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    平成二十七年七月二十五日(土)
     野火止用水(清瀬駅~平林寺~新座駅)

    投稿:   佐藤 眞人 氏     2015.08.01

     台風十一号が遠く西日本を通過したとき、十六日には関東でも大雨が降った。あんなに離れていてこれ程の影響が出るのは、自然科学に疎い私にはなかなか理解できないことだが、自然界には玄妙不可思議なことが起きるのである。台風通過の後は一気に梅雨が明け、連日三十度を超える暑さが続いている。西日本の梅雨明けを待たずに、関東が最初に梅雨明けするのは珍しいことではないか。
     大学構内のサルスベリは赤白ピンクの三色で、総が随分大きくなってきた。しかしそれに気づかず、「サルスベリってどれですか?」と訊いてくるスタッフがいる。私も十五年前までは全く無学だったが、今では「そんなことも知らないのか」と余裕のある笑顔を浮かべながら、エラソウに教えてしまう。喫煙所の草むらからはトカゲが顔を出すようになり、蝉の声もにぎやかになってきた。
     通勤途上で直射日光が頭に突き刺さるようになって、無帽では堪えられない。帰りがけに駅前のスーパーに飛び込んで千円の帽子を買った。形はパナマ帽に似ているが、値段が値段だから麦藁帽という方が正確だろう。まともなものは一万円以上するからね。帽子は高いのである。
     朝五時を過ぎるとセミが鳴き始めて目を覚まされる。ミーンミンミンミンミー・・・・。これが連日同じ時間に始まるのである。勘弁してほしい。

     今日は旧暦六月十日。「大暑」の初候「桐始結花(きりはじめてはなをむすぶ)」。大学傍の墓地脇に立つキリの木にはまだ実は見ていない。妻が弁当を作れないというので、保冷剤を詰めたクーラーバッグにコンビニの弁当を入れた。水筒にお茶も詰めてきたが、どうせ足りなくなるからペットボトルも一本買った。
     この暑さだから参加者は少ないが、それでも清瀬駅には七人が集まった。隊長、ツカサン、ドクトル、ロダン、イトハン、ハイジ、蜻蛉である。「うちにいてもゴロゴロしてるだけだしね。」「昼からビール飲んじゃうから。」要するにみんな暇なのだ。スナフキンは、今日はオープンキャンパスだと言っていた。あんみつ姫は途中から合流するらしい。
     清瀬駅に降りるのは二度目だろうか。駅前から少し離れれば畑が広がる地域だったと思う。「私は初めて。清瀬って言えば結核療養所よね。」ハイジの言う通り、清瀬と言えば結核療養所を思い出すのが現代文学史の常識で、石田波郷、吉行淳之介、福永武彦、結城昌治が療養生活を送った。
     昭和六年に府立清瀬病院(跡地は現在の国立看護大学)が開設すると、近隣には続々と結核療養施設が開かれるようになった。ベトレヘムの園(昭和八年)、府立静和園(同)、東京市代用病院(昭和十一年)、清瀬薫風園(昭和十三年)、浴風園(昭和十三年)、長生病院(同)、救世軍清心療養園(昭和十四年)、清瀬保養園(同)、傷痍軍人東京療養所(同)上宮病院(同)、信愛病院(昭和十六年)、清光園(昭和十七年)、結核研究所(昭和十九年)、 都健保清瀬療養所(昭和二十二年)、都立小児結核保養所(昭和二十三年)、生光会清瀬療養所(昭和二十八年)、織本病院(昭和二十九年)。ざっと数えてこれだけの療養所が生まれた。昭和の前半には雑木林のほか何もない土地だったから、これだけの数の結核療養所が生まれた訳だが、そうだからこそ一般の住宅地としては最も不向きな土地であった。

     七夕竹惜命の文字隠れなし  波郷
     遠く病めば銀河は長し清瀬村  同

     いずれも『惜命』所収の句である。波郷にはまた随筆集『清瀬村』があり、その縁で清瀬市では毎年「石田波郷俳句大会」を開催している。
     父が十年目の結核再発で緊急入院したのが昭和三十二年のことで、退院まで一年かかった。ということは私が六歳から七歳まで、殆ど父の顔を見ていなかったということだ。結核は死と隣り合わせの危険な病だったが、しかしちょうどその頃、ストレプトマイシが自由に使えるようになったのが幸いした。昭和十九年に発見されたものが、日本では昭和二十五年(一九五〇)に発売が開始され、二十六年の結核予防法改定で、公費負担の対象となったのである。三十年代後半には結核が漸く死病であることをやめ、これらの病院も廃止または総合病院などに転換される。清瀬の南口が住宅地に代わるのはそれ以降のことだ。

     しかし私たちは清瀬ではなく新座市を歩く。この辺では東久留米市と清瀬市との境界に、新座市の尻尾が突き刺さるような形になっているのだ。
     南口を出るとURの団地が並んでいる。「便利そうね。高いのかしら。」URの賃貸住宅は空き家対策で苦労している筈だ。清瀬駅前ハイツでは、例えば七十五平米の3LDKが十三万四千円、六十一平米の3DKで十万七百円である。これに三千六百円の共益費が加算されるから安くはない。
     「交通の便が良いものね。」池袋までは三十分で行けるし、所沢で乗り換えれば新宿にも川越にも出られる。秋津で乗り換えれば武蔵野線も利用できる。こんなに便が良いとは知らなかった。
     小金井街道を渡ると野火止用水に突き当たる。道路脇に用水が流れ、水面を緑が覆う。水量は豊富で水もきれいだ。護岸のために木の杭を隙間なく打ち込んである。用水を挟んで自動車道の右側に遊歩道が続いているから、これを歩くことができるのだ。暑い日だが水の流れを近くに感じるのは気持ちが良い。
     西武線を越えるところで用水は一旦地下に潜るがすぐにまた出てくる。「アレッ、東急の電車でしたよ」とロダンが目敏く気付く。練馬から西武有楽町線、副都心線、東横線と繋がっているからだ。この頃はどの電車がどこを通るのか、複雑に入り組んでいて難しい。
     用水の地図と説明を施した看板を設置したポケットパークで少し休憩をする。取り敢えず野火止用水の歴史を繙いておかなければならないだろう。野火止の地名語源を探ると、必ず『伊勢物語』が出てくる。

