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    平成二十七年五月二十三日(土) 宮代町

    投稿:   佐藤 眞人 氏     2015.06.05

     旧暦四月六日。小満の初候「蚕起食桑」。今日も暑くなりそうだ。こころは水曜日で満一歳の誕生日を迎えた。我が家ではやったことがないが、一升餅を背負わせなければいけないと、嫁の実家から餅を持ってきてくれた。しかし背負わせると赤ん坊はワンワン泣いた。一升の餅はかなり重い。
     私は本当に伝統行事に疎いので調べてみたが、これを行う地域はどこかに偏っている訳でなく、全国に広がっているようだ。ただ私の周囲では今まで聞いたことがない。また背負わせるのではなく、餅を踏ませる地方もあるらしい。「一升」を「一生」にかけた語呂合わせのようだ。また余り早く歩きはじめるのは良くないと言う発想から、わざと重いものを背負わせて転ばせると言う意味もあるらしい。ネットを検索してみると、このために赤ん坊の名前を入れた餅も売っている。
     それにしても物覚えの悪い赤ん坊で、私の顔を見ると最初は必ず泣くのはどうしたものか。泣きながら必死で這い這いをして妻の膝元に逃げ込むのである。宗匠のところはどうなのだろうか。こういう時は餌付けが効果的で、五目寿司をスプーンで口元に運んでやると、ちゃんと口を開けて食べる。この頃ようやく女の子らしい顔つきになってきた。

     また余計なことを書いてしまった。
     今回はあんみつ姫が企画して宮代町を歩く。集合は東武スカイツリー・ライン(伊勢崎線)姫宮駅だ。鶴ヶ島からは武蔵野線ではなく川越から大宮に出て、東武野田線の春日部で伊勢崎線に乗り換えるのが一番安い。大宮駅で野田線に向かうと、アーバン・パーク・ラインなんておかしな名前になっている。ほぼ全線にわたって田園の中を走る野田線の、どこがアーバンなのだろう。カタカナにすれば良いというものではない。
     これまで宮代町には余り縁がなく、最初に駅名を聞いた時には全く分からなかった。姫宮は春日部から二つ北、東武動物公園の一つ南である。駅名は、今日のコースに入っていないが姫宮神社に由来するので、それなら一応調べておかなければならない。
     姫宮神社は百間(モンマ)村の惣鎮守である。祭神は多記理姫命・市杵島姫命・多記津姫命の宗像三女神で、おそらく利根川の氾濫を鎮めるために勧請したのではないか。境内の中にある八幡を含めて近隣には古墳群が存在するらしいので、古くから開けた地域である。

     創建伝承として以下の話が伝わる。天長五年(八二四)に桓武天皇の孫に当たる宮目姫が滋野国幹に伴われて下総国に下向の途中に当地に立ち寄られた。付近の紅葉の美しさにみとれているうちに、宮目姫はにわかに発病して息絶えてしまった。後に当地を訪れた慈覚大師円仁が、姫の霊を祀り姫宮明神としたのが創建とされている。
     現在の社殿は江戸期の再建。また、当社の右手の八幡社は六世紀後半頃の古墳上に鎮座している。
     一説に、延喜式神明帳の「宮目神社」が当社であるともいう。(由緒)

     滋野国幹がどういう出自かは分からない。そういう者と一緒に桓武天皇の孫娘が東国に来るとは信じがたい話で、『更級日記』にある竹芝伝説の変種ではなかろうか。それについては、江戸歩き第三十七回「三田編」で触れているのだが、東国は面白そうだとせがまれて、武蔵国出身の衛士が帝の娘を伴って東国に逃げた話だ。
     また、この「一説に」というのが議論の種である。加須市騎西町の玉敷神社境内に宮目神社が存在し、どちらが延喜式の「宮目神社」か確定していないのだ。これを「論社」と呼ぶ。
     そして、今日の最後の方に行く予定の身代(コノシロ)神社(須賀村の惣鎮守)と合わせて、宮代町の町名の元になった。つまり昭和三十年(一九五五)に百間村と須賀村が合併したとき、双方の村の惣鎮守、姫宮の「宮」、身代の「代」を採って宮代町としたのである。こういう名前の付け方は悪くない。
     西は白岡市に接し、町の北東を流れる大落古利根川が杉戸町との境界になる。大落古利根川その名の通り東遷以前の利根川で、上流で切られたために農業排水を落とす排水路となっている。
     南北に細長い町で、目ぼしい施設としては東武動物公園と日本工業大学があるが、それ以外は殆ど田園地帯になるのではないか。何度も春日部市や杉戸町との合併を検討しながら、その都度反対多数で否決されている。(この時点で私は聊かバカにしているが、実は宮代町はなかなか頑張っていることが分かってくる。)

     駅に集まったのはあんみつ姫、椿姫、イトハン、サクラさん(東伏見に続いて二度目)、カズチャン、マリー、初参加のキタガワさん(新田のひと)、オクチャン夫妻、隊長、ハコサン、ドクトル、オカチャン、スナフキン、千意さん、宗匠、ヤマチャン、蜻蛉の十八人である。
     「また午前様なんだよ。」スナフキンが登場する際の言葉も、毎回同じだと珍しくもなんともない。「サクラさんはどの位時間がかかったの?」「電車に乗ってる正味時間は一時間四十分くらいかしら。」それなら私とそんなに違わない。「二十ページの旅日記、驚きました。」千意さんが送ってくれたのか。「無駄に長くていつも顰蹙を買ってるんだ。」
     キタガワさんは、最初警戒するように近づいて声をかけてきた。「生態系でしょうか?」この質問への返事が難しい。生態系の人間は多いが、それとは別な独立した団体である。と言い切るのもなんだか変だ。団体というより単なる「会」だろうか。自由参加の会だから正式な名簿もない。
     「何かでご覧になりましたか?」「これを貰ったんですよ」と見せてくれたのが里山ワンダリングの年間計画表だ。ネーチャー・ウォークに参加した際、誰かに貰ったのだそうだ。「近いから来てみました。新田なんです。」新田は草加市で、松原団地駅と蒲生駅の中間に位置する。
     カズチャンは久しぶりだが、元気そうでなによりだ。椿姫も前回会った時よりだいぶ元気な顔になっていて、大きな笑い声が復活している。マリーも久し振りだ。「えっ、そうなんですか」と姫が驚く。正月以来だろうか。

          朝、駅へ向かう途中で
     足はこぶそのイッシュン蟻をよけ  千意

     千意さんは蟻にも気を使う人である。「今日は女性が多いね。」一番喜ぶのは隊長だ。私も図書館のスタッフを誘ってはみたが、「大丈夫です」と断られた。「大丈夫」とはどういうことだろう。ドクトルはウェストポーチだけの身軽な姿だ。「何も考えずにパッと出てきたんだよ。弁当もないんだ。」そしてハコサンと一緒に弁当を買いに行く。
     西口に降り、苗を植えたばかりの水田が広がる中を歩く。「田んぼっかりだな。」「麦もある。」「大麦かな、小麦かな。」。

