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    平成二十七年三月二十八日(土)
    白岡柴山伏越

    投稿:   佐藤 眞人 氏     2015.04.10

     旧暦二月九日。春分の次候「桜始開」の通り、今朝のニュースによれば上野公園の桜は昨日で五分咲きになった。今日も二十度を超える予報が出されているから、染井吉野も一気に開花が進むだろう。それにしては曇り空で少し肌寒い。
     今日は蓮田市の北端から白岡市の北西部を巡る予定で、集合は宇都宮線で大宮から三つ目の蓮田駅だ。地元の千意さんとオカチャンは張り切っているだろうと思いきや、二人とも欠席で、なんとなく力が抜けてしまう。農作業に忙しい時期なのだろうか。
     隊長はパンパンに膨れた手提げ袋から「白岡おでかけマップ」(白岡市農政商工課)と「いとおかし しらおか」(白岡市)という二冊の立派なパンフレットを出してくれる。「重かったんだよ。」白岡市役所で仕入れてきたものだろうか。ご苦労なことである。
     「白岡は頑張ってるじゃないか。」スナフキンは相変わらず昨日の酒が抜けていない。白岡は平成二十四年十月に市になったばかりだ。去年四月に日光御成り街道で白岡を歩いた時にも調べたことだが、東洋経済新報社の調査によれば、白岡は「住みよさランキング2014」で埼玉県一位、関東では十位、全国では七十位となっている。全国八百十三の市区を対象にしたものだから、大したものだ。人口五万一千人である。
     バス時間まで少し間があって、早く西口に降りてきた古道マニアが喫煙所を探している。私もさっき探していたのだが見つけられなかった。「適当に吸ってたよ。」
     集まったのは隊長、若旦那夫妻、椿姫(まだ花粉症で調子が万全ではなさそうだ)、イトハン、画伯、ダンディ、ドクトル、ドラエモン(久し振り)、古道マニア、スナフキン、宗匠、ヤマチャン、ロダン、蜻蛉の十五人だ。この頃、古道マニアは夫人と交代で出て来るようになった。若旦那夫妻はいつも仲良く二人連れだが、夫妻と言えば本庄の小町と中将は元気だろうか。

     十時十四分発の八幡神社行きのバスには、私たちのほかに地元の男女三人が乗り込んだ。このところ、スタート地点までバスで移動することが続いている。埼玉県は広いのだ。「スイカが使えるかしら?」若女将が心配するが、今時カードの使えないバスは稀だろう。「朝日バスって、有名なのかい?」私は初めて乗ると思う。「東武の関連会社ですよ。」ロダンは詳しい。本社は越谷にあって、伊勢崎線・野田線・宇都宮線・高崎線の沿線を結んでいるようだ。
     バスの中で、隊長にもらった地図をぼんやり確認していると、蓮田岩槻バイパス(一二二号)を北上して、関戸交差点で左に分岐して行田蓮田線(県道七七号)に入った。途中で乗ってくる人は誰もいない。
     大きな荷物を背負った女子高生が先に降り、他の乗客も降りて行き、二十分程で終点の八幡神社に着いた時には私たちだけになっていた。運賃は三百五十円。地図上で測ってみると、蓮田駅からおおよそ七キロ程になるか。ここは蓮田市の西のはずれで、桶川市・伊奈町・白岡市に挟まれた狭い地域である。
     朱塗りの両部鳥居には「八幡宮」の額が掲げられている。蓮田市上平野六九二番地。念のために両部鳥居を説明すると、本体の鳥居の柱を支える稚児柱があり、笠木の上に屋根がある。四脚鳥居とも呼ぶ。「八幡宮って、祭神は応神天皇ですか?」椿姫が、確認するように訊いてくる。「前に教えてもらって覚えてましたよ。」これまで人文系にはほとんど関心を示さなかった人なのに、私に気を遣ってくれているのだ。
     参道の正面には集会所のような建物があり、拝殿は右にあって、ほぼ南面している。この配置を見ると、道路はおそらく後からできたものだろう。かつては拝殿に直接向かう参道があったのではないか。黒瓦黒壁の権現造り(石の間を挟んで本殿とつながる様式)で、向背もない簡素な社殿だ。
     「桜もないな。」「あれは?」「あれは梅だろう。」私とスナフキンが無学なやりとりをしていると、「あれは桜ですよ。何の種類か分からないけど」と古道マニアが注意してくれる。一分か二分咲き程度だろうか。ピンクの花だ。「この木は大きいね。」「カヤだね。」隊長が断定する。
     「遥拝所」と彫った標石の側面には「皇紀二千六百年・昭和十五年」とある。講釈師がいれば「紀元は二千六百年」と歌いだしたに違いない。「向こうが皇居かな?」「方角が違うんじゃないでしょうか。」
     殺風景な境内で他に見るものはない。道路際に立つ樹木には蔦が絡まり、朽ちて倒れた二三本もそのまま放置されている。殆んど手入れしていない。無住の神社で、宮司はどこにいるのか分からない。