     むかし、男ありけり。人のむすめを盗みて、步蔵野へ率てゆく程に、盗人なりければ、国の守にからめられにけり。女をば草むらのなかにおきて逃げにけり。道くる人、この野は盗人あなりとて火つけむとす。女わびて、
     武蔵野は今日はな焼きそ若草のつまもこもれりわれもこもれり
     とよみけるを聞きて、女をばとりて、ともに率てけり。(『伊勢物語』第十二段)

     男が女を盗むのは藤原高子についで二度目のことだ。野に火を放つのは焼畑耕作の痕跡だろうと『江戸名所図会』も推測している。武蔵野台地上で水利は悪く、一面に茅の原が広がっていた。この武蔵野を開発するため、松平信綱の命で玉川上水が開削され、更にその玉川上水から分水したのが野火止用水である。

     承応二年(一六五三年)、幕府老中で上水道工事を取り仕切っていた川越藩主松平信綱は、多摩川の水を羽村から武蔵野台地を通す玉川上水を開削した。その後、玉川上水から領内の野火止(新座市)への分水が許され、承応四年(一六五五年)に家臣の安松金右衛門と小畠助左衛門に補佐を命じ、野火止用水を作らせた。工期は四十日、費用は三千両だった。玉川上水七、野火止用水三の割合で分水した。主に飲料水や生活用水として利用され、後に田用水としても利用されるようになった。(ウィキペディア「野火止用水」より)

     小平市中島町から志木の新河岸川まで、用水の延長距離はおよそ二十四キロである。元々農民の飲用水確保を目的としたものだが、この用水のお蔭で、二百石の土地が二千石を生み出すようになったと言われている。「その工期がたったの四十日なんだよ。」「スゴイね。」「どのくらいの人数を使ったのかね。百万人くらいかい?」適当に言ったにしても、ドクトルの言う数字は余りに多すぎる。
     ざっと計算してみるか。普通の職人の日当を二百文として年間三百日の労働で六万文。江戸時代初期で一両を四貫文に換算するなら十五両になる。総費用三千両をこれで割れば二百人が一年間働く労働量である。これを四十日で終わらせたのだから千八百人いればよい。一両を六貫文に換算すれば、年間で三百人、四十日で二千七百人となる。どちらにしても意外に少ない人数だった。
     この辺の地名は新堀だ。外に水車を置いた建物があるので、閉まったシャッターの上を見るとただの工務店だ。単なる装飾として置いているのだろうか。少し行くと外壁に大きく「思春期内科」と書かれた病院(新堀クリニック)がある。「思春期内科って何かしら?」「イトハンが通う病院じゃないか。」「イヤネエ。」昔はこんな診療科目はなかったのではないか。確かにあれは病気だったと今では思うが、病院に相談して治癒するようなものではないだろう。
     「わたしもあの時代にはなんだかいつも鬱々してたわ。」ハイジもそうだったか。「何に怒ってるのか、自分でも分からないんだけどね。」私の場合、それが長引きすぎた。「どうやって回復したの?」回復を意識した時は二十六七歳になっていた。大人になるのに随分時間がかかったことになる。(それを私は太宰治や小林秀雄のせいにしていた。)
     そこを左に曲がって西堀・新堀コミュニティセンターでトイレ休憩をとる。「涼しい。」「生き返る。」暑さの中を歩く覚悟はできている筈だが、やはり体は正直だ。ここで「にいざ便利地図」を仕入れたのが良かった。折角隊長がコピーしてくれたものはあるが、モノクロとカラーとでは違う。
     「この辺は北足立郡でしたか?」ロダンが不思議なことを言う。そうではないだろう。「新座(にいくら)郡だよ」と言ってしまったのは、私が明治を知らないからである。平安時代からずっと新座郡であるが、明治二十九年(一八九六)の郡制施行によって、確かにロダンの言う通り北足立郡に編入されていた。
     「元々は新羅郡だったんだ。」「新羅って、あの百済とか高句麗の?」天平宝字二年(七五八)、新羅からの渡来僧三十二人、尼二人、男十九人、女二十一人を武蔵国に移し開墾にあたらせ新羅郡を設けたと言う。但しそれ以前にも渡来した新羅人がここに移されていて、ヤマト国家はこの辺陬の地を渡来人に開墾させる意図を持っていたらしい。やがて理由は分からないが、新座(ニヒクラ)郡と表記されるようになる。
     高麗郡は高句麗滅亡(六六八)に際して亡命してきた高句麗人によるが、七世紀から八世紀にかけて、高句麗・百済を滅ぼして半島を統一して最も国力が充実していたはずの新羅から、この時期に渡来してくるのが不思議なことだ。
     一息ついたので、また外に出る。用水にはカモが泳いでいる。「一羽だけかしら。」「そこにもいるね。」土手にもう一羽いた。民家の脇にビヨウヤナギが一輪咲き残っている。時期が遅すぎるではないか。「咲き遅れだわね。」このところ何度もお目にかかるエゴの実も鈴なりに生っている。
     柿の実はまだ当然青い。「平べったいから甘柿だろうね。」そういう区別なのか。金と赤の鯉が泳いでいる。「アッ、ハクセキレイじゃないかしら。」ハイジの声で飛んで行った鳥の後ろ姿だけを確認した。確かにそのように見える。「大学にも時々来るんだよ。」「いいわね、毎日が自然観察で。」遊歩道を半分ふさぐように大木が立ち並ぶ。
     西堀公園交差点の辺りで、石仏を三体安置した祠を見つけた。右はショケラを握った青面金剛(寛政六年)、真ん中は馬頭観音(?)の胸辺りから下半分が切断されたもの(これが蓮華座の上に載っている)、右端は馬頭観世音(文字だけ)である。
     やがて用水本流から平林寺堀が分岐する地点にやってきた。本流の方は少し下がり気味で勢いよく流れていくが、右の平林寺堀はそれよりも高く、流れに勢いがない。ここから平林寺堀の林の中を行く。堀の両側の木立が日を遮って心地よい。もう少し風があると良いのだが、それはないものねだりである。

     掘割に風のかそけき夏木立  蜻蛉

     ここは史跡公園になっていて、「野火止用水 清流の復活」と書かれた大きな石の前で小休止する。文字は埼玉県知事・畑和、昭和六十三年五月の日付がある。「畑知事の時代があったね。」秋田営業所から川越営業所に転勤になって一年目、今の団地に居を構えた年だ。私が埼玉県人になって二十八年になったわけだ。
     水道があるのがちょうど良い。ロダンが頭から水をかぶるので私も続き、隊長も同じことをする。水は案外冷たい。「よくぞ男に生まれけり、ですね。ハハハ。」イトハンとハイジが羨ましそうに私たちを見る。「わたしたち、塗ってるからね。」何も塗らなくても二人とも充分美しいが、日焼け止めは必須であろうか。

