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    平成二十七年十月十日(土)
     伊奈町サイクリング

    投稿:   佐藤 眞人 氏     2015.10.31

     旧暦九月十二日、霜降の初候「霜始降」。朝晩めっきり冷えるようになった。暦の上ではとっくに晩秋であるが、つい一週間前まで夏服を着ていた。日が出ている間は暖かいが、曇ってくると肌寒い。夏服では夜が寒く、冬服では昼に汗をかく。こんな季節だから風邪を引く連中が増えていて、私も喉の調子があまり良くない。歌が歌えない。しかし今日は二十五度にはなる予報なので長袖一枚にしたが、夜が心配なので念のためにジャンバーをリュックに入れた。
     今日はニューシャトル(埼玉新都市交通伊奈線)に初めて乗る。伊奈には来たことがなく、全く無知なので調べると、案内軌条式(側方案内式)鉄道である。と知っても何のことか分らなかったが、走行路面上の中央または側壁にある案内軌条に案内輪を当てて、ゴムタイヤで走行する交通機関である。ニューシャトルの場合は、側面の壁に軌条があるらしい。車両は電車の形でも、要するに軌道上を走るバスであろう。
     東北新幹線と上越新幹線によって伊奈町は三つに分断された。しかも町内に新幹線の停まる駅はない。そのため上越新幹線のための土地提供と交換条件で、埼玉県とJR東日本などが出資する第三セクターを作って、新幹線の高架を利用して動かした路線である。大宮から伊奈町内宿まで十三駅、営業キロは十二・七キロと短い。埼京線も同じ意味で戸田市、旧与野市、旧浦和市の要望によって敷設されたが、ニューシャトルの方は埼京線ほどの利用客が見込めないところから、こんな簡易な形になった。
     伊奈町は上尾市と蓮田市に挟まれた、北西から南東に伸びる細長い地域で、昭和十八年(一九四三)に小室村と小針村が合併した際、伊奈氏に因んで伊奈村としたのが始めである。伊奈氏といえば関東郡代と言われるのが普通だったが、「郡代」は自称であり、実際は関東「代官頭」であったろうという説が近頃有力になっている。
     ニューシャトルの駅は大宮駅の西口にある。これも初めて知ったことで、大宮駅にはしょっちゅう来ているのに、この辺りを歩いたことがなかった。階段を上って改札が見えてくると、ちょうど折り返しの車両が入ってきたところで走って乗った。
     四両編成だが車両もかなり短く、子供連れで結構混んでいる。それでも大半が次の鉄道博物館駅で降りて行った。この路線にとって、平成十九年(二〇〇八)に開業した鉄道博物館の存在は大きく、埼玉新都市交通は、昨年六月に昭和五十八年の開業以来の累積赤字を解消した。土曜日は稼ぎ時であろう。
     ニューシャトル開通以前は、伊奈町は鉄道とは無縁の陸の孤島で、広大な田畑の間に森が点在する地域だっただろう。梨や葡萄が有名らしい。町の名前が一般に知られるようになったのは、昭和五十九年(一九八四)、全国初の総合選択制の県立高校として創立した伊奈学園総合高校のお蔭ではないか。今では新興住宅地が開発されて人口も増えた。現在の人口は四万三千程だが、将来五万人を超える見通しで、その時には単独での市制を目指しているらしい。
     電車はループするように上に上っていく。ゴムタイヤだから静かかと思ったが、おそらく軌条にあたる案内輪のために、結構音はする。新幹線の高架の脇を走っているので眺めは良い。
     加茂宮、東宮原、今羽(コンバとはなかなか読めない)、吉野原、原市、沼南、丸山、志久。最初は沿線に工場が点在していたが、やがてそれまでの景色とは少し変わって森林が目立つようになった。大宮から約三十分で志久駅に着いた。この先は、伊奈中央、羽貫、内宿で終点となる。
     座席から立ち上がると、先頭車両からこちらを眺めているロダンと目が合った。「何もないところだね。」高架下の改札を出ると、駅前にはコンビニも何もない。大きな施設で言えば、悪名高い(関係者がいたら申し訳ない)都築学園グループの薬科大学がここからすぐ西にある。更にその西には中高一貫の国際学院中学校・高等学校があり、ユネスコ・スクールに指定されている。ユネスコ・スクールについて全く無知であったのは恥しい。教育関係については押さえておきたいので、ウィキペディアを引いてみる。

     ユネスコスクールは、ユネスコ憲章に示されたユネスコの理念を実現するため、平和や国際的な連携を実践する学校である。ASPnet(UNESCO Associated Schools Project Network)に加盟が承認された学校を指す。文部科学省及び日本ユネスコ国内委員会では、ユネスコスクールをESD(持続可能な開発のための教育)の推進拠点として位置付けている。 ユネスコスクールでは、そのグローバルなネットワークを活用し、世界中の学校と交流し、生徒間・教師間で情報や体験を分かち合い 、地球規模の諸問題に若者が対処できるような新しい教育内容や手法の開発、発展が目指されている。(「ユネスコスクール」より)

