結城百選」の石柱が建っている。
     石碑の題字は「永贅」とでも読むのだろうか。永く供物を捧げる、つまり供養するということなのだろうか。手元の辞書にないので判断できない。碑面には「結城家廟跡猶存 荒廃無残各復元 十八代霊今静泰 中元供養弔英魂」とある。荒廃無残だった墓所を復元した記念碑なのだ。しかしこの後に書かれた俳句と漢詩が分からない。

     この里に耳漏の神や花うつぎ
     此里鎮 耳漏神 拝花卯木 忽醫真

     耳漏(みみだれ)神とは何のことだろうか。かつて耳漏治癒の神が祀られていたものか。謎である。
     石碑には「十八代霊」とあるが、ここには初代朝光から十六代政勝までと、氏名不詳四基の計二十基の五輪塔が並んでいる。十七代晴朝は秀康とともに越前北の庄に移り、そこで死んだようで墓は越前にある。「土葬ですか?」「最初はそうでしょうね。」しかし各寺院に分散されていた墓を統合したものだから、ここに埋葬されたわけではないだろう。
     案内板によれば、御廟成立時期に三つの説がある。一つは十六代政勝が先祖の墓を移設してまとめたと言うもの、二つ目は結城秀康によるというもの、三つ目は伊奈忠次によるというものだ。いずれにしろ戦国時代末から江戸時代初期のことで、五輪塔はかなり素朴な形式のものだ。
     結城氏は藤原秀郷(俵藤太)の裔、小山氏の傍系である。家紋は三つ巴。頼朝挙兵に応じた小山朝光(政光の子、頼朝落胤伝説がある)が結城に所領を得て結城氏を名乗ったのが始まりで、室町時代を通じて鎌倉以来の名門として勢力を振るった。戦国末期、家康の次男(秀吉の養子)秀康が結城氏十七代晴朝の養子に入り結城氏を継いだ。
     関ヶ原の戦いの後、秀康は越前国に移封されて下総との縁は切れ、松平を名乗ったので結城の名跡も絶えた。「松平なんて、いっぱいいただろう。」その中でも越前松平家は御三家御三卿に次ぐ高い位置を占めた。

     「それじゃ城跡に向かいます。そこでお昼にします。」千意さんの声でカズチャンがやっと安心したような声を出す。「朝ご飯が六時頃だったから、お腹が空いて空いて。」私も似たような時間だったから、やはり腹が減っている。
     「この辺からもう城跡です。」後で調べてみると中城に当たる地域である。畑の広がる中を行くと、こんもりした林が見えてきた。林が途切れれば所々に人家が建っている。竹藪は間違いなく濠跡で木橋が架けられている。中城と館を隔てる濠のようだ。
     やがて三日月橋と言う石橋にやって来た。後ろが随分遅れているのは、隊長が何かの植物を見つけているのだろう。後で宗匠の記録を確認すると、サネカズラを発見していたようだ。
     「これも濠だったんじゃないか。」「濠って言うより、池じゃないか。」橋の下は石を敷き詰めた池のようでもあるが水はない。「埋蔵金伝説があるんです。」日本三大埋蔵金伝説というものがある(ということを知った)。秀吉埋蔵金、徳川埋蔵金そして結城埋蔵金である。
     結城家初代朝光が頼朝に従って奥州討伐で武勲を挙げ、平泉の黄金を手にしていたというのである。その結城家埋蔵金を求めて家康が掘り返し、吉宗の命を受けた大岡越前も掘り返して、結局探し出すことができなかったから、今でもどこかに眠っている筈だというのが、この分野のマニアの中で言われているらしい。今は勝手に掘り返すことはできない。

     山茶花や埋蔵金の夢の跡   蜻蛉

     ここからは桜並木が続く。桜の葉はとっくに落ちているが、モミジが美しい。サザンカは赤のほかに白い花も咲いている。城跡はかなり広い。
     最初の築城は寿永二年(一一八三)、結城初代朝光によると言われているが、その当時はせいぜい館があった程度だったと思われる。結城合戦敗北で落城して、一時は主のない城となった。 やがて足利成氏が鎌倉公方再興を許されると、佐竹氏の庇護を受けていた成朝が結城城に復帰した。大規模に拡張されたのはおそらくそれ以後、戦国時代にかけてではないか。
     関ヶ原の戦い後、秀康が越前北ノ庄に転封され、幕府直轄領となって廃城となる。元禄十三年(一七〇〇)に水野勝長が能登国西谷から転封され、再び城が築かれ譜代一万八千石として幕末まで続いた。
     公園の中に入り、芝生の真ん中にシートを広げる。この辺りが館に当る地域で、水野氏の本丸に当る。オカチャンは最初に自分のシートを広げてしまうと、シートから外れた場所でリュックを広げて何かを取り出す。「最初にしょっぱいものを」と私には酒のつまみをくれ、他の皆のためにいつもの紙コップを用意してお菓子を配分する。実にマメな人である。イッチャン、シノッチ、カズチャンは植え込みの傍に腰を下ろした。奥貫夫妻と姫はベンチに陣取る。
     今日は弁当を作ってくれなかったので、コンビニのおにぎりと魚肉ソーセージを買ってきた。奥貫氏からは自家製の味噌漬けが回される。独特の味だと思ったら味噌も手作りだそうだ。浅漬けの味噌漬けも旨いものだ。女性陣からはいつものように煎餅、チーズクラッカー、飴やなにやら(私が貰わないのはクッキー)大量に回されてくる。すっかり遠足気分だ。日差しが暖かく眠くなりそうな陽気だ。
     食べ終わって少し園内を観察してみる。植え込みには白いツツジが咲いている。狂い咲きだ。ここは公園の北に位置する高台で、この北に濠を隔てて実城があったようだ。大きな蕪村句碑が建っている。