     今度は用水本流を右に見て自動車道を歩く。左のクリ林には青い実が鈴なりになっている。「つけすぎだよね。」クリもある程度間引きしなければならないようだ。自動車道は用水から逸れて右に曲がっていき、私たちはまっすぐ「桜並木の本多緑道」に入る。この辺りの用水は近代的な護岸処理がされていない。おそらく江戸時代のままではないか。要所には高札型の野火止用水の説明が設置されているが、どれも文面は同じだ。
     無人販売の机に、小さなジャガイモと茗荷の袋がおいてある。どれも百円だ。「ソーメンにいいな」と言うロダンの声が聞こえたが、私は冷奴の薬味にしよう。二つしかない茗荷を私とハイジが買った。「豆腐は毎日食うんだ。」「私もそうよ。でも、このジャガイモ百円も相当安いわね。」
     そして隊長は獣道に入っていく。「よくこんな道、知ってるね。」下見の成果であろう。「アカボシゴマダラだ。」宮代町でも見た蝶だ。今日は運よく写真が撮れた。左右の後翅に四つづつ赤い星がある。在来種のゴマダラチョウが駆逐される恐れがある要注意外来生物である。
     「沖縄から飛んできたんですかね。」「誰かが放したんだよ。」念のためにウィキペディアを確認すると、やはり「自然の分布域から飛び離れていることや、突如出現したことなどから蝶マニアによる人為的な放蝶(ゲリラ放虫)の可能性が高いといわれている」と記されている。「南国のチョウが住み着いたのは温暖化とも関係あるんでしょうか。」「関係ありそうだね。」
     その道を抜けると新座市総合運動公園に入った。中学生の陸上競技大会があるらしい。この暑い中、走るのも大変だ「蝉が鳴いてるね。」「アブラゼミだ。」競技場からムクゲの垣根を隔てて東屋がある。ムクゲは白(底紅)とピンクだ。水道があるので、例によって頭を冷やしてから弁当を広げる。保冷材の威力で弁当は冷え切っている。朝仕入れたペットボトルは空になり、水筒に切り替える。ペットボトルには水を補給した。

     蝉時雨蛇口の水の恋しくて  蜻蛉

     「昔は運動してる時に水を飲んじゃダメだって言われてね。」「あら、わたしの時はそんなことなかったわ。」「それはおかしい、だって我々の方が若いんですよ」とロダンが口を尖らす。イトハンの学校はよほど近代的なトレーニング理論を採用していたのだろうか。「理由はなんだったのかね。」「根性だけでしょう。」「水を飲むと疲れるっても言ったね。」
     「そう言えば、最近はうさぎ跳びもダメなんでしょう。」「膝に悪いってね。」しかし私の頃は運動場一周なんて無茶苦茶なことをさせられた。ウィキペディアをみると、「動作に苦痛を伴うため、日本のスポーツ指導者が特に好み、学校教育においても頻繁に行われていた」なんて書いてある。これは立派なサディズムであり、旧軍における下士官根性に由来するのではないか。
     ついでに思い出してしまったが、「根性」「ど根性」なんて下品な言葉が蔓延したのは、東京オリンピック女子バレーボールの監督大松博文に始まるのではなかったろうか。ハナ肇主演の映画は学校で見せられた記憶がある。アニメの『巨人の星』は必ずうさぎ跳びの場面で終わり、「思いこんだら試練の道を行くが男のど根性」という下らない歌を流していた。あの主題歌が大好きだった男は若くして死んでしまったが、そしてそれには別の感慨があるが、あの歌は評価しない。どうしてもそれを言いたいなら「性根」という日本語を使いたい。
     コンビニで買ってきた「男梅」をひとつづつ分配する。皆はこんなものを知らなかったようだ。「そういう種類の梅なのかい?」「商品名ですよ。」乾燥梅干しの種を抜いて、少し甘みをつけたもので、こういう暑い日には塩分補給にちょうど良い。ただ同じような包装でキャンディタイプのものもあるので買う時に注意が必要だ。
     そこに中学生の女の子が五六人やってきて、端のテーブルに座った。「何をやってるの?」イトハンが声をかける。「陸上です。」イトハンは若いころ短距離の選手で、今でも古式泳法を楽しんでいるというからエライ。「棒高跳びの選手はだれだっけ?」「あれは違うよ。」「棒が折れちゃうんじゃないかって言ってた。」「若い頃はもっと細かったんじゃないの。」誰のことを言っているのだろうか。

     十二時半に出発する。競技場に誰もいないのは昼食休憩なのだろう。周囲には樹木が多い。「ゴンズイだよ。」赤い実が鈴なりになっている。ひとつひとつには梅干しのような皺が入っている。秋になると、の赤い果肉が裂け、黒い種が目玉のように露出してくる。「何の役にも立たない木って言われるわね。」木がもろいので材としては役に立たない。だから、同じように役に立たない魚のゴンズイの名を付けたというのだが、名前の由来ははっきりしない。
     ここは本多の森・お花畑である。補虫網を持った子供と父親がいる。最近こういう子供は余り見かけない。私たちの子供の頃には昆虫採集は夏休みの定番であったが、昭和五十年頃から、教育現場では昆虫採集を奨励しないようになったらしい。
     そばに自転車が停めてあり、幼児用の補助椅子に跨って幼児が眠りこけている。「大丈夫かな?」「お母さんはいないのかな?」お母さんはいないが、網を持った子供と一緒に遊んでいるのが父親だろう。
     そこに広がっているのはヒマワリ畑だ。「にいざ ひまわりプロジェクト」の看板がたち、「福島を元気に絆」と書いてある。これは福島のNPO法人シャロームの活動への協賛であった。ひまわりの種を送ると、シャロームは種から油をとって販売し、その売上金を被災地復興に役立てるというものだった。その目的は下記のようなものである。