     隊長、ダンディ、ハコサン、千意さん、ヤマチャン、ロダン、イトハン、椿姫はいつものメンバーだ。キタガワサンは三回目だから常連になりつつある。それに、椿姫のコーラス仲間のマエダさん、千意さんの友達のスギタニ夫妻(二回目)とダイゴウさん、そして蜻蛉の十四人が集まった。今日は珍しくサイクリングの企画で、千意さんの蓮田グループと椿姫は自前の自転車でやって来た。イトハンや椿姫が自転車に乗るとは考えもせず、女性の参加者は少ないのではないかと思っていた私の予想は完全に外れた。尤もキタガワサンはサイクリングだとは知らずにやって来た。
     千意さんの自転車は、ハンドルがストレートになっているスポーツタイプのもので高そうだ。「二十七段切り替えなの。」ヘルメットもちゃんと持参している。「こういう付属品が高いんだよね。」
     高校時代、自転車通学の連中の大半はこういうもの(正式な名称を知らない)かドロップハンドルの自転車を使っていて、父親から譲られた実用車に乗っていた私はそれが羨ましかった。あの実用車というやつは荷物運搬を目的としていたから車体が重いし、変速機がないから坂道は大変だった。後に買ってもらったのも変速は三段しか切り替えできず、高校の坂道(ウグイス坂と呼んでいたろうか)を登りきるのができず、必ず中程で止まって歩いてしまった。
     改札窓口は売店と一体になっていて、売店の女性販売員が駅員を兼ねている。ひとりで貸自転車の手続きもするのは、利用者が少ないからできるのだろう。窓口でノートに住所氏名を記入する。料金は五百円、借りた駅に戻せば二百円が返戻される。実質三百円は安いと言って良いだろう。私が集金してまとめて窓口に行く。「八人でいいんだよね。」「九人様ですが。」「エッ?」ノートには確かに九人の名前が記されていた。
     合計十三人で自転車持参が五人だから残り八人とばかり思い込んでいたのだが、合計十四人だったのだ。また計算が違ってしまった。「自分が払ってないんじゃないの?」私は確かに払っているぞ。「誰かまだ払っていないひとは?」「今お支払いするの?」とイトハンが財布を取り出した。
     サドルにはコンビニのビニール袋を結んで覆ってある。それを外すのも一人では大変だから、ロダンが手伝う。「すみませんね。」自転車の名は忠次号で、国定忠治と間違ってはいけない。伊奈町の英雄、伊奈備前守忠次に因むのである。私に当ったのは六号車だ。
     「それじゃ出発しましょう。」そう宣言した途端、隊長は急にサドルの高さ調整を始めた。しかし調整ハンドルが錆びついていてなかなか回らないようなので、代わりにやってみた。「こっちに回すんだよね。」かなりきついがなんとか回った。隊長は五センチも下げて、「これでいいんだよ」と言う。サドルはある程度高い方が、つまり踏み込んだ足が伸びる方が、膝が疲れないと思うのだが。そして出発する。

     自転車に乗らなくなってざっと三十年、正確には二十五六年になる。今の団地に引っ越してきて、最初の四五年は駅まで自転車を使った。その後歩くようになって自転車は捨てたから、本当に久し振りだ。
     普段使わない筋肉を使う筈だから今日は疲れるかもしれない。高架の東側を大宮方向に一駅戻って丸山駅に着く。
     北東に向かう東北新幹線と北西に向かう上越新幹線が分岐する辺りで、隊長は東北新幹線の脇の森林の手前の荒れ果てた草むらで自転車を止める。伊奈氏屋敷跡の標柱の下半分は雑草で隠れている。森の手前に全景写真と障子堀の写真が掲示されている。「新幹線の工事で発掘されたんですよ。」しかしそんなものは跡形も残っていない。「ここです。また埋め戻されました。」椿姫は地元の人だから良く知っている。
     障子堀は八王子城でも写真を見ただけで、実物にはまだお目にかかっていない。空堀の中に格子状の仕切りを作って、防御能力を高めたもので、その格子が障子の桟に似ていることから名づけられた。中世城郭に特有な形式だったと思う。
     かつては無量寺閼伽井坊、あるいは赤井坊ともされた真言宗西光山安養院無量寺があった場所である。それをわざわざ他に移して陣屋にしたからには、それだけの理由があるだろう。戦国の寺は一方では避難所、防衛施設でもあったから、濠などはその当時に築かれたものではないだろうか。「この森が伊奈氏の陣屋で、ここが裏門だったんだ。」
     伊奈忠次は家康に従って関東代官頭になり、鴻巣と小室を合わせ一万三千石の藩主となった。ここはその陣屋跡である。伊奈氏は元々信州伊那の出身で、三河に出て松平氏に仕えた家だ。清和源氏足利氏の支流と称し、石碑にも「伊奈氏ハ源義家に出ヅ」と書かれているが、別に藤原氏だとの説もある。大名にも格式があって、一般に三万石未満の大名は城を持てずに陣屋を構えた。
     序でだから上から言えば、最も格が高いのは国主である。加賀前田家・薩摩島津家・陸奥仙台伊達家・長門萩毛利家・出羽米沢上杉家・肥後熊本細川家・筑前福岡黒田家・安芸広島浅野家・肥前佐賀鍋島家・因幡鳥取池田家・備前岡山池田家・伊勢津藤堂家・阿波徳島蜂須賀家・土佐高知山内家・筑後久留米有馬家・出羽秋田佐竹家の外様大名十六家と、越前福井松平家・出雲松江松平家の譜代大名二家を併せた十八家が相当する。次いで、準国主、城主、準城主、陣屋、居館となる。この格付けによって、江戸城内での席が決められる。
     小室藩二代を継いだ忠政(忠次の長男)が元和四年(一六一八)に三十四歳で死に、その子の忠勝が三代目を継いだが、翌年僅か九歳で病没したため断絶した。無嗣断絶は幕府の基本法である。
     一方忠次の次男である忠治は別家をたて、七千石の旗本として関東代官頭を継ぎ、その職は子孫が世襲することになる。但し寛政四年(一七九二)第十二代忠尊が罷免され、伊奈氏別家は改易となっている。
     以前に行った赤山陣屋跡は、この旗本になった忠治の陣屋であるが、忠治を伊奈氏三代目とする記事があって紛らわしい。どちらも音読みでチュウジと読んでしまうので、私も混乱する。文禄三年(一五九四)に忠次によって始められた利根川東遷事業は、忠政、忠治と受けつがれたから、関東代官頭としては三代目でも良いかもしれないが、伊奈氏の系図からすれば本家三代目は夭折した忠勝であり、忠治は別家初代とするのが正しい。
     利根川東遷事業が有名だが、伊奈氏の功績はそれだけではない。小田原の陣では忠次はロジスティクスを担当して功を挙げた。家康の江戸入部後は関東各地で検地、新田開発、河川改修を行って、幕府の財政基盤を安定させた。忠政は若くして死んだが、忠治もまた忠次の業績を引き継いで荒川や江戸川の開削、下総・常陸の堤防工事などに携わった。旧筑波郡伊奈町(現つくばみらい市)はこの忠治に因む名であり、伊奈神社もまた忠治を祀ったものである。
     森に沿って自転車を走らせると、「住民の意思を無視した史跡指定は一切認めない」という看板が数か所に立っている。東西三百五十メートル、南北七百五十メートルに上るこの陣屋跡も今では私有地であり、埼玉県の史跡に指定されてしまって開発ができない不満だろう。
     新幹線に土地を提供した見返りにニューシャトルが開通して、さてこれから宅地化して売り出そうと思っていたのではないか。しかしこの国に、もはや新規の宅地は無用であろう。
     普通の民家なら十軒分にもなりそうな白い塀が続く。周囲にはほかにも広大な敷地を持つ家が多い。豪農ばかりだ。「今日は何があるんだい?」一人のおじさんが声をかけてきた。「歩く会なんですが、今日は珍しくサイクリングをしてるんですよ」とロダンが律儀に応えている。「滅多に人が来ないから珍しいんじゃないか。」

