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    平成二十七年二月二十八日(土)
    春の狭山丘陵で冬芽を探す
        早稲田大学所沢キャンパスから緑の森博物館

    投稿:   佐藤 眞人 氏     2015.03.13

     旧暦一月十日。雨水の次候「霞始靆(かすみはじめてたなびく)」。昨日に比べて風も穏やかで、昼頃には暖かくなりそうな陽気だ。団地の近所ではサンシュユが開いた。大学構内では一週間前から鮮やかな紅梅が咲き、ミモザアカシア(大学の立札にはギンヨウアカシアと書いてある)の黄色い小さな花も咲き始めた。明日からは三月、もう春はすぐそこに来ている。
     狭山丘陵と言うと、他の地方の人には狭山市にあると思われるかも知れない。狭山丘陵は武蔵野台地上にあって、埼玉県所沢市・入間市から、東京都東村山市・東大和市・武蔵村山市・西多摩郡瑞穂町に跨る、東西十一キロ、南北四キロにも及ぶ広大な地域である。戦後は西武グループによる大規模レジャー施設開発や宅地開発が進んだ。
     しかし高等植物千種以上、鳥類二百種以上が確認され、特に準絶滅危惧種であるオオタカが棲息する地域である。昭和六十二年(一九七七)の早稲田大学所沢キャンパスの開設、六十三年の映画『となりのトトロ』公開を機にナショナルトラスト運動が高まり、埼玉県でも緑の森博物館を設置するなどして、自然と里山の保存運動が継続している。この丘陵全体をトトロの森と呼ぶこともあり、また、特に公益財団法人トトロのふるさと基金が取得したトラスト地(現在二十八ヶ所)を呼ぶこともある。

     集合は小手指駅南口だ。川越市から本川越まで歩き九時三分発の西武新宿線に乗る。所沢で西武池袋線の飯能行きに乗り換え、九時三十二分に小手指駅に着く。トイレを済ませると、改札の手前にイトハンがいた。一人で悩んでいる格好だ。「ここでいいのよね、誰もいないから心配になっちゃうわ。」大丈夫であるが、それにしても久し振りではないか。「だって私はこのところちゃんと出席してるのよ。」逆に私はここ二回休んでいるので、問題は私の方にあったのである。
     「取り敢えず南口に降りようよ。」十時二十分発のバスに乗る予定だから、時間はまだ大分ある。ロータリーの右の方に向かい、陽当たりの好い場所を選んで待機する。交番の脇でちょうど目の前が早稲田大学行きのバス乗り場だ。そこにマスクで顔を隠したオカチャンが現れ、ドクトルもやってきた。「こっちで良いのかい?」「そこが早稲田行のバス停だから。」「向うじゃないのか。」確認すると、ここは学生専用のスクールバスの乗り場である。「あっちに行こうよ。」正しい乗り場はロータリーの反対側だった。
     珍しく隊長の姿がまだ見えない。「出発が二十分だから、ゆっくりしてるんだろう。」九時五十分になっても誰も来ない。道を渡ってコンビニの前の喫煙所でタバコを吸い、ちょっと本屋を覗いて戻ると、ちょうど集団がやってきた。どうやら改札口に集合していたらしい。「隊長は?」「まだ改札で待ってます。」「スナフキンを見かけたような気がしたけど。」「今日は都合が悪いって言ってたけどね。」「人違いか。」似た人物がいるのか、宗匠の老眼が進んだのか。
     ツカサンもずいぶん久し振りだ。「ヒゲはいつから?」私のヒゲを知らないのだから二年以上も会っていないことになるか。「一時、足を悪くしたものだからね。」今では大丈夫そうだ。隣の駅だからカズチャンが来るかも知れないと思っていたが、現れない。孫の顔を見に言っているのだろうか。
     バスは十時十分に到着し、乗り込むとすぐに混み始めて学生らしき数人は座れずに吊革につかまった。私は隊長のために(と言うのは嘘である)あんみつ姫の隣の席を確保して座り込んだ。出発間際になって最後の電車を確認した隊長がやっと乗って来た。「どうぞ、座ってください。」「いいよ、大丈夫だよ。」年寄りの癖に悪い遠慮をする。「後ろがつかえてるから早く座ってよ。」手を引っ張って無理やり席に着かせる。
     「あの、ここにどうぞ。」若い(二十代後半か三十代前半かな、私は女性の年齢が分からない)美女二人が私のために立ち上がってくれた。「俺は若いから大丈夫だよ。」「私たち金仙寺まで歩くんですよ。だから座らなくても平気なんです。」私は老人と思われたのである。「我々も歩くんだよ。それじゃ、一人は一緒に座ろう。」しかし、ひとりだけ私の隣に座るのは難しいらしい。美女とロマンスシート状態を期待した私の魂胆が見破られたか。
     「どこに行くんですか?」隊長から渡された地図を見せる。私もこの瞬間に初めて見たのだが、どうやら今日のテーマは葉痕と冬芽の観察である。私が最も苦手な分野で、何度説明を受けても覚えられない。「素敵ですね。」「どうせ歩くんなら一緒に行こうよ。」「でも、ちゃんとした靴じゃないから。」一人はつい最近二十キロを完歩したと言う。「普段は一万歩も歩けないから、家にマシーンを置いてるんです。」

        うららかや席を譲られ田舎道  蜻蛉

     後ろの席で宗匠が羨ましそうな顔をしているので、宗匠の園芸修行について訊いてみた。一緒に座っているヤマチャンは女子高生と毎日一緒にいるのだから、格別なヤキモチはないだろう。「修了証はもらったんだ。四月からボランティアで忙しくなる。」お礼奉公の意味もあるらしい。
     バスは田舎道を走っていく。「ド田舎だな。」ヤマチャンはこの口の悪さでも生徒に人気があるのだから羨ましい。「この辺が小手指ケ原の古戦場だよ、新田義貞の。」元弘三年(一三三三)五月八日に僅か百五十騎で挙兵した新田義貞は、九日に利根川を越えたところで千寿王(後の足利義詮)と合流し、軍勢は二十万七千まで膨れ上がった。入間川を渡って十一日に小手指原、十二日には久米川の戦いで幕府軍を撃破したのである。

