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    平成二十七年六月二十七日(土) 運河

    投稿:   佐藤 眞人 氏     2015.07.05

     こころはかなり歩けるようになった。と言っても嫁が妻に送ってくる動画で見ているだけで、三週間ほど会っていないのだ。今度会えばまた泣かれるかも知れない。
     旧暦五月十二日。夏至の初候「乃東枯(なつかれくさかるる)」。乃東は夏枯草(シソ科ウツボグサ)の古名(漢方名)である。昨日からの雨がやや残っているが、傘をさすほどではない。天気予報を信じれば午後には止むらしいので折り畳み傘をリュックに入れた。
     東武野田線(アーバンパークライン)の運河駅までどう行くか。一番早いのは、北朝霞から武蔵野線に乗り、南流山でつくばエクスプレスに乗り換えて、流山おおたかの森から野田線に回るコースになる。これが所要時間一時間二十五分で千二百八十一円だ。一方最も安いのは大宮から野田線一本で行く方法で一時間四十九分かかかるが九百五十二円で済む。その差三百二十九円は大きいから、当然そのコースしかない。鶴ヶ島発七時五十四分、大宮発八時四十二分、運河着が九時三十七分である。
     野田線でおよそ一時間、沿線の光景を眺めていると、この線のどこがアーバンなのかと実に不思議に思ってしまう。東武の命名方法はおかしい。なんでも名前を付ければよいというものではないだろう。ドクトルはルーラルパークラインへの改名を勧める。元々は野田から柏へ醤油を運ぶ貨物路線であった。昭和四年(一九二九)、野田から清水公園までが開通して、初めてパークに縁ができる。そして翌五年に大宮までつながった。東武伊勢崎線(東京スカイツリーライン)とは春日部で乗り換えられる。
     春日部からここまでは単線区間だ。運河駅は流山市東深井にあるが、利根運河を挟んで北は野田市になる。隊長、シノッチ、カズチャン、オクチャン、ツカサン、ハコサン、ドクトル、宗匠、ヤマチャン、蜻蛉、集合したのは十人だった。「良かったわ、ひとりじゃなくて。」シノッチとカズチャンが、女性の相棒がいたので喜び合っている。別に一人だって構わないではないか。
     ロダンは今日も仕事だろうか。「スナフキンは来ないのかな?」休むとは聞いていなかったと思うが、念のためにメールを確認してみると、スナフキンではなく妻から「箸を入れ忘れてゴメン」とあった。

     駅東口から線路に沿って洒落た遊歩道が続き、すぐに利根運河にでる。この道はムルデル記念通りと名付けられている。ムルデルとは何か、これはすぐに分かる。
     利根運河は、東の利根川と西の江戸川を結ぶ舟運のために計画された運河で、明治二十三年(一八九〇)に竣工した。オランダ人技術者ローウェンホルスト・ムルデルの設計・監督のもとに開削された、日本初の西洋式運河である。銚子から江戸までは利根川を遡行して関宿で江戸川に入るコースがあったのだが、一部浅瀬があって大型舟が通行できなかったのである。明治以降の物資の増加によって運河の必要が生じた。
     明治二十四年(一八九一)には年間の舟運三万七千六百隻に及んだというから、一日百隻以上の船が運航したことになる。また明治二十八年(一八九五)には、東京から小名木川・江戸川・利根運河・利根川を経由する銚子航路が開業し、百四十四キロを十八時間で結んだという。
     しかし、今見ている川の流れはそんなに広くない。川面を覆うように草や枝が伸びている。明治二十九年(一九八六)に日本鉄道土浦線(後の常磐線)、明治三十年(一九八七)に総武鉄道(後の総武本線)が開通し、太平洋岸との時間的距離が大幅に短縮されると、舟運も衰退していったのだ。
     向こう岸には東京理科大学の野田キャンパスの建物が見える。東京理科大学については、去年八月に神楽坂を歩いた時少し調べたから、付け足すことはない。このキャンパスは昭和四十一年(一九六六)に工学部の一部をおいて発足した。現在は理工学部と薬学部、大学院理工学研究科、大学院薬学研究科、大学院生命科学研究科がここにある。
     堤防は遊歩道になっていて、小雨の中でも散歩している人を見かける。左岸を五百メートルほど歩いたところが眺望の丘だ。特に眺望が良いとは思えないが、霧に煙るような緑の中に川が少しカーブを描いて流れている景色は悪くない。周囲は森に囲まれていて、本当に緑が多い。雨は時折激しくなるものの、それほど長く続かずに止む。
     「ウグイスじゃないか。」なるほど、ホーホケキョの声が喧しい。「土木学会選奨土木遺産」のプレートが設置されているのは、「地形に沿って建設された当初の形態や線形が今も残る歴史的に貴重な運河」だからなのだ。
     運河を離れて新しい住宅街に入っていく。どの家も、多少の違いはあっても洋風の同じ意匠だから、建売住宅の団地なのだろう。「どこが開発したのかな。」「東武じゃないの。」しかし開発は東武不動産ではなかったようだ。この辺りの住所は流山市東深井になる。