     自転車が十四台連なって走るものなかなか大変だ。前の自転車が急に止まってぶつかりそうになるから、間隔を空けなければならないのだが、最初はその要領が分からない。平らなようでも若干の上り下りはあって、ゆるやかな上りになると、女性陣は登り切れずにすぐに自転車から降りて歩いてしまう。前方が登り坂だと思えば勢いをつけて走りたいところなのに、前で急に止まられる。止ると面倒だからなんとか避けて追い抜く。しかしこれは太腿の筋肉に効くね。「若いですね。」「三十歳代だからね。」
     道なりに回り込んでいくと、今度は表門に着いた。勿論荒れた草むらの中にあるのは案内板だけで、遺跡は何も残っていない。「あの辺を原市沼川が流れていて、自然の外濠になっていたんです。」今日は地元の椿姫が要所で解説してくれるから有難い。原市沼川は綾瀬川の支流である。ウィキペディアから概要を引いておく。

    埼玉県上尾市菅谷および上尾市須ヶ谷に源を発し南東に流れる。上越新幹線、東北新幹線、ニューシャトル高架下で原市沼に注ぎ、原市沼より流れ出て埼玉県道三号さいたま栗橋線をくぐり、伊奈町小室と上尾市瓦葺の境界で綾瀬川右岸に合流する。(「原市沼川」より)

     川の向こうに見えるのが埼玉県立上尾鷹の台高校だ。「上尾東高校と上尾沼南高校が合併した高校です。」「少子化ですかね。」「学校が一つなくなるっていうのは、教員の職場がなくなることなんだ。」ヤマチャンにとっては他人事ではない。例の文科省の国立大学への通達(人文社会系学部の廃止転換)を受け、反対もせずに人文系学部を縮小して理系拡大を決定した大学がある。安倍政権の進める反知性主義に盲従する愚かな大学だと断定してしまうが、人文系の教員は行き場を失ってしまうだろう。
     「どうぞ、先に行ってください。私はシンガリですから。」千意さんの言葉に、椿姫は私の全く知らない句を口にする。「百代の過客しんがり猫の子も、という句があるんですよ。」椿姫はヒャクダイノカキャクと読んだが、これは昔風にハクタイノカカクと読んでみたい。月日は百代の過客にして行かふ年も又旅人也である。それにしても彼女の口からこんな句が飛び出てくるとは予想もしなかった。人の知らない知識を隠し持っているひとである。調べてみると、加藤楸邨の句であった。

     百代の過客しんがり猫の子も  楸邨

     楸邨の句にはほとんど馴染みがない。永遠の時を過ぎる旅人の、そのシンガリに猫もいるというのか。私は猫というケダモノに全く興味がないので(こういうことを言うと、ハイジやあんみつ姫にも叱られるだろうか)、この句の発想にも余り心惹かれない。
     車道に出てすぐに横に入れば、願成寺(ガンジョウジ)だ。八幡山地蔵院。浄土宗である。伊奈町大字小室字志ノ崎一八二一番地。黒板塀に真っ白い漆喰を塗った長屋門があり、その隣の山門から入ると正面に真新しい本堂が建っていた。本堂の前の長い木柱の文字を椿姫が読んでいる。梵字五文字の下に「奉修落慶法要本尊阿弥陀如来遷座供養之宝塔」とある。
     ここには夭折した伊奈熊蔵忠勝の墓があるのだ。熊蔵は代々襲名する通称だ。四畳半程の広さの墓域正面に宝篋印塔が三基並んでいる。真ん中が忠勝の供養塔だと思うが、両脇は何だろう。「婆やかしら。」「婆やなんて言わないわ。乳母って言ってよ。」左右には五輪塔や宝篋印塔、箱型墓石、阿弥陀一尊種子の板碑などが並んでいる。板碑はおそらく伊奈氏とは全く関係ないだろう。
     忠勝の夭折によって伊奈氏本家は断絶したが、忠次の功績が勘案されて、小室藩領(鴻巣も含む)のうち、小室郷一円の地(旧丸山村、別所村、宿村、本村・小貝戸村、中萩村、柴村)千二百石が忠勝の末弟忠隆に与えられ、その系統は旗本として永らえることになる。
     「お墓は鴻巣にありますよね。」鴻巣の勝願寺(鴻巣市本町八丁目二番三十一)に、忠次と忠治の墓があるそうだ。この寺自体が、その勝願寺の末寺になっている。
     寺を出ようとした時、ロダンに呼び止められた。「地蔵はなぜ六人かって、椿姫が悩んでますよ。先日私が訊いたのと同じことを。」「七の方が縁起がいいのにね。ラッキーセブンでしょ。」仏教にラッキーセブンは関係ない。但し中国渡来の陰陽思想によって、奇数(陽数)を尊ぶのは古来の習慣でもある。そして陰陽思想は仏教と関係ないことは繰り返しておく。
     今日は初めての人が多いから、改めて説明しておいても良いかも知れない。「生きとし生ける者は、六道を輪廻転生するんです。天道、人間道、修羅道、畜生道、餓鬼道、地獄道。その六道それぞれで衆生を救済するために地蔵はいる。だから六人いるんですよ。」六道を隈なく巡り歩くために、地蔵は錫杖を突いている。「そうなのね。」「初めて知ったわ。」それなら説明した甲斐がある。
     インド人とは不思議な民族で、この輪廻転生によって、未来永劫に亘って苦しみは続くと考えた。たとえ天道にいたとしても天人五衰というように快楽は永遠ではない。再び別の世界で苦しむことが前提となっている。生きることは苦に満ちていて辛い。インド宗教の究極の目的は、結局この輪廻転生からいかにして離脱するかという難問であった。釈迦はそれを悟り、仏陀(悟った者)、如来(修行を完成し、衆生を救う者)となったのである。