     バス通りとは反対側に向い、何もない畑の中の道を行く。私は単純に畑と思ったが、田んぼだろうか。「あっ、ツクシンボですね。」随分久し振りに見た。「昔はこれを食べたわよね。」イトハンの声に、「今だって食べますよ」とドラエモンが反応する。ドラエモンなら普段でも雑草を食べているような気がする。「だけど、袴を取って灰汁抜きしなくちゃいけないから、面倒なのよ。」私はツクシを食べた記憶がない。
     広がる畑を隔てて西の方には工場群が見える。「あれが伊奈町の工業団地ですよ。」椿姫は伊奈のひとであった。「その手前に綾瀬川に沿ってジョギングロードが通ってるんです。」綾瀬川が蓮田市と伊奈町との境界をなしていて、その北は桶川市だ。「もうちょっと北の方で綾瀬川が生まれる場所があるんです。」もう一度地図を確認すると、ここから東には見沼代用水、更にその東に元荒川が流れている。
     そして雑木林を抜けて裏から入ったのが高虫の氷川神社だ。蓮田市高虫一七〇二番地。「高虫ってどんな虫かな。」地名の由来は分からない。蓮田市のページを見ると、高虫地区は休耕田を利用した蕎麦の栽培で有名らしい。それならこの辺の畑は蕎麦畑なのだろう。これから種蒔きするのだろうか。
     境内に入ってまず目についたのが本殿の彫刻だから、拝殿にも寄らずにすぐさま行ってみた。イトハンも、そして皆もついてくる。「立派だわね。」「ホント、ホント。」流造の本殿は元文三年(一七三八)の建造で、慶応元年(一八六五)に解体修理されたものだ。立派な彫刻とは思っても教養がないから、彫刻に彫られた人物たちがどんなエピソードに基づいたものかが分からないのが悔しい。
     それでも唐獅子や龍は分かる。「あの鼻の長いのはゾウですか?」バクだろう。宗匠も「バクだよ」というから間違いない筈だ。「魚に羽が生えてるんですけど。」イトハンも椿姫も若女将も羽だと言うが、そうではなくヒレを誇張したものではないか。鯉の滝登りである。「そうなの、キヨシサン、鯉ですって。」傘寿を過ぎた夫婦は今でも恋人同士のような呼び方をする。
     表に回るとさっきの八幡神社と同じように、権現造りで拝殿は黒瓦黒壁の簡素な建物だ。一所懸命拝んでいるオジサンがいて、古道マニアと何やら話し合っている。どこから来たのかと訊いているらしい。一対の常夜灯には安政五年(一八五八)十月の銘がある。
     切妻屋根の小さな祠には何も入っていないと思って簡単に見過ごしてしまったが、古道マニアが「門客神社」の札に気が付いた。私には観察眼が欠けている。「初めて見る神様ですね」と古道マニアが首を捻っているが、門客神なら記憶がある。多分谷川健一の本(『白鳥伝説』だと思う)で読んだ筈で、荒脛巾(アラハバキ)ではないか。記憶が間違っていないか、本文を確認してみた。

     ・・・・・・国つ神が天つ神にその座をうばわれたという証拠を具体的に指摘することは簡単ではない。しかし先住民族と後来の交替が行われたという考えに立ってみれば、母屋にいた神が追い出されて自分の家の庇を借りるような形で生きながらえている神の姿をたしかめることができる。その一つが私のこれから問題にしようとしているアラハバキ神である。(中略)
     アラハバキを神として祀る神社としては埼玉県大宮市、もと武蔵国足立郡の氷川神社があげられる。今日でも、本殿の脇に門客人社が祀られている。(谷川健一『白鳥伝説』)

     言うまでもなく、氷川の神(スサノオ)は出雲族が武蔵国に持ち込んだ外来の神である。当然、それ以前には土着の神がいたことは間違いない。日本には滅ぼしたものを祀り上げる伝統があるようなのだ。
     またアラハバキは片目、つまり天目一箇神(メッカチの語源だと思われる)だとの説もあり、それなら金属精錬に関連するだろう。天目一箇神なら同じく谷川の『青銅の神の足跡』を読んでもらおう。また賽の神、あるいは蛇であるとする説もある。ただ分からないことが多すぎて、あまり深入りすると「超古代史」なんていうトンデモ本の世界に入り込んでしまうから注意が必要だ。二三十年ほど前に『東日流外三郡誌』という偽書が流行した時代があって、そこでは遮光土器がアラハバキを象ったものだというとんでもない説を流していた。
     朱塗りの鳥居は、これもさっきと同じ両部鳥居だ。この辺りの人はこの鳥居に格別の趣味があるのだろうか。「厳島神社と同じ形ですね。」国内外を問わず各地を旅行している若旦那が納得している。両部(金剛・胎蔵の両部)というからには、真言宗との習合の産物だろう。

     神社を出れば、隊長は林の中の落ち葉を踏んでまた不思議な所に入り込む。これが道なのか。畦道の両側には葦(これが実は私にはわからない。あるいは茅か、いずれにしろ、そんなものである)が生い茂る。「よくこういう道を見つけましたね。」ロダンが頻りに感心するように、普通の人はこんなところを歩こうとは思わない。「できるだけ車の通らない道を探したんだよ。」隊長は三度も下見を重ねたそうだ。暇なのである(ゴメン、嘘です。隊長は苦労しているのである)。
     葦が途切れると菜の花が咲き、今度は一面に白い小さな花が広がる場所に来た。私はぺんぺん草としか覚えていなかった。ナズナが正式名称だとは今日初めての知識で、無学の程が知られる。名前の由来についてはウィキペディアを見ておこう。

     名前の由来は、夏になると枯れること、つまり夏無(なつな)から、撫でたいほど可愛い花の意味、撫菜(なでな)からなど、諸説ある。
     ぺんぺん草やシャミセングサという別名がよく知られている。「ぺんぺん」は三味線を弾く擬音語で、花の下に付いている果実の形が、三味線の撥(ばち)によく似ている。

     「春の七草だよ。」「セリナズナゴギョウハコベラホトケノザって言うでしょ。」「最初のセリが出てこないと言えない。」こんな雑草を良くぞ食べようと思ったものだ。実は私は七草粥なんて食ったことがない。そもそも父が民俗的行事に全く関心のない人だった。
     ナズナなら、蕪村の「北寿老仙を悼む」を思い出す。「君を思ふて岡の辺に行きつ遊ぶ をかのべ何ぞかく悲しき 蒲公の黄に薺の白う咲きたる 見る人ぞなき。」昔が懐かしくなる田園風景だ。