    流山市の北部に位置し、同市最北端の町である。地域内はTBS、東急不動産、小田急電鉄などによって開発された住宅街となっている。また、須田恒弘プロデュースによる、ニュージーランドの街並みを再現した「ルアジーランド流山」の分譲が行われ、ニュージーランドからも関心が寄せられた。(ウィキペディア「東深井」より)

     「ルアジーランド流山」というのは、富士ゼロックスの研修所の跡地で、平成十四年(二〇〇二)に温泉付き戸建て住宅として売り出したものらしい。須田恒弘というのは草加の建築会社社長だが、平成二十三年に負債総額七億円で倒産している。ということは、住宅に瑕疵が見つかっても保証がないということである。
     TBSの名前で驚くのは私の無知であった。TBSは赤坂サカスの開発以来、不動産業の収益でテレビ事業の不振を補填しているのである。他の会社の収益がどうなっているかは知らないが、テレビも新聞も衰退に向かっているのは間違いなく、百田尚樹のような無頼漢に脅迫されるまでもない。報道はこれからどうやって生き延びていくのか、実に心許ない。このところ、頻りに林達夫が思い出される。

     絶望の唄を歌うのはまだ早い、と人は言うかも知れない。しかし、私はもう三年も五年も前から何の明るい前途の曙光さえ認めることができないでいる。(林達夫『歴史の暮方』)

     この文章が『帝国大学新聞』に発表されたのが昭和十五年(一九四〇)六月三日である。昭和十二年(一九三七)には近衛内閣によって国民精神総動員が始められ、十五年十月には大政翼賛会が発足している、そんな時代であった。
     それぞれの家は競うように樹木を植え、その中でもやはりアジサイが多い。薄緑の実がぶら下がっているのはエゴノキだ。「食えるのかな?」ヤマチャンの疑問に「食べられないと思いますよ」とオクチャンが苦笑いする。名前自体、「えぐい」による筈で、苦みや渋みがきついのではないだろうか。
     葉先が黄色くなっているのは先日教えてもらったキンキャラだ。しかしオクチャンは「そうじゃない、キンマサキです」と簡単に否定する。葉の形が全く違うのである。私は色だけ覚えて形まで神経が回っていなかった。キンキャラ(イチイ科)は葉が細くて松のようになっていのだが、これは幅広い。キンマサキはニシキギ科である。
     そして入っていったのが東深井地区公園だ。雑木林の中を歩いていくのは気持ちが良い。この公園は古墳群を中心にして整備されたものだった。
     古墳は古墳時代後期(六~七世紀)のものと推定され、かつては四十基以上あったらしいが、今では公園内に、七号墳から十八号墳までの十二基が残っているだけだ。そのうち前方後円墳が一基あるらしいのだが、雨の中、傘をさしながらではそこまで探検するのは無理だ。古墳と言ってもそれほどの高さがないのは、数世紀を経るうち、周囲に土が堆積したためだろう。墳の周りには杭が打たれ、チェーンで囲ってある。墳丘の内部は立ち入り禁止なのである。それなら、古墳らしい小さな盛り土に階段を儲けているのは人工の丘なのだ。人物埴輪、円筒埴輪のほかに鶏埴輪や魚の埴輪が出土し、それらはすべて流山市立博物館で管理している。
     太日川(現・江戸川)流域にはかなりの数の古墳群が点在している。太日川、渡良瀬川を通って上野国と下総国との古代交通網を考えてよいだろう。ただ中世以前のこの地区に関しては史料が乏しく、実態はよく分かっていない。
     野田が歴史上重要な地になるのは醤油によってである。「前にキッコーマンに行ったじゃないか。」「醤油の小瓶をもらった。」平成二十一年九月のことである。いくつかの古墳の周りを巡って公園の外に出る。

     運河の支流らしい細い川に架かる橋は大橋である。橋のたもとにはネムノキの花が咲いている。毛のような雄蕊が水にぬれて重そうに垂れ下がる。かなり大きな木だ。「ねむの木学園か。宮城まり子だな。」「まだ生きてるのかな。」失礼な会話だったが、現在八十八歳で存命らしい。「皇后が好きな花だよ。」「そう、そう。」皆よく知っているね。「ネブタギって言うわよ。」東北の一部ではそう呼ぶらしい。私は秋田では見た記憶がないが、ただ芭蕉に象潟の句があるからには、秋田にもあったことは間違いない。