     マグリットか 空に植わるる 早苗かな  千意

     千意さんの自解では、マグリットの絵のように、田の水面に映る空に早苗が生えている様子だという。マグリットはベルギーを代表する画家で、シュルレアリスムの巨匠ということだが、私は現代美術に関して全く無学である。六本木の国立新美術館で展覧会が開催中だ。
     宮代町の五十パーセントを田、畑、屋敷林等が占めていて、町は「農のあるまちづくり」を目指している。かつて田舎の象徴としか思われなかった「水田や畑が多くあればあるほど、環境共生型社会に向けて非常に有利」だと言いきっている。現在の宮代町は、その五十パーセントを占める田畑を如何に守り育てていくかを大きなテーマに掲げた町なのだ。

     生産主体にはもしかして農家だけでなく団地に住む皆さんも含まれるかも知れませんし、流通は宮代の外に出なくて、町の中だけで完結するかも知れません。ごみを堆肥として利用できないか、都市と農村が共存する利点を生かした市民農園や市民水田はできないものか、など、これからが大変です。
      現実はそう甘いものでないことは今日ここにお集りの皆さんがよくご存じだと思います。もしかしたら理想通りに行かないで挫折するかも知れません。
     しかし、私はそれほど悲観はしていません。それは宮代町には郷土に愛着をもった皆さんが大勢いて、自分のことのように町全体のことを考え、汗をながしてくれる皆さんが大勢いるからです。小さい町には大きな町にはない、小さい町なりの利点があります。
     「農のあるまちづくり」はまだ始まったばかり、というかスタート台にたったばかりです。これからも宮代町は「メイドイン宮代」で「農のあるまちづくり」行っていきたいと考えています。(「農のあるまちづくり 宮代町長講演」一九九七年より)
     https://www.town.miyashiro.saitama.jp/WWW/wwwpr.nsf/ea760eb38c94dd42492571dc00015d67/7e1712112c1a3fd249257d5e0005ff96?OpenDocument

     現在の町長とは違うが、今も宮代町の公式ホームページに掲載しているのだから、方針は生きているとみて良い。
     「あれはヤマボウシだろうか。」オクチャンが双眼鏡を覗いて呟いている。田んぼの右手奥にある農家の大きな木に白い花が咲いていて、私の視力で判別できないが、ヤマボウシだとすればずいぶん早いではないか。ヤマボウシの花が咲くと、もう梅雨になるかと思ってしまう。(二日後、大学正門のヤマボウシの花も開いていた。)
     竹小舞が露出した土壁の家の前で立ち止まる。人の住んでいる気配は勿論ない。「懐かしいわね。」「これで雨は漏らないのかしら。」「吸収するんですよ。」オカチャンはこういうことに詳しいようだ。切妻側の壁に木製の車輪が二つ付けられているのはどういう理由だろうか。
     三十分程で寶生院に着いた。南埼玉郡宮代町中三十八番地。姫宮山と号す。真言宗智山派である。姫の説明では応永二十一年(一四一四)の銘のある鰐口があったようなのだが、今はない。ザクロの花が咲いている。目通り五・五メートルという巨大なイチョウが立っている。推定樹齢は四五百年という。「三人じゃ無理ですね。」
     「銀杏が落ちてますね。」「これ実生になるかしら。」サクラさんは自宅の庭にイチョウを植えたいのだろうか。「紙封筒に入れてレンジでチン。」千意さんの言葉に、「塩を少し入れてね」と私も言ってみる。随分前に和尚に教えて貰ったことである。「本当は土に埋めるんだよ」と隊長も加わってくるが、しかしそういう話ではなかった。
     「実生はどうか分かりませんが、イチョウは生命力が強いんですよ。伐採した枝が逆さになっても芽吹いて育つんです」と姫が教えてくれる。ちょっと調べてみたが、確かにそういう例があるようで、実生、挿し木、接ぎ木などどんな方法でもイチョウは育つという記事が多い。保水力が強いと言う。

     百間用水を越えるとすぐに宮代町郷土資料館に着いた。南埼玉郡宮代町西原二八九番地。周辺は「西原自然の森」として整備され、復元した古民家や、縄文時代の竪穴式住居などもある。最初にそちらを見る。
     竪穴式住居は茅葺で覆われていて中は暗い。中央には炉が切ってある。「六畳ほどかしらね。棚もあるのね。」イトハンが驚く。内部は腰高の杭で囲んであるので、その上部の余白の部分がちょうど出窓のような形で棚になっている。「土器を並べたんだよ。」考古学に疎い私の言うことだから、あまり信用しなくてもよい。「中はどんな風ですか。」椿姫は自分で中に入らなければいけない。「分かりましたよ。」
     茅葺屋根の加藤家住居は約七十二坪の平屋の農家である。文化十年(一八一三)の建造で、町内本田から移築復元されたものだ。「昔の農家は暗いですね。」土間に立てばこの時間でも薄暗い。田の字になった座敷はかなり広そうだ。旧斎藤家は瓦葺で明治の建物である。元々この地にあったもので、住宅土蔵、物置(米蔵)、屋敷森をそのまま残している。
     現在の百間小学校の前身、進修館の建物もある。「なるほど、小学校の建物ですよね。」玄関口の向拝の屋根に載せられた鬼瓦が由緒ありそうに見える。学校の沿革を見ると、明治五年の学制発布に応じ、六年に西光院を校舎として開校した。七年九月に進修学校と改称し、八年に宝生院に移転した。十五年に百間学校と改称し、十九年に百間尋常小学校となった。
     周囲を一回りして郷土資料館に入ると、最初に目についたのが「宮代町の偉人 島村盛助」のコーナーだ。漱石門下で作家・翻訳家として活躍したというのだが、私は全く知らなかった。世の中には知らないことが多すぎる。「なかなかの人らしいぜ。」漱石のほかに白秋や杢太郎から届いた葉書も展示されている。
     盛助は百間中村の名主の家に生まれた。旧制浦和中学校、第一高等学校を経て東京帝国大学で漱石に学んだ。木下杢太郎の回想を読むと、パンの会にも参加している。筆名は島村苳三(とうぞう)だ。

     今から五十八年前の昭和二十七年四月ニ十二日、一人の男性が静かにこの世を去りました。その人の名は島村盛助。作家として、翻訳家・英文学者として、そして教育者として多くの実績を残しながらも、これまで広く知られてきませんでした。
     島村盛助は明治十七年八月九日に、百間中村に生まれました。盛助が生まれた家は、江戸時代初期から名主を勤めてきた家で、当主は代々新右衛門を名乗りました。西光院にある墓地には、歴代当主の立派な墓石が立ち並んでいます。
     明治時代に刊行された有名な文学雑誌に、いくつもの小説や翻訳などの作品を発表し、新聞に連載小説を掲載したこともある作家でしたが、大正九年に旧制山形高等学校(現在の山形大学)の教授職に就いてからは、後進の育成に尽力する教育者として多くの人材を育てました。盛助の功績のなかで、岩波書店初の語学辞典として「岩波英和辞典」を編さん・刊行したことは有名で、地元では「島村盛助」の名を知らない人でも、「辞書をつくった人が住んでいたらしい」という話だけは伝わっていました。(宮代町公式ホームページ「電脳みやしろ」郷土資料館 宮代町の偉人・島村盛助)
     http://www.town.miyashiro.saitama.jp/WWW/wwwpr.nsf/e3e6becf1a37567f49256b7900250f51/95ade386d0aa7410492576e10017b9a1?OpenDocument