     ゆく春やむらさきさむる筑波山  蕪村

     「さむる」は「褪る」だろう。春が過ぎ、若葉になる頃の景である。「筑波山はどっちの方なんだい?」「俺に訊かれてもね。」千意さんが、「あっちの方」とスナフキンに教える。「でも今日は風がなくてはっきり見えない。」
     何故ここに蕪村の句碑があるのか、実は理由を知らなかった。『蕪村俳句集』も萩原朔太郎『郷愁の詩人 与謝蕪村』も読んでいた(持っていた)のに迂闊なことである。蕪村は寛保二年(一七四二)二十七歳の時に砂岡雁宕(いさおかがんとう)を頼って結城に来た。それ以後十年程の間、結城を拠点に、芭蕉の足跡を訪ねて北関東から奥州を巡った。蕪村修業時代の重要な土地であった。
     「『菜の花や月は東に日は西に』が有名だね。」千意さんの言葉に、「それって人麻呂の本歌取りじゃないかと思うんだ」と宗匠が指摘する。流石に宗匠である。私はそんなこと、まるで考えもしなかった。並べて読んでみよう。

    菜の花や月は東に日は西に  蕪村
    東(ひんがし)の野にかぎろひの立つ見えて返り見すれば月傾ぶきぬ  柿本人麻呂

     『大辞林』によれば、「かぎろひ」はかげろうの他に曙光を意味する。すると人麻呂の歌は「日は東に月は西に」で、蕪村の句とは正反対の情景になるが、太陽と月を同時に見る雄大な趣向は同じだ。
     しかし万葉の原表記は「東野炎立所見而反見為者月西渡」であり、「かぎろひ」は加茂真淵の訓である。それ以前には「あづま野のけぶりの立てる所見て返り見すれば月傾ぶきぬ」と読まれていた。「炎」をわざわざ「かぎろひ」と読む例は他にもあるようだが、真淵以前はごく普通に煙や火と解すのである。そして現代の万葉学では、真淵の訓は恣意的なものであり、この歌は「未解読歌」としている(佐佐木隆『万葉歌を解読する』より)。
     蕪村はどちらの読みで万葉に慣れ親しんでいたのか。加茂真淵の『万葉考』巻一(人麻呂の歌の解が入っている)の完成が宝暦十年(一七六〇)、刊行が明和五年(一七六八)だったとして、蕪村のこの句は安永三年(一七七五)だから真淵説を知っていた可能性が高い。蕪村が国学の動向に目を配っていたのは、本居宣長と上田秋成の仮名遣い論争を揶揄していることからも分かる。問題は梅の表記に関する。

      あらむつかしの仮名遣ひやな。字義に害あらずんば、アゝまゝよ
    梅咲きぬどれがむめやらうめぢややら  蕪村

     「蕪村は貧しく生まれたんじゃなかったかな。」ヤマチャンの記憶はどこから得たものか。蕪村が享保元年(一七一六))摂津国東成郡毛馬村に生まれ、二十歳の頃江戸に出たことは知られているが、それ以前のことは全く分からない。語りたくないほど貧しく辛い生活だったと推測する人もいる。好きな句をいくつか挙げておこう。私は芭蕉より蕪村が好きだ。

    五月雨や大河を前に家二軒
    鳥羽殿へ五六騎いそぐ野分かな
    月天心貧しき町を通りけり
    冬鶯むかし王維が垣根かな
    宿かせと刀投げ出す吹雪かな
    凧(いかのぼり)きのふの空のありどころ

     蕪村句碑から西の方に行くと、高台のはずれには「結城合戦タイムカプセル埋設記念之碑」が建っている。これは何だろう。結城市のホームページには何も書かれていないが、結城合戦から五百四十年経った九回目の辛酉の年、一九八一年四月十二日に慰霊祭が行われた。その記念にタイムカプセルを埋設したらしい。二〇四一年辛酉四月十六日に掘り出すそうだ。水野家顕彰碑もある。
     全員が食事を終わって歩き出すと、聰敏神社があった。「なんですか、これは?」誰も分からない。「蜻蛉が調べてくれますよ。」聰敏(ソウビン)大明神は水野氏初代(備後福山藩初代)日向守勝成の神号であった。福山にもこの神社がある。