     象潟や雨に西施がねぶの花     芭蕉
     雨の日やまだきにくれてねむの花  蕪村

     芭蕉も蕪村も雨を詠んでいるから、ネムノキには雨が似合うのだろう。しかし、この木が何故夫婦円満の象徴として合歓と書かれるのか。夜になると葉を閉じるのが「眠りの木」「眠たの木」の語原だが、閉じた葉が二枚重なっているのが、男女合体を思わせたらしいのだ。
     川沿いの大きな木には小さな赤い実が生っている。「サクラじゃないの?」シノッチはそう言ったが、サクラにも種類がある。隊長、ツカサン、オクチャンの間でウワミズザクラかイヌザクラかの検討が重ねられた結果、イヌザクラであろうと結論が出た。晴れていれば樹皮の色ですぐに判別したのだろうが、濡れているから難しいのだ。ウワミズザクラは黒、イヌザクラは白と、隊長から以前に教えられていた。「食べられるよ、甘い。」試しに口にしてみたが、とても苦い。鉄柵に沿ってツバキも植えられている。
     再び利根運河の左岸にでて、また川沿いに進む。「あれはミズキだね。」やがて小さな公園に出た。ナツアカネ、オニヤンマのトンボの巨大なモニュメントが立っている。なぜこんなものがあるのかは謎である。
     柏大橋のたもとの生い茂る草の中に、「大青田貝層」の説明板が立っていた。

     大青田地区に貝の化石がでることは昔から知られています.農家はこの貝を鶏の餌に利用してきました。貝層は利根運河底より南寄り一帯に広く発達しており、東西約百五十メートル以上の範囲です。
     昭和十二年に調査され、「大青田貝層」と名付けられました。その後昭和三十八年に再調査が行われ、詳細な検討の結果、未確定種十八種を含む百七十四種類の化石が確認されました。
     貝層は上部に薄く小規模に散在する貝層と、下部に厚く堆積した大規模な貝層に分けられます。地層名は下総層群の木下層と考えられます。
     この貝層は、浅海性吹き寄せ貝層で、調査時には磯の香りが極めて強かったので、堆積当時は浅い砂泥地で潮流または波浪にあらわれる内海であったと考えられます。
     地質学・古生物学・古気象学において重要なものです。平成三年二月 柏市教育委員会

     ここは流山市と柏市との境界だった。今でも田んぼの水路脇に貝の化石が見られるらしい。晴れていれば土手を降りて観察してみたいところだ。縄文海進の痕跡になるのだろうが、これはロダンが詳しいだろう。念のために海進の原因を確認しておこう。

     最終氷期と呼ばれる今から約一万年以上前の時代には、 北アメリカ大陸やヨーロッパ大陸の北部には現在の南極氷床の規模にも匹敵する厚さ数千メートルにも達する巨大な氷床が存在していました。これらの氷床は、約一万九千年前に最大に達し、それ以降急激に融解し、約七千年前までには、ほぼ完全に融けきってしまったことが、氷河の後退過程で削剥・運搬されて残された地形や堆積物の研究からわかっています。ところが、約七千年前以降に、海面を数メートルも低下させるような氷床の再拡大を示す地形の証拠は確認されていません。
     この北半球の巨大な氷床の融解に伴って、約一万九千年前以降、氷床から遠く離れた場所では、海面は年間で一~二センチメートルというものすごい速さをもって百メートル以上も上昇し、ちょうど約七千年前までには海面が一番高くなりました。これが「縄文海進」の原因です。しかし、その後起こった海退の原因は、氷床が再拡大したためではなく、その後、氷床融解による海水量が増大したことによって、その海水の重みで海洋底が遅れてゆっくりと沈降した結果、海洋底のマントルが陸側に移動し、陸域が隆起することによって、見かけ上、海面が下がって見えることによります。これが約七千年前の「縄文海進」の背景にある地球規模の出来事です。(日本第四紀学会「だいよんきQ&A」質問:縄文海進の原因について。http://quaternary.jp/QA/answer/ans010.html)