     旧制山形高等学校教授と言えば、学界の主流にいたのではなさそうだ。『岩波英和辞典』(島村盛助・田中菊雄・土居光知編)は今では絶版で手に入らない。これはOED(Oxford English Dictionary)の歴史主義に倣って、語義の変遷をたどることを主眼としたという。頻出順ではないから、最初から最後まで読まないと必要な語義がみつからないというもので、私のように出来の悪い学生には使いこなせないだろう。しかし真剣に学ぶものにとっては重要な辞書だったのだと思う。

     我があゆむ道一筋に霜白し  島村苳三

     パンフレットには「誰よりも『言葉』を大切にした英文学者」と惹句を掲げてある。それならば大槻文彦を思い浮かべない訳にはいかない。大槻盤渓の三男で、兄に如電がいる。本来は英学を学んだ洋学者だが、生涯を『言海』編纂に捧げた偉人である。独力で日本文法を作り上げ、語彙を選び、初めて五十音順の辞書を作った。文彦の生涯と辞書編纂の苦労については高田宏『言葉の海』が詳しく感動的である。言葉に関心のある人には是非読んでほしいと思う。英文法を借りて国文法を作ったことで、そのことについては後世批判もあるが、当時としてはそれしかなかった。
     スナフキンは、平成十五年度特別展図録『英文学者 島村盛助』(百円)と平成二十六年度特別展『英文学者 島村盛助Ⅱ』(二百円)を買った。「こっちを買ったら、もう一冊あるって言うんだよ。」姫も下見の時に買ったらしい。
     少し調べると、共著者の田中菊雄もなかなかの人物である。高等小学校卒業を卒業して旭川駅の列車給仕に就いたのを出発に、ほとんど独学で英語を学び、中等学校教員試験、高等学校教員試験に合格し、島村に見いだされて山形高等学校の教授になった。こういう人物ももっと顕彰される必要があるだろう。上記の「電脳みやしろ」に、田中が島村を偲んだ文章が抄録されているので孫引きしてみる。

     先生の解釈は文法的にきわめて正確でしかも単語に対するsenseの繊細なことは敬服にたえないものがあった。私はすっかり感激してしまった。多年疑問として残された諸点は一つまた一つ氷解して行った。(中略)私はその頃から影の形に添うごとく先生に師事して多くの感化を受けたが、特に一語一句をもゆるがせにしない良心的な学風、英文を和訳するのに常に国語辞典を引く習慣など・・・・・・いろいろの面でお蔭を蒙った。たとえ大先生と何年何十年同じ学校に在職していても私が島村先生から受けたほどの感化を受けられることは稀である。(略)
     「菲才を以ってこの大業(辞書編纂)に参加し、畏敬する島村先生と共につぶさに嘗めた五年有半の辛酸は自分の一生に於ける最も有意義なる修行であった。」(田中菊雄『英語研究者のために』)

     因みにこの『英語研究者のために』は昭和十五年の出版である。既に英語が敵性語として偏狭なナショナリズムの排斥にあい、中学校でも必修科目から選択科目へと転換され、授業時間数が大幅に削減される時代であった。名著として名高く、講談社学術文庫で復刊されていたが絶版になっている。
     板碑(ここでは板石塔婆している)も多い。さっきの寶生院の鰐口も展示されていた。応永二十一年(一四一四)大夫五郎により姫宮神社に奉納されたものが、明治の神仏分離令により姫宮神社の別当寺であった寶生院に移されたものと推定されている。
     「東武地区文化財担当者会巡回展『埼葛・北埼玉の水塚』関係資料」は、この地区の江戸時代の水害被害の報告や年貢減免の嘆願書を活字化していて有難い。常に水との闘いを強いられた地域である。ここで「宮代町まるわかり!ガイド&マップ」を手に入れる。これを見ると、宮代町の特産品は巨峰である。なかなか充実した郷土資料館だった。

     少し腹が減ってきた。「俺もだよ。」昨夜午前様だったスナフキンは朝飯も食わずに出てきたのではないだろうか。
     「トンボだ。」「コシアキですね。オスかメスか。黄色だからオスかな。」胴体の真ん中が白いのがオス、黄色いのがメスと隊長が教えてくれる。蝶が木の蜜を吸っている。オクチャンと隊長が鑑定してアカボシゴマダラという外来種に決まったようだ。(聞き間違いかも知れない。)アカボシゴマダラなら、「要注意外来生物」に指定されている、というのは後で調べて分かることだ。関東では一九九五年に秋ヶ瀬公園に突如出現したと言う。

     この関東を中心に拡散している個体群は、その外見上の特徴から、中国大陸産の名義タイプ亜種 H. a. assimilis に由来と推定されている。自然の分布域から飛び離れていることや、突如出現したことなどから蝶マニアによる人為的な放蝶(ゲリラ放虫)の可能性が高いといわれている。
     気候風土が好適であったために急激に個体数が増加したと考えられており、市街地の公園などの人工的な環境に適応しているので、今後も分布が拡大していくだろう。このように、典型的な外来生物であるために、もともと類似環境に生息するゴマダラチョウと生態的に競合するのではないかという危惧もある。(ウィキペディア「アカボシゴマダラ」より)

     私には赤星が見えなかったが、隊長によれば赤いのは夏型、赤くないのが春型である。百間小学校の西側を通ってまた農道を歩く。水田の中を歩くと気持ちが落ち着くような気がするのはなぜだろう。見渡す限り高層建築はない。畑にはジャガイモの花が咲いている。遠くには屋敷林のような林が散在している。民家のフェンスからはみ出たアジサイの一房だけが赤く色づいている。「オタマジャクシを俳句でなんとか言いますよね?」千意さんの質問には早速宗匠が答を出す。

     甲虫と蝌蚪の水田や風ほのか  閑舟

     俳句以外ではほとんど耳にしないが、蝌蚪は春の季語である。できるだけ言葉を節約したいために使われる言葉だ。
     「これがコバンソウだよ。」隊長が草むらを指差した。なるほど、無理やり考えれば小判の形だと言えなくもない。色も薄い黄金色だ。ごく小さな二センチ程のトウモロコシの赤ん坊を、押しつぶして扁平にしたようでもある。
     小さな神明社を過ぎる。民家の塀からは、青いイチジクの実が手の届くところに生っていて、キタガワさんの顔が綻ぶ。「昔はあちこちの家で植えてたけどね。」「最近は少ないですね。」広大な敷地の農家が多い。「あの門がすごいよ。」「宮代は金持ちが多いんだよ。」「だけど産業はないだろう?」
     古いが頑丈そうな蔵の二階の観音扉が開いている。「あの中に何を入れてるのかしら。うちなんか、入れるものは何もないわ。」「それじゃ、自分を入れたら。」「それはヒドイですよ。お蔵入りってことじゃないですか。せめて箱入りにしてほしい。」不用意な発言で椿姫とあんみつ姫に叱られてしまった。