     昨年の夏は、被災地の福島を元気づけようと、たくさんのひまわりの種が福島へよせられました。私たちは、この大きく育ったひまわりから、人々の暖かさと大地に生きる元気をもらったような気がします。
     私たちは、この多くの全国の方々との絆を深めながら、この長期化する被災地の復興への支援をお願いするため、新たな「ひまわりプロジェクト」を提案し、協力者を募ることといたしました。
     シャロームは、長年、障がいの有る方も、無い方も、共に生きる温かいまちづくりを目指して活動してまいりました。震災以前から行われていた活動の一つには、障がい者と農家の方々が協力しながら、ひまわりを栽培し、その油を製品化するという「食用ひまわり」栽培がありました。これらの活動の中から、農業授産を取り入れた障がい者施設の立ち上げ計画されておりましたが、今回の原発事故で状況は一変し、土壌汚染の明らかな土地でのひまわり油の生産は断念せざるをえなくなりました。
     しかし、ひまわりの種を送り福島を励ましていただいたみなさんとの交流の中で、「来年からは私たちが種を送っていただいて栽培し、ひまわり油の原料としての種を送り返しましょう。」との提案をいただきました。
     これを受け、今回私たちは、障がい者支援のための授産事業として、また、ふくしまと全国の支援してくださるみなさんとの絆事業として、新たな「ひまわりプロジェクト」に取り組むことといたしました。
     この事業が全国に広がり、「ふくしま」と「ふくしまを支援する方々」との絆となっていくことを願っています。一人でも多くの参加をお願いいたします。(NPO法人シャローム「ひまわりプロジェクト」http://www.nposhalom.net/cn7/pg301.html)

     広い畑に、しかしひまわりの花はひとつしか開いていない。まだ時期が早過ぎるか。「子供の頃、ひまわりの種を食べたわね。」池袋で育ったイトハンもそんなことをしていたのだ。私はそういう経験はない。それにヒマワリ油も私は知らない。ヒマワリ油にはリノール酸(多価不飽和脂肪酸)が多量に含まれており、太り難いという長所はあるが、摂取しすぎると過酸化脂質となってがんの原因になるという。そのため現在ではオレイン酸(単価不飽和脂肪酸)を多く含むものにシフトされているらしい。
     毛むくじゃらの花だか実だか分からないのは、アカメガシワの実である。あまり美しいものではない。草むらに咲く細長いピンク(薄紫というか)の穂状の花を見て、「ヤブランがいっぱい」とハイジが声を上げる。
     ドクトルがセミの抜け殻を拾って、隊長の鑑定を受けている。なんとか言っていたようだが私は忘れてしまった。アブラゼミか何か、というような区別だったと思う。公園を抜けるとき、新座二中のロゴのウェアを着た女子数人が自転車でやってきて、駐輪場に入る前に「こんにちは」と挨拶してくれる。新座の子供は可愛い。

     関越自動車道の上を渡って「史跡平林寺堀」の遊歩道に入る。「これ何かしら、網をかけてるの?」小さな実のようなものが何個もくっついているのを、私もハイジもロダンも緑の網掛けかと思ったが、実は網ではなかった。「コブシだよ。」そうか、言われてみれば確かにコブシの実だ。小さなゴツゴツが不規則に固まっていて、それを包む皮が網のように見えたのである。「花が咲いてないと分からないわ。」講釈師がいれば『北国の春』を歌いだすところである。
     曲がり角の石積みの上に、誰が置いたのかミニチュアの地蔵が置かれていて、ハイジは丁寧に手を合わせる。陣屋通りに入り、左に平林寺の広大な林を眺めながら車道に出ると、向かい側の茶店にあんみつの幟が出ていた。あんみつ姫がいれば寄りたがっただろう。そば・うどん・おやすみ処「竹映」である。「あんみつ姫とは平林寺で合流することになってます」と隊長が言う。
     そしてすぐに平林寺の入り口に着く。臨済宗妙心寺派。今は一時四分。二時にここに集合することにして、拝観料五百円を払って中に入る。
     開基は太田備州沙弥蘊沢で、太田道灌の父道真ではないかとも言われるが、時代がずれていて確認できていない。元は岩槻で開山し、大河内松平氏の菩提寺だったものだが、寛文三年(一六六三)、川越藩主松平伊豆守信綱の遺言によって、その子輝綱がこの地に移したものである。
     総門の前に対でおかれた石灯籠は寛文四年、従五位下松平備前守源□綱とあって、□の文字が読めない。年号からして輝綱なら簡単なのだが、輝綱は従五位下甲斐守だから違う。大河内松平宗家正綱の子で相模国玉縄藩第二代藩主に備前守正信がいる。その正信の初名が隆綱なのだ。つまり信綱の従兄弟に当る人物である。
     イトハンはパンフレットと総門を見比べて、「立派な山門って書いてるけど、これと違うわね」と首を捻っている。「これは総門だよ。」道路に面しているのが総門で、切妻屋根茅葺の四脚門だ。扁額の「金凰山」は正保五年(一六四八)石川丈山の揮毫だと言う。
     山門は一階部分に金剛力士を安置した入母屋造茅葺の楼門で、上層には釈迦三尊と十六羅漢を安置しているらしい。扁額には凌霄閣(リョウショウカク)とあって、これも石川丈山によるものだ。「立派な仁王様ね。誰に似てるかしら。」そう言われても金剛力士に似ている者はそんなにいないだろう。「私はこっちが好きだわ」というのは、阿形のほうである。この金剛力士は「電力王」松永安左衛門の寄進になるというだけで、いつ頃のものなのか何も説明されていない。塗りが殆ど剥落していて相当な時代を感じる。こういうものには説明がほしい。
     「立派な高野槇ね。」樹齢六百年と書かれている。仏殿の格子戸を覗いてみたが、須弥壇の扉は閉ざされているから何も見えない。「見せてくれるといいのにね。」御開帳の日は決まっているのだろう。釈迦と迦葉、阿難を安置しているという。扁額は天明元年(一七八一)三井親和による「無形元寂寥」だ。形無くしてもと寂寥たりと読む。

     平林寺托鉢僧群薄暑を来  波郷

     手前に立つ石灯籠をみると、元禄五年、松平万次郎源正基が寄進したものだ。総門前の石灯籠を寄進した相模国玉縄藩主松平正信の六男で、元禄三年(一六九〇)、三千石が分与されて旗本となった人物である。
     「お坊さんが掃除してる」と、本堂を覗き込んでいたロダンが戻ってくる。「この窓の形を花頭窓って言うんだよ。」「だってお花なら、形が上下逆じゃないの?」確かに鐘を伏せたような形だから、イトハンはなかなか納得してくれない。火灯窓とも書かれるが、ウィキペディアにはこう書いてある。