     縄文海進後の海面後退が、海水の重みによる海底の沈降と、マントルの移動による陸の隆起だったなんて、初めて知る知識だ。勉強はしなければならない。
     「これは国道十六号線かな?」私は地図も見ないで「違うんじゃないか」と言ってしまったが、ヤマチャンの勘の通り、十六号線で間違いなかった。太陽が出ていないので方角が分からないのだ。柏大橋を渡れば野田市に入る。
     今度は運河の右岸を歩く。土手下には森が広がっている。何をしているのか、土手の真ん中に立って呆然としていたオバサンが挨拶をしてくれる。やがて隊長はおかしなところを降り始めた。土手の下を流れる小川に木橋が架かっていて、それを渡る積りらしい。「滑るから気を付けてね。」痛風で三日前まで苦しんでいたという隊長が一番心配だ。
     土手の草が滑る。橋の手前はぬかるんでいて、注意していたのに足を滑らしたのは私だけだった。靴底がかなり擦り減っていて、今日は危ないと思っていたのだが、案の定だ。右の手の平を地面に着いてしまった。すかさずカズチャンが私の手を握って引っ張ってくれたおかげで何とかしのげた。十一時四十分。そろそろ腹が減って来た。
     橋を渡って入った森が、東京理科大学の理窓会記念自然公園である。理窓会とは理科大学同窓会のことらしい。大学創立百周年を記念して、同窓会が借地権を取得し昭和五十五年(一九八〇)に開園した。広さは十三万平方メートルに及ぶ。

     公園ができる前のこのあたりは、通称東深井谷津と呼ばれる長谷津に谷津田がいくつも入り込む複雑な谷津地形をなし、台地にはアカマツを主体にコナラやクヌギなどが茂り、谷津や谷津田では稲作が行われていました。東葛の里山の原風景を残したこの公園は今でも山あり谷ありで、斜面林、雑木林、ヨシ原、池、湧水、水路、開けた草地、日陰の草地、明るい湿地、暗い湿地、乾燥地など、これほど多様な環境が配置され豊かな生態系をなす地域は珍しいものです。春の梅林と桜、ハス池ひょうたん池の睡蓮、秋の紅葉は特に見所です。

     深い森で、木の根元には大きなキノコが生えている。「これは?」「オカトラノオよ。」随分前に見て以来だ。「トラノオの中で、一番姿がきれいだね」というのは宗匠である。「このキノコはでかい。」大きなパンに似ている。「食えるかな?」「キノコは危ない。」アカマツの林を抜けると、大学の校舎が見えてきた。セミナーハウスの脇の東屋で昼食をとることになる。ちょうど十二時だ。
     東屋の中の大テーブルは、バーベキューができるように中央部分に網があり、その上をベニヤ板で覆ってある。ここで弁当を広げる。学生がバーベキューをするのだろうか。「一般人が来るんだよ。」そうなのか。そして外来者のために、少し離れたところに簡易トイレが三基おかれている。箸がないので、リュックに仕舞いこんでいたアーミーナイフから錐を出して、爪楊枝代わりに使ってみる。
     セミナーハウスの玄関先には大きなタイザンボクの花が開いている。東屋の後ろ側の草むらには赤いザクロの花が咲いている。「ヒメザクロかしら?」シノッチが口にしたが、ザクロに「ヒメ」という種類があるとは知らなかった。「そういえば花が小さいね」と宗匠が応えている。ただ調べてみると、ヒメザクロは植木鉢でも栽培できるような、樹高の低い(サイトによって、一メートル前後とか、最大四メートルとかいろいろある)ものらしい。この木はかなり背が高いから普通のザクロであろう。
     「この実の生っている木は何ですか?」「センダンです。」「双葉より芳し?」「違います。」センダンを見ると必ずこの問答が繰り返される。双葉より芳しい栴檀は白檀を言う。センダンは古名あふち(楝)という。当然オウチと読む。「紫の花がきれいなんですよね」と隊長とオクチャンが話し合っているが私は見たことがない。またセンダンの語源は確定していないようだが、一説に千の珠、千の団子とするものがある。それほど実の数が多いということらしい。実の核は数珠になる。
     「この実は食べられるのかな?」ヤマチャンは何が何でも食欲に結び付けたい。しかし「毒です。サポニンがあるので中毒します」とオクチャンに一蹴されてしまう。サポニンを含むと言えば、ムクロジもそうだ。界面活性作用があるので泡立って石鹸の代わりになるが、細胞膜を破壊するのである。さっきのエゴノキもサポニンを含んでいる。
     「ジャコウアゲハだ。」隊長が声を上げる。黒くて胴体がかなり太い。「ゆっくり飛ぶのが特徴ですよ。」しかし急いで飛ぶ蝶はあまり見たことがない。オクチャンによれば、体内に毒をもっていて、それを知っている動物はジャコウアゲハを襲わない。だからのんびり飛ぶことができるのだと言う。
     白鳥の池にはカルガモの親子が浮かんでいる。「池の真ん中に止まっている黒いのは?」「カワウだね。」向こう岸にいた白鳥がこちらに近づいてくる。餌をくれると誤解したのだろうか。
     蓮池には蓮の葉が広がっているが、花は数えるほどしか開いていない。「蓮って言うとレンコンしか思いつかないよ。」今日のヤマチャンはこればかりだ。「行田の蓮がちょうど見頃ですね。」そう言えば妻も来週には見に行きたいと言っていた。ツカさんが下りて行って写真を撮るので、私も真似してみる。
     草むらの中にピンクの細い花が立っているのはネジバナだ。「ほら、その足元にも」とオクチャンがヤマチャンの靴を指さす。「もじずり(綟摺)とも言いますね。」それは知らなかった。それならば河原左大臣(源融)の歌と関係があるだろうか。