     県道蓮田・鴻巣線に出てすぐに左に曲がる。真っ直ぐに北に向かうと、今度は法光寺だ。金亀山阿弥陀院。真言宗智山派。伊奈町小室四二二八番地。ここもなかなか立派な寺だ。慶安三年(一六五〇)に三代将軍家光から御朱印十石を賜ったというから古刹である。
     山門を潜るとすぐ右手に寛文二年(一六七二)造の六地蔵が立っている。「ついでだから、お地蔵さんが赤い涎掛けをしている由来を説明しましょうか。」「どうしてなのかしらね。」昔は幼児死亡率が非常に高かった。死んだ幼児は賽の河原で石を積む。ここで「地蔵和讃」を唱えてみたいところだが、それだけの記憶力がないので口にできない。ここで一部分を引いておくか。

    帰命頂礼地蔵尊 無仏世界の能化なり
    これはこの世のことならず 死出の山路の裾野なる
    さいの河原の物語 聞くにつけても哀れなり
    この世に生まれし甲斐もなく 親に先立つありさまは
    諸事の哀れをとどめたり
    二つや三つや四つ五つ 十にも足らぬおさなごが
    さいの河原に集まりて 苦患(くげん)を受くるぞ悲しけれ
    娑婆と違いておさなごの 雨露しのぐ住処さえ
    無ければ涙の絶え間無し 河原に明け暮れ野宿して
    西に向いて父恋し 東に向いて母恋し
    恋し恋しと泣く声は この世の声とは事変わり
    悲しさ骨身を通すなり
    げに頼みなきみどりごが 昔は親のなさけにて
    母の添い寝に幾度の 乳を飲まするのみならず
    荒らき風にも当てじとて 綾や錦に身をまとい
    その慈しみ浅からず
    然るに今の有様は 身に一重さえ着物無く
    雨の降る日は雨に濡れ 雪降るその日は雪中に
    凍えて皆みな悲しめど
    娑婆と違いて誰一人 哀れむ人があらずなの
    ここに集まるおさなごは 小石小石を持ち運び
    これにて回向の塔を積む
    手足石にて擦れただれ 指より出づる血のしずく
    からだを朱に染めなして 一重つんでは幼子が
    紅葉のような手を合わせ 父上菩提と伏し拝む
    二重つんでは手を合わし 母上菩提と回向する
    三重つんではふるさとに 残る兄弟我がためと
    礼拝回向ぞしおらしや(「地蔵和讃」以下略)

     夕方になると地獄の鬼がやってきて、折角積んだケルンを突き崩す。子供たちは翌朝再び同じ作業を始め、この石積みの苦行が永劫続くのである。これはカミュの『シーシュポスの神話』と同じモチーフだ。私の高校時代には、カミュはサルトルに押されて形勢が悪かったが、文学的な感性から言えば、カミュの方が私は好きだった。しかしこれは余計なことである。
     「わが子の苦しみをどうぞ救って下されと、母親は幼児の匂いの染み込んだ涎掛けを地蔵に託すんですよ。この匂いでわが子を探してほしい。」それが涎掛けの由来である。「それだけ言えたら、すぐ坊さんになれるよ」とヤマチャンが笑う。
     本堂の前には増上寺の石灯籠が置かれている。文昭院殿とあるので、六代将軍家宣の廟にあったものだ。マユミの赤い実がきれいだ。カリンの大木には黄色い実がなっている。「これは菩提樹だよ。実が生っているだろう。」「いわゆるシナノキですか?」「そうだね。」本堂では法事の最中のようで、読経の声が聞こえる。「声を小さくしてください。」
     「この辺のお寺はみんな立派だよね。」檀家が裕福なのだろう。豪農ばかりだからね。墓地入口には十三仏の板碑(板石塔婆)が立っている。阿弥陀一尊や阿弥陀三尊(阿弥陀、勢至、観音)の種子板碑は何度も見ているが、これはかなり珍しいものではなかろうか。緑泥片岩の板碑は戦国時代を境にぴたりと作られなくなるのだから、永正三年(一五〇六)のものならば平仄はあう。折角置いてあるのだから、説明がほしいところだ。
     「ヘーッ、これが緑泥片岩なの。触ってみようかしら。こんなに薄いのね。」「自然状態でこんな薄くはないですよ。削ったものだから」とロダンが慌てて注意を促す。
     種子(シュジ)はかなり擦り減っていて判別できないが、十三仏は十王信仰から派生したものである。寺院経営安定のために長期に亘る追善供養が発明された。つまり供養の度に金がかかるから、その必要に応じて十三仏を持ち出したのだろう。仏とは言っても、如来だけでなく菩薩も含まれる。如来と菩薩の違いを説明する必要はないだろうが、念のために言えば、菩薩はやがて如来(仏)となるべきものである。
     阿弥陀如来もまた前身は法蔵菩薩であった。如来となる資格はありながら、全ての衆生が救われない限り、如来にはならないと四十八の願をたてた。その法蔵菩薩が阿弥陀如来になったからには、全ての衆生は救われることに決まった。これが法然や親鸞の理論で、そこから「善人猶以て往生を遂ぐ。況んや悪人をや」の悪人正機説が生まれるのである。理由の分らない不満や劣等感に苛まれていた高校生は、『歎異抄』を読んで感動した。
     これも初めての人のために、追善供養と十三仏、十三王の関係を記しておこう。何度か書いているが、私はちっとも覚えられないでいる。

