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    平成二十七年四月二十五日(土)
    東伏見から吉祥寺へ(武蔵野の並木道を歩く)

    投稿:   佐藤 眞人 氏     2015.05.01

     四月は雨が多く肌寒い日が続いていたが、ここ数日で急に気温が上昇してあっという間に初夏になった。つい最近まで、図書館には暖房が入っていたのだ。
     駅までの道にはハナミズキやシャクナゲに加えての他にツツジの赤が目立ってきた。この頃はシバザクラを植える家も多く、民家の庭先に良く見える。城西大学近くの星宮神社裏の土手にはクサイチゴの花も出てきた。今日は旧暦三月七日、穀雨の次候「霜止出苗」である。
     今回は千意さんが企画した。東伏見駅は降りたことのない駅で、西武線だろうと見当はつけたが、新宿線か池袋線かはっきりしない。あるいは国分寺線とかいう支線になるか。調べてみると新宿線で、それなら本川越からまっすぐだが、急行は停まらないので田無で各駅停車に乗り換えなければならない。蓮田の住人が、どうしてそんなコースを企画したのだろうか。
     妻が腕時計型の万歩計を買ってくれたので、今日はそれを装着してきた。本川越からはかなり時間がかかるから座っていると眠くなる。東村山で特急の通過を待ち、久米川、小平、花小金井、田無と停まった。路線図で東伏見は二つ目だと確認する。
     向かいのホームで各駅停車に乗り換えて座席に座る。一つ目の駅でドアが閉まって動き出した時、窓の外の若旦那と目が合った。ここで思わず手を振ってしまったのが我ながら不思議だ。よく考えれば(考えなくても)そもそも目的は同じ筈だ。若旦那は間違えて一駅前で降りてしまったのだろう。元気なようでも八十歳を超えているのだからね。しかし間違えているのは私だった。なんとここが東伏見ではないか。若旦那には謹んでお詫び申し上げなければならない。
     西武柳沢はいつ通過したのだろう。この僅かな時間に記憶が飛んでしまったのか。三分ほどで次の武蔵関に着き、慌てて下りホームに走ったが走る必要はなかった。下り電車は五分後で、東伏見には九時五十分に到着した。
     階段を上ると、改札の向こうでロダンやヤマチャンが笑っている。「ロダンがさっき蜻蛉の顔を見たって言ってたんだよ。タバコでも吸いに行ったんじゃないかって。」「幻を見たんでしょうかね」とロダンが首を捻る。
     若女将からは、「私たちが間違えたかと思っちゃったわよ」と笑われる。「本川越で乗り換え方法を駅員に親切に教えてもらったんですよ」と若旦那も口をそろえる。「この頃は、誰でも親切なんですよ。」全くみっともない話だが、取り敢えず定刻前に到着できて良かった。
     万歩計を確認して、ここまでの歩数三千七百歩を記録しておかなければならない。日付が変わると自動的にリセットされる仕掛けだが、一日の途中でリセットする仕方が分からないのだ。
     今日は人数が多い。随分久し振りなのはサッチャンだ。相変わらず大きくて重そうなカメラを、胸に抱え込んだリュックの上に載せている。「重いでしょう。」「重いのよ。」動画を撮影してCDを作るひとだ。ロザリアも何年振りだろうか。「相変わらず山ですか?」「冬山が面白くて。」冬山は怖いではないか。「そんなことないよ。」彼女が来るなら、弟子の桃太郎も来て良かったのではないか。
     中将の顔も珍しい。「小町は元気ですか?」「元気だよ。だけど十二キロもあると歩けないって言うからさ。今日はピンチヒッターなんだ。」千意さんの計画では、本日の行程十二キロとなっているのだ。中将は「休日お出かけパス」を持っている。
     弁当を買いに行く人を暫く待つ。「東伏見なんて知りませんでしたよ。」ロダンは東武沿線には詳しくても西武沿線は苦手か。私は駅名だけは知っていて地名の由来までは気づかなかった。と言うより殆ど無縁の駅だったが、元々は上保谷村であり、駅名も上保谷駅であった。昭和四年(一九二九)、京都伏見稲荷大社から分霊を勧請して東伏見神社を創建したのをきっかけに、地名も変えたのだ。
     そしてここは西東京市である。保谷と田無を合併したものだが、他に何か名前の付けようはなかったか。

     新市名の選考にあたっては、まず公募によって集まった名称から「西東京市」「けやき野市」「北多摩市」「ひばり市」「みどり野市」の五つが候補として絞り込まれた。これを受けて実施された市民意向調査によって最も多くの支持を集めた「西東京市」が、合併協議会によって新市名と決定された。 (ウィキペディア「西東京市」より)

     日本人の言語感覚は明らかに貧しくなったのである。候補に絞り込まれた五つのいずれも、実に安易で全く歴史を感じさせない。「保谷は町の名で残ってますね。」駅前の地図を見てロダンが確認する。保谷はかつて穂屋または穂谷であり、元禄の頃に保谷の表記になったと言われる。
     「こんなに参加してくれると思わなかったので足りなくなっちゃった」と言いながら千意さんが「むさしの観光マップ」を配り、初参加の三人を紹介する。蓮田のスギチャン夫妻と、狛江の美女サクラさんである。蓮田なら千意さんのご近所だが、狛江の人がどうして千意さんと知り合うのかが不思議だ。「お友達ですか?」「そうじゃないんです。」サクラさんは、友達ではないということを強調する。「あるセミナーでご一緒して、お誘いを受けたんですよ。」一度会っただけの女性を誘うとは、千意さんはなかなか大したものだ。
     改めて数えると、千意さん、隊長、サッチャン、チロリン、ロザリア、オクチャン夫妻、イトハン、古道マニア夫人、若旦那夫妻、宗匠、ハコサン、オカチャン、ロダン、ダンディ、中将、ドクトル、ヤマチャン、スギちゃん夫妻、サクラさん、蜻蛉。これで二十三人になる筈だ。
     「二十二人じゃないの?」また宗匠と数字が合わない。「おかしいね。」数え直しても私の勘定はあっている。「数え間違えてたよ。」「最高記録じゃないかな。」そうかも知れない。
     千意さんの挨拶が終わると、隊長が気象図を開いて、今日は雷の心配があると説明する。上空の寒気と地上の気温に四十度の差があるのだそうだ。「雷は山沿いだとは思うけど、注意しましょう。」「あの人は専門家ですか?」「気象予報士なんだ。この会の隊長だよ。」「エライ人がいるんですね。」

     「それじゃ出発しましょう。」ロータリーから左に曲がろうとして、千意さんはリュックを背負っていないことに気付いた。「変だと思ったのよ。随分身軽だから。」若女将が笑う。「二度目だね。」「府中の時だよ。」今回は早く気付いたが、最初から笑わせてくれるリーダーである。
     スケート場の前を過ぎると、左手の鬱蒼とした林の入口に「稜威会本部」の立札があるのに気付いた。「何かしら?」「どこかの会社の研修所じゃないかな。」リーダーの資料には勿論書かれていないし、こんなことを穿鑿するひとはいない。しかし何となく気になってしまうのが私の欠点で、そのせいで作文が無暗に長くなる。稜威会のホームページにはこんなふうに書いてある。

     稜威会は、川面凡児先生の提唱された「祖神垂示」の教えに基づき、禊の行を実践することにより、各人の霊魂である「直霊」を開発し、各人それぞれの個性(=天命)にしたがって、天職・使命を尽くし、神の子の姿を、身に顕わし家に顕わし、国家社会に顕わし世界に顕わすことを目標としています。(http://www.miizukai.org/miizukai/index.html)

     川面凡児とは何者だろうか。私の知識の範囲には全く入っていなかったが、重要人物ではなかろうか。文久二年(一八六二)豊前国宇佐郡に生まれ、昭和四年(一九二九)に亡くなった。自由民権運動に参加し、後に宗教界に入った人物である。