     町外れ三味線草は幼き日  蜻蛉

     トウダイグサも群生している。私もこの頃では多少は知識がついてきて、似ていてもネコノメソウではないと分かる。「どんな字を書くんだい?」「知らない。」最近、こんな場面になるとスナフキンはすぐにネットを検索する。「燈台だよ。海岸に生えるのかな?」しかしロダンの好きな「おいら岬の」燈台ではなく、燈火の皿に見立てたものだという。
     「珍しくもないですよ。」椿姫はあっさり断言するが、こんなに群生している場所はそんなにしょっちゅうお目にかかる訳ではない。「この真中の小さいのが花、周りのはホウですよ」とドラエモンが講釈してくれる。「毒草です。」「死ぬのかしら?」「まあ、入院する程度じゃないですかね。」
     「この黄色の花は?」私はトサミズキかヒュウガミズキか判別に悩んでしまうのだが、誰かが訊いてくれたお蔭でヒュウガミズキだと分かった。ドラエモンも、「トサミズキは房が長いんだよ」と断言する。穂状花序というらしい。それなら、通勤途上に咲いているのはトサミズキだ。淡い黄色が上品で好きな花だ。
     珍しい庚申塔がある。「庚申祭神」の文字は初めて見る。その左右には「天下泰平」「国家安穏」とある。台座の猿は三匹ではなくもっといるようだ。「五人が寄進したんですよ、それで猿も五匹じゃないですか。」石碑の側面を見ていた若旦那が考えた通りなのだろうか。文化七庚午(一八一〇)二月吉祥日、武州埼玉郡高虫村講中・助力五人である。ただ猿の数が五匹なのかどうかは微妙なところだ。風化した跡が猿のように見えるだけかも知れない。
     やがて梨畑が広がってくる。蕾はかなり大きくなっているが、花が咲くにはまだ半月ほどかかるのではないか。太い幹から一・五メートルほどの高さで枝を水平に曲げて、棚を作っている。梨は白岡の名産で、このあとも梨畑には何度もお目にかかることになる。「幸水かな?」「あともう一つなんだっけ。」私は梨の種類には全く疎いが、「白岡おでかけマップ」によれば、白岡の梨の六割が幸水、三割が豊水である。
     野原にはムラサキハナナも咲いている。「ハナダイコン」と古道マニアが呟いたので、「根っこが大根みたいなのか?」とスナフキンが訊いてくる。大根とは関係ないと思う。ハナダイコンと言えば正しくはハナダイコン属で、オオアラセイトウ属のムラサキハナナ(俗称でハナダイコン、別に諸葛菜と呼ぶ)とは違うものらしいのだが、私は区別がつかない。

     バス通りに出てローソンを見つけたロダンは弁当を買いに走る。「ここを真っ直ぐ北に向かうとさきたま古墳群にでます。」椿姫はしょっちゅう車で走っているのだろう。「先に行っててよ。」ロダンを待つ隊長の指示でそこから右に曲がる。「あっちは普通の家だよな。」「こっちかな。」林の中に曲がりこめば妙楽寺の参道がみえた。蓮田市高虫三八八番地。
     境内に入るとすぐに興教大師の像があるので新義真言だとは分かるが、智山派か豊山派か何も表示がない。調べてみると智山派であった。弘治年中(一五五五~一五五七)、法印覚本が開基創建したと伝えられる。
     参道の入り口には、石燈籠の手前に対になった地蔵尊が立っている。「これがホントのお地蔵様ですよ。巣鴨のみたいに大きなのはお地蔵様じゃありません」と椿姫が笑う。江戸六地蔵のひとつ、巣鴨の丈六地蔵を前にしたとき、椿姫はどこに地蔵があるのかと不思議がっていたのである。こんなに大きいとは思わなかったというのがあの時の彼女の感想で、それを思い出しているのだ。この地蔵は身の丈三尺か。蓮華台や台石を含めて六尺というところだろう。地蔵の表面には黴のような模様があって、かなり古そうだが年代は分からない。表情は素朴簡素だ。
     「これはなんですか?」石灯籠の火袋に彫られたものが分からないと古道マニアが悩んでいる。「鹿だけは分かるんだけどね。」「イルカの口みたいじゃないか」と言うのはスナフキンだが、石燈籠にイルカは彫らないだろうね。しかし全く見当がつかない。
     舟形石に三体づつ二段に重ねた六地蔵、馬頭観音などの石仏が並んでいる。観音堂を覗き込んでみると、上半身に紅白の布を巻きつけられた観音の立像がいた。足元にはワンカップの酒が数種類置かれている。みみだれ観音と呼ばれるが、酒の好きな観音様なのであろう。耳漏れといえば、結城氏の御廟にあった石碑で「この里に耳漏の神や花うつぎ」の句を見かけたのが珍しかったが、江戸時代には良くある病だったのだろうか。現代ならば、四六時中ヘッドフォンやイヤホンを耳に付けてデカイ音をだしている連中は絶対に耳が悪くなる筈だから、将来この観音が大流行する可能性はある。
     大きなイチョウ(巨樹である)が立っている。本堂では法事の最中なのか、木魚の音が聞こえてくる。

     粛然と木魚の響く妙楽寺    午角

     バス通り(行田蓮田線)に戻り、ローソンで休憩する。「これならさっき慌てて買うこともなかったじゃないか。」「それは結果論ですよ。」十二時少し前で腹が減ってきた。「昼飯はどこですか?」「常福寺のところ。あと少しだよ。」およそ一キロか。隊長はここで時間調整をしているのだろうか。
     「それじゃ行きましょうか。」バス通りを少し蓮田方面に歩いて左の住宅地に曲がる。それぞれの農家の敷地が広い。「この林は人工のものかな。」「林は人工だよ。」ヤマチャンと宗匠が不思議な会話をしている。農家周辺の雑木林は、当然人の手によって植えられたものである。「防風林の意味もあるのかな?」それもあるだろう。「孟宗竹だ。」結構広い竹林は全く手入れが施されず、林の中で数本の倒れた竹も見える。「間伐しなくちゃいけないよね。」
     竹林を回り込むと正面に寺があった。「ここに入ろう。」隊長の資料には予定されていないのだが、これも時間調整であろうか。青光山天照寺(曹洞宗)。蓮田市高虫一〇一一番地。二段三体づつの六地蔵は文化九年のものである。
     寺を出ればすぐに見沼代用水に出る。桜並木の枝はかなり赤くなっているが、まだ花は咲いていない。「咲きました。」画伯が声を上げたので、全員に笑いが広がる。用水側の枝にはまだないが、道路の反対側の木には数輪の花が開いている。道路を隔てただけで咲き方に微妙な時間差があるのだ。