     結城用水脇を通り、水辺公園を抜ける。これが城の西側を防ぐ掘割の跡である。玉岡通りに入ると白壁の築地塀が延々と続く。結城小学校だ。「広いね。」明治五年(一八七二)の創立だから百四十年以上の歴史を持つ古い学校だ。石垣の前には浅い掘割が作られ(水は流れていないが)袖切り橋という小さな橋が架けられている。
     紅葉の脇にはライトが設置されている。夜にはライトアップするのだろう。「ここも結城百選じゃないかな。」広い校庭の奥の校舎を眺めると、四階建ての校舎の西側に新しく三階建て校舎を付け加えたような恰好だ。これを見ると児童数は相当だと思われるが、ホントに子供がそんなにいるのか。「統廃合したんじゃないでしょうかね。」ありそうな話だ。近隣の小学校をつぶしたために、生徒が多くなって増築したか。
     しかし調べてみると、特別支援学級が三クラスで十九人、普通学級は六学年十九クラスで五百九十四人だから、人数的にはたいしたことはない。一クラスの平均三十一人である。十九クラスなら東側の四階建てだけで充分間に合う筈で、私たちの推理とは逆に、最盛期にはもっと児童がいて増築したのに、それが徐々に減ってきたものかも知れない。
     西門の所に子供四五人がいるので、千意さんが首切り地蔵の場所を尋ねる。「すぐそこ。」「呪われるんだ。」小学校の西の角に地蔵は立っていた。「享保十年ですね」とオカチャンが裏面を確認する。処刑場があったとも言われ、しょっちゅう首が落ちるのでコンクリートで繋げたというもので、顔面は仮面のようにのっぺりとして、頭巾をかぶった格好だ。
     観光マップにも「首切り地蔵」は記されているのだが、案内板も何もない。しかしこれを地蔵と呼ぶのは違うのではないか。座像で片膝上げた半跏思惟の地蔵なんて、私は見たことがない。「如意輪観音だと思うよ。」「そうですね、半跏思惟ですものね。」こうした会話が通じるのは姫と宗匠だけだ。
     「そこに謂れか何か書いてませんか?」台座の文字を読んでみる。「特に変わったことは書いてないよ。」

    此尊者慈悲広大而応物
    現形之大士六道能引之
    薩埵也以□当所之有情
    為菩提得壇越之助力奉
    造立之者也

     「大士」「薩埵」も同じで菩薩を意味するから、地蔵菩薩にも観音菩薩にも当てはまる。地蔵が六道の辻に立つように、観音もまた六道に迷う生類を救うため六変化する(六観音がいる所以だ)。結局この文字からは地蔵か観音かの判定はできない。折角玉垣で囲んで綺麗に保存しているのだから、きちんとした説明がほしいところだ。結城市のホームページを見る限りでは、この地蔵については勿論、「西の森刑場」と呼ばれた処刑場のことも何も分からないのだ。