     一九〇六年(明治三十九)に下谷区三崎町に「全神教趣大日本世界教」を旗揚げし、稜威(みいつ)会を創立、神道宣布に専念。一九〇八年(明治四十一)には機関誌『大日本世界教みいづ』を創刊、一九〇八年(明治四十二)から片瀬などで修禊を開始。一九一四年(大正三)、男爵の高木兼寛を会長に、古典を通じて日本の神々を学ぶ古典考究会を設立、『古典講義録』を刊行。同会には秋山真之、八代六郎、平沼騏一郎、杉浦重剛、頭山満、筧克彦らが関わった。
     一九一七年(大正六)から滝行など禊の行を会員とともに各地で始める。神宮奉斎会の会長で、大正期神道界の最高長老と言われた今泉定助が支持したことで、各地の有力な神職の賛同を得て、海浜や滝水での禊行事が全国的に流行した。
     一九三九年(昭和十四)に、九段の軍人会館で十周忌が行なわれ、高山昇(前官弊大社稲荷神社宮司)、富岡宣永(東京深川八幡宮宮司)、水野錬太郎(全国神職会長)、総理大臣平沼騏一郎、文部大臣荒木貞夫らが参列した。その翌年に大政翼賛会が発足し、国民的行事に禊行を採用した。このころから政治家たちの常套句に「みそぎ」が使われるようになった。(ウィキペディア「川面凡児」より)

     禊、大政翼賛会、それにここに登場する名前が揃ってしまえば、それだけで敬遠したくなるが、現在の神社神道が行っている禊は全て川面に由来するというのは、私には新発見であった。ケガレとキヨメは神道の根本概念だから、禊だって勿論古代からあっただろう。しかし神道にはそもそも教義も経典もない。それを体系化し、現在殆どの神社で採用される様式を整えたということである。日本人のメンタリティに与えた影響は大きい。戦前の教派神道と国家神道の流れを考えるとき、出口王仁三郎とともに注目しなければいけない人物かも知れない。

     そしてリーダーは武蔵関公園に入って行く。練馬区関町北三丁目。石神井川に沿ってへばりつくように、細長いひょうたん型の池がある。武蔵野台地の湧水によってできた池で富士見池と呼ぶ。周りは台地で、ここから富士山が見えたとは思えない。かつては「関の溜」と呼ばれていたから農業用水として使われていただろう。その周りを遊歩道にした公園である。
     ミズキが白い花をつけている。「枝が鹿の角みたいに上を向いてるんだよ。」隊長のこの言葉は何度か聞いている。野川公園の水木橋の辺りにはミズキだけを集めた一画があり、無数の白い細かな花が風に吹かれて散るのを見たことがある。「野川は良く行きますよ」とサクラさんが言う。自然散策が好きな人なのだろう。
     池にはペアでボートを漕いでいる姿が見える。「ロダンも奥さんとボートを漕いだんじゃないの?」「そんなことしませんよ。アッ、四十年前にありました。」大学で同じクラスの二人は、授業をさぼって公園のボートで愛を語らっていたのだ。「何を言わせるんですか、もう。」
     黒い水鳥がいればバンかな思うのは、それしか知らないからだ。オクチャンも「オオバンですね」と言ったが、すぐに隊長から「キンクロハジロだよ」と訂正された。よく見ると腹が白い。「帰り時を失ってしまったんだね。」カモ科ハジロ属。本来ならば既に北方に旅立っていなければならない。

     春の鴨寄り添ふ如く浮かびたり   蜻蛉

     「これはキリですね。」オクチャンの声で見上げるが、花が咲いていないと私には分からない。「もうじきでしょうかね?」「五月中旬でしょうか。」城西大学に通う裏道の、墓地脇の畑の角に立つキリも、坂戸駅の立ち食い蕎麦屋の脇のキリもまだ全く咲く気配がない。「私はキリの花が好きなんですよ。だんだん少なくなってきましたね。」あの薄紫の色は何か儚げな気分を誘うかも知れない。
     地面には長さ四五センチばかりの紐状のものが無数に落ちている。「何の花でしょうか?」サクラさんに訊かれても私には答えられない。ちょうどオクチャンがそばにいるので訊いてみた。「これはイチョウですね。雄花。」「イチョウは雌雄で木が違うんですよね。」
     オクチャンは一本々々樹肌や枝振り、葉の形を確認しながら声を出す。私はいくら説明を聞いてもすぐに忘れてしまう。記憶の容量が限られていて、樹木のことを蓄える部分がないのである。「素敵な公園ですね。」「ホント、いいわねエ。」遊歩道を取り巻く新緑が美しい。まさに「万緑」の中を歩く気分だ。と言ってしまえば、中村草田男の句を外す訳には行かない。

     萬緑の中や吾子の歯生え初むる  草田男

     万緑という言葉を初めて季語として使った句として名高い。草田男自身は「万緑叢中紅一点」から採ったと言う。こうした不安定な語を使うのは常道を外れているが、錚々たる俳人がこれに衝撃を受けて即座に採用したので季語として確定した。草田男の腕力が通用させたのである。

     万緑の万物の中大仏        高濱虚子
     万緑になじむ風鈴夜も昼も     飯田蛇笏
     万緑やわが掌に釘の痕もなし    山口誓子
     万緑を顧るべし山毛欅(ぶな)峠  石田波郷
     万緑の中さやさやと楓あり     山口青邨

     しかし草田男の冒険を真似して新奇な言葉を使うのは素人には危険すぎる。凡人は言葉に関しては保守的であるべきだ。言葉の保守性に関連して、ちょっと前の職場の昼休みの会話を思い出した。話は少しずれるが、最近の若い衆の言葉遣い、とりわけ「ヤバイ」が話題になったのである。本来「危い」を意味したヤクザの隠語で、下品な言葉だ。それが最近の女子供の間でもっぱら肯定的な意味で使われる。時代によって言葉が変化し、かつての隠語が表通りを闊歩するようになるのは仕方がないが(裕次郎の流行らせた言葉は大抵これだ)、品は失わないようにしたい。つまり流行語は使わないで済ましたい。緑雨だって言っているではないか。

    ○汝士分の面目を思はば、かの流行言葉といふを耳にすとも、決して口にする勿れとは、我が物の師の固く誡めたまへるところなり(齋藤緑雨『おぼえ帳』)

     緑雨は決して古くないと思うのだが、どうも話が余計な方向に逸れてしまう。ところで「歯生え初むる」と言えば、ちょうど宗匠の孫がそういう時期だろうか。這い這いを始めたらしい。我が家の孫は上下とも何本かの歯が生えて、なんでも口にして齧る。
     「シャガだね。」「いつも見てるのに名前が出てこなかったわ」とサクラさんがメモを取る。公園を出ると石神井川で、池との間に堰が設けられている。かつて湧水で満たされた池も、現在では石神井川の水量調節のための遊水池として使われている。
     溜渕橋を渡って、右手に早稲田のグランドを見ながら川沿いを歩く。左手の道路脇に、今年初めてのムラサキケマンを見つけた。それにしても、こんなところに早稲田のグランドがあるなんて知らなかった。「ハンカチ王子が練習してたんですよ。」

    西武鉄道の上保谷の開発計画は早稲田大学の誘致運動に始まる。まだ鉄道も開通していない一九二五年(大正十四年)、西武鉄道(旧)は早稲田大学に対して上保谷に所有していた土地約二千五百坪の寄付の申し出をし、その土地を大学は総合運動場として各体育部に利用させることに成功した。(ウィキペディア「東伏見駅」より)