    初七日  不動明王(本地仏)   秦広王 (冥王)
    二七日  釈迦如来        初江王
    三七日  文殊菩薩        宋帝王
    四七日  普賢菩薩        伍官王
    五七日  地蔵菩薩        閻魔王
    六七日  弥勒菩薩        変成王
    七七日  薬師如来        泰山王
    百ケ日  観音菩薩        平等王
    一年    勢至菩薩        都市王
    三年    阿弥陀如来        五道転輪王
    七年    阿閦如来        蓮上王
    十三年  大日如来        抜苦王
    三十三年 虚空蔵菩薩       慈恩王

     千意さんが新聞紙の包みを広げ、中からサツマイモを出してくれる。私は普段はイモなんか食わないのだが、千意さん手作りの芋であるなら、小さなものを戴いておく。「美味しいですね、もう一ついいですか。」「椿姫は四つも食べたと書いておこう。」「三つですよ。そんなこと書かないで下さいよ。」「大声を出さないでね。」今日の椿姫は元気でよく笑う。

     芋食ふて読経かき消す高笑ひ  蜻蛉

     東に向って南小学校、南部大公園を過ぎると田圃の中を流れる綾瀬川にぶつかった。「この辺じゃこんなに狭い川なんですか」とロダンが驚く。綾瀬川の源は上尾市小針領家の辺りだから、ほとんど源流に近い。用水路と言っても良いほどの川で、それに沿って伊奈町ジョギングロードが通っている。畦道を舗装した道だろうから、右に綾瀬川、左に田圃の間の道幅は一間もない狭いものだ。
     「コワイ。どっちかに落ちたらどうしようかと思いますよ。」椿姫はあまり自転車が得意ではないらしい。田が途切れると、荒れた草むらにはセイタカアワダチソウが群生している。「カモさんがいる。」「いたね。」「魚、鯉だな。」狭いジョギングロードを走りながら、右手の川の様子を観察するのも大変だ。

     伊奈たんぼ 風切る車列 秋日和   千意
     刈田行く車輪の列や鴨三羽   蜻蛉

     綾瀬川を渡って、県道50号線(上尾蓮田線)の脇の山ノ内公園で自転車を止め、弁当を広げる。蓮田市山ノ内一番二。「ここはもう蓮田ですよ。」綾瀬川が伊奈町と蓮田市の境界になっているらしい。広域避難場所に指定されている公園で、四隅には同じ形の小さな建物がある。「トイレかと思ったら違うんだ。」トイレは別に白い建物がある。
     「向うに見えるガードレールの辺りが見沼代用水だね。」「西縁ですか、東縁ですか?」ヤマチャンは先月西縁を歩き、来年は更にそこからの延長を考えているのだ。「ここはまだ東西に分かれていないんですよ」と即座に声が返ってくる。行田付近の利根川から取水した見沼代用水は、上尾市瓦葺で東西に分岐するから、もう少し下流になる。
     ロダンからはウズラの卵に味付けしたものが配られる。ひとつづつ小さなパッケージにしてあるもので、なかなか旨い。ロダンの愛妻は洒落たものを選んでくれた(まさかロダン自身が選んだのではないだろう)。ところがイトハンは小さな饅頭だと思い込んでいた。「あら、そうなの。でも美味しいわ。」
     隊長はキタガワサンが蓮田グループか椿姫の友人と思い込んでいたようで、トンチンカンな質問をしている。「そうじゃかないよ、草加のひと。もう三回目だよ。」どこかでこの会の年間計画表を手に入れて参加しているのである。だから今日みたいに、急にサイクリングになっても、連絡がついていない。隊長は念のために連絡先を確認している。
     「アッ、それ百円ショップのやつだね。」彼女の折り畳み式の座布団は私とスナフキンも持っているものだ。ただ私のものは黒いが彼女のものは赤い。「娘がくれたんですよ。」なかなか良い娘である。私にはなにかをくれる娘がない。男ばかりだからね。
     十二時四十五分に出発し、再びジョギングロードを行く。途中、ランナー一人と擦れ違った。秋晴れのこんな好い日に、一人しか見かけないジョギングロードというのも、いささか寂しい。かなり暑くなってきた。これなら半袖でも良かったかも知れない。
     「カワセミだ。」ヤマチャンが声を上げたが、私には雀が数羽飛び立つのしか見えなかった。「青い鳥だったよ。」「あら、残念だわ。」私はカワセミというのは池に来るものとばかり思っていたが、こんな田圃の中の川にも来るのですね。考えてみれば、川に住むからカワセミなので、私の勘違いは全く無学によるものだった。
     「小坂一也ですね。サイクリング、サイクリング、ヤッホーヤッホー。いいですね。」ロダンは古いことを言う。私はリアルタイムではこの歌を聴いていない。ロダンだってそうだろう。田中喜久子作詞、古賀正男作曲『青春サイクリング』である。どちらかと言えばボーッとした気の弱そうな感じの小坂が「元祖和製プレスリー」と呼ばれていたなんて、ロックンロール時代を知らない私には冗談のように聞こえる。平成九年に六十二歳で死んでいたのは知らなかった。