     さざめくや箱入娘に夏日差し  蜻蛉

     「富士塚があるんですけど、寄りますか。ちょっと道が逸れますが。」「行きましょう。」確かに小さな塚があったが、頂上に立つ石碑には御嶽山とあった。「御嶽講ですね。」「だって、何って言っていいのか分からないんですもの。」確かに御嶽塚という呼び方も余り聞いたことがない。「御嶽講もこうして塚を作ったんですか?」「何度か見たよね」と宗匠が言うように、私も二度ほど見た記憶がある。
     そして新緑の林の中に入った。「あんなに一杯。」さっき教えて貰ったばかりのコシアキトンボが群れ飛んでいる。「本来は水辺の蜻蛉です」とオクチャンが指摘する。「あの赤いのはブラシの花かしら?」真っ赤な花だ。「ここにも歯ブラシの花、アッ間違いました。」
     林を抜けると新しい村だ。新しい村といっても実篤とは全く関係がない。埼玉緑のトラスト保全第五号(山崎山の雑木林)や、復元した江戸時代の水田「ほっつけ」(堀り上げ田)などを含む里山公園である。宮代町では「田舎を楽しむアミューズメントパーク」と称している。「田舎」は宮代町最大のテーマである。
     取り敢えず日当たりのよい芝生にシートを広げて昼食だ。あちこちから飴の差し入れがやってくる。「この間はせんべいが大量に集まったよな。」今日は飴だ。
     広場の向こうに東武動物公園の観覧車とジェットコースターが見える。「観覧車は動いてないね。」「あのジェットコースターは木造だろう。」普通だって怖いのに、木造のジェットコースターなんて危なくて仕方がないではないか。あんな危険なものに乗りたがる神経が私にはさっぱり分からない。

     東武動物公園目玉アトラクションの一つ。恐怖のレジーナ(=イタリア語で女王)。世界初の水上木製コースターのコース全景は、女王様が横たわったような、美しいフォルムですが、スピード感と木製独自の揺れは今まで味わった事の無いスリルです。(東武動物公園http://www.tobuzoo.com/park/list/details/19/)

     暑くなってきた。直売所のトイレで用を済ませ、十二時三十分に出発する。偶然出会った男性とオクチャン、姫が挨拶を交わしていると、どうやらその男性が先頭に立って案内してくれることになったらしい。環境NPO法人「宮代水と緑のネットワーク。宮代野草クラブ」のM氏である。午前中に観察会を行っていたらしい。姫もオクチャンも顔馴染みだ。「ですから、その時間帯を外してきました。」
     最初に行くのは「ほっつけ」である。オクチャンが解説してくれる。ここは笠原沼である。湿地を掘って悪水路を作り、掘った土は盛り上げて田にしたのである。これも井澤弥惣兵衛が関係していたそうだ。

     宮代町内では一般的に櫛の歯状に作られた耕作部分を堀上田と呼び、耕作部分に挟まれた水路部分をホッツケと呼んでいます。これらは、沼地や窪地など水がたまりやすい地域の水田開発や排水不良をおこしている水田の水腐れ等の被害を軽減させるためにつくられました。工法は、沼底を更に掘り込み、そこから出た土を周囲に盛り上げることで耕作面のかさ上げをしました。(略)
     享保十三年見沼溜井を開発した井沢弥惣兵衛は笠原沼の本格的な開発を始める。沼の北側では、水除堤を造り、笠原沼へ流れ込んでいた爪田谷落や野牛高岩落を下流の姫宮落堀に繋げるため笠原付廻堀を掘り、迂回させ悪水を古利根川に落とした。
     一方、沼の南側でも水除堤を造り、沼に流れ込んでいた逆井新田落を沼下へ導いた。こうして、上流からの排水を迂回させ、さらに、沼の水を抜くため中水道を開削し、その下流に笠原沼落堀を掘り、「溜沼争論絵図」に確認できる小沼の悪水を落としていた堀に接続し、姫宮落堀に接続させた。しかし、姫宮落堀との合流地点で水が溢れてしまったため、享保十四年、新たに新堀を造り直接、古利根川に排水した(蓮谷村加藤家文書二)。これにより、百間村(百間西原組)、百間西村(百間中村)、百間東村、百間中島村、蓮谷村、須賀村、爪田谷村、久米原村、須賀村定八、下野田村藤助の八カ村と二名により、笠原沼の新田開発が行なわれた。さらに、窪地であったため、串歯状に堀を掘り、その土を嵩上げすることで田地にした。(宮代町公式ホームページ「電脳みやしろ」)
     http://www.town.miyashiro.saitama.jp/www/wwwpr.nsf/155be1bc775295aa492576a50003c9bf/4fdbb5da88ddd4734925704b001803f5?OpenDocument

     「ここにチョウジソウが咲いています。」オクチャンが指差してくれる草むらに、薄い空色の小さな花が咲いている。細長い花弁が五枚開く。可憐な花だが、ほとんどの都道府県で野生絶滅あるいは絶滅危惧種に指定されているという。リンドウ目キョウチクトウ科チョウジソウ属。
     水辺にはコギシギシというものがある。初めて聞く名前だ。「これはギシギシとは違いますよ」と椿姫が主張するが、だから「コ(小)ギシギシ」という別種らしいのだ。スイバだと教えられれば、「スカンポ」と宗匠が反応する。別に「ギシギシ」と呼ぶ地方もあると言う。ミゾコウジュ。「俺は街の子だったから、こういうものには全く縁がなかった。」
     まだ白くなっていないハンゲショウがあり、「絶滅危惧種なんですよ」と言われて驚いた。そう言えば私も一度どこかの寺でみたきりだ。同じようにマタタビの葉も白くなる筈で、これも一度見ただけだろうか。「うちにあるけど、初めて見たときは病気かと思ったよ。」スナフキンの庭には結構珍しいものが植えてあるようだ。ハンゲショウは半夏生、また反化粧とも書く。カタシログサとも呼ぶ。七十二候では、夏至の末候(七月二日から六日)を半夏生と呼ぶ。
     東側の地域をぐるりと回ると、赤茶けたレンガ色の建物が見えてきた。「木造の校舎です。」オカチャンが声を上げるが、これが木造とは思えない。宮代町立笠原小学校である。南埼玉郡宮代町字百間一一〇五番地。
     クヌギの木に蝶が数頭へばりついている。「蝶って、花だけじゃないんですか?」「樹液を吸うんだよ。」こういうことは隊長かオクチャンしか分からない。サトキマダラヒカゲというものらしい。「蝶は花の蜜を吸うのだとばっかり思っていました。」「カブトムシも来るんだよ。」サクラさんが訊きたかったのは、そういうこととは違うのではないだろうか。虫の嫌いな椿姫が顔を顰めている。

     夏の蝶一心不乱に樹液吸ひ  蜻蛉

     公園を出て左に東武動物公園の釣り堀、右に小学校の校舎を眺めながら歩く。笠原小学校は昭和五十六年(一九八二)の竣工で、設計は象設計集団である。木造というのは勘違いだったらしい。鉄筋コンクリート造二階建、敷地面積は二万九千五百六十二平米、延床面積が七千百二十九平米である。
     校舎の形が実に風変りで、おかしなところに階段がある。「中国の建物を連想しちゃったよ。」ヤマチャンが言うような部分も確かにある。鐘楼門のようなものも見える。裸足教育に対応する校舎となっているようだ。象設計集団とは何だろう。

     一九七一年に、吉阪隆正の下にいた大竹康市と樋口裕康、富田玲子、重村力、有村桂子の五名によって発足された。代表作品には、日本建築学会賞を受賞した沖縄県の名護市庁舎がある。(ウィキペディア「象設計集団」より)