     見上げれば桜花一輪また一輪  午角
     待ちかねし桜一輪恋に似て   蜻蛉

     案内板を見つけたので近づいてみるが「柴山伏越」の説明が汚れていて、写真があるべき場所は剥がれているのでよく分からない。「向こうにちゃんとしたのがあるから。」隊長の言葉で用水に沿って左に行き、常福寺橋を渡る。ここは元荒川で、蓮田市と白岡市を区切る。見沼代用水に沿って歩いていたのに、元荒川にかかる橋を渡ったというのが、本日の眼目である。土手は菜の花が盛りだ。釣り竿を垂らす人もいる。
     左岸橋詰めにある小さな寺が常福寺(曹洞宗)だ。白岡市柴山一一〇三番地。門の脇に、一般の墓地とは区別して道路から直接入れるように、石畳を敷いた塋域がある。井澤弥惣兵衛為永の墓である。「仰々しい戒名だな。」崇岳院殿隆譽賢巌英翁居士の墓石と、宝篋印塔が並んで建っている。宝篋印塔にわざわざ「宝篋印塔」と彫ってあるのは初めて見る(つまり余計な文字である)が、これはかなり新しいものだ。右手からハクモクレンと赤いツバキが墓を見守るように咲いている。墓域の花壇には水仙が咲き、供えられた花は新しい。
     井澤弥惣兵衛は元文三年(一七三八年)三月一日に死んで、麹町の心法寺(浄土宗)に葬られたが、明和四年(一七六七)に、当地の住民の希望によって分骨されたのがこの墓である。生年ははっきりせず、寛文三年(一六六三)説と承応三年(一六五四)説と二つある。どちらにしても長寿だ。
     「浦和で銅像を見ただろう?」「そうだったかな。」スナフキンは全く覚えていないらしい。「日光御成街道・其の四」を見てもらえば記憶が戻るだろう。浦和美園から岩槻までの途中、見沼自然公園で出会っているのだ。井澤弥惣兵衛は見沼代用水開削の恩人である。
     寺の向かいの柴山調節堰の脇が小さな公園になっていて、案内板には江戸時代の柴山伏越の図面と、現代の写真が上下に並べてある。伏越はフセコシと読む。直交する川の一方を、他方の川の底を潜らせて通したものだ。

     見沼代用水路は、享保十二年(一七二七)徳川吉宗が勘定吟味役格井澤弥惣兵衛に命じ、県南東部(大宮台地の東南端)にあった見沼溜井を干拓させたとき、代わりに水源を利根川に求めて掘った用水路であり、もとの見沼に代わる用水路ということで見沼代用水路と命名された。水路延長は約六〇キロメートルで、受益面積約一万七千ヘクタールにも及ぶ大用水路である。
     井澤弥惣兵衛は紀州(現和歌山県地方)の人で、土木技術にすぐれ、この用水路の工事は、着工から完成まで約六ヶ月で完工している。当初の設計にはほとんど狂いがなかったといわれるほどで、いかにすぐれた土木技術を駆使して進められた工事であったかがわかる。
     同用水路が元荒川と交差するこの場所では、元荒川の川床を木製の樋管を使用してサイフォンで通すという大工事を行った。これが柴山伏越である。
     現在は河川の改修が行われ、以前より川幅も三分の一と狭くなったが、これまで、修繕や伏替工事などが二十数回行われ、現在見られるような構造になった。
                 昭和五十九年三月 埼玉県

     元荒川を挟んで両側にゲートがある。洪水などで見沼代用水の水量が多すぎるときは、これを閉じて水が用水に流れないようにしているのだ。「江戸時代の技術はスゴイね。」伊奈忠次に始まる伊奈一族の技術を関東流と呼び、井澤弥惣兵衛の技術を紀州流と呼ぶ。どちらにしても、重機のない時代に大工事を成し遂げる技術は大したものである。
     隊長が配ってくれた資料の中には「白岡川物語り」というパンフレットも入っている。これによれば、利根川の東遷、荒川の付け替えがこの地域に大きな影響をもたらした。旧河川跡を新田として開発するため、多くの排水用河川が開削された。それもあって白岡市内には川が交差する地点が九カ所もある。

     用水路交わるあたり紋黄蝶   午角

     十二時半だ。ようやく飯が食える。出発は一時半と決められた。最初はベンチに座ってみたが、全員が座るには狭すぎ、それに食べにくい。「あっちにシートを敷こうよ。」日差しがかなり強烈になってきて暑い。「日蔭はないかな。」ない。ちょっと離れた草むらにシートを敷き、ドクトル、スナフキン、宗匠、ヤマチャン、蜻蛉が座り込んだ。
     食い終わった頃、ベンチの方からロダンがやってきて、煎餅やオカキを配ってくれる。と言ってもロダンが持参した筈はなく、女性陣からの差し入れであろう。私も飴を出す。これは前回の江戸歩き(行徳編)と同じく、ある美女からもらったのだ。ドラエモンもチョコレートを配ってくれるが、これは丁重にお断り申し上げる。
     ウグイスの声が頻りに聞こえる。「梅に鶯っていうから、今頃だと遅いんじゃないか?」二週間ほど前に大学の近くで聞いたのが最初だったろうか。姿は一向に見えない。なんだか眠くなってくる。