    みどりの風も さわやかに
    にぎるハンドル 心も軽く
    サイクリング サイクリング
    ヤッホー ヤッホー
    青い峠も 花咲く丘も
    ちょいとペダルで 一越えすれば
    旅のつばめも
    ついてくる ついてくる
    ヤッホー
    ヤッホーヤッホーヤッホー

     昭和三十二年の歌で、この頃に第一次サイクリングブームのピークがあったらしい。峠も丘も簡単に越えることができるのだから、実用車では無理な話だ。荷物運搬を目的にしない軽快車やスポーツ車の生産が始まるのは昭和二十九年のことだから(ウィキペディア「サイクリング」より)、まだその生産量は少なく、実用車に比べてかなり高額だったようだ。つまり金持ちボンボンたちの遊びだっただろう。そして小坂一也の歌のヒットにもかかわらず、このブームはすぐに終わったと言う。

    昭和二十九年にサイクリング協会が設立され、三十年頃から変速機をつけたサイクリング用ツアー車が市販されるようになり、全国各地のデパートなどで展示会が開かれた。こうした背景からサイクリングブームが到来し、映画・歌謡曲などともタイアップし、一時はレクリエーションの代表とまで言われた。
    しかし、当時はサイクリングを指導する人材が乏しい上に、ツアー車の開発に緒についたばかりで、価格も高価で、多くの人たちはレンタル車を利用していた。こうしたことから、このブームも三十二年をピークとしてあっという間に去ってしまった。(自転車文化センター「昭和31年サイクリングブーム」)http://cycle-info.bpaj.or.jp/?tid=100128

     隊長はもっと古いことを連想していた。『青い山脈』の原節子、池部良、伊豆肇、杉葉子である。実は私もちょっとは思い出していた。私は映画を見ていないが、あの当時なら実用車に乗っていたのだろう。
     三十分ほど走って、東北新幹線の高架の手前で隊長が自転車を止めた。川では釣りをしている男がいる。そこから田圃の方に少し歩くと、八幡堰改修記念碑が立っていた。「ここだよ、ほら煉瓦がみえるだろう。」確かに煉瓦が見える。綾瀬川から取水する堰だろう。見沼代用水からの取水量が充分でなく、文政年間(一八一八~一八三〇)に、木製の堰を設けて綾瀬川から取水したのである。この記念碑は、明治三十二年(一八九九)にそれを煉瓦造りに改修した記念碑である。

    これによって被害を受けずに灌漑が思いのままになり、常に多くの収穫が得られるようになったとある。昭和二年当時、志久堰、別所堰は既に名を残すのみとなっていたが、八幡堰、小貝戸堰(明治三十七年改修)とともに完全なものが残っていた。しかし、これも昭和七年末(一九三二年)に綾瀬川上流の改修(桶川市小針領家の備前堤から原市沼落合流地点他)によって姿を消した。(案内板より)

     しかし隊長は良くこの場所を見つけたものだ。自転車で走っているだけでは絶対に見つからない。当初の隊長の案内文にもこの場所のことは書かれていないから、三度の下見の最終局面で発見したのだ。エライものである。
     川に入って何かの仕掛けをしている男がいる。「こういうのはホントはいけないんじゃないの?」漁業権の問題になるのだと思われる。
     東北新幹線の高架を潜って少し行くと、建正寺だ。小室山、曹洞宗。伊奈町本町二丁目一二八番地。本堂は閉じられているが薬師堂の扉が開いていた。鐘楼の屋根瓦の修復のため、瓦をここに保管していたようだ。正面に金色の薬師座像が見える。
     本堂の木鼻が獅子というのは珍しいのではあるまいか。龍やバクは見たことがあるが、私は初めてだ。
     寿永年間(一一八二~一一八四)、丸山に創建されて以来臨済宗の寺院だったが、伊奈忠次が丸山に陣屋を築くのにあたってここに移転して、曹洞宗に改宗したという。しかしこの説明は少し考えると矛盾がある。栄西が臨済宗黄龍派の嗣法の印可を受けて帰国したのは、建久二年(一一九一)であり、鎌倉に下向したのも建久九年(一一九八)のことである。それ以前に創建された寺が臨済宗を名乗る筈がない。
     「サンガクがあるかしら?」「山岳?産学?」椿姫の言葉に一瞬戸惑ったのは私の感度が鈍い。「ああ、算術の額か。」「薬師堂にはなかったから、本堂にあるかも思って。」どうやら椿姫は寺には必ず算額があると思っているようだ。しかし算額があれば、ふつうは案内板に書かれているだろう。「そうですよね、ふつうは掲示板に必ずありますよ」とロダンも同意する。ここにはないのではないか。
     スーパーカミオカンデ、小林・益川理論。椿姫の話題には私は全くついていけない。「女性がこういうのを知っているのは珍しいよ」とヤマチャンも不思議がる。
     寺を出ると、草むらには小さなオレンジ色の花が咲いている。大学へ行く途中にもよく見かけるルコウソウ(縷紅草)だ。「何かしら」というイトハンに、「ルコウソウですね」と椿姫が答える。「利口そう?」とロダンが反応し、ヤマチャンが「頭悪そう?」と笑う。正確に言えば近縁種のマルバコウソウだと思う。
     すぐそばに小室氷川神社があった。伊奈町本町二丁目一五五番地。なかなか立派な神社である。社務所も広いし神楽殿もある。左の狛犬の顔が何だか変なのは、鼻がかけているためらしい。顎のヒゲが出っ歯のように見える。
     人気もなく静かで落ち着いている。伊奈町には人は住んでいないのかも知れない。伊奈氏の家臣だった大河内久綱が、この神社に祈って嫡男信綱を得たとされ、松平信綱も尊崇したと伝えられる。
     社殿は権現造りで、奥殿の右奥に巨大な杉が立っている。幹回り四・七メートル、高さ二十七メートル。「私の何人分あるかしら」とイトハンが両手を広げる。椿姫もやって来た。「杉って真っ直ぐ伸びるものかと思ってましたけど、これ傾いてますね。」「拗けてるんじゃないかな。」「杉様の心が拗けてるんですか、ホホホ。口が悪いわね。」  「隣が図書館です。トイレがきれいです。」だから隊長はトイレ休憩をそこに予約していた。「最初に来た時、女子職員がかわいかったんだ。だけど次のときには別の人に代わってた。」「変な年寄りに警戒したんじゃないかな。」伊奈町本町二丁目一八六番地一。図書館の中には人がいた。この図書館の背ラベルが独特だ。三段ラベルを貼る(一段目が分類番号、二段目が著者記号、三段目が巻記号)のが一般的だが、ここのは一段式のラベルで、私は初めて見た。文庫などは文庫番号だから並べやすいが、分類(三桁かせいぜい四桁)だけだと、配架するのも探すのも苦労するだろう。