     外壁一面にカルタのようにひらがなが彫られているのだが、縦に読んでも横に読んでも意味が通じない。「何か意味があるのかな。」「分かったわ。」マリーが発見した。「『雨ニモマケズ』じゃないの。」言われてみればそうだ。壁の右から縦に「さのなつはおろおろあるきみんなにでくのぼーとよばれ」と読める。「エッ、なんだって?」横の壁の末尾が「さむ」になっているのだろう。ただ私は宮沢賢治の詩が良く分からない。これは小学生に読ませるべき詩であろうか。
     この詩の中の「一日ニ玄米四合ト味噌ト少シノ野菜ヲタベ」が戦後GHQによって、当時の日本人の食糧事情にあわないと指摘され、三合に訂正して出版されたという歴史がある。明治の日本陸軍の規定では、一日三食六合(一食二合)が基準となっていた。エネルギー源のほとんどを米飯に依存していたから、賢治の時代の四合は農民としてはむしろ少ない方だった。米飯の多さとおかずの少なさについては一葉『にごりえ』を引いてみる。

     お前の好きな冷奴にしましたとて小丼に豆腐を浮かせて青紫蘇の香たかく持出せば、太吉は何時しか臺より飯櫃取おろして、よつちよいよつちよいと擔ぎ出す、坊主は我れが傍に來いとて頭を撫でつゝ箸を取るに、心は何を思ふとなけれど舌に覺えの無くて咽の穴はれたる如く、もう止めにするとて茶碗を置けば、其樣な事があります物か、力業をする人が三膳の御飯のたべられぬと言ふ事はなし、氣合ひでも惡うござんすか、夫れとも酷く疲れてかと問ふ。(樋口一葉『にごりえ』)

     源七は銘酒屋のお力のことが心にへばりついて食欲がない。それを女房に悟られてしまうのである。三膳と言っても今よりも大きな茶碗だから、ほぼ二合になる。つまり普段なら豆腐一丁だけで二合の飯を食うのだ。
     豆腐と言えば、若き日の田山花袋が国木田独歩と共に日光に出かけたことがある。およそ四十日の滞在で、おかずはほぼ豆腐だけで過ごした。たまには酒を飲んだが、二三杯ですぐに酔った。明治の青年は可憐であった。また脇道に逸れてしまう。
     次の柱に縦書き二行になっているのは「まだあげそめしまえがみの」である。「これって藤村じゃないの。」もちろん『初恋』である。オクチャンと姫は書かれていない二連以降を暗誦しながら歩く。舟木一夫の歌(若松甲作曲)は私のレパートリーだし、好きな詩なので全編引用してしまおう。

    まだあげ初めし前髪の
    林檎のもとに見えしとき
    前にさしたる花櫛の
    花ある君と思ひけり

    やさしく白き手をのべて
    林檎をわれにあたへしは
    薄紅の秋の実に
    人こひ初めしはじめなり

    わがこゝろなきためいきの
    その髪の毛にかゝるとき
    たのしき恋の盃を
    君が情に酌みしかな

    林檎畑の樹の下に
    おのづからなる細道は
    誰が踏みそめしかたみぞと
    問ひたまふこそこひしけれ

     作家としての(特に『新生』からの)藤村は余り好きではないが、『若菜集』は明治ロマンティシズムの最高傑作であろう。色恋はあっても恋愛はなかった日本に、初めて恋愛の観念を持ち込んだのは北村透谷『厭世詩家と女性』(明治二十五年)だが、それを定着させたのが『若菜集』(明治三十年)だった。
     と言いながら、鷗外の『舞姫』はいつだったか確認すると、明治二十三年である。ただこれは近代人の引き裂かれた魂と自己懲罰(あるいは自己弁護)が主題で、透谷から藤村へ引き継がれた恋愛至上主義とは明らかに異なる。
     「子供の頃からこういうものに馴染ませるのはいいね。町の方針がいいんだよ。」ヤマチャンが感動したような声を出す。おそらく普通の学校建築よりコストは高くなった筈だが、宮代町の方針が貫かれているのだろう。象集団がこの笠原小学校を設計したときの思い出が『INAX REPORT』の対談で語られている。

    樋口|僕らの原則にしている、「学校とは何か。教育の場だけじゃないだろう」という話は、真っ先にあったよね。
    富田|一日中暮らしている場所だから、家みたいなものだと。
    樋口|宮代町では、まちの人たちもそう思っていたんだよ。だから、その辺の合意形成は早かった。とっても意識の高い人たちが大勢いた。
    富田|そうなの、スッと伝わりましたね。「学校は街」、「教室はすまい」、「学校は思い出」というキーワードを、みんなで共有するようになりました。
    樋口|みんな「そうだ、そうだ」って言うんだ。
    古谷|行政もですか?
    富田|そう。最初に頼まれた時に、教育長と町長と助役だったかしら。年配の方が三人向こうに並んでいて、こちらも三人いたんですが、いきなり「二ヵ月で図面を描いてくれ」って言われたのね。(略)「私たちは今までの自分の歴史を考えてみると、小学校時代の思い出が一番鮮やかに出てくる。いろんなシーンをとてもよく覚えていて、楽しい時期だった。ああいう鮮烈な思い出ができるような時期に暮らす場所を、二ヵ月で考えるのは無理です」という話をしたら、だんだん、特に最年長だった教育長さんは涙を浮かべてね、「確かにそうだ」っておっしゃるの。
    樋口|富田さんが田んぼのあぜ道を、学校へとぼとぼと歩く話をしたんだよ。そしたら教育長が思い出してワッと泣き出すような感じだったね。
    富田|ちょうど疎開していた小学校のことを、私は思い出したのね。みんな裸足で、朝礼の後なんか足洗い場に殺到してドロドロになったところなんて、私はすごく好きだったわけ。そういういろんな思い出が出てきてね。(『INAX REPORT』№185「続々モダニズムの軌跡-7」http://inaxreport.info/no185/feature2.html

     こういう風に設計してくれるなら建築家も捨てたものではない。
     釣り堀から流れ出る川が橋の下を抜ける辺りに黄色い花が咲いているのは、もしかしたらコウホネではないか。「コウホネでいいんだよね。」「そうだよ、コウホネ。」隊長が保証してくれたのだから間違いない。「河骨って書くのよね。」表記が余り可愛らしくない。根茎が骨のように見えると言うのだが、そんな部分は見たことがない。
     東武動物公園の北側から小学校の北側を流れるのは姫宮落川だ。これは更に南に下って姫宮駅の五百メートル程東で大落古利根川に注ぎ込む。その川を渡る。
     「タチアオイですね。」真っ赤な花がまっすぐ伸びている。ロダンが好きな花だ。「タチアオイが咲くと梅雨が近いって思いますよ。」天辺まで咲くと梅雨が明けると言う俗説もあった。
     姫は小さな神社に立ち寄った。「地図にも出て来ない神社なんですけど。」蓮谷稲荷神社だ。南埼玉郡宮代町百間一〇四一番地。石造の鳥居は稲荷鳥居ではなく普通の明神型だ。参道脇の小祠にきれいな剣人六手の青面金剛が納まっている。典型的な岩槻型と説明してしまったが、どうやら私の間違いだった。岩槻型は中央の二手が合掌する様式なので、これとは違う。
     この金剛は中央の右手が剣を立て、左手がショケラ(女人)を握っている。これに注目してもらいたかったのだ。後方下二手は弓矢、上二手は矛と法輪を持つ。日月、二鶏もはっきりわかる。側面を見ると宝暦六年(一七五六)とあった。
     庚申信仰についてちょっと説明しようと思ったが、簡単に説明できることではない。分かり難いのは複雑に習合を重ねているからなのだ。道教の三尸説に民間信仰の月待ちや石神(塞神)が結合し、山王信仰から猿が持ち込まれる。阿弥陀講や観音講との関連もあり、更に密教が青面金剛を作り出し、江戸時代に入ると垂加神道が猿田彦を持ち出してくる。
     趣味の石仏の本は別にして、私が探した範囲では、雄山閣出版の『庚申信仰』(『民衆宗教史叢書』第十七巻)以外に、庚申信仰についてまとめた本がない。そしてこれは.論文集なので読みやすくはない。自分で買うものではなく(そもそも買いたいと思っても手に入らない)、図書館で借りるものである。
     その隣には二十三夜塔が建っている。月待塔のひとつで、十九夜塔と並んでこれも女人講が中心となるものだ。「うちの母が十九夜様って、やっぱり拝んで飲み食いしてました。」福島県のカズチャンの証言は貴重だ。私の周辺には実際にそういうものに参加していた人はいなかった。

