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    平成二十七年九月二十六日(土)
     見沼代用水西縁

    投稿:   佐藤 眞人 氏     2015.10.06

     世の中にはシルバー・ウィークという大型連休があったが、十九日は母の一周忌法要、二十日は普通に終日仕事、二十一日は午後から仕事に出たので、完全に休んだのは二十二、二十三日の二日だけだった。観光や旅行に全く縁がないのはいつものことである。私も妻も全く無学なことに、敬老の日を含んでいるからシルバー・ウィークと呼ぶのかと思っていた。こころは良く食べるようになった。
     二日続いた雨が朝方まで残っていたので、仕事に出る妻を車で駅まで送った。細かい雨に濡れるとひんやりするのだが、日中は暑くなる予報なので、こういう時季は着るものに悩んでしまう。半袖のポロシャツにベストで大丈夫だろうか。
     一旦戻って着替えて家を出る時には雨は止んでいる。もう降ることはない筈だが、念のために折り畳み傘をリュックに放り込んだ。旧暦八月十四日、秋分の初候「雷乃収声(かみなりすなわちこえをおさむ)」。明日は仲秋の明月である。
     今日はヤマチャンの企画で見沼代用水西縁を歩く。集合場所の東浦和駅は初めて降りる駅だ。改札を出ると猿の頭のような不思議な像があるので近寄ってみると、猿ではなく龍の頭であった。「見沼の龍神」と名付けられている。今では想像しにくいが、かつての見沼は広大な沼であり、そこに龍神が住んでいた。龍や蛇は水の神である。
     見沼代用水の周辺は何度か歩いていて昔からのメンバーにはお馴染みだが、埼玉県以外の人は知らないだろう。元々寛永六年(一六二九)伊奈忠治によって、灌漑用の溜池として芝川を堰き止めて造成された沼である。しかし周囲の田は広範囲に水没し、芝川上流域では排水不良でしばしば氾濫を引き起こした。享保になって、この溜井を干拓して新田を増やし、溜井の代用として用水を掘削したのが見沼代用水である。
     工事の設計施行は井澤弥惣兵衛である。三月に白岡を歩いた時、柴山伏越の常福寺で弥惣兵衛の墓を見ているのを、皆は覚えているだろう。代用水には東縁と西縁とがあって、今回はその西縁をさいたま新都心まで歩くのである。
     干拓によって棲家をなくされては困ると龍は井澤弥惣兵衛に泣きついたが、弥惣兵衛が無視したため工事を妨害した。病に倒れた弥惣兵衛はそれに構わず工事を続けたという説と、万年寺に龍神を祀る龍神灯を奉納したという説とある。工事の完成によって一二六〇ヘクタールの新田が生まれた。これが見沼田圃である。

     少し遅れるとサクラさんからヤマチャンに連絡が入ったが、そんなに遅れることもなく、ほぼ定刻には到着した。「間違えて浦和で降りちゃったんです。」狛江のひとは、この辺の事情も分からないだろう。何しろ浦和、東浦和、西浦和、南浦和、北浦和、中浦和、武蔵浦和と、浦和を名乗る駅は七つもあって、京浜東北線と武蔵野線に分散しているのだ。
     赤羽から京浜東北線に乗り換えて南浦和で降りる積りだったようだが、新宿から埼京線に乗ったのだから、そのまま武蔵浦和まで来て、武蔵野線に乗り換えるほうが簡単だっただろう。
     「雨が心配で眠れなかったよ。」ヤマチャンは、参加者が少なかったらどうしようかと悩んでいたが、杞憂だった。宗匠、ロダン、スナフキン、ダンディ、ドクトル、カズチャン、ハイジ、サクラさん、キタガワさん、マリー、蜻蛉の十二人が集まった。かなり早くから来ていたカズチャンが、「良かったわ、女性が多くて」と安心している。キタガワさんは宮代町(五月)以来二回目、サクラさんは東伏見(四月)、宮代町に次いで三回目である。隊長は体調が悪くて欠席すると連絡があったらしい。駄洒落ではない。腰の具合がまた悪いのだろうか。
     「途中で車の通りが激しい道もあるので注意して下さい。」途中でハイジはたまたま友人に会ってビックリしている。市民農園の脇を抜けるときにも、「ここにもいるかも知れないわね」と呟いている。最初は大間木氷川神社に入る。さいたま市緑区東浦和五丁目二十番二。鳥居の前には赤沼街道の色褪せた説明板が設置されている。

    赤山街道は、関東郡代の伊奈氏が寛永六年(一六二九)に陣屋を構えた赤山(川口市赤山)に向かう街道であった。街道の起点は与野市あたりと考えられ、浦和市内の木崎・三室・尾間木地区から八丁堤を通って赤山に通じていた。(掲示板より)

     「赤沼は行ったね。」宗匠の言葉で思い出した。記憶が曖昧だったが、記録をひっくり返してみると平成二十一年七月に里山ワンダリングで安行を歩いた時である。伊奈忠治の陣屋があったところだ。
     神社は大間木・大間木新田・大枚・附島四ケ村の鎮守である。「今でも地元じゃ崇拝されてるみたいだよ」とヤマチャンが声を出す。拝殿は切妻造り妻入りで、本殿は一間社流造だ。この本殿はさいたま市の指定有形文化財に登録されているのだが、特に目立つような彫刻もなく、何がスゴイのか素人には分からない。寛文七年(一六六七)に大宮の氷川神社を建て替えた際、その本殿を移築したと伝えられる。「案外新しくないですか?」拝殿は、平成五年に放火で焼失してから再建したものだ。その時に本殿も塗り直したのではないだろうか。「こっち側(向って左)は塗りが剥げてました」とロダンが確認した。
     ハイジが塩飴を配ってくれる。境内を出ようとしたとき、何の木かは分からないが、手を伸ばしても届かない位置に、大きなサルノコシカケが出来ているのを見つけた。最大幅三十センチ程のキノコが幹にへばりついているのである。「食べられるのかしら?」随分前に癌に効くなんて言われて流行ったが、まず食わないほうが無難であろう。私はサルノコシカケというのはちゃんとした名前かと思っていたが、違うらしい。