     図書館を出て北に行くと小室観音堂(福王山照王院清光寺)だ。伊奈町小室本郷九三二五番地一。参道入り口左側に三面六臂、合掌型の青面金剛がいた。わりに綺麗な状態で、享保十六年(一七三一)の年号もはっきり分る。「講釈師がいませんね。」邪鬼も三猿もない。
     観音堂は朱塗りの柱で、中国風の感じがする。壁に七福神の額が掲げられている。境内にはきれいな馬頭観音もある。幕末維新期にはかなりの規模の寺だったらしいが、檀家がなくなって、今ではこの観音堂が本堂の代わりになっている。
     奥に進むと、辺り一面に蜘蛛の巣が張った古めかしい不動堂があり、道路際の塀の内側には鉄柵で囲んで石碑が立っている。史跡小貝戸貝塚である。ハマグリ、アサリ、シジミなどが発掘されたという。「貝塚って、海の近くにあるんじゃないの?」マエダサンが不思議そうにするが、およそ七千年前の縄文海進で、この辺まで海が来ていたのである。「海退した後、隆起したのがこの地域です。」そう言えば椿姫もロダンも地学ハイキングのメンバーだった。
     「俺は大森貝塚しか知らなかったよ」とヤマチャンが笑う。大森貝塚はモースが紹介して有名になったが、全国どこにでも貝塚はある。縄文海進が分るのは、群馬県板倉町や栃木県野木町、栃木市などにも貝塚が発見されているからなのだ。
     特に千葉の加曾利貝塚は国内最大級の規模である。縄文人は貝を食うだけでなく、干したものを山間地との交易材料にした。山間地にとって干した貝は貴重な塩分摂取材である。そのため貝の加工場だったと推測される大規模な貝塚(たとえば北区の中里貝塚)もある。
     蜘蛛がいる。「ジョロウグモだね。」隊長は蜘蛛をつまんで腹を広げてみて「メスだよ」と断定する。「イヤーッ、踏み潰してちょうだい。」椿姫ほど虫の嫌いな人にはなかなかお目にかかれない。片隅に合掌型三面六臂の青面金剛がいた。

     再びジョギングロードに入る。三十分ほど走って、伊奈総合学園高校の脇を通って県道上尾・久喜線に出ると、中央分離帯のような小さな公園に、「念ずれば花ひらく 九十六歳 真民」と下手な字で書かれた大きな石があった。知っているから真民と読めるので、知らなければ読めないだろう。伊奈ライオンズクラブ結成三〇周年記念に作られた坂村真民詩碑である。伊奈町のライオンズクラブが真民とどういう関係にあるのか全く分からないし、合唱部の二人以外、誰も真民を知らない。私だって、坊主の説教のような詩を書く老人だったとしか覚えていない。
     昔、会社で売れもしないビデオ商品を大量に作って無駄に在庫を増やしていた時代に(制作部門の長がキチガイで、自分の趣味だけで勝手に作り続けていた)、『祈りの詩人 坂村真民 詩魂の源流』というビデオを作ったことがある。当時私は在庫管理の責任者だったから勿論反対したのだが、意見が入れられる時代ではなかった。

    熊本県荒尾市出身。熊本県立玉名中学校を経て、神宮皇學館卒業。
    愛媛県砥部町に「たんぽぽ堂」と称する居を構え、毎朝一時に起床し、近くの重信川で未明の中祈りをささげるのが日課であった。詩は解りやすい物が多く、小学生から財界人にまで愛された。特に「念ずれば花ひらく」は多くの人に共感を呼び、その詩碑は全国、さらに外国にまで建てられている。森信三が早くからその才覚を見抜き後世まで残る逸材と評した。(ウィキペディア「坂村真民」より)

     椿姫は真民のことがよほど好きなようで、朝出発前に、椿姫からこの歌の楽譜を渡されていた。坂村真民作詞、鈴木憲夫作曲『念ずれば花ひらく』である。「みんなで一緒に歌いましょう。」「だって知らないよ。」「そのために楽譜をコピーしてきたんですよ。」椿姫は、楽譜があれば誰でもすぐに歌えると思っている。つまり彼女はそれができるのだろうが、初見で歌える力があるのなら、私だってプロになっている。まして#が五つもついているのだ。「エイなんとかって言うんだよね」とダンディが言う。長調と短調とでは呼び名が違って、ロ長調 (B Major) または嬰ト短調(G Sharp Minor)になるらしい。中学時代に音楽の授業をまともに聴かなかったし、高校時代は選択しなかったから、こういうことには全く疎い。
     「合唱部が歌ってくださいよ。」「仕方ないわね。」「私はメゾだから。」椿姫がソプラノ、マエダサンがメゾソプラノと決まっているらしい。「アラッ、メガネが。」視力三・五の人は眼鏡がなければ楽譜が読めない。暫く探して漸くメガネを見つけた椿姫が歌いだす。