     神社を出ると桜並木の道が続き、この辺から北西にかけて中須用水に沿って「水と緑のふれあいロード」に指定されている。すぐ近くに進修館(コミュニティセンター)があるが、時間の関係で姫は寄らないことに決めた。これも象設計集団による建造物らしい。「日陰が欲しいよね。」「木の陰が伸びてるよ。」

     緑陰の用水の道らうらうと     閑舟

     「これもアオイ科かしら。」サクラさんが首をかしげるので「ゼニアオイだよ」と答える。「すごいじゃないの。」「なんでも訊いて。」なんだか一か月前と同じことを言っている。これも十年ほど前に教えてもらった花である。「どうしたら忘れないようにできるのかしら。」記録するしかないだろうね。それでも十数年かかって、私は今の程度だ。
     姫の携帯電話が鳴った。「今どちらですか。北千住。」「誰かな?」「分かるじゃないか、桃太郎に決まってる。」電話を終えた姫に確認するとやはりそうだった。後で合流するらしい。
     「あれが図書館だよ。」スナフキンの言葉で左前方を見ると、高い建物が見える。八階建てで、なんだか使いにくそうな図書館だ。「そうなんだよ、みんな苦労してる。」関東地区の私立工業系大学図書館が組織する会があって、スナフキンは会議のためにここに来たことがある。
     「すぐそこに見えるんですけど、この道じゃ入れないんですよ。」住宅地の狭い路地を適当に(姫の計画通りに)曲がりながら歩いていると、漸く日本工業大学の前に出た。南埼玉郡宮代町学園台四番地一。私はこの大学に関してほとんど何も知らなかったので、大学ホームページから沿革を拾ってみた。

     一九一一(明治四十四)年五月、青山練兵場(現明治神宮外苑)。ライト兄弟による人類初の飛行からわずか七年後の日本で、国産初の飛行機が大空に羽ばたこうとしていた。
     その様子を輝く瞳と紅潮した面もちで見つめる一団の若者たち。この若者たちこそ、日本工業大学の前身である開校間もない東京工科学校の生徒たちでした。目の前にある日本初の国産飛行機を、我が国飛行界の権威であった日野熊蔵大尉の指導のもと、東京工科学校校内に設けられた実習工場で組み立てたのでした。
     残念ながらこの飛行の挑戦は失敗に終わりましたが、先進の技術とともにあり、それを生きた工業教育としていく実学重視の伝統はすでにこうして始まっていたのです。
     日本工業大学の前身、東京工科学校の開校は、一九〇七(明治四十)年。当時の日本は、明治維新後の殖産興業の大号令で近代国家の道へとひた走るものの、技術を持った人材が決定的に不足していました。工業教育は学術的ではあっても実践的ではなかったのです。その両方をひとつにし、現場に、そして最新技術にも強い若手を育てる高い理念を掲げて登場したのが東京工科学校でした。
     その歩みは決して平坦ではなく、明治から大正、そして昭和へと時が変わる中、5度にわたる校舎の焼失を繰り返しながらもそのたびにひるむことなく甦り、優れた技術者を世に送り出し、日本の近代化を推し進めてきたのです。学園は、第二次世界大戦後の新しい教育制度で、東工学園中学校、東京工業高等学校へと生まれ変わりました。時代が変わり、名前は変わっても、引き継いできたものがあります。それは、「ものづくりスピリット」と「少年の冒険心」を大切にした実践的教育です。http://www.nit.ac.jp/campus/ayumi.html

     フェンスに蔦が絡まって小さな花が覗いている。「テイカカズラです。美男蔓ですね。該当する人は?」ハイ。「蜻蛉だけですか?」このメンバーで「美男」と言えばまず私で決まりだろう。「言い過ぎだよ。」式子内親王を愛した藤原定家が、死後も彼女を忘れられず、ついに葛に生まれ変わって彼女の墓に絡みついたという伝説(能『定家』)に基づく。
     「どうして美男なの?」サクラさんは不思議そうだ。定家が美男であったかどうか。しかしこれは姫の冗談だった。うっかり「美男」という言葉に載せられてしまったが、美男カズラはサネカズラの異名である。蔓から出た液を整髪料にしたからである。
     門には守衛所がない。入ったところに天満宮が祀られているのが珍しいが、これによって門は天神門と名付けられている。石造の神明鳥居をくぐる。通路に沿っていくと、右手に切妻屋根の小さな社殿が建っていた。「ここにもテイカカズラが一杯。」
     昭和四十一年、開学のための工事中に一基の石祠が発見された。それには「天満宮 安政二年 野口氏」とあった。調査の結果、百間領粂原村(この地)の名主が邸内に祀ったものであることが判明したのである。天満宮なら学問の神であると、大学はここに祠を建てて祀った。
     キャンパスの中を抜けると正門には守衛所があり、姫が挨拶する。オクチャンもここは馴染みのようで守衛と何か話している。
     本部棟には「五つ星エコ大学」獲得の看板が掲げられている。「ソーラーだよ。」屋根には全面にソーラーパネルが設置されているのだ。大学のホームページによれば、平成十二年度に当時国内の大学として最大規模となる太陽光発電設備を導入して以来、現在では五八〇キロワットを発電市で最近の五年間では二十二パーセントの節電を達成した。そのほかCO2排出量は千二百十五トン(十九パーセント)削減、生ごみ処理、油回収率九十五パーセントの排水処理装置を導入している。
     「あそこですよ。」体育館のような建物が工業博物館なのだが、高校生らしき集団が入って行った。姫は予約していたのだが、少し時間が早かったらしい。「ちょっと待ってくださいね。」姫が交渉して、暫く教室で待つことになった。
     教室の机に座るのはなんとなく居心地が悪い。成績が悪くて残され、先生が来るのを待っているような塩梅なのだ。出来の悪い生徒が神妙に座り続ける。「俺、博物館は二度見てるから、図書館に行ってくる。」そう言ってスナフキンが出ていった。私も図書館は見ておきたいが、工業博物館とはなかなか見学の機会がないので、こちらを優先したい。
     三十分程待って漸く呼ばれた。「申し訳ありません。中学高校生は大学にとって将来のお客様なので。」中高生を大事にするのは当たり前だから、気にすることはない。その中学生たちが中を走り回っている。
     宙に浮かんでいるのは飛行機である。「徳川大尉とかですか?」「こちらは日野大尉です。飛行機はレプリカですが。」大学沿革に書かれていた、東京工科学校で作られたというものだろう。「徳川大尉に比べて日野大尉は余り有名じゃないですが、この二人が草創期の日本の航空機を牽引したんですよ。」私も徳川好敏の名は知っていて日野熊蔵の名は知らなかったのだから無学である。一応、ウィキペディアをみておこう。