     護岸は平板なコンクリートではなく、割に大きな石を並べて固めたものだ。水の量は少なく、川底に敷いた石が半分ほど露出している。河原を見下ろすと、菜の花、ムラサキハナナのほかに白い花も咲いている。「あれは何かな?」宗匠が声を上げると、「オオカワヂシャじゃないでしょうか」とオクチャンが応える。カワヂシャは環境省の準絶滅危惧種で、オオカワヂシャは特定外来生物に指定されている。後であんみつ姫からは、ノヂシャというものもあると情報を貰った。チシャとは初めて聞く名前で萵苣と書くようだが、この字は別にレタスのことも言う。
     「あっ、馬がいる。」川の向こうでは、白馬が繋がれたまま円を描いて走っている。「馬がいるよ。」自転車で通りかかった親子も、自転車を止めて馬の様子を覗っている。「隣は厩舎かな?」学生らしき数人がそこに出入りしている。「馬術部か。」この辺りが早稲田大学の西の端になる。
     石神井川を逸れて道路(東伏見駅からまっすぐ来た道)を渡り、左手の階段を上った高台が下野谷遺跡公園だ。西東京市東伏見六丁目四番地。「シタノヤって読みます。」「シモツケって読んだひとがいる。」「それはかえって教養があるじゃないか。」「地名は難しいよ。」広い芝生の隅にコンクリートで固めた一画があり、そこに竪穴住居の骨組みを復元してある。「狭いじゃないか。」隊長はそう言うが、技術的にそんなに広い部屋を作れる筈がなかった。

     縄文時代中期(今から約四~五千年前)の環状集落であり、南関東では傑出した規模と内容を持っています。
     直径約一五〇メートルの集落は、住居跡群、墓と考えられる穴土坑群、掘立柱建物(倉庫などと考えられる建物)群などで構成されており、縄文時代中期の典型的な形態をしています。さらに、谷を挟んだ東側には、下野谷遺跡東集落というべき、ほぼ同時期の環状集落が存在しています。
     このような形態や、出土している土器からわかる集落の継続期間が千年間と非常に長く、また、住居跡や土坑が密集して見つかっていることなどから、下野谷遺跡は石神井川流域の拠点となる集落だったと考えられています。
     開発の著しい首都圏において、このような大集落が、ほぼ全域残っていることは極めてまれであり、未来に残すべき貴重な文化遺産であるとされています。(西東京市「祝 下野谷遺跡 国史跡指定 決定!」より)
     http://www.city.nishitokyo.lg.jp/topics/kyoiku/syakyou/syukusitei.html

     「やっぱり川が重要なんだね」とハコサンが感心する。石神井川流域には有力な縄文遺跡が多く発見されている。この公園はその一部で、わずかに宅地化を免れたところだ。川には当然魚がおり、魚を捕食する動物も集まる。流域の低地は湿地帯で、土器の原料となる粘土が採れることも大きな要因だった。
     尖頭器、スクレイパー、ナイフ形石器、ドリル、石核、石鏃、和田峠からの黒曜石、細刃石、山梨産の水晶も発掘され、それらの出土品は西東京市郷土資料館に収められている。発掘した跡はきれいに埋め戻され(将来予算がつけば、遺構をきちんと調査する筈だ)、一面芝生で覆われた広場になっている。広場の周囲には縄文の森と称してコナラ・クリ・トチノキ・モミを植えている。
     縄文集落はこの辺から中島飛行機跡地まで広がっていたとも書かれている。「中島飛行機ってどこですか?まさか太田じゃないですよね。」太田は中島知久平の出身地で、中島飛行機発祥地であることは以前にも触れている。「太田城址で中島知久平の銅像を見たよね。」隊長もそれを覚えていた。「三鷹のICUと富士重工も中島飛行機でしたね。」武蔵野工場の正確な場所は、その時に調べた筈だが忘れてしまった。
     「私らの頃は、中学生になると勤労動員で中島飛行機にやらされたもんだよ」とハコサンが重々しく証言するが、ハコサン自身はまだその年齢には達していなかった筈だ。
     それ以上に喧しくなってくるのは、描かれた女性の絵である。縄文時代や弥生時代を説明する教材に、漫画のような人物画を描くことが多いのだが、これはあまり教育的ではない。縄文人はおそらく古モンゴロイドで、大陸で氷河期を越して寒冷地適応を果たした新モンゴロイド(おそらく弥生人)とは顔付が違う。それに服装にしたって布の断片は発見されても、どんな形だったか、はっきりしたことは分からないのである。
     「こんなに美人がいたのかしら。」「ピアスが赤い。」「付け睫毛じゃないの。」「アイシャドウもしてる。」出土品にはイヤリングも含まれているから、装身具に対する女性の思いは昔から変わっていない。アイシャドウは刺青の可能性もあるが、付け睫毛はしていなかっただろう。
     ところで、そもそも付け睫毛はいつごろ生まれたのかと調べていると、日本発祥であるという説に出くわした。本当だろうか。戦後、芸者が自己流で髪の毛を利用して作っていたものを、昭和二十二年にコージー本舗が売り出したというのである。ただし関連する記事のほとんどは「日本で初めて付け睫毛を売り出した」とあって、世界で初めてのことだとはどこにも書いていない。従ってこの説については判断保留としておく。
     「蜻蛉は若いって言ってるよ。」ダンディの言葉で振り替えると、若女将が感心したように私の顔を見る。私だけが半袖Tシャツの姿だからだ。「一番若いんでしょう?」「一番はロダンだよ。」それから宗匠とヤマチャンが続いて、今日は下から四番目になる。「六十四になったばかりだよ。」「それじゃ息子みたいなものだわね。」若女将の年齢を尋ねるような無礼はしないが、若旦那は私の母と一つしか違わない筈だ。ふたりこそ「若い」と言わなければならない。
     「これ何かしら?」サクラさんが小さな花を見つけた。直径二ミリか三ミリで、普通は気付かずに踏み潰してしまう。空色の小さな花だ。「隊長、これなんですか?」「分からない、オクチャンに訊いてみてよ。」「なんですか、ここにいますが。」オクチャンは双眼鏡をルーペのようにして観察する。「イヌフグリの一種でしょうね。」これもイヌフグリか。「コゴメイヌノフグリかな。」「もしかしたらフラサバソウじゃないかな。」そんなに種類があるとは知らなかった。