    念ずれば
    花ひらく
    苦しいとき
    母がいつも口にしていた
    このことばを
    わたしもいつのころからか
    となえるようになった
    そうしてそのたび
    わたしの花がふしぎと
    ひとつひとつ
    ひらいていった

     なんだか難しい歌だ。長調なのか短調なのかも判別できないが、椿姫の声がきれいなことだけは分った。「高校生が、何事かって見てるよ。」県道を挟んで斜め後ろの校舎から高校生がこちらを眺めているようだ。
     真民は明治四十二年(一九〇九)一月に生まれ、平成十八年(二〇〇六)十二月に亡くなった。「咲くも無心  散るも無心 花は嘆かず 今を生きる」とか、「木が美しいのは、自分の力で 立っているからだ。」とか、「最高の人というのは、この世の生を、精いっぱい、力いっぱい、命いっぱい、生きた人。」なんていう言葉を残している。よく知らないが相田みつをにも似ているだろうか。そういえば字が下手なところも二人は似ている。椿姫には申し訳ないが、私はこの手の言葉に全く感動しない性質である。
     ただライオンズクラブがこれを推奨する意味は分かる。政治的、経済的、社会的にどんなに不満があっても、一切が心の持ちように還元されるなら、政治家にとっても経営者にとっても、これほど楽なことはない。しかし世界は心の持ちようだけでは絶対に解決できない難問で満ち溢れている。その多くは仕組みの問題だから、個人の安心立命だけで何も変わらない。

     「それじゃ、バラ園に行きましょう。」「入園料は?」「無料よ。」それなら行ってみる価値はある。「バラって春に咲くものでしょう?」ロダンの疑問に、「普通は春と秋に咲くんですよ」と椿姫から軽くいなされる。宋なのか。私はそんなことは考えもせず、そう言えば最近あちこちでバラを見かけるな、と思っていただけだった。
     公園の中に入ると、バラの香りが漂ってきた。北足立郡伊奈町大字小針内宿七三二番地一。自転車を置いてバラ園に入る。さまざまな色がある。香りの高いバラもあれば、ほとんど匂わないものもある。それぞれには、なんだかわからない名前が付けられている。「オクラホマがある。」
     それならフォークダンスの「オクラホマミキサー」を想い出してしまう。あともう少しであの娘と組める。胸はときめくが、曲は必ず、目当ての娘の手前で終わってしまうのである。あれは悔しかった。「ミスター・リンカーンもあるよ。」これらは黒っぽい花である。南部の黒人からの連想だろうか。
     「バラもいいけど、トゲがあるからね。きれいなバラにはトゲがある。」「綺麗じゃなくてもトゲがある。」「それは言わない方がいいよ。」男どもは勝手なことを言っている。英語ではThere is no rose without a thorn.というそうだ。しかしモッコウバラと言う棘のない品種が生まれてしまうと、この英語も使えなくなってしまった。
     『麗人の唄』(サトウハチロー作詞、堀内敬三作曲)でも歌ってみるか。昭和五年、佐藤紅録原作の映画『麗人』の主題歌だから、リアルタイムで知っている筈はない。私は森進一のアルバムで知ったが、梓みちよの歌も良い。YouTubeで確認してみると、オリジナルの河原喜久恵は唱歌の唱法で、今では殆ど聴くに堪えない。歌謡曲の唱法は昭和三十年代を境に大きく変わってきたのである。

    濡れた瞳とささやきに
    ついだまされた恋ごころ
    きれいな薔薇にはとげがある
    きれいな男にゃ罠がある
    知ってしまえばそれまでよ
    知らないうちが花なのよ

     うっかりしていたが、この歌が女の諦めを歌ったものなら、「きれいな薔薇」に譬えられるのは「きれいな男」である。俺のことかなと一瞬でも思ったら、それはアホであろう。
     ほぼ一周見終わって自転車を停めた場所に戻る。千意さんが、さっき残った芋を出してくれる。「四百五十円のケーキより美味しい」とマエダサンが面白い感想を口にする。「椿姫は四つ目だね。」「イヤネー。そんなことばっかり。」「それじゃ行こうか。全員いるかな?」一人足りない。「イトハンがいないよ。」「単独行動の好きなひとだからね。」ヤマチャンとロダンが見回りに行っている間に、そのイトハンはどこからともなく現れた。「いたよ。」
     千意さんの蓮田グループはここで別れて行く。残りは志久まで戻るのだが、マエダサンは志久より二つ北寄りの羽貫(ハヌキ)で自転車を返す。志久から羽貫まで料金は百九十円だから、志久で返して二百円返戻されても、ほとんど変わらないのである。
     ここからは高架に沿って行く。椿姫は次の伊奈中央駅で別れていった。そして志久駅に着き、自転車を返して、朝とは違うお姉さんからそれぞれ二百円を受け取って駅に入る。三時半だ。
     伊奈町なんて何もないところかと思っていたのは、無学の故の私の間違いだった。伊奈は良い町である。久し振りの自転車で尻が少し痛くなったが楽しかった。大宮に近づいてくると、栄北高、埼玉自動車大学校、日本美術専門学校と、佐藤栄学園の学校が目立ってきた。元々自動車整備学校から出発した学校法人である。スポーツは埼玉栄高校、進学校は栄東高校と、役割を分担しているようだ。
     大宮には四時頃に着いた。「大宮は人が多いね。」急に田舎者の気分になってくる。西口から東口に抜ける間にいつの間にか人はいなくなり、「庄や」に入ったのは三人だった。

    蜻蛉