    「武蔵野の俤は今わずかに入間郡に残れり」と自分は文政年間にできた地図で見たことがある。そしてその地図に入間郡「小手指原久米川は古戦場なり太平記元弘三年五月十一日源平小手指原にて戦うこと一日がうちに三十余たび日暮れは平家三里退きて久米川に陣を取る明れば源氏久米川の陣へ押寄せると載せたるはこのあたりなるべし」と書きこんであるのを読んだことがある。自分は武蔵野の跡のわずかに残っている処とは定めてこの古戦場あたりではあるまいかと思って、一度行ってみるつもりでいてまだ行かないが実際は今もやはりそのとおりであろうかと危ぶんでいる。ともかく、画や歌でばかり想像している武蔵野をその俤ばかりでも見たいものとは自分ばかりの願いではあるまい。それほどの武蔵野が今ははたしていかがであるか、自分は詳わしくこの問に答えて自分を満足させたいとの望みを起こしたことはじつに一年前の事であって、今はますますこの望みが大きくなってきた。(国木田独歩『武蔵野』)

     独歩はこの辺を歩くことはなかったと思うが、曠野と雑木林が広がっていたのだろう。開発されずに残った地域では今でも同じ光景が見られる筈だ。バスは狭山湖入口、大日堂、県立芸術総合高校入口を過ぎて早稲田大学キャンパスに入っていく。
     「芸術総合高校って珍しいんじゃないか。」高校教師はこういうことに敏感だ。美術科、音楽科、映像芸術科、舞台芸術科を持つ「日本初の普通科が存在しない単位制の公立高等学校」(ウィキペディア)である。昭和五十九年(一九八四)に開校された。
     そして二十分程で終点の早稲田大学正門前に着いた。「若い女性とお話が出来て良かったですね。」バスを降りた途端に姫が笑う。「正しく生きてると、いいことがある。」「その言い方がおかしい。」私はいつだって正しく生きようとしているのだが、なかなか他人に理解されない憾みがある。
     すぐに目につくのは、見上げる程の高い柱に載った「人とペガサス」というブロンズのモニュメントだ。人物はペガサスに乗っているというより、その上に平行に浮かんでいる。

    ペガサスに乗って怪物キマイラを退治に行く、ギリシャ神話の英雄ベレロフォンの雄姿を描いた、カール・ミレス作の像です。でも、なぜペガサス?そもそも、池原義郎早稲田大学名誉教授(当時、理工学部教授)によって設計された所沢キャンパス全体のモチーフは、大地から「地形とともに上昇していく渦巻型」。この像はまさにその象徴で、「現世を忘れぬ久遠の理想」という建学の精神の表れでもあります。縁石には、大隈の言葉「高く飛ばんと欲すれば深く学ばざるべからず」が刻まれています。(「早稲田ウィークリー」http://www.wasedaweekly.jp/detail.php?item=836)

     本棚にはケレーニーの『ギリシアの神話』があるのに、ベレロフォンなんて全く記憶から飛んでいた。キマイラとは頭が獅子、胴が山羊、尾が蛇で口から火を吐く怪獣であるらしい。そしてベレロフォン(ベレロポーンの表記もある)はキマイラ退治の後に慢心して、神に近づきたいと天高く上り、神の怒りに触れて墜落するのである。
     少し離れた場所には、私たちの他に似たようなグループも集まっている。「紛れ込まないようにしなくっちゃ。」ここで出席者を確認するため、名簿にチェックする。「十六人だね。」「そう、十六人だよ。」宗匠も同じ人数を数えたのだが、しかし実際に数えてみると隊長、O夫妻(結城で初めて会った)、宗匠、ハコサン、ツカサン、オカチャン、ダンディ、ドクトル、ヤマチャン、あんみつ姫、シノッチ、古道マニア夫人、イトハン、蜻蛉の十五人だ。
     何故だろう。こういうことは何度もあって、私と宗匠が数えて間違う時が多いのだ。「見せてください。」姫が私のリストを確認して、「古道マニアは来てませんよ」と指摘した。私は夫人の顔だけ見て、ご主人も当然参加していると思い込んでいたのである。夫人だけが参加するのはとても珍しい。宗匠のリストは別の原因で、やはりいない人に丸がついていた。
     右に(北に)向かって歩き出して、すぐに隊長が立ち止ったのはリョウブの前だ。「笠がついてるのが特徴だよ。」枝先の芽に本当に笠のようなものがついている。「あっ、取れちゃった。」これは芽鱗というものらしい。リョウブ(令法)は細かな白い花が総状になっているもので、何度か見たことはある。
     アキニレ、ガマズミ、ヤマボウシ。それぞれ樹皮や芽に特徴があるのだが、花が咲いていないと私にはまるで分らない。「何を見てもおんなじに見えるよ。」ヤマチャンも私と同じ樹木音痴であった。

     キャンパスの丘の芽立はそれぞれに  蜻蛉

     キャンパス内の縁に沿って行くと、外側には広大なグラウンドが見える。「テニスコートが十面もある。」スポーツのために作った学部だからね。「あのリサーチセンターって何をやってるんですかね?」地元のツカサンはこの辺りをしょっちゅう歩いているようで、グラウンドの向こうにある建物がいつも気になっていると言う。
     調べてみると、フロンティアリサーチセンター(一一〇号館)というもので、「ライフステージに応じた健康増進と多様性保持」を研究する設備である。窓ガラスに反射する太陽光で目を眩ませた鳥が窓に衝突することを防ぎ、また内部照明が外部に漏れて環境に影響を与えないよう、外壁のデザインに配慮したという。「どれだけの効果があるのか分かりませんが」とツカサンは疑念を感じている。この地区はオオタカの営巣地域であり、ホタルの生息地でもあり、保護すべき自然が多く残っているのだ。
     やがて南門までやって来た。この辺の建物は見覚えがあって懐かしい。昭和六十二年(一九八七)に川越営業所に異動になったのが所沢キャンパスの開学と同じ時で、その一年間担当として毎週通ったところなのだ。「そうか、それで地理勘があるんだね。蜻蛉は運転するの?」会社に入って免許を取らされた。しかしこの話を始めると、それに纏わる昔の恥が思い出されて良くない。斜面に建っているから、中に入ると今何階にいるのか迷ってしまう建物だ。