     小春日や菩薩の謎の解けぬまま  蜻蛉

     信号の更に西側にも石垣が見えるのは市役所である。この辺から城下町に入ってきたようだ。結城小学校前の信号の一つ先を右に入ると「つむぎの館」だ。結城市結城十二番地二。入って左の建物がショップになっていて、和服のお姉さんがにこやかに迎えてくれる。しかし私が買うものはない。
     若い頃、休日には秋田の伯母が仕立ててくれたウールを着ていた。結城は憧れだったが到底手に入るものではない。角帯が結べず、兵児帯を尻の上ではなく、きつく巻き付けて短く残した先を脇で結ぶのが粋であると私は信じていた。結婚してからは妻に角帯を締めて貰ったが、慣れないからすぐに着崩れてしまう。今時はウールなんか着る人はいないだろうね。しかしそれも子供が生まれるまでのことで、それ以来和服を着たことがない。
     ロダンは三千八百円の名刺入れに目が行くが、諦めたらしい。姫はなぜかヴァイツェンとかいうビールを買った。「結城に来たんですからね。」私はこのビールと結城との関係が分からない。調べてみると、那珂市鴻巣の木内酒造が製造販売する地ビールで、ブランド名を常陸野ネストビールと言う。木内酒造は鴻巣村の庄屋木内儀兵衛が文政六年(一八二三)に創業した造り酒屋で、地ビール製造に乗り出したのである。その主な商品にアンバーエール(英国原産・ホップの苦み)、ヴァイツェン(バイエルン原産・バナナの香り)、ホワイトエール(ベルギー原産・ハーブの香りとオレンジの酸味)などがあるのだ。姫は何故こんなことを知っているのだろう。
     その隣は古民家の結城紬陳列館で、さらっと見るだけだ。着られない紬は、渋くてもそんなに熱心に見るべきではない。資料館は入館料二百円が必要なので入らない。千意さんは道路に出ずに、建物の間を抜けていく。中庭には創業者の銅像が建っている。「きれいですね、万両でしょう。」姫が声を上げたのは、赤が実に鮮やかなマンリョウだった。どうやら土蔵や工場のようで、表通りに出てようやく分かった。ここは奥順という紬問屋の店舗であった。建物は大正期の建造だ。
     この通りは問屋街で、蔵を併設した大正か昭和の初め頃らしい店構えが何軒も残っていて、それぞれの店先には必ずと言って良い程「国登録有形文化財」のプレートが据えてある。こんなに文化財の多い町は珍しいのではあるまいか。空襲にあっていないのだ。「結城は重工業がなかったから」と奥貫さんも保証してくれる。鈴木屋の土蔵は崩れかかっている。奥庄、鈴木紡績。酒屋の洒落た店頭には、小さな木枠の灯籠が二つ置かれ、側面に「こりゃいける(本醸造生貯蔵酒)」、「頑固人(麦焼酎)」と書かれている。「いいじゃない。」
     住吉高倚神社の鳥居は真っ赤な両部鳥居だ。境内に入ると銀杏が見事だ。ここは簡単に過ぎる。横から眺める拝殿と本殿の作りも立派だ。「住吉大社に似てる。」「住吉造りっていう様式があるんですよ」と姫が説明する。私はどうも建築様式が覚えられない。ウィキペディアを見ると、破風は直線、切妻造り・妻入りだと書かれているが、そんな風にはなっていないようだ。
     道端には舟形光背の如意輪観音が二体いた。「ほら、さっきの首切り地蔵に似てるでしょう。」「そう言われればそうだ。」女人講があったのだろう。

     次は妙国寺だ。結城市結城一五七〇番地。創建は貞和元年(一三四五)、日蓮宗である。境内に入るとすぐ左手に、蕪村『北寿老仙をいたむ』の詩碑がある。これが見たかったのだ。「さっき、蜻蛉が言ってたのですね。」北寿は、結城の酒造家で結城俳壇の先達だった早見晋我の別号である。雁宕の叔父で、その縁で結城時代の蕪村と親交を結んだ。延享二年(一七四五)に七十五歳で死んだ時、蕪村はまだ三十歳である。これだけの年齢差がありながら、親友を悼む嘆きの深さに驚いてしまう。
     この俳詩を教えてくれたのは城西大学の先々代図書館長・黄色瑞華先生だ。近世文学が専門で話好きだった。定年で大学を辞めるとき、一茶や俳句に関する著書を数冊貰ったので、近世文学について基礎的な知識を得ることができた。私にとっては恩人の一人である。
     改めて読み直してみると心に沁みる。「読めないよ。」ロダンはすぐに諦める。

        北寿老仙を悼む
    君あしたに去りぬゆふべのこころ千々に
    何ぞはるかなる
    君をおもふて岡のべに行つ遊ぶ
    をかのべ何ぞかくかなしき
    蒲公の黄に薺のしろう咲きたる
    見る人ぞなき
    雉子のあるかひたなきに鳴を聞ば
    友ありき河をへたてゝ住にき
    へげのけふりのはと打ちれは西吹風の
    はげしくて小竹(ささ)原真すげはら
    のがるべきかたぞなき
    友ありき河をへだてゝ住にきけふは
    ほろゝともなかぬ
    君あしたに去りぬゆふべのこゝろ千々に
    何ぞはるかなる
    我庵のあみだ仏ともし火もものせず
    花もまいらせずすごすごと彳める今宵は
    ことにたふとき
             釋蕪村百拝書

     持参した『蕪村俳句集』(岩波文庫)を開いて説明していると、「蜻蛉は情熱家ですね」とオカチャンが笑う。私はただの感傷家に過ぎない。
     八行目の「友ありき・・・・・・」から、十三行目の「ほろゝともなかぬ」までは、蕪村の心が聞き取った雉の声である。昨日まで友がいた。河を隔て住んでいた。突然煙が上がって鉄砲の音が鳴った。風が強く竹も菅も倒れてしまって隠れるところもない。友がいたのだ。河を隔てて住んでいたのだ。今日はホロロとも泣かない。「去りぬ」「人ぞなき」「友ありき」「住にき」と終止形を連ねるのは失われたものへの哀惜である。
     萩原朔太郎は『郷愁の詩人 与謝蕪村』の中で冒頭の四行を示して、「この詩の作者の名をかくして、明治年代の若い新体詩人の作だと言っても、人は決して怪しまないだろう。」と言った。芭蕉のワビサビとは全く違って、近代的なのである。子規は絵画のようにイメージのはっきりした蕪村の句を称賛して写生を主張したが、朔太郎は蕪村に近代的なロマンティシズムを見た。
     休憩所には灰皿が置かれている。「蜻蛉のためだよ。」「結城は実に親切な町だね。普段は非国民のように扱われるけどさ。」「そんなことない、高額納税者に感謝するよ。」「俺の払う税金で、みんなが楽してるんだ。」「酒税も高いね。」「それじゃスナフキンはもっと貢献してますね。」