     元は、中国から伝来したもので、禅宗様の窓として使われていたが、安土桃山時代頃にそのデザイン性から、禅宗以外の仏教寺院でもまた、仏教建築ではない神社や天守などの城郭建築、書院造の邸宅に使われた例もある。

     放生池を巡って墓地に向かう。思いもよらず驚いたのは、島原の乱供養塔があったことだ。何故こんなところに島原の乱があるのか。それにしても私は平林寺に来たことがあるのに、何を見ていたのだろう。実に不思議なのだが、原城攻略戦では信綱の家臣六人が戦死し、百三人が負傷している。「信綱はオランダの大砲を借りて砲撃したんだよ。」「そんなこと、教科書にも載ってないわ。」私は何で知ったのだったか、忘れてしまった。
     この乱で一揆方の籠城者三万七千人が死んだ。幕府軍は関ヶ原に匹敵する十三万近くを動員して死者千人強である。切支丹の最後の一揆として知られているが、実態は島原藩松倉勝家の苛政に対する農民一揆でもあった。松倉は後に斬首となっており、江戸時代に大名が斬首された唯一の例である。そして島原の乱と言えば天草四郎時貞、南国の美少年である。

    銀の十字架(くるす)を胸にかけ
    踏絵おそれぬ殉教の
    いくさ率いる南国の
    天草四郎美少年
    あゝはまなすの花も泣く(『南国の美少年』佐伯孝夫作詞・吉田正作曲・.橋幸夫)

     見性院殿高峯妙顕大姉の宝篋印塔でイトハンが首を捻る。「おかしいのよ。」何がおかしいのかと言えば、パンフレットに「見成院」と書かれていたからだ。「リッシンベンの方が正しい筈だよ。」「それならこれはミスプリントっていうわけ?」そうなるね。きちんと校正していないのだ。それに普通はケンショウインと読むところを、ケンセイインとルビを振っているのもおかしい。
     見性院は武田信玄の次女で、穴山梅雪の正室である。保科正之を養育したことでも知られているが、確か以前どこかで墓を見た記憶がある。調べてみると浦和の清泰寺であった。ただ供養塔がここにある理由は謎だ。
     増田(マシタ)長盛の小さな石の墓がなぜここにあるのか。豊臣五奉行のひとりで、反家康方に組した。しかしその後の行動がおかしい。石田三成の挙兵を家康に内通し、自らは関ヶ原の戦いに参加していない。関ヶ原以後一時高野山に預けられ、その後岩槻城主の高力忠房に預けられ、元和元年(一六一五)大阪夏の陣で豊臣の滅亡を確認したところで自刃した。岩槻の平林寺に葬られ、寺の移転とともに墓も移されたのだった。
     驚くことばかりなのだが、前田卓(ツナ)の墓がある。と言われてすぐに思いつく程の教養がないのが悔しい。『草枕』の那美さんで、前田案山子の次女である。一緒に並ぶ名前の利鎌(トガマ)は、案山子の次男の子(戸籍上は案山子の子)で、卓の養子になっている。卓とともに上京後、漱石の弟子となり、東京工業大学の教授となったが若くして死んだ。
     卓の前に、まず前田案山子(かがし)という特異な人物を紹介しなければならない。

     肥後国玉名郡小天村の豪族・前田惟鑑の第三子として生まれる。 幼名を一角、長じて覚之助を名乗る。武術に優れ、槍の名手と言われ、二十五歳で肥後藩士となり、細川家の槍術指南を務める。
    一八七七年(明治十年)富岡敬明県令から熊本県第七大区(玉名郡南半分)区長に任命。一八七八年(明治十一年)に小天の山麓に温泉を発見し、別荘を建設、犬養木堂、植木枝盛、中江兆民、頭山満など、多くの活動家が訪れた(のちに夏目漱石が投宿し、ここを舞台に小説『草枕』を執筆した)。一八九〇年(明治二十三年)七月一日、第一回衆議院議員総選挙熊本一区当選。十一月二十日、佐々友房、木下助之、古荘嘉門、頭山満らと国民自由党を結成。一八九二年(明治二十五年)二月十五日、第二回衆議院議員総選挙に立候補せず、引退。(ウィキペディア「山田案山子」より)

     自身の村から熊本城下まで、他人の土地を踏めずに行けると豪語したような一族である。政界を引退した後、小天の隠居所で好き勝手に暮らしていた。因みに案山子は戸籍に登録した本名である。
     そして前田家の女性は女傑だった。三女の槌(ツチ)は宮崎滔天の妻となり、竜介を生んだ。

    私は主婦としてのツチ夫人の存在を非常に大きく考えるものであって、人間としての器量という点ではむしろ滔天以上であったのではなかろうか。宋教仁の日記などを読むと、どうしてもそう考えざるをえなくなる。多くの留学生が喜んでその家に出入りしたについては、ツチ夫人と夫人にひきいられる家族たちの魅力というものがあったと思うのである。(島田虔『宮崎滔天・三十三年の夢』あとがき)

     その縁で、卓は中国同盟会の機関紙『民報』の運営に携わり、「民報おばさん」と呼ばれるようになる。中国同盟会が孫文の設立になるなんて今更言うまでもないだろう。肥後の豪族から生まれた自由民権が、大アジア主義と交わる。これは近代日本の運命でもあるが、それにしても漱石にとって那美さんは謎である。明治三十年の暮、熊本五高に勤務していた夏目金之助が、小天(おあま)温泉・那古井の宿にやって来た。