     みちのくのしのぶもぢずりたれゆゑに 乱れそめにしわれならなくに

     信夫綟摺は、陸奥国信夫郡で作られる絹織物の染色方法である。その模様が、もつれて乱れたようだったので、都では「信夫捩摺」と呼ばれたという。この花の捻じれた様子が、その模様に似ているから、モジズリと呼ばれたらしい。
     野原にはアザミの花も目立つ。「こんなにノンビリしたところだと勉学に身が入らないんじゃないか?」それはどうだろうか。しばらく歩くと大きな石碑が目に入った。これはヤマチャンに見て貰わなければならない。「理窓会自然公園之碑」で、冒頭に「古来、山紫水明の地は偉人を生み、広潤万緑の地は俊秀を育てるとされております」と書かれている。「ホラ、こう書いてある。」

     偉人生む泰山木の立ち姿   閑舟

     「ハンゲショウだよ。」宗匠に教えられて小さな池を見ると、向こう岸にハンゲショウの群落があった。近づける場所ではないので、写真に撮ってもよく見えない。確か先日、ハンゲショウは絶滅危惧だと教えられた筈だ。
     また自然公園の中に入ったようだ。「これはチダケサシです。」オクチャンがまた珍しい名前を教えてくれる。長い茎に小さな花を円錐形につけている。ユキノシタ科。花は淡いピンク色だ。「チダケっていう茸を刺すっていう意味です。」今一つ意味が分からない。チダケというのは乳茸または乳蕈と書く。私は食べたことがないが、特に栃木県民が好んで食すらしい。このキノコを採取したときに、この茎で刺して持って帰るというのだが、何故ほかのキノコではいけないのか。
     池の向こうに赤い花が咲いている。「ヤブカンゾウですね。」「カンゾウだ。だけど随分赤がきつい。」「普通はもっと黄色いですよね。」「忘れ草」と宗匠が呟く通り、萱草と書いてワスレグサとも呼ぶ。花が一日で終わると考えられ、その名がついたと言われている。因みに甘草と書くのはマメ科であり、これとは別のものだ。立原道造に「萱草(ワスレグサ)に寄す」があるのは、いつか書いたことがあるが、宗匠は私には全く思いもよらない歌を知っていた。

     浮かびくる登美子の眼忘れ草  閑舟

     登美子は山川登美子のことだろう。山川登美子・増田雅子・與謝野晶子合歌集『恋衣』にこんな歌がある。

     それとなく紅き花みな友にゆづりそむきて泣きて忘れ草つむ(晶子の君と住の江に遊びて)

     明治三十三年(一九〇〇)十一月、晶子とともに住ノ江の海岸に遊んだ時の歌だ。親の勧める山川駐七郎との結婚を承諾し、自分は諦めて鉄幹を晶子に譲るという決意である。これまで晶子の歌碑には何度か遭遇して触れていたが、登美子については殆ど知識がなかった。
     明治十二年(一八七九)七月十九日に若狭小浜に生まれ、明治四十二年(一九〇九)四月十五日に死んだ。泣く々々結婚した夫とは一年で死別したが、その夫から感染した結核が原因だった。刊行された歌集は『恋衣』だけである。この『恋衣』には晶子の「君死にたまふことなかれ」が掲載されて物議を醸した。登美子はそのために日本女子大を退学させられる。
     折角名前を思い出させてもらったから、登美子の歌をいくつか記憶しておきたい。

    髪ながき少女とうまれしろ百合に額ぬかは伏せつつ君をこそ思へ
    心なく摘みし草の名やさしみて誰におくると友のゑまひぬ
    海に投ぐもろき我世の夢の屑朽木の色を引きて流れぬ
    こがね雲ただに二人をこめて捲けなかのへだてを神もゆるさじ 
    見じ聞かじさてはたのまじあこがれじ秋ふく風に秋たつ虹に