     明治四十三年(一九一〇)十二月十九日には「公式の、初飛行を目的とした記録会」が行われ、日野・徳川の両方が成功した。これが改めて動力機初飛行として公式に認められた。事前の報道においては、当時天才発明家などと報道されていた日野の方が派手な言動も相まって遥かに有名人であり、新聞記者も徳川には直前までほとんど取材活動をしていなかった。しかし徳川、日野の順に飛んだため、「アンリ・ファルマン機を駆る徳川大尉が日本初飛行」ということにされてしまった。これは、徳川家の血筋でありながら没落していた清水徳川家の徳川好敏に「日本初飛行」の栄誉を与えたいという軍および華族関係者の意向・圧力だったとする説がある。しかし、たとえ名家の出身であっても陸軍の方針として軍内部での扱いは平民と同じであることが原則だったため、この批判は適切ではないとする意見もある。ただし、その後徳川は後述の通り陸軍内部で厚遇され、逆に日野や滋野清武らは冷遇されたのは事実である。
     ともあれ、日野の記録は抹消され、十二月十九日の徳川の飛行をもって「日本初飛行の日」とされている。
     以降、徳川は陸軍の航空機畑の看板として順調に昇進し、一方の日野は翌年には独自の機体の開発までをも行うがそれでも左遷され、以降軍務において航空機関連に用いられることはなかった。
     一九一一年(明治四十四年)から翌年にかけて自身が設計の機体、日野式飛行機を製作した。一九一六年(大正五年)には陸軍歩兵中佐になる。 四十歳で部下の失態の身代わりに引責し軍人を辞め、その後生活は困窮した。

     クラシックカーに関心がないので名前を知らないが、古い自動車はT型フォードというものだろうか。「車体の一部は木製です。バッテリーがないので、クランクレバーを回します。」タイヤはチューブ式である。「自転車と同じね。」
     最初に立ち止ったのは町工場の一画を再現したコーナーだ。「動かしてみましょう。」電源を入れるとモーターが回る。いくつもの機械にベルトが回され、木製のクラッチでオンオフが切り替わる。「NHKの『梅ちゃん先生』の工場はここで撮影しました。」「オーッ。」
     機械のことには全く疎いが、日本の物づくりを支えてきた機械類がこれだけ並べてあると壮観だ。パンフレットによれば百七十八点が国の登録有形文化財、国産工作機械六十二台と日野式飛行機(レプリカ)が近代化産業遺産に指定されている。
     「上に行きましょう。」階段を上ると長い機械が設置されている。「液化天然ガスを利用して発電する。そのガスタービンです。十万キロワットを出力しました。」黒部ダムが三十万キロワットだそうだ。「国産ですか?」「勿論、国家プロジェクトによったものです。」「オーッ。」パンフレットによれば、国家プロジェクトは「ムーンライト計画」と呼ばれ、昭和六十二年当時、世界最高品位を実現した。
     「当時の効率は五十パーセント台、その後六十パーセントまであがりました。」発電効率と言うのはその程度なのである。原子力は別にして、液化天然ガスが最もコストが安いのだそうだ。
     「それじゃSLを見ましょう。」格納庫には、明所初期の蒸気機関車が鎮座している。一八九一年イギリス製2100形2109号である。今でも動かしていて、構内二百メートルの狭軌を敷いてある。「花子とアンが乗ったのがこの汽車です。」「オーッ。」今日はこれが多い。
     「朝七時頃に石炭に火をつけ、昼ごろに漸く蒸気がでます。だから運転するのは午後ですね。」「そんなに時間がかかるんですか?」「家庭で風呂を沸かすのだって時間がかかるでしょう。昔はもっとかかったし、そもそも水の量が全然違いますからね。」タンクには七トン程の水が入るのだ。私は石炭のことしか考えなかったが、水蒸気で動くのだから水が必要なのは当たり前なのだ。
     いつの間にか桃太郎がいた。「どうしたの?」「昨日歓送会で飲み過ぎて、朝起きたら世界が回ってた。」「どのくらいかかった?」「三時間弱かな。」そんなに飲んでも、また飲むためにここまでやってくるのである。酒に賭けるその情熱。
     案内してくれた人にお礼を言って外に出る。「毎日、同じ説明してるんだぜ」とスナフキンはその苦労に同情する。全くの門外漢ではあるが、これは貴重な博物館である。神楽坂にある東京理科大学の近代科学資料館にも感心したが、大したものだ。この大学は相当金がある。

     オカチャンは、ここから自宅まで歩いて帰ると言って別れて行った。「こっちから行けるんだと思うんですけど。」姫は下見の時とは違う道を行こうとしている。角を曲がると正面に神社があった。「ここですね。」
     身代(コノシロ)神社である。南埼玉郡宮代町須賀一六三四番地。鳥居が少し変わっている。笠木には反り増しがあって明神鳥居かと思えば、貫が柱を貫いていないのだ。この様式は初めて見るが、岡山県津山市の中山神社の鳥居が代表的なので、中山鳥居と呼ぶらしい。
     社殿はコンクリート製の倉庫のような覆殿で隠されている。この神社が宮代町の由来になったのは冒頭に記した通りで、オクチャンが詳しく解説してくれる。祭神はスサノオで、須賀村の惣鎮守である。
     ここの青面金剛もショケラを握っているが、足元は二匹の邪鬼の頭を踏んでいる。寛政七年(一七九五)の銘が読める。しかし身代を何故コノシロと読むのか。宗匠は魚のコノシロ(鰶)の写真を持ってきていた。「これが関係してるみたいだよ。」

     伝承として、ある武将が奥州に落ち延びる際に武将の姫が追っ手に捕えられそうになり、そのとき、村人がコノシロという魚を焼いた。この魚は焼いた時の匂いが人を焼いた時と同じであるといわれ、追っ手に対して「姫は死んでしまった」ことにし、救うためであった。無事に追っ手から逃げることのできた姫はたいそう感謝をし、コノシロにちなんで身代神社を祀ったという話が伝わっています。また、神社の脇にある身代池には、オイテケ伝承や龍神伝承が伝わっています。(郷土資料館編「みやしろ 歩け歩け」より)

     つまりコノシロを身代りにしたと言う訳だが、こうした伝承は実はここだけでない。ウィキペディアには、下野国の長者の娘に常陸国司が懸想した話が書かれている。娘には恋人があったため、死んで火葬にしたと偽ってコノシロを焼いたと言う。この神社と全く同じである。これはむしろ、その魚をコノシロと呼ぶ語原説話と考えるべきだろう。
     『言海』では、魚の種類として「子ノ代ノ意カ。當歳ナルヲこはだト云フ。酢ニ用ヰルトキハ上膳トス。」とある。無学だからコノシロは知らなかったがコハダなら知っていた。ウィキペディアでは、この魚を秋祭りの鮓に用いたので魚扁に祭の文字としたという。
     結局色々調べてみたが、神社名の由来としては良く分からない。もうひとつ、須賀村の地名は鎌倉時代に遡ることができるらしいが、その鎮守がスサノオを祀ってあることが私にはちょっと気になってしまう。氷川神社の系統なのか、牛頭天王社の系統なのか分からないが、牛頭天王なら、明治の神仏分離で須賀神社に改名した例が多い。スサノオがヤマタノオロチを退治して出雲国に至り、「吾此地に来て、我が御心すがすがし」と言ったことから、出雲国須賀の地名が生まれた。ここの須賀村の名も、この神社によって生まれたのだと推測できるだろう。