     鴬の声のみひびく里の昼  閑舟

     少し離れたトイレに行って戻ってくると、ウェストポーチだけの身軽な恰好の男性がやって来た。オクチャンではないか。今日は奥さんを同伴していない。「みんな集まって。」オクチャンが「柴山伏越改造之碑」を解説してくれるのだ。隊長が時間調整をしていたのは、彼と待ち合わせていたためだったか。
     私は昼飯前に冒頭の「自武之埼玉之中條引渠云々」だけ読んで、面倒臭くなってやめていた。武州埼玉郡中條から開削して水を引いたというのだから、単に見沼代用水の説明だろうと見当をつけたからだが、それだけではこの碑を見る甲斐がなかったのは、オクチャンの説明で分かった。危うく仁和寺の法師になるところだった。「少しのことにも先達のあらまほしきことなり」(『徒然草』第五十二段)。
     隊長からは事前に碑文の現代語訳のコピーが配られていたが、これもオクチャンが見つけ出して、隊長に渡していたものらしい。
     「まず名前を注目してください。隷書の撰文並びに書は中島慶とあります。本名は慶太郎、号は撫山です。その子が田人、その子が敦になるんですよ。」おお、そうであったか。中島敦は好きな作家だ。
     好きな理由の多くはあの漢文体の文章にある。昔私が高橋和己に凝ったのも、悲劇的な漢文体だったことが大きいかも知れない。中島敦なら『李陵』や『山月記』のような悲壮な文章もそうだが、『悟浄出世』の自嘲とユーモアも捨てがたい。無意識の権化孫悟空と、色欲食欲の権化猪八戒に挟まれ、意識過剰の沙悟浄は自己の存在意義に悩む。沙悟浄の悩みは近代知識人の悩みであり、それを批評的に漢文体で記す腕は並大抵ではない。
     祖父が漢学者、父が漢文教師だから、敦は当然幼いころから漢文に親しんだと思うが、そうでもないらしいのだ。

     ・・・・・・敦は父親とはかけ離れた生活もあってか、われわれに想像されるような幼少からの漢学の素読は受けていなかった。後年「山月記」を読んだ田人は「誰も教えないのによくこれほどまでに」と驚いたという。(郡司勝義『李陵・山月記・弟子・名人伝』角川文庫・解説)

     「父親とはかけ離れた生活」とは父の地方赴任である。田人は、敦が生まれてすぐに離婚して奈良に赴任し、敦は撫山の家に預けられた。しかし撫山はその一年後に死ぬので、敦に直接影響を与えることはなかった。学齢期に達してやっと父の任地に呼ばれたが、そこには見知らぬ継母がいて苛められたし、その継母も死んで田人は三人目の妻を迎える。こういう環境では父に親しみにくい。父を憎んでいた形跡がある。田人は任地校を八度も変えていて、性格的に問題のある人物だったかも知れない。
     「中島敦は深田久弥と親交があったんだよ。」スナフキンは随分詳しいじゃないか。私は深田久弥は全く読んでいないので、そんなことは知らなかった。万遍なく読んでいるスナフキンと比べて、私の知識は偏っている。調べてみると、『山月記』『光と風と夢』は深田久弥の紹介で発表され、敦の死後に託された短編集を『李陵』と題して刊行したのも深田であった。
     ところでオクチャンは、撫山は岐阜の出身で、亀田鵬斎を慕ってその塾のあった久喜に移り住んだと言っていたようなのだが、それは何に基づいたものだろうか。私の聞き間違いだったかも知れない。ウィキペディアによれば、撫山の生家は日本橋新乗物町で、江戸初期から大名に駕籠を納入する豪商である。そして同じ記事によれば、撫山は鵬斎の子の綾瀬に学んでいる。

     中島撫山は一八二九年(文政十二年)四月十二日、江戸亀戸に生を受ける。生家は江戸初期以来、諸大名に駕籠を納入する日本橋新乗物町(今日の東京都中央区日本橋堀留町一丁目)の豪商であった。数えで十一歳の時、母が亡くなる。十四歳の時に出井貞順に入門し、出井貞順の薦めで亀田綾瀬に入門する。十九歳で父と死別する。一八五八年(安政五年)に両国矢ノ倉に私塾「演孔堂」を開塾する。一八六九年(明治二年)十二月、武蔵国埼玉郡久喜本町一二二番地(明治合併後、南埼玉郡久喜町大字久喜本、今日の久喜市本町六丁目)に移住する。一八七二年(明治五年)、久喜に戸籍を移す。一八七八年(明治六年)には久喜本町の住居に私塾「幸魂教舎(さきたまきょうしゃ)」を開塾する。「幸魂教舎」の「幸魂」とは埼玉の古い読み方である「さきたま」に由来する。その後、晩年の一九〇九年(明治四十二年)には大字久喜本より大字久喜新(今日の久喜中央二丁目)へと転居する。その二年後の一九一一年(明治四十四年)六月二十四日、八十三歳で永眠する。(ウィキペディア「中島撫山」より)

     私は無学にも鵬斎の読みをホウサイだとばかり思っていたが、オクチャンがボウサイと言うので蒙が啓かれた。それでは鵬斎と久喜の関係はどうなるのか。久喜市教育委員会の記載が見つかった。確かに鵬斎・綾瀬ともに久喜の遷善館で講義していたのである。

     遷善館が設立された場所は久喜本町で、伝承によれば中央四丁目の愛生舘病院のあたりであろうといわれている。造営費は村民の清兵衛(井上氏)が多くを負担したが、そのほかにも多くの人々が協力したといわれている。また、幕府も許可に際し敷地を与えるとともに、その年貢と夫役(土木工事などの労働課役)を免除して援助している。
     遷善館の教育は、広く一般庶民を対象とする教諭日と町村の役人層の指定を対象とする経書講釈日とからなっていた。教育に当たった儒者は、亀田鵬斎・その子の綾瀬・大田錦城・久保築水らである。(久喜市教育委員会)

     「鵬斎は折衷派ですから、寛政異学の禁で圧迫されます。そして酒井抱一ともう一人誰だったかな(オクチャンはすぐに谷文晁だと思い出した)、三人で遊んでいたんです。」この三人を「下谷の三幅対」と呼ぶらしい。私は江戸の文化に疎いので、もっときちんと勉強しなければならない。ただ撫山が町人、酒井抱一が姫路藩主の子、谷文晁が田安家家臣であることを改めて思い出せば、江戸文化が身分制の枠組みを外した自由闊達な交流を生み出す包容力を有していたことは、強調しておいて良いだろう。
     「谷文晁の墓は前に行ってるよね。伊能忠敬と高橋至時もあった。」宗匠の言葉で思い出した。「上野じゃないか。」スナフキンが調べて東上野の源空寺だと分かった。「誰がリーダーの時だっけ。」「ロダンだよ。」しかしこれは私の勘違いだった。桃太郎リーダーの第二十七回「浅草七福神」のときである。自分の文章の引用をするのは、いかに記憶が低下しているかを自分で確認するためだ。このとき、「下谷の三幅対」のことだってちゃんと確認しているのである。