     「カンゾウは食べられるんだよ。」折角明治の浪漫主義に浸っていたのに、隊長がこんなことを言う。あれを食うのか?「肝臓に良いなんて言わないでよ。」「そうじゃないんだよ。ホウレンソウみたいにして食べるんだ。」確かにウィキペディアをみると、若葉をおひたしにして酢味噌で食べると書いてある。
     時々聞こえてくる不気味な声はウシガエルだろう。「食用ガエルだね。」元々食用として輸入し、養殖で増えたものだが、現在ではほとんど食うことはない。私も随分昔、新宿の飲み屋で二三度食べたきりだ。因みにアメリカザリガニは、ウシガエルの餌として輸入したものである。
     現在、ウシガエルは日本生態学会の「日本の侵略的外来種ワースト百」に指定され、外来種リスト(生態系被害防止外来種リスト)にも選定されている。大型で、自分より小さな動物は何でも食うことから、他の生物を殲滅する恐れがあるのだ。そして外来生物法によって飼育も生体の販売も禁止されている。

     同法において本種の採捕自体と同所的再放流は禁じられていないが、採捕した本種を生体の状態で採捕地点から異所に運搬したり、その生体を異所に遺棄することはできない。また飼育している個体を野外へ放すこともできない。運搬、保管、飼養に抵触した場合、個人であれば一年以下の懲役または百万円以下の罰金、さらにそれらの行為が生体の放流を目的としていると認められる場合三年以下の懲役または三〇〇万円以下の罰金という厳しい罰則が科せられる。ただし、学術、展示、生業利用などの合理的な目的があれば特別な許可を得ることで捕獲や飼育が限定的に認められる。(ウィキペディア「ウシガエル」より)

     食用として販売が禁止されているのは生体で、冷凍したものなら構わない。食用としては年間数千匹が輸入され、また学術や理科の実験用としては国内で数万匹が採取されているらしい。
     ラン科の花はオオバトンボソウである。「花の形がトンボの飛ぶ姿に似てるんですよ。」言われてみればそのようにも見える。小さな薄い緑色の花だ。今日は今まで見たことのない花にお目にかかる。
     「あそこにアオサギが。」ずっと向こうに、アオサギが何かを考えているようにじっと立っている。「存在を誇示してるんじゃないですか。」「田舎にはアオサギなんていなかったよな。」「そうだね、いなかった。」佐賀県にはアオサギはいないという証言である。

     夏季にユーラシア大陸中緯度地方で繁殖し、冬季になるとアフリカ大陸中部、東南アジアなどへ南下し越冬する。アフリカ大陸南部やユーラシア大陸南部などでは周年生息する。日本では亜種アオサギが夏季に北海道で繁殖し(夏鳥)、冬季に九州以南に越冬のため飛来する冬鳥。本州、四国では周年生息する留鳥である。(ウィキペディア「アオサギ」)

     なるほど、本州四国では一年中見られるが、九州では一時期しか見られないのかもしれない。十センチ程に伸びたタケノコをカズチャンが引っ張ろうとしている。「そんなに伸びてちゃ、もうダメだよ。」
     もう一度アカマツ林から出て、さっきの校舎の脇に出る。「赤い花ってどこにあるの?」「トイレのところ。」宗匠とシノッチがさっき見つけた花の名が分からないと言っていたのだ。そこに向かうのかと思っていたが、隊長はどんどん先に行って道路に出てしまった。「なんだ、行かないのか。」
     バス停「白鳥の池入口」に向かう。「歩くと一時間かかるんだよ。」野田市の豆バスに乗るのである。停留所は霊波之光の資材置き場の前である。「宗教法人がなんで資材置き場を持ってるんだろう?」「勤労奉仕をしてるからじゃないか?」私の返事も実にいい加減である。十六号を走っていると天守閣が見える。大本教から真光の流れに属すのかと思っていたが、それとは全く別である。
     塀の脇にユウゲショウが咲いている。「そうですね。昔はベニバナユウゲショウって言ってたけど、今はベニバナとは言わないですね。」ツカサンが言うように、私も初めて教えてもらったときはベニバナユウゲショウと聞いた。薄いピンクではない、白いユウゲショウはおそらく珍しいので、私も一度しか見たことがない。夕化粧という名前の癖に、夕方になると萎んでしまう、おかしな花だ。