     縄文の風やはらかに犬ふぐり  蜻蛉

     公園を出てもう一度石神井川に戻ると、伏見通りの下を通る前で水が涸れている。それなら、この下流の水は湧水だろうか。
     二十三人もいると一度で信号が渡れない。信号を渡る時にスギチャン夫妻と一緒になった。「千意さんとはご近所付き合いですか?」「違うの。女房が太極拳の仲間なんですよ。」そうだったのか。千意さんは太極拳もするのである。
     「俳句を作るそうですね。」誰かが誇大な噂を流しているようだ。「自己流ですよ。」そもそも俳句と呼べる代物かどうか、ちゃんと添削や批評を受けたことがないから全く分からない。夫人が「季語が難しくて」と言うのは、以前試みたことがあるらしい。「季語の辞典みたいなものがあるんでしょう?」それを歳時記と言う。信号が変わりそうなので走りながら「このひとが俳句の先生なの」と宗匠を指さしたが、気付いてくれただろうか。
     信号を渡れば東伏見神社だ。西東京市東伏見一丁目五番地三十八。朱塗りの大きな鳥居が聳え立っている。「キツネがいますね。」スギチャンが驚いたような声を出す。「お稲荷さんだからね。」「そうか、そうだよね。」キツネを古語でケツと呼んだ。これが宇迦御魂の別名とされる御饌津神(みけつのかみ・食物神)と混同されて、稲荷神の使いになったというのが定説だろうか。
     先に書いたように、ここは昭和になって創建された神社だ。祭神は宇迦御魂大神、佐田彦大神、大宮能売(オオミヤノメ)大神の三柱である。宇迦御魂は知っていても、ほかの二柱の名前は初耳だった。無学なのである。神社のホームページを覗いてみると、佐田彦は「海陸の道路を守り」とあるので猿田彦に間違いない。大宮能売は、本来は市の神らしいが、「歌舞音曲方面に信仰の篤い」とあるので、アメノウズメに比定しているのだろう。
     「京都の伏見稲荷は行ってるでしょう?小さな赤い鳥居が無数にあって。」ダンディは関西の人だからそう言うが、京都に行ったのは高校の修学旅行の時だけで、その頃の高校生が神社仏閣に興味のある筈がない。だから行ったかどうかさえ記憶にない。「へーッ、そうですか。」
     ホントに京都まで行って何を見たのだろうか。行きは東海道線の夜行、帰りは新幹線だったような気がする。定番の神社仏閣には寄った筈だが全く覚えていない。自由行動の時には古本屋に寄ってカフカ全集の端本を買った。それから歌声喫茶に行った。今考えても自分の行動の意味が分からない。
     しかしそんなことは余計なことである。犬と獅子が揃っているのは割に珍しいから、一言説明しておきたい。「角のあるほうが犬です。ないのが獅子。」平成十八年(「江戸歩き」第四回)に芝神明宮で初めて教えて貰ったことだから、あの頃は全く何も知らなかった。
     「私の頭にも角が生えてるかしら?」「どれどれ。あっ、この辺に。」「わたしは戌年だから。」「それじゃ、子丑寅卯・・・・・。」なぜか隊長が指を折って数え始めた。「なかなか戌がでてこないんだよ。」「イヤネエ。」

     ・・・・・無角の獅子と有角の狛犬とが一対とされる。飛鳥時代に日本に伝わった当初は獅子で、左右の姿に差異はなかったが、平安時代になってそれぞれ異なる外見を持つ獅子と狛犬の像が対で置かれるようになり、狭義には後者のみを「狛犬」と称すが、現在では両者を併せて狛犬と呼ぶのが一般化している。(中略)
     鎌倉時代後期以降になると様式が簡略化されたものが出現しはじめ、昭和時代以降に作られた物は左右ともに角が無い物が多く、口の開き方以外に外見上の差異がなくなっている。これらは本来「獅子」と呼ぶべきものであるが、今日では両方の像を合わせて「狛犬」と称することが多い。(ウィキペディア「狛犬」より)

     「狛犬に雌雄があるっていうのは本当ですか?」「それはないですね。」狛犬は雌雄を配置したという俗説があるのは知っているが、全く根拠はない。「そうですよね」とオクチャンも納得する。それに犬と獅子の配置、どちらが阿形でどちらが吽形かも、色々あって何が正しいのか分からない。石屋の趣味ではなかろうか。しかし配置についてはちゃんと典拠があった。

     獅子と狛犬の配置については、『禁秘抄』と『類聚雑要抄』に共通して獅子を左、狛犬を右に置くとの記述があり、『類聚雑要抄』ではさらにそれぞれの特徴を「獅子は色黄にして口を開き、胡摩犬(狛犬)は色白く口を開かず、角あり」と描いている。獅子または狛犬は中国や韓国にも同様の物があるが、阿・吽の形は日本で多く見られる特徴であり、仁王像と同様、日本における仏教観を反映したものと考えられている。(ウィキペディア「狛犬」より)

     色々あると言った通り、ここの配置は上記の説とは逆になっている。拝殿の脇には「お塚案内図」が掲げられている。社殿の裏に小さな朱塗りの鳥居が並び、いくつもの神様を巡って歩く仕掛けになっているのだ。白狐社、佐田彦大神、保食大神、宇迦之御魂大神、末広社、三徳社、太郎稲荷社、要町稲荷社、金鷹社、権太夫社、稲荷社、愛法稲荷大神、十戒徹修、愛徳稲荷大神、八幡大神、綾太郎稲荷神社、開照大神、祖霊社、末広社とあるらしいのだが、全ては確認できない。
     私は逆回りに行ってみたが、途中でイトハンやオクチャンに出会った。「この筆塚の文字が読めない。」変体仮名は知る必要があり入門書は一冊買っているのだが、まだほとんど勉強していないので、目を凝らしてみてもやっぱり読めない。
     「左寸由比乃 さ起を河處 ○万の波先 を○ 心志つ万る と○呂 尓○止久。」辛うじて、こうではないかなという文字を拾ってみた。最初の五文字は「さす指の」だろうか。「心静まるだね」と若旦那も解読するが、それ以上は続かない。署名は美津だろうか。もしかしたら長澤美津と言う人の歌かも知れないが、調べがつかなかった。

     神社を出て、ここでも全員が信号を渡るために時間がかかる。伏見通りをまっすぐ南に向かうと千川上水にかかる関前橋の袂にはツツジがきれいに咲いている。上水の幅は一メートルもない。その橋を越える。
     「少し早めですが食事にしましょう」と千意さんは武蔵野中央公園に入っていく。武蔵野市八幡町二丁目四番地。広大な公園で、もしかしたらここが中島飛行機の跡地ではないか。「そうなんですよ。」実は千意さんが作ってくれた資料にはちゃんと書いてあるのだが、横着してリュックにしまい込んだままだから気付かなかった。「オカチャン、ここが中島飛行機だったよ。」「あっ、そうなんですか。」「エンジンを作ってたんだね。」こういうことはハコサンが詳しい。講釈師がいれば話はもっと長くなっただろう。昭和十九年十一月二十四日から終戦までの間に十数回の爆撃を受け、 爆弾五百発以上が命中、二百名以上が死亡した。
     「資本金六億円で出発した。」ハコサンが断言する根拠はどこにあるのだろうか。ウィキペディアによれば、昭和六年に株式会社に組織替えしたときの資本金は六百万円である。貨幣価値で換算したのだろうか。
     現在の武蔵野市役所やURの武蔵野緑町パークタウンを含めた広大な敷地は、戦後米軍に接収されてグリーンパークと呼ばれた。この公園はその西工場に当たる。連凧を揚げる家族がいる。「鯉幟も揚げてますね。」緋鯉と真鯉だ。鳥のようなカイトの糸に結んであるのだろうか。

     連凧に鯉も交じりて園の空  閑舟

     女の子と父親らしい二人がキャッチボールをしている。「あの子はうまいね。」アンダースローでかなりの速さの球を投げる。「ソフトボール部の選手でしょう。」私なんかでは、あの大きなボールをあんなに早く投げられない。「あれで曲げられるから不思議だね。」暫くしてもう一人の女の子も参加したが、これははっきり言って訓練されていない。

     アンダースロー少女の髪に風薫る  蜻蛉

     「ここにしましょう。」大きな木の下がかなり広い日陰になっていて、千意さんは先客の家族に断わって、その隣に場所を決めた。座り込むのが苦手な人はベンチに向かう。「ドクトルも早くシートを出してよ。」「入ってないんだよ。」空の収納袋を振りながら、ドクトルが憮然としている。それでもロダンや宗匠のビニールシートを合わせて、なんとか場所は確保できた。サクラさんとイトハンも一緒だ。「十二時十五分に出発します。」今は十一時三十分だ。
     オカチャンはいつものように、まめまめしくお菓子を配ってくれる。やがて向こうのベンチからはチロリンが煎餅の袋を持ってやってきた。ロダンも煎餅を配る。「甘いのが食えない人がいるっていたら、女房が煎餅を持たせてくれたんですよ。」奥さんに感謝しなければいけない。サッチャンはパイナップルの砂糖漬けを持ってきてくれた。「あれっ、蜻蛉は食べるんですか?」「果物はいいの。」何度も言っているが、飴と果物は大丈夫だ。
     やさしい風が心地よくて眠くなってくる。「あの北側の大きな建物は何だろう?」「NTT。昔ここに通勤してたの。」それで千意さんは土地勘があるのか。「ENTってなんだい?」「そうじゃなくて、NTT。電電公社ですよ。」電電公社は古すぎるか。NTTの武蔵野開発研究センターである。
     サクラさんが芝生の中からまた小さな花を見つけてきた。オオイヌノフグリよりやや小型だろうか。「これは、タチイヌフグリですね。」オクチャンは即座に鑑定する。サクラさんはイヌフグリに格別の関心があるのか。あるいは小さなものに対する愛着だろうか。「なにもなにも、小さきものはみな美し」と清少納言も言っている。好きな段なので読んでみる。