     弘経寺(ぐぎょうじ)には裏門から入る。「裏門っていうのがおかしい。」その石柱に、この門は結城城の大手門を移設したものだと書いてある。結城市西町一五九一番地。浄土宗。文禄年間(一五九二~ 一五九六)、六歳で死んだ娘の松姫供養のために結城秀康が開基した。
     隣の敷地に煉瓦造りの大きな煙突が見える。「酒蔵でしょうね。」あとで酒造元に行く筈だから、それではないだろうか(実は違った)。かなり風化し苔むした六地蔵が、その体と同じほどの高さの台座に立って並んでいる。鐘楼の懸魚から繋がる彫刻が素晴らしい。本堂には栴檀林の額がかかる。浄土宗関東十八壇林の一である。
     寛保二年(一七四二)砂岡雁宕を頼って結城に来た蕪村はこの境内に庵を結んで住んだので、蕪村の句碑が建っている。

      肌寒し己が毛を噛む木葉経  蕪村

     「洛東間人嚢道人釈蕪村」の署名がある。木葉経は木の葉に写経することであり、主人公は狸である。この寺には狸が僧侶に化けて住んだと言う伝説があった。その狸が、己の毛で作った筆先を噛みながら木の葉に経を書いているというのだ。
     砂岡雁宕の句碑もある。砂岡家は醤油の醸造と鬼怒川舟運で財を築いた家で、祖父や父も俳句を詠んだ。雁宕は早野巴人(夜半亭宗阿)の門人として蕪村の先輩に当たり、巴人死後、蕪村が雁宕を頼ったのはその縁である。

    古寺や霧の籬に鈴の音  雁宕

     墓地に入るとこの寺が古い歴史を持っていることが分かる。古い立派な宝筺印塔が多いのだ。中程に小さな堂が建っていて、格子から中を覗くと新しい綺麗な卵塔が収められている。額には「松樹香梅心芳薫廟」とあった。堂の脇に立つ五輪塔が松樹院(松姫)の墓である。文禄三年(一五九四)十一月九日早世。
     境内に戻れば勢至丸の像があった。「女の子かい?」「誰ですか?」法然若き日の姿だ。表門から出る。「さっきの裏門っておかしいよ。」ヤマチャンが大きな声を上げる。「表と裏って言ったら正対するもんでしょう。あれじゃ横門じゃないかって、俺は思う訳ですよ。」
     道を回り込むと、さっきの煙突があった酒蔵だ。板塀に囲まれた門には白い暖簾がかかり、中には見学者らしい姿が見える。ここは結城酒造だった。結城秀康の時代に創業したと言う酒蔵で、「富久福(ふくふく)」「つむぎ娘」と言う銘柄があるらしい。しかし千意さんの目的はここではない。
     通りには毘沙門堂があったが、内部は暗くて分からない。写真を確認すると、二十センチ程の像のようだ。大太鼓が置かれている意味は分からない。石油ストーブに薬缶が載せられている。
     千意さんは「武勇」の前も通り過ぎる。「あれっ、寄らないんですか。」姫ががっかりしたような声を出す。

     次の称名寺にも裏から入る。結城市結城一五二番地。浄土真宗。建保四年(一二一六)、結城初代朝光が親鸞聖人の高弟真仏を招き開山したと伝えられる。棟瓦や本堂の柱に巴紋が金色で貼られている。巴紋は結城氏の家紋だ。
     大将塚には頼朝の遺髪が埋められていると言う。頼朝は右近衛大将を兼ねていたので、右大将とも呼ばれる。遺髪を貰う程、結城朝光と頼朝との関係は深かったわけで、ここからも頼朝の落胤説が言われている。
     墓地入口前の古びた石碑は結城朝光の墓への案内だった。小さな参道を造り、対の石灯籠の奥にその墓があるのだが、余り見たことのない多宝塔の形だ。積み木細工のように石を積み上げたのは、おそらく三重の塔の形ではないか。頂きには宝珠が載せられている。墓とは言うものの、朝光の墓は今日既に見て来た廟に移された五輪塔であった。そのため、ここにあるのは初代朝阿光から四代時広までの供養塔ではないかと推測されている。
     すっと立った高いイチョウが素晴らしい。「これはオスですか?」「そうです、樹形で分かります。」奥貫さんが自信を持って答える。私は銀杏が落ちてないからオスだろうなと思っただけで、知識が全く不足している。「公孫樹、鴨脚とも書きます。」それは知らなかった。葉の形が鴨の足に似ているのか。鴨脚樹(ヤーシャンシュー)の発音が、「ヤーチャオ」から「イーチャオ」、「イチョウ」に変ったと言う。流石に巨樹の会の人である。