    谷文晃(本立院殿法眼生誉一如文晃居士)の墓には、何の説明も施されていないので見過ごすところだった。「あそこにあったわよ」の言葉で慌てて戻る。田安家の家臣で、渡辺崋山はその弟子にあたる。亀田鵬斎、酒井抱一と並んで「下谷の三幅対」と評された。

     そしてオクチャンは碑文を逐語的に追いながら説明してくれる。見沼用水の開削に始まって、明治二十年(一八八七)に江戸時代以来の木造樋をレンガ造りに改修するまでの伏越の歴史が記されているのだ。
     木造の樋は十数年で交換しなければならず、そのメンテナンスには莫大な費用が掛かっていた。これを永久のものとなるよう、レンガ造りに改修したのだ。建設費一万五千三百九十六円は埼玉県と東京都が負担し、地元から相当な寄付も集めて煉瓦二十三万個を使用して完成した。裏面には工事関係者の名前が記されている。篆額は当時の埼玉県知事だった吉田清英である。
     「撫山の碑はこのほかにもあります。蓮田駅の西口にも大きな碑がありますから、帰りに是非見てください。」朝は気が付かなったし、気付いていたとしても中島撫山を知らなかったのだから仕方がない。これは是非とも見ておかなければならない。
     出発は一時四十五分だ。「井澤弥惣兵衛のお墓ですよ。」隊長の言葉で数人が見に行く。さっき行かなかったのか。「常福福寺の住職は出てきましたか?」姿は見ていない。「もうだいぶお歳だからね。」オクチャンは住職とも知り合いなのだろうか。「この辺は面白いからよく来るんですよ。」久喜の人だったから散歩がてらというところか。「あっ、鶯だね。」「さっきから鳴いてますよ。」

     先達の声追い駆けて匂鳥  蜻蛉

     柴山観音堂を覗いても何もなかった。「これは弥勒ですかね?」「そうだね、弥勒菩薩だと思うよ。」地蔵の隣にある半跏思惟の石仏を見て画伯と若旦那が頷きあっている。弥勒は釈迦入滅後、五十六億七千万経て現れる未来仏である。しかし二人には申し訳ないが、これは如意輪観音だと思う。確かに弥勒も半跏思惟像が多いのだが、私はこれまで屋外の石仏で弥勒像を見たことがない。それにウィキペディア「弥勒菩薩」によれば、平安・鎌倉期以降、弥勒の半跏思惟像は見られないと指摘される。文字は摩耗して読めないが、女人講中によるものだと決めて良いのではないか。
     平安時代にあった弥勒信仰は阿弥陀信仰にとって変わられたというのが、たぶん宗教史の常識だと思う。中国朝鮮では弥勒信仰は千年王国運動、世直し運動として時折爆発的な流行を見せたが、日本ではその形跡がない。江戸時代、僅かに食行身禄による富士信仰と習合した程度ではないか。
     その隣が諏訪八幡神社だ。白岡市柴山一〇二一番地。  遊んでいる子供が挨拶してくる。「諏訪八幡って珍しいよね。」「合祀したんでしょうね。」オクチャンの言葉で案内板を読めば、確かにそう書いてある。

    諏訪八幡神社は、大字柴山のほぼ中央に位置し、古来、地域住民の信仰の対象として、中心的な役割をなしてきた神社である。当神社は、昭和十九年に「大山神社」と改名されているが、現在でも「諏訪八幡神社」として親しまれている。祭神は、応神天皇と建御名方命である。
     寛文十二年(一六七二)に藤原氏天野康寛が書いた諏訪八幡神社之神記によれば「霊験の記は紛失して証拠となるものはないが、伝説によると宇多源氏の後胤佐々木四郎秀綱がこの地を領していたとき、霊験があり、諏訪社と八幡社の両社を合祀した」とある。

     私は諏訪神と八幡神の合祀は珍しいと思ったが、ウィキペディアによれば全国各地に存在するらしい。「大山神社ってありますが、この辺は大山村と呼ばれていたんですよ」とオクチャンが教えてくれる。
     この記事にある佐々木四郎秀綱とは誰であろうか。婆沙羅として有名な佐々木道誉の長男に秀綱がいるが、長男で四郎はおかしい。佐々木道誉は宇多源氏系の京極氏の出で、通称は四郎である。父と子とを混同したかとも思ったが、道誉にしても長男の秀綱にしても、太平記を信ずれば神仏を崇敬したとは到底考えられない。
     そして佐々木秀綱は菖蒲城主であるという記事を見つけた。それなら菖蒲城を調べてみよう。この城は、武蔵国埼玉郡新堀村(現在の埼玉県久喜市菖蒲町新堀)にあって、ここから三キロほど北になる。

    城主の金田氏は菖蒲佐々木氏ともいわれ、近江国佐々木氏の末裔とされるが詳細は不明。初代の金田則綱は古河公方足利成氏の家臣となり、氏綱、顕綱、定綱、頼綱と続き、六代秀綱の時に忍城主成田氏長に属し、豊臣秀吉の関東侵攻により廃城。(ウィキペディア「菖蒲城」より)