     室を埋むる湯煙は、埋めつくしたる後から、絶えず湧き上がる。春の夜の灯を半透明に崩し拡げて、部屋一面の虹霓の世界が濃やかに揺れるなかに、朦朧と、黒きかとも思わるるほどの髪を暈かして、真白な姿が雲の底から次第に浮き上がって来る。その輪廓を見よ。
     頸筋を軽く内輪に、双方から責めて、苦もなく肩の方へなだれ落ちた線が、豊かに、丸く折れて、流るる末は五本の指と分れるのであろう。ふっくらと浮く二つの乳の下には、しばし引く波が、また滑らかに盛り返して下腹の張りを安らかに見せる。張る勢いを後ろへ抜いて、勢の尽くるあたりから、分れた肉が平衡を保つために少しく前に傾く。逆に受くる膝頭のこのたびは、立て直して、長きうねりの踵につく頃、平たき足が、すべての葛藤を、二枚の蹠に安々と始末する。世の中にこれほど錯雑した配合はない、これほど統一のある配合もない。これほど自然で、これほど柔らかで、これほど抵抗の少い、これほど苦にならぬ輪廓は決して見出せぬ。
     しかもこの姿は普通の裸体のごとく露骨に、余が眼の前に突きつけられてはおらぬ。すべてのものを幽玄に化する一種の霊氛のなかに髣髴として、十分の美を奥床しくもほのめかしているに過ぎぬ。片鱗を溌墨淋漓の間に点じて、竜の怪を、楮毫のほかに想像せしむるがごとく、芸術的に観じて申し分のない、空気と、あたたかみと、冥ばくなる調子とを具えている。六々三十六鱗を丁寧に描きたる竜の、滑稽に落つるが事実ならば、赤裸々の肉を浄洒々に眺めぬうちに神往の余韻はある。余はこの輪廓の眼に落ちた時、桂の都を逃れた月界の嫦娥が、彩虹の追手に取り囲まれて、しばらく躊躇する姿と眺ながめた。
     輪廓は次第に白く浮きあがる。今一歩を踏み出せば、せっかくの嫦娥が、あわれ、俗界に堕落するよと思う刹那に、緑の髪は、波を切る霊亀の尾のごとくに風を起して、莽と靡いた。渦捲く煙りを劈いて、白い姿は階段を飛び上がる。ホホホホと鋭どく笑う女の声が、廊下に響いて、静かなる風呂場を次第に向むこうへ遠退く。余はがぶりと湯を呑んだまま槽の中に突立つ。驚いた波が、胸へあたる。縁を越す湯泉の音がさあさあと鳴る。(夏目漱石『草枕』)

     秋田の高校生には、この小説はよく分からなかった。ムイシュキンとラゴージンとナスターシャ・フィリッポヴナの関係、小林秀雄と中原中也と長谷川泰子の三角関係に目を奪われていた高校生に、那美さんのような女性が理解できるはずがない。尤も漱石の『こころ』も『それから』も三角関係の物語であり、小林秀雄は漱石の描いた劇を自ら演じていたのだとは、三浦雅士『青春の終焉』の主張するところだ。私はその三角関係の他に、ナスターシャやグルーシェンカのような獏連女にも存在する、ひとつの純情を信じたかったのであり、これが私の青年期の迷いの一つの症状であった。
     橋の下の平林寺堀は何も流れていない空堀である。これを渡っていくと、広大な大河内松平氏廟所に出る。歴代当主の墓所はそれぞれ石塀で囲まれ、その中には五輪塔が鎮座している。その前の参道には延々と石灯籠が並ぶ。座禅灯籠と呼ぶらしい。およそ三千坪という、こんなに広大な大名墓所は初めてだ。
     大河内松平家は大河内秀綱の次男・正綱が、家康の命で長澤松平家の分家に養子に入り、相模玉縄二万二千百石を領したことに始まる。信綱は正綱の甥で正綱の養子になったのだが、正綱に実子正信が生まれたために分家独立する。やがて信綱の五男も分家独立したので、大名家としての大河内松平氏は三家となって存続し、明治以後、子爵となっている。
     信綱の養父である松平正綱夫妻の五輪塔、信綱の実父である大河内久綱の五輪塔、信綱の実祖父である大河内秀綱の墓が並んでいて、その右隣が信綱夫妻の墓になる。入り口を潜って入ると中には五輪塔が二基鎮座している。
     「ここが信綱ですね。」二つ並んだ左側が信綱、右がその正室のものだった。信綱の墓石の表面に彫られているのは、川越侍従松平伊豆守源信綱、松林院殿乾徳梁大居士、寛文二壬寅年三月十六日の三行である。正室の方は、源姓井上氏、隆光院殿太岳静雲大師、寛永十三年丙子三月七日とある。

     智恵伊豆の墓に俳句が詣りけり  虚子

     虚子がこの五輪塔を見て詠んだというのだが、この句に季語はあるのか。ところで、「知恵伊豆」と呼ばれ、民政家として抜群の功績を上げた信綱も、時代小説ではあまり人気がない。元和偃武からまだ半世紀も経たない当時、武辺一辺倒の連中からは「才あって徳なし」と嫌われた。島原の乱でオランダの力を借りたことも、その文脈の中で批判されただろう。そして民政家を顕彰するような時代小説も、おそらく藤沢周平の登場まで余り考えられなかった。例外的に山本周五郎を入れるべきだろうか。
     しかし川越藩主として実現した新河岸川や川越街道の改修整備、玉川上水と野火止用水の開削は後世に残る大事業だった。川越が今「小江戸」と呼ばれるのは信綱のお蔭である。
     「この形はどういう意味なの?」以前に何度か説明はしている筈だが、イトハンには伝わっていなかったか。これは五輪塔である。下から地(立方体)、水(球形)、火(宝形屋根)、風(半月)、空(宝珠)となる。中国人も五行(木火土金水)を考えたが、これと直接の関係はない。
     宇宙を形作る根本の要素は何かとは東西を問わず考えられたことで、ギリシアのエンペドクレスは空気、火、土、水の四大元素を考えた。古代インドでも地水火風を四大とする考え方があり、やがて「空」を加えて五大となった。「空」というものを発明したのがインド人独特である。勿論ソラではなくクウと読まなければならない。日本密教はこの五大を五輪と称したのである。ただこの形の塔はインドにも中国にもなく、五輪塔は日本の発明である。
     「蓮の花はどうしてあるの?」地輪が蓮華座に載っているのが、イトハンにとっては不思議なのだ。そもそも仏教以前の古代インド神話において、宇宙の根本原理を象徴する最高神ブラフマーが、蓮の花から生まれるのである。仏教もまたヒンドゥーの土壌から生まれたのだから、当然のようにそれを引き継いで、泥水の中に咲く花が、俗世に汚されない清浄なものの象徴と考えられた。「そうだったの、よく分かったわ。」
     インド古代の神話は分かり難い。ヒンドゥーの神々も時代を経るうち様々に混淆し、また誰が最高神なのか順位も入れ替わる。ここでの話題に関すると、宇宙が始まる前にビシュヌという神がいた。その神の臍から蓮が生え、その花からブラフマーが生まれ、そしてブラフマーによって宇宙が創造される。宇宙創造の前に何者かが存在したというのが不思議だが、本来の根源神ブラフマーに代わって、ビシュヌを最高神として信仰する連中が作った神話であろう。ブラフマーは仏教に取り入れられて梵天となる。またアジアの宗教史のなかで、蓮は女陰の象徴でもある。
     私はヒンドゥー思想に詳しくはないが、それにしてもインド人と言うのは実に不思議な観念を抱いていたものだ。無限に続く輪廻転生なんて、どこから生じた観念だろうか。そんなことを考えるだけで、人は絶望するしかない。従って人生は苦しいものである。しかし一方、だからこそ生きている間だけも歓楽を尽くそうという観念が生じる。世界の宗教史の中で、性的なものをあんなにもあからさまに讃えたものはインド以外にないだろう。
     釈迦はその輪廻転生を断ち切って往生した。それが悟りであり、全ての仏教信徒の願うところである。しかし釈迦の悟りは、釈迦でない者にとっては到底実現できないことであり、釈迦滅後、仏教は次第にヒンドゥー思想に妥協していく。三面六臂(阿修羅など)、千手観音、あるいは象頭人身の者など、私たちは仏像だと思うから別に不思議を感じないが、これら全てヒンドゥーの世界の魑魅魍魎である。因みに阿修羅は元々ペルシアの光の神アフラ・マズダに由来し、ヒンドゥーでは悪神アスラとなっていたもので、仏教に取り入れられて八部衆となった。
     仏教の歴史は、一方では「空」という壮大な理論を生み出したが、一方では際限なくヒンドゥー思想と混淆していく歴史だとも言えるのだ。密教は、その妥協の最終形態であろう。つまり仏教の敗北であり、釈迦の思想からどれだけ遠く離れてしまったことか。