    サルノコシカケという和名をもつ種は存在しないため、科名をサルノコシカケ科とするのは暫定的な処置である。タイプ種として、アミヒラタケを選択する説とタマチョレイタケを選択する説とがあり、前者の説をとるならアミヒラタケ科、後者の説に準じるのであればタマチョレイタケ科の和名を採用するのが妥当であるが、まだ国際藻類・菌類・植物命名規約上の決着をみていない。この観点から多孔菌科の科名をあてることもある。(ウィキペディア「サルノコシカケ科」)

     次は清泰寺だ。さいたま市緑区東浦和五丁目十八番九。慈了山覚源院、天台宗である。「アノ人のアレがあるのよね。」寺に近づくと見覚えのある景色で、ハイジが思い出そうとしている。「見性院のお墓だね。」「そう、それよ。イヤネエ。」ハイジが苦笑いして、そのやり取りがおかしいとマリーが笑うが、固有名詞がなかなか出てこないのは、私たちの年代では珍しいことではない。私がすぐに応えたのは、ヤマチャンが作ってくれた資料を電車の中で読んできたからだ。
     この寺には随分前に来たことがある。垣の代わりに境内の周囲に文字庚申塔が無数に並べてあった筈だと思いだした。ヤマチャンの資料では、庚申塔の数は三百五十一基あるという。「数えたやつがいるんだな。」
     門を入れば右手の地蔵堂には大きな地蔵一体と、それより小さい六地蔵が赤い涎掛けを付けて並んでいる。地蔵堂の脇には明治四十五年と大正十二年の馬頭観音、そして後ろに隠れてもう一基建っている。駒形石に文字だけを彫ったものだ。
     ヤマチャンはどんどん進んで行く。墓地の奥まで行くと柵で仕切られた墓域があって、南京錠が掛けられているから中には入れない。柵の脇にはサルスベリがまだ勢いよく咲いている。「幹がずいぶんスベスベしてるわね。」その奥に見性院霊廟の切妻平入りの門が建っているのだ。閉ざされた扉には大きく三つ葉葵の紋が入る。元々墓石はなかったようで、安政五年(一八五八)会津藩によって建てられた。見性院が保科正之を養育した縁である。
     「見性院って誰だい?」見性院は武田信玄の次女で、穴山梅雪(信君)の未亡人だ。穴山氏は武田の名乗りを許された一門衆である。武田氏滅亡後、梅雪は武田氏を継承して家康に仕えたが、本能寺の変によって家康と共に畿内を脱出する際に一揆の襲撃を受けて死んだ。
     梅雪の死後、遺児の勝千代が継いだが、元服直後に天然痘で死んだ。その時に仏門に入り見性院と名乗るようになる。やがて家康の五男を貰い受けて家を継がせたのが武田信吉で、水戸十五万石の領主となったものの、慶長八年九月に二十一歳で死に、穴山氏は断絶した。
     見性院が家康の庇護を受けたのはこういう関係からで、田安門内の比丘尼屋敷に住み、采地として武蔵国大牧村に三百石を与えられた。ここに墓があるのはそのためである。
     大奥の下女(静)が秀忠の子を懐胎したのは、恐妻家(あるいはロダンと同じ愛妻家)の秀忠にとっては恐るべきことで、お江に知られぬよう、とにかく江戸城から外に出した。
     その静が安産を祈願した願文が残されている。平仮名を漢字化してくれているサイトに感謝し、句読点を補ってみる。(http://homepage3.nifty.com/orimoto/newpage14.htmlより)

    敬つて申す祈願の事 南無氷川大明神。当国の鎮守として迹を此国に垂れ給ひ、衆生を遍く助け給ふ。ここに某賤しき身として太守の御想い者となり、御胤を宿して当四五月の頃臨月たり。然れども   御台嫉妬の御心深く、営中に居る事を得ず。今信松禅尼の労わりによって身をこの辺に忍ぶ。某全く賎しき身にして有難き御寵愛を被る神罰として、かかる御胤を身籠りながら住む所に彷徨ふ。神明真あらば、某胎内の御胤御男子にして安産守護し給ひ、二人とも生を全ふし御運を開く事を得、大願成就なさしめ給はば、心願の事必ず違ひ奉りまじく候なり。
        慶長十六 二月
                  志津

     「賤しき身として太守の御想い者」になったと言う。お静は大工の娘だったという説がある。「御台嫉妬の御心深く」城中にいることを許されなかったと嘆くのである。つまりお江は知っていたのだ。家の存続のために側室を複数持つのは当時としては当たり前のことだったが、淀君の妹はそう考えなかったのだろう。ましてお静は側室でもなく、単なる下女である。信松禅尼は見性院の妹だ。
     目黒不動に近い成就院(蛸薬師)にはお静地蔵がある。成就院に掲げられている説明には不審なことがあって簡単には信じられないのだが、秀忠がお忍びで目黒を散策したとき、正之は秀忠の子であると住職が知らせたと言う。住職が何故知っていたのかは分からない。
     幸い子供は恙なく生まれ、幸松と名付けられ、見性院が養育することになった。やがて七歳で信州高遠藩保科正光の養子となる。後の保科正之である。
     「什の掟でしたっけ。」水戸の人ロダンは保科正之が好きである。私はなんとなく、そんなものがあったようだとしか覚えていなかった。「ならぬことはならぬのですって言うんですよ。」これは日進館での教育方針である。