     南門を出て一般道路を右に曲がり坂道を下る。民家の駐車場に黄色い花が咲いている。「ロウバイかな。」時期的にロウバイはもう終わっているのではないか。近づいてみるとマンサクだった。遠くから見ると色や光沢が似ているだろうか。「敷地の中ですけど入っていいんでしょうか」と言いながら姫もやって来る。「マンサクを見ると、春が来たって感じますよね。」今年初めて見るマンサクだが、いつ見ても、この捩れた紐のような形が不思議だ。
     道を外れて民家の裏の丘に入り込めば、赤い宝形造りの屋根を持つ小さな祠が建っている。狭山観音霊場第三十一番「聴松軒」(真言宗豊山派)馬頭観音堂である。所沢市堀之内一四二番地。狭山観音霊場なんて、どうせ西武がでっち上げたものではないかと勘繰っていたのは私の性格が悪いのである。天明八年(一七八八)の開創だというから、そんなにいい加減なものではなかった。
     閉ざされた古びた戸の小さな隙間からオカチャンが覗き込む。「暗くて何も見えません。」こういう時はカメラを差し込んでみると分かる。肉眼では見えないが、二つの赤い提灯の間に厨子が置いてある。その厨子の扉は閉まっていたが、恐らく馬頭観音が安置されているだろう。

     金縷梅や観音堂を覗くひと  蜻蛉

     念のために言うのだが、金縷梅と書いてマンサクと読む。祠の裏には小さな墓地があり、地蔵や常夜灯が並んでいる。「これはなんでしょうか。」一面六臂で剣を握ったのは何なのか分らない。「青面金剛ではないですね。」姫は不思議そうに首をひねる。頭部の形がはっきりしないが、馬頭観音だろうか。
     民家の庭にはミツマタが咲いている。これも今年初めての花だ。「和紙の原料だろう?」ミツマタは主に紙幣や証券証書、賞状用紙などの原料となる。原料としてもっとも多く使用されるコウゾは破れにくく強い。ガンピは最も弱く、ミツマタはその中間になるようだ。
     もう一度道路に戻り、北に向かう。左には東西に細長い池と枯れたススキかカヤの生い茂る湿地帯が広がっている。私はススキかカヤだと思ったが、別のものかも知れない。池の北側のコンクリート造りの護岸には、ところどころ穴が開いているようだ。道路を早稲田大学の赤いミニバスが走っていく。
     そして金仙寺に着く。墓地が丘の上に見え、その手前の土手の堀のようになっている部分の内側壁面のブロック全てに、なにやら不思議な模様が描かれている。「模様なの?コケじゃないの。」チューブからひねり出した緑色の絵具を、適当に巻きながら盛り上げたような形だ。まさか苔ではないだろう。何を意味するのかは謎だ。「この寺は枝垂桜が有名です」とツカさんが教えてくれる。
     階段を上って境内に入る。真言宗豊山派で別所山西光院と号す。所沢市堀之内三四三番地。階段の両側には増上寺の石灯籠が置かれていて、ツカサンが注意を促してくれる。文昭院殿奠前。「文昭院って何代将軍ですか?」こういうことが私にはなかなか覚えられないが、宗匠が調べてすぐに「六代です」と答える。それなら徳川家宣なので、正徳二年の年号があるのだからすぐに気が付かなければならなかった。綱吉の跡を継いで新井白石を登用したが、在位僅か三年で死んだ。
     「増上寺の石灯籠は西武球場の傍に山積みされてたね。」これについては私も大分前にも書いたことがあるが、ツカさんも良く知っているようだ。
     石燈籠の立つ斜面には黄色い水仙の花が咲いている。「花が咲いてないと、ニラと区別がつかないんだ。」その違いについて姫が何やら宗匠に話しているが、私には理解できなかった。

    別所山西光院金仙寺
    今から約千百年前に覚堂という僧が、真言宗を開かれた弘法大師空海(七七四~八三五)の作られた身の丈約五十九センチの阿弥陀如来を本尊として、現在地の西方「堂入り」に開山したと伝えられています。
    その後、鎌倉北条氏の信仰を得て、建長六年(一二五四)に八町歩余り(約二、四〇〇坪、七九、二〇〇平米)の土地が寄贈されました。
    現在地へは天正十八年(一五九〇)堯戒律師によって再建されました。
    また、昭和三十八年(一九六三)現在の本堂が落慶、続いて昭和四十五年(一九七〇)に庫裡が改築されました。
    本堂内には本尊阿弥陀如来・宗祖弘法大師・中興の祖興教大師・不動明王・観音菩薩像等を安置し、檀徒の祖先がまつられています。また、境内には新四国八十八ヶ所霊場第六十六番の弘法大師堂があります。
    四季折々の自然に恵まれ、特に所沢市指定の「しだれ桜」は樹齢百二十年余の名木といわれています。(所沢市観光協会掲示より)

     ツカサンが有名だと言うのも尤もだ。枝垂桜はかなり立派なもので四方に枝を広げている。樹齢百二十年余と書かれているが、幹の太さを見ればもっと経っているように思える。ここにもマンサクが咲いている。
     寺を出て右に曲がれば小さな墓地がある。「ここですよ。」門の潜り戸から墓地に入ると、すぐ目につく簡素な墓石には、三ケ島一郎命 昭和四十六年五月二十六日帰幽享年七十七歳、室三ケ島糸刀自命 平成八年七月二十五日 帰幽享年八十七歳と並んで彫られている。「三ケ島一郎が左卜全の本名です。」
     「三ケ島って言えばこの地区の地名だよね。」早稲田大学の住所だから知っている。かつての三ケ島村は、現在の三ヶ島、堀之内、糀谷、林、和ヶ原 、狭山ヶ丘、東狭山ヶ丘、西狭山ヶ丘、若狭の範囲である。村の名を姓にしているのだから、このあたりの名主であろうか。「三ケ島と言ったら三ケ島葭子に関係あるのかな。」O氏の言葉に「歌人ですね」とあんみつ姫も頷く。どうしてそんなことを知っているのだろう。私は三ケ島葭子なんて全く知らなかった。
     昭和四十六年当時なら卜全の七十七歳は長寿の方であろう。しかし隊長、ダンディと比べると同じ年齢とは到底思えない。卜全はもっと昔から老人の顔だった。「私らは数えで七十八ですよ。」卜全の享年も満年齢で記しているから、同じである。
     墓誌には糸夫人による卜全の略歴が記されているのだが、それが聊か尋常ではない。「生涯の業病と闘い」、「深刻な哲学的苦悩を負い真理を探求」、「思考・想念・言動も常識を超え」、「我が芸はあらゆる苦難をつきぬけ昇華したもの、その極は無と云った」である。確かに奇人であったとは聞いていたが、業病とは何であろうか。
     「わたしは、なんでこんなお爺ちゃんが有名なのか、ちっとも分りませんでした。子供だったから。」姫が言うのは例の『老人と子供のポルカ』である。「ズビズバだろ。」ヤマチャンも、卜全についてはその程度しか知らないようだ。『七人の侍』に出ていたことは覚えている。それ以外にも、飄々とした枯れ木のような老人の姿は映画やドラマで何度も見かけたものだったが。