     夕化粧資材置き場にバスを待つ  蜻蛉

     「スイカは使えるかな?」「分からないよ。」民営のバスではないから多分現金だけではなかろうか。みんなが百円玉を握りしめる。定刻(十三時に十九分)より五分ほど遅れて豆バスがやってきた。
     座席は十一、私たちのほかに女性が一人乗ってちょうど満席だ。十六号を渡り、田舎道を走って行く。十分弱で「しらさぎ通り入口」に着いた。地図で見ると一・五キロほどになるか。歩いても一時間はかからない。「下見の時はあちこち寄ったからかな。」
     バスを降りて七八分でコウノトリ飼育施設「こうのとりの里」に着く。野田市三ツ堀三六九番地。靴を脱いでスリッパに履き替える。玄関を入ったすぐ正面がガラス張りになっていて、ケージの中のコウノトリが見える仕組みだ。
     かつてコウノトリは普通に留鳥として日本に棲息していたが、一九五六年には二〇羽にまで減少し、一九八六年には最後の一羽が死んで、日本ノコウノトリは絶滅した。「食べちゃったんでしょう。」環境悪化のためではないかと思ったが、実はそう単純なことでもないらしい。

     ・・・・このコウノトリの減少の原因には化学農薬の使用や減反政策がよく取り上げられるが、日本で農薬の使用が一般的に行われるようになったのは一九五〇年代以降、減反政策は一九七〇年代以降の出来事であるため時間的にはどちらも主因と断定しにくく、複合的な原因により生活環境が失われたと考えられる。
     その後、一九六二年に文化財保護法に基づき兵庫県と福井県が「特別天然記念物コウノトリ管理団体」の指定を受けた。兵庫県は一九六五年五月十四日に豊岡市で一つがいを捕獲し、「コウノトリ飼育場」(現在の「兵庫県立コウノトリの郷公園附属飼育施設コウノトリ保護増殖センター」)で人工飼育を開始。また、同年には同県の県鳥に指定された。しかし、個体数は減り続け、一九六六年に福井県小浜市の国内最後の野生繁殖地の個体が姿を見せなくなり、一九七一年五月二十五日には豊岡市に残った国内最後の一羽である野生個体を保護するが、その後死亡。このため人工飼育以外のコウノトリは国内には皆無となり、さらには一九八六年二月二十八日に飼育していた最後の個体が死亡し、国内繁殖が確実視される野生個体群は絶滅した。しかし、これ以降も不定期に渡来する複数のコウノトリが観察され続けており、なかには二〇〇二年に飛来して二〇〇七年に死亡するまで、豊岡市にとどまり続けた「ハチゴロウ」のような例もある。(ウィキペディア「コウノトリ」より)

     「ご覧になってどんな感想を持ちましたか?」「大きいね。」一メートル二三十センチ、翼を広げると二メートルにもなる。風切羽が黒いのでお尻が黒く見え、私には鶴と区別がつかない。絵で見る鶴とそっくりではないか。それを若い男性が説明してくれる。「日本画で松の木の上に立つ鶴を描いているのがありますが、鶴は木の上に立ちません。あれはコウノトリを間違えたんですね。」そうなのか。
     鶴との違いは脚の色を見るとよいらしい。脚が赤いのがコウノトリである。またツルは鳴くことができるが、コウノトリの成鳥は鳴かず、くちばしを打ち付けるだけだという。
     コウノトリといえば赤ん坊を運んでくるという伝説があるが、ヨーロッパのコウノトリは、東アジアのものとは種が違うシュバシコウ(朱嘴鸛)というものであった。文字通りくちばしが赤いのである。ただウィキペディアによれば、シュバシウコウとコウノトリの間では二代雑種ができるので、同一種であるという説も有力らしい。

     未来を担う子どもたちに多くの生き物がいる自然環境を残したいと考え、これまで進めてきた生物多様性の保全・回復の取り組みが後世に引き継がれるよう、生物多様性のシンボルとしてコウノトリの舞う里を目指し、江川地区に飼育・観察が可能な施設を建設するなど、準備を進めてきました。(野田市)

     そして平成二十四年十二月、多摩動物公園から番の二羽を譲り受けて飼育を開始した。「メスは二十歳、オスが十歳。年の離れた夫婦です。」その夫婦から二十五年、二十六年、二十七年とヒナが孵った。目の前のケージにいるのは夫婦と、今年三月に生まれた三羽のヒナである。しかしこれをヒナと呼ぶだろうか。「オスは父親よりも大きくなってます。」僅か三ヶ月で親と同じ大きさになるのである。
     この七月には、この三羽を放鳥する予定になっているが、上手く巣離れしてくれるだろうか。 「元々渡り鳥ですから、上手く放鳥してもこの辺に留まるかどうか分かりません。」それでも良いのだ。去年生まれた幼鳥は兵庫県豊岡市の訓練センターに留学中である。人工飼育しか経験していないので、野生に戻すための訓練が必要なのだ。放鳥の試験はここでもやっているのだが、どうしても外に出られない鳥がいるのである。また一度外に出てもすぐに戻ってくるのもいるらしい。