    一、年長者の言ふことに背いてはなりませぬ
    二、年長者には御辞儀をしなければなりませぬ
    三、虚言を言ふ事はなりませぬ
    四、卑怯な振舞をしてはなりませぬ
    五、弱い者をいぢめてはなりませぬ
    六、戸外で物を食べてはなりませぬ
    七、戸外で婦人と言葉を交えてはなりませぬ
     ならぬことはならぬものです

     会津の子供たちはこれを拳々服膺して育ったのである。私は会津人ではないから、一条や二条なんか、ほとんど違反している。精々同感するのは三条、四条、五条であろうか。こういうものを今の意時代に持ち上げても仕方がない。封建体制下の儒教に基づく道徳である。
     「保科正之は偉かったんですよね。」名君と讃えられるが、実はその実態を私はよく知らなかった。ウィキペディアから抜粋して引用してみるか。

     家光の死後、遺命により甥の四代将軍家綱の輔佐役(大政参与)として幕閣の重きをなし、文治政治を推し進めた。末期養子の禁を緩和し、各藩の絶家を減らした。会津藩で既に実施していた先君への殉死の禁止を幕府の制度とした。大名証人制度の廃止を政策として打ち出した。玉川上水を開削し江戸市民の飲用水の安定供給に貢献した。
     明暦三年(一六五七年)の明暦の大火後、焼け出された庶民を救済した。主要道の道幅を六間から九間に拡幅した。火除け空き地として上野に広小路を設置し、両国橋を新設、芝と浅草に新堀を開削、神田川の拡張などに取り組み、江戸の防災性を向上させた。また、焼け落ちた江戸城天守の再建について、天守は実用的な意味があまりなく単に遠くを見るだけのものであり、無駄な出費は避けるべきと主張した。そのため江戸城天守は再建されず、以後、江戸城天守台が天守を戴くことはなかった。(ウィキペディア「保科正之」より)

     これらの政策はもちろん正之単独の手柄ではなく、当時幕閣にあった酒井忠勝、松平信綱、阿部忠秋などと協力してのことである。これだけを読めば文句の付けどころのない為政者であるが、一方、熱烈な朱子学信奉者で異学を弾圧した。古学派の山鹿素行が赤穂に配流されたのも、熊沢蕃山の陽明学が岡山藩で積極的に取り入れられなかったのも、そのためである。
     また吉川惟足に師事して卜部神道(吉田神道)の奥義を伝授され、卜部神道第五十五代伝道者となり、土津(はにつ)霊神の称号を得た。これは反本地垂迹説(神本仏迹説)を主張する神道であり、会津藩内では神仏分離を進めて寺院を整理した。葬儀は遺言によって神式で執り行われたが、仏式を主張する幕府の説得に三か月もかかったと言う。これに倣って二代正経を除く歴代藩主が神式で葬られている。
     その保科正之が残した十五ヶ条の家訓の第一条が、幕末の会津藩を苦しめた。

    大君の儀、一心大切に忠勤を存すべく、列国の例を以て自ら処るべからず。若し二心を懐かば、則ち我が子孫に非ず、面々決して従うべからず。

     寺の東には明の星女子中高がある。「今じゃ浦和一女を抜いて埼玉県一番の名門だよ。」ヤマチャンが女子高に詳しいのは職業柄である。「娘の時は高校からでも入れたのよ。」ハイジによれば、昔は高校からでも入れたのだが、今では完全中高一貫制になっている。「明の星は青森にもあったんじゃないか?」「俺は女子高や短大は知らないよ。」東京周辺には詳しくても、スナフキンは東北には縁のないひとであった。調べてみると、青森明の星短大はやはり同一学校法人であった。
     昭和九年(一九三四) カナダの聖母被昇天修道会より修道女五名が来日し、昭和十二年に青森市に青森技芸学院(現:青森明の星高等学校)を開校したのが始まりである。そして昭和四十二年(一九六七)に浦和明の星女子高等学校が開校した。
     「これ、何かな。」街路樹から莢豆がぶら下がっている。「エンジュかな、ハリエンジュとか」と宗匠は考えたが、「ニセアカシアじゃないかしら」とハイジが判断した。「白い花が咲くのよ。」「そこに白い花が残ってる。」間違いないだろう。ニセアカシアはマメ科ハリエンジュ属の木だから、宗匠の第一勘も間違っていない。
     「ニセモノっていうことだろう?」スナフキンはバカにするが、しかし西田佐知子『アカシアの雨がやむとき』(水木かおる作詞)も、石原裕次郎『赤いハンカチ』(荻原四朗作詞)も、このニセアカシアを歌ったものだ。更に言えば白秋の『この道』のアカシアもそうである。第一連だけひいておく。