     「次は真蔵院ですね。」地図を見ると一キロほど先である。いつの間にか行列が異様に伸びている。かなり遅れて最後尾にいるのが隊長と椿姫だ。「隊長はよっぽど嬉しいんでしょうね。」

     好天の青田広がる道行の椿愛でつつ二人の世界  閑舟

     サクラさんもその中に混じっているので「二人の世界」と言う訳にはいかない。後で隊長が告白したところによれば、ユスラウメの赤い実を食べていたのだそうだ。しかも椿姫は十個も食べたらしい。
     そして真蔵院に着いた。南埼玉郡宮代町須賀一二六四番地。智山派である。「うちは豊山派なのよ」とイトハンは笑う。医王山大福寺。嘉暦年中(一三二六~一三二九)の創建とされる。
     境内入口の案内を見ると、ここが鎌倉街道中道(なかつみち)で奥州街道でもある。鎌倉街道にはいくつも分岐する道があるのだが、大雑把に言えば、鎌倉から上永谷・鶴ヶ峰・荏田・ 二子・三軒茶屋・中野・板橋を経て、赤羽の辺りから日光御成道とほぼ重なりながら、やがて日光道中に合流する道である。義経が奥州へ歩いた道であろう。
     私たちが歩いた御成道は江戸時代に整備された街道だから、この旧奥州道とは若干ずれているのは仕方がない。ついでに言えば上道(かみつみち)は上州から信濃・越後へ、下道(しもつみち)は下総に至る道である。 
     もう一度案内板を見ると、この寺の本尊である薬師如来には「身代り薬師」の伝説がある。もしかしたらこれが身代神社と関係があるのではないか。

    その縁起によると、昔、伊藤修理大夫光重という者が無実の罪のために北条時氏の軍勢に討たれました。光重の首をもったその軍勢が須賀の地にさしかかると、にわかに光重の首が重くなりました。不思議に思い確かめると、光重の首ではなく薬師の首にかわっていました。伊藤の家に尋ねると、光重は傷一つ受けていませんでした。(宮代町郷土資料館)

     もう一度ネットを探していると上手いブログが見つかった。この薬師如来について、『新編武蔵風土記稿』の記事を引用してくれているのである。こちらでは、伊藤修理大夫光重ではなく光家になっているが、同じ話だ。こういうことを調べてくれる人がいるととても助かる。

     薬師は坐像にて長三尺餘、行基の作なり、傍に日光、月光及び十二神を置。相傳ふ、古陸奥國会津人伊藤修理大夫光家といふもの、北條泰時の長男時氏に仕しが、仁治の頃當所をよぎるとて、野武士に囲まれ、危うかりしに、此薬師光家が身代りとなりて助けしことあり。依て身代薬師と云へり。(『新編武蔵風土記稿』)
     (http://blogs.yahoo.co.jp/sunekotanpako/14229743.htmlより)

     これが「仁治の頃」で、身代神社の創建が仁治三年(一二四二)ならばちょうど時代も合っている。また牛頭天王(スサノオ)の本地仏は薬師如来である。ブログの人は結論を出していないが、私にはこれでほぼ結論が出たと思われる。
     まず薬師如来を祀る堂を建て(これが真蔵院の原型である)、同時に薬師如来の護法神として牛頭天王を勧請した。この時代に神仏は一体である。だから身代り薬師と同じく、最初は身代り神社と呼ばれたのではないか。やがて「身代」の文字から「子の代」を連想して魚に付会したものだと思われる。
     山門は江戸中期の建造になる仁王門だ。「立派な仁王様ね。」金剛力士の朱色がやや薄くなっているが、保存状態はそんなに悪くない。境内では今日三度目の青面金剛にお目にかかった。このショケラが今日の中では一番人間らしさが残っているだろうか。延宝八年(一六八〇)と読める。小花波平六「庚申信仰礼拝対象の変遷」によれば、最も早い像塔は承応三年(一六五四)だから、青面金剛像としては初期のものになる。それ以前の庚申塔には、聖観音や阿弥陀如来が刻まれていたらしい。また三猿の出現も同じ頃からで、それ以前は一匹のもの、二匹のものがあると言う。

     「それじゃ駅に向かいましょう。」須賀小学校前で右に曲がったところに、パトカーが停まっている。「何してるのかしら。」「隠れて速度取締をしてるんですよね。」しかし違った。片面を擦った車が寄せられている。「こんな見通しのいいところで、擦るかね。」「アクセルとブレーキを間違えたんじゃないか。」最近ベテランのタクシー運転手がアクセルとブレーキを踏み間違えて事故を起こしたことが報じられた。何が起きてもおかしくない時代である。
     踏切を渡ればすぐ左手が和戸駅だ。地下道の出口を見て、「なんだか見た記憶がある」と桃太郎が言い出した。随分前に杉戸をあるいたことがあるから、桃太郎の記憶はそれかも知れない。確か埼玉県内初のキリスト教会「和戸教会」はその時に寄った筈だ。その頃はこんな日記を書いていないので詳細は忘れてしまった。
     駅に着いたのは三時五十分。ちょうど計画通りだ。本日の歩数は一万六千歩。十キロ弱である。酒を飲みたい連中は久喜からJRに乗って大宮に向かうことにした。飲まない人は、東武線を浅草方面に向かって別れる。「中央林間行きに乗って北千住で乗り換えればいいですよ。」小田急線に乗りたいサクラさんに姫が丁寧に教える。相変わらず乗換には少し自信がないカズちゃんにはマリーが付き添う。

     宇都宮線は結構混んでいて座れない。ドアに凭れながら千意さんが一所懸命指を折りながら句を捻る。私はその日にすぐ作るということができない。作文を書きながら、三四日かけてなんとか捻りだす。
     大宮の庄やに入ったのはイトハンも含めて九人だ。「さくら水産じゃないのかい?」「あそこは飽きちゃったから。」「出世したね。」このためにやって来た二日酔いの桃太郎も、午前様のスナフキンもすっかり回復したようだ。隊長は随分楽しそうだ。
     焼酎のメニューを見ると、黒霧島のほかに白霧島というものがある。値段は一緒だ。「珍しいから飲んでみるか。」スナフキンの言葉でそれに決めた。「なんだか薄いような気がする。」薄いのも道理で、瓶を確認するとアルコール度数は二十度しかない。「やっぱりね。」二本目は黒霧島にした。

     姫たちは より速く より高く より強く  千意

     イトハンは短距離選手、あんみつ姫は高跳び選手、そして真偽は不明だが椿姫は棒高跳びをやっていたという話題になったのである。それでなくても女性が強いのは言うまでもない。「椿姫が棒高跳びはないだろう。」「折れちゃうよ。」この失礼な発言が誰だったか、私は全く覚えていない。一人三千円。

    蜻蛉