    ズビズバ パパパヤ
    やめてケレ やめてケレ
    やめてケレ ゲバゲバ
    やめてケレ やめてケレ
    ゲバゲバ パパヤ
    ラララ ランラン ララララ ゲバゲバ
    ランランラン ラララ ゲバゲバ
    どうして どうして ゲバゲバパパヤ
    おお かみさま かみさま
    助けて パパヤ(早川博二作詞・作曲)

     この「ゲバゲバ」の部分を、二連では「ジコジコ」、三連では「ストスト」に変えるだけだから作詞もお手軽である。この歌について、ウィキペディア「老人と子供のポルカ」はこんな風に評している。
     

    本楽曲はリズムこそ軽快且つコミカルであるものの、中身は「『ゲバ(学生運動)』『ジコ(交通事故)』『スト(ストライキ)』の被害者は老人と子供である」という痛切な叫びが込められたメッセージソングである。

     発売された昭和四十九年(一九七〇)は前年から皆川おさむの『黒猫のタンゴ』が爆発的に流行っていた時である。子供の歌が流行るなら、それに老人だって良いだろうという発想の、所詮キワモノ、便乗企画ではないか。大層に評価するような歌ではない。
     交通事故はまだしも、当時の学生運動やストライキで老人と子供が被害者になった例を知らない。だから痛切な叫びがあったことも私の記憶にない。ウィキペディアには時々こういう主観的な記事が入るから、丸ごと信用するわけにはいかないのである。それにしても、こんな歌が流行ったのは実に不思議だ。時代が狂っていたのである。
     卜全についても少し調べてみた。小学校長の長男として生まれながら、小学校を卒業すると丁稚奉公に出されたらしい。その境遇で丁稚方向に出されたこと自体が異例で、家庭内に問題があったか、本人が不良だったか。アルバイトをしながら立教中学に入ったがすぐに退学する。大正三年(一九一四)に帝劇歌劇部に入団し、オペラ歌手やダンサーを目指していたものの、帝劇歌劇部は翌年廃止になり、小劇団を転々とする。昭和十年に最盛期の新宿ムーランルージュに入り、老け役のコメディアンとして活躍したことで、松竹の移動劇団に引き抜かれた。計算すると昭和十年ならまだ四十一歳の筈で、既に老け顔が有名だったのだ。
     しかしその頃、左足に激痛を伴う突発性脱疽を発症した。脱疽といえば三代目澤村田之助(ヘボンによって切断手術を受けた)やエノケンを思い出す。当時の医療水準では足の切断しかなかったが、卜全は切断手術をせず、生涯激痛と闘うことを決意した。このために怪しげな教祖に入れあげたこともあったようだ。これが「業病」の真相である。撮影以外の時は松葉杖を離さなかったが、ある時、バスに間に合わなくなりそうになり、松葉杖を抱えて走り出したという証言がある。
     糸夫人の回想には「夫はいつも,人間にとって永遠とはなにか?なんて難しい話ばかりしていた。本当は孤独な思想家だった。だから同性の友達は一人もいなかった。」と書かれている。その妻とは五十二歳の時に結婚し、万一の時に守るため、常に刃物を持ち歩いていたと言う。
     戦後は黒澤明監督に重宝され、独特の老人役で『白痴』『生きる』『七人の侍』『どん底』など数多くの映画に出演した。私がヤマチャンに「戦前の無声映画時代からだよ」と言ってしまったのは勘違いであり、謹んで訂正申し上げる。
     三ケ島家は中氷川神社(旧称長宮明神)の神官を世襲する家で、曾祖父に日歌輪翁(ひかわおう)という人物がいる。日歌輪は氷川の意味だろう。

     日歌輪翁は、江戸時代の神官で、寛政四年(一七九二)に三ケ島村の中氷川神社祠官の家に生まれました。碑文によると、少年時代は気性が激しく学問嫌いでしたが、十六歳の頃に発奮して勉学に励みます。神道に関する自らの真理を極めようと修練につとめ、二十五歳の時に天神地祇の妙感を得て江戸で布教を始めると、入門者は百余人に達したといいます。「長田安田の神宝」という低利の貸し付けや、「芽纏ちまきの神宝」と称した弱者救済など、貧しい人々や弱者に対する社会事業を通して、自らの教えを実践しました。著作には『安国宝鏡』などがあります。
     http://www.city.tokorozawa.saitama.jp/iitokoro/enjoy/bunkakyoyo/bunkazai/shishiteibunkazai/rekisisiryo/bunzai_20100726164925399.html

     そして葭子は卜全の異母姉であった。祖父の時に分家して、父の三ケ島寛太郎は先に記したように小学校の校長をしていた。地元の名士である。母はあきる野市伊奈の岩走神社神官の娘だったが、葭子五歳の時に病没した。卜全の母は、父が再婚した相手である。O氏やあんみつ姫が知っているのだから、葭子はかなり有名な歌人なのだろう。

     波乱に富んだ生活の中で、「アララギ」「日光」また平塚らいてうの「青鞜」誌上等で活躍。一時は、晶子の後継者と目されたこともあったが、大正五年、明星調の作風に疑問を持ち、島木赤彦の門下となる。大正十年親友の原阿佐緒と石原純との恋愛問題に関する論文を、「婦人公論」に掲載したことにより、赤彦より破門される。大正十五年古泉千樫の「青垣会」結成に参加したが、昭和二年三月二十六日、麻布谷町(現:六本木)の自宅で逝去。享年四十歳であった。(あきる野市アーカイブより)
     http://archives.library.akiruno.tokyo.jp/about/mikajima.html

     小学校卒で丁稚に出された弟とは違って、葭子は埼玉県女子師範に入学した。ただ肺を患って退学し、快癒後は西多摩郡小宮村(現あきる野市)の小学校の代用教員になった。見つけたいくつかの歌を掲げておこう。

    あめつちのあらゆるものにことよせて歌ひつくさばゆるされむかも
    涙てふ明るきものの動くとき非も過ちも美しく浮く
    障子しめてわがひとりなり厨には二階の妻の夕餉炊きつつ
    一日にて別るる吾子のほころびを着たるままにてつくろひやれり
    はげしくも怒れる心凩の吹く夜をひとりわが寒からず