    この道はいつか來た道、
    ああ、さうだよ、
    あかしやの花が咲いてる。

     「そうなのか。」私はサッチンのファンだったから、これをアカシアと言いたい。裕次郎の歌は、中学時代に真っ赤なハンカチを手にしていた美少女を思い出させる。
     明治時代に輸入された時はアカシアと呼ばれた。その後、アカシア(マメ科ネムノキ亜科アカシア属)が入って来てニセアカシアに改名させられたのだが、アカシアは熱帯の木で関東以北では育たないらしい。だから東北や北海道の人間はこれがアカシアであると信じてきた。現在でもアカシアの蜂蜜として販売されているのは、ニセアカシアのものだと言う。
     見沼台通りには大きな屋敷が並んでいる。今年初めて見るピラカンサ(ピラカンサス)が無数の実をつけている。実が生っていれば分るのだが、私はこの花(トキワサンザシ)を知らない。屋敷の塀から高く伸びたハナミズキが真っ赤な実をつけている。ハナミズキがこんなに大きくなるのか。ヤマチャンは住宅地の中を右に曲がり左に曲がり、どうやら道を見失ったようだが、「やっと分かった。これでいいんだ」と自分で納得するように声を出した。
     そして大牧氷川女体神社に着いた。さいたま市緑区宮本二丁目十七番一。二十段程の石段を登った上に鳥居が建っている。社殿は小さな赤い切妻平入屋根の前にほぼ水平な屋根を張り出し、不愛想な板で前面を塞いである。これは覆殿なので、格子から覗いてみても中の一間社見世棚造の本殿はよく見えない。
     今度は用水を左に見ながら土手の遊歩道を歩く。ここ二三日の雨にも関わらず、水は意外に澄んでいる。木柵に沿って真っ赤なヒガンバナが咲いている。短い盛りはもう過ぎたから、これもあと数日だろう。「うちの方じゃジャンボン花って言ってました。」福島県ではそう言うか。「お葬式っていう意味です。」カズチャンが新しい知識を教えてくれる。
     調べてみると、葬儀をジャンボンというのは北関東から南東北にかけての方言で、葬式の時に鳴らす銅鑼の音に由来する。銅鑼は正しくは鐃祓(にょうはち)と言う。我が家は浄土真宗なのでそんなものは使わないが、秋田の大悲寺(臨済宗妙心寺派)では派手に音を鳴らしていた。ネットを検索すると、真言宗、曹洞宗、日蓮宗でも使われるらしいので、使わない方が珍しいのだ。
     「この花が観光になるなんて夢にも思いませんでしたよ。」ちょうど日高の巾着田が話題に出たのである。ヒガンバナが大量に広がっていると、なんとなく禍々しいものが感じられるのは確かなことだ。血の色を連想させるせいだろうか。「幸手の権現堤で、ヒガンバナの最中にコスプレの連中がいたよね。」「いたいた。」コスプレの連中も、その顔のつくりが死化粧のようで、実に不気味であった。一昨年の九月のことである。
     ヒガンバナが墓地や土手に植えられたのは、ネズミやモグラが土を掘り返すのを防ぐためである。

    全草有毒で、特に鱗茎にアルカロイド(リコリン、ガランタミン、セキサニン、ホモリコリン等)を多く含む有毒植物。経口摂取すると吐き気や下痢を起こし、ひどい場合には中枢神経の麻痺を起こして死に至ることもある。(ウィキペディア「ヒガンバナ」より)

     しかし、水に晒せばアルカロイドが除去され、救荒食物としても利用されたと言う。年貢がかからないからであるが、こんなものを救荒作物としなければならないほど、江戸時代の農村はしょっちゅう飢饉にさらされていた。
     「同じところで毎年同じように咲くのよね。どうやって増やすのかしら」とサクラさんが首を捻っている。こういうことはウィキペディアのお世話になれば解決する。

    日本に存在するヒガンバナは全て遺伝的に同一であり、中国から伝わった一株の球根から日本各地に株分けの形で広まったと考えられる。また三倍体であるため種子で増えることができない。

     株分けで増やすということだが、それにしてもたった一株が全国に広がったとは、それはそれで実に不気味なことだ。尤も、中国から伝来したのは稲作が始まった頃というから、弥生時代か、あるいは縄文時代に遡る。
     同じ記事からヒガンバナの異名を数えあげると、死人花、地獄花、幽霊花、剃刀花、狐花、捨子花等、余り良い名で呼ばれていない。しかし一方、曼殊沙華といえば仏教で天上の花である。釈迦が大乗を説いたとき、天は蔓陀羅華・摩訶曼陀羅華・蔓殊沙華・摩訶蔓殊沙華の四種の花を降らせたというのである。マンジュシャカは古代サンスクリット語で赤を意味する。
     「この土手にはヤブカンゾウも育ててあるんだけど。」花はとっくに終わっているから見ることはできない。「どんな花だい?」「オレンジ色のユリみたいなやつ。夏の花だよ。」NPO法人カンゾウを育てる会の活動である。そのHPによれば、平成六年に、島崎市太郎氏が自宅前の見沼代用水西縁に自生するヤブカンゾウ の保護活動を個人的に始めたのがきっかけである。平成十七年にNPO法人を設立して現在に至っているらしい。
     立原道造の「萱草(わすれぐさ)に寄す」については何度か触れたことがあるから、もういいだろう。解説板には「忘れ草」に因む万葉の歌がいくつか記されている。メモを取らなかったので、ウィキペディアから探してみた。

    忘れ草わが紐に付く香具山の古りにし里を忘れむがため  大伴旅人
    忘れ草我が下紐に付けたれど醜の醜草言にしありけり   大伴家持

     ムクゲが咲いている。「これを俳句では底紅って言うんだよ。白い花の底が赤くなってるからね。」うちの近所ではとっくに終わってしまったが、ここではまだ元気に咲いている。「この薄紫の花もそうですか?」やはりムクゲである。ツクツクボウシやヒグラシの声が聞こえる。