     それでは紅葉山の方に向かおうとした時、隊長、ロダンと一緒にあんみつ姫が登場した。「隊長はバンダナを巻いてるし、蜻蛉はパナマ帽なんで、最初分からかなかったわ。」この暑さの中で昼から出てくるのは却って大変だったのではあるまいか。
     姫たちが墓所を見学している間に、順路に沿って紅葉山の方に向かう。と言ったが、実は特別に盛り上がった場所があるわけではない。このカエデを植えた一帯を紅葉山と呼ぶらしいのだ。「見事ですね。」「秋はきれいでしょう。」今日はシーズン外れだから、私たちのほかには数人しか姿を見かけない。静かな良い場所だ。
     やがてあんみつ姫、隊長、ロダンも追いついてきた。一時五十分か。そろそろ正門にもどることにするか。元の道を戻ると、さっきは気付かなかったが安松金右衛門の墓もある。「知らない人物だな。」ドクトルはそう呟くが、今日はあちこちで野火止用水の解説を見ていて、そこにあったではないか。「野火止用水を開削した人ですよ。」しかし偉そうなことは言えない。私だって今日初めてこの人物を知ったのである。

     承応元年(一六五二年)十一月、 幕府により江戸の飲料水不足を解消するため多摩川から水を引く開削計画がたてられた。開削工事の総奉行に老中松平信綱、水道奉行に伊奈忠治(没後は忠克)が就き、庄右衛門・清右衛門兄弟(玉川兄弟)が工事を請負った。しかし、兄弟の計画は二度失敗し引水工事は困難を極めた。そこで信綱は家臣の安松金右衛門に設計の見直しを命じる。安松は第一案として「羽村地内尾作より五ノ神村懸り川崎村へ堀込み」、第二案として「羽村地内阿蘇官より渡込み」、第三案として「羽村前丸山裾より水を反させ、今水神の社を祀れる処に堰入、川縁通り堤築立」を立案し、この第三案によって承応二年(一六五三年)に玉川上水はついに完成し、翌年承応三年(一六五四年)六月より江戸市中への通水が開始されたという。(ウィキペディア「安松金右衛門」より)

     念のために過去の作文を読み返すと、実は平成二十一年十一月にスナフキンの案内で玉川上水コースを歩いた時にも、この記事をみているのだが、すっかり忘れていた。というより、まるで頭に入っていなかった。コピペするとは、要するにこういうことである。
     これによれば、野火止用水開削だけでなく、そもそも玉川上水も安松金右衛門がいなければ成立しなかった。武蔵野開発の偉人ではないか。
     こういう人物については、三田村鳶魚か森銑三が何か書いていないかと思って探してみると、『三田村鳶魚全集』第十七巻に『玉川上水の建設者安松金右衛門』があった。昭和十七年に書かれた文章で、その時点で安松の事績は正しく世に伝わっていないと鳶魚は考えた。いくつかの伝承も、玉川上水と野火止上水とが混乱して記録されているのである。鳶魚は様々な資料を検討した結果、安松の功績が大であると確信に至る。現在のウィキペディアの記述は、その鳶魚が到達した結論である。
     安松自身が書いたものは一切なく、松平家にも記録が残されていない。玉川上水についての根本史料は、寛政三年(一七九一)に御普請奉行上水方石野遠江守広通による『上水記』だが、玉川清左衛門(玉川兄弟から三代後)の書上(上申書)をもとにしている。上水完成から百三十八年経った時点だ。そして「書上」には安松のことも、工事が二度失敗したことも一切書かれていないのである。しかし、工事失敗の跡は現実に残っている。これが当初の費用見積もりを大幅に超過して、兄弟が身上を食いつぶすことになる原因だ。
     そして享和三年(一八〇四)、水道奉行佐橋長門守が「玉川上水掘割之起発並野火留村引取分水口訳書」を、時の老中松平伊豆守信明に提出した。ここに玉川兄弟の二度の失敗が明らかにされる。一度目は府中八幡下で中断し、設計図を引き直したものの熊川村地内で水が全て地に吸い込まれてしまった。
     兄弟が万策尽きたとき、安松は三つの計画案を作って提出する。その第三案が採用された。この功績によって野火止用水の開削も安松に任せられたのである。

     ・・・・将来いかなる水道が出来ましても、この玉川上水を凌ぐことはない。過去・現在・未来に亙って、玉川上水の恩恵は、鎮に東京市民に尽きないものと存じます。
     この広大長遠な恩恵を東京市民に受け得させた安松金右衛門、安松なくば信綱が何と思われたところが、玉川上水は廃案になるよりほかはありますまい。その安松金右衛門の事績は勿論、彼の名をすら知った人が、全市に幾人あるのでしょう。・・・・
     本書は報恩謝徳の心持を以て記述いたしました。(三田村鳶魚『玉川上水の建設者安松金右衛門』)