     ここに金田秀綱が登場した。金田氏は菖蒲佐々木氏とも称している(おそらく仮冒)ので、諏訪八幡神社を合祀したのはこの人物であろう。小田原滅亡後に帰農して大塚氏を名乗ったという。折角案内板を設置してくれるなら、「佐々木四郎秀綱」がいつの時代のどんな人物だったか、その程度の基本的なことは書いておいてほしいものだ。
     「諏訪神社は信州ですか?戦いの神様ですよね。」ドラエモンが尋ねてくる。特に戦いの神であるとは私は知らなかった。オオクニヌシが天孫族に国譲りを迫られた時、息子のコトシロヌシは国家緊急の事態にも関わらずのんびり釣りをしていた。彼は簡単に承諾して七福神のエビスになった(エビスの正体には二つの説があって、そのひとつ)。もう一人の息子タケミナカタは戦いを選択したもののタケミカヅチに敗れ、諏訪まで敗走して降伏した。これが諏訪神社の神である。
     「八幡神社は関東だけですか?源氏の神様ですよね。」八幡は全国区の神であり、全国に四万四千社を数える。東大寺の大仏造営の時、宇佐の八幡神がわざわざ上京して協力した。この時の八幡神の乗り物が神輿の原型である。最も早く神仏習合したので、八幡大菩薩の称号もある。祭神とされる応神天皇を妊娠中に、母の神宮皇后が新羅を平定したという伝承によって戦勝の神とされたものだ。
     元来九州の神ではあるが、清和天皇の貞観元年(八五九)に石清水に勧請され、近畿を中心に発展した。まだ幼かった清和天皇の守護神として祀られたもので、そのために清和源氏(特に河内源氏)の守護神にもなるのである。そして頼朝が石清水から鶴岡に勧請(鶴岡八幡)して東国一円に広まった。

     しばらく住宅地の中を歩く。白い花はコブシだろうか、シデコブシだろうか。「コブシですね、シデじゃない。」オクチャンは植物にも詳しい。ドラエモンもコブシだと断言するから間違いない。宗匠は随分前に貰った資料を取り出して、コブシ、シデコブシ、ハクモクレンの違いを確認している。資料の管理が良い人だ。私もどこかにしまってある筈だが、もうすっかり忘れていた。
     大通りに出ると、左の角にJAの直売所があった。「開いてるのを見たことがない。やる気のない店ですよ」とドラエモンは言うのだが、今日はやっているようだ。大きな通りで信号を渡って右に行けば、すぐに柴山沼に出る。
     北西から南東にかけて細長い池で、元荒川の下浸作用によって形成された河川の痕跡である。埼玉県の自然沼としては川越の伊佐沼に次いで第二位の広さを持つという。私たちはその北西の端に辿り着いたことになる。
     釣り場の利用料は一日五百円または年間三千円と書かれているが、料金を徴収するような場所も人もない。「釣れないから料金もとれないんじゃないかな。」
     「みんな、ルアーだね。」ヤマチャンの観察も鋭い。私は、あのルアーというやつに騙される魚の神経が分からない。あんなものを餌と間違えるものだろうか。バカではあるまいか。「だけど、釣り上げているのは誰もいないな。」「普通、魚釣りは早朝にやるんじゃないのか?」魚釣りに縁のない私はそう思う。「こういう流れない場所は昼でもいいんだよ。」
     「白鳥ですよ。」左の岸辺に白い鳥が見える。羽根を切られているのだろう、飛ぶことができないのだ。「前は二羽いたんですよ。ズボンを咥えられて大変でしたよ。」椿姫の声が響く。しかし双眼鏡で観察していたドラエモンが、「白鳥ですか?」と不審な声を上げた。隊長も「黒いところがないんだよ」と白鳥説に疑問を出した。「アヒルじゃないかな。」
     川縁に降りてそちらの方に回ってみる。「コブがある。」「それじゃコブハクチョウかな?」私には勿論判定できる筈もない。要するに白鳥もアヒルもそんなに違わないということらしい。それならば、醜いアヒルの子が劇的に変身したというのは、どういうことになるのだろうか。
     「あれは何かしら。」黒い鳥が五六羽泳いでいる。黒い鳥ならバンとしか私には分からない。「オオバンですね。」やはりそうだったか。

     釣果なき釣り人数多バンの水脈  閑舟

     沼の途中にある橋を渡ったところでオクチャンは別れて行った。「橋に名前がないの。どうしてかしら。」イトハンはそれが気になって仕方がない。公道ではなく、公園内に作ったものだからではないか。「バスの時間まで一時間あるから、ゆっくりしましょう。」「だけど、あと二か所寄るんでしょう?」「大丈夫、すぐだから。」
     一二二号を横断して田圃の中の農道を行くと皿沼橋があるのだが、下に川は流れていない。東詰には大きな石碑がある。皿沼開拓先覚者・山崎禮輔翁頌徳碑であった。書は衆議院議員・三ツ林弥太郎である。

    皿沼は江戸期に新田開発が開始された。井沢弥惣兵衛により一七二八年(享保十三年)、皿沼の排水路を整備し、それまで元荒川に排水されていた流路を栢間堀(今日の隼人堀川)に排水されるよう新規に沼落堀を開削した。この農業排水路は今日では柴山沼からの沼落へと流下している。(ウィキペディアより)

     その脇には縄文遺跡の説明板がある。「地図のどこですか?」地図にはなさそうだ。「あそこが隼人堀川だから、その少し手前だね。」今では存在しないが、底の浅い沼があって皿沼と呼ばれていた。
     その先が隼人堀川だ。幅一メートルもないが、これも井沢弥惣兵衛によって栢間沼(かやまぬま)干拓の際に排水路として開削された川だ。とにかくこの地域は井沢弥惣兵衛がいなければ、単なる沼や湿地帯が広がる荒蕪地だったのだろう。
     そして全龍寺(曹洞宗)に着く。白岡市下大崎一三一七番地。門柱の右側は「勺底一残水」とある。永平寺七十三世となる熊澤泰禅禅師の偈によるようだ。

     正門当宇宙(正門は宇宙に当たる)
     古道絶紅塵(古道紅塵を絶す)
     杓底一残水(杓底の一残水)
     汲流千億人(流れを汲む千億人)

     道元禅師が柄杓に汲んだ水の半分を必ず清流に戻した故事によるという。 一滴も無駄にしなければ、それが万人に益するということか。
     門脇に建つ「不許葷酒入山門」の戒壇石を見ると、いつものように喧しくなってくる。「餃子もダメなんですよ。」「昨日飲んだひともダメなんだろう。」それならスナフキンや私は、いつだって禅寺に入ることができなくなってしまう。ピンクの花は何か。「桃じゃないでしょうか。」石に達磨の顔を彫ったものがある。