     白髪の後ろ姿や法師蝉  閑舟

     国道463号に出て、石段を登って浅間神社に入る。さいたま市緑区大牧一四八五番地。地面は緑の苔で覆われて靴が滑る。あまり人が来ないのではないか。社殿は小さくて真っ赤に塗られている。どんぐりが大量に落ちている。「階段、気を付けてくださいね。」石段を降りるとき、アカボシゴマダラを見た。
     セブンイレブンでトイレ休憩をとる。目の前の店は十勝甘納豆本舗だ。「姫がいたら必ず寄っただろうね。」「川口の十勝甘納豆には入ったことあるね。」
     また用水に沿って歩く。「なんにもないね。」「あれは何かしら?」キタガワさんの指差す方には、白いドームの頭の部分だけが見える。「埼玉スタジアムだね。」あそこが浦和美園になるのか。
     用水には十五センチほどの魚が群れ泳いでいるのが分かる。キバナコスモスが咲いている。ロダンの好きな花だ。「この間、二百円で鉢を買ってきたら、こんなものどこにでもあるって言われてしまった。」こんなものを売る花屋があるのだろうか。それにしても花を買って帰るとは、スナフキン夫妻は我が家とはまるで違った生活をしている。ツユクサも目立ってきた。「先日、白いツユクサを見たよ」と宗匠が言う。そんなものがあるのか。ウィキペディアを見ると確かにあった。「アレッ、ヤマブキじゃないか。」ヤマブキが咲いているのは季節外れではないか。
     新見沼大橋有料道路の高架の下を通り抜ける。「危ない!」無理矢理横断したダンディの後ろスレスレに車が過ぎていく。自分は気付いていないだろうが、実に危ない所業である。

     里山のたまの暴走曼珠沙華  閑舟

     見沼氷川公園に入った。「食事はここでとりますが、その前に女体神社に行きます。」大きなキンモクセイから甘い香りが漂ってくる。「立派な木ね。」日当たりが良いせいなのか、かなりの大木だ。「ここに来るとかなり香るわね。」キンモクセイの間を抜けると、幽かに風が吹いて更に香りが強くなってくる。遠くに見えるカキもかなり赤くなってきた。ハナミズキの大木に真っ赤な実が鈴なりになっている。
     山田の案山子の像がある。唱歌「案山子」発祥の地だ。「これでカカシって読めないよね。」「日本のカカシに中国語を当てたんじゃないか。」ドクトルの言葉が正解であろう。北慎言「梅園日記」に書いていると言うのはウィキペディア「かかし」からの孫引きで、原文には当たっていない。

     隨斎諧話に、鳥驚の人形、案山子の字を用ひし事は、友人芝山曰、案山子の文字は、伝燈録、普燈録、歴代高僧録等並に面前案山子の語あり、注曰、民俗刈草作人形、令置山田之上、防禽獣、名曰案山子、又会元五祖師戒禅師章、主山高案山低、又主山高嶮々、案山翠青々などあり、按るに、主山は高く、山の主たる心、案山は低く上平かに机の如き意ならん、低き山の間には必田畑をひらきて耕作す、鳥おどしも、案山のほとりに立おく人形故、山僧など戯に案山子と名づけしを、通称するものならんといへり、

     案山は山の中の平らな場所であり、そこには必ず田畑を開く。そのほとりに置く人形なので案山子と言う。作詞は武笠三(ムカサ・サン)である。碑文でもそう読むしかなかったのだが、名前が「三」というのは、確定するにはちょっと躊躇した。

    明治四年 当地にある氷川女体神社の神官を代々勤めていた武笠家の長男として三室村(現浦和市宮本)に生れた。東京帝国大学卒業後旧制四高、埼玉県第一中学(現浦和高) 旧制七高で教鞭をとる。明治四十一年文部省によばれ、十七年間にわたり国定教科書の編さんにたずさわった。「案山子」は第二学年用として作詞された。昭和四年没。

     「ここは山田じゃないだろう?」干拓地だから田はあっても山はない。しかし女体神社からおよそ一キロ西には馬場小室山(ばんばおむろやま)があり、周辺一帯が武笠家の所有になるものだった。山はあったのである。「二番の歌詞なんか知らなかったな。」私も知らなかったので、記録しておこう。

    山田の中の 一本足の案山子
    弓矢で威して 力んで居れど
    山では烏が かあかと笑ふ
    耳が無いのか 山田の案山子

     ほかに『雪』(雪やこんこん)『池の鯉』(出て来い出て来い池の鯉)などを作っている。『案山子』は、明治四十四年(一九一一)六月に刊行された『尋常小学唱歌第二学年用』に収録されたものである。前年、文部省は事実上初めて文部省唱歌とされるべき『尋常小学読本唱歌』を刊行していて、これを学年毎に分冊したものらしい。第二学年用に収録されたのは「桜」、「二宮金次郎」、「よく学びよく遊べ」、「雲雀」、「子馬」、「田植」、「雨」、「蝉」、「蛙と蜘蛛」、「浦島太郎」、「案山子」、「富士山」、「紅葉」、「時計の歌」、「雪」、「仁田四郎」、「梅に鶯」、「母の心」、「那須与一」、「天皇陛下」の二十曲である。
     この中で仁田四郎とは何者か。明治の国民的常識が、私たちには既にない。曾我兄弟の敵討ちの舞台になった富士の巻狩りでは、頼朝の面前で大猪を仕留め、更に曾我十郎祐成を討ち取った人物である。これが読本の主人公として採用され、唱歌にも歌われた。