    青空に いちょうの大樹 称名寺   千意
    結城の里初冬の色に染まるかな  閑舟

     この寺には親鸞直筆の『往生要集』が秘蔵されていると言う。「『往生要集』の原本なんですかね。」どうやら『往生要集』が親鸞の著作だと思っているらしい。みなさん日本史をきちんと勉強していないね。『往生要集』は恵心僧都源信が著し、平安末期の浄土思想普及に大きな影響を及ぼしたものである。「あっ、それなら教科書で読んだことがあるような気がする。」尤も教科書では「厭離穢土欣求浄土」程度しか教えていないだろう。源信がいなければ法然も親鸞も生まれなかった筈で、だから親鸞がこの書を書き写したというのも嘘ではないだろう。
     親鸞は越後流罪を許されて三年後の建保二年(一二一四)、東国の布教活動のため常陸国に入った。最初は「小島の草庵」(茨城県下妻市小島)、建保四年(一二一六)に「大山の草庵」(茨城県城里町)を結んだ。そして笠間郡稲田郷の領主・稲田頼重に招かれ、稲田の草庵を結んでここを拠点に精力的な布教活動を行ったから、結城も活動範囲に入っていただろう。親鸞の東国布教はおよそ二十年に及ぶ。
     実は結城には親鸞の妻とされる玉日姫の墓がある。玉日は九条兼実の娘で、親鸞が法然のもとにいたときに結婚したとされる。親鸞は僧侶として初めて公然妻帯した。これが世間に与えた衝撃はどれ程のものだったか。しかし親鸞の妻なら恵信尼(越後の三善為教の娘)が有名で、もしそれ以前に玉日がいたのなら再婚したことになる。
     そもそも九条兼実の娘の墓が何故こんなところにあるのか。伝承によれば、越後に流された親鸞を追って東国まで来たものの、ここに留まって布教に専念したというのである。平成二十四年六月八日の『朝日新聞』は、京都市埋蔵文化財研究所が京都伏見の西岸寺にある玉日姫御廟所修復に伴う発掘で、これまで実在が疑われていた玉日姫の骨を発見したと報じた。但し、この玉日との結婚説はまだ賛否両論の状態にあるようだ。
     高麗門は通行できないよう四方八方から木を打ち付けている。痛みが酷く、修復の形跡もないが、表に回れば「二条門」の額が掲げられている。説明する立札も置かれていた。称名寺二十世の信覚が二条左大臣橘金明の弟であり、寛永三年(一六二六)二条家から移設されたものと伝えられている。こういうものが修復もされずに崩壊を待っているのは淋しいことだ。

     そして、千意さんは漸く武勇に入って行く。「行くみたいだよ。」「やった。」結城市結城一四四番地。慶応年間の創業で、越後杜氏の流れを継承している。店内には杉玉が飾ってある。あんみつ姫は性根を据えて選び、結局しぼりたてを選んだらしい。「ボードレヌーヴォーですから。」「旦那様に?」「私も少しだけ貰います。」

     結城路や新酒のみやげ佳き人に  閑舟

     他には辛口純米酒、大吟醸、酒粕など、意外に大勢が買っている。「酒粕を焼くと酒のつまみにいいんですよ。」オカチャンの説明は講釈師にも聞いたことがある。私はそんなことはしたことがない。シノッチ、イッチャンも酒を買うのだ。
     「大吟醸は若い頃に飲んだよ。ちっとも酔わないんだ。」私と殆ど同世代のヤマチャンが言う「若い頃」とはいつ頃のことか。私の若い頃と言えば、吟醸酒なんかなかった。あったのは特級、一級、二級の区別ばかりで、いい加減な二級酒だと必ず悪酔いした。

     問屋街に戻り、最後はさっき覗いた奥順の「壱の蔵」に入る。結城市結城十二番地一。明治初期の見世蔵を改造して内部をカフェにしているのだ。壁には紬の反物を展示してあるから、勿論タバコは吸えない。上品そうな和服のマダムが注文を取る。「それは紬ですか。」「勿論そうです。」
     あんみつ姫はヴァイツェンとかいうビールを頼んだが、売り切れであった。「さっき来たお客さんが全部飲んでしまって。九本も飲んだんですよ。」私たちの前に団体客があったようだ。しかし、姫はさっきそのビールを買っていたのではなかったか。「あれは家で飲むためですから。」
     一番安いのが三百五十円の桑茶というもので、私は文句なしにそれにする。スナフキン、ロダンも同じだ。隣のテーブルからも「安いのがいい」という声が聞こえる。皆貧乏人だ。あんみつ姫は悩んだ結局四百五十円のばらジュースを選んだ。