     「東京水道歴史館にも行ったわね。」本郷にある施設で、ロダンの案内で行った。玉川上水はスナフキンの案内でほぼ歩いているし、かなり詳しくなっていた筈なのに、基本的な知識を押さえていなかったことになる。
     安松金右衛門の生国は播磨国ともいわれ、理由は分からないが関東に流れてきた。幕府代官能勢頼安の斡旋で信綱に仕官した。能勢頼安は島原の陣では糧食方を勤めた御勘定方で、信綱の出陣に同行している。その縁であろう。
     金右衛門の墓は新宿の太宗寺にあったが、昭和十年にここに移された。玄洞院殿欣誉浄秀居士。大名でもない、ただの陪臣に院殿居士の戒名は異例中の異例である。見沼代用水を開削した伊澤弥惣兵衛も崇岳院殿隆譽賢巌英翁居士の戒名を持つが、彼の場合は直参旗本である。伊澤の方はかなり顕彰されているのに、この安松金右衛門について、今でもどれだけの人が知っているだろう。もっと顕彰されて良い人物だ。
     「それじゃ行こうか。」放生池の脇から回り込むと、山門脇の休憩所に灰皿が置かれている。「少し休憩しようね。」「なんだ、このために先導してきたんですか。」偶然である。
     「投句ができますよ」と姫が壁を指さす。「だめ、そんなにすぐは出来ない。」後で調べると津田左右吉の墓もあるらしい。

     総門の斜め向かいに入口のある睡足軒には寄らない。「何もないんだ」と私も隊長に口を合わせてしまったが、姫は残念だと言う。「いいところなんですよ。」紅葉の名所だ。耳庵松永安左衛門が昭和十三年に飛騨高山の茅葺の田舎家を移築した屋敷跡である。松永没後に平林寺に寄贈され、今は新座市が借用している。
     松永は、鈍翁益田孝(三井財閥)、三渓原富太郎とともに近代三茶人とも称される、財界数寄者の代表である。所沢の柳瀬山荘は国の重要文化財に指定されている。「小田原の三茶人」といえば、原三渓に替えて幻庵野崎廣太(中外商業新報社長・三越呉服店社長)を入れる。横浜の三渓園にはスナフキンが案内してくれた。
     手延べうどん「たけやま」の店頭には、あんみつの看板も出ている。新座市役所のそばの自動販売機でペットボトルのお茶を仕入れる。水道水を含めて、これで四本目に相当する。あんみつ姫も買う。
     ここから新座駅まで何もない道だと思っていたのは私が無知だった。平林寺を左にして角を曲がると、右側にも林が続いている。平林寺の敷地を道路が分断したのではないだろうか地図をみると「こもれび通り」である。「アッ、あそこ見て。」「こんなところにタヌキか。」道端に「タヌキ注意」の標識が立っていたのだ。「こんなところにタヌキが出るんだ。」「でも、これじゃタヌキの逃げ道がありません。」左右共に鉄柵で囲まれていて、タヌキが道路に出てしまっても隠れるところがないのである。「せめて、下に穴をあけるとかしてあげないと。」
     そして右の林(野火止緑地総合公園)を通り抜け、小さなグランドに着いた。野火止運動公園である。隅にはサッカーのゴールがあり、反対側は野球場になっていて、一塁ベースが置かれている。隊長はここで少し休憩するようだ。今日は頻繁に休憩しないと体がもたないのである。ここにも水道があった。
     グランドの柵から林の方を見ていた姫が「ゴンズイですよ」と声を上げた。「さっきも見たけどね。」「だって、嬉しいじゃないですか。」姫はさっきいなかったから仕方がない。アカボシゴマダラも飛んできて、姫がカメラを構える。「撮れましたよ。」私もさっき撮ったばかりだ。「でも外来種なんですよね。」それもさっき聞いたばかりで、姫には申し訳ないことである。
     ヘクソカズラも久しぶりに見たような気がするが、この名前はなんとかならないものだろうか。「可哀そうだよね。」「サオトメバナなんて言うけど、普及しないよね」とツカさんも言う。
     国道二五四号(川越街道)に出て、このまま北上するのかと思っていたが、隊長は国道を横断して、少し東側の道を行く。「あれは二五四号ですって。」「川越街道だよ。」「どこまで行くの?」東京方面は詳しくないが、池袋まで行くのは知っている。板橋からはほぼ旧川越街道に沿っているので歩いたことがある。但しこの辺りだと旧街道はもう少し東にずれているのだが。
     こんなところがあるなんて、全く知らなかった。人工ではあろうが小川を造り、その川縁にはセリやヨモギなどの野草が生い茂っているのである。少なくとも私が営業でこの辺に来ていた頃(二十年前)にはなかった道だ。ロダンも姫も驚く。この道は野火止用水ふるさと小道と名付けられている。駅に近づくと小さな公園も設置されていて、子供たちが水遊びをしている。本当に新座は変わった。
     駅に着き、ロダンと万歩計を確認して一万七千歩、約十キロと確定した。隊長の計画では直線距離で六キロ程度のコースだが、平林寺内の散策を含めればこんなものだろう。
     まだ三時で早いので、あんみつ姫は高架下のイタリアン・トマトに入って行く。イタリアン・トマトなんて、たぶん駒場の東大で入ったことがあるだけだが、こんなところで私は何を注文すれば良いのだろうか。自分一人だったら絶対選ばない店だ。コーヒーしかないかと思いながらレジ前のウィンドウを見ると、キリン一番搾りのアルミ缶があった。これしかない。
     ここでドロドロになったTシャツを着替える。ツカさんも姫も着替える。ビールにしたのは私とドクトルである。この一杯が旨い。しかし暫くすると眠くなってきた。
     たまにはどうだろうとハイジに声をかけてみたが、ガードが固い。武蔵野線を一駅東に向って北朝霞に出て、残った七人は久し振りのさくら水産に入る。珍しくツカさんも参加してくれた。本当は武蔵野線を逆方向に行くべきひとなのである。今日は焼酎ボトルを入れても余ってしまうだろう。ビールの後、私はぬる燗の日本酒にした。

    蜻蛉