     うつくしきもの 瓜に描きたる児の顔。雀の子の、鼠鳴きするに、躍り来る。二つ三つばかりなる児の、急ぎて這ひ来る道に、いと小さき塵のありけるを目ざとに見つけて、いとをかしげなる指にとらへて、大人などに見せたる、いとうつくし。頭は尼そぎなる児の、目に髪の覆へるを、かきはやらで、うち傾きて、物など見たるも、うつくし。大きにはあらぬ殿上児の、装束きたてられて歩くも、うつくし。をかしげなる児の、あからさまに抱きて遊ばしうつくしむほどに、かいつきて寝たる、いとろうたし。
     雛の調度。蓮の浮き葉のいと小さきを、池より取り上げたる。葵のいと小さき。なにもなにも、小さきものは、皆うつくし。(以下略)(『枕草子』第百四十六段)

     「名前が可哀想ですよね。」「星の瞳っていう名前もあるんだよ」と中将が言うが、虚子が「いぬふぐり星のまたたく如くなり」と詠んでも一般に普及しない。
     「タチイヌって犬が立小便する姿かな?」スギチャンは面白いことを言う。「そうじゃなくて、茎が立っているから。オオイヌノフグリは地面にへばりつく様に広がるでしょう。それに対して言うんですよ。」なるほど。オクチャンとスギチャンは、種の形状がいかにソノモノに似ているかと熱心に語り合う。サクラさんの傍で、気の小さな私は赤面するばかりだ。

     公園を出て、千川小学校前から五日市街道(都道七号線)に曲がり南西方面に歩く。外周にモッコウバラを巡らした家がある。このバラも随分あちこちで目にするようになったが、ここ十年ではないだろうか。この近辺でも多い。淡い黄色が美しいのと、棘がないことが普及の理由のようだ。「挿し木しておけばすぐに付くんだよ。」チロリンも家に植えているらしい。栽培も簡単らしいのだ。
     「ここが唯一残った畑です。」千意さんは広い畑の前で立ち止まる。「あの赤い屋根の家が名主の井口家です。茅葺屋根を覆ってしまいました。」いくつも屋根が重なるその間に赤い屋根が見える。茅葺屋根を覆うのは消防法の関係であろう。井口家は旧関前村の名主である。

     関前村は旧北豊島郡石神井村関の前方の原野であったので、この名を生じた。寛文初年関の百姓井口某の請負開墾した所である。その開発は吉祥寺、西窪より少し遅い。(中略)
     元禄八年関前新田萱芝改帳、翌九年関前新田内割帳、享保六年御年貢内割帳、明和八年御年貢勘定帳から当村名主は八郎右衞門、または忠兵衞であったことが知られる。(中略)
     八郎右衞門の家は井口一門である。戦国時代北条早雲に滅ぼされた相模の名族三浦義同の一族義村は伊豆に逃れたが、後三浦一又坊入道のとき、走水庄井口郷に移って帰農し、井口氏を名乗ったが、義清(十代目にあたる)は天文年間武蔵新座井之頭郷に住み、更に豊島郡関村に移住した。義清の子源次重信は家康に仕え大阪夏之陣に加わって大阪城中に於いて討死した。この軍功によって井口氏は徳川氏に取立てられ、八郎右衞門春森の代に(寛文年間)関村以下二ヵ村総名主となった。其の一族は順次隣村に出て開墾した。大宮前新田、関前村井口新田等は井口氏の開墾に係る。宝暦年間には、その所領新開墾地が一千町歩に及んだといはれる。関前村の開発責任者は八郎右衞門で、その一族が八郎右衞門を名乗って、開発後関前に一家を興し、名主支配役となった。その子孫は今日に至る。(藤原音松『武蔵野史』)

     これは原本に当たった訳ではなく、ネットからの孫引きだ。練馬区のホームページによれば、関村は現在の地名で練馬区の関町北、関町南、関町東、立野町にあたる。そこの名主であった井口八郎右衛門が開発請負人となって、幕府御用の札野(萱などを刈り取るための立ち入り禁止地域)を開拓したのである。この井口家が三浦氏の流れを汲むかどうかは、私はまだ確認できていない。因みに『武蔵野市史資料編』(武蔵野市編)の第四巻から第八巻の五冊が井口家文書で占められている。
     「あの左手奥にあるのが井口家の大ツバキです。」広い畑の奥に、遠目で見ても赤い花が咲いているのが分かる。井口家が屋敷神として祀った稲荷の境内にあるらしい。樹高約七メートル、根元周囲が二メートル、推定樹齢が二百八十年と言われる。
     武蔵野大学前の信号にかかる手前で通りの向かい側を見ると、何かの石碑が立っているのでカメラで撮ってみた。肉眼では分からなかったが、後で確認すると、歩道にちょっとした塚を築いて石橋供養塔と庚申塔を立ててある。脇には「千川上水遊歩道」の石柱も立っている。街道に沿って千川上水が流れているのだ。
     角を左に曲がると、歩道の上を学生の自転車が塞いで歩きにくい。「武蔵野大学の学生かな。」マナーが悪い。前身は武蔵野女子大学で、平成十五年(二〇〇三)に改名して共学化を果たした。学部増設のスピードが凄まじく、現在では十二学部を抱える総合大学となった。図書館にコンシェルジェというものを採用していて、大学図書館界ではちょっと知られている。
     やっと学生が行ってしまうと、左手のアパートが「コーポ井口」だった。「ここも井口さんね」とロザリアが私の顔を見る。その隣に井口家の門がある。武蔵野市八幡町三丁目七番地。覗き込むが人気はない。その先の角に「御門訴事件記念碑」があった。

     この記念碑は、御門訴事件により非業の死をとげた旧関前村・同新田名主忠左衛門(井口氏)らを慰霊すると同時に、その事跡を後世に遺すために同事件後二十四年を経た明治七年(一八九四)に建てられたものである。(中略)御門訴事件とは、明治三年(一八七〇)、その前年に品川県から布達された社倉制度(飢饉に備えるための貯穀制度)に反対した旧関前村新田を含む武蔵野十二か新田の農民たちが品川県庁へ門訴したもので、この事件は、当市域における維新直後の農民闘争として、まことに意義深いものがある。

    平成十一年三月三十一日建設 武蔵野市教育委員会

     社倉制度そのものは享保の飢饉以来各地に広まっていたから、この地域でも当然行われていたに違いない。だから単に「備荒のための貯穀制度」に反対する訳はない。これだけでは様子が分からないが、次の記事でだいぶ分かってくる。