     三首目の「二階の妻」は夫の愛人である。二年間の大阪赴任から戻った夫は愛人を連れており、妻妾同居の生活を強いられた。生まれた子は結核の感染を恐れて夫倉片寛一の実家に預けられた。病と貧困の生涯は、卜全とは違う意味でやはり孤独であった。
     寛一は葭子の死後愛人と再婚したが、葭子の日記、手紙、メモを大切に保存し、そのおかげで『三ケ島葭子全歌集』や『三ケ島葭子日記』が刊行された。妻妾同居を強いる男と、亡き先妻の遺品を大切に保存する男と、これが同じ人間の中に共存しているのが不思議である。
     墓地を出るとき説明板に気が付いた。冠木門は世田谷にあった卜全自宅の門を移築したもので、墓地の名は三ケ島墓苑である。この墓苑の名が、三ケ島村の墓苑を意味するのか、三ケ島家の墓苑を意味するのかはよく分からない。神道専門の墓苑だというが、墓石は普通の仏教系のものと変わらない。三ケ島墓苑では新規分譲も受け付けている。

     「ここに桃の蕾があるよ。」小さな蕾だが確かにピンクの色をしている。小さな祠には、おそらく砂岩に彫られた合掌型六臂の青面金剛が鎮座する。三猿も邪鬼もなんとか区別できる程度で、武州の下の村名が読めないし、年も判読できない。
     大きな黒っぽい樹皮の木はウワミズザクラだ。(こういう風に断定していても、勿論私が判断したのではなく、隊長が教えてくれるのだ。)ウワミズザクラは上溝桜の訛りのようだ。芽が横に付く。「横ってどこですか?」枝に対して直角に芽が出ていることを言っているのではないだろうか。「あっ、これか。」勿論まだ咲いてはいないが、知らなければ穂のようになった花を見てもサクラだとは到底思えない木である。「実は杏仁子って言うんだ。食べられるよ。」私は食ったことがない。
     イヌザクラの樹皮は白い。こんな風に書いていても、すぐに忘れてしまうだろう。私は理科が苦手なのだ。
     丘の上を西に向かい、畑の中の斜面を下る。「ジャガイモを植えてるわね。」「うちもソロソロ始めなくちゃ。」オカチャンはこれから畑仕事が忙しくなると言う。田んぼもやっているようで、豪農は千意さんだけではなかった。蓮田、白岡は豪農の産地である。
     「姫は大丈夫ですか?」普通だったらそれほどの道でもないが、膝の具合がかなり悪化しているらしい姫にはきつそうだ。左手の細長い土地は早稲田の敷地だ。「そこのススキは生態系で植えたものです」とツカサンが教えてくれる。
     山道を抜けると枯れたススキやカヤが広がり、枯木には網がかったようにツタが絡まって、荒涼とした光景になった。小さな沢を過ぎて右に行けば堂入の池である。農業用の溜池だろう。「ここでマムシを見たことがあります。」ツカサンの証言である。
     もう一度戻って「ヒラノオカで昼にします」と隊長が宣言する。平野丘か。地図を確認すれば比良の丘であった。  「だけどその前に。」隊長は隣の芝生の丘に入り込むが、どうやら目的の樹木がなかなか見つからない。後から続く人が五十センチ程の段差を上ろうとするのを押しとどめ、少し戻る。私有地だから入ってはいけないという看板が建っていた。隊長が探していたのは、丘の切れた所に立つシンジュ(ニワウルシ)だった。「この葉痕を見てください。」隊長の説明では大きな楕円形の筈なのだが、私には半月形にしか見えない。シンジュの翼果は、「クルクル回るんですよ」とO氏に言われて思い出した。
     「シンジュサンが食べるんですよ。」それは誰だろう。「シンジュサンっていう蛾の幼虫。」ヤママユガ科の大きな蛾で、シンジュの葉を食うのだという。シンジュサンを漢字で書くと樗蚕になるらしい。「樗」はオウチ(栴檀の古名)とも読むが、ニワウルシをも言う。だからシンジュサンを樗蚕と書く。また役に立たない木材の意味でゴンズイに充てることもある。実に判読の難しい字である。

     「それじゃ昼にしましょう。」十二時を過ぎて少し腹が減ってきた所だった。ここは所沢市内で最も標高が高い場所らしい。高台の端にはかなり背の高い紅梅が満開に咲いている。「そこに広げましょう。」オカチャンが場所を選定する。「シートは敷かなくてもいいんじゃないか。」ドクトルはそう言うが、この枯草がジーンズにくっつくと面倒くさい。「それじゃ出そうか。」ドクトルだってちゃんとリュックに入っているのである。
     「蜻蛉には最初にこれを」とオカチャンは裂き烏賊の袋を取り出し、みんなのためにはいつものように紙コップに数種類の菓子を詰め込んで配布する。「遠足だから。」ホントに遠足気分になってくる。ダンディはバナナの皮を剥いている。
     「子供の頃はバナナなんか滅多に食えなかった。」バナナの値段の推移がわかるサイトがあったので確認してみると、バナナ一キロ(一房だろうか)の値段が、昭和三十九年(一九六四)には二百二十八円、平成十八年に二百十八円とほとんど変わっていない。(「戦後昭和史バナナの値段の推移」http://shouwashi.com/transition-banana.htmlより)。この間に消費者物価指は数四・四倍以上の変化があるのだから、現在の価格に直せば一キロおよそ千円にもなる。更に三十九年の大卒初任給の平均二万一千円と比べれば、十倍にもなる。一房二千円のバナナなんて、とても子供の遠足に持っていけるものではない。
     「遠足の時のお菓子なんて、あんまり高いものはなかったわねエ。」「百円以内なんて規則があったよ。」私の子供の頃は何があったろう。一粒三百メートルのグリコや、お口の恋人ロッテ・グリーンガムは十円だったと思う。チューブ式の歯磨きのようなチョコレートやマーブルチョコレートがあった。マーブルチョコレートは上原ゆかりである。だんだん思い出してくる。ワタナベのジュースの素なんてのもあったね。調べてみると一袋五円である。エノケンが歌っていた。

    あ~ら おや まあ
    ほほいのほいと もう一杯
    渡辺のジュースの素です もう一杯
    ニクイくらいにうまいんだ
    不思議なくらいに安いんだ
    渡辺ジュースの素ですよ (井崎博之作詞・土橋啓二作曲)