    結城紬見つつ小春の午後のお茶  閑舟

     せっかく結城に来たんだからとスナフキンが百円の「ゆでまんじゅう」を注文する。結城名物で和菓子屋には必ずこの札が出されていた。蒸さずに茹で上げるものらしい。「あら、おひとつだけですか?」この言葉で姫も注文した。隊長、ヤマチャン、オカチャンも、マダムの強制的な笑顔につられて注文している。美人の笑顔は命令に近いのである。しかしなかなか出て来ない。「店主がゆでまんじゅうになってるんじゃないか?」各店でそれぞれ皮の厚さや餡に特徴があるようだが、ここのものは皮が薄くて餡が多い。
     桑茶は旨いとも不味いとも言いかねる濃厚で独特な味だ。「私のばらジュースが来てない。」「あら、ごめんなさい。すっかり忘れてしまって、ホホホ。」美人は笑って誤魔化すことができる。そしてすぐに持ってきた。「こちらもどうぞ。」桑の実ゼリーを姫に勧める。これは桑茶についていたので、私が既に姫にまわしてあったものだ。三個のうち一個を姫が取り、二個は隊長に回された。ジュースもゼリーも旨かったらしい。
     勘定を済ませると、マダムが店の外まで出て挨拶してくれる。「また来たいな。」隊長の顔はくしゃくしゃになっている。和服美人に弱いのである。「あっ、小さい柿が。」玄関先の植木鉢に小さな柿の実が生っているのを姫が見つけた。
     「もうどこにも寄らないんですよね」と姫はカメラをしまい込んだのに、千意さんは健田須賀神社に入っていく。結城市結城一九五番地。須賀神社と言えば牛頭天王である。結城初代朝光が勧請したとされる。健田は結城国造の竹田臣が祖神の武渟川別命を祀ったもので、延喜式の式内社である。武渟川別命は阿部氏の祖とされているので、竹田氏もまた阿部氏ということになるだろう。本来別々に祀られていたが、明治三年に合祀された。
     大神輿と獅子頭、木彫りの狛犬が有名らしく、オカチャンが探しているがそういうものはどこかにしまっている筈だ。「そうですか、残念ですね。」境内には猿田彦大神の石碑や十二社も合祀されている。十二社の内訳は香取神社、三峰神社、白峰神社、足尾神社、羽黒神社、松尾神社、鷲神社、八幡神社、大神宮、高椅神社、大桑神社、住吉神社である。
     結城七代直朝が関城主攻略のため、北斗七星に願をかけ七社に必勝を祈願した。そして戦勝後の康永二年(一三四三)、七社制を定めて合祀したといわれる。牛頭天王、住吉大明神、大桑大明神、高椅大明神、八幡宮、大神宮、鷲宮大明神がそれで、後に五社を付け加え、毎月一社毎に十二カ月参詣すれば霊験ありとされたのだ。
     オカチャンが枝を押さえながら、葡萄のような実をとってくれる。「美味しいんですよ。」なんだか分からないが、私だけ食わないと臆病者と言われてしまう。恐る恐る口にしてみると、不思議なことに、この葡萄かブルーベリーのような果実は柿の味がするのである。マメガキ(シナノガキ、ブドウガキ)というものかも知れない。
     

    この種の果実は球形で直径二センチ程度、はじめは黄色ですが、十一月頃になり熟すと写真のように暗紫色になります。霜に当てると渋が抜けるため甘くなり、食べられます。このことからブドウガキとも呼ばれます。
    関東以西に分布するマメガキ(別名リュキュウマメガキ)とは、本種が若枝と葉の裏に毛があること、熟した果実の色が暗紫色になることで区別できます。(東京農工大学「農工大の樹 その121マメガキ」より)
    https://www.google.com/?hl=ja&gws_rd=ssl#q=%E3%83%9E%E3%83%A1%E3%82%AC%E3%82%AD&hl=ja&start=10

     「今まで残ってるのは鳥も食わないってことだろう。」「オカチャンの人体実験を待てば良かった。」「明日まで?」上の記事によれば、こんな暗紫色になる前は渋くて食えないのだ。だから鳥が食い残したのだろう。

     豆柿や鳥も食はねどほの甘く  蜻蛉

     駅前北口の結城市観光物産センターの前で、千意さんは解散を宣言する。結城市国府町一丁目一番地一。本日の歩数は一万六千歩と決まった。しかし電車は四時十二分、一時間近くある。「皆さん、適当に物産センターを見学してみてください。」物産センターと言っても要するに土産物屋であるが、結城紬の実演をしているのは有益だ。今朝見たばかりの道具が、説明を受けた通りに使われているのである。
     結城は桐も名産のようで、箪笥と下駄も並べてある。桐箪笥なんか、今でも使う人がいるのだろうか。「なんだ、これ?」すだれ麩というもので、グルテンを簾に延ばし塩で固めたものである。私が普通にイメージする焼き麩とはかなり違う。干瓢があるのは栃木県に近いからだ。山口瞳は『江分利満の華麗な生活』の中で、寿司屋で干瓢巻を頼むとき「春日野部屋、栃のつく奴」なんて言っていた。
     見学は十分で終わり、なんとなく外に出るとスナフキンも一緒に出てきた。「どうする?」「時間まで飲むとこ探そうか。」千意さんは何もないと言うが、念のために町を歩いてみる。本当にそれらしき店は一切見当たらない。「そこのラーメン屋でどうだろう。」「餃子でビールか。」しかし店は閉ざされている。どうしようもないね。姫とカズチャンがどこかに向かう姿が見えた。もう一度物産センター前に戻ると、さっきは気付かなかったが蕪村句碑があって、大きな石に三句並んでいる。