     一八六九年(明治二)十一月、品川県は従来の貯穀制度を廃止し、高五石以上の家は一石につき米二升づつ、高五石以下は三段階にわけ、上は一戸あたり四升、中は三升、下は一・五升を飢饉の備えとして積みたてる、ただし本年は米一斗=一両の割で換金して納入せよ、と命じた。これに対して、田無周辺の関前新田、上保谷新田、梶野新田、柳窪新田、鈴木新田、戸倉新田、関野新田、大沼田新田、内藤新田、野中新田与右衛門組・善左衛門組・六左衛門組の一二新田が激しく抵抗し、「御門訴事件」と呼ばれる大騒動になった。(中略)
     このため、一八七〇年(明治三)一月一〇日、田無村八反歩に集結した農民数百人が、日本橋浜町の品川県庁めざして青梅街道をつき進む事態となった。県庁や村役人の手配によって内藤新宿の淀橋付近で多くが阻止されたが、これを逃れた農民たちは中野から北東にまわりこんで県庁前に到達した。すでに夜であった。県吏は門を開け、願があるなら内へ入れと誘うが、農民は動かない。入れば「強訴」となるからだ。農民はあくまでも合法的な「門訴」(歎願)の形を守った。業を煮やした県庁側は鉄の鞭などを振りまわしながら農民に襲いかかり、四十六人を捕縛した。「御門訴事件」という呼称はここから生まれた。(『小平市史料集』第十八集解題)

     江戸期以来の社倉は村の富裕層によって蓄えられ、村によって管理された。下層農民にその負担がなかったのは、万一の際の困窮者救済が趣旨なのだから当り前である。しかしこの時の品川県の命令は、中下層民にまで過酷な負担を求め、集めた米の管理も県が一括するという増税政策だったのである。その比率に相違はあっても、貧富を問わず広く徴収しようとする。消費税の発想と似ていますね。おまけに幕末以来この地方では飢饉が続いており、増税なんてとんでもないことだったのだ。
     財政難の初期明治政府は幕政時代以上の苛政を敷いたのである。維新から明治六年の地租改正を経て十年間に、農民一揆は四百九十九件(年平均五十件)起きている。天正十八年(一五九〇)から維新までの二百七十七年間に起きた百姓一揆が三千二百十二件(年平均十一・五件)だったから、明治初期の一揆発生がいかに多いかが分かるだろう。
     上の記事では「合法的な『門訴』(歎願)」と言っているが、江戸時代でも一揆自体が非合法活動である以上、門訴も強訴も変わりはない。何か誤解があったのだろうか。そして名主たちは一揆首謀者として拷問にあって牢死あるいは病死した。当時の品川県知事は佐賀藩の古賀定雄で、通称は一平。大木民平(大木喬任)、江藤新平とともに、佐賀藩の「三平」と呼ばれたと言う。宗匠やヤマチャンは知っているだろうか。後に佐賀県知事になった時にも強引な政治手法で問題を引き起こして罷免されている。

     「これもモッコウバラだよ。」白いモッコウバラは初めて見たが、私と同じような人は他にもいた。ウィキペディアによれば、モッコウバラは黄色と白に限られる。「白花は黄花より開花が若干遅く、芳香性を持ってはいるが黄花ほど多花性は無い、成長も黄花に比べるとやや遅い」ということだ。
     街路樹のように立っているのはキリだ。「あっ、花が咲いてる。」大胆に剪定された枝のかなり上の方に花が咲いている。「早いですね。」先にも書いたように、まさかこの時期に咲いているとは思わないし、オクチャンも驚いている。武蔵野市立千川小学校の外壁はきれいな煉瓦造りだ。
     小さな公園の藤棚にはもう薄紫の花が重そうに垂れ下がっていて、入り口に立っただけでかなり強い香りが漂ってくる。「スゴイ香りですね」とオクチャン夫人も口にする。今日、初めて夫人の声を聞いたかも知れない。そしてまたさっきの中央公園に戻ってきた。ちょっと不思議な経路だったが、四十分ほどかけて周辺をぐるりと回ったことになる。「えっ、さっきの公園なの?」「そうですよ、私がご飯を食べたのがそこですよ。」サッチャンは一人で食べていたのだ。
     公園を東に抜け、緑町パークタウンという大きな団地の中を通り抜ける。六階建てだからエレベーターがあるだろう。「ここも中島飛行機だったんですね。」東工場の跡地である。
     市役所の前でトイレ休憩をとる。イトハンと宗匠は地図を貰おうと市役所に入っていったが、手ぶらで戻ってきた。「やってなかったでしょう。」「それに選挙の準備で忙しそうだったわ。」ここで話題になるのはヒイラギナンテンだ。もう黄色の花は終わって、くすんだ色の実がなっている。「この実は食べられるんですかね。」「食べないよ。」
     「あら、雨が一粒落ちてきたみたい。」最初に気づいたのはサッチャンだ。「いつもは傘を入れてるのに、この間リュックを干した時に入れ忘れちゃった。イヤネエ、干さなければ良かったわ」と言うのはイトハンである。私は全く心配していなかったから、傘なんか持ってきていない。「それじゃ出発しましょう。」
     確かに雨の粒が二つ三つ落ちてきたものの、それ以上になることもなくすぐに止んだ。総合体育館、プールを過ぎれば更新橋だ。千川上水である。「にんべんの仙ですか?」「違う。百の上の千。」「京王線にありますよね。」「あれは仙川駅だね。」しかし仙川と千川は全く関係がない訳ではなく、実はややこしい関係があった。

     玉川上水の流路上、東京都西東京市新町と武蔵野市桜堤との境界付近にある境橋(旧武蔵国多摩郡上保谷村地先)に分水口があり、ここから豊島区西巣鴨まで、武蔵野台地上をほぼ東西に流れる。(ウィキペディア「千川上水」より)

     有楽町線に千川駅(豊島区要町)があって、これも千川上水に因む。更に千川の名称は仙川に由来するのである。分水口のある境橋が多摩郡仙川村の近くにあり、仙川村の太兵衛・徳兵衛が開削に当ったことから名付けられたものらしい。しかし、既に万治三年(一六六〇)頃に開削された仙川用水があって、それと区別して「千」に変えたものではないだろうか。仙川村は上中下に分かれ、それぞれ三鷹市新川、三鷹市中原、調布市仙川に相当し、仙川はまさにこの範囲を流れている。

     一六九六年(元禄九年)に江戸幕府将軍徳川綱吉により上水開削が命じられる。公の目的は、小石川御殿(綱吉の別荘)、湯島聖堂(幕府学問所)、上野寛永寺(徳川家菩提寺)、浅草浅草寺(幕府祈願所)等への給水だが、六義園(綱吉の寵臣・柳沢吉保の下屋敷)内の池へも大量に引水された。
     ・・・・上水路の設計は海運の発展に多大な寄与があった豪商の河村瑞賢がこれを行い、多摩郡仙川村の太兵衛・徳兵衛が開削にあたった。『御府内上水在絶略記』には、太兵衛・徳兵衛の開削の功により、仙の字を吉字に改めて千川とし、両人にこれを名字として賜った旨の記述がある。(同上)