     あれをそのまま口にすると口が真っ赤になる。当時のことだから、チクロや合成着色料に塗れていただろう。チクロを代表とする人工甘味料が食品添加物として禁じられたのは昭和四十四年(一九六九)のことで、渡辺製菓に致命的な打撃を与えた。チクロは発癌性を指摘されて使用が禁止されたのだが、それを否定する研究もあって、カナダや中国、EU圏の国では今も使用されているという。

     春の野や遠足の日の想ひ出を  蜻蛉

     「遠足とは違うけど、わたしは脱脂粉乳が飲めなくてね。」「俺は給食係で下級生の教室に、あのバケツを下げて行ったよ。」「容器がいけない。バケツとアルミのお椀が。」「臭かったのは、赤道を通ってきて変質したんだよ。」私はまた生噛りの知識を披露するが、念のために確認するとこういうことになるらしい。

    特に臭いが酷かったといわれるが、これは、当時学校給食に供されたものは、バターを作った残りの廃棄物で家畜の飼料用として粗雑に扱われたものだからで、また無蓋貨物船でパナマ運河を経由した為に、高温と多湿で傷んだからという説もある。(ウィキペディア「脱脂粉乳」より)

     この記事によれば、早い地域では一九五〇年代半ばには普通の牛乳に切り替わったというのだが、秋田ではいつ頃まで続いただろうか。私は小学校四年の冬に熊谷に転校したが、小学校の間は脱脂粉乳だったような気がする。途中で瓶入りに変わったが、あれも脱脂粉乳混合ではなかったろうか。いずれにしろ戦後の子供たちは、ララ物資やユニセフによる脱脂粉乳で生きてきたのである。
     風もなくポカポカと温かくなってきた。一時ちょっと前に出発する。あんみつ姫は残念ながらここで帰ることになった。地図を見ると、この先の県道一七九号のバス停を目指すのが近そうだが、「一時間に一本しかないよ」と隊長もツカサンも口をそろえるので、早稲田まで戻ることにした。気を付けて帰ってほしい。
     「ノスリです。」その声で空を見ると、高く猛禽類が飛んでいるのが分かった。「ノスリってタカですか、ワシですか?」ヤマチャンが私の代わりに訊いてくれる。「タカですよ。」私は実はタカとワシの区別が分かっていない。
     ウィキペディアを見ると、いずれもタカ科タカ目であって、「比較的大きいものをワシ、小さめのものをタカと呼ぶが、明確な区別はなく、慣習に従って呼び分けているに過ぎない。」(「鷲」より)、「また大きさからも明確に分けられているわけでもない。例えばクマタカはタカ科の中でも大型の種であり大きさからはワシ類といえるし、カンムリワシは大きさはノスリ程度であるからタカ類といってもおかしくない。」(「鷹」より)と不思議なことが書かれてある。
     それでは同じタカ科タカ目のトビは鷹であろうか、鷲であろうか。しかし、トビは狩猟をせず、死骸や残飯を食うために、一段低く見られているという記事もあって、要するに訳が分からないのである。これでは私に区別がつくはずがない。

     野には空色のオオイヌノフグリが広がり、その間に転々とホトケノザの濃いピンクも目につく。私はオオイヌノフグリが好きなのだが、この名前はなんとかしてやりたい。調べてみると別名に瑠璃唐草・天人唐草・星の瞳などがあるようだが、一向に普及しないのではないか。私は全く知らなかった。可哀想だから虚子の句をあげておこうか。

     いぬふぐり星のまたたく如くなり  虚子

     「キリですね。」隊長の言葉で大きな木を見上げる。大学に行く途中の墓地の脇に立っているから桐の花は知っている。「この木の周りでは他の木が育たないんだ。」おお、そうなのか。何か有毒の成分があるのだろうか。しかしこれは調べても分からなかった。「桐って、何の役にたつんだい?」桐の箪笥は高級品である。「娘が生まれると桐を植えるっていうじゃないの。」  落ち葉の敷き詰められた道は足元が柔らかい。「気持ちがいいですね。」「ホント、こういう道は嬉しいわネエ。」ロダンがいれば「心が洗われる」と感動したことだろう。「膝に優しいんだ。」
     小さな祠は山之神である。所沢市堀之内四六二番地。堂裏にはヤマザクラが立っている樹高十五メートル、幹回り四・一メートルで、樹齢は何百年かになるらしい。所沢市の巨樹巨木認定の看板が立っている。
     「これはプラタナスだよ。」かなり太い木で、頭を超える高さのあたりで二本に分かれている。「鈴懸の径ですね」とオカチャンが喜ぶ。四十年以上前に、恩師が私たち不肖の弟子の前で歌ってくれた唯一の歌が『鈴懸の径』だった。私は通っていた大学にそんな名前の小道があるなんて、学生当時は全く気付かなかった。落ちている実はピンポン玉大で、小さな種が密集して球形をなしているようだ。毟ってみると、二センチ弱の細い毛だ。これが飛んでいくのだろう。
     ところでプラタナスと鈴懸は同じものだろうか。ウィキペディアによれば、プラタナスはスズカケノキ科スズカケノキ属の総称である。一方、日本で見かけるプラタナスはモミジバスズカケノキであることが多いとも言う。私のような素人にとっては、どちらも同じものと考えて良いだろう。
     拝殿に回ると、猿田彦大神の額が掲げられていた。「猿田彦は神田明神の神様じゃなかったかな。」Oさんが言うが、それは違うんじゃないか。神田明神は平将門だと決まっているが、念のために調べてみると、元はオオナムチ(オオクニヌシ)と少彦名を祀ったものである。
     「猿田彦はニニギの降臨の時に道案内したんですよ。」「そうか、ニニギだね。」だから道祖神にもなり、猿と申が通じているから庚申信仰とも習合した。何度か書いているが、猿田彦が登場したとき、その正体を問い質すために遣わされたのがアメノウズメで、ウズメはこの時もストリップ紛いの行動をとるのである。
     この祠は文政十一年(一八一八)、比留間家十三代当主の豊蔵が最初に大山祇(オオヤマツミ)を祀ったものである。十四代音吉によって猿田彦が勧請された。今でも比留間家の当主が祠を守っているのだ。この一帯の大地主であろう。
     案内板には大山祇神のフリガナが「おおやまずみ」となっているが、大山積、大山津見とも書かれるように、「オオヤマツミ」が正しい。ツは「の」、ミは神だから、大いなる山の神を意味する。富士浅間神社のコノハナヤクヤにとっては父親に当たる。このことから、私たちが大山街道を歩いて登った相州雨降山は「富士山の父」だとも称している。