     秋のくれ仏に化ける狸かな
     きつね火や五助新田の麦の雨
     猿どのの夜寒訪ゆく兎かな

     最初の句は、弘経寺の「肌寒し己が毛を噛む木葉経」と対になるだろう。三句ともお伽噺の雰囲気を漂わせている。結城は蕪村の町であった。

     小春日や蕪村蕪村と巡る町  蜻蛉

     物産センターは結城市立図書館の建物にある。平成十六年にできた、バブル時代を思わせるガラス張りの建物である。図書館一階は絵本・児童書、二階の開架には一般書八万冊が置いてある。三階のギャラリーには詩人の新川和江が寄贈した一万冊のコレクション、十二万冊を収納した自動書庫がある。こんなところの図書館に自動書庫とは恐れ入る。
     図書館要覧を見ると、開館した平成十六年度には三十五万七千人あった年間入館者が、毎年右肩下がりに減って行き、二十四年度には十六万八千人と半減している。一日平均では五百八十人程度にしかならない。年間予算は八千五百万円で、内人件費が二千二百五十万円(館長含め職員八人)、図書館システムのリース料が二千万円、資料整備委託費が七百三十万円、資料購入費は二千四百万円である。
     システム費と、資料購入費の三割を超える整備委託費が異常に高い。システム費には自動書庫の分も入っている筈で、分不相応な買い物なのだ。この程度の規模の図書館に経費をかけすぎている。
     駅入り口の方に庄やの看板が見えたので行ってみる。「商い中」の札が掛けられているのに、引き戸には鍵がかかっている。よく見れば四時開店だ。それならこの札は変えておかなければならない。「やる気がないんじゃないかい。」
     駅前にある大きな商業施設はコモディイイダだけしか見えないが、土曜日だと言うのに閉まっている。閉店したのだろうか。結城はどうも商売に熱心でない。ひとも歩いていない。こんなことをしているうち、時間まで十五分になってしまったので駅の構内に入ると、シノッチとイッチャンがいた。「みんなはどうしたの?」「分からないわ。それぞれどこかに行ってしまって。」
     そろそろ時間になったので、構内の売店で吉乃川のカップを買った。つまみは、昼にオカチャンがくれたのがある。「私もさっき買ったお酒を飲もうかしら。紙コップもあるし。」「あれっ、千意さんはどうしたのかな?」ロダンもいない。二人でどこかに飲みに行ったのだろうか。戻って来たオカチャンが、図書館で貰って来た新川和江の「ご来館の皆さまへ」という挨拶文をくれた。新川和江は結城の出身で、名誉図書館長になっている。

     最後に少し疑問が残ったが、結城は良いところだった。結城氏、結城紬、蕪村。不思議なのは江戸時代に十代続いた水野氏に関するものが、聡敏神社以外には全く見られなかったことだ。こういう城下町は珍しいだろう。
     上野行きの各駅停車は、なんとか座れる程度の混み具合だった。「こういうところで飲むのは気が引けるけどな。」「旅の恥だよ。」吉乃川はなかなか旨い。二百ミリリットルだから一合より少しお得な瓶である。「昔は大関が多かったけど、最近見ないな。」姫は私たちの向かいで、他人に挟まれた席では流石に飲めないだろう。なんとなくモジモジしているように見える。
     姫、宗匠、ヤマチャンは久喜で下りて行く。姫が伊勢崎線なのは当たり前だが、宗匠とヤマチャンはこっちの方が近いのだろうか。「安いんだよ。JR区間をできるだけ短くね。」オカチャンは白岡で降りる。私とスナフキンは大宮で降りる。
     「大宮なら任せるよ」と言われても、私もそんなに詳しいわけではない。結局、南銀座通りのかしら屋(若松屋)に入った。一本の瓶ビールを二人で分け、ヌル燗を二合づつ飲んだ。

     翌二十三日、白鵬が十四勝一敗で三十二回目の優勝を飾り、大鵬の記録と並んだ。二年程前からこの日を待っていた。また二十六日には、東秩父村と小川町の細川和紙がユネスコ無形文化財に登録された。いずれもめでたいことである。Yからはハタハタが届いた。

    蜻蛉