     玉川上水から千川上水が分岐する辺りは、以前スナフキンの案内で玉川上水沿いに歩いた時に通っている。地図を確認すると、境橋から玉川上水に桜橋の間に「うどの碑」(うど橋)や独歩の文学碑がある。
     ここからは上水に沿った遊歩道を歩く。「太宰が心中したのはどこでしたか?」サクラさんはそういうことに関心があるのか。「あれは玉川上水。三鷹駅のすぐそば。」細い用水には鯉が泳いでいる。いろいろな種類の樹木があって、それぞれには名札がかけられている。私が気付いたのはイボタノキ、エノキ、カリン、ヤマブキである。初めはコンクリートだった護岸が、やがて自然石を使ったものに変わってくる。なかなか良い散歩道だ。
     時々自転車が通るが、人通りは多くない。「後ろから自転車が来ます。」しかし前を行く人たちにはなかなか届かない。耳の遠い人たちが増えているのだ。
     道端に直売所があるので覗いてみるとタケノコが並べてある。その隣では新玉葱やキャベツなどを売っているが、こんなところでは買わないだろう。通り過ぎたところで、後ろから少し待ってと声がかかった。「タケノコを買うんだってさ。」少し待つと、小さなチロリンが大きな袋をぶら下げて歩いてくる。その後ろから若旦那もビニール袋を片手にやってくる。
     チロリンに袋をみせてもらうと、「あなたの隣が産地です」「とれたて新鮮野菜」「JA東京むさし」の文字が入った袋だ。「重くないの?」「軽いよ。細いのが二本だもの。」
     そして上水を逸れて雑木林の間を抜けて、小さな公園に入って休憩だ。立野公園である。練馬区立野町三十二番地一。入り口は狭いが、奥の方は芝生の広場になっていて、その奥には濃いピンクの花が満開に咲いている。
     最初に問題になるのが、入り口近くで「フウ」の札を付けた木である。「これはフウじゃないよ。モミジバフウだね。」隊長とオクチャンの鑑定に、中将も図鑑を開いて賛成する。葉の形がフウは三裂、モミジバフウは五裂でなければならず、この葉は明らかに五裂なのだ。フウは中国・台湾原産(享保年間に渡来)で、モミジバフウはアメリカ原産(大正時代に渡来)である。
     「どうせ園芸業者に委託して書かせてるんですよ。」「市役所も忙しいからいちいち点検なんかしませんよ。」「小学生が間違って覚えちゃ大変だよ。」これは教育上由々しき問題だとハコサンは憤慨するが、書かれたことを鵜呑みにしてはいけないということを、早くから覚えさせるには良い機会だ。教育委員会の史跡の説明だって、間違っているのが時々ある。
     間違って覚えて恥をかけば良い。その時に市や教育委員会に文句をつけるか、自分で調べ直してみようと思うかは品性の問題である。ネット上の記事を簡単に信じてはいけないのと同じことだ。結局、知識と言うのは自分で調べて納得したものでなければ身につかない。
     「あっちにナギイカダがあったわ。」ロザリアが教えてくれるので行ってみた。「尖ってて痛いのよ。」その通り、葉の先端がとがっていて、ジーンズの上からでも触ると刺さる。調べてみると、これは葉ではなく、末端の茎が扁平して尖ったものである。その上に花が咲くので花筏を連想させるのと、熊野の神木で有名なナギとを合成した名前らしい。「ハナイカダの方が可愛いわね。」あれはこんな凶器のように尖っていないからね。「小さな実が一つだけ。」「こっちにもあるよ。」
     ハナノキというのもオクチャンが教えてくれる。「単にカエデと思ってた」と宗匠が呟く。カエデ科カエデ属だからカエデで間違いではないだろう。ハナカエデとも呼ぶ。葉が展開する前に赤い花をつけると言う。「翼があるんですよ。」見上げると確かに翼果があった。

     公園を出て住宅地に入っていく。道は狭いが車の通行は殆どなく静かな町だ。家々の塀や垣もそれほど高くなく、それぞれ工夫を凝らして花を咲かせている。「見事な花だわね」真っ白いオオデマリが咲いている。「コデマリって言っちゃいけないわね。」私が危うくコデマリと言いかけたとき、サッチャンが注意してくれる。「いい町ね。」ここでもモッコウバラが目立って多い。

     木香薔薇町は微睡む昼下がり  蜻蛉

     ベニバナトキワマンサクがある。「よく知ってるじゃないの。」「なんでも訊いて。」知らないもの以外は何でも答える。派手な色のシャクナゲも咲いている。「色が毒々しいな。」ハコサンの感想に、「西洋シャクナゲって言うんだ」と宗匠が指摘する。以前に姫に教えて貰ったロードデンドロン(rhododendron)と言うべきか。白とピンクのハナミズキも多い。

     花水木彩り満つる吉祥寺  閑舟

     そして成蹊学園の通りに入ってきた。両側に校舎が建っていて、車の通行は禁止されている。「三菱系ですよね。」元々、中村春二が友人の今村繁三と岩崎小彌太の協力を得て作った私塾「成蹊園」が源流である。この吉祥寺の八万坪にも及ぶキャンパスは岩崎の別荘を中心としたもので、歴代の理事長も三菱系の人物が着いている。
     折角だから大正自由主義教育の先駆者として、中村春二についても基礎知識を得ておきたい。成蹊学園のホームページから拾ってみる。読みやすいように段落を施した。

     中村春二は、一八七七(明治十)年三月三十一日、東京市神田猿楽町に生まれました。父秋香は宮内省御歌所寄人を務める歌人であり、優れた国文学者として知られた存在でした。一八九一(明治二十四)年、高等師範学校附属学校尋常中学科に入学した中村は、ここで生涯の親友となる今村繁三と岩崎小弥太に出会います。
     一八九六(明治二十九)年三月、附属中学校を卒業した中村は、第一高等学校を経て、東京帝国大学に進学。同大学在学中から曹同宗第一中学林で講師を務めるなど、教育の現場を体験します。当時の画一的教育や教育機会の不均等に疑問を持った中村は、今村・岩崎両氏の支援のもと、一九〇六(明治三十九)年、池袋に学生塾(翌年「成蹊園」と命名)を開設、塾生と家族同様に寝起きして研鑽するという、自らが思い描く理想の教育を目指したのです。
     やがて中村は塾生を寄宿させ指導するだけの形態に飽き足らぬものを感じ、常時生徒と接することのできる全寮制の私立学校を起こしたいと考え、父から相続した私財を投じるとともに、岩崎・今村両氏の賛助も得て、一九一二(明治四十五)年に成蹊実務学校を創立します。さらに、一九一四(大正三)年には成蹊中学校(旧制)、一九一五(大正四)年に成蹊小学校、一九一七(大正六)年には成蹊実業専門学校および成蹊女学校を創設。成蹊教育の基礎を築きます。一九二四(大正十三)年に逝去、享年四十六歳でした。
     http://www.seikei.ac.jp/gakuen/struct/people/

     けやき並木は、四百五十メートルの間に百四十本のケヤキを植えてあり、その樹齢は百二十年と言う。「右側は普通のおうちですね。」ウォーキングのグループが要所々々に旗をもった人間を配置して歩いていく。「健遊会って書いてますね。」それにしても人数が多い。私たちはたった二十三人でも、誰かが遅れないかと気を使う。「我々も旗を持とうか。」「それはちょっとイヤダネ。」

     新緑の並木導く歩みかな  千意
     新緑のけやき並木や誰と逢ふ  閑舟

     ヤマチャンが女子中学生と話している。こういうことが私には出来ないが、さすがに職業柄である。「小学生は帽子をかぶるんですよ。」「そうか。」そんな声が聞こえたときに千意さんが立ち止った。「ここです。」中村草田男の句碑である。学園創立百周年に際して建てられたものである。

     空は太初の青さ妻より林檎受く  草田男

     「有名なひとかい?」「俳人だろうね。」普通には余り知られていないのだろうか。「たぶん一番有名な句は、『降る雪や明治は遠くなりにけり』ですね。」「もう少し解説してください。」千意さんはそう言うが、解説するほど詳しくはない。句の説明は隣にある。

    この句は「居所を失ふところとなり勤先きの学校の寮の一室に家族と共に生活す」という前書があります。終戦後で食料も乏しく、住宅事情も良くなかった時代に、疎開先から家族を呼びもどして、成蹊学園の寮で生活を始めたころの作品です。

     草田男には聖書をモチーフにした句が多いので、「空は太初の青さ」はエデンの園で見る空にも通うだろうか。ここから新しい世界が始まるのである。
     草田男は東京帝大を卒業後、成蹊学園の教師となった。戦後は経済学部や文学部の教授として国文学を教え、定年退職後は名誉教授にもなっている。虚子門ではあるが、その作風は人間探求派と呼ばれる。改めて草田男の句をいくつか引いてみる。「万緑の中や」については先に触れた。