     林を抜けると農家が見えるようになってきた。「あっ、ネコヤナギだわ。」ジョウビタキと言う鳥も教えてもらう。「オスですね。」腹がオレンジ色で綺麗だからオスらしい。
     「面白い。」「なんですかね?」ブロック塀には、ヤクルトの容器に顔を載せ、細長い手足をつけた人形が二十個程も並べてあるのだ。足をブロック塀に引っ掛けて逆さになった人形もいる。「よく考えたわね。」他にもおかしな工作物があり、ペットボトルで作った風車が回っている。ちょうど塀の中に婦人がいて、イトハンが話しかけた。「主人が作ってるんですよ。」
     隣の敷地には沈丁花が開き始めていて、「もう咲くんですね」とO夫人が驚いている。まだほとんど赤い蕾の状態だが、これも春を告げる花であろう。歩き始めた所に、塀の中からイトハンが呼び止められた。「なにかしら。」戻ってきたイトハンは風車を一つ持っていた。いくつもあるから一つ持って行けとくれたものらしい。「孫にお土産ができたわ。」
     すぐそばの八幡神社の石段の前でみんなに追いつくと、中に一緒に地元の婦人が立っている。「この神社は木を伐りすぎたんだわ。あんなに明るくしちゃって。」なにか神社に不満があるのだろうか。所沢市椛谷七八番地。
     石段脇には河津桜があったがまだ咲いていない。「こっちは寒いんじゃないの」とヤマチャンが言う。今朝のニュースで、伊豆の河津桜が満開だと言っていたね。実は私は河津桜の色が余り好きではない。色が濃すぎて品がないではないか。
     階段を上ると、本殿の脇に高さ一メートルばかりの木彫りの少女像が立っていた。作者名も何もないが、簡素で趣のある彫刻だ。杖を持っているからには順礼だろうか。首にはマフラーを巻き、手には雛あられの袋が掛けられている。「ツバキも咲いてきたね。」見上げるほどの大きな木に真っ赤な花が咲いている。

     当社は応神天皇を祀り、その創始は明らかではないが、江戸幕府御鷹司新藤但馬守という者が崇敬したと伝えられる。『風土記稿』に「若宮八幡宮 村の産神なり、村民持」とあり、往時若宮八幡宮と号したことが知られる。更に神社周辺にある宮前・宮後などの字名は、当社が古くから現在地に鎮座していたことを示している。
     明治五年に村社となり、同四一年には同大字富士塚の山神社(浅間様)、大字三ヶ島字新水の愛宕神社、同境内社金刀比羅神社を合祀したが、このうち山神社は旧地の小高い塚上に今も小祠がある。(『埼玉の神社』より)

     神社の下に降りると、糀谷湿地帯の広場には怪しげなトトロの像が立っている。「杉で作ったのね。」最初は緑だったかもしれないが、今では茶色になっている。耳がないので、トトロのイメージとはちょっとずれているか。「砂かけ婆みたいじゃないか。」そうかな。「これって何て読むんだろう。コウジかな。」椛はコウジともカバとも読めるが、ここはコウジヤと読む。『新編武蔵風土記稿』には麹谷村と書かれているようだ。
     田んぼの奥から木道を歩く。梅林と茶畑を過ぎて林に入れば、既に緑の森博物館の敷地内に入ったようだ。緑の森博物館は狭山丘陵の所沢市、入間市にまたがる地域そのものを野外展示とした博物館である。

     さいたま緑の森博物館は、生産農地や雑木林のある、生きた野外博物館(フィールドミュージアム)である。博物館の大部分を占める樹林地は、代償植生としてのコナラ林であり、全域にわたって分布している。コナラ林は狭山丘陵の代表的な木本群落であり、丘陵の尾根筋から斜面、谷沿いに広がり、入間市域および所沢市域まで見られる。また代表的な谷戸には休耕田に起因する湿地が広がっている。入間市域には大谷戸湿地、西久保湿地、小ケ谷戸湿地、所沢市域には八幡湿地がある。大谷戸湿地と西久保湿地では谷戸地形の谷戸頭から谷戸尻までの距離が長く、特に湿性植物群落が分布している。湿地の植生ではミゾソバ群落、ヨシ群落、ミヤマシラスゲ群落が分布している。湿地のうち、水田して活用しているのは西久保湿地と八幡湿地の谷戸尻部分である。(ウィキペディア「さいたま緑の森博物館」より)

     少しのぼって行くと、宮寺大日山の石造如来像というものがある。入間市宮寺九〇二番地。一対の笠付角柱式の光明真言供養塔があり、その間に置かれた二つの像が大日如来だと言うのだが、大日如来のようには見えない。頭が道教の帽子を被っているようだし、表情も笑っているように見えるのだ。案内板によれば、右側は慶安三年(一六五〇)の造立で、台座を除いて後代に造り直されたもの、左が明治三十一年(一八九八)に田中源次郎によって造立されたものである。
     林の中の道は心地よい。やがて博物館の施設に近づくと、崖側の緑地にザゼンソウの葉がいくつもある。花は終わったのではないだろうか。施設の女性によれば自生のものだ。「気づかない人が多いんですよ。」今の季節は樹木の葉が落ちていて日当たりが良いが、青葉の頃になるとジメジメしてくると言う。
     山小屋風の施設には、さっき八幡神社で見たと同じ作者によると思われる木彫りの像や、木彫りの小鳥(バード・カービング)が飾られている。「実物大かな?」「ちょっと小さいんじゃないか。」
     博物館だよりをもらって出発だ。テーマは「冬芽を見つけよう」であり、一番から七番まで、隊長は順番に歩いて行く。ニワトコ、クサギ、クヌギ、ゴンズイ、アカメガシワ、オトコヨウゾメ、リョウブ、エゴノキ。博物館だよりにはそれぞれの芽の形が描かれているので、それと比較しながら観察するわけだ。
     「なるほど、二つに分かれてるね」、「ウサギじゃないよって書いてあるけど、ウサギの耳にも見えるよね。」これはクサギである。「ツルツルってどこが?」「これじゃないか?」毛がなくてつるつるというのは、私に対するアテコスリであろうか。これはオトコヨウゾメであるが、花はどんな形だったかまるで覚えていない。所詮私は樹木に関して縁なき衆生である。
     冬芽の観察も無事終了して、西久保湿地を目指す。「コウヤボウキだ。」萎んで短い箒のようになったものが一輪残っていると思ったら、「そこにあるよ」と言われて気が付いた。白い丸い花が咲いている。