    一、手負の猪 牙くひそらし、
      地を蹴り木を折り 草靡かせて、
      此方をめざして 山駆け下る。
    二、大將頼朝 あれ仕留めよと
      いふ聲待たずに 仁田の四郎、
      猪めがけて 馬駆け寄せる(以下略)

     『赤い鳥』を筆頭にした大正の童謡運動は、こうした歌への対抗として生まれた。ついでだから、小学校が国民学校に変った時の二年生用の国定教科書『うたの本』(下)の収録曲と比べてみたい。これは昭和十六年三月刊行である。「君が代」、「きげん節」、「春が来た」、「さくらさくら」、「国引き」、「軍かん」、「雨ふり」、「花火」、「たなばたさま」、「うさぎ」、「長い道」、「朝の歌」、「富士の山」、「菊の花」、「かけっこ」、「たきぎひろい」、「おもちゃの戦車」、「羽根つき」、「兵たいさん」、「ひな祭」、「日本」、「羽衣」である。明らかに明治から昭和へと唱歌は変遷するのである。この中から「兵隊さん」の一番を引いてみる。

    鉄砲担いだ兵隊さん
    足並揃えて歩いてる
    とっとことっとこ歩いてる
    兵隊さんは綺麗だな
    兵隊さんは大好きだ

     地面には、割れて中から赤い実がいくつかこぼれたものが落ちている。見上げれば不思議な形の実がなっている。「コブシじゃない?」ハイジに言われて気が付いた。確かにこれはコブシだ。枝についたままコブシの外皮が破れて中の赤い丸い実が露出しているのもある。「中を見たのは初めてだわ。」十数個の実が一つの外皮に包まれ、それがゴツゴツした、握り拳のような外観を作っているのだ。

     赤々と裂けて零れし辛夷の実  蜻蛉

     公園を外れると朱の欄干の橋があり、その手前でヤマチャンは林の中に入っていく。大きな望遠鏡を据え付けた男が三人いるが、何を見ているのかドクトルが尋ねると「トリ」と答えるだけで愛想がない。カメラの先を上に向けているからカワセミではなさそうだ。
     周りは掘割のようになっているから、本来は沼に突き出した出島なのだろう。今は周囲の堀だけが分断されて残ったものだと思われる。そのほぼ中心部に、榊(だと思う)を四本植えて、それに細縄を結んで四角の結界を作った場所がある。これが磐船祭祭祀遺跡である。見沼田んぼができる以前は、女体神社から神輿を乗せた御座船が見沼を渡り、水深が最も深い場所で龍神を祭ったものだという。

     氷川女体神社のかつての最も重要な祭祀は御船祭でした。しかし、享保十二年(一七二七)の見沼干拓によりそれが不可能となり、代わりに社頭の旧見沼内に 柄鏡形の土壇場を設け、周囲に池をめぐらし、ここにその祭祀を移して行うことになりました。それが磐船祭です。実際にここで祭祀が行われたのは江戸時代中 期から幕末ないしは明治時代初期までの短い期間ですが、その祭祀は見沼とは切り離せない古来からのきわめて重要なものです。この遺跡は保存状態も良く、また、これを証すべき文書や記録も残されており、史跡としての価値が高いといえます。
     面積 三九七一平方メートル
     祭場(四本竹跡) 径三〇メートル
     御幸道 長さ六五メートル

     「土壇場なのね」とサクラさんが納得している。橋を渡って二十五六段の石段を上ると正面に朱塗りの鳥居が建っている。氷川女體神社だ。さいたま市緑区宮本二丁目十七番一。大宮の氷川神社がスサノオを祀る男體社であるのに対し、ここではその妻である奇稲田姫を祀るのである。見沼区中川には中山神社(簸王子社)があってオオナムチを祀っていて、この三社を合わせて武蔵国一宮を称している。
     オオナムチはオオクニヌシであり、スサノオの息子とされる説を採用すれば、両親と息子を三か所に祀ったことになる。オオナムチの他に葦原の醜男、ヤチホコ、オオクニタマ、オオモノヌシ等異名が多いのは、オオクニヌシは元々大いなる国の神という一般名詞であって、異なる地域の神をまとめたからだと推測される。
     武蔵国一宮は時代によって順位が入れ替わっている。古くは小野神社(多摩市一の宮)がそうであり、府中の大國魂神社も武蔵国総社を名乗る。『神道集』では小野神社を、『大日本国一宮記』で氷川神社を武蔵国一宮としているから、おそらく時代によって政治的な中心が移動したことによるだろう。
     「この『簸』の文字に注目してよ。氷川は出雲の簸川に由来するんだ。」「初めて見る字だわ。」出雲の豪族が武蔵国造になって東国に来た時、出雲の簸川に因んでスサノオを祀ったのが氷川神社の始まりである。「出雲大社とは違うんですか?」あそこはオオクニヌシの国譲りによって生まれた社である。
     社殿は、寛文七年(一六六七)四代将軍家綱が忍城主阿部忠秋に命じて造営させたものだ。拝殿の正面は工事中のベニヤ板で覆われている。向背は唐破風と千鳥破風の組み合わせで、横に回ると本殿は三間社流造になっているのが分かる。拝殿と本殿との間も建物で覆われて繋がっているから権現造の様式だろう。規模はそれほどではないが、なかなか立派なものだ。「武蔵国一宮 女體宮道」の石の道標は赤山街道に置かれていたものだ。