    勇気こそ地の塩なれや梅真白
    烈日の光と涙降りそゝぐ
    焼跡に遺る三和土や手毬つく
    葡萄食ふ一語一語の如くにて

     けやき並木が尽きたところで、後続を待つ間に千意さんは正門の守衛所まで行って何か交渉している。後続がやってくると、「近道なので構内に入る許可を貰いました」と報告する。「そのヒゲ面で良く許可が出たね。」「人柄が滲み出るのよ。」悔しいが、私と違って千意さんは目が優しい。
     ソメイヨシノの古木は相当痛んでいるが、構内は整然としている。普段常駐している大学とは雰囲気がエラク違う。「それ言っちゃダメですよ。」「安倍の出身校なんだよ。」金持ちの子女が入る学校であろう。

     通用口から外に出ると、もう吉祥寺の町の中だ。信号の表示が「四軒寺町」となっている。「寺が四軒しかないのかな。」地図でみると、安養寺、光専寺、蓮乗寺、月窓寺が隣接するように建っている。
     次は武蔵野八幡宮だ。武蔵野市吉祥寺東町一丁目一番二十三号。延暦八年(七八九)、坂上田村麻呂が宇佐八幡大神の分霊を祀り江戸水道橋附近に創建したと伝えられる。明暦四年(一六五八)の大火(吉祥寺火事)で本郷元町(水道橋駅付近)にあった吉祥寺も焼け、その門前町の住民がここに移転を命じられた。その際にこの八幡宮も移転して新しい吉祥寺村の鎮守とされたのである。お寺の吉祥寺の方は駒込に移転し、今ではお七吉三比翼塚が建っている。暑い日に榎本武揚の墓を探して汗をかいたことがある。
     境内の左隅には「神田御上水井之頭弁財天」の石が建っている。「井の頭公園に弁天があるよね。それと関係あるかな?」説明を読めば、その弁天参りをする人のための道標である。道路側の側面には「天明五歳乙巳三月吉日 これよりみち」とある。「一七八五年だね。」オクチャンは詳しい。「浅間山の噴火が天明三年、一七八三年だから覚えてるんですよ。」私は年号を記憶するのが苦手だ。天明期は大飢饉の時代である。
     その隣に立つのは笠付の立派な石碑だが、摩耗して(あるいは削り取られて)像容が全く分からなくなってしまっている。下部の三猿だけは推定できるので庚申塔だろう。青面金剛が消えてしまっているのだ。廃仏毀釈の際に青面金剛像を削り取った例は越谷で見たことがある。
     スダジイの脇に「吉祥寺ウド」を説明する案内板が設置されていて、「これがウドですか?」と勘違いする人もいる。ウドがこの近辺の名産であることは、さっきも記したように、玉川上水沿いを歩いた時に知った。

     玉砂利に葉の目に沁みる春の午後  圭

     小さな堂の前には提灯が二つ下げられ、一つには「疱瘡神社・須賀神社・稲荷神社・厳島神社」、もうひとつには「出雲神社・三島神社」と書かれて合祀されている。「疱瘡神社って珍しいですね」と若旦那が訊いてくる。関東では疱瘡神社はあまり見かけないが、カサモリの名前ならば見たこともあるだろう。笠森の表記をすることが多いが、本来は瘡守の意味だ。「そうか、疱瘡の文字だと恰好よくないものね。」宗匠は谷中の笠森お仙のファンである。
     サクラさんは疲れたような顔で座り込んでいる。普段それほど歩かない人なら、やはり疲れるだろう。彼女はシデに興味があるようで、頻りに検索している。宗匠も一緒に調べているが、四手、紙垂とあって、私の言う「幣」は出て来ないようだ。しかし御幣というものがある。元々は、「このたびは幣も取りあへず手向け山」と詠むように、神に捧げるものである。錦や絹を細かく切って、袋に入れて携行したのである。これを紙に替えたものだ。

     八幡へ参拝終えし若き女鳥居で一礼我はっとする  千意
     をみなごの頭たれたる五月晴れ  圭

     鳥居の前で屯している私たちの傍で、神社から出る人たちがきちんと拝礼して帰っているのだ。私も気付かなかった訳ではないが、千意さんのように、はっとする程ではなかった。しかし信仰の有無は別にして、他人の敷地内に入ったからには、それなりの礼を尽くさなければならない。今日は、さようならである。少し反省した。
     そう言えば隊長は三好達治の『甃のうへ』が好きだったなと思い出した。護国寺に行った時ではなかったろうか。小雨の中を和服の美人が石段を下りて来るのに感動していた。「あはれ花びらながれ/をみなごに花びらながれ/をみなごしめやかに語らひあゆみ」である。
     そして蓮乗寺の塀を通り過ぎて月窓寺に入る。武蔵野市吉祥寺本町一丁目十一番二十六。曹洞宗。最初に驚くのは日露戦争で戦死した上等兵の墓の大きさである。「上等兵でこんなに大きいのか。」「大地主の息子なんだろうね。」勲八等功七級。勲八等は最下位の勲章、功七級は兵に与えられた金鵄勲章である。その向かいには近衛輜重輸卒の墓もある。
     立派な唐破風の向背を持つ本堂は工事中で、開けっ放しの内部は金ぴかだ。「禅寺なのに、こんなに派手なんだね。」「曹洞宗の葬式は派手だよ。」正面の釈迦本尊も金色のようだ。観音堂は閉ざされていて、乾漆像の白衣観音は見ることができない。仕方がないから説明だけ記しておく。

     月窓寺観音堂の白衣観音坐像は、元禄年間(一六八八~一七〇四)につくられたものである。尊像は京都の大仏師によってつくられ、光背、台座は江戸でつくられたものである。
     坐像は三十七センチ、光背の高さ六十二センチ、台座高三十七センチ、総高は九十九センチの乾漆造金色彩である。また台座内部の骨組枠に「元禄二年成就叶」の墨書がある。
     この白衣観音坐像は、馬頭観音信仰と結びついて、村民に信仰されたものと推定される。(武蔵野市教育委員会掲示より)

     リーダーはここで解散を宣言する。万歩計を確認するとおよそ一万五千歩。ロダンとハコサンの数値も似たようなものだからこれで確定する。これなら十キロ程であろう。「少し省略したからね。」暑かったが薄曇りで日差しが強くなく、ちょうどよい散策日和であった。
     山門は閉ざされた竜宮門である。「あまり見かけませんね。」「三鷹の禅林寺がそうだったよ。森鷗外と太宰治の墓があった。」その脇の通用口から外に出ればサンロードだ。こういう立地は珍しいが、おそらくこの一帯は月窓寺の敷地だったのではあるまいか。
     千意さんは、初参加の三人を連れて喫茶店に消えた。若旦那夫妻は帽子屋に入る。サッチャンは駅前のアトレで待ち合わせだと言う。「彼と?」「違うの、娘です。」反省会はないと確認したオカチャンは颯爽と駅に向かって走り去る。ロダンは年長者組と飲み屋を探す。しかしまだ三時十五分だから、この辺で店を探すのは大変だろう。酒を飲まない私は、宗匠、ヤマチャンと駅に向かう。
     「俺はどっち経由がいいのかな?」「分からないよ。」これは訊いた私が悪い。「それじゃ一緒に行くよ。」西国分寺まで出て武蔵野線に乗り換える。私は新宿経由と比べてどうかと考えたのだが、料金は変わらず、時間的にも似たようなものだった。一番安いのは、国分寺から西武国分寺線に乗り換え、東村山で西武新宿線に回るという、とても面倒なコースで、そんな経路を辿る気にはなれない。電車は案外混んでいて、途中で漸く座った。ヤマチャンが居眠りを始めた頃、北朝霞に着いたので私は降りる。
     五時には家に着き、妻には「早すぎる」と呆れられてしまった。本日の合計歩数を確認すれば、二万二千歩、消費熱量は七百八十六キロカロリーである。

    蜻蛉