     土手の枯葉の中に、ツカさんがタチツボスミレを見つけた。「そこにありますね。」里山ワンダリングの最も初期の頃、隊長が数多い菫の各種を教えてくれたが、私が今でも覚えていて唯一自信をもって言えるのがタチツボスミレだ。
     西久保観世音。真言宗豊山派。入間市宮寺一五二六番地。ここにも文昭院殿の石灯籠が置かれていた。樹齢千年と言われるオオケヤキ、乳イチョウが有名だ。「オスなのに乳が垂れるのかしら」とO夫人がおかしそうに笑う。
     この寺では、一月十七日と八月十七日の二回、鉦と太鼓を叩きながら念仏を唱える「鉦はり(かねはり)」という行事が行われている。鉦は双盤、ハリは太鼓である。だから双盤念仏とも呼ばれ、江戸時代中期に始まって明治大正期には全国的に流行したものらしい。源流は円仁が伝えた引声念仏で、音楽に合わせて念仏を唱え続ける不断念仏の一種であろう。太平洋戦争中の金属供出で鉦がなくなり、ほとんどの地域で消滅したとされている。
     隣が出雲祝神社だ。入間市宮寺一番地。日本武尊の東征のとき、天穂日命、天夷鳥命を祭祀創建した出雲伊波比神社の論社だと伝えられ、宮寺郷の地名が起ったと言われる。延喜式神名帳にあって、現存するいくつかの神社が候補になって確定していないものを論社と呼ぶ。毛呂山町に出雲伊波比神社がある。
     「重闢茶場の碑(かさねてひらくちゃじょうのひ)」を見て、だいぶ前にも来ていたのを思い出した。天保三年(一八三二)に建てられた碑で、狭山茶の由来が記されている。題額は鳥取若桜藩主松平定常(冠山)、碑文は後の大学頭林韑(復斎)である。

     江戸時代後期(一八〇〇年代初め)、現在の入間市近在の吉川温恭、村野盛政、指田半右衛門)の三人は、試行錯誤を重ねた末、この地域での茶の生産を復興しました。彼らはそれぞれに当時最新の製茶法であった宇治の蒸し製煎茶の製法を習得し、文政二年(一八一九)には、この茶を商品として大消費地江戸へと出荷するようになったのです。なかには、当時の最高茶である宇治茶と同じ評価を受けるものもありました。(入間市博物館「狭山茶の歴史」より)
     http://www.alit.city.iruma.saitama.jp/07tea-museum/13history.html

     室町時代に川越にもたらされた茶の栽培は、主に有力寺院によって行われていたが、戦国時代を経て寺院の衰退とともにほとんど荒廃していたのである。「川越の中院に碑があるね。」私たちの会でも何度か見ている。
     それを再興した記念として碑が作られたのである。狭山茶の主産地は入間市になる。今日もあちこちで茶畑を見てきた。「色は静岡香りは宇治と味は狭山でとどめさす」とは、狭山茶のPRソングである。

     今日のコースはここで終了して宮寺農協前バス停に向かう。隊長の案内資料の末尾に記されたハタヤの稲荷は省略して急いだのだが、バス停に着くと十分前に行ってしまった後だ。なにしろ一時間に一本しかないバスなのだ。「この辺に住んでる人は不便だね。」近所に商店らしきものも見えないし、車を持たない人はホントに大変だと思う。「時間調整のためにお寺に行きます。」
     地図を見ると清泰寺が近い。しかし、隊長はそこには寄らず更に東に向う。「どこに行くのかな。」「これじゃないかな。」荻原バス停の前に西勝院というのがある。植え込みに咲いている黄色の花は何だろう。O氏が「オウバイですよ」と教えてくれ、宗匠が電子辞書を引くと「黄梅」でモクセイ科ソケイ属の花であった。「ジャスミンの仲間だってさ。」但しオウバイには香りがない。金梅、迎春花とも呼ばれる。
     そして隊長はやはり西勝院に入って行った。真言宗豊山派。入間市宮寺四八九番地。狭山三十三観音霊場二十九番だ。門前には「宮寺氏館跡」の標柱が建っている。宮寺氏とは、村山党の祖・平頼任の孫で宮寺五郎を称した家平に始まる一族のようだ。同じころ、村山党からは金子氏、山口氏、仙波氏、大井氏などが生まれていて、今でも埼玉県内の地名に残っている。土塁と空堀の遺構が残っているらしいが判別できない。
     境内の樹木は綺麗に整えられている。幹から横に伸びた枝は下から支えているが、白梅の花が満開だ。しかし幹は空洞で殆ど皮だけしか残っていない。「こんなになっても生きてるんだな。」植物の生命力とは実に不思議なものである。ネコヤナギがかなり膨らんでいる。
     笠付の角柱石塔の三面に二体づつの地蔵を浮き彫りにした六地蔵には安政五年の銘がある。線刻の不動明王の石碑もある。宗匠が眺めていた句碑の下五が分からない。そこに皆が寄って来たが、誰も読めない。分かったのは「友達も待て居やうぞ」と「巨盛居士」だけである。
     境内で暫くのんびりした後、十分前になって寺を出て停留所に並ぶ。「土曜日で客は少ないだろうから早く来るんじゃないかな。」「調整してますよ。定刻より早いいってことはありません。」その通りバスはほぼ定刻にやってきた。今日のコースは一万四千歩。八キロちょっとになっただろう。最初は貸し切り状態だったバスも、途中でかなり乗客が増えた。小手指駅で解散となる。
     帰りの電車は川越まで古道マニア夫人と一緒だった。「いいコースだったわね。」冬芽や葉痕はすぐに忘れてしまうだろうが、林の中のコースは足に優しくて、春の訪れを充分に感じた一日だった。駅前で買い物をしていくと言う古道マニア夫人と別れ、私は寂しく家に向かう。

     なお宗匠のホームページが本日を以て終了した。これまで無料だったものが、いきなり有料になる、それもかなり高額になると通告されたのだそうだ。無料のサービスはいくらでもある筈だから、宗匠には是非再開してもらいたい。

    蜻蛉