     公園に戻って東屋で弁当を広げる。テーブルに向き合う長椅子の半分には、何故か足拭きマットのようなものが置かれ、何かの食べこぼしもある。仕方がないので、そこを避けて女性陣四人だけが座り、残りは縁石に腰を下ろす。
     ビニールシートを出すのは面倒なので、折り畳みの座布団を出した。たまたまスナフキンも同じものを持っているが、百円ショップの品である。ヤマチャンは「コンピュータを包装してたやつだよ」とプチプチを尻に当てている。「正式名称はなんだろう。」これも調べてみるか。
     普通名称としては気泡緩衝材であるが、誰もそんな風には呼ばない。プチプチは川上産業の登録商標である。その他に酒井化学工業のエアーキャップ、ミナキャップ、ジェイエスピーのキャプロン等があるが、私たちの圧倒的多数はプチプチと呼んでいるのではないか。
     その川上産業が八月八日をプチプチの日と定めたなんて知っている人がいるいだろうか。突起二つを合わせると8になり、潰す時の音がパチパチと聞こえるというのがその理由らしい。世の中には下らないことを考える人がいる。
     毛玉を纏ったような犬を二匹連れたオバサンがやってきて、私たちが避けた椅子に座り込んだ。ハイジは犬が好きだから弁当を食べながら相手をしている。そこに別の大型犬を連れたオバサンがやって来る。オバサン二人は顔見知りのようだが、大型犬の吠え声に怯えて、毛玉の犬は椅子の下に潜り込む。後から来たオバサンはすぐに去っていく。
     マリーが煎餅をくれる。キタガワさんは自分で作ったという、アクリル毛糸のタワシを配る。「これで洗面所をゴシゴシと。」なるほど。「器用ですね。」「簡単です、すぐに作れるんですよ。」知らなかったが、洗剤を使わなくても、毛糸の細かい繊維のために汚れが落ちるので、エコたわしとも呼ばれるものである。
     「うちの主人は熊谷組でしょう?」初めて会ったオバサンに、その家族の情報について既知のように同意を求められても困る。誰も知らない個人的な情報を、疑問形を用いて同意を強要する言い方は嫌いだ。世界中の人間がワタシのことを知っている筈だという、あるいは知っていてほしいという驚くべき傲慢か願望が潜んでいる。
     「私も熊谷組だったから、そこで知り合ったのよ。」それはめでたい。「用水の向こうに家があるから、ここは毎日散歩するの。」その後主人が亡くなって、いまでは二匹の犬と暮らしているのだそうだ。それにしても見ず知らずの男に、こんなことを教えるのは、友達がいないからだろうか。
     トイレに行くときに、沼の表面にスイレンに似た葉が広がり、黄色の花が咲いているのに気付いた。東屋に戻って「コウホネかな」と私は一つ覚えの知識を口走ってみたが、「あれは七月頃だからね」とハイジに一蹴された。
     もう一度沼に戻ってみると、観察していた宗匠はアサザかガガブタではないかと、電子辞書を開く。マリーもスマホを検索する。「花弁は五枚あるわ。」ガガブタに決めかかったとき、その花は白いというのが分かった。それならこれはアサザ(ミツガシワ科アサザ属)だと決まる。トンボが飛んでいる。

     ゆれ動くリュックと帽子あきあかね  閑舟

     公園を出て用水に沿って歩く。遊歩道の上をサクラの落ち葉が敷き詰めている。用水はかなり蛇行していて、魚の影が見える。雨の気配は完全になくなり暑くなってきた。首筋から背中にかけて汗が滲んで気持ち悪い。

     魚影や桜紅葉の土手を行き  蜻蛉

     「ここに白いヒガンバナがある。」白茶けて既に枯れかけているが、確かに白花である。これも中国渡来の一株から生まれたのであろうか。

     白々と燃え尽くしたる彼岸花  蜻蛉

     さいたま市立浦和博物館は市民病院の向かいにある。さいたま市緑区三室二四五八番地。入館料は無料だ。ここにも一度来たことがある。入口脇に大きなキンモクセイが立っている。今日はこの香りがあちこちで漂っている。調べてみると旧浦和市がモクセイを市の木としていた。
     玄関口は明治十一年(一八七八)に建てられた埼玉県師範学校校舎(鳳翔閣)の中央部外観を復元したものだ。浦和レッズのエンブレムに描かれているなんて、私は全く知らなかった。と言うより、エンブレムそれ自体を見たことがなかった。入口の前の塀際には、足立百不動第一番道標、長日護摩供五千座供養塔、文字庚申塔、不動明王像などが置かれている。
     博物館内部には板碑などもあるのだが、こぢんまりとした博物館だ。「つい最近まで使ってたわ」とマリーが言う黒電話が、民俗資料として展示されている。こんなものがもう博物館に展示されてしまうのでは、私たち自身が既に古老と呼ばれるに相応しい。
     ここでは二十五分が予定されていたが、私は早々と外に出てタバコを吸う。そこにロダンもやってきて、煎餅を配ってくれた。「女房が、飴がいいか煎餅がいいかって訊くから、今日は煎餅って言ったんですよ。」有難いことである。