     梅雨空に鸛飛び立つ日を数えをり  蜻蛉

     兵庫県立コウノトリの郷公園は、平成十七年以来野生復帰に実績があり、野外で繁殖したものも含めて、現在野外にいるコウノトリは八十一羽を数える。これは今年の時点で国内での生息が確認されている個体数である。この中から、今月徳島県鳴門市で巣作りをするつがいが現れた。

    渦潮で知られる徳島県鳴門市が、国の特別天然記念物コウノトリの飛来に沸いている。兵庫県北部で生まれたオス(四歳)とメス(二歳)が、百数十キロ離れたこの土地で巣を作り、仲むつまじく暮らし始めた。卵を産み、ヒナがかえれば、兵庫県北部や隣接する京都府北部以外では、野外で初の繁殖となる。(朝日新聞DIGITAL 六月一日)
    http://www.asahi.com/articles/ASH5T6VQWH5TPUTB00J.html

     コウノトリが野生に帰るためには、周辺の環境もきちんと整備しなくてはならない。この周辺には森があり、田んぼや畑も減農薬でやっているが、この環境が広まらなければ、コウノトリの増加は難しいだろう。

     青田の畔の止まり木やこふのとり  閑舟

     コウノトリは一日に五百から六百グラムを食べるという。ドジョウに換算すると七十から八十匹になる。その餌代もバカにならない。「一匹が百円として」とハコサンが計算を始めるが、そんなに高くはない。五百グラムで二千円から三千円というところらしい。それなら餌代は、一日三千円弱として合計七羽で二万円、一年で七百万円になるか。
     「その費用は野田市からでるのかい?」「私たちは株式会社です。」しかしこんな事業が民間会社でできる筈がない。野田市の業務委託を受けているのだろう。パンフレットをみるとやはりそうだ。
     野田自然共生ファームという会社で、周辺の田圃を含めて運営しているのである。耕作放棄地を復活させて米や大豆を作って販売する。市民農園として貸し出している部分もあるようで、それらの収入がどれだけあるかわからないが、コウノトリの育成については、当然野田市から金が出ている筈だ。
     やがて団体客が入ってきたので外に出ると、袖ヶ浦市の観光バスが止まっている。内房のあんなところから来るのか。それにしても珍しいものを見せて貰った。こんな機会でもないと私一生コウノトリを知らずに過ごしてしまっただろう。コースを企画してくれた隊長には感謝したい。
     田んぼにはアオサギが佇んでいる。一日に二度も見るのは珍しい。「その向こうに白いのもいるでしょう。」ダイサギだろうか。「あれは交雑するんですかね。」理科系の人は変なことに関心がある。「無理でしょうね、種が違うから。」オクチャンの回答だ。
     長閑な光景が広がるのを眺めながら少し休憩して、今度は茨城急行バスに乗り百七十円で梅郷駅に着く。宗匠の万歩計で一万三千歩。八キロ程度というところだろう。それにしても野田は森が多く残る地域で、市内には中心になるような街がないのではないか。本来は中心になるべき野田市駅にしても、愛宕駅にしても目立つような商業施設がなかった。できうるなら、このまま森林保護を政策として進めてほしいと思うのは、利害に関係のない部外者の感想である。

     今日は新越谷で飲むことにする。「どう行けばいいかな。宗匠とヤマチャンは朝、どうやって来た?」「柏経由だよ。」それが早いのだろうか。しかし路線図を見ていた宗匠が、春日部経由が近いと発見したのでそのコースを選ぶ。
     ツカさん、ドクトル、シノッチは別れて行き、七人が入ったのはコアーズビルの「はちや」である。この駅周辺の居酒屋はいつも予約で満席で苦労するのだが、今日はなんとか六人用の席に着くことができた。狭いが仕方がない。
     痛風の隊長はウーロンハイにしてもらう。ビールの後は一刻者だ。しかしこれだけの人数がいるとボトルはすぐに空いてしまう。「もう一本どうですか?」「いいんじゃないの。」宗匠の許可が出たのでもう一本入れる。私は飲み過ぎてしまったようで、武蔵野線で一駅乗り過ごしてしまった。「大丈夫?」とカズチャンが心配してくれたが、何とか無事に帰りついた。

     六月二十九日、野田市議会は「野生動植物の保護に関する条例」を全会一致で可決した。七月に放鳥されるコウノトリの保護を目的として、百五十メートル以内への立ち入りを禁止し、ストロボを発光させないことなどを定めたものである。

    蜻蛉