     里の寺ハクモクレンの笑ひ立つ 閑舟

     隣が住吉神社だ。白岡町下大崎一三四〇番地。朱塗りの両部鳥居は、額の上に唐破風のある珍しいものだ。注連縄が八本下がっているのは何故だか分からない。慶長元年(一五九五)創建。
     拝殿に「六歌仙」の絵馬があるというので、覗いてみる。「見えますか?」「正面、上にあるみたいだ。」肉眼では良く見えないので、取り敢えず写真に撮ってみた。一艘の船に五人(もしかしたら四人かな)、もう一艘に老人が一人乗っている。これがそうだろうか。絵馬と言うより、単なる額だ。因みに六歌仙は僧正遍昭・在原業平・文屋康秀・喜撰法師・小野小町・大友黒主である。その左の額には鎧姿の武者の絵が描かれている。右の奥には王朝風の数人を描いた絵が掛かっている。
     「そろそろ時間だよ。」神社の前がバス乗り場で、ここで折り返して蓮田駅に戻るらしい。三時二十一分発のバスは三分前に到着したが、すぐには乗り場に近づかず少し離れたところに待機する。「運転手だって休まなくちゃいけないからね。」「こうして大勢が見てたら休めないんじゃないの。」そして定刻通りに出発する。
     「良かったわねえ、雨も降らなくて。」「明日は一日中、雨みたいだからね。」蓮田駅東口には三十分以上もかかって着いた。運賃は朝と同じ三百五十円だ。バスを降りたところで隊長から、次回は千意さんの担当で東伏見から吉祥寺までのコースだと説明され、解散が宣言された。本日は宗匠の万歩計で一万五千歩。かなりゆっくり歩いたから、歩幅は六十センチもないだろう。約八キロというところか。
     それでは、さっきオクチャンに教えられた西口の石碑を見なければならない。改札口で古道マニアと別れ、スナフキンと一緒に西口に降りる。みんな来るだろうと思っていたのに、宗匠、ヤマチャン、ロダンの「若者組」しか来ない。
     朝は全く気付か鳴ったが、「蓮田車站納地記念碑」はかなり大きい。「車站って言うんだね。」兵站と言う言葉があって、站は基地とか拠点の意味だろう。「ここに書いてますよ。」車站は駅のことだと説明に書いてある。撰文と書は中島撫山、篆額は宮中顧問官の曾我祐準である。
     明治十八年(一八八五)、宇都宮線開通と同時に蓮田駅が開業したのは、飯野喜四郎らが約千七百平方メートルの土地を国に納付して誘致運動を行った成果である。これが「納地」の意味だ。

    「蓮田はもと岩槻城西の一寒村でした。この頃は人煙もまれで、樹木が多く、原は蓬や野茨にとざされ、時々芋の畑瓜の畦に鋤をかかげた農夫をみかける程度でした。東北線が大宮町から分かれて綾瀬川を渡り蓮田を通って北に向かうことになり、雑木や茅をのぞき、うっそうたる叢をおこし、土をけずり桑を抜く工事が行われた。はじめ、人形の町岩槻が車站(駅)に予定されたが、所謂誘致土地献納運動を、飯野吉之丞・田口命助・吉田源左衛門等が首唱し、あたかも蟻の甘い蜜につくが如く共鳴を得て、遂に蓮田車站設置が決定されたのでした。そして、酒店、果物屋をはじめとして商舗が建築され、瓦葺の二階建て、明るい軒燈がともり、林と草原は一変して、賑やかな駅前通りが現出した。時に当時の人達は『蕭索の三郷を繁華の巷に化すことは国利民福の事業なり』として同志が大同団結して車站納地を敢行したのでした。所期の目的を果たして十余年、同志の中に欠くる人もでてきたので当時の積極的な気概や就労の概要を記し、これを後人に伝うることも又百年の計ならずやと謹んで建碑したわけです。」(蓮田駅開設七十五周年駅庁舎改築竣工記念「蓮田駅開設の栞」より)(はすだ観光協会http://hasuda-kankokyokai.com/syatan.html)

     調べてみると、岡駅西口にも撫山の「新設白岡車站之碑」がある。この地域の人は、何か大きなイベントがあると必ず撫山に文章を依頼したのであろう。
     隣の解説板には『鉄道唱歌』第三集(奥州線・磐城線)第五連の歌詞が掲げられている。奥州線と言っていたのだね。「鉄道唱歌って何番まであるんですか?」私たちが辛うじて知っているのは第一集(東海道篇)だけである。「地理教育鐵道唱歌」と銘打たれて全国に及んだとは知識の上ではあったが、歌詞にお目にかかるのは初めてだ。
     そのほかは第二集「山陽・九州篇」、第四集「北陸編」、第五集「関西・参宮・南海篇」、第六集「北海道篇」と全国に及び、合計全六集三百七十四番となるらしい。ついでだから第三集の上野から利根川までを記しておこうか。

    一 汽車は烟を噴き立てゝ
        今ぞ上野を出でゝゆく
      ゆくへは何く陸奥の
        青森までも一飛に
    二 王子に着きて仰ぎみる
        森は花見し飛鳥山
      土器なげて遊びたる
        江戸の名所の其一つ
    三 赤羽すぎて打ちわたる
        名も荒川の鐵の橋
      その水上は秩父より
        いでゝ墨田の川となる
    四 浦和に浦は無けれども
        大宮驛に宮ありて
      公園ひろく池ふかく
        夏のさかりも暑からず
    五 中山道と打わかれ
        ゆくや蓮田の花ざかり
      久喜栗橋の橋かけて
        わたるはこれぞ利根の川

     駅に戻ると、もう誰もいない。「どうしようか。」「途中下車しますか。」若者五人は大宮で降りて庄やに入る。四時半である。

        春の野は鉄道唱歌で日が暮れて  蜻蛉

    蜻蛉

     撫山と岐阜の関係については、後日オクチャンから補足説明を受けた。それによれば、岐阜一宮に近い中島郡は撫山の先代の祖父の出身地であった。日本橋にあった駕籠商の自宅が大火で焼けたため、撫山は祖父の別荘・隠居所のあった江戸亀戸で生まれたとのことである。