     「あとはひたすら歩くだけです。」ヤマチャンの資料では残り四キロ程だから、今日のペースで歩けば一時間以上はかかるだろう。「途中で休憩しますよ。」今日のコース合計は十二キロの予定である。「十二キロなんて、一人じゃとっても歩けないわね。」お喋りをしながらだから歩けるのである。なんだか私も少し疲れてきた。
     この辺に来ると用水の水位はかなり高くなり、少し強い雨が降れば道路が冠水しそうな塩梅だ。ほとんど流れていないように見える。「だから家を高くしてあるんだな。」確かに道路から二メートルも高くした家が並ぶ。「その家は低いよ。」「そこだと、水は向こう側に溢れるんだろうね。」
     用水の左には林が続く。「三室第二保存緑地です」とヤマチャンから声がかかる。さいたま市が管轄する保存緑地らしい。木崎四丁目保存緑地、木崎三丁目保存緑地と眺めながら、浦和西高校斜面に着いた。ここも前に来たことがある。
     「トイレ使用の予約をとってあるんだ。」ヤマチャンは準備が良い。用水から逸れて大原中学の脇を通り、公園の中に入って行った。テニスコートがある。かなり広い公園で、その先にさいたま県障害者交流センターの建物があった。さいたま市浦和区大原三丁目十番一。ここを予約していたのであるが、特に予約が必要だったのかどうかは分からない。
     「その椅子に座りたいな。」「そこはコーヒー頼まなくちゃダメだ。」カフェのコーヒーは二百五十円である。「二百円だったら飲んでもいいけどな。」水筒のお茶がなくなったので自動販売機で買おうとしたが、お茶は売り切れで、仕方がないのでカルピスを買ってしまった。年寄りが選ぶものではないね。あたりを見回すと、自販機はもう一台あった。慌ててはいけないという教訓である。十五分ほど休んで出発だ。

     「ここからは四十分くらいかな。」目指すは、さいたま新都心駅である。実は私はその駅で降りたことがない。
     「浦和レッズの練習場だよ。」大原サッカー場である。私はサッカーに全く興味がないので一向に感動しないが、キタガワさんは嬉しそうだ。さいたま市が運営するサッカー場で、浦和レッズが専用にほぼ毎日、練習や練習試合に使っているらしい。そういうものを自治体が運営しているというのが良く分からない。
     そして新都心にやってきた。コクーンの前で解散する。明治三十年代からは片倉組の製紙工場が稼働していたが、江戸時代には刑場のあった場所である。
     万歩計を確認すると、今日は五人の数値が似たようなものになった。二万二千歩。十三キロ程である。
     ロダンが紀伊國屋書店に寄るというので、私も入ってみた。あることは知っていたが入るのは初めてである。ヤマチャン、宗匠、スナフキンも一緒だ。中は意外に広かった。調べてみると六百五十坪あるから、浦和パルコ店の三百坪と比べて、路面店のワンフロアとしては規模が大きい。
     「どこにしようか?」駅前には日本海庄屋があるが、ヤマチャンも宗匠も少し高いと言う。「南浦和に何かあるかい?」「あのガード下の店がある。」「あれね、新越谷でいつも入れない店。」「名前が出て来ない。」南浦和なら全員の乗り換えが便利だ。
     南浦和に出て、その「一源」に入る。安い店だと思っていたのだが、二階に案内されると少し様子が違う。「ちょっと高いね。」メニューを点検する。そもそも冷奴をおかない居酒屋とは何であろう。高級豆腐は七百八十円で、おぼろ豆腐は六百円以上もするのである。
     それでも料理を運んでくる女の子が可愛い。「しめ鯖の炙りがお薦めです。」それなら注文してみるか。これはテーブルに運んできてから彼女がバーナーで炙るのである。「上手、上手。」「有難うございます。」私たちは紛れもなく年寄である。漬物、枝豆、イカの一夜干し。選ぶのは値段の安いものばかりだ。
     生ビールの後は、焼酎一本がすぐに空いて二本になった。一人三千円でお釣りが出たのは、つまみの選択に健闘したからである。ロダンは既にかなり酔っているが、歩いてでも帰れる距離だから大丈夫だろう。
     私とスナフキンは武蔵野線を西に、宗匠とヤマチャンは東に向うのでここで別れる。「物足りないな。」「エッ」私は充分足りているのだが、仕方がない。北朝霞で降りて、目についたもつ焼き「松」に入った。かなり広い店内が混んでいる。カウンター席に座り、様子が分からないからぬる燗を注文したが、ほとんどの客がホッピーを飲んでいるようだ。「ここはホッピーを飲む店なんだよ。」スナフキンが言うので、私たちもホッピーを頼む。
     実はホッピーを飲むのは初めてなのだ。「エッ、飲んだことないのか。信じられないよ。」私の感覚では、ホッピーは肉体労働者の飲物であった。それに元々炭酸系の飲物は苦手だった。すぐに焼酎と氷が入ったジョッキに、ホッピーの瓶が運ばれてきた。適当に割り込んで飲むのである。ジョッキにはレモンを浮かべ、マドラーを挿してある。
     ホッピーが発売されたのは昭和二十三年(一九四八)で、一般人にはビールが高嶺の花だったことから、焼酎をホッピーで割る飲み方が街で自然と生まれたという。山口瞳が、焼酎にビール一本を注文して少しづつ割って飲んでいると、店中の視線が集まったと言っているのは、そういう時代のことである。このエピソードは『江分利満氏の華麗な生活』で読んだのだったろうか。山口瞳のものは全て読まなければいけないと、思い詰めていた時期がある。
     しかし既に私の限度は越えている。隣に座った男とは最初は友好的に話していたのだが、いつの間にか論争になった。何が問題だったのか、さっぱり覚えていない。ただかなりエラソウな説教口調に腹が立ったのである。「論破したよ」とスナフキンに言い切ったものの、何がどうだったのか。私には酒乱の傾向があるだろうか。これは危ないとスナフキンは判断したらしい。「帰ろうぜ。」割り勘をいくら払ったか記憶がない。

     ホッピーに喧嘩口論秋の暮  蜻蛉

     東上線に乗ってすぐに座れたのは良いが、気が付いたら東松山だった。五つも乗り越していたのである。完全に飲み過ぎだ。

    蜻蛉